慰安婦と貢女

Twitterを見ていると、前政権が完全解決したとされる慰安婦問題を韓国人が蒸し返していることが問題視されているようで、いろいろな言説が飛び交っている。人によってはいつまで反省させられるのかといい、別の人は日本が存在し続ける限り反省し続けるべきだなどと言っている。

こうした議論を聞きながら、そもそもの歴史的な認識が日本と韓国では違っているのではないかと思った。このため「いつまで反省を」という話になるのだろう。が、結論からいうといくら反省しても韓国は抗議をやめないだろう。かといって、居丈高に対応したとしても問題は解決しないのではないだろうか。

現在「奇皇后」というドラマをやっている。元の皇后で北元皇帝の生母になった奇皇后の実話に基づいているという。この中で、高麗の王が元に捉えられて大都に歩きで連行されるという話が出てくる。

元の皇后になるくらいだからさぞかし高貴な家の出だと思うのだが、実は貢女だったらしい。高麗は綺麗な女性を見繕って元に奴隷同然に送っていたのである。実際には皇宮の下女の様な仕事をしていたらしい。この貢女が皇帝の寵愛を受けたことで高麗内部では奇皇后の実家が民衆を搾取することになり、それに反抗した高麗王が廃位されたりしているようである。

このころの高麗は独立国ではなく元の冊封国だった。実際には行中書省という役所扱いだったそうだ。この行中書省はもともと日本を征服するための役所だったというがのちに高麗を支配するための役所になり王がその長官に任命されていたのだ。さらに、高麗王は元から王妃を受け入れていた。つまり、高麗の王様にはモンゴル人の血が多く入っていたのだ。

奇皇后の中に出てくるワン・ユという王は立派に書かれているが、モデルの忠恵王はとんでもない王様だったらしい。元に気に入られて王様になったものの、周囲にいた女性に乱暴狼藉を働いて何度か廃位されている。最終的には流刑先に行く途中で亡くなったという。

たかがドラマなのだが、このように背景情報を調べて行くと、いくつも面白いことがわかる。第一に韓国という国は独立国ではなかったので、王様といっても必ずしも尊敬される人ではなかったということである。そもそも朝鮮民族の血が薄かったわけで、民衆から見ると半分外国人のようなものだったのだろう。この辺りの事情がわからないとなぜ韓国人がなぜ大統領をあんなに乱暴に引き摺り下ろすのかということがわからない。

日本が韓国に対して腹をたてるのは韓国を独立国だと考えているからだ。だから国と国との約束を違えてたということに腹が立つのだろう。だが、実際には韓国人の頭の中にある政治的リーダーというのはそれほどの地位を持った人ではない可能性がある。

次に、朝鮮hあ常に外国に頭を下げ続けなければならない存在だった。ある日突然王を廃位されても何の文句も言えない存在でありつつ、かといって中国に同化もできなかったのだろう。

この服属の象徴になっているのが「貢女」である。慰安婦と貢女は違うが、外国に支配された上で女性を差し出さなければならなかったという点では似た様なところがある。日本人はこうした屈辱の歴史を知らないので「大したことがないのになぜ騒いでいるんだろう」などと思ってしまうのである。

最後の問題は韓国人が自分たちの歴史を直視できないということだ。冊封国であるということは隠しようのない事実なのだが、その中に出てくる王様は韓国人を代表しているのだから悪く描くことはできない。そこで奇皇后の中に出てくる「ワン・ユ」という人立派な王ということになっている。

こうした歴史を踏まえると、日本がお金で慰安婦の問題を解決することなど不可能だということがわかる。日本が韓国を押さえつけていたというのは事実だし、なかったことにはならない。かといって謝り続けても無駄である。謝っても、日本が朝鮮半島を支配していたという彼らの劣等感を拭うことはできないからだ。

韓国が慰安婦問題にこだわり続けるということは実は「韓国は日本に征服されていましたよ」という事実にこだわっているに過ぎない。力が弱い清の服属国であり独力で外国に対抗することがなかったから日本にやられてしまったということである。皮肉なことだが、こうした「力関係」が影響しているのだから、日本としてできることは、日本が征服国だったということを認めた上でそのように振舞うことだということになる。皮肉なことだが「弱腰の国に支配されていた」というのが、劣等感情をさらに逆なでするのである。それを「金で解決」ということだから「バカにするな」ということになるのだ。

現在は日本と韓国は宗主国と冊封国の関係にはない。対等な関係を選びたいか、それともかつての服属関係を継続したいのかということを国民に問いかけるべきなのかもしれない。これは外国を支配した経験のない日本人には難しいことなのかもしれない。特にリベラルな人たちには受け入れがたい選択肢だろう。だが、植民地を作るということはそういうことなのだ。

さて、ここまでは韓国についてのお話なのだが、勘のいい人はこれが日本にも当てはまることがわかるだろう。日本は国力の差からアメリカに負けた。そのためにアメリカ人の民主主義と憲法を押し付けられたわけである。だが、安倍政権に代表される人は、アメリカとの服属関係は維持したいし、かといって取り上げられてしまった地位は回復したいという屈折した感情を持っている。そのために、国内的には自主憲法を取り戻したいといいつつ、対外的には「アメリカの外交・国防方針はすべて支持する」という態度をとっている。さらに、軍事的には完全な服属国でありながら「対等な同盟である」などと言っているのである。

つまり日本もこのままで進めば、かつての朝鮮半島のように過去の歴史をそのままで受け入れられない屈折した歴史観を持つ国になってしまう可能性があるのだ。

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小池百合子都知事はなぜ国政に進出できないのか

金曜日頃から、小池百合子東京都知事が私がAIだと言ったという書き込みが増えた。意味がわからなかったのでタイポだと思っていたのだが、どうも数が多すぎる。どうやら本当にそう言ったようだ。小池さんはこれで終わったなと思った。支持している人たちはこうした違和感を見逃したくなるだろうが、こうした問題は責任が重くなればなるほど大きくなるものだ。

多分、小池さんは国政に進出する前に失速するだろう。しかしそれは豊洲に行くのがけしからんというような類の話ではない。小池さんは多分メディア戦略に失敗するだろうという話である。

小池東京都知事は、豊洲移転の決断に至った経緯は回顧録には残せるが今は情報は公開できないと言っている。その決断の理由を知りたがる記者に対して「私はAI」だと言ったのだという。正確には「最後の決めはどうかというと、人工知能です。人工知能というのは、つまり政策決定者である私が決めたということでございます」だと言ったのだそうだ。全く説明になっていないが、あまりにも唐突な回答だったことから、記者もそれ以上は聞けなかったのだろう。

このAIがどこから来ているのはなんとなく想像ができる。最近NHKがAIに関する番組をやったばかりである。なんとなく目新しく科学的な感じのする番組だったが、因果関係をまるで無視して相関関係だけで話を無理やりにでっち上げてしまった。この程度のものをAIと言ってしまっただけでも罪は重いのだが、AIというのはブラックボックスであって、人間には良し悪しが判断できないのだという間違った知識を植え付けてしまったことも大きな問題がある。

小池都知事はこのAIはブラックボックスという概念が気に入ったのだろう。自分はコンピュータのように頭が切れるのであって、常人とは思考が違っているという優等意識が見える。同時にこの人が外来語で話すのは何かをごまかすためだということがわかる。「アウフヘーベン」も「ワイズスペンディング」も意味がわからない。

小池都知事は目新しい情報をふわふわとしたままで理解していることがわかるのだが、テレビではよく取られる手法で、小池都知事が極めてテレビ的な政治家だということがわかる。テレビ局の人たちも真面目に課題に取り組むということはありえない。彼らが気にするのは、それがどのくらい「キャッチーか」ということである。

こうした手法は例えば夏のサラリーマンに涼しい格好をさせるというのには向いている。問題になっているのは「他人の目」なので、夏にネクタイをしないのがかっこいいということにしてしまえば、おおむねみんなを満足させることができるからだ。だが、利害が交錯する現場では通用しない。人の一生がかかっているからである。

早速、築地市場の人たちの中に「5年後に約束が履行されるかどうかはわからないから絶対に立ち退かない」という人たちが現れた。小池さんが信頼できるかどうかはわからないのだから、既得権を守るために動かないというのは当然のことである。口約束があったとしてもそれが守られる保証はないからだ。

こうした状況は「囚人のジレンマ」として知られる。協力して得られる利得が高いことがわかっていたとしても、他人が信頼できない、あるいは情報が少ないと自分一人で得られる利得を得ようとするので、社会全体として得られるはずだった利得が失われてしまう。

もしかしたら、小池都知事が「アウフヘーベン」した方が利得が大きいのかもしれないが、私がAIだなどということを言ってごまかす人を信じられるはずもなく、結果的に豊洲もうまく立ち上がらず、オリンピックの駐車場もできず、築地の改修も進まないという状況に陥ってしまう可能性が高い。こういう人が国政に出て間違って首相などになってしまえば国政は大混乱に陥るだろう。

小池都知事が有能な政治家でいられたのはこれまでの政治がテレビ的だったからである。テレビの持続力は数日しかないので、そのあとに情報を変えても誰も反対しなかった。逆にいえば、政治は別に何もしなくても、ただ盛り上げていれば良かったのだ。

例えば、テレビの健康番組では毎日のように新しい健康番組が出てくる。それぞれの番組の言っていることには矛盾もあるのだが、数日から数ヶ月で忘れられてしまうため、誰も気にしない。テレビ業界にいる人たちは、職業的健忘症になる訓練を受けているからこそ、次から次へと新しいコンテンツを売り続けることができる。もし一貫性などということを考え始めたら、こうした番組は一切作れなくなる。

こうしたことができなくなっている背景は大きく分けて二つのものがあると思われる。一つは政治が問題を解決しなければならなくなっているということだ。詳しく言えば、利害の調整を行う必要が出てきている。テレビ型の政治では利害調整ができないのだ。

もう一つはメディア特性の変化である。インターネット時代に入ってメディアは二つの能力を手に入れた。一つは分散型の情報処理だ。多くの立場の違った人たちが情報を評価してアウトプットする。ゆえに過去の矛盾についての検討もスムーズになった。

実は、豊洲・築地の問題はもう追いかけていないのだが、様々な情報がTwitterから流れてくるおかげで「ああ、この人はやっぱり偽物だったんだなあ」ということが簡単にわかってしまう。

もう一つの能力はアーカイブ機能である。過去記事を含む複数メディアの情報を比較検討することができる。このため、小池都知事がもともと築地も残しますよとか情報公開はきちんとやりますよと言っていたのに、ある日突然「私がAIなので」と言い出したことが確認できてしまうのだ。

日本ファーストが国政政党になれない理由は支持者が見つからないことだと分析した。小池さんの人気だけが支えになっている。当の小池さんは民進党が割れるのを待っているという分析がある。前原さんが代表している「保守」の人たちが流れ込めばその分だけ政党助成金がもらえるという計算があるのだという。

小池新党には支持者とお金がない。だが、日本社会が分断してしまっているので、支持者を集めようと思うとお金が集まらず、お金を集めようとすれば支持者が離れて行くという状態になっている。このことは今後の日本の政治を見る上で重要な要因となるのではないかと思う。

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ついに情報汚染に手を染めたNHK

NHKがAIを使って凄まじい数の統計を処理して「これが日本の問題を解決する」とやった。さらに40歳代の一人暮らしを名指ししたために、多くの人の反発を買う事になった。前半だけ見て後半は見なかったのだが、少なくとも、因果関係を無視した番組構成になっていた。そして因果関係が無視されているという事は、多分参加者たちも築いているようだった。

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「日本人はメディアを信頼しているから洗脳されやすい」のか

日本人はメディアを信頼しすぎているから洗脳されやすいというような記事が流れてきた。例によってソースが明らかにされていないのが気になった。原典は明らかではないが、元を辿って行くとNewsweekのこの記事にたどり着くらしい。記事には原典が掲載されている。この元ソースのWorld Values Survayはデータをウェブ上で見ることができる。

同じようなことはままある。例えば「アメリカが日本の選挙に干渉していたとCNNが伝えた」というようなツイートが流れてきたことがある。これもCNNという名前がよく知られているので利用されたのかもしれないが、CNNで検索しても元記事が見つからない。どうやらカーネギーメロン大学の研究が元になっているようだが、カーネギーメロン大学と聞いても知らない人が多く、CNNが権威付けのために利用されたのではないかと思う。本研究は閲覧が有料なので中は見ていないのだが、1946年からの統計なので、過去の反共対策が掲載されていたのではないかと思う。だが、見た人は「今での干渉しているのかな」などと感じてしまうのではないだろうか。

確かに日本人はあまり原典を参照せず「なんとなくそうだろうな」などと思うとニュースに飛びつく傾向にある。そして、リツイートするとそのことを忘れてしまう。後に残るのは漠然とした思い込みだけだろう。これは確かに洗脳されやすそうだ。

最初は、日本人は集団主義的だからマスコミを信じやすいのだなどという仮説を立てた。であれば他の国の集団主義度合いと比較することで傾向が見えるはずである。しかし、実際には集団主義的な国ほどマスコミなどの権威を信じやすいという傾向はないようで、この仮説は棄却せざるをえなかった。

データベースの統計を眺めていると面白いことがわかった。日本人はマスコミは信頼しているが、政府も政党もそれほど信頼していない。日本の政治は金権政治と揶揄されていた歴史がある。これを記憶している人たちが政治家を信用していないのかと思ったのだが年齢による信任度の違いはそれほど見られない。

一方で、民主主義は大切だと考える人が多く、民主主義が守られているとも考えているようである。つまり、政治家はあまり信頼できないが、暴走すればマスコミが警鐘を鳴らしてくれるので大丈夫だと考えている可能性も高い。

ここから、日本人は手放しでマスコミを信頼しているわけでもなさそうだということがわかる。自分には平均以上のリテラシーがあるので、正しいメディアを選ぶことができると信じているのだろう。これが、実力通りなのか過剰な地震なのかということはわからない。

ここから考えてみると、Twitterにいる人たちは自分たちが「正しい情報」を持っているということを確信している人たちが多いように思える。ある人は蓮舫代表の二重国籍問題がNHKのトップ項目にならないことがおかしいといい、別の人は稲田防衛大臣の件が取り上げられないのがおかしいと考える。新聞社の論調も各社違っているので「俺だけが真実を知っていて、他の人たちは騙されているに違いない」と考えてしまうのだろう。だから「メディアが信頼されている」と聞くと「洗脳されやすい」と感じてしまうのだろう。

だが、政府を手放しで信任しているわけではないので、メディアが明らかに政権よりになれば、そのメディアは見放されてしまうことになるのではないかと思われる。

それより怖いのは、日本人があまり原典を気にしないという点である。メディアが言っていることを信頼しているというわけではなく、誰が言ったかということを気にしている。そしてみんなが同じようなことをいうと「本当にそうなのだろうか」などとは疑わずにその結論に流されてゆく。いわゆる空気が醸成されてしまうと、その空気に乗ってしまう傾向にあるように思える。

日々ブログを書いていると日本人が空気に流されやすいのがよくわかる。テレビで何かが報道されるとそれについて検索する人が急激に増えたりすることがある。これは周りの人が話題にしているのだから自分も知らなければならないと考える人が多いことを意味している。

政府による洗脳が怖いというよりは、集団による思い込みで、ろくな情報精査しないままで空気に流される方が怖いのではないかと考えられる。とはいえ日本人は過去に起こったことは忘れたがる傾向があり、特に反省はしない。

なお、韓国や中国も同じような傾向があるが、韓国は政府への信頼が半分程度あり日本よりも高い。政治への関与度が高いので「自分で選んでいる」という感覚があるのかもしれない。日本の場合は新聞は選べても、政権与党は選べないのでそれが信頼度に反映しているという仮説が立てられる。しかし、同じように政権選択ができるアメリカは政府もメディアも信頼していないという人が多い。ただ、アメリカには全国紙があまり発展しておらず、地方紙も選択できないことがあるので、自分でメディアを選んでいるという感覚はあまりないのかもしれない。

なお、日本ではTwitterで騒いでいるのは一部の人たちだけだなどという人がいるのだが、月刊アクティブユーザーは4000万人もいるという統計がある。災害時の情報インフラとして利用されているということもあり認知度が高いのだろう。政治的にはやや極端な意見が多いように思えるが、実はこれは日本人が内心持っていた「自分だけが正しい意見を知っている」というような見込みを反映している可能性も高い。

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NHKはどれくらい国民を洗脳しているのか

左翼の人たちはよく、日本人はNHKに洗脳されているなどという。確かに政府には広報戦略みたいなものがあってNHKはその戦略を実行するための道具になっているのは間違いがなさそうだ。かつて民主党に政権を取られた時にマスコミが大きな影響を果たしたので、その反省があるのだろう。だから、NHKをジャーナリズムとは思わない方がよいというところまでは確かだ。ジャーナリズムは幅広い視点からものを見るために役立つのだから、NHKを見たら他の報道(できれば海外のものまで含めて)で検証する必要がある。

だが、本当に日本人はNHKに洗脳されるほど素直で従順なのかなというとそれにも疑問がある。最近、そのことがわかるのではないかという事例があった。

最近、ヨーロッパと経済交渉が続いているのはご存知だろうか。チーズなどの関税を撤廃するのと引き換えに、自動車関税の撤廃を勝ち取るというものだ。だが、どうも報道が不自然だ。ヨーロッパがチーズの関税撤廃を執拗に迫っていて、それをやり遂げないと自動車関税が撤廃できないというようなお話になっている。安倍首相の外遊に合わせてことさら報道されるようになった。政府にPR企画部のようなものがあって、その筋で情報をコントロールしているものと思われる。

最後に流したい絵は安倍首相の熱意の結果交渉がまとまり、日本の自動車輸出がさらに盛んになるだろうと語る場面だろう。これは安倍首相が「力強い首相」であるという<印象操作>だ。

確かに、チーズの関税が撤廃されると日本の酪農は打撃を受けそうな気がする。だが、実情は少し違っているようだ。生乳の自給率は高いのだが(新鮮なものをすぐに飲みたいという需要があるのだろう)チーズやバターといった加工品はどちらかというと需給の調整という役割が強いように思える。チーズの自給率は20%を割り込んでいるそうだ。つまり、チーズを明け渡したからといって、それほどの影響を受けるようには思えない。関税を撤廃すれば安いチーズが食べられるようになるわけで、多くの消費者から反対が出るわけでもなさそうだ。

だが、これを「やすやすと明け渡した」ように見せてしまうと「自動車関税を政府が勝ち取った」という演出ができない。最初から路線が決まっていたのだが、岸田外相が大枠で合意したことにして、安倍首相とEUの間で最終的な「成果」として発表できるようにしているように思えるのだ。

さて、左翼の人たちの理論によると、政治的に無関心でNHKに洗脳されているので、こうしたニュースを見て「安倍様の政治的交渉力はさすがだなあ」などと思うに違いない。確かにそうした懸念はあり、支持率が上昇してしまうかもしれない。

だが、日本人はそもそもこうしたニュースに深い関心を払っていないかもしれない。のちに値段が安くなるまでは「あ、関税が下がったんだ」と思わない可能性もある。よく考えてみるとオーストラリアビーフがなんで安いのかということもよく知らないわけだから、首相の名前をことさらに出さないと、国民はまったくありがたがってくれない可能性があるのだ。

それに加えて「自動車関税の撤廃を勝ち取った」というニュースがないと、北朝鮮が弾道ミサイルを開発したのに、日米韓は責任を押し付け合っているというようなネタしかない。すると国内政局に関心が向いてしまうので、政府としても何かネタを探すのに必死だった可能性はある。

日本人は昔から政局報道には興味があるが、政策にはそれほど関心を持っていないように思える。今でも、麻生派閥が安倍派閥を追い落とそうとしているとか自民党小池百合子派が安倍派閥を対峙してくれるのか、それとも寝返ってしまうのかなどという政局報道に夢中になっている。政治部の人たちも政策の意味を伝えるより、インサイダーとして政局の解説をするのが好きなようだ。

NHKは広報活動を通じて国民を<洗脳>しようとしているというのは多分間違いがないのだが、それが国民に届いているかと言われればそれも疑問なのだ。来週以降の政権支持率に注目したい。

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AKB総選挙と埋没してゆく個人

少しだけAKB総選挙を見てちょっとした戦慄を覚えた。スピーチが支離滅裂だったからだ。一人の少女は名古屋で家が買えるくらいの売上があったが、ファンの人は家を買えないだろうから、私があなたたちの家になると言っていた。多分搾取しているということには気がついているのだろうが、個人の競争のためにはやむをえないので折り合いをつけようとして失敗したのだろう。言語的なストックの少なさがそれを「なんか言葉にできないけど不安」という状態にしているのではないかと思った。

意もう一人はさらに混乱していた。いつもはバックダンサーとして支える側なので個人の意見は言えないのだが、総選挙は一人ひとりの競争なので……と言いかけて迷走していた。本来は自己実現のために仕事をしたいのだが、個人を埋没させて仕事をするということに折り合いがついていないのだろう。これは自己実現に罪悪感を抱えるのではないかと感じた。

彼女たちの中には価値体系が作られておらず、与えたられたものを正当化して生きてゆかなければならない。その中で成果主義的な競争にさらされて、相当なストレスを感じているに違いないと思ったからだ。いわば組織として病みかけている状態になっているのだろうということを感じさせる。

ストレスを解消するためには成果を得るか、あるいは言語化した上でその意味を内在化させてゆかなければならない。言語化されないもやもやは不安として結実し個人の成長に影を落とすことになる。不安を内在化して消化するという機能を獲得することは極めて重要だし、それが与えられるのは当然の権利だ。だが、学校教育の中で「自分なりの価値体系を作ってそれを他人に説明する」という能力を発達させる機会を奪われているのだろう。

個人の成長と組織の存続の間にある緊張関係が大きな問題にならなかったのは、それなりに再配分がうまくいっていたからだろう。しかし、組織がすべての人に分配できなくなると、自己責任で生き残り、生き残ったあとはシステムを支えろと言われる。成長を搾取するか他人から搾取して生き残る仕組みになっているわけだ。これに折り合いをつけなければ生きて行けないという意味では、現代社会の極めて巧妙な写し鏡になっている。秋元康という人は本当に天才なのかもしれない。

三連覇した指原莉乃や上位7名のようになってしまうと、こうした競争に依存しなくても自分の名前が売る方法がわかるので、こうした矛盾した競争から離脱することができる。自分の価値観を追求したいひとは卒業すればいいし、指原のようにゴールが全く異なっている人(来年は総選挙のMCをやりたいということなので、雛壇からMCに上がるという中居正広のようなキャリアを狙っているのではないだろうか)は両立も可能になるだろう。

いずれにせよ指原や高橋みなみのような初期のメンバーのスピーチがそれほど支離滅裂ではなかったのは、自分たちでAKBを作ってきた体験があったからではないかと考えられる。自分たちでシステムを作った体験があると、学校で教わらなくても欲求を言語化する能力が身につくのだろうし、逆にそうでないメンバーは離脱してゆくということなのかもしれない。

さてここまでAKBについて書いたので、AKB批判になっていると感じる人もいるのではないかと思う。だが、実際にはこうした現象はいろいろなところで見られる。多分、国会でも同じようなことが起きている。

福島みずほ参議院議員が「共謀罪で逮捕するぞ」と恫喝されたという話があり、それはガセであるという話が後で流れてきた。だが、これはどうやら事実である可能性が高いらしい。本人がこう説明している。


この話が恐ろしいのは、この野次を飛ばした国会議員が自分たちの役割を完全に見失っているからだ。国会というのは、法律を作るところだが、同時に行政をチェックする機能を持っている。いわばハンドルとブレーキを持っている。だが野次を飛ばした議員は権力の側に立って野党議員を抑圧できると錯誤していることになる。こういう人たちが作る法律にチェック機能がないのは当たり前であり、いわば日本はブレーキが壊れた車のような状態になっていることがわかる。

確かに自民党にいる間は全能感を感じられるかもしれないのだが、下野してしまえば今度は押さえつけられることになる。がもっと恐ろしいのは権力の側にいて「相手を弾圧している間は仲間として認めてやるが、さもなければお前も弾圧されるのだぞ」と恫喝されるという可能性だ。

日本社会にはいい面もたくさんあるが、集団の空気が一人ひとりを抑圧するという場面がしばしば見られる。意思決定の仕組みが複雑で表からはわかりにくいからだろう。つまり「政敵を共謀罪で弾圧できる」というアイディアが生まれた瞬間に、一人歩きして誰も止められなくなる可能性があるのだ。

どうやら今の国会には根拠のない全能感が蔓延していて、選挙区を構築せず議員になったような人たちは選挙民という接点がないこともあって、自分の役割が何なのかということすらわからなくなっているようだ。いわばブレーキがない車に自らを閉じ込めていることになる。

と同時に、自分たちの役割を言語化して内面的に認識できない人が、ハンドル操作ができるとは思えない。結局、組織というのは一人ひとりの判断の積み重ねなので、こういう人たちが動かしている車は、ブレーキもハンドルもない可能性が高い。

AKBメンバーが自分たちの欲求を言語化できなくても、それは一人ひとりの成長とグループの存続という問題が生じるに過ぎないのだが、国会の場合は多くの国民を巻き込む可能性が極めて高い。が、どちらも根っこには「自分たちの存在を言語化して内面に定着させた上で、人にも説明する」という能力の欠如があるように思える。

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これからも民主主義社会に住みたい人のセールステクニック

前回「安倍政権を続けさせないためには、デモに参加するのではなく、自民党に働きかけよう」と書いた。一応背景にある考えについておさらいしておきたい。ここに出てくるのはマーケティングのテクニックというよりはセールステクニックだ。古いものだと第二次世界大戦前くらいのものすら含まれている。

人はバランスを取る

まずNHKの朝イチで見た話から始めたい。誰かが怒っているときにそれに輪をかけて怒ってみせる。すると、怒っていた人はバランスをとるために「いやそれほどでもないんじゃないか」と考えるようになるという。例えばクレームの電話を入れてきた人に「では訴えるか」などというと「いや、それほどでもない」と態度を変えるという具合だ。人は無意識のうちに対立が激化しないようにバランスをとってしまうのだ。「共感して同調する」ことが基調にあり、その上で敢えて強めの提案をするのである。

つまり、民進党の蓮舫代表のように首に青筋を立てて怒ってみせると「ああいう醜い顔にはなりたくない」と考えてかえって冷静になってしまう。山尾しおり議員も同じである。民進党のやり方は、実は支持者(あるいは安倍政権には反発するが選挙にはいかないような人たち)を満足させる効果はあるかもしれないが、真面目に心配している人には効果がなく、却って「なだめて」しまっている可能性があるということになる。

ではどうすればいいかということになるわけだが、上手だったのが小池百合子東京都知事だった。「私には支持基盤がないから緑色のものをもって集まれ」と言っていた。石原慎太郎氏が「厚化粧のババア」などと言った時も、石原慎太郎氏を罵しらず「私には痣がありコンプレックスなのだが」とアピールした。つまり、困っていると応援したくなるという特性がある。ヒーロー映画でただヒーローが悪をぶちのめすだけでは観客は感情移入できないし、かといって勝てないが口だけは達者なヒーロー映画など誰も見ないということになる。

声の変化も重要

声の大きさも重要なようだ。普段から声を荒らげていると「この人はこういう人なんだ」と思われてしまう。一方で、普段は冷静で温厚な人が、ここぞというときに声のトーンが早くなったりすると「ああ、怒っているのだ」と思える。そのまま終わってもだめで、最終的には落ち着いた声のトーンに戻さなければならない。つまり、人は変化に反応していることになる。

かといっていつも冷静というのもよくない。「あの人は中立を気取っているだけだ」などと思われかねない。時々感情を込めてみるのも重要である。

つまり、毎週デモをやっていても「ああ、またやっているな」ということになるわけだが、普段は温厚で建設的な人たちが、抗議をするのが、実は非常に効果的なのだと言える。デモをやってもかまわないのだが、普段は違う顔があることを見せなければならないということではないだろうか。

つまり、Twitterで政府批判ばかりしている学者は、普段の学会での活動を報告したり、実際に問題を解決している様子を見せるべきだということになる。それも無理なら3時のおやつを投稿しても構わないのではないかとすら思える。「プロ市民」ではなく、普通の人が危機感を持っているというのは、たとえそれが<演出>であっても重要だ。

誰が顧客なのか

自民党だけでなく、どの企業にも未顧客と既顧客と非顧客がいる。本来、マーケティングでは「未だ顧客になっていない非顧客」の獲得を目指さなければならないのだが、実際に新しい顧客を獲得できるなどということを信じている人は少ないのではないかと思う。

非顧客は顧客にならない人をさすのだが、保守的な人たちは政府に抗議する人たちは「どうせ話を聞いてくれない」といって最初から排除されているものと思われる。つまり、自民党や公明党を中から変えてくれる人が一番重要なのだということになる。

反安倍運動は「未顧客の顧客化」を目指してきた。つまり「政治に目覚めていない人」の関心を引こうとしてきたわけだ。もちろん、他人に興味を持たせるのが大切な訳だが、これはかなり難易度が高い。企業もあの手この手で未顧客の興味を引こうとするわけだが、それにはかなりのお金がかかっている。現在の消費者はこれに慣れてしまっていて、面白いCMで引きつけてもらわないと興味すら持たないし、情報を理解しようとすらしないという状況が生まれている。政治活動はこうしたレッドオーシャンで戦っていることになる。

緊急時には既顧客だけに絞らないと取り返しがつかないことになる。デモをやっても、政治に興味がない人にはノイズにしか聞こえないのだから、インサイダーになって(あるいはその振りをして)働きかけるのが一番よいのではないかということになる。未顧客を獲得できない人にとっては既存顧客の離反が一番怖いのである。

善意に働きかける

抗議ばかりしている人の声が届きにくいということは最初に説明した。と同時に反対されればされると人はそれに抵抗したくなるものだ。これは日本人がそうだというわけではなく、もっと普遍的なものだろう。戦前に書かれた「人を動かす 文庫版」という本には、どんなにがんばってもものが売れなかった人が、善意に訴えかけると人を動かすことができたという話がいくつか出てくる。人には「良い人に思われたい」という欲求があるからだそうだ。故に「自民党は終わった」とか「公明党は地獄に堕ちた」などと言っても彼らを動かすことはできないが、政治に熱意があるからこそ勇気を持って状況を変えるべきだと訴えた方が良いのだ。

デモには陶酔感があるのだが……

安倍政権はかなり危険な状態にあり、このままでは民主主義がめちゃくちゃになってしまう可能性が高い訳だが、デモをやってもあまり効果はないだろう。にも関わらず「安倍政権を許さない」というような看板を掲げてデモをやりたがるのは、かりそめの陶酔感のためだ。ここは何を成し遂げようとしているのかということをもう一度考えた上で戦略を練り直すべきではないかと思う。このような状態が続けば、デモもできなくなってしまうかもしれないのだから。

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Twitter民はなぜいつもイライラしているの?

ある「フリーランスの作家だか他称自称ジャーナリスト」氏が民進党が参考に呼んだ人が筋悪だったと書いていた。「嫌な予感しかしない」と書いたのだが「どうして俺のあのツイートを読んで、民進党の議員が何かをしでかすと思い込むのかわからん」というような内容でキレ気味に返ってきた。

面白いなと思ったのは、その返事が全く的外れだったことだ。僕は前回民進党の掲載しているPDFに改ざんの後があるのではないかと書いた。どうも筋の悪い情報や人が民進党に集まってきているなあという疑念を持っているのである。つまり、民進党の議員が何かするに違いないというのは、作家さんの脳内補正の結果であって、コミュニケーションの結果ではないということになる。

日本人は党派性に反応しているだけで、事実は特に重要視しないことはわかっているので「民進党には頑張って欲しいから心配しているんですよね」というようなことを書いた。返事はこなかったので納得したか、その他の炎上しそうな何かに突入していったのだろう。

普段から喧嘩腰のひとなので特に驚きはしないのだが、面白いのはこの人に「情報が役に立たないと思うんだったら自分で調査しろや」というような喧嘩を売っている人がたくさんいるということだ。つまり、わざわざ喧嘩をふっかける人がいて、自分が言っていることが100%理解されないと怒り出すという人がいることになる。結果<議論>が荒れるわけだが、どうしてこういうことが起こるのだろうか。

一つにはこの作家氏がどうも「自分が考えている通りにことが進まない」ことに大変イライラしているという点だ。自分の判断基準がありそれに沿わない人がいることが許せないのではないかと思う。こういう人はよく見かけるが、議論には向いていない。議論とは誤解や知識のなさを埋めて、相手を説得するための技術だからである。そもそも成功するかがわからない上に、人と自分は意見が異なるということが前提なっている。村落的な状態で育った人たちはそもそも議論に向いていない。

ということは裏を返せば「知らない」ことが前提になっているソーシャルネットワーキングサイトは荒れないということである。

さて、最近新しいSNSを二つ始めた。一つは外国人の疑問に答えるQUORAというものだ。何回か答えを書いたが、普段当たり前と思っていることを改めて調べるといろいろな発見ができて面白い。例えば「日本のレストランに箸を持ち込んでも怒られないか」という疑問について調べていて、割り箸をやめてマイ箸を持ち込もうという運動があるのを知った。さらには割り箸は間伐材だから特に環境を破壊していないという意見もある。

次にWEARの投稿もやっている。こちらはみんな自分の服を褒めて欲しいわけだから、あえて他人の服を悪し様にいうことはないし、そのような仕組みもない。興味がなければそのままスルーすれば良いという仕組みになっている。実践が中心のSNSは荒れることが少ないわけだが、知らない人が知っている人を参考にするという仕組みがあり、うまく機能していると言えるだろう。

Twitterが荒れがちなのは、参加している人が答えを知っていると思っているからだろう。例えば、反安倍の人にとっては、日本の政治がよくなるためには安倍首相が今すぐ退陣しなければならない。これがなかなか起こらないからみんなイライラしているわけである。

これを打破する方法はいろいろあるのだろうが、SNSの例からみちびきだせる答えは2つあるように思える。一つは新しい視点を取り入れてゆくことで、もう一つは実践を伴うということである。新鮮な視点を得ることには喜びがあり、その分イライラが軽減される。

そう考えると、日本語のTwitterで議論が成り立たないのは、日本人のメンタリティや言語の構造などとは全く関係がなく、単に新しい情報や視点が入ってこないことの裏返しなのかもしれない。いつも同じような人たちが同じようなことを言っている環境というのは、改めて考えてみるとかなりフラストレーションが溜まる状態なのではないかと考えられる。つまり、新しい視点や知識は酸素のようなものなのだ。

だが、それを打開するのは極めて簡単だ。最近では様々なSNSがあり、特に海外旅行したり、繁華街に出かけて行かなくても様々な体験をすることができる。例えばかつて流行を知ろうと思ったら街に出て写真を撮影するしかなかったわけだが、これは一歩間違えると「俺を撮るな」と通報されかねない行為だった。だが、今では自分から進んでコーディネートを紹介して、アイテムを買う場所まで教えてくれるのだから、つづづく便利な時代になったものだと思う。

やはりネットというのはうまくつかえばとてつもなく便利な場所なのである。

日本語は特別に速い言語なのか

外国の人が日本語はなぜそんなに早いのかという質問をしていた。面白いなあと思って調べてみた。




倍速言語という考え方があって、それなりに引用されている。倍速言語の理屈は次のようなものである。

  1. 言語は、音節の複雑さと音節を送り出すスピードで、情報量が決まる。
  2. 音節が単純だと音節を送り出すスピードを早くする必要がある。日本語は子音と母音を1つづつしか使わないので、音節が単純と言える。
  3. 難しい音節があるとスピードが落ちるので音節はより単純化し、速度が最大化される。

この文章は「日本語は特殊である」という自己意識に基づいている。が、英語でDouble Speed Languageで調べてみても記事は検索できない。見つかったのはTIMEのこの記事だった。

データが圧縮されている(原文ではdense 濃い・密集しているとなっている)とスピードが遅くなる。

  • 英語の密度は0.91で一秒間に6.19音節が話される。
  • 中国語はもっと密度が高く0.94で一秒間あたりの音節数は5.18になる。
  • スペイン語は密度が0.63であり一秒間あたりに7.82音節を話す。
  • 日本語は密度が0.49しかなく、したがって一秒間に7.84音節が話される。

これを読むと、日本語が「速い言語」であることは間違いがなさそうだが、倍速というのは言い過ぎのような気もする。が、言語というのは、音節を複雑にするか、速度をあげるかで二極化されているのかもしれない。

だが、これは日本語話者の実感とは若干違っている。英語が苦手な人がよく「英語が早すぎて聞き取れない」というからである。しかし、この「英語は速い」というのは間違いで、実は英語の音節が複雑すぎてよくわからないということなのではないだろうか。英語に慣れるためには英語の音節を丁寧に聞き取ることが必要になってくるのだろう。

もともと複雑なものをカタカナに変換して聞き取ろうとしても「難しくてよくわからない」ということになるだろう。一つわからない音節が出てくるとそこでつまづいてしまい、そこから先がついて行けないという感覚になるだろう。

この記事によると日本語の情報伝達効率はそれほどよくないらしい。文中にグラフが出てくるが、英語が最も総体的な伝送速度が高く、日本語は伝送速度が低いということが示されている。

なお書き言葉については別の観測がある。日本語は漢字のおかげもあり、少ない文字数に多くの情報を詰め込むことができる。しかし、Twitterを分析したところあまり長いツイートは見られないようだ。情報量が多すぎると処理しきれなくなるのかもしれない。確かに、あまり長いツイートをみると疲れてしまうし、長々と書いたものより短くスパンと言い切った方が反応もいくらか良い。

ということで、どの言語でも処理できる情報量にはそれほどの差はないと言えるのかもしれないが、どのように効率をよくするのかというのは、言語によってそれぞれ工夫されていると言えるだろう。

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忖度という言葉は何をごまかしているのか

忖度という言葉が乱用されている。もともとは2017年3月に籠池理事長が会見で使ったのが流行の発端になっているようだが、2017年3月の初めに福山哲郎議員が安倍首相に「忖度があったのではないか」と聞いたのが一人歩きのきっかけのようだ。

が、この乱用はあまり好ましくないのではないかと思う。「勝手に意思を読み取った方が悪い」という含みがあるからだ。忖度せざるをえないのは「指示が曖昧」だからである。この責任を読み手にだけ負わせるのはあまりにも無責任だ。

安倍首相は様々な忖度を部下にさせていたことがわかっている。例えば加計学園の問題では自分と加計学園の関係をほのめかし「部下になんとかしろ」と言ったようだ。首相が直接的に指示すれば問題になることはわかっていたことをうかがわせる。山口敬之氏の問題では警察に「なんとか助けてやれ」というサインを出していたのだろう。これも首相が直接警察に介入したとなれば大騒ぎになる。

忖度を生む背景には曖昧な指示があり、曖昧な指示の背景には非合法な(あるいは不適切な)意図があることがわかる。忖度は指示の不全なので、指示について分析すれば、どんな場合に忖度が生じる得るかがわかる。指示には意図・方法・リソースが含まれる。

第一は冒頭で見たようにトップが責任を逃れて部下に「泥をかぶらせる」ための忖度である。部下も最後は上司がなんとか責任逃れをしてくれると思うので、結果的に集団思考の状態に陥るだろう。

次に上司が何をしていいかわからず、解決策を部下に求めることもある。どうにかして売り上げを伸ばすべきなのだがどうしていいかわからないので「とにかく頑張れ」と言ってしまうような場合が考えられる。とにかく頑張れと言われた人は、何か不正な手段に訴えたり、とにかく長時間働いてなんとかしようとするかもしれない。

最後に、指示は与えたがリソースが明らかに足りないことがある。例えば、人手が足りないのに「なんとかしろ」というと、部下は仕事を省いたり、他人に押し付けたりするかもしれない。必要なリソースがないのに成果を要求するとどこかで無理が生じる。

指示そのものを分析すると「どんなやり取りがあったのか」という後追い出来ない問題を棚上げにすることができる。どんなリソースが足りなかったのか、結果的に市場の効率がどう歪められたのかということは外から精査できるからだ。つまり、情報が隠蔽されている安倍政権を追及する手順は、例えば下記のようになるはずなのだ。

  1. そもそもあるべき姿とはどのようなものだったのか。
  2. そのあるべき姿が曖昧な指示によってどう歪められたのか。
  3. 歪められた原因は何にあるのか
    1. 目標達成までの道筋は明確に指示されていたか。あるいは途中で検証可能だったか。
    2. 目標を達成するためのリソースは十分に与えられていたのか。
    3. 法的な責任逃れなど、そもそもの指示の意図に問題はなかったか。あったとしたら、それは何が問題だったのか。
  4. 原因が特定できたらどうやってそれを改善するのか。

森友学園の問題が一番簡単に分析できる。森友学園は学校を作るのに必要な資金がなく、結果的にゴミをでっち上げて土地を格安に譲るという方法で利益供与が行われた。実はリソースが足りなかったのだ。

加計学園の場合は少し複雑だ。銚子市の学校の場合需要がなく資金もなかったので、結果的に銚子市の財政が破綻しかけている。が、今治市の獣医学部の場合には需給予測が曖昧らしく、需要と供給を満たすのかということがよくわからない。が、作ってから「実は需要がありませんでした」となると、被害を被るのは今治市ということになるだろう。

学校の問題は実はかつての公共事業のやり方に似ているのではないだろうか。公共事業は利権の温床になっていて需給シミュレーションを歪めて利権誘導していた。しかし民主党政権が「コンクリートから人へ」というスローガンで教育へシフトしたので、教育を新しい公共事業にしようという意識が生まれたのだろう。この延長が「教育の無償化」を言い訳にした改憲議論だ。高等教育も国の予算でやるとなれば巨大な利権が転がり込むことになる。実はつながっているのである。

いずれにせよ特区を作って学校を誘致するというには考えてみれば変な話だ。需要がないから獣医学部の空白地帯ができている可能性があるわけで、そこに学校を作ったからといって需要が生まれるわけではないからだ。獣医学部ができたら、そこに養鶏場が作られ、牧畜が盛んになるだろうか。忖度があったかなかったかという不毛な議論をしていると、こういう単純なことがわからなくなる。

山口氏の問題は別で、公平さが歪められたのが問題になっている。もし首相に伝がなければ逮捕状は執行されていただろう。法律がある人には適用されある人には適用されないということになると社会秩序はめちゃくちゃになり、結果的に人は法律そのものを信頼しなくなるに違いない。少なくとも「女性の意識を奪った上で欲望を満たす」のが「運が悪くて政権に伝がなければ捕まる」程度の犯罪になってしまえば、日本はもはや法治国家とは呼べない。

そう考えると、民進党の攻め方のまずさが浮かび上がってくる。間接的に曖昧な意思疎通があったということだけを問題にして大騒ぎしているのだが、これは照明が非常に難しい。政策立案能力がないので、そもそもあるべき姿を構築することができないのだろう。本来なら、曖昧な指示が行われた過程を検証し、どのようなルール設定をすればこうした問題がなくなるのかを国民に直接提示すべきだった。安倍政権に反省を求めても無駄だということはこの数年で痛いほど理解しているのではないだろうか。

野党4党はマスコミ受けを求めて攻め手を変えているので、マスコミは忖度という言葉を使うのをやめて「曖昧な指示が意思決定を歪めた」などという言い方をすべきだろう。まずはそこから始めてみてはいかがだろうか。