うちらの世界の強みと限界 – なぜ安倍支持者はヤンキー化するのか

日米防衛について考えているとき、安倍政権退陣と絡めた感情的なリアクションが多かった。なぜこうなるのかと考えていて「安倍信者がヤンキー化する理由」というタイトルにまとめることにした。




多分きっかけは、多分「桜を見る会」だ。お花見の私物化で安倍政権が危ないかもしれないという背景に過敏に反応したものと思われる。彼らは攻撃には強いが防衛力は弱いのでキレてしまうのである。いつもは政権が提案していることを「正しいのだ」と言い張っていればいいのだが、弁護はそうはいかない。自分なりのロジックを組み立てる必要がある。彼らにはそれができないのだろう。

そこにトランプ大統領が在日米軍駐留経費を4倍にしたというニュースが重なったことで彼らはそれを同一のニュースだとみなした。彼らは心理的に米軍に依存してしまっているので米軍は無謬でなければならない。「このままでいい」という彼らにとってトランプ大統領は不都合な存在である。なかったことにしたいのではないかと思う。今回河野太郎大臣が否定発言を出したので「NHKと時事通信社発のフェイクニュースだ」というコメントがついた。トランプ大統領にも見られるリアクションである。

よく考えてみれば在日米軍経費の件は合理的に交渉すべき問題であって特にすぐさま安倍政権の転覆には結びつかないし、トランプ大統領の気まぐれでいちいち政権が代わってもらっても困る。

この「力関係には敏感」で「現状を好み」なおかつ「自分の言葉で語れない」というような気質はよく「ヤンキー気質」と言われる。「うちらの世界」が好きな人たちなのだが、実際のそのうちらの世界はコンビニの前だったりするというニュアンスである。つまり、彼らはうちらの世界は作れないのである。ただ心情的にそれがあるふりをしなければならない。ヤンキー気質にはそうした遊離がある。

しかし、かつての自民党支持者はそんな人たちではなかった。例えば、麻生政権時代の支持者たちは建設など特定の業界の人が多かった。当時は公共事業悪玉説が出ていて「世間の風当たりが強かった」ので彼らが機嫌が悪かったが、一般の人たちと空気を共有していたわけではなかった。

だが、どういうわけか今の支持者は安倍政権と自分たちの心情をリンクさせている。理由はわからないが、自分たちが築き上げた村のようなものが「インテリ(彼らから見ると何もしない人たちである)」に屈辱され・否定され・傷つけられるのが嫌なのであろう。実際にはそんなものは最初からなかったのかもしれない。意外と安倍政権の危うさがヤンキーたちの支持を集めている理由なのかもしれない。そこはかとない不安である。

ヤンキーたちは自分たちの自尊心を「俺らルール」で守っているような人たちであるが、その自尊心は世間からは相手にしてもらえない。コンビニの前にたむろしていてもそれは「彼らの場所」にはならない。この「相手にしてもらえない」という感じが支持者たちの心情と重なるのかもしれないとも思った。

今回、たまたま沢尻エリカ騒動が起きている。繰り返し「別に」発言が流されているのだが、これは周りの大人なインテリたちが沢尻の苛立ちをなかったことにしょうとして納めてしまったという事件である。また沢尻の側も「自分が置かれている状況に関する違和感」を口にできないことで子供じみた攻撃性を露出してしまっている。このいなされた感じはいなされる側から見ると「まじむかつく」かもしれないのである。

おそらく、安倍支持者の主張というのも「別に」程度の話なのだろう。つまり、状況が変わってしまえばまた相手にされなくなってしまう。しかし、彼らの違和感を丸く収めようとしても、論破しようとしてもそれは無駄なことである。苛立っているのがわかっていてもスルーするしかない。合理的に説得しようとしても彼らはそれを理解しないからである。

重要なのは安倍支持者たちの別に発言にはそれほど意味がないということだろう。実際の問題の所在は提案能力を失っている議会や、「政治をはどうせ変わらない」という諦めにあるのだろう。つまり、安倍支持者に苛立つ時間があるのなら、自分たちの提案を検証してみたほうが良いのだと思う。

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SNSで「お前は政治の本質がわかっていない」といって他人に説教する人たち

Quoraで政治ネタを書いていると高評価が得られるものとそうでないものがある。「外国の民主主義の形状」について書いているものは割と高評価が得やすい。一方で、香港デモや中国の新疆ウィグル自治区のエスニッククレンジングについて書いている人もいるのだがこれは評判が得にくいようだ。個人のポジションが乗るとダメらしい。




日本語のTwitterでは政治的立場によってバイアスのかかった情報が飛び交っている。そんな中で「できるだけ科学的に見えて中立な」政治情報を欲しがる人が多いのは理解できる。例えば外国の通信社(ロイター・BBCなど)やマスコミが出している記事は信頼性が高いと思われるようだ。

ヨーロッパや中南米の出来事は受け入れやすいようだが日本と関係が深い中国とアメリカはそうはいかない。アメリカのことはよく「宗主国」などと揶揄して書くことがあるのだが、やはり心情的に近いと「公正さ」が失われると感じる人が増えるのではないかと思う。情報が多い分、感度が高くなっているのだ。

実際に中国政府や香港のデモ参加者をバッシングするような投稿を「無視」して進行しているのだが、彼らは確信犯的な闘争を深めることになる。逆にエビデンスを示せ!などと挑発的に書くと多分Twitterのような状態になるのだろう予想される。つまり、勝つ議論に移行してしまうのだ。勝つ議論は攻撃性が高く公正な情報を欲しがる人はそれを嫌う。

例えば「朝鮮は植民地だったのか」という<議論>がある。これは二つの意味で無意味な議論だ。第一に第二次世界大戦以前は植民地も侵略戦争もある程度大目に見られてきた。つまり、第二次世界大戦前に植民地や殖民地と書かれていてもそれ自体が犯罪行為ということにはならない。第二に日本人は朝鮮を内地として扱うか経済搾取の対象にするのかを決めておらず曖昧な立場をとっていたために、過去のドキュメントを見ても何もわからないのである。だが、これが議論として成り立ってしまうのは人々が勝つために争っているからである。

人々は情報を求めてはいる。これが面白いのはこの「知るための議論」が決して個人の領域を出ないことである。人々は公正な新聞は読みたい。しかし、その人々が語る政治論はどれも偏っている。つまり自分で判断を下したらそれが検証されることはなく、その意見の押し付け合いが始まる。なのでSNSには大多数のROM(読むだけの人)と自分の意見を押し付けあう兵士で溢れている。言論空間は闘争か黙秘かの二択なのだ。これがとても不自然に感じられる。

日本人は公正な情報はあると考えているがそれは必ず個人の心象と合致する。おそらくは社会常識を知らず知らず自分の常識に合致させてきた人が多いのだろう。そしてそれはおそらく自発的に行われてきたに違いない。そして、日本は「常識をいえば褒めてもらえる」という単純な社会だったのだろう。ところが世間というものがなくなってしまい常識も消失した。だがそれでも人々は公正な新聞を読みたがっている。多くの人が政治情報で彷徨うのはそのような理由からではないかと思える。常識を言えばみんなに褒めてもらえるはずなのだが、それが見当たらないのだ。戸惑っても当然である。

こんな状況で「話し合ってみては」などと言ってみても何の意味もない。そんな経験はしたことがないからである。

恐ろしいのは彼らが或る日突然「自分の心情に合致した」情報に触れてしまう可能性である。いわゆる目から鱗的感覚である。実に危険だ。

先日、何気なく「第9条の会」についての個人的な経験を書いたのだが、これがシェアされることが多かった。どうやら、憲法第9条は共産党が新人勧誘の入り口商品として使ってきた歴史があるようだ。「戦争はいけない」というのは誰もが反対できない心情に合致するテーマなので、これをきっかけに勉強会に誘い次第に共産主義(といっても彼らが考える日本流のものだと思うのだが)を教え込むという方法が取られてきたようだ。

こうしたことが成り立つのはすでに出来上がった体系と組織があるからだろう。つまりムラがあるからだ。まずは誰にも反対できないような心情を与えてイエスと言わせてから徐々に自分たちの教えに導いてゆく。こうすれば受け手の「自分は公正中立である」という心情を維持したままで組織の色をつけて行ける。

だがこれは随分回りくどいやり方で、したがって今ではこうしたやり方を維持して行ける人たちは少ない。「ムラ」に閉じ込めて強化学習を繰り返さなければならないからだ。共産党や公明党では新聞が役に立っているようだが、これを一生維持するにはお金と労力がかかる。

このムラを失った日本人は今ではSNSを彷徨い歩いており「なんの偏りもない自分」の心情を反映してくれる<信頼できる>情報ソースを探している。そんなものはどこにもないのだから人々はSNSで「あなたは本質がわかっていない」と言って他人を攻撃するのだろう。

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英語を話せない「自称英語専門家」が議論をめちゃくちゃにしているのではないだろうか

英語外部試験について大騒ぎでいろいろ聞いて回った。長年安倍政権にうんざりしていて「政権の終わり」がどうなるのかなと思っていたせいだと思う。調べているうちにとんでもないことに気がついた。日本には「あるべき英語試験」の姿がそもそもない。にもかかわらず制度改革が進んでいる。ここで話し合いを進めても英語試験の議論はますます錯綜するだろう。議論そのものをストップする必要がある。




最初は安倍政権が教育改革と称して英語試験に手を出し、失敗を文部科学省のせいにしたというような構図を考えていた。それだけでも良かったのだが、いろいろ話を聞いているうちに「あ、そんな単純な話でもないんだな」と思った。このまま英語試験の議論を展開したらさらにめちゃくちゃなことになるのではないかと思う。

英語のテストは本来単純なものだ。使える人と使えない人を分ければいいのだ。点数にはあまり意味がない。アメリカの学校に入るためには英語が理解できなければならない。専門学校だと授業が理解できないといけないし、大学院レベルだと論文まで書けないと卒業ができない。TOEFLはその実力を計測するために設計されている。

就職にTOEFLは使わない。志望動機を聞かれる面接がありの実力がわかるからである。就職でも「これくらいの仕事にはこの程度の英語力」というのは明確に決まっている。そもそも試験官は英語が理解できるのだから試験のスコアに頼る必要がない。

これが当たり前だと思っていたので英語の試験でここまで迷走することの意味を全く考えていなかった。

ところが面白いもので、他人に質問をしてみてこれに気がついた。どうやら最近の入試は「共通テスト組」の他に「AO入試組」などがいるようである。つまり複数の経路からバラバラの実力を持った人が入ってくる。そして大学では英語が必須科目になっていて授業を受けないと卒業できない。回答者はここで「低い方に合わせている」と不満を持っていた。

つまり、最初から英語の能力にばらつきがあり、さらに授業では英語は使わないので授業に必要な水準もなく、将来進路もバラバラなのでどの程度の英語力を持っている人を卒業させるべきかという基準もない。にもかかわらず「それらをすべて測る尺度を作れ」と言っているわけだ。水準がわからないふわふわした状態で入試をどう設定するのかという議論ができるはずはない。

お菓子を作る学校であればメレンゲを立ててケーキを焼けなければ卒業できない。だが英語にはそれがないのである。

何回かやりとりするうちに、この人が英語ができる人なんだということがわかってきた。帰国子女らしい。こうした人が実用的でない学校英語に不満を持ったり、英語学習にモチベーションを持たない人を苦々しく思う気持ちはよくわかる。と同時に英語ができる人は攻撃されやすい。発音はきれいなのに日本の重箱の隅をつつくような文法問題ができなかったりするからだ。つまり英語が実用的に使える人が日本社会に復帰すると英語ができるということを隠すようになる場合があるのである。この人も表面的には自分はできるとは言わなかった。

本来単純だったはずの英語能力の計測なのだが、実は「日本で独自に発展した使えないけど学問として成立している英語」というものがある。これが英語試験の問題をさらに複雑にする。

これは憲法議論でもあることだ。日本の憲法には明らかな問題がある。だが日本の憲法専門家はなんとなく独自の理論化をしていて「憲法第9条で自衛隊は合憲(だから今のままでも大丈夫)」というような話をしたがる。そのために憲法第13条を持ち出したりするという解釈には無理がある。憲法ができたときに自衛隊はなかったからである。これが、ガラパコス専門家の議論だ。

同じように英語は話せなくても大丈夫というような漢籍学者(中国語は話せない)風の人が英語教育を牛耳っている可能性があるのかもしれない。つまり日本の議論は英文解析系の人たちが実用英語を駆逐してしまう可能性があるのだ。

  • 中国語:英会話
  • 漢籍:英文解析

ここまでを整理すると実用英語がどんなものかわからない人たちが英語テストについてあれこれ議論しお互いを計測しあっており、英語が話せる人たちが口をつぐんでいるという悪夢のような世界があることがわかる。

例えば漢籍学者は中国語が話せない。だが「実用中国語の使い手」に対して「そんなものはちゃんとした中国語ではない」などと言い出す可能性もある。普通の人が欲しているのは実用中国語の方だろうがそれがバレてしまうと漢籍学者は地位と面目を失う。憲法議論にも英語議論にも同じような可能性があるのだろう。そしてそこに利権をめがけてやってくる政治家が加わり議論を混乱させるのだ。

かつては文献を読んでいれば良かったのだが、最近では外国に出かけて行って勉強できる機会が増えた。日本の英語学習はそのあたりについて行けていないのだろう。海外からの帰国組が増えるとさらに議論が錯綜する。「こんな試験はおかしいのでは?」と気がつく人が増えるからである。

漢籍学者は中国語を話せないと定義すると、結局できない人たち同士で議論が延々と続いていることになる。高校生は将来使うための英語と受験勉強のための使えない英語を勉強する負担を強いられるばかりか、余計な経済的負担、制度がころころ変わる不安などを抱えることになるだろう。

同じようなことは多分社会保障や雇用などについても行われているのだろうなと思う。何が実用に耐えるのかということを無視した議論が専門家とフリーライダーによってめちゃくちゃにされるという光景はいたるところに広がっているのだろう。

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破壊的なデモか永遠の停滞か

日本人はなぜ有名人を過剰に叩くのかという質問があった。Quoraでは面倒なので適当な答えを書いたのだが、今回はここから日本経済はなぜ停滞しているのかという説明をしようと思う。




日本人は閉鎖的な空間に住んでいた。このためフリーライディングやルールブレイキング(掟破り)を見せしめ的に叩けば、村の安定を守りルールブレイキングが防げた。だから日本人はこれ以外のやり方を考案する必要はなかったのだろう。

ところが地域社会は崩壊し終身雇用もなくなった。閉鎖的な空間がなくなったためにかつてあった「叩くマネージメント」が成り立たなくなった。知らない人たちと協力しあわなければならないのだが、過剰に村落的なマネージメントに適応してきたためにやり方がわからない。

そのうち政治は公共を諦めて自分たちの村を作ることにした。Twitterでは特区ビジネスコンサルティングが叩かれているが、税金という公金を使って村をつくりそこに様々な人々が群がるという仕組みである。オリンピックも英語の民間テストもそういう村になっていて政権政党のトップだけが利権を独占できるという構造になっている。今や汚職をする必要はない。合法的に特区を作って利益を独り占めすればいいのだ。

一方で介護保険のように公共性が高い事業はフリーライディングの温床になっている。既得権をつくると「それを最大限に利用しないと損だ」ということになるので費用が跳ね上がってしまう。NHKによると介護保険は制度の見直しが始まったそうだ。同じことは高齢者医療にも言える。厚生労働分野は誰も儲けられないがかといって費用抑制もできない。これだけ高度に発達して見える日本社会だが、マネージメントという発想がないのだ。そして、利権を得られない分野に政治家は興味を向けない。おざなりの議論が行われるだけであとは「消費税を20%にするか30%にするか」という議論になるだろう。

村から排除された人たちは本来ならばお互いに協力しあうべきだ。だが、やり方がわからない。さらにこれまでも足を引っ張り合ってきたのでいざ声をあげてみようという気にもなれない。声をあげた瞬間に足を引っ張られる可能性が高いからである。このため、例えば日本人は匿名空間でしか政治発言ができない。実名の職場で同じことをやれば通報され排除されるだろう。

匿名空間では十分に協力体制が作れないので日本人は今でもルールブレイカーを過剰に叩くことによって問題を解決しようとしている。例えば不倫を過剰に叩くのは結婚制度を維持したいからだし、政治家が問題を起こすと辞任を求めるのはそれ以外に解決策が探せないからだ。だから日本人はルールも変えられなくなった。そして一人を叩いても当然問題は解決しない。

有権者・納税者は政治の私物化について薄々気がついていてもそれを咎めることはできない。野党の事も疑っているのだろう。自分たちの私物化のために有権者の怒りを利用しているのでは?と考えているのではないかと思う。

フリーライディングが予想される公共空間では公共に対する支出は削減される。これは前回のエントリーで見た通りだ。例えば、法人は法人税を払わなくなった。税金として国に投げ出してしまえば戻ってこないことは明白である。自民党に献金して私物化したほうがよい。有権者も防衛のためにものを買わなければいい。というよりできることはそれしかない。こうして信頼が失われた社会では公共への協力が手控えられる。我々は実験行動学の生きたサンプルになっている。

では、SNSで問題が協力ができれば問題は解決するのだろうか。政治という調整機構が破壊されてしまったところでは細かい調整は働かない。できることは一つだけになる。みんなで集まってできるのは旧体制を打倒することである。

この生きたサンプルが、チリや香港にある。問題をデモという協力によって解決している人たちがいる。チリでは地下鉄の運賃値上げをきっかけにデモが起こり最終的には大統領を除く閣僚がすべて辞任しAPECの会議が中止になった。レバノンでも首相が辞任したという。中には暴力的なものもあり決して褒められたものではないのだが、彼らは「同じ境遇の人たちは信頼できる」という最後の信頼関係だけは持っているのであろう。それは日本人が持っていないものである。

もちろん暴力的なデモではなく選挙によって問題が解決できればいいのだが、アメリカ合衆国やイギリスですら民主主義が二極化している。もはや健全な形の民主主義が成り立っている国はどこにもないといってよい。

だとすれば「デモや暴動も仕方がないのでは?」ということになってしまう。少なくともフリーライディングが排除されれば国や経済は再び成長を始める余地が生まれる。ただし、破壊の後に必ず再生があるという保証はもちろんない。本来は政治が細かな利害調整をするのが一番良いのだ。

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神戸市のいじめ問題に見るリベラルの劣化

テレビ朝日で神戸市のいじめの問題を扱っていた。昔からいじめ気質あったという男性教師の問題から始まったのだのだが、なぜこのような人をスクリーニングできなかったのかというところに議論が及んだとたん問題の深刻さが浮き彫りになった。最近は先生の志望者が少ないので不合格が出せないのだそうだ。最近のワイドショーは誰かを叩くつもりで始めても日本社会の衰退を直視させられるという構造になってしまっている。




さらに教師の間の格差もいじめの原因になっていたようだ。「先生の質が落ちている」というバッシングがあった問いに「一般社会のように成績をつければいいのではないか」として制度を弄ったのが裏目に出ているようだ。成績の良い先生が悪い先生をバカにするようになってしまったというのである。

成績をつけるのは上司なので、最終的には校長先生の資質によって採点基準がまちまちになる。安倍政権下で優秀なはずの忖度官僚が政治に引き上げられてダメ議員に闇落ちするようなことがあるが、おそらく同じようなことが教育現場でも起きているのではないかと思われる。

バッシングのみでろくな対策を取らず教育の専門家と政治家に改革を丸投げしたツケがここにでてきている。だが、長年蓄積した問題なので複合的すぎてどこから手をつけていいのかわからない。今までソリューションを出してこれなかったのだからこれからもソリューションは出てこないだろう。

ところが番組としてはソリューションめいたものを出さなければならない。最後には尾木直樹さんに「専門家を集めて分析させ提言を出すべきですね」とまとめてさせていた。「ああまた同じような過ちが繰り返されるんだろうなあ」と思った。

教育現場は複合的な問題を抱えている。その根本にあるのは社会の援助不足である。社会は失敗には厳しいが援助はしたがらないという目線で教育現場を見ている。だから失敗すればするほど世間の目は厳しくなる。これは予算不足という衰退が生み出した副次的な症状だがそれが改善する見込みはない。政治が有権者を無視して自発的に援助を決めるまで日本の教育はこのまま荒れ続けるだろうが、自民党は自分たちの考えを道徳として押し付ける以外具体的なアイディアは持っていないように思える。

もう一つ「触れられなかった」面白いことがあった。それが革新市政と神戸方式についてである。テレビ朝日だから触れないのかそれともテレビ局がこの問題を政治と絡めたくないから触れないのかはわからない。

神戸市は1960年代から1970年代に革新市政となったらしいということは前に書いたのだが、Quoraでは阪神大震災の時に革新市政だったから自衛隊の援助をなかなか要請しなかったのだという話を聞いた。怒っている人も多いようだ。阪神大震災当時は村山政権時代だったので少なくともその頃まで革新市政が続いていたということなのかもしれない。その後革新市政がどうなったのかはよくわからない。

革新市政の全てがいけないとは思いたくないのだが、今回の件に関しては学校現場の性善説への過信は問題の根幹の一つだと思う。共産主義が崩壊したのは「人が権力を握れば独占したがる」という単純なことを忘れていたからだと思うのだが、リベラルは全般的に性善説を信じすぎチェックや抑え込みを過度に嫌いすぎるところがある。人は善人でも悪人でもないと思う。それは結果論である。

ただ、今回のプレゼンテーションを聞いて、確かに経済発展期には自主性を重んじる性善説の方が良かったのかもしれないなあと思った。かつて先生は聖職でありバブル崩壊後には狭き門でもあった。こうした時代には「自発的な改善」が成り立つ。ところが環境が悪化してきてしまうと「社会からの援助のない閉ざされた空間で行われる個人間の闘争」に変わってしまうのである。つまり、日本はもうリベラルを包摂する力がない落ちぶれた国になったのかもしれない。

テレビ局はこの問題を扱わないだろうが、多分神戸市では問題になっているはずである。社会が余裕を失い失敗を許さなくなると、かなり強烈な揺り戻しの動きが広がるだろう。多分報道されないであろう「改革」は教育現場への不信に彩られた改悪になってしまうかもしれない。

今回の問題は考えてみれば4人の教師の不埒な行動の話に過ぎないはずだ。だが、ソリューションを導き出そうとすると、様々なパンドラの箱が空いてしまう。問題がゴミ屋敷のように積み上がっている。だから、我々視聴者は誰かを叩いてそこそこ満足したらそのあとの解決を丸ごと諦めてしまうのである。

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洪水が去ったあとでバベルの塔を見た

台風19号の死者が50名を超えたようである。朝日新聞によると54名が亡くなっており16名が行方不明だということだから合計すると70名になる。その後の報道でも増え続け、70名以上になるのは確実なようだ。




台風一発でこんなことになるんだと自然の驚異の恐ろしさを感じる。しかしそのあとの出来事はもっと恐ろしかった。人々は自然災害の脅威を目の前にして罵り合いを始めたのである。

最初の違和感は二階幹事長である。台風災害がまずまずで収まったと言い、批判が出ると撤回した。世論の反発を期待した野党だけが騒ぎ、自民党幹部たちは何も言わなかったようだ。そのあと予定していた通りに予算委員会が再開された。台風15号よりも内閣改造を優先した安倍政権らしい対応だった。「心ない人たち」とはまさにこういう人たちの事をいうのであろう。

今回の台風の第一の教訓は「自分たちのところでなくてよかった」が間違った安心感を与えるということだ。千葉の人たちは停電被害や風でなぎ倒された木などを目の前で見ているので過剰に身構えてしまった。一方で、台風15号で被害に遭わなかった人たちは、事前に未曾有の雨をもたらすだろうという情報が出ていたにもかかわらず「まさかうちがこんなことになるとは」と口を揃えた。同情はしても当事者意識を持たなかった人も多かったのだろう。

今高度経済成長期に推進した治水事業が想定する以上の自然災害が起こっている。だが、日本にはもはや高度経済成長期並みの土木工事を行う余裕はなく、したがって「どう逃げるか」に頭を切り替えなければならないのかもしれない。自然は我々の想定をはるかに超えてくるということを謙虚に受け止めるべきであろう。かつてならそれは「神の怒り」などと説明されただろう。

ところがTwitterでは堤防が壊れたことで、やはり民主党政権は間違っていたというTweetが飛び交っている。自然の脅威を目の前にしてもまだ自説にこだわっている人が多いということがわかり慄然とする。そうまでして勝ちたいんだと思うと同時にこの恨みがどこから来たのだろうかとも思う。

第一に「弁舌の爽やかさ」に対する恨みなのではないかと思う。日本は学校で自分の説を論理的に伝える勉強をしない。それでも頭の良い人たちは自分の説を伝える術を身につけてゆく。その他大勢の人たちは自分たちの気持ちを伝える術もなく。不安を共有することもできずに社会人になってしまう。彼らは時には鬱屈した感情や不安を持つだろうがそれを解消する術を持たない。そこでそれを晴らすためにこうした機会を利用してしまうのである。民主党への怒りはそこに向いている。

武蔵小杉や世田谷といった高級住宅が被害にあったことでヤフーコメントには「あんなところにマンションを建てるからだ」などといったコメントが並んでいた。どこかやっかみの気持ちがある人たちも多いのだろう。彼らもまた妬みの気持ちをぶつけている。SNSはこうした我々が持っている恨みや妬みの気持ちをありのまま映し出す。

今民主党批判をしている人たちは洪水被害を受けなかった人たちだから、自分たちは助かった(つまり被害は他人事だった)と勝手に想定した上で、自分たちが助かったのは<あの憎き>民主党政権が堤防を妨害しなかったからだと勝手においてしまう。この「他人事でよかった」という気持ちは正常性バイアスを強化する。そのうち現体制を支持しているから自分は安心であるし安心であるはずだという間違った認識が生まれることになる。政治は実は何もしてくれないからこうやって自分たちを慰撫するしかないのだが、裏側には庶民が怒りを持っても何も変えられないという諦めがある。

この「自分の身に災厄が降り懸からなくてよかった」と考えたのは何も庶民だけではなかったようだ。二階幹事長はまず「地元でなくてよかった」と考え、次に東日本大震災クラスの災害が起これば自分たちの地位が危ないぞと考えたのだろう。これも「自分たちでなくてよかった思考」である。気持ちはすでに自分の地位をどうマネタイズするかに向いており国家の危機に関心はない。そして国民はもはやそれに怒らない。怒ってもどうにもならないことを知っているからだ。

この刃はすぐに自分たちに向く。自分たちが同じ目にあっても国や社会は助けてくれないだろうなということが否応なく自覚されてしまうからである。こうして私たちの社会は少しずつ壊れてゆく。あとできることは自己防衛に務めることで、具体的にはお金を使わずにとっておいたり、スーパーで食料を買いだめすることくらいになってしまうのである。我々の社会はもはや危機を叫ばない。

私たちが本当にショックを受けているのは高度経済成長期に克服したと思っている問題が実は解決していなかったということだ。このまま堤防を積み上げていっても不安を拭い去ることはできない。もともと沖積平野や氾濫原で暮らしてきた我々日本人は、堤防決壊を事前に察知して逃げる手段を考えたり、何かあった時に生活再建ができるような保険制度の拡充などを考えたほうが実は良いのかもしれない。また地下や低地に家を建ててそこに高価な機材をおくのは止めたほうがいい。堤防を高く高くするより普段から退避できる回数を増やしたほうがいいかもしれないのである。

だが、我々の社会はこうした気持ちの切り替えができずにいる。不安だから誰かを罵り、自分たちでなくてよかったと考え、それが油断をうみ、新しい不安を生むという悪循環である。

だが人々の罵り合いを見ていると、どうやら当事者になるまで人々は考えを改めるつもりはないらしい。私たちはこうした人々を説得できない。潜在的な不安を抱えつつ傲慢になった人々に届く意思疎通可能な言葉ないのだから、それはまさに現代版のバベルの塔である。言葉は通じても気持ちは伝わらないのだ。

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みんなとは誰か – 香港騒乱と憲法改正問題

香港の騒乱について議論をした。当初、香港は中国に返還された。香港には中国人が多いのだから当然主権は香港人のものになったのだろうと考えた。ところが、これが違っているという指摘があった。香港の基本法によると香港には主権はないというのだ。だが、後から香港は中国に代表を送っているともいう。訳がわからないと思った。




その鍵は中国の憲法にある。「中国国家制度の枠組み」という文章によると、中国は人民独裁国家という仕組みをとっているそうだ。主権・民主主義という概念が特殊なのである。

この文章によると人民が政治権力を独占するという人民独裁制という体制をとっているという。中国は無産階級独裁を目指したが民族資本家を取り込む必要があり無参加階級である。この体制に異議を申し立てる人は人民から排除されても構わないということになっているのだという。つまり人民はPEOPLEの訳語ではない。要するにみんなに逆らう人はみんなからはじかれるということになっている。

この考え方は極めて東洋的である。西洋人ならば権力者という個人が他の個人から人権を奪うと捉える。だが、中国には集団的な人民という階級がいて彼らが内輪で話し合って何が受け入れられるかを決めるのだということになる。

香港が中華人民共和国に復帰する時、中国の体制に親和的な無産階級であれば「我々の手に戻った」と喜んでもよかったことになる。ところがこれを強調しすぎると香港から資産家階級が逃げ出してしまうので(実際に今回そういう動きが起きているそうである)この辺りを曖昧にして復帰したのだろう。「主権」という言葉の揺れが社会インフラの破壊にまでつながったという意味では恐ろしいことだなと思うが、資産家はいずれは国をでなければならなかった。

このような話を書くと「ああ、やはり中国は恐ろしい国だ」と思ってしまう。ところが実際にはそうではない。この「みんながいいと思っていることがいいことなのだ」という考え方は日本でも割とよく見られる。

公明党が「中道政治とは何か」という文章を出している。中道とはみんなが常識として持っている価値体系だそうだ。

そのどちらの側にも偏らず、この二者の立場や対立にとらわれることなく、理の通った議論を通じて、国民の常識に適った結論(正解)をさがし、創り出すことを基本とする考え方である。あえて、つづめて言えば、中道政治とは、「国民の常識に適った政治の決定」を行うことを基本とする考え方であると言っても良い。

中道政治とは何か(上)

この背後に宗教団体がいることを知っているので違和感を感じるが「自分は常識的な人間で偏りがない」ということ自体は日本ではよく聞かれる意見だ。このため朝日新聞は偏っているとか産経新聞は偏っているという人がおり「自分は偏りがない中道な意見が読みたい」という人さえいる。ところが、その中道は何かと聞かれると「みんなの常識なのだ」というような言い方になり答えがない。

日本人は多分「この考え方は中国共産党的だ」というと怒ると思うのだが、実際には「みんなの正義が社会の正義であるがそれが何かは説明できない」というのは日本でもよく見られる議論である。最終的にはそれはみんなの正義だから個人では逆らえないなどという話になって終わる。

自民党の憲法草案も「みんなが選んだ議員が決めることが正しいのだから自分たちが何が公共かを決めることができる」という考え方で作られている。批判をする人は「みんなには入らない少数者はどうするのだ」というのだがその答えはない。自分は中道でみんなの意見と合致するのだから、当然何が間違っているかを判断する目を持っていると考えるのである。

この「みんなが正しい」という表現は東洋的な政治議論を読み解くカギになる。公明党のみんなというのは多分支持母体である創価学会の信奉する理念のことを意味するのだろうし、自民党のみんなというのは彼らの支持母体の一つである日本会議の価値観を含んでいるのだろう。これは中国のみんなが実質的に人民代表大会とそこで選出された代表者を意味するのに似ている。そのサークルに入っていると感じている人は安心感を覚え、そこに入っていないと感じる人たちからは猛烈に反対される。

日本の憲法改正議論が進まないのは小選挙区制を導入してしまったからだろう。当然二大政党に向かうのだが、日本の場合は政権交代が起きないので排除され続ける比較的大きなみんなに入れない人が存在し続けることになる。議会ですらみんなが作れないのだから国民が包摂できるはずはない。

案の定、安倍首相のいうみんなは「オトモダチ」と呼ばれるようになった。経済停滞期に入り「みんなを納得させるだけのアメ」が配れないのだ。外で見ているだけの人たちは当然それを攻撃するだろう。最近ではテコンドーの金原会長が「理事のみんなは賛成している」といって選手出身の理事と副会長と対立している。理事の一人は話が全く通じないので過呼吸を起こして倒れてしまったそうだ。テコンドーの協会は選手や国からお金を取ることしか頭になくオリンピックを目指す選手たちと利害が対立しているのであろう。

いずれにせよ衰退期の日本は「みんな」が作れない。経済的にみんなを抱き込めないからだ。

一方、人工的に「みんな」を作ってしまった中国は別の問題を抱える。つまり「みんなでない」と感じる人たちが出てくると彼らを理論上統治できなくなる。結局は経済的に満足感を与えておかなければならない。香港の場合はいずれ中国の一部になる。この時に香港のみんなが中国共産党を信任しないという状況になれば、彼らの統治の正当性が破壊されてしまう。

新疆で何が起こっているのかはわからないが、漢族支配の共産党を信じないウィグル人が大勢いるとしたらそれは不都合な存在として隠蔽されるだろう。ウィグル人のみんなが共産党を支持しているという図式が崩れてしまうからだ。チベットにも同じことが言える。中国がこれを隠せるのはチベットや新疆が奥まった地域にあるからだ。ところが香港は資本主義社会への窓口として西側に開かれておりそうした隠蔽はできない。

そうなると中国は香港人の不安(例えば住宅の不足など)を解消することでデモ勢力から「みんな」を引き剥がすることになるだろう。結局気持ちをつなぎ止めておけるのは経済的な成功だけでそれが止まれば中国は今の体制では多分維持ができなくなる。意思決定の失敗を受けとめるという意味での主権者がいないからである。

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政治の最前線はパソコンとスマホの中にあった

4月ごろからQuoraで政治系のスペースをやっているのだが、最近やたらと中国関連のポストが多くうんざりしていた。とにかくアジアの蔑視感情を持った人たちが政治ポストを荒らしたがるのだ。だが、考えてみるとこれが最前線なんだなあと思いちょっと見方が変わった。あまり人と交流するのは好きではないがこういうのもやってみると意外な発見があるものだ。




最近もっともうんざりしたのが「ウィグル虐殺などない」というポストである。中国系カナダ人が現地に行って調べてきたが、ウィグル人は平和に暮らしているから何の心配もいらないというのである。英語の元ポストをみたら「大手マスコミは嘘つきだ!」というコメントがたくさん付いていた。すべて中国系のファミリーネームである。わざわざこのように荒れることがわかっているポストする方もセンセーショナルな記事を掲出して露出を増やしたいんだろうなあと思う。

個人攻撃は禁止しているので「お前は嘘つきだ」というポストは付かないのだが、今度は黙って「中国はウィグルでこんなにひどいことをしている」というURLがシェアされた。ここで反応がないと絨毯爆撃的にシェアが増える。

後でわかったことだがこの人たちは承認欲求があるようだ。つまり自分たちが正義だと思っていることを披瀝して誰かに丁重に扱われたいのである。だから慇懃に接すると落ち着き「お前も反省したようだな」などといってくる。政治議論というよりみな「正義」について語りたいのだろう。Twitterにうんざりしている人は「承認欲求」が何か悪いことのように語られる日本社会でほとんど唯一の承認欲求の捌け口がSNSの政治議論になっているということを知っておいて損はないと思う。認めてもらいたい人は多いが人を認めようとする人は少ないという程度の話であるが、人間は誰でも認められたい。

こういうポストに腹がたつのは「政治系のポストは<中立>でないとみんなうんざりして読んでくれなくなる」と思ってしまうからである。イメージとしては池上彰式のドライな事実だけを「お店にきれいに」並べたいという感じである。承認欲求のために店を荒らす不良のお客さんに怒るのと同じ感覚だ。

だが、Twitterをみていてそういう気分が吹き飛んだ。香港に独自政府ができたというTweetが流れてきたからだ。もう「池上式」は無理なんだろうなあと思った。この変化は受け入れる必要がある。

これがどれほど確かなのかはわからないし、どう広がってゆくのか(あるいは行かないのか)もわからない。だが確実に言えるのは民意に影響を与えたいという人たちがいてそれぞれの宣伝活動に励んでいるという点である。

日本と大きく違っているのが彼らが「主権」をかけて宣伝活動をしているという点である。日本は国民主権ということになっているがおそらくそれを信じている人はそれほど多くない。誰かが何とかしてくれるとみんなが思っている。だから政治は承認欲求を満たすための道具にしかならない。だが主権者意識を持っている人たちにとってこの宣伝活動は「ガチ」だ。

我々はかつて東西冷戦というしっかりとした構造を生きていた。だから政府が作ってマスコミが「正しい」と考える情報を受け止めていればある程度のことはわかったのである。お客でも良かったのだ。あとは社会設計通りに生きていればそこそこの暮らしは保障されていた。SNSはまだなく2chなどは「感想を言い合う場所」でしかなかった。

ところが現在は状況が全く違っている。しっかりとした構造はなくなり民主主義が必ずしも絶対的な正義としては語られなくなっている。民主主義はたいていの社会では分断されており問題の解決ができなくなっている。その上で情報の流れが完全に逆になった。民意はまずSNSの上で作られそれが政治に影響を与え、最後にそれをマスコミがまとめるということになっている。

最初「荒れている」と思っていた両者がぶつかり合う世界は実は現在の正常であり何も嘆くことではなかったのだ。我々はただそれに慣れて行かなければならないし、その気になればいろいろなことが発見できるのだろうなあと思った。

ただその荒れ方の中身は見たほうがいいと思う。承認欲求のために荒れている人もいれば主権をかけてガチで争っている人もいるのだが表向きこの二つは同じ混乱にしか見えないからである。

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M氏と呼ばれた男はなぜ関電幹部を巻き込んだのか

関西電力の問題がヒートアップしている。本来は私企業と私企業の間の話なので贈収賄などは成立しないはずなのだが、関西電力側が説明を躊躇したせいで問題が大きくなった。ここでわからないなと思うのは、なぜ森山栄治さんが関電幹部を巻き込んだのかということである。もともとは合法的なお金なのだから好きに使っても良かったはずなのだ。




この問題が「贈収賄にならないのでは?」とされていた時には、あまり世間の注目を集めなかったが、お菓子の下に金貨が敷いてあったという強力な前近代性のある話が出てきて一気に盛り上がりを見せはじめた。だが、いろいろ調べて行くうちに「小判だけが前近代的なのではないんだな」ということがわかった。そろそろ週刊誌にも後追い報道が出るようだ。

最初に注目したのはこの森山栄治という人が90歳の高齢だったという点である。1928年の生まれなのだそうだ。そこで「戦後の混乱期を知っているからお金以外のものは信頼できなかったのだろう」と思った。そこで人物を調べてみたのだがWikipediaに生涯がまとまっていた。この文章に「人権」という文字がある。関西に近い北陸圏で人権といえばもうそれは「あの人権」しかない。ああ、これは新聞やテレビはできないだろうなあと思った。

松本清張ならこれで一冊の推理小説が書けるだろう。戦後の混乱期になぜか故郷を離れて京都府庁に就職した若者がいた。やがて財政が逼迫しているからという理由で請われて故郷に戻ってくる。裏には「地域の<事情>」に詳しいという理由もあったのかもしれない。なぜか彼は強権的に振舞い出すが誰も口出しができない。バックに大企業と町がついているからである。彼はそうやって地位を確かなものにしてゆき誰にも止められなくなる。関西電力もおそらくはこのことを知っていたに違いない。「人権教育」ということで「先生」と呼んでいたからである。そして事情を知っている役場は彼をMと呼び続けた。

関西電力には言えないことがいくつかある。多分、電源開発する過程で反対派の抑え込みをしているはずで、その経緯を関西電力は知っているはずだ。これをバラされると困るという事情があるのだろう。ダイヤモンドオンラインにそれを指摘するコラムを見つけた。窪田順生さんはこれを「ヤクザも真っ青」と言っているが、その詳しい中身は書けないだろう。検索すればそれを指摘する記事も見つけられるのだが、リンクするのははばかられる。

アンタッチャブルには「手をつけてはいけない」という意味があるのだが、それ以外にも意味がある。彼はいろいろな意味でアンタッチャブルな存在になった。そして関電はそんな彼を利用して「自分たちだけはきれいな」ままでいようとした。おそらく財政に逼迫していた町も知っていてそれを容認したのだろう。

この話はネットメディアでも取り扱っているところがあり、週刊文春や週刊新潮も後追い記事を出すようだ。おそらくこうした運動体を危険視する内容になるのではないかと思う。最初の差別があり、それを自分たちの営利に利用し、亡くなってから都合が悪くなるとまた切り捨てて化物呼ばわりする。まさに昭和の闇が令和になって蘇った風情がある。

ここからMと呼ばれ続けた人がなぜ関電幹部を巻き込んだのかもわかってくる。なんとなく戦中戦後の混乱を経験した人が「お金や金(きん)しか」信頼できなかったということはわかる。彼らはこれを身分保障のようなものと考えており、それに連座する人を増やしたかったのだろう。だが、既存のシステムに期待することができない「守られていない人たち」にとってはこの行為はそれ以上の意味を持っていたのかもしれない。つまり、自分たちに危険なことを押し付けて自分たちはきれいなままでいるのかという気持ちである。

日本は危険な原発を地方に「押し付ける」過程でかなり無理をしてきた。その原資になっているのは一人ひとりの電力使用料金だ。その意味では我々もこの厄介な問題に加担していることになる。差別とは恐ろしいものだと思う。

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成田市議会エコボトルといじめの構造

成田市議会でマイボトルが禁止された。特定の人を狙い撃ちした陰湿なイジメだなあと思った。日本の閉鎖的な村落的構造がよく表れている。日本人は話し合いができないばかりか議論の空間をいじめに利用してしまうことがある。古い日本人にとっては問題解決より体面の方が重要だからだ。




発端はアエラの記事だった。記事は「市民からの苦情」でペットボトルはみっともないということになったと伝えている。ところが、結果的にペットボトルの飲み物で統一されてしまった。これは一貫性のないおかしな議論だ。途中でマイボトルの話も出てきているが「色や形が統一できない」という理由で却下されている。

この記事は中空がぽっかりと空いている。新聞は事実しか書けないので証明できないことは書けないということなのだろう。日本ではこれを「炎上」が埋める。中空が明確であるほど炎上が起きやすくなる。今回の「炎上」は「これって明らかにいじめですよね」ということだ。

まずこの議員さんは緑の党というところに所属している。マイボトル・エコボトルはこの議員にとって中核的なテーマだ。他の議員は利益誘導に興味があるのだろうからおそらく市民団体系の人とは話が合わないだろう。さらに、この議員さんはコンパニオンを呼んでお酒を注がせることを何回も注意してきたらしい。個人ブログで見るとそれがよくわかる。これが男性中心の議会の気持ちを逆なでしたんだろうなあと思う。

成田市議会の構成を見ると女性が3人しかいない。一人は与党・一人は共産党・そしてもう一人は緑の党である。共産党は仕方がないが古い男性社会で女性ができることは二つある。一つは男性のマスコットになる道で、もう一つは男性以上に男性らしく振舞って許しを請い続けることだ。つまり女性であるということはそれだけで「いけないこと」なのであり、それを払拭するためには男性以上に尽くさなければならない。

「この市民団体上がりの女性」議員が浮いていたんだろうなあということが予想できる。

こういう人に「ガツンという」にはどうしたらいいか。みんなでルールを作ってその人の大切なものを奪ってしまえばいいわけである。俺たちは認めないぞという意思を示すのだ。そして、異議を申し立ててきたらそれを無視しつづける。男性社会を賞賛する女性以外は必要ないということを見せ続けなければ大変なことになるし、相手の苦痛を見るのも楽しい。

こうした「聞こえません・異議は認めません」攻撃も政治課題と称した少数者いじめではよくあることだ。Twitterでは韓国人をいじめたり、アイヌ語などないといって批判者をあぶり出して狩るという行為が常態化している。こういうのは理不尽であればあるほどよい。

古い男性社会も「コンパニオン」のような問題に正面から反論するのは難しいということはわかっている。だからこそ政治的正しさを押し付けてくる面白くない人に対する意趣返しにいじめを利用する。ここでできる最大の防御は感情的に反論しないことだろう。

誰が考えたのかは知らないがそのプロセスは念入りだ。意思決定はできない古い日本人にとって何も決めないといういじめは得意分野である。市議たちが「あの女はけしからん」「なんだあのいけ好かないボトルは」という話になったのかもしれないのだが、そうは言えないので「市民から苦情があったということにして」「みんなで決めたことにしよう」となったのかもしれない。ルールを決めて動かさないことにしてしまえばいいのである。

こうしてどんどん何もできなくなってゆくが、それは市議たちにとってはどうでもいいことなのだろう。自分たちは選ばれた議員様なのであって、市民の問題など市が自己責任で考えればいい。この成田市議会はおそらく「女性の働き方や育児」のような問題も「環境問題」も扱えないだろう。

何も決めない議会ではわけのわからないルールだけ増えてゆく。「市が用意したペットボトルから紙コップで飲む」というルールだ。こうしたわけのわからないルールはやがて一人歩きして修正が効かなくなる。ところが我々はこうしたルールに慣れてしまう。そして自分で何かを考えようとするのをやめてしまうのである。

つまりこの成田市議会のデメリットは新しい価値観に対応できなくなり自分で考えようという気持ちを奪うという点である。そしてその結果被害を被るのはリーダーたちではなくおそらく一人ひとりの市民だろう。彼らは体面を守るために市民を犠牲にしている。

さらに議題ではなく人に注目するというのが閉鎖されて時代に取り残されつつある人たちの特徴だということもわかる。閉鎖空間に居続けたおかげで周りの価値観が受け入れられなくなり自分たちの短期的な体面の問題しか考えられなくなっている。おそらく様々な政治議論と称されるいじめが個人攻撃なのはそのせいだ。

今回はペットボトルについて扱っているように見えるが、おそらく市議たちの関心はこの「けしからん女性議員」にあるはずで、おそらくプラスチックや環境をまともな政治問題とは捉えていないだろう。彼らが気にしているのは国の補助金をどう支持者に配るということと自分たちの威厳だ。村で生きて行く以上それ以上に大切な政治問題は彼らにはない。議会という村が居心地がよいものであるならば、外の世界で何が起きているかなどどうでも良いことなのだろう。

今回は成田市の問題を見たがおそらく日本にはこうした村がいくつもある。閉鎖的な村の病は人々に取り付いて意欲や活気を奪うのだ。

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