さて、二日に渡って反論に時間を取られてしまったので本題に戻りたい。先日来、ネットにある「アイヌ語などなかった」という反論について考えている。
この問題に着目するに至ったきっかけは「アイヌ語には標準語がなかったからアイヌ語は存在しない」という反論だった。この論を取ると明治期以前日本語という言語はなかったことになる。例えば薩摩ことばと会津ことばは違う言葉であり、明治期以前には標準日本語という概念はなかったからである。
単にそれはアクセントと用語のばらつきの問題だと思う人がいるかもしれないのだが、例えば福岡の言葉で「バスがこちらに向かっている」時、二つの別の言い方をする。
東京の人には同じに聞こえるかもしれないのだが、前者はすでにバス停にバスが停まっていることを示しており、後者はバスが今到達しようとしている(つまりまだ着いていない)ことを示している。たいていは副詞を伴って、もう来とうとか、いま来ようなどと表現する。
こうした言葉を学校で習うことはないので、ネイティブスピーカーは明確に分別しているわけではない。このため文法と実感はやや異なって捉えられているように思う。
- 雨が降りよう : 雨が今降っている。今見ているからわかる。文法的には現在進行形にあたる。
- 雨が降っとう : 雨が今降っているかあるいは降っていた痕跡がある。ただし「降っとうと」というと、今降っているのかと質問していることになり、過去に降っていたことを質問する「降っとったと」と弁別される。現在完了形に当たるのだが、実感には揺れがある。
- 雨が降りよった・雨が降っとった : 雨が降っていた(自分が見て雨が降っていたことを知っている)が今は降っていない。過去進行と過去完了だが、いずれも過去のことなので実際には弁別されない。
つまり、福岡のことばには標準語や東京方言にはない現在完了形があるのだ。
相手の言語がないということを証明するためには言語の定義をしなければならない。そのために幾つかのツールを発明することになる。例えばそのツールを使うと実は自分たちの言語もなかったことを証明してしまうことがある。
もちろん、こうした反論が顧みられることはないだろう。「アイヌ語がなかった」という人はアイヌ語にも日本語にも興味がなく、単に「先住民族という名目でお金をもらっている人」に嫉妬しているだけだからである。だから、学問的には相手にするだけ時間の無駄だと言える。
もっとも、学術的に「アイヌ語と日本語は似ている」という人はいる。これだけでなくアイヌ語と南西諸島のことばは似ているという人もいるし、もっと南下して台湾の諸言語と似ているという人もいるそうだ。
多総合性という分析ツール
アイヌ語を見る上で言語学者が注目する特徴の一つに「総合性」という概念があるそうだ。孤立語、屈折語、膠着語という区分の他に、総合的言語と分析的言語という区分があるというのである。Wikipediaのいささかわかりにくい説明によると、総合的言語には極めて総合性の高い言語とそうでないものがあり、アイヌ語は極めて総合性の高い言語にあたり日本語はそうでない言語に当たる。
この総合性の高い言語の中には、ポリシンセティック(多的総合)という概念とインコーポレーティング(包合)という概念があるそうだ。この概念は二律背反するものではなく、ポリシンセティックでインコーポレイティングな言語もあれば、どちらか一つの性質しか持たないものもあるとされている。
この論文は総合性の高い言語のうちの多総合的言語としてのアイヌ語に着目している。ベイカーという言語学者の多総合的言語(ポリシンセティック)研究をベースにして、アイヌ語の性質をアメリカ大陸の諸言語との関係について言及しているのである。
アイヌ語の多総合性は「包合語」という概念でも語られる。これは動詞に様々な要素をつけてあたかも一つの文章であるような性質を持たせるという日本語にはあまり見られない統語方法だ。
日本語とアイヌ語を同系言語だという人がいるのだが、文法的には対極とはいえないまでもかなり違った言葉だとは言える。例えば日本語は「私は書く」というように、名詞にマーカーをつけて文法的な役割を持たせるのだが、アイヌ語では動詞に人称接辞がつく。このため「彼が言った」と「私が言った」は同じ語感を持つ別の動詞になる。逆に名詞にはマーカーがつかない。
もう一つの隣人 – 台湾諸語
ここまではアイヌ語と日本語の関係を見てきたのだが、日本の南部には台湾諸語という全く別系統の言葉がある。これは中国語とも違っているし、沖縄県で話されるうちなーぐちとも全く違っている。日本語千夜一話というウェブサイトでは台湾諸語について言及している。台湾諸語の特徴は、動詞が先にくる点、狭い範囲にお互いに意思疎通しない言葉(母音の数も言語によってかなり異なる)が混在しているという点と、接頭・接尾詞を使って言葉を増やすという点らしい。
総合性は極めて高いと言えるが、台湾諸語は包合語ではなく日本語と同じ膠着語として扱われているようだ。動詞が先にくるという特徴があり、極めて動作を重要視した言葉であると言える。一方日本語は動詞や結論は文の最後にくる上に主語が省略されるところから、極めて対象物への関心が高いという言語だ。主語が意識されないことから、発話者が思い描いた心象がそのまま特定されずに表現されると言っても良い。
それぞれの言語は異なった考え方をする
先日Twitterで「北朝鮮はアメリカのミサイルで日本がうちおとせる」という表現を目にした。学校では「〜は」は主語を作ると教わるのだが、英語的な構文にすると、日本がアメリカのミサイルで北朝鮮をうちおとすとなる。つまり、この人の頭の中には北朝鮮という対象物が想起されたのでそれを念頭に置いているということになり、それが必ずしも文法上の主語でなくてもよいということになる。そしてそれを整理しなくてもなんとなく伝わる言葉なのである。
統語法はある程度思考を支配するということがわかる。その意味では、日本語は、文法を意識して明示的に情報を伝えようとする英語や中国語とも、動作を問題にする台湾諸語とも違っているということがわかる。
古い言葉には同じような性質がありそれがモダンな言語になるに従って分析的な性質が出てくるのだという言い方もしたくなるが、それも断定的なことは言えない。もっとも、英語や中国語のように話者が増えてくると文法的な複雑さが失われ、狭い範囲で話されている言語ほど複雑な総合性が現れるという特徴はありそうである。台湾では中国語が広く使われているし、北アメリカでも英語が流通する。多分複雑な文法を持っている人たちにとっては、中国語や英語の方が簡単な言語に思えるだろう。また、より多くの人たちに通じるという意味では「より優れている」(あるいは便利である)と言えなくもない。日本語はある程度の複雑さを残しながら域内の支配言語になったという特徴があると言えそうだ。
一つだけ確かに言えること – 日本語世界の複雑さ
もちろん、近隣言語を見ただけで日本語の起源などを軽々に語るべきではないのだが、一つだけ確かに言えることがある。日本語は全く異なった言語の結節点にあるということである。よくウラル・アルタイ系とひとまとまりに扱われる膠着性の強い言語群と台湾諸語のように動詞が文頭二くるオーストロネシア語、そして、北アメリカとシベリアにつながる多総合的言語に囲まれている。さらに、後世になって孤立語的な特徴を持っている中国語から何回にも渡って単語を取り入れている。
改めて各言語との文法上の関係を示すと次のようになる。その複雑さは、あるパーツを取ると近接言語と極めて近いのだが、かといって別のパーツは全く異なっているという具合だ。これを見ていると「日本語などという固有言語はない」と言いたくなってくる。
日本語と中国語:中国語には語尾はないのでわざわざカナを発明して語尾を記述しなければならなかった。つまり、文法構成は全く異なっている。ただし、日本語が多くの言葉を中国語から借用したので、辞書だけを見ると同種の言語ではないかと思えるほど似通っている。さらに、時代じだいに異なる音を模写したので、化石のように様々な読み方が保存されており、日本語の方が中国語の古い特徴を残しているということさえ言えてしまう。日本語は中国語から単語を取り入れた経験があり、英語の単語や概念を取り入れる際にも役立っている。「〜する」とつければ英語の動詞が全て日本語として利用可能なのである。
日本語と朝鮮・韓国語:固有語の語彙は全く共通しないのだが、’文法的には極めて近く偶然では説明ができない。例えば、〜がいます・ありますという言い方があったり、「は」と「が」の使い分けがあったりする。敬語という概念も共有するが、儒教発祥の地である中国語には複雑な敬語体系はないので文化的なものではなく言語的な特性といえそうだ。しかしながら、朝鮮・韓国語の動詞の活用は三段しかなく日本語の方が複雑だ。また「は」と「が」は基本的に同じように使い分けられるのだが微妙な違いもある。さらに日本では無生物と生物を区別するが朝鮮・韓国語はどちらも同じ言葉を使う。また、敬語も絶対敬語・相対敬語という違いがある。
日本語とオーストロネシア系言語:台湾諸語を含むオーストロネシア系言語と日本語は音節が似ているという説があるのだが、実は台湾諸語の中でも音韻にはかなりのバリエーションがあり確かなことはいえない。接頭語・接尾語が豊富だったり、畳重現象という共通点を指摘する人もいる。ただし、祖語を構成するほど強い関係性は証明されておらず、主に日本国内でしか通用しない私論がいくつか見られる程度である。
アイヌ語とオーストロネシア系言語:アイヌ語も台湾諸語も日本語(南西諸島のことばを含む)よりも複雑性が高い。ただし、これが系統的な類似なのかあるいは古くからある狭い地域で話される言語に特有の特性なのかということはわからない。アイヌ語には北アメリカ諸言語との共通性がありこれが全く偶然のものとも考えられないが、オーストロネシア系の言語と北アメリカ系の言語の類似性を解く研究はなさそうだ。
いずれにせよ「アイヌ語がない」という証明をする過程で「実は日本語などない」という結論に至る可能性の方が実は高そうだ。例えば語彙の変化に着目して、日本語は中国語の一部であると言えてしまうし、文法から見ると日本語は語彙が違う朝鮮語の一亜種であるというめちゃくちゃな結論さえ導き出せてしまう。もっとも楽な結論は日本語は近隣の言葉から様々な要素を取り入れており、独自の言語体系を作り出したのではないかというものである。
かつて「このままでは日本語が滅びる」というようなテーマの本が売れたことがあったのを思い出した。家族の価値観が崩壊すると民族の誇りが……などという人もいる。しかし、その論法だと日本語は中国語にとうの昔に滅ぼされていることになる。しかし、実際には「〜する」とか「〜的な」という膠のような特徴があるせいで、中国語が日本語の一部として取り込まれただけだった。多分、日本語が滅びる論者は悪い夢を見ているか、日本語の特性を過小評価しているのではないだろうか。
日本の独自性はその複雑さにある
もちろん「アイヌ語などなく日本語しかなかった」というような暴論を考察する価値はないのだが、それを緒にして調べてみると日本語についての理解が深まることがわかる。
日本人や日本語について考えるとき「その独自性」について言及する人は多い。しかしながら、実際に感じる日本語世界の魅力はその雑多さにある。全く異なった世界の結節点にありそれらの特徴を貪欲に吸収しつつ結果的には極めて独自性が高い言語世界を形成していると言えるのではないだろうか。
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