専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。

非顧客を顧客にできないプロの人たち

ファッションについて勉強している。最近やっとトレンドというものがわかるようになってきた。といっても「俺、お洒落さんになったもんね」ということではない。トレンドって確かに存在するんだと思えるようになったのだ。

WEARというコミュニティがあり、そこに投稿すると「好き」か「そうでないか」というレスポンスが得られるのだ。どうやら全体的にゆるい方が好ましいようである。イメージは日曜日に近所のショッピングモールに行っても浮かない格好か、美容師スタイルだ。つまり、あまり男性的イメージとはいえない。

こうした「ゆる」が流行になるのは、その前に「スリム」が流行していたからだ。みんなスリムには飽きてきているのだ。つまり、ある種のトレンドが発生すると、気分が生まれ。それに飽きてきたころに新しいスタイルが好感度を上げることになるという構造があるらしい。つまり、一度まとまった集団ができると、それはある程度同じように動くので結果的に「トレンド」が生まれるのである。

そういう意識で見てみると、古着屋であっても「ゆる服」には少し高めの値段設定がしてある。オーバーサイズのTシャツやワイドパンツなどがそれにあたる。一方でブランドものが安く売られていたりする。トレンドが、実際に売れ筋に影響するということはなさそうなので(買いに来る人は流行に無縁そうな中年が多い)値付けに反映されるのだろう。

が、幾つかの問題もある。まず、いわゆるファッションジャーナリストの人たちは必ずしもこうしたトレンドとリンクしていない。どちらかといえば、ファッション業界があるべき姿にないといって嘆いている人が多い。昔に比べて服が売れなくなってきているのでそう思うのは当然なのだが、お客さんはついてこない。古着やネットが占める割合が大きくなっているのだが、ファッションジャーナリストたちの主戦場はデパートやファッションモールだからである。ユニクロさえ守備範囲外かもしれない。

こうした問題が起こるのは、彼らは発信にはなれているのだが受信ができないからだ。そもそもトレンドを可視化するツールはつい最近まではなかったし、実際に参加しないで「売れ筋トップ10」などとみても状況がよくわからないのだ。ファッションにPOSデータはあまり役に立たないのはスタイルが単体では成り立たないからである。

もう一つの問題は「素敵マーケティング」である。どうやらトップブランドの人たちは「自分たちの素敵なブランドを素人に紹介してもらいたくない」という気持ちがとても強いようである。実際には服が売れないわけだから「非顧客を顧客にする」ということが必要なはずなのだが、そうした人たちを意図的に無視してしまうのだ。素敵マーケターというのはインスタグラムで素敵な生活を見せているような人たちである。

こうした苛立ちが現れているドラマが「人は見た目が100%」である。このドラマの中では「女子もどき」と呼ばれる非顧客が、素敵な美容師に憧れて素敵女子を目指すという物語だ。劇中には女子力の高い総務課の女性陣が出てくる。彼女たちはとても努力していて、配慮もあり、ルックスも良く、知識もある。いわば、女子の鏡だ。

が、冷静に考えるとその女子像は「男性に頼っている」存在である。つまり、これが憧れの対象になり得るかという問題がある。

ゆえに、女子もどきの人たちがなぜファッションに憧れるのかという点が全く描けない。見た目でしか判断されない職場に強制的に転職させられて、素敵な女子に囲まれたから勉強を始めたということになっている。ここでは「女子力の高さ」が肯定されているのだが、なぜ肯定されるべきなのかということが全くわからないのだ。

合コンの相手はイケメン美容師だったりするわけだが、30歳前の美容師にそんな余裕があるとは思えない。彼らは、自分たちの商品価値が30歳くらいで終わることがわかっているので、独立資金をためて自分の店を出すことが目標になっていたりするのである。男性に養ってもらうというのが「女子力を目指す唯一の理由」だとしたら、それは現代ではそもそも成り立たない。

つまり、素敵マーケターたちがインスタで憧れライフを顕示しても誰もついてこないという状況が生まれてしまうことになる。が、素敵マーケターはそれに気がつかない。で服が売れないと嘆き続けるわけである。

この背景にはプロの人たちと実際のズレがある。現代においてファッションが重要なのは、アサーティブな自己表現のスキルが必要だからである。自己表現のためにはファッションに対する基礎知識が必要なのは間違いがないが、それ意外にも他の人たちがそれをどう受け取るかという知識が必要になる。ある種コミュニケーションのツールになっている。

実はファッションを楽しむためにはあまり構造的なことはわからなくても良い。単に実践しているうちになんとなく「ああ、こうかな」というのがわかってくるので、あとはそれを洗練させて行けばよいからだ。その意味では外国語の習得に似ている。

だが、例えばこういう構造を勉強することは「伝わらない」ことに悩んでいる人たちにとってはある種のヒントになるかもしれない。例えば現在、政治状況について「安倍政権はこんなにひどいことをしているのにみんなそれに気がついていない」などという人が多いわけだが、多分、非顧客を捕まえるための何かが欠けているのではないかと思う。例えば、政治に関心がない人たちのニーズだったり、彼らが情報をどう受け取っているかという知識である。

Uniqloのキャンペーンを見て、日本にデモがない訳を考える

Uniqloが面白いデニムのキャンペーンを始めた。なぜ、Uniqloが日本では通用してもアメリカで苦戦するのかがよくわかる。

Uniqloだけをみつめていてもよくわからないので、Appleがなぜもてはやされるのかを見てみよう。Appleはもともと巨人IBMに対抗するというイメージで成功した。コンピュータは専門的な知識が必要だと考えられていた当時、Appleのパソコンはグラフィカルインターフェイスを持っていて「誰でも簡単に」使うことができたのだ。これが巨人や権威をうちたおすというイメージに転換され、クリエイティブな人たちに受け入れられた。彼らの目標はパソコンで作品を作ることであって、コンピュータを操作することではなかった。

つまり、価値観を通じて企業と消費者が結びついていて、製品はその間を結びつける媒体になっている。価値観で結びつくためには、当然ながら消費者の中に価値観がなければならない。価値観は「生き方」である。こういうアプローチをライフスタイフ型という。

同じことはDIESELにも言える。DIESELの現在のキャンペーンは「壁を壊す」というものだが、当然ながらトランプ大統領のメッセージの否定になっている。つまり、消費者の中に価値観があり、商品を買うことでその価値観を発露しているということになる。政治は当然ライフスタイルの一部なので、アパレルメーカーが政治的メッセージを発するのは当たり前のことだ。

ここでUniqloのキャンペーンを見てみよう。Uniqloのキャンーペーンは、デニムの聖地であるロスアンジェルスで様々な形のデニムを研究するというものだ。やっていることはデニムの3D加工である。つまり、デニムは工業生産品として扱われており、その加工を「効率的に行う」ことで、できるだけ安価に人気のデニムが生産できることになっている。これは極めて工業生産品的な扱いかたである。それを象徴するのが「イノベーション」で、イノベーションそのものがかっこいいということになっている。

こうしたやり方は「みんなと同じものを」「より安く」手に入れたい日本人には受けるやり方なのかもしれない。しかし疑問もある。3D加工は何のライフスタイルの反映なのだろうか。

3D加工というのはもともとアメリカ人のお金持ちが「履き古したようなジーンズ」をできるだけ早く手に入れたいという欲求から生まれた。その祖型はビンテージのジーンズだと考えられる。ジーンズはもともとワークウェアなので、これ見よがしではないが高級感は出したいというような気持ちの発露なのだろう。例えていえば、ステーキではなくおにぎりを食べたいが、やはり近所の惣菜屋の弁当は嫌なので梅干しを南高梅にして、その伝統やうんちくを語るというような感じなのではないだろうか。

ところが、Uniqloはロスアンジェルスで3D加工のものを安く作れるという方向に舵を切ってしまう。確かにいろんなジーンズがあるけれど「どれがUniqloのオススメですか」ということはよくわからない。「いろいろ作ったからあとは自己責任で選んでよ」ということになっている。なぜそうなるかというと、日本人には作り手にも受け手にもライフスタイルがないからである。

まずUniqloにはデザイナーは存在しない。そもそも個人の価値観で消費者を引っ張るという考え方がないからだ。デザイナー集団は外注になっていて「部材」の一つとして扱われている。かといって、消費者にどんなデザインが欲しいのかを聞いても「よくわからない」というような答えしかも取ってこない。それは、消費者も「今流行っているものを手っ取り早く教えて欲しい」とは思っても、個人の価値観が存在しないからではないだろうか。多分、日本人にライフスタイルを聞くと「より安く」「より楽に」ということになるはずだ。

「人は見た目が100%」というドラマを見ているのだが、テーマは「男性や世間に受け入れられるためにファッションを選ぶ」というものになっている。つまり日本人にとっては「人は他人からどう思われいるかが100%」なのだ。

これは日本人にとっては極めて自然なことだ。日本人は政治的な意見を持つことを自分に禁止しているのだが、これは政治的意見に限らないということがわかる。つまり、日本人は自分自身がより好ましいライフスタイルを持つことを禁止していて、他人にもそれを強制するのだということが言える。日本人がライフスタイルを維持するのは他人の目を気にしているからなので、そこに協定が加わると「楽な方に」と流れてしまう。これを理解すると、次のような問題にも応用できるだろう。

  • なぜ、日本ではデモが起きないのか。
  • なぜ、野党がだらしなくなり、選挙がないと、自民党の中で失言が増えるのか。

また、改革は自己目的化するのだから、政治改革にはめざすものがなくなり、政治改革や民主化の推進が自己目的化した挙句、何も達成できないということになる。これはUniqloのキャンペーンでデニムのイノベーションが自己目的化しているのと同じことなのである。

IT系の営業がダークサイドに堕ちる時

日本のIT産業は「IT土方」と呼ばれる身分制なので、顧客と会社の接点である営業が、自分は顧客側の人間だと錯誤してしまうことがある。特に都心にかっこいいオフィスを構える広告代理店が相手だとそういう気分に陥るようである。

「がっつりプログラミング系」の会社だと、仕様書がきちんとあり、機能を定義したりして歯止めがきいたりするのかもしれないが、デザインという厄介な要素が加わるとわけのわからないことが起こることがある。これに広告代理店が加わるとさらにわからなくなる。

第一の要因は、デザインには必ずしも正解がないにもかかわらず、クライアントによってはいろいろと口をはさみたがるという点にある。

オーストラリア、カナダ、スウェーデンのデザイナーと仕事をしたことがあるが、彼らはデザインにメソッドがあり、最終的には「クリエイティブブリーフ」と呼ばれるサマリーを出して顧客に確認をする。海外では割と当たり前の手法なのだと思うし、日本人は白人系の外人の話はありがたがって聞いてくれるのでこの手法は日本でも成立する。しかし、日本人のデザイナーだとだめだ。日本人が唯一話を聞いてもらえるのは外人と英語で話をしている時である。ということで意味もないのに日本人しかいないミーティングに見た目の良い外人(つまり太っていない人)を連れ出したりするのも割と有効である。アジア系でも英語で話をしている人(つまりニューヨークに留学経験のあるタイ人とか)だと話を聞いてくれるが、下手な日本語を話す台湾人とかだと逆にナメられる。

だが、広告代理店はそもそもブリーフが成立しない。オブジェクティブがないからだ。日本人がオブジェクティブと呼んでいるのはクライアントに夢を見せるための曼荼羅のようなパワーポイントだが、のちにビジネス界でも「ポンチ絵」という名前がついていることを知った。これはマンガの昔風の表現だ。

彼らは必ずも数字によって成果物を判断しない。どれくらい商品の売り上げアップに貢献したということはあまり重要視されず、流行しているものを「あのライバル社がやっているあれ、うちでもできないかなあ」くらいのことになりがちだ。数字は成果を確認し反省点を洗い出すところに意味があると思うのだが、日本人は数字が出るとそれがコミットした最終ラインということになり責任問題に発展する。

この辺りから、正解がないのに理想があるということになるので修正に歯止めが効かなくなってしまう。理想はあるのだがそれがわからないという人が多く、会議体で決めたりすると誰も正解がわからないのに「なんか違う」ということになりがちである。

これだけでもややこしいのだが、さらに「広告黎明期から仕事してます」みたいなおじさんが入るとわけがわからなくなる。大抵アートディレクターなどと呼ばれている、海外からのかっこいい成果物に参ってしまって見よう見まねで覚えたような「職人」タイプだ。一度、神宮前の古いアパートを改装したコンクリート打ちっ放しのオフィスで(そういうところで働くのがかっこいいとされているらしい)「グリッドデザインの基礎」みたいなことをこんこんと説教され「いやウェブって幅が変わるから」と心の中でつぶやきつつ、表面上は目を輝かせながら「へえーすごいっすねえ」と言い続けたことがあった。レスポンシブデザインなどが出る前の話だ。

ITデザイン系の営業が難しいのは、こうした文化の間にある「バイリンガル状態」にある人が「自分がどっちにいるのか」わからなくなってしまうという点だろう。「ドキュメントドリブン」の世界と「センスドリブン」の世界の間でダークサイドに墜ちてしまうのだ。

広告代理店のオフィスに出入りしているうちに、MBAマーケティングなんかを読むようになり、いっぱしのマーケティング用語(なぜか全部カタカナ)を使うようになったら「ダークサイド」に堕ちてしまった証拠だ。本来ならデザイナーなりプログラマーのエージェントとして働かなければならないのだが、要件は聞いてこないで、代理店の会議で聞きかじったマーケティング用語でわけのわからないことを言い始める。が、こういう人は根が真面目なので、まだチームをぐちゃぐちゃにすることはない。「お付き合い」していればやがてプロジェクトはなんとなく終了して嵐は収まる。

厄介なのは「ITに憧れて入ってきた」というようなタイプだ。広告代理店には締め切りまで一生懸命何回でも修正して「頑張った感」を出すという奇習があるのだが、アートディレクターさんが乗り込んできて「メールで修正のやり取りをするのは面倒だ」と言い始めたことがある。その時にはプログラマーやデザイナーを犠牲にするわけにはいかないので(パソコンの前で色が変えられるということは絶対に教えてはいけない)キラキラ系の営業を人身御供に出した。会議室に缶詰になり、時々差し入れなどを渡してやり「広告って大変な仕事なんだねえ」などと感心してみせる。たいてい忙しくなってくると、なんだかわからない一体感みたいなものが醸成されて、幸せな気分になるようである。徹夜などすると何か脳内麻薬が分泌されるのだろう。

重要なのは、こうした「作品」は誰にも正解がわからず、そのまま消えていってしまうということだ。効果測定していないから当然なのだが、効果測定してしまうと価格なりの成果が出せていないということがバレてしまう。だからそれができないのだ。「管理料」という消費税みたいな費目もよくないと思う。お金をとった以上働かなければならないし、働いたら一生懸命感を出さなければならないので、最終的には過労労働につながるのかもしれない。とはいえ、営業は伝書鳩のようなもので技術にもデザインにも興味がないので、何もできない。となると、曼荼羅の精緻化が一大プロジェクトに発展したり、会議が演説になったりするわけだ。

つい最近、広告代理店で新入社員が過労死したという事件があった。まあ、ああいう働き方してたら過労死する人も出てくるだろうなあなどと思うのだが、そもそも「正解」が何なのか追求してこなかったドメスティックの代理店がいきなり海外系のエージェンシーと競合しようとするとそういう悲惨なことが起きてしまうのではないかと思う。

逆にいうと、それなりの広告測定をしているエージェンシーが出てきているということなのではないかと思うのだが、現在の状況はよくわからない。

ユナイテッドエアラインズの炎上

ユナイテッドエアラインズが炎上している。乗務員を乗せるために席が足りなくなり4名を抽選で選んだのだが1名が拒否した。そこで警察を呼んで引きずりおろしたのだが、その時に怪我をさせたらしい。怪我をした痛々しい乗客の顔がYouTubeなどで拡散して大騒ぎになった。アメリカでは「人道的でない」という批判が多かったようだ。

だが、この問題が日本ではちょっと違う捉えられ方をした。たまたま乗客がアジア系だったのだ。そこで、この人がアジア系だったから我慢させられたのだとか、選ばれたのはすべてアジア系だった(そんな報道はないのだが)というような話が拡散した。

これがSNSによって拡散したというのは間違いがないが拡散速度は一様ではない。ビデオには翻訳はいらないので瞬く間に全世界に拡散する。ところがそのビデオについて日本語で何が話されているかということは英語話者には伝わらないし、英語話者がビデオを人権問題として批判しているということも日本人には伝わらない。

こうしたことが起こるので、ユナイテッドエアラインズはローカル言語を話すことができるスタッフを常駐させて、ユナイテッドエアラインズの立場を説明させるだけでなく、つねにどういうリアクションが起きているかをモニターさせるべきなのではないかと考えた。

実際にそういう文章を書いたのだが「はて」と思った。日本人がボイコットしても会社は別に痛くもかゆくもないのだ。いつ炎上が起こるかなど誰にもわからないのだから、そのためにスタッフを常駐させるのはムダということになる。実際に株価は少し下がったものの、その後持ち直した。最近、経営効率が上がっていて、ユナイテッド航空の株は「買い」というレーティングが付いているのだ。

ニュースでは「ユナイテッド航空」と伝えられたが、この路線は実はユナイテッドエアラインズではない。実はユナイテッドエクスプレスというローカル路線(実際にはいくつかの航空会社の連合体)なのだ。多分、ローカル路線は最低限の機体と乗務員で回しているのではないかと思う。ギリギリの機体数で運行するからオーバーブッキングも増えるし、乗務員のやりくりもうまくいかないのではないだろうか。だから、オーバーブッキングした客を下すことができないと、収益が下がってしまうことになる。CEOは従業員向けのメッセージで「乗務員はよくやった」と言っている。つまり、そもそも乗客が支払っている料金では満足なサービスは維持できないし、そのつもりもないのである。

アメリカの航空産業はLCCが台頭して大手航空会社を軒並み破綻させた歴史がある。紙ナプキンに絵を描いて経営合理化を成功させたという逸話が残るサウスウエスト航空などが有名だ。しかし、結果として過当競争が怒りオペレーションに無理が出ているのだろう。一方で、お客さんの方も「1日休んで次の日に搭乗する」ということができないほど忙しくなっていることがわかる。つまり地方が疲弊しているのである。

しかし、問題は効率化だけではない。最初から席が足りないことがわかっていれば、搭乗させる前に「席が用意できなくなりました」と言っていたはずだ。つまり、いったん客を乗せた後で「乗務員がやりくりできない」ということがわかり、慌てて乗客を引きずりおろしたことになる。やっていることがめちゃくちゃなのだが、社員の士気も落ちているのではないだろうか。

警察当局(武装した保安担当者という報道とシカゴ市警察という報道がある)の対応も問題だ。こちらについては「問題を起こした人を調べが済むまで休職にした」という情報がある。今の所、なぜそんなことが起きたのかという後追い報道はない。日本人は普段から黒人が警察からボコボコにされる映像を繰り返し見せられているので「黄色人種でも同じ扱いを受けるんだな」と思ってしまうだろう。職員は「自分が怪我をさせられるかもしれないから」という理由で過剰防衛した可能性もある。テロの危険性が増しているので緊張を強いられる現場だったのではないだろうか。

たまたま一つの航空会社が起こした不祥事は「アメリカという国そのものの不信感」につながる。だが、これを経済的に是正することはできない。乗客は安い航空会社を求めており、投資家は効率的な運用を求める。かといってアメリカ当局が「アメリカは人種差別のない安全な国です」というキャンペーンを張るわけにはいかない。問題を起こしたのは民間の航空会社であり、政府が謝罪するような問題でもない。つまり、経済が疲弊すると国の持っている信頼が崩れていってしまうのである。

しかし、航空会社はそもそも問題を発見できないし、発見できたとしても経済的に「謝るのが得か損か」という判断になる。ここで判断を誤ってしまうと、裁判を起こされて過剰な制裁金を取られる危険性があるし、オーバーブッキングした客に粘られたら収益率が下がるということになりかねない。

アメリカにとって「ソフトパワーが大切だ」と聞いたはつい最近の事だと思うのだが、それも過去の話になりつつあるらしい。いう言葉を聞いたのはほんの数年前のことだと思うのだが、トランプがもたらした「アメリカの分断」を見せつけられ、黄色人種が安全に旅行できないかもしれないアメリカという図式まで見せられた後になってみると「アメリカって没落しつつあるんだなあ」という印象しか残らない。国のイメージというのは意外と簡単なことで崩壊するのだろうなあと思う。

United Airlines needs local SNS managers…

Many Japanese are upset to United Airlines because of one video footage which is spread over Twitter. Overbooking was tweeted more than 47000 times. I got impression that multi-national companies need local SNS managers not only to represent in the local languages but to monitor what is happening all over the world. Sometimes reactions over SNS are unexpected.

I see people are upset because it is violation of human rights in general but it gives some “different” reaction to Japanese people. Some took it is racial discrimination and attached because a face of beaten passenger is very familiar while not to know American is also upset.

This is misunderstanding because the Airline choose them randomly and there is no information about skin color. This case is completely different from the case of Michael Brown but it is just a minor detail” for some people. The only truth for them is that “An Asian’s beaten by police officers” like African Americans. So they expect Japanese would be treated in same manner. It can be quite harmful for US-Japan relation when Japanese have lost trust to the US because of recent Trumpism.

Unfortunately, a lack of information is filled with imagination. Some believes “All four were Asians”. I found a tweet explains it “rationally”.

  1. White people are excluded from the beginning.
  2. If the airline choose Black people, the company would be claimed.
  3. Yellow people is obedient and therefore they are chosen.

As you may notice, it is quite generalized. The US removes an ASIAN from the air plain and it would happen to us too.

However, this type of misunderstandings is invisible from English speakers simply because they can’t read Japanese. Also, Japanese can’t find out many Americans upset the case because it is wrongdoing.

This person, who has 86000 followers says he experienced overbooking because Japanese can’t complain in English.

This person who has over 60000 followers says the guy was an east asian.

I don’t think the video gives serious and immediate financial impact to the firm because Japanese are not their targeted customers. So they can let it goes till Japanese Twitter people find another topic to upset about. However the video may leave a vague impression that the US is divided and Asian is not welcomed.

I believe United Airlines needs to have local communicators to monitor local languages to avoid potential conflict which is caused by United Airlines.

I was quite impressed when I heard about the concept of “Soft Power” but it seems that it became a history only in few years.

テレビの政治番組の一番の嘘

先日、島田寿司夫さん(確か)が司会をなさっている「日曜討論」を見た。介護を扱った回だったのだがとても面白かった。女性で介護の現場代表みたいな方が2名出てこられたのだが、ポジションが対照的だった。お一人は声を震わせつつ政府の方針が間違っていることを訴えようとされているのだが、もう一人の(どうやら介護ではなくそのコーディネートをしているらしい)方はサバサバとしていた。

しかししばらく聞いているうちにこの「サバサバ」が実は絶望に裏打ちされているものだということがわかってくる。厚生労働省は現場を知らず、財務省はお金をどれだけ減らすかということしか考えていないと考えており、何か「改正」があったとしても、それは金減らしの改悪だとしか思っていないようなのだ。何回か「やっぱり現場のことをわかってくれていなかったんだなあということがわかる」とおっしゃっていたように思う。

この人がサバサバしているのが介護の現場ではなくコーディネートをしているからだ。介護というのは誰が担当になるかでサービスの質が大きく変わるそうなのだが、それを第三者的な視点で見ている。だから決して介護の人たちが大変なんです、なんとかしてくださいというような被害者的な視点には立っていない。しかし、サービスを組み立てる立場にいるので、制度がどのような意図で変更されているかということも冷静に分析できてしまうのだろう。「現場は淡々と日々の業務をこなすだけです」とおっしゃっていた。

このような態度に出られると「政府の福祉政策は100年安心なのだ」という物語をプロパガンダしたい人たちはとても困ってしまう。何を言っても「はいはい」みたいな感じでしか聞いてもらえないからだ。しかし現場に近い意見なのでとても説得力がある。決めつけるように話すので「いやそれは違いますよ」という発言が出るのだが、それは虚しく響く。もう責めていないからだ。

この女性の破壊力は、テレビの政治番組をある意味無効化してしまう。普通政府側は「うまくいっている」といい、カウンター側は「いやうまくいっていないけど、私たちがやったら状況は変わる」という。この呼応があると「ああ、なんとかなるのかもしれないな」と思うと同時に、私たち全てが政治に興味を持つべきなのだという印象を持つ。つまり、関心を持てば状況は変わるという見込みが生まれるのだ。

しかしながら、実際には「政治はいろいろやってくるけど、現場などわかってくれないし、私たちの声は届かない」と感じている人が意外と多いのではないかと思う。もともと最初から何も期待していないと考える人を合わせるとかなりの数に昇るのではないかと思った。つまり、政治番組がどちらかの陣営に分かれているというのは、国民の実感にはあっていないわけで「壮大な嘘」ということになる。

アベノミクスがうまくいっているというのは嘘だが、国民は頭が悪いから安倍政権の危険性がわからないはずというのも嘘である可能性も高いのだ。だから国民は政治に関わるまいとする。

さて、ここから「内閣支持率」の調査に考えるに至った。メディアの内閣支持率というのはRDDなどの安価な調査方法で調査されているのだが、これに「応じてもらえない人」の割合はどれくらいいるのだろうかと思ったのだ。例えば10年前に100件集めるのに200コールの発出で済んでいたのが1000件になったとする。このうち66%が支持で、37%が不支持だったとしよう。しかし実際の支持率は大幅に下がっていることが予想される。つまり電話をガチャ切りした人たちは「自分たちの声はどうせ届きそうにないから、何も言わない」という人かもしれないのである。

この電話に出なかった人、あるいはガチャ切りした人たちがどういう人なのかはもはやわからないのだが、一定数集めるためにどれだけコールしたのかという数字も合わせて公表しないとフェアな調査とは言えないのではないだろう。

だから、本来の政治討論番組には「難しくてよくわからない」とか「仕組みはわかっているけどもう何も期待しない」という人こそを呼ぶべきなのではないかと思う。とてもつまらない番組ができるとは思うのだが、それが多分リアルなのではないだろうか。

 

日常を演じる人たち

デフレが進むロードサイドがいやでたまらない……のだが

家の近所にショッピングセンターがある。GUとハードオフと100円ショップがメインの典型的なロードサイドだ。常々「都心のおしゃれなところに行きたいなあ」とか「デフレ嫌だなあ」などと不満に思っている。ファミリー層がメインであり、当然なんとなく都心に出るのではない普段着のスタイルの人が多い。東京が羨ましいとまでは言わないが、美浜区いいなあ位は思う。

なんとなく変な日常

コンビニという名のコンビニの前に咲く早咲きの桜

早咲きの桜が咲き始めた暖かい三連休ということもあり、中央部にあるガーデニングショップでイベントをやっている。ピザとかマフィンなどの屋台が並び、家族連れが来ていた。その様子をなんとなく眺めていて、あることに気がついた。

ファミリー層に帽子着用率が高い。ぷらっと買い物に行くのに帽子を着用することなどないわけで「見られることを意識しているんだなあ」と思った。子供を撮影するカメラが一眼レフだったりもする。報道の人みたいだ。で、認識が180度変わってしまった。彼らは都市のアクターとして見られることを意識した上でわざとリラックスした格好をしているのではないかと思ったのだ。つまり、ゆるい日常がトレンドなのだ。

情報発信されることを意識した店が増えている

このガーデニングショップはちょっと変わっていてスマホで店内を撮影していいことになっておりインスタ映えする植物が飾られていたりする。右にある花の寄せ上は特に見るべきところがなく「花がたくさん咲いているね」くらいで終わりそうだが、実は中央に植わっている葉っぱが高い。ガーデニング好きはこれをみて「うわーいいなあ」などと思ったりするのだ。

つまり「見られることを意識する」作りになっているわけだ。そこに見られることを意識した客がやってきて子供を遊ばせることになる。いわゆる「顕示行動」だが、それはとてもさりげない。SNSが発展し「見られること」が一般化してきているのだが、その中でさりげなさを演じるという組み立てになっている。昔のトレンディードラマの主人公が「ナチュラルな演技」をしていたのと同じことが郊外のショッピングモールで起きているともいえる。つまり、店は品物を提供しているわけではない。これらは単に舞台装置に過ぎないのである。

本当の日常は緊張に満ちている

なぜ彼らはリラックスした格好をしたがるのかということはすぐにわかった。帰ってきてTwitterをチェックすると安倍政権打倒のツイートが途切れることなく流れてくる。ワイドショーは森友ネタで埋め尽くされる。知らず知らずのうちにかなり緊張した毎日を送っていることが分かる。トレンドは一般層とは違う方向を目指すのだから、当然普段通りの暮らしとか、リラックスして緊張がない状態というのが嗜好されることになる。

トレンドと非トレンドの逆転現象

バブル世代にとって「おしゃれをする」というのはちょっと頑張って私鉄に乗って渋谷あたりに繰り出すことを意味した。住んでいる地域では浮いてしまいそうな「ちょっと頑張った格好」をすることがおしゃれなのである。これを「格上げ」などと言ったりする。そういう頭があるので「ファッション=頑張ること」になりがちで、個人的にも「ああ、リラックスがトレンドなのかあ」と思うまで、その図式を疑うことはなかった。

しばらく観察していたのだが、体型が崩れていたり、ポイントがなくだらしなく着こなしている人もいる。つまり汚く見えないようにリラックスした格好をするのは実はかなり難しい。そもそも普段考えるおしゃれとベクトルが180度真逆なので、どうしていいのかが全くわからない。つまりリラックスして「気を使ってませんよ」という格好をするのはかなり難しいのだ。そのちょっとした差異に使われるのが帽子なのかもしれない。

ここから類推するとあからさまな「トレンド」は忌避される傾向にあるのではないだろうか。つまり、足が長く見えるとかモテるいう触れ込みのデニムなどは好まれそうもない。一番トレンドと離れたところにあるとさえ言えるのかもしれない。かといって古着屋で安い服を寄せ集めましたなどというスタイルは嫌われるだろう。実際にここから程近いホームセンターはそういう人たち(主に高齢者だが)であふれている。

普段から青山や銀座あたりで生活して、トレンドを扱っている人たちは「普通の人たちはトレンドには興味がないのではないか」などと思うかもしれない。だが、それは必ずしも正しくないかもしれない。憧れのために一歩格上げすること自体がダサいのだ。

体験というよりは演技に近いのかもしれない

こうした行為は体験型として一括りにすることができるのだが、一つだけ違いがある。それは誰かに見られることを意識しているという点だ。仲間内のおしゃべりが楽しいわけではなく、それを誰かに見て欲しいのである。

それは、おしゃれな屋台などで食べ物を買って愛らしい子どもと芝生で食べるというような体験だ。もしそうだとすると、いろいろなものを提案しても「ふーん」と思われるだけで見向きもされないだろう。

植物そのものが欲しいならずっと安いものがホームセンターで買える。そうしたところには高齢者が押し寄せて値段を厳しく吟味して買い物をしてゆく。戦後のもののない時代から急速にものが満たされてゆくという経験をした人たちである。彼らにとって劇場体験というと海外旅行だ。ちょっと無理をして非日常空間を味わい、お土産と一緒に写真を渡すというような行動である。

こうした人たちは「世の中ユニクロとニトリばかりになってものが売れなくなった」と嘆いている。実際には「何を買うか」ではなく「何をするか」ということに視点は移っているのかもしれない。いわゆる産業のサービス化だが、サービスを受けるというよりは日常を演じる演劇に近い。

企画書を書く人こそTwitterをオフにしてリラックスを求めて街に出るべきなのかもしれないと思った。一生懸命ものやサービスを押し付けると消費者は逃げてゆくだろう。消費者ではなくアクターだと再定義した上で、舞台を整えて脚本を書いてあげるのはどうだろうか。

JASRAC騒動で思う事

JASRACが音楽教室からお金をとるというのでバッシングを受けている。これを見ていて「音楽業界ってわりといいように思われていたんだなあ」と微笑ましく思った。もともと他人の才能と權利を啜って食べている人たちの集まりだということが完全に忘れられている。

個人的な思い出になるのだが、先輩たちが夜の飲み屋でカラオケマシーンを蹴って回ったという話を聞いた事があった。ネットカラオケが発展する前、カラオケの光ディスクには2つの規格があったのだが、ある規格は振動に弱かったのである。それが壊れれば別の規格が採用される。つまり営業がやりやすくなるのだ。

また別のところではあるアーティストの葬式で築地本願寺の周りに列ができたという話を聞いた。アーティストが偉大だということがいいたいわけではなく、俺が仕切ったから地元の「その筋の方」から文句がこなかったという自慢話なのだ。つまりはその筋の方に対応する人たちが管理職にいたということになる。もともと音楽は興行を仕切らなければならないのだが、興行にはその筋の方が仕切っていたりする。もともと水商売に付随したビジネスであり「カタギ」との仕切りは曖昧だっただろう。

繰り返しになるが「人の権利で食べてゆく」ということはそういうことだということである。そもそもがタレントを搾り取る「興行」なので、きれいごとでは済まないのだ。

その代わりレーベルの權利処理はわりとしっかりしていた。CDは出荷時に「売るもの」と「デモ」に明確に区分される。返品は決してA在庫には戻さないでB在庫と呼ばれて別管理される。なぜこんな面倒なことをしているかというと、原盤印税を支払うためである。返品を元の在庫にもどしてしまうとそれだけ印税が減ってしまうのでアーティストに不利だ。かつてはこれを手計算していたようだが、オフィス用の小型汎用機が入って自前のシステム構築ができるようになった。多分、音楽教室の教本も楽譜の時点ではしっかりと計算されているのではないだろうか。

しかし、演奏の世界はわりといい加減なように思える。テレビでは、二次使用も口頭で(つまり書面を交わさずに)やるような慣行があるようだし、印税も一括で契約して「使っても使わなくても年間いくら」で包括的に契約することがあるようである。

「JASRAC管理楽曲でないと放送してやらない」というような話をたまに聞く。これがJASRAC以外の管理団体が成立しない理由だと思うのだが、テレビ局側は「使ってやっている」といういう意識がありこれを改めようとしない。管理団体ごとに詳細に印税を払うとなると放送の中で使われた楽曲をすべて抜き出してデータベースを作った上で放送件数を数える必要がある。事務処理が煩雑なので「それはやりたくない」のだろう。

放送の優遇があるおかげでJASRACは未だに大きな顔をしており「アーティストの權利を守ってやっている」といいつつ無茶をやるわけである。音楽教室も一括で契約すれば少ない事務処理で印税計算できるという目論見があるのではないかと思う。多分「演奏ごとにいくら払え」というような話にはしないのではないだろうか。しかし、だったら教本を作る時点で計算して払いきりにすればいい話ではないだろうか。

JASRACが批判されるのは「權利者に食べさせてもらっている分際」なのに大きな顔をしており、なおかつ事務処理が雑というかおざなりだからだろう。宇多田ヒカルのように「学校では無料で使って欲しい」というようなアーティストは「営利であっても使用を許諾する」という契約を結べばこれまでどおりで済む話なのだが、JASRACは個別計算による支払いを嫌がるのではないだろうか。今でも「営利目的で音楽を使う人は自分で調べて申告してこい」と殿様気分なのだから。また、音楽教室も印税支払のためのシステムを組むのに多額のお金がかかると考えるだろう。

音楽教室とJASRACの騒動は当事者同士が納得いく話し合い(ないしは法廷闘争)すればいいと思うのだが、音楽が「カタギ化」することには懸念もある。もともと面では救いきれない感情を慰撫するような役割があった。社会的に認知されない労働者が疲れて酒を煽るときに慰めてくれるのが演歌などの歌舞音曲だったという側面があるわけで、それがTwitterでの罵り合いに変わっていっているのである。やり場のない気持ちを収める場所が減りつつあるのではないだろうか。

礒崎先生の悪文を書き直してみる

礒崎陽輔先生がマイナンバーとマイナンバーカードの違いについて書いているのだが、壊滅的にわかりにくい。原文はここにあるが記事ごとのURLがないらしく引用もできない。こういうウェブサイトを運営している人に「安心だ」と言われても信頼できないというのが率直なところだ。

こうしたわかりにくさが生まれるのは、論理積が欠如しているからなのだが、能力の問題というよりは、意欲の問題ではないかと考えられる。

批判すらできないので以下要約してみた。

マイナンバーカードは積極的に利用してほしい。政府が番号を厳重に管理するように推奨したのでカードの携帯を控える人が多いが、マイナンバーカードはマイナンバーとは別物で積極的に持ち歩いても安心なように設計されている。

マイナンバーには何重ものセキュリティ対策がなされている。最悪マイナンバーが流出したとしても官庁から個人情報が漏れることはない。企業はマイナンバーを厳重に管理するように政府から要請されている。さらに、マイナンバーカードによって企業に伝わる情報は基本4情報(氏名、住所、性別及び生年月日)だけであり、マイナンバーそのものが伝わることはない。表面には基本4情報が書かれており、裏面にはマイナンバーが記載されている。身分証としてコピーされるのは表面にある基本4情報だけなのだ。

マイナンバーは年金事務や税務など官庁間の連携に使われるが、利用者がそれを意識することはない。官公庁でもやり取りされるのは基本4情報が中心になる。

マイナンバーカードは公的な身分証明証として使える他、将来は健康保険証としても利用可能になる。さらに、マイナンバーカードに会員証データを持たせることによって、企業に基本4情報を引き渡すのにも利用される予定である。繰り返しになるが、民間企業はマイナンバーをキーとした名簿の収集は禁止されているし、会員証にしたところで民間企業のコンピューターにマイナンバーが渡ることはないので安心してほしい。

マイナンバーは政府で利用するものであり厳重な管理が求められるが、マイナンバーカードは民間への幅広い利用が想定されている。便利な機能が増える楽しみなカードであり、交付手数料は不要なので、積極的に求めていただきたい。

さて、ここからは懸念事項を書いて行きたい。磯崎先生の文章が壊滅的にわかりにくいのは幾つかの理由があるからだ。疑念を3つ挙げたい。

懸念1 – 技術的にできることと禁止していることの境目が曖昧

第一の疑念は「技術的にできること」と「禁止されているからやってはいけないこと」がまぜこぜになっている点である。「禁止されている」ということは「できる」ということだからセキュリティホールだ。役所から漏れるのではないかという疑念は残るが、それを言い出すと先に進めないので役所は完璧に番号を管理するという前提で進めたい。

ICカードには番号が記録されているはずなのだから、基本情報だけしか抜き取れませんと言われても、それができないのかできるけどやってはいけないのかがわからない。もしコピーできないとすれば「暗号化」などの具体的な方策があるはずなのだが、その情報が公開されていないのでは批判のしようがない。情報の非公開は安心なように思えるのだが、ハッキングの危険性が第三者の検証なしに放置されているということを意味する。素人が考えても、目の前でコピーしてもらわない限り、裏面の番号を収集できてしまうということはなんとなくわかる。不安が解消できないばかりか、却って犯罪を誘発するかもしれない。

懸念2  – 今できることと将来やりたいことの境目が曖昧

次の問題点は、今できることの利便性と将来礒崎先生がやりたいことがまぜこぜに書かれているという点だ。いまできることはそれほど多くないが、金融機関からカードを求められることがある(マイナンバーには政府が国民の財産を把握するという目的があるので礒崎先生は書きたくなかったのかもしれないのだが)ようで、必要に迫られて作らざるをえない人がいるはずである。また、カードを持っていると住民票をコンビニで発行できるようになる。待ち時間が大幅に減るだろう。

一方、会員証や健康保険証は計画であり、反対も多いことからどうなるかはわからない。原文は「用途をどんどん拡大していく考え」と言っているのだが「決まってから言ってくれ」と思うわけだ。結局、いま何が便利なのかがよくわからない。

懸念3 – 個人情報の認識が壊滅的に甘い

磯崎先生は基本4情報を「大したことがない」情報だとみなしているようだが、これも立派な個人情報であり、漏洩するといろいろな問題を引き起こすだろう。電話番号やメールアドレスなどはSNSなどから持ってくることができるので基本情報とマッチングができてしまうのだ。

しかし、そもそもの問題は「何がプライバシーか」という点にはないようだ。どんな個人情報が漏れるとどういうリスクがあるのかということを国民も含めてあまり理解していないというのが問題なのだ。そこに漠然と「個人情報は保護しないと危ないらしい」という情報が加わることで不安が増してしまう。リスクを理解するということは、それをコントロールする術を考えるということと同じなのだ。これを棚上げしたのが「安全神話」である。マイナンバーカード安全神話になってしまっているが、どんなに厳しく設計してもリスクが0になるはずはないのである。

一方で、一般人が学べる点も多い。ぜひ気をつけたいと思った。

学び1 – メリットとデメリットを明確に

先に安全神話について考えた。マイナンバーまたはマイナンバーカードが流出するどういうリスクがあるのかということが全く書かれていないという問題だ。漏洩にはどんな危険性があり、漏れたときにはどのような回復策があるのかということが書いてあれば「リスク管理」ができる。これがなく「大丈夫だ」と言われてしまうと、それって「原発と同じ安全神話ですよね」と思ってしまうのである。実際に情報が漏れた時の救済策や自衛手段がわかれば、安心感は高まるだろう。悪い情報を出すことも誠意なのだということが最初の学びだ。

学び2 – ポジションの確定と箇条書きの重要さ

礒崎先生はマイナンバーカードは怪しそうだという周囲の評判を気にしてか、カードを持つメリットを書いたり、予防線を張ったりと忙しく文章が移ろっている。これはあまり得策とは言えない。信じているならポジションを明確にした上で、メリットとリスクをわかりやすく箇条書きにすべきだ。リスク管理にも自信があるのだろうから、読み手の評判を過度に気にせず自信を持って書くべきだろう。

だが、いきなりパソコンに向かって文章を書く機会は意外と多い。散漫な考えをまとめるために文章を書くということもあり得るのだが、人にものを伝える場合には箇条書きにしたほうがよいのだなあと思った。

学び3 – 現場を取材しよう

さて、マイナンバーカードが普及しないのはなぜなのだろうか。実はマイナンバーカードにセキュリティ上の懸念があると考えている人はそれほど多くないのではないかと思う。それは実際に使っている人に聞いてみないとわからないことだ。

実際に市役所では、パスワードがわからなくなって役所でパーテーションのある一角に連れて行かれる人や、金融機関にマイナンバーカードをもとめられてはじめて「マイナンバーって何なのか」と問い合わせてくるケースなどを見かけた。

あれだけニュースになっているのだからみんな知っているだろうと思ってはいけないのだ。情報が溢れているので、広報しても伝わらない。これは多くのマーケターが苦労している点だろう。加えて「横着だから勉強しない」というわけでもなさそうだ。何がなんだかわからなくなっている可能性がある。

よくNHKが政府のプロパガンダだという批判を耳にする。しかし、現在のニュースは難しすぎる。情報の海に溺れている人たちに政府の情報を伝えるためには、池上彰さんを呼び戻すか、ストレートな広報番組を作るしかない。これを受信料で支えることは不可能なので、政府がスポンサーする番組を作るしかないのではないかと思う。現在は通常の情報番組に潜り込ませるようにして広報しているわけだが、これでは伝わらないのだ。

いずれにせよ、現場を取材していればこのような文章にはならなかったのではないかと考えられる。本当に普及させたいなら、リサーチをしたほうがよかったし、リサーチできなくても(視察ではなく)現場の窓口に半日立ってみて状況を把握するべきだろう。