安倍政権と相対敬語社会

外国人がある質問を投稿していた。「お久しぶり」とお客さんに挨拶するのは失礼なのかというのだ。言われてみれば、ご無沙汰していますというのが正しい気がする。が、お久しぶりとご無沙汰していますとは何が違うのか、説明するのは難しそうだ。

お久しぶりは単に長い間会っていないということを意味する。だから関係は対等である。だが、ご無沙汰していますには長い間連絡しなくてすみませんという意味合いが含まれる。つまり、本来はこちらに連絡する義務があると言っていることになり、対等でないという気持ちを表現することができる、というのが一応の説明になるだろう。

が、よく考えてみると、関係が対等でないということは、相手に決定権があることになる。これは相手に運命を委ねていることになり、西洋的には危険な考え方だ。だから、西洋世界ではビジネスは契約関係なので、相手との間に上下をつけない。お客さんに会社の命運を握られるなどということはあってはならないからだ。

では日本人がへりくだることによって、運命を相手に一方的に委ねているのだろうか。そうではないだろう。つまり、いっけん上下関係に見える人間関係も実は単純な命令系統ではないということがわかる。

特に意思決定は「稟議書方式」と言って、下の人たちが提案したことを上の人たちが承認することになっている。逆に上の人たちが一方的にトップダウンで物事を決めることは嫌われるし「下の人たちがついてこない」ということになるだろう。数の上では下のほうが多いし、上の人たちは自分たちでは何もできないからだ。

つまり、表面上の上下関係の裏には相互のもたれ合いがあり、それを「甘え」と言っている。「甘えている」というとあまりよく聞こえないが、相互にもたれ合うことによって、不要な争いを避けつつ、アイディアを流通させているのだと考えることもできる。甘えは血液のようにアイディアを組織内に循環させるのである。

日本の敬語は相対敬語と言われる。社長のほうが平社員より偉いのだが、お客さんに対して社長の説明をするのに謙譲表現を使ったりする。これは韓国のような絶対敬語社会と違っている。韓国は儒教社会なので「誰が誰に従うか」ということを敬語を通じて表現する。これは異民族と接していたことと中華社会という階層構造にあったことに関係しているのではないかと考えることもできる。

いずれにせよ、西洋の人が日本を封建的で従属的な社会だと感じるのは、この絶対敬語社会と相対敬語社会の区別がつかないからだろう。甘え合いの構造は外からは見えないから、理解するのに苦労するわけである。

さて、ここまで敬語と社会構造についてくどくどと書いてきたのだが、最近の安倍政権を見ていると国家の中枢にいる60歳代の人たちが必ずしもこの相対敬語社会を理解していないのではないかと思えることがある。安倍政権は序列によって成り立っているのだが、次のような構造があり、敵味方を識別する中華思想に似ている。

  • トランプ大統領やプーチン大統領のように安倍首相が憧れていて近づきたい人たち(中華)
  • 加計学園の理事長、安倍昭恵夫人のような身内(小中華)
  • 萩生田議員や稲田防衛大臣のような安倍首相の下僕に当たる人たち及び菅官房長官のような下僕頭のような人たち(両班)
  • 文部科学省の官僚のように「外様」に当たる人たち(奴婢)
  • 蓮舫民進党代表や福島瑞穂社民党副党首のような非差別層の人たちや野党のような人たち(敵)

絶対封建的な社会では従から主への意思伝達はありえないし、ましてや敵や「生意気な女」たちが安倍首相に意見するということはありえない。意見の交流はなく、いずれ視野狭窄が起こる。

このように、安倍首相の頭の中には自分の価値観に基づいた序列のようなものがあり、周りにいる人にその序列を押し付けている。これが、この人に特有のものなのか、年代によるものなのかはわからない。問題はこうした単純化された序列関係を「日本社会に特有なものだ」と錯誤する人が若年層を中心に増えてしまうのではないかということだ。

いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの頭の中には、アメリカという中華に親しい自民党が偉くその次に自分たちが偉く、さらに女性や韓国人・中国人は自分たちに従属するのだという絶対的な序列の中に生きてるように見える。野党は従って「売国勢力だ」ということになる。

しかし、考えてみると、日本人は主に企業で相対的敬語社会を学ぶ。正規と非正規社員の間にコミュニケーションの断絶があり、簡単に正社員になれないという状態が続くと「相互のもたれ合い」ということが学べなくなってしまう可能性がある。そもそも、電話で知らない人と話すのが苦痛で会社を辞めてしまうという人が一定数存在するというくらいなので、友達、俺よりえらい人、俺のほうがえらい人、知らないからどうしていいかわからない人くらいの違いしかわからなくなっている可能性がある。

安倍首相が相対敬語社会を学べなかったことは、政治に深刻な影響を与えようとしているように思えるが、なぜ彼が相対敬語社会を学べなかったのかという理由はよくわからない。首相に親しい人たちが「天賦人権論を日本人から奪い取れ」と主張するのをみると、こうした人たちは少なからずいるようだ。

だが、実はこれは日本の伝統的な姿ではない。

文部科学省は下僕ではないので、一方的に従わせていると「実は納得していなかった」とあと出して反旗を翻されてしまう可能性がある。官僚社会のみならず、日本の社会はもたれ合いによる契約社会なので、それが切れてしまうと「実は納得していなかった」と言われる可能性があるのだが、日本人は「実は納得していなかった」ということに特に違和感を感じず、支持してしまうのである。これは日本人が絶対敬語的な序列の社会に実は強い忌避感情と警戒感を持っているからだと考えられる。

いずれにせよ、日本人は対等な個人が民主的に自分の意見を相手に説明して理解してもらうという社会には住んでいないし、かといって一方的に従属することに耐え忍ぶほど従順でもない。が、安倍首相やネトウヨを観察してわかるように相対的敬語概念は天賦的に身についているわけではなく、社会的に(多分非明示的なルートで)学習されるものなのだろう。

安倍首相の釈明記者会見は、首相が余り物を言わない有権者の相対敬語社会性をあまり理解していないのだなということをうかがわせるのだが「強いリーダーシップ」をあまり強調しなくなった。これは、理論的には理解していないが、日本では強いリーダーは嫌われる可能性があるということをわかっている人が背後にいることをうかがわせる。おそらく、態度が変わればこのまま支持率が下落しつづけるということはないのではないだろうか。

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AKB総選挙と埋没してゆく個人

少しだけAKB総選挙を見てちょっとした戦慄を覚えた。スピーチが支離滅裂だったからだ。一人の少女は名古屋で家が買えるくらいの売上があったが、ファンの人は家を買えないだろうから、私があなたたちの家になると言っていた。多分搾取しているということには気がついているのだろうが、個人の競争のためにはやむをえないので折り合いをつけようとして失敗したのだろう。言語的なストックの少なさがそれを「なんか言葉にできないけど不安」という状態にしているのではないかと思った。

意もう一人はさらに混乱していた。いつもはバックダンサーとして支える側なので個人の意見は言えないのだが、総選挙は一人ひとりの競争なので……と言いかけて迷走していた。本来は自己実現のために仕事をしたいのだが、個人を埋没させて仕事をするということに折り合いがついていないのだろう。これは自己実現に罪悪感を抱えるのではないかと感じた。

彼女たちの中には価値体系が作られておらず、与えたられたものを正当化して生きてゆかなければならない。その中で成果主義的な競争にさらされて、相当なストレスを感じているに違いないと思ったからだ。いわば組織として病みかけている状態になっているのだろうということを感じさせる。

ストレスを解消するためには成果を得るか、あるいは言語化した上でその意味を内在化させてゆかなければならない。言語化されないもやもやは不安として結実し個人の成長に影を落とすことになる。不安を内在化して消化するという機能を獲得することは極めて重要だし、それが与えられるのは当然の権利だ。だが、学校教育の中で「自分なりの価値体系を作ってそれを他人に説明する」という能力を発達させる機会を奪われているのだろう。

個人の成長と組織の存続の間にある緊張関係が大きな問題にならなかったのは、それなりに再配分がうまくいっていたからだろう。しかし、組織がすべての人に分配できなくなると、自己責任で生き残り、生き残ったあとはシステムを支えろと言われる。成長を搾取するか他人から搾取して生き残る仕組みになっているわけだ。これに折り合いをつけなければ生きて行けないという意味では、現代社会の極めて巧妙な写し鏡になっている。秋元康という人は本当に天才なのかもしれない。

三連覇した指原莉乃や上位7名のようになってしまうと、こうした競争に依存しなくても自分の名前が売る方法がわかるので、こうした矛盾した競争から離脱することができる。自分の価値観を追求したいひとは卒業すればいいし、指原のようにゴールが全く異なっている人(来年は総選挙のMCをやりたいということなので、雛壇からMCに上がるという中居正広のようなキャリアを狙っているのではないだろうか)は両立も可能になるだろう。

いずれにせよ指原や高橋みなみのような初期のメンバーのスピーチがそれほど支離滅裂ではなかったのは、自分たちでAKBを作ってきた体験があったからではないかと考えられる。自分たちでシステムを作った体験があると、学校で教わらなくても欲求を言語化する能力が身につくのだろうし、逆にそうでないメンバーは離脱してゆくということなのかもしれない。

さてここまでAKBについて書いたので、AKB批判になっていると感じる人もいるのではないかと思う。だが、実際にはこうした現象はいろいろなところで見られる。多分、国会でも同じようなことが起きている。

福島みずほ参議院議員が「共謀罪で逮捕するぞ」と恫喝されたという話があり、それはガセであるという話が後で流れてきた。だが、これはどうやら事実である可能性が高いらしい。本人がこう説明している。


この話が恐ろしいのは、この野次を飛ばした国会議員が自分たちの役割を完全に見失っているからだ。国会というのは、法律を作るところだが、同時に行政をチェックする機能を持っている。いわばハンドルとブレーキを持っている。だが野次を飛ばした議員は権力の側に立って野党議員を抑圧できると錯誤していることになる。こういう人たちが作る法律にチェック機能がないのは当たり前であり、いわば日本はブレーキが壊れた車のような状態になっていることがわかる。

確かに自民党にいる間は全能感を感じられるかもしれないのだが、下野してしまえば今度は押さえつけられることになる。がもっと恐ろしいのは権力の側にいて「相手を弾圧している間は仲間として認めてやるが、さもなければお前も弾圧されるのだぞ」と恫喝されるという可能性だ。

日本社会にはいい面もたくさんあるが、集団の空気が一人ひとりを抑圧するという場面がしばしば見られる。意思決定の仕組みが複雑で表からはわかりにくいからだろう。つまり「政敵を共謀罪で弾圧できる」というアイディアが生まれた瞬間に、一人歩きして誰も止められなくなる可能性があるのだ。

どうやら今の国会には根拠のない全能感が蔓延していて、選挙区を構築せず議員になったような人たちは選挙民という接点がないこともあって、自分の役割が何なのかということすらわからなくなっているようだ。いわばブレーキがない車に自らを閉じ込めていることになる。

と同時に、自分たちの役割を言語化して内面的に認識できない人が、ハンドル操作ができるとは思えない。結局、組織というのは一人ひとりの判断の積み重ねなので、こういう人たちが動かしている車は、ブレーキもハンドルもない可能性が高い。

AKBメンバーが自分たちの欲求を言語化できなくても、それは一人ひとりの成長とグループの存続という問題が生じるに過ぎないのだが、国会の場合は多くの国民を巻き込む可能性が極めて高い。が、どちらも根っこには「自分たちの存在を言語化して内面に定着させた上で、人にも説明する」という能力の欠如があるように思える。

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これからも民主主義社会に住みたい人のセールステクニック

前回「安倍政権を続けさせないためには、デモに参加するのではなく、自民党に働きかけよう」と書いた。一応背景にある考えについておさらいしておきたい。ここに出てくるのはマーケティングのテクニックというよりはセールステクニックだ。古いものだと第二次世界大戦前くらいのものすら含まれている。

人はバランスを取る

まずNHKの朝イチで見た話から始めたい。誰かが怒っているときにそれに輪をかけて怒ってみせる。すると、怒っていた人はバランスをとるために「いやそれほどでもないんじゃないか」と考えるようになるという。例えばクレームの電話を入れてきた人に「では訴えるか」などというと「いや、それほどでもない」と態度を変えるという具合だ。人は無意識のうちに対立が激化しないようにバランスをとってしまうのだ。「共感して同調する」ことが基調にあり、その上で敢えて強めの提案をするのである。

つまり、民進党の蓮舫代表のように首に青筋を立てて怒ってみせると「ああいう醜い顔にはなりたくない」と考えてかえって冷静になってしまう。山尾しおり議員も同じである。民進党のやり方は、実は支持者(あるいは安倍政権には反発するが選挙にはいかないような人たち)を満足させる効果はあるかもしれないが、真面目に心配している人には効果がなく、却って「なだめて」しまっている可能性があるということになる。

ではどうすればいいかということになるわけだが、上手だったのが小池百合子東京都知事だった。「私には支持基盤がないから緑色のものをもって集まれ」と言っていた。石原慎太郎氏が「厚化粧のババア」などと言った時も、石原慎太郎氏を罵しらず「私には痣がありコンプレックスなのだが」とアピールした。つまり、困っていると応援したくなるという特性がある。ヒーロー映画でただヒーローが悪をぶちのめすだけでは観客は感情移入できないし、かといって勝てないが口だけは達者なヒーロー映画など誰も見ないということになる。

声の変化も重要

声の大きさも重要なようだ。普段から声を荒らげていると「この人はこういう人なんだ」と思われてしまう。一方で、普段は冷静で温厚な人が、ここぞというときに声のトーンが早くなったりすると「ああ、怒っているのだ」と思える。そのまま終わってもだめで、最終的には落ち着いた声のトーンに戻さなければならない。つまり、人は変化に反応していることになる。

かといっていつも冷静というのもよくない。「あの人は中立を気取っているだけだ」などと思われかねない。時々感情を込めてみるのも重要である。

つまり、毎週デモをやっていても「ああ、またやっているな」ということになるわけだが、普段は温厚で建設的な人たちが、抗議をするのが、実は非常に効果的なのだと言える。デモをやってもかまわないのだが、普段は違う顔があることを見せなければならないということではないだろうか。

つまり、Twitterで政府批判ばかりしている学者は、普段の学会での活動を報告したり、実際に問題を解決している様子を見せるべきだということになる。それも無理なら3時のおやつを投稿しても構わないのではないかとすら思える。「プロ市民」ではなく、普通の人が危機感を持っているというのは、たとえそれが<演出>であっても重要だ。

誰が顧客なのか

自民党だけでなく、どの企業にも未顧客と既顧客と非顧客がいる。本来、マーケティングでは「未だ顧客になっていない非顧客」の獲得を目指さなければならないのだが、実際に新しい顧客を獲得できるなどということを信じている人は少ないのではないかと思う。

非顧客は顧客にならない人をさすのだが、保守的な人たちは政府に抗議する人たちは「どうせ話を聞いてくれない」といって最初から排除されているものと思われる。つまり、自民党や公明党を中から変えてくれる人が一番重要なのだということになる。

反安倍運動は「未顧客の顧客化」を目指してきた。つまり「政治に目覚めていない人」の関心を引こうとしてきたわけだ。もちろん、他人に興味を持たせるのが大切な訳だが、これはかなり難易度が高い。企業もあの手この手で未顧客の興味を引こうとするわけだが、それにはかなりのお金がかかっている。現在の消費者はこれに慣れてしまっていて、面白いCMで引きつけてもらわないと興味すら持たないし、情報を理解しようとすらしないという状況が生まれている。政治活動はこうしたレッドオーシャンで戦っていることになる。

緊急時には既顧客だけに絞らないと取り返しがつかないことになる。デモをやっても、政治に興味がない人にはノイズにしか聞こえないのだから、インサイダーになって(あるいはその振りをして)働きかけるのが一番よいのではないかということになる。未顧客を獲得できない人にとっては既存顧客の離反が一番怖いのである。

善意に働きかける

抗議ばかりしている人の声が届きにくいということは最初に説明した。と同時に反対されればされると人はそれに抵抗したくなるものだ。これは日本人がそうだというわけではなく、もっと普遍的なものだろう。戦前に書かれた「人を動かす 文庫版」という本には、どんなにがんばってもものが売れなかった人が、善意に訴えかけると人を動かすことができたという話がいくつか出てくる。人には「良い人に思われたい」という欲求があるからだそうだ。故に「自民党は終わった」とか「公明党は地獄に堕ちた」などと言っても彼らを動かすことはできないが、政治に熱意があるからこそ勇気を持って状況を変えるべきだと訴えた方が良いのだ。

デモには陶酔感があるのだが……

安倍政権はかなり危険な状態にあり、このままでは民主主義がめちゃくちゃになってしまう可能性が高い訳だが、デモをやってもあまり効果はないだろう。にも関わらず「安倍政権を許さない」というような看板を掲げてデモをやりたがるのは、かりそめの陶酔感のためだ。ここは何を成し遂げようとしているのかということをもう一度考えた上で戦略を練り直すべきではないかと思う。このような状態が続けば、デモもできなくなってしまうかもしれないのだから。

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マスコミは政治を二度殺す

「自公」ではなく「維公」で大阪が壊れる?〈AERA〉という記事を読んだ。大阪が維新によってめちゃくちゃにされ、それを公明党が支えているということが書かれている。これを読んでマスコミの罪について考えた。

大阪市と千葉市には共通点がある。自民党を中心にした翼賛政治を放置したおかげで財政的にかなり苦しい状況になった。違いはいくつかある。大阪市は過去に発展していた歴史があるので、収奪できる資産がある。一方、千葉市は東京の近郊として発展した歴史があり、農地を住宅地に変更する以外の財産を持っていなかった。

もう一つの違いがマスコミだ。大阪には在阪のマスコミがあるのだが、千葉にはそれほど顕著なマスコミがない。千葉日報と千葉テレビがあるのだが、大した存在感はない。千葉市民も千葉の動向にはたいして興味がないので、地元の政治ニュースというものが存在しないのだ。

大阪でマスコミが果たした役割は大きいはずだ。地元がうまくいっていないというニュースが広がり、それがマスコミによって拡大する。するとあまり政治に興味がなかった人が受動的に「大阪がうまくいっていない」というニュースを受け取る。しかし、中には判断能力がない人もいる。そこでインスタントソリューションに飛びつくことになる。例えば「民営化したら全てがよくなる」とか「大阪市職員が怠けているせいで大阪は発展しない」とか「非効率的な二重行政が問題だ」といった具合である。大抵は誰かを指差して非難するのだ。

一方、千葉にはマスコミがほとんどないので、こうした増幅は起こらなかった。結局市政を改善するためにやったことはとても細かい。例えばゴミをできるだけ減らすとか、今まで業者に委託していた事業を住民に委託するといった類のことである。つまり、うまくいっていない原因ではなく、何をやるのかに注目したのが千葉市と言える。こうした地味な取り組みはマスコミの注目を集めない。最近かろうじてニュースになったことといえば、中心部からデパートが消えたことと、ドローンを使った配送特区ができたことくらいだ。もう少ししたら駅ビルができたことがニュースになるだろう。

もちろん、全てが完璧によくなったわけではないのだが、職員の意識は少しづつ変わってきたと思う。財政はいくらかマシになり、住民の中には協力する人もでてきている。もちろん、興味がない人がほとんどなので、直近の市長選挙の投票率はあまり高くなかった。低い投票率があまり問題にならないのは(意地悪な味方かもしれないが)それほど潤沢な利権がないので「独り占め」のインセンティブが高くならないからだろう。つまり、今後市が財産を蓄積すると、それを利権化したい人たちがでてくるかもしれない。その時には注目度の低さは裏目にでるかもしれない。

一方、インスタントソリューションに飛びついた人たちは数年経って何も改善しないと文句を言い始める。しかし、それでも変わらないと「やっぱりダメだったんだ」ということになり、やがて関心を失ってしまうだろう。現在、国がそのような状態にあると言える。民主党政権のインスタントソリューションに飛びついた人たちがやがて離反し、安倍政権が放置されるようになった。今はめちゃくちゃな状態だが「もう何をやってもダメ」という気持ちが強いのではないだろうか。大阪市でも民営化が進んだおかげでかなりひどいことが起きているようである。それでも、自民党はダメだし、民進党は全く当てにならないと市民が考え続ければ、さほど政権担当能力のない維新が政権に居座り続けることになるかもしれず、それは衰退を一層加速させるだろう。

このように考えると、政治にはいろいろな関わり方があることがわかる。

  1. 政治に興味があり、政権を支える人たち。彼らはほっておいても政権を支持してくれるので特に何もする必要はない。これでうまくいっているのなら、特にいうことはないし、参加して社会をよくしてくれる分には特に問題もない。
  2. 政治に興味があり、政権に反発する人たち。何をやっても反発するだけなので、こちらも実はあまり気にする必要なはない。実際には社会を作るのに参加したりはしないからだ。
  3. 政治に興味はなかったが、積極的に参加する意欲を持った人たち。参加することによって、協力の面白さを知ることができるかもしれない。
  4. 政治に興味はなかったし、積極的に参加する意欲もないのだが、マスコミが提供するインスタントソリューションに飛びつき、効果がでないと離反してしまう人たち。大騒ぎして、反発する人たちを叩いたりする。社会参加には興味がなく、誰かを叩きたいだけなのだろう。

マスコミは第4カテゴリーの人たちを刺激し、間違った政策をチョイスさせた挙句、彼らを離反させることで、うまく行かない政権を放置することになるのではないかと考えられる。一方ソーシャルメディアは使いようによっては第3カテゴリーの人を刺激することができる。個人でも情報発信ができるので、市長なり政治家が一人で支持組織を作ることも可能だからである。

つまり、マスコミはまず極端なインスタントソリューションをあおることによって政治を殺し、次に失望によってもう一度殺す。そう考えると、あるいは政治報道から手を引くべきなのかもしれない。

忖度という言葉は何をごまかしているのか

忖度という言葉が乱用されている。もともとは2017年3月に籠池理事長が会見で使ったのが流行の発端になっているようだが、2017年3月の初めに福山哲郎議員が安倍首相に「忖度があったのではないか」と聞いたのが一人歩きのきっかけのようだ。

が、この乱用はあまり好ましくないのではないかと思う。「勝手に意思を読み取った方が悪い」という含みがあるからだ。忖度せざるをえないのは「指示が曖昧」だからである。この責任を読み手にだけ負わせるのはあまりにも無責任だ。

安倍首相は様々な忖度を部下にさせていたことがわかっている。例えば加計学園の問題では自分と加計学園の関係をほのめかし「部下になんとかしろ」と言ったようだ。首相が直接的に指示すれば問題になることはわかっていたことをうかがわせる。山口敬之氏の問題では警察に「なんとか助けてやれ」というサインを出していたのだろう。これも首相が直接警察に介入したとなれば大騒ぎになる。

忖度を生む背景には曖昧な指示があり、曖昧な指示の背景には非合法な(あるいは不適切な)意図があることがわかる。忖度は指示の不全なので、指示について分析すれば、どんな場合に忖度が生じる得るかがわかる。指示には意図・方法・リソースが含まれる。

第一は冒頭で見たようにトップが責任を逃れて部下に「泥をかぶらせる」ための忖度である。部下も最後は上司がなんとか責任逃れをしてくれると思うので、結果的に集団思考の状態に陥るだろう。

次に上司が何をしていいかわからず、解決策を部下に求めることもある。どうにかして売り上げを伸ばすべきなのだがどうしていいかわからないので「とにかく頑張れ」と言ってしまうような場合が考えられる。とにかく頑張れと言われた人は、何か不正な手段に訴えたり、とにかく長時間働いてなんとかしようとするかもしれない。

最後に、指示は与えたがリソースが明らかに足りないことがある。例えば、人手が足りないのに「なんとかしろ」というと、部下は仕事を省いたり、他人に押し付けたりするかもしれない。必要なリソースがないのに成果を要求するとどこかで無理が生じる。

指示そのものを分析すると「どんなやり取りがあったのか」という後追い出来ない問題を棚上げにすることができる。どんなリソースが足りなかったのか、結果的に市場の効率がどう歪められたのかということは外から精査できるからだ。つまり、情報が隠蔽されている安倍政権を追及する手順は、例えば下記のようになるはずなのだ。

  1. そもそもあるべき姿とはどのようなものだったのか。
  2. そのあるべき姿が曖昧な指示によってどう歪められたのか。
  3. 歪められた原因は何にあるのか
    1. 目標達成までの道筋は明確に指示されていたか。あるいは途中で検証可能だったか。
    2. 目標を達成するためのリソースは十分に与えられていたのか。
    3. 法的な責任逃れなど、そもそもの指示の意図に問題はなかったか。あったとしたら、それは何が問題だったのか。
  4. 原因が特定できたらどうやってそれを改善するのか。

森友学園の問題が一番簡単に分析できる。森友学園は学校を作るのに必要な資金がなく、結果的にゴミをでっち上げて土地を格安に譲るという方法で利益供与が行われた。実はリソースが足りなかったのだ。

加計学園の場合は少し複雑だ。銚子市の学校の場合需要がなく資金もなかったので、結果的に銚子市の財政が破綻しかけている。が、今治市の獣医学部の場合には需給予測が曖昧らしく、需要と供給を満たすのかということがよくわからない。が、作ってから「実は需要がありませんでした」となると、被害を被るのは今治市ということになるだろう。

学校の問題は実はかつての公共事業のやり方に似ているのではないだろうか。公共事業は利権の温床になっていて需給シミュレーションを歪めて利権誘導していた。しかし民主党政権が「コンクリートから人へ」というスローガンで教育へシフトしたので、教育を新しい公共事業にしようという意識が生まれたのだろう。この延長が「教育の無償化」を言い訳にした改憲議論だ。高等教育も国の予算でやるとなれば巨大な利権が転がり込むことになる。実はつながっているのである。

いずれにせよ特区を作って学校を誘致するというには考えてみれば変な話だ。需要がないから獣医学部の空白地帯ができている可能性があるわけで、そこに学校を作ったからといって需要が生まれるわけではないからだ。獣医学部ができたら、そこに養鶏場が作られ、牧畜が盛んになるだろうか。忖度があったかなかったかという不毛な議論をしていると、こういう単純なことがわからなくなる。

山口氏の問題は別で、公平さが歪められたのが問題になっている。もし首相に伝がなければ逮捕状は執行されていただろう。法律がある人には適用されある人には適用されないということになると社会秩序はめちゃくちゃになり、結果的に人は法律そのものを信頼しなくなるに違いない。少なくとも「女性の意識を奪った上で欲望を満たす」のが「運が悪くて政権に伝がなければ捕まる」程度の犯罪になってしまえば、日本はもはや法治国家とは呼べない。

そう考えると、民進党の攻め方のまずさが浮かび上がってくる。間接的に曖昧な意思疎通があったということだけを問題にして大騒ぎしているのだが、これは照明が非常に難しい。政策立案能力がないので、そもそもあるべき姿を構築することができないのだろう。本来なら、曖昧な指示が行われた過程を検証し、どのようなルール設定をすればこうした問題がなくなるのかを国民に直接提示すべきだった。安倍政権に反省を求めても無駄だということはこの数年で痛いほど理解しているのではないだろうか。

野党4党はマスコミ受けを求めて攻め手を変えているので、マスコミは忖度という言葉を使うのをやめて「曖昧な指示が意思決定を歪めた」などという言い方をすべきだろう。まずはそこから始めてみてはいかがだろうか。

ディビッド・ケイ氏はマッカーサーではない

国連の報告者であるディビッド・ケイ氏が日本のマスコミについて注文をつけた。この過程で日本の記者たちからなぜか匿名での情報を提供があったそうだ。つまり記者たちは常々報道のあり方に疑問を感じているようなのだが、それを自分たちでなんとかしようという気持ちはないようである。「誰かがなんとかしてくれないかなあ」と考えていることになる。

ディビッド・ケイ氏の注文は主に政府の規制や新しい法律に関するものだが、マスコミのインサイダーたちの中には記者クラブ制度に強い不満を持っている人もいるようだ。が、本当に記者クラブ制度は問題なのだろうか。

最近の政局はそもそも場外乱闘の形で起こることが多い。主な発信源はNHKや朝日新聞社へのリークや、週刊誌への情報提供である。記者クラブはその後追いとして、政府の言い分を取材する役にしか立っておらず、すべての報道が記者クラブによってコントロールされているとはとても言えない状態だ。

にもにもかかわらず記者クラブ「だけ」が存在感を持って見えるのはどうしてだろうか。これは記者クラブがなかったらどうなるかを想像してみればわかる。記者たちは特定の記者クラブで雑巾掛けの修行を始める。もともとは文学部とか法学部などのジャーナリズム専攻でない学部を出た人たちで、OJTで取材の仕方を学ぶわけである。この人たちがマスコミ内部で名前を売り、生き残った現場志向の強い人たちがフリーとなり、ジャーナリスを名乗るようになるという構造になっている。

つまり、記者クラブは学校の役割を果たしており、記者クラブをなくしてしまうと「どうやって官公庁の取材をしていいのか」がわからない人ばかりになってしまうということを意味する。日本にはジャーナリズムを教える学校がないので、記者クラブがなくなってしまうと記者教育ができなくなってしまうのだ。

学校ができない理由は何だろうか。第一の理由は理論的な裏打ちの不在だろう。例えば、ジャーナリストは権力から一定の距離をおくべきだというような、倫理規定が日本にはない。こうした倫理規定ができるのは、裏にジャーナリズムは権力を監視し民主主義を健全なものにする役割があるという自己認識があるはずなので、日本人にはそうした意識がないことがわかる。

さらに、現場の記者たちは後進をマネジメントしたり仲間を育てることを嫌がる。現場志向が強いからだと考えられるのだが、それだけではなく「ライバルが増える」ことを嫌がっているのだろう。獣医学部も参入規制があるそうだが、ジャーナリズムは学校を作ることさえ嫌がるのだ。

もしフリーの記者たちが本当に記者クラブ制度はいけないと考えているなら、自分たちの仲間を増やす努力をするはずだ。SNS時代なので、こうした書き手は新聞社などに入ったことがない人たちで読み手を兼ねている可能性が高い。が、ジャーナリストの人たちは優位性を保ちたいので、こうした人たちを敵視してしまうことが多い。

共通の意識もなく競合者同士で協力もできないので、ジャーナリストはまとまれない。そこで外国から来た人に匿名で告げ口することになる。政府から弾圧されているから表立って行動できないという理解は必ずしも正しくないのではないだろうか。

さて、理論的な精緻化をはからず、仲間や後進を育てないということのほかに、ウェブメディアならではの問題も出てきている。TBSのジャーナリストにレイプされたという女性ジャーナリストに対して「枕営業をしかけたのではないか」というセンセーショナルな発言をした池田信夫氏を例に説明したい。

アゴラはもともと専門家の知見を活かしてウェブならではの提言をするという名目で設立されたのだと思うが、新田氏(この人も問題のある発言で知られる)を編集長に据えたあたりから、おかしなことになってきている。

もともと池田さんはNHKの出身なのだが、メインストリームでポジションを得られなかったことでウェブに新天地を求めたのだと思う。やがてネット上でプレゼンスを得てゆくのだが、編集長の新田氏のWikipediaに面白い記述があった。民進党の蓮舫代表を叩いたことでページビューが大きく伸びたのだそうだ。

2015年10月、アゴラ研究所所長の池田信夫のオファーを受け、池田主宰の言論サイト『アゴラ』の編集長に就任[5]2016年9月に行われた民進党の代表選挙に出馬した蓮舫の二重国籍問題を、八幡和郎と池田がいち早く追及した際には編集長としてバックアップし、就任1年で、月間ページビュー数を300万から1000万に押し上げた[6]

新田さんと池田さんが女性に対する差別主義者だという見方はできるのだが、もしかしたら「ビジネスマッチョ」なのかもしれない。気が弱く女性との競争に負けつつある「サイレントマジョリティ」の男性のニーズがあるのだ。普通の人たちが言えないルサンチマンを代わりに晴らしてやるとそれだけ支持を集めるという構造がある。女性に対するヘイトスピーチにはそれなりの商品価値があり、それが「女は枕営業だからレイプされても自業自得(ただし一般論ね)」というような言説がまかり通ってしまうのである。

同じことが反体制側にもいえる。Literaなどが代表例だが、岩上安身氏のようにかなり過激に安倍政権を批判する人たちもいる。彼らもジャーナリスト業界から流れてきた人たちなのだが、民主主義を健全に保つために権力から距離をおくべきだという行動規範はない。このことが結果的に民主主義を両側から不健全なものにしている。

よく、ウェブは掃き溜めだなどというのだが、実際に掃き溜めにしているのはこうしたマスコミ崩れの人たちだ。民主主義と言論の関係について理論的に学んだわけではなく、仲間同士で研究しているわけでもないので、特に言論に品位を持とうとか、是々非々の距離で付き合おうとは思わないのだろう。

現在の安倍政権は露骨なマスコミ干渉をしてくるので、「マスコミへの弾圧」のせいで密告が増えているという感想を持ちやすいが、実際にはまとまれないことの方がより深刻なのではないかと思う。デイビッド・ケイ氏はマッカーサーではない。結局のところ自分たちでなんとかすべきなのだ。

専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。

ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのか

アゴラの編集長という人にブロックされている。その影響からなのか(Twitterにはブロックリストをやり取りする機能があるそうだ)関わりがないのにブロックしている人がいるらしく、ときどき引用ツイートが読めない。中身が読めないのでどういう人たちなのかはわからないのだが、安倍政権側の人が多いように思える。たいてい誰かに批判的に引用されているからだ。それにしても、ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのだろうか。

ブロックするのは、自分と違った考え方が受け入れられない人たちだと考えられる。つまり、自分の作ったシナリオ通りにことが進まないと、その意見を排除するためにブロックして「なかったこと」にしてしまうのだ。自分と同じ考えの人たちしかいなければ否定されることもないので、彼らには居心地がよいのだろう。

その意味では百田尚樹さんという人はネトウヨが高かったように思う。普段ネトウヨ系のサロンで発言を繰り返しているうちに仮想的な有能感に浸るようになり、朝生で罵倒されて帰ってきたそうである。作家さんなので知性がないということはないだろうが、知識が偏っていて議論にならなかったのだろう。

自分の意見があまりないという点ではサヨクの人たちと違いがないのだが、サヨクとネトウヨには大きな違いがあるように思える。サヨクの人たちは自分たちの意見や正義感が世間に知られていないと感じているので、異論を唱えてきた人には「布教活動」が始まる。ここでブロックしてしまうと自分が相手を説得することができなくなる訳だから、ブロックすることは少ないのではないかと考えられる。サヨクの人たちの言動で多いのは「安倍政権についてテレビ報道が増えれば人は真実に目覚める」というものである。

だが、ネトウヨの心性を考えるとよくわからない点に突き当る。他人と意見が違うことがなぜ問題になるのかということだ。心理学の類型を調べてみたいところだが、しくりくるものが探せなかった。が、相手の意見に影響されて「それに従わなければならない」という気持ちが強いのではないかと考えられる。つまり自己肯定感の低さが影響しているのだろう。つまり、ネトウヨは相手に服従しなければならないと考えており、同時にあまり自分の考えに自信がないのだろうということが予想されるのだ。だからこそ、主張を強化しなければならないわけである。

サヨクの人たちも放射能や戦争などの外部からの脅威を怖がっているように見える。つまり、不確実性に対応できないという意味では共通しているように見える。が、実際には内心というものを持っていて、それと現実が異なっていることが許せないと考えることもできるだろう。つまり、ネトウヨとは反対に過剰な自信があり、それと違っていることが許せないという可能性があるのだ。つまりネトウヨとサヨクが同根なのかそれとも対になっているのかということはよくわからない。

まとめると、ネトウヨもサヨクも、危機・脅威・不確実性に対する防御反応なのだが、一方は内面に自信がなく常に相手に影響されてしまうと考えており、一方は内面に自信がありそれが現実世界に反映されないことにいらだちを抱えているのかもしれないという仮説が立てられる。もし同根だとすれば、他人の考えや指示に恐怖心を覚えるのがネトウヨで、環境に恐怖心を持っているのがサヨクということになる。両者に共通するのは多様な考えが共存することを認められず、相手の説得もできないという点である。

両者とも、世間と自分との間に明確な境界を築けない。他人は他人でありコントロールできないと考えれば、感情的な行動にはでないのではないだろうか。相手を説得するのに戦略を立てたり、コントロールできないなら放っておこうと考えるはずである。あるいは自分の好きなことに夢中になっていれば、あまり他人の価値観は気にならないはずだ。

その意味では安倍政権はきわめてネトウヨ性が高い政権だと言える。もともと戦前に陸軍が間違った行動を取ったことを一切認めることができなかった人たちが母体になっている。南京で虐殺がなかったと主張したり、日本軍は韓国人の性奴隷を持たなかったという主張をしていた。が、こうした主張はWiLLなどの一部のネトウヨ系雑誌で行われているだけで、全体にはさして影響がなかった。

よく考えてみれば、南京で虐殺があったとしても、それは陸軍の兵士たちがやったことであって、日本人全体の犯罪ではない。ネトウヨの人たちには関係がないことだ。しかし、ネトウヨにはそれが認められない。日本軍が中国人の主張通り犯罪行為をおかしたのなら、自分が日本人を代表して中国人に屈服しなければならないと感じてしまう。これは、他人と自分の間に区別がついていないということを意味するのだろう。このように勝ち負けは彼らにとってとても重要である。

勝ち負けが重要なのだから、強いものへの妥協も安倍政権の特徴だ。プーチン大統領にすり寄ってみたかと思えば、トランプ大統領に諂ってみせたりしている。トランプ大統領に忖度して、その主張を聞くようにヨーロッパに懇願することを「強いリーダーシップ」と言い換えるあたりもネトウヨ性が高い。これは、影響力のある相手に対して自分を保てないというところからきているのではないだろうか。一方で、中国や北朝鮮という自分たちが蔑視している存在には必要以上に居丈高な態度に出る。国内では女性に対する蔑視感情が顕著で、民進党の蓮舫代表を呼びつけにしたり(国会でもたびたび呼びつけにしそうになる)社民党の福島元党首や民進党の山尾しおり議員に敵意をむき出しにしたりしている。

このネトウヨ性のせいで、自分を持っていて距離を置くヨーロッパやカナダのリーダーとは折り合わない。

ネトウヨの最大の特徴はブロックだ。自分たちの論理で憲法の解釈をねじ曲げて、アメリカ軍と協調行動がとれるようにしてしまった。これが全面的に悪いとは言わないが、本来なら国民を説得するべきだった。しかし安倍政権はそれをしないで、あの夏のデモを「一部の人がやっているだけ」と言ってブロックしてしまったのだ。さらに、批判は当たらないという紋切り型の台詞を繰り返して様々な無理な解釈を繰り返し、あったはずの資料をなかったことにした。それだけでなくマスコミにも手を伸ばし、恫喝したり取り込んだりして、自分たちに都合の良い解釈を繰り返すようになった。

あったものをなかったことにするのがブロックなのだが、権力がこれをやり始めると他人にもブロックを強要しどんどん社会がおかしくなってゆく。

例えば金融経済の世界でも「ブロック」が起きているのだが、これはやがて市場経済の法則に復讐される可能性が高い。その時巻き込まれるのがネトウヨと安倍政権だけならいいのだが、国を巻き込んだ大惨事になる可能性も否定はできない。

ネットにいるネトウヨの人たちは、大した情報は持っておらず、偏った情報から作られた理論も間違っている可能性が高いので相手にする必要はないと思う。が、こういった人たちに大事な仕事を任せてはいけない。社会全体がおかしな方向に進んでしまうからだ。

臆面もなく嘘をつく人とその事情

前回、千葉市職員がトイレをきれいに管理していないという話を書いた。が、あまり興味を持たれそうにないので「日本人は嘘をつく」というような表題にした。何軒かコメントをいただいたのだが「嘘つきが多い」と考えている人は少なからずいるようだ。

問題なのはどうやったら嘘が減るかということなのだが、それについては確たる答えがない。そこで他人を非難して終わりということになってしまう。いつしかTwitterに嘘つきを糾弾するコメントが溢れるようになった。

トイレは、いったん千葉市役所から「市職員が巡回します」という回答をもらった。が実際には数ヶ月巡回しただけでやめてしまったらしい。つまり、千葉市役所は、上司と市長の名前の入った文書でその場限りの嘘をついたことになる。今回、また汚れているのを見て現場の人に「片手間でトイレの管理なんかできませんよね」と聞いたところ、若干言いにくそうに「そうだ」という返事があった。つまり、できもしないことを約束したことになる。

嘘をつかれると処罰感情が湧く。例えばTwitterではよく「政府の誰々が嘘をついた」という怒りのツイートが流れてくる。だが、嘘をせめても問題は解決しない。裏には日本人が民主的な手続きと議論の意味を理解していないという事情がある。つまり、意義があって納得できなかったとしても、その場で意義を飲み込んでしまう。できないならできないと言うべきだったのだろうが、その場で嘘をついた方が簡単だと考えてしまうのである。

市役所へのクレームは広報課で集中管理されているので、電話インタビューをした。ある部署が「できもしない約束」をしたことが露見した場合、その職員に対して注意するというパスはあるようだ。最終的には局長レベルまで行くらしい。また市長も市長への手紙を見ていて、それなりに関与しているという。

が、こうした「叱責」のパスがいつもうまく機能するとは限らない。本人が回答に納得していなかったり予算的に無理だったとしても「なんとかするように」と職員個人の責任に落とし込まれてしまう可能性があるからだ。これについて広報課に「無理を是正する仕組みがあるのか」と聞いてみたところ、広報課は黙り込んでしまった。コンセプトは理解したらしいが、個人の失敗をカバーしたり、予算的な措置をとるといった発想がそもそもないようだ。

この背景には、日本人の意思決定の仕組みがある。日本人がもともと集団の長を集めて利権を調整する集団指導体制なので、集団間で相互にカバーする仕組みがなく助け合いも行わない。実は他人には冷淡な社会でだ。何らかの理由で集団指導体制が崩れたり、実行部隊と意思決定部隊が分離してしまうとすきまにある責任が個人に落ちてきてしまうのである。

責任は個人に落ちてくるのだが、個人への権限委譲は行われない。すると結果的に個人のせいにされて終わりということになってしまう。最終的には責任を取るはずの人が「知らなかった」ことになり「責任を取る能力も資源もない個人が叱責されて終わり」になることも多い。いわゆる「トカゲの尻尾切り」という現象である。

無理が生じると、個人が嘘をつかざるをえなくなる。そのうち収集がつかなくなり、他罰感情が集まる。が、実は問題は誰かを罰しても解決しないのではないだろうか。

文部科学省は加計学園問題について内閣府から恫喝されていたようだ。恫喝された文章も残っている。が、文部科学省はそうした文章は残っていない(あるいは残っているかもしれないが見つかっていない)といわざるをえない。それをOBが「いやそんなことはないだろう」といって大騒ぎになる。いずれはバレる嘘なのだが、嘘をつかざるをえないのである。同じことは森友学園問題でも起きてる。こちらは官邸が前のめりになっていたプロジェクトのために法律を曲げて無理なロジックを作って土地の値引きをしていた。その経緯が露見しそうになったので財務省が「資料を捨てた」という嘘をついている。この場合の嘘は法律違反にまで発展している。

NHKのように思考停止状態に陥ってしまった集団もある。オリンピックの予算を開催自治体が分担することが大筋決まったと政府の見解を垂れ流しつつ、公平性を担保するために千葉、埼玉、神奈川県知事の「聞いていなかった」という声も伝えている。いったい何がどうなっているのかさっぱりわからない。ヘッドラインを読むと「大筋決まったんだな」と思えるが、文章を読むと何も決まっておらず、誰も納得していないというように読める。

東京オリンピック・パラリンピックの費用について、東京都、組織委員会、政府の3者は予備費を除いて総額を1兆3900億円とし、このうち都と組織委員会がそれぞれ6000億円、政府が1500億円を負担する方向で合意したことがわかりました。残る400億円は東京都以外の自治体が負担する案が示されていますが、最終的にどこまでの負担となるか詰めの調整が行われています。

この場合NHKは嘘をついている。内容をよく聞けばバレてしまう程度の嘘である。

もちろん千葉市と国には違いもある。千葉市は一応市長が市民への回答を見ている。これは前の市長時代の反省を踏まえたものだ。市長への手紙は前市長の代からあるのだが、形式的に運用されていた。上層部は利権の獲得に熱心で、最終的には市長が汚職容疑で逮捕されるというところまで発展する。当然、職員の士気は低かったはずだ。そうしたことは徐々に改善されつつあるようなのだが、それでもマネジメントの失敗は完全になくならない。利権の獲得ができなくなっても、相互で助け合うという文化が根付くわけではないからだ。「誰かのためにやったことが回り回って自分のトクになる」などとは誰も考えない。一方。国の場合は官邸が「役人が嘘をつく理由」になっている。明らかに官僚に嘘をつかせている。

どうやら、トップがどうであるかということとは全く別の問題として、日本型の意思決定方式に原因があり、個人が嘘をつかざるをえないというメカニズムがありそうだ。

いつまでも騒いでいたいのならこのままでもよいと思うのだが、同じことは会社や学校でも怒っているはずだ。そろそろ日本人が持っている意思決定と統治の癖について理解すべきなのではないだろうか。

 

自民党はなぜ人権にそれほどまでに敵愾心を燃やすのか

共謀罪について考えていて一つわからないことがある。菅官房長官が「人権を擁護する人たち」に関してなぜ強い敵愾心を持つのかがさっぱりわからないのだ。菅官房長官はおそらく安倍首相を忖度してああいった発言をしているのだとは思うのだが、もし自分たちに意見があればそれを主張すればいいだけの話で、感情的な文章を出すのはあまり筋がよくない。

が、全然違うところで違う話をしていて「ああ」と思うことがあった。あれは安倍首相の劣等感の表れなのだと思ったのだ。だとすると、その劣等感に国民を巻き込むのはやめてほしいものだと思う。

ある日、QUORAで質問でもしてみようと思った。できるだけ当たり障りのないものが良いと思い「外国人がインドで苦労して手で食べるのをみてどう思うか」と聞いてみた。が、回答はインド人にはあまりよく受け入れられなかったようだ。

インド料理にはそれなりのマナーがある。外国人が知らずに「ただ手で食べればいいんでしょ」などとやると実はマナー違反になることがある。つまりインド人は手づかみで料理を食べているわけではないのである。

だが、どうやらインドの人の中にも「手づかみで食べるのは文明的ではない」という気持ちがあるようだ。つまり、西洋的な伝統に対して恥ずかしさを感じているということになる。2人の回答者の一人はマギという食事をフォークで食べて苦労したと言っていた。日本の人はマギーブイヨンでよく知っているマギーだが、検索するとカップヌードルのような麺料理らしい。

非西洋人には多かれ少なかれ西洋文化に対するコンプレックスがある。西洋人のように「立派に」フォークで食べたいと思うのだが、それができずに「恥ずかしい」思いをしてしまう。そこで「馬鹿にされているのではないか」と考えて、却って強い態度に出てしまうのだ。

同じことが民主主義や議論についても言える。西洋的な社会に触れた人たちは、社会に参加するということを経験を通じて自然に学ぶ。だが、こうした経験をしない人も大勢いる。そして、それを知らないことが「西洋的なスタンダードでは恥ずかしい」とも思っている。そこで、西洋人から「あなたは民主主義を理解していない」などと言われると、却って威丈高な態度を取ってしまうのかもしれない。中国人がその典型だろう。内政干渉というのは「西洋文化の押し付け」である。

つまり、安倍政権というのは日本が民主主義を完全にはマスターできなかったという恥ずかしさの裏返しの上に立つ政権だと言える。それを支えているのも「手づかみで食事をするような」意識の人たちということになるだろう。

さて、ここで考察を終えることもできる。つまり「日本人は戦後70年を経ても民主主義を身につけることができなかった劣等な民族である」という結論になってしまうのだが、そこで終わってもよいものだろうか。

例えばインド人の食べ方にはそれなりのマナーがあり「手づかみ」ではない。左手は使わず、親指以外の指をスプーンのようにしてカレーをすくい、親指で押し込んで食べる。が「恥ずかしい」という自意識があるとマナーがあるということすら認識できないのかもしれない。

同じように日本人にもそれなりの意思決定と統治のメカニズムがある。実際には集団指導体制を取ることが多い。利益代表者が集まって、強いリーダーを作らず均衡型の意思決定をするのが普通だ。これは日本人が内心への干渉を極端に嫌い、自分の領分が侵されることを許せないという気持ちがとても強い体。こうした意思決定は様々な場所で見ることができる。が、日本人は「政治の意思決定は民主的であるべき」という思い込みがあるために、それを自覚しないことが多いのではないだろうか。

安倍政権ももともとは均衡型の政権と言える。自民党には複数の派閥があり、それが深刻な争い発展しないように「お神輿」を担いでいる。重要なことは派閥同士の話し合いによって決まる。現在、いろいろな問題が起きているが、お神輿がしゃしゃりでるとろくなことにならない。意思決定が歪められて「忖度」が横行するのである。なぜこんなことになったかというと、間違えて「西洋型の強くて決められる政党」を目指して、総裁への権力集中が起こったからだと考えることができる。

強すぎる勢力ができると日本人は裏で足を引っ張り始める。よく自民党の中で「長期政権の弊害」などと言われる諸々の現象がおこるわけである。長期政権の弊害が生まれるのは、日本人がそもそも議論に参加して決めたことには従うという気持ちが全くないからである。自分の内心とは違った結果に従わざるをえなくなると「俺は実は納得していなかった」と言い出す人が必ず出てきてしまうのである。

例えて言えば「フォークとナイフも使えない」し「かといって箸で食べるためのマナーも知らない」という状態が生まれていることになる。つまり、どっちつかずのまま混乱を迎えつつあるのが安倍政権と言えるだろう。箸を使うのは恥ずかしいので勉強もしてこなかったから、突き刺してつかうしかないということだ。

足元では様々な動きが出てきている。常に内閣府から押さえつけられ天下り利権を取り上げられ「公衆の面前で恥をかかされた」文部科学省は週刊誌に内部文書をリークした。政府が「千葉、埼玉、神奈川との間で費用負担について同意した」と発表すればNHKがそれを鵜呑みにした報道をだし、神奈川県知事がTBSのテレビにでて「いや聞いていない」という。天皇陛下が退位したいというリークが古参の職員によってなされて、安倍政権が任命した責任者が慌てて否定する。こうした動きは安倍政権と強すぎる内閣官房への意趣返しと言える。すべての人を抑えることはできないわけで、日本型の強すぎる組織はこうして内部から崩壊してゆくのだろう。

だからこそ、議論を透明にして、議論の過程で言いたいことは全て言わせてしまうのが民主主義のルールなのだが、それが守られない。それは日本人が民主主義を知らず、知っていたとしても守るつもりなどないからなのだ。