松浦勝人さんの金持ち自慢

松浦勝人さんという人がYouTubeを始めた。貸レコード屋さんから輸入業に転じ有名アーティストのプロデュースなどを手がけたという華麗な経歴がある一方で近年の営業利益が落ち込んでいる。コロナの影響でイベント事業が不振となり本社を売却することで凌いだのだという。

将来に不安を感じるくらいなら新しいことをしてお金を稼いだ方がいいということなのかもしれない。不安を解消するために自ら動くというのは立派なことである。ただそのYouTubeの内容は主に松浦さんの金持ち自慢である。チャンネルが出るたびに消していたのだがどういうわけか次々に出てくる。そこで見だしたところこれが意外と面白かった。

お金持ちで「数千万円のブランド品を一時間もしないうちに買ってゆく」というようなあまり上品とはいえないコンテンツがたくさん出ている。おそらくこれがこれまでも日常だったのだろう。だが実際に自分で見ると文春が伝えるような嫌味さはない。この辺りは松浦さんの人柄なのだろう。

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神田沙也加報道抑制と報復自殺問題

もう去年になってしまうのだが神田沙也加さんと言うミュージカル女優が亡くなった。

非常に違和感のある報道だった。おそらく多くの人が「報道のあり方」には関心があったと思うのだが、全く別の問題について考えていた。それが報復自殺問題だ。

よく読まない人から「神田さんが報復自殺をしたのか」と捉えられかねないので、当時は触らなかったのだが少し時間が経ったので改めて考えを整理することにする。

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竹内結子さんの逝去報道について考える

竹内結子さんがなくなった。自殺だと考えられているようである。報道の仕方が抑止的になったのが印象的だ。国民的大女優なので自宅に人が押し寄せても良さそうだが一切それは報道されなかった。遺族は「表の人」なのでインタビューぜめになっていてもおかしくなかったがそれもなかった。日本のジャーナリズムも成熟したのかなと一瞬思った。だが何かがおかしい。

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氷川きよしの転身と自分らしさ

氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。




まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。

何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)

限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」

報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。

こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。

興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。

日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。

セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。

ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。

よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。

氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。

氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。

今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。

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原発と人権問題という最悪の組み合わせ

関西電力の問題は思わぬところに飛び火したなと思う。まず人権問題に飛び火し、つぎに政界に飛び火した。稲田朋美元防衛大臣の地元が福井県ということがあり献金を受けていたというのだ。実際の献金額は36万円とたいした額ではないが返金を検討中だという。




こうして関連する問題が増えると群がる人も増えてくる。与党支持者にも野党支持者にもアイデンティティの一部を問題に固着させている人がいるからだ。

原発反対派は何が何でも原子力発電所の後ろ暗いところを見つけたい。反核運動は護憲派左派野党の最後の砦の一つである。また「稲田朋美」という名前が出てきたからには安倍政権を攻撃したい人たちもこの問題に熱心に取り組むだろう。

一方、保守の人たちも「野党は人権団体とつながりがあるからこの問題を一部隠して報じているのだ」とするに違いない。彼らはマイノリティ利権という言葉に敏感でありそうした特権が「善良で普通の人たち」から何かを盗んでいると信じている。

世界情勢の変化について行けなかった日本人は現実の安全保障問題を解決できなくなっている。だからこの話はタブーになりかけている。北朝鮮のミサイルをアメリカが黙認しているという事実について尋ねると政治に関心がありそうな人たちほど沈黙する。中には「まず憲法改正だ」などという人がいるが、日本の憲法を変えてもトランプ大統領の頭の中は変わらないだろうし、朝鮮民主主義人民共和国が開発したミサイルが消えてなくなるわけでもない。現実に対応できないからこそ、ありもしない問題の方が重要になってしまう。かといってそんなさなかに軍隊を全く持たないという選択肢もおそらくはもうない。アメリカの軍隊に期待できないからだ。

この話は皮肉な入れ子展開になっている。おそらく本土日本人は心の中で沖縄を捨て石にしていると思うのだが、アメリカは日本を捨て石にしている。朝鮮民主主義人民共和国のミサイルが日本に届いて日本が攻撃されれば日本に被害が出る。しかしアメリカはそれを口実に朝鮮民主主義人民共和国を攻撃できる。そうすればアメリカは無傷で助かるのである。実際にロシアが沖縄に対してそれを仄めかし琉球新報が伝えている。つまりロシアもわかっていて情報戦を仕掛けているわけだ。

この問題はまだ現実になっておらず従って明確な敵がいない。すると不安は広がるが現実の脅威に対抗して一つになるべきだというような動きも起きない。不安に耐えられなくなった人たちはいろいろな問題を見つけては「議論」したがる。しかし、現実の問題ではないので解決策はなく従って泥仕合いになる。巻き込まれる人は増えてゆくが誰も幸せにはなれないだろう。

すでに<M氏>が持っている資料を洗いざらい世間に公表すべきだなどと言い出す人が出てきているのだが、これは遺族を巻き込むことになる。皆忘れているようだが彼ら家族は「人権問題」の当事者である。すでに家族の一人が検事であるというような情報も出てきている。

私たちはこうした扱いが難しい問題に蓋をしてなかったことにしてきた。人権問題の当事者の中にはひっそりと事実を隠して生きていた人たちもいるだろうし、アウトサイダーとして既存のモラルや社会規範の外側で生きざるをえなかった人たちもいた。これを我々は世間一般の常識ではかることはおそらくはできない。前回見たナイジェリア人のハンスト餓死者もそうだった。同じような人たちはまだたくさんいてそれを閉じ込めている。

入管庁によると、退去強制令書を出され、6月末時点で入管施設に収容されている外国人1147人のうち、約75%に当たる858人が送還を拒否している。858人中366人が薬物事犯や殺人、性犯罪などで有罪判決を受け、うち84人が仮放免中の犯罪だった。ハンストは6月1日~9月25日、198人が行い、うち36人が9月25日時点で続けている。

収容外国人ハンストで死亡 入管施設で初、報告書公表

大村では食料がきちんと供給されている施設での餓死という明らかに異常な事態が起きて問題が表面化したのだが、扱うマスコミはおそらくほぼないだろう。これを突き詰めてゆくと外国人集団の問題に突き当たり、外国人集団の問題は外国人の待遇の問題に突き当たる。疲弊した地方がそれを抱えることができるのかという問題を考えなければならなくなってしまうのである。この問題の裾野はそれほど広い。

こうして不都合な事実は隠蔽される。私たちが「枠外に人を置く」ということはやがて管理不能な何かを生み出すということである。今回の高浜町の話も原発誘致の時には「管理ができる」と思っていたのだろうが、結局どうにもならなくなり表沙汰になってしまった。と、同時に高浜町が抱えていた長年の闇も表に出てきてしまった。経済的な繁栄が隠蔽してきた問題が衰退期に蒸し返されたと言えるのかもしれない。

関西電力の問題はおそらくは通常の企業の不正問題として分析されるべきで、そこから問題を取りだそうなどと考えないほうがいいだろうが、多分誰かがそれを掘り出そうとするに違いない。掘り出そうとする人は自分たちが何を扱おうとしているのかをきちんと考えて目の前の変化と衰退という問題を正面から捉えたほうがいいだろう。

特に人権問題という観点で高浜や大村の問題を扱いたい人たちはそれ相当の覚悟を持つべきである。善い人に見られたいという理由で語れる問題では恐らくなくなっているように思えるからだ。

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なぜ24時間テレビは取りやめるべきなのか

今年も24時間のチャリティー番組が行われたらしい。「らしい」というのはそれを全く見ていないからなのだが、ブルゾンちえみが走ったことだけは知っている。興味はなくてもTwitterの人たちが教えてくれる。要は国民的な番組の一つになっているのだ。

24時間テレビを見ないのはそれが胡散臭いからだが、なぜ胡散臭いのかは言語化してみないとよくわからない。突き詰めていえば「搾取に加担したくない」からである。搾取する側に回ろうと覚悟を決めた人は心行くまで楽しめばいいと思うが搾取社会特有の帰結は受け入れるべきだ。搾取社会では誰もやる気がなく、最低限のことしかこなさない。

24時間テレビ「愛は地球を救う」自体は1978年から続いている。そういわれると、なんとなく子供の頃からやっているという印象がある。マラソンが行われるようになったのは1990年代からだそうで、最初のランナーは間寛平だった。間寛平のマラソンはライフワークだった。だがそれが繰り返されるうちに儀式化しててしまった。多くのコンテンツが「昔成功した」という理由で儀式的に行われているのではないかと思う。

24時間テレビが搾取なのはタレントのギャラを見れば一目瞭然である。障害者はタレントが高額のギャラを得るための口実になっている。これをオブジェクト化という。感動ポルノという言葉を使う人もいる。ポルノという言葉を使うのは、ポルノ映画に出てくる女性(時には男性)は対象物であり人間ではないからである。

広告を出している会社はさらにここから収益を得ることができるし、見ている方も何もしないのに「自分たちが弱い人を助けてあげている」という優越感に浸れる。だが、日本人はそれに違和感を感じない。

もし、これがもし障害者を支援する番組であれば、特定の目的を決めてそのためにどうファンドレイズするかという番組になるはずだし、多分障害者本人がファンド集めの先頭に立つだろう。例えばパラリンピックでメダルを取ったアスリートとか乙武さんとか障害者でも普通の人と変わらないんだなという人はいくらでもいる。だが、24時間テレビでこういう人は司会者にはならない。

こうした、お題目を唱えて何もしないというのは日本ではよく見られる。例えば日米同盟というお題目を唱えて防衛や世界秩序の維持について全く何も考えず、他人を馬鹿にする口実にしている人たちは大勢いるし、逆に憲法第九条についてお勉強しているから戦争についてはよく知らないし考える必要がないと思い込んでいる人も大勢いる。24時間テレビは障害者について考えているからそれ以上何もしないという意味で相通じるものがある。

こうした意図的な搾取に加えて、集団的な陶酔という日本ならではの特徴もありそうだ。

高校の時に野球の応援に楽隊として「動員」されたことがあった。不良が集まった応援団の金切り声にあわせてフォルテッシモで音を流し続けるという非人間的な所業である。芸術的に作られた曲をただただ大音量で流すというのは音楽にとっては虐待に近い。木管楽器は熱に当たるとチューニングが狂い、パッドの部分が痛む。それに加えて何度抗議しても応援団が水をばらまく。水が当たると楽器が傷んでしまうのだが、そんな些細なことなどどうでもよいだろうと言われる。

こうした行為が正当化されるのは、集団での競い合いに興奮を伴う一体感があるからである。音楽は陶酔感を得るための装置なのだ。

そもそも日本人は他人を応援するのが嫌いだ。だが、自分たちの集団のために誰かが苦しんでいるのを見るのは大好きである。高校野球や箱根駅伝などはその良い例だろう。24時間テレビは障害者をネタにお金を搾り取るという搾取ショーになっているので、できればすぐにやめるべきだ。しかし甲子園や箱根駅伝を見ているとこうした搾取ショーには需要がありなくすことはできないだろう。

この裏には「もう伸びしろがなくなってしまった」という無力感があるのではないかと思う。つまり成長をあきらめているから搾取に走るのだ。例えば欧米ではエクストリームスポーツのように個人が能力の限界を目指すような競技が人気である。これは「人間は頑張ればどこまでいけるか」ということを競っている。

この背景にあるのは「人間にはいずも能力を伸ばす余地があり、それを追求することが人生にとって重要である」という認識だろう。これに従えば、障害者であれば自分ができる範囲で限界を突破できることにフォーカスを当てることができるし、健常者が限界に挑戦することの素晴らしさを伝えることもできる。

だが、日本人は個人をそれほど信用しないので、こうした極限への挑戦はあまり重要視されない。代わりに他人が当惑して苦しんでいる姿を見るのが好きなのだ。例えばブルゾンちえみは数日前まで自分が走るということを知らされず、ショーに出してやるからといわれて、ジャージを渡されたそうである。当惑が売り物になっていることが分かる。もし、限界に挑戦することが目的ということであれば、いつも走り込んでいるような人が参加するはずだが「それはテレビ的においしくない」のだろう。普段からがんばっている人が何かを達成しても「自慢になる」だけだからだ。

その意味では24時間テレビというのは現代日本にふさわしいショーになっている。何もしないし目的も提示しない高齢者が、とにかく若い人たちを目的のない競い合いに巻き込んで消耗してしまう姿を眺めるというものだ。だから、このまま日本が何のためにがんばっているのかは良く分からないのだが、とにかくみんな疲れているという社会にしたいのなら、このままこういう類いのショーを楽しみ続ければ良いと思う。

人には選択の自由があるからだ。

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個人が報われないという実感

ウェブサイトのページビューは毎日見ているのだが、最近では安倍政権がうまくいっていないことさえ書いていればページビューが集まるという状態が続いているのであまり意味をなさなくなった。そろそろ次を探さなければならないので、フィードバックを見てみた。とはいえ直接何かを書いてくる人はほとんどいないのでエゴサーチすることになる。エゴサーチの結果わかったのは「個人が報われない」という記述に多くの反響が集まっているということだった。

このブログでは「個人が報われないという実感」いくつかの文脈で出てくる。

一つめの文脈は、利益配分に関するものだ。日本人は利益集団を通じて利益の配分と安全保障を実現しており、個人の資格でそこに参加しても交渉力が得られない。最近では集団が個人の利益を守りきれなくなっており、個人が損の受け手になることも増えてきた。つまり、利益は分けてもらえないのに責任ばかりを取らされるということになる。

最近、前川元事務次官が官邸からの攻撃にさらされているというニュースを見た。身分を明かさずにボランティアをされていたらしく、教育に携わっていた人として「子供に正しい姿を見せなければならない」と考えていた風にも受け取れる。が、ご本人はそんなことは一言もおっしゃらなかった。事務次官といえば官僚のトップだが、そういう人でさえ個人の正義感で社会を正常に保つことが難しくなっている。存在が自己目的化した集団が個人の正義感を簡単に抑圧してしまうのである。

もう一つの文脈は、日本人が関係性を重視するので個人の意見表明というものにあまり重きをおかないという点である。個人の考え、つまり内心というものもありえないので、集団の意見を個人の意見の代わりに表明することが多い。また個人で意見表明しても「取るに足らない考え」として無視される傾向がある。

個人が幸せになれないとか、集団が個人の幸福追求に役立っていないという一連のステートメントには、実はプロテストの意味合いは含まれていない。日本は西洋の個人社会と東洋の集団主義社会のちょうど真ん中に位置する少し特殊な社会で、そのことを指摘しているにすぎない。社会の変化が早くなってきており、集団が個人の利益を調整できなくなっているという事情もあり、この辺りを観察するといろいろなことが見えてくるのである。

いろいろな分析もできるし、個人が幸せを追求できるような世の中にした方がいいですよといった提言もできるのだが、今回はそれはやめておく。あることに気がついたからだ。

多分このブログの読者の多くはスマホやパソコンなどを使って個人として文章を読みながら「共感したこと」をリツイートしたりシェアしているのだと思う。こちらからはある程度まとまった動きとして見えるわけだが、読者の方は他の読者が何を考えているのかということはわからないのではないだろうか。

つまり、一人ひとりは「個人が尊重されて活躍できる世の中になってくれればいいなあ」などと思いつつそれを言い出せないということになる。

そうした状態から一歩踏み出すためには「自分の主張を自分の言葉できるようになった方がいいですよ」などと思うわけだが、これはそもそも内心に抱えている「自分らしく生きたい」という欲求を認めない限り意見表明などできない。が、それを他人に打ち出せないということは、自分の中でその欲求そのものを承認できていないのではと思うのだ。

自己が持っている欲求が承認できさえすれば、相手もそれを持っているということを認めるのは比較的簡単で、相互的な助け合いができるようになるだろう。少なくともそれを見た他人が「自分と同じ考えを持っている人は他にもいるんだなあ」と思うことができる。だが、承認できない(あるいはそういう欲求を持っていることを自覚できない)状態では、それ以上はどこにも進めないかもしれない。

ということで、今回は何の分析も提言もしないで、ただ単に「個人がもう少し尊重できる世の中になった方がいいなあ」と考えている人は多いですよ、ということだけを指摘してこの文章を終わりにしたい。自分らしくありたいという気持ちは多分それほど特殊なものではない。