社会参加意識が低い有権者とジャーナリズムのポジティブフィードバック

前回はTBSのジャーナリズムごっこから視聴者が期待するニュース番組のあり方を考えた。視聴者は「とりあえず何が起こっているのかを知っておきたい」と考えるか、自分たちの価値観を押し付けて他罰的に盛り上がることができるニュースショーのどちらかを求めているようである。前者は「自分は政治には興味がないが他人に遅れを取らないように情報をとっておきたい」のであり、後者は「自分の価値観を他人に押し付けることによって満足したい」のである。

今回はこの点について少し深掘りする。これを読むと「だから日本人はダメなんだ」と書いているのではないかと感じるかもしれないのだが、実はそのような気持ちはあまり強くない。しかし、建前のジャーナリズム論からアプローチしても全く物事が見えてこない。日本には民主主義もジャーナリズムも西洋と同じ意味では存在しないからである。

前回の記事はもともと「だからTBSはダメなんだ」という論調でページビュー稼ぎをしようと思っていたのだが、それを止めたのは理由がある。文章を寝かせている間にQUORAの質問に答えたのである。教えてもらったり自分で探したのは下記の文章だ。時間のある方はぜひ読んでいただきたい。

若者の政治的態度とSNSの影響

若者の政治的態度のついて答えようとして、最初に持った仮説は「日本の若者は政治に関心がない」というものだった。ところがそれを裏打ちするような資料は得られなかった。代わりに「国際比較をすると政治への興味・関心は他の先進国並み」という文章を見つけた。

日本の若い人たちの保守傾向が強いことはすでに知られているのだが、全年齢的にSNSを参考にしている人ほど内閣支持率が高いという調査もある。またSNSを参考にする高齢者ほど政治的意見が「過激化」しているという調査もあった。SNSに対するリサーチャーの見方は様々だ。新聞などの既存メディアより劣っているという含みを持ったものもある。富士通総研の「過激化」という言葉はかなり否定的な思い込みが込められているように思える。

親の所得が子供の政治的態度に影響する

子供たちの政治的関心を見ると、新聞購読率が高いほど政治への関心が高いことがわかる。そして、この新聞の購読率は親の所得と関係がある。つまり、親が裕福であるほど新聞を購読している可能性が高い。なぜ、親が裕福なほど政治的関心が高まるのかはわからないが、環境が整った子供ほど、SNSだけではなく新聞などから「バランスのとれた」情報を入手するようになるだろう。

調査を勝手に混ぜ合わせると、裕福な家の子供ほど政治への関心が高く、政治への関心が高いほど内閣の支持率が高くないことが予想される。一方で最初から新聞を読む習慣ができない家の子供たちはSNSで自分の好きな情報を集めてしまうために、現在のSNSに影響されて内閣を支持してしまう予想が立てられる。つまり、貧しい家の子供ほど内閣を支持するのではないかという相関が仮説されるのである。

自民党のように討議ではなくマイルドなポピュリズムに支えられた政党は、有権者があまり政治に関心を持たない方が有利なのだと言える。そのためには批判的な新聞にはなくなってもらいたいと考えるだろう。このことから思い出すのは「由しむべし知らしむべからず」という論語の言葉だ。これが現代にも誤解された形で生きていることがわかる。ただ原典には政治家が守るべき価値が列記されているそうで、政治家が好き勝手をしても良いという意味ではないようである。政治家の中には江田五月さんのように「依らしむべし」と誤解した上で「国民に本当のことを知らせてはならない」と誤解している人もいる。しかし、実際にはこの誤解の方を理解している政治家が多いのかもしれない。

従順さが期待される若者と二極化する高齢者

日本では若者は自分の色に染まらず組織の論理に従うことを求められる。例えば学校で習った専門知識を「振りかざす」学生は嫌われ企業独自の知識を吸収してくれる人の方が好ましいのである。ところが年齢が高くなるに従って思い込みで他人を判断することが許容されるようになる。環境によって得た知識が固着しその人の常識になってゆくのである。

富士通総研の「過激化する高齢者」は、高齢者ほど政治的な態度が固定している上に極端になっていると指摘している。しかしこれは「若い人ほど自分の意見を控えている」ということを意味しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、年齢が高くなればなるほど、現体制を支持する人はより強く現体制を支持するし、そうでない人たちはより強固に反対するのだろう。面白いことにこの富士通総研が聞いている質問項目は「政権に対する他罰感情」か「周辺諸国の脅威」について聞いているものと社会保障など既得権の確保についてのもので構成されている。つまり、高齢になればなるほど他者に対して厳しく接するようになり、既得権が当然確保できると思い込むようになると言い換えられるおである。

「サンデーモーニング」を見ると政府に対する他罰性の他に「スポーツ選手に喝を入れる」という他罰的なショーが並行していることがわかる。高齢者は監督目線でプレイヤーを評価できるし、選手が業績をあげれば自分のものにしてもよいと考えるようになるのだろう。

一言でいうと高齢者は集団に対して所有者意識を持っていることがわかる。

日本人は集団を過度に信頼している

一方で日本の若者には別の特徴が見られる。日本の若者の政治への関心は先進国と比較してもそれほど遜色のあるものではないが、特徴的な点が二つあるという。社会参加意欲の低さと「政治は若者の意見を積極的に聞くべきだ」という項目の高さである。つまり日本の若者は自分から積極的に政治に関わって政治を動かそうとは考えておらず、政治のほうが歩み寄って欲しいと考えているのである。今回は若者の調査と高齢者の全く別の調査をバラバラに見ているので受動的な性格が高齢者にどう引き継がれるのかはわからない。

日本の若者には積極性が足りないと断じることもできるのだが、実際には従順でいさえすれば当然集団の方が歩み寄ってくれるという期待を持っていることになる。つまり、自分の意見を表明したり固めたりすることは許されないが、当然いうことを聞いてもらえてもいいだろうと考えていることになる。つまり<過激な>とされる高齢者と「従順な」とされる若者の間には本質的な違いはないかもしれないということになる。

距離を置く若者

毎日新聞には気になる一節がある。まともな若者は政治にむしろ距離を置こうとしているそうだ。

大学、高校に加え、最近は地元自治体と協力して中学校での主権者教育に取り組むNPO「YouthCreate」の原田謙介代表(31)はこう言う。

「確かに政治への関心は高くなったが、政治家や政党は遠い存在で、むしろ距離を置きたがっている生徒が増えている」

森友・加計問題のほか、政治家の暴言や不祥事も相次ぎ、印象は悪くなるばかり。このため政治家には正当な要望をするどころか、接してもいけないと思い込んでいる生徒が、ことのほか目立つというのだ。

高度計勢成長期の若者はそれほど政治に関心を持つことはなかった。そもそも社会参加意識が低く政治はどこか遠いところで行われているように思われたからである。SNSで情報が集まるようになると、失言を繰り返す政治家とそれを一方的にバッシングする高齢者の姿を目の当たりにするようになる。結果的に政治に距離を置くようになる。すると「とりあえず最低限のことだけ押さえておいて距離をおこう」と考えるか、一方的に価値を押し付けて仮想的な優越感に浸るための道具になってしまうのであろうということが予想される。

そう考えると政治家の態度もジャーナリズムの堕落もすべて原因は社会参加意識の低い有権者に由来するということになるので、一方的に攻め立てる気にはなれなくなってしまうのである。特に野党は有権者の他罰性を満たすというニーズに応えいることになる。SNSでは安倍政権を叩けばいいねの数が増えるし、視聴率のために誰かを叩きたい放送局にも取り上げてもらえる。だが、それがますます若者の政治に対する参加意識を減退させ、将来他罰性が高く参加意識の低い有権者を育てることになるということになる。

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TBSのジャーナリズムごっこは何をもたらすのか、そしてなぜ生まれたのか

本日はTBSがようやく水道問題を報道した。この一件から、TBSがジャーナリズムごっこをしており、実際には政権批判を避けているのではないかと思った。果たしてこれが良いことなのか、それとも害があるのかを考える。

水道の議論はもともとは広域化の議論であり、広域化の議論が起こるのはインフラのメンテナンス費用が捻出できないという見込みがある。そこで民間活力を導入しようとしてやや無責任に私企業の参入を許そうとしたのである。反対姿勢を明確にしたい野党は私企業の参入だけをクローズアップしたために一部で大騒ぎになっている。だが、この議論には影の主役がいる。それが伝えなかったマスコミである。彼らは伝えないことで議論を放置し、反対意見を過激化させた。

最初は「それほど重要な問題ではないから放置されているのかもしれない」と考えていたのだが、TBSがこれを報道したのを見て初めて「認知していたが扱いかねていた」ことがわかる。たまたま見たのは朝の情報番組なのだが、議論の時間があまりにも少なかったことと私企業の参加が検討されていることにのみ触れていた。フジテレビがやはり神奈川県の大井町の事例を挙げて「今のままでは水道料金が大変なことになる」とほのめかしたのとはいっけん180度違った態度に見える。

フジテレビはジャーナリズムではなく政権の広報機関として「世論誘導」の役割を果たそうとした。その一方でTBSはTwitterの議論を追認するような姿勢を見せたのである。

マスコミは有権者が正しい政策判断をする助けになるように政治問題を報道する。だから、報道される課題は審議中のものでなければならない。だが、TBSがこれを報道したのは審議が中止になってからだった。TBSは政策判断に自社の報道が影響を与えたとみなされることを恐れたのであろう。これはジャーナリズムの役割の放棄である。だが、それではなんとなく体裁が悪いので審議が終わった後でアリバイ作りのために「報道をした」ふりをしているように見える。

TBSは面白い構成になっている。毎日新聞に所属している与良正男や退職した柴田秀一などの人たちは政権に批判的なのだが、これを社員であるアナウンサーが「公正の観点」から修正するという番組作りが見られる。杉尾秀哉のように野党議員になる人もいる。つまり内部には政権に批判的な態度を持った人がいることがわかる。このため、朝の番組や報道特集など一部の番組では「自由に」政権批判の番組が流されることがある。ただ、政権批判をするのはフリーの人や新聞社に属する人たちであって、会社としては政権に影響を与えないようにという<配慮>が見られる。つまり、会社にゆかりのある人を利用して「ガス抜き」をさせているのである。

こうした姿勢の裏にはかつての筑紫哲也に代表されるような「政権におもねらないのがかっこいい」というようなファッションと、政府に認可されて電波を預かっているという大人の事情の間で揺れる放送局特有の問題があるのだろう。

もちろん筑紫哲也の政府批判には理由がある。もともと翼賛体制を賛美していた歴史的な新聞が反省して政権批判をはじめたという歴史がある。一方で読売新聞はCIAの協力者になっており戦後民主主義体制が日本に定着するための広報機関の役割を背負っていた。

この政権を監視して第二次世界大戦のような間違いを二度と引き起こさせないという姿勢は次第に忘れ去られて、ジャーナリズムはなんとなく政権と距離を取るのがかっこいいという姿勢だけが生き残った。このためTBSは政権に批判的な人たちが見てもなんとなく反政権気分が味わえるという仕立てになっている。代表的なのが関口宏のサンデーモーニングだ。見ているだけでなんとなく政権監視ができているように思えるのだが大切なことは報道されないわけだから、実は政権に近い放送局よりも危険度が高いと言えるかもしれない。単に「俺たちは認めないし、協力もしないぞ」と言っているのである。

だが、こうした報道姿勢を一方的に非難することもできない。そこにはやはり放送局として避けては通れない「視聴率」の問題があるからである。

現実には水道の問題を多角的に観察しようと考えると、少なくとも30分くらいをかけて水道の研究だけをしなければならない。しかし、実際には情報番組はスポーツや芸能との相乗りになっている。ニュースショーですらグルメを取り扱ったりするので一つの問題についてじっくりと見るような番組がない。唯一の例外が報道特集である。では、こうした政策研究型の番組にはどれくらいのニーズがあるのだろうか。

実際に視聴率を見てみると「これだけ見ればニュースが大体わかる」というようなニュース番組と高齢者向けに政権を批判してみせる(だが自分たちは何もしない)サンデーモーニングには需要があることがわかる。だが、報道特集のように一つの問題にじっくり取り組むような番組には需要がないようだ。政権批判と言っても「教条的に政権を批判するプロっぽい」報道特集よりも、高齢者の素直な偏見を政治に押し付けるようなサンデーモーニングの方が需要が高いといえる。これが「ジャーナリズムごっこ」が生まれる理由である。

ここは極めて単純に「命に関わる水の問題はみんなで考えるべきであろう」と綺麗事でまとめたいところなのだが、日本人は蛇口をひねれば安い価格で安全な水が飲めるのは当たり前だと考えており、メンテナンスコストがかかるなどと考える人はいない。つまり、水道がこの先維持できないかもしれないなどとは思っていないので、気軽に「私企業に魂を売り飛ばすな」などという気軽なことが言える。

さて、ここまで見てくると、なぜ視聴者は政策にはそれほど興味がなく、気軽な政権批判を好むのかという問題が出てくる。この問題を裏返すと、なぜ政治課題化しない政策は実際には問題を抱えていてもスルーされてしまうのかという問題になる。

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Twitterからヘイトアカウントを駆逐するにはどうすべきか

Twitter社からアンケートの依頼が来た。ランダムにコミュニティの運営についてアンケートをとっているらしい。「攻撃を受けたことがあったか」というのが質問の内容だった。他の人たちがどうなのかはわからないのだが、政治的な課題を扱っている割にはあまり暴力的な攻撃を受けたことはない。かつて例外的に東浩紀という人から絡まれた記憶がある。ずいぶん前(つまりTwitterが荒れる前)なので炎上対策のセオリーに従って放置した。しばらくは彼の取り巻きのような人たちが閲覧していたようだが、やがて治った。ネットでは有名な人らしいのだがこの類の人たちの書いているものは信頼しないようにしている。炎上を起こして話題を作るというのが彼らのやり方なのだとは思うし、フリーランス的な傾向の強い人たちはそうしないと食べて行けないという事情も分かるが、信頼性は損なわれると思った方が良い。

さて、アンケートは面倒だなと思ったのだが、やってよかった。Twitter社が何を気にしているかということがおぼろげながらわかったからだ。

彼らが気にしている点は二つだった。第一に暴力的な個人攻撃が起こることを気にしているようだった。場が荒れると広告プラットフォームとしての魅力がなくなるからだろう。が、これはあくまでも個人と個人の話である。つまり、朝鮮系の当事者が「朝鮮人は黙っていろ」と言われたらこれは暴力なのだが、当事者ではない人がそこに参加することは想定されていない。例えば「日本は単一民族国家だからアイヌ人などいない」というのはヘイトスピーチなのだが、これに声をあげるべきなのは当事者である。

すでに書いたように、ネトウヨ攻撃に対して個人攻撃はやめるべきだと思う。カウンターのほうが暴力的だと取られてしまう可能性が高く、抑止に実効性がないからである。ヘイトスピーカーは個人の政治的態度を主張するという形で情報発信をするので、それにメンションをつけて「黙れ」と言ってしまうと逆に政治的意見の抑圧に取られてしまう可能性が高い。他者の人権を否定するのは表現の自由ではないが、あくまでも反論する権利があるのは当事者だけなのだ。仮に参加するとしたら、攻撃された方を応援するなどの支援に止めるべきだろう。

次にTwitter社が気にしているのはフェイクニュースの発信のようである。アメリカではFacebookがフェイクニュースの発信源になっており対応が遅れたことが社会問題化した。広告収入に影響があり株価にも影響したようだ。

アメリカ人は日本人が考えるほどには国際化されていない。関心事は国内のことだけで国際情勢には理解もなく無関心である。そして日本人ほど社会正義には実は関心がない。彼らの関心事はお金である。だから国内で安倍政権がどうであろうと彼らにとっては「知ったことではない」と考えて良い。日本で外資系企業に勤める人たちはこれを知っており、自分の与えられた職務は全うするが、決してこちらからそれ以上のことを働きかけたりはしない。Twitterではフェイクニュースのほうが頻繁に扱われるという統計も出ており対策は講じなければならないのだが、そこに日本人的な倫理観を持ち込んで、日本支社のトップをつついても意味はないのである。

もしヘイトアカウントを閉鎖したいなら、アメリカ人の意思決定者がどのようなことを気にしているかということを考えた上で権限のある人に伝えなければならない。このアンケートから見ると、当事者が人権侵害を受けたならそれは報告すべきだが、そうでない人は事実誤認の指摘に止めるべきであろう。

ヘイトアカウントを執拗に攻撃している人を見ると弁護士とか学者などが多い。どちらも社会問題を取り扱っている。彼らは常に他人の問題に介入しているので、つい「正義があれば自分の意見が通る」と感じてしまうのだろう。こうした人たちが第三者の支持を得られないことはすでに観察済みだが、マーケティング的な視点もなく自分たちの意見をピッチできない。その意味ではネトウヨの人たち同様に村落に住んでおり自分たちの事しか見えていないのだろう。

今回のBBCの番組Japan’s Secret ShameでもYouTubeに権利処理なしにアップロードされたものが削除されているのをみて「安倍政権が隠蔽を図っている」と叫んでいる人がいた。多分権利処理のような実務に疎いかなんでも安倍政権に結びつければよいと安易に考えているんだと思う。実際にはプレゼンテーションが多くの人に認知されるようにするためにはどうしたらいいかなどということには興味がないのだろう。プロフィールを見たら大学を退職した研究者だった。

結果的に日本の人権リベラルの人たちの意見は通りにくく、ヘイトスピーチやポピュリズムを野放しにすることにつながっている。

Twitterも他のプラットフォームと同様やがては荒れる運命にあるのかもしれない。mixiのように過疎化したままそれなりの平和を保っているプラットフォームもあるようだが、すでに2ちゃんねるやはてななどがそうなっている。

だが、それでも良識のある在野の人たちはこうした世間知らずの人たちに先導されないように気をつけるべきだろう。学者や弁護士は正義さえ主張していれば本や名前を売ることができるのかもしれないのだが、一般人の生活は息苦しくなるばかりだ。一方的な正義を叫んでいても安倍政権が全く影響を受けなかったこの5年間について我々は深刻に受け止めるべきなのではないだろうか。多分Twitterでヘイトアカウントを指摘した人たちが一時凍結されることと、アンチ安倍人たちがなかなか受け入れてもらえないことにはなんらかの共通点があると思う。

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日本人と社会 – ブロック塀について思うこと

ブロック塀が倒れて女児がなくなってからしばらく経った。深刻な事故であり心を痛めた人も多かったのではないか。こういうことが二度とあってはならないと調査に取り組む自治体もある。ところが自治体が大きくなるとこうした責任感は薄れてしまう。誰かがやってくれると思うのかもしれないし、余計なことをして仕事を押し付けられる人になってはいけないという危機感もあるのかもしれない。人口が300万人を超える横浜市のある父兄からはブロック塀のチェックをPTAに丸投げされたというツイートがあった。高槻市の場合は危険が認知されていたのに専門家でない人がチェックをして死者が出たのでこれは問題が大きそうだ。

このツイートの真偽はわからないがありそうな話であり、日本人が協力できない理由がわかってくる。日本人は協力が苦手だ。

横浜市がPTAに協力を求めることに問題はない。人手が足りないのなら誰かに頼むべきだし、父兄はこのさいに通学路を再点検しておくといいかもしれない。地域の学校は避難場所にもなっているのだから自分たちが逃げる時にも役に立つ情報だからである。地域の問題なのでお互いに協力し合えば良いのである。だが、PTAはそうは思わない。「PTAに命令を下している」と考えるであろう。ではなぜそう考えるのか。

もし、PTAと教育委員会や横浜市が協力関係にあるならば、PTAが自発的に行った調査に関して「ここを直しましたよ」という事後報告があるはずだ。PTAとしても地域の問題に関わったのだから、自分のインプットがどう役に立ったかが知りたいはずである。人は誰でも自分は役に立ったと思いたい。だが市役所はPTAに事後報告するのを嫌うのではないか。それは報告することによって「なぜここを変えないんだ」というクレームに発展することを恐れているからではないだろうか。

横浜市はPTAを下請けのように考えているだが、形を変えるとPTAは住民・有権者としてお客さんの立場になる。千葉市役所も市民のことを「お客さん」と呼ぶように指導されているようである。納税者なのだから大切に扱うという意思表明なのかもしれないが、実際にはカスタマーとしてクレームを入れてくる迷惑な存在であるというような含みが生まれる。

日本人はミューチュアルな(相互的な)関係を持つことができず、命令する人とされる人という関係性を常に意識しりようになる。だからお互いに関わるのをやめようと思ってしまうのだ。

本来ならば、PTAのみならず地域住民と市町村は協力すべきである。だが、そうはならない。もともと日本人は自分とは違った人たちを潜在的な対立者として捉えて協力してこなかった。いったん協力する関係が生じると上限関係が生まれる。このため日本人は関係性が生まれるところではどこでもマウンティングをして、どちらが優位なのか白黒させたがる。

Twitterもまたこのマウンティングの舞台になっている。ネトウヨ系の議員がめちゃくちゃなことを言って安倍政権の擁護をしたがるのも「私はルールを決める側の人間なので、たとえめちゃくちゃであっても絶対にあなたたちには従わない」というメッセージになっている。麻生財務大臣はこれが芸になっていて記者たち相手に一人マウンティングをやっている。麻生財務大臣が滑稽なのはこれが誰にも相手にされないからである。

最近Quoraで地域で問題を解決するために様々な専門家を集めて作業するのは極めて難しいという観測を漏らす人もいる。地域振興のための議論の場では誰も異業種間のコミュニケーションを取ろうとはしないという話を聞いた。型通りに意見を集めて総花的なレポートを上げて終わりになることがあるそうである。

この人には「問題解決が複雑化する現代では、自治体であってもビジネスマンのようにいろいろな意見の人を聞いてプロジェクトマネジメントをする指揮者のような役割が必要だ」というようなことを書いて送ったのだが、あまり満足してもらえなかったのではないかと思う。そんな概念的なことを言われても自分一人で組織文化を変えることはできないので「もっと具体的で即効性のある提案」が欲しいと考えるのではないだろうか。すべての地域が即効性を求めた結果、地域振興はプレゼンテーションの技術を競うコンペになっている。中央官庁に受けが良いパワーポイントが「優勝」するのだ。

本来ならば、専門家がチェックリストを作った上でPTAや地域に協力を仰ぎ、PTAや地域住民がチェック結果を市町村に伝えればよい。市町村は上がってきたリストをどうチェックしたのかということを公開して協力してくれた人たちに公開すればみんなが満足できるだろう。もし仮に予算が足りないなら市議会議員を交えてミーティングすればよい。だが、和を以て尊しをモットーとするはずの日本人にはそれができないのである。

そこで市役所は言い訳に走ることになる。

千葉市もマニュアルのようなものを市役所のウェブサイトに掲載しているが、規定を丸ごと書いて「これで勝手に確認しろ」と言わんばかりの態度である。ブロック塀が倒れる写真が掲載されていることからこの問題がすでに周知されていたことがわかるのだが、死者がでているにもかかわらずこれを変えようとする人はいない。千葉市は全国の政令指定都市の中で地震の危険性が一番高いと言われている。それでもこの程度の認識である。

埼玉県は学校を緊急点検したところ1/4の学校で建築基準法違反の疑いが出たと発表したそうだ。彼らが考えるのは危険を減らすことではなく自分の身の安全を守ることのようでこのように弁解している。

県教委は、定期検査で不適合の可能性を把握していたにもかかわらず対策を取っていない学校があったことについて「著しく危ない部分を優先して修繕していた」と説明した。

このように公共心が全くない日本人だが、こと憲法になるとやたらに公共について語りたがる。マウンティングに利用するためである。日本国憲法によると国会議員や政府は主権者に奉仕するのが仕事である。だが、政権にいるうちに「それでは面白くない」とか「誰かを従わせてみたい」と思い始めるのだろう。

例えば、佐藤正久外務副大臣は一部では「人権人権とバカじゃないか、もっと大きなものを護るために命を捨てろ!」と言ったとされている。現在このビデオはチャンネル桜の申し立てにより削除されており、本当にこのような発言があったかどうかは確かめられない。礒崎陽輔議員は日本国憲法は国が国民に規範を示す訓示的憲法にしなければならないとTwitterで発言したことがある。このように折々にこうした発言を観測気球のようにあげて徐々に陣地を広げてゆくのが彼らのやり方なのだろう。

常に「誰が偉いのか教えてやろう」という気持ちが強いために民主主義の規範を踏み外す人が後を絶たない。だから、有権者の監視が欠かせないのである。多分こうした不心得な人たちはいなくならないのではにだろうか。

そのためには監視する側が常に規範意識を持ちかつ毅然と行動し発言する必要がある。確かに乱暴な声は届きやすいが隠れた反発者を生むだろう。個人的な記憶を呼び覚ましてみても高校の社会科の先生の中に現実を見ないで夢のようなことばかりを訴える現代社会の先生がいた。もしかしたら日教組的な影響を受けていたのかもしれない。最初は物珍しさもあり話を聞いたりするのだが、そのうちに「ああ、また何か言っているよ」としか思わなくなった。このようなことを避けるためにも、どう見られているのかを意識し、課題を勉強した上で発言したほうが良さそうである。ましてやマウンティングに参加してしまうと「この人もえらく見られたいだけなのか」と思われて終わりになるだろう。

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そのツイートが次世代のテロリストを生み出す

先日来リベラルとポピュリズムについて見ている。民主主義に疲れた人が増えるとポピュリズムの危険性が上がる。いっけんすると保守的な人たちのほうがポピュリズムに近そうなのだが、実際にはそうとは限らない。社会主義を支持するあまり教育のない庶民層や社会正義を実現したいと願う人たちの方がポピュリズムに感化されやすいこともある。今回はこうしたアンチネトウヨムーブメントが全く予測もできない次世代のテロリストを生みかねない状況について考察する。

この現象について考える時、日本の状況だけを見ていると却って全体像が見えなくなる。Twitterで日本語と英語のアカウントをフォローするとほとんど相似形のような現象が見られることがある。お互いにシンクロしているのではとすら思えるほど似ているのだ。トランプ大統領は銃規制や不法移民政策で詭弁と嘘を繰り返しており、これについて感情的な憤りを発信する人たちがいる。同じように日本では女性の人権問題や労働法関係で詭弁が繰り返されており、同じように「多少手荒な手法と取ってでも」などと言い出す人が出てきた。ネトウヨを口汚く罵ってTwitterのアカウントを一時凍結される人も出ている。

日米はまだ「ましな」状態にある。実際に独裁制に移行しつつある国も出てきているからだ。ブラジルでは「民衆に近い」とされた人が汚職で軒並みいなくなると代わりに「ブラジルのトランプ」という人が出てきた。トルコではヨーロッパの一部になるという望みがなくなると反動的なイスラム回帰の動きがある。メキシコでも左派政権が登場し「公共事業を見直す」などと言っている。全体として民主主義疲れが出てきており、日本とアメリカもその延長線上で「民主主義が荒れている」のである。

日本が直ちに独裁に走るとは思えないのだが、最近気になる動きがある。実名質問サイトQuoraを見ていると「野党が生産的な質問をしないのはなぜか」とか「民族の誇りは何か」といったような質問が見られるようになった。これらは実名でどれも知的探求としては真摯だが、政治的常識の欠落を感じさせる。だがこれについて理路整然と民主主義の基本を語れるような人はそれほど多くない。試しになぜ天賦人権が大切なのかを自分を説得するつもりで書いてみると良いと思う。意外と他人に説明できない。

こうした人たちの代表がRAD WIMPSの野田洋次郎だろう。(RADWIMPSの愛国ソング 日本語論より動機考察を 中島岳志)日米の間で「どちらにも居場所がない」と感じた人が日本について考察してもモデルになるものがなく、ネトウヨ的言論に感化されて幻想の日本を作り出してしまう過程を論評している。

「HINOMARU」には「ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを」という歌詞がある。「あなた」は、いまここにはない「幻影の日本」だ。そして、繰り返し使われる「御霊」という言葉。彼は、スピリチュアルな次元で永遠の日本と繋(つな)がろうとする。

よく無敵の人(社会的なつながりがないので失うものがないひと)がテロリストの温床になるのではなどと指摘されるのだが、実際には仕事も名声もある人であってもかなり危険な状態に陥る可能性があることがわかる。

現代の日本保守には歴史的な裏づけがない。もともと日本しか誇るべきものが見つけられない人たちが様々な理論を寄せ集めているに過ぎないと言える。中には共産主義や反安保ムーブメントからの転向者なども含まれている。遡れるとしてもせいぜい小林よしのりさん程度ではないだろうか。だがこの保守の支持者たちは、社会生活への影響を恐れている。だから社会にはそれほど害悪がない。だが、この議論を見ている人たちは「統一的な保守の理論を知らないのは自分たちがまだ知らされていないからなのではないか」と感じているのかもしれないと思う。理論がない分だけ野田さんのように「本当は何かあるはずなのだ」と思うかもしれないのである。

前回はリベラルの人が臆病なネトウヨに対峙しているうちに闘争心をエスカレートしてゆく様子を見たのだが、まだ埋もれている人たちも潜在的な危険因子に成長してゆく可能性があると思う。むしろこちらの方が危険性は高いかもしれない。

これを防ぐためには私たちの社会は何をすべきなのだろうか。

同じようなことが1990年代にも起きた。それがオウム真理教などの新興宗教ブームである。当時の新興宗教ブームでは、全く根拠がなく伝統もなさそうなエセ宗教に十分に理知的な大学生が惹きつけられていった。宗教というのはある種はしかのようなものなので一度接触しておけば免疫ができる。信じたければ信じてもよいしなくても別に困らない。が、社会との接触を絶ってまで個人に傾倒するのはとても危険である。オウム真理教の場合は東大を出たような人たちが最終的には集団殺人にコミットするまでエスカレートし、テロリストと認定されて止まった。

彼らにちょっとした宗教体験があればここまで極端な道に走ることはなかっただろう。宗教体験と言っても神秘体験をする必要はなく例えば神社のお祭りでお神輿を担ぐなどで十分なのである。神社の運営にはそれなりの社会性があるので、個人への絶対的な帰依を求めるようなものが宗教ではなく詐欺の一種であるということは容易に理解できたはずである。

日本の場合、学級委員会の運営もやったことがないような人が、いきなり国家というとても大きな枠組みに魅せられてしまう。これは宗教体験がなかった人がいきなりカリスマ的な詐欺師に魅入られるのとほとんど違いはない。国家論について興味がある人に「地域の政治を見てみたら」などというとたいていつまらなさそうな顔をする。やはり学級の組織運営や地域政治が国政の延長になっているということを学校で教えた方が良いとは思うのだが、現状の教育制度ではなかなか難しいのかもしれない。

だが、現在の「ネトウヨ化」はこうした次世代の過激思想の元になっている。

このことから、アンチネトウヨ運動が社会的規範意識を持った上でことに当たらなければならないということがわかる。手荒なことをしてもよいなどと言ってみたり、口汚い言葉でネトウヨを嘲るような行為はそれ自体が次世代のテロリストを育てていると言って良いだろう。アンチネトウヨの運動はいろいろな人に見られている。そのツイートボタンを押す前に「自分が良い教師になっているか」をもう一度考えるべきだろう。

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低能先生と他生の縁

前回「低能先生とHagexさん」の件を書いた。流入数はそれほどでもなかったがTwitterからの関心が高いようで長い時間読まれていることがわかる。

Twitterでフォローしている何人かの方がこの件について書かれたブログを紹介してくださっていたので一読した。多くの人の関心は「誰が悪いのか」にあるようだった。当事者たちについて分析している人もいたし「運営していたはてなの責任」を問うものが多かった。殺人事件という理不尽なことが関心圏内で起こると日本人は意味づけのためもマップを作りたがるということがよくわかる。排除する異物を決めたがるのだろう。当初はhagexさんが被害者として聖人扱いされていたのだが、それについて疑問をさしはさむ人もいた。

はてなの責任は「抑止」という観点から語られることが多い。つまり自分たちは無謬であり穢れが持ち込まれたのだからそれを排除して穢れを除かなければならないと半自動的に考えてしまうのであろう。

かつての日本型村落ではこうした犯人探しは有効に機能していたのだろう。だが、昨今の政治についての記事をお読みになっている人の中には「もうこれではダメなのだ」ということに気がついている人も多いのではないだろうか。状況が複雑になっており文脈が管理できないからである。政治議論はお子様定食のようなビジョンのない寄せ集めの政策にどのようなラベルを貼るのかという作業に終始しておりこれが一年経っても終わらない。その間にも「本当の問題」が積み上がっている。

このはてな殺人事件にも問題の二重性があるということに気がついている人も多いようだ。最初のフレームは、コミュニティの厄介者だった低能先生という迷惑な存在が最終的には絶対にやってはいけない殺人を犯したという見方である。だからhagexさんを聖人にして「惜しい人をなくした」とするのである。

だが、これに認知的不協和があるから少なくない人が長い文章を読みたがったのだろう。彼らの洞察は正しい、これをいじめ問題の構図で語ると、いじめを先導していたhagexさんが観客たちが自分の味方であるということを見越した上で低能先生をバカにしていたという議論になる。いじめている側は「自分たちはパソコンの向こう側におり安心」と思っていたのにいきなり低能先生が現れて反撃に出たという事件なのだ。自分は安全だと思っていじめていたのに実は危険だったということがわかり焦っているのだろう。

個人主義が採用されるTwitterではこのような問題は起こりにくくなっている。システム自体がアカウントを排除するのではなくお互いの交流を遮断するかあるいは表示しないことによって問題の解決を図るからである。電気回路に起きたノイズなので遮断してしまうのだ。

このため昨今のTwitterではリベラルのアカウントが遮断されることが増えている。ネトウヨの議論はそれが社会的な許容範囲ではなくても政治主張なのだが、それを攻撃するとノイズを発生させかねないので、そちらを遮断してしまうのである。内容については考慮せずノイズだけを遮断するので「相手にしているリベラルだけが遮断された」というように見えてしまうということになる。

この背景にある思想は「自分と異なった意見を持つ人がいることは排除できないが、それは無視することができる」というものである。日本人の考え方とは異なっている。

はてなはこの「否定せず関わらせず」というポリシーを守るべきだったのだとは思うのだが、集団をコントロールしたがる日本人にこのような考え方ができるとは思えない。ゆえに今後もこのような問題は起こり続けるのではないだろうか。

集団を強く意識する日本人はこの環境にどうやって対応してきたのだろうか。それが「縁」である。閉鎖的なコミュニティで暮らしている限り関わりは避けられない。であればそれを包摂してしまおうという考え方だ。もともと日本語にあった言葉のようだが、仏教的な概念を導入して独特の進化を遂げた。たまたま隣にいる人と接しなければならないというのは理不尽なので「自分は覚えていない前世でつながりがあったのだ」という説明が受け入れられたのかもしれない。

これをうまく言い表している言葉が、前回紹介した「袖振り合うも多生(他生)の縁」である。袖が触れただけでも何かの関係があるのでそれを大切にしなさいよという意味のようだ。

室町時代に書かれたとされる蛤の草紙という話に次のような一節があるそうである。

「情なき人かな。物の成行きをよく聞き給へ。袖のふり合せも他生の縁と聞くぞかし。たとへは鳥類などだにも、縁有る枝に羽をやすめるぞかし。ましてや、これまでそなたを頼み参らせて、此舟に近づきし甲斐もなく、帰れと仰せ候ことのあさましさよ」

これは「ここで会ったのも何かの縁なので連れて帰って妻にしてください」というような意味だ。前後は、インドに住む40歳くらいの貧しい独身男が美人と出会う。そして、妻の貢献で男は豊かになるが妻は去ってしまうというお話である。

もともと仏教では縁や因縁は波紋のようなものだ。苦を避けるためにはさざ波が立たないようにすべきだということになりこれを解脱と呼ぶ。だが日本人は仏教的な概念は受け入れつつ深層では縁は苦のもとという考えは取り入れなかったようである。

キリスト教世界では個人が起点になっており物事の良し悪しを決めるのは自分自身だ。相手はコントロールできないが自分の意見として取り入れる必要はない。だから誰もが好きなことが言えるように電気信号がサージしたら半自動的に止めてしまうというシステムを作ったのだ。だが、日本ではせっかく関係性ができたのだからそれを大切にすれば良いことがあるかもしれないとみなすことになる。ここでコミュニティのメンバーが「縁を大切にする」ならばコミュニティは平和裡に保たれるし、相手をコントロールしようとするとそれは全て苦のもとになる。

つまり、今回の出来事から我々が学べるのは、この件に関して対処する場合アプローチが二つあるということである。一つは個人主義的に好きなことを言い合いながら違った意見があってもスルールするというものである。もしスルーするのが難しければミュートしてしまえばよい。だが、もしこれがあまりにもドライすぎると思うなら「目の前にある関係からも何か得ることがあるかもしれない」と思うこともできる。

いずれにせよ犯人探しをしても苦のもとがなくなることはないのではないかと思う。

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低能先生が求めた絆とは何だったのか、またそれは成就したのか

ネットでdisられた人がdisった人を殺すという事件が起きたようだ。ネット史上歴史に残るなどと書いているメディアもある。

当初「低脳先生」と書いたのだが「低能」だったようだ。文中にある該当箇所は書き直した。

またネット上には 「低能先生」と呼ばれた犯人のものとされる書き込みが残っている。

これが、どれだけ叩かれてもネットリンチをやめることがなく、俺と議論しておのれらの正当性を示すこともなく(まあネットリンチの正当化なんて無理だけどな) 俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前らへの返答だ 「予想通りの展開だ」そう言うのが、俺を知る全ネットユーザーの責任だからな? 「こんなことになるとは思わなかった」なんてほざくなよ?

殺されたhagexという人はネットの有名人だったようで人柄を惜しむ声がTwitter常に流れていた。その一方で殺人を犯した方の人に対して同情する声はなさそうであった。が、散発的に流れてくるこのニュースを聞いて考えたのは、いつものように被害者ではなく加害者についてであった。

第一に「どう防ぐか」を考えたのだが、ブロックせずに無視できる仕組みを作るべきだと思った。実名すら名乗ることができないくらいの自我を持っている人がかろうじて世間とつながっている存在を消されるということがどういう意味を持つのかはてなはよく考えた方が良い。

扱いにくい話題なのでテレビなどでこのニュースが取り上げられることはないだろうからこの人がどういう境遇でなぜ殺人を実行するに至ったのかということはわからないままだろう。ネットに出ている情報を総合すると数年に渡って他人を「低能」と非難した挙句にアカウントを閉鎖されたことを恨んだのだと言われているそうである。この殺人に意味があるというポジションを取ると「殺人を正当化するのか」という非難は避けられそうもない。

誰からも相手にされないというのは辛いものだと思う。が、その一方で幸せなことでもある。多くの人は世間とのなんらかのつながりがあるので自分の意見というものを表明することはできない。もしできると思うのなら実名で自分の政治的な意見を表明してみれば良い。たまたま一言つぶやく分にはいいかもしれないが、それを継続していれば一週間もしないうちに周りから距離を置かれるはずである。

日本人は他人が自分と著しく異なる政治的な意見を持つことを許容しない。許容するのは「世間体」のフィルターを経たものだけである。例えば主婦は主婦なりの枠というものが決まっているし、会社員ならば組織の立場を慮った上で発言しなければならない。だから日本人は実名で政治的な意見を表明することができない。ほぼ100%絶望的だし、会社によっては自粛あるいは禁止しているところも多いはずだ。

このため政治的な意見は匿名で発信せざるをえない。匿名だと過激な意見も許容されるがこれも世間に収斂してゆく。多くの人たちはいわゆる「ネトウヨ」か「リベラル(反安倍)」という雛形に集まっていってしまうのである。つまり、匿名で自由になったといっても日本人は集団化圧力からは逃れられないということになる。無意識のレベルでそのようにしつけられているからである。

誰からも賛同を得られないということは、つまりそれはまず実生活の集団の規範には縛られておらず、ネット上のありものの規範にも縛られていないということを意味する。政治姿勢というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは社会についての態度であり、つまりそれは自分が自分としてどう生きてゆくかということでもある。つまり、誰からも相手にされないということだけが、もはや成長しなくなった日本では唯一新しく成長の可能性がある社会的な姿勢を形成するチャンスだということになる。とてもいびつな社会なのだ。

こうした社会から孤立した人が自分を認めてくれない社会に対して怒りを持つというのはむしろ自然な事だろう。だから、思う存分やれば良いと思う。だが、そんなことは多分しばらくやっていると飽きてくる。その時点である種のコミュニティに回帰してゆく人もいるのだろうが、それでも時間が余ったとしたら、やっと「その人が本当に持っていた何か」を発芽させるチャンスが巡ってくる。それはその人だけに与えられたその人だけの機会だ。

多分、この人の不幸は、せっかく世間というしがらみから逃れることができたにもかかわらず、結局「否定される」という関係性に耽溺していったところなのではないかと思う。言い換えれば集団化欲求はそれほどまでに強いのだ。無視されて非難されるという経験は辛いものだがそれでも「何も関係がない」よりはましだと感じる人がいるのだと思った。だからこそ、IDを変えて同じ文体で執拗に特定の人を攻撃し、最終的に「低能先生」というレコグニションを得たということになる。

さらに、彼は観客を得る事によって行動をエンカレッジされてゆく。

すでに見たように、この事件が起こる背景にはITの機能についての認識の違いがある。殺された人は度々「メンション」されるたびに「うざい」と考えてはてなに連絡をしていたようである。はてなはそれを無視せずにこまめにアカウントをクローズしていた。はてなではこのメンションをIDコール機能と呼んでいたそうだ。Twitterでもメンションに怒る人がいるが、個人主義の文化で開発されたTwitterのメンションは単なる「引き合い」を意味する。絡んできていると思う人もいるだろうがそうでない場合もある。だから相手をするかは個人の判断に任されている。かなりドライな仕組みである。だから見たくないものはミュートしてしまえば良い。

ところが独特の集団主義の強い日本ではこれを「絡んできている」とみなすのだろう。友達のように文脈が共通している人の場合は「じゃれている」ことになるのだが、敵対性が明確な場合は「うざい絡み」ということになる。こうしたウエットなつながりをシステムの特性としているのがはてななのではないだろうか。機能としてはTwitterとほとんど違いはないが、結果的には全く異なった解釈で使われているのだ。

敵味方を峻別し味方の中で甘えた関係を作りたい日本人は敵意表明を明確にしたがる。だからTwitterでも非明示的なミュートではなくより敵対的で明示的なブロックが選ばれる。「お前を拒絶している」ということを見せつけたいのだ。だが本当は「情報収集をしたいからノイズをキャンセルしたいだけ」かもしれない。別に敵意はないが役に立たないから遮断するということが集団内での関係に過剰な意味をもたせたがる日本人にはできない。

このウエットな(あるいは優しい)システムは最終的に個人同士の「絆」を深めやすくする。それが平和なオフ会で終わることもあるが、一方で今回のような「血の絆」で終わる事もあるのだということだ。最終的にターゲットはハンドルネームではない実名で実際に血を流し、犯人は「低能先生」ではなく実名で認識されるようになった。

よく因縁という言葉があるが全く関係のなかった被害者・加害者と観客の間にある因縁が結ばれてしまったということになる。個人としての自我や自己を持たないように繰り返し訓練される日本人にとってはその集団がいかに病的なものであっても抗えない魅力があるのだなと思った。因縁が結ばれやすい社会だ。いずれにせよこれまで低能先生を遠巻きにはやし立てていた人は血の絆を持って彼と一生結びつく事になった。その主導者は血の繋がりを持つことになり人生を終えた。

今回被害者になった人は辛抱強く相手を刺激する事で彼が実体として社会に現れる手助けをし、最後は「犠牲者」という役割を引き受けた。ネットではプレゼンスがあり尊敬もされていたようだが、血の犠牲者というのがこの人の一生の仕事になった。また実際に起き上がって人を刺した人は行動する事で彼の望みだった帰属感を得る事ができた。

これが、良い事なのか悪い事なのか俄かには判断がつかない。殺人なので悪いことに分類したくなる。

これについてネットでいじめられたという事を殺人によって明示的に宣言したと言っているブログを見つけた。確かにその通りなら恐ろしいことなのだが、所詮ネットの中の内輪揉めでありそれほどの社会的インパクトはなさそうだ。

ネットに文章を出しているといろいろな縁がある。精神的な問題を抱える人が寄りかかってくる事もあるし、Facebookに怒りをぶつけるようなコメントを出してくる人もいる。なんらかの縁が生じたのだからできるだけの真剣さでそれを送り出してやるべきだと思うし、悪い縁に育ちそうなら我慢して断ち切ってあげるのも優しさだと思う。

時には利用できそうな縁だと思う事もあるのだがそれは膨らまさないようにしている。私たちは目の前で起こる事の意味をすべて知っているわけではないからである。キリスト教流にいえばことの良し悪しは神様だけが知っていて人間には知りえないのだし、仏教的に考えればすべての因縁は苦の元であり断ち切られなければならない。

日本には袖振り合うも他生の縁という言葉がある。こうした縁を大切にしてきたのが日本人であり、それを今一度思い出すべきではないかと思った。

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政治の世界で「発言の撤回」が頻繁に起こるわけ

衆議院予算委員会の河村委員長が自身の発言を撤回した。首相が「集中審議は勘弁してくれ」と言われたらしいのだが、野党から攻撃されると一転して「そんなことは言わなかった」というのである。この人もまた「嘘をついている」と思うのだが、どうしてこのような嘘が蔓延するのか考えてみたい。これは「気の緩み」なのだろうか。

これについて考えているうちに、かつて日本人は恒常的に「管理された嘘」をついていたのだという考えにたどり着いた。ただし日本人はこれを嘘とは言わなかった。今になってなんらかの理由で嘘を管理できなくなっているのだろう。さらに西洋流の個人主義が間違って解釈されたことも原因になっているのではないかと思う。日本人はかなり特殊な集団制を生きていた。それが失われつつあるのかもしれない。

この言葉を考えてゆくと「政治にとって言葉は命である」という言葉も誤解されているということがわかる。言葉は命であるというと多くの人は「政治家は正直でなければならないのだな」と考えるが、本当にそうなのだろうか。

まず最初に個人主義について考える。ヨーロッパを起源とする文化はまず個人を考える。しかし階層構造がないわけではないし個人の欲求もぶつかることがある。そこで個人が協力するための様々な工夫が作られてきた。例えば個人主義のアメリカでは上司と部下はなんでも好きにいい合えると誤解している人は多い。しかし、アメリカで部下が上司に逆らえばクビになってしまう。アメリカ人は上司と部下の間が「フラットに見える」のを好むが、実際には上限関係があるからだ。

こうした文化の違いは、これまで紹介してきた異文化コミュニケーションの本にまとめられている。これまで「文化が衝突するとき」と「異文化理解力」という本をご紹介した。他にもホフステッドの指標などがありオンラインでも個人主義というのはどのようなものなのかを学ぶことができる。他の社会ついて学ぶことで日本人の集団主義が何を意味しているのかということも明示的に理解できるだろう。

日本ではアメリカ人のようにズバズバものをいうのがかっこいいという間違った個人主義理解が進んだ。このため集団の中の日本人が地位を利用して自分の意見を好き勝手に述べるというようなことが蔓延している。最近も大分選出の穴見議員が肺がんの患者の参考人に対して「いい加減にしろ」と恫喝したニュースが話題になった。規制の影響を受けるレストランチェーンの創業者一族であり分煙・禁煙を敵視しているのだが、のちに「喫煙者の権利を守りたかった」と釈明したそうだ。個人主義は自分の権利を守ると同時に相手の権利を尊重する主義のことなのだが、穴見さんは典型的な「甘やかされた日本人」でありこれが理解できなかったのだろう。だが、これが日本人にとって典型的な個人主義の理解であるのも確かである。多くの日本人にとって個人主義とはわがままな個人のことなのである。

しかしながら、これとは違った状況も見える。かつて日本人は本音と建前を使い分けていた。もともと個人の欲求などなかったことにして全てが自然と決まったと考えることを好んだ。これは集団と個人の間にマイルドな癒着があったからだ。だから欲求がぶつかるようなことは裏で根回しとして行い、表面上は「しゃんしゃん」と決めて表面上の和を大切にしてきた。こうして生まれたのが本音と建前である。みんなが気分良く過ごすためには建前が必要なのだが、それだけでは不満がたまる。そこで親密な仲間同士と甘えられる場所で本音をぶつけ合っていたのである。

政治にとって言葉は命であるというのは政治家が建前を管理する仕事だからだろう。日本で民主主義が崩れたなどという人がいるが、これは誤解だ。もともと日本の意思決定は最終的には儀式で終わる。この儀式の最新のファッションとして選ばれたのが民主主義なのだ。その意味では、日本の政治家は「建前の司祭」という帽子をかぶっていたことになる。つまり言葉というのはこの儀式に用いられる言葉のことだったのである。

ではなぜ河村さんは記者たちに「裏であったことを正直に語ってしまった」のでだろうか。河村さんは安倍首相と昵懇の仲であり「本音を打ち明けてもらえる仲間である」ということを見せびらかしたかったのではないだろうか。首相と仲良くなった人はみな首相との仲をほのめかしたがる。例えば籠池理事長がそうだったし、加計学園の渡辺理事長も県庁に行き「これは首相プロジェクトなのだ」と自慢していた。ところが彼らが地位の優越性をほのめかすと、それは「安倍首相はルールを作る側なので、多少の無茶はやってもいいのだ」という自慢になってしまう。実際に安倍首相はそのように行動していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

自民党はこの「儀式力」を失いつつある。これは裏を返せば安倍首相に「建前の司祭長」としての自覚がないからである。例えばいま立憲民主党が政権をとれば彼らは緊張して建前と本音を分離しようとするだろう。だが自民党は「一度失った政権を取り戻した」と考えており「多少のことは許されるようになった」と誤解しているのではないだろうか。だから「建前と本音」を分離して聖域を確保するという気持ちが薄くなってしまうのかもしれない。また、最初の政権では儀式性にとらわれて言いたいことも言えなかったという気持ちがありそれを取り戻したいということも考えらえる。なぜ「気が緩んでいるか」は多分本人たちに聞かなければわからない。

もちろん、政治家全体が西洋流の「説明責任」を学び民主主義を尊重するというアプローチも取れる。個人主義社会に出た日本人は問題なく個人主義の文化を学ぶことができるので「日本人には無理だ」とも思わない。だが、一人ひとりの議員を見ているととてもそのようなことはやってくれそうにない。意識が低いというか「ぼーっとして何も考えていない」ように見えてしまう。二世議員が多く「集団に守られている」という油断があるのだろう。その一方で、建前と本音を意地でも守り通す(つまり本気で民主主義ごっこをやる)気迫も感じられない。こうして嘘が蔓延しそのたびにマスコミが大騒ぎするという気風が生まれてしまった。

我々はかつて本音と建前という二重性を生きていた。しかし今では西洋流の民主主義や組織統治の上に本音と建前がかぶさる三重性を生きている。

国民が「政治家が嘘をついている」というとき何を求めるのだろうか。本物の民主主義国のように正直に意思決定プロセスを伝えて欲しいと思っているかもしれないのだが、これは同時に不都合な事実も受け止めるということを意味する。多くの人は不都合なことや醜いことは「そちらで処理して」きれいな結果だけを見せてくれと思っているのではないかと思う。つまり、政治家は嘘をついているという非難は、必ずしも「正直になってくれ」ということを言いたいのではなく、なぜもっと上手に嘘をついてくれないのかという非難なのかもしれない。

この文章を読んでくださる方にはぜひ、これからも「上手な嘘」のある社会を求めるのか、それとも正直な社会を求めるのかということを考えていただきたい。誰かに伝えるつもりならお化粧が必要だが、誰にもいう必要はないのでその分だけ正直になれるはずだ。

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呪いあう人々

先日は日本人のコミュニケーションの特徴を見ながら「分かり合えないこと」について観察した。今回はこれを基礎にして「呪いあう人々」について考察したい。上西さんという「ご飯論法」を流行させた法政大学の教授が「呪いの言葉の解き方」という概念を提唱した。Twitterの不毛な議論から「社会は呪いを押し付けてくる」と感じているらしい。ハッシュタグまとめサイトまで作っているがあまり広まっていないようである。しかし、これをみるとこの人たちは自らを呪っているのではないかと思った。

前回見た日本人の特徴をおさらいしよう。それは、あらかじめ答えを決めつけてしまいその中でしか動かないし動けないというものだった。これに満足している場合には共感が得られる上に自己肯定感を持つことができる。集団から守られていると感じるはずである。だが、例外が発生するとお互いに「分かり合えない」という感情が生まれる。さらに「よく見られたい」という気持ちも強く、これも情報のプロセッシングを難しくしていた。

今回観察する呪いとはこの「あらかじめ作られた」フレームワークを意味している。Twitterのような半匿名の公共空間では公に知られた枠組みがないので「マウンティング」を行って誰がゲームのルールを設定するのかを決めるのだろう。例として「野党は批判ばかり」というフレームがある。結論は「だから野党はダメ」ということになる。そして、この答えを形成するフレームを固定することを「押し付ける」と言っている。つまりフレームを押し付けることで答えを押し付けているのだ。

まとめサイトにある彼女たちのソリューションは別のフレームを持ち出すことである。つまり自分たちの文脈を被せようとしている。相手のフレームは無効化することはできるが、折り合いをつけることは難しいだろう。これも決めつけであり相手が受け入れるはずはない。あとは多数決にするか取っ組み合いの喧嘩をして決めることになる。この世界観の延長にあるのが「民主主義は多数決だから選挙で勝った人が勝ち」だろう。

だが、このレベルですでに彼女たちは相手の呪いにかかっている。議論の目標は「政府を正常化」させることであって、フレームワークなど実はどうでも良い。つまり一段議論のレベルをあげなければならない。議論の中に内田樹という人の「次数をあげる」というタームが出てくる。議論を客観視するということなのだと思う。これがなかなか難しいと言っているのだがそれは当然だ。「相手の呪い」に張り付いているのでレベルの上げようがない。

こうした状態に陥るのはなぜだろうか。「決まり切ったフレーム」を相手に押し付けようとしているからだろう。日本人はあらかじめ決まったフレームに依存しているのでこうした話法から抜け出すことはできない。フレームがぶつかるとお互いに「フレームを決める争い」に膠着してしまい話し合いができなくなる。だが、そもそも社会全体でソリューションを求めるつもりはないので、それでも構わないのだろう。さらに仲間内で主流と見られて「勝ちたい」という気持ちや、その中で「いい人に見られたい」という気持ちが強く、ますます解決からは遠ざかる。

こうした喧嘩腰の議論の裏にあるのは「既存社会はいつも私たちにフレームを押し付けてきており、私たちは損をしている」という、これも決まり切った認識なのかもしれない。前回のATMの例で観察したおばあさんは「前提が変わったらATMを使わなければならない」という理不尽な意識を持っているように思えた。また「何かを言われたらそれを相手のプロトコルに従って理解しなければならない」という思い込みもある。自分が「何をしたくて、何がわからないか」に集中していればもうすこし違った情報交換ができただろう。

このあたりからうっすらと見えてくる結論は「何を解決したいのか」という目的と、自分は何を知りたいのかという「自身」に注目することの重要さである。

ところが日本人は「周囲に調和している自分」を見せたいという意識が働く。場合によってはその規範に従って自分の行動を変えなければならないと考えてしまう。平たく言えば「他人の目がきになる」のだ。

例えば、夫婦別姓に反対している人にも同じような調子が見られる。議論を始めた人たちは「社会のベースは同姓でも構わないのだが自分たちは別姓を選択できるようにしたい」と言っているだけである。だが「なぜ全員別姓にしなければならないのか」という前提で噛み付いてくる人がいるようだ。社会のルールは一つしかありえず、それが崩れてしまうと社会全体がめちゃくちゃになってしまうという思い込みがあるようだ。中にはこれを「革命だ」と言っている人すらいるのだが、欧米ではこうした「革命」が起きているが社会不安には繋がっていない。背景には「みんなが同じルールを持たないと社会全体がめちゃくちゃになってしまうから何も変えたくない」という思い込みがあることは確かだが、それがどこから来たのかを考えてみても理由が全くわからない。

政治はもともと自分たちがやりたいことを達成するための道具にすぎない。だからそれに従って行動している分にはそれほど複雑なことにはならないはずだ。しかし日本人は「自分は社会の主流にいて、自然と好ましい待遇が得られる」ように見えることを好むので、話が複雑化していまうのだろう。

実際の「呪いの言葉」議論の経過を1日観察していたのだが、問題解決は遠のき与党支持者に対する当てこすりになってきているこ。二つの圧力が働いている。同じ気分を共有する人たちが自然と集団を作って自分たちを慰め合うようになってしまうという内向き化と細かな点に着目して大きな流れが見えなくなるという微細化だ。つまり「新しい村」が誕生しているのだ。

この呪いに拘泥することで実は議論自体が呪われている。安倍首相は嘘をついているか現実を否認している。先日はついに「架空の話」という言葉さえ飛び出した(毎日新聞)そうである。しかし安倍首相は嘘をついていないと言っている人がおり、実際本人も政府の周りの人もそれを認めていない。そこで反安倍人たちは「嘘をついている」という証拠を集めようと躍起になり、キャンプを作ってお互いを慰め合うようになる。するとそれを遠巻きで見ていた人たちは議論から離れてしまうのだ。

実際には「明らかに嘘をついている」という前提で話をしたほうが簡単に説明ができる。実際には「嘘をついている」前提で分析したほうが早い。QUORAで「安倍首相は嘘をついている」という前提で回答したところ「いつもの冷静さがない」と批評された。そこでできるだけニュートラルな用語を使って返事をしたところ「冷静さが伝わりました」と言われた。つまり「安倍首相は嘘をついている」という人は「冷静さを欠いた人である」という決めつけがすでに始まっていることになる。もし安倍首相の嘘に心苦しさを感じている人は一度誰かにそれを他人に説明してみると良いだろう。自分たちの議論がどう見られているかが冷静に観察できるはずだ。

イライラして感情的に反論するよりも冷静に分析してみえたほうが説得力が増す。そのうちそれが暗黙の前提になり政権から気持ちは離れてゆくだろう。逆に感情的な議論は人々を遠ざける。

規範や正義を押し付けてくる不愉快な人は確かにどこにでもいる。そうした人たちを不快に思うのは自由だし自然だ。特に女性の場合「正解」を押し付けてくる男性が多いと感じるだろう。だが、その時点ですでに半分議論に負けて呪いに巻き込まれていると考えたほうが良い。そもそもそうした不快な人たちにお付き合いする義理はないのだ。

もちろん上西さんが独自の方法でいろいろ試行錯誤することは自由だ。だが、それが受け入れられなかったからといって他人を非難することだけは避けていただきたいと思う。

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分かり合えないこと

先日、立て続けに「分かり合えない」という体験をした。この分かり合えなさに共通点はあるのか、ただ単にバカな人と話をしたのかということを考えるためにこの文章を書きた。

最初の分かり合えない体験はTwitter上のものだった。公図があてにならないが区役所の人が実情を見に来てくれないということを書いている人がいた。オフィシャルマークがついているので多分有名な人なのだろう。この人は「役人はあてにならない」ということを言いたかったのだと思う。引用ツイートを捕捉されてコメントを返したのだが、あとから考えると彼にとっては見当違いの内容だったに違いない。

彼がいいたいのは公図も役所の職員も当てにならないという「誰も知らない真実がある」ということだったのだろうが。実はすでに同じような体験をしており元の図面もそこから展開された図面も当てにならないということを知っていた。ただ、それは「意外と知られていない」という思い込みの前では無力である。

公図が当てにならないということは、それを引用して作ったドキュメントはすべて当てにならないということだ。これを修正するためには地権者が立ち会って計測をしなおさなければならない。役所はこのことを知っているので「機会があった時に」地権者に許可を与えないことでこれを修正させようとすることがある。許認可権限を盾に取られた申請者や業者は行政のいいなりにならざるをえない。しかし図面を直すのはかなり大変な作業でコストもかかる。地権者全員の立ち合いが必要なのである。つまり、役所はそれを民間に押し付けて自分たちの管理すべき財産目録を修正させているのである。

逆に言うと公図をきちんと修正しようとするとそれが前例となってしまうので、役所の人が動かないことがあるということになる。加えて人件費削減から担当者が補充されないことがあり実務も回らなくなっている。つまり、役所を非難して問題が解決するというものでもないのである。

だがこれをTwitterで伝えるのはほぼ不可能なので「わかります」と言っておけば無難に終わったのかもしれない。中途半端にコメントしてしまったために「わからない」という印象だけが残ったものと思われる。

これを分析すると「個別事例に着目しているのか、それともその上位の事情に着目しているのか」というフレームの違いがあり、さらに経験や知識が違っていると「わからない」という感覚が得られることになる。さらに相手が「役人は怠惰だがそれが意外と知られていない」という思い込みを持っているとその分かり合えないという印象が強化される。Twitterはこうした文脈の違いを乗り越えることが難しい。

この事例だけをみるとあたかもTwitterが不完全なツールのような気がするのだが、実際には同じようなことはいろいろなところで起きている。次の体験がそれである。

マクドナルドで200円のハンバーガを買おうとしてメニュー写真を指差した。すると店員はセットですかと言ってくる。アップセルといって「たくさん買わせるように」という指示を受けているのであろう。そこで意地悪く「セットもあるのですか」と聞いてみた。すると「セットでよろしいのですね」と重ねてきた。頭の中が「セットを売らなければならない」し「早く列を捌かなければならない」ということでいっぱいになっている。これはTwitterの向こう側の人が「伝えたいことがあらかじめ決まっていてそれを効率よく広めなければならない」と考えているのに似ている。つまりみんな忙しすぎるのである。

最近の若い人にはある特徴がある。雇用環境が厳しい上に受動的な詰め込み教育を受けているのでマニュアルや指示を優先しようとする。だがお客はマニュアル通りに動いてくれないので、マニュアル通りのオペレーションを押し付けようとするのだ。

日本の「効率的」とは例外をなかったことにするという意味である。つまり「私が効率的にお仕事をして有能さを保つためにはお客は面倒なことを言ってはいけない」と考えているのだろう。これはマクドナルドだけではなくアルバイトの多い店などではよく見られる光景だ。思い返してみれば昔は教育実習生が同じようなことをやっていた。あらかじめ作ったプランの通りに生徒が答えないとイライラする先生がいた。最近ではこうした態度が学校全体に広がっており、社会全体に蔓延しているのかもしれない。

よく日本は同調圧力社会だと言われる。普通の状態であれば、みな決まった結論に従うことができるので、例外処理を嫌うのである。例外が発生すると誰かが態度変容を迫られたり例外対応しなければならなくなるのでそれを嫌がるのだ。よく「上から同調圧力がかかる」などという人がいるが、本来的にはピアプレッシャーからくる圧力だろう。ただし女性のように「従うべき存在」というジェンダー圧力にさらされている人は、社会から押し付けられた同調圧力には敏感だが自分が同調圧力をかけているとは思っていないのではないかと思う。同調圧力はそれほど日本人にとって自然で染み付いた考え方なのではないだろうか。

さらにポイントカードと電子マネーを使おうとしたところオペレーションを間違え「時間がかかるが本当に修正してもよいのか」と聞いてきた。明らかに腹を立てているうえに、面倒なことはなかったことにしたいのだろう。結局彼女は修正処理ができず、その上のマネージャーの制服を着た人も修正ができなかった。最後にさらに上の人が出てきて修正をした。彼にとってはそれほど難しくない作業のようだった。

ここでも例外は無視される傾向にある。これはTwitterでもよく見られる。普通でないものを面倒だと切り捨てる人と、それは人権無視だといって怒っている人たちの対立が見られる。効率を追求すると例外は「面倒な厄介ごと」になってしまう。さらに「自分は有能に見られなければならない」という信仰が蔓延しているので、知らないことがあると「そんなことはできない」といってごまかそうとする。あやふやな半径5メートルくらいの知識で「普通」を押し付けてくる人は多い。

最近マクドナルドでは電子マネーやクレジットカードを矢継ぎ早に導入しているのだが現場はついてきていないのだろう。マニュアルは配られていてマネージャー以上は読むようになっているそうなのだが、すでに読むのを諦めているマネージャーがいることになる。しかし、スキル神話・有能神話があるために「できません」とか「わかりません」とは言わない。すると本部は「できているのだろう」と考えて、より複雑なオペーレーションを押し付けてくる。こうした悪循環を断ち切るためにはこまめにクレームを入れた方が良いと思う。

この二つの体験には共通点が多い。忙しすぎる上に自分のフレームを押し付けたい人が「分かり合えない」という感覚を持つのだろう。例えば安倍政権は嘘をついているのに「普通の人たちはバカだからそれに気がつかない」と思っている人たちがいる。彼らが暗黙のうちに前提にしているのは「気が付きさえすれば自分の思い通りになる」という楽観的な予測なのだが、実際の有権者はもっと賢くて「知っているが別の理由で野党を支持していない」のかもしれないし、実は「嘘をついているからこそ安倍政権を支持している」のかもしれない。

さて、そのあと寄ったスーパーでも分かり合えない体験をしたのだが、これは少し違った体験だった。おばあさんがこちらを見て「このATMはどうせ手数料がかかるんでしょ」と話しかけてきたのだ。高齢者が話しかけてきた場合どうすればいいのか迷う。場合によっては思考が言葉になってでてきているだけかもしれないからだ。

実際の答えは少し複雑である。イオン系なのでみずほ銀行のキャッシュカードだと手数料がかからないのだがその日は日曜日だったので休日の手数料がかかるのである。つまり、おばあさんの思い込みは間違っているのだが、条件もついている。

そこで、ステッカーを見せてその通りに言ってみたが、やはり無駄だった。

このおばあさんがそもそもATMを使いたかったのか、何にでも手数料を取りたがる銀行に文句を言いたかっただけなのかよくわからない。そこに2分岐情報(if文が二つある)を与えたので、明らかに混乱していた。人はわからなくなると結論だけを記憶する。この場合、最終の答えである108円という数字はわかったようだ。「180円も手数料がかかるの」と言ったあとに、あなたみたいなお金持ちはいいかもしれないわねというようなことを言われた。

180円の理由はわかるのだが「あなたみたいなお金持ちはいいわね」は理由がわからない。これは少し分析が必要だろう。

日本は閉鎖的な村空間に住んでいるので、あらかじめ「何をすべきか」ということが決まっていることが多い。この場合は「銀行外ATMは手数料がかかるので近寄るな」というのが規範である。だが、その前提が間違っているが、それでも結論は変えたくないというバイアスがかかる。すると「新しい言い訳」が必要になるのだ。

ATMに手数料がかかるから使わないつもりでいたのに「いやかからない」ということになると「では使えということなのか」となりかねない。でも使いたくないのだからその言い訳を考えなければならないと思ったのだろう。明らかに慌てており「いやお金持ちではないかもしれないけど」と言っていた。

こういう場合は「私はお金持ちではない」ではなく「108円は高いですよね。なんでも手数料がかかって嫌ですね」というのが正解だろう。新しい情報は伝わらないが、相手に態度変容を求めない優しい答えだ。

あまり安易に日本人はとは言いたくないのだが、これらの3つの事例には日本人的な共通点がある。

日本人には二つの基本的な性質がある。一つは「社会でこうと決まっていることには従わなければならない」というものであり、もう一つは「その通念に基づいて決まった結論は変えたくない」というものだ。あらかじめルールと結論が決まっているのだから、そもそも論理的に情報を伝える必要がない社会なのである。

マクドナルドの場合は「会社が決めているルールがあるのだから、お客は黙ってそれに従っていればよい」のだし、銀行外ATMは「手数料がかかるから近づいてはいけない」ことになる。最初の人だけが違っていて「役所の図面は信頼できるはずだが実はデタラメである」という「驚くべき事実」が伝わっていないと考えているのだろう。Twitterでの叫びを聞いているとこの社会通念と自分の行動がずれていることに悩んでいる人が多いことに気がつくだろう。

態度変容には知的な負荷がかかる。新しいルールを覚えなければならないからである。同じような知的負荷はバイリンガルな脳でも起きているそうである。これは訓練して乗り越えることができるが、モノリンガルな人はそもそもこれを嫌がるので「日本語で思っていることが英訳できない」ことに苛立ち「いつまでも英語ができない」と悩む。いずれにせよ、態度を変えなければ背景情報の理解が曖昧でも結論だけを覚えておけば良い。日本の社会はこうして効率化を図っているのだが、その副作用としていったん染み付いた思い込みや行動様式を手放しにくくなっているのかもしれない。

例えれば、相手に情報を伝える時に「幾つかツールがある」ということを知っている人と、FAXのボタンはこう押せば良いという理解をしている人との違いということになる。どちらが効率的なのはは社会の構成によって異なる。多様な社会ではいろいろなツールを覚える方が効率的だが、日本人は「なぜみんなFAXを使わないのか」と苛立つ。FAX世代がSNSを忌み嫌うように社会の通念を押し付けようとする人が多いのはそのためだろう。すべての人がFAXを持っていれば「効率的な社会になる」と考えるのだ。

ここから得られる結論は、文脈に依存する社会では、すでに形成されている世間知があれば効率的なコミュニケーションができるが、一旦文脈がずれてしまうと相互に新しい情報を入手することができず社会が分断される可能性が高いということである。

我々は分かり合えないのではなく、最初から分かり合うつもりなどないのである。

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