タワーマンションの混乱 – 民主主義ができない困った人たち

面白い記事を見つけた。タワマンの「一斉老化」が止められないという記事である。面白いのは他人事として観察できるからである。日本人は議論ができないのでコミュニティ管理ができない。つまり日本人は「民主主義ができない」のだ。




この話は貴重なサンプルだ。日本人が民主主義ができないというと犯人探しに変わってしまうか、そんなのは決めつけであるという反発をうむ。<右傾化>著しい日本ではよくあることである。問題が切実になればなるほど「他人に変わって欲しいが自分は何一つ変わりたくない」と考えるのが日本人だ。言い換えれば日本人は自分が先に動いて損をしたくないのである。だから外から日本人の行動様式についてみないと我々日本人は日本人を観察できない。

この記事を読むと日本人ができないことがわかる。

  • 日本人はまとまれない
  • 日本人は話し合えない
  • したがって、日本人は決められない

今回ご紹介するのは、タワーマンションが老朽化すると運営が立ち行かなくなるところが出てくるだろうという記事だ。その内容を見ると「決められない住民」という言葉が出てくる。では何故決められないのか。

タワーマンションは管理費の中から将来の改修費用を積み立てて行く。これが税金のような役割を果たしている。ただ、当初の見通しが甘く「税金」だけでは足りず将来行き詰ることが予想されているのだという。政治家が票を買うために甘い見通しを立ててあとで有権者が困って揉め始めるというのはよくある話だ。この場合は票ではなくマンションを買っている。

いずれにせよ甘い見通しを信じて人生設計した住民はどうしていいかわからない。それでもタワーマンションは上と下で収入格差があり意見がまとまらないようだ。記事には書かれていないのだが恐らく普段は上の方が偉いという上下意識があり下の人は反発しているのではないかと思う。当然「金持ちが多く負担すべきだ」という話になるだろう。また最下層には店舗も入っておりこれもまとめられない。村を原型に社会を組み立ててきた日本人はお互いの気持ちを慮りながら言語化して話し合いをすることができない。

ここで調停を求めるのだが、管理組合は「最終的には決めるのはオーナー様ですから」というような言い方をする。これは政治家や司法関係者が最終的に何も決めないのによく似ている。最終的には同じようなバックグラウンドの人たちだけであつまってバラバラに意思決定をするということが起こっているようだ。つまり、低層と高層で村が分かれてしまうのである。

もともと規制緩和でできた高層マンションにはまた運営のノウハウがない。そこで筆者は「国が入ってなんとかしてほしい」といっている。

国交省は、容積率を緩和し、補助金を投入してタワーマンションの建設を後押ししてきた。「都心回帰」の旗を振った責任があるのだから、一日も早く、ガイドライン作りを始めてほしいものだ。

タワマンの「一斉老化」が止められない…日本を蝕む「不都合な真実」

なんとなく気持ちはわかるのだが「規制緩和」というのは自分たちで判断するから好きにやらせてくださいということである。ところが日本人はここで「自分たちで判断しよう」というつもりにはならない。

住民には「主権者意識」がない。主権者はなんとかして物事をまとめて最終結論を出すという意思が必要なのだということがわかる。リスク評価と意思決定はしないのである。住民は希望は出すがあくまでもお客様気分であり経営のことは考えない。そして誰かに調停を求めていつまでもまとまらずに言い争いをする。裁定者は出てこない。誰も責任は取りたくないからである。だからいつまでも揉め続け、その間にも建物は老朽化してゆく。

多分一生に一度の買い物をした人も多いはずで、課題は切実なはずだ。しかし、それでも日本人はそうなる。本質的に「民主主義」ができないことがよくわかる。多分同じことはタワーマンションだけではなくいろいろなところで起こっているはずである。学級会くらいからやり直したほうがいいとは思うのだが、そもそも学級会運営のノウハウすらないかもしれない。

どうしてそうなるかはわからない。でもそうなるのだ。

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四本の蛍光ペン – 日本人は議論ができないのだが解決策も簡単

4月ごろからだと思うがQuoraで政治スペースのモデレータをしている。もともとスペースというブログの後継機能を立ち上げるにあたってサンプルが必要だったということでサンプル運営を任されたのだ。多分サンプルの時期は終わっていると思うのだがそのまま居残ってしまい気がついたらフォロワーが1,200人になっていた。「フォロワーがつくのは嬉しい」と最初は思っていた。




1,200名もいるとといろんな人が出てくる。1,000名くらいから揉め事が始まった。まず表現の自由問題でカラまれた。ちょっとしたセレブ気分だななどと思っているのも束の間、先日もある人が「トリチウム水を海に放出するべき」という投稿を提出した。ずいぶん強引な記事だなと思っていたのだが、今度はそれを名指しした上でカラんでくる人がでてきた。一応モデレータなので仲裁したほうがいいのだろうか?と思い、まずは読んでみることにした。

まずカラんできた人の文章を読んだ。要するに「気に入らない」と言っている。これは簡単だなと思った。要するに読書感想文のようなもので「〇〇くんの意見はいけないと思います」と言っているのである。学級会気分と言っても良い。Twitterでよくリベラル系の人が使う形式である。「安部君はもっとまじめにやったほうがいいと思います」である。

がカラまれた人の文章はちょっと厄介だった。一応流れがあるのだが、曲がりくねっていて何を書いているのかよくわからない。論文を書いたことがない人が文章を書くとそうなる。これもTwitterでネトウヨ系保守の人が陥りがちな形式だ。読んでいていとても疲れる。

白い紙を取り出して整理してみることにした。

一応流れはあるのだが最終的にはストンと「放出するべきだ」という結論になって終わっている。その時は「何かが足りないなあ」としか思わなかった。

ここで燃料が投下されない限りどちらも沙汰止みになってしまう。これが気軽に燃料投下ができてしまうTwitterとの決定的な差である。結局この件はこれで終わってしまった。

この「足りないこと」が氷解したのは別の回答を書いていた時だった。「老人は持論を押し付けてくる人が多い」というのだ。これを解消することはできるのか?というのが質問の内容だった。無理だろうと思った。老人の極めつけは経験則が固着したものだからである。

突然、先日の疑問とつながった。経験則とはつまり印象や感想である。老人の意見を変えられないのは経験を変えられないからだ。後付けで「読書感想文」という比喩をつけたので、その例えで言うと老人は心の中で誰にも批判されないたくさんの読書感想文を書いてきたのだろう。

自分の意見を構築する文章には次の四つの要素がありうる。これを整理する訓練を人はどこでするのだろうかと思った。実はエッセイという文章形式があり英語圏の学校では多用される。日本でも始めている学校があるかもしれない。エッセイは「論文」とは違ったジャンルである。事実ではなく意見を述べるからである。随想と訳されることが多いが、元々の意味は「試論」だそうだ。

  • 意見・主張・試論(これがメイン)
  • 意見をバックアップするための事実
  • 事実を検証するための反論(反論を織り交ぜることで客観性を増す)
  • 単なる感想や印象(これはできるだけ取り除かれなければならない)

ところが日本の場合は本を読ませて「感想」を書かせる。心象の方が大切という教育を行う。そして、あまり事実や反論というものを重んじない。つまり日本人はもともと事実に心象を固着させ、それを社会の正解とすり合わせてゆくという教育を延々と行っているのだ。

これについてなぜ読書感想文が好まれるのかと聞いてみたところ「先生が出した課題図書が期待通りに読み込まれているのかをチェックするからだろう」という回答がついた。なるほどと思った。感想を書かせるがそこには正解と不正解があり成績がつくというのが日本的な世界観なのだ。つまり思い込みであっても正解(先生や社会)と合致していればOKという人を大量に効率よく育成するのが日本式の教育なのである。工場や軍隊では必要とされる人材である。

エッセーは意見構築の過程を扱うものである。ここから経験を除き意見形成過程を客観視できる人が知的エリートとして大学などに選抜されるというのが英語圏の教育である。

一方日本人は読書感想文しかやらない人と事実しか扱わない人が知的エリートとして大学教育に残る。いわゆる文系と理系である。日本の知的エリートは意見形成の過程を問われない。それはキャッチアップ型の国家には必要のないスキルだからである。

今回「トリチウム水の放出が気に入らない」と言っている人は単に心象を述べており、気に入らないといって相手にカラんでいる。読書感想文である。ところが反論された人も実は反論を検討してはいない。つまり政府がそれでいいと言っているからいいんだろうと主張しているだけなのだ。そしてそこに政府が言った論拠をもってきて無批判に当てはめている。この類型もどこかで見たことがある。これは教育要綱である。先生は教育要綱の是非は問われない。正解を読んでいるだけで「尊敬されるべき」なのである。

これまで失われた中間層という言い方をしてきたのだが、彼らが先生のステータスに憧れる理由はなんとなくわかる。先生は尊敬されなければならない。先生に逆らうなどあってはならないことである。あるいは先生になりたい意見のない生徒なのかもしれない。

例えば、大阪松井市長が処理水を(国が安全だと認めれば)大阪湾で引き受けると言っているということ(時事通信)が例示として使われてる。大阪の人たちがこれを信用するのかという点は全く検討されていないのだがそんなことはどうでもいい。それは政府の方針に書いてありしたがって正義なのである。

「老人の結論」が覆せないのは経験による印象が事実として蓄積されてしまっているからである。事実は反証があれば無効化できるが、経験は変えられないので老人は態度変容ができない。それはその老人が反証なしに意見構築してしまっているからだ。

そう考えると、保守とリベラルの議論は先生になりたい人と学級会で先生に意見している生徒、それを困惑気味に見ているその他大勢の生徒という図式に見える。そして先生の姿は教室にはない。

先生が仲裁しない日本では政治議論そのものが成り立たないことも多い。これは日本人が公共財として「話し合う」という技術を持っていないからだ。理由がわからないと「日本人は議論ができないね」で終わってしまうのだが、実はその解決はかなり簡単なことだった。

自分の文章を読む時に蛍光マーカーを取り出して「意見」「事実」「反論」「感想や印象」に分けてみればいいのだ。相手に対しても同じことをすればいい。なんだこんなに簡単なことだったんだと思った。三色(残りは地の色でいいので)の蛍光ペンさえあればことが足りてしまうのである。

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やがて「異物」が選別できなくなる – アメリカの事例と日本のこれから

ABCでアメリカンエアラインのメカニックが逮捕されたという話をやっていた。離陸前の飛行機のモニター装置に細工を加えようとしたのだという。これがトップニュースになったのはこのメカニックがアラブ系の名前(Abdul-Majeed Marouf Ahmed Alani)であり、携帯電話にISISのビデオを所有していることがわかったからだ。




アメリカは世界中からの移民が集まっている国だが実質的には英語が話せる白人が支配的だ。これはアメリカが独立してから近年までの世界の彼らなりの理想のモデルだったのかもしれない。世界は一つで英語という共通言語と英米法の法体系と白人の指導のもとで仲良く暮らすというようなモデルである。

意地の悪い見方だが、アメリカは長い間黒人の参政権を制限しており、黒人は公民権運動を起こして権利を獲得してきた。ところが有色人種排除は終わらなかった。イスラム教徒はキリスト教徒からの差別にさらされ疎外感を抱えている。有色人種は形式上はフルの参政権が与えられているのだが実際には不満を抱える存在だ。少数者が自分の国を肯定できなくなったからといって彼らを追い出すわけには行かない。すでに社会を支える存在だからである。

アメリカの白人たちは「失われた怒り」を持っているが民主主主義とという捌け口がある。結局彼らは多数派なのである。こうした失われた怒りを持った人たちがトランプ大統領を支援しているという意見もある。大前研一はトランプ大統領は自分中心主義の最低の大統領だと批判した上で、こうした人を支える熱狂的なアメリカ人が25%もいると嘆いている。大前は「アメリカ人が聞きたがる嘘を臆面もなく繰り返すのがトランプ大統領である」と言っているのだ。

だが、大前のこの記事にはトランプ大統領に好意的なコメントがいくつもついている。トランプ大統領が大前のようなインテリを打倒してくれるヒーローに見えているようだ。つまり、日本にもこのような失われた怒りを持つ多数派はいる。彼らが多数派のほんの一部なのか、それとも日本の多数派の中にうっすらほんのりと広がっているのかはわからない。

いずれにせよ、彼ら「喪失感を持つ多数派」が少数派を糾弾するシンボルのもとに団結する可能性はある。旭日旗を持った「美しい日本人たち」がオリンピックスタジアムを席巻する画面を想像してみればよい。多分「その他大勢」の人たちはオリンピックから退出し、多くの少数派が身の危険を感じ、一部の多数派と少数派だけがそのシンボルを巡って争いを繰り広げるだろう。話し合いの場のはずだったアリーナは好戦的な人たちの戦場になる。つまり問題解決の場が党派対立に占拠されてしまうということだ。

話し合いのアリーナが旭日旗で生まれば社会は話し合いで問題を解決することができなくなる。それがこれまで見てきた民主主義の死だった。だが、アメリカの事例はさらにその先を行っている。

アメリカの場合多数派のキリスト教徒という存在がありそれとは異質なイスラム教徒やスペイン語話者というマイノリティを抱える。このAbdul-Majeed Marouf Ahmed Alaniという人がISISの支持者だったかどうかということはわからないのだが、こうしたイスラム系の人たちを全て取り除いてしまうことはアメリカ社会にはできない。この不信感は長い時間をかけてじっくり進行してきており今ではもうアメリカの一部になってきている。そしてアメリカの暮らしは彼らに支えられている。

移民解禁に踏み切った日本はこれからアメリカを追随することになる。日本は喪失感を持つ多数派を抱えたままで海外からの「臨時雇い」を導入するからである。その依存は徐々に広がり最終的には分離不可能になるだろう。

さらに悪いことに日本人は強いものにはへつらうが弱いものには居丈高になる。日本はインフラ整備や教育の拡充など「良いこともした」と思われるが、現地に恨まれることによって良いこともすべて帳消しとなった。特に1940年から1945年にかけての苛烈さは「単に本土並み」だったのかもしれない。日本もかなり厳しい状態にあり統制は大いに恨まれた。しかしそれが異民族だった側から見ればかなりひどい搾取に感じられただろう。

ただ、こうしたことは外地で行われおり戦後に外地を日本から切り離すことである程度問題を解決した。

今回日本がやろうとしているのは内地に将来分離不可能な植民地を作るようなものなのだが、多分それに気がついている人はそれほど多くないのではないか。BBCはすでに搾取される移民労働者という記事を英語でのみ配信している。仮に日本並みに扱っているだけだったとしても日本のブラック企業というのは海外から見れば虐待である。日本人にとって「日本人であるというだけで誰かを指図できる立場になる」というのは理想かもしれないがやがてそれは悪夢に変わるだろう。そしてその構図は戦前に似ている。戦前は外に広がろうとし、今は内側に抱え込もうとしている。

民主主義も人権も与えず単に労働力として導入した「モノ」が社会にとってどんな厄介なものになるのか、多くの日本人はまだ知らない。多分、高齢の日本人たちはその問題を見ることはないだろう。日本人はかなり厄介な「問題」を将来に向けて作り出しているということは知っておいたほうがいい。いったん受け入れると決めたら社会に包摂するか仕返しをされるか二つに一つになってしまうのである。

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オリンピックを破壊しかねない「旭日旗」の何が問題なのか

オリンピックに旭日旗を持ち込んでいいかという議論があり、結局持ち込んでいいということになったようだ。この議論を突き詰めてゆくと民主主義の限界が見えてしまう。その帰結はまともな人間の退出である。一度歪んだ民主主義はまともな人を離反させ、ますますすさんでしまう。では誰が何の目的で民主主義を破壊するのだろうか。




はっきりさせておかなければならないのは、旭日旗そのものは意匠(デザイン)でしかないということだ。これは事実なので議論ができる。だがここに意味づけが加わると議論ができなくなる。何にどのような意味を持たせるかは人によって異なるからである。そして意味づけされた意匠から意味を取り外すことはできない。我々は十字架を見るとキリスト教を連想してしまう。そしてその記憶を消すことはできない。

健全な民主主義の智恵はこうした「意味づけ」を公共に持ち込まないことで内心の議論を避けてきた。特に人種・宗教・言語などが異なるヨーロッパでこれを始めてしまうとヨーロッパはたちまち内乱状態になるだろう。日韓は幸か不幸か海峡を隔てているのでいつまでも不毛な争いを続けることができる。

さらに問題をややこしくしているのは日本の本音ロジックと建前ロジックである。使いたい側は「これが嫌がらせに使える」と知っているから使いたがるのである。単におめでたい図柄ならばそれに固執することはないだろう。おめでたい図柄が好きなら鶴と亀の旗を振っても良い。だが右翼が鶴亀旗に固執しているという話は聞かない。

彼らが旭日旗を持ちこみたがるのはそれを韓国人が嫌がっていると知っているからだ。つまり彼らが嫌がる顔が見たいので「多数決で」「旭日旗は単なる意匠である」という表向きのロジックを振りかざし、同時に「旭日旗を多数決で採用する」ことで少数者を圧迫するという本音ロジックを実現するという二段構えになっている。苦しむ少数者がいる時だけ、彼らは正義の中間層だと実感できる。

民主主義はそうやって死ぬのだ。

AERAに小島慶子さんが書いている文章を読むと、今回の場合「韓国側(文化体育観光委員会)」が旭日旗は日本の圧政のシンボルであるというロジックを国際合意にしようとしたので「対抗上」日本はそれが問題ないとみなしたという経緯があるようだ。つまり、相手方もそもそもこれを嫌がらせの旗として使いたい。これでは議論が終わるはずはない。議論そのものが「勝負」という意味を帯びている。

オリンピックを放送する人たちは旭日旗を画角に入れるのを避けるはずだ。特定の国で映像が売れなくなってしまうからである。だが、会場全体が旭日旗で埋め尽くされたらどうなるか。テレビの放映権料というビジネスの種が高値で売れなくなる。そして一般の日本人は「面倒なことに関わりたくない」と考えてオリンピックから逃げてしまうだろう。

背景にあるだろうと思われるのが「失われた中間層」の存在である。日本はかつては終身雇用があり中間層はシステムの受益者として満足感と見通しを得ることができた。ところが現在の中間層にはかつてのような約束された将来はない。それを誰かのせいにしたいと考えても不思議ではない。韓国の反発など実はどうでもいいことで、単に自分たちの不満をぶつけたいだけなのだ。彼らは苦しむ少数の在日の人たちを見て自分たちはまだこの国の主役であるということを確認したい。そしてその裏では厄介ごとに関わりたくない人たちの退出が起こる。

ヨーロッパで盛んなサッカー(フットボール)にもこうした危険があり、政治的な要素や人種差別的な要素は注意深く取り除かれてきた。日本のオリンピックは不注意にも政治を持ち込んだことで失われた中間層が活躍するアリーナになるだろう。それはオリンピックを確実に破壊する。橋本聖子五輪担当大臣はオリンピックを破壊しかねないきっかけを作ったが、彼女がそれに気がつくことはなさそうだ。

普通の日本人はそれほど政治には興味がないが、失われた中間層は政治に並々ならぬ関心を持っているという点である。参加動機が切実なぶん「発言する民主主義」では勝ってしまう可能性が高い。そうなると普通の政治意欲を持っていた人たちは政治議論から退出する。身の危険を感じる上に見ていて辛いからである。そして「政治の話をするなというのは本当だったんだなあ」と感じるだろう。

サッカーは政治を排除することで商品価値を保っている。オリンピックはそれに失敗するかもしれない。では、政治議論が政治的闘争を排除しないことで生じるコストはどのようなものなおだろうか。

例えば、政治についてニュートラルに見ようと考えたのが池上彰的解説だったと思うのだが、それすらも局の見解や周囲の攻撃にさらされた。しかし、それでも池上彰的解説がなければ我々はスンニとシーアといった基本的なこともわからずただただ混乱しているだけに見える中東情勢を眺めていたはずである。つまり直接的な影響は不安がコストということになる。

だが、その裏では政治・公共分野にまともな人が関わらなくなるというもっと大きな問題がある。そのコストは例えば東京電力の停電復旧の遅れなどに現れている。失われた数十年に引きこもってきた日本人は問題が起きても協力ができない。そもそもどうやって協力していいかがわからなくなっているからだ。

日本は変化を遅らせてきたので欧米のように二極化した政治論争は起きなかった。その日本でもニュートラルなはずの池上解説が攻撃され、政治とは無縁だったはずのオリンピックが政治闘争の場になろうとしている。1年後に迫ったオリンピックで旭日旗がどれくらいテレビに写り込むのかは誰にもわからない。あるいはかなりひどいことになっているのかもしれない。

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日本人には誰も何もまとめるつもりがない

今日は「日本人は誰も何もまとめるつもりがない」というテーマで書く。政治嫌いとかそれ以前の問題だ。興味がない以前に、そもそもまとめるつもりがない。




竹本直一IT担当大臣が早速いろいろなネタを提供している。自分の公式ウェブサイトは閉鎖されておりどうして閉鎖されているかわからない。また、公式YouTubeではAV動画が残っていたそうだ。多分関係者が高評価したものが残っていたのだろう。事務所ののほほんとした仕事ぶりが分かる話だ。

極め付けだったのが「はんこ議連の会長だった」という点である。早速面白がった記者が質問をし「印鑑とITの両立」といういかにもTwitterでバズりそうなキーワードを提供してしまった。聞いてくれた記者はグッジョブであるが脱力感しか残らない。今回の改造は安倍適材適所内閣(はいはい)と命名したい。

この問題が過去の面白い問題を呼び起こした。国の改革提案から「印章の義務化の廃止」という項目が排除されてしまったというのである。ちょっと話題になったがすぐに忘れ去られた。具体的には次のようなことを言っているそうだ。さらに改革するなら業界に補償せよなどとも言っている。

1つ目は行政続きにおける「本人確認押印の見直し」、2つ目は法人設立における「印鑑届出義務の廃止」、3つ目は「一般的な取引におけるデジタル化の推進」である。つまり、本人確認には引き続き印鑑のみを用いるべきであり、一般的な取引をデジタル化することには反対するという主張である。

印鑑廃止、業界団体の反発で見送り これは「異常な光景」なのか?

政府はマイナンバーカードの普及を進めている。ICカードを使えば本人認証ができるはずである。2019年3月現在の普及率は12.8%だそうだが、使い道がなければ更新しない人も出てくるだろう。未だにこのカードを出すと珍しがられる。普及に346億円の国家予算を使いポイントもつけるかという話も出ている。だが、こうした努力も「結局印鑑が必要だ」というだけで台無しになる。つまり国の政策には整合性がない。

さらに国会の業務効率化にも逆行する。印鑑業界を守るためにかなりの工数をかけているはずである。費用削減効果は億を超えるのではと思うが、そもそも試算もないようだ。霞ヶ関でも一旦書類として印刷し捺印した上でそれを電子的に読み込みOCRをかけるということになる。無駄の極みであるデジタル政府を作ってそれを海外に売り込むのだなどという威勢のいい言葉は並んでいるが、実際には印鑑さえ削減できない。政治のリーダーシップがないからである。

結局国はどこに行きたいのだろう?と思うのだがその方向性は全く見えない。安倍首相は憲法改正をやりたいと言っているが内閣改造と憲法改正の関係もわからない。首相が言っているのは「俺は俺でやりたいことがあるから国のいろんなことは適材適所でよろしく」ということだ。それを菅官房長官が「適材適所なんじゃないですか」といって薄ら笑いしている。

安倍総理大臣には統合力がないが、統合力がないことを誰も責めない。そもそも前回見たように日本人は共助や自治に興味がないからだ。誰も何もまとめないことを取り立てて不思議に思わないのである。だって国は昨日と同じように動いているからである。ある意味社会はそれぞれ自律的に動いていて極めて民主的な社会と言える。ただし何も変えられない。

こうしたバラバラさは災害時対応でも見て取れる。日曜日深夜から始まった大規模停電が千葉県で続いているのだが、被害の全容解明をしようと動き出したのはなんと金曜日の9月13日だったそうだ。それまでの間東京電力は地方自治体に被害の全容報告をしなかった。経済産業省が入ってやっと電柱2,000本という数が出てきた。

確かに9月11日に内閣改造がありそれどころではなかったという気持ちはわかる。

今回特殊だったのはこれがほぼ千葉県だけの話だったということである。つまり千葉県だけで解決ができるはずの問題だったのだ。だが、千葉県全体をあげて対策本部を作ったという話はついに聞かれなかった。森田健作知事も多分大変だったんだろうが何をしていたのかよくわからない。千葉市長はTwitterで「いろいろ調整しているなあ」というのが見えてきた。小西ひろゆき議員も政府批判を混ぜ込みつつ「自分はいろいろやっている」とアピールしていた。それはそれで立派なのだが、誰もそれをまとめない。そしてまとめないことについて誰も何も言わなかった。自分の家の電気がつくことだけが重要だったからである。電気が復旧した地域からそれは他人事になった。

前回日本人は政治が嫌いだという話を書いた。たくさんの人が読んでくれているようだ。だが、問題はもっと深刻である。つまり総理大臣から下「誰も話をまとめよう」という発想を持たないのである。公共を嫌っているわけではない。そもそもそんな発想がない。

改めて「昔からそうだったのだろうか?」と考えてみても答えが出てこない。おそらく昔からそうだったのだろうが、かつては職場や住居にそれなりのまとまりがあり国や地方公共団体は「それをお手伝いしているだけ」で済んでいたのではないかと思う。つまり公共がなくてもそれほど困らなかったのだ。そういう小さなまとまりが崩壊してもなお日本人の意識は大して変わらない。

自民党は憲法改正案の中で公共の福祉の拡大や緊急事態条項の設置など「公の拡大」を求めている。そもそも統合しようという気持ちがないのになぜ権利だけを欲しがるのだろうかとは思う。

だが、仮にそんなものを政府に与えたとしても日本人はそれを使いこなせないだろう。そもそも公共というものに全く意識が向かわないからである。日本人は今でも村社会を生きていて、地方自治体以上のレベルのまとまりを意識できないのではないかと思う。

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日本人は助け合いが嫌いという謎

日本人は実は助け合いが嫌いだという文章を読んだ。自己責任時代と言われているので「ああそうだな」と思った人もいるかも知れないし、また日本人論だろうと苦々しく思った人もいるかもしれない。




坂本治也関西大学法学部教授は「日本人は共助が嫌いだ」という国際的な調査を起点に論を展開している。ボランティアをやりたくないし興味もない、自治会の活動にも参加したくない、寄付もしたくないという人たちだ。自分たちで助け合いがしたくないなら国に押し付けるという選択肢もあるのだが、日本人は公助にも否定的である。なぜか「自己責任」を主張して問題をなかったことにしようとするのである。

ところがなぜ日本人が公助も共助も嫌いなのかという点がわからない。そこで、坂本さんは別の調査を出してきた。それが「日本人の政治嫌い」である。共助嫌いの人は政治参加にも否定的であるという相関関係があるそうだ。政治に関心がないほど助け合いにも興味がない。

まず重要なのが、ここで言っている「政治」というのは自治と意思決定のことだということだ。これについてQuoraで聞いてみたのだが大した答えは戻ってこなかった。Quoraでは毎日のように政治問題が語られている。みんな政治に興味があるはずなのに、助け合いには興味がない。坂本さんも政治というラベルを使っているのだが、実は政治には自治・意思決定・助け合い以外の領域があるのかもしれない。

Quoraで語られる政治とは日米同盟維持のために憲法を語ったり韓国を罵倒することであって、街の助け合いなどといった生活に密着した政治が語られることはない。これがいつからなのかはわからないが、昔からポリティカルアパシーなどと言われていたなあとは思う。GHQが入ってきて民主主義万歳となった少ない時期を除いて日本人は政治を自分たちのこととは考えていないと思う。

別の人からはアメリカ人も政治の話はしないという答えが返ってきた。この人が言っている政治はイデオロギーや宗教のことである。確かにアメリカ人は明らかに個人で折り合わないだろうことは語らない。ただ、コミュニティや予算の問題については積極的に発言する人が多い。つまり民主主義国家のアメリカでは「小さな政治」が語られる。そして今回の2020民主党ディベートなどでは国家の問題として「暮らし」は主題になる。前半をなんとなく聞いていたのだが中流階級の健康保険負担などについて熱心な(そして意見が激しく対立する)議論があった。

このように「政治」と言っても様々な政治がある。ここで言っている政治とは「公共・社会・住民参加」などなのだが、こうした「意思決定としての政治」は学術研究者が考えれば真っ先に浮かんでくるが、世の政治好きにとっては全く興味・関心がないテーマなのかもしれない。

日本人は社会参加に関してかなりシビアに「費用対効果」を見ていると思う。自分の意見が通りやすいパスをかなり慎重に見極める。そして普段の生活で我々の意見が集団に取り入れられることはほとんどない。だから日本人は暮らしと密接する政治に関心がない。持ち出しが多くなると予想するからで、たいていその予想はあたる。

こうなる理由は簡単だ。日本人の多くは決める側ではなく従う側に置かれるという体験だけをして一生を過ごす。例えば学校で意思決定するのは先生と先生のお気に入りの一部の学生たちである。その他の学生たちは「拍手したあとで従う側」で終わってしまう。日本人は個人主義でもないが集団主義でもない。どちらかというと寡頭制でお互いを承認賞賛するというシステムが作られやすい。

同じことは自治会やPTAでも行われる。どの会にも役員会を掌握して手放さない一部の人たちがいる。「その他大勢」に期待されているのは二等兵としての役割である。上官を賛美し下働きをするのが二等兵の役割である。だから自治会もPTAも役員のなり手がない。意識としては徴兵と同じことだからだ。

日本人が政治を嫌うのは寡頭で意思決定するからなのではないかと思う。かといって単純民主制にすると多数派と少数派が生まれ少数派は抵抗勢力になる。あるいは拮抗するとお互いに対立して足を引っ張り合う形が生まれる。日本の議会がうまく行かないのはこのためである。お互いに思っていることを言語化して共有しようという気持ちはないし、さらに言えば相手を理解しようという意思もない。

日本人は総じて親密で言語によらない関係を好むので寡頭政治に頼らざるをえない。寡頭であれば「阿吽の呼吸」で意思決定ができるからである。日本人の非言語依存の意思決定の弊害だが、これを弊害という人はいない。

記事の中にも書かれているが、寡頭制で意思決定してきた人たちもうすうすこのことに気がつきつつある。そこで彼らが「動員」をかけようとして新しい公共という言葉を持ち出した。例えば憲法に「公共の福祉」の拡大解釈を書き加えて国民を動員しようというのである。

この新しい動員はもともと公共という概念が薄かった日本人に別の感情を呼び起こす。ある人たちは「これを利用する側につけば相手に持たれかかることができる」と考える。うまくやれば相手を搾取できると考えるのである。また別の人は「これに巻き込まれれば搾取されるだろう」と考える。当然意見はまとまらない。

冷静に考えてみても、なぜこうなったのかはよくわからない。だが現実はそうなっている。現代の日本人はとにかく変わりたがらないので、共助・公助ぎらいは多分なくならないだろう。自己責任社会は当分続くことになるはずで、それは「小さな政治」ぎらいを伴うはずである。面倒だから考えない、そして考えないからもっと面倒になるという悪循環だ。

政治の選択肢は無秩序に広がる自己責任で不安が増してゆきそれが経済不振にまでつながる世の中と、公助という名の下に責任を誰かに押し付けるという過負担な社会の二択だけである。だが、日本人はそれに抵抗しない。自発的に助け合うのは嫌だからだ。

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空っぽだからこそ支持される「小泉進次郎」という現象

小泉進次郎さんが新しい環境大臣になった。空っぽな人だなあと思った。その空っぽさゆえに支持されるのだろうとも思った。「小泉進次郎」という現象を見ていると我々日本人が政治に何を期待しているのかということがわかる。小泉さんが一生この現象に付き合って行けるかという点は問題だが、それは本人が解決すればいいことだ。




小泉さんは結婚発表を官邸で行った。この際に育休について聞かれ「考えている」といった。ところが大臣になってしまえば育休は取れそうにないですねと問われると「育休が問題になるというのは記者たちが古くさすぎるからだ」と言いだした。嫌な感じは全くしなかった。条件として「奥さんの心理的負担を減らす」と付け加えたからである。

視聴者の頭の中には「奥さん思いのいい男」という印象だけが残ったことだろう。よく考えると育休の話は全く解決していない。つまり、小泉さんは問題を解決せず本人を感じよく見せることを優先したのだ。逆に問題を解決しようとすれば議論が起こる。政治に問題解決を期待しない日本人にとって、議論は単なる嫌な揉め事に過ぎない。誰も政治家に問題解決は期待していない。だから小泉さんの人気はまた上がった。

原発の排水問題についても同じ手法が取られた。排水の問題は担当ではないと言い切った上で「小名浜の魚連会長」の実名を出した。小泉さんは小名浜の魚連会長の名前も知っているのか!という驚きが感じられるが、実は問題は何も解決していない。そして大臣就任の時に原発依存しなくていい国の仕組みを考えるとも言ったが、考えるだけで問題を解決すると言っていない。そして実際に問題が起きている千葉ではなく福島に向かった。

小泉さんは人の話をよく聞くし彼らが欲しい答えを返してくれる。つまり話を聞いている人には「ああ、小泉さんは我々のことをわかってくれているんだなあ」という印象は残る。しかし、その一方で実は何も解決はしていない。よく考えてみると10年の間に小泉さんが「これを解決した」というよく知られている課題は何もないはずだ。

問題を解決しないが話も聞かない人もいる。その代表が安倍首相である。北朝鮮拉致問題でスターになった安倍首相には官僚組織を率いて問題解決をした経験がない。安倍首相は自分が見下している人の話は聞かないので一部の人たちから蛇蝎のように嫌われるのだが、根っこは同じである。単に見せ方を変えて敵を作らないだけで印象がこうも変わってしまうのである。

小泉さんの人気は高い。何も解決しないことは失敗にならない。だが、問題に取り組んで軋轢が起こればそれはすぐさま失敗になる。何も取り組まないことで「失敗していない感じのいい人だ」という印象が残る。日本は失敗した人を叩く社会であり、失敗しない感じのいい人が高い得点を得られることになっている。小泉さんは人気が高かった小泉純一郎首相の息子であり、兄が俳優になれるほどのイケメンで、まだ何も失敗していないというだけで好感度があがる。日本人はそれを喜んで支援するのである。

新聞は「成果をあげれば」といっているがこれは建前を自動的にタイプしただけのことだろう。指が勝手に動いて書いてしまったのだ。実は何もしないで情報発信だけしていた方が小泉さんが首相になれる可能性は高まると思う。単に日本は古くさいねといっているだけでいいのだし社会はそれを望んでいる。

次の首相にふさわしい人物について、日経新聞が2日に報じた世論調査では、小泉氏が29%でトップ。2位は安倍首相、3位が石破茂元幹事長だった。菅義偉官房長官は先月、小泉氏の入閣について会見で問われた際、党の農林部会長や厚生労働部会長として「経験を積んでいる」と評価。「今後の活躍を期待している」と語っていた。

小泉進次郎環境相、38歳で初入閣-「ポスト安倍」試される手腕

実は小池百合子元環境大臣も同じような感じで首相候補と見なされ、実際に総裁選に出たりした。彼女も「感じがよく男性社会に挑戦してくれそうな」ところが良かった。組織の調整などをした経験はなく、したがって実際に組織やプロジェクトを持ったところで失速した。日本だけの問題ではなく「ピーターの法則(ダイヤモンド出版)」として知られる。

希望の党という政党で大混乱したが小池さんの人気がなくなることはなかった。一度感じが良いという印象が着くとそれが残像のように残る。政治家本人が問題解決志向にならずお人形さんとしてとどまる限りそれで構わない。職業としての政治家を選んだ以上ファッションモデルのように周囲が着せ付ける政策を選んできれいに見せていればいいのだ。それが日本人が求めるプロの政治家なのである。

西洋型の民主主義では「どんなビジョンを持って何をやったか」が重要視される。例えば韓国では検察改革というビジョンがありそれが軋轢を生んでいる。またイギリスの政治家たちは周囲に混乱をもたらすことがわかっていてもブレグジットを前に進めようとしている。ボリス・ジョンソン首相はついに「女王に嘘をついたのでは?」と疑われるようになってしまった。問題解決こそが政治でありそのためには嘘もやむをえないとジョンソン首相は思っているのだろう。

ところが日本人は「何もしないし何も決断しない」リーダーを求めるという傾向がある。その意味では日本人は政治に期待をしていない。坂本明也関西大学法学部教授が日本人は助け合いも政治も嫌いだということを調査や論文を元に解説している記事が見つかった。坂本さんは次のように結んでいるが、おそらく日本人が自発的にそんな議論を始めることはないだろう。

筆者としては、日本人の(低投票率に限られない)「政治嫌い」と「共助嫌い」の現状、その改善の必要性の有無、また改善するとすれば何が求められるのか、について深く生徒らに考えさせる機会をぜひ設けてほしい、と願っている。

日本人は、実は「助け合い」が嫌いだった…国際比較で見る驚きの事実

日本人は助け合いができず問題が起これば自己責任に押しつぶされてしまうから身動きが取れなくなる。また、政治家はどこかのレベルで何らかの組織を率いなければならなくなる。

しかし、それでも日本人は何かの組織を率いて失敗した人を「汚れた」として嫌う。こうやって日本人はだんだん身動きが取れなくなり、国が開いている以上は最終的に「思い切った行動」に出て失敗するだろう。それは最終的には悲劇かもしれないが、それを求めているのもまた日本の有権者なのだ。

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わからないという不安 – 日本人が集団で相手を非難するのはなぜなのか

ABCニュースのトップはボルトン氏の辞任の話だった。大統領は自分がクビにしたと言っているが本人は自分から辞めたと言っている。既定路線だったようで特に分析などは出ていないのだが、やはりニュースといえばニュースである。ところが日本のニュースはまだ内閣改造に搦めて日韓関係をやっている。「内閣改造は対韓強硬路線を示すために行う」というのである。日本のマスコミは安全毛布としての韓国にしがみついている。




Twitterをみると安倍内閣が千葉を忘れて内閣改造に没頭するのは何事だというつぶやきと復旧に奔走する野党議員を罵倒するつぶやきが見つかった。こちらも状況がわからない外野が騒いでいるようだ。

この様子を見るだけで日本人がどんな精神状態に置かれているのかがわかる。誰かを非難したくて仕方がないのだがそれが自分に跳ね返ってくるのが嫌なのだろう。そこで叩けるものを叩いて騒いでいる。誰かを叩くのは多分不安だからだろう。

日本人はアメリカには勝てないと理屈抜きで考えているのでアメリカがうまくいっていないというニュースは見たくない。一方韓国には勝てると考えていて、韓国関連のニュースを見たがる。旧秩序に基づいて現状を見ている。見えるはずのない歪んだメガネだがどういうわけかものの見方は変えられない。

電気については「面白いなあ」と思うことがある。電気が復旧しないのには必ず理由があるはずである。多分現場は何が起きているかを知っているだろう。だがテレビ局が見たがるのは「災害のすごい絵」と「責任者の処断」である。マスコミは常に部外者なので大きな絵を切り取りたがる。原因がわからないから次第に「誰を非難するか」に意識が向かう。こうして問題解決から意識が遠ざかって行く。

不思議だと思っていたのだがようやく理由がわかった。つまり「何がどうなっているのか」がわからないものを外から触っているからこういう絵しか流せないのだ。原因が分かればその原因について説明すればいいのだが、それができないのだろう。ニュースアンカーもレポーターの紹介係になっているだけで情報を統合しない。というよりそういう発想がないのだ。

初動の時期に東京電力に話を聞いてみて思ったのだが、各現場は情報を持っている。ただそれを他部署に伝えたりお互いで共有しようという発想は全くないようだ。聞かれるまで黙っている人と教えてもらうまで黙っている人がいる。そしてそれがマスコミによって無理やりにつなげられるとストーリーがでっち上げられ炎上する。SNSの発展によりショートする回路は格段に増えている。

電力会社に質問すれば答えは教えてくれる。東京電力の職員は千葉市役所の本庁舎にも常駐しているそうだ。つまり話を聞ける人もいる。すなわち「質問ができる人がいない」ということになる。

何を聞いていいのかがわからなければ何も伝えられない。日本の新聞記者は受け身の日本式教育を受けて記者クラブで与えられる情報を餌にして育つのでそうなるのだろう。問題意識を持って「これはこうなのじゃないか」という仮説が立てられない。仮説を立てて推論ができないと何が起きているのかがわからない。あとは騒ぎに乗るだけである。

同じことが多分日米関係にも言えるのだろう。日本人はアメリカで何かが起きていることはわかっている。だがそれが何なのかがわからない。誰も正解を教えてくれないからである。

アメリカはそれを仮説を作って説明しようとする。

イアン・ブレマーが面白いことを書いている。トランプ大統領は症状であり原因ではないというのだ。つまりトランプ大統領が問題を引き起こしているのではなく、問題の結果がトランプ大統領だということである。イアン・ブレマーは極のない世界という世界観を持っているので、その症状は無秩序だろう。今回はジオポリテックリセッション(地政学的不況)という言葉を使って説明しているようだ。

イアン・ブレマーはこれを地政学的不況というコンセプトで説明しようとしているものは、結局なんだかよくわからない。ただ、言葉を与えるだけでお互いに共有できるようになるという不思議な作用がある。とりあえず古い体制に戻ることはなく新しい状態に移るためのトランジショナルな状態にあるのだと考えることで、ようやく話し合いの糸口が掴める。日本人はこれをやらずに単に騒いでいる。騒げば誰かがなんとかしてくれると思うからなのかもしれない。しかし、騒いでも状況が元に戻ることはない。

イアン・ブレマーの仮説がどれくらい正しいのかはわからない。重要なのは「大きな仮説」を立てて包括的に物事を眺めることである。つまり、元には戻らないがかといって、この世の終わりでもないということなのだ。

日本人が仮説を立てて何を質問すべきなのかが考えられないのは多分学校教育のせいだろう。正解を学ぶことしかしないので自分で問題意識を持って調査しようという気持ちになれない。だから今のテレビを見ていても不安になるだけだ。だが、もうテレビを非難しても何も解決しないだろう。だから学校教育についてせめても何の役にも立たない。

我々にできることは多分自分で新しく情報を集め始めることだけなのだ。

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政治的な黄昏を生きる我々は安倍政権批判も政府批判もしなくなった

昼間のワイドショーがおかしなことになっている。もともと「韓国が日本に逆らっている」という話だった。それが「韓国のスキャンダル隠しだろう」ということになり、そのスキャンダルとはチョ・グク氏の疑惑だということなった。




ただ、チョ・グク法相候補の国民審査会(要は記者会見のことだ)くらいから疑惑そのもの報道するようになり、記者会見や野党の審査会の話をやりだした。ある人は韓流ドラマのようだといい、別の人はなぜこんなものに日本人は関心を持つのかと困惑している。メディアが視聴率に編集権を譲り渡したために自分たちが何のために何を報道しているのかがわからなくなっている。

この絵面がロッキード事件に似ているなと思った。小佐野賢治の「記憶にございません」が流行語になるほど注目された事件なのだが、視聴者は事件そのものではなく右往左往する関係者たちを楽しんで見ていたのだろう。この手のワイドショーを見ているのは高齢者なので昔のようなニュースを懐かしんでいるんだろうなあと思った。例えていえばサザエさんを見ているような感じである。

ではロッキード事件時代と今の違いは何だろうか。ロッキード事件が騒がれたのは政治家や国のリーダーは清廉潔白でなければならないと信じられていたからである。つまり政治家に期待値がありそれが裏切られたから騒いだのだ。だが今の人たちは安倍政権にそのような期待は抱かない。いろいろやってみたが「結局ダメだった」から行き着いたのが安倍政権だからである。我々は政治に期待しなくなったし日本の先行きに確信を持てなくなっている。

もともと、ワイドショーの目的は世間の敵を作って処罰することにある。つまり報道ではなく人民裁判ショーか古代ローマのコロシアムだ。ただ、そのためには次から次へと敵を作り出さなければならない。ただ、それができるのは「自分たちの生活はまともに機能しており、これからも機能し続けるはずだ」という確信があるからだ。

例えば高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こしたとする。テレビはこれを悪者として裁こうとするのだが、考えれば考えるほど扱いが難しくなる。老いて行く自分たちを見つめなければならなくなるからだ。視聴者の不安と番組の中の出来事がリンクしてしまうと、ワイドショーこのコロシアム性がなくなる。つまり観客席とコロシアムの間の敷居が消えてしまうのである。

最近、統計不正について報じなくなった。国民の側に「頑張ればなんとなかる」という見込みがあれば政府批判をしているはずである。ところが「この先日本には見込みがない」という認識を持っているとそれができない。「落ち目の国に暮らす」という現実を見ないためにはテレビの電源を落とすしかない。だからテレビはこの話題を扱わなくなった。

最近、アルゼンチンでまたデフォルト騒ぎが起きているそうだ。アルゼンチンでは統計のごまかしが横行しているという。だが、そうした国はアルゼンチンだけではない。日本もよくあるありふれた罠にはまっているだけだ。特別な国ではなくなってしまったのである。

もっともこうした強引な統計手法の駆使は、トランプ氏が先駆けというわけではない。中国政府は、GDPを引き上げ、公害汚染関連データを押し下げる方向で算出していると長らく批判されてきた。さらに最近は、民間機関が不動産価格や景気動向のデータ公表をしないよう指導しているもようだ。インドやトルコ、アルゼンチンの当局も、統計を良く見せるため計算方法を変更したと後ろ指をさされている。

コラム:恣意的な統計作成に潜む「危険な罠」

外交も行き詰っている。ロシアを訪れている安倍首相がプーチン大統領にへつらうような発言をしたがプーチン大統領は薄ら笑いを浮かべただけだったそうだ。さらにプーチン大統領は歯舞の式典にわざわざビデオで参加したそうだ。歯舞の人口だけを見ればロシアから見てそれほど重要な地点とは思えない。日本を挑発するためにわざとやったのだろう。日本などどうでもいいとロシアは考えており、我々もまた「あの総理では仕方がないな」と考えるのでそもそもニュースにならない。

だが、これを特に報じた新聞社が二つあった。読売新聞と産経新聞である。

安倍首相はプーチン大統領と親しいというが、会談を重ねた結果がこの仕打ちである。島を返さず、日本から経済的実利だけ引き出そうとするプーチン政権の正体を認識しなければならない。安倍首相は首脳会談など開かず、さっさと帰国した方がよかった。

【主張】日露首脳会談 どうして席に着いたのか

朝日新聞や毎日新聞は「外交の安倍」などという言葉は信じていないのでこんな書き方はしない。日経新聞も含めて淡々と建前の会話を伝えているだけである。逆に産経新聞は外交の安倍という言葉をまだ信じていて日本に国力や外交交渉力があると信じているのだろう。だから席を蹴って帰れと言った。つまり批判は期待の表れである。だが、もうすぐ産経新聞もそれを言わなくなるだろう。

最近の世代は「中高年はなぜ政府・政権批判ばかりするのか」と反発しているという話をよく聞く。それは実は日本には実力がありそれが発揮できていないと感じていたからである。つまり日本に期待があったのだ。

しかし、日本に期待がなくなると何も言わなくなる。言っても無駄だからである。現在の世代はそもそも「日本が衰退する」という予言に呪われて生きているので批判が受け入れられない。あるものは政治に全く関心を寄せなくなり、あるものは極端な擁護に走る。我々は政治的な黄昏という新しい時代を生きていることになる。民主主義に何の期待もしなくなった社会である。

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日本の高齢化をまざまざと見せつけられた韓国報道の過熱

週刊ポストが炎上した。「韓国はいらない」という見出しを打ったところ、執筆者たちが「もう小学館では書かない」と言い出し謝罪したのだった。ハフィントンポストが経緯を詳しく伝えている。「誤解が広がっている」というのはいつもの言い分だが、売れると思って打ったのだろう。見出しだけでなく中身もひどかったようだ。10人に一人が治療が必要なレベルと書いた記事もあったという。




ちなみに「これがなぜいけないのか」という問題を先に片付けてしまおう。日本は戦争を煽って新聞の購読数を伸ばした歴史がある。気がついたときには取り返しがつかなくなっており、戦後に朝日新聞などは盛んにこれを「反省」した。つまりビジネスヘイトは歯止めがきかなくなりやがて深刻な対立を引き起こす可能性がある。日本人は戦前の歴史をきれいに忘れてしまったらしい。

韓国人が火(ファ)病に侵されているというなら、日本人は群衆の病と忘却の病の持病を抱えていることになる。多分ジャーナリズムが細かな村にわかれており業界全体として検証作業や人材の育成をしてこなかったために、戦前の貴重な知見が蓄積されていないのだろう。

ところがこれを観察していて全く別のことに気がついてしまった。

サラリーマンが出勤前に見ているようなニュース情報番組はそれほど韓国について扱っているわけではない。彼らには生活があり従って様々な情報を必要としている。ところが中高年しか見ていない昼の情報番組は盛んに韓国を扱っている。つまりヘイトというより老化現象なのだろう。

このことは残酷な事実を私たちにつきつける。テレビは中高年に占拠されており、中高年は他人を叩くしか楽しみがないということだ。こういう番組をみんなで楽しく見ているとは思えないので少人数(一人かあるいは二人)が次から次へと「けしからん他人」を探しているのだろう。

ところがこれを見つめているうちに不都合なことが見えてくる。今回のチョ・グク法相候補はほぼ一人で11時間以上の会見をこなしたようだ。日本の政治家(正確にはチョ氏は政治家ではないのだが)にこんなことができる人はいないだろう。最終的には記者たちも視聴者たちも疲労困憊してしまったようだ。大谷昭宏さんなどはうっかりと「羨ましそうな」表情を見せていたし、辺真一氏も「少なくとも記憶にございませんとはいわなかった」とどこか誇らしげである。つまり韓国には自分の言葉で釈明が出来る政治家がいるが、日本にはそんな人はいないということが露見してしまった。民主主義が機能していないと笑っていたはずなのにいつのまにか「なんか羨ましいなあ」と思えてしまう。

しかし、この「かわいそうな老人のメディア」としてのテレビが見えてしまうと不都合な真実はどんどん襲ってくる。例えば最近のアニメは中年向きに作られている。2019年8月末のアニメの視聴率(関東)をビデオリサーチから抜き出してきたのだが、新しく作られたものはほとんどない。「MIX」は知らなかったがあだち充の作品のようである。目新しい幼児向け番組は「おしりたんてい(絵本は2012年から)」だけである。サザエさんなどは昭和の家庭を舞台にしている。我々が昔水戸黄門を見ていたようにサザエさんも昔のコンテンツと思われているに違いない。

タイトル視聴率(関東)
サザエさん9.0%
ドラえもん6.7%
クレヨンしんちゃん6.2%
MIX・ミックス5.8%
ちびまる子ちゃん5.8%
ワンピース4.6%
おしりたんてい4.3%
ゲゲゲの鬼太郎4.2%
アニメおさるのジョージ3.3%
スター・トゥインクルプリキュア3.1%

特にテレビ朝日は「ファミリー層を排除しようとしている」と攻撃の対象になってしまった。アニメを土曜日に動かしたのだそうだ。テレビ局も新しいコンテンツを作りたいのだろうが視聴率が取れない。最近の若い人は高齢者に占拠されたテレビを見ないのだろう。

アニメだけでなく音楽にも高齢化の波が押し寄せている。TBSは関東ローカルでPRODUCE 101 JAPANの放送を開始する。吉本興業が韓国のフォーマットをそのまま持ってきたようで、制服やショーの構成がそのままだ。ところがこれをみてショックを受けた。韓国版ではイ・ドンウクが練習生の兄貴(とはいえ三十代後半のようだが)として国民プロデュサーに就任していた。この視線で比較してしまうと日本版の国民プロデューサ(ナインティナイン)が老人に見えてしまう。ASAYANが放送されていたのは1995年だということで「昔の若者」が倉庫から出てきたような感じである。

ナインティナインが普段老人に見えないのは実は日本の芸能界がそのまま老化しているからなのだ。しかもこの番組も夜のいい時間には時間が確保できなかったようである。確かに老人が見てもよくわからないだろう。もはや歌番組は深夜帯のサブカル扱いなのである。

嫌韓本が広がる仕組みを見ていると、出版取次が「この本は売れるはずだから」という理由でランキングに基づく商品を押し付けてきているという事情があるようだ。高齢者であってもAmazonで本を買う時代に本屋に行くのは嫌韓本を求める人たちだけということなのだろう。テレビの動向を合わせて見ると、最終的に残るのは「昔は良かった」と「ヘイト」だけだろう。まさにメインストリームが黄昏化している。

幸せな生活を送っている人たちがヘイト本を見てヘイト番組を見て日中を過ごすとは思えない。結局見えてくるのは、高齢者が潜在的な不満と不安を募らせながら、他にやることもなくヘイト本を読みヘイト番組を見ているという姿である。つまりなんとか生活はできているが決して満足しているわけではない人たちがヘイトを募らせていることになる。

こうした人たちが韓国との間で戦争を引き起こすとは思えない。そんな元気はないだろう。多分、テレビに出ている人や雑誌で書いている人たちが心配するべきなのは民主主義の危機ではない。深刻な老化なのだ。

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