「初めての楽天モバイル」の印象は顔は劇画だが体は幼稚園児の落書きのようだった

楽天モバイルが1年間無料を実質上延長するプランを出した。4月1にからは1GB以下であれば引き続き無料で使えるという。Rakuten Miniという1円で利用できる端末もあるので申し込んで見た。結果的に「タダより高いものはない」と思い知らされることになった。と同時に三木谷さんという人は経営者には向いていないんだろうなと痛感した。

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東須磨小学校の教師になってはいけなかった先生と親になってはいけなかった人の共通点はなにか

東須磨小学校で虐待暴行犯罪に加担したと見られる教師たちが言い訳のコメントを出した。「教師になるべきではない人たちだな」と思った。こういう人たちからは教員免許を取り上げるのが一番だというのが最初の印象である。




しかし、これを別の話と組み合わせて考えることでまた違った見方ができるようになるのではないかと思った。それが幼児虐待だ。「自己肯定感の低さ」と「マニュアルの不在」という組み合わせが共通しているように見えるのだ。

東須磨小学校の先生の言い訳のコメントを見ると加害側の教師たちの歪んだ現状認識が見えてくる。と、同時にこの人がなぜ重用されていたのかもかなりあからさまにわかってしまう。

加害教師の首謀者だった女性教員は、まず教師は子供達のことを書き、次に「教師をかわりがっていた」と主張している。つまりすべて他人目線で「思いやりのある私」を演じているのだ。子供の件は男性教師へのいじめとは全く関係のないのだから、無自覚のうちに好ましい教師像という仮面が張り付いてしまっていることがわかる。虐待の事実が表沙汰になった今それは自己保身にしか映らないがそれでもいい教師のフリが止められない。

考えてみれば異常な話である。男性教師は辛いカレーをなすりつけらえ泣き叫んでいる。これに対して「彼が苦しんでいる姿を見ることはかわいがってきただけに本当につらいです」と言っている。文章が理路整然としている分だけ散乱した自己認識が痛ましい。

もちろんこの文章からはそこから先のことがわからない。

「相手のためを思ってやった」という同じような供述は虐待に関与した親に見られることがある。ときを同じくして船戸結愛さんを殺害した船戸雄大被告の裁判での様子が出てきた。FNNの女性アナウンサーが記事を書いている。

加害男性(義父)である船戸雄大被告には、理想の家庭を作りたいという体面があったがことはわかる。母親の優里被告は自分の気持ちを言語化することができずただただ周囲に憐れみを乞うてか弱い女性の演技をしているようだ。

医師によると優里被告も雄大被告も自尊心が低かったということである。自尊心の低さを隠すために子供にしつけと称して支配を試みていたということになるのだが、雄大被告が自分の自尊心の低さを認識していたのかはわからないし、それを言語化できていたのかもわからない。そもそも自尊心の低さというのは何なのだろうか。

まず最初に違和感を感じるセリフは「バラバラになる」である。雄大被告は結愛さんを病院に連れて行かなかった理由を家族がバラバラになるからと説明しており、女性アナウンサーはこれを「理解できない」と書いている。実際にバラバラになるのは他人から見た自分たちと実像の乖離なのだろう。雄大被告らは大麻所持が見つかっておりさらに理想と現実が乖離していたことがわかる。すでに自己像はバラバラになっておりそれを偽りの演技だけが繋ぎ止めているという痛々しい状態になっている。

他人から見て整っていればそれでいいというのは自己保身のように見えてそうではない。そもそも他人の目無しに自己が存在しなくなっている。それは多分「自尊感情」ではなく「自己の不在」だろう。

FNNの文章を書いた女性のアナウンサーは母親に心情を重ねて「支配されていた母親が父親から逃れられなかった」と片付けてしまっている。一方、デイリー新潮は雄大被告の来歴を書いている。

父親に虐待されていた経歴のある雄大被告はもともと上場企業に勤めていたが、母親を助けるために会社を辞めて札幌に戻った。ところが子供のいる女性との結婚を母親に反対された。もともと理想が高かった雄大被告は「母親を見返す」という気持ちから子供に厳しく接するようになったのだという。

FNNの文章で「自己肯定感が低い」と簡単に書かれていた中身が少しばかり見えてくる。他人からの評価と乖離である。自己はバラバラ担っているが体裁だけがそれをまとめているという姿である。そこに子供という不確定要素が入れば、当然爆弾は破裂するだろう。

優里被告も破綻しかけた家庭で育ち自己肯定感が低かったために雄大被告の期待が言語化できず「雄大被告が望みそうなこと」を「先回りして」一覧表を作って子供に押し付けていたそうである。彼女もまた他人の気持ちを優先してしまうのだがどうやれば他人の期待に応えられるのかがわからない。つまり、母親も単なる黙認者ではなく加害者だった可能性が高いのである。優里被告も雄大被告の目を気にしている。

こうした人たちを救うためにはマニュアルを作って「理想の家族のなり方」を教えてやる必要がある。受け身型の日本教育が行き着いた極北と言っていい。自分なりの価値観が作れないのだから当然そうなってしまうのだ。

東須磨小学校の件について「女性教師は自己中心だった」と置いたのだが、実際にはそうでなかったのかもしれない。この女性教師もまた他人が期待する教師像を演じてきたのかもしれないと思うのだ。教師という職業には高い言語化能力が求められるはずだが、彼女はおそらく自己認識もできないしなぜ教師をいじめたのかが言語化できないだろう。さらに彼女は言語能力も高く前校長にも認められている。つまり女性教師は他人指向で成功してしまったが故に暴走を止められなくなってしまったのだと仮定できる。

神戸市の教育委員会は迷走していて「カレーを自粛する」としてTwitterで叩かれている。原因究明ができず自分たちに火の粉が降りかかることだけを恐れているようにしか見えない。

その裏で東須磨小学校では生徒のいじめが急増していたそうである。NHKでは教師間のいざこざが子供に伝染したのではと書いているのだが、実際にはマネージメントの不在が両方の原因の可能性もある。つまり東須磨小学校や神戸市教育委員会には学校を運営する能力も資格もないかもしれないのである。

この女性教師も「うわべだけ」が評価されていた可能性がある。実際のマネージメントはめちゃくちゃになっているかもしれないのだが、それは誰にも気づかれなかったということになる。実は解体・分析されるのは教師ではなく学校システムそのものなのである。義務教育なんだから体裁だけ整っていればそれでいいという目的を失った人間製造工場に起きた不具合なのだ。

他人の指示によって動く「考えないロボット」のような人間を大量に製造してしまったわ我々の社会は「自己肯定感」も供給し続ける必要がある。つまり「こうやったら理想的な父親と認められますよ」という認定制度や「こうやったら理想的な教師と認められますよ」という認定制度を作って、個人を監視しなければいじめや虐待を防げない。おそらく神戸市の教育委員会に健やかな教育とはどういうものなのかを考える能力はないだろうし、第三者委員会にも答えは出せないはずだ。そもそも炎上を背景にしており他人の目だけを気にしているのは明白だからである。

もちろん「他人の価値観でなく自分の価値観で生きる」という選択肢もあるはずなのだが、誰もそれを与えてはくれないし、そんなものは存在しないようだ。そればかりかTwitter上では「13年では生ぬるい」とか「実名を晒して教員免許を剥奪しろ」というような声が飛び交っている。ただ、他人を罰することしか解決策を見出せないのである。

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日本体操協会のゴタゴタについて勉強する

日本体操協会で揉め事がおきている。またかという気がする。

スポーツをめぐっては、内柴事件(2011年)、女子柔道(2013年)、相撲(2017年)、女子レスリング伊調馨事件(2018)、日大アメフト部特攻タックル事件(2018年)、水球女子日本代表パワハラ事件(2018年)、日本レスリング連盟事件(2018年)と数々の事件が起きているが、どれももやもやを残したままで消費されているのが実態である。

それぞれの問題には特徴があり一概に共通点を見つけることはできない。個人スポーツもあれば団体競技もある。オリンピックだけでなく興行的な色彩を帯びた相撲でも問題は起きている。唯一の共通点はどれも閉鎖空間で起きており周りの目が行き届きにくいという点である。問題は長い間放置されているのだが、一旦マスコミに漏れると大騒ぎになり「ガバナンスの問題だ」ということになるという経緯がとてもよく似ている。村の恥が外にさらされると世間の目が「酸素」のような役割を果たして炎上するのである。

今回の問題はその中でも最も複雑な部類に入るのではないかと思われる。問題の経緯が複雑で一概にどちらが悪いとは言い切れない。選手とコーチの間の暴力問題があり、それとは別に女子体操の私物化問題がある。この二つの要素が絡み合っており「悪者」が特定しにくい。

問題の発端は、宮川紗江選手のコーチが暴力問題を起こしたとして「期間を定めずに」コーチの資格を剥奪されたというものだった。これに怒った宮川選手(なぜかコーチではなく)が実名で記者会見をした。そこで宮川選手が訴えたのは朝日生命体操クラブへの不自然な勧誘行為だった。コーチも「裁判に訴える」などとと言っていたのだが、話が大きくなったことに驚いたのか仮処分の訴えを退けてしまったため、宮川選手の告発が宙に浮いた。最終的には塚原千恵子(強化本部長なのだが女帝という言葉の方がふさわしい)と宮川選手の直接対決になっている。

当初テレビ朝日が問題の沈静化を図ったので、フジテレビが宮川選手に単独インタビューを行い「対立」の構図がクローズアップされることになった。

こうした経緯がわからないとハフィントンポストの記事を読んでも何が何だかさっぱりと見えてこない。

キャラの濃い登場人物たち

日大アメフトの問題ではものが言えない選手たちと高圧的な監督という権力格差があったが、今回の場合宮川選手が告発に踏み切ったために「キャラの濃い」人たちの群像劇になっておりワイドショー的には極めて面白い。

まず宮川選手は単なる被害者ではなくかなり腹が据わった女性のようである。こういう強さがないとオリンピックで代表になれないんだろうなとは思う。だが「このコーチでなければダメだ」という思い込みも見られる。中には共依存という言葉を使って説明しようとする人もいるくらいである。つまり、表向きの強さと暴力さえも許容してしまう態度が共存してしまっているのである。

それに比べてコーチは様々なしがらみがあったのだろう。暴力癖があり感情が抑えられない上に、永久追放ではなく体操協会に従えば戻れる可能性があるということがわかると訴えを取り下げて宮川選手を見放してしまった。

さらに塚原夫妻(特に奥さんの方)は恰幅がよくワイドショーで悪役を努めるのにもってこいの顔をしている。フジテレビは彼女を悪役に仕立てるつもりのようで悪い女性の声色を使った演出を試みていた。夫の方も終始一貫しない態度が際立っている。「100%悪い」と言ってみたり「記者が指摘する意味とは違う」などと発言がコロコロ変わる。

どうやら昔から朝日生命体操センターに選手を引き抜くためにオリンピック強化プログラムを私物化していた疑惑があるようで、今回も正規の強化選手枠と塚原夫妻が立ち上げた強化プログラムの二本立てになっていることが問題になっている。正規のプログラムに従うと私物化ができないので、独自のプログラムを使って「裁量権が行使できる」ようにしていたと指摘されているのである。また谷岡学長が「伊調馨さんはまだ選手なんですかね」と切り捨てたように塚原千恵子さんは「宮川さんは最近成績が悪かった」と切り捨てるような発言をしている。小池百合子東京都知事にも言えることなのだが、女性の方が切断処理があからさまで容赦がない。これも彼女を悪役キャラに見せている大きな要因だろう。

体操協会もはっきりしない。「まだ何もわからない」としつつも「膿を出さなければならない」などと言っている。これまで「となり村で何が起こっても感知しない」というような態度だったのだろうが、世間の矛先がこちらに向かいかねないので慌てているのだろう。

この問題で唯一出てこないのは体操協会の会長だ。元ジャスコの社長で二木英徳さんという。実質的に体操には関与しておらず「体操協会の象徴」のような存在なのだろう。つまり統一的なガバナンスはなく男子と女子が「好き勝手に」運営していたのが日本体操協会なのだということになる。

自我の不形成と閉鎖集団

この問題を見ていると、自我が形成されていない人たちが閉鎖的な集団を作るとどうなるかということがよくわかる。この点では早くから入門して世間を知らずに育つ相撲とよく似ている。

体操は10代の後半から20代の前半がピークなので、自我が形成されていない早いうちから指導が始まる。そこで行き過ぎた暴力が生まれるのだが、団体競技ではないのでコーチと選手の間に親密な関係性が生まれやすい。宮川選手はPC的な観点から「暴力はいけない」などと言っているが実は家族も含めて暴力も「愛情表現がたままた行き過ぎただけ」だと容認している様子がうかがえる。プロになったりすると「自分で判断」する必要が出てくるのだ、プロのない体操では自我の不形成はそれほど大きな問題にならないのかもしれない。

さらに競技団体の私物化も行われていたようだ。当初、塚原負債が朝日体操クラブになぜ傾注するのか疑問だった。Wikipediaを読むともともと塚原千恵子コーチらが朝日生命の協力の元で立ち上げたクラブが母体なのだが、朝日生命は経営から手を引いており「協賛」という形で名前を使わせているだけのようである。つまり実態は「塚原体操クラブ」に有力選手を引き抜いて経営を安定させようとしていたということがわかる。問題は私企業の経営者が長い間体操協会の握っていたという点なのだろうが、それにしてもこうした慣行が長い間放置されていた理由がよくわからない。

だが経営能力の欠如は致命的だ。女子柔道も朝日生命体操クラブも行き詰っている。女子はオリンピックでは何大会もメダルに手が届かない。男子では塚原直也、内村航平までは選手が順調にメダルをとっていたのだが、そのあとの選手が出てきていない。リオオリンピックの団体選手もコナミスポーツが目立っているくらいである。コナミスポーツの方が組織的に運営できており選手層が厚いのだろう。こういった焦りが強引な勧誘行為につながったのではないかと思われる。有力な選手の引き抜きはかなり認知されていたようで、元選手たちも含めて「宮川さんを応援する」と言っている人が多い。中には「元朝日生命体操クラブなのだが宮川さんを応援する」と言っている人もいる。

対立に拍車をかけた偏向報道

このニュースでは当初テレビ朝日が協会側に立った報道をしていた。羽鳥慎一のモーニングショーでは、司会の羽鳥が元アナウンサーの宮嶋泰子を「この人はすごいひとなんです」と紹介したのだが、予断を与える言い方に「いくらなんでもこれはひどすぎるな」と思った。宮嶋は過去の取材経験から体操協会側の人間であることがあからさまである。背景を調べてみると、テレビ朝日がようやく獲得した放送権をめぐる事情がありそうだ。テレビ朝日は2018年10月の世界体操の放送権を持っている。フジテレビがNHKから引き継いで放送をしていたのだが、2017年からはテレビ朝日が担当しているということである。

テレビ朝日がこのようなポジションをとったので、これを好機とみたフジテレビは多分夏休み中だった安藤優子を召喚して宮川選手にインタビューを試みていた。こうして対立構造が作られてしまったのである。

ただ、選手が宮川側につき体操協会の側も「膿を出し切らなければ」ということになった途端にテレビ朝日は「やはり塚原夫妻側にも問題があったのかもしれない」などと言い出している。こうした態度が一貫しない日和見的な局が安倍政権批判をしても「結局は商売でやっているだけなんだな」ということになる。結局政権批判ごっこに過ぎないわけである。

経営のプロがいない

改めて考えてみると、体操選手出身の人たちが協会やクラブの経営を任されるという状態になっており、日本には経営のプロがいないことがわかる。経営文化という意味では町の少年野球団と変わりはない。これまでなんども見てきたように、こうした人たちが自分たちだけでどうにかしようとしているうちに状況が悪化してきてしまい、周囲を巻き込んで大騒ぎになる。

スポーツでは多額の金が動く。さらに選手の側もオリンピックに出られるか出られないかで人生が大きく変わる。つまり、もはや少年野球団の素人経営者だけでは運営ができなくなっているのだ。かといって全てに国が出て行って関与することもできないしやるべきでもないだろう。プロの経営者がスポーツマネジメントに積極的に関与する必要がある。

最近ワイドショーであまりにも同じようなパターンが繰り返されるので「政治のいざこざを忘れさせようと政府が何か企んでいるではないか」という人もいるのだが、実は外からの文化をまったく受け入れない内向きな姿勢が制度疲労を起こしているのだろうと思う。ただ、マスコミには問題解決をする姿勢は見られない。視聴者の様子を見ながら日和見的に態度を決めているだけなので、いつまでたっても「膿」が外に出てくるばかりで治癒しないのである。

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日本のテレビバラエティはなぜつまらなくなったのか

タイトルは煽りでつけたのだが、実は一通り考えてみてそれほど日本のテレビバラエティについて批判する気持ちはなくなっている。なぜならばもう見ていない上に「何をやれば解決につながるか」がわかっているからである。この辺りが正解がなく閉塞しているようにしか見えない政治議論とは趣が異なっている点だ。

今回のお話の要点はかなり短い。「説明できるものは再現できる」し「広く共感される」から「説明は重要」ということである。

YouTubeで韓国系のコンテンツばかりを見ているので、タイムラインが韓国だらけになっている。その中で面白いものを見つけた。「三食ごはん」のナPDが番組について英語で説明している。この人も英語ができるのだなと思った。これが何の集まりなのかはわからないのだが、MBAの授業などではおなじみのプレゼン形式であり、先日見たJYPを見ても明らかなように、韓国にはアメリカ流の経営理念がかなり入ってきていることがよくわかる。JYPはついにSMエンターティンメントを抜いて時価総額で一位になったそうだ。外国をマーケットにし海外からの投資を受けて入れている韓国では新しい経営理念を持った人たちが増えているようなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=47WPMgg6E2U

KBSからケーブルテレビに映ったナPDが作った「三食ごはん」は有名俳優が三度三度のご飯を作りながら田舎暮らしをするというだけのショーである。ぱっと見にはリアリティショーに見える。ケーブルテレビでかなりの視聴率を取り評判になり、続編も作られている。

プレゼンの内容は単純なものだ。この番組はリアリティショーに見えるのだが、ファンタジーであると断っている。田舎暮らしをして食事を作るだけがコンセプトなのだが、実際にこのような暮らしをしようとすると電気代などにも気を配らなければならないだろうし、近所の人たちとのお付き合いの問題もでてくる。つまり「おいしいところだけ」を切り取って見せているのである。韓国人でも「あのようなシンプルな暮らしに憧れる」という感想が聞かれるそうなのだが、実際にこれを同じ形で真似するのは難しいのかもしれない。ただ、韓国人は手が届かないアンリアリスティックなものではなく、できるだけ手に届きそうなものを求めているので、このような「いっけんリアルに見える」形になったと説明している。

アメリカでリアリティー番組が流行し、当然韓国にも流れてきた。当初は芸能人がソウルで豪華なパーティを開くような番組も作られた流行しなかったそうだ。つまり、韓国流にアレンジして国内で成功したことになる。

またナPDはイ・ソジンのことを自分のペルソナだとも言っている。つまり自分がやりたくてもやれないことを「リアルなファンタジー」としてテレビで再現している。年齢が若干違うのだが、なんとなく二人の顔が似ているのは偶然ではないのだろう。

これについていちいち日本の田舎暮らし番組と比較しようとは思わない。重要なのは、韓国人は外国語でシンプルに番組の狙いが説明できるという点に驚きを感じた。

日本のバラエティ番組ではまず司会者やタレントなどの「数字が取れる人」が選ばれることが多い。そしてその人(たち)を使って何ができるのかを考える。とはいえ最初から当たることは少なく、内容を変更しながら「数字が取れたもの」に着目する。だから、いったんフォーマットが固まってしまうとそこから動けなくなってしまう。つまり、何が受けるのかはわからないけれども、当たってしまったものがたくさんあるということになる。そして結果的に内輪ウケを狙ったものになる。まず業界の内部で人間関係ができており、それを国内の限られた層にプレゼンするからである。当然横展開はできないので限られた層の人たちに「失敗ができない」ものを提供せざるをえなくなる。政治やスポーツで散々みてきた「村が存続すると自動的に過疎化する」という図式がここにも見られるということになる。

これまで、言語化というものを文化的な違いとしてみてきた。それは、主にアメリカの個人主義と比較して日本文化を観察してきたからである。しかし、韓国は文化的には集団的で内向きな社会なので、言語化が得意なようには思えない。バラエティ番組に出てくる「職業的に訓練された」人たちとは違い、実際の韓国人は人見知りだ。加えて外国語で狙いをプレゼンできる人は限られてくるだろう。だからこそ、それができる人がいて実際に成功しているという点が重要である。つまり、文化的違いを言い訳にはできないということになる。

演者も演出者も自分たちの意図を明確に言語で説明ができるので、成功体験はきちんと蓄積する。一方、日本人は結果的に当たったものに固執することになるので、何が数字が取れるのかがよくわからないのだろう。

単純にコンセプトが説明できる番組は多くの人々にリーチする。

韓国の伝統的な生活を扱った「三食ごはん」が面白く見られるのは、なんとなく芸能人の私生活を覗き見しているような感覚が得られるからだろうと思う。見ているうちにぶっきらぼうにみえても本当は仲良しな人間関係が見えてくるのでさらに続きが見たくなる。もともとKBSのドラマである「本当に良い時代」のキャストが中心になっており人間関係が出来上がっているのである。

日本のお笑いタレントを中心としたバラエティショーは実はお笑いタレントたちの序列や背景がわからないと面白みが伝わらないようになってしまっているものが多い。もしくは「回すのに慣れた」限られた人たちがいろいろな素材を「うまく料理して」処理しているものが多い。そうなると結果的には全てが同じに見えてしまううえに複雑で、コンテクストを共有しない人が見ても面白くない。

もちろん日本でも「俳句を作る」ということだけで成立しているバラエティ番組がある。ここで俳句の査定をしている夏井いつきらによると、俳句という感覚的に見えるものが実は論理的であること、出てくる芸能人たちが俳句を通じて成長しつつ新たな側面を見せることなどが魅力になっているという。実は日本でもこのような番組は作れる。ただこの番組も当初は芸能人の査定が主眼であり、俳句はその構成要素の一つでしかなかったようである。

こうした内向きさがテレビのバラエティをつまらなくしているのだと思うのだが「いったいどうしてこうなったのか」がよくわからない。ただ「三食ごはん」みたいな番組を作ろうとすれば、新しい試みを許容して、PDに全てを任せるような文化がなければならないこ。プロパーの社員プロデューサだと安易に切るわけにはいかないのだろうし、そもそも試行錯誤する余裕がないなどいろいろな原因が考えられるなとは思った。いずれにせよ失敗できなくなると過去の成功体験に頼るしかなくなるわけで、それが却って過疎化を進行させることになる。

本来は、バラエティ番組を観察対象として見ていたはずだったのだが、ふと自分のブログについて考え込んでしまった。たくさんの記事を書いてきて当たったものを伸ばしてきたような印象がある。やり方としては日本のバラエティに近い。改めて成功する要素を抜き出してみると次のようになる。

  • 自分がやりたくても成果が出なかったものは整理する。
  • ある程度手応えがあったものは、何が成功する要素だったのかを言語化する。そして言語化された要素はチーム内で共有する。
  • 意図したことは一定期間はやりきってみる。あるいはやらせてみる。

言語化と仮説検証は移り変わりの早いコンテンツ業界ではかなり重要なスキルのようだ。もともと日本の製造業型の成功体験は職人技による暗黙知を経験で蓄積してゆくというやり方なので「言語化して共有する」のが苦手なのだろうと思う。外国文化に接した人は外国語としての言語を話すときに自分の思っていることを概念化して変換する必要がある。こうして言語化と抽象化の能力が鍛えられるのだろうなと思った。

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分かり合えない原因は教育にある

アエラで「なんで話が通じない」という特集が組まれていた。読んでみると「最近の人の指導を理解しない人が多い」と書かれており「それは教育のせいではないか」というほのめかしがあった。そして、AIの専門家が最近の人は読解力がないと指摘し、読解力は文明が作る高度な能力なのだなどと続いていた。いわゆる「相手はバカ論」なのだが、読んでいるうちに「アエラの指摘とは違うが確かにこれは教育のせいかもしれない」と思った。もし、この仮説が正しいとしたら、日本人はこれからもコミュニケーションギャップに悩み続けるに違いないと思った。

アエラには例えば「パソコンなどのツールを使い方を教えてもすぐにキレる」というようなことが書いてあったのだが、これは自分の知り合いの高齢者にも当てはまる。学歴がないわけではないが、順序立てて理解したがらないのにどうやったら動くのかという結果だけを知りたがる。そしてすぐにキレるのである。

これは脳の制御機能が衰えた老人特有の問題だと思っていたのだが、むしろ日本人によく見られるありふれた態度のようである。そこで特集をざっと読み直してみると、経験の違いがギャップを生んでいるのではないかと思えた。それぞれの世代で最初に接触したコミュニケーションツールが違っているからだ。アエラはパソコン世代に照準を合わせた記事を集めており、これが文明的な態度だと解釈されていた。

高齢者が最初に接触したのは家電だった。だから経験上は物理的なボタンを押して単機能が働くものがデフォルトになっている。電話などがそれにあたるのだが、やがて年賀状作成機のようなものまで作られた。プリンターと簡易ワープロが年賀状の作成という一年に一度の行事のためにだけ組み込まれているという実に非効率な機械だ。このため高齢者は一つの目標を達成するのに複数のパスがあるパソコンに苦労する。「どのボタンを押せばいいのだろうか」と考える上にそのボタンは物理的に存在しない。なかには画面の中にある四角い「絵」がボタンであるということを決して理解しない人もいる。

一方で、若者は最初からスマホを使っている。スマホはマルチタスクなので同時に様々な用事をこなせるだが集中力が犠牲になる。マルチタスクは集中力が削がれることが学術的に証明されているそうだ。若者は一つひとつのコミュニケーションに時間を割くことができない。そんなことをしていたら「ゲームオーバー」になるだろう。これが中年層には「深く物事を考えず、自分の考えを伝えるボキャブラリに欠ける」と映るらしい。中高年から見るとこれは「退化」なのだろう。

これに挟まれているのがいろいろなタスクをこなせるが、一つ一つのタスクが割合と切り離されているパソコン世代だ。パソコン世代はメールをやりながら文章を書くというようなことをしないので動作の連続性と集中力は確保されているのだが、スマホ世代に比べてレスポンスが遅くなるという傾向がある。メールに季節の時候を織り込む我々の世代は「説明が回りくどくレスが遅い」と思われているはずである。

かなり急激にコミュニケーションツールが変わってしまったことがわかり、さらに思考がそれに支配されていることもわかる。だから、我々は違った世代の人たちが理解できないのだ。

こうした違いはコミュニケーショだけでなく情報の取り入れ方にも現れている。中高年までは図書館にこもって調べ物をしていた経験があるので「十進分類」に従って情報を整理している。そのあとハイパーリンク世代があり、最後に検索エンジンが現れる。若者はスマホでググるのだからそもそも分類法には支配されないが代わりに自分が興味のないことは検索ができない。

こうした違いも随所に現れる。例えば新聞はブラウジングメディアなので、一面から順番に(あるいはテレビ番組表から順番に)何があるのかを総覧することができる。本屋もブラウジングメディアである。

中高年世代の思考はブラウジングと分類法に支配されている。例えば長島昭久議員はブラウジング世代なので文書管理をするためには専門部署が必要だとしている。文書の量が膨大で「調べるのに時間がかかる」からである。だが若い世代は「なんで防衛省の日報はググれないんだろうか」と思うのではないか。文章をデジタル化したうえでクローラーを走らせるのがデジタルネイティブ世代の発想だ。長島議員はこれからはAIだと言っているのだが、AIの本質は理解できないし、理解しようともしない。日本ではこの世代の人たちが政治に参加しないので、デジタルネイティブな発想が出てこないうえに、政治家も新しい思考法を理解しようとはせず、自分たちの常識の上に新しい常識を組み上げてゆく。

スマホ世代は編集されない情報をTwitter仲間から仕入れるかもしれないが、興味のない情報は「スルー」される。確かにブラウジング世代は編集された情報を網羅的に取得しようとするが、編集から漏れた知識は持っていないかもしれない。これが「NHKが報道しない」と言って怒る人が多い理由である。NHKの編集から漏れた政治的課題は「なかったこと」になる。ブラウジング世代の人たちは若い人たちを「情報が偏っている」と非難するのだが、ブラウジング世代の情報も偏っている。

アエラでは「中高年は優れていて若者はダメ」とほのめかしつつ結論は避けていた。そもそも雑誌を読む人は網羅的に情報が知りたい人なのだろうから若者の見方をしても仕方がないのだろう。これもブラウジング世代の特徴だ。編集を通じて一つの視点を採用しているがそれには気がつかない。

このように大きな違いがあるように見える各世代だが実は共通点もある。だが、この共通点は日本の教育だけを見ていてもわからない。これが冒頭に「日本人はコミュニケーションギャップに苦しみ続けるだろう」と予言した理由である。原因ははっきりしているので修正方法はある。

例えばMBAでは様々な分野について網羅的に見る。ITマネジメントも見るし、経理も見るといった具合である。まずはその特定領域ではどのようなものの見方をするのかを学んだ後で、専門知識を少しだけ学び、様々なバックグラウンドの人たちと入門編的な問題を討論しながら解いてゆく。

これをやっている間は「専門的なことをやらないので物足りないなあ」と思ったりする。たまたま自分のバックグラウンドの問題だと「知識があることを認めさせなければ」とも思う。だが、今回コミュニケーションギャップについて考えているうちに、全く異なった領域のものの考え方を短時間に詰め込むことに意味があったのだと気がついた。専門知識を持っている分野について学ぶときには「物足りない」などと思わずに相手に説明する方法を学ぶべきだったのだ。

マネジメント教育が「物足りない」と感じられたのは、日本の教育では職人の育成が重要視されているせいだと思う。一つの領域を決めてその道を極めるのが良いことだと考えられていることになる。一方で、総合マネージャーは「なんでも屋」だとして嫌われることすらある。

日本の初等教育の原点は寺子屋だろう。寺子屋ではそれぞれに職人に専門の教本のようなものがあり、速習が可能だったのだと聞いたことがある。漢字は複雑な体系だが、基礎的な漢字を習った後で職人に必要な漢字だけを習えばよかった。だから、効率的に職人(あるいは農業従事者も)を育てることができた上に、日本は識字率が高かった。

識字率が高かったおかげで日本の近代化は短い間に進んだ。富国政策を強力に推進することができた上に民族意識も高揚させられたからである。アジアの他の漢字圏では漢字学習が学者に占領されており庶民は文字すら学べなかった。こうした国々では漢字を簡単にしたり、そもそも漢字を廃止することによって文字を普及させるしかなく、民族意識の高揚に時間がかかった。

「手っ取り早く学習する」ためには、常識の上に新しい知識を積み重ねてゆくしかない。だから、違った環境に育った人たちとはお互いに意思疎通ができなくなってしまうのだろう。違った経験をした人たちのことを理解するためにはまず他の人たちがどのような価値体系で動いているかを理解するのが早道である。

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マクドナルドのwi-fiはなぜつながらないのか

千葉市のマクドナルドでwi-fiが接続できないという経験をした。近隣の三店舗あるのだがそのうち二店舗がアウトだった。たまたまなのかもしれないのだが、構造的な問題があるようだ。大げさに聞こえるかもしれないのだが、森友学園問題で安倍政権に感じる「もやもや」との共通点も多い。キーワードになるにはまたしても「村落」である。マクドナルドのような外資系の会社にも村はある。




日本国民は政府のユーザーだ。疑問への答えが返って来ればそれ以上は追求しないはずである。森友学園の問題も説明さえしてもらえればいい。しかし、現実はどうだろうか。財務省の内部のセクションの名前や担当者の名前はたくさん出てくるものの、一向に「森友学園へなぜ割安の土地が払い下げられたのか」という問題についての説明はない。そのうち「わざとだろう」ということになり問題はエスカレートしてゆく。

同じようにマクドナルドのwi-fiはつながらずそれについて説明を求めても明快な返事はない。そして同じようにマクドナルドの内部で何が起きているのかということに詳しくなってしまうのである。具体的にはフランチャイズが本部からwi-fi設備を押し付けられているのである。

どうしてもつなぎたい場合にはいったん電波を掴んでから電波の強度チェックをするといいと思う。二階の席でギリギリでここから外れると電波が途切れてしまった。全ての席で使えるようにはなっていないのだ。

近辺の3つのマクドナルドはどれもフランチャイズだ、人の出入りが多いショッピングモールにあるマクドナルドでは問題なくwi-f-接続ができたのだが他に店舗ではダメだった。

最初の店舗ではそういうものなんだろうなと思いカスタマーサポートの技術担当にクレームを入れて終わりになった。「本部に伝えます」とのことだった。しかし二店目ではもっとひどい問題が起きた。

お店のルーターはカウンターに置いてあるのだが「ルーターは二階の店長の部屋にある」し「お客様に勝手に対応してもらうことになっています」と言われた。実はルーターはカウンターの下にあるのでこれは嘘だということがわかっていた。そこでカスタマーサポートに連絡した。直接話してほしいというと、まず従業員同士で電話の押し付け合いが始まった。チームリーダーみたいな人があまり詳しくない人に電話を押し付けていた。そして押し付けられた人は電話を取ったままで延々とカスタマーサポートの人と話しはじめた。ギロッと睨まれたので多分恨まれているんだろうなあと思ったのだが、こちらもだんだんイライラしてきた。お客さんの私物の電話で延々と話し続けていたからだ。

結局、休憩していたというマネージャークラスの「SHIMIZUさん」が飛んできた。お客さん用の接続マニュアルがありルーターは下にありますという。SHIMIZUさんはマニュアルの存在と初期対応を知っていたのだが、その下の人たちがいうことを聞かないのだろうと思った。

この従業員のやる気のなさの原因は程なくしてわかった。店長が連絡してきて「お店はハンバーガーを売っているだけであって、wi-fiを提供しているわけではない」と言い放ったのである。正直な感想だとは思うのだが、それをお客さんに直接いうんだと思った。さらに「こうなったら設備の電源を切って、ステッカーも剥がして、このwi-fiはつながりませんという但し書きを店内に置く」と言い始めた。

だが、店長にも言い分があった。実はwi-fiの費用はフランチャイズ持ちなのだそうだ。本部に言われるがままに店を改装しパソコンが使える電源を配備した上で、ソフトバックに月々の金を払っているのだという。だが、マクドナルドは何の情報も渡さずあとは勝手にやってくれと言わんばかりだというのである。

さらに店長は「お前は前にもクレームを入れてきただろう、あの時にも本部に連絡したが、機械には問題がないと言われたぞ」と凄んでくる。つまりいちゃもんをつけていると思われたらしい。確かに別店舗についてのクレーム入れたがこの店を利用するのは初めてだった。前にも本部にクレームを入れて適当にあしらわれたということと、この店がwi-fiルーターを持て余しているということはわかる。さらにルーターを再起動してもらったときにSHIMIZUさんにIPアドレスが取れていなかったが取れましたよねと説明してあるのだが、多分誰も理解していないのだろうなと思った。ルーターは再起動しないということなので問題は長い間(もしかしたら1日以上)放置されていたのかもしれない。

だが店長はテクニカルサポートに対しても怒っていて「接続したままで文句を言われなくなるまで」設備は提供しないと客に向かって宣言したのである。具体的には、ちゃんとした技術的案内があるまで設備の提供を中止するのだという。

店長は本部への不満をぶちまけたのち電話を切った。そこでマクドナルドに電話をして「企業の公式見解を求めます」と宣言した。マクドナルドのカスタマーサポートは謝罪はしてくれるが、決して原因究明はしない。本部にレポートはあげるかもしれないがその結果をお客さんにフィードバックする権限はないのである。だから、問題は本部の人が認識するまで放置される。前回の安全偽装の問題でわかったのは、本部の人はネットやテレビで炎上するまで問題を放置するということなのだが、多分この問題も同じように放置されるのだろう。業績は上向いているとはいえ企業体質は変わってしないのだ。

サポートのたかみさんという女性は国会対応に置ける太田理財局長のような役割を担っている。つまり、謝罪はしてもよいが抜本的な改革は約束してはいけないし、顧客に報告する権限もない。それはマクドナルドでは本部と店側の問題だ。太田理財局長は行政府と議会にかわって問題解決を約束してはいけないのだ。

だが、本部も議会も責任はとらないのだから、謝りつつも具体的な約束は何もしないというのが「リスク管理」になってしまう。たかみさんの話を聞いていて「国会答弁みたいだな」と思ったのだが、多分日本中でこの「太田話法」が広がっているのだろう。

マクドナルドでwi-fiが使えなくても特に問題はない。今回は返金してくれた上にポテトのサービス券もくれたのでコールセンターと会話した無駄な時間以外に実害はない。それに、居心地のいい空間が必要ならスターバックスにゆけばよい。不思議なことに同じ機材を使ってもスターバックスやコンビニで接続できないという経験はない。

しかし国の場合には別の国に移住するわけにも行かない。そして相手が逃げようとしていると思うと自動的に追求したくなってしまう。野党が「もりかけばかりに集中する」気持ちがよくわかった。明らかな問題があるのに権限がない現場の人が決して認めようとせず、怪訝がある人たちは決して責任をとろうとしない。するとついつい追いかけてしまうのである。

マクドナルドはwi-fiがまともに扱えない理由はいくつかある。まずは古い体質のフランチャイズの人たちが抵抗していて新しいサービスを覚えようとしない。彼らには拒否権がないのでいやいや設備は導入するが決して納得はしていない。そしてその不満を平気で顧客にぶつけてくる。従業員は「そんなお金はもらっていないから」と言って拒否し、店長は「本部が悪い」と罵る。しかし考えてみればwi-fi機器の仕組みはそれほど難しいものではないし、定期的に状態をチェックすべきだ。しかし、彼らはそれをやらない。

だが、こうした問題は認識されることがない。なぜならばwi-fi環境についての責任者がいないからである。本部は売り上げをあげるのが仕事であり、フランチャーズはハンバーガーを焼くのが仕事だ。そしてサポートセンターはお客さんに謝って何もしないのが仕事になっている。テクニカルサポートはそんな中で「端末を再起動して、ルーターの近くに座って、ダメなら諦めてください」というのが仕事になっている。つまり、それぞれのムラができているということだ。ここに足りないのは新しい技術なりサービスの導入をするために責任と権限を与えられた組織横断型のプロジェクトマネージャーだが、日本的な村落共同体には村の領域を超えたリーダーは生まれない。だからこの問題は村落の構造問題なのである。

この経験から、なぜ私たちが財務省の中の組織に詳しくなってゆくのかがわかる。日本人は「問題が起きた責任」は自分の村の外にあると考えるからである。実際には協力して対処しあえないことが問題なのだが、日本人は決して他人とは協力しない。だから村人が指ししめす通りに歩いていると「村を一周したね」ということになって終わる。もしくは、不満が爆発し「リーダーの首を挿げ替えろ」ということになるのだろう。

今回の森友学園問題の問題では「安倍やめろ」コールが起きている。もしかしたら安倍首相はやめてしまうかもしれないが問題そのものは残るだろう。さらに悪いことに問題の記憶が政権ごと消えてしまうので、また一からやり直しになってしまうのだ。

次回のエントリーではなぜ問題が解決に向かわないのかを貴乃花親方の事例をあげて説明したい。これも村落が絡んでいる。

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若者はなぜ嘘をつくようになったのか

今回はよくあるバブル親父の若者バッシングなので気分を害する人は読まないほうがいいと思う。

マクドナルドのアルバイトは平気で嘘をつく

今月からdポイントが使えるようになったのでマクドナルドでポイントカードを使おうとした。ただしポイントが少し足りない。レジの子は「現金かポイントしか使えません」と言う。

もちろん100円のことなので出してもよいのだが「前回はポイントが足りない時だけ現金で補填できるとそこのおばさんに言われたよ」と言ってみた。実際にはポイントが足りない分の補填ができるのだが、バイトの子はそれを知らなかったのだ。

最近の子は「知らない」と言わずに「できない」という。だからこちら側に知識があるときには「それは違うのではないか」と指摘したほうが良い。バブル世代から見るとこれは「嘘」なのだが、この年代の人には悪びれた様子がない。

おじさんはなぜそれを嘘だと思うのか

おじさんがこれを嘘だと思って腹をたてる裏には「企業は全体として顧客に奉仕しているのであって、今対応している人はその代表者だ」という思い込みがある。一方、現在の労働者は「自分は時給で言われたことをやっているだけ」という気分があるのだろう。この差が非常に大きい。しかし、腹を立てたところでこれが現在の労働者(いわゆる若者)に通じるはずはない。

嘘の裏には何があるのか

どうしてこのようなことが起こるのだろうか。これを説明するのは少々難しい。短く言うと「成果だけを求められるのだが組織のサポートがない」状況にあり「自分のやったことが組織の評判に影響する」ことが実感できないからではないかと思う。つまり、かつてはそうではなかったのである。ただこれを言い立てても「俺の若い頃はなあ」的な話になってしまう。

バブルが崩壊して以降、人々は(労働者だけでなく学生も)有能であることを求められるようになった。基本的には選別型の「成果主義」で失敗が許されないからだ。さらに努力しないと脱落するという恐怖心も大きい。これがバブル期以前に育った人との決定的な違いだ。

つまりサポートもないのに有能さを求められるという状況に置かれている。そこで「学習」ができなくなってしまうのだ。つまりスキルがないというのは地頭が悪くて無能ということではなく必要な知識を身につけられないということなのである。知らないことはバカであると思い込んでしまうのだが、実際には学んでゆけば良い。これがわからないということになる。

人を育てている余裕がない

この背景には組織に人を育てる時間はなくなったという事情がありそうだ。バブル期以前に育った人を馬鹿にする風潮もあるのでわからないことを聞こうという気持ちになれない。バブル入社組が馬鹿にされるのは、彼らが大学でほんわかとした生活を送っていてもそこそこの企業に入れたからだ。その直後の就職氷河期には、留学して英語を身につけたのにそれでも採用されなかったというような人がゴロゴロいる。そこでバブル組は努力しないバカと思われるのだろう。

バブル入社組と呼ばれる人は上がつまっていたために人を育てる管理職経験ができなかった。余裕もないし、気持ちもないし、スキルもないという状況は、労働者ばかりが悪いというわけではないのだろう。

スキル信仰とドラマ

こうした状況をよく表しているのがドラマ『ドクターX』だ。組織に縛られずに生きてゆくためには超絶スキルを持っていなければならず、絶対に失敗もしない。そうでない人は組織に使い倒されて、バブル入社組のように上司にペコペコするだけの情けない組織人にならざるをえないという世界観である。だが、大門未知子がどうやって技能を習得したかということは語られない。どうやら組織からスキル教育されたという形跡がないということがわかるのみである。さらに大門未知子の口ぶりはかなり失礼なものだが、これは組織というものが基本的に自己保身だけを目的にした労働者には全く意味がない集団だという含みがある。

この前進になっているドラマは資格をたくさん持った篠原涼子(派遣社員でお時給の範囲でしか仕事をしないが、仕事内容だけは誰にも文句のつけようがないというキャラクターである)だ。彼女も組織を信じず、ある意味破綻した性格に描かれている。

両者に共通するのは、スキルは求められるがどうやって身につけて良いか組織が全く教えてくれないという世界だ。

根深い有能神話

こうしたキャラクターが受けるのは「有能神話」があるからなのだと思うのだが、実際の人はそれほど有能にはなれない。そこであたかも「自分が知っていることがすべてである」と言い張ることで有能さをアピールしてしまうのではないだろうか。

若者は嘘をつくが、こうした「嘘つき」はかなり蔓延している。最近のコールセンターは「私どもでサポートできるのはここまででございます」といって会話を打ち切ろうとする。あくまでも丁寧な口ぶりであり、さらにスキルを攻撃されることをとても嫌がる。自分たちに電話をしてくる客ではなかったと考えることで体面を守ろうとしているのではないかと考えられる。

ただ、この人たちが「親身になって客の話を聞き」「わからないことを聞く」社員(あるいは非正規労働者)になろうとしたら何が起こるだろうか。多分上席から「もっと効率よく接客しろ」と言われるかもしれないし「一度教えたはずなのに聞いていなかったのか」と責められるのではないだろうか。ひどい場合には契約打ち切りも覚悟しなければならないかもしれない。そもそも組織が成長しても労働者には何の得もないわけで、だったら自分のできる範囲で仕事をしたほうがよいというのは自然な成り行きだ。

組織は個人にスキルを与えてくれないし、育てる時間もないのだ。

有能神話が切り捨ててゆくもの

このように「労働者が間違えるのは自己責任だ」という論がまかり通っている。これはバブル世代が人の育て方を知らないし育てるつもりがないということであり、一概に「若者が悪い」とばかりは言い切れない。

一度言われたことができなかったということはよくあることで、何回か間違えながら育ってゆくというのが本来の姿だ。そもそもそうやって人を育てるのが組織だったはずである。一連の流れを通じて組織として知識が循環して育ってゆく。これが組織が学習するということである。人員に余裕があった時にはこうした輪が回っていたのだが、余裕がなくなるとこうした余裕は「無駄」として切り捨てられた。さらに正規社員と非正規社員の分断もあり、知識が流通しない学習ができない組織ができたものと考えられる。

労働者は今持っているスキルが100%だと思い込むことで何が起こるだろうか。これ以上成長することはできないということだ。今回体験した例では「若いアルバイトがおばちゃんに聞かない」という世界である。個人としての損失というのもあるだろうが、ロスはそれだけではない。

通常は黙っていても年に数パーセントは生産性が上がりGDPが成長してゆくそうなのだが、日本はそれが見られない。学者の中にも定説はないそうなのだが、組織が「必要な無駄」をなくしてしまったために、組織が全体で学習することができなくなってしまったことに原因があるのではないかと思う。

社会を全く信用しない社会

この有能神話はかなり浸透しているのではないだろうか。最近気になった(が、全く見なかった)ドラマに『嫌われる勇気」というものがある。アドラーは全くそんなことを言っていないはずなのだが「感情を遮断して社会と分離しないと目的を達成できない」という思い込みが、アドラー心理学をかなりゆがめている。しかし、このドラマのようにアドラー心理学をとった人は多いはずだし、だからこそドラマになったのだろう。

もはや組織のことを慮ってしまうと組織に取り殺されてしまうという思い込みがかなり定着しているのではないかと思う。

こうした気持ちは社会全体に蔓延している。<議論>と称して攻撃してくる人に「お前の知識は足りない」と罵倒する人を時々見かける。これは若者だけではなく、かなり年配の人にまで見られる傾向だ。社会全体が「知識不足を善導し」てゆけばまともな議論空間ができると思うのだが、基本的にすべての人は不愉快な競争相手にすぎないなので、協力して公共空間を作ろうという気分になれないのだろう。

さらには国のトップリーダーまでが破綻した論理を振りかざすような状況になっている。これで「社会を信頼しろ」などというのが無理な注文なのかもしれない。

NHK大阪とオルタナティブファクト

べっぴんさんを見ている。大して面白いわけではないが、なんとなく時計代わりというかつなぎになっている。嘘もあるのだが、嘘ではなくファンタジーだと思えば気にならない。

これについて面白い感想を持っている人がいた。時代設定と学生活動家の扮装が合わないと言うのだ。単に設定ミスともいえるが、意味づけまで考えてみるとちょっと見逃せない点もある。

もともと日本の学生運動家はそれなりの意識を持って活動していたはずだが、時代が経つにしたがって「ファッション化」してゆく。専門的なことは分からないが、まだ切実さがあった時代を扱っているはずなのに、ファッション化しつつあった時代の学生運動家を扱っている点に違和感を感じているのではないかと拝察した。さらにひどいことに「冒険したいから一生懸命バイトする」などと言い出しており、大して反体制の意欲はないことになってしまっている。

ある意味これは普通の人たちが学生運動にもっている感想なのだと思うが(ヘルメットと角棒でなんかしてはるわ)やはり専門的に見ている人たちから見ると失礼なのかもしれない。

ただ、NHK大阪が<蹂躙>しているのはこれだけではない。ヴァン・ヂャケットの創業者について、闇市でふらふらしていた若者が十年経って戻ってきたらトレンドセッターになっていたみたいな話にしている。モデルになっている人物はもともと裕福な家の出で大学でもいろいろな遊びを経験した人だ。これが戦後アメリカの上流階級と接触しそのライフスタイルを日本に紹介した。その途中でアメリカ流のマーケティングが日本に持ち込まれることになった。つまりアパレル業界から見ると、この人物設定はかなり乱暴な改変なのだ。いまだに信者も多い人なので、NHKは誰がモデルになったか明かしていないはずである。

さらに今朝は使用人だった2名が「二人で冒険に出る」ことになっているが、これは使用人の死を扱わずに捌けさせるためだろうが、冷静に考えてみるとかなり乱暴だ。「最後まで面倒見ろよ」などとつっこんでしまった。

このようにかなり乱暴なドラマなのだが、NHK大阪が考証に手抜きをしているわけではないだろう。例えば「ごちそうさん」では食べ物に並々ならぬ関心があり念入りに時代考証もされていたはずだ。つまり専門的なことに対してはとても大きな関心があり、それ以外のことにはまったく関心がないということが伺える。

昭和の暮らしを描くということは、本来ならば専門家集団の考証が必要なはずなのだが、自分の守備範囲以外の点にはまるで興味がない。それだけではなく、自分の印象でいとも簡単に情報を操作してしまうのである。見ている人もアパレルとか活動かとか老人の行く末などには興味がないのでそれほど違和感を感じないのだろう。

ただし、学生運動に興味があった人もアパレルにはそれほど関心がないわけで「ほかの設定もめちゃくちゃですよね(笑)」みたいなことを指摘すると面倒になったのか「朝ドラには興味がありません」と返信してきた。まあ、専門分野には興味があるが、それ以外のことが分からないというのは特に珍しい現象でもないのだろう。

こうした視野の狭さは日本ではあまり非難されないし「専門的だ」として賞賛されたりするのだが、さまざまな弊害を生み出す素地にもなっている。例えばプログラマはプログラミングにしか興味がなく操作性の悪い仕様を運用側に押し付けたりする。営業もプログラミングに関心がなく「できますよ」などと気軽に言う。かつての日本の企業はこれを防ぐために正社員をローテーションしたりしていたのだが、正社員を削減した結果知識のサイロ化が急速に進むことになった。

専門性のわなについての事例には事欠かない。例えば大本営などはさらに悲惨で、現場で何が起きていても「よく分からないから」という理由で、仲間内の都合のよいストーリーを押し付けてしまうだけでなく、作戦が失敗すると現実を曲げ始めた。悪意を持って騙そうとしたわけではなく、当事者たちは「仕方がなかった」と思っているのではないだろうか。

NHKの朝ドラは「女の人が仕事をするのはとっても大変」ということを描きたいドラマだ。そこで受け手が興味を持つ点については念入りに考証するのだが、それ以外ことにはたいして時間をかけない。多分、日本型のオルトファクトというのは人を騙そうと言う悪意から生まれるわけではないのだろうが、結果として生じることがありえるのだろうし、多くの場合にはそれほど害もないものなのだろう。