安倍首相は北方領土を返してもらおうなどとは思っていない

最近、北方領土返還運動に2つの動きがあった。1つは北方領土が返還されてもロシア人の権益は守りますよという条件提示で、もう1つはロシアとの経済協力だ。いろいろ考えたのだが、北方領土返還を中心において考えるとなんかモヤモヤする。このモヤモヤの原因は何だろうか。

安倍首相を取り巻いている右側の人たちが、日本に居留する外国人の権利を容認するはずはない。在日韓国人・朝鮮人に「国へ帰れ」などという人たちなのだ。ゆえに実現可能だと思うならば、支持者たちから大きな反対運動が起きていただろう。

一方でロシアへの経済協力を見ても「日本側の大企業が得をしそうな話」ばかりだ。欧米各国はロシアと対峙しており経済的なサンクションができている。特にウクライナとの関係が悪化しクリミア半島がロシアに組み入れられから緊張は高まっている。逆にいえば、ここに抜け駆けのチャンスが生まれているのだが、サンクションに抜け穴があると効果が薄れるので、何か理由がないと経済協力がやりにくい。

ロシアがソ連だった時代、一番密接な関係を持っていたのは共産党なのだろうが、ソ連が解体してからは権益上の空白地になっている。安倍政権はロシア権益を取り込みたいのだろう。現在、ロシア権益に一番近いのは鈴木宗男氏だから、彼を復権させたいのも当然といえば当然のことなのかもしれない。

何の理由もなくロシアに利益供与すれば野党が追及する理由を与えかねない。しかし「北方領土を取り戻そう」という大義名分さえあれば、いくらでも投資することができると安倍政権は考えたのではないだろうか。政府の関与が強まれば、政治家たちがうけるキックバックも大きくなるし利権の分配を通じて国内の権力基盤も確固たるものになる。

反対の立場に立てばわかるのだが、韓国が「経済援助してやるから対馬をよこせ」などと言っても国内世論が応じるとは思えない。ロシアは北方領土を第二次世界大戦で勝ち取った正当な領土だと信じているのだから、経済協力くらいで領土について妥協することはないだろう。小クリルと呼ばれる人もあまりいない二島くらいは返してくれるかもしれない。さらに、向こうから見れば自民党がロシア権益を欲しがっていることは明白だろう。相手(つまり自民党)にいい思いをさせた上にお土産まで渡す義理はない。交渉上の主導権はロシア側にある。欲しがっているのは日本だからだ。

自民党はロシア権益が欲しいだけで、北方領土はそのためのエクスキューズに過ぎないと考えると全てが落ちるわけである。分からないとモヤモヤとするニュースだが、一度わかってしまうと、なんてことはない問題だということになる。

ある信仰告白

リベラルとか左翼とかいろいろな呼び方があるのだが、あの界隈の人たちの運動が一つの転換期を迎えたと思った。#生活苦しいヤツは声あげろ というTwitterのタグだ。

これまでの左翼運動は「戦争」や「原発」などの穢れに対しての反対運動だった。根底には何らかの別の不満や不安があるのだが、あくまでも穢れが外部からやってくることに対する反対運動の形をとっていた。自分たちの問題だと考えたくなかったのだと思われる。

確かに「普通」を抜けることには抵抗がある。通常、それは脱落を意味するように思われるからだ。だが、そうした運動はクローゼットのなかから叫び声を挙げるようなもので、たいしたインパクトを与えない。自分の問題として認識してはじめて運動体として前進しはじめるのだ。

この動きを考えだしたのが誰だかは分からないが、現状への意義の申し立てだと考えることができる。

キリスト教社会では、こうした「異議の申し立て」を信仰告白という。もともとキリスト教は異端の宗教だったので、信者間以外で信仰告白がされることはなかった。後に信仰告白はローマ教会に対しての異議申し立てという意味合いを帯び、公然となされるようになった。信仰告白は宗教改革期に多く見られ、最終的に国際的な戦争に発展する。プロテスタント運動以前には信仰告白はなかったものと考えられる。「自分が信仰を選び取った」という認識がなかったわけだ。

イスラム教では「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」というのが信仰告白になっている。証人2名の前で宣誓すると、共同体に迎え入れられるそうだ。キリスト教のような異議申し立てのという意味合いはなく、共同体のメンバーシップが強調される。

ともに、自分が特定の心情を持っているということを世間に向けて発表することを信仰告白と呼んでいる。それは心情なので厳密なファクト(事実)である必要はない。いずれにせよ「自分が選択したから信仰がある」という意識があることが重要だ。#生活苦しい……は何を告白しているのかというと「自分たちの暮らしはもっとよくなりうる」ということだろう。

そもそもこの運動がすぐさま教義を持ち得るかというのはかなり疑問だし、安倍政権が「生活を苦しくした」原因だとも思えない。だから過剰な意味付けはしたくないしかし、安倍政権が支持されているのは「日本人の生活が全体的に苦しくなりつつある」ということを否定したい人が多いからだと思われる。

しかし安倍政権を支持する人たちが信仰しているのは「私たちのくらしはこれ以上良くなりようがないし、我々には豊かになる資格はない」という世界観だ。異議申し立ては「良くする手段はあるはずだし、幸せになりたい」という宣言だということが言える。

21世紀の左翼運動は「現在の政権がうまく行っていない」ということを証明しようと長い時間を浪費した。世間に不調を認めさせてコンセンサスにしようとしたのだが、その度に「自己責任だ」と考える人たちに阻まれてきた。だが、そんなことは必要がなかった。「自分たちはそう考えている」というだけで十分だったのだ。

日本人はバブルが崩壊してから長い間、国として衰えて行くことは認めても、一人ひとりの暮らしが先細って行くことは認めてこなかった。現状認識を改めるのに一世代もかかったのだ。

捏造される過去とフィルムカメラ

最近、カメラについての文章をいくつも読んでいる。Yahoo!知恵袋などを読むと、マーケットが何を求めているのかが意外に分かるのだ。一眼レフ分野では「初心者だが何を買っていいか分からない」という質問が多い。選択肢が多すぎるのだろうとは思うのだが、意外と「自分が何をやりたいのか」が分かっていない人が多いようだ。やりたいことにより必要なスペックが異なるのだ。

さて、フィルムカメラにも面白い質問があった。それは「どうやったらフィルムカメラみたいな古い写真が撮影できるのか」というものだ。これに対していらだちを募らせる人もいる。

実は15年ほど前には全く別の構図があった。デジタルカメラのセンサーが発達していなかったために「デジタルカメラ=おもちゃ」という図式があったのだ。プロがデジタルカメラを使うなどということは考えられなかったわけだ。

つまり、そこそこの一眼レフ・フィルムカメラを使えばそれなりの写真が撮れていたわけで、フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できるということではない。これは昭和生まれの人ならたいていは知っていることだ。

古びた写真は、昔の写真の経年劣化だ。退色具合は各色バラバラなので、あのような色あせた写真ができる。もう一つの原因は「ビネット」と呼ばれる四隅が暗くなった写真だ。これはレンズとフィルムスペースが合致しないことで起るのだそうで、スマホカメラではまず起らない現象だ。

この間違った印象に輪をかけたのがインスタグラムなどの写真アプリだ。古びた写真を撮影して「懐かしい感じ」を出すフィルターがいくつも作られており、芸能人発信で広がって行く。すると、カメラの歴史を知らない人たちが「フィルムカメラ=古ぼけた写真が撮影できる」と勘違いしてしまうようだ。

このような思い込みが広がった状態で、古ぼけた写真を撮影しようとして普通のフィルムカメラに手を出す人がいる。そして「あれ、レトロの写真が撮影できないぞ」と言って、ラボなどに問い合わせする人がいるらしい。

一方で、デジタルカメラになって確実に変わったところもある。昔のカメラは自分で光の強さを計ってからカメラを設定する必要があった。しかし、最近のデジタルカメラは、センサーが光の具合を感知して設定を決めた上で、自分で絵作りをしてくれる。こうした機能は高級なデジタルカメラだけでなく、スマホカメラにも搭載されているありふれた機能だ。つまり、最近のカメラでは「失敗作」を撮影するのはほぼ不可能になっている。何でもきれいに撮影できてしまうので、失敗作が作れないのだ。

空き家の研究 – 市場と社会主義の失敗

朝日新聞に低所得者向けに空き家を有効利用してはどうかという国交省の提案が載っていた。耐震基準を満たした空き家のデータベースを作って、低所得者に貸し出すというのである。確かになんとなく良さそうな提案ではあるが、本当に実現できるものだろうか。

まず、耐震基準から見ておこう。2015年4月の日経新聞によると2/3が旧耐震基準で作られているそうである。空いている住宅は市場価値が低いものが多いのだが、壊すのにもお金がかかる。更地にすると解体にお金がかかるうえ、税金が跳ね上がる。だから売るに売れないし、壊すに壊せないという人が多いのだ。

それでも、1/3は引き受け手が出るのではないかというポジティブな意見もあるだろう。確かに園通りだ。朝日新聞には「成功事例」も載っている。ひたちなか市や多治見市ではすでにこのような制度があるということである。

気になるのは国土交通省がやるのは「情報提供のインフラ作りだけ」という点である。今回もデータベースなのだが、過去の空き家対策もデータベースだ。あまり自分たちで手を汚したくないのではないかと思う。実務は市町村に丸投げするのではないだろうか。

そもそも、空き家のマッチングがうまく行かないのは情報インフラが整っていないからではない。不動産市場になにか不具合があるからだろう。問題はいくつかある。市場は低所得者が入れるような住宅を供給するような体制にはなっていない。家は終身雇用で給与が上がって行くという前提でなければ手に入れることすら難しい。人々は新築で家を買いたがり(一生に一度の買い物だから自分で設計したいのだろう)中古住宅は人気がない。さらに、地方では人口が減りつつあり、都市への一極集中が進みつつある。つまり、データベースを作っても市場の失敗をカバーすることはできないのだ。

加えて、不動産の賃貸は手間がかかる。借り手が家を傷つけたとか、敷金礼金が帰ってこないとか、売りたいのだけど出て行ってくれないとかさまざまな問題がある。記事を良く読むと、地方自治体も仲介するだけであり、細かいことは持ち主と借り手同士でやってくれということになっている。

例えば家が壊れたとすると貸し手が修繕しなければならない。余計な手間がかかる。さらに相続して複数の相続人で遺産を分けたいとなったときには売ってから分割しなければらなない。そんな時に貸し手の都合で「今すぐ出て行ってください」などと言えるだろうか。こうした問題はすべて貸し手に丸投げされることになっているのだ。

さらにご近所問題もある。駅から遠く、都市計画上共同住宅が建てられなくなってい土地は、共同住宅に転用できずに売れ残る。そこに、低所得者の方が入ってくる。すると近所の住民はどう思うだろうか。トラブルが予想される。自治会への参加はどうするのか、ゴミ置き場の掃除はどうなるのかといった些細な問題なが、住民には大きな問題なのである。

 

空き家の問題の根幹には、人口の減少、終身雇用制度の破壊、それでも変わらない都市への一極集中の問題など「日本人の生き方」に関する多くの問題が隠れている。これを放置して「データベース作りましょう」というのは、国の怠慢としかいいようがない。

朝日新聞も「データベース=福祉政策」というので一面の扱いだった。多分、朝日新聞に勤めている高給取りの人たちにとっては、空き家の状況というのは他人事なんだろうなあと思った。そういう人たちにとっては、足下の問題よりも「明日戦争になるかもしれない」というほうが切実な問題に思えるのかもしれないが、実は日本のコミュニティというのはかなり深刻に蝕まれているのである。

「天皇退位の意向」報道

NHKのニュースを見て驚いた。独自とした上で「天皇陛下が退位の意向」とやったのだ。健康に不安を抱えている今上天皇は5年頃前(ちょうど東日本大震災があったころだ)から退位の意向を家族に伝えていたとされる。だが、皇室典範に退位の規定はなく、実現のためには皇室典範が必要になるという。その後、毎日新聞が伝え、朝日新聞も伝えた。出元は「宮内庁幹部」とのことである。

ところがさらに驚いたことに、宮内庁の次長が「陛下に退位の意向はない」と報道を否定した。そのため、ネット上では様々な憶測が広がっている。多いのは「憲法改正を阻止するために、苦渋の決断をしたのだ」というものだ。陛下は常々平和の大切さを訴えており、平和憲法の改悪には反対の立場であられるだろうという予測に基づく。逆に政府の広報機関であるNHKがリークしたことから「安倍政権が陛下の追い落としを図っているのだ」という物騒な憶測も、少数派ではあるが存在する。

さらに次代への不安が考えられる。天皇を、先代がなくなって始めて継承する地位だ定義してしまうと、実際に天皇に即位したときに経験のあるアドバイザーが誰もいないということになってしまう。政治的に利用されることになりかねないし、お立場上孤立するということにもあり得る。生前譲位することで、継承の時間を取ることができるのだ。これはかなり切実な問題かもしれない。

実際に退位の意向があるとしたら、その意思は尊重されるべきだろう。老後をゆっくりと過ごしたいという気持ちは誰にでもあるものだし、一生激務の中に閉じ込めておくのは人権上問題がある。しかし、国事行為に関連する以上、即位・退位に自由意志を認めてしまうと。それを通じて政治的意思表明をしたり、逆に周りに利用されることにもなりかねない。退位の規定がないのは、政治利用を恐れたからだという話も出始めている。

この件は情報が少なく、確かなことは何も分からない。唯一確かなのは自民党・民主党の両政権が揃ってこの問題を放置してきたということだろう。安倍首相に至っては事前に相談もしてもらえなかったことになり、リエゾンとしての宮内庁の上層部のメンツは丸つぶれである。にも関わらずそうしたリークが出たいうことは、陛下側が政権を信頼しておらず、なおかつ宮内庁内に深刻な意思疎通の問題と孤立があるということになる。

報道によると、陛下は近々ご自身のお立場を説明されたいという意向だと言う。お立場上「譲位」を言わない可能性もあるということだが、もしそうなればきわめて不自然なものとなるだろう。

一方で安倍首相に近い楺井会長が安倍政権にこのニュースを上奏しなかったとは考えにくい。可能性は2つある。NHKの内部でスタッフの叛乱のような動きが起きているか、安倍政権側が天皇退位の既成事実を作りたかったというものである。もし後者であれば本物のクーデターだ。とんでもない話だが、全く否定しきれないところにもどかしさがある。

天皇陛下は憲法上政治的な意見を表明しないというだけであって、自由意志は存在する。現在の自民党の憲法改正案は「天皇中心の政治に戻すべきだ」と考える人たちの意向を受けながら、天皇への政治的権限強化は唄われていない。引き続き「お人形」として利用しようとしているだけだ。今上天皇に地位を巡る意向があるということだけでも、こうした動きに影を落とすだろう。

鳥越俊太郎氏出馬 – 本当の意味

都知事選挙の候補者選びは迷走した。自民党は分裂し、民進党などの野党4党は鳥越俊太郎氏を推薦することで落ち着いきそうだ。自民党のごたごたは、ポスト安倍政権がどのような形で崩壊するのかを示していると思うのだが、野党の共闘にはどのような意味があるのだろうか。

たまたまみたテレビでは四者(増田・小池・宇都宮・鳥越)が自分の政治的主張を展開していた。少なくとも自民党系の二者は「自分が知事になれば、このようなよい未来が保証されている」というビジョンを提示した。ところが、鳥越さんだけは「若者に楽観的な未来は提供できない」と語った。これは政治家としてはふさわしくない発言である。

政治家同士が競合するのは、政治家たちが同じ属性を持っているからだ。彼らは夢を売り、その対価として権限と地位を得るのである。彼らの目的は待遇であり、これは「外的なインセンティブ」に分類できる。

ところがそこに別の属性が紛れ込んでしまうと、議論自体が成り立たなくなる。鳥越さんは「何も提供できない」と言っているのだが、それは統計的には事実である可能性がきわめて高い。鳥越さんの発言の裏にある統計的事実は人口動態のトレンドだ。このような主張が紛れ込むと全ての「政治的議論」が無効化してしまう。その破壊力はきわめて大きい。全ての議論が「嘘くさく」聞こえてしまうのである。

鳥越さんが支持されているのは、世間が「ジャーナリスト」というものに「正義の味方幻想」を持っているからだろう。都政や安倍政権には悪が跋扈しており、それを裁いてほしいと思っているわけである。この役割を果たそうと鳥越さんが考えたとしたら、それは外向的な動機に基づいていると言えるだろう。

ところが鳥越さんにはその気はなさそうだ。政治的な主張と動機はありそうだが、それは外的なインセンティブによって動かされているわけではなく、内的に「おかしいことはおかしいのではないか」とか「真実が明らかにされなければならないのではないか」と考えているように思える。つまり、この人だけが内向的な動機付けを持っているようなのだ。

このことは標語にも表れていた。宇都宮・小池氏が「都民に希望を与える」としており、増田氏は「職員をまとめる」としていた。どちらも相手に何かを提供するというスタンスである。増田氏が「都民を見ていない」という点は重要だ。ところが鳥越氏だけは「自分がやりたいことをやる」と言っている。対象が違っているというレベルでしかない。そもそもベクトルが逆なのだ。

もっとも、有権者は鳥越さんが内向的な動機付けを持っているからといって支持を諦めることはないだろう。有権者は「見たいものを見たい」という強い動機を持っているからである。マスコミの扱いはさらにひどく、与野党対立という形に無理矢理押し込めていた。

どうやら、ご本人はこの違いに気がついていないようだ。そこで「インサイダー」「アウトサイダー」という説明を試みている。外向的な動機付けを持った人たちが「インサイダー(当事者)」であり、それを見つめている人がアウトサイダーというわけだ。

外向的な動機付けを持った人たちは取引がしやすいが、内向的な動機付けは外からコントロールできない。つまり、この擁立で一番苦労しそうなのは、民進党の人たちだろう。特に民進党はそれなりの利権構造を持っているだろうから、取引を持ちかけるはずで、それが覆された時にどのような混乱が起るかどうかがよく分からない。そもそも外向的な動機付けに動かされる人たちは内向的な人が何を考えているか理解できないのではないかと思う。

もっとも、現在の鳥越さんが内的な動機付けを持っているからといって、外的な動機付けの人にならないとは限らない。4年というのは人を変えるには十分な時間なので、4年後には「立派な政治家」になっているかもしれない。しかし、内的な動機付け(いわゆるジャーナリスト魂)を扱いかねた人たちが、なんらかのトラップをしかけて、知事を追いつめるということも考えられなくはない。

さて「鳥越さんが出てきた」意味は何なのだろうか。それは都民がそろそろ「政治的なビジョンというのは、地位を得るための取引なのだな」ということに気がついている現れなのだろう。そこで、そうした野望を持たない人が新鮮に見えるのではないだろうか。

政治を低級なバラエティ番組のような状況にしたのは誰か

自民党に質問というTwitterのハッシュタグを見ていた。内容はいわゆる「左派」と呼ばれる人たちがこれまで呟いていることとほとんど違いはなく、新しいアイディアや視点は発見できなかった。彼らは答えも分かっているようで、あえて質問する意味はなさそうなことばかりだ。例えば「憲法改正を争点にしないのはなぜか」と聞いているのだが、彼らが期待している答えは「国民に都合の悪いことを争点にしたくないからだ」というものだろう。だが、もちろん自民党がそんなことを答えるはずはない。

自民党・公明党政権は民意の合意がないままで諸政策を進めているので、積み残された民意(それは全国民の総意ではないのだろうが)は解消点のないまま渦巻いている。この鬱積した世論が噴出した形だ。

これを見ていて不思議だったのは、なぜ自民党が予め仕込みの質問をしなかったのかということだ。たいてい、最初の質問によって雰囲気が決まるわけだから、最初にアベノミクスを礼賛する質問をしていれば、いわゆる「アンチ」は寄り付かなかったはずである。それが山本一太議員の失態によるものか、Twitter社のキャンペーン・コンサルタントの不始末なのかは分からない。

いわゆるネトウヨの人たちは「くだらない」とは呟くものの、リスクを取ってその空気をはねのけようとまではしなかった。一番割りを食ったのは、本当に質問のあった人たちだろう。両親の介護サービスが削られているがなんとかしてほしいという質問が見られたが、このような切実な声はごく少数だ。政治が近いところにありそうで意外と誰も政治の恩恵や害を実感していないことが分かる。実際に政治の影響を受けている人たちは、それどころではないのだろうなとも思った。

いわゆる「ネット工作員」などという人たちは存在しないか無力な気もする。もしネット工作員がいるのなら、安倍政権礼賛のコメントで埋まっていたはずだ。ネット工作員の人たちが与えられているスクリプトが今回はうまく機能しなかったという可能性もある。または、空気を作って他人を叩くのは楽しいが、いったん「アンチ」の雰囲気ができてしまったことで工作員たちが萎縮してしまったのかもしれない。

ネット工作の役割は炎上を抑えることにある。左側のコメントに様々な手法で立ち向かい「火消し」してしまうのだ。いわゆる破壊工作である。普段は非常に有効な戦略だ。この破壊活動がないと舛添人民裁判のようなことが簡単に起ってしまうだろう。だが、彼らは安倍政権の政策について理解しているわけではないので、即興的な対応ができないのだろう。ましてや「質問の形を取って政権を礼賛する」などという高等なことはできないようだ。空気に反してまで立ち向かおうという姿勢もなさそうなので、いったん空気が変われば、簡単に駆逐されてしまうかもしれない。

このやり取りを見ていて、日本人は政治に興味がないのだろうなと思った。関心の対象になっているのは政治ではなく「部族の一員になって他部族を叩くこと」である。つまり、政治は一種の(それもかなり下等な類いの)エンターティンメントと化しているのだ。もっとも、エンターティンメントですらないのかもしれない。実情はいじめに近い。

この状況は自民党が作り出した物なので(多分、ネット工作などということを考えだしたのは自民党だ)同情するに値しない。しかしソーシャルメディアは「課題を発見し」「非顧客を発見する」のに向いたメディアだと考えると、宝の山から得られるはずの潜在的利益を毀損していることになる。生活に行き詰まっている人や、将来に不安を持っている人は多いだろうし、日本を成長させるアイディアを持っている人もいるはずなのだが、そういう人たちは不毛な「政治」議論から距離を置くことになるのだろう。

新しい有権者としての奥田愛基

先日のエントリーでは、新しい顕示的消費という切り口から新しい消費者を眺めた。その延長線上にあったのは生産手段を持った消費者「プロシューマー」とその表現形のインフルエンサーだ。このような動きは様々なところで見られる。当然、政治も例外ではない。

去年の夏頃、学生たちがSEALDsという団体を立ち上げた。有権者の立場から政治運動に影響を与えようという行動だった。TwitterなどのSNSを使った運動と気軽に参加できるイベントが特徴だった。イベント消費は現代の顕示的消費の特徴の一つであり、奥田愛基氏はインフルエンサーと言える。

政治の世界は一般企業から大きく出遅れている。一般企業が消費者を囲い込もうとしていたのは1990年代の終わりから2000年代頃にかけてだと思われるが、政党は未だに「囲い込み」を行おうとしている。つまり、政党の支持者を作ろうとしているわけだ。

ところが有権者には囲い込まれようと言う気持ちはない。代わりに自分の持っている一票をどのように「消費するのが賢いのか」という選択を行おうとしているわけだ。当然、奥田氏側も「野党がしっかりしていればそもそも運動をする必要はなかった」としている。特に一つの政党に囲い込まれたわけではなさそうである。

ところが、旧来型の「囲い込み」にこだわっているとこの絵が見えにくくなる。一つの政策を指示することが、当然別の政党を敵視することだと考えてしまう訳である。マスコミは未だに「支持政党」を尋ねる設問を出し続け、有権者は「支持政党がありません」と答え続けている。そもそも、この絵が間違っているということに気がつくのはいつのことになるのだろうか。

もう一つ興味深いのが内発的動機への嫌悪感だ。奥田氏の運動に反発する人は「こんなに熱心に運動するということは、当然誰かからお金をもらっているのだろう」と考える。つまり、外的要因(お金や地位のこと)によってのみ人は動くという確固たる信念があるようだ。にも関わらず自分の持っている理想像を語らい、楽しげに集まる人たちというものが疎ましく思えるのだろう。

インスタグラムでリア充ぶりを発揮する人に憎悪の言葉をぶつければ「単に寂しい人」に見えるのだが、政治の世界では攻撃が許されている。中にはそれが「賢い」と誤認する人も多い。だが、よくよく考えれば、それは「信念がなくやりたいことも見つからないだけの」単なる寂しい人である。

政党マーケティングの世界は、今やメールマーケティングのような状態にある。一日に何通ものメールが送られるが、直にゴミ箱行きだ。人々が動くのは「お得情報」だけである。外的要因によってしか動かないことになる。ないしは「恐怖」だ。今動かないと大変なことになりますよというわけだが、たいていの場合それは詐欺メールだろう。だが、メールマーケティングが外的要因に依存するのは当たり前で、メールが受動的な手段だからだろう。ソーシャルネットワーキングは双方向性であり「内的動機付け」が重要になる。その人の自己認識とかどう見られたいかということが行動を作る訳だ。

企業がソーシャルネットワーキングに対応するまでには長い時間がかかった。マーケターが「ブランド・ロイヤリティ(ブランドへの忠誠)の醸成」にこだわり続けたからだ。今でもブランドは有効なのだがそれはラベルとして機能しているのであって、忠誠の対象ではない。

例えばAppleには忠誠心を持った顧客が多かったが、パソコンとしてはあまり広がらなかった。現在のAppleユーザーはiPhoneがカッコイイとか見栄えが良いと思うだろうが、決してAppleに忠誠心を持っている訳ではない。つまり、忠誠心を醸成すると広がりが失われてしまうのである。

このことから、野党側も奥田氏のような存在を有効に活用できたとも思えない。プロシューマ的人たちは「企業から独立している」ことが信用の源になっているのだから「付かず離れず」の距離を保っていた方が利得は大きかったはずだ。また、多くのインフルエンサーを集めるべきで、それを組織化してもあまり意味がないのではないかと思う。

ご近所のシルバーデモクラシー

またぎきなので正確なところは分からない。

仲がよさそうなご近所さんたちだが、いろいろと問題があるらしい。ご近所にはやたらに決まりを作りたがるひとたちがいる。「困っている人がいるから町内会レベルで互助組織を作り住民の状況を調査すべきだ」と言い出す人がいるのだそうだ。で、実際に困っている人のリストを作ろうとすると「プライバシーの問題があり、そんなリストを公開するのは危険だ」と言い出す人が出てくるようである。

妥協点はない。白か黒かである。

決まり事を作りたい人たちはそれがよいことだと信じているので、しつこくその議題を出し続けて決して折れることはない。そこで定期的な近所のお話合いは決して問題解決ができないまま毎度紛糾するのだそうだ。

全体レベルで意見がまとまるわけはないので、やたらと私的な組織を作りたがるという。そして「自分たちは世の中の役に立っているのだから、補助金をよこせ」という主張も忘れない。直接聞いたことがあるのは「子供の福祉に役立つ場を作るから、市が空き家を提供して、補助金も出せ」という話だ。お決まりなのは「私が役員になる」ということである。結局「私らしく輝ける場所」を探しており、他人を巻き込みたいのだ。「子供」はそのための道具になっているのだが、言っている人は全く気がついていない。

こうした人たちに共通しているのは「自分の価値観はよい価値観なのだから、相手も従うべきだ」という強烈な思い込みである。若者は消費者としての自分に閉じこもるのだが、高齢者は自分の価値観を回りに押し付けようとする。ただ、その価値観がやたらと細かいのだ。例えば「自転車を塀の外に括り付けておくのは好ましくない」というようなたぐいの話である。

こうした視点から自民党の憲法案を見ると、やたらに細かな価値観の押しつけあいが多いことが分かる。これは高齢者の自己顕示なのだろうと考えられる。多分自民党の人たちにすれば憲法とは「みんなで守るべき村の決まり」程度の認識なのではないだろうか。「私たちの村がいかに特別で美しいか」で始まり「みんなで仲良く暮らすべきだ」という主張が入る。そしてその中心で輝いているのは「私たち自民党」なのだろう。悪気はないのかもしれないが、出来上がった主張はきわめて危険で、これが憲法と言えるかどうかさえ疑問だ。

文部科学省は学校の運営を手助けするために地域の力を活用したい意向だ。なんとなく良さそうなのだが、地域の人たちがただで手伝ってくれるとは思えない。学校運営に入り込んだ高齢者たちは「私らしさ」を発揮しはじめるだろう。自分たちの価値観で相手を染めようとするのである。多分、先生の気苦労は増えるだろう。

こうした住民自治組織はまだら模様になっている。一角に若い人たち向けの住宅があるが、新しくできたのでそこだけ組織には入っていない。高齢者たちは虎視眈々と「若い人にも入ってほしい」と狙っているのだが、決して新しい価値観を受け入れるというわけではなさそうだ。「私色に染上げてやろう」と考えているのではないかと思われる。

「若者は選挙に行かない」と考えている人も多いようだが、決して若い人たちの意見を聞いて政治に反映させようなどとは思っていないだろう。無垢なうちに自分の色に染上げて、熱心な観客にしてやろうと考えているのではないだろうか。

専業主婦を動員する教育の強靭化計画

政府がこのほど教育の強靭化計画をまとめた。主に「ゆとりとの決別」が話題になったやつだ。若い世代からは「ゆとりは間違いだったのか」という怨嗟の声が挙っている。

だが、実際には間違いを認めておらず「知識の量を落とさずに、考えさせる教育を実施する」となっている。両方とも否定できなかったわけだ。「何が問題なのか」分からないが成果は挙っていないので新しい方式を採用するということになっている。

これは役所がよくやる「両方を取る」というやつだ。財政再建も経済成長(政府のいう経済成長とは要するにバラマキを意味する)を両方やるみたいな感じで、どちらも中途半端に終わることになりそうな内容である。

どちらもやるわけだから当然負担は教員にかかる。ゆとり教育のときも「マニュアルが欲しい」みたいなことを言っていた先生たちは、今度は「生徒が積極的に学習するための方法論」についてのマニュアルを要求するのだろう。

〔学校の指導体制の充実〕

教員が総合的な指導を担う日本の学校の特徴を生かしつつ、日本のこれからの時代を支える創造力をはぐくむ教育へと転換するとともに、複雑化・困難化する課題に対応できる「次世代の学校」を構築し、教員が今まで以上に、一人一人の子供に向き合う時間を確保し、丁寧に関わりながら、質の高い授業や個に応じた学習指導を実現できるようにするべく、教職員定数の戦略的な充実を通じ、学校の指導体制を充実させます。

この方針に従えば、先生は雑務をこなす時間がなくなる。そこで期待されているのが「周囲のサポート」である。こんな項目がある。いっけん良さそうな方針だ。

〔「地域とともにある学校」への転換〕

地域と学校の連携・協働の下、幅広い地域住民等(多様な専門人材、高齢者、若者、PTA・青少年団体、企業・NPO等)が参画し、地域全体で学び合い、未来を担う子供たちの成長を支え合う地域をつくる活動(地域学校協働活動)とコミュニティ・スクールを全国的に推進し、高齢者、若者等も社会的に包摂され、活躍できる場をつくるとともに、安心して子育てできる環境を整備することにより、次世代の地域創生の基盤をつくります。

例えばPTAが入っている。教育予算は増やせないが、現場への要求は強まる。だから、ボランティア人材で補おうというわけだろう。最近では「PTAは強制加入ではない」という認識が広まりつつある。仕事をしている人が増えたわけだからPTAには参加できない。しかし「子供を人質に取られた」ような状態で加入せざるを得ないという不健康な状態が続いている。結果として、PTAからの離反が起きているわけだ。

表向きはどんな職業の人も教育サポートに参加すべきなのだろうが、実際には専業主婦にストレスがかかるのは目に見えている。「私は働いているし、あなたたちはどうせ暇なんでしょう」と上から目線で断ってくる人たちに対して「結局、ただ働きさせられるのは私たち」と不満を募らせる主婦も増えるかもしれない。

文部科学省の方針は敗戦直前の日本軍に似ている。何か方針は間違っていたようだがそれは認められない。過去の責任問題になりかねないからだ。ということで新しい方針を作った。しかし兵糧は不足しているので、国民を動員する。与える武器は竹槍のみである。

とはいえ表向きには反対しにくい。「子供の教育に参加しないのか、お前は非国民だ」などと言われかねない。日本政府は全体として労働者の非正規化を促進した。その結果両親とも子育てに時間が取れなくなった。しかし、今度は教育にもお金を裂けないから学校にも協力しろと言っているのである。

政府にとって専業主婦とは介護も子育ても家事も無料でやってくれる便利な存在なのだろう。ある意味使い捨てられる外国人実習生に似ている。こういう政府が「公共」を教えたいと言っているのだ。公共は大切な概念だが育まれるべきもので強制されるものではない。政府が考えているのは公共への自主的な協力ではなく、経済的な動員なのではないかと思う。