資本主義という宗教を失うと社会はどうなるのか

そもそもこの文章は「安ければよい – 日本の政治がよくならないもう一つの理由」というタイトルにしようと思っていた。アメリカでは大統領が間違ったことをいうと消費運動が過激化するので、大統領といえども好き勝手な行動ができない、ひきかえ日本は……というようなラインである。だが、どうもそうした見方は正しくないようだ。

日米で社会が分断していることは間違いがなさそうだが、それを政治が助長している。だが、政治は社会を統合するための装置だったはずである。いったい何が起こっているのだろうか。

アメリカで経済助言機関が解散した。日経新聞は次のように伝える。

米経済界の乱―。16日の米主要企業トップによるトランプ米大統領の助言機関からの離反の嵐は、白人至上主義者を巡る言動を改めないトランプに対する明確な「ノー」の意思表示だ。米企業にとってこれ以上、トランプ政権の助言機関にとどまることは、社内外からの批判を呼ぶ経営リスクだった。米経済界とトランプ氏に生まれた溝は簡単に埋まりそうにない。

経営者としては大統領に助言できた方が有利のように思えるが、それでもトランプ大統領に近いとみなされることは経営リスクになりつつある。ここだけを切り取ると、寿司を一緒に食べただけで浮かれているジャーナリストたちや、特区制度を利用して利益誘導を図る経営者たちに聞かせてやりたいと思う。

トランプ大統領とのつながりが経営リスクとみなされるのは、それが不買運動につながりかねないかららしい。有色人種だけではなく白人至上主義者だと思われたくない白人が不買運動を起こす可能性が高いのだ。

だが、調べてみると、アメリカの不買運動はかなり過激なレベルに達しているようだ。そしてこうした運動に火をつけてしまったのは皮肉なことにトランプ支持者の側らしいのだ。例をいくつかあげよう。

ここまでの状況を調べると政治的な動きが消費運動に直結するのは少し行き過ぎのように思えるし、日本の消費者は節度があるなと思ったりもする。だが、それも間違っているらしい。

最近、Twitterで牛乳石鹸のウェブCMが炎上したという話が流れてくるようになった。上司に怒られた後輩を慰めるために飲みに連れて行くが、ちょうど子供の誕生日だったために奥さんに嫌味を言われるという話である。自分の父親世代より男性の地位が落ちていることを嘆く内容になっている。これが気に障ったという人が多いようだ。

実際にコマーシャルを見てみたが、確かに意味不明ではあるが、炎上するような内容には思えなかった。

この裏には、父権意識に対する過剰な敵意があるのだろう。自分の時間を仕事の延長である酒席に割り当てなければならないというのも炎上の原因の一つなのかもしれない。特に若い人が見ることが多いWeb CMだったことも騒ぎが大きくなった原因かもしれない。

日米の態度には大きな隔たりがあるように思えるのだが、共通点もある。かつて特権を持っていると考えられていた人たちが「被差別者」として屠(ほふ)られるということである。アメリカでは白人であるだけで「人種差別主義者である」と考えられる危険があるため、ことさら多様性の擁護者を気どらなければならないし、日本では男性であるだけで女性差別の潜在的容疑者とみなされるために、ことさら男女同権に気を配らなければならない。

日本人は表立ってこうした父権に抗議することはない。会社でそれをやると職を失うリスクがある。そこで匿名集団で抗議するのだろう。一方でアメリカは自分の意見を言わない人間は人間扱いされないために意見表明が集団の中で過激化してゆく。日本は集団行動が過激化しやすく、アメリカは個人間の行動が過激化する。

日本ではこうした父権の肩身の狭さが日本会議などの過激な復古思想になり現政権を支えている。家族の意義をことさらに強調し男性が威張ることができていた昔を再創造するのが彼らのゴールなのだろう。これが「戦争に向かっている」という被害感情を生み、政治が分断されている。アメリカでは白人至上主義者がトランプ大統領を支えている。

そもそも社会はこうした分断の可能性をはらんでいるのだろう。だが、そうした不満を別の(できればより生産的な)方向に向かわせるのが政治の役割であったはずだ。そうした役割が失われて、むしろ分断を加速する方向に進んでいるのが、日米の共通点なのではないだろうか。

これは、市場主義型の民主主義社会がかつての約束を守れなくなっていることを意味しているのかもしれない。それは、みんなで頑張れば暮らしが良くなり楽しい思いができるという約束だ。

確かに我々が実感するように資本主義が我々の生活を改善するというのは幻想である可能性が高い。が、みんながそれを信じている限りにおいては幻想にはならない。だから、政治はあたかも資本主義という神様がいるかのように儀式を積み重ねる必要がある。つまり、資本主義はそもそも宗教に過ぎないかもしれないのだ。

つまり、アメリカや日本では宗教としての資本主義が死にかかっているのかもしれないということになる。

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ファッションステートメントと政治的ステートメント

前回以来、日本ではどのように政界再編が起こるのかということを考えている。日本人は自分こそが世界の中心であり、他人はすべてバカで偏っていると考えているので、政界再編は起こりえないだろうというような結論に達しつつある。だが、現政権が信任を失い、その政権から外に出た人たちがそれをテイクオーバーするというような政権交代は起こるかもしれない。

政党ができるためには、そもそも個人が考えを持っていなければならない。考えを持つためには自分の考えを相手に伝えて他人と比べる必要がある。もし自分の考えをうまく相手に伝えることができなければ、政党を作ることはできないし、そもそも政治参加することすらできない。

そこで今回は個人が自己の意識をどのように打ち出すかということを考えたい。最近WEARでの投稿を続けている。最初は自分というものがあり、それにふさわしい洋服があるのだろうと考えていたのだが、実はそうではないようだ。スタイルがあってそれに合わせて自分を変えることができるのである。ただしそこにはリテラシーのようなものはあって、ある程度の文法がわからないと意味をなさない。その意味では、ファッションは外国語を勉強するのに似ている。

WEARを見るとこうしたことができている人が少なくない。つまり企画意図通りに表現ができている。たいていの人は「いろいろな表現ができる」というところを通り越して、一貫した私というものを打ち出している。いわゆるセルフブランディングだ。

だが、そうでない人たちもいる。WEARには目線を隠すことができる機能がある。ある人たちは顔がぐしゃぐしゃに崩れている。つまり、服は打ち出したいが、個人は絶対に「晒したくない」という人が多いのである。自分を社会に晒すことをリスクだと感じているのだろう。過去に自分を打ち出して罰せられた経験があるのか、それ以外の理由があるのかはわからない。

こうした人は男性にも女性にもいるのだが、特に女性がひどい。なかには、自己表現が却っておざなりになってしまう人たちがいる。完全に逆効果だが「自分を隠したい」という意識のほうが勝るのだろう。背景にも気を配らず台無しになっているものが多い。

そこで「女性は遺伝子的に自己を客観視するのに向いていない」という仮説を立てることができるのだが、これは間違っている。Lookbook.nuというサイトがある。もともとWEARはこれを参考にしていると思うのだが、こちらには女性の写真がたくさん掲載されている。女性の方がファッション写真の作りがいがある。男性は服も体つきも直線的で退屈だが、女性には曲線部分が多く洋服にも装飾要素が多く、写真の作りがいがある。

このことから、日本人が個人を打ち出すことには多くの困難があることがわかる。女性の方がひどいと思えるのは、WEARの男女比率が2:3だからだろう。つまり女性の方が裾野が広いので「個人の打ち出しをするスキルがない」人が目立ちやすいのではないだろうか。男性でファッションに興味がある人というには、職業的にファッションを扱いっている人がメインだ。そこで職業的な鎧があり「私を打ち出す」というよりは職業的なキャラを作っているのである。

そこにあるのは、自分は打ち出したくないが、憧れている人たちと同じコミュニティに居たいという同化意識ではないだろうか。

同じことがTwitterでも見られる。男性の方が政治的な発言をしたがるが、個人の意思は打ち出したくないし、打ち出すスキルがないという人が大勢いる。匿名にすることでそのバーは下がるが、それでも自分のオリジナルの意見というものを形成することをリスクだと考える人も多いかもしれない。

こうした状況は日本人が英語を話せないのに似ている。日本人が英語を話せない理由は間違っている自分が恥ずかしいからであると考えられる。さらに付け加えれば英語を話せるとかっこいいという憧れがある。が、よく考えてみると、英語で何か伝えたいことがあるというわけではない。

実際にやってみるとわかるが、誰も人の書いたものを読もうなどとは思っていないわけで、ネットの活動というのはほぼ独り言に近い。つまり、演出を加えたからといって気にかける人はほとんどいない。だから、好きに演出すればよいわけである。多分、自己を打ち出すことの難しさは「全部否定されたらどうしようか」ということだと思うのだが、表現を否定されるということは人格を否定され流こととは違っている。だが、それもやってみないとわからないことだ。

他者に対して自分を打ち出すことは「セルフブランディング」というスキルになっている。決して自分そのものを打ち出すことではなく、他人に受け入れられる自分を想像するということだ。「経営者にこそ知ってほしい、SNSを活用したブランディング手法」というエントリーを読むとわかるように「打ち出せる人」と「打ち出せない人」が分化してゆくという社会に住んでいる。

個人がまとまることができないとか、他人の動向を気にするというのはアメリカ型の社会でも起こり得るものと思われる。リースマンの孤独な群集などが有名である。オルトライトと呼ばれる人たちもいるが、たいていは知的能力があまり高くない人たちなのではないかと考えられる。だが日本人の場合はここに「他人の目を過剰に気にする」という意識が加わるためにある程度知的能力が高い人でも時々とんでもないことを言ったりするのだろう。

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小池百合子都知事はなぜ国政に進出できないのか

金曜日頃から、小池百合子東京都知事が私がAIだと言ったという書き込みが増えた。意味がわからなかったのでタイポだと思っていたのだが、どうも数が多すぎる。どうやら本当にそう言ったようだ。小池さんはこれで終わったなと思った。支持している人たちはこうした違和感を見逃したくなるだろうが、こうした問題は責任が重くなればなるほど大きくなるものだ。

多分、小池さんは国政に進出する前に失速するだろう。しかしそれは豊洲に行くのがけしからんというような類の話ではない。小池さんは多分メディア戦略に失敗するだろうという話である。

小池東京都知事は、豊洲移転の決断に至った経緯は回顧録には残せるが今は情報は公開できないと言っている。その決断の理由を知りたがる記者に対して「私はAI」だと言ったのだという。正確には「最後の決めはどうかというと、人工知能です。人工知能というのは、つまり政策決定者である私が決めたということでございます」だと言ったのだそうだ。全く説明になっていないが、あまりにも唐突な回答だったことから、記者もそれ以上は聞けなかったのだろう。

このAIがどこから来ているのはなんとなく想像ができる。最近NHKがAIに関する番組をやったばかりである。なんとなく目新しく科学的な感じのする番組だったが、因果関係をまるで無視して相関関係だけで話を無理やりにでっち上げてしまった。この程度のものをAIと言ってしまっただけでも罪は重いのだが、AIというのはブラックボックスであって、人間には良し悪しが判断できないのだという間違った知識を植え付けてしまったことも大きな問題がある。

小池都知事はこのAIはブラックボックスという概念が気に入ったのだろう。自分はコンピュータのように頭が切れるのであって、常人とは思考が違っているという優等意識が見える。同時にこの人が外来語で話すのは何かをごまかすためだということがわかる。「アウフヘーベン」も「ワイズスペンディング」も意味がわからない。

小池都知事は目新しい情報をふわふわとしたままで理解していることがわかるのだが、テレビではよく取られる手法で、小池都知事が極めてテレビ的な政治家だということがわかる。テレビ局の人たちも真面目に課題に取り組むということはありえない。彼らが気にするのは、それがどのくらい「キャッチーか」ということである。

こうした手法は例えば夏のサラリーマンに涼しい格好をさせるというのには向いている。問題になっているのは「他人の目」なので、夏にネクタイをしないのがかっこいいということにしてしまえば、おおむねみんなを満足させることができるからだ。だが、利害が交錯する現場では通用しない。人の一生がかかっているからである。

早速、築地市場の人たちの中に「5年後に約束が履行されるかどうかはわからないから絶対に立ち退かない」という人たちが現れた。小池さんが信頼できるかどうかはわからないのだから、既得権を守るために動かないというのは当然のことである。口約束があったとしてもそれが守られる保証はないからだ。

こうした状況は「囚人のジレンマ」として知られる。協力して得られる利得が高いことがわかっていたとしても、他人が信頼できない、あるいは情報が少ないと自分一人で得られる利得を得ようとするので、社会全体として得られるはずだった利得が失われてしまう。

もしかしたら、小池都知事が「アウフヘーベン」した方が利得が大きいのかもしれないが、私がAIだなどということを言ってごまかす人を信じられるはずもなく、結果的に豊洲もうまく立ち上がらず、オリンピックの駐車場もできず、築地の改修も進まないという状況に陥ってしまう可能性が高い。こういう人が国政に出て間違って首相などになってしまえば国政は大混乱に陥るだろう。

小池都知事が有能な政治家でいられたのはこれまでの政治がテレビ的だったからである。テレビの持続力は数日しかないので、そのあとに情報を変えても誰も反対しなかった。逆にいえば、政治は別に何もしなくても、ただ盛り上げていれば良かったのだ。

例えば、テレビの健康番組では毎日のように新しい健康番組が出てくる。それぞれの番組の言っていることには矛盾もあるのだが、数日から数ヶ月で忘れられてしまうため、誰も気にしない。テレビ業界にいる人たちは、職業的健忘症になる訓練を受けているからこそ、次から次へと新しいコンテンツを売り続けることができる。もし一貫性などということを考え始めたら、こうした番組は一切作れなくなる。

こうしたことができなくなっている背景は大きく分けて二つのものがあると思われる。一つは政治が問題を解決しなければならなくなっているということだ。詳しく言えば、利害の調整を行う必要が出てきている。テレビ型の政治では利害調整ができないのだ。

もう一つはメディア特性の変化である。インターネット時代に入ってメディアは二つの能力を手に入れた。一つは分散型の情報処理だ。多くの立場の違った人たちが情報を評価してアウトプットする。ゆえに過去の矛盾についての検討もスムーズになった。

実は、豊洲・築地の問題はもう追いかけていないのだが、様々な情報がTwitterから流れてくるおかげで「ああ、この人はやっぱり偽物だったんだなあ」ということが簡単にわかってしまう。

もう一つの能力はアーカイブ機能である。過去記事を含む複数メディアの情報を比較検討することができる。このため、小池都知事がもともと築地も残しますよとか情報公開はきちんとやりますよと言っていたのに、ある日突然「私がAIなので」と言い出したことが確認できてしまうのだ。

日本ファーストが国政政党になれない理由は支持者が見つからないことだと分析した。小池さんの人気だけが支えになっている。当の小池さんは民進党が割れるのを待っているという分析がある。前原さんが代表している「保守」の人たちが流れ込めばその分だけ政党助成金がもらえるという計算があるのだという。

小池新党には支持者とお金がない。だが、日本社会が分断してしまっているので、支持者を集めようと思うとお金が集まらず、お金を集めようとすれば支持者が離れて行くという状態になっている。このことは今後の日本の政治を見る上で重要な要因となるのではないかと思う。

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憲法第9条はなぜ変わらなければならないのか

さて、今回は憲法第9条について考えたい。意外に思われるかもしれないが、憲法第9条は改正されなければならないと考えている。もともとは護憲だったし、人権に関する条項などはそのまま守られるべきだと考えているので広い意味では護憲派なのだが、憲法第9条だけは例外である。

なぜ憲法第9条は変わらなければならないのか。それは、設計思想が変わってしまった唯一の条項だからだ。

日本国憲法の設計思想は侵略戦争の禁止だ。戦勝国から受け入れてもらえるために日本が侵略戦争を行うことを禁止し、植民地を放棄させられた。当時はまだ国家の主権に「戦争をする権利」が入っていた時代だった。

その後、戦勝国は現在の体制を固定するために、戦争そのものを禁止した。日本は戦争に負けて主権が制限されていたので、憲法レベルでこうした操作ができる数少ない国の一つだった。もう一つの例外がドイツだったがこちらはヨーロッパの集団的自衛体制に組み込まれる。こちらの方はスキームがあったためにより新しい設計思想を取り入れることができたのである。

戦勝国にとって計算外だったのは、戦勝国が2つの大きなグループに別れてしまったことだったのだろう。このため二つの大きな国が自衛を名目にして戦争をするというスキームができてしまった。日本ではこれに合わせて後付けで自衛隊が作られた。自衛隊は東西冷戦を前提にした集団的自衛の一翼を担っているのだが、日本はあまり信用されていなかったので、日本の領域だけに活動領域が限定された。

設計思想が変わってしまったのだから、ここで憲法と自衛隊の役割は見直されるされるべきだった。が、日本はそれをやらずに乗り切った。大きかったのは岸信介総理が国民を説得するのに失敗し第反発を招いてしまったことだろう。国民を騙すような形で日米安保を改正し現在の状況を作った。のちの政権は国民の反発を恐れてこの件には触れられなくなった。司法も砂川事件で介入された歴史があり、この件については判断しなくなった。こうして岸信介の孫が首相になって憲法解釈をかき乱すまで、触れなくなってしまったのだ。

横道にそれて安倍晋三の功績を考えてみよう。安倍は無理やり理屈をつけて集団的自衛を解禁した。その他の私物化スキャンダルもあったので、集団的自衛は「ごまかし」ということになってしまい、今後また何十年も議論すらできない話題になってしまうかもしれない。祖父と孫は同じような禍根を日本の歴史に残そうとしているのではないだろうか。

ところが設計の前提はさらに変わってしまう。東西対立という図式がなくなってしまったのだ。だが、同時に核になる国もなくなった。「Gゼロ世界」などという人もいる。つまり、大きな巨大領域の中で反乱勢力が動くという状態になっているのだ。領域は統合されたが、中には主権国家が残っていて、国連は政治的には主権国家への干渉はできないという仕組みが残っているウエストファーレン体制というそうだが、1648年にできたスキームである。これが現在の矛盾のもとになっている。

例えばアフリカの状態を見てみるとこのことがよくわかる。国内政治が失敗すると抵抗勢力が現れるのだが、抵抗勢力は軽々と国境を超えて「国際紛争化」する。さらに混乱の結果、難民が流出し、周辺諸国やヨーロッパが混乱するのである。この抵抗勢力を戦争主体として位置付けるかというのは大きな問題になっている。

70年前の世界はそれぞれの国が国益のために行動すればよかった。つながりは限定的だったので、適当な相手と組んで軍事同盟を作ることもできた。ところが現在は、曖昧な枠組みの下で一つにつながったとても過渡的な世界になってしまっている。

こうした経緯があるから「戦争」と聞いて思い浮かぶことが人によって全く違ってしまっている。ある人は日本という国の栄光のために近隣国を武力で圧倒することが戦争だと思っているだろうし、別の人はアメリカが経済的利益を追求するために弱小国を傀儡化する手伝いをするのが戦争だと考えているのだろう。これが議論が曖昧になる原因である。

防衛で一番大きな説得材料は「中国が攻めてくる」というものだが、中国のような大国が日本のような大きな国に直接侵攻した事例は戦後70年の間起きていない。世界が緊密に連携しているために直接対決するリスクの方が大きいからだ。現在こうしたスキームに依存するのはもう失うものがない北朝鮮くらいだろう。周辺国に代理戦争させるというスキームはあったがこれすら過去のものになりつつある。

一方でアフリカ情勢などに興味がある人はほとんどいないので、現在型の戦争と呼べるかどうかがわからない状態について議論する人は少ない。アフリカでは南スーダンのほかにも中央アフリカで戦乱があるそうだ。

もちろん、アフリカは遠い地域なので、日本にはこうした厄介ごとから引きこもって、自国の防衛だけに専念するというオプションもあり、これは極めて合理的な選択だろう。あとは災害救助などに活躍する軍隊の装備を持った別の何かを作るという方向性もあるわけだ。

が、ここで考えるべきなのが日本国憲法のもともとの設計思想である。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

旧世代の戦争という概念を残しつつ、実はかなり国際協調を念頭において書かれていることがわかる。つまり、この憲法前文を尊重するという前提に立つのであれば、日本がどういう貢献ができるかということを考えて行かなければならない。今日言いたいのはこのことだけだ。

護憲派であろうとすれば憲法第9条を見直さざるをえなくなるのである。

国際的な経済協力についての憲法の規定はないので、皮肉なことだが軍事貢献だけがこの世界情勢の変化に影響を受けてしまう。外に開かれた唯一の条文なのである。

安倍首相の「積極的平和主義」という言葉はそれ自体は間違っていないということになる。彼が悪質なのは、こうした誰も否定できない題目を利用して憲法を私物化しようとしているという点である。そればかりか無能な防衛大臣を放置することを通じて、PKOを通じた国際貢献すらタブーになってしまうかもしれないという状態を作り出してしまった。

安倍首相は多分憲法前文を気に留めていないのだろう。韓国や中国を挑発して東アジアで協調関係をとるのを邪魔しているし、南スーダンに武器が流れ込むのを抑止する枠組みも黙殺した。さらに原子力爆弾を禁止して行こうという条約も無視したままである。

しかし、憲法第9条の擁護をしている人も日本国憲法前文をきちんと理解した上で世界情勢を見ているとは言えない。確かにすべての人たちがおとなしく現在の国際秩序に従ってくれればいいのだが、現実問題として紛争が頻発しており、何らかの対策が必要である。だから、戦争や争いごとという厄介な問題から目をそらしてはいけない。憲法第9条を守って前文の精神をないがしろにするということはあってはならないのではないだろうか。

憲法改正議論で重要なのは、国民が理解納得した上で憲法を変えてゆくということである。だから日本人が国際貢献をして憲法前文の精神を世界に広げて行こうという意欲がないなら、憲法第9条だけを変えても仕方がない。

現在、日報を隠したとか、報告を受けていたというようなことが問題になっている。これも元を正せば、設計思想が曖昧な上に法律を作ったことのツケなのだろう。稲田大臣はあまり質のよくない法律家なので、法律の設計思想が実は曖昧でそのまま実行するとエラーが起こるということを想定していなかったのではないだろうか。プログラムも法律も人間が作ったものにはバグがつきものなので、バグ取りはユーザーが行わなければならない。

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安倍政権は今度は何に負けたのか

稲田防衛大臣の件が大炎上している。巷では日報問題というそうだ。背景には安倍政権が政府の掌握に失敗したという事情がある。さて、安倍政権はなぜ政府の掌握に失敗したのだろうか。そもそも政府とは何なのだろうか。

このブログではこのところ、日本人は競い合いが大好きで、競い合いは集団の形をとるという仮説を展開している。つまり、個人ではなく集団単位で動くのが日本人で、その行動原理は競い合いだ。つまり日本人は毎日が運動会なのである。

この問題を解く鍵は「自衛隊」と「政府」の関係である。実は自衛隊は一体ではなく、統合幕僚監部と陸上自衛隊に分かれていることもわかる。PKOを指揮命令するのは統合幕僚監部だが、実際に行動して命を落とすのは陸上自衛隊だ。今回の情報リークには陸上自衛隊が関わっているという説が濃厚なのだそうだ。この事から防衛省の分断が問題視されている。

この件を自衛隊による神のクーデターだなどとわけ知り顔で言う人がいるのだが、そういう見方をすると状況がわからなくなる。PKOが成功して褒められるのは統合幕僚監部と稲田防衛大臣だが、実際に犠牲になるのは陸上自衛隊である。つまり、自衛隊も防衛省も一体ではないのだ。陸上自衛隊は現場から「もうこれは戦闘状態で命が危ない」というSOSを受けていた。しかし、これが報告されると統合幕僚監部と稲田防衛大臣が困る。だからこれを「なかったことにした」のだろう。

つまり内部リークがなければ「ジュバは平和でした」で終わってしまうことになってしまい、統合幕僚本部がいい思いをするので、情報がリークされたのだ。しかし、集団が組織の論理によって動くという事を知らない稲田大臣は自分がスターになろうとして「私が状況を掌握する」と大見得を切ってさらにポイントを稼ごうとする。だから、さらに炎上したのだ。

このような観測がある。

つまり、現場としてはせっかく警告を発したにもかかわらずそれが無視されたばかりではなく、一方的な悪者として処分されようとした。これで得をするのが誰かという話になり、それだけは許せないということになった。そこで「今回の監査は納得ができない」とマスコミに告げ口したのだろう。

日本人は何かの目的のために手段が正しく行使されているということには全く興味を持たないのだが、組織の競い合いにはとても敏感なのである。

安倍政権は組織を動機付けるのがとても苦手だ。この動機付けに関するスキルのなさこそが「ネトウヨ」性の本質なのではないかとさえ思う。そこで、組織の中の誰かに取引を持ちかけて組織を動かそうとする。「私もえこひいきされたい」という個人が協力を申し出る。

当初、やり方はとてもうまくいっているように見えていた。人事権を握って役職を差配すれば組織は動かせなくても個人は動かせる。日本の組織もこすればチートできるんだなあなどと思っていたのだが、とんでもない誤解だったようだ。誰かをえこひいきするということは当然悪者が出てくる。すると、その人たちはたまりかねて最終的には怒り出してしまうのである。

文部科学省の場合も組織防衛が前川蜂起の動機になっている。特区に反対した腹いせに天下り利権を取り上げたことで、文部科学省が「悪者にされた」と感じたのだろう。特区は安倍政権のお友達を優遇するための制度なので、これも集団と集団の争いということになる。

この件を見ていて面白いのは日本人が事実をどう扱うかということである。先の布施さんのツイートでは「真実」と言われているものだ。まず最初に集団という視点があり、その集団の利益が最大化されるようなファクトが事実として認定される。だが、別の集団には別の利益と視点があり、従って事実も異なっている。今回は、稲田防衛大臣と統合幕僚監部から見たファクトだけが事実として編集されて国会で固定化されようとしていたのだが、噂レベルで陸上自衛隊からの情報が入ることで事実が確定しなくなってしまった。

もう一つ重要なのが、個人の位置づけである。第一に集団をかばうための行動は美化されるが、個人の利益を確保する行動はわがままだと一蹴される。

さらに、事実の固定化も集団のフィルターを通して行われる。今回、日報の一つひとつのデータは「単なる個人の主観」として片付けられてしまう。毎日新聞は次のように書いている。

2月15日には岡部俊哉陸幕長から説明を受けた黒江哲郎事務次官らが、公文書ではない「個人のデータ」として非公表とする方針を決定したとされている。

つまり、個人がファクトを捕捉したとしても、個人の意見だというだけで簡単に切り捨てられてしまうということである。が、よく考えてみると現場を見ているのは自衛官だけなので、東京のオフィスで冷房にあたってパソコンのキーボードを叩いているだけの人のほうが事実をよく知っているなどということはありえないはずだ。つまり、日本人が言っている事実というのはデータの解釈であって、データそのものではないということだ。これを事実と呼んで良いのかというのはとても疑問である。

この事は、実は現場の自衛官にとって切実な問題をはらんでいる。南スーダンで死んでも戦闘で死んだとは絶対に言えない。統合幕僚本部と内閣の失敗だということになってしまうからである。だから彼らの死は事故死ということになるだろう。これは「靖国なき戦死」のようなもので日本人には許せないことなのだ。第二次世界大戦の戦死者の多くは餓死者なのだが、それでも祖国のために戦って死んだということにしてもらえれば、それが事実として定着する。日本人にとっては解釈だけが重要なのである。

ここから導き出されるのは、与野党の攻防も「言った言わない」の水掛け論になってしまうという予想だ。民進党も自分たちの利害に沿ってファクトを編集して事実を作り出してしまうので、視点が違うということが明らかになるだけで、誰かの言っていることが正しいということにはならない。これは日本という国家が分断されていて、日本にとっての解釈が定まらないからだ。

そして日本人はこうしたどっちつかずの状態をとても嫌う。これは内閣を不信任する理由になるだろう。自衛隊を送り出すリスクを永田町は扱えなくなる。つまり、今のままの状態で今後平和安全法によってPKOを派遣するのは難しくなったのではないだろうか。

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現代版「二つの祖国」は悲劇なのか喜劇なのか

小野田紀美という自民党の議員が左派の人たちから攻撃されている。父親がアメリカ人でありなおかつアメリカで生まれているためにアメリカ国籍を持っていた。選挙に出るまでアメリカ国籍を保持しており二重国籍状態にあったという。この人が自分は二重国籍を捨てたが、捨てていない議員はスパイなのではないかと言っているのだ。

この発言は彼女の政治的センスのなさをよく表している。と同時に自民党の閉塞感をかなりよく示す指標になっていると思う。

戸籍開示の問題は実は出自を知られたくない人たちの問題と意味合いが大きく、二つ以上の国の伝統を引き継いでいる人たちの問題はそれほど大きなものではない。ゆえに、この議論を二重国籍の問題だとすると本質を見誤る可能性が極めて高い。つまり小野田議員が提起した問題は実はそれほど本質的なものではない。

蓮舫さんはアジア系なので黙っていれば日本人とそれほど区別はつかない。が、小野田さんのように外見が違っていると日本人としては認められにくいかもしれない。安倍自民党は「内と外」を明確に区別するようになってきているので、小野田さんの属性(女性でハーフ)はあまり有利には働かないだろう。だからこそ、小野田さんはことさらに日本人性を強調する必要があるのだろう。

この件を見ていて、山崎豊子の『二つの祖国』を思い出した。正確にはNHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』として知られている。日系アメリカ人がテーマになっている。アメリカはドイツとも戦ったのだが、ドイツ系のアメリカ人が敵性人種として扱われることはなかった。なぜならばドイツ系のアメリカ人は大勢いて、なおかつ顔がメインストリームの白人系だったからだ。例えば、アイルランド人とドイツ人を外見から見分けることはできないし、ある程度混血も進んでいるのだから、ドイツ人だけを分離することはできない。しかしながら、日系アメリカ人は顔が他の人たちと違っていたために、他の人たちとは違った境遇に置かれた。

彼らは財産を奪われて劣悪な環境に収容された。さらに愛国心のテストなども行われて、パスしなければさらに苛烈な環境に追いやられたのだそうだ。つまり、容姿が違っているためにスパイ扱いされて、人権を抑圧されたのだ。このように扱われたのは日本からの移民だけだった。

小野田さんはこうした日系の人たちと直接つながりがあるわけではないのだが、日米の両方の文化を受け継ぐ人が軽々しく「スパイ」と言ったのは実はとても軽率なことだったのである。実際にスパイ扱いされて人権を抑圧された同胞が、日本人にはとても多いのだ。保守の人たちが血を大切に思うのなら、海外同胞の歴史にも興味を持つべきだろう。

日米は敵対していたので、日系人には日本人であることを選んだ人たちとアメリカ人であることを選んだ人たちがいる。アメリカ人であることを選んだ人の中にも、血のつながりがある人を人間として扱うべきだと考える人と新しい統治者として振る舞った人たちがいる。ドラマはこうした人たちを丁寧に描いているのだが、そのうちの何人かは悲劇的な最後を迎える。内面と外見が必ずしも一致しないことが登場人物たちを終生苦しめ続けたということになっている。

だが、当時と現在では状況がまるで違っている。日本とアメリカは戦争をしているわけではない。台湾と日本も戦争はしていない。にもかかわらず、なぜ小野田議員はことさらに日本人であることを強調しなければならなかったのだろうかということをずっと考えていた。それは、実は日本人が外国に囲まれていないからなのではないかと思った。

つまり「今ここに危機があるから」スパイを懸念しているわけではなく日本人としてまとまれるものがないから、ことさらに外国を警戒するような発言が出るのではないかと思うのだ。つまり、外国人は蔑視の対象として存在するわけで、平民の下に被差別階層をおいたのと同じような構図なのではないだろうか。

例えば、ドイツとフランスは国境を接しているので、ドイツ領内に「自分たちはフランスの影響を受けた外見を持っている」と考える住民が多くいる。東側はポーランドと国境を接しているのでスラブ系の影響を受けたドイツ人がおり、さらにその東方には支配階級だったドイツ人という人たちもいる。。つまり、ドイツ話者という自己意識は必ずしもドイツへの忠誠にはつながらないのだが、それが特に大きな問題になることはない。Wikipediaにはこのような記述がある。

  • 「ドイツ人、それがどこにいるのか私にはわからない」(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
  • 「我々をドイツ人として纏めようとする事は無駄な努力である」(フリードリヒ・フォン・シラー)

ドイツ人ですらドイツ人の定義がわからないのだが、厳然として隣の国と違った言葉を話すまとまった人たちがいる。つまりドイツ人は存在するのである。これが本来の民族意識なのだ。

国家の存亡という点だけに着目すると、多分ヨーロッパの方が切実なはずだ。国境を接していて領土の取り合いもあった。

一方、日本は外国と国境を接していないので、いったん純化欲求が起こると仮想的な分だけ競争が苛烈になるのだろう。まずは、外見が外国人風の人がはじかれれ、さらに血統の良い人が残るという感じなのかもしれない。

そもそも、日本の保守が何を保守するのかということが曖昧だ。保守の人たちが考える日本の伝統はm明治維新期に海外から入ってきた一神教の要素に「汚染」されているのだが、これを日本の伝統だと信じている人も多い。が、本当の伝統を知りたいなどとは思わないようである。本来の関心事は集団ないの序列であり、その序列に都合が良いように物語を作っているだけなのだろう。

アメリカは日本と戦争をしていたからこそ日本的なものを排除しようとした。だから日系人はことさらアメリカに忠誠を誓う必要があった。ところが日本はどことも戦争はしていないし、外国から今すぐ侵略されるという懸念があるわけでもない。にもかかわらず、なぜこうした純化欲求が起こるのかよくわからない。

外国に囲まれておらず、日本性というものが漠然としているからこそ純化欲求が起こるのではないかと思うが、政治がその役割を見失っておりまとまりを持つためにありもしない日本性というものが妄想されているのかもしれない。もともとの目的意識がない運動なのだから、当然その純化欲求は迷走するだろう。その迷走ぶりは外から見ると喜劇でしかないわけだが、必死でしがみつこうとする当事者たちはある種の必死さや悲劇性を感じているかもしれない。

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NHKはどれくらい国民を洗脳しているのか

左翼の人たちはよく、日本人はNHKに洗脳されているなどという。確かに政府には広報戦略みたいなものがあってNHKはその戦略を実行するための道具になっているのは間違いがなさそうだ。かつて民主党に政権を取られた時にマスコミが大きな影響を果たしたので、その反省があるのだろう。だから、NHKをジャーナリズムとは思わない方がよいというところまでは確かだ。ジャーナリズムは幅広い視点からものを見るために役立つのだから、NHKを見たら他の報道(できれば海外のものまで含めて)で検証する必要がある。

だが、本当に日本人はNHKに洗脳されるほど素直で従順なのかなというとそれにも疑問がある。最近、そのことがわかるのではないかという事例があった。

最近、ヨーロッパと経済交渉が続いているのはご存知だろうか。チーズなどの関税を撤廃するのと引き換えに、自動車関税の撤廃を勝ち取るというものだ。だが、どうも報道が不自然だ。ヨーロッパがチーズの関税撤廃を執拗に迫っていて、それをやり遂げないと自動車関税が撤廃できないというようなお話になっている。安倍首相の外遊に合わせてことさら報道されるようになった。政府にPR企画部のようなものがあって、その筋で情報をコントロールしているものと思われる。

最後に流したい絵は安倍首相の熱意の結果交渉がまとまり、日本の自動車輸出がさらに盛んになるだろうと語る場面だろう。これは安倍首相が「力強い首相」であるという<印象操作>だ。

確かに、チーズの関税が撤廃されると日本の酪農は打撃を受けそうな気がする。だが、実情は少し違っているようだ。生乳の自給率は高いのだが(新鮮なものをすぐに飲みたいという需要があるのだろう)チーズやバターといった加工品はどちらかというと需給の調整という役割が強いように思える。チーズの自給率は20%を割り込んでいるそうだ。つまり、チーズを明け渡したからといって、それほどの影響を受けるようには思えない。関税を撤廃すれば安いチーズが食べられるようになるわけで、多くの消費者から反対が出るわけでもなさそうだ。

だが、これを「やすやすと明け渡した」ように見せてしまうと「自動車関税を政府が勝ち取った」という演出ができない。最初から路線が決まっていたのだが、岸田外相が大枠で合意したことにして、安倍首相とEUの間で最終的な「成果」として発表できるようにしているように思えるのだ。

さて、左翼の人たちの理論によると、政治的に無関心でNHKに洗脳されているので、こうしたニュースを見て「安倍様の政治的交渉力はさすがだなあ」などと思うに違いない。確かにそうした懸念はあり、支持率が上昇してしまうかもしれない。

だが、日本人はそもそもこうしたニュースに深い関心を払っていないかもしれない。のちに値段が安くなるまでは「あ、関税が下がったんだ」と思わない可能性もある。よく考えてみるとオーストラリアビーフがなんで安いのかということもよく知らないわけだから、首相の名前をことさらに出さないと、国民はまったくありがたがってくれない可能性があるのだ。

それに加えて「自動車関税の撤廃を勝ち取った」というニュースがないと、北朝鮮が弾道ミサイルを開発したのに、日米韓は責任を押し付け合っているというようなネタしかない。すると国内政局に関心が向いてしまうので、政府としても何かネタを探すのに必死だった可能性はある。

日本人は昔から政局報道には興味があるが、政策にはそれほど関心を持っていないように思える。今でも、麻生派閥が安倍派閥を追い落とそうとしているとか自民党小池百合子派が安倍派閥を対峙してくれるのか、それとも寝返ってしまうのかなどという政局報道に夢中になっている。政治部の人たちも政策の意味を伝えるより、インサイダーとして政局の解説をするのが好きなようだ。

NHKは広報活動を通じて国民を<洗脳>しようとしているというのは多分間違いがないのだが、それが国民に届いているかと言われればそれも疑問なのだ。来週以降の政権支持率に注目したい。

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日本をぶっ壊さないために私たちができること

さて、先日来「日本人は元来闘争好きなので、政治が劇場化する」みたいなことを書いている。日本人をディスっている文章なので、閲覧者が減ってゆくのではないかと思っていたのだが、日に日にページビューが増えていて、書いている方が逆に心配になってきている。多分「世の中狂ってる」と考えている人が多いのだろう。

が、政治が劇場化すると問題解決をそっちのけにして、分断が深刻化する。すると社会が弱体してゆくので、どうしたら劇場化が食い止められるかということを考えてみたい。考えては見たいのだが、もしかしたらそれほど興味はひかないかもしれない。

通路は2つある。一つは集団を通じて争うのをやめて個人ベースの競争に移行する方法で、もう一つはかつてのように集団的な闘争心を別の生産的な方向に向けることだ。日本の政治が劇場化するのは、日本人が集団での競い合いに陶酔するからなのだから、それを阻害してさえやればよいのだ。

第一の方法は、集団ではなく個人に焦点を当てることである。個人としての日本人は比較的穏やかなので、個人のままで社会的な交渉をしたり、社会参加する方法を見つけてやればいいことになる。自分たちでモデルを作ってもよいが、すでにこうなっている社会もある。それがアメリカだ。

だが、この解決策には大きな壁がある。日本人は個人としてはとてつもなくシャイなのだ。WEARというファッション系のSNSでは顔を隠している人が多い。中には目だけを隠している人も見受けられる。正体がバレるのがいやというより、目から魂が抜かれるのがいやなのではないかと思うほどだ。それほど、社会に顔をさらすことには抵抗が強いのである。

次の方法は、闘争心を生産的な方向に向かわせることだろう。高度経済成長期の日本人は取り憑かれていたように働いていたのだが、これは経済戦争を通じて負けたはずの相手と対決できたからだろう。このように企業が絶対に負けない戦争をしているうちには問題がない。

自民党が比較的穏健な政党だったのは、利益共同体が母体になっているからだ。「生業」を保証することで生涯賃金を保証したのである。これが崩れて宗教的な団体が支持母体になったころからおかしくなってしまった。前回のエントリではAKB総選挙と企業活動のどっちを優先するかという話を紹介したのだが、実は政治にも同じようなゲーム化の傾向が見られると思う。何かにつけて外野の人たちが集まってきて騒ぎ出す。彼らは問題とは関係がないので、解決したり収束したりということがない。逆にいつまでも騒いでいたいのだ。

例えば、豊洲・築地の問題は「変化する日本の食糧流通に公共がどう関わるか」ということと「観光資源としての日本の伝統をどうやって世界に発信するか」という課題に限っていればこれほどの大騒ぎにはならなかっただろう。しかし、小池百合子東京都知事が東京都の利権を簒奪するために利用したために、全く関係のない人たちを大いに引きつけることになった。

よく、日本の政党はイデオロギー型から問題解決型に移行すべきだなどという人がいるが、それは間違った考え方だ。そもそも現実の政治課題もうまく扱えないのに、どう生きるかなどというイデオロギーを扱えるはずなどないのだ。社会主義イデオロギーに見えていたのは「今の政治はくだらない」というルサンチマンに過ぎない。

日本人が政治による問題解決ができないのは、話し合いではなく集団での闘争を通じてものごとに「白黒をつけようとする」という精神があるからなのだろう。どうしても集団間の闘争によって勝ち得たものが正義だということになってしまうので「どう正しくあるべきか」ということは問題にならない。「勝ったものが正しい」のである。そもそもイデオロギーなど成立しようがない。もし、第二次世界大戦でソ連に占領されていたら世界一うまくいった社会主義国になっていたかもしれないが、どちらにしても深層は民主主義でも社会主義でもないのではないのだろうか。

さて、ここまで「問題は解決できるけれど」「それは日本人の性質上難しいのでは」と書いてきたのだが、政治から生活に戻ろうとする動きはすでに自民党の内部で始まっているようだ。自民党には「正解を目指す闘争」と「経済的利益の追求」という二つの流れがある。前者を象徴しているのは、岸信介・安倍晋三・日本会議・天賦人権の廃止。憲法第9条の廃止などの強さを希求する動きである。が、この動きはすべて分断を前提にしているし、実際に国家を分断させてきた。一方で、経済的利益はある程度自治の効いた利益集団の水面下の話し合いによって決まる。このためある程度は抑制が効いており、多くの人々に受け入れ可能なものになっている。池田勇人が入ったように「みんなの給料が二倍になりますよ」の方が受け入れてもらいやすいのだ。

だから自民党が政権にあるときに憲法改正を言い出すと支持率が急落するのである。どちらが原因でどちらが結果なのかはわからないものの、憲法改正は現実の問題を解決するための道具ではなく、とにかく何だかわからないが「闘争に勝つ」ための手段なのだろう。これは学校の規則を変えて毎日運動会をやるというのに似ている。

現在の懸念は、自民党の一部を代替しつつある小池百合子東京都知事がこの二つの流れをどのような割合で含んでいるかである。自民党内で勝ち上がるために日本会議を<利用していた>のなら、今までの間に、プラクティカルではないと有権者の支持が得られないということを学んでいるはずだがそうでない可能性もある。多くの人たちが自民党の補完勢力になってしまうのではと懸念しているようだが、果たしてそれはどちらの自民党だろうか。

いずれにせよ、西洋的な民主主義をモデルにしている人は、個人が契約を通じて社会と結びつきそれが最終的に政治になるというようなルートを目指すべきだろう。そののちに、北欧のような社会包括性のある国家づくりを目指すべきだが、そのためにはこれには揃えなければならない牌が多く、なかなか実現しないのではないかと思う。それよりも、目的意識が明確な集団を通じて、利得の獲得を目指す高度経済成長型の社会に戻す方が簡単なのかもしれない。

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日本人はすでに新しい戦争状態にある

最近。車椅子の人は飛行機に乗る時に遠慮すべきだという人や、お母さんは国会議員であっても子育てに便宜供与を受けるべきではなく、黙って歩くべきだなどという声がある。これを聞くと「日本は愛のない冷たい社会になった」などと思いそうだが、必ずしもそうとは言えない。そもそも日本は個人にはとても優しくない社会だからだ。

各国の企業文化を研究して指標化したホスフテードは、日本社会が極めて競争的な社会であることを「男性性」という軸で説明している。なかなか面白い指摘を含んでいる。


日本は競争や達成によって、その分野で一番の人が評価されるという社会である。この競争は教育現場から始まり社会人になっても続く。

女性的な社会では相手を思いやったり、生活の質をよくすることが大切になり、生活の質がよいことが成功として評価される。男性社会のように、秀でていることが評価されるわけではない。男性的な社会ではベストであることが評価されるが、女性的な社会は自分たちのやっていることが好きかを評価する。

95というスコアは極めて高く、日本が男性的な社会であることを示している。一般的に男性的な競争というと個人が競い合うことだと見なされそうだだが、個人主義がそれほど強くない日本の競争は集団間のものになりがちだ。例えば、幼稚園児が運動会で白組と紅組にわかれて競争したりするほどだ。

社員がもっとも一番やる気を感じるのは、勝ち組に入ってチームで競争している時である。例えば、ものづくりのように完璧な製品を作る競争に価値を見出す。また、ホテルやレストランのサービスでも、ギフトの包み方や食べ物のプレゼンテーションのやり方で競い合ったりする。悪名高い日本のワーカホリックは、男性性のもう一つの表れだ。労働時間が長いので、女性が出世の階段を登るのはとても難しい。


これを読むと、日本はそもそも優しくない社会であるということがわかる。社会を居心地よくすることにはあまり関心がなく、競争そのものに価値を見出している。ホフステッドは他にも様々な指標を持っているが、男性性だけをとっても日本文化の特殊性が説明できる。

第一に日本人は集団の競争が好きなので、勝ち組に乗って負けた人たちを叩くのが好きである。最近では自民党が勝ち組と認識されているので、負け組である民進党・自由党・社民党・共産党を叩くのが大流行した。人生の中で「勝っている」という実感が得られない人ほど、こうしたグループで「勝ち組に乗っている」というような仮想的な優越感を得ることができるのだろう。

こうした人たちにとっては、競争こそが善なので、居心地の良さや優しさというのはそれほど価値がない。そればかりか、女性や障害者というのは競争の足を引っ張る足手まといで弱い存在なので、それを叩いたとしてもそれほどの罪悪感を感じないだろう。

彼らは勝てる競争を選んでいるわけで、障害者や女性のような弱いものに勝つこと自体が目的になっている。そもそも競い合いが目的なので、彼らを説得しても無意味である。これは運動会で「紅組と白組は仲良くすべきである」というのと同じことだ。そんなことをしたら運動会が盛り上がらない。

韓国の同じ項目を読むと、対立は妥協と話し合いで解決されると書いてある。同じ東洋圏にあっても、韓国は女性型社会なのだ。日本は競争での解決を目指すので、妥協が起こりにくい社会と言える。よく、多数決が民主主義だという人を目にするが、これも競争型社会の特徴である。日本のような競争社会では、勝てば何をしてもよいのである。韓国は女性型社会なのだが、関与によって意思決定が行われるとされる。だから、日本と韓国ではデモのあり方が違っている。競争型の日本ではデモは「負け犬の遠吠え」とみなされるのに比較して、韓国では民意だと考えられている。韓国のほうがより包摂性が強い。

スウェーデンは極めて女性性が高く、すべての人に役割が与えられている状態がよい状態だと考えられているという。ラゴムという「過不足ない状態」をよしとする文化があるそうだ。みんなが納得するまで話し合いを続け、どんな人で社会参加ができる状態をよしとする文化は、日本のリベラルの人たちの憧れとなっている。が、スウェーデンは極めて包摂性が高い社会なので、彼らの制度をそのまま日本に持ってこようとしても支持されない。

が、現代の問題は競争が自己目的化しているばかりか、情報が古いままで止まっているという点だろう。韓国や中国に関する情報も昔のままで止まっているので、中国や韓国は「自分たちが勝てる」存在と認識されていると言える。多分、憲法を改正して軍隊が持てれば勝てると考えているのだろうが、それには根拠はないかもしれない。実際には、韓国の所得水準は日本と並びつつあるし、中国の技術水準は日本を上回りつつある。

この分析を読むと「何のために戦っているのだろうか」という疑問に意味がないということがわかったからだ。例えば組体操の目的は近隣の学校で一番高い人間タワーを作ることであって、それに何の意味があるのかとか、安全にできるかとか、それを作るのが好きかという質問には全く意味がない。とにかく、集団で競い合うことに夢中になっているのだから、事故で脊髄を痛める子供が出てきたら隠蔽されなければならない。競争の邪魔だからだ。

いわゆるネトウヨという人たちは戦争が好きなように見えるのだが、彼らは何のために戦うのかという点にはあまり関心がないのかもしれない。その頂点に立っているのが安倍首相であり、首相は彼らにとってみればヒーローだ。ここで、ポイントになるのは、この戦争はネトウヨの人たちの犠牲を伴わないという点だろう。何の代償も支払わず、勝っている実感が得られるという点が重要なのかもしれない。

そのように考えると、こうした永遠の闘争を繰り広げる人たちを右翼という言葉でくくるのはあまりよくない気がする。さらに面倒なのはこれに対峙する左翼の側の人たちも「紅組と白組」に分かれて戦っており、彼らにとってみても「その戦いにどんな意味があるのか」という問いにはそれほど意味がないのかもしれない。少なくとも闘争好きな左翼の人たちは「負けつつある戦い」を戦っているという意識があり日本人としてはあまり愉快な状態ではない可能性はある。

こうした、極めて競争的な国民性は発展途上国から先進国になるためにはとても有利だったと言えるだろう。が、先進国としては不安の方が大きいかもしれない。車が行きわたったら、今度は行った先でどう快適い過ごすかなどということが大切になってくるわけだが、日本人はそうしたことを考えるのが極めて不得意だ。さらに、競争に意味を見出せない人が増えてくるので、韓国や中国を叩いたり、弱者をいじめたりする競争へと移行してゆくのだが、これはあまり国力の増強には役に立たない。

つまり、日本は新しい戦前なのではなく、極めて無意味ながらすでに戦争状態に突入していることになる。だが、その戦争にお付き合いする必要はないように思う。闘争のための闘争などどう考えても無意味だからだ。

が、それがあまりにも日本の社会に深く根付いているために「居心地のよい社会を作るために、敵を倒す闘争に参加する」という、冷静に考えるとわけがわからない状況が作り出されている。

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金子恵美議員は謝罪すべきだったのか

金子恵美議員が子供を公用車に乗せて保育園に送っていたとして批判を受けた。現在総務大臣政務官だそうだが、総務省によると運用上問題はないということだ。他のお母さんが送り迎えに苦労しているのにずるいのではないかという指摘が多く、多分今後は自主規制するようになるのではないかと思われる。本人は一度釈明して「違法性はなかった」といった上で、今後はタクシーなどを利用するといっている。

金子議員本人はブログで問題はなかったがいろいろ考えるところはあったというような説明をしている。

個人的には1kmくらいしか離れていないので、一緒に歩けばいいのになどと思ってしまう。朝の良い散歩コースになるだろうし、子供もお母さんと一緒に歩ければいろいろな発見があって楽しいのではないだろうか。

が、ここでは、フォーマットに則って、金子恵美議員は何か悪いことをしたのかを考えてみたい。説明責任はエージェントである政治家が税金を適切に支出しているかを説明すればいいのだった。

例えば、私用で別の場所にある保育所に寄っていたとすれば、ガソリン代が無駄になることが考えられる。これは税金であり、厳密に言えば無駄遣いをしたと考えられても仕方はない。しかし、同一ルートにあるとすればこうした無駄は起こらないので、税金の無駄遣いという指摘は当たらないだろう。ここが舛添前都知事と違っているところだ。湯河原は東京から遠く、自宅と都庁との経路には含まれていないので「無駄遣い」ということはできる。

ところが、考えるべきなのは、それだけではなさそうだ。つまり、働くお母さんに保育所を提供するのはいいことなのかという問題が残る。国会議員や霞ヶ関の役人たちにだけ優遇された保育園を作るのはずるいのではないかという視点である。

一般に、働くお母さんでも仕事に集中できるように職場に保育園を作るというのは、企業利益にかなっていると言える。より多くの優秀なお母さんを雇用できるからである。これを国会議員や霞ヶ関に当てはめることは可能で、通勤時に子供を預けるということには、優秀な働き手が仕事をしながら子育てができるという意味では便益があると言える。

政治家の場合には、お母さん世代が政治に参加することでより現場の視点がわかるようになるというメリットもある。子育てを終わったおばあさん世代やそもそも子育てをしたことがない男性議員が作る政策はどこかちぐはぐなものになるだろう。

例えば。ヤクルトは職場に保育施設を作っていると宣伝しているが、ここに自動車通勤してくるお母さんが子供を同乗させたとしても社会的な問題にはならない。同じように、国会議員の場合には自分で運転をして事故を起こしてしまうと大きな問題になりかねないので、運転手付きの車を使うということは考えられる。

つまり、職場環境を整えるという意味で仕事の一環であるか、それとも福利厚生事業としてプライベートに留め置くかという議論はできる。例えば、東国原英夫氏は「子育ては私的領域であり」と一刀両断している。

少子化が進み、労働人口が減ってゆく中においてはこれまでの常識を乗り越えてでも働くお母さんに便益を図るべきだという考え方はなりたつだろうし、これによる経済効果も推計できるはずであり。つまり、視点を転換する必要があるように思えるので、これは十分に議論になり得ることなのである。

ここに出てくる問題は「バランス」と「信頼性」である。ベビーカーが電車に乗せにくいお母さんのために駅前に保育園を作ることも、同様に特別扱いではあるが十分に経済合理性がある。だが、一般の人たちが自民党は十分にやってくれていると思えれば、そもそもこれが問題視されることはないわけだ。

つまり、金子議員が考えるべきだったのは「個人の遠慮」によって丸く収めるということではなく、自民党が子育て世代からあまり支援されていないという可能性だったのではないだろうか。世論調査などから多くの有権者は、安倍政権の政策は特に支持していないが、他に変わる政党はないので黙認しているという状態になっている。このため、議員が特別扱いされているという負の感情が生まれるのだろう。

これを払拭するために金子さんがやるべきだったのは、働いているお母さんと一緒に現状を考えたり、どのような進捗があるかを説明することだった。ここまでやってくれれば、政治屋さんから政治家さんに昇格できるかもしれない。つまり、問題があるから説明責任を果たすということではなく、積極的に自身の説明責任を果たすために情報発信するということである。自民党には障害を持った子供を抱えている野田聖子議員のような専門家もいるのだし、民進党と協力しても(少なくとも有権者は)誰も文句は言わないだろう。

東国原さんの議論の浅はかなところは、政治コメンテーターの職業的な常識に溺れて、本来政治家が果たすべき役割について少しわからなくなってしまったことからきているのだろう。優秀な宮崎県のPRマンであり、発信力に定評があっただけに、そこが少し残念ではある。

この問題をややこしくしているのは、他者との比較なのだが、なんとなく「国会議員だけ優遇されていいのか」という嫉妬心を持った人が多かったのではないだろうか。だが、議論を見ていると、お母さんたちが「私が苦しんでいるのに、国会議員だけずるい」と言っているわけではない。あくまでも外野の人たちが騒いでいる。実は、自分たちの満たされていない気持ちを、配慮が必要な人にぶつけて楽しんでいる可能性が高い。説明責任と騒ぎながら、実は説明責任に関する議論が行われないのは、このような理由によるものなのだろう。

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