お気に入りの靴底を安く補修する

昔買ったちょっと高価な靴を持っているのだがちょっと残念な状態になっているという人は多いのではないかと思う。流行りの断捨離をしてもいいのだが、その前に修理を検討してみてはいかがだろうか。かかとが磨り減っている靴が何足かあったので、実際にやってみた。

まず最初に考えたのは100円均一だけで修理するという方法だった。ダイソーには替え用の靴底やボンドが売られている。釘で打ち付けてボンドで接着するようだ。ちょっとしたビジネスシューズならなんとかなりそうだがサイズが選べないのできれいな状態ににはなりそうにない。

Amazonを探した。シューグーという商品とシューズドクターNという商品を見つけた。今回は安かった方のシューズドクターNを選んだ。何足に使えるかはわからないのだが価格は600円とお手頃である。セメダイン社の製品ということでちょっと躊躇した。なんとなくプラモデル用の接着剤メーカーというイメージがあったからだ。

高価なものに使って取り返しがつかなくなるもの嫌なので、まずは捨ててもいいと思っていたスニーカーから試すことにした。

やり方は簡単だ。付属のプラ板をガムテープでくっつけて土手を作り、そこにシューズドクターNを流し込んで行く。固まるまで24時間かかるのだが待ちきれずに12時間くらいでプラ板を外すと乾ききっていないところがあり、そこからシューズドクターNがはみ出してきた。しばらくたつとここが少し割れてしまった。これをちゃんと修理するためには割れたところにシューズドクターNを再度充填しなければならない。

ちょっとてかてかと光り、デコボコした感じが残ったのだが、歩いているうちにゴムと馴染んでくる。一応履けるようになったという感じである。ただ、やはり空洞ができていて、何回か履いているうちにちょっと沈み込んできてしまった。

次にちょっと勇気を出して少し高めのスエードの靴を。本来なら茶色の製品を選ぶべきだが、今回はテストということもあり黒を塗ったので塗った部分がよくわかる。

今回はちゃんと24時間待ったので問題なく仕上がった。だが、靴底が平らになりらなかった。これは充填するときに量をケチったためである。これももう一度塗ってからやり直せばいいのだが、このまま使用している。

この靴はそれほど高い靴ではないので、かかとが脱着できず、磨り減ったら捨てるしかない。実はこうしたやや低価格帯の靴の方がシューズドクターNには向いているのだと思う。

ということでいよいよ本番の靴に試すときが来た。昔デパートで買ったものの擦切れるのが惜しくてあまり履いていない靴がある。少し傷が入っていることから新品ではないことがわかると思う。こうした傷はヤスリをかけて平らにした上で色付けして補修するのだそうだ。

ただ、高い靴の靴底は脱着修理が前提になっているので、駅前にあるミスターミニットなどに持ち込めば修理してくれる。ミスターミニットのラバー張替えは2600円だそうである。靴底を全て張り替えると14000円と少し高価だ。一万円以下の靴はこうした仕組みになっていないものもあるので、実は数万円台の靴の方が長い目で見るとお得かもしれないのである。

あまり履いてはいないのだが、それでも靴底が擦り切れている。歩き方が悪いので後ろだけが擦り切れてしまうのである。あらかじめ二足で練習したこともあって、かなり綺麗に修理することができた。コツは2点だ。

  • 多めに塗っておいてあとでへらでこそぎ落とすとよい。細かいバリはハサミを使って切り取ってヤスリで整える。
  • 出来上がりが見たいからといって焦ってプラ板を取らずにきちんと24時間以上待つ。

後ろの方のデコボコがないところが今回埋めたところである。少しバリが残っている。一応、紙やすりで仕上げることになっているのだが、誰も見ないだろうし、歩いているうちに擦切れるだろうと思う。

この製品は接着剤になっているので、少し開きかけているつま先の部分に塗り込んで開きを抑えることもできた。セメダイン社によると靴底の割れにも使えるそうだ。

一応セメダイン社は「高い靴には使うな」と言っているのだが、多分ビジネスシューズであればシューズドクターNで問題なく対応できるのではないかと思う。

文章だけではわからないよという人が多いと思うのだが、セメダインのチュートリアルビデオを見るとやり方のコツはつかめると思う。お芝居が臭いのと最後のオチが笑えないのが気になる。

このビデオはあまりすり減っていない靴を修理している。製品の説明には4mm以上のすり減りは数回に分けて塗れというようなことが書いてあるのだが、実際には1/3くらい減っていて、すり減りが1cmくらいあっても大丈夫だと思う。

50mlでどれくらいの靴が修理できるのかと思ったのだが、スニーカー・スエードの靴・ビジネスシューズと3組修理してまだ余っているので4組くらいまでは使えると思う。一足あたり200円以下で修理できるということになる。

修理してまで靴を履くというのはなんだか貧乏くさいなあと思ったのだが、今回調べてみて意外と革靴修理の情報は多いということがわかった。道具を手入れして長く使うのがかっこいいと考える男性は意外と多いのかもしれない。

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腹筋を割る・体幹を鍛える

最近、腹筋を割ろうと思っている。だが、腹筋の割り方を書いても仕方がない。そこで近頃サボりがちだった個人の動機付けと成長について考えようと思う。人は誰でも「ああ、これは無理だな」という憧れを持つことがあると思う。だが、大抵はやる前に諦めてしまうのではないだろうか。これを乗り越えるためには「とりあえずやってみる」ことが重要だと思う。

腹筋を割ると言ってもすぐにボコボコにシックスパックが現れるということはない。今はその途中経過である。普通の状態では縦に筋が入っており力を入れると上の二つが「ああ、なんとなくここにいますよ」とわかるくらいになった。体脂肪率が15%を切らないと腹筋の形はきれいにはみえないそうなので、前途は厳しそうである。

まず、なんとなくはじめてみる

運動経験のある人いは理解しにくいかもしれないのだが、腹筋を割るというのは運動経験のない人にとってはほとんど「ロケットに乗って宇宙に行く」というのと同じくらい不可能に思えるプロジェクトだ。だから、成果がでなくても当たり前と考える必要がある。

あまり過大なことをやると失敗するので、最初は布団の中で5分ほど腹筋運動の真似事をするところから始めた。だから、いつプロジェクトを開始したのかはよく覚えていない。これが続いたのはとりあえず足を上げてしまえば運動が開始になってしまうからだ。そして、そのうちに効果が見えてきた。お腹を動かすと「ああ、ここに腹筋があるかな」くらいが見えてきたのだ。これまで全くそんな経験がなかったからこそ「これが効果だ」と思えたのだろう。昔スポーツマン体型だった人はそれくらいでは満足できないのではないだろうか。効果が出たと思えたからこそ、次に何かやってみようかなと考えることができた。そこから半年くらい経過しているので一応は定着させられたということになるだろう。

効果がなさそうでも無理しない

現在でも20分くらいしか運動していない。いくつか理由がある。あまり長い時間やると「いつまでも続けなければならない」というプレッシャーになる。成果が出ないうちから「いつまでやればいいんだろうか」などと考えてしまうのだ。だから、運動に関してはちょっと物足りないくらいのことを長く続けた方が良い気がする。

次に集中力が続かない。最初は腹筋運動を50回X2セットやっていたのだが、これでも疲れない。腹筋を長い回数やろうとすると知らず知らずのうちに余力を残そうとするらしい。集中力が続くのはせいぜい10回から20回というところではないかと思う。さらに、最初は腹筋運動が何に効くのか全くわからなかった。バカみたいな話だが、腹筋がどこにあるのかが理解できなかったからである。今では腹筋に力を入れて50秒数えることにしている。腹直筋の上の方だが、二つの大きな塊があるのでこれを2セットやっている。やってから気がついたのが、これを呼吸法付きでやっているのが「ロングブレスダイエット」だ。いずれにせよ、効果を見ながらフォームを意識しているとあまり多くの回数をこなすことはできない。

情報は毒にも薬にもなる

実際にやってみるとYouTubeや雑誌の特集の意味がわかるようになってくる。例えば、カーヴィーダンスモムチャンダイエットにはやたらと腰を振る動きが出てくる。腹筋を使ってみようといろいろと体を動かしてみると、腰を回したりしないと腹筋を別々に動かす必要はない。別々に動く必要がないものを鍛えても仕方がないということになる。つまり、あまり使わないから腹筋が割れている人が少ないということになる。だが、逆に腹筋の動きがわかると、あまり想像もしていなかった体の動かし方ができるということだ。

不思議なことにこうした動きをやると腹筋の形がわかってくる。するとまた効果が出たことに気がつけるのでだんだん面白くなってくるのである。やったことはないがゴルフを習いたての人もゴルフ番組を見るのが楽しいのではないかと思う。いろいろなことに気づけるからだ。また外国語の学習も同じだ。単語帳で聞いた単語がYouTubeから流れてきて意味がわかると無条件に嬉しい。学習というのは基本的には快楽による動機付けの延長なので、豊富な情報は大変良い薬になるのだ。

例えば長友佑都が体幹トレーニングについて様々な本を出している。普段は使わない動きなのであまり科学的なトレーニングをしない日本のコーチ達は体幹の重要性にあまり関心がなかったのだろう。だが、体幹が使えるようになると急に止まったり、敵に当たり負けしなかったりと、ちょっとしたところで差がつくことになる。ヨーロッパサッカーに触れた人たちや独自に研究した人たちはこの普段はやらないけれども差がつく筋力に注目していることになる。もともと怪我の克服のための始めたようだが、長友は体が大きな選手ではないが、それでもヨーロッパでやって行けるほど核心をついたメソッドということになる。こうしたことに気がつけるのも面白い。

腹筋運動に戻ると、実際にはトレーニングしている20分に意味があるわけではないということになる。単に目覚ましをしているだけあり、その他の時間にその部位を意識して動けるかどうかが重要だということになる。その状態で、例えばYouTubeのビデオを見ていると「ああ、これはそういう意味なんだな」とわかってくる。徐々に新しい視点が作られるわけである。

一方、情報が毒になる場合もある。多くのダイエット本は「とりあえず行動を起こしてもらう」のがどんなに大変なのかを知っているのだろう。簡単にすぐ効果が出るというようなことを書いているものが多い。そして見栄えのよいモデルを使って動きの解説をしている。だが、実際にはすぐにフィットネスモデルのようになれるわけではないので、がっかりしてやめてしまうことになる。

アメリカではモチベーションビデオというのがたくさん作られておりYouTubeに上がっている。これはジムに通うためのモチベーションを高めるためのビデオで、ムキムキのボディービルダーが出てくる。しかし、こういうものを見ると「ここまでになりたいわけじゃないし、これは無理だなあ」などと考えてしまう。これも逆効果だ。

さらに「有料コンテンツ」につなげたいために「今までのやり方は全部間違っている」というビデオも出ている。これを見ていると「もっと楽でいい方法があるのかもしれない」と思えてしまう。これもやる気を減退させるもとになる。とりあえず腹筋を200回やれば目標が達成できるとわかっていれば楽なのだが、探り探りやっているとこうした情報に惑わされがちになる。

ダイエットの本にはいいこともたくさん書いてあるのだが、これは無理だなというような要素も多く含まれている。この辺りの切り分けがとても難しい。

ガラッと変えた方がよいものもある

運動や語学学習のように反復が必要なものは「とりあえず始めて見る」ことと「物足りないくらいでやめておく」方が却って長く続けられるのかもしれないとも思う。ライフスタイル化したほうが長く続けられるのである。

しかし、その一方でガラッと変えてしまった方がよいものもある。体重を減らすためには食生活にも気を配らなければならない。今あるものを少しずつ減らすとその分だけストレスがかかる。こうしたものはガラッと変えてしまった方が楽だ。例えば鶏肉とサツマイモの蒸したものを塩などの調味料なしで食べるようにすると、あとは余計なことを考えなくても済む。少しだけカロリーや調味料を工夫する方が面倒なのだ。

ただ、この場合一回の食事量が減ってしまうために、少量の食事をこまめに取らないと「いつも食事のことばかりを考えている」ことになりかねない。最初はとにかくお腹が空く。また、食物繊維の摂取量が減ってしまうので、時にはお菓子などを活用しながら食物繊維を摂取しないと健康に影響が出てくる。この場合、あまり他の人たちと食事ができなくなるので、同じ目標を持っている人が周囲にいないなら、先に宣言して「お付き合いは週に一度にする」などと言ってしまった方がよいのかもしれない。

ライフスタイル化を目指すには「だらだらやった方がよいもの」と「ガラッと変えてしまった方が楽なもの」がある。

健康なモチベーション・危険なモチベーション

最後に「危険なモチベーション」について書く。この文章を書くためにダイエットについて調べたのだが、女性のモデルのなかには、拒食症になってしまったり生理が止まってしまう人がいるという記事を読んだ。ヨーロッパのモデル界の美の基準は痩せすぎになっており、健康を害するほど痩せていた方がよいとされているためだ。

モデル達が無理なダイエットに走るのは、目標が曖昧なのに、食べないことで痩せるという効果だけが出てしまうからだろう。その上「何が美しいのか」を決めるのは他人であって自分ではない。ゴールが明確にわからないので、ついつい極限まで食べなければいいのではないかと考えてしまうということになる。

自分の中に明確な目的があれば健全な状態に保っておくことが可能なのだが、基準が曖昧だと精神のバランスを崩してしまうことがあるということに気がつく。例えば「英語がしゃべれる人になる」という目標の場合、ただ漠然と「周りから英語が話せる人と思われたい」という目標設定は実は危険なのではないかと思う。自分で「とりあえず旅行ができるようになる」とか「料理レシピの動画を見ることができるようになる」といった細かい目標を設定すれば自己管理ができる。

つまり、自分で管理が可能で達成の見込みがある目標を設定することが大切なのではないかと思える。今までできなかったことを始めるというのは良いことだし、成長できるのは本能的に気持ちが良い。しかし、成長が呪いになってしまい苦しんでいる人も実は多いのかもしれないと思う。それは、多分目標設定の方法が間違っているだけなのだ。

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メールでのご質問 – 公共と過剰適応について

メールで質問をいただいたので、ここに返信を書きたい。

引用の許可を取ればいいのかもしれないのだが、著作権の関係があり質問の全文引用して書けないので却って誤解が生じる可能性がある。今後ご質問はできればコメント欄にお願いしたい。コメント欄は公開されている上に後で編集が可能なので、ご自身で著作物(つまり質問)をしていただきたいからだ。許可を取ってメールの内容を載せたとしても「あとで書き直したい」とか「撤回したい」ということになるかもしれない。

ご質問の内容は二つ。日本人には公共空間を作るつもりがないというのはどういう意味かというものと、過剰適応とゲーム産業の関係である。

第一に「日本人は公共空間を作るつもりがない」についてである。主語を日本人にすると「日本人は議論をする資質がない」とやや自虐的に捉える方が多いというのは意識して書いているつもりなのだが、やはりそこから抜けるのは難しいのかもしれないと思った。

日本人にはそもそも公共という概念が存在しないと考えている。だが、この日本人はかなり限定的に使われている。経験上、英語圏での海外生活を経験している人は公共空間とか社会という概念が理解できる。例えばエンジニアのように英語が専門でない人でも英語圏で働くと簡単にこうした概念を理解するようだ。

例えば、英語で行われる授業で先生が何かを発言したとする。すると、誰かが手を上げて今回の授業に関係がありそうな情報を加えたり考えを述べたりする。これを「授業に貢献する」という。授業の貢献は成績に加算される。ただ聞いているだけでは「授業に参加していない」ことになり貢献点がつかない。授業はみんなで作り出してゆくというのが英語圏のやり方であり、アメリカなどでは高校レベルでもこうしたことが行われているようだ。こうして「みんなで作ってゆく」のが、社会であり公共空間である。こうした考え方は職場にも引き継がれる。

日本人は社会的なルールには素直に従うので、あらかじめこうした空間ができていれば簡単に公共概念を理解する。わざわざ海外留学や海外赴任をしなくても、公共を理解している日本人はたくさんいるのだ。例えば登山をすると下山してきた人に挨拶をされることがあり応えるのがマナーになっている。登山は多分ドイツやオーストリア辺りを発祥とする若者に人気のアクティビティだったのでその名残が残っているのだろう。つまり、登山愛好家は「みんなで山の雰囲気を作ろう」という気分があり、ゴミを拾ったりお互いに挨拶をするという習慣があることになる。同じように海外と接触したサッカー愛好家もゴミを拾って帰る。これも公共空間をみんなで守ろうという意識の表れである。つまり、こうした人たちは西洋と接触しているがゆえに公共という概念を理解していることになる。

だが、見たことがない人にはこうした公共という概念が理解できない。例えば自民党の憲法草案でいう「公」というのは、すなわち「ズベコベ言わずに国のいうことを聞け」という意味であり、その国とはすなわち国会議員のことだ。ある人は国にあれこれ言われるのは嫌だといい、別の人はみんなに異議を申し立てるとは迷惑な存在だと言う。知らず知らずのうちに公共を「誰かの空間」と認識し、その上で「誰の声が一番大大きいか」ということを瞬時に計算してしまうのである。

しかし、これはアメリカ人が優れている言う意味ではないし、日本人が劣っているという意味でもない。しかし、日本人が作る独特の社会には名前がないので、このブログでは、所有権や上下関係など諸々の属性を含めて「村落」と呼んでいる。社会学にはもっと別の良い呼び名があるかもしれない。

日本のスーパーマーケットで子供ににこりと笑ったり、コンビニでドアを開けてあげたりすると睨まれることがある。特に女性にこうした傾向が強い。多分「私に関わらないでよ」という気持ちが強いのではないかと思われる。日本には公共がないので外で出会う人は全て単なる他人でしかない。ゆえに他人同士で協力することもない。ただ、現行憲法が公共とか社会という概念を取り入れてしまったために、左派リベラルの中には公共とは国の行政サービスのことなのだと考える人もいる。

ある人は公共をお互いに参加して作り上げる社会だと捉え、別の人は誰かの所有物だと考える。そして、また別の人は公共を国の行政サービスだと捉えるわけである。

メールの内容を公開してもよければ貼り付けたいのだが、この後質問にはかなり様々な要素が整理されないままで入り込んできているように思える。そこに至る前にまず「公共」をどう理解しているのかということを整理した上で、提示してみるべきなのではと思う。

常々、外国の文化と接していない日本人が「公益」や「公共」を理解しているのかということが知りたいと考えているのだが、意外と「当たり前」と考えていることを言葉にするのは難しいのではないだろうか。この辺りはご協力いただける方がいらっしゃったらコメント欄にでもお考えを残しておいていただきたい。


ゲームに関しては、書いていることはほぼ当たっていると思う。かつてゲームのマーケティングをやっていたことがあるのだが、この時にすでにメールにあるような議論があった。当時の日本のゲーム業界はコンソールゲームが主流でPCゲームは日本では「洋ゲー好きの物好きしかやらない」となっており、携帯ゲームは「低スペックのかわいそうな」存在であった。

ただ洋ゲーのオンラインゲームを担当している人たちは顧客と接点があったので(オンラインゲームではイベントなどを仕掛ける必要がある)こうしたことが起こるのはあらかじめわかっていたようだ。

コンソールゲームの人たちはPRをコミュニティに頼っていた。日本にはゲーム雑誌が一つしかないので、そこのPRスケジュールが優先され、そこから逆算してオンラインの情報解禁日などを決めていた。ゲーム雑誌がランキングを発表しそれにファンが従うという構図があったのである。このため「過剰適応」が起きており、売り上げを広げることができなかった。「洋ゲー=クソゲー」という構図がありそれが固定化されていた。さらにライトゲームユーザーはゲームユーザーですらない完全に取り残された存在だった。彼らはそもそもゲーム雑誌などを読まないからである。

ということで、多分「過剰適応」にはマーケティング的な名前が付いているはずなのだが、今回は見つけることができなかった。

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日本体操協会のゴタゴタについて勉強する

日本体操協会で揉め事がおきている。またかという気がする。

スポーツをめぐっては、内柴事件(2011年)、女子柔道(2013年)、相撲(2017年)、女子レスリング伊調馨事件(2018)、日大アメフト部特攻タックル事件(2018年)、水球女子日本代表パワハラ事件(2018年)、日本レスリング連盟事件(2018年)と数々の事件が起きているが、どれももやもやを残したままで消費されているのが実態である。

それぞれの問題には特徴があり一概に共通点を見つけることはできない。個人スポーツもあれば団体競技もある。オリンピックだけでなく興行的な色彩を帯びた相撲でも問題は起きている。唯一の共通点はどれも閉鎖空間で起きており周りの目が行き届きにくいという点である。問題は長い間放置されているのだが、一旦マスコミに漏れると大騒ぎになり「ガバナンスの問題だ」ということになるという経緯がとてもよく似ている。村の恥が外にさらされると世間の目が「酸素」のような役割を果たして炎上するのである。

今回の問題はその中でも最も複雑な部類に入るのではないかと思われる。問題の経緯が複雑で一概にどちらが悪いとは言い切れない。選手とコーチの間の暴力問題があり、それとは別に女子体操の私物化問題がある。この二つの要素が絡み合っており「悪者」が特定しにくい。

問題の発端は、宮川紗江選手のコーチが暴力問題を起こしたとして「期間を定めずに」コーチの資格を剥奪されたというものだった。これに怒った宮川選手(なぜかコーチではなく)が実名で記者会見をした。そこで宮川選手が訴えたのは朝日生命体操クラブへの不自然な勧誘行為だった。コーチも「裁判に訴える」などとと言っていたのだが、話が大きくなったことに驚いたのか仮処分の訴えを退けてしまったため、宮川選手の告発が宙に浮いた。最終的には塚原千恵子(強化本部長なのだが女帝という言葉の方がふさわしい)と宮川選手の直接対決になっている。

当初テレビ朝日が問題の沈静化を図ったので、フジテレビが宮川選手に単独インタビューを行い「対立」の構図がクローズアップされることになった。

こうした経緯がわからないとハフィントンポストの記事を読んでも何が何だかさっぱりと見えてこない。

キャラの濃い登場人物たち

日大アメフトの問題ではものが言えない選手たちと高圧的な監督という権力格差があったが、今回の場合宮川選手が告発に踏み切ったために「キャラの濃い」人たちの群像劇になっておりワイドショー的には極めて面白い。

まず宮川選手は単なる被害者ではなくかなり腹が据わった女性のようである。こういう強さがないとオリンピックで代表になれないんだろうなとは思う。だが「このコーチでなければダメだ」という思い込みも見られる。中には共依存という言葉を使って説明しようとする人もいるくらいである。つまり、表向きの強さと暴力さえも許容してしまう態度が共存してしまっているのである。

それに比べてコーチは様々なしがらみがあったのだろう。暴力癖があり感情が抑えられない上に、永久追放ではなく体操協会に従えば戻れる可能性があるということがわかると訴えを取り下げて宮川選手を見放してしまった。

さらに塚原夫妻(特に奥さんの方)は恰幅がよくワイドショーで悪役を努めるのにもってこいの顔をしている。フジテレビは彼女を悪役に仕立てるつもりのようで悪い女性の声色を使った演出を試みていた。夫の方も終始一貫しない態度が際立っている。「100%悪い」と言ってみたり「記者が指摘する意味とは違う」などと発言がコロコロ変わる。

どうやら昔から朝日生命体操センターに選手を引き抜くためにオリンピック強化プログラムを私物化していた疑惑があるようで、今回も正規の強化選手枠と塚原夫妻が立ち上げた強化プログラムの二本立てになっていることが問題になっている。正規のプログラムに従うと私物化ができないので、独自のプログラムを使って「裁量権が行使できる」ようにしていたと指摘されているのである。また谷岡学長が「伊調馨さんはまだ選手なんですかね」と切り捨てたように塚原千恵子さんは「宮川さんは最近成績が悪かった」と切り捨てるような発言をしている。小池百合子東京都知事にも言えることなのだが、女性の方が切断処理があからさまで容赦がない。これも彼女を悪役キャラに見せている大きな要因だろう。

体操協会もはっきりしない。「まだ何もわからない」としつつも「膿を出さなければならない」などと言っている。これまで「となり村で何が起こっても感知しない」というような態度だったのだろうが、世間の矛先がこちらに向かいかねないので慌てているのだろう。

この問題で唯一出てこないのは体操協会の会長だ。元ジャスコの社長で二木英徳さんという。実質的に体操には関与しておらず「体操協会の象徴」のような存在なのだろう。つまり統一的なガバナンスはなく男子と女子が「好き勝手に」運営していたのが日本体操協会なのだということになる。

自我の不形成と閉鎖集団

この問題を見ていると、自我が形成されていない人たちが閉鎖的な集団を作るとどうなるかということがよくわかる。この点では早くから入門して世間を知らずに育つ相撲とよく似ている。

体操は10代の後半から20代の前半がピークなので、自我が形成されていない早いうちから指導が始まる。そこで行き過ぎた暴力が生まれるのだが、団体競技ではないのでコーチと選手の間に親密な関係性が生まれやすい。宮川選手はPC的な観点から「暴力はいけない」などと言っているが実は家族も含めて暴力も「愛情表現がたままた行き過ぎただけ」だと容認している様子がうかがえる。プロになったりすると「自分で判断」する必要が出てくるのだ、プロのない体操では自我の不形成はそれほど大きな問題にならないのかもしれない。

さらに競技団体の私物化も行われていたようだ。当初、塚原負債が朝日体操クラブになぜ傾注するのか疑問だった。Wikipediaを読むともともと塚原千恵子コーチらが朝日生命の協力の元で立ち上げたクラブが母体なのだが、朝日生命は経営から手を引いており「協賛」という形で名前を使わせているだけのようである。つまり実態は「塚原体操クラブ」に有力選手を引き抜いて経営を安定させようとしていたということがわかる。問題は私企業の経営者が長い間体操協会の握っていたという点なのだろうが、それにしてもこうした慣行が長い間放置されていた理由がよくわからない。

だが経営能力の欠如は致命的だ。女子柔道も朝日生命体操クラブも行き詰っている。女子はオリンピックでは何大会もメダルに手が届かない。男子では塚原直也、内村航平までは選手が順調にメダルをとっていたのだが、そのあとの選手が出てきていない。リオオリンピックの団体選手もコナミスポーツが目立っているくらいである。コナミスポーツの方が組織的に運営できており選手層が厚いのだろう。こういった焦りが強引な勧誘行為につながったのではないかと思われる。有力な選手の引き抜きはかなり認知されていたようで、元選手たちも含めて「宮川さんを応援する」と言っている人が多い。中には「元朝日生命体操クラブなのだが宮川さんを応援する」と言っている人もいる。

対立に拍車をかけた偏向報道

このニュースでは当初テレビ朝日が協会側に立った報道をしていた。羽鳥慎一のモーニングショーでは、司会の羽鳥が元アナウンサーの宮嶋泰子を「この人はすごいひとなんです」と紹介したのだが、予断を与える言い方に「いくらなんでもこれはひどすぎるな」と思った。宮嶋は過去の取材経験から体操協会側の人間であることがあからさまである。背景を調べてみると、テレビ朝日がようやく獲得した放送権をめぐる事情がありそうだ。テレビ朝日は2018年10月の世界体操の放送権を持っている。フジテレビがNHKから引き継いで放送をしていたのだが、2017年からはテレビ朝日が担当しているということである。

テレビ朝日がこのようなポジションをとったので、これを好機とみたフジテレビは多分夏休み中だった安藤優子を召喚して宮川選手にインタビューを試みていた。こうして対立構造が作られてしまったのである。

ただ、選手が宮川側につき体操協会の側も「膿を出し切らなければ」ということになった途端にテレビ朝日は「やはり塚原夫妻側にも問題があったのかもしれない」などと言い出している。こうした態度が一貫しない日和見的な局が安倍政権批判をしても「結局は商売でやっているだけなんだな」ということになる。結局政権批判ごっこに過ぎないわけである。

経営のプロがいない

改めて考えてみると、体操選手出身の人たちが協会やクラブの経営を任されるという状態になっており、日本には経営のプロがいないことがわかる。経営文化という意味では町の少年野球団と変わりはない。これまでなんども見てきたように、こうした人たちが自分たちだけでどうにかしようとしているうちに状況が悪化してきてしまい、周囲を巻き込んで大騒ぎになる。

スポーツでは多額の金が動く。さらに選手の側もオリンピックに出られるか出られないかで人生が大きく変わる。つまり、もはや少年野球団の素人経営者だけでは運営ができなくなっているのだ。かといって全てに国が出て行って関与することもできないしやるべきでもないだろう。プロの経営者がスポーツマネジメントに積極的に関与する必要がある。

最近ワイドショーであまりにも同じようなパターンが繰り返されるので「政治のいざこざを忘れさせようと政府が何か企んでいるではないか」という人もいるのだが、実は外からの文化をまったく受け入れない内向きな姿勢が制度疲労を起こしているのだろうと思う。ただ、マスコミには問題解決をする姿勢は見られない。視聴者の様子を見ながら日和見的に態度を決めているだけなので、いつまでたっても「膿」が外に出てくるばかりで治癒しないのである。

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三食ごはん(旌善編)の村はどこにあるのか

最近AbemaTVで2014年から2015年に放送された三食ごはんを見ている。人気になったシリーズのオリジナルでまだ荒削りな部分が目立つ。厳しい環境の中に追い込まれた芸能人が田舎暮らしをそれなりに楽しんだり、俳優仲間との交流を楽しむ様子が面白い。特にイ・ソジンはこの番組でバラエティータレントとしての才能を開花させた。

この番組を見ていると、江原道という行ったこともなければこれから行くこともないであろう地域に住んでいるような気分になる。なんとなく場所を知りたくなり旌善郡の場所を調べてみた。

旌善郡はオリンピックの開催地で鉄道や高速道路が開通した平昌郡の南隣の山向こうにある。最近ではオリンピック関連施設の存続の是非がニュースになることがある。中央日報によると旌善郡にもスキーリゾートを開発したがあまりうまくいっていないようである。

ソウルからは高速道路を東に向かって終点近くで降りる。国道35号線を南下し42号線に乗り換えると旌善邑に行き着く。ここら旌善郡の中心地のようである。ソウルからは清涼里駅から観光電車がでているそうだ。ソウルからの所要時間は3時間から4時間で、地理的には東京から群馬の山沿いか新潟あたりが近いイメージかもしれない。

米で有名な新潟とは異なり、旌善の名物はソバととうもろこしで農業にはあまり向いていない土地のようだ。番組の中にも「もともとは流刑地だった」とか「農業の専門家にもあまり良い土地ではないと言われた」というエピソードが出てくる。日本でも有名になったウォンビンの出身地としても知られているという話もある。旌善邑はイソジンらの買い出しで多く登場し、夜関門を買った市場もドンシクの金物屋もこの街にある。

ところが三食村を探そうとすると途端に難易度があがる。最初のヒントはエピソードの中にでてくるトンネルだ。トンネルの名前で検索すると旌善邑の南東に伸びる59号線につながるバイパストンネルがあるのがわかる。さらに韓国語で玉筍峰(江原道)で検索すると大体の場所もわかった。59号線からデチョンギルという道がでており、この奥に玉筍峰民泊とハヌルセッコム(空色の夢)民宿という二つの民泊がある。どうやらハヌルセッコムの方がロケで使われた施設のようである。奥さんが教育庁に勤めている人が貸したという話がでてくる。Googleマップの航空写真を見ると今でもテギョンが作ったハート型の畑が残っているのがわかるのだが、指摘されないと探せないだろうなあと思う。旌善の中心地からは5kmくらいしか離れていない。

韓国語で玉筍峰民泊を検索すると「テレビのロケ地に行った」というブログがいくつかあるが、人が大勢押しかけているにもかかわらず特に見所がなくがっかりしたという感想が多い。航空写真をみると、あの石でできた橋も確認できる。近くでウォンビンが結婚式を挙げたというブログがあったので、テレビ局はウォンビン経由でこの場所を知ったのかもしれないなと思う。

番組の現代は삼시세끼である。漢字はよくわからないが、三試三食の意味ではないかと思われる。試行錯誤という意味合いがあるのだろう。イ・ソジンはこの番組と「花よりおじいさん」で新境地を開きバラエティに進出した。旌善編では不満タラタラで田舎暮らしなんかしたくないと言っていた彼だが、この後「海辺の牧場編」などの続編にも出演しているようだ。この番組の中でチェ・ジウとお似合いだという話になっていたがチェ・ジウはその後一般人と結婚した。芸能ニュースの中に「3年間付き合っていた」という話が出てくるので、この番組への出演の前後には付き合っていたことになる。イ・ソジンがあまり結婚したくなかったのではという憶測記事も見つかった。

日本では全く知られていないが脇役として有名なキム・グァンギュは2017年に夜関門というお茶のCFに登用されたという。番組の中の地味な姿とは打って変わってノリノリで夜関門のお茶のCFソング(なぜか「開けゴマ」という題名の歌である)を歌っていた。かなりの年配のように見えるが実は1967年生まれであり、1971年生まれのイ・ソジンとそれほど年齢は違わない。俳優になる前には釜山でタクシー運転手をしていたという苦労人だそうである。

日本でも有名な2PMのテギョンはこの後兵役に就き現在服務中である。これまでいた事務所を離れて俳優の個人事務所に移籍したようだ。2019年まで兵役が残っているそうだが、この後順次2PMのメンバーが兵役に入りメンバーが完全に戻るにはしばらく時間がかかる。中でドラマの準備をするシーンが出てくる。Assembryという国会を舞台にしたシリアスドラマだったが視聴率はあまり良くなかったようである。

韓国のバラエティ番組は面白いなと思ったのだが、放送局はケーブルテレビなどを中心にした局であり韓国としても新しいスタイルだったようだ。アメリカのサバイバル番組を韓国風にアレンジしたのか「罰ゲーム」のような趣があるのだが、特に脱落者がでるわけでもなくゲストは「嫌になったら帰って良い」というゆるさがある。

さらに、韓国の伝統的な食文化がわかって面白い。割となんにでも唐辛子とニンニクが混ざった「タレ」と呼ばれるものがでてくる。また、年長者を「ヒョン」や「ヌナ」と呼んだり、年配者を「先生」と呼んで尽くすなど日本とは違った文化が見られる。年齢による上下関係とは別の関係性も見られる。キム・グァンギュはイ・ソジンからヒョンと呼ばれているのだが「マンネ(末っ子)」として使われるという年齢によらない序列もでてくる。

すでに大御所感が漂い、ソウル出身でニューヨークへの留学経験もある「都会派」のイ・ソジンの乱暴な言い方が嫌味にならないのは裏表がなくちょっとした優しさも見せてくれるからだろう。また年配者には尽くしておりテキパキと動いているので「単に嫌な人」にならないのである。

イ・ソジンのバラエティの才能を見出したナ・ヨンソクPDについてはすでに調べている人がいた。KBS出身でケーブルテレビに移って数々の番組をヒットさせた凄腕だそうだ。イ・ソジンと言い合いをするシーンが度々でてくるが1976年生まれで年下なのだという。

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学ぶ韓国と学ばなくなった日本

大げさなタイトルだが、もちろん韓国と日本の芸能について包括的に語ろうという話ではない。YouTubeでKBSのプログラムを見た。これをみて「日本と韓国では番組の作り方が違うんだなあ」と思ったといういわば感想文である。何が違うのかと考えたのだが、一言で言うと「彼らは営業をしているんだ」という結論に行き着いた。つまり、日本人は営業をしなくなったということである。

https://www.youtube.com/watch?v=Szdx3WOUF9w&list=WL&index=4&t=1873s

YouTubeでK-POPばかり見ていたらある番組をオススメされるようになった。1時間モノでEP1と書いてあった。つまり見るのに時間がかかるわけで、しばらくは見るのをためらっていた。しかし、見はじめたら面白く、ついつい最後まで見てしまった。全部で4話あったので4時間以上を見たことになるのだが、3が欠落しており3だけは英語字幕なしのものを探して見ることになった。

番組は韓国の有名なK-POP歌手、スーパージュニアのキュヒョン、SHINeeのミンホ、EXOのスホ、CNブルーのジョンヒョン、Infineteのソンギュの5人がインドに特派員として派遣されるというものである。テーマはK-POPのインド進出である。日本やヨーロッパでは大成功を収めている彼らなのだがインドでは全く知られていない。そこで、落ち込みながらニュース番組の3分枠に向けて準備をする。韓国はもとより日本などでは大成功している大スターなのにインドでは全く知られていないという落差が面白い。

日本と違っているのは、彼らの番組が放送されているかが保障されていないという点である。多分NHKがジャニーズのタレントに同じことをやらせたら「顔を立てて」ボツにするというようなことはしないはずだ。さらに近年のスポーツキャスター騒ぎからもわかるようにカメラが回っているところと回っていないところがあり「裏では何をしているかわからない」という状態になると思うのだが、この番組では寝ているところもカメラに映される。中にキュヒョンのいびきが大変うるさいというエピソードが出てくる。

このブログで何回か書いた通り韓国は集団主義の国である。調べたところ冒頭に出てくる東方神起のチャンミンを加えた彼らは同じ事務所の先輩後輩にあたり仲良しグループを形成しているらしい。練習生としてデビュー前の苦労を共にしたりしていることもあり仲が良いのだろう。年齢が上のキュヒョンが実質的なリーダーになっている。チームは「全く経験がないニュース特派員」という役割を与えられて戸惑うのだが、リーダーとして明示的に指名されたわけでもないキュヒョンが年長者として緊張するという場面が出てくる。

チーム内に年功序列はあるのだが、これは階層社会が前提になっている。ここではKBSの記者が「キャップ」として上司の役割を果たしている。そしてキャップもソウルの上司の指示に従わなければならない。最終的にニュースをボツするかどうかを決めるのはソウル側なのである。こうした関係性があるので、同僚グループはあるときはライバルになるが基本的には協力して行動することになる。ここが人間関係が曖昧な日本とは異なっているのである。日本は表面上みんな友達なのでマウンティングが起こることがある。テレビ局の記者がタレントを扱うときにはどうしても「お客さん」の関係にするか「友達」として振る舞うのではないだろうか。

キャップは心構えとプロセスは伝えるが具体的な内容は記者たちが考える。だから、現場には介入しない。キャップには上がってくる情報をソウルが判断しやすい形式に整えて連絡をとるという別の役割を持っているほか、メンバーを選択するという評価者としての顔がある。みんなに「よくできたね」などというのだが、目は笑っておらず冷静に才能の違いを見極めようとするというシーンが出てくる。また、キャップが一日中べったりとついてこないことにメンバーの数人が安心するシーンが出てくる。上司と部下の間にはかなりの緊張関係があるのだ。

日本だと友達のように振舞いつつ圧力がかかったり「現場に任せる」と言っておきながらいろいろ口を出してきたりすることがあると思うのだが、韓国の場合は集団主義に基づいたチームワークでプロジェクトを進めようとする。

こうした社会構成の違いを見るのは面白いが、もう一つ目に付いたところがある。それがインドの取り扱い方だ。

日本でアジアを紹介する番組を作る場合には「かわいそうで貧しい地域」として紹介するか、素晴らしい日本の文化を教えてあげるというアプローチをとるのではないかと思った。前者で思いつくのは「世界ウルルン滞在記」だ。基本的にアジアは施しの対象であり日常とは切り離された現場だいう認識があった。現在ではこれが、世界に跋扈する偽物のスシやニンジャを日本人が成敗するというような番組や100円均一の製品を見せて「日本すごいですね」と言わせる番組が増えている。どうしても関係性がにじみ出てしまい平等なふりをしながら「上に立ちたがる」人が多いということである。かつては「当然すごい」だったのだが、今では「今でもすごい」なのだろう。

しかしながら、韓国人はインドをマーケットとしてみている。途中でスラムもでてくるが、これもかわいそうな存在として書かれているわけではない。韓国はすでに先進国化しているのでインドを未開発の国としては見ているのだが、かといって施しの対象ではなく学習の素材として扱っている。そして、自分の売り込みも忘れない。つまり、商品に自信があるのであとはアプローチだけだと考えているわけだ。

アイドル5人組はちょっとダラダラしたり文句を言いながらも、言語が複雑なインドでは共通体験である歌と踊りの入った映画がプロモーションになり、そのあとで音楽が売れるということを実地で学んでゆく。

最初は学習と競争の絶妙な組み合わせだなと大げさなことを考えていたのだが、よく考えてみるとこれはマーケティングリサーチと営業なんだなと思った。つまり彼らは普通に当たり前の営業活動をしているだけなのである。面白いのはそれを当事者であるアイドルがやっているという点だけだ。

いったん普通を見ると日本の異常さが浮かび上がってくる。日本人は「日本の文化は素晴らしいのだが高級すぎて現地の人たちにはよくわからないだろう」という見込みを持っているので、現地のマーケットに学んでコンテンツをローカライズして行こうという気持ちにならない。つまり成功実績があると考えてしまうと学習機会を失ってしまうということだ。しかしその一方では所詮日本は小さな島国で自分たちには大したことはできないのではないかという劣等感もある。

とはいえ、かつては日本も自分たちの商品に自信をもっておりなおかつ海外から学んでいる時代があった。例えば、本田はアメリカでどうやったらバイクが売れるのかということを試行錯誤してきたし日清が世界進出を念頭に入れて即席麺からカップラーメンを発明したという有名なストーリーもある。KBSが目をつけたのは「未開拓でK-POPがとても売れそうにない」インドだが、かつては本田宗一郎も安藤百福も「全然売れていないから売れたらすごいことになるぞ」と考えてアメリカに渡ったのである。

K-POPは特殊なやり方で成功したのかと思っていたのだが、実際には当たり前のマーケティングリサーチで現地で学習しながら展開してきたのだなと思った。これは日本もかつて通った道であり、今からでもやってやれないことはないのではないかと思う。つまり、日本は国がダメになったから成長しなくなったわけではないということだ。

いろいろと難しく書いてきたが、そのような小難しい視点がなくてもこの番組は面白かった。K-POPのアイドルは普段からカメラに日常生活を撮られることに慣れているようだ。飾り気や裏表があまりなくお互いに中もよさそうなので「いい人たちなんだろうな」と思える。意外とこういうところも魅力になっているのだろうと思う。屈託がないので「裏では何を考えているのだろう」ということを考えなくて済むのである。日本のアイドルスポーツキャスターのように、カメラが回っているところでは良い記者のふりをして裏で遊ぶということもできたと思うのだが「タージマハルに行きたい」とか「まずは観光がしたい」などというわがままを言いつつしっかりと仕事をこなしていた。長時間二渡る番組をダラダラと鑑賞しながら、日本のテレビ局が陥ってしまった様々な「屈託」に疲れているのかもしれないと思った。

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日本語、韓国語、英語の「エ」について

このところYouTubeにはまっている。なぜかはわからないが、日本のテレビは報道という名前がついた何かに占拠されていて、一日中スポーツの不正とか政治の問題ばかりをあつかっているからかもしれない。逆に夜のバラエティーやドラマにもなんとなく閉塞感が漂う。コンテンツの大半がいじめか転落である。

YouTubeには世界各国のコンテンツが集まっていてこうした息苦しさが少ないのだ。

最初は東映などの昔のコンテンツとか英語のHowToものを見ていたのだが、最近はK-POPも見るようになった。歌番組もあるのだが、英語か日本語で字幕が付いたバラエティを見ているとタレントの人となりもわかる。とはいえ、言葉がさっぱりわからないので韓国語をなんとなく勉強しはじめた。日本語とよく似ているという人がいるのだが、実際にはほぼ一言も理解できない。

さて、韓国語には文字上で애と에という二つの「え」にあたる母音がある。現代の韓国語では区別しないとか、最近の若い人は区別しないなど諸説があってよくわからない。どんな音なのだろうと思っていたのだが、最近「ああ、あれかな」と思うことがあった。

スーパージュニアのドンヘという歌手が自分の名前を叫ぶ「ダサカッコイイ」떴다오빠という曲がある。辞書上は「浮かび上がったお兄ちゃん」という意味だそうだが、Yahoo!知恵袋によると有名になったという含みがあるそうだ。内容は特になく「世界中で大人気のお兄さんたちがやってくるよ」みたいなことをダサ明るく歌っている。この中で最初に自分の名前を叫ぶのだがこの「エ」の音がなんとなく東北弁っぽい。ああ、これが애なんだなあと思った。ということは韓国人の中にもこの二つの音を区別する人がいるのではないかと思って調べ始めた。

この애の発音が東北弁のように聞こえたので、まずは東北弁のエの音を調べた。ちょうど山形県で線状降水帯ができていてインタビューが流れていたのを聞いたばかりだったのである。ところがこれもなかなか複雑だ。東北にはɛとeの両方が使われている地域もあるらしい。標準日本語の「え」はeになるがナマエのようにaeがɛとなる地域があるそうだ。wikipediaの秋田県の方言の項目を読むと秋田県は6母音地域なのだそうだ。日本語にも5つ以上の母音を発音する方言があるのだ。いずれにせよ東北方言の「訛ったエ」の音がɛであることは間違いがなさそうである。애はɛと同じ音なので「あの音」が애なのは間違いがなさそうだ。

このドンヘ(東海)の出身地を調べてみると全羅南道の木浦の出身ということなのだが、全羅道の方言はエは애と発音するらしい。また京畿道の言葉でも애と에は区別しないとか、区別はしないが微妙な変化があるなどと人によっていうことが違っている。韓国語は蟹と犬が개と게であり「弁別はできるが普通は気にしない」という同音異義語扱いになっているようだ。

すると、音韻的に区別されているということではなく「方言である」のかもしれない。韓国語がきちんと読めればダサカッコイイ曲の中では実は方言が使われているなどということがわかって面白いのだろうが、さすがにGoogleTranslate頼りではそこまではわからなかった。かろうじて見つけたのは標準語で괜찮아요(クェンチャナヨ・大丈夫ですよ)という単語が南部の人には発音ができないという話だ。クェがケになってしまうので、ケンチャナヨになるのだが、そうすると文中では濁音化して「ゲ」になってしまうのだそうだ。日本人の耳にもクェは聞き分けられないので「ケンチャナヨ」と発音する人が多い。同じようなことが国内でも起きていることになる。

ここまでだらだらと書いてきた。何が言いたいかというと、実は日本人でもɛとeが区別できているということだ。東北弁が訛って聞こえるというのは標準語との違いを認識できているということを意味する。ただ、早い時期に文字を習ってしまうので周囲の音を全て「え」に吸着してしまうのだろう。

では日本語の「え」はどんな音なのだろうか。実は「い」と「あ」は一つの線の上に並んでいる。この並びは「い」「ɛ」「e」「あ」となっている。ところが、日本語の「え」はこの「ɛ」と「e」の中間なのだそうだ。厳密にはeに補助記号をつけて表している。ちなみに英語のbedのeは「ɛ」であり、catの「a」はæという音だそうだ。æは「あ」と「ɛ」の中間音だというので、この線状に並んでいる音には連続的な変化があり、それを言語によっていろいろ聞き分けていることがわかる。

英語でも同じような状況があるようだが、こちらはさらに複雑である。イギリスには容認発音と呼ばれる標準化が存在し、それによるとEの標準発音はɛ(日本人から見るとややぼやけた感じのエ)が標準なのだそうだ。だが、米語には標準発音そのものが存在しない。そもそもローマの言語(5母音)を前提にしたアルファベットは英語の複雑な「え」の揺れを捕捉できない。このため英語は国際記号より前に作られた発音をそれぞれの辞書が「工夫して」使うことになっている。辞書によりバラバラな発音記号が存在するのである。多分「ɛ」(日本語の「え」よりぼやけている)のだが、文字では捕捉できないので、ローマ字の常識にとらわれずビデオなどをみて真似したほうが早い。小学生や幼稚園児のほうが発音が良い理由がよくわかる。

日本人が英語を話すときカタカナの音に吸着され、それを離脱しても英語の発音記号の揺れに悩まされるという可能性がある。子供の頃に正しい発音ができていたのにローマ字を覚えてしまったためにわからなくなる人もいるかもしれない。日本の本がどのような発音記号を採用しているのかはわからないが、その道の権威が持ってきた米語の学派の一つをとって権威化しているかもしれない。そうなると、実情とずれていても気がつかないということになりかねない。

実際には弁別ができているのに、文字や学習に引っ張られてわからなくなってしまうということが起きているのかもしれないと思った。こうしたことは英語と日本語という二つの言語だけを比べてみてもよくわからない。早いうちからいくつかの言語を「かじって」おけば、英語の習得も楽になるのかもしれないなと思った。

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なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

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ごちそうさまでした

少し前に投げ銭をいただいていたのですが「コーヒーを飲む」ということだったのでコーヒーとバウムクーヘンの切れ端にしてみました。どうもごちそうさまでした。

別の日にシュークリームをいただきました。昔はお店で作ってたみたいですが、今は工場で生産しているようです。コーヒーはおまけについてきます。

スーパーでスイスロールを見つけて缶コーヒーと一緒にいただきました。カロリーを見てものすごく後悔しましたが。とりとめもないアイディアをまとめるにはいいですね。まとまってないという話もありますが……

日本文明はユニークなのか

去年の末くらいからちまちまと「村落社会」について考えてきた。利害共同体の集まりとしての日本には乗り越えられない課題がいくつかある。利益共同体は受益者の変化が遅れるので全体が足を引っ張られることになる。

しかし利益共同体の中で好き勝手にやって行きたい日本人は他人からあれこれ言われることを嫌う。そこで、今ある状態を観察してみれば良いのではないかと思った。他人からあれこれと指図をされることがいやなのだから問題を自覚すれば良いと思ったのである。

これを考えているうちに、いろいろな類型があることがわかった。例えば心理学者の河合隼雄は母性社会という概念を提唱し「契約で明確化しない」社会としての日本について分析しているようだ。

また、別の人は農耕文化に外からの刺激が加わることで「精神革命が起こる」と捉えていた。この見方を取ると父性・母性という対立概念ではなく、今まで定型のルールを必要としなかった社会が複雑化する過程で定型のルールを受け入れて行くというダイナミックな論が聞けるのではないかと思った。

試しに彼ら一派の著作を読んでみたのだが、やはり集団で論を形成するうちにディテールに関心が移り、繊細な(あるいはちまちました)論に落とし込まれてしまうようである。今回読んだのは比較文明における歴史と地域 (講座比較文明)だ。

この中に日本文明について書いた一節がある。2008年に亡くなった濱口惠俊という人が担当している。まずグローバルに通用する文明とは何かを分析した上で日本文明は独自だと結論付けた。濱口らが注目したのは西洋流の個人主義ではなく関係性に立脚した「間人」という概念のようだ。日本文明の特徴は人が個人として存在するのではなく、関係性の中に存在するというコンセプトであり、それに沿って幾つかの用語が提唱されている。信頼に基づいた自律的な秩序は世界的な価値があり、国際的に貢献できるのだという筋になっている。

この筋を批判するのは簡単である。現在、安倍政権が政府の中を通産省・官邸一派とほか省庁に分断している。他省庁は人事権を官邸に握られているので自律的に問題解決ができなくなる。一方、通産省は自分たちの利益を優先させようとし軋轢を生むのだが、実際に仕事をしているのは他省庁なので情報が上がってこない。現在様々な省庁から「記録が発見」されているが実際には隠されていたものであり、政府が分断されていて5年もの間自浄作用が働いていなかったことがよくわかる。これまでこうした問題が起こらなかったのは、それぞれの村に分かれておりお互いに手出ししなかったからにすぎない。つまり、信頼に基づいた自律的な社会などないし、あっても破壊するのは極めて簡単なのだ。

日本文明を独特のものだと考えるのは何も濱口だけではない。有名なものにハンチントンの文明の衝突がある。主に宗教を基礎に「西側キリスト教」「東側キリスト教」「イスラム教」「アフリカ」「中華圏」「アジア仏教圏」「ヒンディ」「ラテンアメリカ」に分けている。類型に属さない国が4つり、そのうちの日本だけが経済的にインパクトがあり独立した文明として位置付けられている。ハチントンは文明と文明がぶつかるところに摩擦や問題が生まれるとしている。

ハンチントンは西洋キリスト教圏から他文明をみているので、隣接する文明についてはある程度詳細に分析をしている。しかし、アジアの文明に関する見方はざっくりしたものも多い。一方でイスラム教の内部に見られるスンニ・非スンニという対立は見過ごされている。だが、ハンチントンには日本文明を独自だと主張しなければならない心情的な理由もないので、見方はダイナミックで面白い。

日本人がこれを扱うとどこかちまちましてしまうのは、どうしても他者に対して「良い意味で違っている」ということを証明しなければならないと考えてしまうからだろう。逆にいえば「日本文明は何かの亜流か白人文明に対してみると取るに足らないものなのではないか」という小国意識があり、そこから脱却したいと考えているのではないだろうか。

日本文明が特殊なのは実はそのユニークさにはなさそうである。日本の特異性は様々な文明から影響を受けつつ、本質的には変わらなかったという点にある。なんとなく全てを解釈して乗り切ってきたのである。

ハンチントンによるとエチオピア、イスラエル、ハイチという孤立国があるのだが、一億人規模で広がった地域は他になく「文明扱い」されているのかもしれない。エチオピアの人口は一億人を突破しておりこれが文明扱いされるようになる日も近いのかもしれないが、経済的な影響力はそれほど大きくない。

濱口さんがなぜ関係性の中にある人間というコンセプトで日本社会を説明しようと思ったのかはよくわからないが「個人主義を受け入れられなかった」日本の「集団主義的な傾向」を正当化したいという気持ちはよくわかる。一方で中華思想にある階層的な集団も日本は受け入れなかった。ある意味日本は「牧畜系の人たちが持っているルールによる支配」を受け入れずに一億人規模の人口を維持できている特異な社会と言える。確かにこれを劣等感として捉えるのではなく、集団が機能しており自律的なダイナミズムの元に社会が形成されていると捉えるのは間違ったアプローチではないだろう。

ということで、この説明をいったん受け入れるとまた別の深刻さが浮かび上がってくる。濱口が間人というコンセプトを思いついたのはこれが日本社会の本質だと考えたからだろう。ということは日本人は集団の中にあってはじめて安定すると見なしていることになる。

しかし、実際には日本では孤人主義が蔓延している。これは西洋流の自己意識を持つこともできないし、かといって間人として存在できる集団も持たないという状態だ。他人の視線と承認は必要だがそれが満たされないのが孤人である。

非正規雇用と呼ばれる企業集団からの保護が曖昧な人たちが多く生まれたが、政府は責任転嫁のために「これは自己責任だから政府は関与しない」という言説が横行している。社会の中に難民が生まれているような状態である。安倍政権は経済内戦で生まれた難民を放置したままお友達への便宜供与に邁進する政権だと言える。

伊東らの比較文明論は精密なプラモデルのような面白さはありそうだが、それほど情勢分析には役に立ちそうもない。しかし、彼らが揺るぎないと考えていた日本人の独自性がいとも簡単に破壊されてしまったということを観察する上では面白い教材と言えるかもしれない。

このことから、現在の政権が嘘をついたり自己責任論を振りかざすことがどれだけ危険で特異なことなのだということがわかる。それは人世代前の人たちが「当たり前である」と考えてきた空気のような社会的な特性がなんとなく失われていることを意味している。当たり前にあると考えてありがたがりもしなかったから汚染されるとどうして良いかわからなくなってしまうのだ。

安倍政権はその意味では意味を破壊することにより社会から会話を奪い去れ分断を促進しているは会社と位置付けられる。さらに伊東らの言葉を借りると日本文明そのものを破壊しているとさえ言える。

日本人がかつてあった「間人」に戻るのか、それとも徐々に個人主義を学んでゆくのかはわからないのだが、いずれにせよかつてあった村落を維持する仕組みを学び直しつつ、個人主義のあり方も基礎から学ぶ必要があるのかもしれない。

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