先日来、新型コロナウイルスの対処が「大本営」になってゆくプロセスを観察している。割と漫然と書いているのだが、Web論座で面白い文章が見つかった。牧原出さんという東京大学の政治学・行政学の教授が書いている。かなり明確にまとまっていてプロの文章はさすがだなあと思った。ただ長い文章なのでちょっと丁寧目に読んで行きたい。なお牧原出さんはオーラルヒストリー(聞き語り)の専門家だそうだ。ちなみに牧原さんが専門家を軍部にたとえているわけではない。このブログが勝手に言っているだけである。
“オペレーション新型コロナ : 関東軍と大本営のメカニズム” の続きを読む「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論
大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。
“「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論” の続きを読む7年ぶりに感じる政治的議論と潮目の変化
先日来、ブログのトピックを揺らしている。ちょっとずつ新しいものを取り入れたいのだが需要がどこにあるのかよくわからないからだ。「読まれている」という実感が出てきて欲が出てきたのかもしれない。これまでは政府批判系の記事が多かったのだがそれをやめて別の記事を書いている。「やっぱり批判記事が読みたい人が多いのだ」ということを確認したかったのだがどうやら外れつつある。却って閲覧数が上がっているのである。
“7年ぶりに感じる政治的議論と潮目の変化” の続きを読む韓国語のラップを覚えるコツ
韓国語をやっている。真面目な動機ではなく暇つぶしみたいな感じだ。せっかくなのでK-POPの歌詞を覚えてみようと考えているのだがどうしてもラップパートが覚えられない。ここに一手間加えてやると覚えやすいことに気がついた。
“韓国語のラップを覚えるコツ” の続きを読む氷川きよしの転身と自分らしさ
氷川きよしの転身がネットニュースになっているらしい。写真週刊誌で話題になっていたことがあるがどうやらもともと「中性的」な人のようだ。もっと言えば同性愛の傾向があるのではないかと思う。ところがどのメディアも同性愛については書かない。日本ではタブーだと考えられているからだろうが、配慮そのものが新しい壁になっているのかもしれない。
まず「決めつけるな」という点からクリアにしておきたい。文春はカミングアウトということまでは出しているが「何のカミングアウト」なのかという点を書いていない。
何より注目されるのが衣装です。インスタで話題になったドレス姿やピチピチのレザーパンツなどの案も出ているようで、氷川自身も“ありのままの姿”を出していきたいという意向だそうです。しかし、所属事務所は老舗の演歌系ですから、カミングアウトだけは阻止したいと考えているのです」(スポーツ誌記者)
限界突破の氷川きよしを直撃!「恋愛はいっぱいしたい。紅白でドレスもやりたいけど…」
報知新聞によれば和田アキ子もテレビで「本人がはっきり言ってくれれば」と語ったそうである。明らかに周りは知っているのだが何かに忖度して言えない状態になっていることがわかる。大手事務所ということもあって遠慮して書かないのだろう。だがそれが却って「同性愛は後ろ暗いもの」という印象を強化している。
こうした印象付けには実害がある。過去一橋大学で「他人から同性愛傾向をバラされた」ことを苦にして自殺者が出たというニュースがあった。アウティングというそうだ。恥ずかしいと思うから隠しておかなければという気になるのだ。
興行的には成功しており周囲からは受け入れられているとみていいだろうし、周りもおそらくは知っている。だから氷川さんがそれについて言及してもさほど問題にならないだろう。ファンも氷川さんを応援しておりいちいちとやかくは言わないはずだ。だからここに「氷川さんはそれを堂々と公表すべき」という問題を作りたくなってしまう。恥ずかしくないなら堂々と公表すればいいのではないかということだ。
日本には「隠すか」「公表するか」という二つの大変狭い解決策しかないことがわかる。実はこれが問題なのである。
セクシャリティというのは本人のアイデンティティの根幹であると考えられている。確かにそれはそうなのだが、普段個人の意見を全く尊重しない日本人が他人のセクシャリティだけは大変な問題だと考えてしまうのはなんとなく不思議な気もする。おそらくは特別な人を例外として棚上げして自分たちの常識を守りたいという意識が働くのだろう。なのでカミングアウトはその人が受け入れられることにはつながらない。単に「その他」の箱に入れられてしまうのである。
ネットで同じようなハリー・スタイルズのインタビューを見かけた。氷川さんと同じように中性的な衣装を着て公の場に姿を表すことがあるそうだ。だが、ハリー・スタイルズは「セクシャリティ」をどうでもいいことと言っている。セレブが自分のアイデンティティについて語らないのは不自然なように思えるのだが、実はそれは標準的な(つまり男性らしい・女性らしい)セット以外のセクシャリティを「ものめずらしいものだ」と他人も当事者も信じ込んでしまっているからにすぎないことがわかる。
よく考えてみれば、当事者にとってはそれは生まれつきの極めて当然のものであって特に珍しいというものではない。あるいは「よくわからない」とか「決められない」という人もいるかもしれない。
氷川きよしにとっては彼が興行的に成功するのかということだけが重要なのであって、それ以外のことは実は「どうでもいい」ことなのだ。言いたければ言えばいいし言いたくなければ言わなくてもいい。単に表現として好きなだけかもしれないし、あるいは性的自認と関係しているかもしれない。さらに明確に決まっているかもしれないし、決まっていないかもしれない。それらが彼自身の問題であって説明する責任も義務もない。
氷川きよしのニュースだけを見ると日本の特殊な状況だけしかわからないので何かとても真剣に論評したくなってしまう。そこからは別の可能性は見えてこない。ところが全く別の事例をぶつけると「別に表現しても言わないという選択肢もあるんだな」ということがわかってくる。
今回は自己表現と自分らしさについての事例だったのだが、おそらくは政治や経済にしてもそれは同じなのではないかと思う。問題だけを見つめると解決策が見えなくなってしまうことがあるのだ。
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ブルゾンちえみが環境問題について言及し叩かれたのはなぜか
ブルゾンちえみという芸人がフォーブスの授賞式で環境問題について取り上げたという。これについてサラリーマン向けの新聞であるゲンダイが論評を書いている。論評というか批評というか批判というか「これは何なんだろうか」という感じの文章である。
これについて最初に知ったのは小島慶子さんのTweetだった。だが、どうも分析が一面的というか面白くない。環境問題や人権問題という理想について語ると叩かれるのは日常茶飯事なので当事者たちがアレルギー反応を起こしていることだけはわかる。そして彼らはそれと戦うことを決めたようだ。
Forbes Japan の授賞式での発言なんだから、環境問題の話で誰も困惑しないでしょ。
— 小島慶子 (@account_kkojima) December 28, 2019
こういう見出しをつけて、”意識高い系の話題”に対する冷笑的な態度を広め、若い女性や人気者が社会について意見を言うと叩かれる風潮を作り出そうとするのはやめてほしい。 https://t.co/DGPVcL1axW
小島さんは意識が高い人を邪魔するなと言っている。では「意識が低いゲンダイ」はいったい何に反発しているのか。意識が低いとはどういうことなのか。
まずゲンダイは「私の意見」としてこの文章を書いていない。なんとなくネットの噂について取り上げていて「みんなが言っているよ」と言っている。これは集団主義から抜けられず自分の意見が持てない人たちの常套手段である。
次に「ブルゾンちえみは最近お笑いに手を抜いていて環境(エコ)ビジネスに進出しようとしている」のではないかと言っている。つまりエコは本業ではないだろう?と言っているのだ。
これについてQuoraで聞いたところ面白いヒントをもらった。人に聞いてみるのは大切なことだ。まずこの人は芸人だから黙っていろというのはけしからんと怒ってきたので松本人志について聞いてみた。芸人がテレビ局を代弁する形で「個人の言っていることですよ」と偽装しながらテレビ局や芸能事務所のポジションを代表することは世間では容認されていますよねと持ちかけてみたのだ。
すると「西野亮廣も叩かれる」という答えが返ってきた。西野さんといえばお笑いという本業があるのに「疎かに」して絵本作りをしてテレビ依存を脱却してしまった人である。彼が叩かれるのは組織を離れても自分の力で生きて行けるからだが、映画化まで来てしまうと叩かれなくなる。ここでなんとなく布置されるものがあった。小島慶子さんもそういえばフリーランスだなと思った。
- 日本では集団の意見を代表した個人の意見は叩かれない。
- 日本では個人が意見を言ったり、本業以外のことをやろうとすると叩かれる。
この価値体系はサラリーマンの価値体系である。サラリーマン社会で発言権を得るのにはとても時間がかかる。サラリーマンは個人と集団の境目が溶けてなくなるところまでサラリーマン社会にどっぷりつからないと発言権が得られない。ここに馴染んでしまうと個人の意見は言えなくなる。
さらに、個人は集団に依存する本業を持っている時だけしか評価されない。つまり松本さんの行動が正当化されるのは吉本興業とテレビというスキームに依存してお笑いをやっているときか個人という体裁で集団の意見を代表している時だけである。つまり、タレント(演者)としてコメンテータをやっているときは叩かれないが、個人の意見をいう人は容赦なく叩かれてしまうのである。
これはある意味武士のマインドセットとも言える。武士は藩に仕えると評価されるが脱藩すると浪人扱いになる。これは武士としては不完全な状態である。ゲンダイを読んでいる人たちの中にもそういう武士のマインドセットが生きていると言える。
一方、個人が自分の才覚で新天地を探そうとすると容赦なくバッシングされる。西野さんはそれでも「とても才能があった」のだろう。生き残って絵本作家をやったり自分のプロジェクトを立ち上げることができるようになった。ブルゾンさんは芸人として環境問題に関わろうとすると「本業が面白くなくなったからだ」とか「金儲け目当てに何か企んでいるに違いない」と足を引っ張られてしまう。まだ経済的に成功していないからだ。成功者は何も言われないが、今から成功を目指そうとする人は叩かれる。
この件について書こうと思ったのは、日本の政治の行き詰まりについてソリューションのない悲観的なエントリーを書いたからである。つまり、日本では価値の源泉が損なわれていて新しい源泉を探さなければならない。それができるのは自由に行動する個人だけである。
ところが実際に個人が新規開拓を目指そうとすると寄ってたかって潰そうとする人たちが出てくる。つまり新しい芽を潰しているのだ。いったんは武士のマインドセットと書いたので「格好の良いこと」のように聞こえたのかもしれないが、藩が機能しているからこそ武士のマインドセットは生きてくる。藩が機能していないのに新規開拓者を叩くのは奴隷が逃亡奴隷に石をぶつけているのと同じことである。
だが、ゲンダイには新しいものを潰しているという自覚はないようだ。今回もこの「構造」を探すのは以外と大変だった。つまりサラリーマン向けの新聞は本能的に「脱走奴隷」を許さない構造を持っているのだが、あまりにも日本人の心情に深く根ざしていてそれを抜き出して分析することすら難しい。
さらに分析を難しくしているのは主語の置き換えである。読者はおそらくゲンダイに主語を託し、ゲンダイもまたライターに「ネットの噂ですよ」と言わせている。日本人の奴隷制の根幹にあるのは「誰も主体者として責任が取りたくない」という責任回避の意識である。
おそらく、ゲンダイこの記事に共感した側の人たちはなぜ自分がこれに共感したのかはわからないだろう。彼らは自分たちに向き合わなくてもこの記事が読める。新聞側も「これが受ける」ということはわかっても「なぜ受けるのか」は説明できないのではないだろうか。
だがここで起きていることは明白だ。かつては武士だった奴隷が逃亡者を罰しようとしているのである。
最後に小島さん側の反発についても考えてみたい。今回のフレームでは、小島さんは奴隷が脱走奴隷を叩くことに反発をしているということになる。ただ後ろを振り返ってしまっては奴隷状態からは抜け出せない。実際脱走した人たちがやることは後ろを振り返えることではなく、前を向いて次の機会を探すことだけである。違いはそんなに大きくない。単に前を向くか後ろを振り返るかだけなのである。
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大河ドラマとしては正確だが、不正解だった「いだてん」が終わった
宮藤官九郎作の「いだてん」が終わった。最初の方は「NHKの忖度でしょ」などと思ってバカにしていて見ていなかったのだが、最後の数回だけを見た。学徒出陣のエピソードをみて「あれ面白いぞ」と思ったからだ。途中学徒出陣で戦地に行った仲野太賀がなくなるところを飛ばしてあとは結局全部見てしまった。
面白さの原因は屈折からの解放だろうと思う。オリンピックが成功する前史として選手2人だけの初参加・戦争による中断・有望な選手の戦死・田畑政治の失脚など様々な困難がある。こうした絶望を積み重ねてゆくのだが基底に宮藤官九郎の子供っぽさがあるので絶望はあっても暗くはならない。
最後の数回というのはこうした屈折が回収されつつ解決されてゆくという段階に当たる。つまり最後のおいしいところだけをつまみ食いした感じになっているのである。おそらく視聴率が悪く「前のお話を見なくてもわかりますよ」とばかりに回想を増やしたのもよかったのだろう。おいしいところだけ抜くというのが、そもそも大河ドラマの見方としては間違っているかもしれない。
よく「宮藤官九郎の作品はじっくり見るべきだ」というような評論があるのだがそうでもないように思える。落語のネタと物語を掛け合わせてつないでゆくというようなライン一つを取っても、短いスパンできれいに決まってゆく。その場その場で見ても十分に楽しめる展開になっていた。却って一年もこれを見せられると疲れていたかもしれない。後で調べると、落語の話はかなり込み入った物語の一つのエピソードのようだが、単体でも十分に楽しめる仕上がりになっている。
宮藤官九郎って面白いなあと思った。
オリンピックが戦争からの復興であるというラインは戦争を語らないと描けない。しかし、戦争を正面からまともな作家が描くとおそらくもっと凄惨で暗いものになっていたはずである。さらに「戦争はいけないことです」「我々はそこを乗り越えて経済的に成功したのです」というような正解を見ても面白くもなんともない。最近大河ドラマを見なくなったのは正解を押し付けられるのにうんざりしていたからである。
NHKの誰が発案したのかはわからないが「正解」を徹底的に避けるために、貧相で屈折してはいるがそこを振り切って明るくみえる宮藤官九郎で乗り切ったというのがすごいところだなあと思った。そういえば3.11も宮藤官九郎だった。「あまちゃん」にも救いのない津波でレールが寸断された鉄道の話が出てくる。おそらく東日本大震災を描くためにあの作品はアイドルを扱ったのだろう。今回も、暗い面を逃げずにきちんと捉えつつ落語というお笑いを使うというのはかなり練られた作戦だったのだろう。エンターティンメントは絶望を癒すためにあるからだ。
徳井義実の大松監督も大成功だった。途中でスキャンダルを起こしてテレビから消えかけている徳井だが物語の中では全く気にならなかったし、途中で「あれ?この人じゃなきゃダメなんじゃないの」とすら思えた。問題を抱えながらも自分たちの理想のために突っ走る人たちの群像劇だからこそ徳井は浮かなかった。大松監督は今でいえばセクハラパワハラの極みだが、実際には「選手個人が好きでやっている」が「マスコミからの重圧も感じている」という屈折が物語を前に進めるのに大いに役立っている。その意味では正解を押し付ける最近のお笑いはつまらない。人生に何の瑕疵も破綻もない人の笑いが面白いはずがない。
麻生千晶という人が早い段階で「いだてんに落語はいらない」と書いているがおそらく落語は今回の話の中核にある。この麻生さんの感想が「視聴率が上がらなかった」理由を端的に表しているのだろうと思う。つまり正解である美男美女のヒーローがいないことと歴史を正解として書かなかったことが「いだてん」のテーマだったのだろう。時代遅れを体現してくれているという意味では、麻生さんはよくぞネットにあの文章をさらし続けてくれているなあと感心する。
例えば松坂桃李が美男美女に囲まれた武将の役で出てきたら、おそらく大河ドラマとしては面白かったが松坂自体は埋もれていただろう。個性的な人物の中に配されることで「あれ、この人は演技派俳優なんだなあ」という印象になる。「二枚目」は最初に出てくる看板では本来はないのかもしれない。
ここで問題になるのは「これは大河ドラマとして一年間かけてやるような話なのだろうか」という点だ。おそらくもっとコンパクトにまとめてもそれなりに面白くなった作品だった気がするし、麻生の言うように美男美女が出てくる物語にしたほうが視聴率は取れただろう。
一方で。これだけのキャストを集めて作品を作れる場所が殆ど無くなりかけているんだなあと気づかされる。つまり「いだてん」は大河ドラマにはふさわしくないが、あの枠でしか作れなかった。日本はおそらく貧乏になっている。これは大変不幸なことである。
大河ドラマは「自分たちのご当地の英雄を取り上げろ」というプレッシャーにさらされている。地域振興に役に立つ物語を作れというわけだ。すると当然ヒーロー・ヒロインを否定的に描くわけには行かなくなる。教科書的な正解を道徳的な枠組みで描かざるをえなくなるのだから当然ドラマとしてはつまらなくなる。
今の日本人は面白い解放感のあるドラマではなく教科書的な正解を見たがるしそれを他人に押し付けたがる。そうやってドラマはどんどんつまらなくなるがドラマに期待しない老人は満足する。それは日本ドラマの衰退と死である。論評を見る限り「面白くない正解」に傾くんだろうなあと思える。東洋経済も6月の時点で「ああ、これはダメだ」と言っている。
最後に嘉納治五郎の「これが世界に見せたい日本なのか?」という問いかけが出てくる。何が正解なのかはわからないがとにかく疾走感たっぷりに走り抜けたというのは歴史としては田畑政治の「ドタバタ」が正解なのだろうが、老化した日本人にとっては正解ではない。そして、日本人はこれからつまらない正解を志向するようになるのだろう。
おそらく今の東京オリンピックが恐ろしく盛り上がりに欠けるのはそこなんだろうなあと思った。嘉納治五郎の問いかけに対して動かない人たちが寄ってたかって「自分たちが見せたい正解」を押し付けるというのが今のオリンピックだ。だから実際に動く人たちが誰もついてこないのである。
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Produce X 101プロデューサーの逮捕
AbemaTVで「Produce X 101」を見ていた。番組が進むにつれて「この人は絶対に入るだろう」となっていた候補生が脱落するのを見て「ああ、事務所との調整がうまく行かなかったんだろうなあ」と思っていた。つまり、ある程度操作はあるだろうなと考えて見ていた。
だが番組はプロデューサーの逮捕という衝撃の結末を迎える。民意を弄んだツケは大きかったと言える。番組を押し上げたのも民意だったのだが、逮捕のきっかけになったのも民意だった。韓国は日本と違い共和制国家なのだなと思った。よく「国民情緒法」などど言われるが、それが本来の民主主義国のあり方なのである。このため民意を味方につけると支援が得られやすくなるが、それにより葬られる可能性もある。民意というのはつくづく恐ろしい生き物だと思う。
前のグループWanna Oneは活動期間が短かったのだが、今回のX1は活動期間が長くなることが予想されていた。事務所としては、人気がそこそこのタレントはグループに預けた方が露出が増えるわけだが人気がある人は自分のプロダクションで抱えた方が良い。これくらいの算数は誰にでもわかる。例えばイ・ジニョクは非常に人気が高く、最終的に脱落したのちにバラエティなどでも人気になっているようだ。この程度の操作であれば多分外に漏れることはなかっただろう。
だが、韓国ではなぜかこれが詐欺事件となってしまい逮捕者が出てしまった。発端になったのは「投票結果が不自然に揃っており怪しい」という疑惑だった。ファンの中から「真相究明委員会」が作られ、まずはケーブルテレビ局MNetへの告発運動が起きた。これが7月のことだった。番組は名前の通り練習生を101名集めるところから始まる。大勢の中から選ばれているから優れているということなのだから、脱落者を集めなければならない。参加プロダクションも多かったことから操作が大掛かりになったようだ。つまり最終調整ではなく、最初から調整が行われていたことになる。
一連の番組はMNetというテレビ局の制作なのだが、実際に制作を担当しているのはCJ ENMという会社である。そしてタレントはそれぞれのプロダクションから出てきている。どうやらプロダクションがCJ ENMのプロデューサを性接待しているらしいという疑惑が出てきた。そして、CJ ENMのプロデューサらが逮捕されてしまい疑惑は本物だったということになってしまった。今のところどのプロダクションの関係者が接待する側に回っていたのかはわからないのだが、過去の練習生の中からは「あらかじめ曲を教えてもらえていた練習生もいるだろう」などと囁く声も出ている。
KStyleによると逮捕されたアンプロデューサはX1とIZ*Oneが選抜された番組での投票操作疑惑を認めたそうだ。日本円にして1,000万円程度の接待もあったという。そしてテレビ局MNetは告発側に回っている。何も知らなかったというわけである。逮捕容疑にはテレビ局への業務妨害・背任などが含まれる。つまり、形式上は国民を裏切ったということではなくテレビ番組をきちんと制作しなかったことが罪になっている。
制作会社と企画会社などを家宅捜索した警察は、彼らについて詐欺と業務妨害、背任などの容疑を適用した。
アン・ジュニョンプロデューサー「PRODUCE 48」の投票操作も認める…シリーズ2作品への関与に衝撃
日本であればここまで厳しいことにはならないだろうと思う。なんとなく裏でまとめてしまい表向きは何もなかったことにした上でシリーズを廃止するというような措置をとるだろう。騒ぎが大きくなればテレビ局の管理責任が世論から追及されるからだ。
韓国ではネット世論の影響が強い。さらに88民主化運動が草の根で盛り上がったという独自の歴史があり「庶民が政治を動かす」という世論が徹底しているようだ。今回も「国民プロデューサ」という世論で作られたアイドルというコンセプトなので、騙されたと感じた世論の怒りは、誰かの逮捕というところまで行かなければ収まらなかったということになる。
真相究明委員会は「本来のランキング」の公開を求めているそうだ。脱落者の中にも実力者がおりその実力者を集めてBy9という別グループを作って欲しいという声まで出ていたから、これは当然の要求かもしれない。
今後はX1とIZ*Oneの活動に焦点が移る。ファンは練習生はこのことを知らなかったことにして欲しいと思うのではないかと思う。プロダクションが接待していたとしてもタレントに罪があるわけではない。当初あからさまに推されていたのに実力が伴わずデビュー組に入らなかった人もいる。つまり実力がなければデビューはできていないのである。
実際にIZ*Oneの活動には影響が出ており新曲発売(韓国ではカムバックという)が中断されているようだ。X1は予定通りスケジュールをこなすという。X1は疑惑がわかってから活動を始めたので地上波への露出はそれほど多くなかった。そのため「放送の可否を判断」などと報じられているIZ*Oneの方が見かけの影響が大きい。
投票結果が操作されていたとはいえ、X1が実力のないチームであるということにはならないのだが、MNetは操作の間中「これといった立場はない」と慎重な立場を示していた。つまり、今後X1が早期解体される可能性もなくはない。MNetが応援してもCJ ENMがなくなってしまえば活動は難しくなるかもしれない。中にはデビューしても売れなかったためにオーディション番組に何回か参加してやっとデビューできたというメンバーもいるようなので、気の毒な話である。
CJ ENMは日本では吉本興業と組んで日本版のProduce X 101を放送中だ。こちらはソフトバンクグループのGYAOで放送されていて12月にメンバーが決まる予定である。だがCJ ENMが絡んでいる以上「無傷」ではすまないかもしれない。不幸中の幸いというべきか日本では番組自体があまり中もされておらず、したがって韓国本国の一連の騒ぎとはリンクされていない。韓国の番組を見ていた人は国民プロデューサーというコンセプトを理解していると思うが、日本の番組だけを見ている人には何のことだかわからないかもしれない。
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みんなとは誰か – 香港騒乱と憲法改正問題
香港の騒乱について議論をした。当初、香港は中国に返還された。香港には中国人が多いのだから当然主権は香港人のものになったのだろうと考えた。ところが、これが違っているという指摘があった。香港の基本法によると香港には主権はないというのだ。だが、後から香港は中国に代表を送っているともいう。訳がわからないと思った。
その鍵は中国の憲法にある。「中国国家制度の枠組み」という文章によると、中国は人民独裁国家という仕組みをとっているそうだ。主権・民主主義という概念が特殊なのである。
この文章によると人民が政治権力を独占するという人民独裁制という体制をとっているという。中国は無産階級独裁を目指したが民族資本家を取り込む必要があり無参加階級である。この体制に異議を申し立てる人は人民から排除されても構わないということになっているのだという。つまり人民はPEOPLEの訳語ではない。要するにみんなに逆らう人はみんなからはじかれるということになっている。
この考え方は極めて東洋的である。西洋人ならば権力者という個人が他の個人から人権を奪うと捉える。だが、中国には集団的な人民という階級がいて彼らが内輪で話し合って何が受け入れられるかを決めるのだということになる。
香港が中華人民共和国に復帰する時、中国の体制に親和的な無産階級であれば「我々の手に戻った」と喜んでもよかったことになる。ところがこれを強調しすぎると香港から資産家階級が逃げ出してしまうので(実際に今回そういう動きが起きているそうである)この辺りを曖昧にして復帰したのだろう。「主権」という言葉の揺れが社会インフラの破壊にまでつながったという意味では恐ろしいことだなと思うが、資産家はいずれは国をでなければならなかった。
このような話を書くと「ああ、やはり中国は恐ろしい国だ」と思ってしまう。ところが実際にはそうではない。この「みんながいいと思っていることがいいことなのだ」という考え方は日本でも割とよく見られる。
公明党が「中道政治とは何か」という文章を出している。中道とはみんなが常識として持っている価値体系だそうだ。
そのどちらの側にも偏らず、この二者の立場や対立にとらわれることなく、理の通った議論を通じて、国民の常識に適った結論(正解)をさがし、創り出すことを基本とする考え方である。あえて、つづめて言えば、中道政治とは、「国民の常識に適った政治の決定」を行うことを基本とする考え方であると言っても良い。
中道政治とは何か(上)
この背後に宗教団体がいることを知っているので違和感を感じるが「自分は常識的な人間で偏りがない」ということ自体は日本ではよく聞かれる意見だ。このため朝日新聞は偏っているとか産経新聞は偏っているという人がおり「自分は偏りがない中道な意見が読みたい」という人さえいる。ところが、その中道は何かと聞かれると「みんなの常識なのだ」というような言い方になり答えがない。
日本人は多分「この考え方は中国共産党的だ」というと怒ると思うのだが、実際には「みんなの正義が社会の正義であるがそれが何かは説明できない」というのは日本でもよく見られる議論である。最終的にはそれはみんなの正義だから個人では逆らえないなどという話になって終わる。
自民党の憲法草案も「みんなが選んだ議員が決めることが正しいのだから自分たちが何が公共かを決めることができる」という考え方で作られている。批判をする人は「みんなには入らない少数者はどうするのだ」というのだがその答えはない。自分は中道でみんなの意見と合致するのだから、当然何が間違っているかを判断する目を持っていると考えるのである。
この「みんなが正しい」という表現は東洋的な政治議論を読み解くカギになる。公明党のみんなというのは多分支持母体である創価学会の信奉する理念のことを意味するのだろうし、自民党のみんなというのは彼らの支持母体の一つである日本会議の価値観を含んでいるのだろう。これは中国のみんなが実質的に人民代表大会とそこで選出された代表者を意味するのに似ている。そのサークルに入っていると感じている人は安心感を覚え、そこに入っていないと感じる人たちからは猛烈に反対される。
日本の憲法改正議論が進まないのは小選挙区制を導入してしまったからだろう。当然二大政党に向かうのだが、日本の場合は政権交代が起きないので排除され続ける比較的大きなみんなに入れない人が存在し続けることになる。議会ですらみんなが作れないのだから国民が包摂できるはずはない。
案の定、安倍首相のいうみんなは「オトモダチ」と呼ばれるようになった。経済停滞期に入り「みんなを納得させるだけのアメ」が配れないのだ。外で見ているだけの人たちは当然それを攻撃するだろう。最近ではテコンドーの金原会長が「理事のみんなは賛成している」といって選手出身の理事と副会長と対立している。理事の一人は話が全く通じないので過呼吸を起こして倒れてしまったそうだ。テコンドーの協会は選手や国からお金を取ることしか頭になくオリンピックを目指す選手たちと利害が対立しているのであろう。
いずれにせよ衰退期の日本は「みんな」が作れない。経済的にみんなを抱き込めないからだ。
一方、人工的に「みんな」を作ってしまった中国は別の問題を抱える。つまり「みんなでない」と感じる人たちが出てくると彼らを理論上統治できなくなる。結局は経済的に満足感を与えておかなければならない。香港の場合はいずれ中国の一部になる。この時に香港のみんなが中国共産党を信任しないという状況になれば、彼らの統治の正当性が破壊されてしまう。
新疆で何が起こっているのかはわからないが、漢族支配の共産党を信じないウィグル人が大勢いるとしたらそれは不都合な存在として隠蔽されるだろう。ウィグル人のみんなが共産党を支持しているという図式が崩れてしまうからだ。チベットにも同じことが言える。中国がこれを隠せるのはチベットや新疆が奥まった地域にあるからだ。ところが香港は資本主義社会への窓口として西側に開かれておりそうした隠蔽はできない。
そうなると中国は香港人の不安(例えば住宅の不足など)を解消することでデモ勢力から「みんな」を引き剥がすることになるだろう。結局気持ちをつなぎ止めておけるのは経済的な成功だけでそれが止まれば中国は今の体制では多分維持ができなくなる。意思決定の失敗を受けとめるという意味での主権者がいないからである。
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ナイジェリア人男性が日本の入管施設で餓死するまで
ナイジェリア人の男性が6月に入管施設で亡くなった。これを受けて入管側が「自分たちの措置に問題はなかった」とする報告書を出した。このニュースに反応する人たちがいて「国際問題になる前に」人権状況を改善するべきだと言っている。
このニュースに反応している人たちは「餓死するとはかわいそうだ」という印象を持っているのだと思う。ところが調べて行くとこのナイジェリア人が単にかわいそうな人でなかったこともわかる。とはいえ人間が意志の力で餓死するというのはやはり大変なことだ。それほど強い「帰れない」という気持ちがあったか、閉じ込められているうちに他のことが考えられなくなっているのだろう。人権問題として取材するなら背景情報を掘り下げたほうが良いだろうと思える。
薬物の常習性を隠して伝えた朝日新聞
まずわかる点から整理していこう。この男性は2000年にナイジェリアから日本に来た。それが難民申請だったのかそうでないのかは不明である。日本にもナイジェリアコミュニティがあり合法的に入ってくる人たちはいる。また入管施設とあるように大村の施設は収容所ではない。出国が前提になっているがそれを拒んでいるといる人を「日本国内に戻さないようにする」ための施設である。ハフィントンポストは彼の犯罪歴として「窃盗」しか書いていないが発表によると薬物事案でも捕まっていたようであり、少なくとも当局側は常習性(薬物の常習性なのか犯罪の常習性なのかはわからないが)があったと言っている。つまり朝日新聞は情報を隠していることになる。
朝日新聞が情報をマスクしたのは「薬物事案」となると「人権問題としての餓死」という側面が議論されなくなるからなのだとは思う。しかしこうした一連の配慮が朝日新聞を信頼できない新聞にしているのも確かなことだろう。情報を隠蔽していると取られかねないからだ。
ナイジェリア
ナイジェリアはアフリカでは最大の約1億9000万人の人口を抱える国である。2006年から2014年ごろまでには6-8%程度の高い経済成長を実現していたがこのところは成長が鈍化していた。JETROが2018年の状況をまとめているが石油価格によって国の経済が大きく左右されるという事情がある。一方で、確かに輸出の90%を石油に依存しているが内需はそれなりに伸びているというレポートもある。またECOという新通貨を作って西アフリカに3億8500万人の統一市場を作ろうという動きもあり人口が多いナイジェリアはその中の主要国になるだろうことが予想される。ナイジェリアは一言では語れない国だ。
国内にはハウサ人・ヨルバ人・イボ人という異なる三つの民族集団がいる。しかし、人種が地域間対立の原因になり内戦まで起きている。このため人口調査ができないようだ。さらに話される言語が500語あり、キリスト教とイスラム教という対立もある。一つのアイデンティティでまとまるということはできそうにない。日本の常識では語れない国なのである。
このため北部を中心に治安が悪化している。有名なのはボコハラムである。グローバル化へのイスラム抵抗運動だがかなり非人道的な行為が横行しているようだ。人身売買や虐待も常態化しているようで、最近も「拷問の家」から人々が救い出されたというようなニュースもあった。さらに女性を拉致してきて子供を産ませて労働力として売り払うということも起きている。レイプもひどい話なのだが国内に奴隷市場があるということがほのめかされた記事だと思う。この「赤ちゃん工場」は首都近くの話なので北部だけでなく全土で統治がうまくいっていないことがわかる。
ハフィントンポストの2017年の記事はビジネスセクターには優秀な人たちが揃っていると書いている。アメリカに留学した人が多いためだそうだ。ただ官には人材がいないという。石油さえあれば経済が回ってゆくという国で官僚に意欲がなくなるのは当然のことである。政府の規範意識は民政化によって崩壊し汚職が蔓延しているそうだ。石油を売れば金が入ってくるわけだから富国強兵に務めるより手っ取り早く石油の上がりを掠め取ったほうがよいのだろう。
今回の問題を朝日新聞のように「かわいそうな収容者が餓死した」と括りたくなる気持ちはわかるのだが、実際にはそんな生やさしい話ではない。政府が全く信頼できない国からやってきた人たちすべてが日本人と同じような遵法意識を持っているとは思えない。仲間を頼って生存競争を勝ち抜かなければならない。
例えば、ナイジェリア系日本人のボビー・オロゴンさんは現地で経済系の大学を卒業しているようだ。現地で言えば10%のエリートなのである。今では日本語で投資哲学について講演したりしている。このように教育を受けていたり留学経験があるナイジェリア人もいれば現地で生き抜くのに精一杯というナイジェリア人もいるのだろう。こうした人たちを一緒くたにして語ることはできない。そして現実問題としていろいろな国からいろいろなバックグラウンドの人が入ってくる。今後外国から人を受け入れればもっと状況は複雑になるはずだ。
どうしても白黒はっきりつけたがる日本人
この記事はもちろん「移民問題など面倒だから入管に押し込めておこう」というのが問題の根源になっている。現地に戻ることも難しく定着教育にも多額の費用と人的リソースが必要になるだろう。周囲のサポートが必要だが日本は社会システムが複雑化しすぎていて余所者が入り込める隙間がない。すると日本人は判断停止に陥り問題をなかったことにしてしまう。この場合長崎県大村という場所にそうした人たちを閉じ込めているわけである。
入管施設は事実上の収容所と化している。日本の学校教育ですら自殺者がでているのだから、管理されて先が読めない施設で外国人たちの精神状態が極めて近視眼的になってしまうのは無理がない話である。食事があり医療施設もある空間でみんなに知られながらいきたいという本能に争ってお腹を空かせて死んでゆくというのは極めて異常な精神状態だ。
一方で「収容者=かわいそうな人たちだ」といって騒ぐのもまた反対側の思考停止である。朝日新聞が「薬事事案で逮捕歴がある」ことを報道できなかったのは、彼らもまた「薬事事案=けしからん人たちだ」という偏見を持っていたからだろう。しかし、それが報道できなかった気持ちもわかる。入管の人権問題を探っているうちに例えば六本木のナイジェリア人支配の話を取材しはじめると多分議論の質は全く違ったものになってしまうだろう。どうしても白黒はっきりした話を好む日本人に向けて「味付け」がなされてしまうわけである。
つまりよく考えてみるとどちらも思い込みで思考停止しているだけだ。そして白黒はっきりしないと考えること自体をやめてしまうのだ。しかし日本人が考えるのをやめても問題そのものはそこに存在し続ける。もし再発防止や人権問題についてきちんと分析したいならこのナイジェリア人の男性がどこから来てどんな人生を送ったのかということを正確に伝える必要があるのだろう。