「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。

 

 

 

健全な日米同盟のためにはもはや有害な「識者」たち

オスプレイが墜落した事故を受けて、小川和久という「軍事の識者」の人が「ある論理」を展開している。オスプレイは、クラッシュではなく、ハードランディングだというのだ。小川さんの定義によれば、ハードランディングとはパイロットがコントロールした上でオスプレイを着陸させたという意味でクラッシュではないと言っている。故にクラッシュハードランディングはミューチュアリエクスクルーシブだということになる。

日本語で問題になったのは、不時着か墜落かということだった。だが実際には「墜落であり、もしパイロットの意思が働いていたとすれば、その墜落は不時着だった」ということになりそうで、あまり意味のな議論だ。まだ調査結果が出ていないのだから、不時着だったとは言えないがその可能性は排除されない。墜落という言葉に「コントロールがない」という含みがあるから避けたいのなら単に「落ちた」というべきだった。

この言葉を最初に使ったのは防衛省だったようでアメリカ軍の報告をそのまま引用したようである。あとになってあるテレビ局は「不時着後に大破」と言い換えていた。ちょっとした騒ぎになったので情報ソース(多分防衛省だろう)が言い換えたのではないか。

ご存知のようにその後さらなる炎上事件が起きた。四軍統合官という人がててきて「パイロットが陸地の被害を避けるために海に誘導した」と「机を叩きながら」まくしたてたのである。正式な調査は行われておらず、日本人は調査には加われないので、高官の予断どうりの発表がされることは明白だ。すると、反対派は「どうせ嘘に決まっている」と騒ぎ続けるだろう。

この四軍統合官の外交スキルのなさは呆れるばかりだが、もともと駐留沖縄軍は一度沖縄経営に失敗している。政治・外交スキルは期待できないのかもしれない。本土の私たちは忘れているが、沖縄の人たちはアメリカ軍政(つまり本当に植民地だった)を経験しており、これに激しく反発するであろうことは間違いがない。

さて、小川さんの問題に戻ろう。「あれは墜落ではなかった」と言いたい気持ちはわかるし、状況的にはパイロットが海に誘導した可能性は高い。パイロット個人の判断としてはむしろ「美談」と言っても良い。しかし、調査が出ていないことには変わりがなく「なぜ、小川さんがパイロットの意思を確認できたのか」ということがわからない。単に憶測で物を言っているか、アメリカ軍のいうことを鵜呑みにしているとしか考えられなくなる。生活のために植民地経営に加担する現地人みたいなもので、本人の正義感や糸とは裏腹に「愛国的観点から見ると裏切り者」ということになってしまうのだ。

さらに新しい用語を導入したことも混乱に拍車をかけかねない。ハードランディングという言葉を画像検索すと、タイヤが出さずに着陸して煙を吐いている飛行機の絵が大量に出てくる。英語ではあれがハードランディングなのだろう。日本語のwikipediaには項目があるものの、英語版にはないので一般的な用語でもなさそうだ。その他、金融・経営用語として使うようだ。経済が悪化するのを覚悟で金融政策を変えることも「ハードランディング」と呼ばれる。例えばハイパーインフレで政府が国債を償還できればそれはハードランディングだ。いずれにせよもともとは着陸形態を指す言葉で、墜落の対概念ではない。

新たな概念を持ち出すと、余計話がややこしくなる。識者は狭い自分たちの領域のことしか考えないので、これが「正しい」と主張する。そして、それに追随する人たちが出てくる。

なぜ、小川さんの発言は問題なのだろうか。それは、安保法制が成立する上で彼らが果たした役割が大きいからだ。いろいろな概念が持ち出され、挙げ句の果てには「集団的自衛」「自衛」「他衛」などの言葉が乱立し「自衛と集団的自衛はミューチュアリエクスクルーシブではなく重なるところが出てくる」などと言い出す人まで出てきた。自衛の中に一国で行う自衛と集団的自衛が含まれているので、どちらの意味で自衛を使っているとしても「一部が重なる」ということはない。

この弊害は大きかった。反対派は最後まで納得しなかったし今でも納得していない。何か事故が起これば彼らは再び騒ぎ出すだろう。さらにこの手の議論は「あれは危険ではない」と言い張る政府が考えることを放棄させる一因になった。南スーダンは内戦状態(エスニッククレンジングが始まっているという報道がある)なのだが、政府は今でも局地的な衝突に過ぎいないと言い張っている。結果的に現地の自衛隊は法整備が十分ではない中で戦うことになる。

そもそもオスプレイ墜落事故の背景には米軍のメンテナンスのまずさがありそうだが、加えて、現地軍の高官に外交と統治のスキルがないことが露呈している。それを言いくるめるために言葉を弄ぶのは、風邪をひいて熱が出ているのに「これは準高熱状態であるから病気ではない」などと言い張っているようなもので「早く薬を飲んで寝なさい」としか言いようがない。

健全な同盟を維持するための議論の素地を作るのが識者の役割であるべきなのだが、状況を混乱させるだけなら、むしろいなくなってくれた方がよいのではないか。

政治的な相互依存状態を確認するには

最初に政治的相互依存という概念に気がついたのは軍事アナリストの小川和久さんという人のツイートを見た時だった。ということで、偉大な洞察を与えてくださった小川さんには感謝したい。

さて、日本の防衛政策は行き詰っている。アメリカが国力を維持できず、アジア地域からの暫時撤退を希望しているからだ。安倍首相はアメリカをつなぎとめるために、憲法を無視した安保法案を成立させた。今でも南スーダンに行くのは現地の邦人保護ということになっているそうだが、実際には多国籍軍事活動への参加だ。

ここまで無理をしたのに潮流は変えられず、トランプ大統領時代にはこのトレンドはもっと顕著なものになりそうだ。安倍さんはアメリカにフリーライドして中国に対抗しようとしたわけだが、アメリカ人はその意欲を共有してはくれなかった。

安保法案が一部の国民のアレルギー的な反対にあっている時に小川さんがやったのは2つのことだった。「日本が独自で防衛するととんでもない出費になりますよ」といって国民を恫喝することと「実は日本はアメリカの大阪本社である」という仮想万能感を鼓舞することだ。

これはアメリカ人の実感とは異なっているだろう。第一に日本はキリスト教文化圏に属していないためにヨーロッパのようにアメリカのパートナーにはなりえない。次に沖縄はアメリカの利権であって、日本が協力して提供しているわけではない。最後に兵器の改良や長距離化が進んでいるので、無理をしてまで日本に基地をおく必要は無くなっている。

だからこの「大阪本社論」には小川さんを支持している人たちの気分を少しマシにするくらいの効果しかない。例えていえば朝鮮王朝は「朝鮮は小中華なのだ」と言っているのと同じことである。属国の中でも特別な属国なのだと言っているのだが、清が体調すると最終的には日本に占領されてしまった。

さらに「独自試算」は日米同盟をつなぎとめたい防衛省コミュニティから出てきているようだ。具合の悪いことに日本の軍事費はGDPの1%という低率であり諸外国からは「もっと出してもよいのでは」と言われかねない。現実的に「フリーライド」状態にあるものと考えられる。かといって、防衛省の言い値で軍事費を調達するととんでもない額になりそうだ。これは防衛省に調達能力がなく、防衛産業が寡占だからだろう。ある意味オリンピックに似ている。

考えてみればわかることだが、外国が3%程度の軍事費を使っているのに日本だけが10%などになるとは思えない。よっぽどの買い物下手ということになってしまう。かといって2%になっても、今の2倍のコストとイニシャルコストがかかる。日本は海が広域な上に軍事上の同盟関係を作ってこなかったのでヨーロッパのような集団防衛(もちろんこれは憲法改正が必要なのだが……)ができないのである。

つまり、日本の防衛政策はとても難しい判断を迫られている。

しかし、小川さんたちは新しいスキームを提供しようという努力をしない。その能力がないのだろう。着想はできるかもしれないが、政治的なリーダーシップは発揮し得ない。日米同盟に頼りきりになり、何も準備をしてこなかったからだ。

安倍首相も基本的人権の否定という政治的には無意味なキャンペーンには政治的リソースを使っているが、日米同盟後をどうするかということについては無関心だ。同盟関係の見直しは政権基盤を揺るがしかねないわけで、リスクを避けているのだろう。

代わりに彼らがやっていることは何だろうか。それは、軍事費などには興味がなく、単に「戦争のような汚いことには手を染めたくない」と言っている人たちが繰り出す無知な批判を「科学的な批判ではない」といって逆批判することだけである。不都合な現実には目を背けることができるし、馬鹿な左翼をいじっている時だけは優越感に浸ることができるからである。

つまり、彼らは相互依存状態にあるということになる。新しい提案をし得ない左翼が批判する人たちを必要としているのは明白だが、実は批判される人たちも左翼を必要としているのだ。

だが、自分が依存状態にいるかどうかということは自分ではよくわからないのではないだろうか。これを確かめるためにはなにかを作ってみるとよいのではないかと思う。何かと忙しくなるので、ぴったりと張り付いて批判者を見つけるのに時間を使うのがバカバカしくなる。

つまりは、相互依存は実は不安の裏返しだったということがわかるのである。「建設的な議論をしろ」とは思わないのだが、結局一人ひとりの意識が変わることによってしか状況は動かせない。

と、同時に何かを作るためにはリソースが必要だ。相互依存的な批判合戦と炎上が蔓延するのは、実は創造的な活動に使う時間やお金といった資源が不足しているということなのだろう。

他人の遺書を捻じ曲げて自分の主張を正当化しようとしていると言われた

瀬戸内寂聴さんが「殺したがるばか者」という発言を謝罪した件をご記憶だろうか。今回、自分宛に届いたコメントを読んでそんなことを思い出した。

瀬戸内さんの政治的主張は置いておいて、死刑が「いけない」のは仏教的に<間違っている>からである。家族が殺されたときにそれに報復感情を持つのは当たり前のことなのだが、これは新たな因果を生む。そして因果は苦しみを招く。殺すことが罪なのではない。殺したがる感情そのもの苦なのである。

瀬戸内さんはそのことを朝日新聞の謝罪文の文末にほのめかすように書いてあるが、本当のところは瀬戸内さんにしかわからないのだし、そもそもこの件で「こだわり」を持つことをやめたのだろう。他人が代わって憶測することには意味がない。

前に書いたエントリーについてコメントをもらった。題材は中学校の生徒が自殺した問題だ。なぜこの子は死んだのだろうということを考えていて「正しい」とか「正しくない」というのは人を殺しかねないのだなと思った記憶がある。

これはちょっとショックだった。文章は読みようによっては「自殺した生徒にも落ち度があったのでは」というような内容になっている。故に「いじめた側は悪くない」というように取れるわけである。だが、実際に言いたかったことは「そもそも誰が正しい」ということが軋轢を生むということである。

この事件はすでに「正しい」「正しくない」というような波紋を作りつつある。いじめた生徒が悪いから探し出して晒せという声もある。逆に自殺した生徒の名前を探索する人も大勢現れた。家族は「単に匿名のいじめの被害者」ではなく、唯一の輝く命を持っていた存在としての娘を社会に認知させたかったようである。

コメントには「遺書にない「わざわざ」という言葉を加えることで、自分の考えた主張に誘導しようとしていると書かれていた。つまり「正しいか・正しくないかを追求することは苦しみにつながる」という文章を書いているのに、ある特定の人に味方する<主張>になっていると考える人がいたということだ。そういう意図はないと言うことはできるが、受け手にとっては理解した内容が真実なのだ。

その人はそれに腹を立て抗議のコメントを送るに至った。そしてそれを読んだ人(つまり私)は意図したのと違う<間違った>解釈をされたと腹を立てたのである。つまりは青森県で起きたいじめが新しい苦を生み出していることになる。これが因果が持っている力なのだ。

これは他人を傷つけかねない。この境目はどこにあるのだろうかと考えたのだが、結局のところ、前に考えたように外に向かうのか、内に向かうのかの違いだということになった。つまり、どちらかを罰する方向に向かえば、それは新たな因果を生み出していることになる。逆に私にとってこの事件が何を意味しているのかということを考えることは、そうした因果を超えてゆくための一つのプロセスになるだろう。

「正解は苦を生み出すのではないか」というようなことを書いておきながら、やはり正しく理解されなかったと考えてしまうことから、自分が正解にとらわれていることはわかる。これが苦を生み出しているわけで、そこから一人で抜けるのは難しい。であれば一緒にそこから抜け出す道を見つけようという意識が生まれたときに、そこに何らかの意味が生じるのだろう。

と同時に書いただけではそのことに気が付くことはできない。やはり外からのレスポンスというものがあって始めて気が付くわけだ。まったく同じ単語の羅列でもまったく違った結論が得られる。苦しみが苦しみを再生産することもあるし、それを打ち消す力にもなりえるのだ。

仏教の用語はよくわからないが、これを功徳というのかもしれない。苦しみから逃れるという作業はきわめて個人的なものなのだが、それを助け合えるという点につながりが持つ意味があるように思える。

というより、単にそう思いたいのだけなのかもしれないのだが。

あんたが前に書いたブログを削除しろという要請が来た

いきなりTwitterのダイレクトメッセージで「記事を削除しろ」と言われた。削除しろといわれた記事はこちら。まあ、書いていればいろいろあるだろうなあとは思ったのだが、いきなり削除しろといわれると「何言ってるんだアンタ」という気にはなる。

まず「評価したブログを削除しろ」と来た。書いたブログは削除できるが評価したブログは削除できない。そこで?となった。そもそもどのブログ記事なのか書いていなかったので、何をやっていいのかすらわからない。

理由は「自分が嫌がらせを受けているから」なのだという。なぜ、他人が嫌がらせを受けたら自分が記事を削除しなければならないのだろうか。

そこで問いただしてみたところ、記事は特定されたのだが、その理由付けは「上西議員について言及したところ嫌がらせを受けるようになった」と書いてあった。その話は前に聞いたと思ったのだが、それも記事を削除する理由にはならない。そこで理由を聞いたところ「片方では感じがよくない」という。意味がまったく通らない。「一方的で感じ悪い」という意味なのかなあと類推したのだが、それでもよくわからない。インプットがあれば対話式にしたりすることはできる。

続けて「この前提示したURL(これは2ちゃんねるなのだが)に誹謗中傷を書き込まれている」というメッセージがきた。「この前」というのは8月のことだ。大体このあたりでなんとなく意思疎通ができない理由はわかった。

第一にこの人は「なぜ」と「だから」という言葉の使い方を理解していないようだ。次に自分の頭の中にある知識を相手がそのまま持っているという思い込みがあるのだろう。

一方、こちら側が期待するのは次のような文章だ。

私は~であり、あなたの書いた文章は~である。それが[具体的な問題]を引き起こしているから[特定の対応]をして欲しい。

最終的にかなり汚い言葉で「怒っている」と伝えたところ、前回の記事で「相手をほめるような部分もありそれが苦痛だった」と書いてきた。どちらかというと双方のやり取りに呆れているのだが、自分に味方してくれない=敵を評価しているという理解になっているらしい。

別のところで考えてもよいのだが、どうやらコミュニケーションに問題があっても、党派対立には鋭い感性を示す場合が多い。これがネットが炎上する直接の原因になっているものと思われる。だが、この心情がよくわからない。問題があった場合、どちらか一方が悪いということはありえないと思うからだ。

これがこの人特有の問題なのかという点はよくわからない。割と日本人一般に見られる問題なのかもしれないと思う。日本人のコミュニケーションは経験を共有していることが前提になっているので、ネット越しで会ったこともない「他者」との会話ができない。そもそも「~だから~である」という形式で説明することに慣れていない。

そこで突然「わかってくれない」と怒りだすことがあるのだが、これが「こどもっぽい」という評価にはつながらないことも多い。意外と偉い人が「説明責任」という概念を理解できない場合もある。「わかってくれない」ことは受け手側の罪になってしまうのだ。そして周りの人たちは「騒ぎが起きた」ことを問題にする。

説明をするという基礎技術が身につかないので、さまざまな議論は「敵味方」という極端な構図になりがちだ。最近では、憲法改正を唄っていた民進党が護憲派ということになり、TPPは日本を滅ぼすといっていた稲田朋美(現大臣)がTPPを推進するというようなことが起きている。立場と文脈に従って議論のプロセスも結論もすべて変わってしまう。当然、これを前提にしたTwitterの議論も人格攻撃に終止することになる。何の問題を解決したかったのかということはあまり省みられていないようだ。

冷静に考えてみて、当該のエントリーを削除しても何の影響もないなあとは思った。誰も読んでいないからだ。読み直してみたところ、特定のTweetが引用されていたのでそれは削除した。世間に迷惑をかけているとしたら、推敲されておらず文章がめちゃくちゃだったことだろう。例示のために出した文章から話が流れてしまっている。

一応、このブログのテーマは「なぜ伝わらないのか」というものなのでプロセスは残したい。なんとなく「文脈を共有しないことが問題」というアタリはあるものの具体的な問題が何なのかよくわからない。

「忙しいから後で書く」ということなのだが、書いても因果関係がよく把握できない文章が来るんじゃないかなあという気はする。相手はスマホで書いているようなのだが、まとまった文章を書くのには向いていないのでないだろうか。そもそも朝の忙しいときに「あの文章を削除してもらおう」と思ったことになる。

今回の出来事で、長い文章を書いたところで相手に論理的構成が伝わっているとは限らないんだなあという感想を持った。そうした人たちは文章というものをどのように理解しており、どれくらいの読み手がそうなのかというのはとても気になるところだ。

書くことは癒しなのか凶器なのか

先日来、書くということについて幾つかの記事を読んだり情報に接したりした。一つ目の記事はタイトルだけだが「日本人はレールを外れるとブロガーくらいしか希望がなくなる」というもの。次はヘイト発言を繰り返す池田信夫氏のツイートや、透析患者は自己責任だから死んでしまえという長谷川豊氏などの自称識者たちの暴力的な発言だ。

これらを考え合わせると、これからの日本では、経済的自由を得るためには他人を貶めたり権利を奪ったりしなければならないという結論が得られる。

確かに、他人を傷つける記事には人気がある。タイトルだけでも他人を攻撃するようなものをつけるとページビューが数倍違うことがある。しかも、検索エンジン経由閲覧している人が多い。そのような用語で<情報>を探し回っている人が多いということになる。ニュースサイトをクリックするわけではなく、わざわざ探しているのだ。それだけストレスが多いのだろう。

一方で別の書く作業も目にした。乳がんで闘病中の小林麻央さんが自身のブログを開設したのだ。病状はあまりおもわしくないようで、本人もそのことを知っている。これは、小林さんががん患者であるということを受け入れたということを意味しているのだろう。日常生活が中断されて茫然自失の時間があり、ようやく現状を受け入れようとしているのだ。書くことがセラピーになっているということもあると思うのだが、再び「書き出す」ということが重要なのだろう。人間には誰にでも回復しようとする力が備わっている。そうやすやすと「完璧な絶望」の中に沈むことはできない。

二つの「書く」という作業にはどのような違いがあるのだろうか。

第一に、池田さんや長谷川さんの意識は外に向いている。一方で内側には不調は起こりえないという暗黙の前提がある。池田さんは自らが「純血の」日本人だという意識があり、その外側にいる人たちを攻撃している。また、長谷川さんは自らは節制していて、絶対に糖尿病にはかからず、従って透析の世話にはならないと考えている。こうしたことを考えているうちは自らの中にある不調を考えなくても済む。

テレビは常にネタを探している。ネタは、オリンピック選手などの活躍をもてはやすか、他人を貶めることしかない。職業的に書いている人たちはこのうち貶めるべき他人を探すかかりというわけだ。うまく盛り上がったネタ(平たく言えばいじめなのだが)があれば製作会社が仕入れてテレビに売り込む。

他人の不幸をネタにすればいくらでも稼げそうだが、実際には自分の信用度を担保にしている。なんらかの問題解決に役立てば何倍にもなって帰ってくるかもしれないが、逆に自分の信頼を失うこともある。そのうち「騒ぎを作ろうとしているのだな」と考えられるようになれば、その人はテレビ局から見ればもう用済みだ。

もともと識者たちは専門分野から解決策を提示したり、多様な意見を出してコミュニティに資することがその役割のはずだ。皮肉なことに今回挙げた二人はどちらもテレビの出身だ。テレビ局には報道が問題解決などできるはずはないという強い信念ががあるのだろう。また、自分たちはいい給料をもらいながら、他人の不幸を取り上げても、決して自分たちの元には不調は訪れないし、あの人たちは自己責任なのだという間違った確信があるのかもしれない。

一方、小林さんは自らに向き合わざるをえない時間があり、その結果を書いている。つまり、その意識は内側に向いている。どうにもならないという焦燥感がある一方で、それでも生きていて、子供を愛おしいとかごはんがおいしいと思ったり、「また情報発信したい」と思えるということを学んだにちがいない。どうしようもない絶望があったとしても、人は少しづつ回復するし、何もしないで生きてゆくということはできないものなのだ。生活の自由度が狭まっても書くことはできるわけで、書きたいというのは、新しく歩み始めるための最初の一歩になり得るのである。

「書く」ということは、毒にもなれば、薬にもなる。正しく使えば癒しを得られるし、見知らぬ他人の助けになるかもしれない。一方で、自分の評判を削りながら陥れる他人を探し続けるという人生もあり得る。

人々が失敗を認めなくなったわけ

内田樹という人が「人々が失敗を認めなくなったわけ」について考察している。すこし違和感を持った。

この「鬼の首を」というのは、現象であって原因ではない。故にこれを責めても問題は解決しない。

一つひとつ紐解いてみよう。順をおって考えると意外と簡単だ。

最初に感じる違和感はこれを日本人論にしているところだ。しかし、謝らない社会はどこにでもある。20年前にはアメリカに行ったら自分の間違いを認めてはいけないと言われた。これは日本が甘え型の社会だったからだ。「すみません」というのは単なるあいさつであって謝罪の意味はなかった。どちらかというと軋轢をつくらないために「私の方が間違っているかもしれませんが」と言っていたわけである。受ける方も「そうだ、お前は間違っている」などとは言わなかった。これが甘え型社会だ。

このようなことができたのは人々の地位が安定していからだ。ところが、バブルが崩壊してから人々の認識が変わった。社会が椅子取りゲーム化した。くじ引きでもして誰かを引きずりおろさないと全員は生き残れないという(あるいは間違った)認識が蔓延したのだ。こういう社会ではちょっとした間違いが生死に関わるので誰も間違いを認められなくなる。

日本社会はお互いに「間違い」を作らずに許しあってきた。そのために間違いから学ぼうという習慣も根付かなかった。さらに厄介なことに暗黙知を形式化しようという習慣もなかった。長い時間をかけて黙って通じるまで経験を共有することが前提になっている。

間違いを決して認めないはずのアメリカ社会で間違いが許容されるのは「その間違いには理由があるかもしれない」と考えるからだ。間違いを形式化して問題点を抽出するのだ。ところが日本は急激にサバイバル型に変質したために、間違いは学習の機会だという認識が根付かなかった。そのため「ワンアウト退場」という極端な社会が作られた。

さらに人件費の削減もこの傾向に拍車をかけた。

間違いを見つけて修正するという作業は知的に負荷がかかる。すくなくとも余力がないとできない作業だ。この知的な余力は金銭的な理由から省かれるようになった。例えばマクドナルドのアルバイトはオペーレションの間違いを自ら修正することは要求されるが、全体を最適化したり、人気のないメニューを修正したりする知的能力は要求されない。最初の社会は間違いを認めない社会だったのだが、現在では自分が間違っているかすらわからない社会になった。

この「ワンアウト退場型」の社会にはさまざまな弊害がある。人々は分かることだけをやり、その他のことをカッコで括って外部化するようになった。だから、自分の専門外のことに関しては恐ろしく無関心だ。そのためシステムが暴走を始めても誰も気に留めないし、理解しようともしない。ただ、この現象も珍しくはなく、2003年にはすでに『バカの壁』が書かれている。

社会や組織が学習できなくなると、すべてのシステムを外から力づくでとめるしか方法がなくなる。Twitterが発達して暴力的なブレーキとして働くようになったのはつい最近のことだ。人々は、ワンアウト退場型でどうエラーを修正方法するかについて学んだのだ。

アメリカは違ったやり方をしている。トップの首を定期的にすげ替えるのだ。日本は流動性が低い社会なので「退場」したらやり直しはできない。だから間違いを認めることは決してできない。

それでも日本社会が崩壊しないのは、とりあえずうまくいっているやり方だけを踏襲してゆけばなんとかやっていけるからである。学びの機会を失ってしまったので成長することはないが、崩壊もしないのである。

鬼の首を取ったように他人の間違いをあげつらうのは、それが唯一のエラー修正策だからである。社会にあったエラー修正策を見つけない限りその状態は続くだろう。できれば、社会全体が成長してゆくほうが良いのだが、エラーを認めないと成長ができない。

そのためには一人ひとりにの認識を変えるしかない。

 

教育コミュニティと社会的報酬

最近、中古のMacintoshを手に入れた。最新OSが乗る物を1つは置いておきたかったのだ。セットアップすると分からないことが多く、いろいろなディスカッションボードで質問をすることになる。そこで「コミュニティと社会的報酬」についていろいろ考えた。

Appleのディスカッションボードはかなり紳士的だ。実名・匿名が入り交じっているのだが、回答者の知識は豊富で実践的な提案もある。最近はiPhoneユーザーが増えて「シロウトっぽい」質問も多いのだが、それにもできるだけ丁寧に答えている。

Appleのディスカッションボードが荒れないのは、ランク分けによる社会的報酬が与えられているからである。回答がよいと「役に立った」とか「問題が解決した」という評価が与えられ、バッジが上昇する。また、ランクが上がるとリアルのイベントに招待される仕組みもあるようだ。このリアルとつながっているというのはとても重要らしい。

一方で荒れているコミュニティもある。Yahoo!知恵袋で「デジカメ一眼レフのおすすめ機種を教えて」などと言えば「素人は何を買っても同じ」とか「自分が撮るべき写真がわかってから質問しろ」などという辛辣な回答が並ぶ。いわゆる「自己責任論」も横行している。上から目線でデタラメな回答(本人は正しいつもりなのだと思うが)を羅列する人も多いし、自分が知らないことを隠蔽するために自己責任論をひりかざす人もいる。「あなたがトラブルに巻き込まれたのは、あなたの不注意のせいだ」と言い、質問には直接答えないのだ。

荒れるコミュニティにはいくつかの要素が絡まっていそうだ。第一に「知識を持っている人は偉い」という序列意識がありそうだが、それだけは全てを説明できない。もし「くだらない質問だ」と思うなら答えなければいいだけなのに、なぜわざわざ長い時間をかけて他人を罵倒するのだろうかという点には疑問が残るのだ。

素人の質問に不快な思いをしているのだろうと思われるのだが、ではなぜ「不快な気持ち」にさせられるのだろうか。

多分、書いている本人が何らかの不満を抱えているのではないかと思われる。自分はこんなに知識があるのに、なぜ他人は理解してくれないのかという気持ちだ。それを他人にぶつけているのだろう。結局のところ「社会的報酬が得られない(平たい言葉でいうと評価されていない)」という不満を他人にぶつけているのではないかと考えられる。

こうした情景はYahoo!知恵袋だけでなく、様々なコミュニィで見られる。放置されていて社会的報酬が与えられないと、不確実な知識が増え、自己責任論が横行し、言葉遣いが荒くなる。ディスカッションボードはまだ「ソリューションオリエンテッド」だが2ちゃんねるはさらに荒れていてほとんど妄想に近いような解決策が話し合われている。

リアルでもこうしたことは珍しくない。現場が顧みられず、知識が評価されない企業でも似たようなことを目にする。たいていは教育に問題が起こっており、知識伝達が機能しない。一方で知識に対して社会的報酬があると知的満足が充足し、事故解決能力の高い組織が作られる。

本来ならボランティアワークで奉仕の精神が求められるはずの教育なのだが、実際には人は社会的報酬なしでは紳士的に行動できない。そこで費用を出してでも社会的評価をする必要があるのだ。

個人が炎上したら……

先日来「一般人同士が議論することは難しい」ということについて考えている。これについて考えるようになったにはあるTwitterの@ツイートがきっかけだ。どうやら「言葉の使い方が間違っている」という指摘をされた人が逆上し、ことあるごとに指摘した人につっかかるようになったということらしい。その突っかかり方は尋常ではなく、2ちゃんねる(もしくはそれに似た掲示板)では職業が特定された上で「障碍者枠で採用された知的障害者」ということになっていた。攻撃されたTwitterアカウントは実名で、攻撃した人のアカウントは凍結されていた。

Twitterで他人と話すときには街で話すのと同じようにしたほうがよいとは思う。街で通りすがりの人に「あなた間違っている」というようなことは言わない。かといって通りすがりの人と会話を交わしていると仲良くなったりもするわけだから、そうやって関係をつめてゆくのがよさそうだ。

しかし、だからといって炎上が防げるわけではない。その2ちゃんねるはもともと反政府系の主張をする人をこき下ろす場だったのだが、それが拡大して対象になった有名人に絡んだ人たちを巻き込んでいったらしい。2ちゃんねるは一般に認知されるわけではない。吹きだまり化が進展し、発言がどんどん過激になり、最終的には妄想に似た決めつけになっている。こうした書き込みでは社会的報酬は得られないので、書き込みがどんどんと過激化するのだろう。多分社会的報酬が得られないことにも腹を立てているのではないか。

一般人が「住所や職業などを特定される」と生活の脅威を感じかねない。刑事事件として取り上げてもらうようにスクリーンショットを取って警察に訴えるという手があるらしいのだが、警察は特定の要件が整わないと取り合ってくれないそうだ。例えば「あいつは殺人犯だ」とか「あいつを殺してやる」などといった書き込みであれば警察は動くが「女とみれば見境なしだ」などといった程度では事件化できないのだという。親告罪なので告訴する意思が必要である。

警察が取り上げてくれないと民事事件にして弁護士に頼むという手があるようなのだ。これには数十万円の費用がかかる。いくつか弁護士事務所のページを見つけたので、お金を払ってでもやめさせたいという人が多いのかもしれない。それだけ中傷が多いということである。有名人や企業の場合、書き込みは商品価値に直結するので、お金を出してでもやめさせるということになる。ただしIPの開示請求に応じる必要はなく、技術的には「ログが削除された」と言われればそこでストップだ。

となると「悪口を言われる実害は何だろうか」と考えるのが一つの手かもしれない。2ちゃんねるは社会的な影響力のない中高年の集まりなので、実害は少ない物と思われる。言葉は過激かもしれないが、行動に出る人は少ないのだ。ただし、その書き込みをみて誰かが襲撃をかけてきたり、あるいは悪い風評で経済的な実害が出れば、それは犯罪行為ということになる。それまでは放置するべきなのかもしれない。逆に普段から「書き込みを監視すべきだ」という意見を持ちたくなるが、却って政府の監視が強まる結果になるだろう。

最近では大分県で野党系の事務所の敷地に無断で監視カメラを設置したとして警察官が書類送検された。大分は民進党や社民党が強い地域なので、警察が暴走したものと思われる。多分、ネットの監視ができるようになれば違法なアクセスは増えるのではないだろうか。

2ちゃんねる(あるいはそれに類する掲示板)に書き込んでいるのは、多分40歳代から50歳代の人たちだろう。中身の傾向を分析しようかなあと思った。一応データマイニングみたいなことはできるわけだが、読んでいてあまりにも気分が悪くなったので途中までしか読めなかった。普段の生活で理路整然と考える習慣がないまま大人になるとこんなにもグロテスクな思想を溜め込むのかという意味ではかなりの驚きがある。

少なくとも高校の過程で、自分の考えを短い文章で述べさせるという教育をしたほうがよいと思う。現在は体制側がこうした人たちを抱き込んでいるのだが、多分過激思想にも簡単にはまってしまうだろう。まさか「国語教育は国の安全保障に直結する」などという結論に至るとは思っていなかった。

東浩紀さんの思い出と日本の言論界

さきほどのエントリーで「日本人が発言すること」について考えた。一般人は発言するべきではないという認識があり、意思決定に関わる発言は特権と考えられるのではないかというのが結論だ。しかし、日本が脱開発途上国化する上で、一般人が自分の意見を形成するのは大切だと思う。モデルのない先進世界には正解はなく、模索が必要とされるからだ。しかし、意見形成するために考えをまとめるのはなかなか難しい。

これについて考えていて東浩紀さんの名前を思い出した。過去に投瓶通信という記事を書いたことがあるのだが、Twitterでご本人から「くだらない」という呟きを頂いた。それにつれてページビューが伸びた。たくさんのフォロワーがいるのだろう。なぜくだらないと言われたのかはよくわからない。

「投瓶通信」は浅田彰さんというバブル期に流行った方について述べている。浅田さんと言えば、学生時代に流行した(多分ちょっと前に流行していた)「ニューアカ」の騎手だが、全く読んだことはなかった。その界隈の人たちを怒らせる内容を含んでいるのかもしれないが、読んだことがないのでよく分からない。ただ、大人になっても「デリダ」や「吉本隆明」などを引き合いに出す人は結構いたので、当時流行っていたのは間違いないだろう。

東さんの呟きにはいっさい理由付けがなかった。ただ「素人は黙っていろ」という上からの呟きだった。当時Twitterは今ほど流行っていなかったので、多分ソーシャルメディアでシロウトがうかうかと論評するというのが耐えられなかったのではないかと思った。論評というのは限られた人たちができる特権だという意識は一般庶民だけではなく言論人の間にもあるのだろうと思う。

言論マスターにならないと意見を発表できないのだが、他人の目に触れないで、なぜマスターになれるのだろうか。よく分からない。

日本の言論界は長い間意思決定からは排除されていた。意思決定は言論ではなく複雑なグループダイナミズムで決められ、「そのコンテクストにいる」ということが重要だったからだ。そこで言論界は「プロレス」的な状況に活路を見いだした。

子供の時代に北杜夫、遠藤周作、筒井康隆などを読んだが、そこには文壇バー(銀座にあるらしい)の様子が書かれている。「野坂昭如が暴れている場所」みたいな感じだ。私小説を脱却した日本の出版界では、文壇バーで夜な夜な作家同士が殴り合うことでコンテンツを作っていた。野坂昭如がテレビカメラの前で大島渚監督を殴る(あるいは逆だったかもしれない)というのがニュースになったりした。

北杜夫のように躁鬱病を煩っている人がその様子を面白おかしく書いたりする読み物もあった。最近相模原で障害者施設が教われる事件があったが、政治家に手紙を書いて主張を伝えたりするのは北杜夫の本を読んでいるようだった。あれで「ピンと来た」人も多かったのではないかと思う。後の分析で津久井の容疑者も「双極性障害なのではないか」という見立てをする人が表れたりしている。北杜夫はマンボウ・マブゼ共和国を設立し、借金して家族を困らせていた。そのように日常生活に収まらない騒ぎを起こすことが作家として重要な資質だと思われていたわけである。

これをテレビ的に仕立てたのが田原総一郎だ。言論空間で殴り合いをやらせたのが「朝まで生テレビ!」である。この後の世代に「ケンカをしかけて見せる」行為が言論なのだという印象を与えることになったのではないかと思う。

ショーマンはけんかしてなんぼという姿勢は今でも残っている。SMAPは解散騒動についてケンカしろという人がいるが、これも「言葉は嘘をつけるがケンカには嘘がない」という認識があるからだろう。ただし、ケンカは感情を発散させる効果はあるが、問題解決には役に立たない。

「朝まで生テレビ!」が残した悪いレガシーは、言論が合意を形成し、問題解決のためには時には妥協するという文化を阻害した点にあると思う。ここから出て来た政治家が「TVタックル」などで自民党を叩いたことが民主党躍進の原動力になった。「コンクリートから人へ」というスローガンが破綻することは最初から分かっていた。藤井元財務大臣が「財源が出なければ謝れば良い」と言っていたことからも明らかだろう。

「相手をなぐって聴衆の耳目を集める」というのは日本の言論界の習い性になっていると考えないと東さんが全く無名である人のブログに背景についての説明を省いたまま「くだらない」などというコメントを寄せる理由が分からない。

前回のエントリーでは「先生と生徒型」の言論空間ができると、生徒に属する人たちが意見表明ができず、合意形成が成り立たないという予測を立てた。これが人民裁判的な状況を生み出している。まとまった意見が形成できないから、さらに乱暴な形で発散されるのだ。さらに「一般人は黙っておけ」という圧力が働くことも予想される。「仕事でくたくたになって帰ってきた人が、堂々と意見を述べる他人」を疎ましく思うという姿勢だ。

一方でそのような空気を抜け出した人の中にも特権意識があったようだ。Twitterが普及した現在ではこういう特権意識はなくなったように見えるが「プロによる論評のみを載せた」とか「識者だけを集めた」というネット言論空間が生きている。なんとなく、江戸時代の水利関係や共有地を巡る論争が未だに生きているのではないかと感じられる。しかし、よく見てみると紙媒体やテレビから排除された人だったり、政治の意思決定から離脱した人だったりする。なかなか屈折した思いがあるのかもしれない。そういう人たちは「上」を叩きつつ、後続が出ないように「下」も排除するのだ。