税か国債か – ちょっとおかしな議論を展開してみる

最近、Quoraで展開しているお気に入りの理論がある。「税も国債も一緒」というものだ。なんちゃって議論としてとても気に入っている。ここから見えてくるのは「公共なき社会」が陥った袋小路である。




まず前提から確認して行きたい。「日本の企業は法人税を支払わなくなっている」という前提が本当なのかを検証する必要がある。

まず日本では直間シフトが始まっている。所得税と法人税が減っていて消費税が増えている。法人税がピークだったのは平成元年あたりである。つまりバブル崩壊と一緒に法人税の減収が始まっている。この直間シフトの裏に何があるかはよくわからないが、官僚の政治不信だと思う。政治に左右されず安定した税収が見込める一般間接税に移行したいと考えるといろいろと説明がつくからである。つまり官僚は政治家を信頼していない。

次に企業の内部留保は増えている。最近では企業の蓄積を「内部留保」とかっこ書きなしに使っているようだ。経常収支も黒字なので留保した金を使って海外に投資したり日本の政府に貸しているのであろうということがわかる。

ちなみに最新の資料では家計は1%程度しか国債を保有しておらず、海外の比率は10%を超えたくらいのようである。なので、企業が政府をファイナンスしているという言い方は間違っていないと思う。ただし、短期国債の7割は海外に買われているという。都市銀行は長期債から逃げているが地方銀行の保有は伸びている。

ということで政府債務を長期的に支えているのは日銀と企業(地銀含む)であると言えるし、海外に投資できない企業にとって政府は残された唯一の投資先になっているという可能性が見えてくる。

常識的に考えると税金は税金であり国債は国債だ。しかし、見方を単純化してしまえば「誰が誰に資金を融通しているのか」というだけの話である。税金は所有権が移転する資金移動だが、国債は所有権が移転しない資金移動である。つまり企業も政府を信頼していない。国債でファイナンスすれば少なくとも元本は保証されるということである。なので、利息が得られない低成長経済・過剰資本蓄積社会において、国債は税と一緒なのでそれほど問題にはならないということになる。

日本を閉鎖された経済系としてみると、税金として支払っても国債として貸し付けても、最終的には自分たちに戻ってくる。最終的に自分たちに還流してくることになる。ちなみに賃金として分配しても同じことである。自分たちの商品を買ってくれれば結局自分たちのところに戻ってくるはずだ。だがそうはしない。企業は従業員も消費者も信頼していない。ただ、結局国に貸しつければ国がばらまいてくれるのでこれも「まあ、言ってみれば同じこと」と言える。

ただ、問題は別にある。それは動機になっている不信感そのものである。

賃金を支払わないことで消費が冷え込んでいる。新しい製品やサービスも生み出しにくくなっておりイノベーションが阻害される。しかし弊害はこれだけではない。サラリーマンは失敗できずレールから外れることができないので労働市場が流動的にならない。こうしてますます不信感が閉塞感を生み出し、それがさらに不信感を増幅させてゆく。

最近の暴走する車問題を考えても「周囲に助けてもらうような存在になったらおしまい」と考えている高齢者が多いこともわかる。この先2,000万円か3,000万円を抱えて生きてゆく高齢者が増えることも予想される。不安は不安を呼び、それが消費の停滞につながり、経済がますます閉塞するというわけである。恒例になった日本人は運転免許も貯金も手放せないし、それにしがみついて生きてゆくしかない。

よく、北欧の国では「自分たちに戻ってくるから税金を払うのが苦にならない」というような話を聞く。共助が社会に染み付いている国はこのように公共に支出したものは自分たちに戻ってくるであろうという確信があることになる。逆にギリシャのように公共に信頼がない国は、レシートを発行せずに売り上げを過小に申告していた小売店が多かったというような話がある。

我々はまず隣人を信頼し公共という概念を再構築しなければならないというのがこの話の結論になるのだが、それを行動に移す人はそれほど多くならないだろう。日本はそれほど徹底的な社会不信がある<自己責任社会>なのだと言える。個人の競争もないので突出する人は叩かれる。そうなるともう他人を叩きつつ「自己防衛」するしかないということになる。

結局、閉塞感を生み出しているのは私たち一人ひとりなのかもしれない。

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ベーシックインカムの是非について散漫に考える

Quoraで「OECDの中で日本の格差が広がっているのはどうしてか?」という質問をもらった。かなり長大なテーマでまともに答えられるわけもなく、かなりいい加減な答えを書いた。




筋だけを説明すると次のようになる。

グラフを見ると、格差が大きい国には新興先進国・先進国から脱落しかけている国・アメリカ合衆国に分類できるようだ。新興先進国は福祉制度が充実しておらず、EUの脱落国は財政にキャップがかかっていて財政出動ができない。そしてアメリカ合衆国は福祉に興味がない、という具合になる。

ところが、日本は財政規律が甘くなおかつ国家が年金・医療にかなり支出をしている。つまり、この累計のどれにもあてはまらない。にもかかわらず日本で格差が拡大するのは経済が二本立てになっているからではないだろうか。既存の年金制度に守られている人たちとそこから脱落した人たちがいるのだ。

格差の記事を集めて読んでみるとシングルペアレントと子供の貧困が問題が語られることが多いようだ。これが「植民地経済」同然になっている。この植民地が一部高齢者にも広がりつつあるのではないだろうか。

ここから先、さらに煽ろうかなと思ったのだが、あまりやりすぎると嫌われそうなので「この先もこういうのがしばらく続くと思いますよ」とお茶を濁しておいた。

さて、これを書いている時に二つの記事を思い出した。一つは韓国が最低賃金引き上げをやって経済を冷え込ませたという話だ。そしてもう一つは「イタリア経済に迫る危機、バラマキで国を疲弊させるポピュリズムの実態」というダイヤモンドオンランの記事である。

経済困窮者が出るとこれを一気に解決しようという政治勢力が伸張する。これをポピュリストと呼ぶことが多いようだ。ポピュリストは政策ゆえに失敗するわけではない。先進国の中にもイギリスのように最低賃金を引き上げているところがあるががそれで経済が大混乱したという話は聞かない。問題は一気に解決しようとしてやりすぎてしまうところにある。

ダイヤモンドオンラインの記事によると、コンテ政権の政策の目玉は「市民所得」という一種のベーシックインカムなのだそうだ。全面的なベーシクインカムではなく失業者や貧困層に向けた所得の保証という政策である。

ギリシャ問題の再燃を恐れているEUは加盟国に「あまり借金はするな」と釘をさしておりこれが加盟国の一部に反発を生じさせる。前回香港や戦前の日本の事例で見たように「あらかじめ枠が設定された民主主義」は反発を生むのだ。敵を作って国民を惹きつけるという意味ではポピュリズムなのだが、かといって貧困を救うためには福祉の充実はやむをえないという見方もできる。

イタリアでは「この政権は信頼できない」と判断した投資家が資金を引き上げた結果経済が冷え込んでいるのだそうだ。ベーシックインカムや所得維持は彼らの政策の柱ではあるが嫌われているのは政権の話の進め方であってベーシックインカムそのものではないのである。

貧困を放置したまま何もしない日本と急激なポピュリズムで失敗しつつある韓国・イタリアのどっちが良いのだろう?というのは究極の選択のように思える。プロセスを考えるのが苦手だけで結果だけで判断したがる日本人にはなかなか判断がつけられそうにない。同じ左派的政策にも成功と失敗がありどちらを選んでいいかがわからないからだろう。

そんな中、全く別の記事を見つけた。フィンランドはテストを実施しているそうだ。言われてみればなるほどと思うのだが、よくわからないなら限定的に試してみればよいのである。フィンランドでは2年間限定でランダムに2,000人を選んで7万円づつ渡したのだそうだ。結果は「心配しているような問題は起こらなかった」というものだった。

ただ、これを日本で実施しようとすると導入自治体選定の時点で「利権を引き込みたい人」たちが湧いてくるのではないかと思う。実験が成功したらしたで「あそこだけズルい」ということにもなるかもしれない。

ただ、日本でこれが実現しない理由はそれ以前の問題のようだ。Quoraで聞いてみたところ「フィンランドと違って日本人は他人を反日呼ばわりする人がいるくらいでどうせうまく行かないに決まっている」という回答がついただけだった。外国から批判されると色をなして怒るような人でも同胞は信頼していないし自ら人に優しくするようなことはしたくないという日本人の特性がよく出ている回答だと思った。

全ての日本人とは言わないが「ああ、そんなことはわからないし聞くべきでもない」と言って怒り出す人は多い。このため日本社会は前にも後ろにも進めないのである。

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香港のデモに自分の思いを重ねる人たち

香港でデモを最初に知ったのはTwitterだった。多分反中国派の人たちだと思う。そのうちABCニュースが取り上げ始めた。やはり「中国が香港の民主化を阻害している」というようなニュアンスに聞こえた。日本のテレビはそこから遅れて独自取材が始まった。催涙弾を投げ込まれた記者の姿が印象的だった。抑圧に立ち向かう人々によりそうというジャーナリスト像を自己演出している。




今回の香港の100万人デモは「なぜ起きたのか」という点も注目ポイントなのだが、それはいろいろなメディアで取り上げそうなきがする。今回印象に残ったのは「政治ニュースに自分の思いを乗せてしまう人たち」の姿だった。

デモの概要

さて、まず今回のデモの概要だが、普通は次のように解説される。

また、香港では6月9日、刑事事件の容疑者を香港から中国本土に引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例」改正案をめぐって、大規模なデモが起きた。これは香港の自治を保障する「一国二制度」が骨抜きになることへの危機感のあらわれだ。

香港デモで懸念される”天安門事件”の再来

ABCニュースもプロテスターの映像を流していたが、なぜこれが一国二制度の崩壊につながるのかについて議論している人はいない。Quoraで聞いてみた。

要約すると、昔からの不満や不信感が今回の条例改正案をきっかけに爆発したということのようだ。

不完全な民主主義社会 – 香港人の不満とは

まず香港の人たちは自分たちのことを中国人だとは思っていないのだが、中国の社会主義体制に飲み込まれてしまうのではないかという不安がある。BBCが詳しく解説している。香港は「限定的民主主義」の世界を生きていて自分たちの運命を自分たちで決めることができない。

香港政府トップの行政長官は現在、1200人からなる選挙委員会で選出される。この人数は有権者の6%に過ぎず、その構成はもっぱら中国政府寄りだ。

【解説】 なぜ香港でデモが? 知っておくべき背景

香港特別行政区立法会も普通選挙枠の他に職能枠があり香港住民の意思が完全に反映される仕組みになっていない。完全な民主主義のように見えるが親中派が歯止めを聞かせるという変わった仕組みになっているのである。これは却ってフラストレーションがたまるかもしれない。

これまでも中国に批判的だった書店員が次々と消えるという不可解なことが起きていているそうだ。表向きにデモを鎮圧するというようなことを共産党はやらないだろう。裏で影響力のある人を潰すのだ。

究極の自由主義社会だった香港

しかし、香港はもともと植民地だったのだから、限定された民主主義でも一歩前進なのではないかと思える。ところがそうではないらしい。

中国と香港は真逆の世界だった。中国は共産党が国民の安心・安全を考えてくれるという建前の共産主義社会なのだが、香港はイギリスが「港を使いたいから支配していただけ」という植民地だったのである。このためイギリスは香港の経済には不介入でだったし、年金制度も長い間なかった(ZAIオンライン)ようだ。つまり国に頼れないが経済的には豊かという地域だったことになる。香港政庁は最低限のことしかしてくれなかったが、香港の平均寿命は世界一なのだという。

ところが、この放任主義は長続きしないかもしれない。珠江デルタの大規模開発(粤港澳大湾区発展計画)が始まり社会主義的な開発が行われれば国の関与が増えることが予想される。また、米中貿易戦争の影響で仕事が東南アジアに流れたりすれば中国への反発も強まるはずである。こうした経済的な不満も政府への不満につながっていったようだ。

ついに台湾の情勢ともリンク

さらに複雑なことも起こっている。香港人の不満が台湾独立問題とリンクし始めているそうである。台湾独立問題とリンクすれば中国共産党は香港の民主化運動を無視できなくなるだろう。

我々は見たいフィルターをかけて他国の状況を見てしまう

このようにそれなりに複雑な香港情勢だが、先に引き合いに出したプレジデントオンラインの記事は「中国共産党が香港を抑圧している」という単純化された論調になっている。実際にデモを鎮圧しているのは香港政府なのだが、その辺りは無視されてしまう。一応ジャーナリストとして訓練されているはずの江川紹子もこのような調子になる。

中国は影では抑圧するかもしれないし間接的には指示も出しているのかもしれないが、あからさまにデモを鎮圧して国際世論の非難を集めるようなことはしないだろう。でも、時期が近いことで天安門事件と重ねた論考が出てしまうし、我々は思い込みからは完全に自由になれない。行政長官は審議を継続すると言っているが、ブレーンからは「今回はやめたほうがいいのでは?」という意見も出ている(香港の逃亡犯条例改正案、行政長官顧問「審議継続は困難」)ようだ。

ところが日本にはこれと別の流れがある。

日本では香港でもへの支援が広がっているようだが「自分たちの運動が見向きもされない」ことに対する代償を求めて集まる口実を作っているようなところがある。

さらに、1960年代の学生運動に批判的だった人・当事者として関わったが人生を棒に振ったと思っている人や、朝日新聞に代表されるインテリが嫌いな人たちがいる。彼らはリベラルが嫌いなので「民主主義国でデモを起こすのは彼らがわがままだからだ」と主張したくなるようである。ただ、彼らが本当に非難したいデモは日本の反原発デモや安倍打倒デモなのだろう。

相手が中国共産党ということになっているので、日本のデモを非難する体制よりの人が香港のデモを応援するというねじれも起きているようだ。

今回の件は香港特有の事情があって起こった問題のはずなのだが、我々はどうしてもそこに自分の意見を乗せて見てしまう。事実をそのままに見るのはなかなか難しいのである。

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ViViの自民党キャンペーンが「炎上」する

ViViという雑誌の自民党キャンペーンが炎上しているという。Twitterだけで見ると確かにアンチしか反応していない。みんなが怒っているのに景品欲しさに「自民党いいね」という読者がいるとは思えないし「政治は面倒だから関わらないようにしよう」と考える人が増えるのではないかとすら思う。




この件にはいろいろ不思議な点が多い。

まずViViがなぜこのような「キワモノ」に手を出したのかが不思議である。ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。という軍地彩弓さんが書いた記事が見つかった。

日本の雑誌の総売上がピークを迎えた頃だ。1号あたりの広告費は数億円になることもあり、“赤文字雑誌”はまさに出版社のドル箱だった。しかし、2009年以降スマホが普及し、TwitterやInstagramなどのSNSが雑誌の役割を奪うと、雑誌の部数は減少する一方になり、当然広告収益も下がった。

ViViの自民党キャンペーン「#自民党2019」は、読者への裏切りではないのか。 元編集スタッフの私が感じたモヤモヤ。

軍地さんは書きにくいだろうから代わりに書くと「ViViは食うに困って政治に手を出したんですね」ということになる。モデルを使って読者を誘導するというのはファッション雑誌お得意のスタイルなのだろう。「みんなやっているよ」と言われればなびく読者は多いだろうからだ。

普通のマーケティングならギリギリ許されていた行為が政治に結びつくと「政治的扇動」ということになってしまう。だが、普段から政治や暮らしなどを考えたことがなく「ふわふわと生きている」大人たちにはそんなこともわからなくなっていたのであろうし、これからも理解することはないだろう。

大手雑誌の編集者といえば「憧れの仕事についたステキな勝ち組」として上からファッションを語る。こうした人たちは自分が才能があるから成功していると思っているはずで社会や政治に関心を向けたり困窮者に同情を寄せたりすることはないだろう。だが、実際の経済事情は火の車であり、なんとか虚栄の市(バニティ・フェア)を守られなければならない。そこで覚悟なく手を出したのが政治だったのだ。

さらに調べたところYahooに分析記事が見つかった。こんな一節がある。

米国とは異なり、日本のファッション「雑誌の広告主は政治関連記事掲載を許容」はしない気がする。今回、講談社が「政治的意図はなかった」とすぐに表明したのも、広告主の反応を気にしたからといってよい。

雑誌は政治的発言をして良いはず 『ViVi』と自民党のコラボが炎上した背景とは

こちらは「スポンサーを気にしているのではないか」という。つまり色がつくのを気にしたというのだ。政治を他人事と考える人たちはやっかいごとに巻き込まれるのを恐れて政治に近づかない。しかし軍地さんの分析と合わせると「そうも言っていられなくなった」ので大勢に媚びていったということになる。

ただこの記事は伝説のアナ・ウィンターを引き合いにしており、日本の「そんじょそこらの」編集者たちと比較するのはちょっと酷な気もする。

そう考えると、今まで「私は実力で成功でいるから政治なんか関係ない」と言えていた「キラキラした人たち」がそうも言っていられなくなり、「ステキな政治」を演出しようとして炎上したということになる。かなり救い難い話である。

二番目の論考にでてくるように、ファッション雑誌も「自分の頭で考える人」が作れば、政治的意見を持てないわけではない。アメリカではセレブが政治的な発信をするのは当たり前だし、それがマイナーな意見であっても「勇気ある発言だ」と賞賛されることがある。日本の場合は「周りの目を恐れて浮かないように」生きてゆくのが当たり前だとされている。ファッション雑誌にはその国の価値観が出る。

叩かれるのを恐れずに個性を出してゆくというのがアメリカだとすれば、日本は周りの目を気にして生きて浮く社会であるといえる。政治的な意見を持つというのが忌避されて当然なのだ。ただ、それはもう成り立たなくなりつつある。

今、雑誌よりも影響力が強いのはInstagramだが日本ではローラが世界標準に乗せてセレブっぽい社会問題を発信し続けている。仕込まれた感じはするが、これを見ている日本の読者は「社会問題に関わるのはかっこいい」と思うようになるはずである。韓国のタレントも社会奉仕活動や寄付には熱心でInstagramをフォローしているとその様子がわかる。結局取り残されるのは雑誌の方なのである。

今回のTwitterの反応を見ていると「広告には理想的なことが書かれているが自民党のやっていることと真逆だ」というようなコメントがついている。なるほどもっともだなとも思うのだが、考えてみればこれも不思議な話である。

女性が政治に興味を持って一定の塊を政党は無視できない。つまり、女性から政党という意見の流れはあるはずだ。今、自民党の政治が女性を無視しているのは女性があまり政治的な声を挙げないからである。そしてそうした雰囲気を助長しているのは大手の会社に守られた「周りに浮かないように素敵な人生を送りましょう」というメッセージである。つまりそれこそが政治的洗脳なのである。

「みんなと同じように生きていれば自動的に幸せが得られる」という社会ではなくなっていることを考えると、いわゆるみんなと同じね安心ねという「ファッション雑誌」というステキはもう存続できないのかもしれないと思う。

今回のキャンペーンがViViの読者にどれくらい響いたのかはわからない(読み飛ばされている可能性は極めて高い)のだが、もし彼女たちがそれを意識したとしても「なんか面倒だな」としか思わないのではないだろう。

だが、ViViの読者たちもすぐに子育てとキャリアの両立というような政治的課題に直面することになる。そうなると世の中から置いて行かれるのはファッション雑誌である。彼らはもはや時代の最先端ではないのだ。

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取引できない人がもたらしたマスコミの動揺

テレビで岩崎隆一容疑者の話を延々としている。テレビ局は明らかに動揺しているようだ。




局によって対応の違いはあった。テレビ朝日は政治的正しさから抜けられないようでどっちつかずになっていたし、フジテレビ(実際にやっていたのは安藤優子さんだったが)は決めつけ報道を行いつつも「あれ、叩きがいがないな」と戸惑いを見せていた。

彼らは解決策を持っていないし解決するつもりもないが、報道というある種のお話の上に乗っているのだから解決策を提示するフリをしなければならない。そこでもがくわけだが、もがけばもがくほど沼にはまってしまう。ここに「何も要求しない人」の恐ろしさがある。日本型のムラは取引関係から抜け出せない閉鎖空間なので、何も要求しない人を処理できない。

社会は忘れ去られた人たちに何の関心も持ってこなかったし、これからも持たないだろう。さらにこうした人たちを抵抗してこない弱者と考えて侮ってきた。今回の件で恐怖を感じた人たちはなんらかの取引を求めるだろうが、その取引はもう叶わない。

彼らは戸惑いつつもなんとか枠を埋めていたのだが、関心は別のところに向かいつつある。ワイドショーの関心はすでに自分の知っている枠に引きこもり始めているのだ。

ちょうどDVを働くお嫁さんを息子が殺し母親が一緒に手伝って埋めたという事件が起こっている。まるでテレビドラマのような事件である。背景にはまるで無関心な父親の存在もある。裁判では当事者の発言が取れるので、叩く材料が継続的に手に入るのである。フジテレビはこちらにシフトし「母親が自分をかばうために嘘をついている」と決めたうえで「彼女をより重い罪にするにはどうしたらいいか」ということを延々と話し合っている。安藤優子の無駄遣いにも思えるし、もともとこういう人だったのかなとも思う。いずれにせよこの問題はワイドショーで扱える。この母親は裁判を通じて社会と取引しようとしているからである。

ワイドショーを見ていると日本人には二つの取引があるのがわかる。一つは恫喝系の取引で、これは「厳罰化」である。今回のもう一つの取引は「包摂系」である。この取引は「いい子にしていたら飴をあげる」か「悪い子にしたら叩く」である。自分で考えてどうすべきか決めなさいという考え方を日本人はしない。

「元エリート銀行員の弥谷鷹仁」の犯罪は「もっと罪を重くしろ」と叫ぶことで裁判をエンターティンメントとして利用している。道徳の遊戯化・娯楽化が見られる。つまり叩くというしつけのための行為を娯楽に利用しているということだ。よくDV加害者が「しつけのつもりで叩いた」ということがある。コーチも指導不足を隠すために運動部員に手をあげる。これと同じことが社会的にもごく日常的に起こるのである。

登戸の事件が「面白くない」のは厳罰化は何の役にも立たないからなのだろう。その人からうばえる最大のものは命だが、それはすでに差し出されてしまったし、何よりも社会参加もできていなかったわけだから社会的に抹殺すべきいわゆる生命もない。彼にはPCや携帯電話もなかったようで、こうなると暴ける内面もない。せいぜい卒業文集を見つけてきて叩くくらいしかできない。

では優しさを見せつけるというアプローチはどうだろうか。いわば包摂系取引なのだがこれはもっと惨めな結果に終わる。社会にそんな余裕がないからである。

日本には最低の生活すら維持できないような給料で働かされている人がたくさんいて、そういう人たちに依存しないと普通の暮らしが成り立たなくなっている。例えばAmazonのような配送に依存する小売形態もコンビニも搾取型労働なしでは成り立たない。つまり「今の経済活動から撤退する」動きを認めてしまうと、奴隷から見えない牢獄を取り払うことになってしまうのである。搾取構造は社会に完全に内包されてしまっていてその癒着を引き剥がすことはもうできそうにない。そんな中他人に優しくしましょうなど無理な話である。

それでも我々はまだ旧来のスキームから抜け出せない。「罰を与える」とか「認めてあげる」とか「社会が用意してあげる」という解決策しか出てこない。ぜんぶ「上から目線」なのである。さらに犯罪そのものにしても「防ぐ」という点ばかりが強調されている。これは「自分たちは変わるつもりはないが相手が変わることに期待する」ということだ。

取引はできないしそれも認められないのだから、やがてこの件は「なかったこと」になるのではないかと思う。

ただ、そのような国は日本だけではない。

安心安全のないアメリカでは、子供を一人にしないというのは法律で決められた親の義務である。アメリカ人はすでに「絶対的な安心安全などない」ということがわかっていて自分たちの行動を変えている。これはかなり窮屈な社会である。日本もそういう社会になってしまったのだと認めるのは辛いことかもしれないのだが、もうそういう前提で動くしかないのではないだろうか。

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道徳という名の化け物が……

道徳という名の化け物が合理的な政治を食い尽くそうとしている……今日はこのような大げさなことを考えたい。




考える直接にきっかけになったのは東洋経済の大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意という記事だ。どちらかが正義でどちらかが悪という二項対立的な構図が問題の本質を見えにくくしていると指摘している。この問題は「かわいそうな保育園の先生」と「無慈悲なマスコミ」という単純な形で捉えられ、それに芸能人が追随しているというのだ。

最近のワイドショーはこの二項対立を煽っているような様子もあり、自業自得なのではないかと思える。

例えば、最近話題になっている「小室圭問題」では小室さんへの嫉妬心が道徳感情という仮面をつけて暴れまわっている。小室さんは私人なのだが皇族と結婚しようとしているので「準公人扱い」して知る権利を振りかざしているのである。

しかしその背景にあるのは小室さんはずるいという嫉妬感情である。「結婚したら一時金が支払われる」とか「女性宮家ができれば小室さんにも公費が支払われるから」という理由で「それはずるいのでは?」という気持ちを煽ってもいる。結局、商売のために道徳感情を煽っていることになりポピュリストの政治家よりタチが悪い。

背景にあるのは取材費不足だろう。無料のコンテンツで構成しなければならないのだが、訴えられる可能性があったり、関係者筋から文句を言って来られる「コンプライアンス上の」リスクは困る。つまり「相手を見て」喧嘩を売っている。だが、言い返してこない、言い返せないとわかって喧嘩を売ることは日本語では普通「イジメ」という。つまり知る権利は元々の意味を失い単なるイジメの道具になっているのだ。

例えば、今回国会で扱われていた「幼保無償化」の話は主婦に関係のある話題であるにもかかわらず、ワイドショーで全く議論されることはなかった。唯一議論されたのは消費税が先送りになれば幼保無償化がなくなり損をするのでは?という懸念だけである。

道徳は政治が新しい権利や多様な行き方を認めないための言い訳にも使われる。新しい価値観が理解できない人も「道徳」という言葉を持ち出させば簡単に正当化の議論が作れてしまうからだ。少し前に聞いていたLGBT問題について回答があった。人権というのは共産主義よりタチが悪い道徳破壊・家庭破壊だと言っている。Twitterでこれを発信すると高い確率で炎上するだろうが、この人は実名でコメントしており、決して悪意からの言葉ではないのだろう。言葉に出しては言わないがそう思っている人は多いに違いない。

このところ、民主主義の原理が単純な道徳に置き換えられて行くというようなことを考えているのだが、社会が複雑になり利害関係がよくわからなくなると、手近にある道徳を使って「良い」と「悪い」に分けるというようなことが行われるようになるらしい。変化を認めないというのはまだかわいいい方だが、中には道徳心を用いて他人を裁いたり貶める人たちが出てくる。そしてそれが「エンターティンメント」にまで持ち上げられてしまうのである。

こうした症状が出てくると、社会は絶えず敵を要求するようになる。敵を攻撃している時だけかりそめの一体感が得られるからである。

知る権利を満たしたい気持ちが安易な方向に流れると却って知る権利が奪われるということが起こる。

ところがここから「良い知る権利」と「悪い知る権利」を分割することはできないのではないかと思う。それは我々が「良い判断力」と「悪い判断力」を併せ持っているからである。

このブログはかつて「村意識を残した日本人」というようなテーマをよく書いていた。既得権を持った人たちは村を維持し、そうでない人たちは路上に放り出されるというような筋立てだった。当時は「ここからどう社会規範を再構成してゆくのだろうか」ということを考えていたような気がする。しかし、気がつけば全く違ったところに出てきてしまったようだ。人々は現実の縛りから自由になり顔を隠した匿名の道徳意識だけが化け物のように暴れまわっている。

今見ているのは、現実に即した社会規範が失われ、かつてあった「他人から良い人と思われたい」という気持ちだけが暴走ているという世界である。そして「民主的な」政治議論をやればやるほど化け物に餌を与えることになる。

集団化して暴走する民主的な道徳が合理的思考を奪ってゆくプロセスにはまだ輪郭がつかめないところが多い。すぐにはわからないだろうが、これからも少しづつ考えて行きたい。

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政治議論をすればするほど堕落してゆくという可能性について考える

ポピュリズムの本と一緒に「文明はなぜ崩壊するのか」という本を借りてきた。心ゆくまでローマ帝国の崩壊過程などが読めるのかなと思ったが、途中からアメリカの政治批判みたいになってしまいいささかがっかりした。が、一応マヤ帝国の崩壊過程とローマ帝国の崩壊過程については触れられていた。




ローマについては、ジェセフ・ティンターという人の「複雑な社会の崩壊」という本が紹介されている。ティンターの本はよく引用されるらしいのだが、邦訳がないらしい。

農業生産性が落ちてゆき人口は増えてゆく。その矛盾を解決するためには土地を広げざるを得なかったと言っている。これについて調べたところ、ローマが初期の過程でさえ外国から安価な食料品が入ってきて中小農家を潰していたというような記事(東洋経済)が見つかった。つまり崩壊の芽は最初からあったことになる。

いずれにせよ、内側で食料が供給できないと、増えすぎた人口を維持するために外側に拡張して食料供給力を維持する必要がある。帝国が拡大するとそれを維持するために通信・軍隊・統治のコストが増す。そこに新しい問題(外国人の侵入)が加わることで帝国は分裂したというのである。

しかしローマ人は問題を解決しなかった。自分たちは拡大(成長)していたのだから優秀だと信じ、国の大切な防衛などを外国人に任せるようになっていったのだ。日本のバブル経済も崩壊直前まで自分たちの実力だと信じていた人が多かった。崩れてからもしばらくはバブルであるということに気がつかなかったくらいである。ローマがそうだったとしてもおかしくはない。

東洋経済の記事の別のページには農業生産を担っていた中小農家が凋落し生産さえも外国人に任せたというようなことが書かれている。ローマはこうして堕落して行ったのである。

今回はポピュリズムの話の中で「帝国の崩壊過程」について見ている。この二つを組み合わせると「複雑になり理解ができなくなると単純な解決策に頼るようになる」ということだ。そしてその崩壊の芽は最初から組み込まれている。

いずれにせよ物事が複雑化しすぎて対応できなくなると単純な解決策に頼るようになる。それを提示するのがポピュリストだ。

日本では最終的に「自分たちを信じて付いて来れば何も問題はないし、異議申し立てをしている人たちは自分たちの社会を壊そうとしているのだ」という主張に行き着いた。これは前回のポピュリズムの定義によると大衆先導による反多元主義であると言えるだろう。

Quoraの政治議論を見ていても、人々は問題の解決など求めてはいない。あらかじめ「消費税はダメ」とか「韓国は気に入らない」というような意見ができていてそれを延々と語り合っている。そこに合理的な回答を提出しても意味はない。ただ、彼らが気にいる答えを書いてもまたそれは無意味である。なぜならばうすうすそれが解決策ではないことはわかっているからだ。だから彼らは問い続けやがて疲れて何も考えなくなる。

多くの人たちが質問を投げつけられ続けると疲れ果てて考えることそのものをやめてしまうようだ。回答は単純化され、やがて質問されることに対して怒り出すようになる。アメリカ人は自分たちの主張が通るまでいつまでも叫び続けるが日本人はそれが社会の正解にならないと嫌になってしまうようである。

実は「ポピュリズムとは何か」の中にも同じような現象が書かれていた。複雑さ二疲れた人々は合理的に利害調整することをやめて「道徳的価値観」(良い・悪い)で物事を判断するようになるのである。トランプ大統領のTwitterの「this is good/this is bad」はその典型だろう。

このトランプ流のTweetが人々を引き付けるのは、問題をわかった!と考えることそのものに快感があるからだろう。問題の解決に快感があるとすると、人々が政治的な議論に参加すればするほど、政治議論は「堕落」してゆくことになる。人々は複雑な問題ではなく適度に「高次元の」問題把握と解決を選好するようになるだろう。そしてそれを覚えると政治議論そのものが「快楽装置」になり衆愚化してしまう。そうなると一つの破滅に向かって走り出すか、あるいはポピュリストたちに搾取される植民地化された存在になってしまうのではないだろうか。

「議論と対話は解決策へと続いている」と漠然と思ってきたのだが、実は議論をすればするほど堕落してゆく可能性もあるということになる。今回の結論はあまり楽しいものにはならなかった。

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努力しても報われない社会 – 上野千鶴子が投げかけた疑問

野千鶴子が東大で行った演説が話題になっている。上野さんのような人が東大にいると日本の民主主義は崩壊するだろうと思った。




全部読んだわけではないが、東大生は頑張れば報われる社会を生きてきたのだが、彼らが今後直面する社会は必ずしもそうはなっていないということを言っているようだ。これを聞いて「キリスト教的民主主義の伝統がないと、人はこういう疑問を持つんだな」と思った。やはり日本に民主主義は無理なのかもしれない。

我々は民主主義・自由経済社会を生きていると考えている。人々が平等であるのは当然善であると考え、なぜそうあるべきなのかということはブラックボックスに入れて考える。特に最近の中国バッシングを見ていると一党独裁は最初から悪で民主主義こそが正義だと考えていることがわかる。その一方で日本の民主主義には誰もが不満を持っている。自分の思っているような社会がおのずから作られないからだ。だからこそそうでない社会を叩き、自分たちは善であると思い込もうとするのだ。だから日本人は政治的問いかけが自分たちに向くのを極端に恐れるようになった。

このようなことになるのは欧米型の民主主義国の支配体制が終わり非民主的な国が経済的に成功してきているからである。実は、日本人が持っていた民主主義に対する感覚を我々自身が疑い始めているのだ。

民主主義というのはキリスト教の考える「愛とか平等」から神様というエッセンスを除いたものだと考えられる。結果的に経済的に繁栄したために「まあ、この考え方に乗っておけば問題はないだろう」ということになった。

もう少し突き詰めて考えるとキリスト教が「愛」と呼んでいるあのふわふわしたものが経済発展に良い影響を与えているということはわかるだろう。つまりまずお互いに信頼して経済のプラットフォームを造ることで我々は破壊ではなく生産に専念することができるようになったのだ。また「多様性」を認めることで、それぞれが持っている才能を経済発展と繁栄に活かせるようにもなった。

その背後にあるのは、実はかなり楽観的な世界観だ。キリスト教では我々が生きられるのは神様からの恩寵があるからだと考える。そして特にこれを感じることができるのは実は失敗を経験したことがある人なのではないかと思う。

「もうここまでだろう」と思って全てを諦めた瞬間に回復に向かうということが人生には確かにある。水の中でバタつくのをやめたら実は浮いていたというあの感覚だ。この浮力をキリスト教では奇跡と言ったりする。キリスト教の実践は、助け合いの輪に加わることによって「こうした奇跡」を身近に感じるということでもある。実は助け合いを通じてその環境を作っているだけとも言えるのだが、実践と参加が需要な宗教である。

シスターも上野と同じようなことをいうだろう。「東大生は特別に恵まれている」という言い方はキリスト教的には「普遍的に存在する奇跡」によって守られているということになる。だから、感謝してそれを周囲にも広げて行かなければなりませんというというのが多分教会的なメッセージになる。

だが、日本にはこうしたキリスト教的な伝統はないということが上野の発言からわかる。日本はまず自由主義経済から受け入れたがその時にたいした疑問は持たなかった。戦後民主主義が入ってきた時もアメリカが戦争に勝てたのだからきっとそれはいいものに違いないと考えた。だから、今になってジタバタと闘争を始めると、実はその根底にある楽観を理解していなかったということに気がつくのだ。そして「溺れるかもしれない」と思うともっと体を激しく動かすことになる。

日本人は極めて苛烈な競争意識を持っているので溺れた人を助けない。それどころか叩いてもいい存在と認識して群衆になって叩き始める。すると人はもっとバタつく。日本人は弱者が認められることがない社会だ。社会に弱者が存在することも認められないし、身内にいることも認められない。そしてついでに自分の中にもそういう弱者がいることも認められない。だから溺れている人もそれを見ている人も実は恩寵や奇跡を実感できなくなる。

本来民主主義・自由主義経済は「通貨などという形のないものをみんなで信頼するところから始めよう」という極めてあやふやなところから始まっている。「自分が使った金が自分のところに戻ってくる」と考えるのはかなりおめでたい人だ。管理する人が誰もいないのに経済がおのずとうまく回り人々は豊かになれるなどというアダム・スミス理論はキリスト教的には神の恩寵でも日本人にとっては妄言でしかない。つまり、民主主義・自由経済はかなりおめでたい理論なのである。

神の奇跡が本当にあるかという保証はどこにもない。神は人間をこの世界に送り出す時にメーカー五年保証のようなものもつけてくれなかったし、契約条件も新約聖書で無効になってしまった。人は十戒の世界を追放されて、イエス・キリストによって「ただ信じなさい」と荒野に放逐されとも言えるのだ。

フェミニズムや環境保護といった戦いが自己証明を始めるとそれは闘争になってしまう。例えば捕鯨運動や菜食主義などは欧米でも批判が根強い。「なぜ神は我々を愛してくれないのか」という代わりに「肉は食べないから私を愛してください」というのは実はキリスト教的ではないのである。モーゼのように神の言葉を聞けない我々が新しい契約条件を作ることはできないのだ。

努力しても報われないかもしれないという疑いはおそらく合理的なものだろう。が、合理的に接している限り永遠の闘争が続いてしまうのだ。叩き合いはもうおまけみたいなものである。多分、この叩き合いに疲れた人たちは独裁という「確かな政治」を求めるだろう。自由からの闘争は多分何度でも起こり得る。

西洋流の民主主義や自由経済には突き詰めてゆくと根拠のない領域がある。それは信仰と個人の理想という日本人に取ってみると極めて曖昧なものに支えられた実にあやふやなものなのではないかと思う。

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豊洲市場の殺人エレベーター事件

豊洲市場でターレに乗った男性がエレベータに挟まれるという事故が起きた。このニュースについて取り上げるのだが、取り上げるのは豊洲の問題そのものではない。日本人の問題解決能力についてである。日本もついに「アメリカ型」になったのかと思ったのだ。




この事件を最初に知ったのはTwitterだった。が、Yahooニュースにも出ていなかったのでフェイクではないかと思った。やがて本当だったということがわかり、Twitterでは程なくして大騒ぎになった。毎日新聞は発見から5時間後に死亡が確認されたと書いているので最初のつぶやきはややフライング気味ということになるのかもしれない。

Twitterには豊洲コミュニティができており、それ以上に意見が広がることがない。そこでQuoraで世論に訴えられるような環境を作ってみようと思った。が、掲出するときにすでに「でも当事者たちはコメントを書かないだろうな」と思った。理由はよくわからないがこういう洞察はなぜか当たる。

程なくして「豊洲の問題ではないのでは?」というコメントがついた。これもQuoraではよくあることだ。質問は「Twitter世論」を受けて質問は小池都知事を非難する内容になっている。するとそれを察知した人がほぼ本能的にバランスをとって「大したことはないのでは?」と収めようとする。これが今の日本社会だである。

小池さんではなく安倍晋三さんでも同じことが起こるし、例えば過剰労働やレイプ事件の問題でも同じ反応が見られる。なぜか日本人男性はこうした騒ぎが起きると「それは問題ではない」と言いたがる。本能的に集団が揺れることを嫌うのだろう。

その一方で、Twitter組は閲覧には来るが(外部からの閲覧者は増えている)書き込みはしない。これもあらかじめわかっているのだが理由がわからない。Twitterは集団の中で「そうだそうだ!」という群衆になれるのだが、Quoraだと最初の一人になってしまうからなのかもしれない。これも本能的な反応だ。

ところが事件はどんどん悲劇的な方向に展開してゆく。エレベータにフェイルセーフ装置がついていなかったことがわかってきた。これはエレベータにはあって当たり前の装置なのだが、闘争状態になっているために「これすら社会に訴えなければ振り向いてもらえない」というマインドセットになっているのだろう。つまり自分たちから「当たり前」のラインを下げてしまっていることになる。そしてそれを見た周りの人たちは「そんなの騒ぎすぎだろう」といってそれを反射的に打ち消してしまうのだ。中には親切心からか「監視を強めては」などという人も出てきた。

だが、区役所に設置しているエレベータがお年寄りを「食った」らどんなことが起こるか想像してみればいい。業務用であろうと一般用であろうとフェイルセーフ装置があるのは当たり前のことで「監視員を置こう」などという人はいない。そもそも騒ぎ立てるような問題ではないはずなのだ。

この問題はすでに「ヒヤリハット」な事故が相次いでいることがわかっており未然に防止することができてたはずの事故でもある。だが、この対応も極めてずさんだった。貼り紙対応だったそうだ。

しかし、共同通信社は「取材して初めてわかった」と悠長な書き方をしている。知っていたが一生懸命に言い立てる人がいなかったせいで、マスコミは知っていても伝えてこなかったということである。この事故が起きてからも市場は「ルールを守らなかった人が悪い」というような発表をしているようだ。よくある自己責任論である。

東京都の運営がずさんだとは思うのだが、我慢して引いてみてみると、全体的に「集団思考状態」が起きていることがわかる。誰かが状況を整理してなんとかしてくれるはずだとみんなが信じている。だが、誰もその勇気ある一人にはならないという状況である。

Twitter人たちは被害者なので「なぜ外に出て世間に訴えかけないのか?」と問い詰めるわけにもいかないし、当事者ではないのでどっちかに肩入れして騒ぐこともはばかられる。できるのは訴えられる場所を作ることだけである。

それでもやはり重大事故が起きてから責任のなすりつけあいをするまで問題は解決できないんだなあと思う。過労死の問題も女性のレイプの問題も同じような経緯をたどって結局犯人探しだけをして終わりになってしまうことが多い。問題解決ができないのは誰も問題解決に向けて動き出さないからだ。

いろいろ考えたのだが、結局のところ、当事者たちが理路整然としかも継続的に問題を他人に説明できるようにならなければならない社会になったんだなあと思った。これが、20年前のアメリカ社会とそっくりなのである。

アメリカも地域コミュニティが崩れて自分のことに忙しく誰も助けてくれなくなった社会である。なので、問題を察知した人は継続的に問題を訴えて行かなければならない。このことがよくわかるのが2000年のエリン・ブロコビッチという映画だ。法律を正式に学んだことがない女性が公害問題で訴訟を起こすという筋だが、映画の中では最初問題を取り合ってもらえないというシーンが出てくる。

アメリカ社会の状況を知ったうえでこの映画を見て「アメリカは大変だなあ」などと思っていたのだが、いつの間にか日本もそんな社会になりつつあるようだ。ただ、集団の中で「丸く収める」のを良しとしていた日本人が最初の一歩を踏み出すのはかなり大変なんだろうなあとも思う。アメリカはまだ助け合いの精神がある共和国的な風土があるのだが、日本人はともするとお上の側に立って他人を裁きたがる人が大勢いる。

豊洲のこの事件は人が亡くなっても「エレベータでは死ぬことがあるので気をつけましょうね」で終わってしまうかもしれない。だが、それを見て「我慢しろ」と言っている人たちも実は命の危険がある設計のよくない設備で溢れた職場で働いているのかもしれない。声をあげたり他人を助けたりしないことでどんどん自分たちの環境を貧しいものにしてしまうのである。

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大きな政治と小さな政治

わけあってQuoraの政治議論をまとめている。ここで人々が政治を語るときに大きな政治と小さな政治を分けていることに気がついた。




政治というトピック付けをされている話題を見てみたが、日米同盟や中国の台頭、財政のサステナビリティ、選挙制度や野党に対する懐疑的な見方など「大きな話題」が政治にタグ付けされている。一方で、身近な話題は政治とは分けて議論されている。例えば人権やまちづくりは政治課題とは考えられておらず、それぞれ別のトピックになっている。つまり、人々は大きな政治と小さな政治を分けて考えており、それぞれ別物と認識しているのである。そして、日本人は小さな政治はあまり重要視しない。

政治問題を捌く上ではとても面白い視点だと思うのだが、エンドユーザーにはあまり興味のわく話題ではないかもしれない。ここにメディアとしての政治論評の難しさがあるように思える。人々の認識を変えるのはとても難しいのである。

安倍政権を退陣に追い込むためには安倍政権を罵ればいいのか?という直球の質問がありこれに「罵ることは逆効果である」という回答を書いた。すると、たくさんの「高評価」をもらった。お気付きのように昨日書いた塚田国交副大臣の辞任についての記事を焼き直したものである。これが「あたる」かはわからないのだが、安倍政権にうんざりしている人が多いが野党には当面期待できそうにないという人たちの「聞きたい歌」だったからだろう。

これも大きな政治議題の一種であると考えられる。やはり人々は枠組みに興味があるのだ。だが、この道路が必要かという議論だとどうなっていただろう。あまり興味を引けなかったのではないだろうか。つまり日本の政治議論には三種類ある。

  • 従来型の永田町の人間関係(政局報道と呼ばれる)
  • 大きな政治問題(枠組みと制度)
  • 小さな政治問題(人権やまちづくり)

ここに一つ問題がある。小さな課題を積み上げて行かないと安倍政権の後継政権ができないのだ。民主党系の野党の問題はそこにあった。彼らはテレビという大きな問題ばかりを扱うメディアで風に乗ってしまったので、政権が維持できず野党に転落した後も復活ができなかった。統一地方選の一報を見ながらこれを書いているのだが、どうやら立憲民主党も国民民主党も地方の政治課題をすくい上げることができなかったらしい。大きな問題を掲げる(そしてあまり中身のない)維新だけが政権維持に成功した。

メディアとしては大きな問題について取り上げないと読者や視聴者が集まらない。がそればかりを書いていては実際の問題解決につながらないばかりか空中分解につながってしまう。かといって既存のメディアは「政局」という村のいざこざしか取り上げてくれないし、有権者は大きな話題にしか興味がない。だからいつまでたっても実際の政治課題が解決できる新しい勢力が育ってこないのである。

その中でリベラル野党はほとんど期待されていない。どうやらリベラルは「自分たちの正解を押し付ける高慢な人たちだ」と思われているのではないかと思う。さらに彼らは自分たちの理想を仲間と語り合うことに満足してしまい、それをどう実現するのかということにはほとんど関心を向けない。お勉強会の成果をひけらかすばかりで他人の問題解決には興味を示さないのでいつの間にか孤立してしまうのである。彼らの掲げる個人視点というのは「大きなもの」を好む日本人には受け入れてもらえない。彼らの過ちは小さな問題を大きく語るということである。具体的にもなれないし、日本人の好みでもないのだ。

さらに現実的な野党も台頭してこない。こちらの人たちは自民党の失敗待ちになっているのだろう。日本の政治課題は有権者の犠牲なしには成り立たない。今一番の支出は年金であることは誰でも知っている。経済が成長せず少子化も進む以上、年金制度を諦めるか税金の負担を増やして年金制度を支える必要がある。2009年は民主党がリーマンショックの尻拭いをして大変苦労させられた。今度も同じ轍は踏みたくないと彼らが考えていても実は当然なのだ。

小さな政治課題(への認識)がないために、リベラルな野党勢力は「市民が支持する政治」を作れない。さらに国政と地方行政は「細かな利権構造」が異なるためにやがて離反する運命にある。東京、大阪、福岡などの都市圏ではそれぞれ自民党からの離反が起きているのだが、受け皿はリベラル系政党ではなかった。東京と大阪では改革できない改革政党が躍進し、それよりは経済規模が小さい福岡には中央のいうことを聞かない独立王国ができつつある。

北海道の与野党対決を自民党が制したことからわかるように自前で経済が回せない地方は自民党にしがみつくしかない。「分配する人とされる人」のうち「される人」ばかりが自民党にしがみつき、偉そうに負担を命じられる人は自民党本部から離反してゆく。実は日本でも欧米型の「都市対地方」という図式が生まれつつあるのだが、民主党も社会党も役割がもらえなかったというのが、今回の統一地方選挙の総括だろう。そして都市部は明らかにバラバラになりつつある。都市部の意見を集約するアメリカ民主党のような政権が日本にはできなかった。

日本は予算編成(地方では国の補助金の分配のことだ)に関われない野党は没落する運命にある。中央では野党の仲間割れが起こり、地方では共産党を除く総与党化が進んだ。中央の与党は多分ありもしない「市民が主導する立憲民主主義」という机上の理想論を追いかけ続けている。

この破滅の予感を救うのは、小さな社会改良の積み重ねと統合なのだとは思うのだが、日本ではこれは政治課題とは認識されず共有もされない。ここに行き詰まりの原因の一つがあると思う。政治テーマの議論を整理していて、個人的な問題と見なされがちな小さな社会問題をどう「国内政治課題」に格上げするのかというのが大きなテーマなのではないかと思った。

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