最近ジャニーズの新しいYouTubeチャンネルを見つけた。SixTONESという名前のグループを滝沢秀明がプロデュースするようだ。SixTONESと書いてストーンズと読むようだが、これは英語圏では通用しないように思う。6人を宝石の原石に見立てて「磨けば光る」としたいのだろう。ジャニーズはオンライン戦略では遅れをとっているが、成功して日本のプレゼンスを高めてほしいと思う。
今回はこの滝沢プロデュースの新しいグループを観察しながら多様性について考える。例えば多様性を大切にする立憲民主党とこれまでの正解を守ろうとする国民民主党のどちらが未来に近いかというようなことがわかるだろう。
ジャニーズが遅まきながらオンライン戦略に取り組み始めた背景にはいろいろなきっかけがあるのだろう。第一にSMAPの分裂騒動をきっかけにしてオンラインで出遅れていることを発見したのではないかと思う。元SMAPの片割れの3人がオンラインに進出しそれなりの成功を収めていることからわかるように、ジャニーズはテレビ・ラジオは支配できてもオンラインでのプレゼンスがない。逆にいえばこの分野では伸びしろがあるということである。草彅剛のチャンネルの登録者は80万人を超えたそうだ。
今のジャニーズのマネジメントチームは高齢化しておりYouTubeの仕組みなどを理解するのは難しいだろう。滝沢秀明はまだ若いのでこの分野について学ぶことができる、また、YouTubeにも日本でのプレゼンスを増したいと考えがありジャニーズと組むのは悪い話ではないと考えているようだ。SixTONESは日本初のプロモーションキャラクタとして選定されたようだ。
SixTONEの曲調はK-POPを意識した作りになっており、ジャポニカスタイルというように日本風を唄っているところからK-POPの成功も意識しているものと思われる。海外進出に取り組んだところまでは評価できるのだが、「日本を輸出する」という点においては完全に読み違いをしている。彼らはK-POPが正解だと思っているのだろうがそれは単に表面上の問題に過ぎないのである。
日本のアーティストは「この壁」が超えられない。政府との結びつきが強すぎる秋元康はすでに右翼扱いされており海外には出られないだろう。これは秋元が政府の考える正解を正確に再現してしまったためであると考えられる。またEXILEも政府系イベントで通り一遍の日本らしさを演出するに止まっており先行きは難しいものと思われる。新潮45や産経新聞社のように、人権と民主主義に理解のない今の体制を擁護する側に回ってしまうとその他のマーケットを全て失ってしまう。「外見的な正解」は人を無能にしてしまうのである。
多分、彼らは「自分たちが何者であるのか」ということを考えたことがないまま日本を輸出しようとしているのではないかと思う。ゆえに改めて日本を演出しようとすると、ハリウッドが勘違いして誇張した日本コスプレのようなものを自ら演じることになってしまう。自民党の憲法草案の序文の薄っぺらさからも日本人が対して自分たちの国をよく理解していないことがわかる。
今回のMVを見るとわかるのだが、着物、富士山のような形の照明、日本風のセットなどがあり「俺たちはジャポニカスタイルでユニークだ」というような歌詞が歌われる。だが、いったい何がユニークなのかということが全く語られない。わびさび、華麗、儚さと唄っているのだが、多分歌詞を書いた人たちも、いったい何が日本風の価値観なのかということは説明できないだろう。彼らは「これが正解でしょ」と一生懸命なのだが、それが何一つ伝わらない。
日本のアニメが海外で成功したのは高度経済成長期からポストバブル期にかけて「なんとなく違和感があるがそれがはっきりとしない」という価値観を海外と共有したからではないかと思う。実写では表現できないから「絵に逃げた」とも言えるし、日本人は大人になってもアニメを見る習慣が抜けないので子供向けではないアニメ市場があったからとも考えられる。大人になってもアニメを見ている人たちは外向きでは立派な社会人を演じながらもどこか「そうでない選択肢もあったのになあ」と感じていたのではないかと思う。日本のアニメの担い手は正解の外にいたので海外に広がることができたと言える。
いわゆる大人向けのOVA作品と子供向けのアニメやヒーローものとは違うのではないかという人もいるだろうが、日本のアニメの作り手たちは単に子供向けのお話を作っておもちゃが売れればいいとは考えていなかった。商業主義的な限界はありつつもそこになんとか彼らが持っている違和感を入れ込もうとした。これは当時正解だった純文学に彼らの居場所がなかったからだ。彼らはのちに正解になることを求めてSF文壇のようなものを作ったがこちらは長続きしなかった。
アメリカ人は防弾少年団を見て「自分たちと同じような音楽を肌感覚で理解し」なおかつ「多様な世界での自己の受容」という基本的な価値観を共有しているということを感じたのだろう。同時に文化的な差異を「発見」してそこにエキゾチズムを見出す。つまり出発点は内心になっており、そのあとで外見に目をつけるという順番になっている。これは日本のアニメが受容されたのと同じ道筋だ。
ところが均質な世界に住んでおり周りに合わせたがる日本人はこうした意味での内心を持つ必要がない。共通点となる内心そのものがないので、今の欧米では共感を得るのは難しい。しかし、たまたま防弾少年団がそうだったのではないかと思う人もいるかもしれないので、別の例をあげたい。
日本のオンラインで成功している人に渡辺直美がいる。渡辺直美のインスタグラムは840万人のフォロワーを擁しているそうだ。彼女の提供している基本的な価値観は「太っているが自分らしく輝いている女性」という従来のファッションアイコンとは違ったキャラクターである。グッチのキャラクターにも「ただ可愛いだけじゃないモデル」として選定され、そのバッシングの過程もニュース(ITメディア)になるという具合だ。ただ、彼女は母親が台湾人のバイリンガルであり、その意味では「普通の日本人」とは違ったアイデンティティを持っている。これがいったん海外で受けて、その評判が日本でのファンを増やすという構造になっている。
実は日本のインスタグラムのフォロワー数の上位3名はいずれもマルチカルチャーなのである。2位はバングラディシュ人の父親を持つローラで、3位は在日韓国人の母とアメリカ人の父を持ち日本語環境で育った水原希子なのだそうだ。つまり、日本でもこうした多様性を持った人たちが受け入れられ始めているということがわかる。海外の評判がダイレクトに日本市場に伝わってくる土壌ができつつあるのだろう。
ここからわかるのはいわゆる内心が生まれるためにはアイデンティティの複雑さが必要ということである。「普通の」日本人はこうしたアイデンティティの揺らぎを感じないまま日本の公教育を受ける。集団と一体化してしまうのでアイデンティティクライシスを感じることはない。ここから除外されたと感じても「自分たちが正解である」と主張する。Twitterで行われているのはこの争いである。彼らは正解などない世界で正解を求めて闘っているのだ。
日本人が正解を求めて戦う一方で多様性の当事者たちは自分たちが多様性を代表しているなどとは言わない。一人ひとり違った成り立ちがありそれを受け入れてほしいと感じているだけである。だから「多様性」などとひとくくりにしてそれを正解と祭り上げているうちは多様性が理解できない。
バイリンガルはわかりやすいアイデンティティの揺れである。しかし、この他にも例えばフレディー・マーキュリーのように「普通とは違ったジェンダー意識」を持っている人たちもアイデンティティの揺れを感じやすい。したがって内心を育むチャンスに恵まれるということになる。
日本のアニメが受け入れられていた時代と比べると世界はより複雑化している。だから、こうした揺れと揺れに伴う価値観の提示がトレンドになりつつあるのだろう。
一方で均質な社会出身の人たちは別の工夫をしている。
以前JYPの国際戦略として、わざと外国人を混ぜるという戦略を観察した。チーム内にアイデンティの揺れを作ることで国際社会への展開の足がかりを作ろうとしているのである。ある7人組のチームにはタイ系アメリカ人と韓国系アメリカ人がおり、これを移民として渡った別のメンバーが橋渡しをするというような構成になっている。このようにアイデンティティの揺れは人工的にも作り出せる。韓国も比較的均質な国であり、海外移民を加えて揺れを出さないと国内組だけで固まってしまう可能性があるということを意味しているのだろう。
ジャニーズの取り組みは最初の一歩であり、道を間違えなければここから発展する可能性はあるのではないかと思う。
旧来のジャニーズはテレビでファンを開拓しそれを強度に組織化することで成功してきた。音楽レーベルに対してチャートの上位に常に入る「売り上げの見込みが立ちやすい」アーティストが効率的に供給できていた。ところがこれが今では裏目に出ている。最新のチャートを見ると上位に1組くらいはジャニーズのアーティストが入るが後が続かない。代わりにYouTubeで大量露出された韓国人アーティストが韓国語のままで複数チャートインするという状態になっている。
旧来のファンが組織化したまま高齢化していってしまうことから見ると、いったん出来上がってしまった組織に後から新規のファンが入るのは難しいのだろう。ここに捕まってしまうとそこから抜け出せなくなるという未来が容易に想像できる。滝沢の場合は国際戦略に合わせると「これは今までのジャニーズではない」と言われるだろう。
実はアンチというのは違和感の結果であり、今後成功できるかどうかの指標になっているのである。単に炎上を目的にアンチを生み出すのではなく、存在そのものに違和感を感じさせるようでなければ未来はないのだ。これは実はエンターティンメントだけではなく、政治にも言えることなのではないかとおもう。
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