日本の護憲派は失敗したんだなと思ったという話

社会化されない内心について調べている。ネトウヨという極端な社会現象を見ながらいろいろ考えた。だが、Quoraでそれとは全く異なるものを見た。憲法なんか守っている場合じゃないというのである。




憲法の平和主義精神などというものは日本人には贅沢だと考える人が現れているということである。護憲派は負けたんだなと思った。

この短い議論は「日本が中国や韓国(原文では伏字になっている)に抗議ばかりしているが実効性がない」という質問で始まった。最初にこの質問を目にした時点では2つ「だから憲法を改正すべきなのだ」という回答がついていた。つまり軍事力がないからナメられるのだと考えていた人だけが回答をつけていたのだ。

そこに「国連憲章」について書いた。現在の国連憲章は問題解決のための単独軍事行動を認めていない。連合国(国連のことで具体的には安全保障理事会だ)がまとめて面倒をみるから個別にぐちゃぐちゃやるなと言っている。そもそもそんな必要があるかが疑問なのだが、いずれにせよ日本が憲法を改正して自衛隊を軍隊にしたところで中国や韓国とことを構えることはできない。

すると質問者から「憲法というのは社会情勢が安定している時の約束事」という返事が返ってきた。一瞬頭の中が真っ白になった。今は自分の身に危険が降りかかってきているから「警察」もあてにならないと続いていた。これを見たとき大げさでなく戦慄が走った。この人は憲法というのは贅沢品であって守る余裕がある時だけ守ればいいと言っている。めちゃくちゃなのだが、安倍政権下の日本では必ずしも笑っていられる話ではなさそうだ。

この人は「憲法は警察である国連が機能しているという前提で書かれているのかもしれない」が「国連は機能していない」のだから「憲法なんか守っている場合じゃない」と言っている。そして、確かに国連安全保障理事会が機能していないのは事実かもしれない。欧米社会とロシア・中国は牽制関係にあり、安全保障理事会は駆け引きの場に使われることが多い。そして、それをバックアップしている意見というのは「喧嘩しないと決めている人はナメられるよね」という居酒屋的政治議論だ。新橋のガード下では「一発カマしてやれば韓国も黙るだろう」と続くのかもしれない。

問題なのはこの人が「匿名で無知なネトウヨ」ではないという点である。まず名であって役職名も提示した上で議論に参加しており、情報も集めている。言い方も丁寧で「ちょっと過激に聞こえる意見だったかもしれない」と自省もしている。極めて落ち着いた冷静な理解なのだ。が、その結論は「憲法なんか守っている場合ではない」というものである。

少し考えてみたところ、憲法を粗末に扱っていることが問題なのではないということがわかった。その危機意識が問題なのだ。例えば、ナチスドイツは共産党が我々の暮らしをめちゃくちゃにするといって国会を「民主的な手段」で奪取した。そして、その範囲をユダヤ人に広げて数百万人を殺害した。戦争が終わって「なぜドイツ人はあんな残虐なことをしてしまったのだろう」と我に返ったとき人々の生活はめちゃくちゃになっていたのである。恐怖は民主主義を機能不全に陥れる。トランプ大統領もメキシコの壁の監視カメラ映像をTwitterに投稿し「二期目を務められなければ彼らがやってくるぞ」とほのめかす。

この意見がバランスを欠いていることはもちろん明らかである。北朝鮮は核爆弾を手に入れたので日本が核攻撃される可能性がある。アメリカは巻き込まれるのを恐れて北朝鮮の核攻撃に介入しないかもしれない。つまり現実的な脅威としてはありもしない中国や韓国の攻撃に備えるよりも「日本独自核武装論」の方が優先度が高い。

そう考えてみると、日米同盟という既存のものには過度な信頼が置かれており、なおかつ新しく出てきた変化に対しても過度に反応しているのだろうということがわかってくる。実は変化に対する不安なのだ。ただ、不確実性を回避する傾向が強い日本人がこの「戦後に構築された日米体制の揺らぎ」に心理的にどこまで耐えられるのだろうかと考えるといささか不安な心持ちになる。

ここでもっともやってはいけないことは非難である。これまでの考察では非難は人々を心を頑なにするだけで態度変容には結びつきそうにないということがわかった。かといってほのめかしも効きそうにない。この短いやり取りですでに彼の内心は「ああ、これは外向けに言ってはまずいことなんだな」として抑制されはじめている。日本では平和主義は正義であり正解だ。ちょっとほのめかしただけでも正解でない個人の内心は抑制されてしまうのである。

かといって、彼の内心が変わったわけでもないだろう。つまり「これはヤバイ状況なのだがみんなわかってくれない」という内心を抱えたままになる人が実は大勢いる可能性があるということである。そしてわかってもらえないのは「平和主義という正義を使ってマウンティングする嫌らしいリベラル」のせいだということになってしまうのだ。

これは手っ取り早く支持を集めたい政治家にとっては「宝の山」である。「あの人があなたの財布を狙っていますから私が預かってあげますよ」と言えばいいからである。国民主権などと言ってもそれは脆いもので、冷静でない人の手から権力を奪い去ることなど実に簡単なのだ。

前回は、素朴な内心をTwitterでつぶやいた人たちが「正解でマウンティングしたい」リベラルにバカにされて恨みを募らせてゆくというストーリを妄想した。確かにこういうことはありそうである。

だが、実際はそれほど単純ではないということがわかる。穏やかに「それは平和主義に反する」と言ってみても一旦芽生えた「心配事」が消えることはない。心配事は見えたものだけから構成されており、例えば今回の北朝鮮の核保有のように見えないものは見逃されている。さらに説得しようとすると内心が抑圧されてゆき蓄積されると権力が欲しい人たちに発掘されてしまうのだ。

今一番知りたいのはこうした漠然とした不安とか恐怖心がどのくらい広がっているのかという点なのだが、現実に先導政治家によって引き出されるまでは見えてこないのかもしれない。そして、それが見えたときにはもうあるいは手遅れになっているのかもなどと思った。

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他人を変えたい人と一発ドカンと変えたい人

ダイエットして少しスリムになったので「このまま腹筋が割れるのかな?」と思った。最初はベッドの中でちょっとした腹筋をやっていたのだが、15分くらいの運動にまとまった。最近腕立て伏せを加えたら体つきがちょっとだけ変わってきた。だいたい1年くらいかかっていると思う。変化はとてもわずかなのだが確実に変わっているという実感がある。




「やれば変わるんだな」という達成感は嬉しいものだ。体つきが変わるとちゃんと変化として実感ができるので自分の体をコントロールできているという実感が生まれる。だが、逆に言うとちゃんとやらないと変化が感じられないということでもある。体に気に入らない部分はきちんと努力していない部分なのである。

「毎日コツコツやっていると変化は現れる」のが実感できるということは「やらないと変化が現れない」ということがわかってしまうということでもある。つまり、今まで変われなかったのは誰のせいでもなく「何もやらない自分がいけなかったのだ」ということになる。いわば「自己責任」の世界である。ただし、他人が協力を拒むために使う自己責任ではない。あの自己責任は困っている人の眼の前で扉を「バタン」と閉める拒絶の音である。

前置きが長くなった。今回は虐待やネトウヨという病について見ている。他人を操作したいのにどうしていいかわからないという人たちが増えているのではないかという前提を置いた。ネトウヨや虐待者はその極端な例だが、潜在的にはもっとたくさんの「他人が思い通りにならずイライライしている」人たちが多いのかもしれないと思った。それは裏返せば自分が変われない、変わるために動き出せないということなのかもしれない。

「自分は変えられる」とキレイゴトをいうのは簡単なのだが、ダイエットで一番難しいのは自分の食事のコントロールだ。忙しくて健康に良いものが食べられないとか、子供の頃から習慣で食べているものがやめられないというのが最大の障壁になってくる。中には栄養知識のない人もいて「炭水化物まみれ」の食事が出てくることもあるだろう。コンビニ飯も外食も油と調味料に「まみれて」いる。ストレスがたまるとどうしてもビールを買ってスナック菓子と一緒に流し込みたくなるかもしれない。つまり、こうしたしがらみを断ち切って一人で始めないとダイエットそのものに着手できないという難しさがある。

ネトウヨはそもそも自分の意見を構築するまとまった時間が取れない。情報を集めようとするとすでに極端な思考で炎上商法に走る人たちが大勢いて容易に引っかかってしまう。さらにそれを社会に確かめようとしてうっかり何かを発信すると「それは人権侵害だ」という非難にさらされるかもしれない。食事を見直そうというところまでは良かったが探せたのがコンビニ飯だけだったというような状態だ。

こうして人々は実名で何かを発信するのを諦め、集団になって暴走する道を選ぶ。ただ、これは今に始まったことではなくバブルが崩壊した1990年代からはじまっている。サラリーマン雑誌がLight Right(軽右翼)的なコンテンツを取り上げるようになってきたのがその頃なのだ。

日本社会は、変わりたいのに変われない人たちが持った素朴な政治感情を社会化するのに失敗した。代わりに蔓延しているのが、人権が悪い・憲法が悪い・中国と韓国が悪いという恨みである。政権交代によって政治を変えたいという運動は3年で挫折してしまったので、結果的にこれだけが残った。そしてそれが政権内部にまで浸透してしまったというのが平成末期の政治状況だった。考えてみれば悲惨な話である。

日本は1990年代から経済停滞が始まっていて、それ以降「成功体験」が持ちにくくなっている。ダイエットの例でいうと「やれば痩せるんだな」というのはすなわち「やらないとダメなんだな」ということに気がつくことだ。だが、そういう成功体験そのものがサラリーマン社会にはない。というより成功体験を目指すことすら許されていない。彼らにできるのは現状の維持だけである。買い替えが必要な車をもっと早く安全に走らせろと脅迫されているのだ。

こうした中で変化を望む気持ちだけは大きく膨らんでいるようである。最近気になっているのが、テレビのビジネス向け番組で盛んに語られる「なんとか革命」の類である。政権が使い始めたのが浸透したのだろうが、安倍首相が自力でこんな言葉を発明できるはずもない。大河ドラマと日曜劇場が好きなおじさんたちが考えたのだろう。努力したり話し合ったりして変化をもたらすことが苦手な日本人が「なんか世の中がガラッと変わってくれないかなあ」と思い始めているのかもしれない。例によってQuoraで聞いてみたが「大阪都構想の時にはサラリーマンの支持者が多かったですよ」と教えてくれた人がいた。なるほどなと思った。

自分はどうせ変われないし周囲も動いてくれない。相手を非難しても状況は変わらない。中には弱いものをいじめてうさを晴らす人も出てくる。内に篭ればいじめになり、外に出ればネトウヨ的言動になる。だが、それでも何も変えられないとなると「一発逆転」を狙うようになってくる。状況はそこまで積み上がっている。

革命志向が大きくなり、地道な議論のプロセスを信じられなくなった社会はやがて、全体主義やポピュリズムという政治的機能不全に侵されてゆく。それを防げるのは実は個人の継続的な変化だけなのだと思うのだが、そのためにはしがらみを断ち切って一人で何かを始めるしかない。今の道を降りたらよりひどい選択肢しか残っていないことがわかっているのだから、多くの人たちにとってこれは単なるキレイゴトにしか聞こえないのだろうなということもよくわかる。

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「自分を良く見せたい」というもう一つの麻薬

前回は、ネトウヨ発言を内心の社会化というキーワードで考えてみた。今回は積み残し課題を整理する。それは社会化されない内心を暴走させる善意についてである。




前回は、虐待当事者でない人が虐待問題に首をつっこむことの是非について考えた。東ちづるさんには何の恨みもないのだが、虐待者は取引をしようとしているという仮説は危険だろう。

東さんは「人間は共感的であるべきだ」という立場から飴と鞭を使い分けて取引する虐待者を非難していた。このように取引をする人格を「サイコパス」と呼ばれることがある。助け合いを社会の基礎理念とするリベラルには許し難い「新自由主義的な」人たちである。つまり、東さんは知らず知らずの内にリベラル対抑圧者という構図を作っている。その上で「リベラルを擁護する私」をアピールしていたのだ。

だが、実際は違うのではないかと思う。虐待者は共感概念を持てないと仮説立てすると全く別の可能性が出てくるからだ。ある構図を自動的に当てはめてしまうことで、あるいは救われるはずだった被虐待者が取り返しのつかない傷を負う可能性があるのだが「リベラルな私」に酔ってしまうととてもそんなことには気がつけないだろう。

虐待者に「共感を持つべきですよ」と言っても虐待者は理解しない。が、理解できていないことも理解できないので自分の目に見えているものからなんとかして「共感のようなもの」を想像しようとする。虐待者は慈悲深い自分であるということには価値を置くので「慈悲深い私」を演出するようになるのだ。これは却って怒りを増幅させる。本当の私は慈悲深くないし、相手は依然理解不能だからである。こうして虐待は繰り返される。

これをネトウヨに当てはめてみたい。ネトウヨは何らかの理由で病的に相手をバッシングしたいと考えている。これを正論で諭すのは危険である。なぜならばネトウヨは何らかの理由でリベラルの言っていることが理解できない可能性があるからである。虐待は内にこもる病巣だったが、ネトウヨは外に向かって暴発する。

虐待とネトウヨは攻撃の方向性は異なるのだが共通点もある。自分と違う他者を予測不能な異物と捉えているのである。子供や動物は内心が想像できない人にとってとても恐ろしい存在である。例えるなら自分の手が勝手に動くようなものなのだ。一方でネトウヨは自分たちで勝手に秩序世界を作っており、それに逆らうものの存在を許容しない。例えば女は黙ってお茶を出し食事を作るべきであるのに「いきなり怒り出す」というのは彼らにとって恐怖なのである。

つまりネトウヨという人たちは、韓国人にも民族の誇りがあり、アイヌ人も自分たちの年間行事を通して心の底から「ああ、アイヌの伝統を引き継いでよかった」と思うことがあり、女性が不自由な選択を迫られることなく人生を享受したいのだということは基本的に想像できない。彼らは自分たちの社会を構成する書き割りのような存在であり、それが勝手に動き出してもらっては困るのである。彼らだけでなく世の中の他人は全て自分の人生の書き割りなのである。

つまり虐待は個人的な予測不能性に対する防御反応である可能性があるのに対して、ネトウヨという病は組織的・社会的な防御反応であると仮説できる。だが、柔軟に相手の気持ちを思いやる共感というものが持てている人たちはそれが想像できない。その想像できない人たちが「何でそんなこともできないの?」と詰め寄ってきた時に予測もつかないような反応が返ってくるということである。

そもそもネトウヨが追い詰められたのは2009年に自民党が政権を追い落とされたからである。蓮舫議員の「二位じゃダメなんですか」に代表されるようにこれは善意による粛清だった。彼らは社会的に不正解と見なされて迫害されたという自意識があるのだろうし、安倍首相が「悪夢の出来事」というように実際にそのような動きも多かった。これが補強され「さらに厄介になって戻ってきた」のが安倍政権だ。ある意味社会的正解に対する耐性をつけてきた人たちなのではないだろうか。

アレルギーを根性で克服できないのと同じように虐待のある人間関係は基本的に修復できない。だから虐待は恐ろしいのだが、そんなことをしみじみと語っているような場合ではない。逃げないと社会生活が送れなくなる可能性すらある。同じようにネトウヨも官僚の秩序を破壊しつつある。蔓延する嘘を何とか誤魔化せていた時代は過去のものとなり、外国に出かけた厚生労働省の課長がヘイト発言で逮捕されたり、匿名でヘイトの書き込みをしていた年金事務所の所長が更迭されたりしている。もう彼らは何が正しいかわからなくなり混乱が始まっているのだろう。

我々はわからないならわからないなりにこの状況を変えなければならない。そして、その時に私たちが持っている正解を彼らに押し付けるべきではない。そんなことをしても何の役にも立たないし却って反発心を強める恐れがある。最優先しなければならないのは問題の解決であり病根の粛清ではない。

こういう文章を書いていて私にも「自分を良く見せたい」という気持ちはある。それもある種病のようなもので完全に除去することはおそらくできないだろう。だが、自分にもそういう気持ちがあるのだということは自覚しておくべきだろうと思う。

いずれにせよ「相手が自分の言うとおりにならない」ということが多くの問題を引き起こしているようだ。忙しい人たちは、余裕のある社会なら笑って許せていたことが許容できなくなってきているのかもしれない。昨日も「子供を虐待して殺した」というニュースを見た。こうした苛立ちを社会と共有することができず内側に抱えているという人は意外と多いのではないだろうか。

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問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

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「バカ」について再検証してみた

前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。




前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。

前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。

ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。

ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。

いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。

さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。

一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。

別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。

別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。

この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。

重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。

我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。

最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。

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最低賃金が引き下げられて、都会では貧困層が生活できなくなる?

先日、厚生労働省の武田賃金課長が韓国で立ち回りを演じてニュースになった。マスコミはこの話題を「春先に変な人が出てきた」という論調で伝え、Twitterもそれに乗っかってしまっている。このTwitterのおかげで政府は本来の議論を隠すことに成功した。Twitterも使いようなのだ。




この文章を読んでいる人たちを含めた全員が「バカだから騙された」という前提で議論を展開する。読んでいる方は「この文章の書き手は自分をバカ呼ばわりしおり、失礼極まりない」という前提で以下を読み進めていただきたい。

現在の最低賃金は地域ごとに決められている。これを業種ごとに設定しようという動きがあったというのが「春先の変な人ニュース」の影で報道されなかった文脈である。これが話題になったのは3月7日のことだそうだ。伝えられているところによると、厚生労働省の「ある課長」が自民党議員連盟会合で提言したことになっている。発言の後にも「マスコミに向けて年内にまとめたい」と意欲を見せたので気の迷いではなかったということがわかり一部の界隈で評判になった。しかしこれは日本の賃金行政の大転換になってしまうので、菅官房長官が火消しに走った。すべてのニュースは一官僚の意見であってはならない。見え方としては「安倍首相の指導力の賜物」であるべきなのだ。

ダイヤモンドオンラインは「地方の最低賃金が上がる」という前提でこれを南欧に例えて分析している。これを書いた人は問題がわかっているので、今回の定義ではバカではない。ここに南欧が出てくるが「バカ」にはこれがわからないはずなのだ。南欧と聞くとギリシャ危機が想起され、別の人が日本はギリシャと違って外国から借金していないし独自通貨も持っているといって議論を収束させてしまう。

現在、アベノミクスの成果は結果的に大企業に偏っている。応分の負担を求めてこなかったからである。このため東京の景気だけがよくなり地方が取り残されるということが起きている。野口悠紀雄は零細企業から人が離れて大企業に移るときに、非正規転換が起こったのではないかと分析している。正規から非正規に移ることで大企業は安い賃金で多くの人が雇える。こうして落ち込んだ零細企業の中には小売りと飲食が多く含まれているそうだ。経済は再び成長を始めたのだが、それは大企業が地方と零細を切り離すことに成功したからなのである。

大企業は東京など一部の都市に集中しているので都市の経済は潤うだろう。するとますます地方が疲弊する。これが都市と地方の賃金格差を拡大させる。すると、地方で外国人を雇ってもいつの間にか消えてしまい都市に流れることになる。日本人はどこに流れても構わないのだが、海外からの労働力はそうは行かない。この問題を統一的に管理する部局がないのだ。厚生労働省は「不法労働者としての外国人」管理を迫られることになるだろう。だが、実は入国管理局は法務省の管轄であり、企業を管理するのは経済産業省である。複数象徴にまたがる複雑な状況が生まれるはずだが、官邸にその種の調整能力があるとはとても思えない。多分誰かが「なんとかしろ」と叫ぶだけだろう。

実はこれが別の種類のバカになっている。つまり、優秀な人がいても全体を統括することができない仕組みになっているのである。視野は限られできることも法律でがんじがらめになっているという世界だ。

実際に今回の最低賃金闘争では何が議論になったのかがよくわからない。実は議論そのものが行われていないのではないかと思う。つまり、それぞれがそれぞれの正解を抱えているがそれが話し合えない状況があるのではないかと思うのである。するとそれぞれの正解を抱えている人は自分の正解を証明するために「実力行使」をして一点突破を図る必要が出てくる。それが突然の「ご説明」であり韓国での騒ぎなのだ。

自民党の人たちはこれが何を意味するのかわからなかったのではないだろうか。それはこの政策転換が自分たちにどのように得になるかがわからないからである。これが今回最初から書いているバカの正体ではないかと思う。つまり、具体的な影響を聞いてその損得がわかって初めて「賛成反対を決める」のが今回の「バカ」の正体である。これまで安倍政権は官僚が書いてきた作文に「バカにでもわかる解説」を加えることで長期政権を保ってきたということになる。

まとめると次の三種類の人たちがいる。「バカ」と言っていたが実はバカではなく「論理に豊かな色彩がついて見える人たち」だったということになる。逆にいうとバカでない人は「色が見えない」か「あるいは色ではなく形を見るように訓練されている人」ということになるだろう。ではその色彩とは何なのか。

  • 論理的に全体像を構成するが「バカ」が何を気にしているかがわからない人たち
  • 具体的なことを聞いて損得を判断する人たち(第一のバカ)
  • 全体を見ることができないか許されておらず限られた視野の中で論理的判断を下す人たち(第二のバカ)

第二のバカである武田さんが考えたのは賃金政策である。彼の持ち場なのでこれは彼にとっては考えられた正解なのであろう。都市への流出を食い止めるためには最低賃金を一律にしてしまえばいい。都市の魅力はなくなり却って物価高が嫌われる。これは実は完璧な回答なのである。問題はそれを他部局とすり合わせていないという点だけなのだ。

賃金を一律にすると「都市で最低賃金で働く人たち」の給料が低くなるか「地方で最低賃金で働く人たちの」給料が高くなる。ダイヤモンドオンラインの最初の記事は「人件費が上がるから地方の経営が圧迫される」という前提で書かれていて「これを交付金でバランスするのではないか」と書いている。一方、前回の記事と今回のタイトルでこのブログが煽ったのは逆側である。つまり、東京が地方に合わせれば「東京で最低賃金で働く人」の生活が圧迫される。経済的な埋め合わせはできるのだが、これが選挙でどう響くのかというまた別の要素もある。

日本の政治議論というのは運動会になっており、与党か野党の政治家が主張して初めて「村の意見」になるという構造がある。これまで「バカ」と書いてきたのだが、実はTwitter論壇は「その意見が自分たちの陣営での勝利につながるか」ということをかなり敏感に感じ取っており、それ以外のものには反応しないようにできてるのである。つまり「バカ」ではなく鋭敏な感覚を持っている人たちなのである。逆に色がが付きすぎていて、論理好きの人が「本質」と考えることがわかりにくくなっているのとも言えるだろう。論理好きの人は「その論争に勝ってどうするのだろうか」と考えてしまう。

いずれにせよ、民主党系の野党がこの問題に気がついていないのは自民党にとっては幸いである。もしこれに気がついた人がうまく料理すればかなりの炎上材料になるだろう。野党が都市で勢力を握りたければ「東京に貧困層が増える」と煽ればいいし、地方で勢力を握りたければ「地方の経営が圧迫される」と言えばいい。

この「持分に集中して損得だけを考える」というやり方は高度経済成長期にはうまく機能してきた。つまりバカではなかった。だがその前提になっているのは、基本的な構造がうまくできており「どう利益を分配するか」ということだけを考えていれば良かったという世界である。しかし、現在の議論は「どうやって損を捨てるか」がベースなので、損得勘定だけを考えていると「誰かが損を被る」ことになり、その損はどんどん苛烈なものになる。大企業は中小企業と消費者に痛みを捨てて逃げた。今度はその痛みを都市の住民に被せるのかそれとも地方にばらまくのかという議論になってしまう。その過程で損が濃縮されるとう構造がある。

実際には「何がどうなっているのか」ということはもう誰にもわからない。野口悠紀雄は今あるデータから構造の一部を抜き出して見せたのだが、これを気にする人はほとんどいないだろう。自分にとって得なデータなのかがよくわからないからである。もし、彼が「消費者は傷んでいるから消費税は今すぐ廃止すべきだ」という文脈に乗ればあるいは聞いてくれる人もいるかもしれない。問題は解決しないが「運動会」に乗るからだ。

有権者も政治家も第一のバカなので、本来は問題意識を持った人たちが様々な統計情報を探してきて全体を検証する必要がある。つまり第一のバカのマインドセットは変えられないが、第二のバカの状況は変えられる。多分日本の官僚組織はこうした一部のエリートたちの集団作業でうまく回ってきたのだろう。

野口先生の統計分析を見る限り、消費税が日本の小売りに与えた影響は大きそうだし、地方と零細企業がこれにやられている可能性は高い。だが、日本の官僚は官邸に分断されてしまったので、もうこれもできない。あとは各々が檻の中で各々の正解を叫ぶという動物園さながらの光景が展開されるだけのはずである。その中心では安倍首相が「すべてはうまくいっている」と叫びながら檻の前をうろうろとさまよっている。

いつかは全体像を理解しなかったつけを支払うことになるだろうと書きたいのだが、どうもそうはならない気がする。あとはNHKが疲弊した地方と困窮する都市住民を「不幸で可哀想な人たちがいます。助け合いでなんとかしなければなりませんね」と取材して終わりになる可能性の方が高いのではないだろうか。これを見て視聴者は「ああ自分の問題でなくて良かった」と安心するわけだ。

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もう誰にも止められない日本の劇場型政治

これまで劇場型政治を見てきた。小西議員のように国会をクイズ番組にしてしまおうというやり方は、それだけを見るとたいして害がないように見える。だが、こうした手法はエスカレートする。




では、我々が心を入れ替えたらこうした劇場型の政治から脱却し「まともな」政治体制に戻すことができるのだろうか。改めて劇場型政治を振り返ってみたい。

近年になってシングルイシューの劇場型政治を始めたのは郵政民営化の小泉純一郎だが、この時は選挙のためだけの劇場だった。この敵を作る手法を選択したのにはいくつかの理由があったのだろう。一つは自民党に集まった批判をそらすためだった。もう一つは古い体制に慣れきった中の人たちにたいする「このままでは大変なことになりますよ」という警告だったはずである。

しかし、いったん劇場に引きつけてしまうと、そのあとも演目が続かないと観客が飽きてしまう。さらに劇場によって危機を乗り切ったと安心してしまった人たちは内部改革の必要性を忘れてしまった。実際に「小泉劇場によって救われた」と感じた人たちが失言を繰り返し三年後に政権を失ってしまった。

特に麻生内閣の末期はひどかった。一旦担ぎ上げた総裁首相を降ろす動きがあり、失言や不祥事による閣僚の辞任も止まらなかった。ネトウヨ発言(当時はそんな言葉はなかったが)を繰り返して辞任した大臣や酔っぱらったままで会見に望んだ大臣もいた。つまり、小泉劇場は内閣を延命させるのには成功したが、自民党の意識改革には失敗してしまったのだ。前回ご紹介した「昭和戦前期の政党政治」にも危機感を持たずに内輪もめに没頭する政党政治家たちの様子が紹介されているが、集団思考状態に陥った日本人は状況を客観的に判断することはない。ましてや、中側から改革することなどはできない。麻生政権の末期をみるとそのことがよくわかる。

小泉型政治は「党内を説得して体質変換をしなくても、マーケティングキャンペーンで選挙にさえ勝てれば問題がない」という楽観思考を生み出した。だが、シングルイシューの劇場はそれが成功してしまうとごまかしがきかなくなる。これが露呈して飽きられるまでが3年だったのだろう。自民党は小泉総裁を選んだ時点で「演技し続けなければ国民の支持が得られない」政党になってしまったのだといえる。

これを引き継いだのはテレビで派手なショーを繰り返した民主党政権だった。彼らのスローガンは「コンクリートから人へ」だった。つまり公共事業を無駄とみなしこれを潰してしまえば全てが解決するとやったのだ。だが、彼らには政策実現力がなく、財源の見通しも裏打ちもなかった。そのため、消費税を増税せざるをえなくなり国民の信頼を失った。マスコミも改革に浮かれ、「本当にそんなことができるのか?」などと確かめる記者はいなかった。

小泉選挙に学んだ民主党は「簡単なスローガンさえ掲げて政権さえ取ってしまえばあとはどうにでもなる」という楽観思考は学んだのだろうが、政権運営について教えてくれる人は誰もいなかったのだろう。こちらも3年で嘘がバレてしまい、結局野田政権を最後に退陣することになった。

そのあとの安倍政権はまともな政権運営をするようになったと感じている人が多いかもしれない。が、彼の2012年のスローガンは実は「日本を取り戻す」だった。Make America Great Againのように「失われた」とか「誰かに盗まれた」という被害者感情を利用している。安倍首相が学んだのは、閉塞感は漂っているが誰も問題を解決しようとしない日本では、まともな政権運営をしようとすると3年程度しか持たないということなのだろう。

安倍首相が作った敵はもっと大きなものになっていた。戦後レジームに縛られているから中国に負けるとほのめかし、内政では「悪夢の民主党から日本を取り戻す」とやった。言っていることは無茶苦茶だが、いい続けるうちに「ああ本当なのかな」と思えてくる。そして徐々にネトウヨ発言を露出して行けばそれは「新しい標準」担ってしまうのである。麻生政権下の中山成彬発言くらいで辞任する大臣はもう一人もいない。

安倍政権が準備した政策は3年ほどはうまくいったようだが、2015年には景気はピークアウトしてしまった。だが、敵を指差し続けている間はそれがバレることはない。つまり、安倍政権は小泉政権と民主党政権から「嘘は吐き続けなければならない」ということを学んだのだ。

そのあとは、特区を作って政権が安倍首相に近い人たちを優遇しているのではとか統計がごまかされているのではなどと小さな攻撃が続いているのだが、これは実は政権側からみると「野党勢力が体制転覆を図っている」という嘘理論の正当化に使える。小西さんの小さなクイズ大会もそのうちの一つである。

野党勢力が立憲民主主義について騒いでいる間は「政府は景気が良くなったというのに、なぜ我々の暮らしはよくならないだろう」と疑問について深く考えなくてもすむ。実は政権攻撃は安倍政治が存続するための手助けにしかなっていないのだ。

だが、劇場型政治は確実に自民党を破壊しつつある。都市部を中心に自民党は政権維持能力を失いつつあるようだ。この間、大阪では「東京のように特別区を作ったら大阪は再び発展する」という約束をした維新が躍進し、東京では「自民党型の旧弊な政治をなくせば問題は全て解決する」とした都民ファーストが躍進している。どちらも自民党は「悪者」扱いされており、安倍政治がなければ国政でも同じようなことが起きていたことが予想される。その他の地方はもっと悲惨で、対抗軸すら作れず翼賛体制を作って中央から支援を引っ張らざるをえなくなっている。

民主党は多くの地域で翼賛体制に組み込まれている。大阪で躍進しているのは維新であり、東京は都民ファーストだった。どちらも現実的な政権維持能力は持っていないが先導能力には長けた人たちである。つまり、ここで政治家だけが冷静になっても自民党よりもっとひどい劇場型に特化した政党が躍進する可能性が高い。それは政治家が現状維持を望んでおり、国民は「勝利」を望んでいるからだ。このままでは大変なことになると思っている人は一人もいない。

だから、外敵から攻撃されるか状況が劇的に変わるまで、政治は現実的な問題解決能力を持つことはなく、いつまでも劇場型の政治を続けざるをえないということになる。劇場型をやめるともっとひどい劇場型政治がやってくる。この国でリーダーシップといえば嘘を吐き続ける能力であり、成長とは途切れることのない闘争という意味でしかない。いったん始まった集団思考的な興奮状態を中から止めることができる人は誰もいないように見える。

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繰り返される劇場型政治

先日来「不毛な国会運営」について見ている。変化を嫌う有権者に支持された与党と院内活動家として嫌がらせに走らざるをえない野党が劇場型の不毛な争いを繰り返す中で、次第に問題解決はおろか現状把握すらできなくなってしまうという光景である。




この様子を観察していると、「ああ日本人には議論はできないのだなあ」という諦めに似た気持ちが芽生えてくる。さらに二大政党制の歴史について研究する本を読むと劇場型政治は政党政治とともに始まったことがわかる。今回は筒井清忠という人の昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)という本を読んでみた。そもそも日本人に議論をさせてはいけないのである。

先日見た小西洋之議員の「クイズ型国会質問」は劇場型政治の一つであると考えられる。これは国会が国民世論の調整機能を失ったということを意味している。もともと国会は「裏ネゴ」で意見調整をしており会議には本質的な意味はなかった。これが安倍晋三という日本の伝統を理解できない首相が政権をとってしまったために裏側での調整ができなくなり、表に出てきてしまったのである。劇場型政治というと小泉純一郎を思い出す。言い切りで世論を挑発し選挙に勝つという手法である。安倍政治はその劣化版である。選挙という限られた期間劇場が開催されるのではない。毎日の議会が大騒ぎなのだ。

ここで、劇場型政治はいつ始まったのだろうかという疑問が出てくる。小選挙区制度のもとで劇場型政治が始まったのならそれをやめればいい。だが、筒井は「普通選挙が始まる時期にはもう劇場型政治があった」としている。

大正デモクラシーの結果、庶民を政治に組み込むことが必要だと考えた政府は、普通選挙制度の実施を決めた。が、その直前に朴烈(パクヨル)事件が起きた。朝鮮人のパク・ヨルが天皇の暗殺を図ったとされる事件である。だがこの事件は意外な展開を見せる。獄中でパク・ヨルと内縁の妻が寄り添っている当時としては「たいへん不適切な写真」が流出した。政権を転覆しようとした反対派が騒ぎを大きくするために写真を流出させたとされているそうだ。週刊誌がなかった当時の新聞がこの問題をセンセーショナルに取り上げ、実際に政権は退陣直前まで追い詰められたのだが、大正天皇が崩御し「政治休戦」になった。

この事件が政治問題化したのは「普通選挙を実施しないと国民が納得しない」というほど大正デモクラシーが盛り上がっていたからだ。だが、政治に関与したことがない国民は政策論争には興味を示さず「破廉恥な写真のスキャンダルを政治家がどう処理するのか」という肌感覚で政治を見つめた。世論を味方につけようとした政治家たちは、天皇を殺そうとした不逞の輩が獄中で内縁の妻とふしだらな関係を持っていると騒ぎ立てたのである。今でも政治的な失敗で国会議員のクビが飛ぶことはないが、不倫などの女性問題はすぐに進退に直結する。日本の政治状況は今も昔もそれほど変わらないのである。

この後も、政党は一つにまとまって議論をすることはなく、自分たちの勢力争いのために地域をも巻き込んだ罵り合いを始めた。大分県では、公共事業、医者、旅館、消防警察とも二系統に分かれていたという。ヤクザも二系統ありついに殺人事件が起きるのだが、それを阻止したところ両陣営から感謝されたらしい。あまりにも対立が激化し両陣営とも「ヤクザを持て余していた」というのである。

知識人たちは政党を見限り、第三極になりそうな無産政党に希望を持つことになるのだが、それもやがては見限られてしまった。最終的には「結果を出す」人たちが支持されることになる。それが軍部なのだ。日本は戦争に勝った結果大陸に権益ができた。軍部はそれを守る必要があったが財政が苦しくなっていたことから議会は軍縮に傾く。世界でも日本の軍縮を求める声がありロンドン軍縮会議が行われていた。結果的に軍部は単独でことを起こし満州事変が起きた。

マスコミも文化人も軍部こそが問題を打開してくれるとして応援するようになる。当初朝日新聞は満州事変に懐疑的な見方をしていたのだが、朝日新聞の満州事変の取り扱いが気に入らないとして不買運動が起こり購読者が数万人単位で減っていった。代わりに大阪毎日が拡大するのを見て焦った朝日新聞は満州事変支持を会社の方針とする。山本武利の研究によると、朝日新聞の購読者は日清日露の両戦争で23%づつ増えそのあと減少していた。朝日新聞が満州事変支持に転じると27%も購読者が増えその後そのトレンドは続いたのだという。つまり、一般の人たちは議会ではなくもう一つの劇場を戦争に見出したのである。当初日本人は戦争を「自分とは関係のないところで行う派手なショー」だと思っていたことになる。それが間違いだと気がつくのはずっと後のことで、その時にはもう取り返しがつかないことになってしまっていた。

議会は対立に陥り地域をも巻き込んだ全面対決があった。ちょうどTwitterで人々が罵り合っているのに似ている。日本の対立構造は表面化すると抑えが効かなくなる。リーダーになる人がいないので「誰にも止められなくなってしまう」のである。だが、この騒ぎは最終的に収まった。犬養毅が軍人に暗殺され萎縮した政治家たちは軍人に内閣を仕切らせたからだ。こうして政党は軍部を追認する大政翼賛会を作る。つまり不毛な対立は誰にも止められず首相が命を落とすことで怖くなってやめてしまうのである。

大正デモクラシーという改革によって生まれた普通選挙制度下の二大政党政治は何の成果を出すこともなくすぐに萎縮した。そのあと揺り戻しとしての軍閥内閣から大政翼賛会への道が開かれた。対立に嫌気をさした人たちは「軍国政治」という正解を賞賛する道を選び、国民もこの劇場型の政治を支持したということになる。原敬の最初の政党内閣は1918年、成人男子普通選挙法の成立が1925年、五・一五事件が1932年である。原敬から数えると14年、普通選挙法下ではわずか7年だった。

このことからわかることはいくつかある。一つは日本人が「表で議論」を始めるとそれは決してまとまらないということである。そして「最も成果が出ている」ところに流れてゆくか、正解がわからないとして延々と議論が続くことになる。つまり現在のような不毛な劇場型の<政治議論>が続いているということは正解を見失っており、軍部のように一発逆転してくれる大正解がないということである。もともと日本人は観客として派手な劇場に関わることと正解を叫ぶことが大好きであり、正解のない地道な議論には耐えられないのだ。

今回の国会議論を聞いていても「足元の数字をきちんと確認してもう一度考え直そう」という議員たちがいないわけではない。だが、彼らの声は派手な劇場型を求める人たちと正解を賞賛したい人たちにかき消されてしまう。クイズ番組化した質問や答弁者への恫喝が蔓延する国会中継は「この劇場型」の表れなのだが、こうした退屈なショーに飽きた国民が「さあ議論しましょう」と言いだす可能性は低い。リーダーシップが働かなければ国民はさらに派手なショーを求め、さらにわかりやすい正解を賞賛することになるだろう。

安倍政権が「停滞する国内経済を活性化するために勝てるチーム(米軍中心の同盟)で中国をやっつけたい」と考えていることは明白である。これは多くの日本人が持っている「何か派手なことをして勝ちたい」という気分を象徴している。だが、実はこれに反対する平和主義なはずの人たちも「とにかく派手なショーを演出して勝ちたい」と考えている。個人ではおとなしい日本人は集団の対立構造を提示されると「とにかく勝ちたい」として戦いをエスカレートさせてしまう悪癖がある。日本人はみんなで正解を模索するという退屈な行為には耐えられないのだ。

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ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。

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セブンイレブンが行うべき遵法闘争

セブンイレブンが揺れている。フランチャイズ店のオーナーが団体で「24時間営業をやめさせて欲しい」と申し入れたのだが、本部側がこれを断ってきたというのだ。セブンイレブンのフランチャイズは団結して「受動攻撃」すべきではないかと思う。




受動攻撃という耳慣れない言葉を聞くと「それは何だ?」と思われる可能性があるのだが、実は日本人はこれまでも管理された組織的な受動攻撃を行ってきている。それがサボとか遵法闘争である。サボるという言葉の語源になったサボタージュは大正時代から行われているそうだ。また、遵法闘争は、戦後になっても公務員の間で行われていた。国鉄がマニュアルを律儀に守りダイヤを遅らせるという手法がとられた。

こうした受動攻撃の怒りを沈めるために、私たちの社会は終身雇用と家族的労使関係という「温情的」な労使関係を作ってきた。が、それも高度経済成長期が終わると簡単に忘れ去られてしまった。つまり、私たちは新しい時代を迎えているわけではなく過去の「本来の形」に戻りつつある。それは「村の外は全員敵」という社会である。

本来、こうした闘争は資本主義社会では必要がない。セブンイレブンフランチャイズオーナーは契約形態が気に入らないのなら別の系列と契約を結べばいいだけの話だからだ。それができないのは、新しいアイディアを手に入れられなくなった各コンビニ系列がフランチャイズを搾取する構造に依存せざるをえなくなっているからだろう。つまり、閉鎖的な経済空間ゆえに、トもできなければ自由主義的な市場経済メカニズムも働かないという不思議な「失敗した市場」が生まれているということになる。

コンビニエンスストアはマニュアル労働なのですべてのことはマニュアルに書かれている。これを杓子定規に守ることで営業成績を落とすことができる。すべてサボタージュしてしまうと売り上げにも響くのだから「本部が政策的にやっている」ものだけを止めてしまえばいい。例えば(どうせ売れ残る)恵方巻きを大量に仕入れるというようなことはやめても良いだろう。コンプライアンス流行りなので「食料廃棄は減らせ」というようなルールもあるはずなのでそれを守ればいい。

24時間営業にしても、お客と協力して「夜中は開店休業にします」と宣言してしまえばいい。形式的に開けておいて何もしなければいいのである。本部のいう通りにするためにはバイトをたくさん雇う必要があるのならそれもやめればいい。問題なのは、本部に言われたことを全部やってしまうことなのである。この辺り「決められたことはきちんと守り顔を立てたい」という高度経済成長期の美風がかえって仇になっている様子がわかる。だがこれは労働が長期的に報われていた時代の文化であり、残念ながら過去の遺物だ。

もちろん、こうした受働攻撃性には問題がある。社会のすべてが「ちょっとずつ」頑張れば社会は少しづつよくなる。が、社会のすべてが「ちょっとずつ」反抗すれば、社会は少しずつ悪くなってゆく。だが、社会は問題を認めようとしないし、その環境から逃げ出せもしないという環境では他にやりようがない。

Twitterを10分くらい巡回すれば、今の日本社会には選択肢が少なく受動攻撃性とその怒りで溢れている様子が観察できる。安倍首相も厚生労働省も虚偽を認めながら決して反省はしない。小池百合子東京都知事は築地は守るが市場は作らないと言っている。アイヌ民族は存在せずあれはアイヌ風文化だ主張したマンガを載せた雑誌が売られる。また、女性がセクハラ被害を訴えるのは気持ちに余裕がないからであり、子育てをママが一人でやるのは昔からやってきた当たり前だと言われる。村に守られなくなった日本は慢性的な受動攻撃社会になり、その怒りが新しい炎上を生む。

いったん受働攻撃性が溢れ出すと怒り出すことはとても虚しくなる。この怒りそのものが「受働攻撃者の餌」になってしまうからである。他人が怒っているのをみて「気分がスッとした」経験をしたことがある人は意外と多いのではないか。「あなたは私が問題を指摘した時にはいうことを聞いてくれなかった」だから「今回は私たちの番なのだ」ということであり、これは報復合戦である。こうして管理されない受動攻撃性は社会を徐々に蝕みSNSに乗って拡散する。

今回ほのめかした「受働攻撃性」は行き場のなくなった怒りが自覚のないまま漏れ出てくるという悪性の報復合戦になり得る。例えば今流行っている「バイトテロ」は仲間内だけに見せる反抗が悪意の第三者によって拡散したものなので、これは悪性の受働攻撃性と言えるだろう。自分たちのワンクリックで社会が混乱する様子が面白い人たちが大勢いるのだ。

これを防ぐためにはもう「合理的なサボタージュ」くらいしか道が残っていないのである。選択肢のない閉鎖された社会で我々に残された選択肢は管理された受動攻撃性と管理されない受動攻撃性の二つしかないのかもしれない。

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