「糸井重里」と感動マーケティングの終焉

このブログは政治ネタが多い。有権者はあまり政治に興味がないようだが、特定の人たちがおり熱心に政治課題について研究しているからだ。しかし、その中身は建設的な提案というよりは政権への批判である。この数年は安倍首相と自民党について書けばそれなりにページビューが集まり、それを止めると流入が止まるという状態が続いていた。




安倍政権はアメリカとの関係を強化することに腐心しており国会を無視して法案を通してきた。特定機密の件から集団的自衛権までがそれにあたる。オバマ政権下の出来事だったことを考えると、オバマ政権は大統領のクリーンなイメージとは裏腹に日本政府にかなりえげつない圧力をかけていたのではないかと思われる。これが一段落し正直なトランプ政権になったこともあり、安倍首相が矢面に立たなくても済むようになっているのだろう。

こうした客層の人たちは主にTwitter経由で流入してくるのだが徐々に別のターゲットを見つけつつあるようだ。その一つが糸井重里さんの炎上である。神戸のクリスマスツリーが発端になっているのだが、この炎上の中身をみていると少し様相が違っている。どうやら怒りというよりは静かに燃えているようである。

もともとこの問題は、西畠清順という人が発端になっている。園芸界ではプラントハンターとして知られた人なのだが一般の認知度は高くなかったはずである。にもかかわらず派手に燃えたのは背景に糸井重里さんのエンドースメントがあったからのようである。

150年も山奥で生きて生きた木を切り刻んで金儲けの道具にするのがけしからんというのが表面的な非難の理由だ。当初は、山間地域の人たちは林業で生計を立てることができないから山間地の人たちの声を説明すれば合理的に騒ぎは収まるだろうと思っていたのだが、そのレベルを超えてしまっているようである。

西畠さんが山間地の事情と植林事業について説明している媒体も見つけた。しかし、これはマガジンハウスのものであり、多分逆効果なのだろうなと思った。マガジンハウスはなんとなくふんわりとした感性を全面に押し出して価値観を演出していた会社だ。これがSNS時代に合わなくなっていることがわかる。

全く同じに見える現在のインフルエンサーマーケティングとかつてのおしゃれ系感性マーケティングだが、実際には全く異なっている。インフルエンサーは街の声の集積なのだが、おしゃれ系感性マーケティングは、最初に売りたいものがあり「みんながいいと言っていますよ」とか「銀座に通ってい人たちの間では人気ですよ」などと主張して消費者を納得させる手法だったからである。

SNSが発達し、実は「銀座に通っている人たちの声」というのが血の通わない作り物だということがバレてしまったせいでおしゃれ系感性マーケティングは終了してしまった。しかし、マガジンハウスの人たちはそれに気がつかずに、お互いを褒めあっている。これが上からで痛々しいと感じられるのだろう。

しかし、糸井さんに反対する識者たちの声をツイッターで聞いてみると、どうもそれだけではなさそうである。加えて、この声も実は一様ではない。

第一に糸井さんに反対している人たちは「あの界隈」の人たちである。世間では左派リベラルと呼ばれているのだが、実際には社会主義とは全く関係がない人たちなのだ。彼らは原発に反対し、憲法第9条は守られるべきだと考えている。また金儲けに懐疑的で、東京オリンピックにも反対している。これらは「連想」でつないでゆくことはできるのだろうが、彼らが反対しているものに対して改めて共通項を探そうとしても「よくわからない」としか言いようがない。これはネット右翼とも共通している。つまり、彼らにはなんらかの共通の文脈があり、それに引っかかったものは全て好きだったり嫌いだったりするのだ。

既得権益層が自分たちの利権を確保するために広告代理店(これはなぜか博報堂ではなく電通のことだ)を使って民意をコントロールしている。だから民衆は騙されており本当にあるべき姿に気がつかない。だから私たちの正義が実現しない。このままでは戦争になる。このコンテクストに当てはまるものはすべて左派リベラルの人たちに憎悪される。

やっかいなのは、彼らのいう「陰謀」がなんとなく当たっているという点である。電通がコンサルタントを通じてオリンピックの票を買ったのは間違いがないらしい。フランスでは捜査が始まっているが、日本の捜査当局は政府が嫌うようなことはやらないだろう。これがわかっていても誰も動かないので、似たようなものは全て攻撃されるということになってしまっている。つまり、実はクリスマスツリーに反対しているわけではなく、感動マーケティングそのものにアレルギー反応を持っているのだから、合理的に説明を試みても納得感が得られないのだ。

では糸井さんもこの線で反発を受けているのだろうかと思って見てみた。しかし、このような批判はあまり多くなかった。代わりに多かったのが「なぜか糸井さんは昔から嫌いだった」という声だ。理由がよくわからないようである。

そこで試しにTwitterでフォロー・被フォロー関係にある人に「なぜ嫌われるのか」を聞いてみた。「上から正しそうなことをいう」というような意見と「いつも正しいことを言っているが、ときどきとんでもないものをぶっこんでくる」という意見があった。

この「正しさへの反発」はインスタマーケティングなどの台頭で説明ができる。現在の商品をおすすめしている人は普通の生活を露出している。ゆえに完全に正しいということはない。むしろ、ちょっと抜けたところを配信して「気が抜けた瞬間」を演出している人もいるだろう。常に正しいのはポーズであり演技であるということがバレているのである。

だが、それだけでも説明ができない。「騙された経験があるが誰も騙されたことを言わないだけだ」という意見を教えてもらったのだが、糸井さんに騙されて何かを買った経験はない。だが「別にいいとは思わないのに嫌に自信たっぷりにおすすめしてくるな」と思ったことはある。

つまり、別にいいとは思わないし、いいと思う理屈もよくわからないけれど、みんながいいと言っているから、まあきっといいんだろうなという理解をしている人が多かったのではないかと思った。つまり、よくわからないのに「ああこれっていいんだよね」と取り繕っていた人は多いのではないだろうか。

糸井さんは好景気が終わって「なんとなく」ものが売れなくなると、インターネットに移って「ネット文化ってこういうものですよ」と言って生き残っていた人である。感想の中には「いろいろと逃げ切ってきた、糸井さんがついに逃げきれなくなった」というようなことを言っている人がいて「なるほどな」と思った。つまり、「銀座ではみんながいいよと言っているよ」と言っていた人が「ネット文化ではこうなんだよ」と主張して生き残ってきたということだ。

いずれにせよ今回の件で「実はみんななんとなく納得していなかった」ということがバレてしまったのかもしれない。それが違和感の正体ではないかと思う。その意味で今回の炎上は他とはちょっと違っている。

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異文化理解力

先日Twitterで教えてもらった本を読んだ。「異文化理解力」というタイトルがついている。Twitterで何かを教えてもらうというのはとても珍しい。

多国籍企業で働くと、誰でも自分の意思が相手に通じないと思ったり、相手が自分の思った通りに行動してくれないという経験をしたことがあるはずだ。文化が違うと行き違いが起こりやすいのである。外国に行くときにはガイドブックを持って行くのだから、当然相手の地図のようなものがひつようになってくる。エリンメイヤーはこれを「カルチャーマップ」と呼んでいる。つまり、この本は外国の人と仕事をするためのガイドブックのような本である。

2017年の新刊ではないのだがこの本はとても人気が高いようだ。それだけ海外赴任を命じられたり、外資系の会社で働く人が増えているのだろう。最近、建設現場で中国語などが飛び交うようになっているので、もしかしたら日本の会社に勤めていても外国人と働くことになる人もいるのかもしれない。

地図を作るにあたってエリン・メイヤーは8つの指標を用いて文化の間にある違いを研究した。8つの指標には名前が付いているがここでは詳しい説明ができないので簡単な説明をつけた。

  1. コミュニケーションがどれくらい文脈に依存するか
  2. 評価を直接伝えるかほのめかすか
  3. 物事をどう説明して相手にやる気を出させるか
  4. みんなで協力するのが好きかそれとも誰かがリードする方が好まれるか
  5. だれが意思決定するか
  6. 信頼の対象はものなのか人なのか
  7. 見解の相違をどう解決するか
  8. スケジューリングは柔軟か

メイヤーはどちらかというと実用的な側面からこれらの指標を抽出しているようで、指標を一通り読めば日々のビジネスシーンに役に立つティップスが身につく仕組みになっている。

同じような研究にホフステードの文化指標がある。どちらかといえばこちらは文法書のようなもので、全ての傾向を限られた指標で点数化している。ホフステードは様々な質問の傾向を抽出して違いが出やすい指標を抽出しているのだが、メイヤーは実務書として書いているので、指標の中にはお互いに関連しているようなものがある。メイヤーは会話書のようなものなのかもしれない。

例えば「説得」は全ての文化の指標になっていない。理由を説明して相手を説得しようとする文化と具体的なやり方を示す文化があるとされているのだが、これは欧米文化の違いを記述している。東洋人はこのようなやり方は好まず「包括的に」問題に対処するとされている。そして、これが対象物に注目する西洋人と背景を含めてものを見る東洋人という図式で説明されるといった具合に展開してしまう。東洋人の視点からは、この包括性と文脈依存は関係しているように思えるのだが、西洋人にはそれぞれが別のものに見えるのかもしれない。会話書なので本自体がある程度印象に左右されているように思える。

この本はインターナショナルマネジメントについて書かれている本なので、日本人だけの会社に勤めている人にはあまり役立たないのではないかと考えられるのかもしれないのだが、そうとも言い切れない。むしろ外国人と接したことがない日本人こそ読むべきではないかと思われる。それは日本人が外国人の作った文化をそのまま日本に取り入れて失敗することが多いからである。

この本を読むと、ほぼ全ての指標について日本人はかなり極端な位置に置かれている。極めて文脈依存的で婉曲なコミュニケーションを好みきっちりしたスケジューリングが好きであると言った具合だ。ある意味「ユニーク」なのだが「極端でわかりにくい」文化と言えるだろう。だが、こうした極端さは当たり前すぎて日本に住んでいるとあまり実感できない。

例えば、稟議システムは独特のものだと考えられているようである。ほとんどの文化はトップリーダーが決めたことに従い、その決定が覆らないか、平等な人たちがその都度必要なことを決めて行くというどちらかにプロットされるようなのだが、日本人だけはみんなで決めたことが覆らないという独自の文化を持っている。

これを「稟議システム」と呼ぶ。具体的には「持ち帰り検討します」といってなかなか返事がない(ものによっては数年かかることさえあり、誰が何を決めているかよくわからない)のだが、いったん「社の決定である」というコンセンサスが得られるとその後はとてもスムーズに物事が進むのが稟議システムである。いったん合意が形成されると、あとからそれが合理的な決定ではなかったということがわかってからも覆すのはとても難しい。

日本人には当たり前に思えるシステムなのだが、こうしたシステムを持っている国は少ないのできちんと説明しないとわかってもらえない。それどころか、日本人の中にもコンセンサスシステムについて理解していない人がいる。

最近の例で言うとトップダウンで物事を決めてしまったために全てが大混乱してしまった小池百合子の例がある。小池さんがこの稟議システムについて理解していればこのような混乱は起こらなかったのかもしれない。だが、海外でのトップリーダーを見よう見まねで模倣するうちに、日本でもトップダウン型の合意形成ができるだろうと誤解してしまったのだろう。

特に民進党のように「いつまでも何も決められない」人たちとトップダウン型の相性はとても悪かった。小池さんは文章による明確な意思決定を行ったのだが(これはメイヤーの本の中にも出てくるが、コンテクストに依存しない文化では明文化が好まれるとされている)あとから「やはりこれには従えない」とか「いや、実はこういうつもりではなかった」という人たちが大勢現れた。つまり、文脈を作ることで影響力を保持しようとした人や、いったん支持者たちとの間で稟議された暗黙の取り決めを破れない人が続出したのである。

もし、小池さんが強いリーダーになりたいのであれば、文脈依存はやめて西洋型の意思決定をしますとせんげんしなければならなかった。が、そのためには希望の党に入る人たちが自分たちは文脈依存で合議型の意思決定をしているということを知らなければならないという具合である。

文化というものがいかに大きな力を持っているのかがわかるとともに、それが普段は全く意識されていないということもわかる。つまり我々は文化に支配されているわけだが、その文化を知ることである程度その支配から自由になることができるのではないかと思う。

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「糸井重里」という炎上案件について考える

神戸に世界一高いクリスマスツリーが立つというニュースを見た。NHKの朝の番組でわざわざ中継が出してまで紹介していたので「景気の良い話だな」とは思ったのだが、これがまさか炎上するとは思わなかった。

この案件が炎上した理由はいくつかあるようだが、糸井重里さんが絡んでいるようだ。この件についての一連の考察はタグでまとめてある。一言で言うと糸井さん個人が悪いというわけではなく、その背景にある事情が変わっているのではないかと考えている。Exciteは次のように面白おかしく伝えている。

さらにこれに反応している人たちがいるのだが、戦争はいけないから憲法第9条改悪に反対というような主張にも共鳴しそうな人が多い。毬谷友子さんは「ひっそりさせておいてあげたい」と言っているのだが、毬谷さんのいうように木はひっそり生きていた方が幸せだったのだろうか。

これまで、日本人は経済モデルを田畑で考えているのではないかと考えてきた。環境によって収量が影響を受けて全体を増やすことができないという世界である。この環境では誰かが儲けるということは必ず誰かが損をするということになる。土地の生産量が限られているので日当たりのよいところを横取りするか水を自分の田んぼに流すなどをしないと収量が増えないからだ。

このためにそもそも「儲ける」ことに関して懐疑的な人が多い。そこで、西畠さんが儲けるということは何かを搾取しているという図式が即座に描かれたのではないかと思う。つまり150年生きてきた木の命を奪ったのは西畠さんが不当に儲けることにつながるという図式が作られたのである。しかし、これだけではこの件は大した広がりが得られなかったのではないだろうか。

それに輪をかけたのがそれを応援している糸井重里さんだ。糸井さんといえばバブルの頃に「思いつきを言葉にするだけで大儲けした人」という印象がある。そもそもバブルは「根拠のない浮かれた景気にもかかわらずみんながいい思いをした」ということになっていて、バブルを生きた人はズルいという印象がある上にそこにのって大儲けした糸井さんは「インチキ詐欺師」だと思われているのかもしれない。

糸井さん(実際には事務所だが)の「何かを考えるきっかけにしよう」というツイートはふわっとした言葉で何かをごまかしていると考えられているようだ。このツイートには様々な懐疑的なコメントが付いていて、阪神淡路大震災の当事者で感情的に傷ついている人もいるようだ。

つまり、儲けることは騙すことと同じであるという低成長時代ならではの空気があるということになる。さらに東日本大震災の復興対策費用が流用されていたり、オリンピックが実際には政治矛盾を隠蔽するのに使われていることもあり「もうごまかされたくない」というイライラが募っている。

企業が収益を上げるために賃金は低く抑えられており、非正規雇用ばかりが伸びるという現状では「企業活動とは搾取のことだ」と捉えられても不思議ではない。バブル的で景気の良い話はたいていが詐欺であり、それが本家本元の<詐欺師>によって支えられているという図式である。企業活動も浮かれた消費もそれほど恨まれているのである。消費が伸びないのも当たり前だ。

糸井重里的なものは、男性的でインダストリアルな価値観に従わなくても、しなやかで優しく生きて行けますよというメッセージだった。日本は豊かだったのでこうした異なる価値観が共存できたのである。しかし不景気が広がるとそれは逆に「男性的で優しさのない経済」をごまかすために、しなやかさや優しさが利用されているのではないかという疑念に変わる。あまりにも不景気すぎてもはや糸井重里的なものが存在する余地がないということになる。

ところがこれが本当に詐欺なのかを考えた人はほとんどいないし、議論においてそのようなことを考えた形跡もなさそうだ。それは日本人が自分たちの暮らしがどのようにして成り立ってきたかをすっかり忘れてしまったからだ。ここから先は「糸井重里的なもの」の終わりというよりは、保守の崩壊という視点で続けたい。

ここでは家畜の例をあげて説明したい。私たちは毎日豚や鶏肉などを食べているが、家畜を搾取とは呼ばない。これは多くの人が家畜という概念を知っているからである。中には養豚や牧畜なども動物への搾取だとみなして肉を一切食べない人もいるがそれは例外的である。

では木はどうだろうか。今回神戸に「無理やり連れてこられた」のは150年間生きていたあすなろというヒノキの仲間だそうだが、周りは山火事で焼けてしまったそうである。これがもともと植林されたのち放置されたものなのか天然木だったのかは全く確かめられていない。つまり、同じ木であっても家畜化された木なのか野生のものなのか誰も木にする人はいないということだ。

こうしたことが起こるのは、東南アジアなどの安い木材に押されて日本人が自分たちの山林を構わなくなったからである。日本人はこれまで自然の恵みを利用して生活を成り立たせてきたということすら忘れてしまったので、もはや「管理された林」という概念が理解できないのである。

今回のあすなろはもしかしたら天然木なのかもしれないのだが、それでも山火事で焼け残ったところに一本だけ木が残っていると再植林や開発はできない。植林された森であれば再整備したいだろうが売れる見込みがない植林をしても仕方がないし、次に使えるようになるまでには数十年という時間が必要になる。木材の価値を高めて得ることができれば、単に木材として売るよりも産地は喜ぶ。だから、これは必ずしも「木を殺した」ことにはならないはずだ。

今回の利益配分がどうなっているのかはわからないのだが、地元を騙した上で安くで買ってきて大儲けするようなスキームになっているとしたら考えを改めた方がよいし、そうでないなら産地の人たちの意見も紹介した方が良い。これが企業の説明責任というものである。もはやふわっとした優しさは何の役にも立たない。我々はそれに依存しすぎたと言える。

つまり、この件が炎上した裏には、もともとの成り立ちを説明しないまま感動ストーリーだけを押し売りしようとしたというマーケティングの失敗があるようだ。糸井さんの事務所がどの程度これに関わっているのかはわからないのだが、少なくとも西畠さんの会社はマーケティングに失敗したことになるし、誰かがそれなりのアドバイスをしてもよかったのではないだろうか。

このように改めて考えてみると、バブル以降の時代の変化に驚かされる。バブル時代には誰も消費に疑いを持たなかったので、なんとなく顧客を良い気分にさせていればそれなりにものを売ることができた。しかしながら現在の空気はその頃と全く変わってしまっているようであり、マーケティングに必要なスキルも変わってしまった。

企業が儲けるときには「地域への貢献」や「背景の丁寧な説明」などが求められる。ある意味面倒な世の中になっている。だが、新時代に適応したマーケターならそこに面白みを感じるのではないだろうかと思ったりもする。

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貴乃花親方と品格という十字架

日馬富士の暴行事件が思わぬ方向に展開している。最初は「暴力はダメだろう」というような論調だったのだが、次第に貴乃花親方の挙動がおかしいという話になってきた。診断書が二枚あり貴ノ岩も普通に巡業に参加できていたというのである。さらに協会側は医師のコメントを持ち出してきて「疑いとは書いたが相撲はできるレベルの怪我でしかなかった」などと言わせた。つまり、状況的には貴乃花親方が「嘘をついている」ということになる。さらに親方は普段から目つきがおかしく「何か尋常ではない」ものが感じられる。

これだけの状況を聞くと「貴乃花親方の挙動はおかしい」と考えるのが普通だろう。

いろいろな報道が出ているが毎日新聞は面白いことを書いている。相撲協会は力士の法的なステータスを明確化しようとして誓約書の提出を求めたが「親方が絶対だ」という貴乃花親方だけがそれに協力しないのだという話である。

普通に考えると相撲は近代化したほうがよい。いろいろな理由があるのだが、一番大きな理由はリクルーティングの困難さである。力士には第二の人生があり、そもそも力士になれない人もいるので、相撲について「仕込む」のと同時に相撲以外の社会常識を教えたり、関取になれなかった時の補償などをしてやらなければならないからである。

そう考えると、この問題の複雑さが少し見えてくる。貴乃花親方は「たまたま成功した」が「相撲以外のことを全て失ってしまった」大人なのだ。

第一に貴乃花親方の父親はすでになくなっており、母親はすでに家を出ている。さらに兄とも疎遠である。さらに実の息子も「ここにいたら殺される」と思ったようで、中学校を卒業してすぐに留学してしまった。現在相撲とは全く関係のない仕事をしているそうであるが、これは家族の離別ではなく「美談」として語られている。相撲界は個人としてもいったん外に出ると戻ってこれない片道切符システムなのだが、それは家族の領域にも及ぶ。

加えて中学校を卒業してからすぐに部屋に進んだため高校に進学していない。中卒が悪いとはいわないが、相撲で現役を退いたあとすぐに親方になっており社会常識を身につける機会はなかったはずである。しかし、相撲のキャリアとしてはいったん外に出て社会常識を身につけた上で復帰するという制度は考えられない。

さらに、相撲の影響で体にかなりの影響が出ているようである。Wikipediaを読むと「右手がしびれて使えない」とか耳が聞こえにくく大きな手術を余儀なくされたとある。

「相撲に命をかける」といえば聞こえはいいが、家族と断絶し学歴や社会常識を得る機会も奪われた。さらにそれだけではなく健康すらも害しており「もう相撲で生きてゆくしかない」ということになるだろう。そして、これは貴乃花親方個人の問題ではない。

もともと相撲は興行(つまり見世物のことだ)のために必要な力士を貧しい農村部などから「調達」してくるという制度だったようだ。

花田一族で最初に相撲の世界に入った初代若乃花(花田勝治)は青森のりんご農家に生まれた。しかし一家は没落してしまい室蘭でその日暮らしの生活をしていた。戦後すぐに素人相撲大会にでて力士の一人を倒したことで相撲界にリクルートされたという経歴を持つ。しかし、働き手を失うとして父親から反対されたので、数年でものにならなかったら戻るという約束で東京に出てきて「死に物狂い」で稽古をして強い関取になったとされる。これは美談として語られている。

しかしながら実態はどうだったのだろうか。厳しい練習をしても相撲で食べて行けるようになるかはわからない。東北・北海道の寒村というものは日本から消えており「全てを投げ打って相撲にかけるしかない」という地域は消えてしまった。

実は、モンゴル人の力士はこのような背景から生まれている。つまり日本で力士が調達できなくなったから貧しいモンゴルから連れて来ればよいと考えられるようになったのだろう。しかし、当初の目論見は失敗に終わる。

最初のモンゴル人力士たちは言葉がわかるようになると「これはあまりにも理不尽で将来に何の保証もない」ことに気がつき脱走事件を起こした。逃げ出さないようにパスポートを取り上げられていたので大使館に逃げ込んだそうだ。これが1990年代の話である。つまり日本がバブルにあったので力士調達ができなくなった時代の話なのである。

しかし、中国とロシアが世界経済に組み込まれるとモンゴルにも経済成長が及んでおり今までのようなやり方で見世物のために力士を調達することはできなくなっている。だから、相撲協会はなんらかの形で現代化してスポーツ選手としての力士を「養成」しなければならない。

ところが、相撲協会は、大相撲が興行だったころの体質を残している。もともと興行主である「相撲茶屋」が興行収入を差配していたようだが、これを力士で運営して利益配分しようという制度に変えつつあるようだ。つまり資本家から独立した労働者が利益を分配しようとした「社会主義革命」だということになる。相撲協会はソビエトのようなものだが、共産主義は例外なく労働者の代表が新しい資本家になってしまう。

2010年の貴乃花一門独立騒ぎでは、貴乃花は「改革の担い手」だと認識されたのだが実際には「旧態依然とした相撲道のために全てをなげうつ」という現在では通用するはずもない価値観の犠牲者になっていることが判る。

相撲はこのように多くの矛盾を抱えており潜在的には存続の危機にあるのだが、相撲ジャーナリズムはこのことを真面目には考えていないようだ。彼らは相撲協会と精神的に癒着した利益共同体を形成しており批判的な態度を取れば取材が難しくなる。

さらに相撲の商品価値を高めておく必要があり話を美しく「盛る」必要があり、全ての矛盾を隠蔽したまま「品格」というよくわからない言葉で全てを包んで隠蔽しているのである。

「品格」という言葉は聞こえはいいが、実は何が品格なのかというのは誰にもわからない。にもかかわらず相撲で成功してしまった貴乃花は家族と孤立し健康も失い社会常識を身につける機会もなく、変化にも対応できなくても一生品格という言葉に縛り付けられることになるだろう。それがどのような人生なのかは想像すらできないが、過酷なものであることだけは間違いがないだろう。

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日本人の内向きさはどこからくるのかあれこれ考えてみる

先日、選挙結果を見ながら記事を一つ書いた。記事で言いたかったのは「日本では都市と地方で関心が異なりつつある」ということだったのだが、それでは誰も興味を持たないと思ったので「安倍首相が民意をつかんだ」というようなタイトルにした。

日本の選挙結果には興味があるのだが、安倍政権側が勝つことはわかっているのだから分析してみてもあまり面白くはない。イタリアやスペインでは都市部と地方部の分離が起こっているので、なぜ同じ先進国脱落組の日本に同じような動きが起こらないのかという問題について普段から考えている。そこで都市部の票を見てみたのだ。

そこでわかったのは日本の都市部の広がりが思っていたよりも小さいということだ。せいぜい都心部だけが都市と言えるのであって、イタリアやスペインほどの広がりがないのである。カタルニアのようなことが日本で起こるためには九州程度の地域が繁栄する必要があるのだが、日本は全体が地盤沈下しているのでこうした動きが起こらない。さらに大阪のように南北格差がある地域もあり、南でポピュリズム汚染が起きても北部が同調しないという現象もある。

ここから予想できるのは日本で景気対策がうまく行くと「自民党離れ」が起こるので、自民党は景気を悪くしておいたほうが政権が維持できるという結論である。つまりなんらかの事象について観察すると、ある仮定が得られる。

その一方で、多くの日本人がこのような事象には全く興味を持たないこともわかっている。日本人は関係性には反応するが、政策などの「オブジェクト」に対する反応はほぼないと言っても良い。だから、人物の名前を挙げた方が「引きが強くなる」のである。だが、それが時にはハレーションを引き起こす。ではそのハレーションは良いことなのだろうか。悪いことなのだろうか。

結論から言うとハレーションにはそれほど良い効果はない。かといってそれほど害になることもない。これも日本人のコミュニケーションの特性になっているようだ。

このエントリーは書かれてからしばらくは忘れられていたが一週間程度経過して突然閲覧数が伸び始めた。いわゆる「バズった」。その波及の具合を確認してみよう。

最初に異変に気がついたのは11/1にメンション付きのツイートが増えたことだった。シェアボタンなどを押すと自動的に送られるものだ。

Facebookからの流入が増えていた。つまり誰か有名な人がエンドースした結果、そのフォロワーが閲覧し「読みましたよ」というつもりでシェアボタンを押したのではないかと思われる。

とはいえなんらかのコメントがついたわけではない。単に「読みましたよ」というだけだ。つまり、作者に対するリアクションではなく、紹介した人と同じ経験をしたという意思表明でありある種バッジの役割を果たしているのではないかと考えられる。注目すべきなのはエンドースメントに二次的な広がりはないという点だ。Twitterからの流入はそれほど期待できないのである。

そして次の日になってはてなブックマークからの閲覧が増えた。はてなブックマークは検索ができるので調べてみたところ否定的なコメントが多く見られた。単なるお遊びではないかというものと、分析が雑だというものだった。どちらも当たっている。本人も「雑だなあ」と思っているので特に反論するところはないのだが、こちらは一度シェアされるとそれなりに「外野」の人たちが見にくるのだなと思った。つまり冷笑的な広がりのほうが二次的に広がりやすいのである。

冷笑的なコメントには核がない。核がないゆえに若干広がりやすいのではないか。

このどちらも「書いた本人のあずかり知らぬところで盛り上がっている」という意味では完全に等価である。つまり、悪口もレコメンデーションも「同じ価値がある」ということである。だが、広がり方には違いがある。と同時に冷笑のほうが遅れてやってくる。少数のアーリーアダプターであるインフルエンサーがおり、冷笑はラガードなのだと言える。企業が好ましい効果を求めてインフルエンサーを探す理由がわかる。インフルエンサーは露出を増やすのだが、それは必ず冷笑系のコメントを伴うのである。

なぜこのような行動になるのかを考えてみた。いくつかの行動原理があるのではないかと思った。

第一に、日本人は接触によって他人から影響を受けることを極端に嫌うのではないかと思う。誰かに何かをいうということは相手から影響を受けるということである。日本人は賛成意見であれ、反対意見であれ影響を受けることを極端に嫌う。

例えば、最近「賛同的な意見がTwitterで寄せられたとしてもそれに追加的な譲歩を乗せてはいけない」ということを学んだ。相手は教えられたいとは思っていないことが多く、「追加意見に影響を受ける」ことを恐れて反応を止めてしまうのである。これは「違った情報が出てきたときにノーと言えない」からなのではないかと思う。つまり対象物ではなく「賛成」「反対」という態度表明のほうが優先順位が高いのである。

相手は賛同しているのだから、ここではそのポジションを崩さずに「そうですね」などの共感的なフィードバックだけである。たまに語りが止まらなくなる人もいるが、大抵は同意されると満足するようだ。悪口をいっている人も、その悪口が相手に届いてしまうとそれに反論される「リスク」がある。反論されるとそれに影響されるリスクがあるので、2ちゃんねるやはてブのようなところから離れて冷笑的な態度を取るのだろう。

ここで本来考えるべきことは「変質」が必ずしも負けにはならないという点だ。変質は個人の成長につながる可能性があるのだが、受け身で情報を覚える教育ばかりを受けてしまうと「いうことを聞いたら負け」というような思い込みが生まれるのかもしれない。先生と生徒という関係が固着してしまうのが日本の教育だからだ。

従って、ここから二次的に出てくるのが他者には興味がなく優劣のバッジのようなものだけを欲しがっているのではないかと思う。賛成反対が「左右」だとしたら「高低」に当たる関係も固着するのだろう。

例えば「日本人は韓国人よりえらい」という高低の関係がある。いったんこういう思い込みが生まれるとどういうことになるのだろうか。

最近、柳美里という作家のところに「通名を使うのは止めてはどうですか」というTweetを送っている人がいるのを見て大笑いしてしまった。この人は「ユウミリ」という本名で活動しているのだが、そのことを知らなかったのだと思う。つまり、本人のプロフィールを知らずに、在日=通名=狡猾という図式を持っているのだと思う。だから特に韓国系の作家に興味があるわけではなく、単に「在日には何を言ってもいいのだ」と思い込んでいるということになり、それを自動的に当てはめているのである。

このことはある種の救いにはなる。例えば柳さんはこうした声を聞いても「単に記号としての韓国」に反応が集まっているだけなのだと考えればよい。その韓国は実際に東京から数時間で行けるあの韓国ではないし、柳さん個人に対しての中傷でもないということになるだろう。

これは応用ができる。丁寧に対応したり、同じ土俵に立っていないということを見せることによって「相手より格上である」という印象が与えられるのである。こうしたスキルに慣れている人がいて、SNSでコメンターを相手にしないという態度を見せつけることで「高低差を演出」している人たちがいる。

最後に日本人は公共や社会というものに関心がないのではないかと思う。つまり、お互いにアイディアを出し合えばよりよい智恵が得られるというようなことを信じていない。普段から「社会のためには個人を抑制して我慢しなければならない」ということだけを教えられるのだから押し付けにはうんざりだと考えても無理もない。新しい参加者に対して「お前は黙っていうことを聞いているべきだ」という高低の関係を押し付けることによって、コミュニティは核を失ってゆくのではないか。ある人たちは単にインフルエンサーに追随するようになり、別の人たちは冷笑的に外からコミュニティを見るだけになるのではないだろうか。

ここで重要なのは、集団がその要件を失ったとしても、個人主義が徹底しているわけではないので、自分一人の考えというものは持てないという点だろう。日本人は集団で行動しているように見えてしまうのだが、こうして作られる「集団」は集団の要件を満たしてはくれない。意思決定につながる情報伝達のプロセスがあるわけでもないし、集団による保護機能もない。

それがディスコミュニケーションを生み出しているのだが、このディスコミュニケーションは何を生み出すのだろう。

例えばこんな事例があった。トランプ大統領の娘が来日し、安倍首相がそこに57億円支出すると表明したというニュースが流れた。これは共同通信の報道を鵜呑みにした新聞社各社の誤報だったようだ。だがそれを鵜呑みにした人たちが、普段からの安倍首相の言動を思い出したのか「海外にばらまくのはけしからん」と騒ぎ出した。しかし、後になってこれは世界銀行が関与しているファンドであり、すでに国会にも報告があったようだという情報が加えられた。すると「サヨクの早とちりである」という応酬があった。これも普段からおなじみのパターンである。さらに夜になると「実は世界銀行はアメリカの関心をつなぎとめるために、トランプ大統領にすり寄っておりガバナンス上の問題が出ている」という話や、外貨準備金は塩漬け資金と言われているが実は利用しようと思えば利用はできるのだなどという情報が出てきた。

つまり、この事例を追いかけていると「世界銀行の問題点」とか「グローバルインバランス」について勉強することができるのだが、相手を叩くことにしか関心がないために、いつまでも知識が増えて行かない。

つまり、核がなくなった集団では知識が更新されないので、成長が止まってしまうのだと言える。逆に高齢化して成長が止まってしまったからこのようなディスコミュニケーションが起きてしまうのかもしれない。今まで「日本人」を主語にしてきたが、これを近所の頑固なおじいちゃんに置き換えても同じような文章が書けるように思えるからだ。

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永久凍結にお怒りのみなさんへ

Twitterでのいほいさんが永久凍結処分を食らったということで怒っている人がいる。Twitterの本社に手紙を書こうという人もいるのだが、無駄だからやめたほうがいいと思う。

ルールを読むと他人を煽る行為はたとえ正義のためであってもルール違反とみなされる可能性が高い。一方ヘイトであっても、いっけん合理的な説明がなされていればヘイト発言とみなされない可能性が高い。今回の騒動は注目を集めるために過激な言葉を使ったのがルールに触れてしまったことが原因なのではないかと考えられる。一方、いっけん紳士的な態度で外国人やマイノリティを排除してもヘイトとはみなされない可能性が高く、あるいは公平性がきちんと担保されているとは言えないのかもしれない。

最近、Twitter社のアメリカ以外の規約が変わった。テッククランチによると、この規約には2つの重要な変更点がある。1つはTwitter社やその他の会社(端的にいうとテレビ局などだ)が勝手にコンテンツを二次利用できるというものだ。つまり、ニュースでTwitterの投稿を勝手に使ってもよいということである。

よく「無断でRTするな」という話を聞くのだが、ユーザーは投稿した時点で無断RTも許可したことになっている。Tweetは全世界に公開されており誰でも見ることができる状態になっているのでそれを回覧しても別に構わないという理屈である。

一見放送局に都合が良さそうなルールだが、同時に真偽不明の情報が排除できなくなるということになる。だから許諾のためだけに発信者と連絡をとるのではなく、真偽を確かめるために連絡をとるようにすべきだと思うのだが、日本の放送局は人手不足に陥っているので、この変更はフェイクニュースを蔓延させることになるだろう。

次にTwitter社は勝手にアカウントを勝手に停止することができる。例えばTwitter社が悪魔教を信仰していていて「悪魔は救世主ではない」というTweetを取り締まったとしてもユーザーは文句が言えない。仮に日本の体制を支持していて反体制思想を取り締まったとしてもユーザーはそれに従うしかないのである。

一見ひどいことのように思われるかもしれないが、Twitter社はプライベートな(ついでにいえばあまり儲かってもいない)会社であり、自分の提供するサービスをどう使っても構わない。嫌なら使うなというのが社のスタンスなのだろう。

これがひどいと思う人には幾つかの選択肢がある。最近マストドンというサービスが出ており、ここに乗り換えるという選択肢がある。マストドンはこうした検閲的な態度に批判的であり表現の自由が守られている。代替え手段があるので抗議するなら乗り換えたほうが早い。ユーザーが目に見えて減ればTwitter社は考えを変えるだろうが、いわゆるリベラルは数が少ないので自分たちの影響力のなさに直面するだけに終わるかもしれない。

次に、Tweetが削除されても構わないように、重要なTweetがある人はあらかじめダウンロードしておくと良いかもしれない。試したわけではないがCSVにも落とせるようなので、やりようによればWordpressなどに移管できるのではないかと思う。多分、自分の意見などをオンライン上に集積したい人は自分でサーバーを立てたほうが良いと思う。お金がかかると思う人もいるだろうが、最近のサーバーは安くなっているので300円程度でプラットフォームを作ることも可能だ。それも出せないというのであれば友達同士で話し合ってサーバーを借りれば良いのではないかと思う。知識がなくてWordpressなどが導入できないと考える人もいるかもしれないが、導入くらいなら教えてあげても構わない。だがやってみると意外と簡単である。さらに友達同士で宣伝しあえば良いのではないかと思う。こうやって協力体制を作っておくと発言力も増すだろう。

最後にこの文章を「Twitter社は何をやっても構わないのだ」という意味で取られると困る。個人的に凍結された経験があるからだ。当時は自分を否定されたようでかなりショックだった。記憶によれば事前通達はなかったし、事後説明もなかった。多分、プログラムを使って自動でブログの告知を流していたのがよくなかったのではないかと思う。しかし、なぜそうなるのかがわからず色々と悩んだ。Facebookからの自動投稿は問題なく受け付けられるので、あまり公平なやり方とは言えない。

Twitter社は昔から公平とは言えないが、こちらも呼び込みのツールとして利用しているだけなので、時々別のTweetを混ぜるようにしている。ブログにレスポンスをくれる人はほとんどいないので、動向を探るためには良いツールだ。だが、呼び込みにはそれほどの効果がない。時々爆発的にフックするがTwitterユーザーは飽きるのも早いのであまりいつかない傾向にあるように思える。

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モノが売れなくなった理由を街から想像してみる

いつも新聞やTwitterをみながらいろいろ考えているのだが、どうしてもバーチャルになりがちである。たまには実体験を書いてみたい。こういうのはあまり読まれない傾向にあるのだが、いろいろな角度から考えてみたい人には面白い内容なのではないかと思う。

個人的に経験したことは、製品の成長についてである。高度経済成長期に育ったので、電化製品というのは直線的によくなってゆくというような印象がある。例えばテレビだったら白黒がカラーになり薄くなって音がよくなり、モノラルだった音もステレオからサラウンドに変わってゆくという世界である。それに従って変わってゆくのは「経験」だ。社会全体が同じ経験をしているからこそ「次は何が出るんだろう」というワクワク感がある。これが経済成長である。

だが、現代にこうした成長を実感するのは難しい。単に給料が下がっているからという理由ではなさそうである。そしてこれがいいことなのか悪いことなのかはわからない。今回勉強したのは音響設備についてである。

どういうわけだかわからないが部屋のオーディオ設備を改善したくなった。使っていなかった5.1chサラウンドシステムを引っ張り出したのだが、スピーカーに不具合があり上手く行かない。いろいろ調べてみるとスピーカーの結線が悪いようである。SONYは特殊なプラグを使っているのだがこれに欠陥があるようだ。代替え製品はあるものの少し高価なので、結局プラグをこじ開けて金属部分を手で曲げたりしてなんとか音が出るようになった。

一旦使えるようになると使ってみたくなる。最初はテレビをつないでいた。CMのピアノやドラムの音がクリアに聞こえる。CMはお金がかかっているので実は音がいいんだななどと思った。あとは音楽番組が楽しくなった。しかし、そういえば音楽番組をあまりみなくなってしまった。ニュースバラエティではいい音が出てもあまり面白くない。

するといろいろな音源で試してみたくなった。最初に思いついたのはDVDとパソコンだった。DVDは手持ちの光ケーブルで使えた。他愛もないアクションムービーだったが、サラウンドはなかなかだった。しかし、Macを光ケーブルで接続するためには丸型のプラグが必要だ。ピンプラグが光デジタルに対応しているのだ。昔はどこの量販店でも取り扱っていたらしいのだが、最近は手に入れにくくなっていた。結局、ハードオフで見つけた。

次にパソコンを試してみたくなった。2004年頃のAirmac Expressという製品があり「光デジタルに接続できますよ」と書いてある。だが、やってみても5.1chで音を送ることができない。パソコンに直挿しすると5.1ch対応になるのでAirmac Expressの「何かがおかしい」ということになった。

アップルのディスカッションボードで聞いてわかったのは「仕様書やマニュアルには接続できると書いてあるが、どうやらできないらしい」ということだった。チップが5.1chに対応していないらしい。そこでAppleに連絡してみたが「自動で判別されるのでできるはずです」の一点張りだ。そこで、本当にそうならデジタルで設定できる方法を教えて欲しいと粘った。

最終的には「対応するとは書いてあるが、出力するとは書いていない」との結論が返ってきた。ずっと、お客にはできるはずなのでお客さんの音響設備が故障しているのでしょうと回答してきたそうである。

少し詐欺に近いなどと思ったのだが、なぜAppleは光デジタルの本領が発揮できない製品を「接続できる」と書いたのだろうか。日本で地上デジタル放送が始まったのが2003年なので、2004年といえばちょうど機器の出始めである。最新鋭の機器が5.1chに対応していたので「接続だけはできる」というつもりで書いたのだろう。が、実際には接続はできるが5.1chで出力はできないという状態だったようだ。2007年頃のAPpleTVのディスカッションボードをみても「今は対応していない」と書いてある。

では、今の製品はどうなのだろうかという疑問が出てきた。

そこで現在のAirmac Expressの仕様をみると、そもそも5.1chについて書いていない。サポートの人も「できるとは思うが実際には試したことがない」という。Appleは光ディスクを排除してしまったので、現在MacでDVDをみるという酔狂なことをする人は誰もいない。そこで「多分できるがよくわからない」という状態になってしまったのだろう。DVDやブルーレイがないとあとは音楽だけになるので2chで足りてしまうからだ。

そこで家電量販店に行ってみた。するとかなり悲惨なことになっていた。家電はもう売れないらしく、ケーズデンキは黒モノ家電の売り場を縮小してしまったのだという。そもそもオーディオ機器など買って行く人はいないそうで、お客がいないから店員もリストラされてしまったらしいのだ。この店にはオーディオの専門家はいませんと言われた。

担当者も「ホームシアターシステムなんか買っていく人はいないので、テレビをお勧めしています」と言っていた。YAMAHAやSONYなどのサウンドバーが売られていたが、この後は入ってこないかもしれないとのことである。確かに数万円のホームシアター機器を売るよりは数十万円するテレビを売った方が効率がよいし、お客がAmazonに流れているので、効率の良い商売をしないと潰れてしまうという危機感があるのかもしれない。露骨にスピーカーが横についているテレビを勧めてきた。

製品に対する知識もないのに露骨に高いものを勧めてくる。部屋用なので20インチくらいでいいのだがというと「そんなものは置いていない」という。テレビの他に何が売りたいのかと聞くと「エアコンを重点的にやれと言われています」ということである。

だったらAmazonで自分で調べた方が早いですよねというと、その通りですねと否定しなかった。もはや諦めの境地なのだろう。こうしてパソコンができる人はオンラインに流れて行き、あとはパソコンができない層の高齢者だけが残るということになる。

ホームシアターシステムだが、2.1chが主流になっていて、そこから擬似的に5.1chを再生するようなものが作られているらしい。考えてみるとリアルに5.1chであっても擬似であってもそれほど広がりに差がないので、これはそもそも5.1chがオーバースペックだったのかもしれないとはおおう。あとはパッケージソフトではなくオンライン配信が主流になってきており5.1chで外部機器をつなぐということも少なくなってきているのだろう。さらに、忙しい人が増えているので、そもそも家で映画を楽しみたいなどと考える人がいなくなっている可能性もある。

つまり、現代では電化製品やサービスはリニアでよくなってゆくということはなく、小型化省力化の方向に縮小して行っているのだ。そしてそれに合わせるかのようにお店もなくなっており、サービスレベルも低下してゆくという悪循環が生まれている。

一度どこかでいい音を経験すると「これはいいな」と考えることができるはずだ。地デジが出てくる頃までには「これからはテレビの音も格段によくなるのでホームシアターシステムを買いましょう」という宣伝文句にもある程度の説得力はあった。

だが、Amazon で知っているものしか検索しないとホームシアターシステムを買おうなどとは思わなかっただろう。知っている中でしか商品選択しないからである。だが、現実的にはお店のショールーム機能が失われている。だからメーカーのサポートも5.1chがわからなくなっているし、お店からもそうした商品が消えてゆく。商品が展示されなくなるだけでなく、同時に店員も消えてしまう。すると市場から知識が消えて行くという具合にどんどんと悪いスパイラルが働くのである。

よくものが売れなくなるのは企業が給与をケチるからなのだと言われるし、このブログでも度々そのようなことを書いている。だが、実際に足元で起きていることはそれよりも少し複雑らしい。オンラインショッピングが盛んになるのはいいことだが、ユーザーは新しい経験ができなくなっている。新しい経験に触れなくなると古い知識の中から品物を選ぶことになるので、結果的に品物がうれなくなってしまうのである。多分、今充実したオーディオ装置を買おうと思うと一番よいのはハードオフのような中古ショップにゆくことだ。

これが悪いことなのかなと考えてみたのだが、そこはよくわからなかった。じっくりソファーに座って臨場感のある音を聞いたりする人はいなくなった。しかし、忙しくなるのに合わせて便利に情報を取れるようになっていて、合間合間にスマホで映画を見たりすることも可能だ。

同じことは洋服でも起きている。昔のように着飾って街に出てゆくということはなくなり、代わりにインスタグラムなどを通じて経験をシェアするという方向に変わっている。そこで高級ブランドは必要なくなり、ファストファッションで小綺麗にする人が増える。多分ファッション好きな人は古着屋に行った方が選択肢は多いだろうが、これが必ずしも嘆かわしいことかどうかはよくわからない。

いずれにせよ日本人のモノに対する考え方はこの10年で大きく変わっているようだ。

日本語はどれくらいコンテクスト依存なのか

最近面白い経験をした。Quoraで「私はお預け」というのはどういう意味かと聞かれたのだ。わからないので適当に「男が女に寝てくれと頼んだがお預けと言われた」というシーンを想定しておもしろおかしく書いたところ、17000回も閲覧されてしまった。

Quora初心者としては思わぬ反響だったので「しまった」と思い、真面目に答えようとgoogleで検索した。すると2つの例が見つかった。1つはポルノ小説でお高く止まった女性に「お預けをくらった」男というものだった。これは最初の想定に似ている。

さらにもう一つはインスタグラムのタグだった。アップルパイの写真で「クリームが入っているから私はお預け」というものだった。アップルパイにクリームが使われているとは思えないのだが、どうやら「私は食べられない」ということが言いたいのではないかと思う。

すると、質問をした人からコメントが戻ってきた。よくわからないのだが「ナルト」という漫画のシーンだった。久しぶりに夫が帰ってきて一夜を過ごす。次の日に妻はお弁当を渡す。すると夫は娘にデコピンをする。妻は「私はお預け?」というのだ。これは絶対にわかりっこないし、漫画のシーンだけを見せられても彼女の心情はわからない。

日本語は難しい。アップルパイの例では「主語は何だろうか」がよくわからない。英語だと「私はアップルパイが食べられない」というか「アップルパイがお預けだ」になる。が少なくとも、私に主郭を表す格助詞をつけて「私は」とするのは英語としては正しくない。

これが成り立つのは日本の主格が主語とは違った概念だからなのだろうが、コンテクスト(ここでは写真)がないとよくわからなくなる。

例えば国会審議や政治討論番組を聞いていると「私は正しくない」という言葉をよく聞く。これは私が間違っているという意味ではなく、そのあとに続くのはなんらかの否定文である。実際には「私はあなたが言っていることは間違っていると思う」ということを言っているのだ。これもその場のコンテクストを通して見ないとわからなくなってしまう。

ナルトの例題はさらに難解だが、Quoraではナルト関連の質問を時々見かけるので漫画で日本語を学んでいる人は少なくないらしい。漫画の日本語は日本人でも難しい。余韻を作るために伏線を作ったり、インダイレクトなコミュニケーションを多用するからだ。

漫画を最初から読まないとこの夫がどういう立場にいるのかはよくわからないし、思わせぶりなシーンの意味すらわからない。デコピンがお預けになっているのは、多分「娘にはデコピンをしてくれるのに、私にはしてくれない」という子供じみた態度から、妻がどれだけ夫を愛しているのかということを示しつつ、夫が帰ってきて妻にデコピンをしてくれるだろうという期待感を示しているのかもしれないのだが思える。が、正確なことはわからない。いずれにせよかなりの量のコンテクストに依存していることがわかる。

英語でこうしたことが起こりにくいのは文章の構造が比較的はっきりしているからだと思う。が、これが日本語が劣っているからだと結論付けるのは正しくないかもしれない。頭に浮かんだことに格助詞などのマーカーをつけてとにかくつないでゆけばあとは文脈から補完が効くという仕組みになっていて、話者と聞き手の間に一定の共通認識があれば、英語よりは自由度が高そうだ。

Twitterは140文字で文章を作ることができる。漢字を使っているので極めて集積度が高い上に非論理的な文章が作れてしまう。しかも相手とは文脈を共有しない。これでは喧嘩が絶えないわけだと思った。

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資本主義という宗教を失うと社会はどうなるのか

そもそもこの文章は「安ければよい – 日本の政治がよくならないもう一つの理由」というタイトルにしようと思っていた。アメリカでは大統領が間違ったことをいうと消費運動が過激化するので、大統領といえども好き勝手な行動ができない、ひきかえ日本は……というようなラインである。だが、どうもそうした見方は正しくないようだ。

日米で社会が分断していることは間違いがなさそうだが、それを政治が助長している。だが、政治は社会を統合するための装置だったはずである。いったい何が起こっているのだろうか。

アメリカで経済助言機関が解散した。日経新聞は次のように伝える。

米経済界の乱―。16日の米主要企業トップによるトランプ米大統領の助言機関からの離反の嵐は、白人至上主義者を巡る言動を改めないトランプに対する明確な「ノー」の意思表示だ。米企業にとってこれ以上、トランプ政権の助言機関にとどまることは、社内外からの批判を呼ぶ経営リスクだった。米経済界とトランプ氏に生まれた溝は簡単に埋まりそうにない。

経営者としては大統領に助言できた方が有利のように思えるが、それでもトランプ大統領に近いとみなされることは経営リスクになりつつある。ここだけを切り取ると、寿司を一緒に食べただけで浮かれているジャーナリストたちや、特区制度を利用して利益誘導を図る経営者たちに聞かせてやりたいと思う。

トランプ大統領とのつながりが経営リスクとみなされるのは、それが不買運動につながりかねないかららしい。有色人種だけではなく白人至上主義者だと思われたくない白人が不買運動を起こす可能性が高いのだ。

だが、調べてみると、アメリカの不買運動はかなり過激なレベルに達しているようだ。そしてこうした運動に火をつけてしまったのは皮肉なことにトランプ支持者の側らしいのだ。例をいくつかあげよう。

ここまでの状況を調べると政治的な動きが消費運動に直結するのは少し行き過ぎのように思えるし、日本の消費者は節度があるなと思ったりもする。だが、それも間違っているらしい。

最近、Twitterで牛乳石鹸のウェブCMが炎上したという話が流れてくるようになった。上司に怒られた後輩を慰めるために飲みに連れて行くが、ちょうど子供の誕生日だったために奥さんに嫌味を言われるという話である。自分の父親世代より男性の地位が落ちていることを嘆く内容になっている。これが気に障ったという人が多いようだ。

実際にコマーシャルを見てみたが、確かに意味不明ではあるが、炎上するような内容には思えなかった。

この裏には、父権意識に対する過剰な敵意があるのだろう。自分の時間を仕事の延長である酒席に割り当てなければならないというのも炎上の原因の一つなのかもしれない。特に若い人が見ることが多いWeb CMだったことも騒ぎが大きくなった原因かもしれない。

日米の態度には大きな隔たりがあるように思えるのだが、共通点もある。かつて特権を持っていると考えられていた人たちが「被差別者」として屠(ほふ)られるということである。アメリカでは白人であるだけで「人種差別主義者である」と考えられる危険があるため、ことさら多様性の擁護者を気どらなければならないし、日本では男性であるだけで女性差別の潜在的容疑者とみなされるために、ことさら男女同権に気を配らなければならない。

日本人は表立ってこうした父権に抗議することはない。会社でそれをやると職を失うリスクがある。そこで匿名集団で抗議するのだろう。一方でアメリカは自分の意見を言わない人間は人間扱いされないために意見表明が集団の中で過激化してゆく。日本は集団行動が過激化しやすく、アメリカは個人間の行動が過激化する。

日本ではこうした父権の肩身の狭さが日本会議などの過激な復古思想になり現政権を支えている。家族の意義をことさらに強調し男性が威張ることができていた昔を再創造するのが彼らのゴールなのだろう。これが「戦争に向かっている」という被害感情を生み、政治が分断されている。アメリカでは白人至上主義者がトランプ大統領を支えている。

そもそも社会はこうした分断の可能性をはらんでいるのだろう。だが、そうした不満を別の(できればより生産的な)方向に向かわせるのが政治の役割であったはずだ。そうした役割が失われて、むしろ分断を加速する方向に進んでいるのが、日米の共通点なのではないだろうか。

これは、市場主義型の民主主義社会がかつての約束を守れなくなっていることを意味しているのかもしれない。それは、みんなで頑張れば暮らしが良くなり楽しい思いができるという約束だ。

確かに我々が実感するように資本主義が我々の生活を改善するというのは幻想である可能性が高い。が、みんながそれを信じている限りにおいては幻想にはならない。だから、政治はあたかも資本主義という神様がいるかのように儀式を積み重ねる必要がある。つまり、資本主義はそもそも宗教に過ぎないかもしれないのだ。

つまり、アメリカや日本では宗教としての資本主義が死にかかっているのかもしれないということになる。

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ファッションステートメントと政治的ステートメント

前回以来、日本ではどのように政界再編が起こるのかということを考えている。日本人は自分こそが世界の中心であり、他人はすべてバカで偏っていると考えているので、政界再編は起こりえないだろうというような結論に達しつつある。だが、現政権が信任を失い、その政権から外に出た人たちがそれをテイクオーバーするというような政権交代は起こるかもしれない。

政党ができるためには、そもそも個人が考えを持っていなければならない。考えを持つためには自分の考えを相手に伝えて他人と比べる必要がある。もし自分の考えをうまく相手に伝えることができなければ、政党を作ることはできないし、そもそも政治参加することすらできない。

そこで今回は個人が自己の意識をどのように打ち出すかということを考えたい。最近WEARでの投稿を続けている。最初は自分というものがあり、それにふさわしい洋服があるのだろうと考えていたのだが、実はそうではないようだ。スタイルがあってそれに合わせて自分を変えることができるのである。ただしそこにはリテラシーのようなものはあって、ある程度の文法がわからないと意味をなさない。その意味では、ファッションは外国語を勉強するのに似ている。

WEARを見るとこうしたことができている人が少なくない。つまり企画意図通りに表現ができている。たいていの人は「いろいろな表現ができる」というところを通り越して、一貫した私というものを打ち出している。いわゆるセルフブランディングだ。

だが、そうでない人たちもいる。WEARには目線を隠すことができる機能がある。ある人たちは顔がぐしゃぐしゃに崩れている。つまり、服は打ち出したいが、個人は絶対に「晒したくない」という人が多いのである。自分を社会に晒すことをリスクだと感じているのだろう。過去に自分を打ち出して罰せられた経験があるのか、それ以外の理由があるのかはわからない。

こうした人は男性にも女性にもいるのだが、特に女性がひどい。なかには、自己表現が却っておざなりになってしまう人たちがいる。完全に逆効果だが「自分を隠したい」という意識のほうが勝るのだろう。背景にも気を配らず台無しになっているものが多い。

そこで「女性は遺伝子的に自己を客観視するのに向いていない」という仮説を立てることができるのだが、これは間違っている。Lookbook.nuというサイトがある。もともとWEARはこれを参考にしていると思うのだが、こちらには女性の写真がたくさん掲載されている。女性の方がファッション写真の作りがいがある。男性は服も体つきも直線的で退屈だが、女性には曲線部分が多く洋服にも装飾要素が多く、写真の作りがいがある。

このことから、日本人が個人を打ち出すことには多くの困難があることがわかる。女性の方がひどいと思えるのは、WEARの男女比率が2:3だからだろう。つまり女性の方が裾野が広いので「個人の打ち出しをするスキルがない」人が目立ちやすいのではないだろうか。男性でファッションに興味がある人というには、職業的にファッションを扱いっている人がメインだ。そこで職業的な鎧があり「私を打ち出す」というよりは職業的なキャラを作っているのである。

そこにあるのは、自分は打ち出したくないが、憧れている人たちと同じコミュニティに居たいという同化意識ではないだろうか。

同じことがTwitterでも見られる。男性の方が政治的な発言をしたがるが、個人の意思は打ち出したくないし、打ち出すスキルがないという人が大勢いる。匿名にすることでそのバーは下がるが、それでも自分のオリジナルの意見というものを形成することをリスクだと考える人も多いかもしれない。

こうした状況は日本人が英語を話せないのに似ている。日本人が英語を話せない理由は間違っている自分が恥ずかしいからであると考えられる。さらに付け加えれば英語を話せるとかっこいいという憧れがある。が、よく考えてみると、英語で何か伝えたいことがあるというわけではない。

実際にやってみるとわかるが、誰も人の書いたものを読もうなどとは思っていないわけで、ネットの活動というのはほぼ独り言に近い。つまり、演出を加えたからといって気にかける人はほとんどいない。だから、好きに演出すればよいわけである。多分、自己を打ち出すことの難しさは「全部否定されたらどうしようか」ということだと思うのだが、表現を否定されるということは人格を否定され流こととは違っている。だが、それもやってみないとわからないことだ。

他者に対して自分を打ち出すことは「セルフブランディング」というスキルになっている。決して自分そのものを打ち出すことではなく、他人に受け入れられる自分を想像するということだ。「経営者にこそ知ってほしい、SNSを活用したブランディング手法」というエントリーを読むとわかるように「打ち出せる人」と「打ち出せない人」が分化してゆくという社会に住んでいる。

個人がまとまることができないとか、他人の動向を気にするというのはアメリカ型の社会でも起こり得るものと思われる。リースマンの孤独な群集などが有名である。オルトライトと呼ばれる人たちもいるが、たいていは知的能力があまり高くない人たちなのではないかと考えられる。だが日本人の場合はここに「他人の目を過剰に気にする」という意識が加わるためにある程度知的能力が高い人でも時々とんでもないことを言ったりするのだろう。

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