幻に終わりそうな東京オリンピックと高度経済成長幻想の終わり

ヨーロッパでは東京オリンピックの招致に不正が判明した場合の代替開催地についての議論が始まっているようだ。イスタンブールは間に合わないのでロンドンでやろうという話があるらしい。噂レベルで本当かどうかは分からないのだが、もし本当なら2020年は日本にとっては苦い年になるだろう。本来は自分たちの国で開催するはずだったオリンピックをテレビで見ることになるのだ。

だが、これで良かったんじゃないかと思う。もし仮にイスタンブールが開催都市に選ばれていたら、東京は再び招致活動をやっていただろう。招致活動には多額の資金が投入されるのだが、これは結局のところ広告費や税金で賄われている。いったん招致に成功したのだから、これで再び招致活動をやろうなんていう人は出てこないだろう。

そもそも東京でオリンピックを開くのは無理だった。最初は「コンパクトにやります」などと言っていた。能力的にコンパクトオリンピックを開催することはできるだろうが、その気持ちは最初からなかったようだ。理念を実行するプロデューサのような人はいないし、あとは「どれだけむしり取ろうか」という人たちばかりだ。実際のところスポーツ大会が成功するかなんていうことはどうでもよかったのだろう。

その結果「一度既成事実さえ作ってしまえばあとは借金してでもどうにかなる」と甘い気分でプロジェクト管理する政治家たちやそのおこぼれに群がろうとする人たちのおかげで予算は膨らみ続けている。森元首相は「もともとあんな予算では無理だった」と言い放ったそうだが、それは、悪徳リフォーム会社が年寄りを騙すときに使う手口で、いわば詐欺だ。

買収で開催を勝ち取って。リフォーム詐欺まがいの方法で国民を騙す。こんなオリンピックを誰が喜ぶのか、もう一度冷静になって考えた方がよい。

フランスの司法当局が贈収賄を認定すれば、電通は世界のスポーツイベントに関わりにくくなるのではないだろうか。しかし、一度不正にコミットしてしまえばずるずると不正に関与せざるをえなくなるわけだから、この程度ですんで良かったと思えるときがくるかもしれない。

それにしてもどうして招致委員会はこんなに危ない橋を渡ってしまったのだろう。日本は想像以上に困窮していたのではないだろうか。高度経済成長時代の夢をもう一度と焦るうちに倫理感覚が麻痺して買収行為を行ってしまったのだ。バブル終焉からずるずると続いていた「夢よもう一度」といううっすらとした希望がビッグプロジェクトとともに打ち砕かれるのだ。オリンピック招致の失敗には高度経済成長幻想の葬送という意味合いがあるのだろう。

この過ちを胸に刻むためには、壊してしまった国立競技場の跡地を更地のまま保存するのがよいのではないだろうか。何も開発しないで、数本のシンボルツリーを植えて芝生でも敷けば都民の憩いの場所になるだろう。そこで一日ぼんやりと何もしないで過ごすというのも贅沢の一つかもしれないし、「もう過ちは繰り返しませんから」という石碑があれば、公園もどことなく意義深いものになるだろう。

電通叩きとか収奪とか

オリンピック贈収賄疑惑は「電通叩き」の様相を呈してきた。だか、電通は特に悪くないと思う。そもそも電通は広告を売っている会社ではない。企業に様々な利便を提供するのが主な仕事だ。発注権限を持つと、クライアントは「何でもいうことを聞いてくれる奴隷のような」人を求めるようになる。そのあれこれに応えてやるのが電通の仕事で、別にクリエイティブなんかどうでもよいのである。その延長にあるのが、オリンピックのとりまとめだ。もともと「偉い人の汚い仕事を引き受けてお金をもらう」のが電通の仕事なのだ。

もともとオリンピックは貴族が新しく始めたビジネスだ。彼らは「働かずに庶民から搾り取る」にはどうしたらよいかを常々考えている。貴族にとって働くというのは庶民がやることで、奴隷みたいなものだ。もともとは地代収入、権益、徴税で食べてきた人たちなのだが、それだけでは食べてゆけなくなったので、庶民に感動を売るようになったのだ。

安倍首相や森元首相がどんなに偉くても彼らにとっては「庶民の代表」にしか過ぎない。本当にメンバーになれるのは竹田家のような貴族だけなのである。ということで、電通は貴族にお友達がいる庶民の小間使いくらいの位置にいる。彼らを叩いてもあまり意味はないのではないかと思う。

ちなみにディアク氏はスポーツマン出身だ。奴隷階層みたいなものである。ディアク氏は「やり過ぎた」のだろう。不正なお金を手にするしかなかったのだ。貴族はそんなことはしない。正当な手段で搾り取るのだ。だから庶民は「搾り取られて喜んでいる」ことになる。庶民は「国」に所属しているという幻想を得ることで、気分を高揚させる。そのためにはいくらでも支払うのだ。

そもそも「何が賄賂か」という問題がある。もともとはロシアのドーピング隠蔽が発端だったようだ。ロシア人は「奴隷階層が健康を壊して人生を台無しにしても」別に構わないと考えるわけだが、それはヨーロッパ基準では「ルール違反」だとされた。そこでロシアはディアク氏に隠蔽を依頼した。ラミーヌ(ラミン)・ディアク氏はそれに失敗したので、ロシアから「金を返せ」といわれ、表沙汰になった。ディアク氏の資金の流れを解明する段階で、電通や日本当局からの「巨額資金」が表沙汰になったのである。多分ヨーロッパ基準では「賄賂」なのだが、これが世界基準ではなくなりつつある。

もともと、日本人は口利きをそれほど悪いことだとは思っていないようだ。口利きは日本の文化に根ざしているからだろう。例えば甘利元大臣が役職を利用した役所への口利きも大した問題にはならなかった。日本人が口利きをいけないことだと考えるのは「他の人たち(ヨーロッパやアメリカ)がそう思っているから」に過ぎない。だから「他の人」がやっていれば自分たちもやるのだ。

同じような感性を持っているのが中国人だ。役職にある人が私腹を肥やし海外に資金逃避させることが当然だと見なされている国である。アフリカにもそのような国が多い。ということで、中国に対抗意識を持っている安倍政権は自分たちも賄賂を支払い、国民もそれをそれほど悪いこととは思わないのだ。

例えば最近の話題ではトルクメニスタンへの2兆円の「投資」がある。実際には日本企業が大型プロジェクトを受注する。こうすると都合のよいことがいくつもある。税金を投入して海外に流す。トルクメニスタンは独裁国家なので、現地の政治家にキックバックさえすれば、確実に投資を回収することもできる。そして大企業がプロジェクトを受注する。これを海外法人の儲けということにして税金の安い国に投機した会社の売り上げに勘定できれば(していないかもしれないが)合法的に資産の移転ができるのだ。大企業はそのうちの一部を「寄付」として自民党や政治家に移転すればよい。

トルクメニスタンの投資には違法性がないというところだ。文句を言いそうな人は排除せずに「抱き込んでやればいい」のだ。

オリンピックの問題に戻ると、あとは商品価値の問題だけである。オリンピックでは汚い金がうごめいていると多くの人が考えるようになれば、オリンピックの商品価値が毀損される。問題になるのは放送権が高く売れるアメリカとヨーロッパの人たちの価値観だろう。また、借金だけが残るということになれば招致都市がなくなる。するとオリンピックが実施できるのは、比較的大きな金が動かせる独裁国家だけということになる。すると貴族たちは困るわけで、それなりの改革策を打ち出すことになるだろう。

一方で新興国を介した資金逃避はよりおおっぴらな形で温存される可能性がある。これは国家財政の私物化という意味で、国家の持続可能性を大いに毀損する。多分、本当に怒るべきはこうした問題なのではないかと思う。

だから、電通叩きには大した意味はないわけだ。

日本は物を大事にしない国になるのか……

今日のTwitterネタ。日本では長く車を使っていると税金が高くなるのでけしからんという趣旨のブログ記事を読んだ。「日本は物を大切にしない国になってはいけない」というのだ。

個人的には、日本で車を買う気にはなれない。アメリカで車を持っていた経験があるのだが、そもそも日本は税金が高すぎると思う。アメリカの経費はガスタグ(定期チェックしてナンバーを更新してもらう)と保険だけなのだが、日本ではそれだけでは済まない。アメリカで乗っていた車は1977年製造のビートルである。12万円で買って8万円で売った記憶があるが、途中でマフラーが落ちた。それでもガスタグチェックには引っかからなかった。

日本では車は贅沢品の扱いだ。にも関わらず多くの人が個人の車を所有している。

日本では軽自動車がよく売れているらしいのだが、この傾向が続くかどうかは分からない。軽自動車は政府の政策に左右される側面があり、車メーカーは「軽自動車頼み」にならないようにバランスを取っているそうだ。

では、軽自動車の税金が高くなったら、人はどうするのだろうか。おとなしくもっと高い車を買うのか。実際にはそうならない気がする。

消費者は別の手段で車の購入資金を抑えるのではないだろうか。そもそも国民所得は低くなってきており、社会保障費が上がるという長期的なトレンドがあるのだから、車の購入そのものを手控えることになるだろう。特に都市部ではそれが顕著に現れるはずだ。いわゆる「若者の車離れ」というやつだ。友達が車を持たなくなれば自分も必要がなくなる。顕示消費ができなくなるからである。

仮に車が必要な場所に住んでいたとしても安い車が売れることになるだろう。ではメーカーはどのように車の値段を下げるのか。

軽自動車の会社はシェアを上げるために、新車を買いとって中古市場に流しているそうだ。中古車マーケットは組織化されてきており、オークション形式で値段が付くようになっている。つまり、税金を上げると新車が売れなってしまう。廃棄処分の費用も考えると、適当な年次の車を中古で乗り換えるということになるだろう。

メーカーが維持できなくなった車を廃棄するとは思えない。国内で人件費をかけて廃棄すると高くつくからだ。すると規制のもっと緩やかな国への輸出が始まるだろう。日本車は丈夫なので海外でも立派に走るに違いない。すると新興国の新車需要を押し下げることになる。

この傾向が続くと「若者の地方離れ」が加速するだろう。「車での生活が維持できない」ということになれば、若者は地方に戻れなくなる。東京圏の政令指定都市でも近郊部では車がないと生活ができない地域があるが、真っ先に空洞化するのではないだろうか。これは地方にとって深刻な問題だ。

現在地方自治体の首長が「安い車を売れ」と政府に要求することはない。税金が上がったとはいえ、まだ許容範囲なのだろう。もし、アメリカの要求に従って安い軽自動車が提供できなくなったときには政治問題化するかもしれない。地方にとっては死活問題だ。

現在審議が止まっているTPPが通れば、日本は政策オプションとして軽自動車優遇ができなくなる。小さな車を作るのが不得意なアメリカの自動車メーカーにとって軽自動車は非関税障壁だからである。一方で、軽自動車が売れなくなったからといってフォードやGMのピックアップトラックが売れるということもないだろう。日本の狭苦しい駐車スペースにフォードは駐車できない。

そのうち地方から突き上げられ、アメリカの車も売れないという時代が来るのかもしれない。

クッキーモンスターの転向

セサミストリートの面白いところは、キャラクターの無意味な情熱だ。例えばカウント伯爵は数えることに異常な情熱を持っており、数えているうちに我を失ってしまう。人間の無邪気さの裏にはこうした狂気が潜んでいるものだ。同じようなキャラクターにクッキーモンスターがいる。クッキーが大好きなのだが、そのうち興奮して何でも(食べられないものでも)食べてしまうという設定である。

ところが、そんな無邪気なクッキーモンスターはもういないらしい。英語版のwikipediaによると、クッキーモンスターはその哲学を曲げてしまったらしい。「クッキーはときどき食べるもの」であり、果物や野菜も食べなきゃだめなのだという。以下、一節の抜粋。コルベア・リポートは深夜のショー番組で、ピーボディー賞はテレビのピューツア賞と呼ばれる栄誉ある賞なのだそうだ。

2008年6月19日、コルベア・リポートに出演したクッキーモンスターは再び「クッキーは時々食べるもの」だと説明した。彼はスティーブン・コルベアのピーボーイ賞を食べようとした。コルベットは興奮して、なぜクッキーモンスターはクッキー賛成の立場を捨てたのかを訪ねた。スティーブンの聞いたところによると、クッキーモンスターの転向のせいで果物が子供の大好きな食べ物になってしまったそうだ。スティーブンはクッキーモンスターがクッキーラベルピンを身につけていないことも批判した。 クッキーモンスターは70年代80年代は狂った時代で、自分はロバート・ダウニー・ジュニアのクッキー版だったと主張した。クッキーモンスターはピーボーイ賞(丸いメダルで小さな台座が付いている)はクッキーなのかと訪ね、コルバートがショーの終わりに戻ってくると、賞は消えておりクッキーモンスターは口を拭っていた。

背景にはアメリカの子供の栄養知識の不足があるのだろう。アメリカ人は(日本人に比べて)家庭の味にとぼしく、人によっては栄養の知識が全くないまま育つこともあるという。子供の教育を担うクッキーモンスターもこうした教育的配慮とは無縁でいられなかったことになる。いわゆる「政治的配慮(ポリティカルコレクトネス)」で、日本でいうところの「コンプライアンス」だ。

ちなみに、クッキーモンスターの一番好きなクッキーはチョコチップであり、二番目はオートミールクッキーだそうだ。日本語版のwikipediaはクッキーモンスターに対する情熱はあまりないらしく、ほとんど記述が見られない。

若者のチューイングガム離れ

政治ネタばかり書いていると心がぱさついてくるので、お菓子について調べてみた。面白いことにビスケットが3年で13%も消費を伸ばしているのだというのだ。なぜ今頃ビスケットが話題になっているかというと、オレオやリッツなどの製造がヤマザキからモンデリーズに移管されるためだ。毎日新聞が伝えるところによると、モンデリーズがターゲットにしているのは40〜50歳代なのだという。意外と高齢化している。

お菓子業界では常識らしいのだが、東日本大震災以降カンパンなどの売り上げが伸びていた。だが、飽きっぽい日本人は3年で買うのを止めてしまったようだ。ではなぜビスケットが再び伸びているのか、その理由は分からなかった。画期的な新商品が出たという話も聞かない。

となるとビスケットの影で泣いているお菓子もあるに違いない。おせんべいが減っているのではないかと予想してみたのだが、それは間違いだった。お年寄りが増えて米菓の売り上げは好調らしい。

もちろん売れ行きが悪くなったお菓子もある。チューイングガム・アメ・洋菓子などである。グミがアメの中に入っておりアメ分野の売り上げをカバーしているようだ。

洋菓子(ケーキ、カステラ。ドーナッツなど)はコンビニでコーヒーと一緒に売られているのでさぞかし人気なのだろうなあと思ったのだが、チョコレートなどにシフトしているのだという。気軽に食べられるものが好まれているということになる。現代人は優雅にケーキなんぞ食べている時間はないのだろう。勝手なイメージだが「スマホ片手に食べられるもの」か「お年寄りに好まれるもの」がよいのかもしれない。チューイングガムや飴のように食べるのに時間がかかるものは好まれないのである。

チューイングガムや飴のコマーシャルは、売り上げを落とさないためにやっているようだ。だから「息がきれいになる」などと機能性ばかりを唄っているわけだ。

お菓子業界では二極化も進んでいるようだ。

例えば、贈答品としてのお菓子の需要が高まっているらしい。お年寄りから子供まで誰でも楽しめるからだろう。一方で地方の小さなお菓子メーカーは苦境に立たされているところもあるようだ。やはりお土産にするなら老舗か誰でもよく知っているメーカーのものが選ばれる。地味なメーカーは淘汰され、大きいところだけが生き残るというのはなんとも世知辛い話だ。

手軽に食べられるスナック菓子が喜ばれる一方で、町の小さなケーキ屋さんや地方の小さなお菓子どころなどは苦しい状態に置かれているのかもしれない。例えば、専業主婦が少なくなると「ホットケーキミックスを使ってカップケーキを手作りする」みたいなことが贅沢になる。すると子供たちはスナック菓子やチョコレートに移行するだろう。一方で「セックスアンドザシティに出てきました」みたいなカップケーキが流行ったりする。

個人的にはマシュマロ好きなのだが、ほとんど店頭で見かけることはなくなった。コンビニにも置いていないところが多い。一方で、最近ではドミニク・アンセル・ベーカリーのフローズンスモアが話題になった。マシュマロの中にアイスが入っているというもの。古くからのお菓子が消える一方で、トレンドものが出てくるという状況になっているようだ。マシュマロは女子が大好きなコラーゲンが入っていると言う人もいる。「機能性訴求」は不調の証なのかもしれない。

気軽にスイッチングできるお菓子は飽きられてしまってはおしまいである。そこでメーカーは新製品作りに熱心に取り組む。しかし、日本人の飽きっぽさは世界でも例がないらしい。コンビニ菓子の中には季節ごとに新しい風味の商品が出るものがある。例えば、キットカットのように外国人から珍しがられているものもある。抹茶や紅芋など珍しい種類のキットカットがあるのは世界でも日本だけなのだそうだ。外国人の中には甘いマメ(つまりあんこのこと)を気持ち悪がる外国人もいるので、案外こういうのがクールジャパンだったりするのかもしれない。

きのう・きょう・あしたの語源

日本語では、今日からみて次の日のことを「あした」と表現する。ただし、あしたのもともとの意味は「朝」である。このことから、昔の日本には明日・今日・昨日という概念がなかったことが分かる。あしたの対になる言葉はゆうべであり、これは昨日の夜の意味だ。日本人は今、あしたの朝、きのうの夜くらいの時間軸で生活していたことになる。

明日、昨日は中国語から輸入した概念らしい。現在では明天・昨天というようである。中国語では、翌年のことを、明年・来年と言うらしいが、日本語からはなぜか「明年」という表現が落ちてしまっている。

ゆうべには今でも「一般的な夜」の意味と「昨日の夜」という二種類の使い方がある。これは日本語に冠詞がないからだろう。つまり、evening, the evening, an evningのような区別ができないのだ。同じようにあしたにも、「一般的な朝」と「特定の(つまり明日の)朝」という二種類の区別があったのではないかと類推できる。

ちなみに昨日はきのふであり「(さ)きのひ」から来ていると考えられているようだ。「さき」が、「さきの大戦」のように過去を向いているのが興味深い。「このさき」というと将来のことになる。今日はけふであり、「け」は「けさ(この朝)」と同じだという。「ふ」は「ひ」が転じたものらしい。

シリアル – 朝ごはんについて考える

先日、NHKのあさイチという番組で「主婦の時間のやりくり」という特集をやっていた。そこでは、忙しい主婦が朝ご飯の品数をそろえることが「偉い」と評価される一方で、坂下千里子のような「手抜き主婦」がパンにピーナツバターを塗っただけの朝食を「えーこれが朝ご飯なの」などと非難されていた。

伝統的な家族観のもとでは坂下千里子は糾弾される運命にある。これが多くの主婦を苦しめている。主婦は「みそ汁が飲みたいなら自分が作れ」とは言えないからだ。だが、これは合理的な選択ではない。

朝ご飯の目的は栄養を取り「体と頭を立ち上げる」ことである。ピーナツバターとパンだけでは栄養が足りないのだが、特に品数を揃えるのも面倒だ。だが、世の中にはシリアルという便利なものが売られていて、多くの食材と栄養素を同時に取ることができる。

「いやいや、朝は暖かいものが食べたい」という人がいるかもしれないのだが、インスタントスープやコーヒーを付ければ言いのだし、「朝には発酵食品が必要だ」という人がいるのなら、ヨーグルトを付ければいい。朝は忙しいのだから、火を使った料理を極力減らしたいと考えるのが人情というものである。わざわざご飯を炊いてみそ汁を作る(具を揃えて出汁から作ると結構面倒くさい)必要はないわけである。

どうやら日本人は「効果」を「かけた手間の時間」で計測するという悪癖があるらしい。「人月指向」なわけで、これは、延々と続く残業のように様々な無駄の温床になっている。だが、朝ご飯の効果は「栄養」で計測されるべきだ。短い時間で栄養が準備できるなら、それは「費用対効果が高い」と賞賛されるべきではないだろうか。

品数が多い朝ご飯が賞賛されるのはなぜだろうか。いくつか理由がある。

  • 昔はシリアルのような便利なものがなかったので、栄養をまんべんなく取ろうと思うと様々な食品を組み合わせる必要があった。
  • かけた時間が愛情の量だと錯誤されている。

もちろん、専業主婦なら朝ご飯づくりに時間をかけてもよいのかもしれないのだが、公共放送を使って賞賛するほどのことではないのではないかと思う。

朝ご飯を作ってもらう側(まあ、本当は夫が作っても良いのだろうが)の一番の障壁は「ママが作ってくれたご飯と違う」というものなのだろうが、自炊経験がある人なら、独身時代には時間をかけていなかったはずなので、意外と受け入れは難しくないと思う。すると、残る障壁は姑世代の「私たちの時代はこうではなかった」という、世間の目かもしれない。

もっとも受け入れる側も「時間をかけないで栄養を摂取できるのはいいことなのだ」とは思わないかもしれない。それよりも海外セレブ(たいては女性モデルのことだ)などが、朝ご飯としてスムージーを飲んでいるのを見てあこがれるというのが受け入れ経路になるのではないかと思う。同じ栄養でも青汁ではダメなのだ。

さて、アメリカでシリアルが流行したのは「肉を食べるよりも健康に良い」とされていたからだそうだ。ベーコンと卵の食事は「コレステロールが高く不健康だ」とされていたのだろう。ただし、砂糖を使いすぎているとか栄養が添加物由来であるという批判もあるという。ヨーロッパなどのいくつかの国で「伝統的な朝食を破壊した」という批判もある。

アメリカではシリアルの消費は伸び悩んでいる。ケロッグは朝食以外でシリアルを使おうというキャンペーンをやったり、朝の時間をうまく使おうというキャンペーンまでやっているそうだ。この記事が挙げる、シリアルが食べられなくなった理由は3つだ。

  1. 忙しすぎて、シリアルすら作っている時間がない。代わりにシリアルバーなどを食べている。
  2. 子供が少なくなり消費量が減った。
  3. 砂糖は健康に悪いという認識ができ、伝統的なベーコン&エッグに戻りつつある。

理由1と3は矛盾するように思えるのだが、アメリカでも二極化が進みつつあるのかもしれない。特に理由1はショッキングだ。日本人の常識から見ると、シリアルを準備する方が「時短だ」が、それさえも「時間がなくてできない」というのだ。アメリカ人は何に時間を使っているのかが知りたくなる。

レトロなポスターに使えるフォント

Photoshopを使うと、写真からイラストを作ることができる。色合いを抑えて、枠線を付けるとなんちゃってイラストの出来上がりである。だが、そこに文字を付けるときに考え込んでしまう。フォントはたくさんありすぎてどれを選んでいいのかよく分からないのだ。

使っていいセリフ系フォント

下記に挙げるフォントは使える。古くからあるフォントだからだ。

  • Garamond (16世紀)
  • Caslon (1734)
  • Baskerville (1757)
  • Bodoni (19世紀)
  • Didot (19世紀)
  • Cochin (1912)

使っていいサンセリフ系フォント

下記に挙げるサンセリフ系フォントは使える。レトロ調ポスター(今回はアールデコとする)は1910年から1930年までの短い間に作られたのだが、それに合わせていくつものサンセリフ系フォントが作られたからである。

  • Copperplate (1910)
  • Futura (1923)
  • Gill Sans (1930)
  • Peignot (1937)

ここに挙っていないサンセリフフォントは使えないものがある。HelveticaやUniverseは戦後に作られた。

さて、パソコンにインストールされている「なんか古そう」なフォントの中にも使えないやつがある。使えないのだが「なんとなく古く見える」ように作られているので、分かって使う分には面白い効果が得られるかもしれない。

  • Bauhaus (1975)
  • Trajan (1989)
  • Desdemona
  • Hervulanum (1990)

なお、ブラックレターのGoudy Textはなんちゃってフォントのように思えるのだが、1928年制作だそうだ。これは使えるのである。

その雑草には名前があります

IMG_0198よく家のブロック塀のような所にこんぺいとうのようなピンクの花を咲かせる雑草が生えている。実はこの雑草にはポリゴナムという名前が付いている。和名をヒメツルソバというそうだ。

ポリゴナムは他の草が生えなさそうなところに群生している。どうやら夏の暑さにも冬の寒さにも耐えるらしい。それほど日当りはなくても大丈夫なようだが、じめじめした木の根もとなどは苦手なようだ。どちらかといえば荒れて乾燥したところに生えている。ほんのちょっとした隙間に種が潜り込む。

ポリゴナムはタデの仲間である。つまりソバの近縁だ。ソバも荒れ地に生えることで知られているのだが、親戚であるポリゴナムも栄養の少ない荒れ地で生きてゆけるらしい。逆に栄養の良すぎる土地では他の植物に駆逐されてしまう可能性があるということになる。

実はこの花は外国原産らしい。日本語の情報では「ヒマラヤ原産であり、ロックガーデン用に明治時代に輸入された」という情報が広まっている。英語版のWikipediaではアジア原産だと書いてある。オーストラリアやアメリカにももたらされて自生しているらしい。

IMG_0195さて、この雑草の名前を知ったのは実はホームセンターなどで売られているからだ。価格は199円であった。花よりも高い値段で売られているのだ。

不思議なもので名前と値段が付いているとなぜか雑草扱いしたくなくなる。

よく「素人でも育てやすい園芸植物はありませんか」と聞くガーデニングの素人がいるのだが、実際には「増えすぎて困る」ものもあるのである。ポリゴナムもそのような植物の一つだ。