DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

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テレビ局があなたの視聴データを盗む?

テレビ局が取得している番組視聴のデータを共有するとしてニュースになっている。IPデータ単位で誰が何を見ているのかということがわかるようになるということで「視聴者行動の覗き見」になるのではとTwitterで少し話題になった。(共同通信社




この件について眺めているとなぜ日本がIT技術に乗り遅れたのかということがわかる。理解が曖昧なままでわかったふりをしているうちにどんどん時代に乗り遅れてしまっているのだ。多分共同通信社の人も発表したテレビ局の人も自分たちが何を言っているのか、また何がしたいのかがわかっていないと思う。だからどこがダメなのかも当然わからないのだ。

このニュースの最初の「一部の」というところがあいまいだったので調べてみた。試しにデータ放送のメニューを探してみた。テレビ朝日とフジテレビはすぐに「ログ送信の中止」というメニューが見つかった。わかりにくかったのは日本テレビだ。ログインというわかりにくい項目の所にログ送信の中止メニューが隠れている。どうやらこの3局は視聴データを集めているらしい。

一方、テレビ東京とTBSではログ送信中止のメニューが見つけられなかった。テレビ東京には項目そのものがなく、TBSはログを収集することがあり警察などには提出することもありうるがプライバシーには配慮しますというようなことが書かれていて、一瞬たじろいだ。

共同通信社の記事にはどの放送局がデータを集めているのかを書いていない。だから、ログ送信の中止というメニューがわかりにくいところに隠されている(あるいは存在しない)のかログをとっていないからメニューそのものがないのかがわからないのである。特にTBSは報道ではリベラルさを唄っている放送局なので、もし勝手にログを取っていて中止操作もできないのならボイコットしろなどと書きたくなってしまう。だが、実際に視聴のログをとっているのかがわからない。画面をよく読むと「データ放送のアクセスログ」と書いており、視聴データを取っているとは書かれていない。

よく考えてみると、一部のテレビ局の一部の端末から番組視聴データが取れたとしても、それが何かの役に立つとは思えない。統計を問題解決に生かそうと考えれば、データ収集設計からはじめなければならない。「ここにデータがあるから持ち寄って何か使えないか調べてみましょう」というようなことはできないのである。依頼された方も困るはずだ。

Twitterでよく安倍政権の支持率調査が行われているが、ネトウヨの統計では安倍首相が熱烈的に支持され、パヨクの統計では安倍首相はすぐにでも退陣しなければならない。これは統計に応じた人たちにバイアスがかかっているからで、実際の支持率がどうなっているのかはよくわからない。仮にフジテレビを見ていたIPアドレスが日本テレビに移ったとして、そのIPアドレスが同一人物かはわからない(テレビが2つあったら別のテレビかもしれない)し誕生日などのデータもあったりなかったりするはずである。

一方、Googleは個人単位の情報が欲しいので「セキュリティの高いメールアドレスを無料で配る」という利便性を供与する(当然費用もかかっている)ことで情報を買っている。これは彼らがインターネットはIPアドレス単位の情報しか補足できず、そのままでは行動解析には役に立たないということを知っているからである。テレビ局はこの「IPアドレス単位のデータは役に立たない」ということが理解できない。多分、IPアドレスとアカウントの違いもわからないかもしれない。

日本の「偉い人たち」がIT技術についてよくわかっていないということは驚くには当たらない。しかし、実際には統計についてもちゃんと理解していないことがわかる。にもかかわらずわかったように発表してわかったように書いて、モヤモヤ感だけが残るような記事ができてしまうのである。

こうしたことが起こるのは彼らが自分たちが作ったのではない既得権益によって守られているからだろう。データが取れるらしいしGoogleなんかはそれで大儲けしているわけだから「自分たちもリスクを取らないで儲けられるのでは?」などと思ってしまうのだろう。テレビ局は成功した村なのだが、成功しているが故に徐々に時代から取り残されつつあるのかもしれない。

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聞きたい歌だけを聞きたがる日本人

最近、コメントなしでリツイートしてもらうことが増えた。このとき、この人は意見に賛成なのだろうか反対なのだろうかと思うことがある。まあリツイートくらい好きにしてもらっていいとは思うのだがちょっと気になるのだ。

このブログではこのところ「日本は村社会」で公共という概念はないという話をしている。さらに、日本人が文脈によって日本人という枠を伸ばしたり縮めたりすることを観察した。損はできるだけ排除し利得はできるだけ取り込もうとするのではないかと考えているわけである。

日本語で書いていて主語を日本人にしているので、主に日本人が読むことを想定しているわけだが、読んだ人は一体これを読んでなぜ怒り出さないのだろうか。

これを素直に読むと「あなたも私もそうなのですよ」ということになる。つまり、私もあなたも村社会の住人であり、ご都合主義で日本という枠組みを利用していますよねと指摘している。こう言われていい気分になる人は少ないだろうから、非難するつもりでリツイートしているのかなとも思うわけだが、もしそうなら何か言ってくるはずだ。それがないということはもしかしたら、この人たちはもしかして自分たちは日本人の枠の外にいると考えているのかもしれないなどと思う。

その意味では何もコメントのないリツイートにはその人の旋律があるのだなとも感じる。つまり、何も言わないことで聞きたい歌を聞いているのだ。

ITコミュニケーションはジャーナリズムとは違っており相互のコミュニケーションを通じて新しい歌が歌える。しかしそのためには背景にそれを可能にする文化がなければならない。しかし、いわゆるジャーナリズムを自身に都合良く解釈する私たちにはそうした文化がまだ育っていないのかもしれない。だから結局、ITを使っても一方通行のコミュニケーションになる。

お天気のよい日曜日の朝にいわゆるジャーナリズム風のゴシップ素材をみていてこのことを強く実感した。みんな驚くほどいい加減なのであるが、既存のジャーナリズムの担い手たちも「視聴者や読者は聞きたい歌しか聞かない」ことを知っており、進んでその歌を歌っているのかもしれないと思う。

政府の忖度という言葉を嫌っていた朝日新聞社もカルロス・ゴーンの問題に関しては検察とあうんの呼吸を見せている。朝日新聞社は「忖度」という日本の文化を嫌っていたわけではなく、単に自分が気に入らない政権が嫌いだというくらいの態度で政権批判をしていたのだなと思う。あるいは検察庁も朝日新聞さえ抱き込んでしまえば誰からも批判されなくなるだろうと考えたのかもしれない。大抵話をまぜっかえしてややこしくするのは朝日新聞だからである。小沢一郎の例を見てもわかるように、最初に強い印象がついてしまえばそこで勝負がついてしまう。カルロス・ゴーンも日産を追い出された時点で当初の目的は達成されたと言って良い。

フジテレビに至っては朝の番組でカルロス・ゴーン容疑者はブラジル大統領になりたがっており不正蓄財はそのために行われたという「ジャーナリスト」の声を紹介していた。一応、検証するポーズを見せていたが、多分それは何か言われた時に「あの人が勝手に言ったことだから」と言いたいからなのだろう。安倍政権にはあれだけ遠慮して何もいわないのに、話が検証されていないことをほとんど気にしていないようだった。

この番組はパトリック・ハーランにワールドスタンダードについて語らせている。白人の言葉をありがたがるであろう中高年サラリーマンの劣等感を刺激し、さらに彼らが好きそうな企業の噂話を拡散するというものが「ジャーナリズム的」に演出されている番組なのだ。

その上で文筆家と称する変わった髪型の人が「もちろん検察は日産と協力したわけでもなく」「日産がクーデターを起こしたわけでもない」と断言していた。体制に寄りかかって生きる視聴者にとってはこういうことはあってはならないことであり、社会は常に正解を提示しているべきである。この事件は日本を搾取しようとした悪の外人を正義の検察が守ってくれ事件であるべきなのだ。

これも政府に言わされているというより(それはあるのかもしれないが)自分たちが聞きたいあるべき姿について文筆家に語らせているのだと思う。万博がやってくる大阪の未来は明るく、ゴーン容疑者は落ちたカリスマ経営者で、日本の政治はすべて適切に運用されており、それを白人が承認してくれるというおじさんたちのパラダイスがそこにある。だから今日もビールのように見える発泡酒が美味しく飲めるのだ。

ただ、リタイアしてしまったもっと歳の上の人たちは政治は堕落してしまっておりけしからんと考えているはずだ。退屈なので見なかったが、裏番組のTBSではリタイアしたおじさんたちが喜びそうなことを関口宏が語っていたのではないかと思う。こうすることによって俺たちが現役の時代はもっと良かったと思える。さらに9時からはNHKでこれから日産はグローバルスタンダードの経営をしてコーポレートガバナンスをしっかりするべきだという討論が行われたのではないだろうか。実際にそれをやる人は誰もいないだろうが、他人事だといろいろ言えてしまうのだ。

こうした態度は嘆かわしいといえば嘆かわしいのだが、これが日曜の朝の正しい過ごし方なのだなあとも思った。自分が聞きたい歌を聞くのが悪いことだと誰が言えるだろう。

ただ、これが楽しいのはこの人たちが自分たちの村に守られているからである。そもそも公共もジャーナリズムも存在しない日本でこの村から出てしまうと誰もあなたのことを助けてはくれない。終身雇用のやさしさから排除され、戻るべき地域コミュニティもない「さまよえる村人」に歌を歌ってくれる人は誰もいない。

みな、他人の問題については聞きたい歌を聞きたいだけであり、それほど深い関心を持っているわけではないのだと思う。同時にそれは誰もあなたの問題について「正しい洞察」を与えてくれる訳ではないということを意味している。だからと言って彼らを責め立てたとしても彼らが別の歌を歌いだすことはないだろう。

日曜の朝の「ジャーナリズム」には真実はないが、おじさんたちが真実やジャーナリズムを求めている訳ではないという真実は見えてくる。と同時に「このジャーナリズム風の何か」が注意書き・但し書きとかコンプライアンスとか炎上への遠慮とか忖度とかに囲まれているということも否応無しに見えてきてしまう。リアルに見えているそれは実は単なる映画セットの背景の絵のようなものだ。昔の特撮番組でいうとすべて空を飛んでいるはずの飛行機についているワイヤーのようなものなのが見えている。ただ、昔の少年たちはそれほどワイヤーを気にしないのである。

心ある人たちはこの違和感をしっかりと凝視すべきではないかと思う。そしてそれはもしかしたら、我々が幻想の村から一歩足を踏み出そうとしている価値ある1日を作るきっかけになるかもしれない。

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「拉致被害者を取り戻すためには軍事行動もやむなし」なのか

朝日新聞に少々過激な記事が出ていた。伊木隆司米子市長が北朝鮮への軍事行動を仄めかしたというのである。日本人は言いにくいことは人のせいにする傾向がある。「安倍首相がそう望むのであれば」というのは要するに自分が「拉致をするけしからん北朝鮮は軍隊を使って懲らしめてしまえ」と思っているということなのだろう。1973年生まれのまだ若い市長は普段からこうした言動で知られていたということなので、要するに米子というのはこういう人をよしとする土地柄なのだろうと思う。

北朝鮮による拉致問題の解決を訴えるシンポジウムが20日、鳥取県米子市であった。伊木隆司市長(45)は「安倍内閣が軍事行動をするというのであれば、全面的に支持したい」と述べ、北朝鮮への軍事行動を容認する考えを示した。

「とんでもない話だ」で終わって良いところなのだが、一応基本的なバックグラウンドを整理しておこう。今回はWikipediaで戦時国際法日本国憲法第9条の項目を読む。

まず日本の憲法は国の交戦権を放棄している。では交戦権は何かという問題がでてくる。実はこれが意外と曖昧なのだ。英語の原文ではBelligerent Rightsなどと表現される。もともとはラテン語で戦争を意味しており武力を行使することが全般的に含まれる。つまり戦争する権利そのものと言って良いので、言葉自体は何も説明してはいない。

Wikipediaに詳しい議論がまとまっている。もともとマッカーサーは自衛も侵略も全部禁止したかったようだが、のちに「自衛は良いのではないか」という議論になった。それでも共産党は「自衛ができないのは危険だ」という今とは全く異なった理由で憲法第9条に反対していたことから、交戦権に自衛のための武力行使が含まれるという明確な保証はなかったことになる。

1946年(昭和21年)の憲法改正審議で、日本共産党の野坂参三衆議院議員は自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、「自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする」と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。

ではなぜこのような曖昧な議論が生まれたのだろうか。二度の世界大戦に直面した結果、戦勝国だった連合国(のちに日本では国連と言い換えられた)の管理のもとですべての戦争を禁止しようという動きが生まれた。このため国連には法的には戦争という概念がないそうだ。

ただし現代では国際連合憲章により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、国際人道法(英: International humanitarian law, IHL)とも呼ばれる。

ウェストファリア体制では主権国家の権利として戦争が認められていた。ただしやみくもに戦争をされるとヨーロッパ全体が大混乱するので、ある程度戦争の決まりを作ろうということになった。これが破綻したのが第一次世界大戦で、第二次世界大戦ではついに核兵器という大量破壊兵器が使われることとなった。さらに、当時の植民地にも主権国家格を与えざるをえない状態になったので「このままでは大変なことになる」と考えて戦争そのものを禁止しようとしたのだろう。

日本はこの国際体制のもとで管理されるべきだと考えられてたのだから、交戦権一般が否定されたのは当時の国際標準化を目指した動きだったことがわかる。その後の議論は実は全て内向きの後付け議論であり、実際に何も変得られなかったからこそ成立している議論に過ぎない。

憲法を改正しても国連憲章を変えるか破棄しない限り人質奪還作戦は実行できない。ところが米子市長の発言からわかるように、日本人は「そうはいっても国際世論を味方につけさえすればなんとかなるのではないか」と考えている人が多い。市長は「戦争を支持するつもりはない」と釈明したようだが、発言自体は撤回せず議論が必要としている。これは、議論をすればなんとか軍事行動ができる余地があるのではないかと考えていることを意味するが、これは間違っている。

日本人は多神教的な村社会を形成していて「原理原則というのは結局みんながどう解釈するかによってどうとでもなる」と考えているかもしれないが、一神教が支配的な欧米が主導する国際世論は原理原則を気にする。だから村の発想で国際法規を議論してもあまり意味はないのだ。

実際の国際紛争を見ているとそのことがよくわかる。例えばイラクの戦争では「イラクが大量破壊兵器を持っていて何か良からぬことを考えている」という疑いがあったことが介入のきっかけになっている。実際には欧米が利権を守りたいという動機があったとしても「国際秩序へのチャレンジ」などというそれなりの理由付けは必要なのである。また現在のイエメン内戦はサウジアラビアなどがイエメンに介入しているが表向きは「暫定政府の支援」という名目になっている。クリミア半島も住民投票で現地の人たちがロシアの編入を望んだのにウクライナが邪魔をしたという表向きの言い分がある。「国際世論をまとめればなんとかなる」なら、こんな面倒な言い訳をしないで、さっさと踏み込めばいいわけだが、そうはならないのだ。

主権国家が単独で自国の利益のために軍隊を動かすことはできないので、拉致を解決するという理由では軍事行動は起こせない。たとえ、自衛隊が軍隊になり、日本が交戦権の放棄を撤回したとしてもそれは現在の国際法上は無理である。

米子市長は一連の発言を通じて「日本人が軍隊や軍事行動について全く理解していない」と言っている。こんな人たち(つまり日本人)に武器を持たせるのは危険だと思われかねない。主権国家は問題解決の軍事行動はできない。かろうじて国際社会の治安維持という名目で集団行動ができるだけである。

時の政府が、軍事行動や、軍事行動ができるよう憲法改正をするというなら、問題解決のために私は支持したい

ただ、Quoraで質問したところ「アメリカはしょっちゅう映画のようなことをやっている」と回答してきた人がいた。アメリカは力が強いから軍事行動ができると思い込んでいる人がいることになる。多分ハリウッド映画を見すぎているのだろう。ただ、こう思い込んでいる人は意外と多いのではないだろうか。

産経新聞までもがアメリカが軍事行動を仄めかしたからアメリカ人が3名戻ってきたなどと書いているのだが、実際にはアメリカは仄めかしただけで実際の行動には出なかった。オットー・ワームビアという青年が昏睡状態で帰国した事件があった(GQ)が、この時も軍事行動というオプションは提示されていなかった。Quoraの同じ質問で、イラン革命の時に人質奪還を企てて失敗したと教えてくれた人がいた。革命の混乱時の出来事であり、外交官を保護しなかったという特殊な事情があったそうだ。だが、これも軍事作戦としては失敗している。つまり、どこに誰がいるかわかっていたとしても、現地で動けるように訓練しておかないと、いざという時に作戦は実行できない。拉致被害者はそもそもどこにいるかさえわからないのである。

さらに、イギリス軍がシェアレオネで人質を奪還したという作戦を見つけたのだが(wikipedia)これはシェアレオネ政府からの奪還作戦ではなく、シェアレオネに駐留していたイギリス軍が主権格を持たないテロリストに対する作戦である。北朝鮮は確かに「テロリスト的」に見えているのかもしれないのだが、一応少なくとも形式上は多くの国に承認された主権国家なのでテロリスト扱いすることはできない。

この一連の議論や発言から日本人が軍隊や戦争についてあまり理解しないままで憲法改正の議論をしていることがわかる。さらに拉致被害についてもあまり真剣に捉えていないのだろうということがわかる。軍事攻撃の意味も具体的なイメージも、主権国家とテロリストの形式的な違いも理解していない。

この件について調べていて一番説得的だったのは、日本政府は朝鮮語ができる人を養成していないので朝鮮半島で人質を探すことはできないだろうという分析だった。つまり、拉致被害者を救うために朝鮮の政府を軍事攻撃で打倒したとしても、拉致被害者を見つけられないのだから救いようがないというのだ。このことからも、改憲を目指している人があまり拉致被害者の救出のことを真面目に取り合っていないということをうかがい知ることができる。彼らは単に勇ましいことが言いたいだけであり、それが取り上げられたとしても日本は依然何の反省もしていない危ない国なのだと思われて終わりになってしまうのである。

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お医者さんにかかるときにIDがないと診断拒否されるかもしれないという話

Yahoo!で読売新聞の面白い記事を見つけた。内容も面白かったのだがそのあとの無反応ぶりも面白かった。記事のタイトルは病院で「なりすまし防止」外国人に身分証要求へというものだ。これだけを読むと「あ、外国人の話なのか」と感じるだろう。だが冒頭のパラグラフを読むと全く別のことがわかる。記事を素直に読むと日本人にもIDが必要になるのである。

政府は外国人が日本の医療機関で受診する際、在留カードなど顔写真付き身分証の提示を求める方針を固めた。来年4月開始を目指す外国人労働者の受け入れ拡大で、健康保険証を悪用した「なりすまし受診」が懸念されるためだ。外国人差別につながらないよう、日本人にも運転免許証などの提示を求める方向だ。

つまり、IDカードがないと診療が受けられなくなる可能性があるということになる。実際には健康保険証を持っていても10割負担ということになるのだろう。IDとして想起されるのは運転免許証だがすべての人が持っているわけではない。そういう人はパスポートかマイナンバーカードが必要になるはずだ。このエリアは特にリベラル系の人たちが反対しそうなテーマなので、Twitterでも大反対が起こるだろうなと考えたのだが、実際には無反応だった。

先日来、フレームワークの話をしているのだが、日本人はフレームでものを考えるのが苦手なようである。このため毎日新聞社は「外国人のなりすましを防止する」というフレームを提示することで「ああ、日本人には関係がないな」という印象を与えようとしているのだろう。

以前、2020年からマイナンバーカードを保険証にするという話が出た時も大反発されていた。そもそもマイナンバーカードに反対をするというのも実は経緯から来ている。別に野党が反対する根本的な理由はない。労働組合や社会党系の人たちが1970年代から国民総背番号制度(コトバンク)と呼んでこれを嫌っていた反対してきたのが現在にお約束事として残っているだけの話なのである。これが長い間積みかさなり「政府はマイナンバーカードを使って国民の健康状態を盗み見しようとしている」というようなビッグブラザー言説が生まれた。

一方で、政府の世論把握能力も低下しているのではないかと思われる。最近の読売新聞社は政府のサウンディング(昔は観測気球などと言われた)に使われることが多い。官邸主導が増えて自民党が持っていた「世論を探る」機能が弱体化しているのではないかとも思う。顧客である有権者を管理しているのは各選挙事務所だからである。反発が出れば撤回もあったのだろうが、無反応だったので記事通り来年度には国会審議なしで「運用」が始まりそうだ。

いずれにせよ、フレームに乗れば大騒ぎがおき、乗らなければ大切であろうとなかろうと無視される。そこで「検討を始めた」というニュースが次から次へと出てきて、そういえばあのニュースどうなったんだろうというようなことが増えてゆく。

政府としては2020年からマイナンバーカードに保険証の機能を持たせようとしている。政府はマイナンバーカードに全てを集約したいのだがTwitterの反応は「なぜ保険証に顔写真をつけないのか」と反応していた。政治家が説明せずに新聞辞令だけで物事を進めようとするので、話が理解されないままで複雑な方向に流れてしまうのである。保険証に顔写真を入れると保険を受け取るために顔写真を撮影しなければならなくなるので市町村役場は大混乱するだろうし、保険証は厚生労働省版のマイナンバーカードになってしまう。

これまで膨大な社会問題をすべてたった一つの保守・リベラルという対立軸で「処理」してきた日本人は問題の目利きができなくなりつつあるのだなと思った。そこで話の持って行き方でその後の問題の良し悪しが大きく変わってしまううえにどんどん部分最適化が進む。

試しにこの問題をQuoraで質問してみたところ「あなたがどこでそんなデタラメを仕入れてきたのか知らないが」というようなニュアンスの回答が戻ってきた。日本人は変化をとても嫌がるので、表から「来年から日本人がお医者さんにかかるときにはIDを求める」とやってしまうと大反発が起こる可能性があるということがわかる。ヘッドラインの書き方は重要でフレームワークさえ変えてしまえばいくらでも反応を操作できるということになる。

実はフェイクニュースよりこちらの方が怖い。フェイクニュースは事実に当てはめれば違っているということが立証できるのであとから反論が可能だが、初動である空気を作ればなし崩し的にものごとを動かすことができるのである。一方で反対している人たちも実はよく考えて動いているわけではなく既存の対立行動に合わせて脊髄反射的に反応しているだけなのである。

よく野党支持の人達は説明責任を果たせなどというのだが、よく話を聞かずに騒ぐ人も多い。結局この国民がいてこの政府なのだなという気になる。そう思ってTwitterのタイムラインを見ていたら「消費税20%」でちょっとした騒ぎが起きていた。こちらも3%か5%かくらいから揉めており目的ではなく税率が一人歩きした議論が定着していることがわかる。

だが、この問題を1日おいてみて、そもそもお医者さんが明らかな日本人に「IDを出せ」ということはないんだろうなと思った。通達が出ても無視すればいいだけの話だからだ。結局は外国人対応であり「差別なのでは?」という野党の反発を事前に封じたかっただけなのだろう。が、今度は日本人なのに外国風の苗字を持っているとか(結婚するとこういうことがあるそうだ)白人系や黒人系の両親を持つ日本人が差別されることになるんだろうなと思った。彼らは明らかな日本人であるにもかかわらず在留カードの提示を求められたりすることがあるそうである。

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部分最適的な議論とニート

これまで、日本では社会主義が混合した自由主義が様々な不具合を生じさせているという議論をしてきた。当初想定していた通り閲覧時間が減っている。この理由を考えた。結論からいうとつまらないからだろう。ではなぜつまらないのかを考えた。つまり、人々のニーズに合致していないからだ。時々誰かを叩いているように見えるものを書かないと、ページビューが落ちたり購読時間が減ったりする。

最近Quoraという質問サイトに投稿している。主に答えを書くことが多いのだが、Quoraではむしろ質問を募集しているようだ。質問を作るとページが生まれる。するとそこに人が集まる。するとページビューが増える。だからQuoraは質問を求めているということになる。

だが、そこに有効な答えがつくことはほとんどない。答えにはインセンティブがついていないからである。このようにQuoraはプレゼンスを求めて答えのない質問を生産するシステムを作っている。だが、Quoraはそれでも構わない。そういうシステムなのだ。

そもそも答えが集まらない上に日本人は答えを書きたがらない。試しにアパレルと美容で専門家に回答リクエストを出してみたのだが反応がない。日本のコンサルタントと呼ばれる人たちは知識を持っているが問題解決のための智恵はないのだろう。例えば「アパレルは売れないがどうすればいいか」という質問に答えはつかない。この問題を打開した人は日本にはいないからである。彼らは「誰にも知られていない秘密のレシピがある」といって情報を公開しないことで生き延びている。しかしそれは過去の成功の寄せ集めであり根本的な問題解決にはならない。彼らもそれがわかっているから答えが公開できないのであろう。

これとは別に時事問題でいくつか質問をしてみた。防弾少年団の問題と北方領土の問題について書いた。これについてはいくつか回答をもらったが、だいたい世の中にある論と同じである。ある種の正解ができあがるとそれを述べる人が多いということになる。ここから、人々は正解を述べたがるということがわかる。この「正解を述べたがる」ということを頭に入れておくとどのような答えが集まるかがなんとなく予想できるようになる。正解に合致するように書いてやればいいのだ。

ではなぜ正解を述べたがるのだろうか。一つ目の単純な答えは学校教育が悪いからというものである。テストで正解を覚えると褒めてもらえて最後には東大に行けるというシステムでは、どうしても正解を知っている人が偉いということになる。学校教育は過去の正解を集めると褒めてもらえるスタンプラリーなのだ。

だが、理由はそれだけでもなさそうである。

アパレルの専門家はたくさんの正解を知っていて雑誌に広告を出したりフェアを開催したりして毎月の売り上げを維持しなければならない。すると情報が溢れプロダクトラインは整理されないまま増えてゆく。だがこれを整理しても専門家の暮らしはよくならない。Quoraも答えのつかないシステムを量産しなければ売り上げにならない。さらに政治家もシステムを整理して物事を単純化しようとは言えない。なぜならば彼らも売り上げを立てる必要があるからだ。

政治家は自分たちで支持者を集めてこなければならなくなった。このため地元に利権を誘致し、支持者が喜ぶような乱暴な意見を述べる人が多くなった。その度にTwitterは荒れ、野党の反発から国会審議が止まる。だが、それを整理しようという人はいない。状況を整理しても票には結びつかないからである。彼らもまた暮らしを成り立たせるためには情報量を増やして状況を混乱させることに手を化している。前回、このブログで政治について説明したところ「国会議員は選挙のことを考えず全体について考えるべきだ」と言っている人が圧倒的に多かった。だが、全体のことを考えている人に投票しましたかと質問するとあるいは別の答えが返ってきていたはずだ。

いわば人々が限定的な自由主義のもとで働けば働くほど情報が増えシステムが混乱し、自己保身のために複雑な社会主義的システムが作られ、さらに状況が混乱してという無限のループが生まれることになる。重要なのはこれが日本で「働く」ということの意味なのであるということだ。かつて日本の製造業が空気を汚さないと生産ができなかったのと同じことである。

これを整理するためにはこの枠の外に出る必要があり、それは働かないということになってしまうということになる。

先日「ブッダ最後の言葉」の再放送を見た。花園大学の佐々木閑教授が大般涅槃経を解説するというものである。宗教色を取り除くために僧侶の組織論として捉え直して紹介していた。僧侶の集合体は「涅槃に入る」ための共同サークルだが、組織を維持するための戒と目的を達するための律があるそうである。しかしそれだけでは僧侶は食べて行けない。そこで経済を支えるシステムが必要だった。それが在家信者だ。

この番組で佐々木教授は、ニートは僧侶のようなものであるといっていた。生きているということは仏教では苦痛なのでそこから解脱を目指す人がいないと人々は救われない。だが生から解脱してゆくと食べて行けなくなる。それを在家信者が支えるというのが仏教の基本的な考え方のようだ。代わりに僧侶は自分たちのコミュニティにこもるのではなく在家信者に俗世的な生きる知恵を与えるという仕組みになっている。僧侶は働かないという意味ではニートであり、例えば生産性がないという意味では基礎研究の科学者のようだとも考えられる。

基礎研究はノーベル賞などの社会法相システムがある。一方、ニートはそれぞれが孤立しており、生産セクターにフィードバックするシステムがない。だからニートはだめだと言われてしまうのである。

俗世のシステムをありのままに観察してゆくと最終的に宗教に答えが見つかるというのはとても皮肉なのだが、「生活の苦労がない科学者や政治的指導者を持つこと」が豊さにつながるというのは頷けるところが多い。例えば総理大臣は権力闘争で生き残りを図る必要があるから尊敬されず、世の中を混乱させてばかりいる。一方で天皇が戦争や災害に心を配ることができるのは、この生活を国が支えており、地位を脅かす人がいないからである。かつて政治家が尊敬されていたのは彼らがお金を集めなくても周りで支えてくれる人たちがいたからだろう。今でもそのような家は幾つか残っており「選挙に強い政治家」と呼ばれる彼らは比較的未来のことを考えた発言ができる。

しかしながら、俗世の人たちはそうも言ってはいられない。すると答えつかない質問が溢れる。しかし世の中の人たちは質問をするという面倒なことはしない。オンラインコミュニティで成功するには二つの正解から選ぶことになる。

一つはこれまであった正解を過去の成果とともに誇大に宣伝するというものである。例えばバナナを食べたら痩せたとか、聞き流していたら英語が話せるようになったというものだ。こうした情報は巷に溢れている。歴史を単純化したうえで都合の良いwikipedia記事だけをコピペしたものが保守の界隈では「立派な歴史書」としてもてはやされているそうだ。

もう一つは正解からはみ出した人たちを「わがままだ」と言って叩くというものである。豊洲が正解になったのだから、そこでやって行けない伝統的な目利きはわがままだと言って潰してしまえばいい。すると、政治家も都の職員も過去の事業の失敗の責任を取らなくて済む。また保育園に預けて働きたいというお母さんはわがままなので無視すればいい。日本は日本民族から成り立っているという正解のためには、アイヌ民族や在日朝鮮人はいないほうがいい。さらに結婚はいいものであるべきだし社会保障の単位であるべきなのだから、同性愛は病気ということにしてしまえばよいのである。

それでも不満はたまるから、時々明らかに正解を外れた人(ちょっとした法律違反や不倫などの道徳違反)の人たちを見つけてきて叩くことになる。

こうしてコミュニティは荒れてゆく。だが、多くの人たちはそれでも構わないのだ。こうして誰かが状況を整理するまでは部分最適化が進み人々はかつての正解にしがみつくためにますます過激なコンテンツを求めることになる。

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防弾少年団の問題でテレビ朝日は何に失敗したのか

防弾少年団がテレビ朝日の番組に出られなくなって日本の保守は大喜びだった。だが、海外ではどんな反応が見られるだろうか。このニュースをアメリカのABCが伝えている。ABCは朝の人気番組で防弾少年団を紹介しており「自分たちとあまり変わらない気のいいお兄ちゃん達」という印象がある。それを頭に入れてこの記事を読んでいただきたい。なお記事は荒訳なので、間違いを含んでいる可能性がある。

日本のテレビ局がBTS(防弾少年団)のテレビ出演をメンバーの一人が着ていたTシャツを理由にキャンセルした。テレビ朝日は金曜日の生放送の出演をオファーしていたが、メンバーの一人であるジミンに対するクレームを受けてこれを取り消した。

視聴者はジミンが2017年3月にロスアンゼルスでジミンが着ていたTシャツにあった「原子爆弾の雲」と「第二次世界大戦からの解放」という内容にクレームをつけた。Tシャツには「コリア」と「愛国」と書かれていた。テレビ朝日はBTS所属事務所とこの問題について話し合ったと説明している。事務所はのちにオフィシャルファンページでショーには出演しないと告知した。

ABCニュースはBTSのマネジメントチームにコメントを求めたが、チームからの即時回答は得られなかった。

韓国のローカルニュースは日本の反韓感情の証拠の可能性があると伝えている。聯合ニュースのTVレポーターは「韓国人歌手が日本で突然キャンセルされたのは初めてではない」と説明した。

BTSは来週に東京ドームを皮切りに日本の4か所でのコンサートを予定している。この韓国のボーイバンドはアメリカのビルボード200チャートで2回一位を取っている。

表面的には事実だけを伝えており、ここからアメリカの人たちがどんな印象を受けるのかはわからないが、一つ見逃せないことが書かれている。韓国側の視点で書かれているのである。

アメリカの人たちは日本人のように原爆を絶対悪とは思っていない可能性が高い(原爆投下の知識すらない可能性もある)からこれが「原爆」で起きた反応なのか「韓国独立」で起きた反応なのかがわからない。さらに、リーダーのRMは英語が堪能であり、最近グッドモーニングアメリカ(GMT)というアメリカの有名な朝の番組に出演して人気を得ている。彼は普通のアメリカ人と同じような英語を話す親しみの持てるアーティストである。

そうした背景を知った上でこの記事を読むと「なんだかよくわからない問題のために突然出演をキャンセルされたかわいそうなバンド」という印象がつく。するとアメリカ人は韓国側に肩入れしてしまうのだ。韓国人の歌手が出演をキャンセルされたのは初めてではないという韓国側からの情報にも「差別感情」が匂わされている。

日本でTwitterの反応をみると「テレビ朝日が番組出演をキャンセルしたのは大勝利だ」というようなことになっているのだが、実際にはそう思われていない可能性が高い。

今回、テレビ朝日はなぜ防弾少年団の出演をキャンセルしたのかを説明しなかった。多分、関わり合いになるのを避けたのだろうし、原爆の写真が問題であることは日本人には説明しなくてもわかる。さらに他のマスコミもこれを話題にすることを避けたので誰も「日本人が原爆についてどう思っているか」を説明しなかった。だからこれが翻訳されてアメリカで紹介されることもない。一方で、韓国は憶測も交えていろいろな情報発信をするので、結果的にこれだけが伝わるのである。

テレビ朝日は外国の視線も意識しながら「両国で違う見方があることは承知しているが政治問題に発展しかねない議論を持ち込むべきではない」とか「アーティストの表現の自由は保証されるべきかもしれないが、日本の国民感情から見て原爆を許容したとみなされかねない出演者を許容することはできない」などのステートメントを出し、原爆は日本では特別な問題であるということを伝えるべきであった。しかし、もともと内向きで国内の炎上だけを気にした日本のメディアが数日でこうした判断を下せたとも思えない。

国内市場が狭いとか外貨が必要だとかいう理由があったにせよ、積極的にアメリカに進出し言葉も堪能な人が多い韓国と比べると、日本人は内向きでアメリカに進出した日本人のアイドルはそれほど多くない。通訳を交えてあらかじめ決められた「アーティストトーク」ができたとしてもRMのレベルでは英語は話せないだろう。通訳越しの会話よりも直接話せたほうが親近感が増すというのは当然だ。

日本が困った時に国際世論が、顔の見える韓国と顔の見えない日本のどちらを応援するのかということになる。答えは明確なのではないか。保守と呼ばれる人たちは今回騒ぎを起こして日本を守ったと思っているのだろうが、テレビ局を萎縮させることで結果的に日本の声を海外に届けるのを妨げている。なんとも皮肉なことだ。

日本の議論はいつも内向きである上に、そもそも日本人は外国人を人としては見ていない。高齢化が心配だから働き手は確保したい。しかし、賃金も払いたくないし、社会保障からも締め出したいというような議論が平気で行われている。またすでに海外から「研修」という名目で開発途上国から来た人を騙して使っている。実習のはずなのに怪我をしたら使い物になれないから帰れと言われたり残業代の時給が300円という訴えも出ている。こうした実態が当局に見つかると研修先を用意するのでもなく途中で打ち切り国に返してしまう(朝日新聞)し、彼らがあまりの辛さに逃げ出しても「脱走した犯罪者だから」ということで犯罪者扱いして国外に退去させている。さらには難民として入ってきた人を何年も施設に留め置き(東京新聞)自殺者も出している。人としてみていない外国から信頼してもらえないのは当たり前である。

日本人は「言わなくてもわかるだろう」と考える人が多いのかもしれないが、アメリカ人は説明しないことはわかってくれない。内向きで外国語も話せないうえに、そもそも説明しようという気持ちにもならないから、欧米諸国にもわかってもらえないだろう。

自分たちが下に見ている外国人を使い倒し、逆に上に見ている人たちには萎縮して自分のことをうまく説明できない。100歩譲って慰安婦や徴用工の問題に日本の言い分があったとしても、日本語だけで内輪の議論をしているだけでは何も伝わらないだろう。

実はテレビ朝日の対応もその延長になっている。外国の視線を意識しない時点で、テレビ朝日は議論に負けていたのである。

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日本には村があっても公共がない

Twitterでメンションされた。「きっとお前は知らないだろうから広めてくれ」というようなことだったのではないかと思う。アメリカと岸の間で核兵器持ち込みの密約があったというのだ。一応読んでみて確かにこういうことがあったのかもしれないとは思った。でも密約なので日本側が「聞いていない」とか「もうやりたくない」といえばすむだけの話だろう。トランプ大統領はもっとおおっぴらにちゃぶ台返しをしているのだから、やってできないことはない。要は日本側にその意思がないのである。

だが、時々こういう「誰にも知られていないがひどい話」を訴える人をTwitterでみかける。何かの問題に火をつけたいと思っている人は多いのではないだろうか。最近では築地・豊洲の問題で「マスコミが伝えてくれない」というようなTweetが多かった。難民申請者の人権無視の問題ももう長い間「マスコミの関心が向かない」というようなツイートがあり、今回の入管法改正の問題(このブログでは奴隷輸入法案として少し煽った)はこの話にスポットライトを当てるきっかけになるはずだっったのだが、実際にはそうはならなかった。

それでも訴えたいことがある人のTweetに目を通してRetweetしたりはしている。しかし例えば築地豊洲の問題を見ているとそれに反応するのは「一部の界隈の人だけ」になってしまっている。どうやらある種のコミュニティができつつあるのではないかと思う。そして、これが誰か特定の人の問題になってしまうと、他の人たちは「彼らがなんとかしてくれるだろう」と考えて興味を持たなくなってしまうのである。人権の問題も「あの界隈の人たちが騒いでくれる」というような見込みがある。

本当に目を向けて欲しい問題について、広がりを持った人々の興味や関心を惹きつけるにはどうしたらいいのかということを考えた。解決策は思い浮かばなかったのだが、やはり公共という問題に戻ってきてしまった。日本人がこの問題を解決しない限り、自らの手で解決策を導き出すのは難しいのかもしれないと思う。

外から政治・経済ネタを書いていて思うのだが、政治・経済エリアの関心時は大きく二つに大きく分かれている。

今、参議院予算委員会を聞きながらこの記事を書いているのだが、自民党の関心事は「テレビ中継のある場所でどれだけ予算確保にお墨付きをもらえるのか」というものだ。日本人は公共を信じないので「自分が関係している村がどれくらい利権をもらえるか」だけが政治への関心事である。「イノベーティブな新しい技術があるのだが、それを実現するためには国の援助が必要」というような議論になっている。イノベーティブな技術ならすでに市場を通じて買い手がついているはずで、国に援助を求めるというのは、あまり見込みがないということである。そこで時間が余ると整備新幹線と高速道路が欲しいという。おらが村にも水を引いてくださいということだ。だが、財政再建の話はでてこないし、消費税でさらに国民に負担をさせるのだからどう切り詰めて行こうかという話にもならない。つまり、借金でもなんでもして足りなければ消費税をとってもっとばら撒けと言っている。今の国会議論はアル中になった人がもっとお酒をくださいというのに似ているのである。

一度虚心坦懐に国会議論を聞いてみればいいと思う。村が大変なので少ない水を自分の田畑に引き込みたい気持ちはわかる。しかし、そこに雨を降らせるのは一体誰なのだろうか。雨は自然と降ってくる。降らないなら借金をして降らせばいいし、人が足りないなら外国から連れて来ればいいというのが今の日本の政治議論だ。では全体の問題は一体誰が考えるのだろうか。天から救済策が降ってくると思っているようにしか見えない。

一方で村ではないところで感心を呼んでいるトピックがある。最近、このウェブサイトへのアクセスが増えているのは「自己責任」と「BTSの原爆Tシャツ」である。自己責任の記事の内容はちょっと忘れてしまったのだが、イラク人質事件を非難するために「自己責任」という用語が発明されたという説をご紹介したのではないかと思う。最近、小池百合子が使い始めたという週刊文春の記事が話題になっているので、また検索されているのだろう。BTS(防弾少年団)の原爆Tシャツ問題は国連で演説をして話題になっている防弾少年団のメンバーであるジミンが原爆を正当化するTシャツを着ていたという問題である。

この自己責任論とBTSの問題には共通するのは誰かに引き立てられている人を引き摺り下ろしたいという欲求だ。非難するためのお話を自前で構築するのも面倒なので筋道の立ったお話を求める人が多いのだろう。

政治課題はこのように二つの使われ方をしている。一方で村への水の引き込みがある。しかし、多くの人はもう村には属していない。その不安や苛立ちを誰かを引き摺り下ろすことでなんとかおさめようとしている人が多いのだろう。日常的に渋谷のハロウィーンが行われていると考えてよいのではないだろうか。

自己責任論問題で叩かれるのは組織の後ろ盾のない安田さんというジャーナリストである。フリーのジャーナリストというとなんとなく怪しい感じするし、組織に縛られずやりたいことだけやっている人には失敗して欲しいという気持ちがあるのだろう。一方、BTSもアメリカのビルボードで一位を取り国連で演説をしたBTSが羨ましいという気持ちがあるのではないだろうか。

いろいろ考えたのだが、日本人が政治課題に関心が持てず、かといって今の暮らしにも満足できないのは、自分たちで理想とする社会を描けないからだと思った。そもそも社会を自前で構築するという概念がなければそれは作れない。そして最初から立派な社会は築けないだろう。最初の一歩はとても小さなものになるはずである。

一般には公共(パブリック)というのだが、日本人は漢字の意味合いにとらわれている。公が「おおやけ」と読まれると、それは人々ではなく支配する側の社会や国家を意味する。みやけが天皇の家を意味するところから「やけ」にはそういう意味合いがあるのだろう。一方、英語のパブリックは人々のという意味のラテン語からきており人々が作り出すものだ。英語で公衆酒場をパブというところからそれがわかる。

同じように競争も意味が脱落した翻訳語になっている。英語のcompeteは共に+目的というラテン語の複合語が由来だそうだ。そこから人々が協力したり競い合ったりするという意味が生まれた。しかし元からあった日本語は競い+争うなので、協力という意味合いがない。このためTwitterには「日本人が競争すると足の引っ張り合いになる」と指摘する人がいた。過去にスパイト理論について調べたことがあるのだが、この指摘はある程度当たっていると思う。

そもそも日本人はまだ「自分たちの居心地の良い社会を共に協力したり競い合ったりして作って行こう」という気持ちが持てない。だからどんなに訪ね歩いても日本人から公共についての説明は得られないのである。

近視眼的に考えると、自分に関係のない問題に日本人を惹きつけるには、叩ける犬を探してきてそれを叩けば良いと思うのだが問題は全く解決しないだろう。その状態では、誰かが問題を解決しようと動くとそこに「ゴミを投げ入れるように」問題を捨てに来る人たちが出てくるようになるからだ。

一般の善意で作られた子供食堂に政治家が群がり、捨てられたペットを救済している人のところに新しいペットが捨てられる。これは村と村の境目にある誰のものでもない土地にゴミが捨てられるのと同じ感覚である。利権誘導以外の政治課題もネガティブな感情を匿名で捨てるゴミ捨て場になっている。

まともに問題を解決しようと思えば社会は与えられるものではなく、自ら作るものだという認識を持たなければならない。だが「社会という立派なものは誰かが与えてくれるはず」とか「世の中を変えてくれる興味関心というものはマスコミが作り出してくれるまで待つしかない」と考えているばかりでは、それはいつまでたっても実現しそうにない。限界は多分自分たちの気持ちの中似あるのではないだろうか。

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自己責任社会 – 安田純平さんはなぜ責められているのか

人質になっていた安田順平さんがシリアから戻ってきた。この話題がかなり盛り上がっているのだが違和感も大きい。日本人はシリアに興味がないにもかかわらず、なぜ安田さんの帰還がそれほど問題になるのだろうか。一方、これに呼応して「自己責任」という言葉による流入が増えた。物言わぬ人々は安田さんの自己責任について語りたいらしい。

はじめに「自己責任」について考えておこう。英語の責任(レスポンシビリティ)とは呼応するという意味なので「担当者」というニュアンスに近い。説明責任もアカウンタビリティで記録しておくくらいの意味しかない。ところがどちらにも「責める」という漢字が使われているために、日本では「誰々のせいだ」の高級な用語としてこれらを利用することがある。つまり、自己責任とは「お前のせいだ」と罵倒するための高級な言い換えに過ぎない。

安田さんの自己責任論を唱える人たちの理屈は、人質にお金を払ってしまうとそれが悪いことに使われることになるだろうというものだ。だがこれが非難のための非難である。シリアがどうなろうが中東がどうなろうが日本人には関心がないのだから、お金がどう使われるかに彼らが関心があるはずがない。さらに、そもそも日本政府には当事者能力がなく国民を助ける意欲もないので、お金を支払わなかったらしい。

それでも人々は「自己責任」を言い立てるのは、誰かを責めたくて仕方がないからなのだろう。一部の人たちは熱心に「日本すごい・韓国は駄目だ」とか「障害者には生産性がないからすっこんでいろ」いう主張が書かれた本を読んでいるようだが、別の人たちは週替わりで非難する人が登場する雑誌を読み、不倫やパワハラを暑かったワイドショーを熱心に眺めている。日本でもっとも商品価値の高いコンテンツは誰かを指差して社会全体で非難するというものなのかもしれない。大衆の側に立って安全に石を投げたい人が多いのだろう。

安田さんが責められる表面上の理由は、彼に左派リベラルの匂いがするからだろう。過去に反政府的な言動があったようだし、今回も「日本政府に助けてもらったとしたらそれは本意ではない」というようなことを言っている。名前や折り鶴などから在日なのではないかという憶測(本当なのかもしれないが別にどうでもいいことだ)も出ている。反原発、反戦、在日外国人というのは歴史的な経緯からセットとして語られており、そこに当てはまったので自動的に叩いて良いと考えられている。これもある種の正解(テンプレート)で、そこにもあまり意味はなさそうである。

NHK出身の木村太郎がかつての体験を語っていた。日本でオイルショックが起きた時、人々は「なぜマスコミはこれを伝えなかったのか」と非難したそうである。そこで木村は志願して中東に行った。そこで木村は中東のメカニズムを肌で感じたという。だから、ジャーナリズムはリスクを取ってでも危険地域に出かけるべきだという。

しかし、NHKが木村を中東に送ったとすれば、やはり国内経済と中東情勢には関連があるという正解を学んだからだろう。つまり、集団や社会は個人の感覚とは違ったメカニズムで動いている。

現代でもこの正解の感覚は根強く残っている。南スーダンが語られるのは自衛隊との文脈においてだけであり、日本人は南スーダンの紛争がその後どうなったかを知らないはずだ。つまり、国内で秩序を決めている正解が揺らいだ時にだけ日本のマスコミは反応する。日本人が反応するのは、自分の振る舞いが変わる可能性のある国内政治の序列と経済だけだ。

村の中の決まりにしか興味がない日本人には欧米流のジャーナリズムはよく理解できないだろう。村の外で起きている事は自分たちには関係がないし、とやかく言ってみても仕方がないことだ。他人の世話を焼いている暇があったら自分のことをやれというのが日本人である。

一方、欧米では人道はキリスト教的な価値観に基づいた大切な価値観だ。天賦人権(Natrual Human Rights)という名前はついているのだが、天賦を自動的に守られる正解だと考えている欧米人はそれほど多くないはずである。

人道は、常に監視がなければ失われてしまうかもしれない。だから何が起こっているのかを監視し、問題があれば介入する。人々が環境汚染企業の不買運動に参加するのはこうした介入行動の一種である。

西洋世界から見た国際社会は巨大な公共空間になっていている。彼らは西洋村に住んでいるとは考えない。国際社会の価値観を自分たちに好ましいものにしておくためには判断材料が必要だ。これを集めてくるのが欧米のジャーナリストの役割の一つになっている。その情報には需要があり、需要があるとスポンサーもつく。つまり、社会に支えられた欧米のジャーナリストは全てを自分で担当する(自己責任)必要はない。

しかし日本人にはこれが理解できない。日本が人道主義を取るのはそれが世界的に受けるという事を知っているからに過ぎない。だから日本人は積極的に人道主義を守らなければならないとは考えない。政府も円借款などで権益を確保する「援助」には熱心だが、人道については国際社会から非難されない程度に「お気持ち」を示すだけだ。日本村が他の村から非難されないように最低限のお付き合いをして、できるだけ利権を村に引き込もうと考えるのが日本人である。

だから、日本は難民の受け入れなどには全く関与していない。日本にやってきた難民申請者は非人道的な扱いを受けるが国民からは非難されない。また人道や民主主義的プロセスを監視するジャーナリストを経済的に支えようなどとも思わない。

日本政府は国民の保護には興味も意欲も持っていないし、その能力もない。彼らが国民保護や少数民族の人道確保という概念を持ち出すのは自衛隊という軍事組織をおもちゃにしたい時と、国際会議で拍手をしてもらいたい時だけだ。そもそも国際紛争に自分たちが関わって行く事態も想定していない。そこにわざわざ飛び込んでいった安田さんが目障りなのはよくわかる。

だが、日本政府が国民保護にも人権にも興味がないということを知らない人は産経新聞の読者くらいだろう。だから、わざわざ「政府は国民を保護すべきだ」などと大人気なく言い立てる人はそれほど多くない。安田さんの場合は家族も政府に助けてくれとは言わなかったはずだ。誰も責めていないのだから、それが議論の対象になることはないはずだ。

でも、それでも安田さんは責められた。第一の理由は安田さんがフリーのジャーナリストであり、自分の意思で行動していたからだろう。組織の論理に隠れて自分では何もしない日本人にとってこれ自体が大変危険な思想である。さらに、安田さんは今までのジャーナリスト像と異なっている。これがよくわからないがゆえに気に入らないという人もいたのではないか。

安田さんは組織に守られた日本人が考えるところの「正規のジャーナリスト」ではないし、扱っている問題も「普通のジャーナリストが関心を持つべき」メインストリームのアメリカやヨーロッパではない。さらに、自分は安全なところにいて貧困に苦しむアフリカの惨状を伝えるというかつてあった正解の雛形にも合致しない。

型に依存する日本人はメインストリームの情報を語ることで自分を「賢そうに」見せられるし、アフリカの惨状をみて「憐れみ深い自分」を演出できるという正解を知っている。つまり正解があるジャーナリズムには恩恵があるのである。だが、どう解決していいかわからない問題を突きつけられると自分が無力だということが露見してしまう。これはとても不快なことなのである。

社会派のジャーナリストは型に依存する日本人には危険な存在である。解決できない問題を常に突きつけてくるからだ。だからこうした人たちには「左派リベラル」のレッテルを貼って押入れにしまいこんでおきたい。普通のジャーナリストには反日のレッテルを貼り、失敗した人には自己責任というラベルを押し付けて非難する。これが正解に依存する人たちの「正しいジャーナリスト処理方法」である。

ただ、この正解は徐々に崩れつつある。

アメリカは人権警察である事に疲れ果てている。その結果生まれたのが価値観ではなく「損得」で考えるトランプ政権だ。だから今の日米情勢はかつてあった正解では語れない。ヨーロッパも域内の統合が危いのであまり他国の事にかまってはいられない。そして非人権国家である中国が経済的に伸びてきている。こうした状況をイアンブレマーはG0社会と呼んでいる。いわば正解がない社会である。

朝鮮半島のように正解がころころ変わる状況に慣れている地域もあれば、それに耐えられない地域もある。日本はその代表格なのだろう。これまでは「欧米と価値観を一つにする」とか「アフリカの貧困は根絶しなければならない」などといっていれば拍手してもらえるという事を丸暗記していればよかったのだが、それは難しくなるだろう。

日本人は正解がないという状態には耐えられないので、いろいろな<議論>が起こるのだが、結局は「安田さんが普通でない事をしなかったら問題は起こらないのだ」ということになってしまったようだ。だが、安田さんがいなくなったとしても混沌とした状況はなくならない。正解がないためにどう振る舞って良いかがわからないという苛立ちを安田さんにぶつけようとしているだけなのである。

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