共産主義という悪魔

政府が言論の自由を制限し人権をないがしろにすれば、経済の活気が失われる。だから、自民党の政策を進めて行けば国家は没落するだろう。これは自明の理屈だと信じていた。

だが、右派の人たちはそうは考えないように思える。どういう世界観があるのかいろいろ聞いてみたかったのだが、どうやら仮定そのものが間違っているらしい。そこに理屈はないらしいのだ。

出発点になっているのは知性への反発のようだ。知性といってもマスコミと学校の先生といったレベルなのではないかと思う。どちらも左翼に支配されていると考えているようだ。知性が左翼に支配されているのは、もともとはGHQが、日本を弱体化させるために民主主義を持ち込んだせいなのだが、それを引き継いだのが北朝鮮であると彼らは考えている。彼らの世界観では先生たちは無知な生徒を洗脳しようと「人権教育」をするのだが、マスコミも左派知識人に支配されていて、この邪悪な計画を隠蔽しているのである。

右派の目的はそうした「悪い人たち」から無知でではあるが善良な市民を守ることらしい。むしろ「正しい人権」の守護者であるという認識を持っているのではないかとすら思える。

こうした意識がなりたつのは「自分たちは賢いのだ」という万能感を持っているからだろう。ほとんどの人たちは真実を知らないか興味がないので「私達が正しいことを教えてやらなければならない」という認識が成り立つ。ただし、教師やマスコミと言った人たちは「賢いのではなく間違っている」なぜならば、外国に協力する売国奴だからである。そうすることで自分たちの万能感が担保されるわけである。

ただし、民主主義についてはあまり関心がなさそうだ。売国的な知識人さえ排除できれば、正しく民意が反映されるだろうと素直に信じている。権力者が権力を濫用するだろうなどということは全く考えていないようだ。現在の経済状態についてもあまり危機意識を持っていないのではないようだ。

よくわからないのは自民党の改憲勢力との関係だ。磯崎議員は「キリスト教的な天賦人権論は日本にふさわしくない」と主張しており西田議員は「そもそも日本人に人権があるのがおかしい」などという。

だが、今回お話したネトウヨ系の人たちは「立憲主義が破壊されることがあれば、世界から非難されるだろう」と言っている。今非難されていないから安倍政権はそのようなとんでもないことを考えているはずがないという理屈になるらしい。彼らは安倍政権とお友達の連続性をどう捕らえているのかが気になるところだが、怖くて聞けなかった。もしかしたら耳には入っていないのかもしれない。

逆に左派への危機感のアンテナはびんびんに張られている。彼らによると、中国は虎視眈々と日本の殲滅を狙っており、左派勢力は彼らの尖兵になって日本を弱体化させようとしているらしいのだが、最終的な目的は不明なままである。「所詮ファッション左翼」なので深く考えていないのだろうと推論している。また、人権派は行き過ぎた見返りを求めていて、日本に寄生しているのだそうだ。

高度経済成長世代は「中間層が階層を昇る余地があることが経済的な繁栄をもたらす」と考えるし、成長が定常状態だと考える。だが、そもそも「成長」という概念そのものがない。だから成長しないから政府の政策が間違っているという認識はなさそうだ。だから彼らの政治への関心は分配に向いてしまう。政治といえば分配の議論なのである。そこで「行き過ぎた分配を求める人がいけない」という理屈が成り立つのだろう。

こうした世界観はキリスト教の信仰心に似ている。神は無謬であり、祝福された民は神を信じる限りは繁栄することができる。なぜなら神がそう約束したからだ。しかし、世の中には悪魔がいて、何かと神が作った平和を壊そうとしている。だが、悪魔がなぜ神を邪魔するのかという点についての答えはない。神に祝福された世界では、悪い事は起こりえない。何か起こったとしたらそれは「罰が当たった」のである。行いが悪かったのだ。故にセーフティネットなど必要ないのだろう。

この人たちと国体原理主義の人たちとの間には断層があるように思える。国体原理主義者たちは日本書紀に書かれたことは真理だと考えており、明治維新で捏造された伝統と信じている。だが、ネトウヨの人たちの多くはそこまで急進的な国体教を信じているわけではなさそうだし、普通に資本主義社会を生きていると感じているのかもしれない。これは、マルクス主義を教条的に信じている人と単に分配を求める人が一緒くたに「左翼」と混同されるのと同じことなのかもしれない。

左派と右派の一番大きな違いは、現状への危機意識というか不安を持ちあわせているかという点のように思える。一方共通点もある。左派が疑念を持っているのは権威主義的な父性への反発なのだと思うのだが、右派はそれが知性への反発にすり替わっている。これは同根なのではないかと思うのだ。

日本の左派たちは分配こそが解決策であって、全ての問題が解決されると考える。その原資は儲けすぎている企業が支出すべきものだ。一方で、右派は、アメリカ・資本主義・自民党という旧西側の体制を信じていて、これに従っていれば全てが解決すると考えているのかもしれない。トランプ旋風を見ると、アメリカ人は、自分たちの不調はすべて外国人に起因すると考えており、サンダースの支持者たちは企業と1%が悪いと考える。

非常に単純化すると、共産主義という悪者がいるために、それに対峙する人たちを正義だと定義しなければならないのだろう。天国とは悪魔がいない場所のことなのだ。

「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」

ネットで「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と言っている人を見つけた。ちょっとめまいがしたのだが、どういう精神構造を持っているのかにも興味もあった。どうやら「人権」を叫ぶ人たちというのは全て外国の陰謀で動いていると考えていることは分かった。彼らの世界観によると「人権」を叫ぶ人たちというのは全て売国的な共産主義者なのだ。

西洋流の教育を受けた人間の頭の中では人権は自由主義と結びついている。私有財産を許容することで経済が活性化するからだ。また、政府の干渉をなくせば自由交易が増えて、域内の価値が最大化されると考えられている。さらに、言論の自由を保証することでより多くの意見が集る。これを集約する中でよりよい選択肢が生まれる。この「集合知」が民主主義を支えると考える。だから民主主義社会ではプロセスと多様性が大切なのだ。

こうした世界観が生まれるのはどうしてかと考えてみた。それは冷戦下で育った人たちは「私有財産や言論の自由がなく」「中央集権的な計画経済」がどうなったかを身をもって知っているからだ。つまり、中国、ロシア、東ヨーロッパで何が起こり、それがどのような結末を迎えたかを目撃しているのだ。つまり、資本主義(自由主義)と社会主義を対立概念として捉えているのである。

ところが「日教組陰謀論」を信じている人たちの頭の中ではGHQのもたらした民主主義と社会主義がごっちゃになっているようだ。どちらも「日本を弱体化させた」と考えられている。なぜ、アメリカと社会主義がごっちゃになっているのかが長い間分からなかった。

twoviews少し考えた結果、視点をずらせばよいことが分かった。戦前の日本と西洋の民主主義諸国(社会主義も自由主義も)を対立概念として置けばよいのだ。アメリカも共和制国家なので同類といえば同類である。つまり、視点を右傾化させればよいのだ。

よく考えてみると、今の世代は東側の世界を知らないのだ。その上低成長時代に育ったので「言論の自由が経済的豊かさをもたらす」などと言われてもぴんとこないのだろう。民主主義とは「バラバラに自分の言いたい事を言っている」ようにしか見えないのかもしれない。

アメリカが日本を弱体化したという話なのだが、アメリカは日本を資本主義のショーケースにしようとした。そのため、通貨を安く抑えて日本の品物がアメリカを席巻することになる。結果的にアメリカの経済を脅かすまでになり「日米貿易摩擦」と呼ばれ、日本は西独を抜いて世界第二位の経済大国になった。もし、アメリカが日本を弱体化させたいのであれば、教育を通じて日本人をわがままにするなどという回りくどいことはしなかっただろう。アメリカ市場から締め出してしまえばよかったのだ。

つまりGHQの日本弱体化計画とは「ショッカーが世界征服をするために幼稚園バスを襲う」というのを同じような話なのである。

この世界観のおもしろい所は、西洋流の民主主義社会との対立概念を何に置くかという点だろう。戦前の日本は計画経済ではなかったのだが、なんとなく、満州の植民地経営と戦時計画経済が頭の中にあるのではないだろうか。みんなが心を合わせて一生懸命働けば効率的に豊かになれそうな気はする。しかし、それは計画経済下の社会主義と一緒なのである。「日本が悪くなったのは全て日教組のせい」と考える人たちは、皮肉なことに彼らが嫌いな左派の人たちと同じ目的を持っているということになる。

ここまで考察すると、左側の人たちがどのような指向を持っているかが気になるところである。彼らはなぜ人権が大切だと思っているのだろうか。なんとなく「人権が大切なのは当たり前だろう!お前さては右翼だな」などと言われそうな気がする。よく考えるとこれも当然の反応だ。低成長なので、自由と民主主義が経済的成長をもたらすという前提が信じられないのだろう。

結果的に右派が社会主義を信奉し、左派が自由主義を擁護するというめちゃくちゃな鏡の世界に住んでいるのだ。

政治に対する危機感を共有したい人がまずやるべきこと

政治には危機感を持っているが、政治について話せないという人は多い。当初、それについて対応策を書こうと思った。

多分、自分が話すのではなく、相手に話させるのが良い。「ニュースが分からない」などと言えば、相手は得意になって話してくれるだろう。すると相手のポジションが分かるので、それに従ったテーマで話せばよい。「興味ない」という人もいるだろうが、トピックは刷り込まれるだろうから、関連するニュースを追うようになるだろう。単純接触を繰り返して徐々に洗脳してゆくというテクニックはポテトチップスの販売から新興宗教まで幅広く利用されている、とてもありふれた方法だ。

だが、これを書くのはやめにした。過去に書いた記事を思い出したからだ。

もともと日本ではデモが起きなかった。東日本大震災の後でさえ目立ったデモは起きておらず「日本ではなぜデモが起きないのか」というエントリーを書いていた。

だが、実際にはデモが起きていた。最初に起きたデモは小規模なものだった。民主党政権の打ち出した福島への帰還基準年間20msvに反対する人たちが抗議運動をしていたのだ。やがてこれが反原発運動になった。

デモをしなかった人たちはなぜ突然デモに目覚めたのだろうか。例えると赤信号に似ているのではないだろうか。日本人は赤信号で道路を渡らない。しかし、誰かが信号を無視して渡りはじめると、続いて皆が渡り始める。規範そのものではなく、その規範に対して周囲がどのような反応を示すかが重要なのだ。

職場や学校で話題が出るようになれば、次第に政治の話題は増えるだろう。

現在の問題は「語り手」が少ないということではなく「聞き手」が少ないことだということになる。

馬鹿な左翼が増えたのはGHQのせいかもしらん

石井孝明さんというジャーナリストが「頑迷な左翼が増えたのはGHQの教育プログラムのせいかもしれない」と仄めかしていた。GHQのは日本の教育を改悪して考える力を奪ったのだそうだ。頑迷な左翼が多いこと自体は否定しないが、日本の矛盾をすべてマッカーサーのせいにしても問題は解決しないと思う。いずれにせよ、面白そうなのでカウンターを考えてみた。

アメリカに住んでいたとき、カフェのテレビで討論番組をみていた。討論番組では福音派の男性が「子供を学校に通わせない」といきまいていた。学校で進化論を教えるからだそうだ。嘘を教える学校に子供を通わせることはできない、というのが彼の主張だった。周囲の人たちが「化石が出ているから進化論のほうが信憑性がある」と言っても頑として聞き入れない。次第に討論はエスカレートしてゆき福音派の男性は怒鳴り始めた。私は悲しくなりカフェのマスターに「なぜアメリカにはこのような頑迷な人が多いのか」と嘆いた。するとユダヤ人のマスターが面白いことを教えてくれた。

その昔、マッカーサーと言う人がユダヤの資本家たちつるんで、アメリカ人がものを考えないように教育プログラムを変えたんじゃ。科学的な教育をなくせば、アメリカ人たちは合理的な思考力をなくして喜んで企業のために働くようになる。自分たちの権利ばかりを主張してまとまらなくなるから労働運動もつぶせる。それが「この国の自由」の本当の意味なんじゃよ。

僕は「なるほど」とひざを打った。「テロで殺されるよりも多くのアメリカ人が銃で殺されているのに、誰も銃規制を訴えないのはアメリカ人が合理的に思考できないからなんだ」。マスターは否定も肯定もしなかったが、なんとなく肯定しているように思えた。

これが妄想だといいと思うのだが、頑迷なアメリカ人が多いところを見ると案外真実が含まれているのかもしれない。

というか、これは完全に妄想だ。頑迷なアメリカ人は多いことは確かだが、マッカーサーとは全く関係がない。もちろんアメリカには優秀な人たちも大勢いる。同じように日本で教育を受けた優秀な人もたくさんいるわけだ。「自由と権利」についても同じで、うまく活かせない人がいる一方で、立派に国のために尽くす人も多い。中には国のために働いて、戦争で四肢を失ったり大怪我をしたアメリカ人もいるのだ。

このエントリーを書いていて、大学生の元ルームメイトにたびたび聞かされていた言葉を思い出した。Stupid Americans(馬鹿なアメリカ人)という言葉だ。大量消費に明け暮れて物事を真剣に考えないアメリカ人を指す言葉である。彼はイランからきた移民の息子だった。LAにはお金持ちのイラン人がたくさんいるが、そうでない人たちも大勢いる。

左翼って馬鹿だなあと考える日本人と同じように、アメリカ人って馬鹿だなあと思うアメリカ人もいるのだ。単に馬鹿だと思っているうちはいいのだが、それが別の感情に変わることもある。

彼は大学でイスラムサークルにはまり、だんだん過激なことを言うようになった。最後には「一神教を信じない人とは暮らせない」と言われて追い出された。僕がアメリカにいたのは9.11のずっと前だが、こうしたルサンチマンが蓄積してやがてホームグローンと呼ばれる人を生み出すことになったのだと思う。自分以外は堕落している。それは教育が悪いからだ、自由が悪いからだ、というのはどこの国でも聞かれる言葉なのだ。

もちろんすべての人がそうなるというわけではないのだろうが、他人の自由や権利を恨む意識の中からやがて過激な方法で他人の自由を奪ってもよいと思う人たちが出現することがある。アメリカは徐々に不自由な国になりつつあるが、誰もその傾向を止めることはできない。「どこにでも安全を脅かされずに自由に出かけて行ける」という当たり前のことを平和で幸せな日本人はもっと自覚する必要があるのではないかと思う。

失うまでは気がつかないのかもしれないが。

ネット上で議論が成り立たないわけ

表面上「ネット上で議論をしたい」と思っている人は意外に多いようだ。だが、実際に意見を書いてみてもほとんど反論がない。傲慢にも「これだから日本人は」的なことを思ったりするわけだが、一から考えてみると意外と難しい。自分自身がディベートとはどういうものかということを良く分かっていないのだ。

そもそもディベートとは何か

日本語で調べてみてもたいした記事は検索できないが、英語で検索するとたくさんの記事が見つかる。英語圏ではディベートはスポーツの一つとして認知されているようだ。

まず、ディベートにはフォーマルなものとインフォーマルなものがある。フォーマル・ディベートにはかしこまった形式があるらしい。Affirmative(賛成)側は右に立ち、三回立論と反論を繰り返すと書いてあるものもあった。回数や準備期間にいろいろな流派があるようで、なかなか難しい。

一方、インフォーマルなディベートというものもある。まずは相手がどのようなポジションで立論するか分からないので、それを明確にする所から始めたりするそうだ。立論とポジションがクリアになったところで、反論を試みるべきだと書いてある。

インフォーマルなディベートは「意見交換」の場であって、喧嘩・競技・意思決定のいずれでもない。また、相手の言っていることに納得ができないからといって同じ話をいつまでも蒸し返してはいけない。意見に対して反論しても良いが個人攻撃はよくない。

「国会議員も見習って欲しい所だ」と書きたいのは山々なのだが、意外と英語でのディベートを練習したという人も多いのではないだろうか。政治家志望者の必須科目だとみなされているので、大学の弁論部出身の議員も多いはずだ。また、弁護士も弁論術を使う。それでも国会議論が口喧嘩にしか聞こえないのは残念なことである。

ネット上ではディベートは成り立たないようだ

さて、ネット議論である。今回参加したのは2つの議論だ。1つは緊急事態条項に関したもので、両論を並べて「どう思いますか」と言っている。普段のツイートから判断すると、書いている人は緊急事態法賛成派だ。背景には「中国の軍事的台頭」がある。改憲議論は「左右対決」になっているので、フレームを崩すことが大切だと思う。そこで「大地震に際して自民党が作った緊急事態条項を民主党が使ったら」という立論をしてみた。

だが、フレームを崩してしまうと、ほとんどの議論が無効になってしまう。これまでの反発が使えなくなってしまうのだ。そこで「参考になりました」という返事が来て終わりになってしまった。ディベートのお約束としては「立論の前提が違う」という反論になるはずである。緊急事態条項が重要なのは軍事的攻撃や外国に煽動された不心得なデモ(ちなみにSEALDsなどのこと)に対応することであって、政権に就く覚悟がなかった民主党が政権に就くことなど二度とないという反論になるはずである。

もう一つの議論は「愛国心」についてである。長島議員をからかったようなツイートをしたら「愛国心は大切」という反論が来た。そこで「長島先生のような立派な保守の政治家が保守を善導すべき」と書いたところ、横から「愛国心で善導なんかできるわけないだろう」というような反論が入った。その人が「愛国心と平和は両立するか」と問い掛けられたわけだ。右翼を論破しようと思ったのかもしれない。

議論をクリアにするためにはまず立論をしなければならない。その為には「愛国心」と「平和」を定義した上で、それが両立する根拠を示す必要がある。時間をかけて書きたいが、あまり長くは待ってくれそうにないので30分をメドにして立論した。

相手から来たのは意外な反応だった。宗教を持ち出したことで「ドメインが違う」と見なされたようだ。宗教はよく分からないから反論できないというのである。相手のプロフィールを見たところ「安倍政権は危ない」というブログを書いている人だった。自民党は保守ではなく極右だという。こちらもフレームが固定されていたのだろう。議論を円滑にするためには「愛国心」とは、安倍首相がいうような(いいそうな)意味の愛国心でなければならなかったのだ。子供を戦争に送り出すのに旭日旗を振るような愛国心だ。しかし、そのフレームで愛国心と平和が両立しないのは当たり前だ。戦時の愛国心だからである。

この場合議論を進めるためには「アベの愛国心は危ない」くらいにするべきだろう。ただし、これが議論になるかは分からない。価値判断なので人によって印象は異なるだろう。この手の議論はネット上に氾濫していてあまり面白みがない。

ディベートが成り立たない理由を考えてみた

たった二つのサンプルで総論するのは危険かもしれないが、日本で行われている「議論」というのは、ロジックではなく、フレームのコンペティションだということになる。フレームはいわば仮説なので、前提が狂うと使えなくなる。

日本でディベートが成り立たないのは、日本文化が探索を前提にしていないからだろう。サンプルや型というものがあり、それを模倣するのが日本文化だ。「考える」のは型に習熟した後だ。唯一の例外は外から圧力がかかった時だ。極力変化を避けるのが日本式と言えるのかもしれない。

型の習得がより重要視されるので探索型のディベートが成立しなかったのだろう。日本にもディベートを持ち込もうという人は多くいたが、その度に「型」が温存されるだけで広まらないのだそうだ。そしてまた別の型が輸入されるという状態が続いているということである。

ここで浮かび上がる最後の疑問は、自分で考える文化がないのに、なぜ個人が確固たる意見形成ができているかということだろう。

「狂った世界」の道徳と憲法に関する議論

木村草太先生が道徳の教科書について怒っている。現在の組体操は憲法違反だが、道徳教育上有効として擁護されている。学校は治外法権なのかというのだ。木村氏は道徳よりも法学を教えるべきだと主張する。最後には自著の宣伝が出てくる。

Twitter上では「道徳教育など無駄だ」という呟きが多い。この点までは氏の主張は概ね賛同されているようだ。ただし、この人たちが代わりに法学を学びたくなるかは分からない。また、組体操についての懐疑論もある。「全体の成功の為に個人が犠牲になる」というありかたにうんざりしている人も多いのではないかと考えられる。

また、一般に「道徳」と言われる価値感の押しつけは「一部の人たちの願望である」という暗黙の前提があるようだ。その一部の人たちが押しつけようとしているのが、自民党の考える「立憲主義を無視した復古的な」憲法だ。だが、それは一部の人たちの願望に過ぎない。人類の叡智と民意は「我々の側にある」と識者たちは考えているようである。

これらの一連の論の弱点は明確だ。つまり「みんなが全体主義的な憲法を望み、それが法律になったときに木村氏はそれを是とするのか」という点である。すると道徳と法学は違いがなくなってしまうので、問題は解消する。すると法学者はけがの多い組体操を擁護するのだろうか。

考えられる反論は「人類の叡智の結集である憲法や法が、軽々しく全体主義を採用するはずはない」というものだろう。木村氏は「革命でも起こらない限り」と表現している。民意はこちら側にあると踏んでいるのだ。

このような反論は護憲派への攻撃に使われている。「憲法は国益に資するべきであり、現状に合わない憲法第九条は変更されるべきだ」というものである。天賦人権論や平和憲法は自明ではなく「アメリカの押しつけに過ぎない」という人もいる。国会の2/3の勢力を狙えるまでに支持の集った安倍政権は「みんな」そこからの脱却を望んでいると自信を持っているはずだ。

護憲派は第九条や天賦人権論を自明としているので、これに反論できない。哲学者の永井先生は木村氏を擁護し、木村氏はこう付け加える。

安倍政権は「憲法改正を望むのは民意だ」と言っている。木村流で言えば「真摯な民意」が憲法改正を望んでいるということになってしまう。選挙に行かないのは「真摯でない民意」だから無視して構わない。デモを起して騒ぐのは論外である。「選挙にも行かないくせになんだ」ということになる。

この一連の議論が(もちろん改憲派も含めて、だ)狂っているのはどうしてだろうか。「道徳」を押しつけたい側は「昔からそうだったから」と言っている。この人たちは「右」と言われている。そして護憲側は(この人たちは「左」と言われる)も「世界では昔からそうだったから」と言う。そして「みんな」の範囲を操作することでつじつまをあわせようとするのだ。

普遍的真理は大変結構だと思うのだが、それは常に検証されなければならない。もし検証が許されないとしたらそれは中世ヨーロッパと変わらない。カトリック教会は「神の真理は不変だ」といっていた。ただし民衆は真理に触れることはできなかった。ラテン語が読めないからだ。

多分、議論に参加する人は誰も検証のためのツールを持たないのだろう。にも関わらず議論が成立しているように見えるのが、この倒錯の原因なのではないかと思う。ラテン語が読めない人たちが神の真理について議論しているのである。

「普遍的真理」というのだが、実は民主主義国は世界的に例外に過ぎない。イギリスのエコノミストが調べる「民主主義指数」によると、完全な民主主義国は14%しかなく、12.5%の人口しかカバーしていない。欠陥のある民主主義まで含めると45%の国と48%の人口が民主主義下にあることになる。普通とは言えるが過半数にまでは達しない。

どちらの側につくにせよ、それを望んでいるのは個人のはずだ。しかし、日本人は学術的に訓練されていても、徹底的に「個人」を否定することになっている。個を肯定しているはずの「左側」の人たちにとって見るとそれは受け入れがたいことなのではないかと思う。

さて、個人が政治的意見を形成するのに使われるツールがある。それは「哲学」とか「倫理学」と呼ばれる。ちなみにこの議論で出てくる永井先生は哲学の先生だ。日本語では道徳と言われるが西洋では倫理学だ。

どちらも「善し悪しを判断する」ための学問だが、日本の道徳が答えを教えてしまうのに比べて、倫理学は考える為のツールを与えるという点に違いがある。

倫理学教育が足りないと感じている人は多いようで、数年前にマイケル・サンデルの白熱教室が大流行した。もちろんサンデル教授は独自の意見を持っているが、白熱教室でどちらかの意見に肩入れすることはない。記憶によるとサンデル教授は判断基準のことを「善」とか「正義」と呼んでいたように思う。

日本の政治的風土は「自分で考える」ことを徹底的に避ける傾向があり、価値観の対立に陥りがちだ。どの伝統を模範にするかでポジションが決まってしまうのだ。ところがこれでは外部にいる人を説得できない。

しかしながら、外部にいる人たち(いわゆる政治に興味のない人)も「選挙に行かないのは人ではない」くらいのプレッシャーを受けている。そこで「科学的で合理的な」政治に対する説明を求めるのだろうと考えられる。しかしそのためには、受信側も送信側も考えるためのツールを持たなければならない。

故に、学校では道徳を教えるべきなのだ。ただし、安易に答えを押しつけてはいけない。道徳の目的は答えに至るプロセスを学ぶ機会だからである。

Twitterの議論はなぜ噛み合ないのか

先日Twitterで「女性の社会進出」に関する小さな議論があったのだが、まったく噛み合なかった。まともなネット言論などないというのは定説になっているのだが、なぜなのだろうと考えてみた。

結局2つの要因に行き着いた。一つ目は「学校で議論の仕方を教えない」からというものだ。日本の教育は途上国式の「キャッチアップ」型で正解を教え込むことが教育だと考えられている。そして、次の原因はパーティーがないからというものである。

日本人はパーティーを開かないからTwitterで議論ができないのだ。

パーティーの席には知っている人もいれば知らない人もいる。また、意見が合う人がいるかもしれないが、意見の合わない人もいるかもしれない。もし、意見が合わない人と出くわしたとしても「私は帰る」とは言えない。座がしらけるし、誘ってくれた人に対して失礼に当たるからだ。

そこで求められるのは「聞く」ことと「自己主張する」ことのバランスだ。自己主張は特に難しく「アサーティブネス」が大切である。また、自己主張するにしても「ユーモアを交えて軟らかく」話した方がいい。あなたにとって自明のことでも相手は知らないかもしれない。

パーティーというと突飛に聞こえるかもしれない。これは「公共圏」の例えなのだが、日本には公共圏というものが存在しない。

政治的議論は異なる意見を折り合わせてよりより選択肢を探索するための意思決定プロセスだ。しかし、そのような難しいことが何の訓練もなしにできるはずはない。まず必要とされるのは、異なった意見を表明する自己主張(アサーティブネス)だろう。

Twitter上での「議論」を見ていると、その態度は両極端だ。「私が何か言ったところで状況は変わらない」といって押し黙る人たちがいる一方で、「あなたは何も分かっていない」と突然叫び出す人がいる。その中間がないのではないかと思う。つまり、意見表明と意見交換がないのだ。

こうした状況を見ると「Twitterはバカばかりだから議論が成立しないのだ」と言いたくなる。しかし、政治家にも同じような状況が見られる。「支持者」とばかりしか話さない人が意外と多いのだ。学者にも一方的な主張を叫びまくっている人が意外と多いので、知能が高ければ議論ができるというものでもないらしい。

民主主義を健全に保つ為に政治的議論は重要だ。しかし「学校で政治議論を教育しろ」と主張してみても、なんだか楽しくなさそうだ。パーティーをやれば民主主義が盛り上がるという主張の方がなんとなく受け入れられやすいのではないかと思う。

給食と自由を巡る論争

小学校1年生の娘を持つ母親が学校の先生に文句をいうのを聞いた。その市の小学校では給食は残さずに食べなければならないらしい。食べ終わるまで席を立ってはいけないのだ。しかしその娘には食べられないもの(ただしアレルギーではない)がある。そこでその母親は「学校が食べ物を押しつけるのはよくないのではないか」というのだ。児童には「食べない自由もある」という主張である。

普通に考えると「先生が言う事を聞かないのはよくない」ということになる。若い母親は黙って従うべきである。一方で、こうした主張は「民主的」とは言えず、あまり好まれない。

そこで次に考えられるのは、給食を食べないデメリットを伝えるという方法だ。給食は栄養バランスを考えて計画されているのだから、まんべんなく食べる事でバランスのよい食事ができるはずである。子供の頃の食生活はその後の食生活に影響を与えるだろう。つまり、好き嫌いをなくしてくれる先生に感謝するならまだしも、非難の対象にするのは「筋が違うのではないか」というものである。

この論の反論として考えられるのは「栄養バランスも自己責任である」というものである。つまり、その人の食事を管理するのはその人自体であって、他人にとやかく言われる筋合いのものではないというものだ。つまり、人には「不健康になる自由」もあるというわけだ。

さらに食べ残しは食料を無駄にするので良くないという論も考えられる。しかしこれも「食費を払っているのは親(あるいは納税者)なのだから、無駄にする自由もある」という反論が予想される。

自由というのはかなり厄介な概念だ。「正しい食生活を身につける」という大義があるのだから、そもそもそれは自由ではなく「ワガママだ」とレッテルを貼ってしまいたくなる。実際には「先生には従うべきだ」とか「子供の時に偏食をなくすべきだ」と言った方が簡単だし、現実的であろう。

その一方で「嫌な事をしない自由」という概念にはやや不自然さを感じる。このような考え方はなぜ生まれたのだろうか。

これは学校の側に責任の一端がありそうだ。学校は自由の意味を教えないことで問題を再生産しているのではないかと思う。

最近の学校は親を「お客様」として扱い、最終的な責任を負うのを嫌がるようである。先生は「最終的に食べるか食べないかは母親の責任だし、次の学年の先生がどのような指導をするのか分からない」と言ったそうである。本来なら「絶対に子供のためになるのだと信じている」くらいのことを言って母親を説得してくれても良さそうだが、そうはならないらしい。母親は仄めかすように「偏食はよくないんじゃないですかねえ」というようなことを言われ「攻撃されているように」感じたようだ。

最近は偏食の子供も多いらしく(ついでにアレルギーの子供も増えているようだ)先生たちも苦労しているようである。しかし子供に「栄養バランス」などと言っても分からないし、いちいち説明するのも面倒だ。そこで学校は給食をゲーム化するようである。クラスごとに目標を決めて食べきったら表彰するのだそうだ。つまり、子供は「なぜホウレンソウを食べなければならないか」ということを学ぶ前に「自分が食べないとクラス全体の迷惑になる」ということだけを学んでしまうのである。小学生はこのようにして「集団主義」を身につけてしまうのだ。

これを聞いて、去年起きた子供の死亡事故を思い出した。チーズ入りチヂミを食べた児童が亡くなったという事故だ。その学校ではクラスで同じような競い合いをしていた。そこで児童は目標を達成しようとしてアレルギー物質の入った食べ物を食べてしまったのだ。

よく考えてみると、先生には児童を説得して指導するインセンティブはない。先生に期待されているのは、国や市が決めた教育要項に従って「効率よく」クラスを運営することだ。「児童が偏食行動を身につけようと、給食さえ食べてくれれば知ったこっちゃない」のかもしれない。先生個人の力量は期待されておらず。集団で行動すればよい。そこで責任だけを負わされてはたまったものではないだろう。

給食の問題から実情をまとめると次のようになる。親の側は「個人の自由」を盾に「嫌な事」を避けようとする。子供が嫌がること事を強制して嫌われるのも避けたい。その一方で子供たちは「個人としての自覚」を持つ前に「集団主義」を身につけてしまう。先生は「児童個人を説得して訴える」ことを放棄しており「個人で職業的な責任を取る」ことも避けるのだ。

このような状況下で、どの程度の「自由」を子供に与えることが「正しい」のだろうか。また、嫌がる子供にホウレンソウを食べさせるために、子供をどのように説得すべきなのだろうか。答えは様々あり、その答えに行き着く論理も種々あり得るだろう。

何が分からないのかすら分からない人たち

Twitterで政界再編と政権交代を熱望している人を見かけた。政界再編を望むはいいのだが、何も重要な法案の成立前にやらなくてもいいだろうと思って突っ込んだところ、返事が返って来た。政界は「ガラガラポン」が必要なのだそうだ。

政界再編は結局のところ邪魔者はずしだ。維新の党は大阪系が邪魔だと考えており、民主党の中には旧社会党系や帰化外国人(あるいはハーフ)が邪魔だと思っている議員がいるのではないかと思う。そこで「誰を排除すべきなのか」と聞いてみた。

返って来た答えは意外なものだった。名目経済・リフレ・マクロ経済がいけないのだという。「名目経済」という用語はないので、学生かなんかだろうと思った。「金融緩和を起してもインフレ率だけが上がるだけで、国民は豊かにならない」くらいの意味なんだろうなあと解釈した。

しばらくすると、各党の平和と経済に関する採点表が送られてきた。経済の項目で合格点のついた政党はなく、民主党と共産党だけが空欄になっていた。多分、実体経済に直接働きかける政策を持つ政党がないのがお気に召さないのだろう。

ここで気になるのは、現在の政党が実体経済に直接働きかける政策を持っていないのに、どうして政界再編するとそうした政策が出てくるのかという問題だ。尋ねてみた。

するとまた意外な答えが返って来た。小泉・竹中路線がいけないというのだ。実体経済を無視し、資本経済に走ったことを責めていた。

この人は明らかに質問に答えることを避けている。つまり、どうしたら自分の考える理想の経済状態を作ることができるのかが分からないのだ。そこで、政党さえ組み替えれば、そうした状態が出てくると思っているのだろう。合理的に考えれば、政党が組み変わっても議員は同じなので、新しいアイディアが出てくる可能性はないことが分かる。例えていうならば、大吉が入っていないおみくじを引き続けるようなものだ。

そもそも経済政策理論についての理解がないようだ。リフレ政策は名目経済成長率をあげる政策だが、小泉・竹中路線は(少なくともこの人の考えに基づけば)資本経済に働きかけている。それぞれ対義語は実質経済成長率と実体経済だ。この2つ(実質と実質)がごっちゃになっているのだろう。

政府が直接働きかけて給与や需要を決定する経済を「計画経済」という。つまり、この人が指向しているのは多分共産主義だろう。だが、自分が共産主義者という自覚はないに違いない。日本では戦時中に革新官僚のもとで実施された戦時経済がそれに近い。野口悠紀雄は「1940年体制」と呼んでいる。

問題は、この人が何が分からないか分かっていないという点だ。にも関わらず豊富に情報が流れてくる(しかも新規情報探索には中毒性がある)ので情報に溺れてしまうのだろう。

もしこの手の人たちの目の前に「速効性のあり」「誰もが分かる」経済政策が出てきたらどうなるだろうか、と考えてみた。多分、多くの人がこうした政策に飛びつくに違いない。しかし、こうした「分かりやすい」政策はおそらく詐欺だし、国民を騙してでも政権につきたい政党は独裁政権に違いない。

気になってこの人のプロフィールを見たところ、学生ではなく経験豊富な経営コンサルタントということだった。たくさん本を読んでいそうな人でも、こういう考え方をするんだなあと考えた。そして、心底恐ろしくなった。

集団的自衛権 – アメリカは何を求めていたか

集団的自衛権の議論は分かりにくい。国内議論では元々のリクエストが隠蔽されているからだ。そこで、アメリカの要求を検討することで、本当は何が求められていたのかを考えてみたい。

アメリカのリクエスト

そもそも、これは陰謀ではない。例えば、アメリカのヘリテージ財団は、野田政権の末期に次のように書いている。(クリングナー論文

米国政府は長きにわたって、日本が自国の防衛により大きな役割を担うこと、さらに海外の安全保障についてもその軍事力・経済力に見合う責任を負担することを求めてきた。日本が防衛費支出を増大させ、集団的自衛権行使を可能にし、海外平和維持活動への部隊派遣に関する法規を緩和し、沖縄における米海兵隊航空基地代替施設の建設を推進することになるとすれば、米国にとって有益なことである。

その上で、日本の海外権益を守る為にシーレーン防衛を実行すること、自衛隊海外派遣隊が自力で自己防衛できる能力を備えるようにすること、日米韓で連携することなどを求めている。

ここからいくつかのことが分かる。第一にアメリカは「日本が集団的自衛権を行使できない」ということを認識している。故に、小川和久さんの主張にあったように「日米同盟は集団的自衛権の行使が前提である」という論は成り立たない。

次にアメリカは日本が防衛費支出を増大させることを期待している。これは安倍首相の主張とは異なっている。安倍さんは「納税者の負担は増えない」と言い切っているのだが、これはアメリカ政府のリクエストを満たさない。

さらに、アメリカは自衛隊を軍隊へ格上げして、日米同盟を日本防衛のスキームから海外でも活動できる軍事同盟に格上げすることを期待している。このためには憲法改正が必要であり、憲法改正には国民の理解が必要だ。そもそも、そのためには国民の意識変革が必要だろう。

アメリカのシナリオと誤算

このレポートは、日本に政策転換を促すために、中国の脅威を強調して民族意識を刺激しろと言っている。この戦略は当たった。

一方で誤算もある。中国の脅威やアメリカ政府のプレッシャーでは日本人の意識を変えられなかった。

日本は第二次世界大戦で海外権益を失ってしまったために、権益を防衛しようという意識を失った。さらに、自衛隊はアメリカ軍のサポートであるという意識があり、規模(世界第九位)の割に軍事的大国であるという自己認識がない。さらに70年前の戦争が大きな失敗体験になっていて、戦争に拒絶反応がある。

両国間にある「防衛観」の違いも大きかった。アメリカ人が考える防衛は「多国籍・積極的介入主義」だが日本人にとっての防衛は「一国・専守防衛主義」である。このため「集団的自衛権」と「個別的自衛権」が選べる場合「個別で対処すればいいのでは」という意識がある。

さらに、国民レベルで見ても防衛観は異なっている。アメリカ人にとって銃で武装することは自己防衛だ。市内にある危ない地域を車で通る時に銃を持ってでかけることもある。だが、銃武装が禁止されている日本人はそうは考えない。銃を持つということは人殺しが前提であり、それは防衛と呼ぶには過剰なのである。

安倍さんの失敗、ネトウヨの失敗

安保法制賛成派の立場から安倍政権の行ったことを評価してみよう。賛成派の最終目標はアメリカの主張を日本人に受け入れさせて実際に実行させることだ。

安倍晋三に期待されていたのは、リーダーとして日本人の意識改革をすることだった。中国の脅威を強調しつつ、民族意識を刺激し、大国としての自負心を植え付けることだ。

ところが、安倍晋三は「お友達」と呼ばれる価値観を同じくするもの同士でメッセージを共有するだけで、他者の意識を変革する努力を放棄した。そればかりか、立憲主義を無視して憲法に違反する法律を制定しようとしている。このため、安倍首相の行動は憲法クーデターだと呼ばれるようになった。

また、ネトウヨがやるべきだったのは、匿名のネット上で中国人や韓国人をバカにしたり、民主党をこき下ろすことではなかった。職場や友達などに「日本人は大国意識を持つべきだ」と主張し、実際に行動を変えることである。消費者であってはならず、生産者になるべきだったのだ。

アメリカの反応

衆議院の法案通過を受けて、ヘリテージ財団のブルース・クリングナー上級研究員は「変化は哀れな程小さい」と評価した(時事)。さらに、フォーリンポリシーは安倍首相の今回の行動を「憲法クーデターだ」と呼んでいる。過去の政策と整合性がないが、国民の支持も得られていないという含みがあるものと思われる。

アメリカ政府は明確なコメントを出していない。民主主義を擁護するという名目で他国に介入するアメリカとしては、非民主的なプロセスで送り出される軍隊を表立って賞賛することはできないのかもしれない。

矮小化された議論と自民党の限界

レポートの是非はともかく、ここから分かるのは、アメリカの保守派が日本政府と日本人に「多国籍・積極的介入主義」を受け入れさせたかったということだ。集団的自衛権の行使はそのためのツールに過ぎず、憲法改正ですら単なる途中経過なのである。

意識を変えるのは難しい。極端に言えば、主婦や学生に「銃を持って海外に行くことは、防衛である」と信じさせなければならないのだ。安倍政権のやろうとしたことは、戦後イデオロギーの大胆な転換だった。しかし、安倍政権は自民党をイデオロギー政党に変革することに失敗した。

自民党は戦後長い間「経済政党」だった。経済成長を実現しその果実を分配する装置として機能してきた。ところが、シーレーンを防衛しても新しく分配できる利益は増えないばかりか新たな負担を抱えてしまうことになる。故に、旧来のスキームで安保法制を国民に受け入れさせることはできなかったのである。