NHKの受信料を払いたくない人が大勢いるらしい

NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。

普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。

月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。

ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。

にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。

日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。

NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。

一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。

NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。

今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。

むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



白鵬バッシングに邁進する愚かな日本人について考える

白鵬バッシングが強まっている。万歳がいけないと言われ、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻したいといったことがいけないと言われた。Twitterをみると貴乃花親方の下では巡業に出たくないと言ったということが咎められ「嫌ならモンゴルに帰ればいい」などとバッシングされている。

どうしてこのような問題が起き、どうしたら解決できるのかということを考えてみたい。しかし、相撲界だけで考えるのは難しいので、全く別の事例を考えてみる。それが日系企業の中国進出である。全く別の状況を当てることでその異常さがよくわかる。

日本市場が先細りした企業が中国への進出を考える。そこで日本語が堪能な現地人の留学生を採用する。彼らは日本の特殊な企業文化を学び必死に同化しようとする。偉くなれば自分たちの地位が向上すると考えるからだ。彼らは期待通りに成長し、現地市場を開拓する。その成果が上がり、中国市場はこの企業の稼ぎ頭になった。

モンゴル人が最初に直面するのは「可愛がり」という常軌を逸した暴力である。日本のジャーナリズムは相撲界と経済的・心情的な癒着関係にあり何も伝えないがBBCは白鵬が経験したかわいがりの感想を掲載している。

白鵬は、私の顔は今幸せそうな顔をしているように見えるかもしれないが、(かわいがりを受けいていた)当時は毎日泣いていた、と語った。力士は、最初の20分はただただすごく痛いが、殴られても痛みが感じにくくなってくるので、それまでよりは楽になる、と話した。

白鵬は当然泣いたと言うが、兄弟子に「お前のためだ』と言われてまた泣けた、と振り返った。

中国人が日本の婉曲な企業文化を学ぶように、モンゴル人もこのように混乱したメッセージを受け取る。表向きは「日本人のように尊敬されるような人になりなさい」と言われるのだが、裏では容赦ない暴力があり、これを抜け出してまともな生活ができるようになるためには番付で上に上がるしかない。この文章には、番付が下の力士は配偶者と一緒に住むことすら許されないという「成果主義的な」状況についても言及がある。

さて、中国人の話に戻る。彼らは本社での待遇向上を期待するが、いつまでたっても重役以上にはなれない。重役たちに聞いてみると「日本国籍が必要であり」「中国人には日本の難しい文化は理解できないからだ」と言われるばかりである。では日本の難しい文化とは何かと質問しても明快な答えはない。最初は深淵すぎてわかりにくいのだろうかと思っていたのだが、どうやら日本人にもよくわかっていないのではないかと思えてくる。

モンゴル人力士はいつまでたっても日本人らしく振る舞わなければならないし、何かあれば「やはりモンゴル人だから」などと言われる。国籍をとって親方になれたとしても「二級市民扱い」は一生続く。日本のしきたりだからと言われて理不尽な暴力にも耐えてきたし、日本文化についてよく勉強した。しかし、だんだん様子がわかりトップである横綱にまで上り詰めたところで白鵬は「この理不尽さには一貫した思想などない」ということに気がついたのだろう。

中国人の話に戻ろう。ある日本人のプロパーが理不尽な要求を持って重役たちを振り回し始める。しかしながら、重役たちは彼のいうことを聞いているようである。そこで中国人たちは「自分たちが改革を要求しても聞き入れられないのに、日本人が重役を振りまわせるのは「差別があるからだ」ということに気がつく。

これが貴乃花親方である。貴乃花親方は「日本の伝統」という言葉を振りかざして改革を要求する。改革自体にはそれなりに根拠があるかもしれないが、周囲と協力しようなどという姿勢は見せない。「品格」には強くなっても威張らずに周りと協調してやって行くという価値観を含んでいるはずなのだが、どうやら貴乃花親方はおかまいなしらしい。それどころか貴乃花親方には同調者すらいるようである。そこで初めてモンゴル人たちは「部屋に分離されてバラバラにある状態」は不利であり自分たちも固まってプレゼンスを持つべきだということに気がついたのだろう。しかし、彼らにとってみればそれは当然の要求である。

そもそも相撲界はモンゴル人に依存している。相撲に強い日本人が入ってこないのはなぜだかはわからないが、前近代的な仕組みが日本人に嫌われているのかもしれない。体力に恵まれているのなら柔道やレスリングの方が栄誉が得られる可能性が高い。オリンピック種目であり金メダルをもらえればその後の生活には困らないし、選手の裾野も広いので指導者としての道も立ちやすいからだ。

そこで白鵬は自己主張をするようになる。巡業が多すぎると言って親方に注文をつける。バスの中では良い席を実際に働いている力士に譲るべきだと言って巡業の責任者である貴乃花親方の席に座る。バスの時間に遅れてやってくるなどの示威行為である。日本の伝統からみると「親方を敬っていない」と感じられるかもしれないが「商品である力士を大切にせよ」というのは実は当然の行動だとも言える。親方だけで相撲巡業を行うことはできないし、巡業がいくら増えても給料は変わらないのだろう。

もちろん貴乃花親方を責めることはできない。中学校を卒業してから親方が威張るのは当たり前だという世界で過ごしてきたのだから自分が親方になり巡業部長になったのだからその世界に君臨するのは当たり前だと考えるだろう。

Twitterの心ないコメントに見られるように「気に入らないならモンゴルに帰ればいい」と日本人は気軽に言うが、実際にはモンゴル人なしに日本の相撲はもはや成立しない。これを単に品格の問題だけで片付けることはできない。これは労働組合と経営者の間の対立でもある。貴乃花親方が土俵に上がるわけではないのに、なぜ威張るのだろう。

これは、例えばプログラマが「なぜ自分でプログラムを組みもしない部長にペコペコしなければならないのだろうか」と思うのにも似ている。さらに、プロジェクトマネージャーがクライアントを説得できなかったせいで時間が足りなくなり土日も犠牲にせざるをえなくなったというようなことがあればプロジェクトマネージャーに一言ガツンと言ってやりたくなるはずだ。そこで「プロマネに楯つくとはお前には品格というものがない」と言われたらどんな気分になるだろうか。しかもどんなに尽くしてもプロマネはエンジニアに感謝などしない。「お前らが無能だから赤字になったじゃないか」などと毒付いて「もっと優秀で土日も休まないエンジニアが欲しい」というのである。

日本人はこれに耐えるかもしれないが、他の国の人は別の企業に行くだろう。しかしこのような状態が続けば日本人ですら英語を覚えて外国企業に就職するかもしれない。

実はこの問題を見ていると、日本企業が国際化できなかった理由がよくわかる。原因はいくつもあるのだろうが意思決定が特殊なため異質な人たちを受け入れられないという事情がある。また、若い頃に「いじめられていた」のを「後には良いことがあるから」と我慢させていたという事情もある。だから、貴乃花親方のように全てを捨てて相撲に没頭してきた人に「これからは力士を労働者として普通に処遇しなさい」とは言えない。

さらに都合が悪くなると「労働者と経営者は親子同然なのだから、親を敬わないのは品格がない」と言い切れる。その場はなんとか取り繕うことができるのだが状況が改善するわけではないので、人はどんどん逃げて行ってしまうのだ。

つまり、日本企業が過剰な日本人らしさを求めて衰退して行くのと同じことが相撲で起きているということになる。「国技」という小さなプライドを持ちながらゆっくりと衰退して行くことになり、これは製造業が「日本の誇り」と言われているがゆえに衰退し、品質偽装を繰り返すようになったのと実はとてもよく似ている。

Google Recommendation Advertisement



貴乃花親方と品格という十字架

日馬富士の暴行事件が思わぬ方向に展開している。最初は「暴力はダメだろう」というような論調だったのだが、次第に貴乃花親方の挙動がおかしいという話になってきた。診断書が二枚あり貴ノ岩も普通に巡業に参加できていたというのである。さらに協会側は医師のコメントを持ち出してきて「疑いとは書いたが相撲はできるレベルの怪我でしかなかった」などと言わせた。つまり、状況的には貴乃花親方が「嘘をついている」ということになる。さらに親方は普段から目つきがおかしく「何か尋常ではない」ものが感じられる。

これだけの状況を聞くと「貴乃花親方の挙動はおかしい」と考えるのが普通だろう。

いろいろな報道が出ているが毎日新聞は面白いことを書いている。相撲協会は力士の法的なステータスを明確化しようとして誓約書の提出を求めたが「親方が絶対だ」という貴乃花親方だけがそれに協力しないのだという話である。

普通に考えると相撲は近代化したほうがよい。いろいろな理由があるのだが、一番大きな理由はリクルーティングの困難さである。力士には第二の人生があり、そもそも力士になれない人もいるので、相撲について「仕込む」のと同時に相撲以外の社会常識を教えたり、関取になれなかった時の補償などをしてやらなければならないからである。

そう考えると、この問題の複雑さが少し見えてくる。貴乃花親方は「たまたま成功した」が「相撲以外のことを全て失ってしまった」大人なのだ。

第一に貴乃花親方の父親はすでになくなっており、母親はすでに家を出ている。さらに兄とも疎遠である。さらに実の息子も「ここにいたら殺される」と思ったようで、中学校を卒業してすぐに留学してしまった。現在相撲とは全く関係のない仕事をしているそうであるが、これは家族の離別ではなく「美談」として語られている。相撲界は個人としてもいったん外に出ると戻ってこれない片道切符システムなのだが、それは家族の領域にも及ぶ。

加えて中学校を卒業してからすぐに部屋に進んだため高校に進学していない。中卒が悪いとはいわないが、相撲で現役を退いたあとすぐに親方になっており社会常識を身につける機会はなかったはずである。しかし、相撲のキャリアとしてはいったん外に出て社会常識を身につけた上で復帰するという制度は考えられない。

さらに、相撲の影響で体にかなりの影響が出ているようである。Wikipediaを読むと「右手がしびれて使えない」とか耳が聞こえにくく大きな手術を余儀なくされたとある。

「相撲に命をかける」といえば聞こえはいいが、家族と断絶し学歴や社会常識を得る機会も奪われた。さらにそれだけではなく健康すらも害しており「もう相撲で生きてゆくしかない」ということになるだろう。そして、これは貴乃花親方個人の問題ではない。

もともと相撲は興行(つまり見世物のことだ)のために必要な力士を貧しい農村部などから「調達」してくるという制度だったようだ。

花田一族で最初に相撲の世界に入った初代若乃花(花田勝治)は青森のりんご農家に生まれた。しかし一家は没落してしまい室蘭でその日暮らしの生活をしていた。戦後すぐに素人相撲大会にでて力士の一人を倒したことで相撲界にリクルートされたという経歴を持つ。しかし、働き手を失うとして父親から反対されたので、数年でものにならなかったら戻るという約束で東京に出てきて「死に物狂い」で稽古をして強い関取になったとされる。これは美談として語られている。

しかしながら実態はどうだったのだろうか。厳しい練習をしても相撲で食べて行けるようになるかはわからない。東北・北海道の寒村というものは日本から消えており「全てを投げ打って相撲にかけるしかない」という地域は消えてしまった。

実は、モンゴル人の力士はこのような背景から生まれている。つまり日本で力士が調達できなくなったから貧しいモンゴルから連れて来ればよいと考えられるようになったのだろう。しかし、当初の目論見は失敗に終わる。

最初のモンゴル人力士たちは言葉がわかるようになると「これはあまりにも理不尽で将来に何の保証もない」ことに気がつき脱走事件を起こした。逃げ出さないようにパスポートを取り上げられていたので大使館に逃げ込んだそうだ。これが1990年代の話である。つまり日本がバブルにあったので力士調達ができなくなった時代の話なのである。

しかし、中国とロシアが世界経済に組み込まれるとモンゴルにも経済成長が及んでおり今までのようなやり方で見世物のために力士を調達することはできなくなっている。だから、相撲協会はなんらかの形で現代化してスポーツ選手としての力士を「養成」しなければならない。

ところが、相撲協会は、大相撲が興行だったころの体質を残している。もともと興行主である「相撲茶屋」が興行収入を差配していたようだが、これを力士で運営して利益配分しようという制度に変えつつあるようだ。つまり資本家から独立した労働者が利益を分配しようとした「社会主義革命」だということになる。相撲協会はソビエトのようなものだが、共産主義は例外なく労働者の代表が新しい資本家になってしまう。

2010年の貴乃花一門独立騒ぎでは、貴乃花は「改革の担い手」だと認識されたのだが実際には「旧態依然とした相撲道のために全てをなげうつ」という現在では通用するはずもない価値観の犠牲者になっていることが判る。

相撲はこのように多くの矛盾を抱えており潜在的には存続の危機にあるのだが、相撲ジャーナリズムはこのことを真面目には考えていないようだ。彼らは相撲協会と精神的に癒着した利益共同体を形成しており批判的な態度を取れば取材が難しくなる。

さらに相撲の商品価値を高めておく必要があり話を美しく「盛る」必要があり、全ての矛盾を隠蔽したまま「品格」というよくわからない言葉で全てを包んで隠蔽しているのである。

「品格」という言葉は聞こえはいいが、実は何が品格なのかというのは誰にもわからない。にもかかわらず相撲で成功してしまった貴乃花は家族と孤立し健康も失い社会常識を身につける機会もなく、変化にも対応できなくても一生品格という言葉に縛り付けられることになるだろう。それがどのような人生なのかは想像すらできないが、過酷なものであることだけは間違いがないだろう。

Google Recommendation Advertisement



ついに情報汚染に手を染めたNHK

NHKがAIを使って凄まじい数の統計を処理して「これが日本の問題を解決する」とやった。さらに40歳代の一人暮らしを名指ししたために、多くの人の反発を買う事になった。前半だけ見て後半は見なかったのだが、少なくとも、因果関係を無視した番組構成になっていた。そして因果関係が無視されているという事は、多分参加者たちも築いているようだった。

“ついに情報汚染に手を染めたNHK” の続きを読む

NHKはどれくらい国民を洗脳しているのか

左翼の人たちはよく、日本人はNHKに洗脳されているなどという。確かに政府には広報戦略みたいなものがあってNHKはその戦略を実行するための道具になっているのは間違いがなさそうだ。かつて民主党に政権を取られた時にマスコミが大きな影響を果たしたので、その反省があるのだろう。だから、NHKをジャーナリズムとは思わない方がよいというところまでは確かだ。ジャーナリズムは幅広い視点からものを見るために役立つのだから、NHKを見たら他の報道(できれば海外のものまで含めて)で検証する必要がある。

だが、本当に日本人はNHKに洗脳されるほど素直で従順なのかなというとそれにも疑問がある。最近、そのことがわかるのではないかという事例があった。

最近、ヨーロッパと経済交渉が続いているのはご存知だろうか。チーズなどの関税を撤廃するのと引き換えに、自動車関税の撤廃を勝ち取るというものだ。だが、どうも報道が不自然だ。ヨーロッパがチーズの関税撤廃を執拗に迫っていて、それをやり遂げないと自動車関税が撤廃できないというようなお話になっている。安倍首相の外遊に合わせてことさら報道されるようになった。政府にPR企画部のようなものがあって、その筋で情報をコントロールしているものと思われる。

最後に流したい絵は安倍首相の熱意の結果交渉がまとまり、日本の自動車輸出がさらに盛んになるだろうと語る場面だろう。これは安倍首相が「力強い首相」であるという<印象操作>だ。

確かに、チーズの関税が撤廃されると日本の酪農は打撃を受けそうな気がする。だが、実情は少し違っているようだ。生乳の自給率は高いのだが(新鮮なものをすぐに飲みたいという需要があるのだろう)チーズやバターといった加工品はどちらかというと需給の調整という役割が強いように思える。チーズの自給率は20%を割り込んでいるそうだ。つまり、チーズを明け渡したからといって、それほどの影響を受けるようには思えない。関税を撤廃すれば安いチーズが食べられるようになるわけで、多くの消費者から反対が出るわけでもなさそうだ。

だが、これを「やすやすと明け渡した」ように見せてしまうと「自動車関税を政府が勝ち取った」という演出ができない。最初から路線が決まっていたのだが、岸田外相が大枠で合意したことにして、安倍首相とEUの間で最終的な「成果」として発表できるようにしているように思えるのだ。

さて、左翼の人たちの理論によると、政治的に無関心でNHKに洗脳されているので、こうしたニュースを見て「安倍様の政治的交渉力はさすがだなあ」などと思うに違いない。確かにそうした懸念はあり、支持率が上昇してしまうかもしれない。

だが、日本人はそもそもこうしたニュースに深い関心を払っていないかもしれない。のちに値段が安くなるまでは「あ、関税が下がったんだ」と思わない可能性もある。よく考えてみるとオーストラリアビーフがなんで安いのかということもよく知らないわけだから、首相の名前をことさらに出さないと、国民はまったくありがたがってくれない可能性があるのだ。

それに加えて「自動車関税の撤廃を勝ち取った」というニュースがないと、北朝鮮が弾道ミサイルを開発したのに、日米韓は責任を押し付け合っているというようなネタしかない。すると国内政局に関心が向いてしまうので、政府としても何かネタを探すのに必死だった可能性はある。

日本人は昔から政局報道には興味があるが、政策にはそれほど関心を持っていないように思える。今でも、麻生派閥が安倍派閥を追い落とそうとしているとか自民党小池百合子派が安倍派閥を対峙してくれるのか、それとも寝返ってしまうのかなどという政局報道に夢中になっている。政治部の人たちも政策の意味を伝えるより、インサイダーとして政局の解説をするのが好きなようだ。

NHKは広報活動を通じて国民を<洗脳>しようとしているというのは多分間違いがないのだが、それが国民に届いているかと言われればそれも疑問なのだ。来週以降の政権支持率に注目したい。

Google Recommendation Advertisement



菅野完氏はなぜうさんくさいジャーナリストと呼ばれるのか

立派なジャーナリストの田崎史郎さんがさまざまなワイドショーで菅野さんのことを「あの人の信頼性は……」と揶揄している。田崎さんは安倍さんの寿司トモとして知られており、安倍さんをかばっていることはかなり明白である。だが、報道機関の出身なので立派なジャーナリストとして通る。だが今日は田崎史郎さんのうさんくささではなく、菅野さんのうさんくさについて考えたい。

菅野さんは自分で情報の入手過程などを実況している。普通のジャーナリストは情報の入手過程をつまびらかにすることはなく、あくまでも第三者的な立場で情報の信頼性を確保する。「伝える側」と「伝えられる側」の間に線を引いているのだ。線が引けるのはジャーナリストの生活が確保されているからだろう。ジャーナリストは専業でやってゆけるから、政治のような面倒なことに関わらなくても済む。

菅野さんが自身をどう定義付けているのかはわからないのだが、政権の存続に関わるようになったので自動的にジャーナリストという文脈で語られることになった。しかし、彼は客観的な伝え手ではなく、信条がありアクターという側面も持っている。故に「伝える」役割のジャーナリストの範疇には入らない。これが、伝統的なジャーナリストである田崎さんから見て菅野さんが「うさんくさく」見える原因だ。もちろん、見ている我々も「菅野さんは嘘をついているかもしれない」と思う。それは菅野さんが客観的な語り手ではなく、意図を持っているからである。可能性としては嘘をつく動機がある。

さて、ここで疑問が湧く。田崎さんは報道機関出身という肩書きを持っており「解説」という立場から第三者的なコメントができるキャリアがある。ではなぜ一線を踏み越えて安倍首相のエージェントとして機能しなければならないのかという疑問だ。

なぜこうなってしまったのかと考えるのは興味深い。報道機関の収入源が先細りリタイア後の収入が確保できなくなってしまったのではないかと考えた。同じことは東京新聞内で闘争を繰り広げられる長谷川氏にも言える。自分のポジションを持って組織と対立している。これは組織を忖度する日本社会ではなかなか考えられないことである。

はっきりとはわからないものの、デフレがジャーナリストをアクターにしてしまっているのではないかと考えられる。裏で政権と繋がっていると噂されるマスコミの実力者は多いが、表舞台にしゃしゃり出てくることはなかった。NHKなどは政権との影響が出るのを恐れてか、同じく寿司トモの島田敏男解説委員を日曜討論の政治の回から外しているようだ。

つまり「うさんくさいジャーナリスト」が出てくる裏には、ジャーナリズムの弱体化があると考えてよく、フリーランス化という背景があるのではないかと思えてくる。つまり(たいていの二極化と同じように)これも同じ現象の表と裏なのだ。

だが、こうした動きは他でも起きている。それがYouTuberの台頭だ。もともとブログライターは顔出しせずに記事を書いていたが、最近ではブログライターさえ「タレント化」することが求められているようだ。切り込み隊長のように本当にタレントになった挙句にネタになってしまうこともある。スタティックな文章ではなく動画の方が好まれるのだ。その内容を見てみるとバラエティー番組にもできそうにないような身近なネタが多い。

テレビ局はYouTubeコンテンツをバラエティの出来損ないだと考えるのだろうし、YouTuberたちはタレントになれなかった胡散臭い人たちに思えるかもしれない。しかし、小学生くらいになるとバラエティ番組は退屈で見ていられないと考えるようだ。彼らにとってはスタジオで制作されるのは退屈な作り物で、番組ができるところまでを含めてリアルで見ていたいのだろう。また視聴者のフィードバックが番組に影響を与えることもある。つまり視聴者も制作スタッフ化している。

「既存の番組がくだらなくなったからYouTubeが受けるんだ」という見方もできるわけだが、視聴者の習熟度が上がり、なおかつインタラクティビティが増したからこそ、新しい形態のタレントが生まれ、今までジャーナリストとみなされなかった人が政権に影響を与えるようなことすら起きていると考えることもできる。視聴者が生産技術(安価なビデオカメラや映像編集機材)を持つことで、世代交代が広がっているのである。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)で書かれたことが現実に起きているわけだが、日本では組織的なイノベーションが起きないという思い込みがある。意外と何が創造的破壊なのかというのはわかりにくいように思える。

つまりうさんくさいのではなく次世代なのである。これは映画から見てテレビがうさんくさかったのとおなじような見え方なのだろう。田崎史郎さんは伝統的なやり方で「大きな組織」を頼ってフリーランス化したのだが、別のやり方でフリーランス化した人もいるということなんだろう。

ただし、菅野さんの存在が無条件に賞賛されるということもないだろう。新しい形態は倫理的な問題を抱えてもブレーキが効かない。YouTubeでは著作権を無視してネットを炎上させたり、おでんに指を突っ込んで訴えられるというような事例が出ている。報道に必要な基本的な知識がないわけだから、これも当然と言える。

常々、日本人は変化を拒んでいると書いているのだが、変化は意外なところで起きているのかもしれない。

NHKはどのような気持ちで連合の猿芝居を伝えたのか

NHKがひどいニュースを伝えていた。印象として思ったのはNHKスタッフが抱えているだろう無力感だ。

ニュースは安倍首相の力強いリーダーシップを讃える内容である。面子にこだわる経団連は繁忙期の労働時間100時間を基準にするという表現にこだわっていた。一方、連合は100時間未満にするという表現を主張した。そこで力強い領導様である我らが安倍首相が調停なさり連合の主張を支持なさったというのだ。

実はこの話いくつもの食い違いがある。連合が勝ったということになっているのだが、連合の代表は「100時間が目安になるのは困る」と言っているだけで実際は押し切られている。本来は労働者がすり減ってしまわないもっと短い時間を主張すべきだったのだが、それをやらずに(あるいはできずに)経営者と政府に押し切られてしまったのである。つまり連合は交渉に負けてしまったのである。これで民進党は100時間には反対できないので、高橋まつりさんを例に挙げて政府の無策を追求することもできなくなる。つまり民進党も負けた。

経営者は勝った側なのだが相撲と同じようにガッツポーズはしない。神妙な顔で「持ち帰ります」と言った。彼らは交渉には勝ったのだが「労働者を使い倒す以外に有効な経営手法を知らない」と言っているだけなので、経営者としては負けているというか終わっている。これは栄光ある大日本帝国陸軍が兵站は維持できないので兵士は飢えて死ぬだけだが戦線は維持できていると言っているのと同じことなのである。

さらにNHKも嘘をついている。ロイターは次のように伝えている。

[東京 13日 ロイター] – 政府が導入を検討する残業時間の上限規制を巡る経団連と連合の交渉が100時間を基準とすることで決着したことについて、安倍晋三首相は13日、「画期的」と評価した。

また安倍首相は「100時間を基準としつつ、なるべく100時間未満とするようお願いした」ことを明らかにした。

実は安倍首相は100時間を基準にと経団連を支持しており「なるべく〜お願いした」だけで決めすらなしなかった。時事通信はもっとめちゃくちゃなことになっている。首相の裁定を強調しつつ、結果は「玉虫色」と認めている。つまり政権が事実上過労死ラインを許容しているのだ。

つまり、この交渉は安倍首相のいうように「画期的」なものではない。誰も勝った人がいないだけでなく、伝えた人まで負け組になるというひどい内容だった。

しかし、NHKは「俺たちは報道機関だ」という気持ちが残っていたのだろう。過労死した家族の声を複数伝えて「到底納得できない」と言う声を伝えている。NHKはエリートなので今の地位を失うわけに行かず、したがって偉大な領導様のよき宣伝機関でいなければならない。そこで、過労死の犠牲者を表に出しておずおずと抵抗して見せたのだろう。

このようにこのニュースは受け手のリテラシーによってどのようにも取れるようになっている。つまり、騙されたい人は安倍首相の力強いリーダーシップを信じられるいうになっているし、そうでない人はそれなりの見方ができる。さらに複数ソースに当たれる人はそもそもこれが事実を調理したフェイクニュースだということがわかるのだ。フェイクと言うのが屈辱にあたるとすれば元の料理を子供の口にもあうように仕上げたインスタント食品と言って良いかもしれない。

NHKは主な受け手が子供ニュースすら理解に苦しむリテラシーしか持っていないことを知っていながら「隠れたメッセージ」を受け取ってくれることを祈っているように思える。

日本のマスコミってジャーナリズムの歴史とか教えないんだろうかという話

不思議なコラムを読んだ。長谷川幸洋さんという自称ジャーナリストさんが怒っている。どうも会社ともめているらしい。だがこれを読んでもさっぱり意味がわからない。いろいろ考えているうちに2つ不思議な点が浮かんだ。東京新聞ってジャーナリズムの基本的な歴史を社員に教えないんだなという感想を持ったという点と、日本の組織らしく職掌の文章化がされていないんだなという感想だ。

まず疑問に思ったのは東京新聞では一記者が会社を批判する記事を書いてそれが掲載されなかった時に「言論の自由」を盾にして掲載を迫る文化があるのかという点だ。もちろん内部での議論はするだろうが最終的には責任のある人が決めるのではないだろうか。そもそも紙面が限られているのですべての意見は載せられない。

もし記者がジャーナリストの良心として会社の方針に従いたくない場合には自分で発言の場を作るべきかもしれないし、そもそも新聞は記者の意見を発表する場所ですらない。新聞は経営的な判断から新聞の論調を決めなければならない。東京新聞のような後発は既存の新聞が持っていないニッチを探さざるをえないのでその傾向は強いだろう。

すると長谷川さんの特異性が浮かび上がってくる。論説委員という特殊な立場なので個人名で発言ができ、かつ新聞の論調を形作ることができる。さらに外部にも発言の場を持っており東京新聞の名前を使って個人的に収入が得られるはずだ。これらは特権的な地位と言える。そしてそれは個人の言論の自由の範囲を超えて東京新聞という組織を前提にしている。人々が長谷川さんの話に耳を傾けるのは「この人が東京新聞の論調を作っていて影響力がある人なのだな」と思うからだ。

もちろん社外でのプレゼンスを作ったのは長谷川さん個人の努力なのだろうから、それは最大限尊敬されるべきかもしれない。東京新聞が長谷川さんに社の名前を使うことを許しているのは東京新聞の宣伝になるからであろう。ゆえに長谷川さんが東京新聞の想定する読者が気に入らないことを言って東京新聞の商業的価値を毀損しようとした場合、新聞社はそれを差し止める権利は持っているはずである。

もちろん東京新聞が想定する読者を変えることもできるわけだが、それは内部で議論すればいい話であって、読者には関係がない。ここで「俺が正しい」とか「俺は正しくない」という価値判断が持ち込まれても外からは判断のしようがない。読者は「好きか嫌いか」しか言えないだろう。もちろんなんらかのイシューがあり、それが合理的かそうでないかということなら判断ができるわけだが、沖縄に基地を作るべきかなど言う問題は価値判断を含んでおり一概には決められない。

あるいは、東京新聞は末端の記者が黙々と記事を書き、偉くなった人たちがバラバラな意見を戦わせる言論プロレス的な見世物にするということはできるわけだが、それは言論の自由ではないし、読者も興味を持たないだろう。同じようなことを政党ベースでやっているのが民進党だが、有権者はもう民進党には興味を持たない。「決まってからお知らせしてね」と思うのみである。

ジャーナリズムはお金儲けなんかじゃないなどと思う人がいるかもしれないが、実は重要な要素だ。もともとは政党のビラのようだった新聞は、広告収入などを得ることで徐々に言論の自由を獲得してゆく。もし読者やスポンサーがジャーナリズムを支えるという文化がイギリスで発明されなければ、日本人は北朝鮮のように政府広報と自民党の機関紙だけを読まされていたかもしれない。

政党パンフレットが新聞になる過程ではできるだけ意見を偏らせないという方針が採られたようだが、それは貿易のために政治に影響されたくないという実利的な理由だったようである。

つまり「想定読者を決めて意見を整える」というのは言論の自由に大きく貢献しており、長谷川さんは知ってか知らずかそれを逸脱して騒いでいるように見える。自分の意見が同僚に否定されて頭に血が上っているのかもしれないし、体制に沿った意見のほうが儲かるのに、わざわざ儲からない反体制側にいる新聞社にいらいらしているのかもしれない。

もちろん、長谷川さんが外で意見を言うことに対して箝口令がひかれたりなんかすれば、それは言論の自由の侵害になるだろうが、東京新聞はそうは言っていない。もしそれに類することをすれば長谷川さんが大いに騒ぐことは明白だ。できるだけ刺激したくないのが本音なのではないか。

さて、ここまで書いてもやっぱり東京新聞は長谷川さんの言論の自由を侵害しているという人がいるかもしれない。長谷川さんは東京新聞の人なのだとすれば、東京新聞が東京新聞の言論の自由を侵害しているということになる。実際には東京新聞の中の人(仮に鈴木さんとしようか)と長谷川さんが対立しているわけで、東京新聞が長谷川さんを侵害することはできない。ということで「東京新聞の長谷川さん」は主語を巧みに使い分けて、あたかも集団が個人の自由を侵害しているような印象を与えているが、実際には新聞社内部の権力闘争に過ぎないのではないだろうか。

この件は「誰が悪いんだろう」と考えたのだが、東京新聞が悪いとしかいいようがない。下記のようなことが取り決められていないことで問題が起きているからだ。

  • 社員にどのような範囲で社外活動を認めるか。
  • 論説はどの範囲で個人の意見を伝えるか。あるいは個人が意見を言うのか、集団で論調を決めてから個人が請け負う形にするのか。
  • 最終的な経営判断と新聞論調は誰がどのように決めて兼ね合いをとるのか。
  • 論説委員というステータスはどのよう(定年とか規約違反とか)に獲得され、どのようになくなるのか。

責任と権利が曖昧なのでこうした問題が起きている。社の内部に闊達な議論がないと言論が萎縮してしまうという気持ちがあり、あまり明文化したくなかったという理由があるのではないかと思うのだが、やはり経営が危うくなり社員を処遇できなくなると、名前をつかって稼ぎたいという人が出てくる。現在の言論空間にはプロレス化欲求(一暴れするとお客が集まる)があるのでそれに巻き込まれたのかもしれない。

そして東京新聞が悪いというときには当然「東京新聞の長谷川さん」もその中に含まれることになる。

NHK大阪とオルタナティブファクト

べっぴんさんを見ている。大して面白いわけではないが、なんとなく時計代わりというかつなぎになっている。嘘もあるのだが、嘘ではなくファンタジーだと思えば気にならない。

これについて面白い感想を持っている人がいた。時代設定と学生活動家の扮装が合わないと言うのだ。単に設定ミスともいえるが、意味づけまで考えてみるとちょっと見逃せない点もある。

もともと日本の学生運動家はそれなりの意識を持って活動していたはずだが、時代が経つにしたがって「ファッション化」してゆく。専門的なことは分からないが、まだ切実さがあった時代を扱っているはずなのに、ファッション化しつつあった時代の学生運動家を扱っている点に違和感を感じているのではないかと拝察した。さらにひどいことに「冒険したいから一生懸命バイトする」などと言い出しており、大して反体制の意欲はないことになってしまっている。

ある意味これは普通の人たちが学生運動にもっている感想なのだと思うが(ヘルメットと角棒でなんかしてはるわ)やはり専門的に見ている人たちから見ると失礼なのかもしれない。

ただ、NHK大阪が<蹂躙>しているのはこれだけではない。ヴァン・ヂャケットの創業者について、闇市でふらふらしていた若者が十年経って戻ってきたらトレンドセッターになっていたみたいな話にしている。モデルになっている人物はもともと裕福な家の出で大学でもいろいろな遊びを経験した人だ。これが戦後アメリカの上流階級と接触しそのライフスタイルを日本に紹介した。その途中でアメリカ流のマーケティングが日本に持ち込まれることになった。つまりアパレル業界から見ると、この人物設定はかなり乱暴な改変なのだ。いまだに信者も多い人なので、NHKは誰がモデルになったか明かしていないはずである。

さらに今朝は使用人だった2名が「二人で冒険に出る」ことになっているが、これは使用人の死を扱わずに捌けさせるためだろうが、冷静に考えてみるとかなり乱暴だ。「最後まで面倒見ろよ」などとつっこんでしまった。

このようにかなり乱暴なドラマなのだが、NHK大阪が考証に手抜きをしているわけではないだろう。例えば「ごちそうさん」では食べ物に並々ならぬ関心があり念入りに時代考証もされていたはずだ。つまり専門的なことに対してはとても大きな関心があり、それ以外のことにはまったく関心がないということが伺える。

昭和の暮らしを描くということは、本来ならば専門家集団の考証が必要なはずなのだが、自分の守備範囲以外の点にはまるで興味がない。それだけではなく、自分の印象でいとも簡単に情報を操作してしまうのである。見ている人もアパレルとか活動かとか老人の行く末などには興味がないのでそれほど違和感を感じないのだろう。

ただし、学生運動に興味があった人もアパレルにはそれほど関心がないわけで「ほかの設定もめちゃくちゃですよね(笑)」みたいなことを指摘すると面倒になったのか「朝ドラには興味がありません」と返信してきた。まあ、専門分野には興味があるが、それ以外のことが分からないというのは特に珍しい現象でもないのだろう。

こうした視野の狭さは日本ではあまり非難されないし「専門的だ」として賞賛されたりするのだが、さまざまな弊害を生み出す素地にもなっている。例えばプログラマはプログラミングにしか興味がなく操作性の悪い仕様を運用側に押し付けたりする。営業もプログラミングに関心がなく「できますよ」などと気軽に言う。かつての日本の企業はこれを防ぐために正社員をローテーションしたりしていたのだが、正社員を削減した結果知識のサイロ化が急速に進むことになった。

専門性のわなについての事例には事欠かない。例えば大本営などはさらに悲惨で、現場で何が起きていても「よく分からないから」という理由で、仲間内の都合のよいストーリーを押し付けてしまうだけでなく、作戦が失敗すると現実を曲げ始めた。悪意を持って騙そうとしたわけではなく、当事者たちは「仕方がなかった」と思っているのではないだろうか。

NHKの朝ドラは「女の人が仕事をするのはとっても大変」ということを描きたいドラマだ。そこで受け手が興味を持つ点については念入りに考証するのだが、それ以外ことにはたいして時間をかけない。多分、日本型のオルトファクトというのは人を騙そうと言う悪意から生まれるわけではないのだろうが、結果として生じることがありえるのだろうし、多くの場合にはそれほど害もないものなのだろう。

ジャーナリズムの役割を放棄しつつある日本の新聞社

安倍首相がフィリピンのドゥテルテ大統領と会談し1兆円の「資金援助」を決めたそうだ。このニュースを見ていて、日本の新聞社はもうジャーナリズムの役割を放棄しつつあるのだなあと思った。

このニュースでは以下のようなことが伝えられている。例として日経新聞を読んだ。

  • 安倍首相がドゥテルテ大統領と会談。
  • 政府開発援助(ODA)や民間投資をあわせて今後5年間で1兆円規模を支援することを約束。
  • インフラ投資を効率よく進めるため、両国の関係省庁幹部からなる会議体も新設する。
  • この動きはフィリピンに接近しつつある中国を牽制するためのものだ。

さて、この記事に欠けている情報は何だろうか。産経新聞を読むとちょっとわかってくる。産経新聞はこれを「投資」と言っている。「投資を通じて支援する」ということで、政府援助が無償供与ではなく「借款(国と国の間の貸し借りを特別にこう呼ぶそうだ)」らしいことがわかる。一方、何かにつけ政府にたてついているように見える朝日新聞の記事はどうかと思って見てみると、こちらも書いてあることは大同小異だった。人道支援にあたる麻薬対策に触れている。

このことから「大人たち」は支援と称してひも付のお金を渡して、日本のインフラを輸出しようとしているということがわかる。それを期待しているからこそ「支援・投資」がごっちゃになっていてもさほど気にならないのだろう。一方、サヨクの人たちはこれがわからないので「一兆円あるなら国内の貧困家庭を支援しろ」などというわけである。

実際にはODAは無償援助と優勝支援を含むそうだ。この割合がどのようなものになるのかはよくわからない。各社の報道には何も書いていないからである。

だが、ODAには問題が多いと指摘する人は多い。大きなお金が動く割には監視がほとんどないからである。第一に現地の国民の監視だ。有償援助は自動的に援助国への負債になる。これを返すのは国民なのだが、税による支出ではないために現地政府が利権を独占してしまうことがある。つまり、多くの国民は「利益が得られないのに借金だけ負わされる」場合があるのだそうだ。

安倍首相が勝手に「お金をばら撒ける」のはこれが国会の監視を受けないからである。ODAは特別会計からの支出も多く国会の承認が必要ない場合が多いのだそうだ。商売がわからない役人が現地政府の言うがままに投資を決めるために、現地に必要のないインフラができたり、そのまま焦げ付いてしまうこともあるということになる。これを批判するためには常にODAの動きを観察しておかなければならない。それは面倒なので新聞社はその役割を放棄しているのだろう。

新聞社は野党が何か攻撃すればそれをニュースとして伝えはするのだが、自らの問題意識で検証することはない。それは日本人が納税者意識をあまり持っていないからだろう。政府の金は「他人の金」という意識が強いのだ。

援助してくれる国に最大のヨイショをするのは当たり前のことだ。だが、その約束を後生大事に守らなければならないということにはならない。日本政府は「慰安婦像を撤去するように努力する」という甘い約束を反故にされたばかりだ。一方で「北方領土交渉をして欲しかったら誠意を見せろや」というプーチン大統領に妥協してしまった。これくらい外交が下手な国を手玉に取ることなど簡単だろう。相手先が日本の国益に沿う動きをとっているかも監視する必要があるのだが、日本の新聞社がそんな面倒なことをするとは思えない。

一方で「官民合わせて」という点も曲者である。おそらく内訳が決まっていないのではないかとお思えるのだが、よくわからない。最近はオリンピックの予算で揉めている。都が負担できないものは国が出すと言っていたのだが、実際には他の県に請求書を回そうとした。口約束が横行する世界であり、民間企業が約束を履行するとは思えない。そもそも国は企業に投資を「命令」することはできない。

ODAは官邸が勝手に決めることができる予算なので利権の源泉になりやすい。かつてはアメリカが共産化を防ぐために日本に援助をしてきたという歴史がある。冷戦構造がなくなっても中国の脅威を煽る必要があるのは、企業と政党のお金儲けのためにそれが便利だからなのだろう。新聞社はわかっていてそれを追認しているのだ。