春子の「成仏」

『あまちゃん』が最終週を迎えた。鈴鹿ひろ美が歌を披露して「昔の春子が消える」というのが昨日の内容だった。昔の春子は「残してきた思い」のようなものを象徴しており、それが消え去ることで「過去の思い」が解消するということを演劇的に表現している。思いを残していたのは春子だけではない。劇中では語られないものの鈴鹿ひろ美にもそれなりの思いがあったようである。

人は誰でも過去の選択に後悔した記憶があるはずだ。そうした後悔は消えてしまう場合もあるが、いつまでも残り続けることがある。ただし、それを直接的に表現することはできないために、可視化するためにはなんらかの工夫が必要である。今回は過去の選択と後悔が主人公の一人になっている。

そしてそれが「解消」されたときに、ある種の解放感が得られる。これをカタルシスと呼んだりする。ドラマの中では、過去の後悔が登場人物を結びつける装置として働いているので、これが解消されることでドラマそのものからの解放が図られる。

よく「あまロス」ということが語られる。『あまちゃん』が終ってしまったら、心の中にぽっかり穴が開くだろうという予想である。ところが、よくできた演劇は「時間と空間」が区切られていて、いわゆる「演劇的空間」が作られている。そこに引き込んでから解放してあげるところまでが劇作家の仕事だ。

区切られた空間で演劇を見るのは、普段の生活の中では得られないカタルシスが得られるからだ。お茶の間で見ることが前提のテレビドラマでにはこうした区切りがないものもあるのだが、今回はうまく作用している。

問題は、なぜこのドラマでカタルシスを得る必要があるのかという点だろう。今回のドラマは東日本大震災を扱っている。震災では多くの命が失われた。ご遺体も上がらず「さよなら」も言えずに別れ別れになってしまった人たちがたくさんいるはずなのである。

日本人は、亡くなったら自然に還って行くという死生観を持っている。最終的には個人が消え去り集団に戻るというのが、伝統的な考え方である。これは現代の仏式の葬儀儀式にも残っていて「順番を追って」気持ちを切り離して行く。通夜を行い、葬儀をして、初七日があり、四十九日がある。霊魂の存在を信じるかどうかによって「成仏」にはいろいろな解釈があると思うのだが、生きている人たちから見ると、こうした手順を追う事で「お互いに残した思い」を解消する装置になっている。

NHKでは「3.11の被害者をいつまでも忘れない」というようなキャンペーンをやっている。そのキャンペーンソングの中に「私はなにを残しただろう」という歌詞があるし、思い出すのも「あの人たち」ではなく「あの人」だ。いつまでも忘れたくないという気持ちが残るのは当然だ。その一方で、当事者たちからすると「いつまでも思いが残っている」ということは、なかなかしんどいことなのではないかと思う。

100x100「昔の春子が解消した」ことの裏にあるのは、単に過去が解消したということだけではなく、そこで得たつながりを保ちつつも「さあ、前に進もう」という共感だ。直接的には犠牲者については触れず – このドラマでは終始一貫して直接的な言及は避けられている – 思いを汲み取ろうという努力が感じられる。

演劇的なカタルシスに価値があるのは、私達の普段の生活の中に意のままにならないことが多く存在するからだ。

ミツバチと農業の多様性

 

2006年にアメリカ合衆国でハチが大量に失踪するという出来事があった。『ハチはなぜ大量死したのか』はそれを扱った本だ。結論から言うと、この本を読んでも、ハチが大量に失踪した理由は分からない。分かるのは「あまりにも複雑すぎてよく分からない」ということだけだ。原因は未だによく分からないらしい。

セイヨウミツバチはいろいろな作物の果実を実らせるために利用されている。だから、ミツバチの大量死は、農業そのものの崩壊につながりかねない。そして、農業の崩壊は局地的に起こるわけではない。ミツバチは世界各地を人の手で移動させられている。世界が緊密に連係しているせいで、ある地点で広がったウィルスは直ちに別の場所に広がる。

各地で使われている農薬も多岐に渡る。単体ではテスト可能だが、複合的にはどのような影響を与えているのか、実はよく分からないし、実験室レベルでは確かめる方法もない。

このように様々な理由が積み重なって、結果的にミツバチの群れが崩壊したのではないかというのが、最終的な結論だ。

この実例は「アイルランドのジャガイモ飢饉」に似ている。アイルランドでは、限られた場所に単一の品種のジャガイモを植えたために、ウィルスが劇的に広がったのだった。アイルランド人はジャガイモに極度に依存していた結果、人口は大幅に減少し、その後の回復には長い時間がかかった。

ミツバチの例はもっと複雑だ。原因は1つではないし、影響を受ける範囲も限定的ではない。地球上がアイルランドのようになっても、逃げる場所はどこにもない。

生態系というものは、注意深く積み上げられたパズルのようなものだ。そして多様な生態系ほど、変化やストレスに強い。システム内で回復力が働くからである。世界中が緊密につながると、その変化に系が対応できなくなる可能性がある。そこで起こるのが「系の崩壊」である。

つまり、世界を緊密に連携させることを決めたのであれば、その一方で多様性を守るために何ができるかを考える必要があるようだ。

日本の農業は、多様性にはあまり注意を払っているとは言えないのではないかと思う。スーパーマーケットも消費者も均一な大きさの人参やブロッコリを好むし、兼業農家はあまり手のかからない米ばかりを作りたがる。。時折提案めいたものが出てくるが、それは「工業」や「経営」の立場から出てくる生産性向上の提案ばかりだ。

とはいえ、以上の議論はあくまでも当事者ではない人の意見だ。やはり、単純に「多様性を守れ」と言うのも抽象的な議論に過ぎない。その意味では「美しい国を守れ」という議論とそんなに変わりはないのかもしれない。

すると、本当に問題なのは、当の農業従事者や流通の側から「今後日本の農業をどうしたいのか」といった声が全く聞こえてこないという点なのかもしれない。経験に即した発信ができる人がいないという点が、日本の農業の大きな問題なのかもしれない。

トウガラシから見えてくるもの

インド料理について調べていて興味を持ったので、トウガラシのことを調べてみた。なかなか面白いことが見えてくる。

トウガラシは中米(現在はメキシコ説が主流らしい)原産のナス科の植物だ。にも関わらず、トウガラシ料理を自国の文化と結びつける民族は多い。例えば韓国と日本を比較するのに「トウガラシとワサビ」という言い方をする人もいるし、インド料理やタイ料理にはトウガラシが欠かせない。

新大陸からヨーロッパに渡ったのはコロンブスの時代であり、それ以前のインド料理にはコショウはあってもトウガラシの辛さはなかったはずだ。こうした料理を見るとグローバル化という言葉が使われる以前から、世界の交易が盛んだったことが分かる。

トウガラシの叫び: 〈食の危機〉最前線をゆく』は、気候変動とトウガラシの関係について書いた本だ。邦題を読むと、いたずらに悲壮感をあおる本のように思えるが、実際にはトウガラシとアメリカ各地の人々の関係について実地調査した「明るめ」の本だ。

この本を読むと各地のトウガラシ – 日本人はひとまとめにしてしまいがちだが、実際には様々な品種がある – とのつながりと「トウガラシ愛」が分かる。気候変動によって引き起こされたと思われる水害によって壊滅的な被害を受けた土地もある。気候変動が将来の可能性の問題ではなく、いま目の前にある現実だということが強調されている。その一方で、過去には育てられなかった作物が収穫できるようになった土地もあるそうだ。

『トウガラシの叫び』は作物の多様性についても言及している。農作物も産業化しており、大量に収穫が見込めるトウガラシがローカルのトウガラシを駆逐して行くことがあるそうだ。それぞれのトウガラシには固有の風味というものがあり、それが失われることで、食べ物の多様性も失われて行くであろう。各地のトウガラシ栽培には、先祖たちのストーリーがある。それが失われるということは、すなわち先祖とのつながりや誇りといったものが切れてしまうということを意味する。

その事は、『トウガラシの文化誌』からも読み取ることができる。この本も人々のトウガラシ愛について言及している。

両方の本に書かれているのが、タバスコ・ソースについての物語だ。現在に至るまでルイジアナの一家が所有した企業によって作られているタバスコ・ソースは、南軍の兵士がメキシコのタバスコ州から持ち帰ったトウガラシから作られている。この一家の先祖は、北軍による攻撃を受けてその土地を追われてしまった。戦争が終わって戻ってくると土地は荒れ果てていたのだが、ただ一本残っているトウガラシを見つけた。タバスコペッパーは生きていたのだ。そのトウガラシから作ったソースは評判を呼び、今では世界中で使われている。

このようにトウガラシから分かることはいくつもある。地球温暖化や気候変動は身近な作物 – つまり私達の生活 – に影響をあたえている。多様な食文化は、食材の多様性に支えられている。グローバル化はそれを脅かしつつある。一方で、伝統的に思えるローカルな料理も実はそのグローバル化の影響を受けて変質している。変質してはいるものの、世界の人たちはおおむねこの変化を歓迎しているようだ。

トウガラシに着目するといろいろなことが見えてくる。理屈だけを見るよりも、具体的な物や人に着目する事で、問題についての理解が深まる。

さて、世界の人々がトウガラシに愛着を感じるのはどうしてなのだろうか。

トウガラシにはカプサイシンという成分がある。ほ乳動物はこの物質を摂取すると舌に痛みを感じる。ところがこのカプサイシンを少量だけ摂取すると体温が上がり、ランナーズハイに似た症状を感じるらしい。エンドルフィンなどの鎮痛成分が生じるためと言われている。

また食べ物の味を明確にする機能があるようだ。よく「辛いものばかり食べていると舌がしびれてバカになる」と言う人がいるが、実際には逆らしい。このことは日本人の好きなスシとワサビの関係を見てもよく分かる。ワサビの辛みが加わる事で、味に「枠組み」のようなものが生じ、うまみが増すのが感じられるからだ。

日本人と味覚

インド料理について調べていると「日本人が持っている味蕾の数は世界一である」というような記述があった。なかなかすばらしいことではあるが、日本人が書いた日本人論を見ると「これ、本当かなあ」と思うことがある。特に、客観的な事実が書いてあり、出典がないものは要注意だ。ということで調べてみた。

この「日本人が持っている味蕾の数は世界一」という表現は、いくつかの事実が合成されてできた「風説」のようだ。このフレーズだけを聞くと「ああ、僕の味覚も優れているんだなあ」などと思ってしまう。そして「トウガラシばかり食べている他の国の人と違い、日本人は繊細な味が分かるのだ」という結論を出したくなる人もいるかもしれない。

味覚を調査した論文がいくつ載っている本には「白人に比べて、アジア系には味蕾の数が多い人の割合が高い」書いてあるものがある。この研究は中国人と白人を比べているが、アジア系一般に言えることらしい。インド料理の本で読んだのはこの「アジア系」を日本人に置き換えたもののようだ。

一方、オーストラリア人と日本人を比較対象した研究には別の記述がある。オーストラリア人と日本人を比べて味の識別能力がどれくらいあるかを調べた。「うま味」(グルタミン酸など)で優位な差が出たが、その他の感度に違いはなかった。この調査は溶液を使ったものだ。ところが、実際の食品の味付けを変えて出した所、オーストラリア人と日本人には違いがあった。(以上『味とにおい – 感覚の科学-味覚と嗅覚の22章』)

どうやら「白人と比較するとアジア人(日本人も含まれる)には味覚が鋭敏な人が多く」「日本人は西洋の人の味の好みは違う」というところまでは「事実」らしい。一般的な体験を重ね合わせても、日本人の方が薄味を好むという点までは合意ができそうな気がするが「日本人の味覚は世界一」とまでは言えないようだ。

この「日本人の味覚は優れている」という説には続きがある。ネット上でいくつか見つけたのは「うま味は日本人が見つけた。これがわかるということは日本人が繊細な味つけを好むからだ」というような主張だ。確かに「うま味」は世界共通語になっていて、5つの基本的な味(しょっぱい、あまい、すっぱい、にがい、うまい)の1つとして認知されている。ところがこれも「日本人」をどう捉えるかで、意味が違ってくる。

うま味を見つけて、命名したのは、池田菊苗という日本人だ。1907年に発明して特許も取っている。ところが「うま味は日本人が発見した」と聞くと「日本人一般が古くからうま味の存在を知っていた」というようにも取れる。

ところが、東南アジアから東アジア一帯には魚醤を使う文化圏がある。魚が発酵するとタンパク質が分解されうま味成分が作られる。例えばキムチにもこうしたうま味成分が含まれている。つまり、日本人は海洋アジア系の伝統を引き継いでいるということは言えても「日本人だけがうま味を知っている」とまでは言い切れないことになる。アジア人は古くからうま味を利用してきたのだ。

一方で、日本人が諸外国の人々と比べて特に際立っていることもある。それが「風味」に関する欲求だ。風味は「フレーバー」と翻訳されたりするのだが、どちらかというと「新鮮さ」を識別する指標として使われることが多い。スーパーでも「産地直送」の新鮮な野菜や魚などに人気が集る。そのために物流網が発達し、鮮度を保つ冷凍技術なども充実している。デパートの売上げが落ちていると言われているが、デパ地下の人気だけは衰えない。

強い味付けが好まれないのは「魚や野菜の素材を活かして新鮮なうちに食べるのが一番おいしいのだ」と思っている人が多いからなのかもしれない。

こうした鮮度に対する欲求が際立っているせいで、外資系のスーパーマーケットはなかなか日本で成功することができない。コストコのように価格で成功している店もあるが「日用品」「加工食品」「肉」といった主力商品は、どれもあまり鮮度が重要でないものだ。

また、新鮮な素材が豊富に手に入り、消費者の食べ物への関心が高いために、東京では世界各国の料理が食べられる。

総論すると、日本人の味覚が世界一と言えるかどうかは分からないが、新鮮な食べ物が手に入れやすい点と、世界各地の料理が食べられる点では、かなり幸福な環境に暮らしているということはいえそうである。

『最後の授業』の誤解

『最後の授業』という感動的な短編がある。

アルザス地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやらフランス語の先生が、プロシア人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。フランス語の先生は「フランス語は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年はフランス語を習得できなかったことを恥るが、もう二度とフランス語を勉強することはできないだろう。小説は「フランス万歳!(Vive la France)」という言葉で締めくくられる。

この話の教訓は「国語というものの力強さと素晴らしさ」で、一時期、国語の授業では必ず教えられていた。今40歳代の日本人であれば誰でも知っている話だろう。勉強する機会は充分にあったのに、勉強させなかった、という先生の後悔の念が語られ、フランス語をろくに習得できなかった(動詞の活用ができない)生徒も悔しさをにじませる。

これを日本語と中国語の関係に置き換えてみよう。もちろんこんな史実はない。だから中国語を英語に置き換えてもらっても構わない。しかし何語に置き換えても「かなりショッキング」に聞こえるのではないかと思う。どちらも異民族支配をにおわせるからだ。

沖縄地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやら中国語(あるいは英語)の先生が東京人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。中国語(あるいは英語)の先生は「中国語(あるいは英語)は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年は中国語を習得できなかったことを恥じる。小説は「中国万歳!(あるいは英語万歳!)」という言葉で締めくくられる。

アルザス地方に住んでいるから、この人たちは「フランス人だろう」と、私達はついそう思ってしまうのだが、実際に住んでいるのは「アルザス人」だ。アルザス語はドイツ語の一派である。(Wikipediaにはドイツ語の方言と書かれているのだが、これはことの本質に影響する問題だ)小説の中に「フランス人だと言い張っているが、フランス語もろくにしゃべれないじゃないか」という言葉が出てくるのだが、これは当たり前である。アルザス人にとって、フランス語は学校で習わなければ覚えることができない「外国語」(という言葉が適当でなければ、別系統の言葉)なのである。

この状態は実は現在でも続いている。フランスにはバイリンガルな人たちが相当数存在する。
この話のもう一つのポイントは「アルザス人」と「プロシア人」の関係だ。この頃にはまだ「ドイツ人」という概念はなかった。例え話の中で「沖縄」を出したのはそのためだ。現在の沖縄人は標準語をきれいに話すし、琉球方言が日本語と同系統にあるのは間違いがない。しかし、これを「琉球方言」と呼ぶか「沖縄語」と見なすかは、実は大きな問題だ。「独立したアイデンティティ」と見なすことも可能だし「日本人とは違う」という差別の温床にもなる。日本人としてのアイデンティティを持っている大阪府在住の沖縄人(例えば金城さんや仲村さん)を「差別するのか」という問題になりかねない。

フランス留学時にこの話に接した日本人は「ああ、民族にとって言葉は大切なのだなあ」と純粋に感動してこの話を持ち帰ったのだろう。しかし、実際には複雑な背景持ったお話なのだ。だから、最近ではこの話は教科書では教えられなくなってしまった。

アルザス地方にはこうした複雑な背景があり、天然資源や軍事拠点の問題からドイツとフランスの間で領土争いが続けられてきた。現在フランスでは「地方語」を大切にしようという運動があり、アルザス語の他にも南フランスのラテン語、サルジニア語、カタロニア語、バスク語、ケルト系の言語などを保存しようという動きが起きている。フランス語は大言語なのでこうした複雑なことが起こるのだろう、と思いがちだが、フランスの人口は6500万人だ。母語としてフランス語を話すのは7200万人なのだという。

アルザス語話者は「書き言葉としてドイツ語を使い、日常言語としてはアルザス語を話す」ことがあり、その意味では「ドイツ語の方言」ともいえる。これは九州地方の人が日常会話で九州方言を使い、学校で標準語の習うのに似ている。

日本人は「日本語は一つしかないに決まっている」と考える傾向がありそうだが、1億人以上が話す言語なので、それなりの多様性がある。しかも学校では方言の文法を教えないので、扱いが曖昧になることがある。

例えば、西日本方言には共通語にない特徴があるのだが、学校できちんと習わないために、使い方が曖昧になる傾向がある。例えば「買いよー(今、買っている)」と「買っとー(既に買ってある)」は違う意味なのだが、きちんと説明できる人は少ないのではないかと思う。「雨が降りよー(今降っている)」と「雨が降っとー(雨が降ったあとがある)」も違う状態だ。

また「しゃべれる(この人は英語がしゃべれん)」「しゃべりきる(外人とはようしゃべりきらん)(この原稿は長すぎるけん、時間内にすべてしゃべりきらんばい)」は同じ能力を現す表現なのだが、能力的に可能なのか、その意欲や余裕があるのかという違いがある。つまり方言は文化的に下位にあるからといって機能的に劣った言葉であるとは言えないし、日本語の各方言が同じ文法的構造を完全に共有しているわけでもない。

定義や独立した政治意識がないので「九州方言を九州語と呼ぼう」という動きもなければ、どこからどこまでが「九州語」なのかも分からない。例えば瀬戸内海沿岸で話される言語が「九州語を基底にしているのか」「中国地方の言葉を基底にしているのか」「そもそも西日本諸語は一つの言葉なのか」はそれぞれ議論の余地がありそうだ。

琉球方言を例に挙げたので、それだけが特別なように見えてしまうのだが、実は日本語の中にもそれぞれ特徴が異なった言語層がある。それを意識しないで使い分けている。

この「民族の問題」は、頭の体操レベルなのだが、実際の問題を考えるうえで役に立つのではないかと思う。

現在、尖閣諸島、竹島、北方領土など「辺境地域にあるのに、国家や民族のアイデンティティにとって大切な」地域の問題がクローズアップされている。大抵の場合「中国」「日本」「韓国」「ロシア」という国家領域の問題なのだが、ついつい民族問題として捉えてしまいがちだ。民族というのは複雑な概念だ。『最後の授業』では、フランス=フランス人と捉えることで、ドイツとの競争を有利にしようとした。このように、対外的に団結するために「民族=国家」という人工的な概念を作り上げることがある。

よく「我が国固有の領土」という言い方がされる。「北方領土は我が国固有の領土」という言い方は、確かに合理的な正統性があるのだろう。しかし、実際には「アイヌなどの北方民族の地」なのではないかという見方もできる。できるだけドライに「政府が合法的に手に入れたか」を問うべきだと思うのだが、ウエットな感情なしにこれらの問題に肩入れできる国民が果たしてどれくらいいるのか、少し疑問に思ったりもする。つい「日本人の土地を返せ」と感じてしまうのである。

日本国=日本人=日本列島という国に住んでいると「民族」「国家」といった問題はかなり自明のものに映る。しかし「日本語」や「日本人が何なのか」という概念は、実は私達が考えるように自明のものではない。そして対峙している国の中には、ロシアや中国のように多民族の国もある。また韓国のように、1つの言語を共有する民族なのに、3か国によって呼び方が異なる人たちもいる。

コンランとモリス

Terence Conran on design – テレンス・コンランデザインを語るを読んだ。コンランはデザイナが製造・販売・マーケティングなどに深く関与すべきだと主張している。これはコンランの個人的な体験から来ているようだ。

コンランは仕事を探すがなかなか認めてもらえない。デザインは選ばれた人たちだけのものであってはならないと考え、手軽に手に入るデザイン家具を作る。手軽に買える代わりにお客が自分で組み立てるというコンセプトは販売店には受け入れられなかったので、自分たちで店を作った。1964年のことだそうだ。コンランはデザイナは単にデザインするだけの存在ではなく、社会的に重要な役割があると考えている。

コンランがこう考えるのはイギリスが階級社会だからかもしれない。職人階層は自分たちの役割を明確にしておく必要があるわけだ。

ウィリアム・モリスはコンランよりも100年前に同じようなことをやったデザイナー出身の実業家だ。出身も同じような実業者階層だった。有名なのはテキスタイルや壁紙のデザインだが、それだけでは飽き足らずフォントまでデザインした。モリスの知識は多岐にわたる。庭を観察してイギリスならではの植物をデザインに取り入れる。染色に精通し、限られたコストで効果的に染色する方法も知っていた。ウィリアム・モリスも自分たちで会社を作りデザイン論を語り、アート・アンド・クラフトという運動を起こした。モリスはフリーランスのデザイナを起用したことでも知られているとのことである。

モリスは晩年には社会主義運動に傾倒する。しかし、実務の人らしく、マルクスの理論には関心を示さなかったようだ。しかし、デザインは限られたエリートたちだけのものではなく、幅広く大衆に受け入れられるべきだと考えていた。この主張はコンランと共通する。(ウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動 – 146枚の図版によるデザインの原典決定版 ウィリアム・モリス)

20世紀は一般に科学と消費の世紀だと考えられている。社会主義運動が起こり、一部の国では地主階級やエリート層が解体かされた。エリートのものだったデザインもこうした人たちの努力によりまた大衆化され、消費の対象になった。

近頃話題になったスティーブ・ジョブスはデザイン教育を受けたが自身はデザイナーではなかった。結果的に優れたデザインを数多く送り出した実業家として位置づけられることになった。評論家たちが主張するのは、ヒッピー文化との関連だ。これが、コンピュータの大衆化という主張に発展し、紆余曲折を経て携帯型の端末が作られた。

コンランやモリスは自身がデザイナーであり、かつ経営者としても成功した。このようにデザイナーはただ、デザインをするだけではないことを知るのは大切だし、経営やコンセプトメーキングとデザインは必ずしも無縁のものではない。人によっては政治的なムーブメントとのつながりさえ感じられる。世の中のトレンドを読むというレベルではなく、根源的な欲求を実現するための手段としてプロダクトのデザインを位置づけている。

一方、デザインをまったく無視した起業家もいる。例えばヘンリー・フォードは自動車の製造工程からデザインをまったく排除することで、量産化を図った。おかげで自動車は大衆に広まるのだが、やがてフォードTモデルは飽きられてしまうのだが、それでも無機質で「デザインのない」ものが無意味だとは言えない。その証拠にTモデルは、ある時代を表現するアイコンとして頻繁に用いられる。

このようにデザイナはただ単にできあがったものの見栄えを「ちょちょっと」良くするための職人ではないし、広告の色付け屋でもない。製品の価値そのものを決定する力を持っている。しかし、だからといって自動的にそういった地位が得られるというものでもない。先人たちの努力の上で社会的役割を自覚しなければ、便利な職人で終ってしまうかもしれない

クリエイティブな脳を作るには – 今月号のハーバード・ビジネス・レビューから

今月号のHarvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2009年 10月号 [雑誌]のタイトルは「論語」なのだが、冒頭にコラボレーションの重要性が書かれており、後半には脳についての短いエッセーがいくつかある。
ロデリック・W・キルギーとクリント・D・キルツのCognitige Fitnessでは、脳をクリエイティブな状態に保つための秘訣が書かれている。年を取ったからといって、脳が衰えるとは限らないそうである。秘訣は運動と新しい体験だそうだ。
この論文は、歩き回ること(Walk About)を推奨している。歩き回ること、すなわち運動そのものも脳に良いそうなのだが、その中に見つかる新しい発見が脳を活性化させるのだという。人間のミラー・ニューロンはまねることによって学習する。ミラー・ニューロンを使うと人間は実際の行動を起こす前に、物事を「見る」ことになる。すると、実際に行動したのと同じような効果がある。これが学習の一つの側面だ。見て回ることによって、新しい発見をすることで脳の学習回路を活性化することができるのだ。
もう一つ重要なのは「遊ぶ」ことの重要性だ。最近、報酬系の働きについてはいろいろな本が出ているので、おなじみの概念なのだが、楽しむことによって学習能力は強化される。そこそこ楽しめる遊びでないと苦痛を生み出す事になるのだが、あまり真剣に遊ばないと報酬系を満足させることはできない。時間を忘れることができるほど真剣に遊べる何かを持つ事が重要というわけだ。
さて、クリエイティビティというと右脳の働きが重要視されることが多いのだが、新しいパターンを発見するのは左脳の働きによるところが大きいそうである。既成のマインドセットから逃れるためには、人の話を聞いてみるのが効果的だという。このとき、同じような人たちとばかり話をしていても新しいパターンは見つかりにくい。だから、多様性のあるチームを持つ事は重要だ。同じ人たちとばかり話をしていると、一つのパターンの中で堂々巡りをすることになりかねない。
一方、右脳も新しいことに興味を持ち続けることで活性化されるのだという。
まとめると、常に新しいものに興味を持つ人たちが、クリエイティビティが高いのだということになる。ここまではだいたい、市販されている脳科学の本の内容をなぞるものになっている。目新しいのは、与えられた問題に対して、新しいパターンを見つけるという訓練だろう。問題にアプローチするのにモデルを作って友達と話し合ってみるというのがよいのかもしれない。
さて、続くガーディナー・モースの話は、理性的になれば問題の解決が容易になるかということについて教えてくれる。人間の脳はは虫類的な脳、動物の脳、人間の脳の3層構造になっていることを知っている人は多いだろう。動物とは虫類の脳は、報酬系(ドーパミンが理性を抑えて、欲しいものに対して突き進むことになる)と嫌悪系(扁桃体がキライなものから逃げる働きを持っている)の二つがアクセルとブレーキのような働きをしている。確かに、報酬系が暴走すると理性が抑制されて依存的な傾向を見せる。恐怖によって理性的な判断ができず、長期的には不利な判断をすることになりかねない。これだけを見ると、理性を磨いて、有利な判断ができるようにしたほうが良さそうである。
しかしこの論文によるとなんらかの原因で感情が損なわれると、判断そのものができなくなってしまうのだという。物事の優先順位が付けられず、すべての選択肢の中から一つのものが選べなくなってしまうのだそうだ。例えばどのようにファイルを片付けるかということを一日中検討しつつ、結局何も決められないというエピソードが出てくる。結局、我々は感情の働きからは逃れることができないのだ。
この感情は意識に昇る前に体を通じてフィードバックを送っているそうだ。これが、直感や無意識の正体なのではないかという。例えば1/00秒見た映像にも無意識に反応するそうだし、「これ何かおかしいな」と考えたとき、意識より先に手に汗が出るといった反応があらわれるそうだ。
瞬時の感情に捉えられてはいけないのだが、無意識や感情なしに判断を下す事はできないのだという。

マルコム・グラッドウェルに聞く – 努力だけしてもムダ

マルコム・グラッドウェルの「天才!成功する人々の法則」を読んだ。原題はアウトライヤーという。標準値から外れた例外的な人といったような意味合いだ。成功するには並外れている必要がある、というな含みがある。アメリカは個人の「才能」を重視する社会だ。こういった天才がどうやってつくられるのかというのがメイン・テーマになっている。
マルコムは次第に、才能があるのは必要最低の条件であって、天才であっても環境が整わなければ才能が発揮できないのではないかということを見つける。例えばIQが195あってもめぼしい成功を収めることができなかったクリス・ランガンという人が出てくる。この環境が何かということは細かく定義されていないのだが、豊富な資源と機会のことのように思える。マルコムは自主性・複雑さ・努力に見合う報酬を列挙する。
天才と呼ばれる人が才能を発揮するには、練習を積む必要がある。ここでは経験的に10,000時間という練習数字が提示される。つまり才能+後天的な何かが必要だということだ。そういった言葉は出てこないが「技術(スキル)」と呼んでもよいだろう。練習するためには、それに専心できる環境が必要だ。いくらコンピュータ・プログラミングの才能があっても、コンピュータを使える環境がなければ練習を積む事はできない。だから環境は重要なのだ。
もう一つ環境が重要なのは、そこに文化が絡んでくるからだ。文化にはいろいろな傾向がある。ここでは「権力に対して率直に意見を言える文化」「率直に従える文化」「けんかっぱやくない文化」などが挙げられている。いくら才能があっても文化的な傾向が抑制されてしまえば、芽が出る事はないだろう、とマルコムは考える。
この考え方は東洋哲学にも出てくる。才能を「命」、環境を「運」という。これをあわせて運命と呼ぶわけだ。成功できるかどうかは運命次第ということになる。
さて、日本のコンテクストではこの文章はちょっとした読み替えが必要だ。日本は長い間、環境が同一であり、才能も同一だという前提があった。同じくらいの才能の人を選抜して集めることが多かったからだ。才能にばらつきがある場合には、違いがないフリをしつつ低い方に合わせることが多い。あとは努力次第ということになる。こういった環境ではちょっとした差違が大きな違いを生むと思われやすい。状況が膠着してくると、やる事がないから「もっとがんばれ」というようにいっそうの努力を求めることになる。
また「英語さえできれば」といったように、スキルがあればなんとかなると思い込みたがる。スキルは努力すれば身につけることができるからである。しかしマルコム・グラッドウェルに言わせれば、努力だけしても環境が整っていなければムダなのである。特に現代のように成功の機会の限られた社会では、努力の浪費は日常茶飯事の出来事だ。
このような努力重視型の社会はいろいろな意味で才能を無駄遣いしている。一つは才能のない人に努力をさせているということ。もう一つは才能がある人につまらない努力をさせていること。そして最後には環境が整わないのに努力だけさせているということだ。最後の環境についてはすこし理解が進んで来ている。学力テストの結果「貧富の差が学力テストにあらわれている」からだ。お金がないから塾に通わせないということが学力格差につながっている訳ではなく、勉強をする文化がない層が顕在化していると見た方がよさそうだ。例えば夏休みに塾に通わせる家庭と、別に何もさせない家庭はお互いに交流がない状態になっているのだそうだ。ものすごく頭がよいのに、勉強しない家庭に生まれたがために実力を開花させることができないこともあるかもしれない。サッカーが飛び切りうまいのに、そういった才能を重要視しない家庭というのもあるだろう。一方、飛び級のような制度もないので、才能のある子どもも中庸な子どもが同じカリキュラムで努力させられている可能性も否定はできない。
最後にクリス・ランガンの話に戻る。IQが飛び切り高く家で独自に研究をしているそうだ。確かにマルコムが指摘するようにこの人が才能の無駄遣いをしている可能性もなくはないのだが、彼の優れた才能が後世に評価されないとは限らない。我々がまだ理解できないだけなのかもしれない。マルコム・グラッドウェルは最新の研究を私たちが持っている常識に引きよせる点に価値があるのだが、学術的な裏付けが十分にあるものではない。ただ、それらを差し引いても、才能、技能、環境のバランスという視点は、今ある環境で我々が才能や努力を無駄遣いしていないかを確認するのに役立つだろう。