日米は同盟関係にないという説があるらしい

他人のTwitterというのはなかなか勉強になる。今日は「日米は軍事同盟を結んでいない」という人がいた。その根拠になっているのは「日米は(軍事)同盟条約を結んでいないからだ」ということだ。これに対して「同盟というのは重層的なものであって、軍事同盟だけを指している訳ではない」と反論している人がいた。

なんだかすっきりしない。いろいろ調べて分かったのは、この単純そうな問題ですらタブー視された歴史があったということだ。これを健全に語れる状態に戻さないと、後々ややこしいことになるのではないかと思えるのだ。そもそも「語れなかったことが、今の私たちの議論をややこしいもの」にしている。

まず「日米は軍事同盟関係を結んでいない」というのは、従来の政府の見解だったようだ。なぜなのかはよく分からないが、日米安保の改訂に大きな反発があったので政府がタブー視していたのではないかと考えられる。

これが変わったのは大平首相の頃だそうである。学術的にまとめられた文章は見つからず、なぜかYahoo! 知恵袋に書かれている。Wikipediaには後任の鈴木善幸総理大臣が「やっぱり日米安保は軍事同盟ではない」と発言して伊東正義外相が抗議の辞任をしたのだということが書いてある。どのような党内対立があったのかは分からないが、1980年代の初頭までは「あれは軍事同盟なのだ」と言うことが半ばタブー視されていたことが分かる。

ある国会議員(伊東正義外相の話はこの人から聞いた)によると、永田町ではこれで「日米同盟は軍事同盟」というのが定説になったようだが、巷ではまだ「あれは軍事同盟ではないので、日米は同盟関係にはない」と信じている人がいるということになる。つまり、「日米の関係が何なのか」ということや「同盟とはそもそも何なのか」ということすら、実は世間的な統一見解がない。少なくとも当時の見解の相違を引きずっている人がいるのだ。

では、条約のパートナーはこの件をどう見ているのだろうか。アメリカ政府のウェブサイトには「アメリカの集団的防衛の枠組み」というセクションがあり、日本条約という項目がある。

まずは、日本ではいろいろとごちゃごちゃ言っているが、日米安保条約は集団的自衛の取り組みなのだということが分かる。「限定的」というのは「憲法に沿う形で」と書いてあるが、あくまでも「日本の行政権の及ぶ範囲では相互の攻撃を自国の攻撃と見なす」となっている。アメリカの認識としては「日本はアメリカを助けませんよ」は通らないことになる。

であれば、昨年夏のあの一連の議論とか、これまでの政府見解って何だったのかということになる。一方、安倍さんは領域外でも協力すると言っていたが、あれは日米同盟の枠外だということになるが、大丈夫なのか。また、日本はオーストラリアやインドと相互防衛条約なんか結んでいないのだから、中国の封じ込めなんかできない。あの議論の混乱を見ると、安倍さん自身が枠組みについてよく分かっていなかったのではないかと思えてくる。

ただ、この表にあるからといって、実効的な同盟関係にあるというものでもないらしい。例えばリオ条約の項目にはキューバが含まれている。長い間国交がなかったのだからアメリカとキューバは同盟国とは言えない。Wikipediaではキューバは除名されたと書かれているのだが、アメリカ政府のリストはアップデートされているらしいので(ページの下にいくつかの国が加えられメキシコが取り除かれたと書いてある)形式上は同盟関係が生きているのだ。

またANZUSの中にはニュージーランドが入っているが、ニュージーランドが非核化を進めたために、ニュージーランドとの相互防衛協定は実質的に失効しているのだそうだ。にも関わらず「集団防衛の枠組み」の中にはニュージーランドが残っている。

いずれにせよ、日本では内と外で議論を使い分けた結果つじつまが合わなくなり、後世の人たちが苦労するという図式があるようだ。これが幾重にも積み重なり、国防の議論を難しくしているのだろう。今回はたまたま「同盟って何」という点に着目したのだが、こういう議論がたくさんあるのだろう。

過去の政府見解は正しかったと言いたい気持ちは分かるし、政治家はなぜ放置していたのかと非難されたくない気持ちもよくわかる。しかし、安全保証の議論を正しい道筋に戻すためには、与野党ともにこれまで議論を錯綜させたことを国民に詫びてはどうだろうか。これは日本の安全保障上、かなり重要なのではないかと思う。

NHKが印象操作を試みるもあえなく失敗に終わる

安倍首相がメルケル首相を訪問した。NHKのニュースによると概要は次の通り。

  • 安倍首相はお城に招かれた。(特別待遇がほのめかされている)
  • 安倍首相はドイツにさらなる財政出動を要請した。
  • メルケル首相は、ドイツに移民が流入しており内需は喚起されていると語った。
  • 財政出動については、引き続きG7で協議することにした。
  • メルケル首相は日本のリーダーシップのもとで力強いメッセージを発することに賛同した

ところが、事前に様々な情報が出回っている。総合すると次の通り。報道の中で何がぼかされているのかがよく分かる。

  • 安倍首相はメルケル首相は、ドイツは難民の流入もあり、既に十分に財政出動していると主張し、安倍首相の提案をやんわり断った。(あるいは、両者は認識に違いがあることが分かった)
  • メルケル首相は、G7では代わりに規制緩和や財政規律などについて話し合いたいと語った。
  • メルケル首相は、競争的な通貨切り下げには勝者はなく、為替相場の安定が重要との認識を示した。
  • メルケル首相は、日本にNATOのメンバーシップをオファーし、フランスやイギリスを説得できると語った。

TBSでは「メルケル首相は財政出動について明言を避けた」としていて「課題が残った」としている。このラインがぎりぎり公平と言えるのではないかと思う。NHKのニュースだけを見ると、日本のリーダーシップにメルケル首相が賛同したという印象が得られる。だが、事前に様々な情報が入っている人から見ると、安倍さんはメルケル首相に相手にされていないことが分かる。それどころか安倍さんの政策や主張に釘を刺す発言もある。すると、却ってしらけた印象になってしまうのだ。

情報ソースは主に2つある。一つはクルーグマン教授の「東京で話し合われたこと」というものだ。安倍首相は「ドイツに財政出動させるにはどう説得すればいいか」とたずね、クルーグマン教授に「外交は専門外」だとやんわりと断られている。ノーベル賞学者を呼んでもこの程度のことしか聞けないのかと国民をあきれさせた。もう1つの情報ソースは外国の通信社などである。こちらはグーグル検索すれば簡単に手に入るし、Twitterでも情報が飛び交っている。特に専門知識は必要がない。

特にNATOの下りは重要だろう。第一に日本は集団的自衛権を行使できないので、NATOには加盟できない。しかし、日米同盟は別口と考えられている。「だったら、NATOにでも入れますよね」というのは、日本のダブルスタンダードに対する皮肉だ。次に、安倍さんは今回の旅行でロシアを訪問することになっている。ロシアとヨーロッパは緊張関係にある。NATOはロシアに対抗するための装置である。そこで、メルケルさんは「あなたはいったいどっちの側なの?」と迫ったわけである。

安倍さんのコウモリのような態度(日米同盟に臣従する態度を見せつつ、ロシアにも接近する)は警戒されているし、平和憲法を空文化してアメリカとの集団自衛にコミットする姿勢もあまりよくは思われていないのではないかと考えられる。

各社ともメインで伝えていないところを見ると、NATOの件は、何かのついでにほのめかしただけのようである。

よくNHKは大本営だという人がいるが、大本営が成り立つためには情報が遮断されていなければならない。ところが実際には様々な情報が飛び交っているから、大本営発表は単なる道化にしかならない。日本のマスコミはそのまま権威を失ってゆくのではないかと考えられる。

また、NHKだけでなく、特定の情報を鵜呑みにする(これは、NHKだけでなく、左派や右派、ないしは自分の専門だけの情報ソース)ことの危険性も示唆している。

なぜ、人々は好き勝手な物語を語るのか

礒崎陽輔衆議院議員が怒っている。主題は憲法改正案だ。毎日新聞が「自分たちをレッテルばりした」のが気に入らないらしい。

ここでは自民党の側に立って磯崎さんの疑問にお答えしたい。こうした「客観的な事実でない部分的な情報を主観で埋める」ものを物語という。確かに「戦争法」は事実を「安倍首相は戦争を従っている」という憶測で埋めた「左翼の物語」と言える。では、議論が物語を許容するのは何故なのだろうか。

一つは安倍首相が事実を的確に伝えなかったという点にある。もともと中国を封じ込めたいという気持ちを持っており(これはダイヤモンドなんちゃら構想として知られる)アメリカが「相応な費用負担を求めている」という事実を隠蔽したまま、それを利用しようとした。日米同盟は盤石だと言い張り、日本人の負担は増えないと約束している。これらは全てもとの事実を隠蔽した行為だ。事実が曖昧なので、物語の余地が生まれたと言える。政治は「憶測でものを言っても良い」ことになったのだ。

次に安倍政権側が物語をねつ造しているという事情がある。緊急事態条項でよく知られている物語は「ガソリンが足りなくて命が救えなかった」から緊急事態条項が必要だというステートメントだが、少なくとも東日本大震災ではそのような事実はなかったことが知られている。そもそもこれが物語なので、カウンター側も別の物語を当ててくる。

もう一つよく知られているのは、震災対応に際して「自治体に権限を渡すべきだ」という声だ。これは事実ではないかもしれないが、実感であろう。実際に「よく分かりもしないのに、中央からやってきた人が仕切りたがって困った」という声はよく聞かれる。松本文明副大臣の行状が記憶に新しいところである。これは中央集権型とは真逆のベクトルだ。つまり「地震の時には強い政府が求められている」というのは既に物語なのだ。

では「本当は安倍政権は何を画策しているのか」と思うのが人情というものである。そこから想像を膨らませるが「証明」はできない。そこで、人々は好きな物語を作り、その隙間を埋めようとするのである。

つまり磯崎議員への回答は簡単だ。自民党やその支持者たちが自分の好きな方向に国民を誘導しようとしたから、全体が好き勝手な物語を紡ぐようになったのである。マスコミは黙るようになった。つまり誰の物語にも加担したくないが事実を探るのも面倒(というより実質的に不可能)なので「誰が何を言った」ということを以て、事実を報道したということにしているのだろう。

ネットの情報は信頼に値しないガセネタばかりなのか

よく、ネットの情報はガセネタばかりだから気をつけるべきだなどという人がいる。だが、実際にガセネタを流しているのはマスコミの方らしい。いくつかの事例がある。

安倍首相はクルーグマン教授を呼び世界の経済情勢について話を聞いた。話はすべてコンフィデンシャルだとした上で「観測」という形で「消費税増税は延期すべきだという話になった」と漏らしたようだ。マスコミはそれを鵜呑みにして「クルーグマン氏が消費税増税延期を示唆」などと伝えた。TVでは今でもそういっている。

だが、これが正確ではないことはよく知られている。クルーグマン氏本人がやり取りをネットで公表してしまったからだ。クルーグマン氏は「財政再建よりも支出の拡大を」とは訴えているが、消費税増税を延期しろとは言わなかったようだ。だが、記者クラブから排除されているタブロイド紙を除いたマスコミは本人の発表を無視し「クルーグマン氏は消費税増税するなと言った」という話を伝え続けている。

ネットがなければ、クルーグマン氏が独自見解を発表する事はできなかっただろうし、これほどまでに浸透しなかったかもしれない。だが、Twitterのおかげで個人でも簡単に情報を拡散することができるようになったのだ。

週刊誌が乙武氏の不倫疑惑を伝えた。この件について山本一郎氏はこれは松田公太参議院議員の一派がリークしたのだと指摘した。もともと乙武氏は元気会に接近していたのだが、元気会が政党要件を失ったことで見限ったというのだ。これをTwitterで見て「松田さんも裏では姑息なことをやっているなあ」と思った。乙武氏がいなくなれば東京からライバルが一人減るからである。

ところが、松田氏は自身のブログで「法的措置を検討」と息巻いている。法的な対応を考えているとTwitter上で発表した。証拠がないのだから訴えられれば負けるだろうという識者まで出てきた。選挙前になるとこうした情報が錯綜することになる。大抵は町の噂レベルで終るのだが、インターネットが出現した事で、全国が一つの村のようになった。ネットがなければ、この噂が広まることもなかったかもしれないが、双方の意見を聞く事もできなかっただろう。

最後の事例は、意図的な編集である。権力から独立しているべきマスコミがかなり偏重姿勢を強めていることが分かった。

日本テレビは「民進党の岡田代表が消費税増税をスケジュール通りに実施せよと主張している」と伝えた。次の日のネットには「岡田代表は今度の選挙で勝つつもりがないのだ」とか「岡田さんは狂ったに違いない」とのの嘆きの声が渦巻いていた。

ところが、これはテレビ局側の恣意的な編集だったようだ。この発言は「そもそも増税できる環境が整っていない」と続いている。岡田代表は都合良く発言を切り取られないように結論を最初に言うことを心がけるべきだろうが、選挙で不利になるような印象操作をしようという魂胆はあまりにもあからさまだ。ネットがなければ情報が一人歩きしていたかもしれない。

「政治家やマスコミは正しい情報発信を心がけるべきだ」と書いてドヤ顔で閉めたいところなのだが、選挙前になるとどうしてもこうした「怪情報」が一人歩きする。選挙管理委員会は個人が怪情報を出すことに神経質になっているが、実際に発信汚染を作っているのは、政治家本人やマスコミとその関係者たちだ。

「マスコミ」は政治家の発言ををそのまま垂れ流すか、週刊誌の騒ぎを後追いするための装置になっている。そもそも二次情報なので正確さを求めるのは無理というものだろう。

「有権者はメディアリテラシーを持って接するべきである」とも結論づけたいところだ。なんとなく考えて解決したような気分になれるからである。しかし、そもそも元の情報が間違っている(あるいは意図的に切り取られている)わけだから、リテラシーの持ちようがない。

結局、多くの人は信じたいものを信じることになるのだろう。これでは議論がかみ合うわけはない。心或る人が「これではいかんのではないか」などと思わないのだろうか。

保育所の問題とコモンズの悲劇

保育所問題の議論がなんだかあらぬ方向に向かっているようだ。「保育士の待遇を改善すれば問題が解決する」というのである。議論の前に、まずコモンズの悲劇(共有地の悲劇とも)のコンセプトを理解する必要がある。

ここに4軒の畜産家がいる。牧草地の間には誰のものでもない土地(条件1)があって、柵がない(条件2)。どのようにすると一番よいのだろうか。

持続可能性を考慮に入れると、誰のものでもない牧草地(共有地・コモンズ)を4軒の畜産家で協同管理するのがよい。コモンズに入れる牛の数を適性に割り当てて、牧草が生えてくる余地を残すのだ。ときどきでかけていって肥料を撒いたり、手入れをするのもよいかもしれない。コストはかかるが、これが一番よいやり方である。

しかし、短期的な利益を考慮すると事情が変わってくる。コスト負担はできるだけ避けた方がよいが牛の数は増やせばいい。最終的には他の3軒の畜産家を駆逐することができるだろう。ただし、それでも手入れをしなければ牧草地は枯れてしまう。つまり、4軒とも倒産してしまう。牧畜家がいなくなれば牛乳が飲めなくなる。

ここで「牛乳が欲しいから」という理由で誰か他の人が牧草地の管理を買って出たらどうなるだろうか。畜産家は安く牧畜できるが、その費用には関心を払わなくなるので、限界まで事業を拡大させる。すると社会はインフラを維持できなくなる地点に到達する。維持ができなくなったところで市場は崩壊するだろう。

これを実際の経済に置き換えてみると、いろいろなことが分かる。牧畜家に当たるのが企業で、共有の牧草地に当たるのが社会的インフラだ。牧草地の維持は社会の持続可能性を示している。難しいことは何もない。たとえとして引っかかる点があるとしたら人間を牧草扱いするとは何事だという点だろうが、そこは我慢して欲しい。

安倍政権は企業減税して、その分の負担を消費税に求めている。社会的インフラの維持を企業ではなく働き手から得ようという算段だ。

しかし、これには問題が多い。年金生活者が増えて所得に占める賃金の地位は下がりつつある。さらに、企業にとってはコスト削減のインセンティブが働く。端的に言えば子供を持っている従業員の雇用は割高になるために切り捨ててしまうのが一番経済合理性が高いということになってしまうのである。一度職を離れた人を同じスキルで非正規雇用すれば賃金はさらに下げられる。

今のままで保育士の賃金を上げると、社会的インフラへのフリーライド(ただ乗り)のインセンティブが強まる。ただ乗りした方が短期的に勝利できる可能性が強まるからだ。他の条件が同じなら、手厚い従業員保護をする会社よりも人件費の面で有利になる。却ってフリーライダーが勝ちやすくなってしまうのだ。

また、この政策は政府の債務を大きくする。保育所だけが社会的インフラではない。福祉を手厚くしたり、公的補助をして企業を誘致したりすると、フリーライドのインセンティブを強めることになるのだ。つまり、現在の政策を続けてゆくと、その延長線上には財政破綻があるということになる。財政破綻した瞬間に市場は崩壊する。

この問題の解決策はいくつかある。

第一の解決策は、牧草を輸入することだ。牛乳がなくなると困るから、消費者のコストで牧草を輸入して共有地においておくのである。この方法の欠点は牧草を輸入すればするほどそれに乗って牛が増えてゆくということだ。市場が牧草を賄いきれなくなったときに市場は崩壊するだろう。結局、コモンズを買っている(外国の土地を共有地として使っている)ことになる。牧畜家が牧草輸送のコストを負担するという方法もあるのだが、いずれにせよこれは奴隷制の例えなのである。牛は丸々と太っているが、足元は砂漠化しているということだ。帝国主義的な資本主義では正当化されるのかもしれないが、現在ではこの方法を取るのは無理だろう。

第二の解決策は共有地を牧畜家に割り当ててコストを負担させることだ。保育所の場合には、子供のいる従業員に対して保育所の設置を義務化するという政策になる。所有権を明確にする方法は「内部化」と呼ばれる。この方法の難点は共有地が私有化されることで、本当に共有地が利用したい人が締め出されてしまうというものである。例えば、零細企業などは従業員のための施設が作れず倒産してしまうかもしれない。もともと保育園はこうした企業のために作られた(つまり福祉の一環なのである)ということを考えると本末転倒かもしれない。すべてを自由競争にゆだねるというのは資本主義的には王道だが、これですべてがうまく行くというわけでもなさそうだ。私有地化による悲劇をアンチコモンズなどと呼ぶそうである。

第三の解決策は、牧畜家から税金を取って誰か他の人が共有地を管理するという方法である。この方法だと零細企業が締め出されることはなくなるかもしれない。この解決策の問題点はいくつかある。代理人が割高な料金を取って過大請求するかもしれない。代理人をどれだけ信頼できるかという問題になる。本来は規模の経済が働くので効率的なはずだが、必ずしも成功するとは限らない。つまりこの解決策は「社会主義的」アプローチだ。つまり、不効率になる可能性が高いのである。代理人が牧草地を独占するのだから、牧草地の管理人には「できるだけ高い金を牧畜家からふんだくってやろう」というインセンティブが働く。あるいは管理人が誰が草を食べられるかを決めるので不公平感が生まれるのだ。

現在の方法は第三の解決策に近い。一番の違いは牧畜家から税金を取っていないのに牧草地を協同管理しようとしているという点だ。そこで、問題を無視するか(自民党流アプローチ)つじつまを合わせようとしている(野党的アプローチ)ために、保育所の問題は「解けない問題」になっているのである。

最悪なのは牧草地の管理者(保育所の場合は国)が独占企業と同じになっているという点だろう。牧草地も増やさないし、
水もやらない(つまり保育士の待遇もよくしない)。そして費用は牧畜家ではなく消費者に負担させようとしている。牛は丸々と太っているが、砂漠が広がるという光景が生まれつつあるのだ。

地方分権して牧草地の管理人の数を増やせば少なくとも共有地独占の問題は解決するだろうが、企業のフリーライドの問題は解決しない。

難しい言い方をすれば、こうしたありようを変えてゆくことを「統治機構の改革」と呼ぶべきなのだ。つまり、日本を変えるということである。戦前の支配体制に復帰を目指したり、単に地方に財源を移すことを統治機構改革と呼ぶのは間違っているのではないかと思える。

放送と言論の自由

奥野さんという民主党の代議士が高市総務大臣に変なことを質問したためになんだかめちゃくちゃな議論が行われている。「政治的に偏った放送を行った放送局の電波を政府が停止できるんですか」と質問し「できます」との回答を得たのだ。民主党は「自民党は言論弾圧に乗り出した」と騒ぎ、憲法学者の先生たちも「高市発言は憲法違反だ」と騒いでいる。

もともと、放送法は電波を政府や権力者たちが独占しないために「不偏不党」が唄っており、権力批判を制限するための法律ではない。ところが最近では政権に近い人たちが公然と「政権批判ばかりして、偏っているから電波を止めてしまえ」などと言い出すようになった。中には真剣に「ジャーナリズムは共産主義に洗脳されている」などと考える人たちも出てきているようだ。そこで「自民党政権は言論弾圧のために電波を止めかねない」という懸念が生まれたのだろう。

ところが、そもそも「不偏不党」性は言論の自由に抵触する。だから、あの法律はもとから憲法違反なのだ。そのため法曹界では、普遍不党を唄った条項は努力目標だというような曖昧な解釈をしているようだ。法曹界の面白いところは法律の無謬性を信じているという点だろう。法律だって間違えることがあるわけだから、状況が変われば法文を変えればいいと思うのだが、それでは法律の持っている「神聖性」が失われていると考えているのかもしれない。同じことは自衛隊と憲法の関係にも言える。現実的に世界有数の武力集団なのだから「あれは軍隊ではない」といっても笑われるだけである。

かつてはテレビのチャンネルは数局分しか取れなかったので「限られた資源」だったわけだが、最近のデジタルテクノロジーを使えば、より多くの放送局を作ることができる。インターネットを使えばもっとたくさんのチャンネルを見ることができる。だから、憲法を純粋に適用すれば「不偏不党」を唄った条項を廃止すべきなのだ。

ところが、そうするとNHKが自民党寄りの報道を繰り返すようになるのは火を見るよりも明らかである。スポンサーが政権なのだからこれは致し方ないところだ。下手したらチャンネル桜みたいになってしまうかもしれない。憲法学者の先生はそれも嫌なのだろう。このため『立憲デモクラシーの会』が出した声明はなんだかまわりくどいものになってる。単純に「電波はもはや稀少なものではないのだから、あの条文はなくすべき」と書けば良かったのだ。

高市大臣がお友達と裏でどんな勇ましいことを言っているのかは知らないが、具体的に電波を止めようとしているわけではないので、この話はこれ以上広がりようがない。総務省出身でこの件が得意だった奥野代議士はこれがバズったのがうれしかったのか、再度質問に立ち、テレビカメラの前で見事に自爆した。もっと勉強しろよとは思うが、もともとこの程度の人なのだと思う。民主党は次回の衆議院選挙ではもっと質の高い候補者を送っていただきたいものである。でないと、本当に共産党くらいしか入れる政党がなくなってしまう。

「狂った世界」の道徳と憲法に関する議論

木村草太先生が道徳の教科書について怒っている。現在の組体操は憲法違反だが、道徳教育上有効として擁護されている。学校は治外法権なのかというのだ。木村氏は道徳よりも法学を教えるべきだと主張する。最後には自著の宣伝が出てくる。

Twitter上では「道徳教育など無駄だ」という呟きが多い。この点までは氏の主張は概ね賛同されているようだ。ただし、この人たちが代わりに法学を学びたくなるかは分からない。また、組体操についての懐疑論もある。「全体の成功の為に個人が犠牲になる」というありかたにうんざりしている人も多いのではないかと考えられる。

また、一般に「道徳」と言われる価値感の押しつけは「一部の人たちの願望である」という暗黙の前提があるようだ。その一部の人たちが押しつけようとしているのが、自民党の考える「立憲主義を無視した復古的な」憲法だ。だが、それは一部の人たちの願望に過ぎない。人類の叡智と民意は「我々の側にある」と識者たちは考えているようである。

これらの一連の論の弱点は明確だ。つまり「みんなが全体主義的な憲法を望み、それが法律になったときに木村氏はそれを是とするのか」という点である。すると道徳と法学は違いがなくなってしまうので、問題は解消する。すると法学者はけがの多い組体操を擁護するのだろうか。

考えられる反論は「人類の叡智の結集である憲法や法が、軽々しく全体主義を採用するはずはない」というものだろう。木村氏は「革命でも起こらない限り」と表現している。民意はこちら側にあると踏んでいるのだ。

このような反論は護憲派への攻撃に使われている。「憲法は国益に資するべきであり、現状に合わない憲法第九条は変更されるべきだ」というものである。天賦人権論や平和憲法は自明ではなく「アメリカの押しつけに過ぎない」という人もいる。国会の2/3の勢力を狙えるまでに支持の集った安倍政権は「みんな」そこからの脱却を望んでいると自信を持っているはずだ。

護憲派は第九条や天賦人権論を自明としているので、これに反論できない。哲学者の永井先生は木村氏を擁護し、木村氏はこう付け加える。

安倍政権は「憲法改正を望むのは民意だ」と言っている。木村流で言えば「真摯な民意」が憲法改正を望んでいるということになってしまう。選挙に行かないのは「真摯でない民意」だから無視して構わない。デモを起して騒ぐのは論外である。「選挙にも行かないくせになんだ」ということになる。

この一連の議論が(もちろん改憲派も含めて、だ)狂っているのはどうしてだろうか。「道徳」を押しつけたい側は「昔からそうだったから」と言っている。この人たちは「右」と言われている。そして護憲側は(この人たちは「左」と言われる)も「世界では昔からそうだったから」と言う。そして「みんな」の範囲を操作することでつじつまをあわせようとするのだ。

普遍的真理は大変結構だと思うのだが、それは常に検証されなければならない。もし検証が許されないとしたらそれは中世ヨーロッパと変わらない。カトリック教会は「神の真理は不変だ」といっていた。ただし民衆は真理に触れることはできなかった。ラテン語が読めないからだ。

多分、議論に参加する人は誰も検証のためのツールを持たないのだろう。にも関わらず議論が成立しているように見えるのが、この倒錯の原因なのではないかと思う。ラテン語が読めない人たちが神の真理について議論しているのである。

「普遍的真理」というのだが、実は民主主義国は世界的に例外に過ぎない。イギリスのエコノミストが調べる「民主主義指数」によると、完全な民主主義国は14%しかなく、12.5%の人口しかカバーしていない。欠陥のある民主主義まで含めると45%の国と48%の人口が民主主義下にあることになる。普通とは言えるが過半数にまでは達しない。

どちらの側につくにせよ、それを望んでいるのは個人のはずだ。しかし、日本人は学術的に訓練されていても、徹底的に「個人」を否定することになっている。個を肯定しているはずの「左側」の人たちにとって見るとそれは受け入れがたいことなのではないかと思う。

さて、個人が政治的意見を形成するのに使われるツールがある。それは「哲学」とか「倫理学」と呼ばれる。ちなみにこの議論で出てくる永井先生は哲学の先生だ。日本語では道徳と言われるが西洋では倫理学だ。

どちらも「善し悪しを判断する」ための学問だが、日本の道徳が答えを教えてしまうのに比べて、倫理学は考える為のツールを与えるという点に違いがある。

倫理学教育が足りないと感じている人は多いようで、数年前にマイケル・サンデルの白熱教室が大流行した。もちろんサンデル教授は独自の意見を持っているが、白熱教室でどちらかの意見に肩入れすることはない。記憶によるとサンデル教授は判断基準のことを「善」とか「正義」と呼んでいたように思う。

日本の政治的風土は「自分で考える」ことを徹底的に避ける傾向があり、価値観の対立に陥りがちだ。どの伝統を模範にするかでポジションが決まってしまうのだ。ところがこれでは外部にいる人を説得できない。

しかしながら、外部にいる人たち(いわゆる政治に興味のない人)も「選挙に行かないのは人ではない」くらいのプレッシャーを受けている。そこで「科学的で合理的な」政治に対する説明を求めるのだろうと考えられる。しかしそのためには、受信側も送信側も考えるためのツールを持たなければならない。

故に、学校では道徳を教えるべきなのだ。ただし、安易に答えを押しつけてはいけない。道徳の目的は答えに至るプロセスを学ぶ機会だからである。

キムタクする?

ついにSMAPの問題が「政治問題化」した。背景にはブラック企業に対応に悩まされる労働者(学生含む)の増加があるようだ。芸能界にも労働組合があれば、SMAPの4人は「公開処刑」されることはなかっただろう。芸能界には小栗旬のように「映画をよくするためには労働組合が必要だ」という俳優もいるが「SMAP程のスターでも芸能事務所には逆らえないんだ」というのは、多くの実演家に負のメッセージを与えたことだろう。

kimutaku個々の実演家の地位が低いのは日本の芸能界が多階層化しているからだ。利権のある一次企業と実演家を押さえている二次企業が実務家を搾取する(という言い方が気に入らなければ「利権を配分しない」と言い換えてもよい)構造ができあがっている。実務家は分断されており、交渉力がない。

本来なら、実演家たちは協力し合って一次企業(テレビ局)や二次企業(芸能事務所)と配分の仕組みを交渉した方がよい。しかし、そうしたことは起こらない。「足抜け」する人が必ず出てくるからである。二次企業は「足抜け」した人にわずかな利権を与えることで、他の実務家に「裏切るとろくなことにならない」というシグナルを送る事ができるのである。

芸能新聞の報道が確かなら、木村拓哉のおかげで、二次産業(ジャニーズ事務所)は安泰だった。そこで足抜け行為のことを「キムタクする」と呼びたい。

「キムタクする」主因はライバル(この場合は中居正広)の存在だろう。ライバルに勝ちたいという「自由競争」の原理が働いてしまうのだ。これは競争者としては仕方がないことである。しかし「キムタク」行為にはいくつもの弊害がある。

「キムタク行為」が横行すると、小栗旬がいうように芸能界が実力本位にならない。同じようなことが、IT業界にも言える。プログラムの価値を生み出すのはプログラマだ。プログラマが優秀なら、業界自体の競争力は増すはずだ。

ところが、日本ではプログラマは最底辺に置かれている。時間に追われ、一方的な顧客の仕様変更や無理な納期の注文に悩まされる。賃金は抑えられ、生活すらままならないこともある。面白いプログラムを作るどころか、生きて行くのがやっとだ。

そればかりか、時間がなく新しい技能を勉強できないので、早くから陳腐化する。疲弊して使い捨てられてしまうのである。だからコンピュータサイエンスを学んだ優秀な技術者はプログラマなど目指さず、とりまとめ(SEなどと呼ばれる)になる。SEは調整しているだけなので、業界全体の競争力が増すことはない。

同じような現象はアニメにも言える。底辺でアニメを支える人たちは個人事業主として消費される運命にある。現場を経験してから、面白いアニメをプロデュースする側に回ることはない。そもそも優秀な人は使い捨てられることが分かっているのにアニメ産業など目指さないだろう。国は「クールジャパン」などと言っているが、その助成金は、一次産業かよくて二次産業の上の方で「山分け」されてしまうだけだ。担い手のいない産業に持続性はないが、業界が気にする様子はない。「夢を持った若者」が次々と入ってくるからだ。

「面白いものができない」くらいなら我慢できるかもしれない。「キムタク行為」の真の弊害は、業界全体の安全が損なわれてしまうという点にある。「キムタク行為」は産業全体を不安定化させるのである。

ココイチのビーフカツ問題で見たように、末端の食品流通業者は、仲間が安さを求めて産業廃棄物に手を出しても分からないところまで疲弊化してしまった。明日食べて行けないかもしれないのだから、倫理などを気にしていられないだろう。

多分、末端の流通業者たちはスーパーに競争を強いられているはずだ。協力して交渉力を増したり、生産性を上げることもできるはずだが、そのようなことは起こらない。お互いにライバルだからである。末端業者は共同して「不当に安い価格での納入はしない」と言えればよいが、必ず「キムタクする」業者が出てくるだろう。中期的に見れば「キムタク」を防ぐ事で、食品業界の安全が確保されるはずだが「キムタク」業者も生活がかかっている。

この文章を読むと「木村拓哉を誹謗中傷している」とか「キムタク業者を非難している」と不快に思う人がきっといるだろう。もちろんアーティストとしての木村さんを批判するつもりはないし、生活のためにがんばっている人を誹謗中傷するつもりもない。

この問題の一番深刻なケースでは「被害者であるはずの弱者」が「加害者」になってしまうことがある。それが軽井沢のバス事故だ。

バス業界も受注関係はないが多階層化している。最下層では国が決めている運賃では採算が取れないくらいの構造になっているようだ。

軽井沢の事故で加害者になったのは高齢のドライバーだ。年金では暮らして行けなかったのだろうし、大手のバス会社が雇ってくるはずもない。慣れない長距離大型バスの運転に手を出して十数名の学生を殺してしまった。バスの運転手が産業別の労働組合を作り「労働条件を守れ」と言っていればこんなことは起こらなかったはずだが、果たしてあのバスのドライバーにそんな選択肢があっただろうか。

この問題で「キムタクした」人を責めるべきだろうか。もちろんそうではないだろう。しかし、加害者になり命まで落とした原因はやはり無理な労働条件で働いてしまったことにある。それを防ぐには一人ひとりのドライバーが連帯する以外にはないのだ。

国の監督がないのが悪いと言う人や規制緩和が悪いという人もいる。しかし、残念ながら国が労働者の一人ひとりを守ってくれるわけではない。せいぜい世間の耳目を集める事件が起きた時だけ一斉調査を行ってお茶を濁すだけだろう。

お互いに競争関係にある実務家が連帯することは難しい。足抜け行為によりその場の優位性を確保する方が簡単だ。だから、一連の問題が即座に消えてなくなることはないだろう。多忙を極める芸能人やアニメーターに「労働組合を作れ」と言っても夢物語にしか聞こえないはずだ。

しかし、それでも、業界の価値を決めるのは実務家だという自覚を持つ事で、状況は少しずつ前進するはずだし、諦めたらそこでその業界は死んでしまうのだろう。

Twitter上の左翼層と政権奪取構想

安保法制議論も一段落したので、Twitter上の右翼と左翼のつながり具合について調べてみた。前回の候補者の選び方を見直して、起点(0)が相互フォローしている安保法案に賛成の意見表明をしている人(右翼)と安保法案に反対の意見表明をしている人(左翼)を選んだ。その人たちがフォローしている人(1)を選んだ。1がフォローしている人を2として4までを辿った。選ぶ際に名前(反対派は「原発反対」とか「安倍を落とせ」などのフレーズを名前に入れている)を参考にしたので、ランダムというわけではない。

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前回と同じく左翼には強い関心の共有が見られた。大抵、反原発・反戦争法案などが見られる。時折、反TPPなどというフレーズもあった。いわゆる「左翼3点セット」だ。一方、右翼にはそれほど高い関心の共有は見られない。1組だけ関心を共有している人たちがいた。2と3の間には複数の共有アカウントがあり、反韓国・中国という話題を共有していた。中には反民主党というアカウントもあったが、彼らから見れば民主党は外国人(帰化はしているが)ばかりの「売国政党」だからだろう。左翼は特定の運動を通じて結びついているが、右翼の結びつきはそれほど強くない。

右翼は共有している政治家のアカウントも少なかった。唯一見られたのは安倍晋三と橋下徹という二大「強い政治家」だ。その他、片山さつきの名前もあった。左翼層は民主党(蓮舫、細野豪志)と社民党(福島瑞穂)などがフォローされている。今回選ばれなかったアカウントの中には「生活の党支持」を掲げているものもあるので、山本太郎などを支持している人もいるのではないかと思われる。

右翼層は、反韓国・反中国などで結びついている。いわば「ヘイト派」である。この人たちが明治憲法への回帰などの復古的な政策にどの程度同調しているのかはよく分からない。と、同時に左翼層の人たちも原発や戦争といった「汚い」ものを忌避しているのだが、それがどの程度共産主義(あるいは社会主義)への支持につながっているのかはよく分からないのである。左翼層は他人に対しての共感力が高いというわけでもないらしい。シリア難民保護や募金などと言った発想は見られなかった。

左翼層にとっての一番のチャレンジは考えを外に広げて行く事だろう。狭い共同体であることが予想され(検証は必要だろうが)るので、コミュニティとしての広がりはないのではないかと思われるからだ。「あの政治家は嫌いだ」と呟いているだけでは、議員を落選させることはできない。

左翼層は「原発・戦争・TPP」などの反対している。つまり、意識はなくとも「反米路線」と言える。政権を担当した党はどれも、自衛隊を認め、原発を容認するなど政権獲得後に親米・追米に路線転換している。すなわち、共産党が提案する「国民連合政府」がそのまま支持を集めることができるかは、はなはだ疑問である。また、こうした層がどの程度幅広く存在するかはまだ未知数だ。

顕在化した層は「好き」ではなく「嫌い」で結びついている。かつての無党派層が「官僚への敵意」で投票行動を起したのを思い起こさせる。しかし、脱官僚を唱い自民党をぶっつぶすといった小泉政権は官僚を潰さなかった。官僚から利権を取戻すといった民主党政権は後に官僚派に転じ消費税を増税した。中国に厳しく対峙してくれそうな安倍政権が誕生しても中国は依然として世界第二位の経済大国だ。安保法案はアメリカに便宜供与をしているだけなので、特に中国を潰す行動にはなっていない。

政党が「ヘイト」を利用するのは構わない。しかしヘイトには瞬発力はあっても持続性はない。振り向いてもらうきっかけにはなるが、これを積極的な応援運動への参加へ転換してゆかなければならない。積極的な応援運動とは簡単な動作でできる「勝利可能」な行動だ。成功体験を積み重ねてゆけば、やがて大きな目標へ到達することができるだろう。

その為にはまず、行動の受け皿になる政治的な集まりを作り、小さな行動から大きな行動へとつながる行為設計を行わなければならない。離反者が出る事も考えれば、1年未満という時間は決して長くはないことが分かる。

右翼と左翼 – ネットワーク的研究

今回の安全保障関連の議論は「国民を二分した」と言われる。Twitter上では安倍首相を応援する側(仮に右翼とする)と反対する側(仮に左翼とする)に大きく割れた。そこで、ネットワーク上で右翼と左翼になんらかの違いがあるのかどうかを調べてみることにした。まず 10名のアカウントを集めた。ツイートの内容によって、右翼、左翼、そしてポジションなしに分けた。ポジションなしとは特に安保法案に関心のない人たちだ。

TwitterAPIを通じて彼らのフォロワーとフレンドリストを採取する。1度に取れる情報は200件まで(つまり全てではない)だ。それをSIFフォーマットに落とし、Cytoscapeというネットワークビジュアル化ソフトに落とし込んだ。10名の関係先だけで3,000ほどある。これでは扱いにくいので一方的にフォローしているかフォローされている先を削った。これで関係先を500ほどに減らす事ができた。これを主に手作業でまとめると下記の絵を得る事ができた。

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当然のように「ポジションなし」同士には細かな連携はない。これは興味の対象があまり一致していないことを示している。しかしながら、全く興味分野が一致しないということはあり得ない。芸能人やニュースサイトなどが重複しているからだ。不思議なことに「右翼」同士にも緊密な連携はなかった。1つだけ目立った連携が見られたのは右翼に属する人とポジションなしに属する人の間に見られたアップル関係の重複だ。たまたま、二人の趣味が一致してたのかもしれない。この2人は相互フォロー関係にある。

ところが左翼サイドは状況が一変する。4人の間には共通の情報ソースが複数ある。試しにいくつか覗いてみたところ同じような内容(脱原発、反安保法案)が書き込まれていた。お互いが納得できる内容を共有し合っているものと思われる。良い言い方をすれば「左翼サイドの連帯は強い」と言える。悪い言い方をすれば彼らの世界は「閉鎖的で狭い」可能性があるだろう。こうした空間から情報を取っていると「全ての人が安保法案に反対している」と考えるようになっても不思議ではない。

よく考えてみれば、有名な人(例えば政治家や学者)を例外にして、右翼と左翼の一般人が罵り合う(もしくは議論する)という図式は見られない。右翼同士はフォローしあっているにも関わらず、共通の情報源を持っていない。つまり、お互いに議論をしあっている形跡も見られない。これは当然の話かもしれない。右翼は中国や韓国への蔑視つまり「ヘイト」で結びついているだけで、特に何らかの運動を共有しているわけではないからだ。

ここから得られる仮説は単純だ。いわゆる左翼と呼ばれる人たちを動員するのは簡単だろう。彼らの運動に同調すればよいからだ。同じ情報源を共有しているので考え方は同質だと考えられる。一方、右翼と呼ばれる人たちは既に自民党(ないしは次世代の党)などが中国や韓国と対峙してくれるものだと信じているので、特に働きかけをしなくても自民党を支持してくれるだろう。右翼層は民主党や社民党は売国奴の外国人に操られていると信じているのだが、最初からターゲットではないので気にする必要はない。

ここで問題になるのは、こうした人たちが全体でどれくらいいるのかが分からないという点だろう。いわゆるネトウヨと呼ばれる層は、実はそれほど大きくないことが分かっている。今回安保法案に反対した人たちも声は大きく、ネット上では固まって見えるが、どれくらいの人数がいるのか、実はよく分からない。多数派を占めると思われるポジションなし(あるいは無関心)層がどのようなメッセージに反応するかは分からない。全く政治に興味がない可能性もあるし、意思を表明していないだけということもあり得る。

安保法案についての議論が白熱する期間にはシリア難民の問題が起きた。左翼を人権に敏感なリベラルな層だと仮定すると、左翼層からシリア難民に対する同情や「日本も移民を受け入れるべきだ」という議論が起こっても不思議ではない。しかし、そうした議論は全く聞かれなかった。人権に対して進歩的な考え方を持っているというよりは、自分の価値観に合わないものを排斥しているだけ、なのかもしれない。