はあちゅうさんがしでかしたこと

はあちゅうという女性が、彼女の性的搾取の経験を実名で告発した。これをきっかけに日本でも#metooムーブメントが起きているのだとマスコミは伝えている。これだけを見ると、はあちゅうさんはいいことをしたように思える。日本で同じような被害にあっている人はたくさんおり、彼女たちに勇気を与えたからだ。しかしながら、このあとがよくなかった。はあちゅうさんは攻撃を受けており、後に続くはずだった女性たちは告発をためらうかもしれない。

この問題の背景には日本の人権教育の貧しさと社会の不安があると思う。このためはあちゅうさんのやったことは差別をなくす方向ではなく差別の激化につながりかねない。つまり、はあちゅうさんは性差別のない社会を作るどころか、日本をますます息苦しく不安定な社会にするかもしれない。

いわゆるリベラルな人たちの中には、はちゅうさんの童貞いじりと性的な搾取の告発を「分けて考えるべきだ」という人たちがいる。しかし、これは到底容認できない。

はあちゅうさんが<勇気ある告発>をしたあと、実は彼女自身も童貞を馬鹿にする発言をしていたということがわかった。これに関して、彼女とその支援者たちは「被害を受けた女性は立派な被害者として振舞わなければならないのか」とういう開き直りに近い弁明をしている。童貞いじりは、男性は性行為を経験しないと一人前になれないという価値観に乗っているという批判があり、童貞いじりの有害性に関してはこれ以上付け加えることはない。しかし、この文章は「問題を切り離して考えるべきだし、はあちゅうさんの謝罪は評価できる」と言っており、この部分はあまり評価できない。

こうした問題を考える上で大切なのは、問題を少しずらして考えてみることだろう。例えば人種差別を経験した黒人が黒人社会のようなものを作り組織的に白人を差別していたとしたらどう見えるかを想像してみると良い。きっとそれは人種間の対立を激化する方向に向いてゆくことになる。白人と黒人は、差別する側とされる側を示している。

差別されていた黒人が差別する側に回るというのは実はそれほど珍しいことではない。ご存知の方も多いかもしれないが、アパルトヘイト後の南アフリカにはそのような動きがあった。実は黒人の間にもさまざまな部族間対立があり、白人が支配権を失ったあとに黒人の間で権力争いが起こりかねなかった。このような複雑な事情があったために、ネルソン・マンデラは全勢力が融和するように常に心を砕いた。

ここで、ネルソン・マンデラは「立派な人」とされているが、実は当たり前のことを実現しようとしているだけだった。しかし、それは当たり前ではあっても27年もの間投獄されていた彼にとっては極めて難しいことだったであろう。マンデラは人生の失った時間を取り戻すために白人に復讐したいと考えても当然だった。だが、そうはしなかった。だからこそ彼はアパルトヘイト後の指導者になりえたのである。

はあちゅうさんたちは「ネルソン・マンデラみたいになれなくてもよい」と思うかもしれない。しかし、アラブ人との間に差別があった南スーダン人の事例を見ているとそれが必ずしも正しくないことがわかる。共通の的であるアラブ人がいなくなると、今度は南スーダン人同士で殺し合いを始めた。つまり、差別構造を残してしまうと、今度は別の争いが起こる。だから差別構造そのものから抜け出す努力をしなければならないのである。

はあちゅうさんがいた広告業界は「もてる女性ともてない女性」とか「クリエイティブな女性とつまらない仕事しかできない女性」などを分けている。生存をかけた生き残りに性的な経験やルックスなどを絡めているのである。だからはあちゅうさんが女性のルッキズムを男性に転用して話題作りをしたのは広告屋さんとしては極めて自然なことなのだ。

同じようなことはいたるところで行われている。例えば小池百合子東京都知事を見ていると、表向きは差別されているかわいそうな女性という演技をするが、その一方で男性たちを「排除いたします」と言っていた。全く違和感がなかったところを見るとそれが政治のあるべき姿だと思い込んでいるのだと思う。もし女性として「排除されることの苦しみ」を本当に知っていたならあんなことは言わなかったはずである。

はあちゅうさんは童貞をいじって話題づくりをしていた。そしてそれが社会的に非難されると「童貞は素敵な響きを持った言葉なので悪気なく使っていたのだが、結果的に傷つけたなら申し訳ない」と申し開きをした。これは男性が「私は好意を示すためにやったが、結果的にセクハラになっている」と捉えられているとしたら申し訳ないというのと同じであり、男性社会の醜悪な伝統を見事なまでに引き継いでいる。つまり、彼女も闘争の中に組み込まれているのだ。

彼女たちに共通するのはマウンティング意識である。つまり、差別でもなんでも利用してのし上がってやろうという気持ちで、差別されているという出自さえも利用しようと考えてしまうのである。これはいっけん正しく聞こえるかもしれないが、差別の構造を変えただけであり、差別の容認である。差別が悪だとすればサーロー流にいうと「絶対悪」であり実は彼女たちは「加害者」なのだ。

女性を容姿で差別しないというのと男性を性的経験で差別しないというのは同じことである。そしてそれは立派な行いではなく、当たり前のことなのだ。だが、その当たり前さを実現するのはとても難しい。

実際に日本では「性的搾取を多めに見る」ということが司法の場でもおおっぴらに行われている。TBSという権威を振りかざして女性に乱暴しようとした自称ジャーナリストが無罪放免になったり、慶応大学の広告サークルも結局不起訴だった。このように、法的に「この程度ならいいのではないか」とお咎めなしになってしまうケースが後を絶たない。これをなくすためには組織的で政治的な運動が必要だ。こうした運動を単なるトレンドとして話題づくりに利用しようとしたならそれはとても罪深いことである。

その背景にある差別の構造から抜け出さなければ同じことが繰り返されるだけだという認識を持つ必要がある。そのためには人種差別やその他の属性差別についてきちんと学校で教える必要があるのではないかと思う。

ハフィントンポストの記事で正直な高校生がいじめについて書いている。高校生の頃からルッキズムを含む序列付けは始まっていて、しかも笑いを絡めてごく自然に行われるそうである。

たった30人程度のクラスで、気付かぬほどの速さで「1軍」「2軍」「3軍」と身分が決まっていき、序列の中で卒業まで生きなければならない。序列は容姿、キャラ、得意の運動、頭の良さ、家庭のお金持ち具合など様々な要素で決まる。

クラスでこのようなカースト化が進行するのは、それが極めて不安定な閉鎖空間だからだ。そしてその不安定さや閉鎖性は大人になっても続く。こうした中で人々はカースト付けをごく自然なこととして認識してしまうのだろう。

たまたまアメリカで#metooムーブメントが起こり、海外から聞こえてくる性差別排除運動とごく自然に(多分加害者として)行っているカースト付けを別の枠で捉えたくなる気持ちはわかるのだが、実はこれは同じものだ。

はあちゅうさんの一番大きな間違いは、自分が置かれているカースト文化を温存したまま、ブームに乗って認知をあげようとしたところなのだろう。カースト文化を温存しているからこそ「道程いじりはちょっとしたユーモア」で「自分が岸さんにされたことは重大な暴力だ」などと言えたのであろう。これは小池百合子東京都知事が自分は笑って排除をほのめかしつつ、ガラスの天井があって男性たちに邪魔されているとパリで訴えたのととても似ている。

彼女たちは賢く世渡りしているつもりなのだろうが、それが却ってあとに続く人たちの機会を狭めていることに気がついた方が良い。

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今や存在そのものが麻薬になりつつあるNHK

テレビを設置すると自動的にNHKと契約したと見なされて受信料を支払う必要がある。一部には「裁判をするまでは払わなくて良い」という人がいるのだが、裁判をすると負けてしまうのだから、実質契約の義務を負っていると言っても良いだろう。この裁判の結果を見て「NHKを見たくない人もいるのに不公正だ」と感じた人も多いのではないかと思う。

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手っ取り早くインスタ映えできる方法を比較的真面目に研究する

Twitterにケーキの写真をアップしたところ「こんな写真私には撮れない」と言われた。褒めているというのだが、多分褒められていないと思う。そこで、最低限の工夫でなんとなくインスタ映えしてみえる方法について研究してみた。今回はケーキではなく寄せ植えを使った。

寄せ植えは、上に伸びるものを背景に置き、主役の花を入れ、最後に垂らしてまとめるというお決まりがある。だからこれでバッチリのはずなのだが。普通に撮影しても何かが足りない。なんとなく「置いてあるだけ」に見える。

この写真の唯一良いところは光の当たり方だと思う。自然のものなので陰影ができた方がきれいに見える。食べ物を自然光で撮影するのは難しいと思うので、できればライトなどを気にすると良いのだろう。

そこで背景を足してステージを準備してやる。ステージを作ると、何が主役かはわかるわけだが、それでも何かが足りない。露骨に「並べてみました」感が出るのは美しくない。

まずアングルを変える。もう少し研究したい人は「黄金比」などを考慮すると良いと思うのだが、今回はそこまではやらない。が、多分主役を画面の中央に置くのはやめた方がよさそうだ。ここまで作るとなんとなく見られる形になった。

今回、12ヶ月の寄せ植えレシピという本を参考にしたのだが、プロが撮影する説明用の写真とブログ用に撮影する写真とではやり方が違うようだ。プロの撮影は正面や横から全体がわかるように撮影するのだが、ブログ用は「どこで」ということがわかるように撮影する。つまり背景はとても大切なようである。良く見ると背景にある小物にまで気を配っているのがわかる。

しかし、これでも何かが足りないような気がする。せっかく主役を作り背景も準備したのだから全部をフレームに収めたくなるのだが、多分それがいけないのだと思う。思い切って見せたいものを見せると良くなった。

今回は一眼レフカメラを使っているので背景をぼかして主役を目立たせることができる。しかし、そのためには奥行きが必要である。

説明写真は全体が綺麗に見えなければならない。たとえば、寄せ植えは枝垂れるものと立つものを配置するのですよなどと言いたいときには全体が見えないと何がなんだかわからなくなる。しかし、ぱっと見の印象を優先するならクローズアップの方が良い。

こうなるとインスタ映えを目指すためには、一眼レフを使って写真撮影した上でスマホに戻してやるのがよいということになる。しかし、それはかなり面倒な作業なので全てパソコンで処理したい。そこで検索したところ、ユーザーエージェントを変えてやるとパソコンのブラウザー経由でもアップロードできるのだそうである。Macを使っているのでSafariからアップした。開発メニューを表示するとユーザーエージェントが切り替えられる。するとスマホのふりをしてアップロードができるのである。

まとめると次のようになる。

  1. 日当たりやライティングを意識する。
  2. 正面だけではなく、面白いアングルを探す。
  3. 主役を明確にして、テイストを合わせた背景と台を用意する。
  4. 主役を明確にするためにクローズアップを試してみる。

ということで、料理の絵を作るときには紙ナプキンだったり背景の他の料理とか「見せるつもりがないもの」に時間をかけた方がよいのだろう。

ということでおさらいに、もう一つ作ってみる。

もちろん、これでインスタ映えを極めたなどというつもりはないのだが、手間をかけずにとりあえず「見られる程度」の写真を撮影するためには利用できるのではないかと思う。

NHKの受信料を払いたくない人が大勢いるらしい

NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。

普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。

月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。

ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。

にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。

日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。

NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。

一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。

NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。

今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。

むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。

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日馬富士暴行問題から日本人が学べること

テレビを見ていたらまだ日馬富士暴行事件を扱っていた。当初からちょっと変わってきたのは在日モンゴル人に取材が入るようになったことである。これを見ていて、日本人として学べるところがあるなと思った。

どうやらモンゴル人特有の事情があり、日馬富士は貴ノ岩に謝れなかったようだ。年上の人が年下の人に誤ってしまうと、年下の人の運気を下げてしまうという。東洋的な面子の問題かもしれないし、別の行動原理があるのかもしれない。その代わりに非言語的な謝罪表現があり、それもモンゴル人から見ているとわかるということであった。

この「非言語的表現」は他の文化からみると違う意味に取られるか無視されることが多い。多分日本人は「日馬富士は言葉に出して謝るべきだ」というのだろうが、これは彼らの非言語的なシグナルが読めないからである。

そして、同じことは日本人にも起こる。日本人は誰かに指名されるまで会議の席ではおとなしくしているのが礼儀だと考える。これは教室で先生のいうことを聞くのが良い生徒だと見なされるという事情があると思うのだが、アメリカでは「会議に非協力的」か「無能である」と取られることが多い。日本人が会議に非協力的ではないことは、盛んに司会者にうなずいたりすることを見ればわかるのだが、このような非言語的なサインはアメリカ人には見逃される。

さらにアメリカ人が「日本人は会議の時おとなしいから積極的に話すように」などと指示をして、日本人がニコニコとうなずいたのに、結局会議では話さなかったということがあると、中には怒り出すアメリカ人もいる。わかっていなかったのかというわけだ。だが日本人は相手を遮ってまで自分の主張を話すことが「会議への貢献であり、自信の表れである」などとは思わない。

ところがアメリカ人が怒り出しても、普通の日本人は申しひらきができない。第一に自分たちが特殊であるということを知らないし、知っていたとしても「自分たちが会議に消極的に参加する文化を持っている」ということを言語的に説明できないからである。日本人を会議に参加させるためには会議の時に指名するか、発言者を遮って発言する練習をさせるべきなのだ。

さらに、白鵬らモンゴル人力士は極めて特殊な立場にある。彼らは確かに「モンゴル人性」を持っているのだが、その上に日本の文化を受容するような社会的・組織的圧力がかかっている。この日本性には表向きの「品格を持ちなさい」という言語的・意識的ものと「先輩から後輩への可愛がりという名前の暴力があたりまえにある」という非言語的・無意識的な側面がある。

実はモンゴル人力士が置かれた状況は、極めて現代の日本人に似ている。日本人にも意思決定やコミュニケーションにおいて「日本人性」があるはずなのだが、戦後アメリカ式の自己主張型民主主義を受け入れたためにかなりミックスされた状態になっている。どちらかを意識して身につけたのであればまだ整理ができるのだが、実際にはごちゃごちゃになっていて「何が日本人的で何がそうでないのか」がよくわからない。

ここから類推すると白鵬らモンゴル人力士も「何がモンゴル的であるか」ということが明確にはわからなくなっている可能性が高い。だから文化的な軋轢があってもそれを理論的に説明できないので、誤解されることになってしまうわけだ。

日本人とモンゴル人はコンテクストを共有していないので、日本人がこれを知ることは不可能であり、従って日本人の文化コードによって一方的に「裁かれる」ことになる。だから正当な判断のためには文化コードをモンゴル人に説明してもらう必要がある。しかし、当のモンゴル人がこれを整理できないということは、誤解が解けることがないということを意味している。

モンゴル人が日本人に申しひらきができないということは彼らの問題なのだから、彼ら自身が解決すべき問題だとは思う。だが、同じことが日本人にも起こりうる。日本人が考えている民主主義は西洋人が考えるところの民主主義でない可能性が高い。だが、日本人はそもそも元になった日本性をうまく説明できないのだから、その上に乗っている西洋性もうまく説明できないはずだ。さらに、この二つはケーキのスポンジとクリームのように層になっているわけではなく、混ざり合っているはずである。

つまり、外国文化に対して自分たちの立場を説明し弁護できないということは、日本人にも起こり得る。白鵬から学ぶのはこの点で、つまり日本人もその日本性が何なのか言語的に説明できるようにしておいた方が良いということになる。

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白鵬バッシングに邁進する愚かな日本人について考える

白鵬バッシングが強まっている。万歳がいけないと言われ、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻したいといったことがいけないと言われた。Twitterをみると貴乃花親方の下では巡業に出たくないと言ったということが咎められ「嫌ならモンゴルに帰ればいい」などとバッシングされている。

どうしてこのような問題が起き、どうしたら解決できるのかということを考えてみたい。しかし、相撲界だけで考えるのは難しいので、全く別の事例を考えてみる。それが日系企業の中国進出である。全く別の状況を当てることでその異常さがよくわかる。

日本市場が先細りした企業が中国への進出を考える。そこで日本語が堪能な現地人の留学生を採用する。彼らは日本の特殊な企業文化を学び必死に同化しようとする。偉くなれば自分たちの地位が向上すると考えるからだ。彼らは期待通りに成長し、現地市場を開拓する。その成果が上がり、中国市場はこの企業の稼ぎ頭になった。

モンゴル人が最初に直面するのは「可愛がり」という常軌を逸した暴力である。日本のジャーナリズムは相撲界と経済的・心情的な癒着関係にあり何も伝えないがBBCは白鵬が経験したかわいがりの感想を掲載している。

白鵬は、私の顔は今幸せそうな顔をしているように見えるかもしれないが、(かわいがりを受けいていた)当時は毎日泣いていた、と語った。力士は、最初の20分はただただすごく痛いが、殴られても痛みが感じにくくなってくるので、それまでよりは楽になる、と話した。

白鵬は当然泣いたと言うが、兄弟子に「お前のためだ』と言われてまた泣けた、と振り返った。

中国人が日本の婉曲な企業文化を学ぶように、モンゴル人もこのように混乱したメッセージを受け取る。表向きは「日本人のように尊敬されるような人になりなさい」と言われるのだが、裏では容赦ない暴力があり、これを抜け出してまともな生活ができるようになるためには番付で上に上がるしかない。この文章には、番付が下の力士は配偶者と一緒に住むことすら許されないという「成果主義的な」状況についても言及がある。

さて、中国人の話に戻る。彼らは本社での待遇向上を期待するが、いつまでたっても重役以上にはなれない。重役たちに聞いてみると「日本国籍が必要であり」「中国人には日本の難しい文化は理解できないからだ」と言われるばかりである。では日本の難しい文化とは何かと質問しても明快な答えはない。最初は深淵すぎてわかりにくいのだろうかと思っていたのだが、どうやら日本人にもよくわかっていないのではないかと思えてくる。

モンゴル人力士はいつまでたっても日本人らしく振る舞わなければならないし、何かあれば「やはりモンゴル人だから」などと言われる。国籍をとって親方になれたとしても「二級市民扱い」は一生続く。日本のしきたりだからと言われて理不尽な暴力にも耐えてきたし、日本文化についてよく勉強した。しかし、だんだん様子がわかりトップである横綱にまで上り詰めたところで白鵬は「この理不尽さには一貫した思想などない」ということに気がついたのだろう。

中国人の話に戻ろう。ある日本人のプロパーが理不尽な要求を持って重役たちを振り回し始める。しかしながら、重役たちは彼のいうことを聞いているようである。そこで中国人たちは「自分たちが改革を要求しても聞き入れられないのに、日本人が重役を振りまわせるのは「差別があるからだ」ということに気がつく。

これが貴乃花親方である。貴乃花親方は「日本の伝統」という言葉を振りかざして改革を要求する。改革自体にはそれなりに根拠があるかもしれないが、周囲と協力しようなどという姿勢は見せない。「品格」には強くなっても威張らずに周りと協調してやって行くという価値観を含んでいるはずなのだが、どうやら貴乃花親方はおかまいなしらしい。それどころか貴乃花親方には同調者すらいるようである。そこで初めてモンゴル人たちは「部屋に分離されてバラバラにある状態」は不利であり自分たちも固まってプレゼンスを持つべきだということに気がついたのだろう。しかし、彼らにとってみればそれは当然の要求である。

そもそも相撲界はモンゴル人に依存している。相撲に強い日本人が入ってこないのはなぜだかはわからないが、前近代的な仕組みが日本人に嫌われているのかもしれない。体力に恵まれているのなら柔道やレスリングの方が栄誉が得られる可能性が高い。オリンピック種目であり金メダルをもらえればその後の生活には困らないし、選手の裾野も広いので指導者としての道も立ちやすいからだ。

そこで白鵬は自己主張をするようになる。巡業が多すぎると言って親方に注文をつける。バスの中では良い席を実際に働いている力士に譲るべきだと言って巡業の責任者である貴乃花親方の席に座る。バスの時間に遅れてやってくるなどの示威行為である。日本の伝統からみると「親方を敬っていない」と感じられるかもしれないが「商品である力士を大切にせよ」というのは実は当然の行動だとも言える。親方だけで相撲巡業を行うことはできないし、巡業がいくら増えても給料は変わらないのだろう。

もちろん貴乃花親方を責めることはできない。中学校を卒業してから親方が威張るのは当たり前だという世界で過ごしてきたのだから自分が親方になり巡業部長になったのだからその世界に君臨するのは当たり前だと考えるだろう。

Twitterの心ないコメントに見られるように「気に入らないならモンゴルに帰ればいい」と日本人は気軽に言うが、実際にはモンゴル人なしに日本の相撲はもはや成立しない。これを単に品格の問題だけで片付けることはできない。これは労働組合と経営者の間の対立でもある。貴乃花親方が土俵に上がるわけではないのに、なぜ威張るのだろう。

これは、例えばプログラマが「なぜ自分でプログラムを組みもしない部長にペコペコしなければならないのだろうか」と思うのにも似ている。さらに、プロジェクトマネージャーがクライアントを説得できなかったせいで時間が足りなくなり土日も犠牲にせざるをえなくなったというようなことがあればプロジェクトマネージャーに一言ガツンと言ってやりたくなるはずだ。そこで「プロマネに楯つくとはお前には品格というものがない」と言われたらどんな気分になるだろうか。しかもどんなに尽くしてもプロマネはエンジニアに感謝などしない。「お前らが無能だから赤字になったじゃないか」などと毒付いて「もっと優秀で土日も休まないエンジニアが欲しい」というのである。

日本人はこれに耐えるかもしれないが、他の国の人は別の企業に行くだろう。しかしこのような状態が続けば日本人ですら英語を覚えて外国企業に就職するかもしれない。

実はこの問題を見ていると、日本企業が国際化できなかった理由がよくわかる。原因はいくつもあるのだろうが意思決定が特殊なため異質な人たちを受け入れられないという事情がある。また、若い頃に「いじめられていた」のを「後には良いことがあるから」と我慢させていたという事情もある。だから、貴乃花親方のように全てを捨てて相撲に没頭してきた人に「これからは力士を労働者として普通に処遇しなさい」とは言えない。

さらに都合が悪くなると「労働者と経営者は親子同然なのだから、親を敬わないのは品格がない」と言い切れる。その場はなんとか取り繕うことができるのだが状況が改善するわけではないので、人はどんどん逃げて行ってしまうのだ。

つまり、日本企業が過剰な日本人らしさを求めて衰退して行くのと同じことが相撲で起きているということになる。「国技」という小さなプライドを持ちながらゆっくりと衰退して行くことになり、これは製造業が「日本の誇り」と言われているがゆえに衰退し、品質偽装を繰り返すようになったのと実はとてもよく似ている。

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日本とアメリカの笑いの違いについて

日本語版のQuoraに「日本とアメリカの笑いは何が違いますか」という質問があった。特に学術論文ではなく無責任にかけるので、書いてみると以外と面白かった。そこでこちらにも載せることにした。

いったん、答えを書いてみて「一番顕著だな」と思ったのは場の構成の違いだった。つまり、アメリカと日本の笑いの一番の違いは笑いの輪の中に観客が入るか入らないかということではないかと思ったのだ。これを平たく説明するのはなかなか難しいが、日本人が抱える「公共空間」への不信感というか恐怖心のようなものが現れていると思う。つまり、なんらかの同質さが確認できない限り日本人は他人を信頼しないのだ。これが泥だんごを投げ合うTwitterの政治議論にも影響を与えていると思う。

よく考えてみると、日本人は人前では感情を表に出さない。日本人は「おとなしい」とか「何を考えているのかわからない」と言われるのはそのためである。西洋文化圏の人は慎ましいと言って終わりにすることも多いようだが、東洋系の人たちは日本人が閉鎖的で差別的だということも知っているので、Quoraでは「日本人は本当に礼儀正しい人たちなのか」というような質問が時々出てくる。

一方、アメリカ人は笑いたければ笑う。その上笑いには社会的な機能もある。

例えば日本人は映画館で笑わないで黙って映画を見ている。アメリカ人は面白ければ笑うし、解放感が得られるシーンでは全員で拍手をしたりする。アメリカ人はこうやって社会的な一体感を感じるのに笑いを使うわけだ。

笑いは緊張感の緩和にも用いられる。ある政治家が真面目な集会で言い間違いをする。みんな言い間違いだとわかっているが指摘できない。この時誰かが「笑う」とみんなもつられて笑う。そこで政治家が気がついてそれをジョークにして笑うということがある。結果的には誰も傷つかないし、一体感を得ることもできる。むしろ、政治家にはジョークの才能が必要であるとされる。そしてそのジョークは必ず「ボケ」である。

しかし日本人は誰も笑っていないのに自分だけ笑うわけには行かないと考えるし、そもそも大衆の面前で笑うのも恥ずかしいので笑わない。さらに、えらい政治家を嘲笑することには侮蔑以上の意味はないし、笑われたえらい人もジョークで返すスキルがない。つまり、日本人は笑いによって緊張を緩和することはない。

日本人は笑うのに相手の許可を必要とする。つまり「笑ってもいいですよ」という許可がない限り笑えない。日本語が堪能なアメリカ人のジョークを聞いていると「ボケ」なのか「無知」なのかわからないことがある。例えば今回答えを書くのにパックンの外国人記者クラブでのインタビューを読んだ。パックンは政治的なジョークで何回かボケていたが、日本人向けなのか「これは冗談です」という情報を挟んでいた。しかしながら、アメリカでは「これは冗談です」とは言わない。日本人は「これは笑っていいことなのだろうか」と考えるが、アメリカ人は「笑いたければ笑う」のである。

このため日本には「ツッコミ」と呼ばれる人がいて、その人が「なぜおかしいのか」を指摘する。つまり、ツッコミは観客に笑う許可を与えているのである。かなり回りくどい仕組みだが、そもそもこの構造に気がついている人はそれほど多くないのではないだろうか。

このようなことを改めて考えていると、アメリカ人はスタンドアップ・コメディアンと個人の観客がいて笑いの世界を構成していることがわかる。つまり観客は笑いの当事者になっている。しかし日本では笑う人と笑われる人が目の前におり、観客はそれを第三者的な視点で眺めているということがわかる。その場に入って感情的に巻き込まれてしまうことは日本人にとっては危険なことであり、距離をとって初めて安心感が得られるのだろう。

アメリカでは政治的な笑いというものが存在する。「やっぱりあれは間違っているよね」という感情を共有することができる。これは笑いだけではなく様々な政治的判断に用いられる。判断基準は内在化していて、この違いを「イデオロギー」と言っている。

しかしながら、日本だとそれを笑っていいかということはいろいろな条件によって複雑に決められるし、笑うことによって社会的な避難を受けかねないなどと考える。つまり「個人の資格で笑っていいかどうかは判断できない」ということになる。だから日本人は政治を判断しない。周りをみてどうするか決めるし、周りが無関心なら何もしない。つまり日本人には内在化したイデオロギーはない。一見、リベラルな人は「平和主義者」であり、保守の人たちは「拡張主義者」のような気がするが、必ずしも態度は一貫しない。自分の立場の権威付けのためにポジションを利用しているだけであって、特に一貫性を求めてはいないからである。

イデオロギーがないので政治的なことは笑えないが、社会的な序列には敏感である。そして、この序列を守るためには暴力も許容されている。このことは相撲を見ているとよくわかる。外からきて日本文化の良い学び手であった日馬富士は素直にこの価値観を取り入れて、貴ノ岩をカラオケのリモコンで殴りつけたと言われている。

このため、例えば美貌に恵まれていない女性の容姿や体型を笑うとかのろまな人を笑うことは比較的おおらかに許容されるし、序列上弱者だと見なした人を嘲笑したり頭を叩いたりするのは文化的にはよいことであるとさえされる。

相手の頭を小突くことは多くの文化では暴力であるが日本人は「ツッコミ」を暴力とは見なさない。日本人には社会的に許容された弱者への暴力というものがあり、相撲の世界ではかわいがりと呼ばれ、学校では生活指導と呼ばれる。

どれも暴力なのだが、生贄を作って社会が緊張のはけ口を持ったり、秩序維持のための見せしめにするのは日本では許容されたコードだ。つまり、いじめは公衆の面前で自分の考えを明確にしたり、感情によって表現することを許されない日本人にとっての「安心できる」緊張の解決策であり安全対策なのだろう。

しかしながら、自ら容姿に恵まれていない女性を嘲笑するのは憚られるので彼女たちがいたぶられているのを外から見て楽しむのである。

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大変な中で万歳というのはおかしいという横審がおかしいよ

白鵬の千秋楽での振る舞いが波紋を広げているようだ。一つは「日馬富士と貴ノ岩を土俵に上げてあげたい」という発言だ。これは暴力事件なのでどちらも無事で終わるということはないだろうが、同胞を守りたいという気持ちはよくわかる。

もう一つの問題は「万歳」である。これに横綱審議委員会の委員長が噛み付いた。しかしこの発言を聞いて「おかしいのは横審の方だろう」と思った。以下理由を説明する。

確かに日本人としてあの万歳を見たときに「何やってるんだ」と思った。では、万歳がおかしい理由は何だろうか。これを説明するのは実はなかなか難しい。

日本は一つの巨大な村である。だから村で問題が起こると問題そのものよりも「村の平穏が乱された」ということが非難の対象になる。村は平穏無事であるべきだからだ。今回の問題でも協会は「日馬富士が暴行してごめんなさい」とは謝罪しないが「皆様をおさわがせして申し訳ない」とはいう。

相撲協会のいうガバナンスとは何か。ファンは相撲は日本の国技だと主張したい。自分たちは相撲をよく知っているので「日本の伝統をよく知っている人」として威張れるからである。これがプロレスだとそうはならない。プロレスでは威張れないのだ。何か問題が起きると威張れなくなるので、ちゃんとブランド価値を守るために何も起こらないようにしておけよと言っているわけである。

日本人は言葉を信頼しないので、下を向いて反省をしているように見せて村が問題を忘れてくれるまで待つ。もしここで下を向いて反省しているポーズを取らないと大変なことが起こる。日本人は反省しない人には何をしても構わないという極めて他罰的な文化コードをもっている。つまり、反省したフリをしていないとバッシングの嵐にさらされてしまうのである。

だから、問題について実際に反省していなくても構わない。重要なのは体裁と周りの評価である。そして善悪はそのときの周りの反応によってなんとなくふわっと決まる。

よく考えてみると、これはとても複雑な文化的パッケージである。しかし、日本人はこれを外国人に説明できない。そもそも意識していない上に「とりあえず頭を下げておいてほとぼりが冷めるのを待つんだよ」などとは格好悪くていえないからである。言えないから「品格」という格好の良い言葉で包むのである。

白鵬がどのような気持ちで万歳したのかはわからない。本人に聞いても理路整然とした説明は難しいかもしれない。モンゴルにも似たような行動があるのかもしれない。「モンゴル・万歳」で検索するとモンゴルには「フラー」という兵士の士気を高める万歳のような掛け声があり、これがロシアとドイツ経由で英語化したという説があった。本当はモンゴル人らしく「フラー」をしたかった可能性はある。

しかし大方の日本人は田舎者なので「神聖な相撲の土俵でモンゴル人らしさを出すなどとんでもない」などということを平気で口にする。これを説明するのに「大リーグで日本の選手が日本人らしさを出したらきっと大変なことになるに違いない」などという説明をしている識者がいた。大リーグでジャパンデイなどのイベントがあるのを知らないのだろう。民族アイデンティティの発揚は人権の一部なので、これを制限するのは厳密には人権侵害なのである。

もしくは日本人が気持ちを一つにするときに「万歳をしている」のだから「万歳をすれば気持ちが一つになるだろう」という思い込みがあったのかもしれない。つまり、表層的な行動は模倣できるが、その裏にある行動原理をコピーするのはなかなか大変なのである。

モンゴル人を見ていると、強いときには強さをアピールし、喜んでいるときには喜びをアピールしたいという素直な心情が垣間見られることがある。ある意味人としてはこちらの方がストレートな対応だろう。しかしながら日本人はそもそも権力格差を極端に嫌うので待遇が得られるようになればなるほど、その待遇を行使することを嫌がる。「待遇は与えたがそれは表向きのことであって、自分に向けて使うのは許さない」とか「お前が待遇されているのは、その権威を利用して俺たちの気分を高揚させるためなんだよ」などと考えたりする。極めて集団制が高く、集団の中での格差が少ないという独特の精神世界がある。

そこで「強い人には品格が必要」という。品格というのはいわばブレーキの役割を持っていると考えるわけである。

しかしよく考えてみると「強くなればよい待遇が得られる」という表面的な文化コードと「待遇が得られたらそれを使ってはいけない」というその裏にあるコードを理解するのはなかなか難しい。普通の日本人ならば「どうせ責任が増えるだけだし、そこそこ長く稼げた方がいいや」と考えるはずで、余程の物好きではないと頑張って横綱になりたいなどとは思わないだろう。

横綱審議員がおかしいのは、自分たちが異文化からきた人たちに何を求めているのかということがわかっていないのにもかかわらず、問題があったときだけ「違っている」といって騒ぎ立てているということである。説明しないことがわかるはずはないのだが、それを怒っている。これは身勝手この上ない。

モンゴル人なしには相撲は成り立たないのだから、これを相手に合理的に説明するか、モンゴル人に頼らずに相撲好評を成立させるべきだ。しかし、若い次世代の日本人にさえ「品格」を説明するのは難しいのではないだろうか。自己実現が容易で個人が評価してもらえる格闘スポーツは他にもたくさんあり、何も封建的で遅れた相撲を選ぶ理由などない。

この苦しさが横審委員長の次の発言に現れている。

負傷のため4場所連続休場した稀勢の里、鶴竜の両横綱については、万全にして奮起を求める声が出た。北村委員長は「稀勢の里はこの状態が続いていくと横綱としての地位の保全をできるのかという問題にならざるを得ないので、しっかり体を治して次の場所に備えてほしい」と話した。2人の進退を問う意見はなかったという。

鶴竜についても触れられているのだが、本音では品格について説明する必要のない稀勢の里に頑張って欲しいのだろう。しかし、稀勢の里は「横綱の品格」を意識するあまり無理を重ねて怪我がなくならない。やはり品格で全てを説明するのはもはや不可能なのだ。

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日本人が政治議論ができない意外な理由

質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。

日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。

問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。

今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。

糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。

もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。

日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。

それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。

質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。

ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。

と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。

これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。

このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。

もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。

これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。

今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。

このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。

多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。

現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。

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いつも怒っている人ではなく、なんとなく動く人になる

「糸井重里的なもの」と感動マーケティングの終焉について考えている。

いろいろ考えるうちに、左派リベラルと呼ばれている実際には社会主義とはなにの関係もない人たちが何に苛立っているのかということを考えるようになった。もともとは反原発・護憲の人たちなのだが、それにまつわるさまざまなものに反対しているようだ。その底流には「人間は平等であるべき」という社会主義的な思想や、これまでの既成概念に縛られてはいけないというリベラルな思想があるというわけでもなさそうだ。

彼らには「自分たちが希求する正義が全く実現していない」ということに対する苛立ちがあるのではないかと考えている。左派リベラルの意見は政治的には全て無視されている。これまで政治的意見を表明する場所がなかったので、自分の理想が実現しなくても「まあ、そんなものか」と諦められるのだが、いったん口に出した以上「無視されている」ということが明らかにわかってしまう。にもかかわらず、自民党政権は次から次へとカンにさわることを提案し続けているので、それにいちいち怒らなければならない。だから常に怒り続けているという気持ちはよくわかる。

しかしながら「糸井重里的なもの」の崩壊を考える上で、社会主義とは関係がないあの界隈である「左派リベラル層」の反発はあまり参考にならなかった。むしろ参考になったのは「あの人はなんとなく嫌いだ」という人たちの声だ。実は普段からなんにでも反対している人の動向はあまり当てにならない。むしろ、あまり関心がなく「説明もできない」人たちが「なんとなく」動いた時に、ああこれは風向きが変わったんだなと思うわけである。

「あの人たちは常に怒っているんだな」と見られてしまうことには弊害が多い。

第一に「対象は別に良いんだな」と見なされてしまい社会への影響力がなくなる。第二に雛形が明確なために「あの人たちを対象にして煽り立てるようなことを言えば一定時間は評価してもらえるんだな」という人たちを惹きつける。その意味では<商売左派リベラル>的な人も一定数いる。第三に左派リベラルを攻撃することで支持が得られる人というのが出てくる。最近では名前を聞いたこともない落語家の名前を覚えてしまったが、多分認知を得るために左派リベラル叩きをやっているのだろう。

確かに「自分と同じ考えを持っている人がいるのだな」という「つながっている感覚」は心地よいのだが、それなりのデメリットも覚悟しなければならない。さらに、もし本当に世の中を変えたいなら、いろいろなことに「とりあえず」怒り続けるのはあまり得策ではないと思う。

つまり、群衆であっても「常に怒り続ける人」と「たまに動く人」では「たまに怒る人」の方が社会的な影響力が強い。政治は常にこの「たまに動く人」の動向を気にしているので、もし社会的に影響力を行使したいなら「いつも怒る人」ではなく「たまに動く人」のように見えていた方が都合がよいということになる。

では「なんとなく動く人」に見えるためにはどうしたらいいのだろうか。

ネットには様々な声が溢れておりいろいろなことをしている人がいる。例えばTwitterで毎日のようにイラストを発表している人とか、煙突の写真をひたすらアップしている人とか、Facebookで何かのキャラクターの像を制作している人もいる。何気なくやっていることが集積することはないので、なんらかの意志を持って継続的に行っているのだろうと思われる。

ネットはこういう人たちをとがめ立てしない。世の中にはいろいろなことをいう人がいるんだなあで終わってしまうからだ。彼らがたまに政治課題に反応してそれが複数のルートから来たとき「ああ、なんとなく動くのかな」というような印象が得られる。

ソーシャルメディアが台頭すると「誰にも気にされないで何かやっている人」風な人が増えてくる。すると「この人は自分の意見を押し付けているわけではなさそう」と考え、「本当に好きなことをやっている純粋な人なのだろうな」と考えてついついその人そのものが気になってしまう。一貫性がある人をみると自動的に好ましい印象を持つという効果もある。インプレッションの回数と長さである程度の評価が自動的に決まってしまうからだ。さらにその人たちが空気を作り出しており、実際に大きな影響力を持っていると言える。実は「何気ない(風の)自己発信」にはメリットがたくさんあるのだ。

ネトウヨの人が日本国旗をTwitterのプロフィール画像に使うのをとがめ立てするつもりはない。彼らは特に自分の言動で何かを変えたいなどとは思っておらず、さらに「日本人である」という帰属意識の他に依存できるものはないから、あのような自己表現をしているだけだからである。

ネットのプロフィールに「立憲主義を守る」とか「原発のない綺麗な世の中を作る」とか「戦争反対」と書くとつながりを得ることができるので、それはそれで悪いことではない。ただし、本当に世の中を変えたいなら、それはあまりよい作戦ではないかもしれない。

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