BEAMSの店員にムカついたという話

今日の話は若者バッシングなので「自分が若いな」と思う人は読まないほうがいいと思う。その若さの判断基準だが、今回の定義ではスマホで情報を得ている人は年齢が55歳でも「若い」と思って間違いがない。

今回の話はBEAMSに行って店員の態度にムカついたというただそれだけのものである。最後に安倍政権批判が入っているがこれはおまけである。

BEAMSのジャケットを持っている。麻が入っておりボタンをとめるとちょっとタイトになる感じのものだ。今シーズンもこれを着ていいものかどうか悩んだ。カジュアルものはシルエットの変更が大きいというイメージがあるからだ。そこで、オンラインで見てみたのだがどうもよくわからない。ウェブのカタログをみてもピンとこない。カスタマーサポートに相談したところ「お店に行ってもらわないとわからない」という。カスタマーサポートはやたらと店に行けと言ってくる。よほど来店が少ないのかなと思ったのだが話の種に行ってみることにした。

そもそも近くに店がない上に、最近では店が細分化されていて「ここに行けばたいていのことはわかる」という状態ではなくなっている。近くだと千葉駅前に店があるのだがカジュアルしか置いていないという。本格的なジャケットを手に入れるためには東京に出る必要があるのだそうだ。仕方がなく千葉の店に行ってみたが、案の定会話が全くかみ合わなかった。

だが、会話がかみ合わない理由がわからない。最初に目につくのは「自分の知識体系を明文化も体系化もできない」という点だ。自分の知識体系も明文化できないので、顧客の曖昧な探索態度も明文化できない。つまり「コンサルテーション」ができなくなっているのである。ここまでを感想にすると「先生のいうことを聞いているだけの教育が悪いのだな」などと思ってしまう。「最近の若者は」的な愚痴である。

日本人は先生のいうことだけを聞いているので正解がある場合にはすぐに答えが見つけられる。しかし、正解がなくなるとコミュニケーションそのものが成立しなくなる。そこで出てくるのが「自己責任」である。「お客様の好きなものを選んでくださればいいですよ」ということになるわけだ。

何が欲しいのかを明確にしてくれればお探ししますよというのだが、それが掴みたいからお店に来ているということは理解されない。そのうち「オンラインショップでもっと見てみたい」となった。何か勧めなければならないと思ったのだろう。定番のチノパンを押してきた。これがユニクロだと普段着ているから出来上がりが想定できるのだが、高い上に「なんか違っていたらイヤ」なので、だったらユニクロで見ようかなという気持ちになった。

BEAMSが神宮前にあった頃は「自分たちがトレンドを作っている」という気持ちがあったのか、聞かなくても洋服についてのうんちくを持っていた。銀座の店にも「店の方針はともかく自分はこんな洋服が好き」という人がいてそれなりに話が楽しかった。しかし、千葉店に勤めている人たちはそれほど洋服は好きではないのかもしれないし、本部から「これを売りなさい」というプレッシャーが強いのかもしれない。

あまりにも話がかみ合わないので、何が違っているのだろうと思い始めた。例えば今年のトレンドについて聞いている時にもそれを感じた。今年の流行は90年代風らしいなのだが、それは彼に言わせると90年代にはやったとされているフレッドペリーやチャンピオンズのアイテムを取り入れることを意味しているらしい。だが、それをどう「全体に位置付けるのか」ということを聞いてみても答えは返ってこない。

最初は「この人はめんどくさがっているのだな」と思っていたのだが、帰り道に別の可能性を考えて恐ろしくなった。冒頭に「若い人は読むな」と書いたのはこれが中高年固有の問題であって若者には関係がないからである。

かつてのトレンドはある程度構造化されていた。例えばバブル期のインポートもののスーツは少し大きめだったので国内のブランドもなんとなくそれに合わせていたし、渋カジと呼ばれる流派の人たちが「着るべきブランド」が決まっており、全体のシルエットがなんとなく規定されていた。つまり構造化された傾向を一つかみにして「トレンド」と言っていた。さらに情報の経路にも構造があった。BEAMSは例えば情報ソースであって、それが下流の消費者に流れていたのである。

だが、むかつくBEAMSの店員にとってのトレンドというのはアイテムの売り文句に過ぎない。いわば今期のマーケティングキャンペーンであり、本部に言われたことをコピペして行っているに過ぎない。これを雑誌に流して顧客を捕まえているのである。だから単なる独立してそれぞれに関係がないマーケティングキャンペーンが彼にとっては「トレンド」なのだろう。

その証拠に商品知識そのものは豊富に持っていた。「カナダ産のアウトドアアイテムが置いてあってこのラインナップは流行に左右されない」などというように一つひとつの知識は決して浅くない。気分としてはwikipediaで情報検索している感じだ。一つひとつにはそれなりに深い答えが帰ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。

「全体的な傾向」を聞こうとしてもそもそもそんなものは存在しないのだろう。「今の若い人たちに全体的な傾向を聞いても要領をえない」などと愚痴ること自体が不毛だということになる。なぜならば全体像がない世界を生きており、かつてのように物事が有機的な意味を持って結びついた場外をそもそも知らないからである。

この仮説を確かめるとすれば、雑誌などで聞いたキーワードをそのまま店員にぶつけてみるのがよいのだろう。お互いに関連がないなりに情報は豊富なのだからそれなりに話ができるはずだ。実際に帰ってオンラインショップを調べてみると「Begin掲載商品」と書かれていた。つまり断片的なコンテクストは雑誌が作っており、店頭は商品の受け渡しポイントに過ぎないのだ。「雑誌の知識は断片的なので全体像がつかみたい」などと思って店頭に行くということ自体がナンセンスだったということになる。

そうなるとWEARで気に入ったモデルを見つけてその評判を見た上で似たものを商品検索したほうが効率的だ。BEAMSがやたらと来店を勧めていたのはそもそも時代に乗り遅れ始めているからなのかもしれない。メーカー別にみるとファーストリティリングには遠く及ばない。ではファーストリテイリングの従業員が「楽しく洋服をお勧めしている」かというとそんなことは全くない。彼らはとにかく忙しく走り回っており接客という概念はなくなりつつある。

アパレルを離れて「コンテクストのない世界」について想像すると、現在の政治的な状況が違って見える。安倍政権を支持している人たちを見ていると項目が別々の語られていて全体像がぼやけている。これまでの文脈で政治を見ていると「デタラメでイライラ」してしまう。それは我々が全体のコンテクストを通じて構造的に政治を理解しようとしているからだ。

まとまりのないTwitter政治論評は、この脱構造化で説明ができる。安倍政権は加計学園の選定過程について整合した説明はしないが、部分だけを取り出すと「その都度問題がない」ことになっている。これはその時々の出来事について「その場限りの理解をしている」からということになる。つまり構造を持たずその場限りでわかりやすいことをいうから受けるということだ。文脈に支配されてしまうと柔軟な判断ができなくなり「全てがうまくいっている」などとは言えなくなってしまう。

現在、立憲民主党などの野党は「立憲主義」という構造を元にしてあるべき政治を提示した上で有権者に訴えかけている。これは立憲主義や民主主義という「お作法」を学んだ人たちには訴求するだろうが、その場その場で良し悪しを考えている人たち何の意味も持たないのかもしれない。

こうした情報の受け取り方の違いはブラウジングという概念で説明ができる。私たちがセレクトショップに行くのが楽しかったのは「お店がセレクトしてくれる」からである。だから用事がなくても「時代の気分」を観察するために定期的にお店に行っていた。しかし、もはやそのような意味でのトレンドはないのだからセレクトショップ自体が成り立たない。

「世の中で何が起きているのかな」と思いつつ新聞を一面から順番に眺めるのもブラウジンだ。しかし、新聞は「反日」か「政権べったり」という批判のための指標に過ぎなくなっている。全体的な社会合意(つまりトレンド)がなくなり、自分たちの好きな情報だけをやりとりするようになっているからである。

政治の文脈で見ると、少なくとも若者に訴求するためには「文脈の認知」とか「サポーターの醸成」みたいなことは意味がなく、その場限りの成功をみんながわかる形で主張するやり方のほうがふさわしいということになる。失敗したらもう人生終了で情報だけがたくさんあるという縮小型情報社会では「すべての結果がうまくいっている」と主張して全体の整合性を犠牲にしたほうが訴求しやすい。

トランプ大統領はその場その場の「ディール」に夢中になり、安倍首相は知的な能力の限界から文脈を形成する能力がないのだと思うが、これが意外と現在にマッチしているのかもしれない。するとその場その場の失敗について揚げ足を取り上げてそれを批判するのがベストのアプローチということになる。そう考えるとTwitterの政治批判は「政治を知らない人たちのバカな衆愚行動」ではなく割と本質的な政治議論だということになる。政治への理解というリテラシーそのものが意味をなさないからだ。

こうした世界がどうなるのかを考えてみたのだが、なんとなく一つの流行に人々が殺到するか、あるいは細かいコミュニティにわかれて相互理解が不能になる世界だろう。それは意外と現在の状況を正しく描写しているように思える。

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ある意味「トカゲの尻尾」だった山口達也さんと被害者女性

柳瀬元秘書官の問題はそれほど話題にはならなかった。もちろん柳瀬さんは嘘をついているのだが、想定内の嘘だったので外形的な体裁は整っている、だから外形上は嘘をついていないことにできる。お友達の優遇がもともとこの特区制度の狙いだったわけで多くの人は自分で努力をするよりも権力にコネをつけた方がトクだと考えたのではないだろうか。これは縁故主義の社会が没落して行くある意味おきまりのルートである。

柳瀬さんの行為はいわば「民主主義違反」なのだが、麻生さん流にいえば「民主主義違反罪という罪はない」ことになる。セクハラであろうが、民主主義の十厘だろうが、この国の新しい道徳では罰則がないことはやってもよいことになる。一方、一人ひとりの個人は国のいうことを聞いて「社会に貢献する」ことが道徳的に求められる。国はこのような形で道徳を教科にするようである。強いものは守られ弱いものは犠牲になるのが道徳的に正しいという社会が形成されようとしている。

一方で日本人が気にすることもある。普通でいることには特段の価値はなく他人に利用されるだけだ。しかしそれではフラストレーションがたまるので「普通から脱落した人たち」を娯楽的に叩くことが推奨されている。不倫やセクハラが叩かれることが多いのだが、在日外国人を叩いたり、特殊学校に通う生徒を叩いたりすることも横行しているようである。こうした例外規定があることで普通の人たちは「まあ、しかがたない」といって体制を維持する道徳をサポートすることになる。つまり人を叩くことで体制の維持に協力するようになるのだ。

今回「山口達也元メンバー」が叩かれたのもその一つだろう。山口さんを叩くだけでなく、被害女性を探し出して表に引きずり出そうとしている媒体もあるという。山口さんは、どうやらもともとお酒の問題を抱えており周囲の人間関係にも困難さがあったようだ。しかし事務所はそれを見て見ぬ振りをしており管理不能な状態になったとたんに大慌てで「知らなかった、気がつかなかった」と切り捨ててしまった。もともと事務所は自分たちに非難の矛先が向かわないように最初から切り離すつもりで弁護士を入れて記者会見を開いたようだが、山口元メンバーがTOKIOとのつながりを示唆してしまったために、今度は大慌てで他のメンバーが「それは許されない」と芝居掛かった記者会見を開くことになった。

今になって思えば「ペテロ」の逸話を思い出す。夜が明ける前にペテロは三回「イエスなどという人物は知らない」と言って自己保身を図った。だがTOKIOの行動は個人が社会から叩かれることを必死で回避しようとするという意味ではむしろ人間味のある嘘である。

さて、ここで嘘をついているもう一つの大きな集団がある、それがNHKだ。NHKは柳瀬さん流にいうと「嘘をついていないのだが嘘をついている」という状態にある。日本社会では自分の組織を守るためにこうした言動が許されている。文化的には組織防衛に極めて寛容な体質を持っていると言えるだろう。

週刊誌やワイドショーが、被害女性はスタッフ側からLINEのアドレスを交換するように指示されたと供述していると伝えている。NHK側はこれを否定しておりNHKのスタッフはそのような指示はしていないと言っている。だからNHKの関与はなかったということになる。被害者女性は「かわいそうだから決して表に出てはいけない」ということになっているので、自分の体験を語ることはないだろう。彼女は他の出演者たちと同じように疑われたまま自分のトラウマも抱えたままで囚われて生きて行くことになる。これは実はかなり残酷な人生なのではないかと思う。だが、NHKが元になった状況を改善することはないだろうから、同じようなことはまだ起こるかもしれない。しかし日本社会ではそれも「組織を守るためには仕方がない個人の犠牲だ」と考えるのではないだろうか。

これは「聞かれたことにしか答えていない」という例である。つまりNHKの番組は多くの外部スタッフを抱えており、彼らがそれを指示した可能性がある。そしてその指示に関してNHKのスタッフが指示をした可能性は残っているし、仮に外部スタッフが勝手にやったということになっても監督責任は残るはずである。

安倍首相が秘書官や奥さんを通じて何か意思を伝えたとしてもそれが法律違反に問われることはない。同じようにNHKもいざとなれば「外部スタッフが勝手にやったことだ」として切り離してしまえば社会的な非難を受けることはない。あとはタレントを切り離してし、私たちは被害者でしたといって終わりである。

個人が自己責任のために必死で嘘をつくのに比べると、組織の嘘はどこか落ち着き払った調子がある。自分たちが社会をコントロールしていて「世論などいかようにもなる」という自信があるからだろう。そして、実際に世論はその場の雰囲気で動く。

今回は週刊誌が問題を嗅ぎつけてあのやっかいな事務所が騒ぎ立てるまえに「ニュース」という形で先に既成事実を作ってしまい「NHKは一切関与していなかった」という形を作った。実際には問題のきっかけを作り(あるいは放置していた)にもかかわらず、うちは被害者ですよという体裁にしたのである。そのあとも「聞かれたことには答えたが、聞かれなかったことには答えなかった」というお芝居を続けている。もちろんこの行為は法的には何の問題もないし、日本社会では道義的にも「組織を守るための忠義である」と肯定される場合が多い。

財務省や官邸のやり方を見ていると「外部のスタッフを巧みに切り離して問題の隠蔽を図り、最終的には末端の個人にかぶせる」というやり方が日本社会に蔓延しているのがわかる。たいていの人は「社会とはこんなものだろう」と考えるので、柳瀬さんが嘘をついていたとしても特にそれを機にすることはない。

こうした行為が法律に触れているわけではないので、柳瀬さんを裁いたり、NHKを断罪することはできない。しかしながら、いざとなれば個人を切ってしまえばいいのだと考えることで組織の上の方にいる人は次第にモラルをなくして行く。自分が出世するためなら誰か弱い他人を犠牲にして知らぬ存ぜぬを通していればよいということになるからだ。そして、普段から「何かあったらこいつに詰め腹を切らせよう」などと物色し、それを当然のように思うわけだ。

私たちの社会にあるこうした風通しの悪さはこのように作られている。実はTwitterなどで他人を叩くことで我々も知らないうちに共犯者になっている。一時の騒ぎが治るとまた別の問題がおきて大騒ぎになる。多分柳瀬さんの問題も忘れ去られて加計学園もなんとなく「逃げ得」ということになるのかもしれないし、NHKではまた同じような問題が起こるかもしれない。しかし、同じ問題が起きたとしても誰か適当な犯人を見繕ってその人を叩いて終わりになる。

NHKの道義的責任を問うことはできないのだが、こうした人たちが政府を「マスコミとして監視している」ことになっている。実は政府が一向に態度を改めない裏にはこうした事情もあるのではないかと思う。実は「お互い様だ」と思っているのだろう。

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自己責任という言葉はいつ生まれたか

自己責任という単語がある。例えば生活保護を受けている人が困窮しているのは自己責任であるというように使われる。説明責任という言葉はいつまでたっても定着しないが、自己責任という言葉は「正しく」行き渡っている。理由を考えたのだが、これは責任という言葉が日本語では独自に解釈されているからではないかと思った。責任はやまと言葉の「〜のせい」の訳語なのだ。




まず、レスポンシビリティの訳語として責任という言葉が当てられたというところまでは確認ができた。原典は確認できないが明治時代に西周が訳したという話がある。橋本大二郎のブログに「対応力」とでも訳すべきだったという話が出てくる。どうやらこの<誤訳>はその筋では有名らしい。

そこから連帯して責任を負うという用語が生まれる。日本国憲法に連帯して責任を負うという言葉があることから戦前から使われていたことが伺える。

内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

The cabinet, in the exercise of executive power, shall be collectively responsible to the diet.

この時にすでに日本語には責任を持つではなく「負う」と書かれているので負債めいたニュアンスがあることがわかる。英語は集団で対応しますよという言い方になっている。これは内閣総理大臣が一人で対応するのではなく内閣全体が対応するのですよということを言っており、権限についててほのめかしている。内閣には固有の権限(exercutive power)があるが、総理大臣一人に好きなようにさせませんよというニュアンスがあるのだが、なぜか日本語では削られている。そして「負う」という動詞が充てられている。原文は形容詞であえて日本語に訳せば「責任がある」となる。だから「固有の権限を行使するにあたって、内閣は国会に集団で対応する」が正しい訳語になるのではないだろうか。

余談ではあるがresponsibleにはforという使い方とtoという使い方があるそうだ。forは物事に対して使われ、toは人に対して使われる。そしてこのように「〜に対して(説明などの対応をする)責任がある」という言い方になる。

この「〜に対して責を負う」という言葉は集団主義的な使われ方をすることが多かった。体育会系で「チームの連帯責任」などということがある。責任の所在が曖昧になっており、なにかあったら罰を与えるからお互いによく見張っておけよというような意味合いがある。この集団が溶解することで、自己に責務を負わせるという考え方が出てきた。これが「自己責任」だ。ではいつ頃から自己責任という言葉が多用されるようになったのだろうか。

英語では自己責任という言葉はかなり限定的に使われる。本来人間は神様から治癒能力を与えられており投薬なしでも病気が治ると考える人たちがいる。彼らは病気に対して反応できるという意味でセルフレスポンシビリティという言葉を使っており、2004年に限定して調べた時にもそのような意味で使っている文章が見られた。この「セルフ・レスポンシビリティ」を引き寄せの法則などに関連付けて「自分の幸せには自分が責任を持つべきだ」などと使っている文章は見かけた。本来の英語の意味が誤解されているのか、原典通りに理解しているのかはよくわからない。

この言葉が「お前のせいだ」という意味を持つようになったのは比較的最近のことだ。Google Trendで自己責任を調べると2004年に山があるのが確認できる。この時に書かれた共産党のウェブサイトが見つかった。イラクの人質事件は自己責任であるという政府の主張を糾弾したものだ。いくつか調べたがどれも「イラク」との関連の中で使われていた。

イラクで数名の邦人が拘束された。日本政府には彼らの人命を守る義務があるのだが実際には何もできない。そこで「勧告を無視して危険を承知で出かけて行ったのだから結果的に救出できなかったとしても政府のせいではない」という論が展開された。これが2004年なのだ。こうした使い方が昔からあったのかはわからないが、自己責任が今のように使われるようになったきっかけのひとつは小泉政権が「政府の責任を被害者に転嫁した」ことにありそうである。

「政府に責任がある」というのは「対応しなければなりませんよ」とか「そういう機能があるんですよ」という意味なのだが、日本人はこれを「イラクで人質が誘拐されたのは政府のせいだ」と取る。そこで政府は「いや、のこのこと出かけていった人たちのせいだ」と言い訳した。それに追随したマスコミが騒ぎ出し「帰ってきた人質たちを非難してやろう」という空気が生まれ、実際に彼らは避難にさらされることになった。ハフィントンポストのこの記事を読むと当時の激しさが少しだけわかる。

2015年には後藤(健二)さんというジャーナリストが「責任は自分にある」と宣言してイラクに行って実際に人質になり殺された。これが名詞化されて「自己責任という言葉が一般化する」という考察がある。QUORAで聞いたところ「自己責任」に当たる英語は、at one’s own riskではないかと指摘してくれた人がいた。リスクを取るという意味だがそのリスクの中に他人から責められるというニュアンスはない。しかし、日本には責任を負うという概念があり、その中には何かあった時には「ムラ」が叩いても文句を言わないというニュアンスが含まれている。

現在、私たちはセクハラ問題や強制わいせつ問題などで「被害を受けたとされる女性にも責任の一端があるのではないか」という議論をしている。いわば自己責任論である。イラクに出かけて行った人たちに同じような視線が向けられていたことがわかる。とにかく誰かを叩きたいという日本人の心象がこの「自己責任論」には色濃く映し出されている。常に問題を「誰かのせいにしたい」という気持ちがあるのだろう。

責任は「説明や対応ができるように準備しておく」という概念であり「責を負わせる」という罰則概念ではない。だが日本語の責任という言葉には「責」が入っているので「誰を非難すべきか」という議論に陥ってしまう。叩く資格は「普通で善良な暮らし」をしているという簡単なもので、叩くにあたって実名を公表する必要はない。これが、結果的にではあるが過剰さの要因になっている。

その一方で「職務を明確にして対応する」のはとても苦手である。それは役割分担が不明確で誰が何を決めているのかよくわからないからだ。レスポンシビリティは明確な役割分担と権限移譲によって生まれるので、それがない社会ではそもそも責任の取りようがないのである。だから説明責任という言葉はいつまで経っても日本には定着しない。

連帯責任の源流は連座制や五人組などの制度だと説明する人たちがいる。中国起源概念が日本に取り入れられたという面白い議論をOKWebで見つけた、またスポーツの連帯責任について考えているコラムの中に河合隼雄の母性集団・父性集団という概念が出てくる。今回の考察では日本人は契約概念が理解できないという見方をしているのだが、河合は責任の所在が曖昧な集団を母性集団として区別しているようだ。

責任の所在が曖昧な社会では連帯責任という言葉がよく使われる。野球部員がタバコを吸っているのを見つかると甲子園に行けなくなるとか、正座させられて殴られるというようなものが一般的な使い方である。今回のTOKIOの騒動でも連帯責任という言葉が使われた。テレビでは疑問を持ちつつも流されてしまったコメンテータが多いようだが、個人が責任と向き合えなくなると批判する人はいなかった。周囲の人たちは個人が償うためのサポートはできるが、向き合うのはあくまでも山口達也さんなのだが、母性的(あるいは体育会的)な傾向の強いジャニーズ事務所ではどこまでも責任の所在や一体何にたいする謝罪だったのかということは曖昧にされ続けた。

このように役割が曖昧なまま結果的に集団を叩いて管理をしていたという事情があり、集団が溶けてしまった現在はそこから浮いてしまった人たちに必要な権限は与えず「個人の資格で叩く」行為が蔓延している。その発端になったイラクで叩かれたのは会社に属している人たちではなくボランティアという個人だった。仮に企業が派遣していたとしたらその企業が叩かれていたはずなのだが、叩く企業がないので個人を叩いて「自己責任だ」と言っていたことになる。

だが集団だと責任を取るのかと言われると疑問もある。自衛隊は「戦闘状態にある」という日報を送り続けてきたのだが、それはすべて隠蔽された。そして最終的にはできの悪い通販番組のように「それは個人の感想です」という注釈をつけられて「自衛隊員は戦闘状態だったと言っているがあくまでも個人の感想にすぎず、あれは戦闘状態ではない」などと言い出している。日本では個人は非難の対象にはなるが権限は与えてもらえず発言も無視されてしまうのである。

いずれにせよ「連帯して責を問う」という伝統的な考え方があったからこそ、個人で責任を負うという考え方がで出てくるわけだ。だが、個人には対応力はないので個人責任という言葉は不当なものになりがちである。それに加えて「結果的にリスクを負う」くらいのことはあっても、集団の憂さ晴らしのために叩いて良いという根拠はどこにもない。

だが、私たちは不思議なことにこの自己責任という言葉をすんなり理解して、あたかも昔からあった言葉のように使うのである。

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TOKIOの記者会見ごっこについて思うこと

TOKIOの記者会見が終わった。特に感情的な感想はないのだが、いろいろな論評が出回っているので一応記録しておきたい。これを見て思ったのは、この記者会見が壮大なおままごとだったということである。起こった事件は深刻であり、TOKIOのメンバーも本気だったのだろう。だが、結果的には周りの大人たちがこれを壮大なおままごとにしてしまった。彼ら流の言い方をすると「TOKIOの甘さが招いた惨事」だった。

なぜこれが真剣な謝罪会見ではなかったといえるのか。それはこの会見に目的がないからである。今回の件は山口達也さんが未成年女性に強制わいせつを働いたことが問題になっているので、謝罪は女性になされるべきはずである。しかしそこには女性の姿はなかった。ということは、謝罪の目的は別にあったということになる。これが何のための会見なのかを分析することもできるが、とにかくそれが誰であり何の実害を被ったのかはあまり明確ではなかった。さらにグループの今後についても山口さんの処遇についても結果が出ていない。だから何のために開いた会見なのかよくわからない。普通の大人がこんな会見を開けば世間から壮大に叩かれることになるだろう。しかし彼らは<守られた>。

周りの大人は彼らを叩けきたくない事情があった。事務所は自分たちの管理の甘さが事件を招いており、NHKが突然ニュースにするまで何もしてこなかった。だから表には出てくることができない。社長の声かけだけで済ませたところをみると、普段からマネジメントはやっていないようだ。一方のテレビ局は数字を持っている彼らのタレント価値を下げたくない。テレビ離れが進んでいるとも言われており新しいタレントを育成するのにはお金がかかる。

だから、この記者会見の報道では重要な情報が抜け落ちている。それは誰が質問をしたかである。始まる前には「何でも聞いてください、制限時間は設けません」と言っていた。彼らは本気だったのかもしれないが、実際には2時から始まり3時半に終わった。これはワイドショーが2時ごろに始まり4時まで続くからだろう。全編を放送しようと考えるとちょうどこれくらいの時間になる。国分さんはのちに「会場をそれくらいしか押さえていなかったから」と説明しているがこれは苦しい言い訳だろう。

質問をした人たちは、民法テレビ局のアナウンサー、お抱えの芸能レポーターだけだった。スポーツ紙が一紙入っていた他の唯一の例外は福島の新聞記者である。この福島の記者がどのような気持ちで質問したのかはわからないのだが、温情的な印象を与えるために利用されていたとしたら気の毒な話だ。一人のインタビューアーが2つ質問をしようとしてスルーされていたことから事前に質問内容は決まっていたものと思われる。最後に締めたのはTBSの高野というアナウンサーだった。

質問内容を見て整然としたシナリオがあったことがわかる。「概要」を話させて「山口さんの処遇」について語った。そしてTOKIO自体は存続することは確認した上で、音楽活動は白紙にすることが最後の方に語られた。事前調整なしで「なんでも聞いてほしい」というならこのようにわかりやすく進行するはずはない。誰もがわかっているが、それを指摘する人は誰もいない。そんなことをしても大人気ないだけだからだ。

この件の批判に「企業の不祥事なので事務所が謝るべきだ」というものがあるが、それは無理だろう。これは記者会見のように見えるが「共同制作でドキュメンタリタッチのバラエティ番組」だからである。番組の中にスタッフが写り込むことはない。つまり、事務所は反省していないし最初から謝るつもりはなかった。山口さん個人の問題に落とし込み終わりにするつもりだったのではないだろうか。

この番組の目的は二つある。一つ目はすでに売れるコンテンツになってしまったこの事件に最後のコンテンツを提供することだ。さらに、将来的な選択肢をできるだけ多く残しつつも、既存の仕事に被害が及ばないようにすることであろう。しかしこうした「調整」が整然と進むことから日本人が不確定な要素を嫌い自然と忖度してしまうということがわかる。文化の中に根強く残っておりこれを排除するのはとても難しそうである。

この前の会見は事件についての会見だったのでメディアを制限できなかったのだろう。週刊誌の記者をいれてしまったことで「異常だった」などと書かれている。

ジャニーズ事務所の会見は、好意的な報道をするメディアのみを受け付けるのが基本。しかし今回はれっきとした刑事事件で、未成年の女性が被害者である。幹部が「(あなたは)悪い記事ばかり書いているじゃないの」と言うので、「そんなことはありませんよ」と穏やかに説明すると、「おお、こわいこわい、脅かされちゃったわ」と芝居がかった言葉を発した。私は感情的になるはずもなく、「失礼しました。ならば帰ります」と頭を下げた。が、最後に、週刊文春や週刊女性、日刊ゲンダイ、東京スポーツ、サイゾーなどの“不都合なメディア”がすでに会見場に入っていることを告げると、ようやく取材を許可された。「変なことを聞くんじゃないぞ。メリー(喜多川)さんに言いつけてやるから」といやみを言われたが……。

今回はいつも通りの「大本営」に戻った。どうやら取材拒否はしないが、質問をさせないという方針にしたようだ。そうすると敵対メディアも文句をつけられないのであったことを書くことしかできない。

こうした過度の統制が今回の事件を招いたのは明らかではないかと思う。これはアルコール依存症の一歩手前ではあるがアルコール依存症とは言えないという話が出ている。のちに専門家が明らかにアルコール依存症だと指摘しているのみると確定診断の難しさがわかる。お酒も扱うタレントがアルコールの外に蝕まれていたとは言えないだろうから「こっそりと穏便に」治療しようとしてできなかったのだろう。病院から職場似通わせるのが精一杯で「いろんな病院を回ったがアルコール依存症という診断は出ていない」ということが松岡さんの口から語られている。

事務所には社会からの協力を仰ぎながら治療を進めるという選択肢があったはずなのだが、山口さんはこのような事件を起こすまでその状態で治療に専念することができなかった。

文春の記事は「山口さんは二重三重に守られている」と書いているのだがそれは違うのではないかと思う。彼らはテレビの視聴率やスポンサーというしがらみに管理されている。SMAPの騒動から見てわかるように、その檻の中から出て大人のアーティストになるのは不可能ではないがとても難しい。そんな中で弱さを「発症」させてしまえば、その弱さが破綻するまで表に出すことができないという過酷な社会に彼らは生きている。

その意味では年長者である城島さんと国分さんはより強く自分たちを檻の中に閉じ込めていたように思える。

事務所は問題が破滅的な終局を迎えるまで何もしなかったし、テレビ局もそれを傍観していた。さらに本人たちがそれに向き合おうとしているのに破綻させずに穏便なコンテンツに仕立ててしまった。彼らのたどたどしい敬語からその危うさの一端が伝わってくる。ジャーナリズムを装った番組の司会などをしているのでそれ風の敬語を使わなければならないのだが、それもできない。しかし、周りがそれ風に見せてしまうのでそこから逃れることもできないという具合だ。

この危うい牢獄が破綻すると「全ては本人の弱さが招いた問題である」というシナリオを書いて、それを仲間に演じさせた。彼ら仲間も同じように弱さを見せれば同じように葬られることになる。当事者が墓掘人夫にされたようなものだ。

考えれば考えるほど残酷なショーだったなと思う。

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山口達也メンバー報道の向こうにある犯人特定文化について考える

Twitterでは未だに山口達也メンバーの件について「部屋に上がった女性が悪い」とか「若い女性が部屋に上がり込むのがいけないという論がいけない」いう不毛な議論が流れてくる。何が起きたかではなく誰が悪いかばかりが議論される。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて考える。

その前にアメリカのあるTweetをご紹介したい。

この文章を書き始めたときにTwitterでたまたま見つけたのので、山口メンバーの件とは全く関係がない。英語ではこの「alleging」という言葉がよく使われる。これは確たる証拠はないのだがそのような疑いが持たれているというようなことを意味する。容疑あるいは疑われているということを意味するのだが容疑そのものを説明する言葉だ。人を表す容疑者はsuspectというのだが、これは犯人捜査をしている時に「容疑者が浮かび上がった」という意味で用いられることが多いように思える。allegingは行為に焦点が当たっていて、suspectは人に焦点が当たる。

この問題がで始めた時に「山口達也メンバー」という言葉が多用されて問題になり、テレビ局が言い訳に追われた。ジャニーズ以外にメンバーという言葉は使わないのだが、忖度をしていることを認めたくないテレビ局はあくまでも「公平な措置だ」と言い張ったのである。

これは書類送検された人が一律に容疑者と呼ばれることから来ているのだが、本来は強制わいせつの容疑がかけられた山口達也さんといえばすむだけの話である。ここでさん付けをすると「罪人を庇うのか」というクレームが入るのかもしれないし、人権意識が希薄だった昔の名残なのかもしれない。容疑がかかった時点で「準罪人」という意味で容疑者というレッテルを貼って一旦社会から隔離しようとする。しかし「容疑者」という言葉が使えないのでジャニーズに関しては別のレッテルを考えたのだ。今後このことが認知されるようになれば「メンバー」という言葉に新しい意味が加わることになるのだろう。

このように、日本には村落的な気風が残っている。村には平和を愛する一般人しか住んでいないから、警察沙汰になるような人はすべて村から排除しなければならない。そのため、異常者には社会的な刺青として「容疑者」という名前をつける。ところが日本社会はこれだけでは終わらない。

Quoraでたまたま「犯人の家を特定できる形で報道するのはどうしてか」という疑問があったので、今回の文章の要約したものを載せてみた。すると、住居が特定されたのでそのあと奥さんと子供がいじめられて奥さんが自殺したというようなコメントが戻ってきた。このことから罪を犯した人がムラから排除されるだけでなく一族郎等も排除されてしまう可能性があることがわかる。ワイドショーは明らかに異分子排除を目的にしているのだろう。

しかし、ここには排除されるべきもう一つの当事者がいる。それが被害者である。事件が起こるというのは「よっぽどのことがあったのだろうから」それに巻き込まれる方にも落ち度があったのだろうといって追い落としてしまうことがある。このようにして警察沙汰になった人たちをまるごと排除してしまえば難しいことを考えなくてもすむ。

日本型のムラはこのようにして問題を解決する。しかしこの解決策には問題が多い。何かしらの衝突が起こることは日常茶飯事のはずだが、いったん警察沙汰や騒ぎになると「当事者は全てコミュニティから切除する」ことになるので、言い出せない。例えば企業の不正告発やセクシャルハラスメントなど「言い出せない」ことは多く、これが社会を重苦しいものにしている。

さらに異常だと排除されてしまうというやり方では、常に村落の中で普通でいなければならないということになってしまう。オタク差別のところでみたのだが「普通でなければならない」というプレッシャーは近年さらに大きくなっているようである。中高年をすぎると「普通を装っていればいいんでしょう」などと図太くなれるのだが、現在社会には何が普通かという規範がないので、周辺にいる人ほど怯えを感じるようになるのだろう。

中でも一番顕著な問題は問題解決が難しくなるという点にあるようだ。世の中の複雑さは増してゆくのだが、問題は解決しないまま積み残しになる。そこで踏み越えては大変だという怯えがさらに増幅することになってしまうのであろう。

どうやら山口さんはアルコール依存症に陥っているようだ。仕事には行けていたことから「一歩手前だ」という分析も出ている。身体症状はなさそうだが精神的には依存が始まっているというのである。「意志が弱い」などと行っている人がいる一方で、実はアルコール依存になってしまうと意志の力でお酒を止めることはできないという経験談もある。このような状態に陥ると一生お酒を飲んではいけない。いずれにせよ、周囲の助言と本人の自覚が必要なのだ。しかし今回のメンバーたちの態度を見ていると、TOKIOは仕事上のつながりになっており、個人的な人間関係は希薄かしていたこともうかがえる。

だが、アルコール依存のことを持ち出すと「アルコール依存を持ち出せば罪が許されるのか」という人が出てくる。判断基準がやったことではなく人に結びついているからだろう。つまり「この人をムラから追い出すかどうか」が焦点なので、この人が追い出されるに値する悪い人なのかそうではないのかということだけが議論されるのだろう。

さらに女性の問題歯もっと複雑である。女性が社会進出するにあたっては様々なこれまでなかった問題が出てくることが予想される。例えば男性記者なら取材対象者に性的嫌がらせをされることはないが、女性が進出するとその可能性を事前に掴んで対応する必要が出てくる。ところが日本人はこれを全て本人の問題に落とし込んでしまうので、女性記者が気をつけないのがいけないという議論に帰着させようとする。同じように今回も女性のタレント候補がどうやったら自分の身を守れるかという議論をしないまま「行ったのが悪い」とか「いや悪くない」という議論で済まそうとしてしまうのだろう。

これらの議論は個別に行われる必要があるのだが、これが一緒になっている。それは事件のない平和な状態に戻すためには山口さんと被害女性がいなかったことにしてしまえば良いと考えてしまう人が多いからかもしれない。女性を弁護する人も同じようにムラ裁判に加わってしまい「山口さんが悪いのであって、ムラから排除されるのは山口さんだけで十分だ」と考えてしまう。だが、それではいけないのではないか。

この件で我々が学ぶことはいくつもある。例えばアルコールに問題を抱えている人を一人にしてはいけないし、すべてを自己責任で済ませることは難しい。女性は友達と連れ立ってでも男性の部屋に何の準備もなしに上がりこんではいけない。もし会うとしたら外の店などを選ぶべきである。

誰が悪いのかに注目しても問題は解決しないのだが、こうした刷り込みは小学校あたりから始まるように思える。学級会から学校で問題が起きた時「誰が悪いのか」という非難合戦が始まる。そこで「どうしたら問題が解決するのか」とか「再び問題が起きないのか」という議論にはならず、たいてい「みんなで仲良くしましょう」と言って終わりになる。いい人ばかりなら争いは起こらないでしょうという解決策をとりがちなのだ。

こうした問題は実は学級会だけでなく国会でも行われている。戦後70年も経ったのにまだ第二次世界大戦では日本は悪いものだったとかいやそうではなかったという議論が続いている。その結果「北朝鮮が悪いから懲らしめなければ」という結論となり東アジアの平和維持の枠組みから外されてしまった。

日本人の中には「犯人特定文化」が根強く残っている。みんなに居心地の良い環境を作り出すためにはこの文化の欠点をよく考えてみた方が良い。

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「山口メンバー」報道に思うこと

TOKIOのメンバーが2018/5/2に記者会見を開いた。過去何回か病院を巡ったが「アルコール依存症」との明確な診断は出ていないそうである。メンバーが知っていて無関心ではなかったということと、無関心でなかったとしてもプロの助けなしでは問題の解決が難しかったということがよくわかる。


TOKIOの「山口達也メンバー」が会見を開いた。ニュースが飛び込んできてから半日空いたので最初はジャニーズ事務所が隠蔽しているのではないかなど周辺のことが気になっていたのだが、本人の記者会見を聞いて考えが変わった。

一晩経ってまた考えが変わった。テレビ局も芸能事務所も「世論を侮っている」と思った。

初動対応はまさにパニックだった。関係者は表向きは反省しているようなことを言っているのだが、頭の中ではこの騒ぎが大きくなって自分たちに損害が及ぶことだけを恐れているのだろう。

NHKが最初にこの問題を伝えたのは火元が自分たちの番組だからだろう。子供向け番組の出演者を管理していなかったせいで起こってはいけない問題が起きてしまった。内部調整して発表する時間はない。調整の兆候が見えた時点で週刊誌は面白おかしく伝えるだろう。そこでまずニュースとして伝え「自分たちは知らなかった」風を装ったのかもしれない。

「NHKが不祥事に対して隠蔽体質なのはむかしからですが、報道局からあがってきた性犯罪をジャニーズだから、微罪だからといって握りつぶしたとしたら、どうなるか。特に今回は加害者被害者が、子供たちを育む役割のEテレから出たことは絶対に見過ごせない。万が一それが変な形で露見して、やはり組織ぐるみで隠していたのかとなったら、国民から受信料不払いが巻き起こり、へたすりゃNHKがつぶれるほどの大変な事態になります」(NHK幹部)

TBSはメンバーの国分太一が司会者をやっていることもあり、表面上は「山口メンバー」を糾弾するような様子を見せつつ、どうにかして穏便に抑えたいという気持ちを持っているようだった。テリー伊藤さんは「相手のあることだから」と言って相手に寄り添うような風を見せていたが、実際には「ことを大きくすべきではない」ということを主張していたのが印象的だった。

印象的だったのは国分さんが「福島の野菜は」と唐突に言及していたことである。まず頭にスポンサーなどのことがよぎったのだろう。ところが、徐々に国分メンバー(あるいは国分司会者)も山口メンバーのお酒の問題を知っていたことが明らかになる。知ってはいたが大した問題だとは思っていなかったようだ。実はこのことがこの問題の本質をよく表している。彼らは多分お酒の恐ろしさを知らなかったのだ。

問題を複雑にしているのはジャニーズ事務所の「隠蔽体質」と放送局の「忖度」体質である。大勢の有力なタレントを抱えているジャニーズ事務所は常々「メディアを押さえつけているのではないか」という疑惑が持たれている。だから放送局はことを荒立てたくないと考える一方で、忖度しているように思われてもならないということで頭がいっぱいになっているのだろう。確かにその意味では脚本はよく練られておりそのあとの対応も含めてよくできていた。芸能デスクという人が全てを統括してバラバラな意見が出ないようにしていた。TBSの芸能ニュースにとってジャニーズ事務所は重要なネタ元に当たる。それを守ることが最重要課題である。

だが、実際にジャニーズ事務所が隠蔽しているのは事件やタレントの商品価値ではないのだと思う。

視聴者は明らかに煮立っている。政治でも同じような問題が起こっているからだ。Twitterの一部には同じ山口である別の人を指差して比較する人たちもいた。権力者は決して不祥事を認めようとしない。だから、不倫や性的な問題に関してはすぐに「社会的生命に対する死刑判決」が出るようになった。これが累積し「この類の問題を起こしたら一発退場」という相場が作られている。普段政治問題について面白おかしく伝えているマスコミは自分たちが「忖度し隠す側になった」として視聴者から襲撃されることを恐れている。政治もテレビ局もこの問題はもはやバスティーユなのだ。

だが、その裏にある認識は「視聴者はバカだから問題について深く考える頭はないだろう」という侮りである。彼らは普段そういう「バカな視聴者」を念頭に番組を作っているのだろう。

だが、本人の会見でわかったことはかなりショッキングだった。本人はアルコールの問題で入院していたのに帰ってきてすぐにお酒を飲み酩酊状態になったということがわかった。さらに本人には自分がアルコール依存におちっているという認識がない。

焼酎を一本空けたという証言があることから山口さんがアルコールに対して歯止めを失っているのは明らかだ。一升瓶か5合瓶かなどと言っていた人もいるが、どちらにせよ「たしなむ程度」で一本空くことはない。このことから、病院では酒量を管理されていたことがわかる。病院から仕事場に通っていたのは多分私生活でこの人がお酒の量をコントロールできなくなっていたからである。つまり、周囲の人は異常を知っていたということになる。

テレビ局が侮っているはずの大衆は実は冷静だった。これはアルコール依存であり周囲のサポートなしには回復できないという意見がTwitterで見られるようになった。つまり世の中には問題を抱えている人やそれを専門的知見からサポートする人が大勢いるのである。だから、相談さえしてくれれば良かったのだ。

このズレの原因は明らかに事務所にある。もともと同性愛志向のある男性が自分の理想の少年を売り出したのがジャニーズ事務所である。そのこと自体は責められるべきではないし、女性たちとの間に共有のシンパシーもあったようだ。ただ、このため少年として魅力がなくなった男性アイドルは放置されることが多い。そこに商品価値を見つけているのが女性たちである。成熟した男性に商品価値をつける。

ただ彼女たちは女性であるがゆえに、男性が持つであろう問題については知識がなくまた無関心だった。

夢を売ること自体は悪いことではない。例えば宝塚はある年代の女性を使って夢を売っているが、彼女たちには第二のキャリアがある。宝塚歌劇団はそれ以降の女性を活用することができないからである。宝塚から巣立って女優になった人は多く、このシステムがうまく機能している。

一方ジャニーズ事務所はその特有の嫉妬心から独立を許さない気風がある。だから中年になってもアイドル以外の選択肢が持てない。彼らが抱える特有な問題はSMAPの3人が「テレビから干された」ことからもよくわかる。

山口さんは会見の中で「事務所の誰に相談していいかわからず」「メンバーにも言い出せなかった」と言っている。私生活上の問題については放任されていたのだろう。

少なくとも、メディアコントロールも含めて会社のマネジメントは極めてずさんだったということがわかる。なぜ酒量が増えたのかはわからないが、本人がコントロールできるような状態ではなかったようなので、周りが親身になって止めるべきだった。これができなかったのは、大人の男性が当然抱える問題に対する事務所の無関心があるのではないだろうか。

ジャニーズとお酒という問題は実は珍しくない。草彅剛さんが全裸で逮捕されたという事件もあったし、最近では「錦戸メンバー」が瑛太さんを殴ったという事件が伝えられた。逮捕が伴わない事件は他にも起きているのだろうがテレビが伝えることは滅多にない。

この問題を「では誰が悪いのか」というところに落とし込んでしまうと、もちろん本人が悪いということになるのだろう。しかしながら、実際には関係性の中で起きていたことがわかる。イメージが損なわれるようなことはできれば考えたくないという気持ちがここまで問題をエスカレートさせたということは認めたほうがよさそうだ。

もし人間が完全に理性的な存在であればこれほど複雑なことを考える必要はない。だが人間であれば自分ではコントロールできない問題を抱えるのが普通だし、トップアイドルも例外ではない。だからこそ周囲がサポートすべきだし、サポートできないなら潔く手放すという選択肢も考えるべきだ。

人間には様々な衝動がありそれを理性で押さえつけることができるとは限らない。我々はこのことを十分に知っておくべきだし、それを感知したら周りは助けの手を差し伸べるべきだろう。だが我々は一人ではない。同じような経験をした人がたくさんいるのである。

テレビ局は「ジャニーズ事務所を怒らせたらどうしよう」ということを考える前に「人間は弱い存在だが助け合いによって救われることもあるのだ」ということを再認識するべきではないかと思う。

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福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

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なぜ福田事務次官に女性記者をあてがってはいけないのか

お天気もよくなってきたので、Twitterをみながらファッションの記事でも書こうかと思って準備を進めてきた。こういう時はニュースもあまり見ないのだが、Twitterを眺めていると、福田事務次官が非難されるべきだとかテレビ朝日が悪いとかいうくだらない書き込みが散見される。江川紹子さんですらネトウヨのくだらない書き込みに反応していてちょっとくらい気持ちになった。

この人たちにははっきりと書かないと伝わらないんだなと思った。テレビ朝日が福田事務次官の性癖を知りながら女性記者を送っていたことには問題がある。だがそれは女性差別とはあまり関係がない。上司も女性だったという話もあるのだが、仮にそうだったとしたらこの上司も軽率だったし、上司が女性であるということも実はそれほど本質的ではない。

ではなぜ悪いのか。民主主義の根幹に関わる問題があるからだ。そしてそれがほとんど日本では理解されていないのである。

全く別の例をあげて説明したい。あなたは中小の企業に勤めている課長だ。企業のウェブを作成するのが主な仕事だが定期的な仕事も欲しいので大手広告代理店に営業マンを送っている。大手広告代理店には野心的でやり手の営業マンを送るのがよさそうだ。彼は昼夜を問わず熱心に仕事をして「代理店に大変かわいがられるように」なる。

これは喜ばしいことだろうか。

そのうち彼は「今度コンペがある。うちの体力には合わないがぜひ参加したい」と言い出す。さらに、今回は格安で仕事を受けてくれと言われたと言い出す。次にでかい仕事があるからその時に挽回できると約束してくれているなどともいう。あなたはマネージャーとしてこれを判断しなければならない。

だが、この人は十中八九大手広告代理店に取り込まれている。大きな会社に出入りして通行パスなどをもらうと「その会社の一員」になったような気がしてしまう。そこで所属企業にとって不利な提案などをするようになるのである。

もちろん「彼が取り込まれている」というのは疑惑でしかない。なぜならば、彼の提案はそれなりに理屈が通っているからだ。代理店の仕事は無くしたくないが担当を変えれば仕事がなくなるかもしれない。彼のパイプで取れている仕事も多いだろう。だが、広告代理店の言いなりになれば、リソースだけを浪費されることになるかもしれない。

彼が取り込まれているかを確かめるすべはない。彼はプライベートでも代理店と仲が良い。さらに代理店も騙すつもりでやっているわけではないかもしれない。代理店には代理店の事情がある。中で競争を抱えているので少しでも有利な条件で働いてくれるハウスを抱えておく必要があり、営業マンを「かわいがる」のである。彼らにも悪気はなく、今回だけのつもりかもしれないが、一度「美味しい思い」をしてしまえば次も頼りたくなる。そういうものなのだ。

ここで営業マンが男性か女性かというのは大した問題ではない。しかし、もし仮に女性を一人で担当としてつけていたとしたらどうだろうか。しかもその人は大変女癖が悪いということが知られている。多分「何か問題があった時」にはあなたは糾弾される。そしてあなたが男性か女性かということはそれほど問題にならないだろう。

これが問題なのはどうしてか。それは営業マンが代理人だからである。代理人とは、ある種の権限を与えて任せている人のことを指す。もし彼が企業の代表者であれば経営者としての「ソロバン」が働くだろうから、搾取されるだけになる仕事は受けないだろう。もし仮に癒着したとしてもそれはそれで仕方がない。会社が潰れても自己責任である。

同じことが国レベルでも言える。安倍首相はトランプ大統領と大変仲良くなってゴルフのラウンドを回る。トランプ大統領は「嫌なことを言わず」「忠実にゴルフに従ってくれる」し「ゴルフ場の宣伝にもなる」のでこの首相を大変気に入っているようだ。日本国民も「アメリカの大統領と近しい関係になれば優遇してもらえるかも」と期待している。だが安倍首相は利用されるだけなのでトランプ大統領は重要なことは安倍首相には相談しなくなるだろう。トランプ大統領はお金持ちなので彼のお金に群がってくる人をたくさん「いなして」いる。安倍首相はそのうちの一人に過ぎない。

もし安倍首相が日本の独裁者の家系に生まれたのならそれでも問題はない。体制に関わるようなディールには応じないだろうし、彼の国なのだからそれは彼が決められる問題である。だが彼は選挙で約束してその地位にあるに過ぎない。もし気分を良くして「自分はアメリカから日本の統治を任されているのだ」などと誤認したらどうだろう。ゴルフの間には政府高官も入らないので記録も残らない。だから、あとでチェックをすることもできない。

では日本人がこれを怖いと思わないのは何故なのだろうか。それは終身雇用のもとで「この人はずっとうちの人間だから裏切ることはないだろう」と思っているからだ。冒頭のウェブハウスの例が怖いのは新しい産業には転職があり、営業マンが相手の会社や別の会社にアカウントごと移ってしまう可能性があるからである。また代理店側にも有期雇用の社員がおり競争のために過度のダンピングを強要する場合がある。村落的な制御装置が働きにくいのだ。

これを定式化すると次のようになる。日本は村落から家業が生まれた。いったんは企業という契約・委託関係の集団を作ったがうまくゆかず、そのうちに擬似家族的に忠誠心を保証するような企業形態が生まれる。終身雇用は従業員からみた安全保障でもあるか、企業もまた従業員の忠誠を買っている。雇用関係が結べない場合には系列店を作って「公私ともに」世話をするようになった。こうした固定的な環境では村落的な慣行はそれほど害悪になることはない。しかし、近年では雇用が流動化してきており「契約」に基づいた権限の移譲が行われるようになってきた。

中高年を中心に「その会社の所属員は絶対に企業を裏切らないだろう」と思っている人は多い。なぜならば契約型の社会を知らないからだ。契約型社会では人は裏切る可能性がある。政治の世界でも同じようなことが起きている。安倍首相は日本人だから日本を裏切るはずはないと思っているのだが、それは自民党が政権を手放す可能性がなかったからだろう。現在では政権交代が起こり得る。これが裏切りの温床になるのだ。

それでも慣行を疑いの目で見ることは難しい。例えば安倍首相が金正恩と仲が良く一緒にスキーをする仲だったら何が起きているかを考えてみると良い。突然、安倍首相が「拉致問題は解決済みだ」と宣言し、北朝鮮と友好条約を結んで巨額のお詫び金を支払うことになったと発表したら国民は大反発するだろう。だが「個人の親密な関係をもとにした検証不可能な提案」という意味では、実は現在の日米関係とさほど変わりはない。違うのは文脈だけである。アメリカは良い国で北朝鮮は悪い国とされているのだが、誰がそれを保証してくれるというのだろうか。

さらにトランプ大統領が習近平主席と個人的に親密であり一対一で会合を重ねていたとしたらどうだろうか。多分トランプ大統領は中国との親密な関係が疑われて「アメリカに不利なことを約束しているのではないか」と思われるに違いない。日本も当然そう思うだろう。

さて、ここで改めてテレビ朝日の問題を見てみよう。女性記者が福田事務次官と緊密な関係を持ちスクープを連発してくるようになる。普段から性癖に問題があるとされている人だが明確な証拠はない。二つの疑惑が生まれる。一つは親密な関係を保つために福田事務次官が国の情報を売り渡しているというもので、もう一つはテレビ朝日の女性記者が世論誘導のためにリークを利用しているというものだ。おそらくは両方が疑われるだろう。

実際にこうしたことは起きている。NHKの岩田解説員は何かにつけ安倍政権擁護の極端な論を展開するという疑惑が持たれているが確証はない。ここで「時々親密に寿司を食べているらしい」という話が流れてくる。視聴者は岩田さんのいうことをどれくらい信用すべきだろうか。もしかしたら公平な人かもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは岩田さんは公平なつもりでも客観的に自分の立ち位置を見られなくなっている可能性もある。なんら保証はない。

もし仮にそれが田崎史郎さん(食事もしているしお金も渡っているのではないかという噂がある)の場合どうだろうか。田崎さんが菅官房長官と恋愛関係にあるとは思えないが、個人的な親密さが情報の信憑性を損ないかねないという意味では同じことが起きている。田崎さんに違和感がないのはテレビ局がそれをわかって代理人として使っているからなのだが果たしてそれは国民の知る権利にとってはいいことなのだろうか。

それでも「日本は昔からそうだった」という人もいるかもしれない。目を覚ませと言いたい。私たちは検証不可能な親密さが一年以上に渡って国会審議を空転させてきた状態を見ている。安倍首相は加計学園の理事長と旧知の関係だった。プロセス上は問題がなかったようだし、公式の記録からは安倍首相が直接的に関わったという証拠も出ていない。国会で追求しても確たる証拠は出てこないし、出てきたとしても最終的に追い詰めることはできない。でも多分何か不公正なことは行われているだろう。でなければ官僚が総出で嘘をついたり、あとから資料が<発見>されることなどありえない。

モリカケ問題も不透明な外交もセクハラ問題も全てつながっている。これは偶然でもでっち上げでもなく、私たちの民主主義が多分に固定的な関係に基づく村落的な面影を残しているからである。

プライベートな領域に踏み込んでしまうと後で検証ができなくなるので公私は分けなければならない。それは民主主義のプロセス全般に言える。つまり、テレビ朝日の件は「報道機関がプライベートで仲良くなって情報を取ろうとした」こと自体に問題がある。そしてそれが問題なのは権限を委託されている人どうしが第三者に対して検証不可能なことをやってはいけないからだ。

そして、それは終身雇用が崩壊しつつあるビジネス社会にも当てはまることであって、女性だからどうだといった類の話ではないのである。

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女性記者が福田事務次官を告発したことの本当の意味、とは何か

福田事務次官が辞任したが、まだこの問題は収まっていないらしく「テレビ朝日けしからん」というような話になりつつある。ネトウヨの人たちが朝日を嫌っているのはわかっているのでまあいいとして、リベラルの人たちも好意的な見方はしていないようだ。

昨日のエントリーではテレビ朝日けしからんというような書き方をしたのに態度を変えるのかといわれそうなのだが、みんなが朝日系列叩きを始めると、価値判断なしにこの女性記者の是非を考えたくなった。へそ曲がりと言われればそれだけなのだが、価値判断なしに何かを考えるのは実は難しい。

しばらく考えていたのだがよくわからない。そもそも、なぜわからないのだろうかと考えた。普通の企業であれば記者の稼働時間というのはコストなので情報を得るコストと価値を天秤にかければよい。だがそれができない。理由はいくつかある。

第一の理由はどこのテレビ局も同じような情報を流しており情報に価値がないからだ。極論すると政府広報と民放一局で良いのではないかと思える。あとは週刊誌が二誌あれば良い。競争が働くのでそれなりのスクープ合戦が起こるだろう。

また人件費の問題に落とし込むのも難しそうだ。日本の記者というのはオフィシャルの情報をとってくるだけではダメで私生活に食い込んで「本音の話を聞く」のが良いとされているらしい。このブログでは普段から非公式な意思決定ルートが民主主義にとって害悪であるという論を採用しているので、まあこの線でアプローチしてみても良いのかなと思った。だが、実際には「みんながやっている」ことを一社だけ降りるのは難しそうだ。

福田財務事務次官というのは、女性記者が私生活を切り売りして情報をとる価値がある相手なのかと考えた。仲良くなって取れる情報というのは「いずれは公になる情報を他社より少し早く知ることができる」か「財務省が流したい情報をオフレコと称して流す」という二つが考えられる。もしこれが株価に関係するような内容であればいち早く情報を取ってくるのは重要だろうが、そんな情報を軽々しく流すとは思えないので、結局は情報機関の自己満足か財務省のために使われるということになる。だからこの一連の取材活動は無駄だと言える。

だが、そもそも記者が私生活を切り売りしていることが報道社のコストであるなどという論調はどこにもない。これはなぜかと考えてみた。第一に記者たちが仕事時間と私生活を切り離していないという事情があるだろう。つまり「私生活に切り込んでなんぼ」と記者を<洗脳>することで報道社はブラックな職場環境を作っていることになる。ブラックでも記者というのは特権的でやりがいがある仕事とされているので「女性だから使えない」とは思われたくないのだろう。

ではなぜ報道社の記者というのは特別なのだろうか。それは報道社が特別だからだ。ではなぜ報道社は特権的な地位が得られるのか。それは記者クラブがあるからである。女性記者はフリーになるかネットメディアの記者になるという選択肢があったはずだが、いずれも記者クラブから排除されるので取材活動そのものができなくなる可能性が高い。皮肉なことに今回のテレビ朝日の深夜会見でもネットメディアは排除されていたらしい。

記者クラブが特権的な地位を得ることで、労働者である記者は隷属的な地位に置かれるのだが、それ以上の問題がある。国民は新しい視点からの情報を得ることはできないのだ。すると、財務省は「特権的な地位」の許認可権限を握っていることになる。これが報道社から便宜供与を受ける理由になる。

それなりにメディア倫理が働いていると指摘する人もいるのだろうが、普段から行状に問題がある人のセクハラすら告発できない会社が、財務省に都合が悪い情報を流せるはずはない。当然、女性記者の上司のように何かの理由をつけて自粛するはずだ。そしてそれは国民の知る権利を阻害しているということになる。

結局「記者クラブが悪い」ということになった。期せずしてわかったのはこれが単に女性や労働者の人権問題であるだけでなく、国民の知る権利に関わっているということだ。福田事務次官の「名乗り出ることもできないだろう」という強気の裏には「国民の知る権利などというのは高級官僚の胸先三寸で決まるのだ」という確証があったのではないかと思う。「報道各社も独占的に情報を得ることでおいしい思いをしてきたでしょ」ということだ。

そう考えるとこの女性記者が発したメッセージの意味は実は我々が考えているよりもっと重いものなのかもしれない。女性記者が守られるためには「テレビ朝日の配慮を」というような声があるのだが、多分テレビ朝日はあてにならない。当座は女性ジャーナリストが連携して彼女を守る必要があるのだろうが、実はフリーの記者を含めた人たちが連携して彼女を守らなければならないのではないかと思える。これは独占的に情報を占有している報道者と官僚機構の共犯意識から生まれたハラスメントだからだ。

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福田事務次官辞任騒ぎにみる女性差別の恐ろしさ

先日財務省の福田事務次官について書いた。だが、ネットを見ているとそれでも名乗りでなければならないというような論調がある。例えばこの記事は「名のり出なければ福田事務次官の不戦勝になる」と言っている。真実を明らかにするためには名のり出なければならないと言っているのだが、実際にはそうはならなかった。

この記事の前提には「真実は明らかにならなければならない」という前提がある。これが間違っていると思いその筋で一本書こうと思っていた。現在の民主主義にとって「真実」などどうでもいいことだからだ。安倍政権は明らかにクロなのだが、それを認めないことで「まあ、仕方がないか」というような印象操作をしてきた。この背景には有権者の諦めがある。政権交代をしても政治は良くならなかった。だったらもう諦めてしまえという思いが強いのではないかと思う。だが、それは諸刃の刃だった。有権者が体感からこれは「クロだな」と思ってしまうと合理的な説明はきかなくなる。福田さんの件はこの最初の事例になった。政権が動かない分個人に矛先が向かうのである。「やめさせてどうなるの」と思うのだが、そんなことはもうどうでも良いと思われてしまうのだ。

女性は普段からなんとなく「自分たちは不遇な立場に置かれている」という気持ちを持っている。だが、それはなんらかの理由で証明されない。これを「ガラスの天井」などと言っている。今回はそれがたまたま「明らかに嘘つきの政権」と結びついたことで「ああ、やっぱり男社会は女を差別して嘘をついているのだ」という確証に変わってしまった。福田事務次官が何をやったかというよりも、男性社会がそれを総出でかばっているということが問題視されるのである。

もう一つ安倍政権にとって不利な状況がある。官邸側は福田事務次官の辞任に動いたのだが、安倍首相の部下であるはずの麻生財務大臣が応じなかったという。任命は内閣人事局マターのはずなのだが、これまで人事に関する問題は各省庁に答弁を丸投げしていた。これを逆手にとられて「やめさせられない」と言われてしまうと官邸は何もできなくなってしまうということがわかった。もう安倍首相にかつての求心力はない。

ただ、この問題は実はここまででは終わらなさそうだ。テレビ朝日に飛び火したのだ。テレビ朝日の女性記者が会社に訴えたものの受け入れられず、やむなく週刊誌に流したという。さらに何もしなかったことに申しひらきができないと思ったのかあとになって会社側は「財務省に抗議する」と言っている。だが、それは福田事務次官がやめてしまったあとだった。テレビ朝日の動きが辞任につながったという批判を恐れたのだろう。

このことから女性の置かれているダブルバインドが可視化された。表向きは平等ということになっているが、実際のメッセージは男性並みになることを求められる。それは女性であることを捨てて男性性を帯びるということである。男性並みに家庭を顧みずに働くことを求められ、女性を蔑視して「言葉遊びを楽しむ」特権を許容するように振る舞わなければならない。さらに母性は弱さだと認識されると子供を作ることを諦めなければならない。しかし、場合によっては女性として男性の玩具になることも求められ、それを会社に訴えても「我慢しろ」と言われる。会社にとって「女性のような弱いもの」が政治記者というスーパーサラリーマンであることは許容されないからだ。明らかに根拠のないエリート意識を持っていて女性蔑視を特権だと認識する社会が間違っているのだが、それを是認しろと迫られるのである。この状態でアイデンティティクライシスに陥らない人がいるとしたら、その人は多分すでに少しおかしくなっているはずだ。

どうやら女性記者は複数回福田次官からセクハラを受けていたようだ。しかしテレビ朝日はそれを公表せず、事態が動いたことから慌てて深夜に記者会見を行った。上司に相談したというが上司が組織的に対応したのかは明らかにしていない。多分受け皿そのものがないのではない上に、男女平等が何を意味するのかを教育する仕組みもなかったのではないだろうか。

福田さんは週刊誌と女性を訴えれば良いと思う。彼の行状が司法の場で明らかになり、テレビ朝日が組織的な対応をしなかったことは社会的に明らかにされるべきだろう。そしてそれは社会的に非難されるべきだ。しかし、実際にやるべきことは少なくとも表向きではあったとしても「男女平等」というものが「女性の男性化」でも「男と一緒になって女性蔑視のある状況で働くこと」でもないということを教える学習の機会を従業員に与えることである。

民法労連は「女性が現場から切り離されることがあってはならない」と恐れているようだが、このような嫌がらせを前提にしか情報が取れないなら、その報道自体をやめるべきではないかと思う。取れたとしてもせいぜいインサイダー情報程度で大勢には影響のない永田町と霞ヶ関の内部事情にすぎないからである。いずれにしてもこの声明も「女性が社会で働くこと」についてあまり整理がなされていないことを意味しているように思える。

いずれにせよテレビ朝日はこの状況を被害者ではなく加害者として総括すべきだろう。

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