演歌の誕生 – 日本人にとって理論化とは何か

政治問題を扱っていると「保守とは何か」という疑問にぶち当たる。「だいたいあの界隈ね」ということはわかるのだが、本質を抜きだそうとしても抜き出せない。本質が抜き出せないためにそれに対抗しようとすると対抗運動も崩壊する。




「日本の保守が害悪だ」とするとそれを潰したいわけだが、それが潰れない。だからいつまでたっても我々の社会は停滞したままだというのがこのブログの考えている行き詰まりである。そしてそれを我々は野党がだらしないからだと説明している。でもそれは説明になっていないし何の解決にもならない。

こんな時にはどこか別のところからヒントが降りてくることがある。今回のそれは演歌だった。後付けだが歌謡曲の保守思想である。この演歌というジャンルは1970年にはすでに存在しており「昔からあった」ような印象がある。ピンクレディーが奇抜な歌謡曲を歌っていた時「昔からずっとやっている歌手」が「日本の伝統である演歌」を歌っていたという感じなのだ。

Quoraで回答するためにその演歌について調べた。回答そのものはいい加減なものになったが調査の読み物はとても面白かった。演歌は実は昔からあったジャンルではない。1970年代に新しく作られたジャンルなのだ。

もともと演歌の演は演説の意味だった。川上音二郎が元祖とされているそうである。ところが政府が政府批判を認めなかったこともあり政府批判を基盤とした演歌はなくなる。そして、大衆音楽の中に溶け込んだ。個人としての日本人は社会や国家などは扱わせてもらえなかった。個人で自由に表現できるのは個人の心情だけだったのである。小説の世界では自己を確立して外に打ち出すこともなく、心情を扱う私小説が流行したりしている。

大衆の歌は流行歌と呼ばれたようだが、これとは別に艶歌と呼ばれる一連の歌モノがあったようだ。楽器を使って街中で歌本を売り歩くような人たちを艶歌師と言っていたようだ。艶歌はプロモーションの一環であり歌は売り物ではなかった。

戦後、流行歌は次第に西洋音楽を取り入れて変わってゆく。基地まわりをする人たちが西洋のジャズなど取り入れて新しい流行歌を作った。高度経済成長期になると、都会に出てきた地方の人たちが望郷の念を募らせ歌を聴くようになった。ニーズを持ったユーザーの集まりも生まれた。しかし、グループサウンズやフォークなどが出てくるとこうした歌は「古臭い」として嫌われるようになってゆく。時代が急速に変化しアメリカから新しいジャンルが次から次へと出てきていたのである。

そんな中、五木寛之が1966年に「艶歌」という小説を出して「艶歌の再発見」をした。つまり西洋音楽に乗らない日本人の感情を歌ったのが「艶歌である」と言ったのである。「演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間」によると、もともと西洋音楽と日本の音楽を雑多に混ぜ合わせた「流行歌」というジャンルから再構築されたのが艶歌である。そして1950年代からこうした歌を歌っていた人たちが演歌を自認するようになってゆく。春日八郎がその最初の一人であろうとWikipediaは言っている。

ここで「艶歌」という名前がなぜか「演歌」に変わっている。この「演」という言葉がどうして再び出てきたのかという説明をしている人は誰もいない。おそらく昔からあって文字が簡単だったのでプロモーションに使いやすかったのではないかと思う。この時点で演歌は昔からあったということになっているのだから、もはやもとの「演説」という意味を意識することはない。その実態は古びた望郷の歌だったのである。

まず正当化すべき内容がありそのために正当化に使えそうな箱を見つける。そしてあとはその箱の中で好き勝手にやりたいことをやる。これが日本的なジャンルの作り方なのである。ただ、これだけだと例が一つしかないことになる。J-POPについても見てみよう。

演歌を古びた地位に追いやった一連の音楽は歌謡曲と呼ばれるようになる。これも意味があるようなないような不思議な名前だ。だがやがて若者は歌謡曲に飽きて洋楽を聞き始める。昭和の終わり東京に英語で音楽を流すJ-WAVEというFM局ができた。ちょうどテレビでMTVなどをやっていた時代だ。

WikipediaのJ-POPの項目をみるとJ-WAVEがこれまでの歌謡曲と違った新しいポップスにJ-POPという名前をつけたことになっている。1988年から1989年にかけてのことだ。ちょうど平成元年頃の出来事ということになる。J-WAVEは日本の歌謡曲の中から「洋楽と一緒に(つまり英語で)紹介しても」遜色がない音楽を集めてJ-POPという箱を作ったのだ。古くさいと思われていたものをリパッケージ化したのである。

だから、あとから演歌とは何かとかJ-POPとは何かと言われると実はよくわからない。平成の最初の頃の洋楽っぽい音楽もJ-POPだが「AKB48」も「モーニング娘。」もジャニーズが歌う演歌っぽい音楽もJ-POPである。単に正当化の道具なので誰もJ-POPがなに何なのかということは考えない。

面白いのは平成元年頃に作られたJ-POPという音楽が今でも使われているということだろう。これに代わる新しい言葉はできていないわけで、それはつまり新しい音楽の聞き手が現れていないことを意味するのだろう。邦楽は30年もの間J-POPから進化しなかった。アメリカから流行を取り入れるのをやめてしまったからだろう。

音楽では演歌はただ忘れ去られてゆくだけだ。誰も演歌に不満をいう人はいない。保守に対して文句をいう人が多いのは実はそれに変わる新しいものが現れていないからなのである。

もともと保守にも実態はない。それは戦後の民主主義思想に乗り遅れた人たちがこれこそ日本の伝統であったという再評価をして自身を正当化しているに過ぎないからである。そしてそれに対抗する人たちも、社会主義・革新・リベラルという名前をつけて正当化を図っているに過ぎない。保守という実体のないものへの対抗運動なのでさらに実態がない。つまり、保守やリベラルをどんなにみつめても課題や問題点は見つけらないことになる。

音楽の流行は西洋音楽によって作られる。日本でこれが起こらないのは、多分日本人が新しいものを作ろうとはしないからである。なので、西洋から新しいものが入ってくるまで日本人は今の状態に文句を言い続けるはずだ。

面白いことに一旦箱ができてしまうとそれは人々の気持ちを縛る。多分演歌界の人たちはファンも含めて「これが演歌である」という経験的な合意がある。それに合わないものは「伝統にそっていない」として排除される。保守にせよリベラルにせよ「我々はこうあるべきだ」という思い込みがありそこから動けなくなるのだろう。

平成というのは西洋から新しいものを取り入れるのを諦めてしまった停滞と安定の時代だったということになる。停滞に文句は言っているが実はそれが日本人にとって居心地の良い状態なのだ。

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日本が独自に民主主義を作ればそれは何もしないための仕組みになるだろう

連日韓国のニュースをやっている。「韓国はうまくいっていない」と主張することでうちは韓国よりもマシだという気分に浸りたい人が多いのだろう。みんな安心して騒いでおり目を背けたいニュースがそんなにも多いんだなという気分にさせられる。




Quoraでは、韓国とは断交したいが中国や北朝鮮のトクになるのは困るという質問を見かけた。日本人は民主主義という概念は理解しないが、誰か他の人がトクになると悔しく逆に誰かが困っていると自分が嬉しいという「細かな社会的会計」の概念を発達させている。このため意思決定に時間がかかり結局何もしないことを決めてしまうのである。小さな集団では機能する社会的会計だが集団が大きくなりすぎると予測が人間の脳の容量を超えてしまうのかもしれない。

ワイドショーを見ていて「面白いな」と思ったことがあった。「大統領が変わるたびにこんなに政策が変わっていいのか」という戸惑いの声だ。有権者が方針を決めたらそれによって劇的に変わるのが「民主主義だろう」と思ったのだが、日本人には受け入れられないらしい。

民主主義は意思決定の仕組みなのだが、日本人が求めるのは継続性と安定である。つまり日本人が意思決定の仕組みを決めると「何もしない」ことを選ぶ可能性が高い。多分日本人が決める憲法は「みんなでよくよく話し合って何も変えないために誰にも権力を持たせないようにしよう」というものになるだろう。

これを考えていて、面白い問題を見つけた。それが英語入試改革である。2013年頃に楽天の三木谷社長が「日本人は実用的な英語ができないから試験をTOEFLにしたらどうか」と言っている記事を見つけた。この線に沿って受験の改革も進められたがどういうわけか現場が大混乱しているらしい。なぜなのだろうかと思った。

Quoraで聞いてみたら「入試が変わって学生が戸惑うのは当たり前」と受験生の事情を切断した上で「何のための改革なのかわからない」と戸惑う大学の教授の回答がついた。この教授は英語教育には自分の考えがあるようだ。そもそも高校の先生が英語を話せないのに「試験を変えたからといって高校生が英語を話せるようになるはずがない」と言っている。そこまでは確かにその通りである。ただそこから教育方針を決める会議が「企業と一部の大学関係者に限られている」という不満に流れてしまった。つまり彼には彼の言いたいことがあり、その他のことはどうでもいいとは言わないまでも優先順位が低い問題なのである。逆に三木谷さんから見るとアカデミズムがどう考えていようと自分の会社の成果さえ上がればいいわけだ。つまり、日本人はお互いに他の村のことを聞く気持ちがない。

企業は英語が話せる即戦力がとにかくほしい。どうしていいかわからないから入試を変えたらと提案した。ところがもともとの目的が伝わらずどういうわけか「入試を変えたら」という話だけが一人歩きし、おそらく民間英語テストの利権確保などの話も加わり、かといってそれでは評価できないから旧来のテストも残そうということになり、最終的に混乱に至ったということになる。

そして、その間の全体像を知っている人は誰もいない。よくプロジェクトマネジメントがないというような話を聞くが、文部科学省も決められた通りに会議を行っただけで全体を通して物事を調整しようという気持ちにならなかったのだろう。そして官邸も自分たちの考えを学生に押し付けることに関心はあっても、日本の教育そのものには関心がない。

ふらふらと散策しながら日本人が決められない理由を探してきたのだがもう3つも見つかった。どういうわけか日本人は「目標を立ててそのために制度を変える」のがとても苦手なのだ。

  1. 誰が損をして誰が得をするかわからないから意思決定ができない
  2. そもそも急激に何かが変わると不安だ
  3. 目的意識を共有しようという気持ちが全くない

ここで韓国との比較は面白い。韓国は権力構造が変わると処遇が変わるという国だった。最初から中央集権化が進んだからであろう。中央集権化が進んだのはおそらく中国が大きすぎる敵だったからだろう。ところが日本は最後まで完全な中央集権化は進まなかった。藩を単位とした小集団が作られその中で比較的自由に意思疎通ができた。それでよかったのだ。韓国のような強い敵がいなかったため、小さなグループがお互いを牽制しながら全体としては何も変えない仕組みを作ったのだと思う。それが藩の生き残りに有利に働くからだ。狭い空間で争って滅ぼされるよりも相手に干渉しないほうが生き残れる確率が高かったのだ。

日本人は小さなグループの中で自治的な関係を保つことを好み、あまり他者から干渉されたくない。中で小さな変化はあったとしても大きな変化が外からくることを本質的に嫌うのである。

また、同質な他者が集まる関係の中で取り立てて個人主義を発達させる必要もなかったのだろう。現代の民主主義は個人主義との相性が良くしたがって日本人が民主主義を理解できないのは当たり前である。

このため日本人が最初から民主主義をデザインするならば藩レベル(つまり県よりも細かい)の集団主義的な民主主義になるはずである。そしてその目的は藩の維持、つまり何も変えないことだ。

実際に日本の経済は成長と発展から取り残されてしまった。ところが皮肉なことに成長がないから格差も広がらない。停滞と安定は同じことである。これはこれで良さそうな気がするが、戦後日本が手を染めた自由主義経済は成長を前提にしている。つまり成長を前提にした仕組みと成長しない仕組みが軋轢を引き起こす。

ポピュリズムが日本ではまだ流行らないのはなぜか?静かに迫る「民主主義の危機」はそのような筋立てになっている。社会保障制度は成長を前提にしているため、これが崩れるだろうといっている。現代の日本は動きが止まった人間ピラミッドのようなものだ。すなわち重みに耐えかねた下の方から疲労骨折で圧死する社会である。ただ圧死者は少ししか出ないので全体としては格差が少ないように見える。しかし社会保障の仕組みはある日突然破綻するだろう。その衝撃はかなり大きなものになるはずだ。

それでも我々は小さなグループに閉じこもり何もしないことを選ぶのである。

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トウモロコシで安倍政権はまた一つ嘘を重ねる

日本がアメリカからコーンをたくさん買うことにしたという。ところが日本側の報道をみてもどんな合意があったのかさっぱりわからない。やっとAERAの電子版が「あの説明は嘘だろう」という記事を出してジャーナリズムを批判した。新聞の政治部は安倍政権から人事関係の情報をもらいたいので政権が嫌がることは書けないのだろう。だから週刊誌の電子版という離れから批判するしかないのだ。




アメリカ側のニーズは明確である。トランプ大統領の関税戦争に報復するために中国は支持基盤である農家を狙い撃ちにしているらしい。ロイターによると大豆・豚肉などの被害が大きいようだ。しかし、被害がどれくらい出るかはよくわからない。それくらいアメリカは揺れている。トランプ大統領は補償を打ち出したが、6月にすでに多くを使い果たしているという報道もある。つまり今回のトランプー安倍ディールはアメリカ政府の補償の肩代わりの役割を果たすことになる。

To compensate for lost sales to China, the U.S. government has offered $28 billion in aid to U.S. farmers, of which about $8.6 billion had been doled out as of the end of June.

Factbox: From phone makers to farmers, the toll of Trump’s trade wars

Quoraで聞いてみたがやはり安全保障上アメリカがパートナーであり中国とは敵対しているという安全保障に関連する見方がでた。つまり、安倍政権は安全保障上トランプ大統領の支持者を支えているのだろうという説である。日本から見ると出てこない姿勢だなあとなんだか感心させられた。

しかし、そもそもこの話題に興味を持った人は少数派だ。英語版ではトランプ大統領がアメリカの農業を破壊するという質問には関心が集まっていた。しかも向こうで勝手に文脈が作られた説も流布している。全てロシアが関与しているのだという説にたくさんの高評価が付いていた。

日本のトウモロコシはほとんどが輸入されているそうだ。65%は家畜用の飼料で20%はコーンスターチとして加工されているという。もともと9割はアメリカから買っている。しかし、このコーンは穀物としてのトウモロコシだ。野菜としてのトウモロコシは別扱いだ。こちらは意外なことに自給率が99%もあるそうである。さらには今回病害虫の被害が出ているという葉っぱや茎を食べさせるトウモロコシもあるそうだ。整理するとこうなる。

  • 野菜としてのトウモロコシ:(遺伝子組み換えだと騒ぎになっている。どうせ飼料用のトウモロコシに混ぜて使うんだろうという強者までいた)
  • 飼料用穀物トウモロコシ:(すでにアメリカから買っていて今後追加で買う)
  • 飼料用の葉と茎を利用するトウモロコシ:(軽微であるが病気が南九州で見つかっている)

飼料穀物としてのコーンを追加輸入する可能性が高いのだがそもそもアメリカから買っているため「単に数百億円の余剰のコーンが増えるだけ」ということになる。ブタが突然二倍のトウモロコシを食べるようになるとは思えないから余剰在庫になるのだろうし、そもそもいつまでも買い続けるわけにはいかない。

一方でTwitterで出ているように日本人の食用のトウモロコシが遺伝子組み換えに侵されて健康被害が増えるということもなさそうだ。遺伝子組み換えトウモロコシが栽培されれば生態系には影響は与えそうだが、今回は輸入種が入ってくるだけである。そもそも家畜の餌になっておりそれが二次的に我々の口に入るに過ぎない。

新聞はあてにできない。アメリカの世論も混乱しているし日本でも環境派が騒ぎ出している。そして日本政府の説明もデタラメである。こんな時は原典を当たってみるに限る。きっと有益な情報が見つかるのではないのだろうか。

トランプ大統領の発言がホワイトハウスにあったので読んでみたのだが。ほとんど何も言っていない。全てが感覚的な言葉で彩られ「何を大筋合意(agreed in principle)したのか」がさっぱりわからない。言っているのは「全ては自分たちの思い通りに行った」ということと「国連総会(UNGA)の時に合意することができるだろう」ということだけである。曖昧なのに最後に全部で合意したとまとめている。

PRESIDENT TRUMP:  So, thank you very much.  We’ve been working on a deal with Japan for a long time.  It involves agricultural and it involves e-commerce and many other things.  It’s a very big transaction, and we’ve agreed in principle.  It’s billions and billions of dollars.  Tremendous for the farmers.
And one of the things that Prime Minister Abe has also agreed to is we have excess corn in various parts of our country, with our farmers, because China did not do what they said they were going to do.  And Prime Minister Abe, on behalf of Japan, they’re going to be buying all of that corn.  And that’s a very big transaction.  They’re going to be buying it from our farmers.
So the deal is done in principle.  We probably will be signing it around UNGA.  It will be around the date of UNGA, which we all look forward to.  And we’re very far down the line.  We’ve agreed to every point, and now we’re papering it and we’ll be signing it at a formal ceremony.

Remarks by President Trump and Prime Minister Abe of Japan After Meeting on Trade | Biarritz, France

終わりの方でも念押しをするようにコーンについて安倍首相に語らせようとしている。選挙キャンペーンに協力するような画を撮らせたかったのだろう。安全保障の問題で「北朝鮮の短距離ミサイルは日本の問題だから」と言って何も語らせなかったのとは全く人が変わったようである。

表向きは病害虫の件を持ち出したようだが、先に調べたように日本のトウモロコシはアメリカの飼料用コーンとは関係がなさそうだ。安倍首相がよくわかっていなかったのか、あるいは事務方がごまかしたのかはわからない。国会運営でおなじみの不用意なことをいって後の対応を菅官房長官に丸投げするという構図である。この後野党が嘘だ嘘だと騒ぎ立て国民が疲れて終わりになるのだろう。

トランプ大統領にとってはそもそも記者会見が大切だったのだし、日本も当座のメンツは立つことになる。ただ、後の説明はいつものようにおざなりである。安倍首相は国民への説明などどうでもいいと思っているのだろうなあと改めて思わされる。

冒頭に述べたように、日本のメディアはほとんどこの件について触れていない。取材が難しいのか何かに遠慮しているのかはわからない。日本政府がメディアを検閲しているとは思えないのでメディアがなんらかの事情で自粛しているのだろう。

そこで自分で調べてみるとSNSでは様々な情報が飛び交っている。その意味では新聞の政治報道は自殺を図っているのだろうなあと思う。人事という情報を「自分たちがいち早く知る」ためのゲームに奔走し、国民にとって何が一番重要かを考えることを忘れ、必要な情報を正確に早く伝えることを放棄しているのだ。

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政治的対立をこれ以上激化させないためにはどうしたらいいのか

このところ日韓対立をもとに「どうしてこうなったのか?」ということを考えてきた。




もともと国内政治の矛盾を隠蔽するために「対立を利用しよう」とする動機が日本にも韓国にもあった。これがお互いに呼応する形でエスカレートして行き誰にも止められなくなってしまっている。これをどちらかだけのせいにするのは難しそうだ。お互いの政権二同じようなニーズがあったと考えるべきだろう。また、アメリカは地域の調停に興味を失っておりこれも対立に拍車をかけている。

この対立は何も日韓関係だけではない。相似形はいろいろなところにある。例えば香港と中国の間に対立があり、インドとパキスタンにも対立がある。さらにイランとイスラエルも直接対決を始めたようだ。中国とアメリカも対立しており株価や経済に影響が出始めている。局所的にはインドネシアの西部(パプア)でも地元住民との間で対立が深まっているようである。これを全てアメリカのせいにすることも難しそうだ。どういうわけか対立は連鎖する。

背景にあるのは国内の経済的な困窮や不安などがあるのだろう。この不満が仮想敵を見つけてしまうとどこまでも燃え上がる。政権側がこれを利用して気を逸らそうとする場合もあるし、民衆側が仮想敵を見つける場合もある。

香港は経済上の地位の低下が不満に結びついたようだ。インドはヒンズー主義の台頭が原因になっており、インドネシアは国粋主義的な団体がパプア系に心ない言葉を浴びせたのがきっかけのようだ。パプアはイスラム圏のインドネシアにあって唯一キリスト教が優勢であり民族構成も頭部とは大きく異なる。イスラエルは首相の進退をかけた総選挙を控えており米中対立もトランプ大統領の選挙キャンペーンが原因だろう。

こんななか対立を抑制する方法にも見通しがついた。日本人は歴史教育は受けるが歴史の分析や討論の分析は行わない。かなり教育水準が高いはずの日本で、こと歴史・政治議論が先鋭化しやすいのは政治・歴史問題が「個人の印象」以上のところに持ち上がらないからである。つまり問題を社会化すれば解決の糸口が見つかる。

政治議論を観察していると、印象から作られた自分のポジションに都合が良い材料ばかりを集めてくることがわかる。この過程で「本音と建前」という二種類のロジックを使い操作しているのではないかという仮説も作った。綿密に文脈を作れてしまうために、却って元あった形が見えにくくなってしまう。このため社会で問題を解決するのが難しくなり議論が膠着するのだ。

「議論ができない」理由がわかれば対策が立てられる。つまり日本人は解釈をあまりにも重要視するので、元あった議論の形がわからなくなると大変不快な状況におちってしまうのである。ここから脱却するためには本音も建前も実は後付けのロジックであり、物事には多面性があるということをあらためて捉えなおさなければならない。

人間が理性的になれるのは感情的にフラットな状況にある時だけである。例えば戦争責任の問題は最初から「日本は反省しろ」とか「いや反省しない」という状態になっている。確かに長年謝ってこなかったのだから相手が苛立つ気持ちもわかる。しかし、よく知りもしないことに対して「とにかく謝れ」などと言われて不愉快に思わない人はいないだろう。まずは心理的に追い詰めないことが重要なのではないかと思う。

もう一つわかったのは、今の政治的議論は偏りが大きいと考える人が意外とおおいということだった。「公平に物事を見たい」というニーズがある。ブログはどちらかに偏ったタイトルをつけないと読んでもらえないことが多いのだが、実名制の質問サイトでは必ずしもそうはならない。政治議論に参加している人たちは声が大きくどちらかの陣営にコミットしていることが多い。このため自分の意見を決めかねているサイレントマジョリティも多いのかもしれない。ただ彼らも物事には真実があると思いこでいる節がある。歴史の教科書では出来事の解釈は一つしかないのが当たり前なので、解釈と現実がごっちゃになってしまうのだ。

問題解決の糸口は「物事の単純化」と「多面性の容認」であることはわかった。しかし、世界の情勢を見ていると経済的に追い詰められている人たちが多く「理性的になれ」などと言ってみてももうどうにもならない地域も多い。

私たちができるのはこうした対立を見て、感情に任せた議論ばかりしていては取り返しがつかなくなるということを知ることだけなのかもしれない。人間はどこまでも理性的でいることはできないのである。

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産経新聞がまた新しい願望込みの物語を投げ込んだ

面白いニュースを読んだ。トランプ大統領が安倍首相と会談した時「父親はカミカゼだったのか」と聞いたというのである。




トランプ大統領はカミカゼがなぜタンクを半分空にして特攻したかったのか知りたかったらしい。「お酒か薬の影響だったのか」と聞いたそうだ。安倍首相は「愛国心ゆえだった」と答えたそうだが、トランプ大統領は「愛国心でタンクを半分カラにして突っ込むとは」とジョークのネタにして支援者の集まる席でスピーチしたようだ。他国の文化を重んじるという気持ちが全くないある意味アメリカ人らしい態度である。

このエピソードがQuoraで紹介された。これに不愉快な思いをしたらしい回答者から「曖昧なことを言うならばソースを示せ!」と苦情めいた回答が入った。時期的に韓国と日本の間の軋轢が問題になっており、韓国人に対しては居丈高になるのにアメリカだと何も言えないのかという含みを持ちかねない話である。

こうした感情的な問題に関しては上から抑えてやるといい。つまり「日本人は英語ができないから知らないのは仕方がないですよね」と言ってやるといいのである。日本人は英語とアメリカ人に対してコンプレックスを持っているので「親切に教えてあげる」のがよいのだ。序列を気にする人には実に効果的である。

実はこのエピソードはニューヨークポストが元ネタである。もともと伝統のある新聞だったようだがタブロイド化し最近では過激な見出しで知られるという。英語版Quoraで調べてみたが評判はあまり芳しくはなかった。日本でいうスポーツ紙のような扱いらしい。ただし記名記事なので全くの作り話だと斬って捨てるわけにも行かない。

支援者たちはアメリカ人なので当然日本の戦争のことなどには大した関心はない。例えばアメリカ人はほとんど原爆について考えたことなどないだろう。だから特攻のような常識では考えにくい精神状態も単なるパーティージョークになってしまうことがある。片道切符で特攻するなど常軌を逸しているのだからお酒か薬物の影響だったのだろうと笑って終わりである。当然相手に対する共感もリスペクトもない。

英語で情報が取れる人なら誰しもアメリカ人は日本に対してさしたる関心がないことは知っている。だから日米同盟もその程度の確かさしかないということはよくわかっている。だが、英語で情報を取らない日本人はそのことが不安で仕方がない。ゆえにこういう話はなかったことにしがちだし、願望込みで解釈を加えがちだ。

韓国とのやり取りを見ていると「ちょうどその反対のこと」が起きている。韓国人が日本に反抗的な態度をとると、それを大きく拡大しいつまでも騒ぎ続ける。日本人は韓国人ならなんとかなると思っているからなのだろう。

日本人は心象による序列を作ってしまうところがあり対等な人間関係や同盟関係が作れない。だから政治家が絡んだ外交交渉で日本はいつも間違える。心象で目が曇っているので侮られたり不用意に怒らせたりするのである。

とはいえ、日本がアメリカ人から下に見られているのはいつものことだし相手はタブロイド紙なのだからそんなに気にする話でもない。ところが産経新聞の記事を見て驚いた。ニューヨークポスト電子版を引き合いにしているのだが、安倍首相の父親が特攻隊だと知ったトランプ大統領が安倍首相の説明に心を打たれたという感動秘話になっているからである。「トランプ氏、日韓首脳の「なまりある英語」を揶揄 安倍晋太郎氏が元特攻隊員と知り感銘」となっている。外国人が日本の心に触れて感動するという「日本スゴイですね系」の記事である。

確かにニューヨークポストはこのジョークの意味は書いていないのでトランプ大統領が特攻隊をクレイジーだったと言っているわけではない。だが、パーティーで気楽に話題にしているのだからリスペクトしたわけではないだろう。この話はネットですでに紹介されていたので産経新聞は「フォローしなければ」と思ったのかもしれない。彼らにとって安倍首相はヒーローなので「ヒーローが何も言い返せなかった」では困るのだ。

ただ、新聞電子版を読んでネタ元(ちなみに記名記事である)に確認も取らずに勝手に解釈を加えているわけで、これはもはや新聞記事ではない。願望込みのファンタジーだ。

ただこの件で産経新聞を非難する気にはなれなかった。産経新聞も自分たちのプリンスがトランプ大統領に相手にされていないことは知っているのだろうなと思った。だからこそ躍起になって物語を作ったのだろう。また朝日などの反安倍陣営の新聞も政治的な影響を失っていてこうした心象を正当化する記事を書きかねない状況になっている。こちらもインテリ層が政治に対して影響力を持てなくなったということを認めたくない。

一種のメンタルクライシスにある新聞が心象的創作物からは逃れられるはずはないのだ。

ただ、これが我々の政治的な意思決定にどんな影響を与えるかという点は気になった。日本人は本音と建前を分ける二重思考を社会的に容認している。このため自分が本当はどう考えているのかがわからなくなってしまうことがあるのではないかと思った。

産経新聞が本当はアメリカに相手にされていないことを知りつつ「安倍首相はアメリカに強い影響を与えている」と信じている限り、彼らは難しい判断から目を背け続けるだろうなあと思った。そうすると我々読者はますます自分たちが信じたい物語だけを信じることになるだろう。

日本にはその意味では信頼できるジャーナリズムはないのかもしれない。誰もそんなものを求めていないからである。にもかかわらず日本人は政治的に中立でありたいと考え、中立な新聞やメディアを持ちたがる。中立とは「自分の意見とぴったり合っている」ということだから偏っているのだが、他人の意見を尊重できない我々はどうしても自分の中にある偏りは見たくないのであろう。実に不思議な光景である。

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日本はもうだめだおしまいだと叫ぶ人たち

Quoraで日本はもうダメだという話が出ていたので「20兆円も海外から利子収入が入ってくるのになぜ悲観論ばかりなのか?」と書いた。もっと冷静になって次世代投資について考えるべきであるという提案だ。すると最近にになく高評価がたくさん集まった。改めて日本閉塞論に息が詰まっている人たちがたくさんいるんだなと思った。閉塞感を意識化する機会は少ないので言語化すると喜ばれるのだろう。




このエントリーには面白いコメントが2つ付いた。

一つは「でたらめをいうなやはり日本はおしまいだ!」というコメントだった。国の予算が100兆円あり20兆円を海外からの上りで穴埋めするというのはおかしいと書いてきた。国と企業の収益がごっちゃになっているのだが、ポイントは自分の観測と違った意見が出ると感情的に否定してしまうという点だろう。楽観論も悲観論も感情の領域にあり合理的な政治の問題ではない。だが、実際に政治を動かすのは感情なのでこうした声を無視していいということににはならない。ただこの意見を合理的に否定するのは難しいだろう。否定されればされるほどかたくなになってしまう。

もう一つのコメントは「政府債務が溜まっているのは確かである」という点とそれでも「教育への投資が少ないのは確かに問題だ」という点を指摘してきたものだった。実際に研究者とお話をする機会がある現役世代の方である。つまり、極度の楽観論や悲観論のどちらも正しくないということを理解している人もいるのだ。

Quoraの政治板は短い間に950名がフォローするコミュニティになったのだが、感情的なレスポンスをする人、冷静な理解をする人、とにかく議論を吹きかけて勝ちたがる人とありとあらゆる人が集まってきている。1,000人というとミニコミ紙レベルだと思うのだが、新聞はもっと大変なんだろうなあと思った。民主主義になるとさらにこれが複雑に絡み合う。

今回の「楽観論」は「国際収支発展段階説」という説に基づいている。国際収支発展段階説によると、やがて債券取り崩し状態に入るのだそうだ。今の日本の段階を成熟債権国と呼ぶそうだが、この状態があと数十年続くという。なのでポイントはこの成熟段階をいかに長引かせ、あるいは若返らせられるかという点にある。当然これといった正解はない。

お金が湯水のように入ってくると言ってもいいことばかりではなく当然代償がある。「世界最大債権国」日本、直接投資急拡大の必然には「慢性的な通貨高に悩みその度に景気が悪化する」と書かれている。何らかの理由で景気が悪化すると新興国から資金が逆流して円などの安全資産に戻ってしまう。すると急激に交易条件が悪化して日本は製造業で稼げなくなってしまうというわけである。つまり、資産が製造業を圧迫するという皮肉なことが起こる。

同じことはアメリカでも起きている。アメリカは取り崩し段階に入り赤字が続いている。これは長年製造業が圧迫され中国などの人件費が安い国に転移してしまったからである。アメリカは意識して構造転換をしなかったためにラストベルトという工業地帯が取り残されそれが問題になっているのである。背景にあるのは構造的な問題なので中国にケチをつけたりFRBに文句を言っても工場がアメリカに戻ってくることはない。先日ご紹介したアメリカの通貨切り下げ策は実は債権国を降りてサイクルの最初に戻れということなのだ。それはつまりアメリカの金融市場を爆破してしまうということである。

債権国であると言っても喜べない事情がもう一つサイクルの外にある。それが膨らみ続ける国家債務だ。

金融市場の大崩壊が近い将来に起こりうる理由という恐ろし気な記事がある。リーマンショックが起きたとき各国政府が問題を吸収した。このため「表面上危機が収まっていたように見えていた」のだが、トランプ大統領がそれをぶち壊しにしようとしていると言っている。つまり、トランプ大統領が引き起こすであろう混乱はアメリカだけでなく金融市場全体に災厄をもたらすかもしれないということだ。

  1. アメリカ株式市場がリーマンショック級の3割を超す大暴落を起こす
  2. アメリカ株に連鎖して先進国、新興国が株価暴落を引き起こす
  3. 米中貿易交渉が決裂し、米中を悪性インフレが襲う
  4. 米国債が売られて金利が上昇、世界の債券バブル崩壊で新興国の債券が紙くずになる
  5. 新興国通貨が暴落しあちこちでハイパーインフレが始まる
  6. 地政学リスクが高まり、ドルが売られて原油、金価格が高騰

実は、日本も似たような状態にある。政府が国債を発行し実質的に日銀が引き受けている。これが破裂しないのは日本は債権国であり円が安定しさんだと見なされているからである。つまり日本政府の実力が過大評価され問題が先延ばしされておりどんどん大きくなっている。これが弾けた時の痛みは相当なものだろう。

日本はかなり厄介な時期に債権国になったのだなあということがわかる。企業がお金を貯めこみ政府に働きかけて税金を支払わなくなる。法人税が下がると節税のために人件費をあげようというインセンティブも失われ消費市場が冷え込む。足元の景気が悪くなるので、政権を維持するために国債を発行して危機を乗り切ろうとする。するとインバランスが蓄積して金融市場が混乱する可能性が高まるというわけである。

面白いのは、日本にはお金が有り余っているのだからそのお金を使って将来に投資すればいいではないかという観測と、インバランスが高まっているからかつてない恐ろしいことが起こるかもしれないという観測が同時に並び立つところである。これはどちらも事実であり、どちらかが正しければどちらかが間違っているというものではない。

ここまで冷静にわかれば「今はなんとなかっているのだからどうにかしてこの恩恵を長い間享受できるようにしよう」と考えるのが自然である。コラム:英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏によるとイギリスもかつて債権成熟国の段階を経験して今も先進国なのだから、イギリスに学べばいいのではないかと書いている。

また、英国が自国の特徴を生かしてサービス収支や所得収支の黒字体質を確立したように、日本にはもともとモノづくりや技術力に優位性があるため、過去の経常黒字で積み上がった多額の対外資産を活用すると同時に、産業の競争力回復を目指し、国際収支の発展段階説で言えば第四段階と第五段階を行き来するような形になるのが理想的と考える。

英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏

つまり日本も上がりを国内投資する体制さえ作れればイギリスのように長い間債権国としての特権を享受できるであろうというわけである。ただ、何に使うのかは国でビジョンを作るか、ビジネスコンペの体制を整える必要がある。競争させるなら地方分権にして地方ごと競わせたほうが良いだろう。

ところが実際にはそのような話し合いの素地はできていない。そればかりか各国でポピュリズムが横行し有権者が扇情的に煽られるばかりである。どうやら日本も例外ではないようだ。欧米に比べると静かではあるがポピュリズムが蔓延している。

我々は、実は解決策があるのに、極度の楽観論と悲観論の間を揺れ動きながらさまよっているのだ。

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議論できない日本人と大衆扇動者

Newsweekの記事を参考にQuoraでれいわ新選組を左派ポピュリズムと書いたところコメントをもらった。心象藪の典型だと思うのだが、さすがに引用してネタに使うのははばかられるので引用はしないことにする。ただ、心象藪について書いた後だったのでコメントの混乱ぶりがとても面白かった。




この文章は、右派左派という分け方が昭和的だという指摘で始まる。昭和的とは「時代にあっていない」という意味なのだろう。そして、右派の教祖として崇められていた小林よしのりが安倍首相かられいわ新選組の応援にシフトしようとしているのだかられいわ新選組は保守だと続く。時代は進歩しているのだといいつつも、左派というラベルに違和感を感じていることがわかると同時に、彼にとって政治的ラベルは単なる悪口なんだなということも読み取れる。

その違和感の正体は次にわかる。「変化に抗っていると1970年代のようなLove & Peaceのような状態になってしまうだろう」という記述があるからだ。つまり、左派運動に対して「社会の責任を取らない無責任な運動」という印象を持っていることになる。つまり、昭和的な左派像を引きずっているのである。

ところがここで突然話が大きくなる。政治課題というのは大きくて重いテーマであり、それを扱っている自分も大きくて重いということになるだろう。Foreign Affairでアメリカは衰退する同盟国であるイギリスや日本とどう付き合うかという論文が掲載されており、時代はアジアにシフトしている。アジアは日本をスキップしアジアで経済圏を作ろうとしているようだとまとめられている。

まず、この人の文章が経験から培った「良いもの・悪いもの」という心象に彩られて彼オリジナルの世界観を作っていることがわかる。日本人は俯瞰的な視点を一切持たないのでこの枠から出ることはない。ここで彼に言えるのは彼の心象を理解して「そういう理解をお持ちなのですね」と曖昧に微笑むことだけである。

この人はれいわ新選組には親和的だが左派は嫌いなようだ。なのでこの二つが重ねられるのが嫌なのだろう。ただそれを言えないので「時代遅れである」というラベリングで乗り切ろうとしている。

次にわかるのは、それぞれの論理が俳句のように構成されているという点だ。その中での理論構成はあるが次のフレーズに引き継がれていない。それどころか「話を大きく偉大にしなければ」という別のドライブが続き連想的に話題が移り変わってゆく。

れいわ新選組は左派であるということを否定するのに時代遅れだというフレーズを使っているが、左派は無責任だというのも昭和の印象である。ただ、これが「論理として破綻している」と思うのは、読み手である私がこの文章から一連のロジックを読み取ろうとしているからに過ぎない。

彼が言いたいのは「れいわ新選組は良い」ということである。彼にとっては「小林よしのりもいい」のだから彼の側から見れば一貫したロジックはある。彼は良いものという主題で文章を綴っていることになる。つまり、政治的議論ではなく政治を季語にした連作俳句なのだと思って鑑賞するのが良いのだ。逆に左派はLove & Peaceで悪いものなのだろうし、政治は大きくてえらいものなのだろう。心象の吐露だと考えれば他人を傷つけているわけではなく特に問題はない。

心象藪とは心の中にある「良いもの」と「悪いもの」の表のようなものかもしれない。なのでドメスティクな人と政治議論をしてはいけない。

ところが全く別のところで、別の心象藪を見た。Quoraで「とりあえずビール」について聞いた。すると「とりあえずビール」が成り立つためには誰にでも飽きられないビールの味の追求があるのだという指摘があった。そこで嫌われない味を作ったんですねと書いた。つまり、味からこだわりをなくせばどんな食事にも合うビールが作れるからである。それが気に入らなかったらしい。「日本人の食を研究した結果である」と返ってきた。つまり「日本のビールは無難」というのがこの人にとっては「悪い」ラベルだったのだろう。

ゆえにドメスティックな人と議論をすることはできない。日本人が求めるのは心象俳句に対する情緒的な同調だけである。「何が良くて何が悪いか」は外から見てもわからない。誰にも嫌われない=どんな食事にでも合うというのは両立する価値観である。

山本太郎の話に戻る。Newsweekの記事はヨーロッパの流れを踏まえて山本を左派ポピュリズムと呼んでいる。背景には格差の拡大や変化などの問題がある。つまり、パターンに当てはめることで分析ができるようになる。

れいわ新選組は社会からこぼれ落ちている人たちの不満をすくい取るために、左派的な運動体を利用した。だからTwitterでは「初めて涙がでた」と表現されたのである。つまり、あの文章で重要なのは実はれいわ新選組ではなく「日本にもこぼれ落ちた人々がいて政治的なプレゼンスを持ち始めたらしい」という点なのである。

れいわ新選組の候補者の中にもあの記事に噛み付いた人がいるようだ。面倒なので引用はしないが「れいわ新選組は左派ポピュリストではなく無縁者の集まりだ」と言っている。どういう自意識を持つのかはそれぞれの自由なのだが議論には役に立たない。問題は当事者の心象ではなくどういう社会状況かという点だからである。

ここまで日本人は心象藪から出られないという視点で問題を見てきたのだが、ここで気になることがある。心象藪の中にいる人は他人を動かせない。では山本太郎はどうして政治的ムーブメントを作れたのかという疑問が出てくる。すると、彼は藪の中から這い出てきたのではないかという仮説が生まれる。

ここで重要なのは山本太郎がどのような立ち位置で自分たちを見ているかである。同じ左派運動でも福島瑞穂などは自分の心象風景しか語らなかったので大衆から離反されてしまった。心象藪をでて鳥瞰的な視点を持った人はムーブメントが作れるのだが、同時に大衆から一歩距離をおいた扇動者になる可能性があるということでもある。これは今後の注目点かもしれない。

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日本のテレビは勝手に大本営発表を流すところまで追い詰められている

日本のテレビとアメリカのテレビ(正確にはストリーミングだが)を同時に見ていて不思議な気分になった。日本のテレビは延々と韓国についてやっていた。「日本は何も悪いことはしていない」のに韓国がWTOに提訴すると息巻いているという話である。細川昌彦さんという目だけが笑っていない元官僚が出てきて「今騒ぐと損ですよ」と触れて歩いている。この間世界で何が起こっているかという報道はおやすみである。




最近日本のテレビを見ていると「見たくないものから目をそらすために忙しいふりをしているんだな」と思えるものが多い。

参議院議員選挙で話し合わなければならない問題はたくさんあるのだが、誰もそのことには触れようとしない。

例えば年金が2000万円足りないという問題やかんぽ生命をめぐる一連の騒動は「高齢者が老後の資金を安定的に管理できずしたがって消費が停滞するであろう」という大問題である。だが、これを認めることは老後不安と対面すしなければならない。個人で直面するにはあまりにも大きな問題である。

金融庁には金融庁の危機感がある。彼らは彼らの植民地である地銀を守りたいという気持ちがあるのだろう。独自の正義感が暴走するという意味では「関東軍」に似ている。金融庁の焦りは「政治家はちっともわかっていないから自分たちがなんとかせねば」というものなのだろう。支援されないが有能でやる気がある集団の暴走はとても恐ろしい。やがて倫理観が麻痺してしまうからである。

マスコミはこの問題に対して「年金を守るためにはどうしたらいいのか」という自己防衛説話を流し始めた。公共や国家が信頼できない時できるのは自己防衛だけだ。マスコミには「国はあてにできないが表立っては抗議できない」という確信だけがあるのだろう。

こうした地殻変動は外からもやってくる。日米同盟がもう当分あてにできないだろうという情報がSNSでダイレクトに飛び込んでくるようになった。

アメリカの今の状況を見ていると、選挙キャンペーンのためにはなんでもありの状態になっている。ABCのニュースはアメリカもまた「閉鎖的な動物園の熱狂」にさらされていることを伝えている。アメリカは移民によって成り立っている国なので、人種や出身地についての屈辱的発言は最大の政治的タブーのはずだ。だが、トランプ大統領はそれを軽々と超えてくる。そしてそれに対して感情的に抗議する大勢の人がいる。

今後この件は日本の安全保障・エネルギー問題・憲法改正問題にリンクしてゆくだろう。多分、外交・防衛部局の人達はアメリカのニュースを見ながら大いに慌てているはずである。彼らが政治家に支援も理解もされていないと考えた時、どのような暴走をするのかと考えるとちょっと暗い気持ちになる。おそらくその暴走も我々を不安に陥れるだろうが、マスコミは見て見ぬ振りをして「自己防衛」を呼びかけるだろう。

日本の議会政治はあまりあてにならなかったが、官僚システムと日米同盟という二つの地殻は割と盤石だった。ここにきてそのどちらもが揺れているように思える。だが、その振動があまりにも大きすぎて「もう笑うしかない」という状態になっている。

日本のテレビ局は、国からの恫喝やそれを支援する人たちの抗議に怯えて参議院議員選挙がまともに報道できない。それは仲間のテレビ局が政府からの干渉に一緒に抗議してくれるであろうという確信が持てないからだろう。そうなると何かもっと重要な問題で時間を埋めなければならなくなる。韓国の話題はそんなテレビ局が取り上げられる唯一の「政治のお話」まmpだ。

誰もが韓国は日本より序列が下だと感じているので視聴者からの抗議はない。だが、テレビ局は「今が安心」というメッセージ以外は流せない。だから、テレビ局は細川昌彦さんを呼んで「日本は悪くない」「この戦争は絶対に日本が負けない」というようなことを説明させている。元インサイダーに語らせておけば取材もいらない。いわば大本営発表を垂れ流しているのだが官邸が関与しているとは思えない。テレビ局が元官僚と組んで自発的に大本営発表を流さなければならないほど日本のジャーナリズムは弱体化し追い詰められ価値をなくしている。

ジャーナリズムはもう何を知るべきかという指針を示してくれないし、本当に知りたいことは何一つ取材できない。さらに官邸も暴走気味にこの問題を煽ってきたのでマスコミは官邸の指示も仰げない。

ここから想像する未来は単純だ。日本は地滑り的な変動が起きているという認識を持てないまま状況の変化に流されてゆくということになるだろう。

例えば、バブルが崩壊した時も我々は構造的な変化が起きているということを認められず、したがって構造的な変化を作れなかった。社会的な取り組みができないのだから、我々に残された道は自己防衛だけだ。

日本の企業は終身雇用のなし崩し的な破壊と金融機関からの依存脱却という「自己防衛」に走り、「いわゆるデフレマインド」という長期的な沈滞に陥った。背景にあるのは徹底した公共や社会に対する不信だろう。そして不信感を持てば持つほどそれは自己強化されてしまういまいましい予言なのだ。

実は日本のマスコミは社会や公共というものを全く信じていない。それは単に彼らの思い込みだと思うのだが、多分既存のメディアがその殻を破ることはできないだろう。なぜならば彼らの思い込みは彼ら自身を縛り、なおかつ視聴者も縛るからだ。

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ニューヨークタイムス紙によると日本は独裁体制を彷彿とさせる国らしい

The NewYorkTimes(ニューヨーク・タイムズ)が面白い記事を書いている。望月衣塑子記者を官邸と戦う記者としてフィーチャーしているのだ。「記者が日本でたくさん質問をする。それは日本では普通ではない」というようなタイトルである。




朝日新聞は好意的に書いており記者クラブ制度については触れている。ただタイトルだけ読むとThe NewYorkTimesが政権批判したと読み取れるのだが実際に批判されているのは新聞そのものである。また、朝日には削った箇所がある。それが「男性中心の秩序に挑戦している」という部分だ。彼らは日本人は英語が読めないであろうと考え印象操作してしまっているのだが、あるいは自分たちの認知不協和を癒そうとしているのかもしれない。

サンケイスポーツはずいぶん煽った書き方をしている。望月記者は国民的英雄であり独裁政権のように振る舞う政権に挑戦していると言っている。逆に反発心を煽ろうとしている感じがする。

だが記事が「独裁体制を彷彿と(reminiscent of authoritarian regimes)」と言っているのは確かである。

記事は東京新聞の望月記者の攻めた報道姿勢は市民の間に支持者が多いと言っている。国連報告者のデビッド・ケイもその姿勢を「意味のあることだ」と積極的に評価する。この辺りは、反政権的な姿勢の人たちにも好意的に受け止められそうである。だが記事はそこでは終わらない。

東京大学の林香里さんは「望月記者は男性中心社会を攻撃している」と言っている。つまり望月記者は「報道の自由」だけでなく「男性社会に挑戦する」ヒロインと捉えられているわけである。これはアメリカ人が持っている典型的な日本人像である。つまり日本は女性が男性に従うだけの封建国家であると考えられている。

記事を読むと「日本はアメリカ占領時代に作られた憲法があり報道の自由が守られた民主主義国」のはずだが、男性中心の古臭い人たちがそれを拒もうとしていて、女性差別もその一環であるというような印象で書かれているように思える。

記事をだけを読むと、日本の報道は男性の絆で維持されたジャーナリズムは封建的な(これは記事には出てこない言葉なのだが)体制の維持に協力してきた協力者であるという印象を持つだろう。記者クラブは地方の警察署のような小さな組織から首相官邸まで記者クラブがあり会員以外を排除しようとしているというのはアメリカ人から見れば言論統制だからだ。

外国人記者は記者クラブ制度に入れてもらえない。そのため外国人特派員協会を作ったり記者クラブ制度の廃止を訴えている。ジャーナリストといえどもやはり「中立」にはなりえないということがよくわかる。ただ、これだけでは不十分なので「抑圧された女性」という別の視点を入れて記事を補強しているのだ。伊藤詩織さんの時もそうだったが「旧弊な体制に立ち向かう勇敢な女性」というのは心情的にわかりやすい。だからこそ記事になるのだが、それだけ危険でもある。

これは日本人が中国や香港の民主化運動を極端に持ち上げるのに似た姿勢だ。日本も自分たちは中国よりマシな民主主義国だと思っている。そこで「中国の人民は無知ゆえに騙されているのだろう」と考えると同時に、体制に反抗する人たちを過度に持ち上げてしまうことがある。アメリカ人は民主主義や民衆の知る権利を至上のものと考えており、そうでない社会が崩れて変わってゆくことを求めている。ある種のスーパーマン願望を持っているのだ。

多分、この記事を日本語で読むと日本人の中には嫌な気分になる人が多いに違いない。例えば政府に対して疑問があっても「日本は男性社会であり」という部分に抵抗感を持つ人もいるだろうし、アメリカ占領時代に民主主義を与えてやったのに権威主義的な体制を維持しているという上から目線の論調に辟易する人もいるだろう。

実はアメリカでもこうした「上から目線」にうんざりした人たちが増えているのではないかと思う。The NewYorkTimesはアメリカでは有名なクオリティペーパーだが、同時に「エスタブリッシュメントの代表」だと思われている。オバマ大統領は立派なことを言っていたが結局何もしてくれなかったと考える人が、わかりやすいトランプ大統領になびき、バーニーサンダーズ大統領候補のわかりやすい言葉に親しみを感じている。

つまり彼らが高邁な理想主義を掲げれば掲げるほどそれに反発する人が出てくる。スーパーマンはもうヒーローではいられなくなってしまい今度は批判の対象になるのである。

朝日新聞もある程度まではこの記事や望月記者にシンパシーを持つだろう。記者クラブは政府の広報機関になっており自分たちの正しいはずの理想主義が共有されないという苛立ちはありそうだ。しかし、それでも彼らは男性中心の編集姿勢に踏み込まれれば反発するだろう。みんなに感謝されるスーパーマンが家では抑圧的な男尊女卑主義者だったというのは彼らには受け入れられないだろう。だから朝日新聞は記事のその部分を紹介しなかったのかもしれない。

ということでこの記事は全文読んだ上で分析するとなかなか面白い仕上がりになっている。The NewYorkTimesは登録すると毎月何本かの無料記事が読める。

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秋田県民を非国民呼ばわりする人たち – 他人を縛る喜びを知ってしまった日本人

先日から承認欲求について考えている。今回はイージス引き受けないのは非国民との批判、県内外から」秋田の佐竹知事が明らかにについて考える。




前回は個人の承認欲求について考えた。日本人は個人の承認欲求を悪いものだと考える傾向が強い。一方で、日本人は集団を通じて理不尽な要求を突きつけることがある。

例示したの理不尽さにはいろいろある。体育会の理不尽な指導、意味のわからない拘束、ハイヒールの強要など、我々の暮らしは理不尽に満ちている。日本人は理不尽さで人を縛ることで「支配している」という実感を得る。合理性は屁理屈とみなされ何の役にも立たない。

個人の承認欲求は罪悪感と結びつけられこれが集団での支配欲に誘導されていると考えるとわかりやすい。一種のフレーミングではあるが、これで説明できることは多いと思う。

例えば、就職活動でハイヒールが強要されるのは「私は自分でものを考えず理不尽なルールでも従う従順で従属的な大人です」ということを顕示している。フラットヒールの靴を履くことは異議申し立てであり、これは日本社会では危険分子である。その危険分子の名前は「自分でものを考える人」である。天賦人権すら否定されかねない日本では、個人主義は危険思想なのだ。

ただその支配者は個人ではないし集団でもない。空気という名前をまとった一人一人の集合体である。ゆえに空気とは、個人でも集団でもない一人ひとりの集まりのことだ。群衆と言い換えても良い。

面白いことに、#KuToo運動には関係のない人たちからの反対がある。彼ら群衆は他人を縛る側に立つことで「自分も支配する側なのだ」という満足感を得る。ハイヒールによる抑圧に何の関係もない大人が多数参加するのは理不尽だが、理不尽なものを理不尽に押し付けるからこそ意味が生まれるのである。

テレビのワイドショーは芸能人の不倫を叩き、最近では小室圭さんの母親の借金について「人格がなっていない」と執拗なバッシングを繰り返している。この場合は視聴者という群衆がいる。テレビの前の人たちは団結して不倫叩きをしているわけではないのだが、結果的には大きな集団を形成しているように見える。

いったん「道を外れた」と認定されてしまうと、社会的な死に至るまでそのバッシングが止むことはない。「この辺りでやめようや」という指導者はいないからだ。叩いた側は理不尽に他人に有罪判決を下すことで「自分は支配している側にいるのだ」という満足感を得る。そこで「当事者たちはどうすればいいのだろうか」などと考えてはいけない。彼らは理不尽さの生贄であり集団の全能感を得るために屠られなければならない。

まとまりがないゆえに敵が必要なのだとも言えるし、村落・企業・家族といった集団に依存できなくなったから群衆化したのだとも考えられる。

村落共同体を失った我々は社会や公共を作るまで、目の前の敵を叩きながら群衆の中に身を置くしかない。それまで、空気として他人を叩く群衆は我々の目の前に立ち現れては消えてゆくことになるだろう。

秋田県の佐竹知事は「県民に対して説明ができない」から反対をしているわけでそれは合理的で政治的に正しい。さらに、イージス・アショアに対する政府の説明は不誠実だ。陸上イージスはハワイ、グアムは守れても日本は守れない?という記事ではそのことが論理的に説明されている。

政府が嘘をつかなければならないのは「国民を説得できるだけの信頼がない」ということを彼らが知っているからである。しかしそこで誰かが「信頼してもらえるように頑張ろう」などと集団を鼓舞することはない。群衆として「理不尽を地方に押し付けること」で権威を保とうとしてしまう。だから防衛省の幹部は居眠りをしても構わない。というより、居眠りをすることで理不尽さを演出しているのである。

麻生太郎副総理のように「あからさまに他人を挑発しても権力から降ろされない」ということを堅持し続けることが唯一の有能さの証になることがある。政権運営に失敗して引き摺り下ろされた過去のある麻生副総理は政策によって有能さを示すことができない。このように理不尽さは理不尽さを生み、化け物のように増殖してゆく。

佐竹知事や県によると、県のホームページなどを介し「非国民だ」という内容などの批判が寄せられているといい、知事は「(陸上イージスを引き受けず)『秋田には原発もなく、日本の何の役に立っているのか』『知事辞めろ』といっぱい来ている」などと嘆いた。

「イージス引き受けないのは非国民との批判、県内外から」秋田の佐竹知事が明らかに

日本は軍事的にはアメリカに依存しており「顔色をうかがわざるをえない」という情けない状態にある。これを忘れるためには理不尽に他人を貶めるしかない。こうして貶められたのが沖縄であり今その列に秋田が加わろうとしている。そしてそれはさらに広がってゆくのかもしれない。

日本人がものすごく悪意の側に傾いているとは思わない。おそらく個人の中にある「ちょっとした傾き」がこうした理不尽を生み出しているのだろう。雲を近くで観察しても触れることはできない。しかしそれを遠くから見ると太陽の光を遮る黒い物体に見える。群衆による理不尽の押し付けとはそういうものである。

日本はこれからトランプ大統領に「同盟破棄を持ち出され」「応分の負担」を求められることになるだろう。しかし話し合いによって解決できない日本人はますます「反日異分子」を国内に求めるようになるのではないかと思う。前回と違ってGHQは来ないのだから、私たち自身がこの雲に直面し「これはあってはならない」と考えるまでこの状況はなくならないだろう。

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