「リーマンショック」を最初に使い始めたのは誰か

民進党の議員が日本語文書に入っていた「リーマンショック」という言葉が英語文書にない、印象操作だと息巻いている。知らなかったのだが、この用語は和製英語なのだそうだ。政府は英語にはない表現なので使えなかったのだろう。wikipediaの対応する英語項目は「リーマンブラザーズの倒産」で、重要ではあるが金融危機の一部にしか過ぎない。

まあ、それだけの話なのだが、別の疑問が湧く。この和製英語は誰が使いだしたのだろうか。これも今回始めて知ったのだが、Google Newsにはニュースのアーカイブ記事を日付付きで検索する機能がある。調べてみたところ、ロイターの記事が見つかった。リーマンブラザーズが破綻した翌日に銀行の株を中心に値を下げた。これを金融業界の人が「リーマンショック」と呼んだのだろう。当初は鍵括弧付きで報道したのだが、そのうち一人歩きをすることになったようだ。今では2008年金融危機のこととして一般に通用している。

要は株価急落がリーマンショックだったことになる。日本人にとって経済危機とはすなわち株価が下がることなのだろう。欧米では住宅ローンの破綻が相次ぎ、全体的な金融危機になっていた。リーマンブラザーズの問題だけでもなかったわけだ。また、リーマン・ブラザーズが破綻したから金融危機が起った訳でもない。だから金融危機をリーマンブラザーズの破綻で代表させることはできないのだ。

このショックという言葉の元祖はニクソンショックだろう。一般的には、アメリカがドルを金に交換するのを停止したことを指す。ニクソンショックは英語だった。その後オイルショックという言葉が生まれたが、オイルショックも和製英語なのだそうだ。その後「〜ショック」という言葉は使われなくなったのだが、2000年代後半のITバブル崩壊の頃から株価急落の意味で頻繁に使われるようになった。英語ではショックと呼ばずにクライシスというのが一般的なようである。

リーマンショック(2008年金融危機)は100年に一度の未曾有の状態と言われた。それが8年で再来するというのは、1000年に一度の東日本大震災がもうじき起るというのに似ている。とはいえ、翻訳文書に「リーマンショック」という言葉がないから「印象操作だ」というのも滑稽な話だ。そもそも国内でしか通用しない和製英語なのだ。

100円均一観葉植物の土は使えるのか

100円均一ショップで観葉植物の土を買った。ネットで調べると「100均の土は使わない方がよい」という話を多数見かける。本当のところはどうなのだろうか。

成分を見ると「ココピート」と堆肥を混ぜ合わせた土のようだ。赤玉土が入っているがごく少量。多分、100均の土を最大の欠点は、赤玉土に入っているだろう微量のミネラル成分が欠けているところなのではないかと思う。つまり、後から肥料を足してやることが前提になっているのだ。ココピートはピートモスと違って劣化による目詰まりは少ないそうだ。

ネットで調べるとココピートの原産地はスリランカだそうだ。輸入する際のトラブル(鉄くぎが入っていたり、塩害があったりする)が多数見つかった。多分もともとは産業ゴミ(つまりココヤシのゴミ)なのだろう。また有機質は酸度が高い可能性がある。一応、100均の土には酸度・塩分濃度に関する保証が書いてある。

今回植え替えたのはマダガスカルジャスミンとオリヅルランだ。マダガスカルジャスミンは10年選手なので扱いが雑になりがちだった。古土を使って植えていたのだが、土になじんでいない上に根に土が充満していない状態で半年放置されていた。そのような状態に比べると、100均の土は「まだ、まし」と言える。繊維質が根になじむので通気性はよくなるだろう。

またオリヅルランは持て余し気味で捨ててしまおうかというものだった。これは水苔でも育つほど丈夫なので土にはあまりこだわらなくても良さそうである。

土が余ったので余分な植木鉢にも入れた。ただし、使えるかどうかはオリヅルランなどの経過を見て判断したい。

ただし、どちらも肥料は必要そうなので、100均で観葉植物の肥料というものを買ってきた。コーヒー殻と紅茶殻でできているという怪しげなものだが、一応お守り代わりに蒔くことにした。繊細な植物には微量元素(マグネシウムなど)の補給が必要になるのだろう。また、酸度に弱い植物(タイム、ローズマリー、ラベンダーなど荒れ地で育つ植物)にはあまり使いたくない。また繊維質の土は乾燥には弱そうなので、素焼き鉢で外に置くというような使い道には向かなさそうである。最後にココピートは4〜5年でへたるそうなので、植え替えは必須だ。ただし、土を4年も放置するというのはなかなか考えにくい。

以上の特性をふまえると、100均の土はそこそこ使えそうである。植物繊維由来の土は軽いので持ち運びがラクな点はメリットと言えるだろうし、栄養を外から補給できるということはコントロールがラクということでもある。

いろいろ特性を考えると100均の土にも使い道はある。取り扱いが簡単そうなプラスティックの鉢も取り揃えているので、室内で気軽に観葉植物を育てるには悪い選択肢ではないのではないだろうか。

なお、100均には赤玉土や堆肥なども置いてある。これは小袋に入っており、ホームセンターなどと比べると単価が高いそうだ。しかし余った土を捨ててしまうよりも、少量買えた方が便利なこともあるかもしれない。六号鉢には2.2リットルの土が入るとされている。

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インド人は普段ナンを食べない説について考える

よく「インド人は普段ナンを食べないんだよねえ」という話を聞く。これ本当なのだろうか。ちなみに出てくる写真は全て北インド(デリー首都圏とジャイプール)のもの。

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普段のインド人が食べていると考えられるチャパティとカレーのセット。これで4ルピー。コフタらしいものが入ったカレーとお漬け物が付いていて、近くで働いているらしい人たちが集まっている。チャパティの枚数を聞かれた。枚数によって値段が違うらしい。つまりカレーは付け合わせみたいなものなのだ。

チャパティを作るためにはアタと呼ばれる全粒粉を使う必要があるのだが、これが意外と日本では贅沢品だ。アタ1kgが500円もする。(ちなみにリンク先はAmazonのアフィリエイトです。)ただし、発酵のような面倒な手続きは必要ない。混ぜて焼くだけ。

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エアコン付き(つまりちょっと高級な)急行電車に付いてくる朝飯。外国人だけでなく普通の人が使っている。サンドウィッチだった。イギリスの植民地だったわけで、当然インド人もパンを食べるわけだ。「インドではカレーしか食べられない」というのも本当ではないということになる。CIMG0130

ハーベリーと呼ばれる外国人向けのホテルで食べたナン。インドの家庭にはタンドールがなく、ナンはレストランで食べるものということだ。CIMG0154

これもレストランで食べたナン。前の写真は長円形だったのだが、こちらは正円。形もいろいろのようだ。これで100ルピー程度。日本円だと安く感じるが、多分インドではそれなりのお値段なのだろう。このように格差が非常に大きいのがインドで「一般のインド人は何を食べているか」という問い自体が成立しないものと思われる。白いのは米なので「米とナンが一緒に出てこない」というのも嘘らしい。
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おやつなのか、朝の軽食なのか分からないが、朝から混雑するサモサ屋台。ここにもタンドールはなく、油で揚げるためのコンロがある。群がっているのは男だけですね。サモサはカレー風味のジャガイモが入った三角揚げ餃子みたいなもの。CIMG0163

いきなりプーリーが出てきたが、これは南インド料理屋さんで食べたもの。バナナの葉で米という印象だがそれだけではないようです。プーリーはチャパティを揚げたもの。つまりこれも全粒粉らしい。カレーといってもいろいろな種類があり飽きないと書きたいが、これは個人的にカレーが好きだからですね。CIMG0173

ふたたび急行電車の食事。ご飯とチャパティ(丸まっている)が出てきた。普段の食事はチャパティというのは本当らしい。ホイルに包んであるのは暖めてあるから。インド=貧乏というイメージがあるのだが、冷たい弁当が主流の日本の新幹線より暖かい料理が出るインドの急行の方が贅沢なのかもしれないですね。CIMG0192

近所で買ってきたサンドイッチ。台湾、韓国、日本のようにコンビニで気軽に食事を買うというわけには行かないらしい。中の具材がカレー風味ということはなかった。ただし、付け合わせに買ったスナックはスパイシーだった。

もうそれでもカレーは嫌だという人にはマクドナルドもある。さすがに牛と豚は出てこない(ソーセージもチキンでできている)のだが、チキンハンバーガーを食べることができる。

幻に終わりそうな東京オリンピックと高度経済成長幻想の終わり

ヨーロッパでは東京オリンピックの招致に不正が判明した場合の代替開催地についての議論が始まっているようだ。イスタンブールは間に合わないのでロンドンでやろうという話があるらしい。噂レベルで本当かどうかは分からないのだが、もし本当なら2020年は日本にとっては苦い年になるだろう。本来は自分たちの国で開催するはずだったオリンピックをテレビで見ることになるのだ。

だが、これで良かったんじゃないかと思う。もし仮にイスタンブールが開催都市に選ばれていたら、東京は再び招致活動をやっていただろう。招致活動には多額の資金が投入されるのだが、これは結局のところ広告費や税金で賄われている。いったん招致に成功したのだから、これで再び招致活動をやろうなんていう人は出てこないだろう。

そもそも東京でオリンピックを開くのは無理だった。最初は「コンパクトにやります」などと言っていた。能力的にコンパクトオリンピックを開催することはできるだろうが、その気持ちは最初からなかったようだ。理念を実行するプロデューサのような人はいないし、あとは「どれだけむしり取ろうか」という人たちばかりだ。実際のところスポーツ大会が成功するかなんていうことはどうでもよかったのだろう。

その結果「一度既成事実さえ作ってしまえばあとは借金してでもどうにかなる」と甘い気分でプロジェクト管理する政治家たちやそのおこぼれに群がろうとする人たちのおかげで予算は膨らみ続けている。森元首相は「もともとあんな予算では無理だった」と言い放ったそうだが、それは、悪徳リフォーム会社が年寄りを騙すときに使う手口で、いわば詐欺だ。

買収で開催を勝ち取って。リフォーム詐欺まがいの方法で国民を騙す。こんなオリンピックを誰が喜ぶのか、もう一度冷静になって考えた方がよい。

フランスの司法当局が贈収賄を認定すれば、電通は世界のスポーツイベントに関わりにくくなるのではないだろうか。しかし、一度不正にコミットしてしまえばずるずると不正に関与せざるをえなくなるわけだから、この程度ですんで良かったと思えるときがくるかもしれない。

それにしてもどうして招致委員会はこんなに危ない橋を渡ってしまったのだろう。日本は想像以上に困窮していたのではないだろうか。高度経済成長時代の夢をもう一度と焦るうちに倫理感覚が麻痺して買収行為を行ってしまったのだ。バブル終焉からずるずると続いていた「夢よもう一度」といううっすらとした希望がビッグプロジェクトとともに打ち砕かれるのだ。オリンピック招致の失敗には高度経済成長幻想の葬送という意味合いがあるのだろう。

この過ちを胸に刻むためには、壊してしまった国立競技場の跡地を更地のまま保存するのがよいのではないだろうか。何も開発しないで、数本のシンボルツリーを植えて芝生でも敷けば都民の憩いの場所になるだろう。そこで一日ぼんやりと何もしないで過ごすというのも贅沢の一つかもしれないし、「もう過ちは繰り返しませんから」という石碑があれば、公園もどことなく意義深いものになるだろう。

電通叩きとか収奪とか

オリンピック贈収賄疑惑は「電通叩き」の様相を呈してきた。だか、電通は特に悪くないと思う。そもそも電通は広告を売っている会社ではない。企業に様々な利便を提供するのが主な仕事だ。発注権限を持つと、クライアントは「何でもいうことを聞いてくれる奴隷のような」人を求めるようになる。そのあれこれに応えてやるのが電通の仕事で、別にクリエイティブなんかどうでもよいのである。その延長にあるのが、オリンピックのとりまとめだ。もともと「偉い人の汚い仕事を引き受けてお金をもらう」のが電通の仕事なのだ。

もともとオリンピックは貴族が新しく始めたビジネスだ。彼らは「働かずに庶民から搾り取る」にはどうしたらよいかを常々考えている。貴族にとって働くというのは庶民がやることで、奴隷みたいなものだ。もともとは地代収入、権益、徴税で食べてきた人たちなのだが、それだけでは食べてゆけなくなったので、庶民に感動を売るようになったのだ。

安倍首相や森元首相がどんなに偉くても彼らにとっては「庶民の代表」にしか過ぎない。本当にメンバーになれるのは竹田家のような貴族だけなのである。ということで、電通は貴族にお友達がいる庶民の小間使いくらいの位置にいる。彼らを叩いてもあまり意味はないのではないかと思う。

ちなみにディアク氏はスポーツマン出身だ。奴隷階層みたいなものである。ディアク氏は「やり過ぎた」のだろう。不正なお金を手にするしかなかったのだ。貴族はそんなことはしない。正当な手段で搾り取るのだ。だから庶民は「搾り取られて喜んでいる」ことになる。庶民は「国」に所属しているという幻想を得ることで、気分を高揚させる。そのためにはいくらでも支払うのだ。

そもそも「何が賄賂か」という問題がある。もともとはロシアのドーピング隠蔽が発端だったようだ。ロシア人は「奴隷階層が健康を壊して人生を台無しにしても」別に構わないと考えるわけだが、それはヨーロッパ基準では「ルール違反」だとされた。そこでロシアはディアク氏に隠蔽を依頼した。ラミーヌ(ラミン)・ディアク氏はそれに失敗したので、ロシアから「金を返せ」といわれ、表沙汰になった。ディアク氏の資金の流れを解明する段階で、電通や日本当局からの「巨額資金」が表沙汰になったのである。多分ヨーロッパ基準では「賄賂」なのだが、これが世界基準ではなくなりつつある。

もともと、日本人は口利きをそれほど悪いことだとは思っていないようだ。口利きは日本の文化に根ざしているからだろう。例えば甘利元大臣が役職を利用した役所への口利きも大した問題にはならなかった。日本人が口利きをいけないことだと考えるのは「他の人たち(ヨーロッパやアメリカ)がそう思っているから」に過ぎない。だから「他の人」がやっていれば自分たちもやるのだ。

同じような感性を持っているのが中国人だ。役職にある人が私腹を肥やし海外に資金逃避させることが当然だと見なされている国である。アフリカにもそのような国が多い。ということで、中国に対抗意識を持っている安倍政権は自分たちも賄賂を支払い、国民もそれをそれほど悪いこととは思わないのだ。

例えば最近の話題ではトルクメニスタンへの2兆円の「投資」がある。実際には日本企業が大型プロジェクトを受注する。こうすると都合のよいことがいくつもある。税金を投入して海外に流す。トルクメニスタンは独裁国家なので、現地の政治家にキックバックさえすれば、確実に投資を回収することもできる。そして大企業がプロジェクトを受注する。これを海外法人の儲けということにして税金の安い国に投機した会社の売り上げに勘定できれば(していないかもしれないが)合法的に資産の移転ができるのだ。大企業はそのうちの一部を「寄付」として自民党や政治家に移転すればよい。

トルクメニスタンの投資には違法性がないというところだ。文句を言いそうな人は排除せずに「抱き込んでやればいい」のだ。

オリンピックの問題に戻ると、あとは商品価値の問題だけである。オリンピックでは汚い金がうごめいていると多くの人が考えるようになれば、オリンピックの商品価値が毀損される。問題になるのは放送権が高く売れるアメリカとヨーロッパの人たちの価値観だろう。また、借金だけが残るということになれば招致都市がなくなる。するとオリンピックが実施できるのは、比較的大きな金が動かせる独裁国家だけということになる。すると貴族たちは困るわけで、それなりの改革策を打ち出すことになるだろう。

一方で新興国を介した資金逃避はよりおおっぴらな形で温存される可能性がある。これは国家財政の私物化という意味で、国家の持続可能性を大いに毀損する。多分、本当に怒るべきはこうした問題なのではないかと思う。

だから、電通叩きには大した意味はないわけだ。

日本は物を大事にしない国になるのか……

今日のTwitterネタ。日本では長く車を使っていると税金が高くなるのでけしからんという趣旨のブログ記事を読んだ。「日本は物を大切にしない国になってはいけない」というのだ。

個人的には、日本で車を買う気にはなれない。アメリカで車を持っていた経験があるのだが、そもそも日本は税金が高すぎると思う。アメリカの経費はガスタグ(定期チェックしてナンバーを更新してもらう)と保険だけなのだが、日本ではそれだけでは済まない。アメリカで乗っていた車は1977年製造のビートルである。12万円で買って8万円で売った記憶があるが、途中でマフラーが落ちた。それでもガスタグチェックには引っかからなかった。

日本では車は贅沢品の扱いだ。にも関わらず多くの人が個人の車を所有している。

日本では軽自動車がよく売れているらしいのだが、この傾向が続くかどうかは分からない。軽自動車は政府の政策に左右される側面があり、車メーカーは「軽自動車頼み」にならないようにバランスを取っているそうだ。

では、軽自動車の税金が高くなったら、人はどうするのだろうか。おとなしくもっと高い車を買うのか。実際にはそうならない気がする。

消費者は別の手段で車の購入資金を抑えるのではないだろうか。そもそも国民所得は低くなってきており、社会保障費が上がるという長期的なトレンドがあるのだから、車の購入そのものを手控えることになるだろう。特に都市部ではそれが顕著に現れるはずだ。いわゆる「若者の車離れ」というやつだ。友達が車を持たなくなれば自分も必要がなくなる。顕示消費ができなくなるからである。

仮に車が必要な場所に住んでいたとしても安い車が売れることになるだろう。ではメーカーはどのように車の値段を下げるのか。

軽自動車の会社はシェアを上げるために、新車を買いとって中古市場に流しているそうだ。中古車マーケットは組織化されてきており、オークション形式で値段が付くようになっている。つまり、税金を上げると新車が売れなってしまう。廃棄処分の費用も考えると、適当な年次の車を中古で乗り換えるということになるだろう。

メーカーが維持できなくなった車を廃棄するとは思えない。国内で人件費をかけて廃棄すると高くつくからだ。すると規制のもっと緩やかな国への輸出が始まるだろう。日本車は丈夫なので海外でも立派に走るに違いない。すると新興国の新車需要を押し下げることになる。

この傾向が続くと「若者の地方離れ」が加速するだろう。「車での生活が維持できない」ということになれば、若者は地方に戻れなくなる。東京圏の政令指定都市でも近郊部では車がないと生活ができない地域があるが、真っ先に空洞化するのではないだろうか。これは地方にとって深刻な問題だ。

現在地方自治体の首長が「安い車を売れ」と政府に要求することはない。税金が上がったとはいえ、まだ許容範囲なのだろう。もし、アメリカの要求に従って安い軽自動車が提供できなくなったときには政治問題化するかもしれない。地方にとっては死活問題だ。

現在審議が止まっているTPPが通れば、日本は政策オプションとして軽自動車優遇ができなくなる。小さな車を作るのが不得意なアメリカの自動車メーカーにとって軽自動車は非関税障壁だからである。一方で、軽自動車が売れなくなったからといってフォードやGMのピックアップトラックが売れるということもないだろう。日本の狭苦しい駐車スペースにフォードは駐車できない。

そのうち地方から突き上げられ、アメリカの車も売れないという時代が来るのかもしれない。

クッキーモンスターの転向

セサミストリートの面白いところは、キャラクターの無意味な情熱だ。例えばカウント伯爵は数えることに異常な情熱を持っており、数えているうちに我を失ってしまう。人間の無邪気さの裏にはこうした狂気が潜んでいるものだ。同じようなキャラクターにクッキーモンスターがいる。クッキーが大好きなのだが、そのうち興奮して何でも(食べられないものでも)食べてしまうという設定である。

ところが、そんな無邪気なクッキーモンスターはもういないらしい。英語版のwikipediaによると、クッキーモンスターはその哲学を曲げてしまったらしい。「クッキーはときどき食べるもの」であり、果物や野菜も食べなきゃだめなのだという。以下、一節の抜粋。コルベア・リポートは深夜のショー番組で、ピーボディー賞はテレビのピューツア賞と呼ばれる栄誉ある賞なのだそうだ。

2008年6月19日、コルベア・リポートに出演したクッキーモンスターは再び「クッキーは時々食べるもの」だと説明した。彼はスティーブン・コルベアのピーボーイ賞を食べようとした。コルベットは興奮して、なぜクッキーモンスターはクッキー賛成の立場を捨てたのかを訪ねた。スティーブンの聞いたところによると、クッキーモンスターの転向のせいで果物が子供の大好きな食べ物になってしまったそうだ。スティーブンはクッキーモンスターがクッキーラベルピンを身につけていないことも批判した。 クッキーモンスターは70年代80年代は狂った時代で、自分はロバート・ダウニー・ジュニアのクッキー版だったと主張した。クッキーモンスターはピーボーイ賞(丸いメダルで小さな台座が付いている)はクッキーなのかと訪ね、コルバートがショーの終わりに戻ってくると、賞は消えておりクッキーモンスターは口を拭っていた。

背景にはアメリカの子供の栄養知識の不足があるのだろう。アメリカ人は(日本人に比べて)家庭の味にとぼしく、人によっては栄養の知識が全くないまま育つこともあるという。子供の教育を担うクッキーモンスターもこうした教育的配慮とは無縁でいられなかったことになる。いわゆる「政治的配慮(ポリティカルコレクトネス)」で、日本でいうところの「コンプライアンス」だ。

ちなみに、クッキーモンスターの一番好きなクッキーはチョコチップであり、二番目はオートミールクッキーだそうだ。日本語版のwikipediaはクッキーモンスターに対する情熱はあまりないらしく、ほとんど記述が見られない。

若者のチューイングガム離れ

政治ネタばかり書いていると心がぱさついてくるので、お菓子について調べてみた。面白いことにビスケットが3年で13%も消費を伸ばしているのだというのだ。なぜ今頃ビスケットが話題になっているかというと、オレオやリッツなどの製造がヤマザキからモンデリーズに移管されるためだ。毎日新聞が伝えるところによると、モンデリーズがターゲットにしているのは40〜50歳代なのだという。意外と高齢化している。

お菓子業界では常識らしいのだが、東日本大震災以降カンパンなどの売り上げが伸びていた。だが、飽きっぽい日本人は3年で買うのを止めてしまったようだ。ではなぜビスケットが再び伸びているのか、その理由は分からなかった。画期的な新商品が出たという話も聞かない。

となるとビスケットの影で泣いているお菓子もあるに違いない。おせんべいが減っているのではないかと予想してみたのだが、それは間違いだった。お年寄りが増えて米菓の売り上げは好調らしい。

もちろん売れ行きが悪くなったお菓子もある。チューイングガム・アメ・洋菓子などである。グミがアメの中に入っておりアメ分野の売り上げをカバーしているようだ。

洋菓子(ケーキ、カステラ。ドーナッツなど)はコンビニでコーヒーと一緒に売られているのでさぞかし人気なのだろうなあと思ったのだが、チョコレートなどにシフトしているのだという。気軽に食べられるものが好まれているということになる。現代人は優雅にケーキなんぞ食べている時間はないのだろう。勝手なイメージだが「スマホ片手に食べられるもの」か「お年寄りに好まれるもの」がよいのかもしれない。チューイングガムや飴のように食べるのに時間がかかるものは好まれないのである。

チューイングガムや飴のコマーシャルは、売り上げを落とさないためにやっているようだ。だから「息がきれいになる」などと機能性ばかりを唄っているわけだ。

お菓子業界では二極化も進んでいるようだ。

例えば、贈答品としてのお菓子の需要が高まっているらしい。お年寄りから子供まで誰でも楽しめるからだろう。一方で地方の小さなお菓子メーカーは苦境に立たされているところもあるようだ。やはりお土産にするなら老舗か誰でもよく知っているメーカーのものが選ばれる。地味なメーカーは淘汰され、大きいところだけが生き残るというのはなんとも世知辛い話だ。

手軽に食べられるスナック菓子が喜ばれる一方で、町の小さなケーキ屋さんや地方の小さなお菓子どころなどは苦しい状態に置かれているのかもしれない。例えば、専業主婦が少なくなると「ホットケーキミックスを使ってカップケーキを手作りする」みたいなことが贅沢になる。すると子供たちはスナック菓子やチョコレートに移行するだろう。一方で「セックスアンドザシティに出てきました」みたいなカップケーキが流行ったりする。

個人的にはマシュマロ好きなのだが、ほとんど店頭で見かけることはなくなった。コンビニにも置いていないところが多い。一方で、最近ではドミニク・アンセル・ベーカリーのフローズンスモアが話題になった。マシュマロの中にアイスが入っているというもの。古くからのお菓子が消える一方で、トレンドものが出てくるという状況になっているようだ。マシュマロは女子が大好きなコラーゲンが入っていると言う人もいる。「機能性訴求」は不調の証なのかもしれない。

気軽にスイッチングできるお菓子は飽きられてしまってはおしまいである。そこでメーカーは新製品作りに熱心に取り組む。しかし、日本人の飽きっぽさは世界でも例がないらしい。コンビニ菓子の中には季節ごとに新しい風味の商品が出るものがある。例えば、キットカットのように外国人から珍しがられているものもある。抹茶や紅芋など珍しい種類のキットカットがあるのは世界でも日本だけなのだそうだ。外国人の中には甘いマメ(つまりあんこのこと)を気持ち悪がる外国人もいるので、案外こういうのがクールジャパンだったりするのかもしれない。

きのう・きょう・あしたの語源

日本語では、今日からみて次の日のことを「あした」と表現する。ただし、あしたのもともとの意味は「朝」である。このことから、昔の日本には明日・今日・昨日という概念がなかったことが分かる。あしたの対になる言葉はゆうべであり、これは昨日の夜の意味だ。日本人は今、あしたの朝、きのうの夜くらいの時間軸で生活していたことになる。

明日、昨日は中国語から輸入した概念らしい。現在では明天・昨天というようである。中国語では、翌年のことを、明年・来年と言うらしいが、日本語からはなぜか「明年」という表現が落ちてしまっている。

ゆうべには今でも「一般的な夜」の意味と「昨日の夜」という二種類の使い方がある。これは日本語に冠詞がないからだろう。つまり、evening, the evening, an evningのような区別ができないのだ。同じようにあしたにも、「一般的な朝」と「特定の(つまり明日の)朝」という二種類の区別があったのではないかと類推できる。

ちなみに昨日はきのふであり「(さ)きのひ」から来ていると考えられているようだ。「さき」が、「さきの大戦」のように過去を向いているのが興味深い。「このさき」というと将来のことになる。今日はけふであり、「け」は「けさ(この朝)」と同じだという。「ふ」は「ひ」が転じたものらしい。

シリアル – 朝ごはんについて考える

先日、NHKのあさイチという番組で「主婦の時間のやりくり」という特集をやっていた。そこでは、忙しい主婦が朝ご飯の品数をそろえることが「偉い」と評価される一方で、坂下千里子のような「手抜き主婦」がパンにピーナツバターを塗っただけの朝食を「えーこれが朝ご飯なの」などと非難されていた。

伝統的な家族観のもとでは坂下千里子は糾弾される運命にある。これが多くの主婦を苦しめている。主婦は「みそ汁が飲みたいなら自分が作れ」とは言えないからだ。だが、これは合理的な選択ではない。

朝ご飯の目的は栄養を取り「体と頭を立ち上げる」ことである。ピーナツバターとパンだけでは栄養が足りないのだが、特に品数を揃えるのも面倒だ。だが、世の中にはシリアルという便利なものが売られていて、多くの食材と栄養素を同時に取ることができる。

「いやいや、朝は暖かいものが食べたい」という人がいるかもしれないのだが、インスタントスープやコーヒーを付ければ言いのだし、「朝には発酵食品が必要だ」という人がいるのなら、ヨーグルトを付ければいい。朝は忙しいのだから、火を使った料理を極力減らしたいと考えるのが人情というものである。わざわざご飯を炊いてみそ汁を作る(具を揃えて出汁から作ると結構面倒くさい)必要はないわけである。

どうやら日本人は「効果」を「かけた手間の時間」で計測するという悪癖があるらしい。「人月指向」なわけで、これは、延々と続く残業のように様々な無駄の温床になっている。だが、朝ご飯の効果は「栄養」で計測されるべきだ。短い時間で栄養が準備できるなら、それは「費用対効果が高い」と賞賛されるべきではないだろうか。

品数が多い朝ご飯が賞賛されるのはなぜだろうか。いくつか理由がある。

  • 昔はシリアルのような便利なものがなかったので、栄養をまんべんなく取ろうと思うと様々な食品を組み合わせる必要があった。
  • かけた時間が愛情の量だと錯誤されている。

もちろん、専業主婦なら朝ご飯づくりに時間をかけてもよいのかもしれないのだが、公共放送を使って賞賛するほどのことではないのではないかと思う。

朝ご飯を作ってもらう側(まあ、本当は夫が作っても良いのだろうが)の一番の障壁は「ママが作ってくれたご飯と違う」というものなのだろうが、自炊経験がある人なら、独身時代には時間をかけていなかったはずなので、意外と受け入れは難しくないと思う。すると、残る障壁は姑世代の「私たちの時代はこうではなかった」という、世間の目かもしれない。

もっとも受け入れる側も「時間をかけないで栄養を摂取できるのはいいことなのだ」とは思わないかもしれない。それよりも海外セレブ(たいては女性モデルのことだ)などが、朝ご飯としてスムージーを飲んでいるのを見てあこがれるというのが受け入れ経路になるのではないかと思う。同じ栄養でも青汁ではダメなのだ。

さて、アメリカでシリアルが流行したのは「肉を食べるよりも健康に良い」とされていたからだそうだ。ベーコンと卵の食事は「コレステロールが高く不健康だ」とされていたのだろう。ただし、砂糖を使いすぎているとか栄養が添加物由来であるという批判もあるという。ヨーロッパなどのいくつかの国で「伝統的な朝食を破壊した」という批判もある。

アメリカではシリアルの消費は伸び悩んでいる。ケロッグは朝食以外でシリアルを使おうというキャンペーンをやったり、朝の時間をうまく使おうというキャンペーンまでやっているそうだ。この記事が挙げる、シリアルが食べられなくなった理由は3つだ。

  1. 忙しすぎて、シリアルすら作っている時間がない。代わりにシリアルバーなどを食べている。
  2. 子供が少なくなり消費量が減った。
  3. 砂糖は健康に悪いという認識ができ、伝統的なベーコン&エッグに戻りつつある。

理由1と3は矛盾するように思えるのだが、アメリカでも二極化が進みつつあるのかもしれない。特に理由1はショッキングだ。日本人の常識から見ると、シリアルを準備する方が「時短だ」が、それさえも「時間がなくてできない」というのだ。アメリカ人は何に時間を使っているのかが知りたくなる。