そもそもこの文章は「安ければよい – 日本の政治がよくならないもう一つの理由」というタイトルにしようと思っていた。アメリカでは大統領が間違ったことをいうと消費運動が過激化するので、大統領といえども好き勝手な行動ができない、ひきかえ日本は……というようなラインである。だが、どうもそうした見方は正しくないようだ。
日米で社会が分断していることは間違いがなさそうだが、それを政治が助長している。だが、政治は社会を統合するための装置だったはずである。いったい何が起こっているのだろうか。
アメリカで経済助言機関が解散した。日経新聞は次のように伝える。
米経済界の乱―。16日の米主要企業トップによるトランプ米大統領の助言機関からの離反の嵐は、白人至上主義者を巡る言動を改めないトランプに対する明確な「ノー」の意思表示だ。米企業にとってこれ以上、トランプ政権の助言機関にとどまることは、社内外からの批判を呼ぶ経営リスクだった。米経済界とトランプ氏に生まれた溝は簡単に埋まりそうにない。
経営者としては大統領に助言できた方が有利のように思えるが、それでもトランプ大統領に近いとみなされることは経営リスクになりつつある。ここだけを切り取ると、寿司を一緒に食べただけで浮かれているジャーナリストたちや、特区制度を利用して利益誘導を図る経営者たちに聞かせてやりたいと思う。
トランプ大統領とのつながりが経営リスクとみなされるのは、それが不買運動につながりかねないかららしい。有色人種だけではなく白人至上主義者だと思われたくない白人が不買運動を起こす可能性が高いのだ。
だが、調べてみると、アメリカの不買運動はかなり過激なレベルに達しているようだ。そしてこうした運動に火をつけてしまったのは皮肉なことにトランプ支持者の側らしいのだ。例をいくつかあげよう。
- ブライバートから広告を撤退させたケロッグに抗議してケロッグ不買運動が起こり株価が下落した。「コーンフレークのケロッグ、トランプ支持の極右ニュースサイトと全面闘争へ」
- ペプシはトランプ候補に反対しているという噂が立っただけで不買運動に巻き込まれかけたのだそうだ。「トランプ支持者がペプシの不買運動、虚偽ニュースにつられる」
- スターバックスにも不買運動があった。移民排斥の動きに抗議したスターバックスに対して反トランプ主義だとして反対運動が起こったのである。
- 反トランプ側も負けてはいられない。トランプ大統領の支持を表明したニューバランスにも不買運動が起こった。「米ニューバランスに抗議運動 トランプ氏支持で標的 」
- 反トランプ運動を応援するために、イバンカ・トランプ商品の排除を決めたデパートで購入してそれをSNSで報告するという動きがある。
ここまでの状況を調べると政治的な動きが消費運動に直結するのは少し行き過ぎのように思えるし、日本の消費者は節度があるなと思ったりもする。だが、それも間違っているらしい。
最近、Twitterで牛乳石鹸のウェブCMが炎上したという話が流れてくるようになった。上司に怒られた後輩を慰めるために飲みに連れて行くが、ちょうど子供の誕生日だったために奥さんに嫌味を言われるという話である。自分の父親世代より男性の地位が落ちていることを嘆く内容になっている。これが気に障ったという人が多いようだ。
実際にコマーシャルを見てみたが、確かに意味不明ではあるが、炎上するような内容には思えなかった。
この裏には、父権意識に対する過剰な敵意があるのだろう。自分の時間を仕事の延長である酒席に割り当てなければならないというのも炎上の原因の一つなのかもしれない。特に若い人が見ることが多いWeb CMだったことも騒ぎが大きくなった原因かもしれない。
日米の態度には大きな隔たりがあるように思えるのだが、共通点もある。かつて特権を持っていると考えられていた人たちが「被差別者」として屠(ほふ)られるということである。アメリカでは白人であるだけで「人種差別主義者である」と考えられる危険があるため、ことさら多様性の擁護者を気どらなければならないし、日本では男性であるだけで女性差別の潜在的容疑者とみなされるために、ことさら男女同権に気を配らなければならない。
日本人は表立ってこうした父権に抗議することはない。会社でそれをやると職を失うリスクがある。そこで匿名集団で抗議するのだろう。一方でアメリカは自分の意見を言わない人間は人間扱いされないために意見表明が集団の中で過激化してゆく。日本は集団行動が過激化しやすく、アメリカは個人間の行動が過激化する。
日本ではこうした父権の肩身の狭さが日本会議などの過激な復古思想になり現政権を支えている。家族の意義をことさらに強調し男性が威張ることができていた昔を再創造するのが彼らのゴールなのだろう。これが「戦争に向かっている」という被害感情を生み、政治が分断されている。アメリカでは白人至上主義者がトランプ大統領を支えている。
そもそも社会はこうした分断の可能性をはらんでいるのだろう。だが、そうした不満を別の(できればより生産的な)方向に向かわせるのが政治の役割であったはずだ。そうした役割が失われて、むしろ分断を加速する方向に進んでいるのが、日米の共通点なのではないだろうか。
これは、市場主義型の民主主義社会がかつての約束を守れなくなっていることを意味しているのかもしれない。それは、みんなで頑張れば暮らしが良くなり楽しい思いができるという約束だ。
確かに我々が実感するように資本主義が我々の生活を改善するというのは幻想である可能性が高い。が、みんながそれを信じている限りにおいては幻想にはならない。だから、政治はあたかも資本主義という神様がいるかのように儀式を積み重ねる必要がある。つまり、資本主義はそもそも宗教に過ぎないかもしれないのだ。
つまり、アメリカや日本では宗教としての資本主義が死にかかっているのかもしれないということになる。