なぜネットの人民裁判は完全に追い込むまで終わらないのか

今回は短くネットの人民裁判が個人を完全に追い込むまで終わらない理由について考える。

先日、至学館の栄監督が伊調馨選手に謝罪した。しかし「コミュニケーションの問題だ」として実質的には非を認めなかった。さらに学長も「選手はたくさんいる」と従来の主張を繰り返した。つまり自分たちが可愛がってこなかった伊調馨選手に振り回されたくないというのだ。ワイドショーでは情報が錯綜しており、伊調馨さんを会見場に呼びつけたという人もいれば、実はレスリング協会側が気を利かせて問題を終わらせようとしたという人もいる。伊調馨さん側は「まだ内閣府の処分も出ていない段階で手打ちに応じた」ことにしてしまうと問題がうやむやに終わりかねないということを恐れているようだ。組織防衛のために問題を終わらせようとした学校側と納得しない選手側」が対立していることになる。学校が勝てばパワハラが正当化される。

謝罪に意味があるのは再発防止策を伴うからなのだが、栄監督は組織に守られており、至学館では同じような問題が繰り返される素地が温存されたことになる。「こう謝罪しておけばよい」というフォーマットができたことで問題の構造が温存される可能性もある。実際に政府はそうなっている。いつの間にか「文書はごまかしても刑事罰がない」し「官僚を形式的に罰しておけば政治家にはお咎めがない」というニューノーマルができてしまった。

学長が謝罪したくない気持ちはわかる。世間に負けたことになってしまうからである。麻生財務大臣が世間に部下の問題を謝罪することを「負けた」と感じるのに似ている。村のなわばりを気にする日本人には自然な感情だろう。コンプライアンスを気にするアメリカは企業を社会の構成要素の一つと考えるが、日本人は組織を独立した閉鎖的な村であり、他人からとやかく言われたくないと思うわけである。

この問題はこのままで終わるかもしれないし終わらないかもしれない。終わらないと考える人はレスリング協会という「公共性の高い」組織の問題を指摘している。栄さんはプライベートな空間で活動することはできるだろうが、この先公共性の高い組織には出てこれないかもしれない。日大はここで失敗した。学連という公共性の高い組織に対して非を認めなかったことで学連は排除された。問題は日大の反社会性の問題になっており、今後は企業や学生の親たちが日大をどう承認するかという問題になるだろう。

同じことはなんちゃって軍歌を歌ったRADWIMPSの野田さんにも言える。騒ぎに驚いて謝罪文を出したがライブでは「自分の国を愛して何が悪い」と開き直ったそうだ。つまりネット世論には屈したが、自分は愛すべきファンに囲まれており「このコンテクストでは自分は悪くない」と感じているというのである。彼らの村がどの範囲なのかはわからないが一体化した陶酔感に包まれているのかもしれない。

これらに共通するのは村という閉鎖空間の問題とそこにある「甘え」の存在である。親密な集団に囲まれている人は「集団から守ってもらえる」と感じて反省しない。もちろん形通りの謝罪はするが同じことを繰り返すだろう。

もし仮に日本人がしっかりとした個人を持っていれば「少なくとも公の場ではこういうことをいうのはやめておこう」という規範を身につけるだろう。しかし、集団に守られていると感じると結局それを忘れてしまい外側にいる人たちを苛立たせる。

例えばアメリカにも反社会的な人種差別感情はあるがこれが表に出ることは絶対にない。だが、白人同士の仲間内でどのようなことが話し合われているかはわからない。それはプライバシーとして保護されている。日本は「組織」が間に介在することでこれが複雑化するのだろう。

苛立った人たちは様々な手段に訴える。問題が加熱している時には「集団が白旗をあげて捕虜を引き渡す」ことを確認するまでいつまでも叩き続けることがある。これが炎上である。だが、非を認めない集団がそのまま残り続けると「アンチ」と呼ばれる人たちが蓄積する。安倍政権はアンチを過激化させたままで存続しており、何をしてもアレルギー反応が出る。

つまり、日本人の人民裁判が過激化するのは、個人の倫理が組織と癒着してしまうからなのだろう。問題を起こした人が「新しい約束」を交わす経路ができていれば問題は沈静化できる。また、甘えがあり「やはり認めてほしい」と従来の主張を繰り返すと問題が再燃する。組織や仲間が絡んでくると「自分だけで約束を交わす」ことができなくなり、問題が複雑化するのではないだろうか。

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服を捨てる・政治的主張を捨てる

今回はファッションを参考にTwitterの政治表現について考える。Twitterに疲れているという人は読んでいただきたいのだが「Twitterは馬鹿ばかりだから困る」という結論を求めている人に気にいる内容ではないかもしれない。最初はTwitterについて書き始めたのだが、それだけではまとめるのが難しかった。政治表現にはそれなりの「特別感」があるうえに、問題が多すぎてどこから手をつけて良いかわからない。現在のTwitter議論はそれくらい閉塞して見える。

バブルの頃には洋服にはあまり興味がなかった。ファッションに関心を持つようになったのは太ったからだった。太っても着られる服を探そうと思ったのだ。意外なことに、「自分が変わった方が早い」と思うようになった。つまり、服を探すよりも痩せたほうが早いということだ。体重が減ると似合う服が増えて試行錯誤する必要はなくなった。

つまり、他人や周囲の状況を変えるより自分が変わった方が早いということになる。確かに、自分以外はすべて馬鹿なのかもしれないし、体制に騙されているかもしれないのだが、それを考えてみても実はしかがたないことなのだ。

だが、これは相手に迎合しているというのとは違っている。つまり好きな服を着ているのだが、それがどう似合うのかということを覚えて行けばよいのだ。

洋服については別の感想も持った。体型が変わっても古い服を捨てられなかった。服を捨てられないのでサイズの大きなものばかりになってしまう。これらを思い切って捨てたのだが、間違いが少なくなった。ファッションに間違いなどあるはずはないという人もいると思うのだが、実際には「決まりにくい」組み合わせが存在する。

同じことは政治議論にも言える。深く知れば意見も変わってくる。これは不思議なことでもいけないことでもない。

大きく意見が変わった問題に憲法改正がある。もともとは第九条に関しては護憲派だったのだが、いろいろ見て行くうちに「ああ、これは無理だな」と思うようになった。さらに、自分で考えたことを護憲派の人にぶつけても芳しい意見は戻ってこない。現在の憲法は占領下の特殊な条件の元で作られており現在の国際情勢と合致しない。今変えたくないのは単に政治状況が信頼できないからにすぎない。

しかし、そもそも自分がどのようなポジションをとっているかどうかはどうやったらわかるのだろうか。

洋服の場合は定期的に投稿することである程度客観視ができる。後で見直すことができるからである。最初の頃は明らかに似合わない格好をしているが一年経つとかなり体型が変わっているので去年は成立しなかったものが成立するようになる。また、最初は見た目をよくしたいとかこれは自分ではないなどと考えたりするのだが、半年くらいすると「よく知っている他人」を見ているような感覚にもなる。これが「ある程度の」客観視である。

公式な場で政治的発言をしなかった日本人が「思い切って」政治的発言に踏み込むと、同時にポジションにコミットしてしまい動けなくなる。これは、客観視が進まないからなのかもしれない。つまりそれを発信している自分について実はよく見ていないのではないだろうか。

さらに、何が自分にあっているのかどうかはやってみないとわからない。洋服は試着しているべきだし、意見は発信してみる必要がある。だから、政治議論にも「試着」があるべきなのではないかとすら思う。

なぜ日本人は洋服の試着はするのに政治議論の試着はしないのだろうか。意識的にポジションをバラしてみて自分に似合うものを決めればよいのではないかと思うが、どうしても政治だと「こうしなければならない」という思い込みがあるのではないか。

そうこう考えてみると、洋服の場合にも同じような時代があったのを思い出した。バブルの頃にはスーツはこう着こなさなければならないというようなプロトコール論が流行っていたことがある。落合正勝の本を読んだことがあるという人もいるのではないか。この時期に「いろいろ試着してみるべき」という発想はなかった。また西海岸のライフスタイルを紹介するPOPEYEのような雑誌も存在したが、実際の西海岸とは違ったある種フィクションのようなものだった。これも「ライフスタイルはこうあるべきだ」という思い込みを生んでいた。

逆にスーツは堅苦しいからいやだとなると、それをだらしなく着崩した竹の子族のような格好になってしまう。当事者たちは「日本風にアレンジした」と思っていたはずだが、周りから見ると単に奇妙でだらしないだけだ。スーツを着ているのが今の「サヨク」と呼ばれる人たちで、逆に竹の子族に当たるのが「ネトウヨ」なのかもしれない。

だが今ではそのように極端なファッションの人はあまりいない。それぞれが自分の身の丈にあった洋服を着ている。逆に「洋服はこう着こなさなければならない」と語る人は少なくなった。洋服について語ることが特別なことではなくなり、生活の中に定着してきたからなのだろう。

考え始めた時には「このTwitterの殺伐とした状況はもうどうにもならないのかもしれない」とか「ここから脱却するためにはかなり努力が必要なのではないか」などと悲観的に思っていたのだが、改めて書いてみて、10年もすれば政治議論も落ち着いてくるのかもしれないなと思った。

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野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

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お前個人の意見なんか聞いていないと叫ぶ人々

内心と規範の形成について考えている。まず、外骨格型と内骨格型にわけて、内心が内部に留まって規範化し罪悪感として知覚されるか、外側に蓄積されて社会的圧力として発達するのかというようなことを考えてきた。

今回は「お前の個人的な意見なんか聞いていない」について考える。よく、会社の会議などで使われる言葉だが否定されて悲しい気分になるのと同時に「では集団の合意があるのか」と考え込んでしまう。あるいはすでに集団の合意があって儀式的に上程された話題が審議されている場合もあるのだが、中にはどうしていいのかわからないのでアイディアを募る会議で使われる場合もある。

アイディアを募る会議は紛糾しているか意気消沈していて誰も自分の意見を言わないことが多く「集団の合意」などはない。そこで「お前の意見は聞いていない」と怒鳴りつけることでさらに場の空気が萎縮する。

いずれにせよ日本人は集団で成果が証明されている正解には殺到するが個人の意見は重んじない傾向があり、これが成長を阻害している。新しいことを試さなければブレークスルーはないからである。

先日面白い体験をした。キリスト教とに「聖書は作り話だ」と言ってはいけないという人がいたのだ。この考え方はいっけん「相手の内心を尊重している」ように聞こえるかもしれないが、実は大変に危険な考え方である。アメリカには聖書に書いてあることはすべて正しいと考える一派がいて福音派と言われている。彼らは「原理主義的に聖書を信仰している」という意味で日本のネトウヨに近く、例えば進化論を学校で教えることが認められないので、子供を学校に通わせないというようなことが起きている。

もともとキリスト教世界は地動説を採用していたというような歴史もあり聖書を読むときにある程度懐疑的になるように教える伝統がある。特にプロテスタント世界ではこの傾向が強いのではないかと思われる。科学的には聖書には作り話が含まれていると考えないと解けない問題も多い。さらに「たった三人の弟子がイエスが生き返ったからキリストになった」と言っているだけなので表面的なお話にはそれほどの信憑性はない。このためミッションスクールでは子供がある程度物心がついた頃に「すべてが真実ではないかもしれない」と教える。つまり、すべてが作り話ではないものの、批判的に受け止めるようにと習うのだ。さらにミッションスクールは非キリスト教徒の改宗を強要しない。

もちろんこれには段階がある。まず絵本やクリスマスの劇を通じて聖書の物語を教える。そして任意で聖書研究などの課外授業がを提供する。課外授業に参加できるくらいになると「疑ってかかるように」と言われる。そのあとの経験はないが、さらに信者になると教派ごとの「このラインは真実」というものを教わるのだと思う。

これについて強めに主張したところ「信徒の個人的意見は聞いていない」と切り返された。ここから推察できる点がいくつかある。まず、もともと集団主義的な社会で人格形成をしているのだろうから個人の意見を軽く受け止めるのだろう。

次にこの人は聖書を引き合いに出してはいるが、多分言いたいことは別にあるのだろう。例えば自分の核になる生き方を否定されたとか、好きなアニメ(人によっては人格の根幹にある大切なものかもしれない)を否定されたとかそのようなことだ。

だが個人の意見を強めに主張できないので「すべての人が否定できないであろう」ものを持ってくることで代替えしようとしたのではないかと思われる。この人が言いたいのは「人が大切にしているものを否定してはならない」というものである。内面に断層があるので「聖書とキリスト教」の話にされると混乱するのだろう。

こうした「インダイレクト」なほのめかしは日本人にとってはそれほど珍しいものではない。英語圏での明示的な経験がある人以外はほぼすべての人がなんらかのインダイレクトさを持っている。ある種の隠蔽だが日本人にとっては社会と円滑に暮らすための知恵なのかもしれない。だが、結果的には異なるトピックについて議論をしていることになり議論が解題しなくなるという欠点がある。

このように日本人は集団での議論による背骨の形成ができない。どこかにすでに存在する外殻に体を収めることで安定するのである。だから、成長したときに新しい外殻が見つけられないとそれ以上成長ができない。一方内骨格型の人たちは成長に合わせて背骨を補強することができる。だが、それが折れてしまうと深刻なダメージを受ける。外骨格型の人たちは例えば「明日から民主主義にしよう」といえば簡単に乗り換えられる。古い骨格を捨てて新しい骨格に乗り換えるだけで、実は中身に変化はないからだ。

信条が内側にないということのイメージはなかなかしにくいがこの人は面白いことをいくつも言っていた。どうやら信仰心を持つということについて「周囲の評判を気にする」ようなのだ。キリスト教ではこのような考え方はしないと思われる。特に非キリスト教圏のクリスチャンは選択的にキリスト教を選択するのでこの傾向が強いのではないかと思われるし、教派によっては幼児洗礼を認めないところもある。

第一にキリスト教はその成立段階で「狂信」とされており社会から否定されてきた。いわゆる「聖人」と呼ばれている人たちの多くは殉教者であり「否定された」だけでなくなぶり殺された人たちである。信仰とは内心の問題なので、非キリスト教徒がどう思おうとそれほど気にしない。コリント人への第一の手紙の中にも当時マイノリティであったキリスト教徒はコミュニティの外にいる人たちのことを気にするなというような話が出てくる。迫害されていた頃の教会の歴史と基本的な信徒が守るべき規範が書かれているので聖書に残っているものと思われる。

日本ではクリスチャンはマイノリティなので「聖書なんか作り話だ」と言われるのも多分日常茶飯事なのではないかと思う。このためクリスチャンの著名人でもその信仰を全く口にしない人が多い。石破茂も麻生太郎もクリスチャンだが、聞かれない限りは信仰の話はしない。かといって隠しているわけではないので、石破茂などは聖書の話をしているようである。内心の問題なので外の人にどう思われようと実はそれはあまり重要なことではないのである。

今回少し会話した人は、他人の目というものを気にしていて、それによって自分の信仰が変わるという前提を置いて話をしている。「いちいち腹立てたら宗教なんかやってられない」と言っているので、宗教というのはその人の規範の骨格ではないということもほのめかされている。

この「人の目を気にする」というのはやはり規範意識が外にあって、内部の規範意識に影響を与えているということを意味しているように思える。内部規範型の人間は内部の規範と実践のずれに罪悪感を感じるのだが、外部規範型の人たちは「外の評価」と実践のずれに罪悪感を感じ、自分は間違っているのではないかと思うのだろう。

他に適当な学術用語があるのかもしれないが、内側に規範を持っている人間と外側に規範がある人間の間にはこれほどの相違があってお互いに意思疎通することが難しい。政治の世界では「選挙で勝ち続けて罰せられなければ何をやっても構わない」と考える安倍晋三が人気なのは外骨格型の人たちに支持されているからだろう。石破茂には「芯」があるので「融通がきかない人」とネガティブに捉えられることがある。政治評論家の中には「プロセス原理主義」で国会の承認プロセスを重視するので国会議員に人気がないという人もいる。つまり国会議員は憲法で定められたプロセスはまどろっこしいので好きにやりたいと思っている人が多いということである。

前回のエントリーで観察したのは「社会の決まりを守らなければならない」という人がその漠然とした気持ちを表出することで結果的にポジションにコミットした事例である。言語化されない気持ちはクラゲのように海を漂い、それが外骨格を見つけることでそこに固着してしまうのである。この雛形が日本では安倍政権に代表されるような考え方なのだろう。

だが、今回見た例は少しわかりにくい。「内心を大切にすべきだ」という主張であってもその対象物にそれほど興味はなさそうだ。試しに「聖書の一節でも読んで研究して発言してみては」と提案してみたのだが「上から目線で押し付けてくる」と反発された。こういう人たちが惹きつけられるのは「戦争はいけない」とか「一人一人の気持ちが大切だ」というようなありものの外骨格だ。誰もが否定できないからこそ外骨格としてふさわしいのだろう。だからこういう人に「聖書を読んで勉強してみよう」とか「戦争の歴史について調べて憲法第9条への知見を深めるべきだ」と言ってみたところであまり意味はない。彼らはすでにそれを「証明済みでわかりきったもの」と理解するからである。

そう考えると、ネトウヨとサヨクの対立は実は同根であるということがわかる。どちらも「より大きくて確実な」鎧を探しているうちに政治議論に行き着く。つまり、政治は問題解決の道具ではなく身を守り自分を大きく見せるための鎧なのだろう。だから日本の政治議論はいつまでも決着点が見つからないのだ。

お前個人の意見なんか聞いていないという人は「大きくて立派な殻」を探すので、個人の意見は取るに足らない小さな貝殻にしか見えないのだろう。ただ彼らに殻に関するクイズを出してはいけない。決して理解した上で殻を採用しているわけではないからだ。だから平和主義者に憲法第9条について聞いてはいけないし、立憲主義を大切にする人に民主主義について尋ねるのもよくない。さらに付け加えるならば「神武天皇のお志を体現した憲法」がどんなものかについて検討するのも無駄なのである。

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日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてかという疑問

政治を離れて内心と規範の形成について考えている。内側に規範を蓄積してゆく内骨格型と集団に規範を蓄積してゆく外骨格型があるというのが仮説である。ただ、内容を細かく見ていると、外骨格型であっても内部に規範の蓄積がないというわけではないようだ。しかし、内骨格型とはプロセスの順番が違っており、違った仕組みで蓄積されているのではないかと思う。


QUORAでまたしても面白い質問を見つけた。「日本のマスコミが左派的な偏向報道に走るのはどうしてか」というものだ。QUORAに回答を書くような人はある程度の政治的リテラシーを持っているのでこの質問は批判的に回答されていた。

この人は左派=偏向報道と言っている。つまりなんらかの正しい状態がありそれが歪められていると考えていることになる。正解が外にあると言っているのだから外骨格型の考え方である。より一般的な言い方だと「集団主義者」ということになる。

最近のテレビは権力に迎合して「右傾化しているではないか」と書きたい気持ちを抑えつつ、若年層と中高年では政治的地図が全く異なっていると書いたのだが納得感は得られなかったようだ。その原因を考えたのだが、多分本当に言いたいことは言語化されておらず別にあるのではないかと思った。それを表に出すことに困難さがあるのだろう。ようやく出てきた意見なので否定されると頑なになってしまうのだろう。

かつて、政権批判はマスコミの基本機能だと認識されていた。だから政権批判はそれほど大きな問題ではなかった。背景にはGHQの指導があったようだがNHKは「自分たちの考えで放送記者を誕生させた」とまとめている。GHQはあくまでも「ノウハウを指導しただけ」という位置付けである。もともとNHKのラジオは当然のように通信社経由の原稿を読んでいたのだが、戦後GHQがやってきて「自分たちで取材に行かなければならない」と指導されて驚いたというような話がある。現在でもこの慣行が残っておりアナウンサーであっても地方で取材と構成を学ぶようだ。その一方で政府側には「原稿を読んでもらいたい」という気持ちが強くこれが「国策報道」的に非難されることもある。

さらに今の政治体制を壊すことが発展につながるという漠然とした了解があった。政治批判をするのはそれがよりよい政治体制につながるという見込みがあるからだ。しかしながら若年層は民主党政権の「失敗」を見ているので、政府批判をして政権交代が起こると「大変なことになる」と思っている。加えて低成長下なので「変化」そのものが劣化と捉えられやすい。そこで「政治を批判して政権が変わってしまったら大変なことになる」と思う人がいるのだろう。

このため、ある層は政権批判を当たり前だと思うが、別の層は破壊行為だと認識するのだろう。

このような回答をしたところ、質問者から「できるだけ中立な表現をしたつもりだったのに」というコメントが帰ってきた。そこで、wikipediaで偏向報道について調べてから「偏向報道という言葉は政権が使ってきた歴史があり」反発を生みやすいと書いたのだが「人それぞれで違った言葉の使い方をするとは不自由ですね」というようなコメントが戻ってくるのみだった。つまり、社会一般ではマスコミが偏向報道をしていることは明らかなのに、それがわからない人もいるのですねというのである。

この人がどこから左派という用語を仕入れてきてどのようなイメージで使っているかはわからないし、文章の様子とアイコンから見るとそれほど若い人でもなさそうである。日本人はリアルな場所で政治的議論をしないので、他人がどのような政治的地図を持っているのかはわからない。同じようなテレビを見ているはずなのに、ある人は今のテレビは全体的に右傾化が進んでいると熱心に主張し、別の人たちは左派的であるべき姿が伝えられていないというように主張する。テレビ局の数はそれほど多くないのだから、受け手が脳内で何かを補完をしていることは明らかだが、言語化されることがないので、どのような補完が行われているのかはさっぱりわからない。

ここで「社会の規則は守るのが当たり前だ」と考えて「その制定プロセスに問題がある」可能性を考えないのはどうしてだろうかと思った。やはりここで思い至るのが校則である。日本の学校制度に慣れた人から見ると「今のテレビは政権批判ばかりしていて建設的な提案や協調の姿勢がない」というのはむしろ自然な発想だろう。子供の時から、先生の話をよく聞いて、みんなと協力するのが良い子だとされているからだ。校則を守るのは良いことであってその制定プロセスについて疑うべきではない。生徒手帳を持って全ての校則について由来を尋ねるような生徒は多分「目をつけらえて」終わりになるだろう。

今までは「日本人は内的規範を持たない」と書いてきたのだが、実際には個人の意見を持つべきではなくとりあえず集団の意見に従うべきだという簡単な内的規範を持っていることになる。

学校が健全な状態であれば「全てを疑ってみる」という行動はまだ許容されるかもしれない。ただ、学校は今かなり不健全な状態にある。

検索をしてみるとわかるのだが、SNSには「校則に違反すると校内推薦が取り消されるのだろうか」と怯えている書き込みが多い。デモに参加すると公安にマークされて息子の就職に影響があるかもしれないからと怯えている人がいるが、校則違反ですら一発アウトになってしまうかもしれないと考えている人がいる。現在の実感からすると「あながちない」とは言い切れないのだから黙って従う方がよい。すると、社会などという面倒なことはとりあえず何も考えず何もしないのが一番良いということになる。

実は校則は便利な管理ツールになる。わざと不合理な校則を置いておき先生の裁量で取り締まったり取りしまらなかったりというように運用することによって生徒を支配することができるからだ。生徒は次第に「先生はルールを作る側」で「生徒はルールを守る側」と考え、自分たちでルールを作ろうとは考えなくなるだろう。

ただ、この管理が先生を楽にしているというわけでもないようだ。社会に関心を持たなくなった人たちが様々な思い込みを学校に押し付けてくる。彼らも校則に関心を払わなかった側であり、ゆえに社会的な合意には関心がない。しかしながら、自分たちの考えこそが社会的な正義であり合意事項であると考えている。すると外的に蓄積した合意を「自分より目下だ」と考える人たちに押し付けてくるのである。

その結果学校は疲れており正常は判断ができなくなっている。最近も神戸の学校が「事務処理が面倒だから」という理由でいじめに関する校長のメモを隠したというニュースが入ってきた。学校にとって生徒の命を守るということは一番大切なことのはずだ。だがそれは学校が教育機関だという前提があってのことである。今の学校は生徒の管理機関なので全ての出来事が背後にある事務処理の量で決められるのかもしれない。いろいろな人がいろいろな社会的合意というありもしない幻想をぶつけてくるので、もう何も考えないことにしたのだろう。

今回の考察の関心事は規範をどこに蓄積してゆくのかということなので、まとめると「規範を外に蓄積する人が多い」ということになるのだが、合意形成のプロセスが毀損しているので個人の思い込みが「外的な規範である」と思い込むことによってこれを補完しているのだとまとめることができる。

しかし、実際のプロセスを観察するとこの態度には害が多い、異議の申し立てや批判を「面倒くさい」と感じることで、内的な規範が蓄積されず、なおかつ自分の思い込みを外的規範だと認定してしまった人はその思い込みを他人に押し付けることになり、さらに面倒くささがましてゆく。

実はネトウヨのような人々よりも、こうした「とりあえず黙って社会の約束事に従っているべきだ」という人たちが現在の政権を支えているのかもしれないと思う。政権はそれを「便利だ」と思うかもしれないのだが、実際には様々な意見を押し付けてくるので、さらに無秩序化が進むのではないかと思う。

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個人として自我をやみくもに膨張させかねないTwitterとどう付き合うか

詳しくは書かないがちょっとヒヤッとする経験をした。かなりショックで色々と考えた。「これくらいいだろう」と思っていたことが実は大事になる可能性があったということである。が、一通り文章を書いてから外から来る「ひやり」の他に内側に積み上がる罪悪感の問題があると思った。これについてTwitterの向こうの人と対話をしたのだが、この一連の構造は人によって大きく異なることもわかった。

経験したのは「社会とのちょっとした衝突」である。これくらいのことなら構わないだろうというのが社会と衝突したのだ。「甘く見ていると大変なことになりますよ」などと指摘されて個人的にかなり落ち込んだ。

何が理由なのだろうかと考えたのだが、その原因の一つにはTwitterもあるように思えた。便利な情報収集源でもあるのだがやはり悪影響もある。それが自我の膨張である。Twitterでは様々な不祥事が取り上げられている。それを見ているうちに「不正は正されるべきだ」などと思うと同時に、第三者的に相手を叩いたり、自分も少しくらい逸脱行為を働いても別に許されるのではないかと思ってしまったのではないかと思った。

だが、これは物語の片面に過ぎない。一度文章を書いてから思い返すと「ぶつかった」といってもそれほど大きな問題ではなく適切に対応すれば良いだけの話である。だが、内部の規範意識がかなり上がっている。これも社会批判を観察しているうちに起きたことなのだと思う。例えば安倍首相を見ると明らかに嘘をついているので「自分は絶対に嘘をつかないぞ」などと思うようになってしまうのである。

Twitterのせいにするなといわれそうだのだが、やはり無意識への影響はあると思う。暇なときにぼーっと眺めていることが多いからだ。情報の収集だなどと言い訳をしていたのだが、半分以上は暇つぶしである。だが、暇つぶしが悪影響を与えるならば修正した方がよい。

そこで単に何かを批判しているだけの発信源をかなり整理した。直接のフォローではなくリツイートが多いのでアカウントの数はそれほど多くない。一瞬「偏向してしまうのではないか」と思ったのだが、過去の事例を思い出して実行することにした。以前「ネットで影響力がある」とされる池田信夫さんのアカウントをミュートしたことがあったが、それほど情報収集に影響はなかった。本当に大切な情報は別のチャンネルから流れてくるのからだ。そもそも一次情報を持っていないか、付加価値を足さない人には情報源としての価値はないのである。ただ、言語化されない感情を言語化してくれるという意味では無価値というわけではないので、そういう人はフォローし続けても構わないのではないかと思う。

同じ批判でも問題を整理しているリンクを掲載しているものは残した。例えば豊洲問題はかなり過激な表現が残っているが削除対象にはしなかった。豊洲議論の主役は技術的な情報を孵化する人か現場の人たちである。その意味では彼らは当事者なので単なるフリーライドにはならないのだろう。

個人的なことをだらだらと開陳しても仕方がないので、当初はこれについて書くつもりはなかった。書こうと思ったのはまたしても日大の問題を見たからだ。一部のマスコミは日大のアメフト問題をそのまま日大の経営問題につなげたいようである。うがった見方をすれば政権への批判を日大問題にすり替えようとしているのかもしれない。

政権よりの姿勢が明白なフジテレビでは田中理事長はかつて自分の不正問題の封じ込めに成功したというようなことが伝えていた。弁護士の印鑑が押されているが、当人は印鑑を押した記憶がなく、そのあと一方的にクビになったということである。

怖いなと思うのは、田中理事長が「今回はこれくらいで済んだからここでやめておこう」などとは思わないという点である。これを放置していると、自分自身がある一線を越えてとんでもない問題を引き起こすかもしれないし、あるいは部方達が「これくらいのことをやっても大丈夫なのだ」と思うこともあるのではないかと思う。

ごまかしの成功がより大きな問題を引き起こす可能性があるということになる。それはどのようなきっかけで爆発するのかわからないのだ。

ただ、この自我の膨張の構造は人によって違いがあるようだなとも思った。

今回、実感としては他者を批判することで内的規範が膨張し、それが自己に攻撃を仕掛けてくるという側面があった。ところが、これがすべての人に当てはまるわけではないようだ。整理されないままでこの問題についてTweetしたところ「他人が同意を押し付けてくる人がいるのでTwitterはj窮屈だ」というコメントをいただいた。Twitterで細かいニュアンスは伝わらないので、普段は「ですよねえ」などという曖昧な返しをして終わらせてしまうのだが、一応ちょっと違うんですよねと書いてみた。だが、理解が得られた実感はない。

根本的に自我の拡張メカニズムが違っているようなのだ。今回は個人が情報処理をして内的規範を積み上げてゆくというプロセスについて書いているのだが、話をした人は周囲の同意を気にしている。つまり規範意識を集団で持っているのである。こうした規範の持ち方をする人は、集団への同意を求め、異質な意見に困難さを覚えるというように作用することになる。

Twitterで炎上や喧嘩を防ぐためにこれを利用することがある。「そうですね」とか「そういう見方もあるんですね」というとたいていの人はそれ以上絡んでこない。価値をニュートラルにした上で同意するとその人の価値は無価値になってしまうのだ。味方にする一体感も得られないが、かといって敵対しているわけでもないからである。

いずれにせよ、集団との一体感を重視する人は普段から周囲と調和的に生活しており組織や集団の規範と自分の規範意識を同調させて生きているものと思う。この集団が健全であれば集団的な自我の暴走は起こらない。集団内部でブレーキが働くからだ。

内部規範によって生きている人が内骨格型だとすると、外部規範や同調を気にする人は外骨格型といえる。内骨格型の人は外骨格型の人に冷たい人と言われることが多い。「人それぞれ」と考えてしまうからである。逆に内骨格型の人が外骨格型の人をみると「他人の意見に左右されている」と思うかもしれない。

内骨格型の人は個人の自我が膨張することで社会との摩擦を起こす可能性があり、逆に内的規範が過剰な罪悪感になって個人を押しつぶしてしまうことがある。「罪型社会・罪型人間」である。一方で外骨格型の人は集団自我を肥大させていって集団での問題を起こす可能性が大きいものと思われる。これはよく日本人の類型として語られ「恥型社会・恥型人間」と言われる。

日大の内田監督がどちらだったのかはわからないが、集団的な一体感の元で成功体験を積み重ね、最終的には集団の規範意識で個人を縛りつけようとしたのだから、外骨格性が強いのではないかと思われる。

Twitterを一人で見ていると気がつかないうちにその毒の影響を受けることがある。時々「我に返って」自分なりのやり方で情報を整理すると良いのではないかと思った。一方で、自分とは全く違った思考フレームの人と触れ合うことができるという便利なツールでもあることも確かなので、今後も有効に使って行きたいと思う。

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宮川泰介選手が止めたものはなにか

前回の嘘についてのエントリーは何人かの識者に紹介されたこともあり多くの人の読んでもらった。少し申し訳ない気もするがエントリーを少し修正したいと思っている。それに加えて今回は宮川選手を実名で紹介する。

内田前監督の「嘘」の分析について、最初に思いついた切り口はサイコパス分析だった。以前「平気でうそをつく人たち」という本をご紹介したことがある。サイコパスの人たちと内田前監督の共通点は、嘘を認めないことと他人に対する共感を著しく欠いているという点である。サイコパスは相手が苦死んでも罪悪感を持たないので嘘が平気である。ところが内田前監督の記者会見での様子を見ると、内田さんは嘘をついているように思えない。

彼の心理状態についてある仮説を唱える人がいる。ダークペダゴジー(黒い教育)だというのである。この仮説に従うと内田前監督は組織を支配するために用意周到な罠を張り巡らせて選手を支配していったことになる。この中で使われる用語は組織的犯罪に使われるような用語であり、もはやスポーツチームではなく反社会的な集団というような意味合いで取り扱われているようだ。

被害者から警察に被害届が出されている。今後、刑事事件としての評価も問題になってくる。彼が心理的に操作され、回避・抵抗する道がほとんどなかったことを重く見るべきだ。

 そのように見ると、指導者の責任は「教唆」とか「共謀共同正犯」にとどまらない。選手を道具的に使った「間接正犯」とするべきか検討し、実行犯であっても選手の責任を極小化する方向で考えねばならない。

ダークベダゴジー仮説では内田前監督は悪の帝王のように扱われている。しかしながら、この分析はいささか一方的なのかなと思った。ダークペダゴジーの方法は緻密だが、内田前監督が会見で緻密な嘘をついているようには思えないからである。

加えて、ワイドショーの識者たちの見解はある点でとまってしまう。つまり内田監督のやり方は反社会的集団のやり方に酷似しているというのだが、テレビでは暴力団という言葉もヤクザという言葉も使えない。だからそれ以上思考が進まないのである。

そこで調べてみると田中日本大学理事長と暴力団関係者がバーで一緒に飲んでいる写真が海外メディアに一部出ているようだ。理事長は相撲部の出身で故篠竹監督の後輩にあたる。つまり内田前監督は彼らから見ると弟子筋に当たるのである。

2014年にこの写真を流出させたのは右翼(ネトウヨではない本物の人たちだ)のメディアのようだが、これが日本のマスコミで取り上げられることはなかった。右翼メディアが襲撃されて捜査が行われたということである。記事の中では写真は本物だと警察が認めているという記述がある。

これらをうすらぼんやりとつなぎ合わせると、内田前監督が緻密なやり方をどこで学んだのかということが見えてくる。内田前監督がどうやってこの複雑な行動様式を体得したのかということは説明がつく。つまり、篠竹イズムを理論化しないで体で学んだのであろうということである。そこには正の側面もあればそうでないものもあるのではないかと思える。

日本のアメフト界では日大の影響力は大きくOBもネットワークを作って重要なポストについた人もいるのだろう。だから「アメフトには格闘技としての位置付けもある」といって負の側面も含めて容認してきた。あるいは怖くて言い出せなかった人もいるだろう。さらに新聞社も内田監督の優勝を美談として伝えた。甲子園のように感動できるコンテンツには商品的な需要がある。彼らは内田監督の人となりや篠竹イズムが何を意味したのかを知らないわけはない。だがそれは売り物にならず却って厄介なので知っていて伝えなかったのかもしれない。この辺りはスポーツジャーナリズムの専門家のご意見を伺いたいところである。

日大のOBたちの側に立つとこの姿勢は正当化できるかもしれない。彼らは4年間この反社会的な状況に付き合えばあとは立派な就職先が見つかる。チームに従順でブランド価値もある彼らの人材としての商品価値は極めて高い。母校が勝ち進めば勝ち進むほど彼らのブランド価値は高く評価されるだろう。内田前監督もそれを利用してお金を作ればこの「理想的な」教育環境を維持することが可能になる。多少の犠牲はあるかもしれないがそれは全体のために仕方がないことだと捉えても不思議ではない。

内田前監督が「嘘をついていない」と思うのは、彼が確信的に「アメフトというのは潰し合いであり、選手たちもそれを覚悟してきているのだろう」と思っているだろうことがわかるからだ。この姿勢は一貫して現れておりブレていない。

そのように考えてゆくと宮川選手の止めたものは極めて大きい。彼が「反社会的な格闘技にコミットしない」としたことで、自浄作用を働かせることができなかった周囲の大学も「反省していないのだったら日大はリーグには加えない」と堂々と宣言することができるからである。確かに彼は間違えたことをしたが、最後には踏みとどまった。その彼の犠牲と勇気の上で仲間たちは安心してスポーツとしてのアメフトに打ち込むことができるようになったと言ってもよい。つまり大人たちがなんらかの事情でできなかった改革を、仲間を失った事実に直面したであろう関西アメフト界と宮川選手の勇気が成し遂げたということになる。

ただ、宮川選手を犠牲者のままにしていても構わないのかという問題は残る。被害選手の父親はすでに宮川選手の救済に動いているということだが、アメフト界は彼が行ったことを正当に評価し保護すべきなのではないかと思う。なんでもありの見世物がよいのか、少しおとなしくなってもスポーツとして発展するためにはルールを守ったほうが良いのかという選択である。ただ、宮川選手の行動を受け止めるためには彼らもまた勇気を持って自分たちの間違いを見つめる必要がある。受け止めるにも勇気がいるのだ。

前回の「嘘のエントリー」に戻る。安倍首相はこれまでの決められない政治を否定して首相になり、小池百合子東京都知事は利権まみれの政治を変えると約束して都知事になった。これ自体は間違った主張とは思えない。しかし彼らには実務経験がなく、結局はその場限りの「説明」をせざるをえなくなった。一方、内田前監督の場合はこれとは異なり「素直に自分が体得したもの」を追求してきただけである。

両者には統治者としての自覚がなくプレイヤー意識が強いという特徴と、チームや部下たちの自己ガバナンス能力を失わせるという共通点がある。最終的にこれが組織や社会の機能不全につながるという意味では到達点も同じなのだが、その動機とメカニズムにおいては違いがあると言えるだろう。

そして彼らに嘘をついているという自覚はなさそうだ。彼らはルールを作る側におり、ルールさえ決めてしまえばいつまでも勝ち続けられるという確信がある。だから、彼らにとっては当然の主張をしているとも言える。しかし、それが我々の価値観とは著しく異なっており「嘘」と認識されるのではないかと思う。ただ、内田前監督の主張が嘘になるかそうでないかは周りの反応にかかっている。これは法律というルールを決めることができる安倍首相の言っていることが嘘になるかそうでないかが有権者の問題であるのと同じことだ。

今回、反社会的勢力と政治の結びつきについても書いたのだが全て消した。書くと厄介なことになるなと思ったということもあるのだが、アメフトの人たちの立場にたつと彼らが集中しなければならないのはアメフト界を健全に保つことであって、別の分野のことはそれぞれの立場の人たちが勇気を持って変えればよいからだ。ただ、政治やオリンピックの問題がいつまでも尾をひくのは、アメフトのような勇気を持った人たちが現れないからなのだろうと思うと残念な気持ちにはなる。

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日本人が政治的議論をしないしできないのはなぜか – 文化が衝突するとき

日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。

これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。

このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。

まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。

バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。

しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。

この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。

この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。

日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。

前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。

日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。

もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。

この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。

このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。

「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。

であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。

もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。

そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。

ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。

現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。

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日大アメフト部から考える日本人が議論も会話もできない理由

これまで二回にわたって日本人は議論も会話もできないということを書いてきた。今回は「主語を日本人としてもよいのか」について検討しようと考えて、日大アメフト部と日本ハムファイターズの比較を行うつもりだった。結論だけを書いておくと、日本人でも議論や会話はできる。問題になっているのは古いマネジメントスタイルなのだ。

ただ、調べて行くうちに、もともと日本型のマネジメントスタイルは日大アメフト部のような問題を防ぐように<設計>されているということもわかってきた。今回、ところどころにそのことが出てくるのだが、最終的な結論には至っていない。答えが出てこないのでちょっとした消化不良感が残るのではないかと思う。

さて、本論に戻る。今回特に注目したいのは、集団が個人を成長させられるのかという問題と、集団が個人を成長させられなくなった時に何が起こるかという問題だ。前回ご紹介したホフステードによると「日本人は集団を通して<勝てる競争>に没頭する」のだった。この文章には二つの知見がある。一つは日本人にとって競争は自己目的であるということと、勝てる競争を好むということだ。端的に言うと日本人はとにかく勝ちたいのである。

先日来ワイドショーでは「日本大学のアメフト部」の問題が面白おかしく取り扱われている。かつて名将とされていた内田正人という監督が将来有望なトップ選手を追い詰めて使い潰したという話だ。当該選手はネットで名前がさらされ退部の意向を持っているという。一方で内田監督は9月になったらほとぼりが覚めるだろうからこのまま監督を続けるつもりのようだ。トップが無責任な命令をだしてプレイヤーが使い潰されるという図式が現在の政治状況と重なるので多くの人が批判しているのだろう。

内田監督は「試合に出たければ相手のクオーターバックを潰してこい」と指示をした結果、この選手は油断している相手選手に後ろから飛びかかり怪我を負わせた。幸い後遺症は残らないようだが、一歩間違えれば半身不随になりかねないというような危険な行為だったとされており、一部では刑事罰を科すべきではないかという議論すらある。

これがネットに乗って拡散した。すると監督側はバッシングを恐れて「あれは自分の指示を勘違いした選手が悪い」と取られかねない主張を始める。それが反発されて大騒ぎになっている。これが炎上していると気がついた日大側は最初は「勘違いだ」といい、それが言い逃れに取られかねないということがわかってから「直接謝罪する」と切り替えつつあるようだ。この「反応を見て小出しに譲歩する」というのも現在の政治状況に似ている。

ワイドショーではこの人が「日大の常務理事」だったために、学校ぐるみで隠蔽しているというようなストーリーが語られている。ところがWikipediaに出ている情報をみると別な側面も見えてくる。選手を発見して「濃密なコミュニケーション」で育て上げてチームを立派に育成するのが得意な監督だったようである。仲間内からは「温情的な」監督だと思われていたかもしれない。似たような指導者に栄和人志学館レスリング部監督がいる。栄監督も選手を発見して育成するのが得意な人だった。

こうした指導法がまかり通っていたのは日本人がマネジメントの科学をよく知らなかったためだろう。現在では国際的な<近代スポーツマネジメント>が浸透しつつあり、トップ選手は直接外国人指導者から教えを受けることもできる。このズレが表面化しているのだと考えることができるだろう。

彼ら二人の共通点は自分が見つけた弟子に対する並々ならぬ執着心だ。栄さんは吉田沙保里ら愛弟子を優遇していた一方で自分から離れて強くなろうとした伊調馨を排除しようとした。日大の内田監督もどうやら身贔屓が激しかったようだ。最近監督に復帰したことからわかるように、自分が発見したか目をかけている選手がおり、才能のあった当該選手を外そうとしたのかもしれない。あるいは前の監督を否定する意味で前の監督が集めてきた才能のある選手を代替え的に潰そうとした可能性もある。

こうしたことが起こる理由は二つ考えられる。ここではいろいろな<容疑>をかけているのだが、監督らがこれを客観的に自己分析することはできないものと考えられる。それは日本人が親密な関係に耽溺して言語による意識付けを怠る傾向にあるからだ。相手に説明できないだけではなく、自分が何をしているのかが本当にはよくわかっていないのである。

もう一つの問題は「自分が目をかけた選手を通して監督コーチとしての自己実現を図ろうとしていた」という点だ。集団と個人の意志が癒着しているのだ。個人の支配欲を集団に埋没させてしまうとこのような暴走が起こる。選手に無理難題を提示して忠誠心を試そうとしていたようである。「後ろからタックル」というのはアメフトではかなり重いタブーのようだ。これを吹きかけることによって「自分が支配できる人物か」ということを試していたのかもしれない。

このように日本人は集団になると個人で持っていた倫理観が吹き飛び指導者のためになんでもしなければならないと思い込むようになることがある。これが、日本人が持っている「集団主義」のよくある一つの例として認知されたために社会から批判されることになった。

ところがここで一つ大きな疑問が浮かび上がってくる。日本のマネジメントシステムを勉強したことがある人は「稟議システム」という用語を聞いたことがあるはずだ。アイディアは末端が持っており、末端から出た儀式的なリーダーが形式上の意思決定を司るという形である。この方法だとトップは実質的には意思決定をしないので、内田監督のような暴走行為は起こらないはずなのだ。つまり内田監督は名将である必要はないことになる。

決定的なことは言えないまでも、日大にもかつてチームを強くする仕組みのようなものがあったのかもしれない。結果的に内田監督が名将ということになる。そして、言語化が苦手な内田監督はそれを「自分の才能だ」と思い込むようになったのかもしれない。しかし、実質的にはリーダーとしての才能を持っていなかったので、今回のような暴走行為に出てしまったということになる。

「内田監督や日大のアメフト部は言語化が苦手」というのはかなり確度が高い。相手側の関西学院大学の小野宏ディレクターはもともと朝日新聞社の出身なので、問題点を言語化し謝罪文の矛盾点を整理している。つまり謝罪相手に言語化してもらわないと自分たちが何をやっていたのかということすらわからないというかなり深刻な状態にあることがわかる。

さて、ここまで安易に「日本人が」という言葉を使ってきた。集団での言語を介在させない親密さを重んじるあまり個人が無批判に集団に埋没してしまうというのは確かによく見られる光景だ。このために個人としての日本人は批判的な内心を持てず、個人どうしの会話が成立しないことも多い。だが、本当に主語に「日本人」を設定してもよいのだろうか。

ホフステードは日本社会のかの解説の中で次のように集団による競争を解説する。

At 95, Japan is one of the most Masculine societies in the world. However, in combination with their mild collectivism, you do not see assertive and competitive individual behaviors which we often associate with Masculine culture. What you see is a severe competition between groups. From very young age at kindergartens, children learn to compete on sports day for their groups (traditionally red team against white team).

日本は95ポイントという世界でももっとも高い男性性を持った社会である。穏やかな集団主義と合わせられているので、男性的な社会に見られがちな打ち出しの強さ(アサーティブさ)や個人での競争的な姿勢は見られず、競争は集団間で行われる。幼稚園から運動の日に集団(伝統的には白組と赤組に分かれている)で競い合うことを学ぶ。

ところが、集団による自己実現を図らないスポーツチームも出てきている。つまり、日本人は個人による自己実現や自己表出が全くできないということはないということになる。それが大谷翔平を生み出した日本ハムである。調べると栗山英樹監督のインタビューが複数見つかった。栗山は、監督はリーダーではなくマネージャーだと表現している。調べてみても栗山監督の話が出てくるだけなのだが、企業としての集団マネジメントそのものが「近代化」しているのではないかと思う。監督だけがこのように主張しても企業体がその理念を理解しなければ機能しないからだ。

日本ハムファイターズの特徴は個人のモチベーションと企業のモチベーションを「言語化」した上ですり合わせているという点である。インタビュー記事を読んですぐにわかるのは、栗山監督の頭の中では、集団ではなく個人が前に来ているという点だ。いちど成功した栄監督や内田監督は「集団への埋没」を自己への支配欲と執着に転嫁してゆくのだが、日本ハムのマネジメントにはそれがない。内田監督は「排除」と「恫喝」により選手の理性を奪ってゆくというアプローチをとるのだが、栗山監督らが相手を説得するためには数字を使う。

大リーグしか頭になった大谷翔平選手に対して「いったんチームを通った方が成功率が高い」ことを合理的に説明した上で「二刀流」という新しいビジョンを提示したというのは有名な話である。

数字は単なる統計として使われているわけではなく、内的な動機とリンクしている。大谷選手のビジョンを整理した上でそれを具体的な数値に落とし込んで行くという作業が行われていることがわかる。当時学生だった大谷選手がそこまでできていたかは疑問なので「マネジメントの最初の仕事」として可視化を行ったとも解釈できる。

さてm個人を客観的な指標で動機づけた上でそれを集団の目標をと重ね合わせるためには集団も「勝つ以外」の目標が必要だ。日本ハムファイターズはこれをスポーツコミュニティという理念にまとめている。

スポーツは人々の健康に貢献し、人と人が触れ合う交流の機会となり、人と人との心がつながるコミュニティを創造する力となる。ファイターズは「スポーツと生活が近くにある社会=Sports Community」の実現に寄与したい。

この企業理念と選手の個人的目標が合致している時には「協力」すれば良いし、それが終わればまた離脱しても構わないというアプローチを取っている。幸い国際野球には育成した選手に値札をつけてバイアウトする仕組みがあり、日本ハムファイターズのマネジメントスキルには市場的な意味がある。

日本ハムのアプローチを見て初めて見えてくる内田監督の問題点がわかる。日本の旧来のマネジメントは親密な信頼関係を構築できない人とは一切の人間関係を結べない。日本ハムファイターズが「個人の理念」と「集団理念」を言語化して結びつけるスキルを持っていることから、日本にいる日本人にもこれが学べるというのは明らかである。つまり、内田監督は「かつて成功してしまったがために、新しいマネジメントスタイルを学ぶの機会を放棄してしまった」監督なのである。これがSNSで新しい価値観とぶつかることで今回の大騒ぎが起きたということになる。

コメントの全文が朝日新聞に出ている。これをみると日本大学に問題の客観視ができていないことがわかる。例えば、謝罪と言い訳が交互に出てきて、誰が誰に何を謝るべきなのかの整理が全くできていない。さらに当事者意識もなく、文中で「起きてしまった」と言っている箇所もある。謝罪に関する部分を抜き出してみよう。

平成30年5月6日に行われました定期戦において発生した弊部選手の反則行為について、負傷された貴部選手にお見舞い申し上げますとともに心より謝罪いたします。そして、一日も早い回復をお祈り申し上げます。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫(わ)び申し上げます。

[中略]

弊部選手による反則行為を受けました貴部選手及び保護者の方に心よりお詫び申し上げます。

[中略]

当該事案が発生したことについて、ご迷惑をおかけしました関係者の皆様に指導者として謝罪いたします。

[中略]

重ねてではございますが、このたびの反則行為により負傷された貴部選手並びに保護者の方に対し、心より謝罪いたします。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。

混乱している「日大指導者」は内省しないままで「結果的に意思疎通に齟齬があった」と原因をまとめてしまっている。これが自動的に「勘違いした生徒が悪い」と受け取られることになったが、指導部にそうした明確な自覚があったかはわからない。さらに別の段落では「そのつもりではなかったが世間が誤解するといけないので発言はなかったことにする」とも説明している。

弊部の指導方針は、ルールに基づいた「厳しさ」を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており、指導方法に関し、深く反省しております。

[中略]

しかし、真意が伝わらず反則行為を容認する発言と受け取られかねないものであり、本意ではありませんため、ここに、試合終了直後にメディアに対して発した弊部監督のコメントは、撤回させていただきます。

言語化能力の低さと個人の徹底的な無視が問題の根底にあることがわかるのだが、日本ハムファイターズが大谷翔平をメジャーリーグに送り出したことからわかるように、必ずしもこれがすべての日本人の本質ではないということもわかる。ここから得られる仮の結論は、かつてあった成功を言語化しないままで再現しようとすると、このような失敗が起きてしまうのではないかというものだ。

こうした混乱やあからさまな嘘はスポーツマネジメントの世界だけでなく政治の世界でも起きている。しかし、ニュースを通じて知り得る情報は言語情報だけなので「なぜこんな理不尽で誰が考えても嘘と分かるようなことを平気でやるのか」というような感覚になってしまうのかもしれない。

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日本人は会話をしていないし、それを気にしていない

面白い議論を読んだ。議論の元になったと思われる投稿によるとBBS世代の人が文章を書き込んでいるのに比べてSNS世代の人は頭の中の会話をそのまま書いていると分析している。この人は「SNS世代の人とは話がかみ合わない」と言っているのだが、そもそも日本人と議論が噛み合ったと思ったことはないなと思った。

この説によるとBBS世代の人は推敲をしてから文章を書くので会話が呼応するということになるのだが、推敲しても会話が呼応しない人もいるし、そもそも答えるつもりがなくコメントをよこす人もいる。思い返せばフェイストゥフェイスでも噛み合わない会話というものはいくらでもある。

例えば先日こんな経験をした。ある人が「お金があっても買えるものがなければ景気はよくならないのではないか」とTwitterに書いていた。多分Twitterというのは個人メモのような側面があり答えは期待していないと思うのだが、構わずに「サービスが交換できるので物資がなくても大丈夫」ということと「それよりも流通に障害があることが問題だ」と書いた。

少し戸惑われたのかもしれないが、しばらく時間があって「ふと思って書いただけなのでとりとめもないのだが……」として返答が戻ってきた。戻ってきた回答はこちらの問いかけには呼応していないのだが、それは特に問題がない。なぜならばそもそも会話を発起した人が特定のフレームに依拠して書いてあるわけではない上に、こちらの思考フレームは伝わらずに結果だけが転送されてしまうからである。さらに日本人は相手が特定の思考フレームを持っているということやフレーム合わせをやらないと会話が成立しないとは思わないのだと思う。

もし真面目に会話をするならばフレームを伝えた上で会話を続行すべきだが、そもそも思いつきをメモにしているだけであり、特に仕事として取り組んでいるわけではないのだから、そこまでやるのは大人気ない。ここでまた重ねてしまうと会話が延々と続くことになるので、よくわからなくても「いいね」で〆ることにしている。すると次の会話に移れるからだ。

だが、もう一回返ってきた。しかし、その答えはある種の正解に固着してゆく。今回のそれは「マーケティング先行で本当に必要なものが少ない」というような認識だった。これを真面目に考察するとすれば、以下のような反論ができる。

例えば自動車の本質は「移動する」ことであり、それ以外の全ては「マーケティング的に捏造された本質でない部分」ということになる。もし本質だけだと車は今でもフォードT型かトラバントのようなものになっていたはずだし、用事もないのに海辺に出かけて行ってわざわざバーベキューを楽しむなどというような需要もなかったことだろう。

最初の人はモノがないのに信用だけが増しても景気はよくならないだろうという疑問を呈しているのだが、製造業から抜ける過程でこのフレームワークから抜ける必要がある。それは農業主体の社会が家電を思いつかないのと同じことである。例えば家をきれいにするという仕事のためにわざわざ電力網を張り巡らせた上で掃除機を稼働させようなどとは思わないのである。

しかし、そう答えることに何か意味があるだろうか。そもそも我々の年代は「浮ついた」1990年代のマーケティングを知っているので「真面目なものづくりを通して真の需要を追求すべき」というような一種の<正解>を持っている。だから「そうですね」という共感を示して会話を〆るのが良い。そうすればお互いに気持ちよく次の話題に移ることができるだろう。そもそもTwitterは娯楽なのだから、わざわざ気分を損ねるような会話を行う必要はないのだと思う。

日本人は集団の理論と個人の理論を分ける。こうして、個人の思い込みが社会にぶつけられないまま固着することが多い。「ものづくりをしている人は真面目に仕事をしているが、商売をしている事務屋がめちゃくちゃにする」という世界観もこうやって形成されるのではないかと思う。戦中・戦後すぐに生まれた世代だと「職人は真面目だが、商売人は全て金儲けをして人を騙そうとしている」と思っている人も多い。実際にこの投稿にはいいねが2つほど付いたことからこれが社会の中で一種の正解化していることと、その正解が言語化・社会化されないままで内心を漂っていることがわかる。

このことから二つのことがわかる。そもそも日本人は思考をまとめてから発信することはないし、まとめようとすると「ある種の正解」に固着してゆく。もともと不定形なので外的な刺激によって変形する。今回も「サービス業」というワードを投げかけてしまったために影響を受けて当初の思考が変更された可能性は高い。しかし、オリジナルの思考は不定形なのだから「もともと何を考えていたのか」を正確に復元することは難しいかもしれない。

逆にまとめてから発信するということは「ある種の正解に固着してしまった後」ということになることが多い。根拠が外部にあるので、それを議論で修正したり介入することはほとんど不可能だ。個人の態度が外部と一体化しているので変われないからである。このために日本人の政治議論は極端に二極対立することが多い。いわゆる「保守」も「リベラル」も経緯によって作られた特殊なものだがそれがコピペされて広がる。しかし例えば保守の人がオリジナルの主張を理解した上で意見をコピペしているかどうかはわからない。例えば最近起きた「弁護士の懲戒請求騒ぎ」では、訴える弁護士が何をしている人なのか何がいけなかったのかを論理的に説明できた人はほとんどいなかったそうである。

アメリカ人の場合は異なった経路を通る。アメリカ人は個人の意見を持っている。根拠が外部にある可能性は高いが、賛成・反対は内的なので態度変容が可能である。そもそも最初から「興味のある話題について」「賛成か反対か」を表明するので、賛成するか反対するかは別にして対話が成立しやすい。英語のQUORAには日本人がいるが彼らは会話を成立させている。また初期の日本語のQUORAにも会話はあった。しかしこの会話は日本人の参加者が広がることで心情の吐露に変化しつつあるようである。

日本人でも英語だとこの「賛成・反対」による会話が成立するところから、これが日本語文化特有の問題であるということがわかる。英語では個人として「論拠を納得した上で」賛成か反対かを決めるのだが、日本人は「社会化させないままで固着する」か「論拠を持たないままで賛成して一体化したり反発したり」するので、いったん態度が決まってしまうと後で態度を変えることができない。

こうしたとりとめのなさと固着した正解は人によって様々な現れ方をする。例えば日本で流行した私小説は自分のとりとめもない心情をそのまま記述したものである。これが娯楽として受け入れられていた。

「社会に共感すべきだ」とされている女性が集まると「そうだよね」とか「それでね」などと言いって相手に相槌を打ちながら全く関係ない話を始めることが多いという話を聞いたことがある。話を理解していなくても「わかる」といえば満足なのだそうだ。会話が成立しているという雰囲気は残しつつ自分の意見は共感してもらいたいという気持ちが強いのだろう。相手の歌は聞いていないのに拍手をするという意味ではカラオケに似ている。会話は論理を記述しているのではなく「共感を得るための道具」に過ぎない。

一方で、政治家や先生のように地位を保障されたと感じる人は、他人の共感を気にしないで正解や心情を垂れ流すスタイルを取ることが多い。現在では麻生副総理がそれに当たる。麻生副総理が何を披瀝しようとしているのかは定かではないが、とにかく「自分は意見を発信する側で、言い聞かされる側ではない」という気持ちだけは伝わってくる。この麻生副総理を見ていると福岡の県立高校の高校の校長先生を思い出す。文集委員として校長先生が生徒に贈る言葉を取りに行ったところ、それとは全く関係がない旅行エッセーを渡されたことがある。「自分はこれを載せたい」の一点張りであり、それを悪いと考えてい様子はなかった。この類の人たちにとって「相手を理解した上で会話を進める」ことは負けなのである。

共感を求める人たちはとりとめもない思考をそのまま表現し、正解に固着した人はもはや相手のいうことを聞かない。このためギャップは広がるばかりでついには世代間に大きな溝ができている。

最後にBEAMSの若者で見たように、スマホで情報検索する人たちはそもそもメンタルモデルが立てられない。だから相手のメンタルモデルを類推してソリューションを提案するということがない。

会話が成立しているように見せるためには相手がどうプログラミングされているかということをこちらが認識した上でこなせるタスクに分解して与えてやらなければならない。しかしこれは若者がバカだからではない。ソリューションを組み立てて調整する「総合職」的機能が社会から消えてしまったためである。

ただしメンタルモデルを持たない方は「指示が明確ではない」というフラストレーションを感じているようである。この日経ビジネスの記事ではタイプとなっているが、つまり相手のメンタルモデルを構成した上で調整しようという提案だ。この裏にはそもそも中高年の側がメンタルモデルを「話せばわかる」として提示してこなかったからである。

冒頭の文章を提示した人はアスベルガーの診断を受けているそうで「自分は普通ではない」という認識を持っていると思うのだが、そもそも日本人は会話を通じて情報交換をしたいなどとは思っていないのでそれほど心配する必要はないのではないかと思える。「会話が成立しないで好きなことをいい合う」のが日本人の定常状態なのである。

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