集団的自衛権と有権者の意思形成

無関心期

長らく、アメリカの保守派やジャパンハンドラーは日本政府に対して集団的自衛権の行使容認を訴えてきた。安倍晋三は第一次政権時代から集団的自衛権の行使容認に意欲を見せていた。当初は憲法を改正して、集団的自衛権の行使を容認する計画を持っていたものと思われる。その後、民主党の野田政権が集団的自衛権行使容認を議論した。

一方、集団的自衛権に関する国民の関心は強くなかった。一部の右派系雑誌が中国の脅威と絡めて日本の軍事的プレゼンス強化を訴えるのみだったが、雑誌の部数が少なく、議論の広がりはなかった。

その後、第二次安倍政権が発足し、2014年7月1日に憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認を決定する。しかし、国民の関心は必ずしも高くなかった。安倍政権は2014年12月に「アベノミクスの成否と消費税増税の延長」を争点として衆議院議員選挙を行った。自民党のマニフェストには小さな字で集団的自衛権について書いてあったが、大きな争点にはならなかった。

コンテクストの不在

第三次安倍政権は2015年になって、アメリカの議会で集団的自衛権の行使容認を含む約束をした。公の場でコミットメントしたために、その後妥協の余地はなくなった。

その後、10の安保法案に1つの新しい法律を加えて国会に提出した。この頃から新聞での報道が多くなったが、国民の大半は「分からない」と考えていた。支持率は25%から30%といったところだ。

安倍政権は、中国の脅威とアメリカの依頼という重要な2つの文脈を国民に説明しないままで安保法制の説明をした。コンテクストが不明だったので、多くの国民が唐突な感じを持ったのではないかと考えられる。安倍首相は「敵に手のうちを明かす」という理由で、国民への説明を拒んだ。

権威ある第三者の登場

「潮目が変わった」のは、6月4日の憲法審査会だった。安保法制とは関係のない審査会で、自民党が推薦した憲法学者を含む3人が、安保法制は違憲だと表明した。これをきっかけに、安倍政権が秩序に挑戦しているのではないかという疑念が広まった。これを表現するのに「立憲主義に違反する」とか「憲法違反だ」という表現が使われるようになった。安保法制の内容に反対しているのか、安倍政権の態度に反対しているのかは判然としない。

態度を決めかねている有権者は、意思決定のために党派性のある意見を使わなかった。憲法学者は政治的に中立なポジションにいるものと信じられており、権威もあったので、態度を決めるのに役に立ったのだろう。

その後も「賛成派」や「反対派」の立場の人が国会の内外で自説を述べたが、世論には大きな影響を与えることはなかった。そもそも安倍首相が「敵に手のうちを明かすから」という理由で説明を拒んだために、賛成派も反対派もそれぞれの理由付けをして自説を補強しただけだった。

新聞とNHK

長い間日本では新聞は中立だと考えられてきたが、今回の安保法制では意見が別れた。政権に好意的な新聞(読売、産経)と批判的な新聞(朝日、毎日)である。態度が決まっている人は、同じ意見を持っているメディアを紹介する可能性が高い。故に、中立を装うよりも、ポジションを明確にした方が一定の読者にアピールする可能性が高まるのだろうと思われる。

NHKの評価は芳しくない。中立を装いつつ安倍政権を擁護しているのだという見方が一般的だ。NHKへの「言論封殺」が直接指示されたわけではないものの、結果的にNHKは萎縮した。安保関連の企画が通らなくなったという声もある。このため、政府にとって有用な説明もなされず、賛成派にとっては必ずしもよい結果をもたらさなかった。

これまでの観察から類推すると、メディアには党派性があるために、態度強化の役には立つが、態度変容のためには役に立っていないのではないかと思われる。

政党離れ

安保法制への反対が増えるに従って、反対表明をしている共産党や民主党への支持が増えてもよさそうだが、支持は広がらなかった。60%程度が無党派になっている調査もある。この点についての調査や分析は行われていない。

民主党は野田政権時に集団的自衛権行使容認を目指したのだが、現在は反対を表明している。また、民主党の中にも「反対派」と「実は賛成派」が混在しており、ツイッター上で自説を述べ合っている。対案が出せないのは民主党内の意思が表明されていないためと思われる。

安保法制を「戦争法案だ」と考える主婦や学生が「戦争反対」のデモを開始した。賛成派はこれを「共産党の影響を受けている」と攻撃したが、デモを主催する人たちは「共産党とは関係がない」と反論した。

一連の出来事から、既存の政党への拒否反応が広がっている様子が感じられる。政治的なイシューと政党が必ずしも結びつけて考えられていないのである。特にデモを起こして反対する人たちにとって「党派から独立していること」が重要だと考えられている。

ツイッター上の部族とニュースイーター

安保法制の議論がエキサイトするにつれ、ツイッター上では「賛成派」「反対派」が明確になり、相手を攻撃するような光景も目にするようになった。このことから、ツイッターのフォロワーは必ずしも賛意を意味するものではないことが分かる。反対の意見を持った人を監視し、攻撃するためにフォローする人が少なからずいるのである。

一方で、態度を決めるためにツイッターを利用している人も多くはなさそうだ。むしろ、ツイッターは態度強化の為に利用されている。賛成派と反対派では、もともとのストーリー構成が違っている。このため、部族が異なると、相手の言っていることがよく分からないのだろう。いったん意見表明してしまうと自分の発信に対するコミットメントを深めてしまうので、態度変容が難しくなる様子も分かる。

一方で、態度を折り合わせるために共通のストーリー作りを目指すという声は聞かれなかった。

ごく少数ではあるが「事実はどこにあるのだ」という当惑の声も聞かれる。ここでも「中立性」が求められている。ストーリーによって見方が異なるので「ただ一つの真実」というものはないのだという見方をする人は少ない。つまり、比較が重要だということ を考える人はほとんどいない。

もう一つの顕著な層は「ニュースイーター」と呼ばれる人たちである。この人たちは、折々のニュースをフォローすることに興味があるが、自身の意見を持っているかどうかは分からないし、態度強化や態度変容を目指して情報収集しているかどうかも分からない。ニュースはタイムラインを流れて行くものなのだ。

Faceboookはニュースイーターを多く抱えているものと思われる。サイト解析から見ると、年代は30歳代より上が多い。今回の場合「安倍君と麻生君の例え話」や「火事と生肉の例」など、テレビで話題になった事案に引きつけられることが多く、必ずしもニュースの本質的な議論に興味があるわけではなさそうである。

「強行採決」

支持率が急落し、賛否が逆転したのは、法案が衆議院議会で採決された7月15日前後だった。法案の中身よりも「世論が納得していないにも関わらず」法案を押し通したという点が、反発されたのではないかと思われる。

この時期になっても賛成派は約25%とそれほど変わっていない。安倍首相自身がテレビに出て安保法制について説明したが、火事になった家の例は国民を困惑させただけで、視聴者に態度変容をもたらすことはなかった。

集団的自衛権 – アメリカは何を求めていたか

集団的自衛権の議論は分かりにくい。国内議論では元々のリクエストが隠蔽されているからだ。そこで、アメリカの要求を検討することで、本当は何が求められていたのかを考えてみたい。

アメリカのリクエスト

そもそも、これは陰謀ではない。例えば、アメリカのヘリテージ財団は、野田政権の末期に次のように書いている。(クリングナー論文

米国政府は長きにわたって、日本が自国の防衛により大きな役割を担うこと、さらに海外の安全保障についてもその軍事力・経済力に見合う責任を負担することを求めてきた。日本が防衛費支出を増大させ、集団的自衛権行使を可能にし、海外平和維持活動への部隊派遣に関する法規を緩和し、沖縄における米海兵隊航空基地代替施設の建設を推進することになるとすれば、米国にとって有益なことである。

その上で、日本の海外権益を守る為にシーレーン防衛を実行すること、自衛隊海外派遣隊が自力で自己防衛できる能力を備えるようにすること、日米韓で連携することなどを求めている。

ここからいくつかのことが分かる。第一にアメリカは「日本が集団的自衛権を行使できない」ということを認識している。故に、小川和久さんの主張にあったように「日米同盟は集団的自衛権の行使が前提である」という論は成り立たない。

次にアメリカは日本が防衛費支出を増大させることを期待している。これは安倍首相の主張とは異なっている。安倍さんは「納税者の負担は増えない」と言い切っているのだが、これはアメリカ政府のリクエストを満たさない。

さらに、アメリカは自衛隊を軍隊へ格上げして、日米同盟を日本防衛のスキームから海外でも活動できる軍事同盟に格上げすることを期待している。このためには憲法改正が必要であり、憲法改正には国民の理解が必要だ。そもそも、そのためには国民の意識変革が必要だろう。

アメリカのシナリオと誤算

このレポートは、日本に政策転換を促すために、中国の脅威を強調して民族意識を刺激しろと言っている。この戦略は当たった。

一方で誤算もある。中国の脅威やアメリカ政府のプレッシャーでは日本人の意識を変えられなかった。

日本は第二次世界大戦で海外権益を失ってしまったために、権益を防衛しようという意識を失った。さらに、自衛隊はアメリカ軍のサポートであるという意識があり、規模(世界第九位)の割に軍事的大国であるという自己認識がない。さらに70年前の戦争が大きな失敗体験になっていて、戦争に拒絶反応がある。

両国間にある「防衛観」の違いも大きかった。アメリカ人が考える防衛は「多国籍・積極的介入主義」だが日本人にとっての防衛は「一国・専守防衛主義」である。このため「集団的自衛権」と「個別的自衛権」が選べる場合「個別で対処すればいいのでは」という意識がある。

さらに、国民レベルで見ても防衛観は異なっている。アメリカ人にとって銃で武装することは自己防衛だ。市内にある危ない地域を車で通る時に銃を持ってでかけることもある。だが、銃武装が禁止されている日本人はそうは考えない。銃を持つということは人殺しが前提であり、それは防衛と呼ぶには過剰なのである。

安倍さんの失敗、ネトウヨの失敗

安保法制賛成派の立場から安倍政権の行ったことを評価してみよう。賛成派の最終目標はアメリカの主張を日本人に受け入れさせて実際に実行させることだ。

安倍晋三に期待されていたのは、リーダーとして日本人の意識改革をすることだった。中国の脅威を強調しつつ、民族意識を刺激し、大国としての自負心を植え付けることだ。

ところが、安倍晋三は「お友達」と呼ばれる価値観を同じくするもの同士でメッセージを共有するだけで、他者の意識を変革する努力を放棄した。そればかりか、立憲主義を無視して憲法に違反する法律を制定しようとしている。このため、安倍首相の行動は憲法クーデターだと呼ばれるようになった。

また、ネトウヨがやるべきだったのは、匿名のネット上で中国人や韓国人をバカにしたり、民主党をこき下ろすことではなかった。職場や友達などに「日本人は大国意識を持つべきだ」と主張し、実際に行動を変えることである。消費者であってはならず、生産者になるべきだったのだ。

アメリカの反応

衆議院の法案通過を受けて、ヘリテージ財団のブルース・クリングナー上級研究員は「変化は哀れな程小さい」と評価した(時事)。さらに、フォーリンポリシーは安倍首相の今回の行動を「憲法クーデターだ」と呼んでいる。過去の政策と整合性がないが、国民の支持も得られていないという含みがあるものと思われる。

アメリカ政府は明確なコメントを出していない。民主主義を擁護するという名目で他国に介入するアメリカとしては、非民主的なプロセスで送り出される軍隊を表立って賞賛することはできないのかもしれない。

矮小化された議論と自民党の限界

レポートの是非はともかく、ここから分かるのは、アメリカの保守派が日本政府と日本人に「多国籍・積極的介入主義」を受け入れさせたかったということだ。集団的自衛権の行使はそのためのツールに過ぎず、憲法改正ですら単なる途中経過なのである。

意識を変えるのは難しい。極端に言えば、主婦や学生に「銃を持って海外に行くことは、防衛である」と信じさせなければならないのだ。安倍政権のやろうとしたことは、戦後イデオロギーの大胆な転換だった。しかし、安倍政権は自民党をイデオロギー政党に変革することに失敗した。

自民党は戦後長い間「経済政党」だった。経済成長を実現しその果実を分配する装置として機能してきた。ところが、シーレーンを防衛しても新しく分配できる利益は増えないばかりか新たな負担を抱えてしまうことになる。故に、旧来のスキームで安保法制を国民に受け入れさせることはできなかったのである。

安倍首相はなぜ国民を怒らせたのか

ひっかかりのない思考的議論

ツイッターで安保法制の議論を読んだ。アメリカ政治の専門家によるテクニカルなもので、とても退屈だった。もし、政府の議論がこのようなものだったら、国民を二分する議論にはならなかったのではないかと思った。感情に訴えかける余地がないからだ。

価値判断に重きをおく安倍首相

一方、安倍首相の説明はよくも悪くも国民の感情に訴えかけた。結果的に、安倍首相は集団的自衛権の議論を混乱させた。

安倍首相は「価値観の人」だ。価値観の人は特定の価値を共有して理解を深めようとする。安倍首相は同盟関係を評価するのに「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」という言葉を使う。一方韓国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」ではない。敵味方がはっきりしているのも価値観の人の特徴の一つだ。

安倍さんの主張は仲間内で大きな賞賛を集めた。雑誌WILLなどを読むとこのことが分かる。彼らは安倍さんと価値観を共有しており「そもそも、美しい国を守るのに、面倒な理論は要らない」という主張を持っている。自民党が下野している間も信頼関係は揺らがなかったので、必ずしも利権などの損得で結びついているわけではなさそうだ。

価値判断と損得判断の遭遇

集団的自衛権行使容認派の中には「戦略的思考」を持つ人たちがいた。戦略的な人はいろいろな検討をしたあとで、どのアプローチが得か考える人たちである。彼らは自分たちの主張を通すために「価値観の人」を取り込むことにした。知恵を授け理論構築と整理を行った。アメリカからの要望はおそらく戦略的思考に基づいて発せられたものだろう。外務省にも戦略的な人たちがいて、アメリカの要望を理解したに違いない。

オバマ大統領は様々な意見を聞いた上でどちらがアメリカの国益に叶うかを考える戦略的指向を持っている。時には双方の主張を折り合わせることも検討するバランス型でもある。ところが、安倍首相は価値観の人で「どちらが正しいか」は最初から決まっている。オバマ大統領が当初安倍首相と距離を置いたのは、性格に大きな違いがあったからではないかと考えられる。

直観と感覚の相違

ここで行き違いが起こる。安倍さんが「感覚的」な人だったからだろう。感覚的な人は、背景にある論理を直感的に捉えるのではなく、興味がディテールに向く。戦略的思考の人たちが論理から例示を導いたのに、例示だけが印象に残ったのだろう。

戦略的な人が直感的に捉えれば、個々の例示から背景にある論理を読み取ったに違いない。戦略的思考を共有している外務官僚に任せていれば、それなりの答案が出たはずだ。ところが、細かな例示にばかり気を取られる政治家は「あれもこれも」実現しなければならないと思い込む。政治主導が発揮しているうちに、例外のある複雑な理論が構築されてしまったのではないかと考えられる。

価値観の人が秩序の人を怒らせる

安倍さんが次に困惑させたのは、憲法学者や元法制局長官などの「秩序の人」たちである。秩序の人は損得や正しさよりも論理的な秩序を優先する。彼らにとって正しいのは「法的な整合性が整っている」ことである。安倍首相の「正しければ、整合性はどうにでもなる」という考えが彼らの反発を生み「立憲政治の危機」という発言につながった。

皮肉なことに、安倍さんの憲法無視の行動は、アメリカさえ刺激しかねない。フォーリン・ポリシーは「憲法クーデター」という用語を使っている。「民主主義、法の支配など普遍的価値観」への挑戦だと見なされているのだ。「憲法クーデター」を根拠に動く軍をアメリカが利用するわけにはいかない。アメリカは、少なくとも表向きは「民主主義という価値観」を守るために行動しているからだ。

価値観のぶつかり合いは感情的な議論に火を付ける

秩序の人たちは、価値観の人たちから「合憲であれば正しくなくてもよいのか」と非難され、戦略的な人たちからも「合憲であれば損をしても良いのか」と攻撃された。加えて「平和憲法こそが美しい日本の根幹をなす」という価値観を持っている護憲派の人たちも加わり、議論は思考のレベルを越えて感情のレベルで火がついた。

感情的なぶつかり合いは戦略的思考を持っている人たちに利用されることになる。民主党の枝野さんたちは、戦略的にこの混乱を利用することを考えた。そこで「いつかは徴兵制になる」という感情的な議論をわざと持ち出して護憲派を刺激した。感情的議論はついに主婦にまで飛び火した。

稚拙な論理が聴衆を困惑させる

この時期になって、良識ある人たちは遅まきながら「法案の内容を理解しなければ」と考えるようになった。しかし、最初から理論が複雑な上、安倍首相の意図の全体像も明らかにならなかったので、当惑されるだけだった。

遅まきながら安倍さんはインターネットテレビに登場し「麻生君と安倍君」の例を使って集団的自衛権を説明しようとしたが、理論構築があまりにも稚拙なため失笑を買った。

価値観を中心に議論している人たちにとって「仲間を助けるのは当たり前だ」という単純な議論が伝わらないのは不思議に思えるかもしれない。丁寧に話せば分かってもらえると考えるのも無理のないところだろう。ところが、相手が聞きたがっているのは「彼らの価値観」ではないかもしれないのだ。

リーダーにとってコミュニケーション戦略は重要

「理解」の質は様々だ。価値観の人たちは「どちらが正しいか」を考え、戦略的思考の人は「どちらが得か」を評価したがる。大枠で理解したいと思う人もいれば、細かな状況に注目する人もいるのである。

安保法制の是非はともかくとして、このケースは多様なコミュニケーションを理解することの大切さを教えてくれる。コミュニケーションスキルのないリーダーを選ぶと国益さえ損ねかねないのである。

トウガラシから見えてくるもの

インド料理について調べていて興味を持ったので、トウガラシのことを調べてみた。なかなか面白いことが見えてくる。

トウガラシは中米(現在はメキシコ説が主流らしい)原産のナス科の植物だ。にも関わらず、トウガラシ料理を自国の文化と結びつける民族は多い。例えば韓国と日本を比較するのに「トウガラシとワサビ」という言い方をする人もいるし、インド料理やタイ料理にはトウガラシが欠かせない。

新大陸からヨーロッパに渡ったのはコロンブスの時代であり、それ以前のインド料理にはコショウはあってもトウガラシの辛さはなかったはずだ。こうした料理を見るとグローバル化という言葉が使われる以前から、世界の交易が盛んだったことが分かる。

トウガラシの叫び: 〈食の危機〉最前線をゆく』は、気候変動とトウガラシの関係について書いた本だ。邦題を読むと、いたずらに悲壮感をあおる本のように思えるが、実際にはトウガラシとアメリカ各地の人々の関係について実地調査した「明るめ」の本だ。

この本を読むと各地のトウガラシ – 日本人はひとまとめにしてしまいがちだが、実際には様々な品種がある – とのつながりと「トウガラシ愛」が分かる。気候変動によって引き起こされたと思われる水害によって壊滅的な被害を受けた土地もある。気候変動が将来の可能性の問題ではなく、いま目の前にある現実だということが強調されている。その一方で、過去には育てられなかった作物が収穫できるようになった土地もあるそうだ。

『トウガラシの叫び』は作物の多様性についても言及している。農作物も産業化しており、大量に収穫が見込めるトウガラシがローカルのトウガラシを駆逐して行くことがあるそうだ。それぞれのトウガラシには固有の風味というものがあり、それが失われることで、食べ物の多様性も失われて行くであろう。各地のトウガラシ栽培には、先祖たちのストーリーがある。それが失われるということは、すなわち先祖とのつながりや誇りといったものが切れてしまうということを意味する。

その事は、『トウガラシの文化誌』からも読み取ることができる。この本も人々のトウガラシ愛について言及している。

両方の本に書かれているのが、タバスコ・ソースについての物語だ。現在に至るまでルイジアナの一家が所有した企業によって作られているタバスコ・ソースは、南軍の兵士がメキシコのタバスコ州から持ち帰ったトウガラシから作られている。この一家の先祖は、北軍による攻撃を受けてその土地を追われてしまった。戦争が終わって戻ってくると土地は荒れ果てていたのだが、ただ一本残っているトウガラシを見つけた。タバスコペッパーは生きていたのだ。そのトウガラシから作ったソースは評判を呼び、今では世界中で使われている。

このようにトウガラシから分かることはいくつもある。地球温暖化や気候変動は身近な作物 – つまり私達の生活 – に影響をあたえている。多様な食文化は、食材の多様性に支えられている。グローバル化はそれを脅かしつつある。一方で、伝統的に思えるローカルな料理も実はそのグローバル化の影響を受けて変質している。変質してはいるものの、世界の人たちはおおむねこの変化を歓迎しているようだ。

トウガラシに着目するといろいろなことが見えてくる。理屈だけを見るよりも、具体的な物や人に着目する事で、問題についての理解が深まる。

さて、世界の人々がトウガラシに愛着を感じるのはどうしてなのだろうか。

トウガラシにはカプサイシンという成分がある。ほ乳動物はこの物質を摂取すると舌に痛みを感じる。ところがこのカプサイシンを少量だけ摂取すると体温が上がり、ランナーズハイに似た症状を感じるらしい。エンドルフィンなどの鎮痛成分が生じるためと言われている。

また食べ物の味を明確にする機能があるようだ。よく「辛いものばかり食べていると舌がしびれてバカになる」と言う人がいるが、実際には逆らしい。このことは日本人の好きなスシとワサビの関係を見てもよく分かる。ワサビの辛みが加わる事で、味に「枠組み」のようなものが生じ、うまみが増すのが感じられるからだ。

ジャーナリズムと場

ジャーナリズムの衰退が語られている。もう新聞の需要がなくなったという人もいれば、ジャーナリズムは民主主義の要であり新聞は重要だという人もいる。そもそも、新聞はどのように始まり、どういった読者に受け入れられたのだろうか。

ヨーロッパにおける新聞の祖先には二つの説がある。政治パンフレットと商業出版物だ。政治パンフレットの歴史は国民の知る権利を巡る闘争の歴史だ。ヨーロッパでは国が出版を管理する時代が長く続き、政治パンフレットの発行を理由に死刑になる人もいた。一方、商業出版の歴史では広告宣伝とニュースの間の線引きが問題になる。

イギリスのアン女王時代に出版された最初の日刊新聞デイリー・クーラント(リンクはwikipedia)の出版部数は1,000部以下だった。特定の政治信条を主張するパンフレットと違い「ニュース編集者の主観を入れない」という方針で知られていた。

この時代1712年に新聞税が課税されたのだが、人々はそれでも新聞を読みたがった。その読者はどのような人たちだったのだろうか。

イギリスではトルコから入ってきた流行の飲み物であるコーヒーを楽しみながら新聞や雑誌を読むコーヒーハウスが人気だった。ここで議論が交わされ、世論が形成された。商人たちは情報を交換し合い、ビジネスも生まれた。新聞はコーヒー・ハウスで読まれていたから、1,000部以下の部数でも世論に対する影響を持つ事ができたのだ。

仲間と一緒に新しいビジネスに取り組むとき、海外から入ってきた新しい事物に関する情報には需要があった。デイリー・クーラントが「ニュースに編集者の主観を入れない」と宣言したのは、読者ができるだけ中立な情報を望んでいたからだろう。

残念なことに、現在の新聞が特定の場にいる読者を想定して記事を記事を書くのは不可能だ。だから、現実や読者はこうあるはずだという像を作り上げるしかない。しかし、新聞が態度を変えない一方で、読者を取り巻く環境は大きく変化し続けている。ネットが台頭し広告収入が減った影響で、大規模なリストラを行う新聞やネット版への完全移行を決めた雑誌もある。

ジャーナリストの多くは、ジャーナリズムの伝統を所与のものとして捉えており「ジャーナリズムがどうやって成立したのか」という歴史に思いを馳せる人は少ない。日本ではジャーナリズムの崩壊は民主主義の危機だというような本が出版されているのだが、そもそも伝統がどう作られたのかを研究している人もほとんどいないようだ。

場の成り立ちがそれに相応しいメディアを生むのであって、メディアが場を作るわけではない。基本的なところだが、ジャーナリズムの危機を考える上では重要な視点ではないかと思う。