Sketch Upで部屋の居心地をシミュレーションする

Sketch Upで部屋の模型を作った。手順を踏むと意外と簡単にできる。

枠組みを作る

まず、壁と窓を作った。本当はパンチングするとよいのだろうが窓を寸法通りに配置する方法がわからなかったので、壁を四角に分割して窓を当てはめた。ということで壁に変な線が入っている。枠線を取り除いてからグルーピングするという方法があるらしい。

家具を配置する

家具の寸法をかたっぱしから測って模型を作る。IKEAの家具は3Dデータが揃っているが、無印良品も少しだけ3Dデータが見つかることがある。基本的にユニットシェルフばかりを使っているので作業としては楽だった。

調度品を置く

Appleのパソコンなどは3Dデータがある。植物もデータを作っている人がいるので、植木鉢だけ再現した。別ファイルを作って、そこで作業して部屋に持ち込むのが一番簡単だった。

あとは100均で買ったボックスなどを入れて行く。本なんかもシミュレーションするとよいのだろうが、まあそこまでしなくても大体の雰囲気はわかる。

日当たり

日当たりをシミュレーションすることができた。北を設定するプラグインがあるので、これを導入して北を指定して、影をつけて行く。
近づくとこういう感じ。描画に時間がかかるが影が描かれている。

影設定というウィンドウがあり、左上端にあるボックスをクリックすると影がつく。季節や時間ごとの調整も可能だ。

なぜ安倍政権で忖度が横行するのかを探るヒント

こども保険のニュースが断続的に出ている。そこで記事を読んでいて時事通信の記事に面白い記述を見つけた。

下村氏らが動きだしたのは、日本維新の会が改憲項目の一つに教育無償化を掲げ、首相が前向きな姿勢を示したのがきっかけ。

記事は、小泉進次郎議員が仲間と取りまとめたアイディアの賛同者を集めるために、下村さんたちにピッチに行ったという内容なのだが、面白いのは「忖度の現場」がさらっと書かれているということだ。気がつかない人も多いのではないかと思えるほどさりげなく描写されている。時事通信のようなオールドメディアの人たちにとっては当たり前のことなのだろう。

だが、この現場を捉えることで、忖度と言われている現象が何であって、何が問題なのかということが分析できると思う。

記事によると下村さんたちは教育国債を押しているようだ。これは負担増が選挙に悪影響を与えることを下村さんらが知っているからだろう。自民党は国民を説得して態度を変えさせるのが苦手で代わりに水面下で物事を自分たちの有利なように運びたがる文脈限定型の意思決定を行っている。だから、負担増につながる保険は政治的な壁が高い。一方で安倍首相は明確な指示を与えないままで「教育の無償化いいんじゃないか」と仄めかしたという状態になっている。

ここから下村議員たちは「提案」を行うのだが、すでに二つの要望が織り込まれている。それは「国民は負担を嫌がる」ということと「安倍首相には気に入られるような提案にしたい」というものである。さらに「民進党の提案を潰したい」という思惑もあるだろう。ポイントになるのは安倍首相は方針を明確に示していないということだ。つまり、本当に教育を無償化したいのか、それとも維新の会のご機嫌をとっただけなのかわからないのである。だから下村議員たちはそれを「想像で補っている」のである。

うまくいっている限りにおいてはこの関係はすべてのメンバーを満足させる。下にいる人たちは自分たちが組織を動かしているという有能感に浸れるし、上にいる人たちは自分に気にいる提案ばかりが持ち出されるから上機嫌で決済することができる。相互依存(甘え)がうまく成り立っている状態だ。

一部で忖度は「指示がない命令だ」というような言説が出回っているのだが、日本の場合には相互のあやし合いという側面があり、必ずしも「命令」だという意識はないのではないかと考えらえれる。

もし安倍首相が自分のプロジェクトを強引に進めたいタイプであればこうした「自分が組織を動かしていると思いたい」人々の機嫌を損ねることになりかねない。安倍首相は自分たちの周りをイエスマンだけで固めているので大きな混乱が生じている。例えば稲田防衛大臣のような無能な政治家が安倍首相の周辺が描いためちゃくちゃな振り付けにしたがって安保法というダンスを踊るとするととんでもないことになる。だが、その周りにはもう少し曖昧な人たちがいて、それなりの調整機能が働いている。だが、その関係は極めて曖昧であり「読み間違い」や「誤動作」を起こしかねない。

誤動作の一つは、愛国を唄う支持者たちが虐待まがいの教育者で、詐欺まがいの行為を役人に強要していたという例に端的に現れている。安倍首相は慌てて関係を切ったのだが、大炎上してしまった。また妻もコントロールできないので遊ばせていたところ、実はとんでもないプロジェクトに首を突っ込んでいた。公私の境が曖昧で自分の理想のためには手段を選ばず、善悪の判断もつかない。公務員を選挙に稼働したと騒ぎになっている。

「一事が万事」というが、実は下村議員もマネジメント能力には問題がありそうだ。小池都知事と東京都連の問題を解決できておらず、公明党との関係にひびを入れている。小池都知事は自民党をやめたと言っているが「誰も離党届を受け取っていない」という状態になっている。混乱は極めて深刻で「出て行けるもんなら出て行ったらいい」と記者の前で口走る国会議員さえ出ているそうだ。無能なマネージャーが組織を掌握できないと問題が出てくるわけで、却ってボスのご機嫌をとる必要が出てくる。これがさらに組織がガタガタにさせるのだ。

つまり、仄めかしに近い漠然とした指示を出す弱いリーダーと猟官を狙い身勝手なダンスを踊りたがる官僚的な組織があるところには、今日本で言われている「忖度」が横行することになる。しかしそれは「忖度」に問題があるわけではなく、組織のグリップが取れなくなっているところを「非公式なコミュニケーション」で補っているところに問題がある。だから「指示した・指示していない」とか「言った・言わない」が問題になり、なおかつ誰も責任を取らないということが起こるのだ。

これに加えて、痛みを伴うような改革ができない点にも問題がある。小泉議員らの提案は国民の負担増を求めるので、当然政府与党も引き締めを図り有権者・納税者を納得させる必要がある。しかし国民は冷めた目で政治を見ており「負担が増えないなら少々めちゃくちゃでも放置しておこう」と考えているのではないかと考えられる。そもそも厳しい意思決定はできない。また、組織は「自分たちの好き勝手にさせてくれるから」という理由で曖昧な指示しかしないトップを担いでいるのだから、組織はなりゆきのままで漂流することが予想される。

つまり、安倍首相が危険なのは彼が戦争ができる国づくりを目指しているからではなく、政府が無管理状態になった挙句、問題が次から次へと出てきて何も決められなくなってしまう可能性が高いということなのだ。すでに「言った言わない」が面白おかしくワイドショーネタになるような状態が続いている。日本は重要な局面で意思決定ができずさらに漂流するかもしれない。

 

東京都で魚の生食を禁止する条例ができるらしい

このほどの当ブログの独自取材で、東京都が魚の生食を全面禁止することがわかった。食の近代化を目指し、オリンピックにふさわしい国際都市の実現を目指す。

ことの発端は猪瀬直樹前都知事の「築地市場が人気なのはワイルドで野蛮なアジア趣味を覗き見にきている外国人が多いからだ」という趣旨のTwiterの指摘だ。猪瀬直樹さんは惜しまれつつ引退したのだが今でも根強い人気があり、その発言は重く受け止められていた。

そもそも築地市場が汚いのは、調理されていない魚を食べるというおぞましい習慣によるものである。こうした後進的なアジア性は科学的に克服される必要があるだろうという議論がTwitterを中心に巻き起こり、普段から環境問題に造詣が深い小池都知事もそうした世論を無視できなくなったようである。

さらに豊洲市場移転プロジェクトには自民党議員の利権が絡んでおり、もし豊洲移転が実現できなければ多くの議員が路頭に迷うばかりか東京湾に沈められてフグなどの餌になりかねないという事情もある。豊洲をより安全にするためには、最大の汚染源である魚を排除する必要があり、冷凍した魚を扱うのが一番安全であることは科学的に100%証明されている事実だ。魚を全て冷凍にしてパック販売すれば地下に溜まっているベンゼンなどの有害物質が付着する可能性も排除できる。このように魚の冷凍化のメリットは大きい。

この方針を徹底するために、小池都知事は都の小学生に副読本を配り「魚を生で食べるのは野蛮」と教えることを義務付ける。先進国で魚を生で食べる文化を持っている国はなく、魚は調理するのが国際的な潮流だ。と同時に電通に「魚を生で食べるのは野蛮だ」という800億円規模のキャンペーンの実行を依頼した。さらに、800人規模の「寿司Gメン」を発足させて、都に8000件以上ある日本食店を巡回する体制をとる。

日弁連は、都の新しい政策は、国民が自由に魚を料理する自由を侵害するもので憲法違反だという声明を出したが、裁判所が違憲判断を出した例は少なく議論への影響力は乏しいものと思われる。


ということで、エイプリルフールネタを書いてみました。みなさんお楽しみいただけましたでしょうか。今日も1日頑張っていきましょう!

ゲレンデの語源

ゲレンデという変な言葉がある。スキー場の中にある滑降コースのことだ。なぜゲレンデというのだろう。

もともとスキーはノルウェーで雪山を移動するための技術として発展したそうだ。ノルウェーのスキーは今でもノルディックスキーという競技名で残っている。クロスカントリーの他にジャンプ競技を含むそうだ。一方アルプス圏では山を滑降するアルペンスキーが人気だという。

日本のスキーは軍事技術としてオーストリア経由で導入された。オーストリアのテオドール・エードラー・フォン・レルヒという方が日本に持ち込んだとのことだ。もともと娯楽とみなされていたオーストリアのスキーは徐々に軍事技術としての役割が強調され、八甲田山の事故などを受けて日本でも注目された。このためドイツ語由来のスキー用語が多く残っている。ゲレンデはドイツ語でGeländeと綴るそうだ。

ドイツ語の成り立ちとしてゲレンデはゲ+ランドということで、集合的な土地という意味しかないという。英語のグラウンドと似ているなあと思ったのだが、gRandなので関係がなさそうである。英語のグラウンドには「基底」という様な意味があり、校庭のグラウンドなどのように使われる場所は「硬くて乾いている」というようなニュアンスがあるという。ゲレンデで検索をかけるとwikipediaの地形図の項目が出てきた。ドイツ語では起伏のある土地くらいの意味しかないようなので、正確にはスキーゲレンデと言わなければならないらしい。

さて、ゲレンデがドイツ語由来だということはわかったのだが、英語ではなんというのだろうか。スキー場はスキーリゾートとかスキーエリアと呼ぶようだ。Wikipediaにはスキー場にはピスト(piste)やスキー・トレイルがあると書いてある。さらに、ピストはもともとフランス語経由で英語のトレイルの意味だという。つまり、英語ではトレイルと呼び、ちょっと洒落てピストともいうのだろう。イギリスにはスキー場はそれほど多くなく、やはりアルプス圏(スイス、オーストリア、イタリア、フランス)などが本場のようだ。

試合と幸せ

昨日、甲子園で決着がつかない試合が2連続で行われた。そのニュースをみていて「試合」ってへんな漢字だなあと思った。なにを試し合うのかと思ったのだ。そこで語源を調べてみた。

行き当たったのがこのページで、もともとは和語で、為合うという漢字を充てていたそうである。由来は古く奈良時代ということだが、それ以前に文字がなかったことを考え合わせると、古くから使われていたのではないかと思われる。わりと純粋な和語なのだ。

試合の原型が武術にあることは間違いがなさそうだ。つまり今よりももっと真剣なものだったのだろう。リンク先の文章は幸せの語源を試合と同一としている。つまり、試合も幸せも、運命の流れがあり、それに合致しているかどうかということを意味していることになる。つまり、運命を受け入れるのが幸せであって、自ら希望して作り出すものではないのである。日本人が「なる」状態を好み「する」状態を嫌うということがわかる。

幸という字は手枷を意味しており、刑罰から免れることを意味するようになったという記述を見つけた。別の記述もあるので通説のようだ。すると中国人は不幸にならなかった状態を幸せだと捉えていたことになる。これも日本人が考える幸せとは違っている。どちらかというとHappyよりLuckyに近い考え方だ。Luckyの名詞形はLuckだが、これに当たる言葉は日本語にはない。運は巡り合わせの意味であり、必ずしもLuckを意味しない。

英語では試合はGameとかMatchという。二つの言葉が使われるのは日本語の試合が対戦と対戦の総体をどちらも試合と言っているからだ。Gameには競い合いやうでだめしというような意味があり、スポーツだけではなくトランプなどの遊戯から狩りまでを幅広く含んでいる。これはラテン語経由ではなく、古くからゲルマン系の言語にあった単語のようだ。ゲルマン諸語では「ease」の意味だったと説明されている。つまりレジャーに近い意味を持っていたことになる。一方、Matchはラテン語由来だそうだ。取り組みや対戦を意味していて、英語では動詞で使うと「合致している」とか「組み合わせが良い」という意味になる。この段落はここから引用した。

日本人は試合というと武道の果し合いのような真剣なものを想像するが、英語圏ではもっと気楽なものを試合だと考えていることになる。語源は意外と言葉の気分を表している。甲子園の野球大会をゲームというと怒る人もいるのではないか。

面白いことにもっとも神聖で真剣な試合と思われる相撲は、試合という言葉は使わない。一般的に使われる取り組みはmacthの訳語だと思われるが、それについて記述した文章は見つけられなかった。相撲では取り組みという言葉すら一般的ではないようで「割」というそうだ。割とは対戦表のことであって、試合そのものを意味するわけではないようだ。このことから相撲が武道経由ではないことがわかる。どちらかというと農業祭祀の色彩が強いのではないか。いずれにせよ「力士をなぜ選手と言わないのか」などということを気にする人は誰もいないようだ。

安倍晋三の悪い友達と大阪の荒廃

昨日の国会は森友学園祭りだった。大阪に新しく作られるという「安倍晋三」小学校がかなりめちゃくちゃなことになっていたからだ。Twitterから流れてくる話をまじめに読んでいると気分が悪くなる。

政治家が介入しないとあんなに不自然な取引は行われないはずだという声があるのだが、もしかしたらそういう話でもないかもしれない。NHKは安倍首相が「勝手に名前を使われて迷惑している」と態度を表明してからおずおずとこの件について報道しはじめた。それまでは「森友学園は支持者だ」などと言っていたので「なんか触るとやばいんじゃないか」と考えて調査していなかったのだろう。NHKは報道機関という名前を広報機関に変更したほうがよいと思うが、直接働きかけを受けたというよりも「官邸に脅されたらやばいな」と思っていたのかもしれない。

つまり官邸は、普段からやくざまがいの恫喝を行っていたことがわかるのだが、「森友学園」という安倍首相のお友達もかなりのタマだったようだ。俺のバックには首相がいるんだぞと嘯(うそぶ)きながら、土地を借り、それを原資にして各種補助金を引き出していた。途中から「ごみが出てきている」と難癖をつけて安い価格で土地を買い叩いた。政治家の斡旋があったかどうかは各機関が調査すればいいと思うのだが、本当に斡旋はなく「やばい人みたいだけど首相ににらまれたら厄介だから」と考えて言いなりになった可能性もある。「もう土地は要らないから後から難癖をつけてこないでね」という契約になっているようだ。

森友学園は安倍首相のお友達だ。安倍さんがおなかを壊して首相を辞めてから年寄りしか読まない右翼系の雑誌で「安倍さんが悪いんじゃなく、安倍さんを否定した世間が悪いんだ」などと盛り上げていた。「見かけは不良なのだが実はいいやつ」という評価なのだろう。しかしやっていることは怪しかったので、自分は合おうとせず奥さんをお使いに出していた。最終的には「私は知りません」と言えるからだ。安倍さんの国会でのあわてぶりをみていると「予想はしていたんだろうなあ」と思えてくる。

しかし安倍首相の愉快なお友達は「ワシは安倍首相と友達やねんで」と雑誌などで吹聴し、寄付金を集めていた。民進党が調査したところでは、森友にはお金がなく、当局もそれを知っていたようだ。そもそも学校が作れるかどうかすら怪しい団体だったのだ。

このように学校を補助金ビジネスにしようとしていた森友だが、運営している幼稚園はさらにひどかった。教育勅語を暗唱させ……などと言われていたが、実際には「右翼コスプレ」だったようだ。天皇・皇后の写真がぞんざいに飾られていて敬意などなかったのではという記事があった。

また「中国韓国に謝罪させるぞ」と幼稚園児に宣言させる一方で、子供がトイレに行かせるのが面倒なので時間にならないとトイレにいかせなかったそうである。汚物に腹を立てて子供のバッグにお弁当箱と一緒に突っ込んでいたそうだ。さらに、汚染物質が出てくるといっていた土も「お金がないから」という理由で敷地に埋め戻していたそうである。子供が遊ぶ土地だからきれいにしてやろうという気持ちは一切なかったようだ。

つまり子供は彼らの政治的な主張を刷り込む道具であって、子供の世話なんかどうでもよかったということになる。

ではさぞかし複雑な政治的主張があるかといえばそういうわけでもない。「中国と韓国はダメ」というような全く中身がないもので、中には「コーラは韓国人が飲むものだからダメ」というようなものもあったようだ。この理屈だとアメリカ人は韓国人ということになってしまう。

つまり「現在の愛国主義者」というのは俺の言うことを聞かせるための道具として天皇の権威や子供を利用するだけの人ということになる。安倍首相はそういうやばい人たちを「でも俺のファンだからだなあ(永田町用語では「私の考え方に非常に共鳴している方」)」といって放置していた。いつもマスコミや役所を恫喝していたので「安倍のお友達」を放置していた。

さて、ここまでは「森友学園ってひどいね」という話だがもう一つ驚いたことがある。かなりひどいことが知られていた塚本幼稚園だが「淀川区にはほかに通わせる幼稚園がない」という理由で通わせていた親が一定数いたそうだ。市立幼稚園がない地域もあるという。

さすがに「幼稚園がまったくない区」というのは関東圏では考えられないような気がする。淀川区がどんな地域かは知らないが、よほどの貧困が進んでいるのだろう。維新の党は国会でも全く中身のない質問を繰り広げているが、経済が荒廃するとこういう人たちが沸いてくるのだ。

もともと大阪は政治に信頼感がなく昔からテレビタレントなどを市長や府知事にしていた。これが貧困を生み、貧困がさらに中身のない政治家を増殖させるという構図があるのかもしれない。これを「日本の大阪化」と呼びたい。

日本が大阪化すれば憲法レベルで森友学園みたいな存在を容認することになるかもしれない。当然子供は単なる道具のように使われることになる。国家レベルで推進しなければならない事業なんかあるわけはないので、国の私物化が始まるのだろう。

政治とわがこと圏の縮小

前回のエントリーでは日本人は他人に関心がないということを論じた。多分保守を自認する人たちは嫌がる結論なのではないかと思う。ここでは政治とわがこと圏の縮小について考えたい。

安倍政権は政治家が官僚をコントロールしやすくするために人事権を内閣官房に集約したとされている。内閣人事局と呼ばれ、2014年に設置されたそうである。このとき野党から「官僚組織が機能不全に陥る」という批判があったそうだ。しかし、官僚組織は機能不全には陥らなかった。

この一連の議論は、日本人がどのように意思決定するかという根本に対する理解不足を露呈している。

かつて官僚組織は省庁とその植民地が「仲間」だった。これがサイロ化を生んでいるという批判があったわけだ。仲間とは、自分の意見がとおり、なおかつその成否が自分の生活に影響すると言う範囲だ。これまで家族と呼んできたが「わがことのように考える範囲」ということで、わがこと圏と呼びたい。運命共同体とかいろいろな言い方ができるだろう。

「官僚は所属する組織だけでなく国のことを考えるべきだ」という理想はわかるので、内閣に人事を一元化するのはよいことのように思える。しかしながらこれは2つの意味で間違っていた。もともと官僚が自分で影響力を行使して変えられる範囲は限られていて、国は単位としては大きすぎる。さらに政治家には「俺たちの意見を反映させたい」という気持ちがあり、これも官僚の意見を通りにくくする。意見が通りにくくなり、成果も分かりにくくなる。するとわがこと圏は縮小するのだ。

その結果起きたことが2つある。官僚が助け合う「人道的な」互助組織ができた。ここで天下り先を開発していた。生涯いくら賃金がもらえるかということが「わがこと」なので、こうした組織ができるのは当たり前である。文部科学省はかなり組織的に念入りな互助組織を作っていたようだが、こうした組織はほかの省庁にもあるのだろう。

確かに、内閣人事局ができたから天下りの互助組織が蔓延したという議論は乱暴なような気がする。民主党が「政権に乗り込んできた」ころから徐々に始まっていたのではないかと考えられる。もちろん国の組織の肥大化も一因なのだろう。

次におきたのは隠蔽だ。官房が決めたシナリオと違う情報は上げなくなった。どうせ責任は取ってくれないだろうし「単にどうにかしろ」といわれるのは目に見えている。

これが一番危険な状態で現れているのが稲田大臣の件だろう。官房が作った南スーダン派兵のシナリオは安全神話となっており、南スーダン政府が瓦解することは想定されていない。しかし現場からは悲鳴が聞こえる。行き場のない報告書は「なかったこと」にされたのだが、実際には防衛省のデータベースに残っていたそうである。

稲田大臣は防衛省をコントロールできていない。つまりシビリアンコントロールが利かない危険な状態が放置されている。これは防衛省本部にとって、現場も政府も「わがこと」ではないからなのだろう。稲田大臣は私が調査するといっているようだが、感情的に防衛省幹部を怒鳴りつけている絵しか浮かばない。

重要なのは、人を縛り付けて言うことを聞かせるわけには行かないし、お金を払って言うことを聞かせることもできないということを理解することだろう。「わがこと圏」が意見の流通を伴っているのだが、文化によって情報の流通には癖があるように思う。

組織には血液のように意見が巡っている。上から下に流れる意見もあれば、下から上に登る意見もある。これが非公式のルートで比較的上下格差なく流れるのが日本の特徴だ。非公式なのは、個々人の役割が明確ではなく非公式に構築される傾向があるからである。日本の組織にはジョブディスクリプション、ジョブレスポンシビリティとかアカウンタビリティにあたる概念がない。だから、誰がどんな「わがこと圏」を持っているかが分かりにくいのだ。

では政治家も含めたわがこと圏を作ればいいのではないかと思えるのだが、日本人は「同じ釜の飯を食った仲間」以外を信頼しない。「血縁以外でも家族を拡張できる」のが日本人の強みだという分析をした(例えば韓国は血縁が強すぎるのでたいてい大統領の家族が汚職問題で逮捕される)のだが、かといって経験を共有しないと「仲間だと認めてくれない」という側面もあるのではないだろうか。官僚にとって政治家は「あなた」に過ぎないのだ。

今回は、日本人にとって「わたしとあなた」関係は搾取と不利益の押し付け合いであり「われわれ」は利益の分配機能だという分析になっている。これが正しいとすると「わたしとあなた」になった官僚機構は余剰価値を生み出すことはないはずである。省益を奪い合い植民地獲得競争に明け暮れるようになるのではないかと予想されるのだが、これが正しいかどうかは表面的には分かりにくそうだ。前に寡占化した企業が現場と消費者を疲弊させるのではないかと言う軽い分析をしたのだが、同じようなことが国レベルで起こることになる。できれば外れてほしい予想だ。

最近気になっている別の事例がある。大阪の国有地が格安で森友学園に譲渡されたというのが問題になりつつある。これが本当だとすると、国有地もやり方さえ知っていれば格安で収奪できるということになる。報道によると補助金などを足し合わせると「学校で儲ける」こともできるようだ。

ここに参加している人たちは誰一人として「これはいけないことなんじゃないか」とは思わなかったらしい。自分の持ち場を果たしているだけで誰も総合的な判断をしていない。つまり「国の土地がどうなろうが知ったこっちゃない」ということになる。まあ、違法なら誰かが何とかしてくれるだろうというわけである。

豊洲のように集団無責任体制が大きな損失に発展しているケースもある。つまり余剰価値が生み出せないばかりか、不利益の押し付け合いと、富の収奪にまでつながってしまいかねないということになる。この予測ばかりは外れていることを期待している。

どこかで「こういうのはいけないんじゃないか」と正義感に目覚めた政治化が現れて魔法のように状況を改善してくれるという見込みを持ちたいのだが、こうした結論に至る筋書きを思い浮かべることができない。消耗社会に長く居すぎたのかもしれない。

日本人は他人には全く関心がない

西田昌司参議院議員と有志が「税金を安くして子供の数を増やそう」と検討しているという。この人たちは、いつも日本の伝統を取り戻そうなどと騒いでいるが日本人のことを何も知らないんだろうなあと呆れ果てた。

かつてあった「家族的な価値観」がよみがえれば、社会が俺たちの言うことを聞くだろうと思っている自民党議員がいる。憲法まで使って家族的価値観をよみがえらせようとしているのはそのためだろう。だがこれは皮肉なことに、彼らの政治的スキルの欠如の告白にしか過ぎない。つまり日本人をどうドライブするかということを知らないまま政治家になったのだ。政治家は決まりを作る人なので日本で一番えらいはずだという中学生のような見込みがあるのだろう。

このことを考えるためには「そもそも家族とは」ということを考えてみなければならない。家族とは社会保障と事業の単位が血縁で構成された集団を指す。血縁だけで自動的に家族が構成されるわけではない。日本の場合、血縁だけで家族が構成されることはなく、養子縁組して優秀な人をよそから迎え入れることも少なくなかった。結婚しても家に入れない韓国とは家族のあり方が違っている。このため血族集団は古くから記号化した。

こうして記号的になった家族は多くの集団のモデルになった。ところが国家が第二次世界大戦で家族を裏切り、企業がバブル崩壊で家族を見限ったために、残る集団は宗教だけになってしまった。

自民党の支持者が減少して公明党に依存しているのは偶然ではない。宗教団体だけが「家族的な」結びつきを持っているからだ。

第二次世界大戦でかつてあった事業体としての家族が崩壊した時の記憶はないが、企業の家族性が崩れてどうなったかということを体験している人は多いのではないか。この家族制度は終身雇用制度と呼ばれていた。

有名な松下幸之助の逸話がある。松下は宗教から経営を学んだとされている。リンク先のエピソードでは宗教と使命感の話が中心になっているのだが、ポイントは使命感を教団メンバーが共有しているということである。教団メンバーは奉仕を通じて宗教団体の運営にかかわるのだが、多分リーダーのいうことをただ聞いているだけではなく、下からの改善要求などもあったはずである。

つまり教団は「集団のことをわがことのように考える」団体のモデルになっている。この「わがことのように考えることができる」集団が家族なのだ。宗教団体にヒントを得た松下は家族的な経営を推進した。従業員だけでなく代理店も「家族的に扱う」ことで持続性のある企業を作ったのだ。

従業員は生涯松下に食べさせてもらうので、会社を「わが社」と呼び、社長を「親」だと感じる。そして会社のために尽くすようになる。こうして徐々に生まれたのが終身雇用制度だったと考えられる。日本の労使関係は対立が少なく「家族的」といわれることが多かった。

われわれが今体験しているのは、社会から「わがことのように考えられる」一体感が失われるとどうなるのかという壮大な実験だ。会社は労働者を搾取するようになり、労働者は自分が得た知識を出し惜しみするようになった。地域も崩壊しつつある。学校はPTAの労働力を使い倒すか、あるいは先生を土日に稼動させて「無料のクラブ活動」に動員させようとするという奪い合い社会になりつつある。日本人の「われわれ」の親密さの裏側にあるのは「私とあなた」の極端な冷淡さである。日本人は「あなた」を決して信用しないし、そもそも感心すらない。

「われわれ」が失われるとリソースの奪い合いになり、協力から得られるはずだった余剰利得も失われる。余剰理屈を蓄積したのが経済成長だと考えられる。

そもそも、自民党の暴走議員たちが「憲法で国民を縛って国家(それはつまり俺たちエラい議員のことなのだが)に協力させよう」と考えるのは、国民を「わがこと」のように考えていないからで、すなわち社会の荒廃の一現象に過ぎないのだ。

こうした社会では相手を動かすためには短期的な利益誘導をするしかない。そこで出てくるのが「税金を優遇して世論を操作しよう」とか「価格を下げて買ってもらおう」いうような作戦である。だが、短期利益で世論が誘導できるのは、財源がある場合だけなので、当然持ち出しになる。つまり、利益だけで誘導しようとすると、消耗戦になってしまうのだ。

最近ではふるさと納税制度が消耗戦を起こしている。二十三区の区長が「やめてくれ」というほど利いているようだが、流出を食い止めるためには「お礼」を増やすしかない。このようにお礼合戦がエスカレートするので「お礼」を転売する商売まで生まれている。税金で「われわれの社会を支えている」というようなマインドは日本人は持たない。それは、地域社会は「所詮他人事」だからである。

自民党議員たちは日本人がどのような動機付けで動くかと言うことを良く知らないので、家族的な価値観を強制するか、インセンティブで誘導するかという二者択一しか思いつかないのだろう。だから自民党は(多分民進党も)日本経済を成長させることができない。

では日本は宗教国家化すべきなのだろうか。日本人を大きな家族にするためには、一生を国家が丸抱えするような目的が必要だが、そんな目的は提供できない。あるとしたら戦争くらいだろう。

では終身雇用のような制度を導入するか、奪い合いによるダウンスパイラルが続くという二者択一しかないのかと思う人もいるかもしれない。もう一つのとりえる道は「目的」とか「理念」のもとに協力すると言う個人主義的な結びつきである。

だが第一に「私はこれがしたいから」協力してくれということがいえない。自分のやりたいことを宣言するのはわがままだと考えられてしまう上に、危険が多いからやめておけと言われかねない。

第二に、日本人は理念を持ちえるかという根源的な疑問がある。厚切りジェイソンが「日本人は政治的信条をテレビで言わないのに外人には政治的理念を聞くからずるい」というようなことを言っていた。個人主義社会に育った人としては当然の感情だろうが、日本人は「そもそもなぜ厚切りジェイソンが個人的信条を持っているのだろう」という点を不思議がるのではないか。

日本人は周りに合わせてそのときに得になりそうなことを言うのが正しい態度だと考えている。理念は文脈が持っているもので個人はどの文脈に従うかという自由があることになっている。ここであるポジションにコミットしてしまうことは「危険」でしかないのだ。

「日本人は他人に関心がない」などというと、自虐史観だなどと言う人が出てくると思うのだが、これを受け入れないと社会を成長させることができない。泣いても叫んでも人は「わがこと」のためにしか全力を尽くさないのだ。

流行と売れ筋は違う

「安倍首相の支持率が高いのはおかしい」という人がいる。トランプが大統領になれるはずはないという人も多かった。しかし、実際には安倍首相の支持率は高く、トランプは大統領になった。これは「アンケート」や「マーケティングリサーチ」がいかにあてにならないかの事例になっている。これを構造的に解説するのは難しいのだが「何が何だか分からない」というわけではないので、全く異なる事例からいろいろ観察して行きたい。

ファッションには流行がある。色々な人が色々なことを言っている。

WEAR

ここのところWEARというファッションSNSに投稿を続けている。なぜか「だらしない格好」を投稿すると評判が良い。最初はからかわれていると思ったのだが、どうやら「ゆる」ブームが来ているようだ。具体的にはワイドパンツやライズの高いジーンズなどが「来ている」ようだ。これはMen’s NON-NOなどがユルブームを牽引しているからだ。面白いことにMen’s NON-NOはしばらく前からこれを押しているのだが火がつくまでに数年かかった。雑誌が単独で押しているわけではなくドメスティック系のファッションコミュニティの意向があるのだろう。

ところが実際に閲覧されているのはウルトラライトダウンなのだ。つまり、ファッションコミュニティで評判がいい服と、実際に見られている(つまり購買の候補になっている)服は全く異なっているということがわかる。

Men’s NON-NOは売れていない

本屋に行ってきた。今一番売れている男性向け雑誌はSAFARIでMen’s NON-NO次ぐらいに来るのではないだろうか。確かにSAFARIは平積みされているのだが、Men’s NON-NOは1冊置かれているだけという店がある。代わりに置かれているのが、地方の若者(周回遅れで流行が来る)向けの雑誌だ。BITTERなどが置かれている。この一昔前の世代にはMen’s Eggを読んでいたのではないだろうか。

日本の男性服の流行には二軸ある。ファッション知能指数(そんなものがあるのかどうかはわからないが)高めの人たちとそうでない人たちの流行だ。そうでない人たちが「キレイめ」にキャッチアップしたころにはファッション上級者は飽きているのである。そして、ファッション上級者は今「古着」を見ている。過去の流行がアーカイブされていることがあるからだ。だが、これも都市の流行なのではないかと思う。

実際に街に出てみた

実際に街でどの程度「ゆる」服が流行っているのかを見てみた。面白いことに日曜日のお父さんが来そうなロードサイドのモールでは「ユニクロ系」の服を小綺麗に着ている人が多い。子供連れなので変な格好はできないだろうし、子供は走り回るから動きやすい方がいいに決まっている。

街(一応県庁所在地だ)の駅前を流してみたのだが大学生が一番よく着ているのはトレーニングウェアの下(つまりスエットパンツみたいなやつ)のようだった。実際にはちょうどよいサイズのジーンズをきっちり着ているだけでオシャレに見える。「普通の大学生っぽい服」が多い。「ゆる服」なんか誰もいないじゃないかと思ったその時にガウチョパンツみたいなものを着ている男性をみつけた。東京に遊びに行くのかもしれないなあと思った。まあ、100人に一人といったところだ。そういう配合なのだ。

ファッションの御大はなんと言っているか

小島健輔というコンサルタント(アパログに連載を持っているので御大なのだろう)は次のように言っている。

‘ノームコア’が終わってデザインと装飾、ボディフィットが復活するのに加え、キレイ目シフトで製品洗いなど汚め加工が疎まれると予測される。

実際に若者向けのファッションコミュニティとは真逆なことを言っている。ノームコアをゆるい着こなしと言っているのだが、かなり文脈がずれてしまっている。いっけん普通に見えるので「だらしなくファッショナブルではない」と思っているのだろう。これがファッションコンサルタントの予想なのだが「文脈は俺が作る」という意識もあるのかもしれない。立ち位置としては読売新聞の記者みたいなものだ。ノームコアはシンプルさが持ち味なのだが、この人にとっては「単にゆるくて汚い格好」に過ぎなかったのだろう。洋服はかくあるべきという持論があるのだと思われる。

こういう人が売り場を作るので若者は古着に傾倒してしまうのだろうが「現場をよく知っている」という矜持があり、ファッションコミュニティとの差異には気がつかないのではないだろうか。

中堅どころはこういう

南充浩という中堅どころのファッションジャーナリスト(なかなか味のある文章を書く人だ)は中年はビックシルエットを避けるべきと主張する。似合わないからなのだそうだ。しかし実際にファッションコミュニティに受け入れられようとすると、ビックシルエットになる。最初は「あれ、これ変だな」と思うのだが、そういう流行になっている。ここでいう流行とは逸脱が許容される狭い窓なので、つまりおじさんが「変だなあ」と思っていてもそれが変でなくなってしまう。中年だけが似合わないわけではなさそうで、つまり変な格好が流行っているのである。

南さんが若い頃どんな格好をしていたのかはわからないので、本当は変な格好をしていてある日まともになったのか、最初からそういう流行とは無縁だったのかはわからない。

まとめるとこうなる

これを無理矢理にまとめるとこうなる。

  • 表:最先端は誰からも理解されないが存在する。多分最初は業界だけの流行だろう。これがブームになることもあるがコミュニティができるまでには数年時間がかかる上に限定的である。
  • 裏:これを追随しているコミュニティがある。この人たちが食いつくころには最先端の人たちは離反している。
  • 中核:業界を動かしている人とたちはこの動きにはついて行けないし、自分たちの方が宇宙の中心だと信じている。彼らにはトレンドは単に奇異に見える。
  • 普通:マジョリティは業界の動きにも、権威の動きにも興味はなく、別の動機で動いている。

これは政治問題にも応用できる。ここから考察を重ねても良いのだが長くなりそうなので止めておく。政治にも「表と裏」があるのだが、一番の違いは裏が表を叩いているということだ。これは「社会のコンセンサス」が影響しているのではないかと思う。ファッションは好き勝手な格好をしていればいいのだが、社会は「正解」を求めることがある。つまり、ワイドパンツとキレイめのどちらかを選べということだ。そこで闘争が起きてしまうのではないだろうか。

Twitterは街に一つしかないユニクロでMen’s Eggの客がMen’s NON-NOの客を罵倒しているみたいなところだということになる。

目標は設定しないほうがいいかもしれないという話

よく、新年には目標を作ったほうがいいという話がある。期限を決めて達成すべきだというのである。最近、むしろ目標は決めないほうがいいかもしれないぞと思うような体験をした。

体重が4kg減った。とはいえ数値上はまだ「軽度の肥満」という分類に当たる。ということで、どれくらい減らせば「標準」になるのかなあと計算したところ、あと数キロはやせる必要があるらしい。脂肪を1キロ減らすためには7200キロカロリーを消費すべきなのだが、一回の散歩で消費できるカロリーは400キロカロリー程度しかない。そもそも一回散歩したからといって体重がみるみる減るということはない。

たかが4キロ減ったからといって大したことはなさそうだが、1キログラムの脂肪は1リットル以上の体積があるらしい。つまり4キロ減ったということはお腹から牛乳パック4本が消えたことになる。2016年10月末に撮影した写真があるのだが、お腹がかなり出ている。二ヶ月ちょっとでこれが消えたのだ。

つまり、1日ごとの減少量は大したことはなくても、蓄積はかなりのものだということになる。ベルトの穴は2と1/2分減っているのだが(1つは5cmくらいある)急激にやせたわけではないために、日々の変化はわからない。

数値上でみるみる結果がでれば気合も入るわけだが、数値はほとんど動かないし、他人と比べて自慢できるようなものでもない。しということで目標を設定してしまうと却ってやる気が削がれそうだ。しかし、方針としては間違っていないようだし、前よりはかなり状況が改善している。ちょっと歩いて、酢とお茶を飲み、寝る前に軽い運動をするというものだ。これを習慣にしていれば少なくとも急激に状況が悪化するということはないわけで、停滞期があったとしてもやがては少しずつ状況が改善するということになる。

もちろん、目標を決めて頑張ろうというアプローチが上手くいく人もいるのだろうが、努力ではなく習慣を作って、ときどき蓄積を確認するというゆるいアプローチのほうが上手くいく人もいるのではないかと思う。

意外だなと思うのが「ひどかった時」の記憶の大切さである。太っている写真を撮影した時は心底がっかりしたのだが、その記憶がなければ「達成感」も得られないわけである。