個人主義と集団主義の合間で揺れ動く日本

コメント欄で感想をいただいた。「あくまでモデレーター的な態度を崩さないHIDEZUMIさんは、「秩序の中に暮らす」ことが怖くないのでしょうか?」と書かれたので心の中で一通り毒づいた後で、でもこれを説明するのは意外と面倒だなあと思った。Quoraだと面倒なので「そうですよねえ」といって逃げてしまうことが多い。この議論で一番面倒なのは「個人主義・集団主義」という用語の粒を揃えることである。わかりやすい漢字なのでなんとなくみんな知ったつもりになってしまうのである。

“個人主義と集団主義の合間で揺れ動く日本” の続きを読む

日本の敬語体系の背景にある社会的構造と新しい敬語としての「尊大語」

尊大語という敬語体系ができているんだろうなと考えた。考えたのだが誰にも賛成してもらえそうにないので自分のブログにだけ書いておこうと思う。この文章で実際に言いたいのは日本社会のある構造の崩壊である。成果主義・自己責任社会になった日本では部分的に「謙遜ゲーム」が成り立たなくなっている。

“日本の敬語体系の背景にある社会的構造と新しい敬語としての「尊大語」” の続きを読む

日本人はIT時代の読解力を持っていない

テレビで「日本人の読解力が急落して文部科学省が重く受け止めている」というようなニュースをやっていた。日本人の日本語力が急に悪化するわけはないのだからテストの内容が変わったんだろうと思った。つまり騒ぎすぎだと思ったのである。




これについてQuoraでいろいろ聞きまわってみて、日本人に議論ができない理由がよくわかった。そして、おそらくそれが改善することもないだろう。事態は極めて深刻だが問題を深く受け止める人はおそらく多くない。原因は「自分で考える教育」を見たことも聞いたこともないという点にある。

読解力調査では、インターネットで情報が行き交う現状を反映し、ブログなどを読んで解答を選んだり記述したりする内容が出された。文科省によると、日本の生徒は、書いてある内容を理解する力は安定して高かったが、文章の中から必要な情報を探し出す問題が苦手だった。情報が正しいかを評価したり、根拠を示して自分の考えを説明する問題も低迷した。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

教科書は読めるがネットは読めないということらしい。つまり書いてある内容をそのまま覚えることはできるのだが、それを応用することができないのである。急落については端的に指摘が出ているので、これをそのまま読み解けばいい。

OECDのシュライヒャー教育・スキル局長は「日本の生徒はデジタル時代の複雑な文章を読むのに慣れていない」とみる。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

ここでいう複雑な文章とは何だろうか。それは教科書のない世界のことである。教科書がないので自分で情報を取捨選択して刈り込む必要がある。そしてそれを人と共有しなければならない。日本人はその基礎となる刈り込みそのものができないのである。

教科書がないにもかかわらずSNSが発達しているので情報が飛び交っている。情報の取捨選択ができないということは教科書が作れないということなのだが、なぜか巷には「俺が言っていることが正解だ」と叫ぶ人が大勢いる。だがそれを共有しようという人は誰もいない。自分の教科書こそが正しいと主張し、相手の言い分を聞かないのである。おそらく日本人は誰か外国人が新しい正解を提示するまでこの教科書闘争を続けることだろう。ことによったら数世代の間そんな状況が続くかもしれない。

日経の記事は明後日の方向に行っている。シュライヒャー教育・スキル局長の言葉をスルーして「ITを活用ができていない」と言っているのだ。これは日経新聞が経済界の意向を忖度しているからだろう。先行して「学校パソコン、1人1台に」と言っている。家庭用パソコンで負けてしまったので世論の力を使って学校に売り込みたいのだろう。

産経新聞はさらに深刻だ。ITではなく本を読まないのがいけないのではという結論にしてしまっている。道徳的に「本を読む=賢い」というレベルに落とさなければ産経新聞の読者への「わかりみ」が深くならないのかもしれない。

新聞であっても日本人は情報の刈り込みができないのだから質問サイトで聞き回ったくらいで刈り込み賢者に会えるはずはない。この場合は「取捨選択ができないことが問題だ」と具体的な指摘が提示されているのだが「実際に触れるもの」を媒介させないと思考ができないのである。おそらく日本が製造業からサービス業に移行できなかったのは思考力に限界があるからなのだとさえ思ってしまう。

つまり、日本人の読解力のなさというのは子供に限ったことではない。Twitterには因果関係がめちゃくちゃな政権批判が並んでいる。情報は豊富にあるのだがここから必要な情報を「たとえ」や「実体の媒介」なしに抜き出せない。一般有権者だけでなくマスコミも政治家もこのような調子である。

問題意識を持って質問をするととてもわかりにくい長い文章が返ってくることがある。常々「何かが足りない」と感じていたのだが、考え直してみると彼らは教科書を書いているということがわかる。日本人は問題意識を共有できないので、人に何かを教える時に「全般的に使えるような」教科書を書く。万人向けだが誰にも帯に短し襷に長しになってしまうのである。

例えば歴史で重要なのはそこからどんな教訓を学ぶかということなのだが日本人はそれができない。だから年表を覚えることを歴史を学ぶことだと思い込んでしまう。一事が万事そんな具合だ。

全く訓練を受けていない人は印象に流れてしまうし専門家は教科書を書きたがる。問題意識を抽出して概念的なビジョンを作って共有ができない。今までもしてこなかったしこれからもやらないだろう。そしてそれは実は「訓練された人」ほど重症なのだ。つまり教育者が一番危ないという厄介な状況になっている。

日本人がバカだからということではなく「考えて掻い摘む」教育を見たことがないからだろう。像やキリンを口だけで説明できないのと同じように日本人に「考えさせる教育」は説明できない。

このことから、豊富にある情報の中から必要なものを抽出する「IT時代の読解力」の基礎になっているのは「問題意識」だということがわかる。これはパソコンを1人1台あてがってもどうこうなる問題ではないだろうし、英語教育を施しても使い物になる英語は身につかないだろう。道具立の問題ではない。考え方が違うのだ。

今回はいろいろ聞きまわってみて「日本人には理解が不可能なんだろうな」ということがわかった。説明不能なのだから「どうやったら成長に結びつく思考が身につくだろうか」などといちいち考察するのは時間の無駄だと思った。適当に相槌を打っておく方が楽である。

よく日本人は議論ができないなどというのだが、実際にはそれ以前の問題なのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



日本人は助け合いが嫌いという謎

日本人は実は助け合いが嫌いだという文章を読んだ。自己責任時代と言われているので「ああそうだな」と思った人もいるかも知れないし、また日本人論だろうと苦々しく思った人もいるかもしれない。




坂本治也関西大学法学部教授は「日本人は共助が嫌いだ」という国際的な調査を起点に論を展開している。ボランティアをやりたくないし興味もない、自治会の活動にも参加したくない、寄付もしたくないという人たちだ。自分たちで助け合いがしたくないなら国に押し付けるという選択肢もあるのだが、日本人は公助にも否定的である。なぜか「自己責任」を主張して問題をなかったことにしようとするのである。

ところがなぜ日本人が公助も共助も嫌いなのかという点がわからない。そこで、坂本さんは別の調査を出してきた。それが「日本人の政治嫌い」である。共助嫌いの人は政治参加にも否定的であるという相関関係があるそうだ。政治に関心がないほど助け合いにも興味がない。

まず重要なのが、ここで言っている「政治」というのは自治と意思決定のことだということだ。これについてQuoraで聞いてみたのだが大した答えは戻ってこなかった。Quoraでは毎日のように政治問題が語られている。みんな政治に興味があるはずなのに、助け合いには興味がない。坂本さんも政治というラベルを使っているのだが、実は政治には自治・意思決定・助け合い以外の領域があるのかもしれない。

Quoraで語られる政治とは日米同盟維持のために憲法を語ったり韓国を罵倒することであって、街の助け合いなどといった生活に密着した政治が語られることはない。これがいつからなのかはわからないが、昔からポリティカルアパシーなどと言われていたなあとは思う。GHQが入ってきて民主主義万歳となった少ない時期を除いて日本人は政治を自分たちのこととは考えていないと思う。

別の人からはアメリカ人も政治の話はしないという答えが返ってきた。この人が言っている政治はイデオロギーや宗教のことである。確かにアメリカ人は明らかに個人で折り合わないだろうことは語らない。ただ、コミュニティや予算の問題については積極的に発言する人が多い。つまり民主主義国家のアメリカでは「小さな政治」が語られる。そして今回の2020民主党ディベートなどでは国家の問題として「暮らし」は主題になる。前半をなんとなく聞いていたのだが中流階級の健康保険負担などについて熱心な(そして意見が激しく対立する)議論があった。

このように「政治」と言っても様々な政治がある。ここで言っている政治とは「公共・社会・住民参加」などなのだが、こうした「意思決定としての政治」は学術研究者が考えれば真っ先に浮かんでくるが、世の政治好きにとっては全く興味・関心がないテーマなのかもしれない。

日本人は社会参加に関してかなりシビアに「費用対効果」を見ていると思う。自分の意見が通りやすいパスをかなり慎重に見極める。そして普段の生活で我々の意見が集団に取り入れられることはほとんどない。だから日本人は暮らしと密接する政治に関心がない。持ち出しが多くなると予想するからで、たいていその予想はあたる。

こうなる理由は簡単だ。日本人の多くは決める側ではなく従う側に置かれるという体験だけをして一生を過ごす。例えば学校で意思決定するのは先生と先生のお気に入りの一部の学生たちである。その他の学生たちは「拍手したあとで従う側」で終わってしまう。日本人は個人主義でもないが集団主義でもない。どちらかというと寡頭制でお互いを承認賞賛するというシステムが作られやすい。

同じことは自治会やPTAでも行われる。どの会にも役員会を掌握して手放さない一部の人たちがいる。「その他大勢」に期待されているのは二等兵としての役割である。上官を賛美し下働きをするのが二等兵の役割である。だから自治会もPTAも役員のなり手がない。意識としては徴兵と同じことだからだ。

日本人が政治を嫌うのは寡頭で意思決定するからなのではないかと思う。かといって単純民主制にすると多数派と少数派が生まれ少数派は抵抗勢力になる。あるいは拮抗するとお互いに対立して足を引っ張り合う形が生まれる。日本の議会がうまく行かないのはこのためである。お互いに思っていることを言語化して共有しようという気持ちはないし、さらに言えば相手を理解しようという意思もない。

日本人は総じて親密で言語によらない関係を好むので寡頭政治に頼らざるをえない。寡頭であれば「阿吽の呼吸」で意思決定ができるからである。日本人の非言語依存の意思決定の弊害だが、これを弊害という人はいない。

記事の中にも書かれているが、寡頭制で意思決定してきた人たちもうすうすこのことに気がつきつつある。そこで彼らが「動員」をかけようとして新しい公共という言葉を持ち出した。例えば憲法に「公共の福祉」の拡大解釈を書き加えて国民を動員しようというのである。

この新しい動員はもともと公共という概念が薄かった日本人に別の感情を呼び起こす。ある人たちは「これを利用する側につけば相手に持たれかかることができる」と考える。うまくやれば相手を搾取できると考えるのである。また別の人は「これに巻き込まれれば搾取されるだろう」と考える。当然意見はまとまらない。

冷静に考えてみても、なぜこうなったのかはよくわからない。だが現実はそうなっている。現代の日本人はとにかく変わりたがらないので、共助・公助ぎらいは多分なくならないだろう。自己責任社会は当分続くことになるはずで、それは「小さな政治」ぎらいを伴うはずである。面倒だから考えない、そして考えないからもっと面倒になるという悪循環だ。

政治の選択肢は無秩序に広がる自己責任で不安が増してゆきそれが経済不振にまでつながる世の中と、公助という名の下に責任を誰かに押し付けるという過負担な社会の二択だけである。だが、日本人はそれに抵抗しない。自発的に助け合うのは嫌だからだ。

Google Recommendation Advertisement



空っぽだからこそ支持される「小泉進次郎」という現象

小泉進次郎さんが新しい環境大臣になった。空っぽな人だなあと思った。その空っぽさゆえに支持されるのだろうとも思った。「小泉進次郎」という現象を見ていると我々日本人が政治に何を期待しているのかということがわかる。小泉さんが一生この現象に付き合って行けるかという点は問題だが、それは本人が解決すればいいことだ。




小泉さんは結婚発表を官邸で行った。この際に育休について聞かれ「考えている」といった。ところが大臣になってしまえば育休は取れそうにないですねと問われると「育休が問題になるというのは記者たちが古くさすぎるからだ」と言いだした。嫌な感じは全くしなかった。条件として「奥さんの心理的負担を減らす」と付け加えたからである。

視聴者の頭の中には「奥さん思いのいい男」という印象だけが残ったことだろう。よく考えると育休の話は全く解決していない。つまり、小泉さんは問題を解決せず本人を感じよく見せることを優先したのだ。逆に問題を解決しようとすれば議論が起こる。政治に問題解決を期待しない日本人にとって、議論は単なる嫌な揉め事に過ぎない。誰も政治家に問題解決は期待していない。だから小泉さんの人気はまた上がった。

原発の排水問題についても同じ手法が取られた。排水の問題は担当ではないと言い切った上で「小名浜の魚連会長」の実名を出した。小泉さんは小名浜の魚連会長の名前も知っているのか!という驚きが感じられるが、実は問題は何も解決していない。そして大臣就任の時に原発依存しなくていい国の仕組みを考えるとも言ったが、考えるだけで問題を解決すると言っていない。そして実際に問題が起きている千葉ではなく福島に向かった。

小泉さんは人の話をよく聞くし彼らが欲しい答えを返してくれる。つまり話を聞いている人には「ああ、小泉さんは我々のことをわかってくれているんだなあ」という印象は残る。しかし、その一方で実は何も解決はしていない。よく考えてみると10年の間に小泉さんが「これを解決した」というよく知られている課題は何もないはずだ。

問題を解決しないが話も聞かない人もいる。その代表が安倍首相である。北朝鮮拉致問題でスターになった安倍首相には官僚組織を率いて問題解決をした経験がない。安倍首相は自分が見下している人の話は聞かないので一部の人たちから蛇蝎のように嫌われるのだが、根っこは同じである。単に見せ方を変えて敵を作らないだけで印象がこうも変わってしまうのである。

小泉さんの人気は高い。何も解決しないことは失敗にならない。だが、問題に取り組んで軋轢が起こればそれはすぐさま失敗になる。何も取り組まないことで「失敗していない感じのいい人だ」という印象が残る。日本は失敗した人を叩く社会であり、失敗しない感じのいい人が高い得点を得られることになっている。小泉さんは人気が高かった小泉純一郎首相の息子であり、兄が俳優になれるほどのイケメンで、まだ何も失敗していないというだけで好感度があがる。日本人はそれを喜んで支援するのである。

新聞は「成果をあげれば」といっているがこれは建前を自動的にタイプしただけのことだろう。指が勝手に動いて書いてしまったのだ。実は何もしないで情報発信だけしていた方が小泉さんが首相になれる可能性は高まると思う。単に日本は古くさいねといっているだけでいいのだし社会はそれを望んでいる。

次の首相にふさわしい人物について、日経新聞が2日に報じた世論調査では、小泉氏が29%でトップ。2位は安倍首相、3位が石破茂元幹事長だった。菅義偉官房長官は先月、小泉氏の入閣について会見で問われた際、党の農林部会長や厚生労働部会長として「経験を積んでいる」と評価。「今後の活躍を期待している」と語っていた。

小泉進次郎環境相、38歳で初入閣-「ポスト安倍」試される手腕

実は小池百合子元環境大臣も同じような感じで首相候補と見なされ、実際に総裁選に出たりした。彼女も「感じがよく男性社会に挑戦してくれそうな」ところが良かった。組織の調整などをした経験はなく、したがって実際に組織やプロジェクトを持ったところで失速した。日本だけの問題ではなく「ピーターの法則(ダイヤモンド出版)」として知られる。

希望の党という政党で大混乱したが小池さんの人気がなくなることはなかった。一度感じが良いという印象が着くとそれが残像のように残る。政治家本人が問題解決志向にならずお人形さんとしてとどまる限りそれで構わない。職業としての政治家を選んだ以上ファッションモデルのように周囲が着せ付ける政策を選んできれいに見せていればいいのだ。それが日本人が求めるプロの政治家なのである。

西洋型の民主主義では「どんなビジョンを持って何をやったか」が重要視される。例えば韓国では検察改革というビジョンがありそれが軋轢を生んでいる。またイギリスの政治家たちは周囲に混乱をもたらすことがわかっていてもブレグジットを前に進めようとしている。ボリス・ジョンソン首相はついに「女王に嘘をついたのでは?」と疑われるようになってしまった。問題解決こそが政治でありそのためには嘘もやむをえないとジョンソン首相は思っているのだろう。

ところが日本人は「何もしないし何も決断しない」リーダーを求めるという傾向がある。その意味では日本人は政治に期待をしていない。坂本明也関西大学法学部教授が日本人は助け合いも政治も嫌いだということを調査や論文を元に解説している記事が見つかった。坂本さんは次のように結んでいるが、おそらく日本人が自発的にそんな議論を始めることはないだろう。

筆者としては、日本人の(低投票率に限られない)「政治嫌い」と「共助嫌い」の現状、その改善の必要性の有無、また改善するとすれば何が求められるのか、について深く生徒らに考えさせる機会をぜひ設けてほしい、と願っている。

日本人は、実は「助け合い」が嫌いだった…国際比較で見る驚きの事実

日本人は助け合いができず問題が起これば自己責任に押しつぶされてしまうから身動きが取れなくなる。また、政治家はどこかのレベルで何らかの組織を率いなければならなくなる。

しかし、それでも日本人は何かの組織を率いて失敗した人を「汚れた」として嫌う。こうやって日本人はだんだん身動きが取れなくなり、国が開いている以上は最終的に「思い切った行動」に出て失敗するだろう。それは最終的には悲劇かもしれないが、それを求めているのもまた日本の有権者なのだ。

Google Recommendation Advertisement



演歌の誕生 – 日本人にとって理論化とは何か

政治問題を扱っていると「保守とは何か」という疑問にぶち当たる。「だいたいあの界隈ね」ということはわかるのだが、本質を抜きだそうとしても抜き出せない。本質が抜き出せないためにそれに対抗しようとすると対抗運動も崩壊する。




「日本の保守が害悪だ」とするとそれを潰したいわけだが、それが潰れない。だからいつまでたっても我々の社会は停滞したままだというのがこのブログの考えている行き詰まりである。そしてそれを我々は野党がだらしないからだと説明している。でもそれは説明になっていないし何の解決にもならない。

こんな時にはどこか別のところからヒントが降りてくることがある。今回のそれは演歌だった。後付けだが歌謡曲の保守思想である。この演歌というジャンルは1970年にはすでに存在しており「昔からあった」ような印象がある。ピンクレディーが奇抜な歌謡曲を歌っていた時「昔からずっとやっている歌手」が「日本の伝統である演歌」を歌っていたという感じなのだ。

Quoraで回答するためにその演歌について調べた。回答そのものはいい加減なものになったが調査の読み物はとても面白かった。演歌は実は昔からあったジャンルではない。1970年代に新しく作られたジャンルなのだ。

もともと演歌の演は演説の意味だった。川上音二郎が元祖とされているそうである。ところが政府が政府批判を認めなかったこともあり政府批判を基盤とした演歌はなくなる。そして、大衆音楽の中に溶け込んだ。個人としての日本人は社会や国家などは扱わせてもらえなかった。個人で自由に表現できるのは個人の心情だけだったのである。小説の世界では自己を確立して外に打ち出すこともなく、心情を扱う私小説が流行したりしている。

大衆の歌は流行歌と呼ばれたようだが、これとは別に艶歌と呼ばれる一連の歌モノがあったようだ。楽器を使って街中で歌本を売り歩くような人たちを艶歌師と言っていたようだ。艶歌はプロモーションの一環であり歌は売り物ではなかった。

戦後、流行歌は次第に西洋音楽を取り入れて変わってゆく。基地まわりをする人たちが西洋のジャズなど取り入れて新しい流行歌を作った。高度経済成長期になると、都会に出てきた地方の人たちが望郷の念を募らせ歌を聴くようになった。ニーズを持ったユーザーの集まりも生まれた。しかし、グループサウンズやフォークなどが出てくるとこうした歌は「古臭い」として嫌われるようになってゆく。時代が急速に変化しアメリカから新しいジャンルが次から次へと出てきていたのである。

そんな中、五木寛之が1966年に「艶歌」という小説を出して「艶歌の再発見」をした。つまり西洋音楽に乗らない日本人の感情を歌ったのが「艶歌である」と言ったのである。「演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間」によると、もともと西洋音楽と日本の音楽を雑多に混ぜ合わせた「流行歌」というジャンルから再構築されたのが艶歌である。そして1950年代からこうした歌を歌っていた人たちが演歌を自認するようになってゆく。春日八郎がその最初の一人であろうとWikipediaは言っている。

ここで「艶歌」という名前がなぜか「演歌」に変わっている。この「演」という言葉がどうして再び出てきたのかという説明をしている人は誰もいない。おそらく昔からあって文字が簡単だったのでプロモーションに使いやすかったのではないかと思う。この時点で演歌は昔からあったということになっているのだから、もはやもとの「演説」という意味を意識することはない。その実態は古びた望郷の歌だったのである。

まず正当化すべき内容がありそのために正当化に使えそうな箱を見つける。そしてあとはその箱の中で好き勝手にやりたいことをやる。これが日本的なジャンルの作り方なのである。ただ、これだけだと例が一つしかないことになる。J-POPについても見てみよう。

演歌を古びた地位に追いやった一連の音楽は歌謡曲と呼ばれるようになる。これも意味があるようなないような不思議な名前だ。だがやがて若者は歌謡曲に飽きて洋楽を聞き始める。昭和の終わり東京に英語で音楽を流すJ-WAVEというFM局ができた。ちょうどテレビでMTVなどをやっていた時代だ。

WikipediaのJ-POPの項目をみるとJ-WAVEがこれまでの歌謡曲と違った新しいポップスにJ-POPという名前をつけたことになっている。1988年から1989年にかけてのことだ。ちょうど平成元年頃の出来事ということになる。J-WAVEは日本の歌謡曲の中から「洋楽と一緒に(つまり英語で)紹介しても」遜色がない音楽を集めてJ-POPという箱を作ったのだ。古くさいと思われていたものをリパッケージ化したのである。

だから、あとから演歌とは何かとかJ-POPとは何かと言われると実はよくわからない。平成の最初の頃の洋楽っぽい音楽もJ-POPだが「AKB48」も「モーニング娘。」もジャニーズが歌う演歌っぽい音楽もJ-POPである。単に正当化の道具なので誰もJ-POPがなに何なのかということは考えない。

面白いのは平成元年頃に作られたJ-POPという音楽が今でも使われているということだろう。これに代わる新しい言葉はできていないわけで、それはつまり新しい音楽の聞き手が現れていないことを意味するのだろう。邦楽は30年もの間J-POPから進化しなかった。アメリカから流行を取り入れるのをやめてしまったからだろう。

音楽では演歌はただ忘れ去られてゆくだけだ。誰も演歌に不満をいう人はいない。保守に対して文句をいう人が多いのは実はそれに変わる新しいものが現れていないからなのである。

もともと保守にも実態はない。それは戦後の民主主義思想に乗り遅れた人たちがこれこそ日本の伝統であったという再評価をして自身を正当化しているに過ぎないからである。そしてそれに対抗する人たちも、社会主義・革新・リベラルという名前をつけて正当化を図っているに過ぎない。保守という実体のないものへの対抗運動なのでさらに実態がない。つまり、保守やリベラルをどんなにみつめても課題や問題点は見つけらないことになる。

音楽の流行は西洋音楽によって作られる。日本でこれが起こらないのは、多分日本人が新しいものを作ろうとはしないからである。なので、西洋から新しいものが入ってくるまで日本人は今の状態に文句を言い続けるはずだ。

面白いことに一旦箱ができてしまうとそれは人々の気持ちを縛る。多分演歌界の人たちはファンも含めて「これが演歌である」という経験的な合意がある。それに合わないものは「伝統にそっていない」として排除される。保守にせよリベラルにせよ「我々はこうあるべきだ」という思い込みがありそこから動けなくなるのだろう。

平成というのは西洋から新しいものを取り入れるのを諦めてしまった停滞と安定の時代だったということになる。停滞に文句は言っているが実はそれが日本人にとって居心地の良い状態なのだ。

Google Recommendation Advertisement



日本が独自に民主主義を作ればそれは何もしないための仕組みになるだろう

連日韓国のニュースをやっている。「韓国はうまくいっていない」と主張することでうちは韓国よりもマシだという気分に浸りたい人が多いのだろう。みんな安心して騒いでおり目を背けたいニュースがそんなにも多いんだなという気分にさせられる。




Quoraでは、韓国とは断交したいが中国や北朝鮮のトクになるのは困るという質問を見かけた。日本人は民主主義という概念は理解しないが、誰か他の人がトクになると悔しく逆に誰かが困っていると自分が嬉しいという「細かな社会的会計」の概念を発達させている。このため意思決定に時間がかかり結局何もしないことを決めてしまうのである。小さな集団では機能する社会的会計だが集団が大きくなりすぎると予測が人間の脳の容量を超えてしまうのかもしれない。

ワイドショーを見ていて「面白いな」と思ったことがあった。「大統領が変わるたびにこんなに政策が変わっていいのか」という戸惑いの声だ。有権者が方針を決めたらそれによって劇的に変わるのが「民主主義だろう」と思ったのだが、日本人には受け入れられないらしい。

民主主義は意思決定の仕組みなのだが、日本人が求めるのは継続性と安定である。つまり日本人が意思決定の仕組みを決めると「何もしない」ことを選ぶ可能性が高い。多分日本人が決める憲法は「みんなでよくよく話し合って何も変えないために誰にも権力を持たせないようにしよう」というものになるだろう。

これを考えていて、面白い問題を見つけた。それが英語入試改革である。2013年頃に楽天の三木谷社長が「日本人は実用的な英語ができないから試験をTOEFLにしたらどうか」と言っている記事を見つけた。この線に沿って受験の改革も進められたがどういうわけか現場が大混乱しているらしい。なぜなのだろうかと思った。

Quoraで聞いてみたら「入試が変わって学生が戸惑うのは当たり前」と受験生の事情を切断した上で「何のための改革なのかわからない」と戸惑う大学の教授の回答がついた。この教授は英語教育には自分の考えがあるようだ。そもそも高校の先生が英語を話せないのに「試験を変えたからといって高校生が英語を話せるようになるはずがない」と言っている。そこまでは確かにその通りである。ただそこから教育方針を決める会議が「企業と一部の大学関係者に限られている」という不満に流れてしまった。つまり彼には彼の言いたいことがあり、その他のことはどうでもいいとは言わないまでも優先順位が低い問題なのである。逆に三木谷さんから見るとアカデミズムがどう考えていようと自分の会社の成果さえ上がればいいわけだ。つまり、日本人はお互いに他の村のことを聞く気持ちがない。

企業は英語が話せる即戦力がとにかくほしい。どうしていいかわからないから入試を変えたらと提案した。ところがもともとの目的が伝わらずどういうわけか「入試を変えたら」という話だけが一人歩きし、おそらく民間英語テストの利権確保などの話も加わり、かといってそれでは評価できないから旧来のテストも残そうということになり、最終的に混乱に至ったということになる。

そして、その間の全体像を知っている人は誰もいない。よくプロジェクトマネジメントがないというような話を聞くが、文部科学省も決められた通りに会議を行っただけで全体を通して物事を調整しようという気持ちにならなかったのだろう。そして官邸も自分たちの考えを学生に押し付けることに関心はあっても、日本の教育そのものには関心がない。

ふらふらと散策しながら日本人が決められない理由を探してきたのだがもう3つも見つかった。どういうわけか日本人は「目標を立ててそのために制度を変える」のがとても苦手なのだ。

  1. 誰が損をして誰が得をするかわからないから意思決定ができない
  2. そもそも急激に何かが変わると不安だ
  3. 目的意識を共有しようという気持ちが全くない

ここで韓国との比較は面白い。韓国は権力構造が変わると処遇が変わるという国だった。最初から中央集権化が進んだからであろう。中央集権化が進んだのはおそらく中国が大きすぎる敵だったからだろう。ところが日本は最後まで完全な中央集権化は進まなかった。藩を単位とした小集団が作られその中で比較的自由に意思疎通ができた。それでよかったのだ。韓国のような強い敵がいなかったため、小さなグループがお互いを牽制しながら全体としては何も変えない仕組みを作ったのだと思う。それが藩の生き残りに有利に働くからだ。狭い空間で争って滅ぼされるよりも相手に干渉しないほうが生き残れる確率が高かったのだ。

日本人は小さなグループの中で自治的な関係を保つことを好み、あまり他者から干渉されたくない。中で小さな変化はあったとしても大きな変化が外からくることを本質的に嫌うのである。

また、同質な他者が集まる関係の中で取り立てて個人主義を発達させる必要もなかったのだろう。現代の民主主義は個人主義との相性が良くしたがって日本人が民主主義を理解できないのは当たり前である。

このため日本人が最初から民主主義をデザインするならば藩レベル(つまり県よりも細かい)の集団主義的な民主主義になるはずである。そしてその目的は藩の維持、つまり何も変えないことだ。

実際に日本の経済は成長と発展から取り残されてしまった。ところが皮肉なことに成長がないから格差も広がらない。停滞と安定は同じことである。これはこれで良さそうな気がするが、戦後日本が手を染めた自由主義経済は成長を前提にしている。つまり成長を前提にした仕組みと成長しない仕組みが軋轢を引き起こす。

ポピュリズムが日本ではまだ流行らないのはなぜか?静かに迫る「民主主義の危機」はそのような筋立てになっている。社会保障制度は成長を前提にしているため、これが崩れるだろうといっている。現代の日本は動きが止まった人間ピラミッドのようなものだ。すなわち重みに耐えかねた下の方から疲労骨折で圧死する社会である。ただ圧死者は少ししか出ないので全体としては格差が少ないように見える。しかし社会保障の仕組みはある日突然破綻するだろう。その衝撃はかなり大きなものになるはずだ。

それでも我々は小さなグループに閉じこもり何もしないことを選ぶのである。

Google Recommendation Advertisement



本音と建前 – 日本人が歴史議論を苦手とするわけ

最近面白い発見をした。Quoraで政治議論をしてくる人に対して瞬時に議論を終わらせるワードがあるのだ。それが「ああ、そうなんですね」である。意外なことにこれで済んでしまう議論が多いのだ。




長い間、嫌韓議論が苦手だったのだが、GSOMIAの件は韓国政府の対応がひどいなあと思ったので参戦してみることにした。高評価はつかなかったが攻撃もされなかった。

まず、韓国人と日本人の間には人間関係の取り方に違いがありこれが誤解の元になっているというラインを作った。つまり攻撃対象を韓国でなく仮説にすればいいと思ったのだ。

そもそも、もともとそれほど嫌韓でない人間が韓国政府の批判にまわるというポジションはあまりない。ポジションが非典型的であるというだけで人々は攻撃の対象とは考えなくなるようだ。このブログでは「政治議論運動会仮説」と呼んでいる仮説で説明がつく。紅組でも白組でもない人は運動会には加われないということである。攻撃しても面白くないのだろう。

日本の議論は保守・リベラルに分かれている。保守の人たちには韓国人に対する差別感情と韓国人をどう扱っていいかわからないという嫌気が共存している。一方でリベラルはこの差別感情が許せない。普段から「あしらわれている」という意識があるからなのかもしれない。そこで自然と嫌韓を巡って運動会が繰り広げられる。目の前に運動会があればとにかく参加してみるのが日本人だ。

ところが実際に参加してみると、結局「私には〜という印象がある」とか「私は〜を認めるつもりはない」と言っているだけだということがわかってきた。だから相手を刺激せず「ああ、そうなんですね」というと議論が終わってしまうのだ。

典型的には「朝鮮半島経営は植民地支配だったか開放だったのか」という議論がある。これは両方の側面が整理されていないという問題なのだが、保守は開放であってほしいという前提を置いた上で補強する数字を一生懸命に集めてくる人がいる。これは「そういう資料を集めてきていらっしゃるんですね、ご苦労様」で終わってしまう。実際には両方の側面があるので開放的側面があったからといって支配の事実が消えるわけではない。

ここまでわかると次はどうしてそうなるのかという問題が出てくる。第一の理由は感情と論理の分離のようである。本音と建前などと言われている。

日本人は本音と建前を分ける。論理は「建前」が担当しているとまずは考えられる。これは皆が合意しやすく反発されにくい解釈をまとめたものである。ところが日本人は本音も漏らす。この本音の機能が謎だった。実は本音も純粋な感情ではなさそうだ。

菅官房長官は「韓国への報復」を仄めかしつつ「表向きは貿易品の管理問題ですよ」という説明の仕方をした。つまり「報復という本音をにじませた」のである。WTOのルールに違反しないよう「本音をほのめかす」ことでメッセージを伝えようとしたのだろう。この本音はメディアによって様々に再解釈されることになった。産経新聞は菅官房長官のラインにそって「日本はルールに従って正々堂々とやっているから韓国はさぞかし困るだろう」と書いた。ここで産経の読者は満足する。菅さんの作戦は成功したのだ。

ところが今度は韓国がこの本音を利用し始める。文在寅政権は朴槿恵政権の決定を覆したかった。これに気がついた日本は「あくまでもこれは貿易品の管理問題である」と建前の方を強調し始めた。本音と建前の位置を逆転させた。あとは解釈の問題なのでこれで折り合いがつかなくなった。

日本の政権は多数派をとっているので国内では「空気の解釈権」を支配することによって少数派を笑うことができる。本音をひけらかしつつ少数派が文句を言ってきたら「それはお前たちが勝手に言っていることだ」といって少数派をバカにすることができる。つまり本音と建前の分離はいじめに使える。

実は本音も建前もロジックである。日本の保守が韓国に苛立つのは韓国が日本の作ったロジック通りに動いてくれないからなのだということがわかる。だからこそリベラル側はこれに乗ろうとするのだろう。数が逆転できるかもしれないからだ。

本音も実は「感情的な論理」なのだが、一旦本音と建前を分離して二重思考の状態を作ってしまうと「実際の実際はどんな動機だったのか」がわからなくなてしまう。本音という解釈を語り続けることによって空気への帰属意識は芽生えるだろうが、深層にあったはずの本当の動機はわからなくなってしまう。これが本音と建前の危険性だ。

ところが問題はそれだけではないようだ。それが歴史教育の問題である。

日本の歴史教育は「古代から近代までをとにかく覚える」というゲームなっている。このため個々の歴史について分析したり議論したりすることはない。だから、それぞれが勝手な印象を持ったままで歴史教育が終わってしまう。現実世界でもこの方式で歴史や政治を分析したつもりになってしまうのだろう。それぞれが勝手な印象を持っているだけならいいが、それを語り出した瞬間に収拾がつかなくなる。

学校で分析のための議論をしていれば物事には両面があるということがわかる人が増えるはずだ。だが、受験に間にあわせるためには考え事などしている時間はない。とにかく限られた時間の中で近代までカバーしなければならないからだ。

よく日本人は英語ができないという。文法の細かな規則をカバーするのに忙しく、英語を話すことができない人を毎年量産し続けている。日本の英語教育が作っているのは英語が使える人ではなく、英語の細かな文法をたくさん知っている人だ。同じことが歴史でも起きているのかもしれない。年号を知っている人はたくさんいるが「歴史を話せる人」はほとんどいない。

感情と論理を人工的に分離する癖がついてしまっており、なおかつ歴史的経過を単に年号としてしか覚えないという人が大挙して歴史に語り出した結果、自分たちが本当に何を考えていたのかがわからなくなってしまった。これが日本の政治言論の正体なのだろうなあと思う。つまり、この議論は運動会としては楽しいが、何の智恵もももたらさないのだ。

Google Recommendation Advertisement



情報発信は問題解決にはむしろ有害なのではないかというまとまらないメモ

毎日色々なネタを書いている。このところわかったことが色々とあるので少し整理したい。今回は個人的なメモなので結論はない。




情報発信をしているとなんらかの経済的なサポートが必要になる。例えば政党は支持者が必要であり、雑誌は購読者が必要だ。そして、ページビューが伸びる話題というものがある。それは「誰かや何かを叩く」というものである。毎日何かを書いているとこれが顕著にわかる。誰かを叩くと露骨にページビューが伸び、内省的・考察的なものになると沈む。今の日本では多分、原因を内側に向けて情報発信してはいけないのだ。これはいいことなのか、悪いことなのか?

Quoraの質問を見ていてもそれがわかる。例えば安倍首相批判やトランプ大統領批判はそこそこ盛り上がるし、日本の学校は「全体主義的で画一的である」というような主張にも支持が集まりやすい。「韓国はなぜダメなのか」という質問もよく出てくる。これは他国を貶めることにより「色々言われているが日本はマシだ」というような気分になれるからなのだろう。こうした情報発信には引きがある。

だが、誰かを非難してもそれが問題解決につながることはない。新潮45の廃刊や民主党政治の失敗を見ていてもわかるように、やがては飽きられて支持を失う。

民主党政治を見ていると誰かを叩くことの意味がもう少し見えてくる。彼らが支持を集めたのはそれが閉塞感の打破につながると考えらえていたからである。今の野党の問題点は明らかだ。問題点にばかり注目しているので、野党の言説を聞いていると「日本には夢や希望がない」ような気分になり、なんとなく気分がアガらない。つまり、民主党が支持されていたのは問題を追求していたからではなくそれが「お手軽な開放感につながる」という期待があったからだ。この期待感が失せてしまったために民主党は<オワコン>になってしまった。気がついていないのは当事者たちだけである。

では人々はなぜ誰かが「一発逆転」のを待ち続けてしまうのか。またそうしたチャンスがないと知ると下を向いて黙り込んでしまうのか?

日本では公共という概念がない。自分たちで社会の問題解決をしようとは思わない。このため日本人は政治について語りたがらない。なぜ政治について語りたがらないのかということすら語りたがらない。日本人が語りたがらないことは二つあるようだ。

一つは自分たちで社会を変えられるというようなことは決して語りたがらない。同じように創造力というトピックにも全く人気がない。この想像力やクリエイティブを語りたがらないという傾向はこの10年程度変わっていないように思える。日本人は自分たちの村を自分で変えられるとは思っていない。だから勝っている村は勝負に熱中し、負けている村は他の村と比べて「自分たちの方がマシだ」と思いたがる。

このほかに、個人で情報を発信するということに恐怖心を持っているということも語りたがらない。なんとなく漠然とした不安はあるようだが、それが具体的に何なのかということを聞いてみると答えがかえってこないのだ。これについては少し考えた。多分「普段個人として突出した人たち」を攻撃しているからだろう。内面に他者に対するやっかみの気持ちがあるので、自分もそうなりかねないということに気がついているのである。無力感とやっかみを感じているのである。

このように日本人には「私」がなく「我々」と「それ以外の奴らあるいは奴」という背景文脈を強く意識して生活しているのだが、決してそれを認めたがらない。それだけソトに対する苛烈な差別意識と攻撃性を持っているということなのだろう。そして個人ではそれを決して表出しない。日本人は群衆になった状態でソトを攻撃することを好み、ウチでは好ましい個人でいようとする。

このウチとソトには大きな問題がある。ウチで解決すべき問題を「ソト」に排出して処理をしないというのは実は空気を汚す公害と同じ図式である。攻撃性という毒を持っていてそれが「他人から見たソト」つまり「誰かのウチ」を攻撃するのだ。公害処理は国の役割だが情報公害を処理する人は誰もいない。

自己と呼ぶか自我と呼ぶかは別として、日本人の自己意識が社会化されていないというような論評は探せばいくつかあるようだ。ウチとソトを分けるという話もよく聞くし、集団で意思決定をして中心を持たないという社会学的な論評も多い。日本人は概念的な村を意識して生活していることは間違いがなさそうだが、これがまとまった理論にまではなっていないし、それを国際比較したような研究もない。

社会化・公共化の原点は「個人の考え」(このブログでは内心と言っている)なのだが、この内心という考え方そのものも全く理解が得られないところをみると、そもそも日本人は文脈なしに個人が考えを持つということそのものを想定していないのかもしれない。つまり、日本人の規範はもともと内向けと外向けのダブルスタンダードであり、コンテクスト抜きの公共も内心もありえないのである。

日本には公共がなく、公共のなさを突き詰めてゆくと内心のなさに行き着く。だが、この短いステートメントが日本人に理解されることはないだろう。「社会の中の私」がないのだから、公共も内心もそもそも「絶対に」理解されえないからである。ところがその上に西洋的な価値観に従うべきだという規範意識がありもともとのアジア的・島国的なものをどこか恥ずかしい「裸の意識」と感じているのかもしれない。他人に聞かれて裸の自分を見せる人はいないだろうし、鏡で正視してみることもできないだろう。だから、日本人にこの手の質問をしても絶対に答えは返ってこない。が面白いことに海外で生活している日本人はこれを意識している人が多いようだ。ゆえに多分主語は「日本人」ではなく「日本社会」だろう。

社会化はされていないのだが、マスコミという大きな塊はあるので、これがときどき「あたかも意思を持っているように」動くことある。ところがこの動きはいつまでも続かない。このように日本にはいくつかの出来損ないの村がある。ワイドショーは幻想の村だ。

このため、多くの人が「マスコミがうわーっと動けば物事が劇的に変わるのに」と思いながら実は何も動いて行かないことに対してフラストレーションを持つのだと考えられる。軍隊が否定され、官僚が多様性と複雑さに耐えられなくなり、政党政治が改革に失敗した今、我々が希望を抱くのは世論がいつか目を覚まして自分の思い通りの理想社会が作られることなのかもしれない。だが、それは多分幻想に過ぎない。そんな集合自我はないからである。

こうして思考は最初の点に戻る。こうした炎上型の言論にはニーズがあるために情報を発信する人はこの炎上を利用した注目を浴び続けなればならない。こうして、情報を発信し続ければし続けるほど問題解決は難しくなり、行動者としての支持は得られなくなってしまう。だが、時々それが画像を結んだように見えてしまうので人々は幻想を抱き続けるのだ。

このループが回路となって「閉塞状況」を作っている。

Google Recommendation Advertisement