ビハインド・ザ・サン

ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。ビハインド・ザ・サン [DVD]は2001年のブラジル映画。原作はアルバニアの小説。
20世紀の始まりごろのブラジル。川が干上がってしまった荒涼とした大地。2つの家の間で土地の争いが起こっている。この土地を取ったり、取り返したりする過程で、殺し合いが起こる。殺し合いは様式化されていて、もはや家の名誉のかかった闘争になっている。まず長男が殺される。次男は長男の復讐のために相手の家のものを殺す。満月までは休戦協定があり安全なのだが、そのあときっと殺されてしまうだろう。
映画を見ている我々は客観的な視線でこの映画を見ている。だから「土地を巡ってこんな争いをしていては、いつかは一家は皆殺しになってしまうだろう」ということが分かる。逃げてしまえばよさそうなものなのだが、名誉がかかっているので逃走するわけにもいかない。逃げ出せば、きっと土地は相手の家に渡ってしまうにちがいない。つまり、解決策は「殺されること」しかないわけだ。
この映画のキーになっているのは、映画を見ているひとと同じ目線に立っているサーカスの2人(途中で「あの人たちはバカなことをしている」とつぶやくシーンがある)だ。人々が労働に勤しんでいる間、広場で楽しそうに祝祭に興じている姿はある意味ドロップアウトした人々だといってよいだろう。次男はこのサーカスの世界に触れる事で復讐に疑問を持つようになる。
もう一つは名前のない3人目の息子。まだ復讐に巻き込まれておらず、サーカスの女性から本を貰い、字が読めないのに本を読むことになる。(つまり、空想の中で、自分が知っている世界を再構成しつつ物語を創作しているわけだ)多分、この子どもに名前がないということが重要で、この子どもが「解決策」になる。ぜひ結末はDVDなどを見て確認していただきたい。

人殺しはなぜいけないのか

ヤノマミを考えたときに、なぜ人殺しはいけないことなのかということについて考察した。いったん命に値段をつけてしまうと、人の命をもってあがなえば何をしてもよいということになる。この一家の闘争の歴史はそれを象徴している。人の命に等価なのは人の命しかないので、いったん殺し合いが始まると、解決策は「逃げる」(ヤノマミはこうする)か「誰もいなくなるまで戦う」の二者択一ということになってしまう。この権利を人々から取り上げて、国が一括管理しようというのが死刑制度だといってよい。よく死刑制度を存続させる議論で「抑止力として死刑を残すべきだ」という人がいるが、死刑は抑止力にはならない。「私の命をかけて、相手を殺してしまおう」という人はいなくならないだろうからだ。国が「人々の財産を守るために殺し合う権利」を取り上げるという抑止力も、国対国の争いでは無効だ。ある程度様式化されていたり、兵士の人権に関する取り決めがあったりするのだが、やはり戦争は集団同士の人殺しなのだ。
闘争を止めることができるのは、関わっている人たち全員が「ああ、こんな事をしていても何も変わらない」と思う出来事だけだ。映画の中には少なくとも片方の当事者の間にはそれが起こる。すると、対立していた視点が一段上に上がる。それがサーカスの視点であり、映画を見ている人たちの視点だ。だから、この映画を見ると、俯瞰的な視点の重要性がよくわかる。
つまり命を取ったからといって、人殺しやその他の重大犯罪をあがなってもらったことにはならないのだと人々が思ったとき、はじめてこの手の犯罪がなくなる可能性が生まれるということになる。そう思った人たちは、罰として命を取ろうとは思わなくなるはずだ。
一方、こうした冷静で客観的な思考を持ち得るのは、我々が当事者ではないからである。もし子どもが殺されたとしたら、相手も命をもって罰してほしいと思うようになるかもしれない。しかし一方当事者の視点は問題を根本的には解決してくれないのだ。
解決策にはロジックはない。つまり議論から解決策は生まれない。我々が「ふ」と思うことだからだ。ロジックがないからといって、意味がないというわけでもない。

俯瞰する事

例えば同じことが、いろいろな論争にも当てはまる。例えば、基地の問題が解決しないのも同じことだ。例えば基地の問題を解決するためには、世界的な軍事の枠組みをどう変えてゆこうかという視点がないと根本的には解決しないだろう。そう考えると、核の枠組みについて話し合う現場ではもっと積極的に議論に参加してもよかった。
なぜこういう視点を持てないかということについて考えてみたい。「あの政党」が選挙に勝つ事を軸に意思決定をしているからだ。パイが拡大しているときには成長利益を誘導してくればよいのだが、パイが拡大しないと仮定すると、誰かがもっている利益を取り上げて持ってくるしかない。基地はマイナスの利益なわけだから、損の付け替えをせざるをえないわけだ。
現実の問題を解決するのは、当事者の視点を越えたリーダーシップから生み出される解決策か、我々一人ひとりが「ああ、当事者で闘争していても、何も変わらないだろう」と考えて行動を変えて行くかのどちらかだろうと思われる。
日々の議論の中で、我々は当事者的な視点から逃れることはできない。小説や映画といった創作物はそうした視点を脱するためのきっかけを与えてくれる。この映画の中では、3番目の男の子が持っていた本と、サーカスがそれにあたる。人々が本を読んだり、映画を見たり、テレビドラマを鑑賞するのは、こうした機能を持っているからなのだ。
ある物語が人に響くとき、その背景には普遍的にあてはまるテーマや物語があるのだとされる。これがある限り、出版物が日々のつぶやきに取って代わられることはないだろう。逆に本が一冊残らず消えてしまったとしたら、出版物から普遍的にあてはまるテーマが消え去り、日々の闘争の中に埋没してしまったということなのだろう。

「場」を作る

Blogos経由でHatenaの記事を読んでいたら面白い記事を見つけた。記事にするのもどうかなと思い3分くらいで、ちゃちゃっとコメントを書いたのだが、まとまりそうなネタがないので、今日はこれをネタにすることにする。クリス・アンダーセンの「フリー」が良くわからないというのだ。この記事を分析すると、日本だけがどうしてデフレと不況に苦しむのかという理由の一つが見えてくる。
この本、昔本屋で立ち読みしただけ。だから書評として正しくないだろう。ここで分析したいのは記事の内容だ。フリー経済と対比させて「漁場で魚をとる」例を挙げている。この人は海にいる魚をとるのはタダだと言っている。六甲の水もタダだ。これを読んで思い出したのは「日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)」だ。日本人がユダヤ人のフリをして書いている本なのだが、この中に「日本人は水と空気はタダだと思っている」という考察がある。しかし実際には漁師たちは漁場を整備したり、水産資源が枯渇しないように調査をしているはずだ。旅館も山菜をとってくるのは無料かもしれないが、そうした山林を観光資源として守るためにはさまざまなコストを支払っている。これを「場を維持するためのコスト」と呼ぶことにする。
つまり、ビジネスには「場」が必要だということになる。しかしそれを無自覚に使うと将来的には「場の資源」が枯渇し、ビジネスが成り立たなくなる。しかし日本人の多くが「場」について無自覚になると、コストを支払うインセンティブがなくなり、最終的にはビジネスを成立させる環境がなくなってしまうのである。
例えばこういう例はどうだろうか。企業の成長のためには「優秀な人材」を育てる必要がある。故に企業は大学卒業者を教育し、こうした人材を育てて来た。しかし、その事に無自覚になると「今いる優秀な人材を使えばいいや」と思うようになる。(育てなくても、中途労働者の市場にそこそこ優秀なヒトたちが集っていたということもあるだろう)誰も次世代の人材を育てなくなり、将来的にイノベーションを担う若手が枯渇する。これは一例だが、こうした例はいくつも考えられる。
例えばフリーではないにしても、ほとんどフリーの実例として「格安バスツアー」とか「韓国10,000円」なんかがある。実際には地方や外国の土産物屋にお客を運んでいるのだ。運賃を格安に抑えることで「ビジネスの機会」を作ろうという戦略だろう。実はよく行なわれていることなのだ。
日本人がこのブログ筆者のような疑問を持つのは、戦後、あまり「場」を維持してこなかったからだろう。本当のところはよく分からないのだが、アメリカで儲かっているビジネスを日本に持ってくればよかったからという事情が大きいように思える。ましてや「場」を作るのはもっと苦手だ。新しい場を作る事ができなければ(難しい言葉では市場の創出とでもいうのだろうか)既存の市場はやがて収縮をはじめる。その内誰も利潤を追求することができなくなり、やがては市場は死に至る。
イノベーションにはいろいろな分類の仕方があるのだと思う。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)によると、既存技術の継続的に洗練する事、ローコストのソリューションを生み出す事、そして新しい市場を作る事だそうだ。継続的なイノベーションはやがて効力を失う。だからそれ(継続的なイノベーション)だけではやがて市場は死んでしまうのだ。これは家電と自動車の凋落を見ているとよく分かるだろう。
オープンソースについては興味深い洞察がなされていると思う。オープンソースのソフトウェアはそのままでは経済的な価値を生み出さない。これを実際の需要と結びつけるのが「格安のPCの販売」だろう。ここに「場を維持するコスト」という考え方を持ちこまないで、「無料なんだしせいぜい利用すればいいや」と考えるとオープンソースを担う労働力はただ搾取されるだけの存在ということになってしまう。オープンソースとはいっても開発のための環境や作ったソフトウェアを配布するためのサーバーなどは必要なわけで、儲けた企業は、オープンソースのコミュニティを維持するためにこうしたコストを分担しなければならない。こうした場ができると、エンジニアたちは自分たちの力量をアピールして次のシゴトにつなげることができる。つまりこうした企業は、シュンペータの言った「銀行家」の代わりにリソースを再配分しているということになる。
同じ「フリー」を見ても「場を作って維持する」ヒトと「場をタダで利用すれば後は知らない」ヒトでは感想が変わってしまう。日本人はいつのまにか、場に寄生するフリーライダーばかりになってしまったのではないかと思える。だからこそ、こういうビジネス市場を自分たちのコストで構築しようというヒトたちがものすごく不思議に見えてしまうのだ。
さて、最後の一言はかなり重みがある。こうして自分たちが場所を作らなかったがために日本の経済は縮小をはじめた。30代より下のヒトたちは、縮小している経済しか知らない。すると「小さくなった市場をより多くの人間でとりあうよう」になる。
そうした中で、フリーミアムを成立させるのはとても難しい。フリーミアムは、結果的に一部の裕福なヒトたちが、他のヒトたちの面倒を見るという形態だ。これについては別の記事をご紹介したい。アパレル企業のGAPは、10,000円くらいするジーンズを売りつつ、横で1,900円のジーンズを売っている。一応値下げしていることになっているが本当にそうなのかは良くわからない。もともと違うものなのではないかと思える。これは、プレミアムを支払ってでも買いたいヒトと、安くならないと買わないヒトを同時におさえる戦略だ。在庫処分ではなく最初から低価格の製品も作っているのではないかと思う。
例えば年収が1,000万円くらいあれば、別に10,000円のジーンズは高くないだろう。別に値下げまで待たなくても、仮に値下げ品があっても定価で値段で買ってゆくと思う。こうしたヒトたちが10%くらいいればこういう商売もなりたつ。このGAPの戦略には落とし穴がある。
一つは、このジャーナリスト氏が言っているように「本当の値段は?」と思い始めたときに起こる。日本は製造業の国だ。だから「モノには原価があり」それに「労働力」と「販売経費」を足したのが、正当な値段ということになっている。だから本当は1,900円で売れるジーンズを10,000円で売るのはよくないのだ。(仮にそれで満足して買ってゆくヒトがいたとしても…)
インド北部のような「ど商人」の国に行くと、正札という概念そのものがない。「いくらだ」と聞いて、本当に欲しいのでなければ値切っても構わない。商人が提示する値段は定価ではない。これくらいで売れるといいなあという願望にしかすぎない。1/10にして売ってくれるかもしれないし、5%もひいてくれないかもしれない。これはヒトによって払う対価が違っているということでもある。ヒトによって支払う金額は違うわけだ。しかし、日本人がこういう場面を見ると「本当の価値はいくらで、高い値段を支払うのは騙されているのだ」ということになる。だから値引かないと損だと考えるのだ。
二点目には、経済そのものが縮小し、誰も「場を維持するため」にコストを支払う余裕がなくなったときの問題がある。みんながフリーや格安に殺到すると、フリーミアムモデルは成り立たなくなる。場を維持する責任感がないとも考えられるし、そもそもそんな余裕がないのだとも言える。すると場が作られなくなり(ジーンズが格安でしか売れなくなればGAPは日本の商売を縮小して中国などの新興国に向かうだろう)、既存の場はやがて消失する。そうして経済がまた縮小してゆくわけだ。
確かに、フリーは目新しい概念ではない。目新しいのは、ネットが登場して市場を創出するためのコストが限りなく無料に近づいているという点だけなのかもしれない。しかし、場所を作るヒトや場所のコストを負担してくれるヒトがいなくなり、代わりにフリーライダーばかりになってしまうと、経済は確実に縮小する。
ところで、僕はもう結論として「だから日本人は場をつくるためにがんばるべきだ」とは言わない。こういうのは自分で実際にやってみる事だし、もしつくれないと確信したらそれができる場所に移住すべきと思うからだ。そもそも「誰かが場所を作る」のを待っていること自体がフリーライダー的だ。やってみると分かるが、自分で場所を作ったつもりでも誰かのアーキテクチャの上に乗っているだけということが多い。なかなか難しいし、最初は誰にも相手にしてもらえない。しかし、ここまで場所や機会がなくなると「もう自分でつくるしかないなあ」と覚悟を決めるヒトも増えるのではないかと思う。そうしたヒトたちが立ち現れることによってしか、新しい成長は生まれないのだろう。

派遣労働

「笑いごとではなくなってしまった都市伝説みっつを論破する」というオンライン上の論文の中に、派遣労働に関する記述がある。派遣会社が行なっているのは「付加価値の創造であるから、存在意義を認めよ」という主張だ。これだけを取り出して経済学的に論じると、このステートメントは「是」である。GDPを算出するにあたって、派遣会社のサービスは日本経済に付加価値を与える。
よかったね…これからも派遣労働を続けてよいよ。
とはならないと思う。ただ、こうした問題を真剣に考えなければならないのは「金融」のヒトではないとも思う。
派遣労働が好まれるのにはいくつかの理由がある。
一つ目は経済的な負担が減るからだ。整理解雇の時の退職上乗せ金、保険、年金などがそれにあたる。
二つ目は固定費の削減だ。特に製造業は設備が老朽化し、内需も外需も縮小してしまったために、余剰な設備を抱えている。これを整理しないままで「人間」を整理してしまった。儲かるときだけ調達してきたい。変動費化とでもいうのですかね。別の産業も興ってこないようだし、今まで工場で働いていたヒトがプログラマになれるわけでもない。プログラマすら余剰なのだ。
三つ目は終身雇用の維持だ。給料体系を別立てにすることで、結果的に終身雇用された人たちの給与を維持している。おまけに身分制度的な受け取られ方をする。中世的な「下見て暮らせ」政策だ。完全に経済合理性だけで派遣が使われていたとしたら、正社員の派遣イジメのようなことは起きなかっただろう。が、実際にはこうした問題が発生している。

対価

だが、それぞれに社会は対価を支払っている。
一つ目は会社が負担しなくなった社会保険は、誰か別のヒトが支払うことになる。最終的には国が支払う。国というと分かりにくいが、税金だ。つまりこれを読んでいるあなた(ただし、働いているヒトのみ)が支払うのだ。さらに、年金システムや国民健康保険にも悪い影響を与えるので、システムの維持が難しくなる。こうなると、年金受給者も他人事ではいられない。これを国債で調達することも考えられるが、これは長期的にみて(下手したら短期的に見ても)維持可能ではない。明日の票を心配する政治家はどうだかわからないが、社会の継続性を考える政治家はこの問題に取り組んだ方がいい。
二つ目は経済合理性だ。前回「レイオフは株価を押し上げなかった」という記事を読んで勉強したように、安易な解雇には経済的な合理性がなさそうだ。加えて派遣労働者を大量に採用するにはそれなりのコスト(新聞で労働者を募集したり、教育したり、営業マンがかけずり回ったり、履歴書を整理したり…)がかかる。「派遣を使えば固定費が削減できる」ということだけを見ると確かに合理性がありそうだが、経済全体での合理性は低いように思える。確かに付加価値なのだが、一つの労働にたいして関わるヒトの数が増えているだけなのだ。おかげで何か新しい仕事があるたびに企業はリソースの確保を行なう必要がでてくる。これは生産的な付加価値なのか。しかしこれを考えるのは金融屋のシゴトではない。経営者のおシゴトだ。
三番目はちょっと深刻だ。終身雇用制を維持するために「コアでない人たち」を派遣化した。例えば工場労働者は高度な技能を必要としない限りに置いてはコアでない人たちだといえそうだが、工場のちょっとした工夫が生産性を上げる可能性は排除されてしまうだろう。また、店頭のスタッフをアルバイトにすることはできるだろうが、彼らは顧客接点なので、これを単純労働力で置き換えるのは実は危険なことなのだ。「新しい発見」ができなくなりつつある。これが「モラル」とか「モラール」とかいう領域にまで踏み込むと生産性は確実に下がり始める。
この件に関してもう一つの問題は、人事部の生産性の問題だ。人事部は採用権限を持つが、かならずしも経営的な判断を行なうわけではない。彼らは派遣業者と接するときにはお客さんになる。お客さんは神様だから、かなり鷹揚に振る舞っているはずだ。何かあったら営業を呼ぶ。これが実はコストになっている。その他に現場とのやり取りも発生する。これがすべて料金に乗ってしまうのだ。さらに現場ではここから教育を加え必要な調整を行なう。明確なコスト意識がないと(多分コスト意識を持つためには当事者意識が必要なのだろう)ここを合理化するのは難しい。ここで値引きの交渉が始まると、営業マンや派遣労働者への支払いが影響を受ける。するとやる気がなくなったり、職場で不満を訴えるかもしれない。しかしそれを受けるのは人事部ではなく現場のマネージャたちだ。すると、さらに時間が取られ…。
結果的には、終身雇用すら怪しい状況が生まれているようだ。社員をリストラしたり、海外移転を避けられない会社が出て来た。新卒すら採用することができないし、いったん採用した人たちを恫喝して辞めさせるという(大学生からすると悲劇だし、企業側から見ると究極のムダといえる)この流れはさらに加速するだろう。変化を臨時雇用の人たちに押し付けたせいで、結果的に自分たちが変化するきっかけを失ったと言ってもよい。

処方箋

労働者側から見ると「ピンハネされていると思うなら辞めりゃいい」と思う。多分日本人はマジメ過ぎるのだ。ただ、最初にこうしたシステムにたいしてサボタージュを行なう人たちは大きな社会的圧力に曝されるだろう。周りに理解者がいないわけだから、個人を責めさいなむことになるかもしれない。自由は時に過酷だ。ただ、めちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれないが、マルクスだって「搾取反対」という主張を理論で固めた訳だから、頭のいい日本人にそれができないはずがない。要はヒトが納得できて、シンパシーを覚えることができる理論を構築できるかどうかにかかっている。ただ、本来社会に経済的な付加価値を与えるはずの労働者が反乱を起こした状態は、平たくは「資本主義の死」と呼ばれることになるだろう。
ただ、戦う相手は多分派遣会社ではないように思える。どうも日本の会社全体に蔓延している「コスト意識のなさ」が敵なのではないかと思う。「デフレなんだから生産性なんか上げたってさ」という気分である。これを解決するのは、強力なリーダーシップを持った企業家や起業家であるべきだろう。もし日本にこうした類いの人たちがいないのであれば「日本はオワタ」状態なので、そのまま停滞してゆけばいい。
次の問題はこうしたいびつな労働条件を導入しなければ延命できない企業の問題だ。努力すればなんとでもなると思うのだが、どうもそうではないのだという。こうした企業の中には「派遣労働がなくなったら海外に出てゆくしかありませんな」という人たちがいる。こうした企業に対峙して政治家達が「それは大変だ」と思ってしまうのは、日本は結局製造業しかできない国で別の産業など起こり得るはずがないという変な確信があるからだろう(まあ、平たく言ってしまえば自信を失っているわけだ)。もしそうであれば「日本はオワタ」状態であるので、そのまま停滞に向かうべきだ。イノベーターがあらわれないのも資本主義の死だ。
でも、それでいいのかねと思う。こうした状況を改善するのは、全体的な派遣の禁止ではないだろう。しかし、もし企業経営者たちが一人ひとりの努力でこうした状況を改善してゆこうという意欲を失っているのであれば「禁止」してやってもいいかもしれない。みんながやめないとやめられないというのは非常に情けない事態だ。
これはタバコやアルコールに似ている。飲むも飲まないも個人の自由だ。しかし、これなしで生活できなくなったとしたら、これは別の話だ。こうした状況を「中毒」という。肺がんになってもまだ喫煙をやめられないのであれば取り上げてやった方がいい。ただ、その前にもう一回考えてみるべきだろう。経営者には本当に自由意志が残っていないかどうかということを。
藤沢さんがこの説で言っていることは一つだけ正しい。自由市場では過度な政治的参入はない方がいい。しかし「みんなが派遣を使い倒すから俺も」と言っている社会が本当に自由市場なのかはもう一度考えた方がいいだろう。なぜならば、個人が考えられなくなった社会では、いろいろな局面で「親切な政府」が介入することになるだろうからだ。これは資本主義の死よりも恐ろしい。これは自由の死で、もしかしたらいつか来た道の再現なのかもしれないからだ。

個人の自立心が日本を強くするか?

起業家を支援するグロービスの堀さんが個人の自立心が日本を強くすると言っている。これについて考えてみたい。
まず「個人の自立心が大切だ」というステートメントだが、これは正当化できるように思える。経済が流動化しつつあり、自分の核をもっていないと状況に流されてしまう。情報が氾濫しているのもその一つのあらわれだ。「私の問題意識」を核に持っていないと、情報に押し流されることになるだろう。問題はそれをどうやって実現してゆくかということだ。
先日チリで地震が起きた。地震そのものの被害よりも二次災害の方が悲惨だったようだ。一つは地震の後に起こった津波だった。警戒システムが網羅されていなかったことで情報が行き渡らなかったようだ。次の災害は暴動と略奪だ。略奪に参加したのは荒くれ者ばかりではない。普通の市民に見えるひとたちも参加している。支援食料が届かないのだ。略奪は犯罪だが、飢えるヒトが目の前の食料をあさるのを責める気持ちにはなれない。今朝のNHKのニュースでは、最近の急成長の影響で貧富の格差が増大しており、この不満が爆発したのかもしれないという観測を伝えている。
阪神淡路大震災の時、こうした略奪は行なわれなかったといわれている。コミュニティの力が大きかったようだ。国の援助システムもチリよりは格段に整備されていたからかもしれない。
ホフステードの指標で日本とチリを比てみる。チリはラテンアメリカ諸国に一般的な傾向を持っている。集団性とUAI(リスク回避傾向)が高い。集団性が高いのは「日本と同じではないか」と思われるかもしれないが、日本の集団性は東アジアの他の国やラテンアメリカ諸国よりは低い。こうした国から見ると日本は「まだ」個人主義の国ということになる。PDIが高いので「ボスのいうことはなにがなんでも聞かなければならない」という傾向があり、男性化傾向は低い。(多文化世界―違いを学び共存への道を探るを参照のこと)
日本人が個人主義傾向の低い国(例えば中国など)の人たちを見ると「わがままだ」と感じることがある。集団主義が家族を核としているためだ。だからいざというときには地域社会や国家といった共同体的なコミュニティではなく、家族や地域のようなコミュニティに助けを求めるし、家族を防衛するために動くわけだ。日本が疑似家族としての会社や国家に対して忠誠心を感じるのに比べて、こうした国では家族が生き残ることの方が優先順位が高いといえる。同じような集団主義でも日本の集団主義は抽象度が高い。血族は取り替えが利かないのだが、日本人の集団は個人が選択する余地がある。
この特質の違いが防衛システムにもあらわれている。日本人は地域社会が協力しあって安定化をはかることにより震災後の混乱を防衛した。一方、チリは家族のような小さな集団を守るために平常時は反社会的と言われる略奪を行なってでも自己防衛を図っているのである。
さて、堀さんの議論に戻ろう。この議論には2つの面白いミックスが見られる。一つは「個人が自立しなければならない」というステートメントなのだが、注意深く読んでみると「個人の活力が結果的に集団としての日本の強さを生み出す」という別のメッセージが隠れている。堀さんは西洋的なコンテクストで教育された方なのだろうから、個人の活動が結果的に集団の活力を生み出すという考えには違和感を持たないだろう。アダム・スミスも同じようなことを言っている。個人のばらばらの経済活動が国家を強くするみたいなことで、国家が丸抱えで競争する重商主義を捨てて自由主義経済が生まれたわけだ。
しかし、これが日本のコンテクストに取り入れられると、おかしなことが起こる。それは日本人がこのステートメントを「みんなで一緒に自立心を持ちましょう」というように受け取る可能性があるからだ。これは集団主義的な考え方だ。
今朝のNHKニュースで面白い特集をやっていた。私らしさを表現するために15秒のコマーシャルを作りましょうというのだ。広告代理店と大学が共同でカリキュラムを作ったらしい。まず「私のいいところ」を100以上みつけ、そこからメッセージを作り上げてゆく。最終的にこれを発表させていた。簡単に100個見つけられる子もいれば、まったく思いつかない子もいる。先生がやっとの思いで1つのよいところ「7か月目から水泳をやっている」を選んだ子どもを見て「水泳みんなやってるよ。もうちょっと考えてみようよ…」みたいなことを言っていた。
自尊心が生まれるのは、自分の特質について「心からよい」と思えるからだ。怒られながら無理矢理見つけるものではない。この先生にしても「それはすごいねえ、どうしてそんなに続けられるのか教えてよ」くらい言えばよさそうなものだ。そしてそれを機械的に15秒のコマーシャルに落としてゆく。メッセージは瞬間的なものだから「キャラ」が立っていているものがクラスで承認されて終わりになることになるだろう。
自尊心がこうした機械的な作業から生まれるものかね、とも思うが、これが工業主義的な国の自尊心の育て方なのかもしれない。もしかしたら他のヒトが「ガンコ」と思っている特質が、本当のそのひとらしさであり美点なのかもしれない。しかし、先生が「ガンコはいいことじゃないよ」と指導してしまえば、それがそのヒトに刷り込まれることもあるだろう。
ここで起こっているのは、大げさに言えば「個人主義」と「集団主義」の対立だ。自尊心が自立心につながるわけだから、ここで「先生に受けそうなキャラを出しておこう」と考えると、結局自立心が育たないということになってしまう。
さて、ここまで書いて来て、じゃあいったい何が処方箋になるのか?と思われる方もいるかもしれない。
まず第一に、西洋的な社会に触れて「個人主義」の洗礼をうけた人たちがいる。この人たちを邪魔しないようにしなければならない。現実的にはかなり難しい。たとえば、國母選手は早くからプロになり、スノーボードのコミュニティでの交流も活発なようだ。こういうヒトが個人主義の社会で当たり前のようにやっていることを集団主義の社会で行なうと、おおいに叩かれることになる。どうも匿名でならいくら叩いてもいいと思うのは若い人たちの特質ではないらしい。我々の社会がもとから持っている特質が引き継がれているだけのようだ。根強い集団主義的な表現の仕方だ。
次に重要なのは、集団主義的な特質を闇雲に否定しないことだろう。NHKのCMの授業で見たように、社会は見た事がないものを再生することはできないのだ。これは社会には再生産の機能があるからで、故に一度獲得した文化は長い間大きく変わることがない。そもそも「みんなで一緒に変わりましょう」というのは個人主義ではない。また、セルフプロモーションはキャラ作りではない。自分の特質や得意なことを使って世の中に貢献するための作業だ。結局個人主義といってもそれは社会との関わりの中で作られてゆくべきだ。
日本のネット環境は「匿名性が高い」と言われて来た。アメリカでは、まず個人の発言が立ち上がり、それが社会的な影響力を持つようになった歴史がある。しかし、日本では別の歴史をたどりそうだ。まず個人のつぶやきとして始まり、それが匿名化した勢力になる。今はある程度「世論」としてのプレゼンスを持ちつつあり、社会にプレッシャーを与えるところまで来ている。この後どうなるかはわからないのだが、ここから次第に自尊心が育てばよいのではないかと思える。
ただし、これは我々一人ひとりが変わらなくてもいいという主張ではない。経済的な変化が大きくなると、一つの集団がその人の一生の面倒を見ることはできなくなるだろうからだ。しかしそのためには、我々の社会がどんな性質を持っていて、それがどのような機能を果たして来たのかを改めて見つめ直してみる必要がある。それができてはじめて自尊心が生まれる。自分がよいと思っているサービスが世の中に広まれば結果的に多くのイノベーターや起業家を生み出し、日本を成長させる原動力として作用するだろう。

社会脳

よく、人間は社会的動物だと言われることがある。そして日本人は集団主義でアメリカ人は個人主義者だというような言い方もする。しかし、実際のところそれがどういうことなのかよく分からない。実際のところ、日本人もアメリカ人も集団から影響を受けている。そして脳にはこの「社会性」を処理する回路があるのだそうだ。これを社会脳というらしい。
別に小脳や前頭前野というような特定の器官が存在する訳ではない。群れを維持するのに必要な回路をありものの脳神経から改良してきたのだそうだ。大抵の脳の回路は自分自身の体から出るさまざまな変化をフィードバックしている。しかし、ミラーニューロンのような回路は相手の変化を受けて反応する。SQ生きかたの知能指数は、この社会脳にについて書かれている。
ソーシャル・ネットワークを研究する上で「ソーシャル」とは何なのかということを理解することは重要だと思う。それは意識的な活動というよりは、無意識の活動のようだ。なぜかこの人が好きだとか、なんとなく好きになれないと感じることがある。このように感じるのは社会性に関する認知の一部が、意識よりも早い速度で処理されてしまうかららしい。この本はこれを「表」と「裏」と呼んでいる。
信頼と不信の回路も異なったところにある。好きかどうかということを決めるのは表の通路のシゴトなのだが、嫌いかどうかを決めるのは扁桃体のシゴトだ。だから「なんだかわからないが、生理的にダメ」ということが起こりうる。この男性は「車を持っていて、日曜日に楽しいデートをさせてくれるから好き」と考えるのは、表の通路のシゴトだ。しかし、車の中のふとした仕草で「もうこの男性はありえない」と考えることもある。それは昔父親から受けた虐待を扁桃体が恐怖として覚えているからかもしれない。しかし車の中で突然パニックを起こして逃げ出さないのは、扁桃体の信号が前頭前野で抑制されているからである。
ミラーニューロンが作り出す働きを「共感」という。社会化の能力は2つの異なる能力からできている。一つは相手の表情を読み取る能力。もう一つはそれに対応して適切な行動をする力だ。アスペルガーの人たちは、相手の表情やちょっとした皮肉などを読み取る事が苦手だ。一方、昔サイコパスと呼ばれた反社会的行動を起こす人たちは、こんなことをしたら相手が傷つくだろうと想像したり、自分が嫌われてしまうのではないかということを理解したりすることができない。
スポーツ選手を見ると、自分まで活躍している気分になったりする。これは共感が働いているからだ。映画スターを見て、主人公と同じ気分になることもある。このように「正常」な状態では、自分の感情と相手の感情を区別することはできないし、映画スターが演じる人物のように「現実」と「仮想」の意識もできない。しかし、一方で自分はスポーツ選手ではないのだとか、これは映画であって現実の出来事ではないのだと理解することはできる。このように意識と無意識がアクセルとブレーキのような働きをしている。
ヒトから拒絶されるとたいへん傷つく。社会的な拒絶は肉体を傷づけられたのと同じ場所で処理されるのだそうだ。傷つけられるのは嫌なので、こうしたつながりを回避するようになる場合がある。「無視する」ことも「殴る」ことも同じようないじめになるということが分かるだろう。

オンラインメディアに関する捕捉

バーチャルな体験に関する記述にはいくつかのものがある。「現実」と「仮想」の区別ができないという点が一つ。そして、お互いに離れた場所にいる人たちの間では、どうしても「抑制」機能が働かなくなることがあるそうだ。メールのやり取りがエスカレートしたり、掲示板が炎上したりするのは、怒りに任せて書き込みをしても、読み手は書き手が怒っていることに気がつかないからだろう。一方書き手の側も怒ってキーボードを叩いているうちにどんどん怒りがこみ上げて来て(これは社会脳の働きではなく、自分の頭の中のフィードバックだ)さらに怒りのコメントを書き込むことになる。
文字だけでリアルタイムのコミュニケーションができるインターネットは人類にとっては新しい経験だ。手紙の場合にはやり取りに一定の時間がかかるので、その間に冷静になることができる。これで表と裏の時間差が調整できるわけだ。しかし、インターネット上のコミュニケーションではこの時間差を埋める前にやり取りが完了してしまう。ヒトがこのようなメディアにどう対応してゆくのかは分からないが、これに適応するような社会性が必要になるのではないかと思われる。もちろん、インターネットに接するのは、実生活の社会生活を経験した後になるはずなので、実生活での社会性の不安定さはそのままインターネットの世界にも持ち込まれるだろう。
何回か主張しているように、ネットによってコミュニケーション能力に不具合が生じるわけではない。しかし、社会やヒトが持っていた社会性の不安定な要素は、ネットにも持ち込まれて拡大することもあり得るのではないかと思われる。
例えば、対人関係に不安を抱えている子どもが携帯メールを手にする。即座に返事が来ないことを「拒絶」だと感じることはあり得るだろう。「相手が拒絶されている」ことを想像して、メールが来たらすぐに返事を出さないと不安になるということも十分に起こりえる。その子がやがてTwitterに手を出して、いつ自分に通信が入ってくるか分からないから、パソコンの前から離れられないとなると、これは問題だ。社会生活が健全に送ることができなくなってしまうからだ。しかしこの子からTwitterを取り上げることは根本的な対応策にならない。ここで必要なのは、相手から即座に返答がこなくても自分は受け入れらるだろうという自信や、相手になんらかの事情があってすぐには返事を返せないのだろうと理解できる想像力などが必要になる。
また、オンライン上では、全く関係のない他者とその場限りの関係を結ぶ場合が出てくる。お互いに「拒絶」を痛みとして怖れている人たちがここに入り込んで来てしまうと、ノーと言えないまま曖昧な関係が続いてしまうことがあるだろう。これが時として大変危険な状態を生み出す。これを回避するためには、それとなく拒絶する(拒絶しても、言葉を選びつつ円滑な人間関係を維持できるのは、社会脳の働きの一つだ)スキルを身につけることが大変重要だ。

二律背反的な考え方から抜け出す

前回の議論では、内部留保(戦後に貯め込んだ企業の儲け)を資本家に渡すべきか、従業員に戻すべきかという問題が一つの争点になっていた。資本家に渡っても、それが職場を作れば従業員に還元されるはずなのだが、現実にはそうなっていない。その上、従業員は正規から非正規へというのが一つの流れになっている。さらには経済状態が悪くなると、即リストラだ。
こうした動きが広がっているのは、株価を維持するためには、リストラをやった方がいいという「常識」が存在するからだ。この流れはまず雇用が流動的なアメリカで広がり、1990年代の半ばに日本に輸入された。しかし、もしもこの常識が本当でないとしたらどうだろうか。
どうやら今週の日本語版には載っていないのだが、国際版のニューズウィークの表紙は「レイオフをレイオフ」だった。英語の記事を読むのは気が重いが、なんとかやってみる。作者はJeffrey Pfefferという人。スタンフォードの教授で、ボブ・サットンとの共著があると書いてある。
Pfefferは、レイオフは株価を上げないし、生産性も下がるのだということをいろいろな統計を持ち出して説明する。その上、常識とは違って直接のコストカット効果もないそうだ。よく言われているように、リストラが行なわれると、辞めてほしくない人から辞めてゆくからで、その人を雇い直す場合も多いのだという。もちろん、残った人たちも「いつ辞めさせられるか」という事を悩むようになるから士気が下がるし、職場のモラルも低下する。この結果、コストが改善しないのだ。
日本はこのレイオフを「リストラ」として輸入したのだが、フランスはそうしなかった。その結果、日本はいつまでも不景気から抜けさせずフランスは回復した。フランス人は「自分たちは辞めさせられないだろう」という自信があるので、消費を手控えなかったそうだ。
このようにいくつもの「レイオフは株主にもよい影響を与えない」ということが分かっているのに、どうして経営幹部はリストラに走るのか。Pfefferは、企業が上場するときに、周りの人たちから「他の企業もやっていますよ」とアドバイスされるからではないかと考えているようだ。記事では上場の時のアンダーライターから、上場前にやっておく事の1つとして、会社をスリムにしろと言われた企業経営者の例を挙がっている。
さて、このことを日本に当てはめてゆくわけだが、記事の冒頭に気になる記述がある。縮小する業界(例として挙っているのはアメリカの新聞産業だ)ではリストラやむなしとされているところだ。これを考慮に入れて考えるといくつかの事が分かる。

  • アメリカの場合には、様々な企業がいろいろなアプローチで経営を行なっている。故に統計的に有為な差が付くのかもしれない。しかし、横並びの日本ではどうだろうか?
  • 国全体が沈み込んでいて、全てが「アメリカの新聞産業」のような状態に陥っているとすると、リストラが多い状態はやむを得ないのではないか?
  • そもそも、どちらの陣営にも属さずに「事実」を見つけてきて議論をしている人たちがどれくらいいるだろうか?

どちらかの陣営に属している人たちは、対立をあおっている間は彼らのシゴトが成り立つような構造に置かれているので、本質的に問題解決には寄与できない。そもそも自分の主張と違っている事実が見つかった場合にはそれを解釈するか隠してしまうことになる。多分、大学教授という立場が貴重なのは「中立」だからなのだろう。
山から小川が流れている。川のそばには村がある。まず上流の人たちが水を汚さないようにして水を使う。それから下流に流れてゆく。時々水利権の問題でいざこざが起きるがなんとなく解決しながらやってきた。しかし、下流に水が流れてこなくなった。下流の村の人たちは上流に文句を言う。上流には水があるようだ。しかし彼らに聞くと「時々水が流れてこなくなるからイザという時の為に取ってある」と言われた。この場合解決策は水の分配ではない。不安定化している水源をなんとかしなければならないだろう。もう水がないのだったら、水の豊富な場所に移住しなければならないかもしれない。水を使わない生活にシフトする人たちも出てくるだろう。
もし下流のコミュニティが上流とは全く関係がないのだったら、下流の人たちを閉め出してしまえばいい。しかし、上流の人々が下流の人々の労働力に支えられた生活をしている場合にはどうだろうか。上流の人たちは下流のやつらは文句ばかりいうから、よそから人を連れて来て何年か働かせればいいよと言い出すかもしれない。でも、その人たちもこの地域に馴染めば同じような権利を主張するに違いない。本質的な解決策にはならない。そのときには、水源の水はもっと細っているかもしれないのに、だ。
また、自由競争にもいろいろな質があることが分かる。下流の村に住んでいる人達が、上流に自由に移り住むことができれば、それは「自由競争」がうまく機能していることになる。しかし、実際には下流の人たちは上流に移り住む事はできない。また、上流の人たちが水をたくさん使えるのは、たまたま標高が高いところに住んでいるから、かもしれない。
水がないところでは水を巡る争いが起こる。同様に、チャンスがないところにはチャンスを巡る争いが起こる。でも、本当の問題は「誰が最初に持ってゆくか」ではなく、何が枯渇してきているかを探るところだと思うのである。二律背反的な議論からは解決策は生まれないのだ。

注目されるコモンズ

ノーベル経済学賞で注目されるコモンズ

ノーベル経済学賞(アルフレット・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞というのだそうだ)のキーワードはガバナンスだった。受賞した1人の研究対象はコモンズだそうだ。新聞報道を読む限りは、人間が社会を維持するために相互協力が有効だという主張のようだ。国家でも経済でもない公共をみなおそうということらしい。これを市場競争主義の反省に立った主張だと見る向きもいる。

自律的に運用される市場

ちょっと極端な例なのかもしれないが「ヨーロッパの朝市」みたいなことを考えてみる。みんながチーズやら野菜やらを持ち寄って、そこそこの値段で売る。お客さんも新鮮な食糧が手に入るので市場をありがたいと思うだろうし、一人が10種類の野菜を作るより、得意な野菜に特化して収穫を交換した方が効率的だ。よく考えてみればこれも市場だ。うちのトマトの方が甘いといってちょっとした自慢合戦をするのが「競争」ということになる。ところがそこに大きな街の資本家が乗り込んで来て、安い労働力を集めて作った野菜を売り出したとしても、これも市場だ。
「ヨーロッパの朝市」には自主的なルールが作られる。みんなが使えるテントなどの機材や、野菜が洗える場所なんかが備え付けられる。そういった場所はみんなで管理する。しかし悪辣な資本家はそういった場所を利用しないし、保持するために金を出したりもしないかもしれない。

競争と協力は両立する。また両立させなければならない。

脱線する前にここでやめておくことにするが、何が言いたいかというと、「市場」と「コモンズ」は二律背反の概念ではないということだ。ただ、みんなで協力して作っている市場と何人かが独占している市場は明らかに違った市場だろう。前者の市場は参加者によって守られている。しかし後者の市場は常に警戒する必要がある。いつ搾取されて怒った労働者が石を投げてくるかもしれないからだ。
ここにお客さんを加える。お客さんがコミュニティの一員である場合には、悪辣な資本家の店では買い物をしないかもしれない。「あの人悪い人よ」というのをみんなが知っているからだ。しかし、例えば表からそのことがわからなかったり、お客さんがコミュニティの参加者でない場合には、単純に店構えがきれいだから、値段が安いからという理由で品物を選ぶことになるだろう。どちらも市場原理に従った(つまりお客さんに選択されるので)淘汰が起こるはずだが、その結果は大きく異なってしまう。

従来の貨幣理論だけでは説明できない市場の成り立ち

この違いを「通貨流通量」で説明することは難しい。
経営学の方でも、このところ資産としての信用が大切みたいなことが言われ続けている。共生もキーワードになりつつあるようだ。かならずしも「新しい」ことが賞賛されるわけではなく、どのような価値観を提供するかが重要ということだろう。
一方、今年の経済学賞には批判もある。例えば池田Blogは「変だ」といっている。この批評によると、理論としては新しくも、わかりやすくもないそうだ。この分析はたいへん面白い。なぜならば「美しい数式では解けない」ようだからだ。つまり、群れを維持するために、人間はかなり複雑な行動を取っているのかもしれないということが提示されているようだ。純粋な理論家ではなく、フィールドワークに基づいてという点がこうした違いを生んでいるのかもしれない。
こうした議論が起こる背景には、経済学かくあるべきという専門家の見方があり、市場原理で泣いている人がいるから、市場原理は批判されるべきだと考える人がいるということなのだろう。フレームは世界を理解するために有用なのだが、それがうまく作用しなくなった場合にはフレームを再編成する必要がある。
多分これから1年は、市場主義や数式の美しさというものより、「共生」やら「信頼」といったウエットな議論が多くなってくるだろうと思われる。個人のレベルではコントロールできないように思えるが、一人ひとりの心持ちが実はシステムに重大な影響を与えているというような世界だ。それが受け入れられて改めて考えるまでもないというレベルに落ち着いたあたりで、再び「個人」「スキル」「起業」といった個人にを示す言葉が流行することになるだろう。

ビジョナリー・ピープル

成功した人たちをインタビューした結果をまとめた本。ただインタビューしただけでなく、簡単にフレームワーク化している。いわゆるビジョンは、外から与えられるものではなく、内側から出てくるものだ。好きなことをしているときには、時間は苦にならずにシゴトに没頭できる。故に熟達が進み成功しやすくなるといったところだ。
ただ、こうすればビジョンが得られますよというマニュアル本ではない。かなり多くの人数のインタビューが紹介されており、そこに至る道は様々だ。また、この事業をやったら成功するだろうというビジョンを得る人もいれば、好きだからこれをやろうと思っているうちに結果として成功した人もいる。さらに読字障害に苦しんだり、ケガでスポーツを引退して、仕方なく別の道に進んだという例も出てくる。
インタビューの後に、統計処理された結果が出てくる。そこで強調されるのは、外的な要因(外発的動機づけとも)に従うのではなく、内的な要因(内発的動機づけ)に従った方が成功しやすく、また幸福度も高そうだということだ。外発的動機づけとは、例えば「家族を養うために」とか「給料やボーナスが高いから」といったものを指す。内発的動機づけというのは「やりたいから」とか「これをやっていると幸せだから」といったような動機だ。
外発的動機づけに頼った成果主義は2つの点でうまく機能しなかった。一つは金融機関のように倫理をインセンティブが越えてしまった例だ。ゲームに勝ち逃げして40〜50代で引退し悠々自適な生活をしようと思う人が多くなると、業界全体が暴走することになる。人によっては燃え尽きてしまうこともあるだろう。一方、いわゆる「成果主義」は実際には収益が上がらなくなった会社が、どう損を分配するかという理由で導入されたようだ。元富士通人事部の城繁幸さんの書いた本を読むと、富士通では現場にのみ成果主義を押しつけることによって、効果的に会社全体のモチベーションを下げることに成功している。最後に富士通の社長だった秋葉さんが「日本には成果主義はなじまなかった」といってあっさりと方針転換してしまったのだが、実際には外発的動機づけが内発的な動機を殺す可能性があることを理解すべきだった。インセンティブにドライブされている企業は、逆インセンティブによってモチベーションを失う。
さてビジョンが大切なのはわかったのだが、「やりたい事をやっていれば」「成功できる」という事になるのかという疑問は残る。シゴトに生きる人もいるだろうが、シゴトは生活費を稼ぐための手段にしか過ぎないという人もいるだろう。また「ビジョンの質」が悪ければ、アウトプットの質も自ずから低下する。最悪なのは内的な声に従っているはずのビジョンが実は他人の影響を受けているだけのものだったというケースだろう。例えば人気職業ランキングで志望先を決めている人たちが誰かに強制されているとは思えない。しかしよくよく考えてみると「人気があるから」「社会的に成功しそうだから」というのは外発的な動機だ。つまりビジョンと外発的動機づけを区別するのはとても難しい。
ビジョンは内部からわき出してくるものなのだが、例えば瞑想をしていたらビジョンが浮かび上がってくるというものではないし、天使がやって来て授けてくれるというものでもないだろう。実際にはいろいろな外的な刺激を受けてその中から自分なりのビジョンを組み上げてゆくことになる。実際にやってみて「ああこれをやっていると苦にならないな」ということを発見するまで、内発的な動機に気がつかないケースもあるだろう。
結局、いろいろやってみて、自分で考えるしかない。リーダーに必要な素養であって、全ての人が内発的な動機づけを必要としているわけではない。リーダーでない人たちにはやはりインセンティブ・プログラムは効果的に作用する。しかし成功したい人たちや、組織を成功に導きたい人たちは、内的な動機づけと外的な動機づけの違いを理解するべきだろう。

コモンズ

よく「若者の公共でのマナーがなっていない」という言葉を聞く。また、給食費などの費用を払わなくなったというニュースが話題になったりもした。一見、関係のない二つの話題だが「公共」や「準公共」が崩れてきているのではないかという認識が背後にある。
まず、公共についておさらいする。公共には二つの力が働いている。一つは群れを維持しようという力、もう一つは公共への費用負担せず利用だけしようといういわゆるフリーライダーの脅威だ。前者は、信頼といういっけん無償の行為に見えるものに社会的なベネフィットがあるということを示唆している。普段は二つの力がバランスしているのだが、フリーライダーが増え公共財が蚕食されると公共財は維持ができなくなってしまうのだった。
電車の中で化粧をする若い女性が「群れを維持する力」を失ったとは思えない。彼女たちを観察するとむしろ必要以上に群れの秩序を大切にしている様子がわかるだろう。ただその様子は地下組織のようだ。場所を持たないので常に連絡を取り合っていなければならない。
社会には公共に使える場所がある。これを「コモンズ」と呼ぶ。スマートモブズ―“群がる”モバイル族の挑戦は渋谷の交差点で携帯電話でテキストメッセージをやり取りする若者達の描写ではじまる。北欧にも同じような光景があったそうだ。作者の観察によると、両者に共通するのは、こうしたひと達は、家に居場所と地位がない。こうした居場所のなかった人たちが見つけたのが仮想空間としての携帯電話だった。そして期せずして新しいコモンズが無線上で成立したのが、日本や北欧の携帯電話だということだった。
人々は意外と合理的に行動している。例えばOLと言われる人たちは予め会社の意思決定から排除されている。この人たちが「一般職」から「派遣」へと移行するに従ってその度合いが強くなるが基本的に「公式の意思決定」から排除されているという点は変わりがない。政治の現場でも状況は同じだ。そこには影響力が与えられる群れの下位のメンバーとして留まるか、それとも別の公共権を作るかという選択が生まれる。そこで作られたのが新しい携帯電話の空間だったというのだ。そこにあるのはとりとめのないやりとりの無秩序なやり取りだ。しかしそこに秩序が生まれ、ついでに多くの商機を生み出した。
その人たちがとどまった環境を子供部屋と呼ぼう。子供部屋には生活の維持に必要なもの(例えば台所や風呂といったような)がない。ここで育つと生活を維持する力を学習できない。にも関わらず消費生活は豊かだった。台所がなくてもコンビニがあるという具合だ。そこにはお金を出せば、しがらみなく好きなものが買えるという自由がある。お金には重要な性質が二つある。一つは消費行動が匿名であるということ、もう一つは等価交換の原則が成り立つということだ。何かが必要であればそれに見合った費用を払わなければならないのである。コミュニティ参加へのインセンティブがなかったのはこういった事情によるものだろう。コミュニティには私有地と共有地がある。
村は私有地の他に共有地を持っているのが普通だ。この共有地はコモンズと呼ばれる。日本語には入会地という言葉もある。同義だという人もいるのだが、日本語と英語の概念は少し異なっている。日本語と英語のWikipediaを見てみるとわかるが、英語のthe commonsには「Shareされる」という定義しかない。一方、日本語のコモンズには、公共財は全ての人に開放されるが、コモンズはメンバーに対してのみ開かれているというのだという限定条件がついている。なぜか定義が二本立てになっているのだ。国が管理するのは公共財だ。しかし公共事業は公共財ではないことがあるし、特定の団体(メンバー・エクスクルーシブだ)に税金投入が行なわれる場合もある。漁業権や水利権も入会だがここにもメンバーシップの問題がある。入会地には利権とメンバー以外を排除するという「おまけ」がついている。どこまでも本音と建前の二段構えの構造がある。
日本が第二次世界大戦に負けたとき、アメリカからの憲法を受け入れた。(押し付けられたという人たちもいる)このときに受け入れた国家観概念は「万人に開かれた」ものだ。日本国憲法は全ての国民が差別を受ける事なく一定以上の豊かな生活がおくることができる国になることを約束している。当の国民はあまりこのことを理解しなかったのではないかと思われるが、このときにコモンズにあたる制度も作られた。たとえば地域住民が参加してコミュニティを支える人材を教育する教育委員会も、こういうコモンズの考え方に基づいている。
自発的に国家や地域運営をしていないと、誰かに自由を浸食されるかもしれないという場合には「コモンズ」はうまく機能するだろう。アメリカの場合にはイギリスの王権に対してこういった主張をする必要があったのかもしれない。しかし日本の場合には利権と
一体になった入会地を持つ村落が積み上がって作られた国家だった。つまり、モデルとしては、誰にでも開かれた「公共」の下にメンバーにだけ開かれた「入会地」がある二重国家なのだ。こうした場合「公共」がどんな目にあうのかは火を見るよりもあきらかだろう。利権を求める人たちに切り売りされて、入会地化しまうのである。
村落共同体は、いくつかの方法で崩壊した。地方から都会に出て来たときに村落は再構成されなかった。地方では後継者がいなくなり村落共同体は縮小してゆく。後に残ったのはベッドタウンという小さな私有地の集まりだ。ここではコモンズも入会地もなくなっている。「核家族」といわれたこの共同体は群れを形成するには小さ過ぎる。
もう一度、電車で化粧をする女性を見て「若い人たちは公共のマナーがなっていない」という時にどういう心理が働いているかを考えてみよう。指摘した人が考えているのは「電車で化粧をするのはマナーに反する」と考えている。そして「当然のことながら、女性たちはそのマナーに従わなければならない」と主張しているのである。こうした「公共の場」は二重の構造を持っている。実際には全員に開かれていることになっているが、実は利権が存在し、社会の一部に支配されているわけだ。
女性やコドモ達は、こうした場所で自己主張して公共の支配権を獲得しようとは思わなかった。家でも職場でも誰かが支配していて、彼らの流儀を押し付けるのだが、他にも楽しい所はたくさんあった。ネットはそうした「楽しい所」の一つだ。こうした「楽しい場所」にはローカルの流儀がある。それはとても厳しく、流儀の入れ替わりも激しい。バーチャルの世界でも、多数の入会地が生まれている。継続性がなく不安定なのが新しい公共圏の特徴だ。加えて現実の入会地には利権があるのだが、バーチャルの入会地には確固たる利権がない。
デジタル入会地の悲劇は「はてな」や「2ch」の悲劇として知られる。2ちゃんねるにはそれなりのルールがあるが「2ちゃんねるのようにでたらめ」というように認識されることがある。そこには3つの原因がある。一つには内部ルールが成熟されていないこと(そもそも学習する機会がなかったのかもしれない)、次にルールを理解しない人たちからもアクセスされてしまうこと(つまりそもそも入会地にすることができない)、最後に匿名であるためにある種のはけ口として利用される可能性がある。こうした所はくだらないから排除してしまえという人たちもいる。一方、こういうところがなければ、自分の考えを再編成し知識を体得する機会がない人もいるのが現状だ。
まず、コモンズの伝統がありそれが世代間で受け継がれてきた国のインターネットにはデジタルの公共圏も作りやすい。例えば知識を貯蔵し、誰でも使えるようにしようというWikipediaもコモンズの一つだ。しかし、そもそもそういった伝統がなく、世代間で継承もされなかった国のインターネットでは、コモンズは新しく作られる必要がある。それもできればオトナ達に浸食されないように「こっそり」とだ。政府の援助は期待できない。もともと利権のない所に投資は行なわれないだろうからだ。
さて、ここまでコモンズについてだらだらと考察を積み上げて来た。最後にどうして「コモンズ」が必要なのだろうかを考えてみたい。エンジンが回転するためには最初のイグニションが必要だ。コモンズはその最初の一押しという役割を持っている。コモンズに投資することは誰の利得にもならないので、誰にとっても損のように思える。しかし公共物がなければ、エンジンは周り続けることはできないのだ。こうした「公共」があってはじめて、自由競争が担保されると言ってもよいだろう。
開かれたコモンズにはもう一つの価値がある。開かれた空間は新しい才能を集めてくることができる。これは閉じられた空間である入会地にはない特色だ。多様性は競争力を増すという前提を受け入れるとするならば、コモンズを持っている集団は内部の競争を円滑に進められるだけでなく、外に対しても競争力を持つことができるということになる。
ともすると「日本には公共圏がない」とか「若者は公共マナーがなっていない」というような論調になりがちなのかもしれない。しかし、日本語でもWikipediaが成り立っているところを見るといちがいにそんなことも言えないようだ。逆に「公共」と言われている場所が誰かの専有物になっていて、社会の発展を阻害している場合もあるのではないだろうか。

グランズウェル

細分化されるコミュニティ

先日、髪の毛を切りに南青山に行った。千駄ヶ谷の駅を降りると高校バスケットの大会をやっており、平均身長が高そうな人たちが集っている。しかし、ユニフォーム姿なのでどの人たちも同じに見える。サラリーマンの多いエリアを抜け、美容室が集っている(本当に美容室が多い)エリアに行った。かつてハウスマヌカン(ほとんど死語だと思うけど)が担っていたファッションリーダー的な役割を、最近では美容師たちが担っている。散髪が終わり、表参道を通っていて裏原宿と言われるエリアを通る。なんだか「ファッション偏差値」の高そうな人たちがうろうろしている。昔は作り込んだ服が多かったのだが、今はシンプルなものが多い。だからちょっと体鍛えてますくらいの感じじゃないといろいろと難しいように思える。
ところがここから状況は一変する。明治通を越えると、遠くからH&Mを目指してきた人たち、地方の修学旅行生(この人たちは竹下通りあたりから流れて来ていて、体操服姿だ)、観光のおじさんたちが増えるのである。こうした人たちが、いろいろなところで話題になっている「中間層」である。価格も価値も求めたい人たちだ。ただファッションに関する限りあまり真似をしたいとは思わなかった。
宮下公園からシェーキーズに抜けるあたりはキャットストリートと呼ばれる。この辺りはかなり趣味が細分化されている。だから目的がないと歩くのが難しい。髪の毛を留めるものを探しにいったのだが「コンチョ」というものを買ってアクセサリーを自作しろといわれた。ただのボタンにしか見えない銀製品が4,000円近くもする。こうした情報を仕入れるためには人に聞いて回るしかないだろう。
港区、渋谷区とたかだか1時間程度の距離にこれだけのバリエーションがある。

ポジショニング

例えばこの渋谷区から港区にかけての一角(千駄ヶ谷から原宿までを歩いた距離はわずか4kmに満たない)では、いくつかの異なった要素がお互いに浸潤しながら、お互いに連係したコミュニティを成立させている。そして一時は裏原宿と呼ばれていた所に、裏裏原宿のような場所ができている。実際のコミュニティの生成はもっと複雑かもしれない。

細分化しているからこそ、キャラ付けが重要

この状況は、オンライン上ではもっと複雑になる。オンラインでは青山のワンクリック先は秋葉原というような状況も存在しうる。そもそも人の顔が見えにくいのでどのようなポジションにあるのかを明示するのは至難の技といえるかもしれない。
かつて「日本のウェブは匿名の人が多い」ということで失望した起業家がいた。実際にはその他大勢的な人たちと、オンライン上のセルフ・プロモーションの重要性に気がついた人が分離してゆくのかもしれない。とはいえ、本人たちはそれほど大それた気分で足跡を残しているわけではないと思うが。※この記事を書いたのは2009年7月31日だ。しかし2010年12月現在、記事の書き直しをしている時点では状況は随分変わった。mixiには実名で活動する層が現れている。

グランズウェル

こうした動きを体系化したのがグランズウェルという考え方だ。ソーシャル・テクノロジーを使った企業と顧客の関係維持について書かれている。フォレスターのスタッフが書いた本なので、データの裏付けが多く説得力がある。
この本によると、ソーシャル・テクノロジーの波は、人、技術、経済学(トラフィックは金になる)を柱としている。ウェブ利用者の多くが、創造(ブログライターなど)・批判(有名ブログにコメントを残す人たちがいる)・収拾(はてなブックマークの人はこれにあたる)・加入(SNSに参加する人たち)・観察・不参加という段階がある。アメリカの割合は、18%、25%、12%、25%、48%、44%だそうだ。これに比べると日本は、22%、36%、6%、70%、26%ということで、観察者(つまりブログなどを閲覧するがコメントなどは残さない人たち)が多いことがわかる。一昔の言葉で言えばROMに人が多いのが特徴になっている。東アジアは集団的な傾向が強く、ソーシャル・メディア先進国だという。一方ドイツ・フランスではソーシャルメディアの浸透率はそう高くない。
この人たちと企業が交流するにはいくつかのやり方がある。特徴的なのは、これまでのような中央集権的なやり方ではなく、消費者の「友人のように」つまり同じ目線でコミュニティに参加するということだ。逆にこの人たちをコントロールしようとするのは大変危険だ(これについては本にいくつか実例が出てくるし、実際に有料でブログ記事を書いてもらったり、シコミをすることへの警戒心は強い)

  • ブランドについての意見を聞く
  • 実際に話をしてみる(FacebookのFanサイトなどはこれに当たるだろう)
  • 今あるコミュティを活気づける
  • ユーザー同士の交流を支援する
  • 商品開発などに統合する(しかしこの方法は難易度も高いのだという)

こうした動きを「誰に」「何の目的で」「どうやって」「どんなテクノロジーを使って」伝えるか(これをPeople Objectives Strategy TechでPOSTと呼ぶ)を設計してゆくのだそうだ。
こうしたソーシャルメディアを使ったプロモーションは、どの層の顧客にも有効というわけではない。価格に敏感な人たちや高齢者には効果が薄いかもしれないし、企業の側も中央集権的なやり方に慣れていて、こうしたマーケティングに移行できないマーケターも多いだろう。
ソーシャルメディアを使ったプロモーションは何も企業だけのものではなく、専門的なスキルを持った個人にも有効なプロモーションの機会を与えてくれるだろう。「グランズウェル」という言葉そのものはバズワードに終わる可能性もあるが、その考え方は決して一時の流行ではないだろう。