今や存在そのものが麻薬になりつつあるNHK

テレビを設置すると自動的にNHKと契約したと見なされて受信料を支払う必要がある。一部には「裁判をするまでは払わなくて良い」という人がいるのだが、裁判をすると負けてしまうのだから、実質契約の義務を負っていると言っても良いだろう。この裁判の結果を見て「NHKを見たくない人もいるのに不公正だ」と感じた人も多いのではないかと思う。

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日本人の内向きさはどこからくるのかあれこれ考えてみる

先日、選挙結果を見ながら記事を一つ書いた。記事で言いたかったのは「日本では都市と地方で関心が異なりつつある」ということだったのだが、それでは誰も興味を持たないと思ったので「安倍首相が民意をつかんだ」というようなタイトルにした。

日本の選挙結果には興味があるのだが、安倍政権側が勝つことはわかっているのだから分析してみてもあまり面白くはない。イタリアやスペインでは都市部と地方部の分離が起こっているので、なぜ同じ先進国脱落組の日本に同じような動きが起こらないのかという問題について普段から考えている。そこで都市部の票を見てみたのだ。

そこでわかったのは日本の都市部の広がりが思っていたよりも小さいということだ。せいぜい都心部だけが都市と言えるのであって、イタリアやスペインほどの広がりがないのである。カタルニアのようなことが日本で起こるためには九州程度の地域が繁栄する必要があるのだが、日本は全体が地盤沈下しているのでこうした動きが起こらない。さらに大阪のように南北格差がある地域もあり、南でポピュリズム汚染が起きても北部が同調しないという現象もある。

ここから予想できるのは日本で景気対策がうまく行くと「自民党離れ」が起こるので、自民党は景気を悪くしておいたほうが政権が維持できるという結論である。つまりなんらかの事象について観察すると、ある仮定が得られる。

その一方で、多くの日本人がこのような事象には全く興味を持たないこともわかっている。日本人は関係性には反応するが、政策などの「オブジェクト」に対する反応はほぼないと言っても良い。だから、人物の名前を挙げた方が「引きが強くなる」のである。だが、それが時にはハレーションを引き起こす。ではそのハレーションは良いことなのだろうか。悪いことなのだろうか。

結論から言うとハレーションにはそれほど良い効果はない。かといってそれほど害になることもない。これも日本人のコミュニケーションの特性になっているようだ。

このエントリーは書かれてからしばらくは忘れられていたが一週間程度経過して突然閲覧数が伸び始めた。いわゆる「バズった」。その波及の具合を確認してみよう。

最初に異変に気がついたのは11/1にメンション付きのツイートが増えたことだった。シェアボタンなどを押すと自動的に送られるものだ。

Facebookからの流入が増えていた。つまり誰か有名な人がエンドースした結果、そのフォロワーが閲覧し「読みましたよ」というつもりでシェアボタンを押したのではないかと思われる。

とはいえなんらかのコメントがついたわけではない。単に「読みましたよ」というだけだ。つまり、作者に対するリアクションではなく、紹介した人と同じ経験をしたという意思表明でありある種バッジの役割を果たしているのではないかと考えられる。注目すべきなのはエンドースメントに二次的な広がりはないという点だ。Twitterからの流入はそれほど期待できないのである。

そして次の日になってはてなブックマークからの閲覧が増えた。はてなブックマークは検索ができるので調べてみたところ否定的なコメントが多く見られた。単なるお遊びではないかというものと、分析が雑だというものだった。どちらも当たっている。本人も「雑だなあ」と思っているので特に反論するところはないのだが、こちらは一度シェアされるとそれなりに「外野」の人たちが見にくるのだなと思った。つまり冷笑的な広がりのほうが二次的に広がりやすいのである。

冷笑的なコメントには核がない。核がないゆえに若干広がりやすいのではないか。

このどちらも「書いた本人のあずかり知らぬところで盛り上がっている」という意味では完全に等価である。つまり、悪口もレコメンデーションも「同じ価値がある」ということである。だが、広がり方には違いがある。と同時に冷笑のほうが遅れてやってくる。少数のアーリーアダプターであるインフルエンサーがおり、冷笑はラガードなのだと言える。企業が好ましい効果を求めてインフルエンサーを探す理由がわかる。インフルエンサーは露出を増やすのだが、それは必ず冷笑系のコメントを伴うのである。

なぜこのような行動になるのかを考えてみた。いくつかの行動原理があるのではないかと思った。

第一に、日本人は接触によって他人から影響を受けることを極端に嫌うのではないかと思う。誰かに何かをいうということは相手から影響を受けるということである。日本人は賛成意見であれ、反対意見であれ影響を受けることを極端に嫌う。

例えば、最近「賛同的な意見がTwitterで寄せられたとしてもそれに追加的な譲歩を乗せてはいけない」ということを学んだ。相手は教えられたいとは思っていないことが多く、「追加意見に影響を受ける」ことを恐れて反応を止めてしまうのである。これは「違った情報が出てきたときにノーと言えない」からなのではないかと思う。つまり対象物ではなく「賛成」「反対」という態度表明のほうが優先順位が高いのである。

相手は賛同しているのだから、ここではそのポジションを崩さずに「そうですね」などの共感的なフィードバックだけである。たまに語りが止まらなくなる人もいるが、大抵は同意されると満足するようだ。悪口をいっている人も、その悪口が相手に届いてしまうとそれに反論される「リスク」がある。反論されるとそれに影響されるリスクがあるので、2ちゃんねるやはてブのようなところから離れて冷笑的な態度を取るのだろう。

ここで本来考えるべきことは「変質」が必ずしも負けにはならないという点だ。変質は個人の成長につながる可能性があるのだが、受け身で情報を覚える教育ばかりを受けてしまうと「いうことを聞いたら負け」というような思い込みが生まれるのかもしれない。先生と生徒という関係が固着してしまうのが日本の教育だからだ。

従って、ここから二次的に出てくるのが他者には興味がなく優劣のバッジのようなものだけを欲しがっているのではないかと思う。賛成反対が「左右」だとしたら「高低」に当たる関係も固着するのだろう。

例えば「日本人は韓国人よりえらい」という高低の関係がある。いったんこういう思い込みが生まれるとどういうことになるのだろうか。

最近、柳美里という作家のところに「通名を使うのは止めてはどうですか」というTweetを送っている人がいるのを見て大笑いしてしまった。この人は「ユウミリ」という本名で活動しているのだが、そのことを知らなかったのだと思う。つまり、本人のプロフィールを知らずに、在日=通名=狡猾という図式を持っているのだと思う。だから特に韓国系の作家に興味があるわけではなく、単に「在日には何を言ってもいいのだ」と思い込んでいるということになり、それを自動的に当てはめているのである。

このことはある種の救いにはなる。例えば柳さんはこうした声を聞いても「単に記号としての韓国」に反応が集まっているだけなのだと考えればよい。その韓国は実際に東京から数時間で行けるあの韓国ではないし、柳さん個人に対しての中傷でもないということになるだろう。

これは応用ができる。丁寧に対応したり、同じ土俵に立っていないということを見せることによって「相手より格上である」という印象が与えられるのである。こうしたスキルに慣れている人がいて、SNSでコメンターを相手にしないという態度を見せつけることで「高低差を演出」している人たちがいる。

最後に日本人は公共や社会というものに関心がないのではないかと思う。つまり、お互いにアイディアを出し合えばよりよい智恵が得られるというようなことを信じていない。普段から「社会のためには個人を抑制して我慢しなければならない」ということだけを教えられるのだから押し付けにはうんざりだと考えても無理もない。新しい参加者に対して「お前は黙っていうことを聞いているべきだ」という高低の関係を押し付けることによって、コミュニティは核を失ってゆくのではないか。ある人たちは単にインフルエンサーに追随するようになり、別の人たちは冷笑的に外からコミュニティを見るだけになるのではないだろうか。

ここで重要なのは、集団がその要件を失ったとしても、個人主義が徹底しているわけではないので、自分一人の考えというものは持てないという点だろう。日本人は集団で行動しているように見えてしまうのだが、こうして作られる「集団」は集団の要件を満たしてはくれない。意思決定につながる情報伝達のプロセスがあるわけでもないし、集団による保護機能もない。

それがディスコミュニケーションを生み出しているのだが、このディスコミュニケーションは何を生み出すのだろう。

例えばこんな事例があった。トランプ大統領の娘が来日し、安倍首相がそこに57億円支出すると表明したというニュースが流れた。これは共同通信の報道を鵜呑みにした新聞社各社の誤報だったようだ。だがそれを鵜呑みにした人たちが、普段からの安倍首相の言動を思い出したのか「海外にばらまくのはけしからん」と騒ぎ出した。しかし、後になってこれは世界銀行が関与しているファンドであり、すでに国会にも報告があったようだという情報が加えられた。すると「サヨクの早とちりである」という応酬があった。これも普段からおなじみのパターンである。さらに夜になると「実は世界銀行はアメリカの関心をつなぎとめるために、トランプ大統領にすり寄っておりガバナンス上の問題が出ている」という話や、外貨準備金は塩漬け資金と言われているが実は利用しようと思えば利用はできるのだなどという情報が出てきた。

つまり、この事例を追いかけていると「世界銀行の問題点」とか「グローバルインバランス」について勉強することができるのだが、相手を叩くことにしか関心がないために、いつまでも知識が増えて行かない。

つまり、核がなくなった集団では知識が更新されないので、成長が止まってしまうのだと言える。逆に高齢化して成長が止まってしまったからこのようなディスコミュニケーションが起きてしまうのかもしれない。今まで「日本人」を主語にしてきたが、これを近所の頑固なおじいちゃんに置き換えても同じような文章が書けるように思えるからだ。

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民進党のグダグダぶりに見る日本が集団主義ではないわけ

「日本は集団主義ではないのか」という疑問がツイッターで流れてきた。ホフステードについて教えたら、代わりに別の本を紹介してもらった。さらにQuoraでも日本は集団主義かという質問があった。

ここで「日本は特に集団主義でもないのにどうして集団主義だという人が多いのか」という疑問を持った。真面目に考えてみてもいいのだが、それではつまらない。そこで、民進党のグダグダぶりから日本が集団主義ではない理由を考えてみたい。

民進党は短い間に代表が何回も変わった。選挙の顔になると期待された蓮舫代表だったのだが、東京都議会選挙で惨敗すると途端に「蓮舫のせいだ」という声が起こった。そこで、前原さんが新しい代表になったのだが、独断で何の話し合いもしないで希望の党との合流を決めてしまった。しかし、希望の党のガバナンスがめちゃくちゃであることがわかり有権者の期待が失速すると、今度はたちまちのうちに前原批判が巻き起こり「今すぐやめろ」とか「いややめない」という話になった。だが、冷静に考えてみると、前原さんの方針は議員総会で示されてみんなで賛成したものだった。つまり、前原さんの思いつきにみんなで飛びついたのである。

ここまでのグタグダぶりはマスコミから伝えられる他、Twitterでも発信されていた。いくらなんでも反省しただろうと思ったのだが、今回の大塚代表になってもまだもめているようだ。共産党との連携に期待する人たちは蓮舫さんを担ごうとしたのだが「協力する」とか「しない」という話になり、独自路線を期待されている大塚さんが代表になった。しかし、共産党連携派の人たちは納得しておらず、さらに分裂する可能性があるのだという。背景には連合の中にある左派と右派の対立がある。連合は名前が示す通り複数の労働組合の共同体でありまとまりがない。大塚さんは分党を狙っているのではないかという懐疑派と共産党のような卑しい人たちとは組めないという人たちがいていつまでもいがみ合っている。

民進党が一貫しているのは「共通の目的を作って一致団結しよう」という気持ちが全くないという点である。つまり、個人が集団に貢献しようという気持ちがみじんも見られない。つまり、民進党は集団主義的とは言えない。

これを民進党固有の問題だとみなすことはできる。では、希望の党はどうだっただろうか。こちらは、小池さんの同意なしに代表を変えられないという規則になっているようだ。民進党出身者が大半を占めるのに、彼らは党のことは決められない。選挙名簿も小池さんの独断で決められるようになっており、民進党出身者には不利なものだった。その上「ガバナンス長」というような仕組みもあり、個人である小池さんが議員の言論を統制できるようになっている。つまり、集団の意思疎通と意思決定がそもそも最初から全く信頼されておらず、独裁主義と言える。独裁は集団主義とは言えない。

こうした独裁にもかかわらず民進党の一部が合流したのは「党の規則がどうであれあとでどうにでもなる」と考えた議員が多かったからだろう。つまり、民進党は「集団で決めたことでも都合が悪くなれば覆すことができる」という認識を持った個人によって構成されていることになる。

さらに、選挙期間中に細野さんや若狭さんは勝手に小池さんを代弁して好き勝手なことを言っていた。後になってわかったのは、彼らは話し合いをしておらず、お互いに何を考えているのかさっぱり理解していなかったようである。

ここまでを見て「集団で何かを決めてそれをみんなが守る」というような政党は皆無だった。しかし、それは民進党出身者がバカだからんではないのだろうか。

ということで、維新の党を見てみよう。こちらは丸山穂高という議員が「惨敗したんだから代表選をやるべき」だと発信した途端に、ほぼ部外者である橋下さんから罵倒された。しかし、橋下さんはそれがどのような影響を及ぼすかを考えなかったようである。丸山議員は選挙区で勝っているので票を持って外に出ることができる。そして、本当に離党してしまった。丸山さんは票を持って自民党に行くこともできる立場になった。今になって松井府知事・代表が「橋下さんは言いすぎた」などと言っているが、発信が始まった時には何も言わなかった。松井さんは代表でありながら定見がない。つまり党のガバナンスを行っている人が誰もいないのである。

この三党の事情を見てわかることは何だろうか。それは集団の中で意思疎通ができておらず、それぞれが好き勝手に自分の言いたいことを言い合っているということである。さらに集団は個人を守ってくれず、不祥事を起こしたりすると「党員資格停止」とか「除名」などの処分がいとも簡単に下される。それぞれの党がどのようなイデオロギーによって結びついているのかもさっぱりわからないし、ましてや血族集団のように離れようとしても離れられないような集まりでもない。

ここでわかるのは日本の政党は、意思疎通もできていなければ、何のために集まっているのかもわからず、また安全保障の装置としても機能していないということである。これではとても集団とは言えない。

では、自民党は集団としての体裁を整えているだろうか。自民党の人たちが安倍首相に逆らわないのは、政府の役職を安倍首相が決めるからだ。だからこちらも後ろから安倍さんを撃つような発言が時々出てくる。最近では麻生副総理が「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」などと言い出した。

日本で集団主義的と言える政党は公明党と共産党しかない。どちらも何のために集まる集団なのかということが明確であり、個人よりも集団の考え方の方が優先されるという世界である。だが、日本で政党を作ると集団になれるのはごく例外的な団体だけなのである。

では、なぜ日本は集団主義の国と呼ばれるのだろうか。第一に個人の考えは全く尊重されず、評価されるのも集団だという事情がある。例えば個人の主張はそれほど重要視されないが「東大出身の人が何か言っている」ということが信頼される社会である。

さらに、個人同士の調整をするのに顔を出した個人が出てくることが少ない。どちらかというと匿名のままで無言の圧力をかけたり、同調圧力を使って「規則だから」といって個人を抑圧することが多い。この個人を隠したがる態度はかなり徹底している。例えばTwitterでは個人で政治を批判する人はいない。リベラルあるいはネトウヨというポジションをとってコピペした意見が交わされている。これは個人でポジションを形成し、個人の名前で発言するという文化が全くないからである。

確かに政治的発言にはリスクがあると考えられるのだが、WEARでも同じような姿勢が見られる。こちらでは顔を隠した個人がうずくまるようにして洋服のコーディネートを披露するという構図がよく見られる。つまり、個人を表明するということは日本では避けられなければならない行為だと考えられているようだ。個人の意見は受け入れられないが、個人は攻撃の対象になってしまうからなのだろう。

ここからわかるのは、日本の集団は特に何かのために機能しているというわけではないということとだ。だが、個人主義が確立していないので他人に圧力をかけるために集団を使うということだけである。

これを集団主義と呼ぶことはできない。強いて言えば「全体主義」とか「封建主義」と呼ばれるべきだろうが、実際には個人主義が確立していないだけでなんとか主義とは言えないのではないかと考えられる。

政党の場合はこれがかなり悪い出方をしている。集団としてまとまることもできないし、かといって個人で何かを考えて打ち出すこともできないというような人たちが、まとまれないままで好き勝手なことを言い合っているように見える。

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日本人と古代の朝鮮半島利権

沖ノ島について冗談めいたエントリーを書いたことがある。沖ノ島は朝鮮半島(釜山)との直線距離にあったので、利権化されていたのではないかという他愛もない説である。世界遺産登録された結果検索が増え、このブログの中でも多く読まれる記事になってしまった。

いい加減な記事なのだが、本当に日本人はまっすぐに朝鮮半島を目指したのかという疑問がある。そもそもなぜ日本人は朝鮮半島にどんな用事があったのだろうか。

実は日本人は古くから朝鮮半島との間を行き来していた。3世紀の魏書弁辰伝には、弁韓は鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していたという記述があるという。記述を読むと倭人が朝鮮半島に住み着いて鉄を採掘していた可能性すらあるという。

一般的に「倭」が日本だとされているので、日本人がわざわざ半島に渡って鉄を採掘していたということになる。

鉄を持っていると、農業生産が上がり武器も作ることができる。つまり、国力が増して周囲の国よりも大きくなることができる。つまり、当時の勢力にとって、鉄は必要不可欠な戦略物資だった。

ただ、この弁韓は巨済島の奥にあたる地域で釜山からは離れている。対馬からは巨済島が近いので、対馬・壱岐・松浦郡・糸島郡・那の津がメインストリートだったことがわかる。魏志倭人伝でもこのルートを通って邪馬台国に渡っている。いずれにせよ沖ノ島を通るルートはせいぜい秘密の裏ルートくらいの意味合いしかなかったのかもしれない。

最初「日本人が朝鮮半島に鉄を取りに行った」と書いたのだが、この認識は正しいのだろうか。

中国大陸には華夏と呼ばれる集団と越と呼ばれる集団があり、それぞれ別の言語を話していたとされる。これらの民族が混成されて漢族と中国語という概念ができてゆくのだが、今でも北京の人と広州の人たちはお互いに理解ができず、遺伝子的にもばらつきが多い。越の人たちが住んでいる地域を百越と呼ぶ。この百越の人たちのことを倭と呼んでいたようだ。

倭人はもともと長江周辺で稲作をしていたのだが、華夏の人たちに押し出されるように南下し、その一部が朝鮮半島から日本列島にやってきたと考える人たちがいる。DNA解析をするとこの説が裏付けられるそうだ。百越は中国南部からベトナムにかけて広がっていて、オーストロネシア系の言語を話していたと考えられている。

この説をとると倭人は中国人だということになってしまう。つまり中国人が日本にも住み着いたということになってしまうのである。これがおかしな話なのはなぜだろうか。それは倭人が列島にきた時代には中国という国もなければ、日本という国も存在しなかったからである。

面白いのは中国から見た文明や国という考え方である。倭人はどうにか意思疎通が可能な人たちだったらしい。が、その外側には全く意思疎通ができない人たちが住んでいる。そして意思疎通が可能な人たちは時々中国の都にやってきて地方の文物をお土産に面倒な挨拶をしている。例えば外国人がいきなりやってきて「朝貢」という概念を説明しても笑われるだけだろう。つまり、当時の北部九州の支配者たちは、中華圏の文明をある程度理解していたということになる。

つまりある程度文明化してから列島に渡ったと考えた方が自然なのである。

いずれにせよ、日本人というのはかなり曖昧な概念で、あとから作られた可能性が高い。このことは日本人の後進性を表しているというわけではない。朝鮮半島も似たような状態だった。

魏書弁辰伝には韓と濊という2つの概念がある。このうち濊は北部からやってきたツングース系かツングース系とモンゴル系の混成民族だという説が一般的なようだ。現在の韓国人はツングース系とは言えないのだから、残りの韓が現在の朝鮮民族なのかという風に思いたくなるのだが、実は朝鮮民族がどのように成立したのかということもよくわかっていないようである。中国が京畿道あたりまでを支配していた時代にはその南にある漢に服属しない地域を韓と呼んでいた。が、北部にも服属していない領域がありそこにはツングース系の人たちがいた。これらが混成して現在の朝鮮人・韓国人ができたと考えるのが自然なのだろう。

韓の南に倭があったとされていて、この倭の領域が半島の最南端を含んでいるという説がある。つまり倭人は対馬海峡と朝鮮海峡を挟んで北部九州と朝鮮半島南部を領域にしていた可能性がある。そうなると、今の日本と倭の領域はずれていたということになる。今の日本は東日本から北部の旧蝦夷地を含んでいるが、倭人がそこまで進出していたのかはよくわからない。少なくとも九州南部にはクマソとかハヤトなどと呼ばれる人たちがいがいたことがわかっており、倭人の領域ではなかった。

中国の人たちにとって意思疎通が可能だったのは邪馬台国までだ。今どこにあったのかよくわかっていない邪馬台国より向こうは「何があるのかよくわからないし、記述する価値もない」ということになっている。だから日本列島の人たちの祖先が倭人だったのか、それとも倭人と地元民の混成だったのかということはよくわからないし、仮に地元の人たちがいたとしても彼らが何系統の言語を話していたのかということもよくわからない。

いずれにせよ、この時代には中国という枠組みもなかったし、朝鮮・韓国という枠組みもなかった。日本という枠組みもなかった。だから、誰が日本人なのかということを考えても無意味なのである。

では、日本人はいつからどのような理由で日本という枠組みを自明のものとして捉えることになったのだろうか。弥生時代の倭人は稲作と鉄文化を持っていた。稲は種籾として持ってきて日本列島で育てることができたが、鉄がどこにあるのかわからなかったために朝鮮半島南部に権益を持ち採掘していた。ところが5世紀か6世紀ごろになると日本でも鉄が作れるようになった。日立金属のウェブサイトに次のような記述がある。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

九州に接続する地域で国産の鉄が取れるようになった。それでも貨幣は中国から輸入する必要があったが、秩父地方で胴が発見される。国産の和同開珎が発行されたのは708年だそうだ。このようにして日本の経済は徐々に大陸から独立してゆく。

さらに、外交戦略上の失敗もあった。朝鮮半島南部には新羅と百済という2つの国ができるのだが、ヤマト王権は百済に肩入れする。だが、百済は新羅との競争に負けてしまったので、ヤマト王権は半島への足がかりを失ってしまった。

すると、半島や大陸との交易は外交の一環ということになるのだが、朝貢していた国が傾くと外交も途絶えがちになった。さらに、航海技術が発展し民間貿易をする人たちが出てくると、わざわざ偉い人たちが危険な海を超えて物資を持ち帰る必要がなくなった。こうした事情から日本の政治は内向的になり、半島の事情にも疎くなってゆく。このようにして次第に列島の西部を版図とする日本という枠組みが作られたのではないかと思われる。当時の東部はまだ未開の地で国という概念はなかった。

日本史が混乱するのは、明治時代に西洋から国民国家という概念を輸入したからだろう。国民国家という概念が自明に成り立つためには、もとから国の領域に単一のまとまりを持った人たちが住んでいなければならない。日本人はそもそも単一のルーツを持った血によってまとまった民族集団だという幻想が生まれることになったのだろう。国会議員の中には神話を基に日本人意識を高めるべきだなどと発言する人もいる。

皮肉なことにこの考え方は日本に支配された朝鮮半島にも持ち込まれた。日本列島にいる人たちが単一民族だとすれば、そこから独立するためには朝鮮民族も単一のルーツを持つべきであるという理由から、半島の南部にいた系統不明の人たちとツングース系と思われる北部の人たちの混成だったというような学説が支持される余地はない。代わりに朝鮮民族は5000年の歴史を持っているという自意識が作られた。

韓国人にとってみれば、北部の歴史は満州と同じツングース系の民族が住んでいたということは中国の一部だったということを認めることになりかねない。この議論は高句麗論争と呼ばれているそうだ。また、南部に倭人の拠点があったということは日本の支配権を正当化することになりかねない。代わりに対馬はもともと朝鮮の領土だったなどと言っている。

いずれにせよ、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島まで、なんとか意思疎通ができる人たちとそうでない人たちがいたのだということはわかる。これらの人たちが同一言語を話していたとは考えにくく、今よりも緩やかで多言語的な共同体があったのではないだろうか。

現在の感覚で見ると、韓国は飛行機でゆくちょっと遠い場所だが、距離だけで見ると実はそれほど離れていない。佐賀県の唐津市から距離をとってみるとこんな感じになる。

感覚的には佐賀から宮崎や鹿児島に旅行するのと同じような感じなのだが、言葉が通じない人たちが住んでいた可能性を考えると九州南部の方が危険だった可能性すらある。地図感覚も現代になって作られたものだということがわかる。

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そもそも民族とは何なのか

国連は2008年以来、沖縄人は琉球弧の先住民族だと認定するように日本政府に勧告しているらしい。この勧告について自民党は「国連に撤回を求めるべきだ」として問題化しようとしている。

この発言には大いに問題がある。国益に反するので、国連に勧告撤回を求めるのはやめた方がいいだろう。撤回を求めている人たちは本土の代表であって「抑圧者」だと見なされる可能性がある。次に民族の概念は定義が曖昧であり、そもそも議論が成り立たない可能性が高い。沖縄選出の自民党議員に「我々は日本人である」という運動をやらせてもいいが、これは沖縄に住む人たちを分断することになるだろう。民族という概念は政治の産物なので、政治問題化しやすいのだ。

もし撤回を求めるとしたら、代わりに「第三者」に琉球諸島(そもそも琉球諸島そのものにも明確な定義が存在しないそうである)の住民へのアンケートを依頼すべきだ。民族というのは、その人のアイデンティティの問題だからだ。琉球弧の人たちは、ことによっては複数のアイデンティティを持っている可能性があるし、先島諸島の人たちが本島に住む人たちと違う民族意識を持っている可能性すらある。

民族は曖昧で複雑な概念である。

日本人はノルウェーにはノルウェー人が住んでいると思っているだろうが、実際はそれほど単純ではない。ノルウェーは長らくデンマークやスウェーデンと同君連合を組んでいた。なので、ノルウェーの言語はデンマークとスウェーデン語とあまり変わらない。しかし、それでは独立した民族とは言えないので「独自の言語」を取り戻す運動があり、従来の言語と独自言語の2つが公用語として採用されている。アイルランド人の多くはアイルランド語ではなく英語を話す。しかし、独立国に住みアイルランド人としての自己認識を持っており、アイルランド語が保存されている。

また、ペルシャ語を話す人はイランとアフガニスタンにまたがって住んでいる。だが、彼らは別民族とも同一の民族とも言えない。イランのペルシャ人はアフガニスタンのペルシャ系の人たちに対する差別意識がある。ペルシャ人は(トルコ系の言語を話す人と区別して)ペルシャ語の話者をさす場合とイランに住むペルシャ語系の人をさす場合があるそうだ。

ウズベグ人はロシアの統治を経てソ連で定義された。ウズベグ人の中にはトルコ系とペルシャ系の言語を話す人が含まれ、コーカソイド系とモンゴロイド系がいるそうである。ウズベグ人の中に含まれるタジク系の人たちだが、タジク語はペルシャ語の方言なので、この人たちはペルシャ人ともいえる。こうなると、何がなんだかさっぱり分からない。歴史的に「ウズベグ」と呼ばれる人たちがおり、イスラム系の非ロシア人をまとめる際に人工的に作られた概念らしい。だが、一度ウズベグ人という概念ができてしまうと民族意識が後から形成される。

民族という概念は時に悲劇を生む。ルワンダに民族対立があると信じている日本人は多いが、そもそもツチ・フツという概念はヨーロッパ系の人たちがでっち上げたものだと考えられている。バンツー系の支配層と被支配層に違った民族概念を与え「ツチはエチオピアからやってきた」という「事実」を作り出した。後にラジオのプロパガンダを真に受けたフツ系の人たちが、短期間で50万人から100万人のツチ系の人たちを虐殺したのだ。

北朝鮮と韓国に住む人たちは、自分たちを同一民族だと考えているが、朝鮮語と韓国語という別名称の言語(内容はほぼ同一)を話す。台湾に住む人たちは、同じ国に住み、ほぼ同系の言語を話すが、中国人だと考える人と、台湾人だと考える人に分かれている。中には「台湾人であり中国人だ」と考える人もいる。つまりこの2つの概念は二律背反するものではない。台湾にはオーストロネシア系の原住民がいて、話が複雑化する。誰が本来の台湾人なのかという問いに単純な答えはない。

日本人が「琉球人などという概念は存在しない」という主張をしているのと同じような主張をしている人たちもいる。それは中国共産党だ。彼らは「中国に住んでいる人たちはすべて中華民族だ」と主張している。やっていることは、少数言語の破壊と植民地政策だ。チベットの同化政策を見るとそれがよくわかる。

そもそも民族は定義のない概念であり自己認識以外には議論が難しい。加えて日本政府は、琉球人を否認することで少数民族を圧迫しているという印象を与える危険性すらあるわけである。

リスク・安心安全・日本人

池田信夫氏の観察が面白かった。経済学ではリスクを確率的な問題だと考える。だが、実際に日本人はリスクを確率の問題だとは考えていない。これは実感的に確からしい。だが、なぜそうなるのかを説明するのはなかなか難しい。

考えの過程はちょっと冗長だが、一言で要約すると日本人は合理的にリスクを管理できるが、その提供範囲はきわめて限定されるということになるのではないかと思った。

原子力発電の危険が確率の問題だという認識が成り立つためには、その運用の意思決定に参加できることが前提になる。原子力発電の問題ではこの原則が崩れているのではないかと思われる。そこで日本人には公共空間という概念がないという仮説が考えられる。日本人は意思決定ができる空間と意思決定はできないが影響を受ける空間を厳密に分けているのではないかということだ。そして、意思決定はできないが影響を受ける空間では「どんなリスクも許容しない」のである。

これはきわめて感覚的な問題だ。自分たちの手元にある音楽プレイヤーから流れる音は心地よい音だが、自分で音量や曲が選択できない音は騒音だという例えが浮かんだ。

原発を確率的なリスクの問題にするためには、国民の政治参加を容易にして、政治のもとで原発をコントロールすればよいことになる。だが、これは成り立ちそうにない。

日本人は和を嫌う。自分たちの意思決定圏に他人が入ってくるのを嫌がるのだ。自分の意思決定権が希釈されてしまうからだろう。その対になっているのは、そもそも意思決定できないところには関与したがらないという性質だ。だから日本人は民主的政治プロセスには参加したがらない。それよりも自分が関与できること(例えばアイドル、マンガ、ファッション、おいしい食べ物、最新の電子ガジェット)に時間を使いたいと考えるのである。

その意味では左翼の反原子力発電運動は決して収まらないだろう。彼らはそれを他人がスピーカーで流す大音量の音楽のように感じている。たとえそれがモーツアルトであろうと、単なる騒音に過ぎないのだ。

公共というものを「関与できる」「関与できない」に分けるといろいろなことが説明できる。

5年前の東日本大震災では人々は整然と行動した。日本人は整然としていてすばらしいということになっているのだが、実際には下手に動けば他人から大バッシングを受けることを日本人が承知していたからだろう。意思決定できないが、影響を受けるものの代表が「空気」だが、日本では空気を乱すと周囲から圧殺されてしまうのだ。

若者の「なんとか」離れは、すべて意思決定圏にない事象からの離脱だ。自分でコントロールできないものには近づかないのだ。これを他人が説得しようとしてもムダである。これを実感するのは簡単だ、LINEばかりしている若者にFACEBOOKのアカウントを作れといってみればよい。若者はおじさんコミュニティの意思決定に関与はできないが、影響は受ける。そこでコミュニティを切り離したいと考えるのだろう。

会社員のおじさんが本社に残りたがるのも、意思決定が重要だからだ。いったんここから外れた会社員は「コースを外れた」として明確に区別される。多分、地方に「飛ばされた」官庁からはやる気が失われるだろう。テレワークはできるかもしれないが、非公式のコミュニケーション(居酒屋で飲むこと)の方が意思決定には重要だからだ。意思決定は非公式なものなのだ。非正規の社員たちはもともとここから除外されているので、会社のためにやる気を出すことはないだろう。意思決定件は稀少な既得権益なのだ。

原子力村も他人の関与を嫌がる。5年前の原発事故ではここに混乱がおきた。実質的に意思決定してきたのは専門知識が分かる人たちだが、ここに知識のない首相が乗り込んだことで大混乱がおきた。専門家は「平易な言葉で説明しなければならない」などとは思わず薄ら笑いを浮かべながら「政治家は馬鹿だなあ」と思っていたようだ。軍事的にも同じ問題が起きているのではないかと思われる。自衛隊は専門用語が通じる米軍にはシンパシーを感じているだろうが、政治家が軍事に関与することに嫌悪感を持っているのではないかと思われる。法律がコントロールできるのは公式の意思決定だけなので、いくら法律を作っても問題が解決しないのは当たり前だ。

ここから得られる結論は簡単だ。リスクを合理的に管理したなら、それを専門家だけで解決して、周囲にはゼロリスクだと説明することだ。そして決して失敗しないことである。安倍政権は日米同盟の深化には何のリスクもないと説明した。有事が起きない限りこの説明は合理的ではないが、有効なのだろう。そのためにはすべての軍事情報を隠蔽することが必要だということになる。音さえ聞こえなければ、自分たちに関係ないから誰も反対しないのだ。また、意思決定圏にない事柄を合理的に理解しようとする人もいない。

もうひとつの解決作は、公式の(つまり表立った)意思決定を徹底させ、異議があれば納得ができるまで議論する姿勢を育てることである。現状では全く不可能に思えるが、今から教育を始めれば2~3世代のうちには定着するかもしれない。

日本人は意思決定を集団で行いそこには非公式なルートで時間をかけて蓄積された知識の集積が大きな役割を果たしているようだ。ここに合理性を持ち込むのはなかなか大変そうだ。