選挙とデモでわかったリベラルの課題

選挙が終わって2日間、なぜ自民党が勝ったのかということを考えていた。選挙日から政治系の記事に多くのアクセスが多く集まったからだ。日本人は表立って何かを言ったりはしないのだが、かなり集団的に動く。だから、一挙に動向が変わるのである。

アクセスが集まったものを眺めていると、あるべき姿と現実との間にギャップがあり、それが受け止められなかったのではないかと推察される。政治的ブログというのは自分の理想とする政治をプロモートするのが目的なのだろうが、その意味ではこのブログは政治的ブログではないのかもしれないとも思った。それよりも認知的な不協和を癒して悩みを癒したいという人の方が多いのだろう。

認知的不協和を修正するためには現実か自分の認知を変える必要がある。現実が変わらないわけだから自分の認知を変えるべきだろう。これが叶わないと怒りの感情が生まれる。

例えばTwitter上では「有権者は愚民だ」とか「バカだから」という声が渦巻いていた。気持ちはわからなくはない。安倍首相に政治家としての意欲があるとも思えないし、困った人を助けるのが政治だとしたら目の前で起こっていることはでたらめとしかいいようがない。安直な言い方をすれば「正義はない」ということになるだろう。

ただ、見たことがない有権者を愚民とか家畜などと罵ってみても状況は改善しない。却って離れてゆくだけだろう。

例えば、選挙に行かないような人たちを選挙に行かせて正義をなすように働きかけるにはどうしたらいいだろうかなどということを考えてみるとよい。例えばお昼頃のコンビニの駐車場にはたくさんの車が停車していて車内でぼんやりと過ごしている人が多い。多分、昼休みに食堂に入るお金もないのだろうし、そもそも立ち寄れる事務所すらないのだろう。1日誰とも話さないで黙々と荷下ろしをしている人もいるだろうし、誰も話を聞いてくれないのに知らない家のドアを叩いて売れるはずもない品物について話をしようとしている人もいるのではないか。同じようなことを毎日繰り返して対して希望も持てなくなっている人と話すために、トントンと車のドアを叩いて「愚民ども選挙に行け」などと言ったら何が起こるだろうか。多分殴られるかもしれないが、選挙に行ってくれる人はいないのではないだろうか。Twitterで「愚民」とか「家畜」などというのはつまりそういうことだろう。

かといって「立憲主義は素晴らしいもので、あなたには理解できないかもしれないが、日本の政治にとって必要である」と訴えたところでどうなるものでもない。「ご高説を垂れる賢いあなた」に対して敵意を向けることになるのではないかと思う。人は誰かが自分よりも賢いと認めるのが嫌いだからだ。

こういう人たちを選挙に行かせるためには多分なんらかの欲求を満たしてやる必要があるのだろう。これを外的インセンティブという。例えば、金券を配るとかみんなで(多分きれいな女の人なんかがいいだろう)褒めてやるとか、そういった類のことだ。しかし、それで「立憲主義がなされるような」政治が実現できるだろうか。とてもそうは思えない。権力を私物化したい側の人たちが同じことをすれば、外的インセンティブで動く人たちは容易にそちらになびくに違いない。

そもそも、どうして多様性が包摂されるような政治がなされるべきなのだろうか。この答えを導くのはそれほど難しくはない。アメリカやヨーロッパで繁栄している地域は包摂性が高い地域が多い。これにはいくつか理由があり、その理由を知ることで少なくとも「なんだかモヤモヤとした気持ち」を払拭することはできる。それを自発的に知って理解するのは大切である。

例えば多様性がある都市は付加価値を高めて高度な産業と才能のある人たちを惹きつける。こうしたことはリチャード・フロリダダニエル・ピンクなどの著作を読むと理解できる。また、ダンカン・ワッツなどもスモールワールド現象を引き合いにして「弱い絆」が成功のためには有益であるなどということを書いている。人々が出入りすることで新しいアイディアが生まれて成功しやすくなるからである。新しいアイディアを生み出すためには多様なインプットがあった方が良いわけである。

実際には多様性の推進というのは経済的実利に基づいた話であって、共産主義などとはあまり関係がない価値観なのだ。

同じように女性が働きやすい環境にあった方が経済が豊かになる。単純により多くの才能が経済に向かうからである。さらに消費者の半分は女性なので女性に受け入れられやすい商品やサービスが生まれる。これも特に左派思想とは関係がない。

問題なのは当のいわゆる左派リベラルの人たちがこのことを信じていない点にあるように思える。そういう社会を見たことがないからだろう。農業しか国の経済がない人に「映画や演劇を見せる仕事がありますよ」などと言っても信じてはくれないだろうし「何も用事がないのに車で遠くに出かける」ために車を買う人がいるのですよなどといっても笑われるに違いない。それはエンターティンメントやドライブなどという概念を見たことがないからである。同じように多様性を知らなければ多様性を信じることはできない。

加えて、リベラル=共産主義という思い込みがあり、さらに共産主義=社会から受け入れられないという決めつけがある。つまり自分たちで自分たちのことを縛り付けている。考えてみると奇妙な状態になっている。

何人かの人と話をしてみた。

ある人たちはデモをやっても何も変わらない現実に負けかけているようだ。原発反対のビラがなくなり、特定の政党を応援するポスターが消え、戦争法反対のポスターもなくなり、憲法第9条の勉強会も行われなくなった。彼らが抱えている問題は例えば姑の介護の問題とか、子育てをしている間は会社のキャリアからは脱落するとかそういうことである。しばらくお勉強会や抗議運動をしているうちに、社会に怒ってみてもその声はどこにも届かないし、自分が見放されている現実というものは変えられないという現実に直面してしまうのだろう。そこで「難しいことはわからない」と政治から引きこもってしまうのだ。

こうなると、気がつけば「安倍政治を許さない」というビラだけが扉に貼ってある。もう「許さない」ということしか訴えたいことは残っていないということになる。彼らがこの数年で学んだのは絶望することだけである。希望を抱くから絶望するのであり、だったら最初から期待しない方がいいということを学ぶのだ。

また別の人たちは自民党のおごった政治に辟易しているのだが、よく聞いてみると「自分と同じ考えの人がいないか」を街に出て確かめたことはないようである。だが言いたいことは色々とあるので、長い返信を書いてきたりする。こういう人たちはまだ絶望できていないということになる。

ここでできることは何だろうかと改めて考えてみた。第一には現実とありたい姿の間に乖離があるということを認めることなのではないかと思った。その上でどうしたいのかということを考えてみるべきだろう。

ただ、こういう鬱屈とした思いを抱えている人たちは大勢いるはずだ。だから、仲間を探すこと自体はそれほど難しいことではないのではないかと思う。仲間を探すのが嫌だと思う人は多様性や創造性について勉強してみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、まずは怒りや苛立ちについて見つめてみなければ、何をすべきかは見えてこないのではないかと思う。

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排除の論理の論理

小池百合子東京都知事が排除の論理を言い出した。これにたいして「政党は同じ考えを持った人の集まりであるから政策による排除があっても当然」という擁護論を見かけた。ただ希望の党が躍進すると日本はかなり悲惨な状況に陥ることが予想される。

  • 国民は希望の党が後日決定する法律に無条件に従え。
  • 国民は希望の党が後日決定する税を無条件に支払え。
  • すべての結社は禁止され、ガバナンス庁がこれを監視する。

だから、小池擁護に回る人は間違っているのだが、それが「間違っている」という反発意見にもどこか説得力を感じない。それはこの議論には一つ大きなものが欠落しているからだ。あまりにも大きすぎるので却って見えにくいのかもしれない。

もともと政党は同じ考えの個人が仲間を募るというものだ。例えば、平等な世の中を作りたいと考えている人は共産党を組織するし、宗教団体が政治に影響力を与えたいと考えると公明党ができる。

こうした政党の理念にはそれなりの説得力があるので、有権者に影響を与えて自発的に賛同者が集まる。現在この過程が進んでいるのが立憲民主党である。本当は演技なのかもしれないが「草の根的に盛り上がった」という演出をしており、それなりの共感が広がっている。

人々は自分で考えて納得した主義にはより従いやすいので共感は重要である。ある考え方や組織に共感して自ら従うことをコミットメントという。人々がコミットするように働きかける人をインフルエンサーと呼ぶ。枝野さんはリベラルな人に「影響力がある」インフルエンサーであると言える。

ところがよく考えてみると、インフルエンスにもコミットメントにも適当な日本語の訳がない。先日見たリベラルが混乱して受け止められているのを見ると、インフルエンスもコミットメントも理解されていない概念なのかもしれない。

そもそも、日本には人々は自分の信念に基づいて自発的に協力するという概念がないので、それに関連する日本語がない。だから小池百合子さんが自分の主義を押し付けて議員をコマのように使ってもそれほど違和感を感じないのかもしれない。

しかし、このトンネルには裏側がある。それは「日本型の合意形成はどのように行われていたか」という視点である。

日本人は個人には意見がないと考えている。まず小さな組があり、その組がより大きな組を作る。最終的には集団が代表を出し合って、中央にいる空白を祭り上げながら意思決定を行う。つまり、誰も何も決めず、従って誰も排除されないという構造を作るのである。集団主義などと呼んだりもするのだが、どこまでも集団がつきまとうのが特徴である。

ここで重要なのはこうした意思決定の構造を温存するのが「日本型の保守である」ということだ。意思決定は利益の追求と分配のための装置だから、日本の保守は思想ではなく、いわば生業のようなものである。いずれにせよ、保守が成り立つためには日本人がどのように意思決定しているのかということを理解するか、意思決定を支えている構造を丸ごと温存する必要がある。前者は暗黙知の形式知化であり、後者は暗黙知をホールドする装置の温存である。

小池百合子の排除の理論が間違っている理由はこの2つの通路から説明ができる。第一に西洋型の民主主義を理解していないという批判ができる。次に、古くからある日本型の意思決定プロセスを理解していないと言える。

日本の政治団体を見ていると末端の人たちはそもそも信念に基づいて行動しているわけではなく、たまたま近しいからという理由で政治家を信じているに過ぎないように見える。今回民進党はいったん前原さんのいうことを信じたが「組織がそう動く以上従わなければならないと思った」と考える人が多いようである。加えて地方組織には情報が全く降りてこなかったようだ。これは民進党が西洋型の意思決定を行っていなかったことを示している。

いずれにせよ、第一の通路から小池さんを批判することは難しいように思える。もちろん立憲民主党が西洋型の民主主義正統になる可能性はあるのだが、草の根は選挙向けの演出にすぎないという可能性は捨てきれない。

ゆえに、希望の党は日本型の意思決定を逸脱していると考えた方が、批判としては説得力がありそうである。だが、残念ながら民進党右派の崩落はとてもわかりにくいものになっている。小池さんの政治手法は希望の党だけを見ていてもわからないが、都民ファーストの会と合わせると次のような特徴があることがわかる。

  • 都民ファーストの会では派閥の設立につながるような食事会が禁止されている。
  • 都民ファーストの会では議員が個人で有権者とつながるようなSNSの利用が制限されている。
  • 希望の党では明示されない「党の(とはいえその党が何を示すのかがわからない)方針」に無条件で従うことが求められている。
  • 希望の党ではガバナンス長が設置され、議員の思想と行動がチェックされる。
  • 希望の党では明示されない「党の求める金額」を収めることが要求される。党が誰なのかは明示されないし、金額も提示されていない。

この一連の方針を見て思う疑問は次のようなものだ。

  • 小池新党はどのようにして利益を分配するのだろう。
  • 小池新党はどのようにして意思決定し、どのようにして利害調整をするのだろう。
  • なぜ人々は小池新党に従うべきなのであろう。

一つだけ確かなのは、小池さんは日本型の持続可能なガバナンスについて何も理解していない。日本型の意思決定はとても複雑で冗長なので、前近代的で無駄なものに思えてしまうのだろう。と、同時にそもそも意思決定をしてこなかった民進党右派の人たちも日本型のガバナンスについての理解がない。

自民党は派閥主導の集団指導体制であり、集団は各種の利益団体によって支えられていた。つまり小池さんがしがらみと呼んでいるものが実は意思決定においては本質だったのである。

集団が代表を定期的に交代させることによって、ある集団が暴走せずすべての党員が意思決定に参加できるようになっていた。ところが、ある時点からなぜか党派同志の対立が吸収されなくなってゆく。すると場外乱闘が起き、小政党ブームの一つの要因になった。

保守はもともと思想ではないので、利害関係の調整と大きく結びついている。だから、政党が党員に利益を分配できなくなると保守思想そのものが消滅してしまう。そこで着想されたのが特区構想なのだろう。もともと小池さんは女性であるという被害者意識のために利益分配してもらえないという疎外感を持った人なので、保守的な意思決定をネガティブに捉えているのかもしれない。

こうした保守機構のアウトサイダーだった人たちが作ったのが希望の党であり、どういうわけか独裁・全体主義化してしまった。それは「無条件に私に従え」とか「私が指定する金額を貢げ」というようなものだ。前者は意思決定に関わっており、後者は利益分配に関わっている。

これが国政レベルで展開すると、個人は集団に無条件で従えという社会が構築されることになる。そしてそれは保守の完成形ではなく保守の残骸だ。議員に要求される項目を社会に展開すると次のようになる。

  • 国民は黙って私が指定する税を支払え
  • 国民はガバナンス庁が監視せよ。
  • 国民は私が指定する法律に賛同し無条件に従え。

よく、小池新党系のこうした約束を反社会組織になぞらえる動きがあるのだが、これは実は当然である。彼らも社会のアウトサイダーではあるが形式への信仰は保持している。同じような形式は新興宗教にも見られる。小池さんを「組長」とか「教祖」に置き換えてもそのままの形で通用する。実は日本型組織の残骸としては極めて一般的でありふれたものなのだ。

このような問題が起こる理由を考えてみたい。第一には保守を支える利益分配の仕組みが国レベルで壊れつつあることを意味している。次に日本の保守には「正統な」という思い込みがあるので、何が日本の保守であるべきかということを考える人がいなかった。だから、形式に内臓されている暗黙知が崩れてしまうと、保守思想そのものが再現不能になってしまうのだ。

左派リベラルには抑圧され差別されているという被害者意識があるので「では日本流の左派リベラルはどのようにして存在し得るのか」という認識を持てる。つまり、リベラルと保守を比べた場合、保守の方がより危険な状態にあるということがわかる。

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意気消沈する左派リベラル

たまたま行きがかりで政治ネタを書いている。だが、マスコミやネットの情報だけだと現実的なパースペクティブを失ってしまうので、時々現場の人に会うようにしている。だが、今回はかなりショッキングだった。左派リベラルは壊滅しかかっているとすら思えた。

だがもともとさほど実体のない運動であり、下手に政治に関わってしまったゆえに無力感を感じているのかもしれない。つまり、反政府的な盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

民進党の市議の事務所は「来週はどの政党の応援をしているのかわからないが、ボス(奥野総一郎)が比例票頼みなので政策に構っていられないだろう」といっていた。この人は特に政党に思い入れがあるわけではないパートのお留守番の人である。だが、お手伝いなどで他事務所との交流があるらしく、先生方に対して独自の見解を持っていた。

例えば「小西ひろゆきさんが一夜にして豹変したのは面白かったですね」というと「東大出身の人は変な人が多いんですかね」と言っていた。小西さんは変わり者として知られているようだ。中央からは指示はないが民進党ののぼりは表に出さないようにしているということである。賢明な判断かもしれない。だが、意思決定はできないしそのつもりもない。単に「上から降りてきたことを守るだけ」だという。

しかし、本人が信じていないことに対して相手を説得できるはずはない。この辺りが野党の限界だったかなとも思う。

もう一方の市民ネットワークの事務所はさらに悲惨だった。もともとは主婦の助け合いグループをやっている団体で、その傍らでお勉強会をやっている。ここでは「私は単なる留守番なので政治のことはわからない」と必死の形相で断られたのだが、これも以前にはなかったことだ。本部に連絡したところ「情報がなくよくわからない」という。本部には戸惑いの表情があった。このままでは改憲勢力が多数になるのではというと「それは避けたい」と言いつつ「もう国政には関わりたくない」というスタンスのようだ。左派リベラル政党がいろいろと好き勝手なことを言ってくるので、かなりまいっているのではないかと思われる。

このスタンスは徐々に広がっているようで参議院選挙の時も自主投票だったようである。つまり左派リベラルの亀裂は徐々に進んでおり、市民団体が手を弾きつつあることがわかる。つまり無党派層が政治から離れているだけではなく地方の支えても距離を取り始めているようなのだ。

もともと彼女たちが政治に関わるのは「なんとなく社会にも意識があってえらい」と思ってもらいたいからである。にもかかわらず、政治に参加すると難しい議論を吹きかけられたり揶揄されたりする。これでは「立派だ」と思ってもらえないのだから、彼女たちが距離をおくのもわからないことはない。

いずれにせよ、どちらにも「私は政治のことはよくわからない」という諦めに近い気分が蔓延している。これが現在の左派リベラルの実体2近いのではないかと思う。盛り上がっているのは永田町だけである。

地震の後の反原発運動や、安保法制の制定時にはそれなりに盛り上がりがあった。

それは一連の運動が「戦争はダメ」とか「きれいな環境を子供達に残そう」という単純で立派なメッセージに依存していたからであろう。

だが、現在では同じ人たちが意気消沈している。目の前で議員たちが右往左往しているのを見ているのだから恥ずかしいという気持ちになっても当然といえば当然なのだが、一方で革新というのは今はない社会の実現を目指すのだから本来的に孤独であるとも言える。だが、均質な村落社会しか知らない人たちにそんなことを言ってみても無駄であろう。

デモに参加していた人たちは勉強会などで同じような考えの人たちに囲まれているうちに「これが99%の声である」と思い込んだのかもしれない。デモに参加しても同じような人たちがいて一体感を味わっていた。しかし、デモは現実の政策に何の影響も与えなかったし選挙結果も変えなかった。それどころか戦況はどんどん悪くなる。

つまり盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

だがこれを左派リベラルの壊滅と考えるのもまた一方的すぎる見方かもしれない。

2009年の政権交代のときには自民党の人たちが同じように感じていた。「公共事業は全て悪である」というような極端な空気があり「話を聞きたい」などというと「お前は民主党の差し金で俺たちを笑いに来たのだろう」という極端な被害者意識があった。

どちらも実体のない被害者意識だが、現実に存在し、我々の周りに蔓延している。自民党はこの被害者意識から抜けらえず「民主党が勝ったのは国民がバカだからだ」という世界観を持つに至り、憲法改正案に天賦人権の否定という極端な主張を取り入れることになった。

デモが盛んだったときにはわからなかったことだが、デモはかりそめの一体感と引き換えに、その後の極端な鬱状態という副作用を引き起こすようだ。

その裏には政治リテラシーがない人たちがかろうじて政治を支えているという事情がある。自分で考えることがなく、答えをコピペしていることから起こるのだろう。

この状況をどう見ていいのかはわからないのだが、とりあえずありのままに報告しておきたい。

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武装難民

武装難民という言葉が一人歩きしている。参加している人たちは見たくない現実を見ないために、相手を非難している。見たくない現実は2つある。日本が核兵器で攻撃されるというシナリオと日本に難民が押し寄せてきてその中に武装した人たちが含まれているというシナリオである。だが、北朝鮮を刺激するということはこのシナリオの現実性が高まるということでもある。

いわゆる右派と呼ばれる人たちは序列にこだわる人ので「優れた集団である我々」が「弱くあるべき人たちを支配する」図式については語りたがるが、その結果として社会に悪い影響があるかもしれないという点については語りたがらない。一方、お花畑系左派はすべての「かわいそうな人たち」は保護されるべきであって、その中に悪意を持った人たちがいるという可能性を排除したがる。だが、どちらも間違っていて危険な考え方である。

麻生副総理の言及するように武装難民はあり得ることである。だが、こうした人たちが生まれるから北朝鮮を刺激すべきではないとの結論にすべきで、撃退できるか議論しなければならないと話を進めるのはどう考えても間違っている。この類のことは政府内部で極秘に検討すべきことで、茶飲話で済む問題ではない。安倍首相は想定していると語ったようだが、この人は福島第一原発はアンダーコントロールだと言い放った人なので、全く信用はできない。

いわゆる難民と呼ばれる人たちには保護を与えなければならないのだが、日本は無条件に難民を受け入れた経験が少ない。新羅からの難民を受け入れたのを除けば、米軍占領時に朝鮮半島から流れてきた人たちを受け入れたのが多分最大の難民経験ではないだろうか。彼らは「不法に」海峡を渡ってきて、そのまま日本に住み着いた。1951年以前の当時はまだ難民という法的枠組みはなかった。

ベトナムからのボートピープルは主に中国の海岸に流れ着いたようだ。最終的には香港が受け入れたようで、その大部分はアメリカに流れた。アメリカはいわば当事国であり、受け入れは自然な流れだったのだろう。同じように今回日本は北朝鮮を追い詰める以上、難民を受け入れる必要が出てくるだろう。

ベトナムの場合逃れてくるのは一般の人たちだった。主に華僑が多かったようだ。しかし、北朝鮮にはこれとは違った現実がある。これは軍事組織の統制が取れている平和な国日本に住む私たちにはなかなか想像が難しい現実だ。つまり、北朝鮮が組織的な意図を持って便衣兵的に日本に人を送り込むというのとは全く違ったシナリオが予想できるのである。

北朝鮮の軍隊はすでに飢餓が進んでいると言われている。ゆえに軍隊の人たちが難民化する可能性がある。加えて北朝鮮は兵隊の割合の高い国だ。人口は2400万人程度だそうだが、兵士は120万人もいるという試算があるという。つまり、北朝鮮は一般の人たちに近い人たちが武器の扱いを知っているという国だと言える。こうした人たちは移動用の船と武器を持っている可能性が高く、普通の人たちよりも早く日本海沿岸に流れ込むかもしれない。しかし、軍として統制されている可能性は低い。この人たちを軍人として扱うのか、それとも難民として扱うのかというところから意思決定が必要となるのだが、悠長に議論をしている暇はない。また現在日本海の不法漁船を取り締まることができないことからわかるように日本海を監視して船を追い払うことも不可能だろう。

右派の人たちがこういう話を持ち出すと、やれ関東大震災の朝鮮人虐殺だというような話になってしまうので、ここはあえてリベラルな人たちが議論しなければならないように思える。つまり、彼らを人道的に取り扱いつつ、危険を取り除いて受け入れる側の人権にも配慮しなければならないのだ。

軍としての統制がないにしても、攻撃する意思がないとは言い切れない。これを軍事行動だと言いつのることはできるだろうが、日本には交戦権がない(正確には交戦権のある軍人がいない)ので、彼らと戦闘はできない。攻撃の意思を示す前に撃ち殺してしまえば明らかに過剰防衛になってしまう。かといって何もしないわけにはいかない。難民審査官と呼ばれるようになるだろう人たちは「丸腰」だろう。日本海にこうした人たちが流れ込んでくれば、海岸警備はとても厳重なものになるだろう。

この人たちが「いい人なのか」「悪い人なのか」という議論にはあまり意味がない。もしかしたら親孝行な兵士も多いかもしれないのだが、現実は日本人が想像するよりはるかに過酷なようだ。実際に中国領内に北朝鮮の兵士が侵入したという事例があるそうだ。デイリーNKのリンク先を見るともの乞いまがいの行為を働いたりしている人たちもいるという。しかし、こうした人たちを一概に責めることもできない。食べるものもなく、上納金を払えなどと言われて追い詰められている人たちなのである。環球時報は北朝鮮の兵士が現地の中国人4人を殺したという事件を伝えている。中国や韓国が一方的な軍事行動に慎重な姿勢を示すのはこのためもあるだろう。

この麻生さんの「武装難民」の話を聞いた時にまず考えたのは、北朝鮮が内戦化し、周辺に流れ込んだ武器が陸地伝いに周辺国に伝播するというシナリオだった。北朝鮮と日本は陸続きではないので、このシナリオを真剣に検討する必要はないのかもしれない。だが、ボートピープルの中に武装して武器が扱える人が乗っている可能性は排除できないし、お腹をすかせた彼らが何をしでかすかはわからない。

安倍首相が「北朝鮮を追いつめろ」といい河野外務大臣が「北朝鮮と断交しろ」といったとき、日本にも武装してなおかつ追い詰められた人たちが日本にやってくるだろうという現実を踏まえたものなのであれば、それはそれで立派な態度だと言える。だが、その場合は「国連で戦争を覚悟する発言をしてきました。ぜひ応援してください」と訴える必要がある。だが、安倍政権は国民に「いちいち」そんな「些細なこと」を説明するつもりはないようなので、誰か他の人が考えてやる必要があるのではないだろうか。

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冷笑と炎上の間で日本の政治は徐々に悪くなってゆく

面白い発見をした。この発見を元に、日本の政治家が変わらないのも政治家がバカばかりなのも日本人が鏡を見ないからだという説を唱えたい。

ある日気になるTweetを発見した。日本人は権力に唯々諾々と従っている奴隷思考だというのだ。多分、安倍首相のようなでたらめが放置されていることに憤っているのだろう。気持ちはよくわかる。だが疑問に思ったこともある。「自分は政権の奴隷だから決められたら従うしかない」と思っている人を見たことがないのだ。俺に政治をやらせたほうがうまく行くと考えていそうな人は多いし、政治系のニュース番組も人気がある。「政府がこんなことを決めましたから守りましょう」などという話はなく、政治家がいかに愚かでめちゃくちゃかということばかりを報道している。このブログでも「なぜ政治家は馬鹿なのか」というエントリーにはとても人気があるくらいだ。

そこで、素直にそれを聞いてみることにしたのだが、聞くときに「これはレスがつかないだろうなあ」と思った。だが、そう思った理由はわからなかった。30分ほど経って「私」が主語になるのがいけないんだろうと思った。

冒頭のツイートの「日本人は」というのは、実際には「私以外のみんなは」という意味である。つまり自分は政府に唯々諾々と従うつもりはない。そしてそれは「私以外のみんなは劣っている」という含みを持っている。つまり「有権者も他人もみんなバカ」という意味である。

だから、これが自分に向いてしまうと「私は劣っている」ということになってしまい、許容できないのだろう。だから、聞くならば「日本人は政治の奴隷ですか」というような聞き方をしなければならなかったことになる。この主語だと「私は違うけどね」という留保ができるからである。

結果的には7票集まった。「私が政治を変えられる」という人が2名いたのが救いといえば救いである。

あまりレスがつかなかったので、野党に対して冷笑的なツイートをしてみた。こちらにはぼつぼつレスポンスがあったので、特にツイッターが壊れているとか、嫌われたということではなかったようだ。

野党がだらしないとか安倍さんが戦争を従っているというようなツイートには人気があるので、政治に興味がある人は多いはずだ。では、なぜ「私」がこれほど忌避されるのだろうか。

試しに自分で同じ質問をしてみたが、答えは「私は政治を変える力を持っている」になった。実際にはそれは大変難しい作業ではあるが、社会は個人の集積に過ぎないので実際に変えられるのは個人の力だけであると言っても良い。

しかし、実際にやってみるとうまく行かないことの方が多い。地方自治体に話を聞きに行ってもたいていは相手にされないし、政治家の事務所などでも「感じ方はそれぞれですからね」などと言われて終わりになることが多い。実際に接してみて感じるのは、日本人は個人の意見をないがしろにするということだ。肩書きやどれくらい仲間がいるかということが重要だ。言い換えれば騒ぎになりそうなら対応してもらえる。よく炎上が問題になるが、これは仕方がない側面があると思う。つまり、炎上させないと個人の意見は放置されるが、いったん燃え広がると相手が右往左往することになり立場が逆転するからだ。この間がないので炎上がなくならないのだろうと思う。

だが、時々こういうことをやらないと、逆の万能感に支配されることになる。つまり何もしないで単に政治批評ばかりしていると何もしないがゆえに自分はやる気になればなんでもできると思ってしまうのである。つまり、鏡を見ない限りは優越的な立場でいられるわけである。

これは例えていえば、プロ野球で金本監督をヤジっている阪神ファンが実はプロ野球の現場では一球も打てないという現実を突きつけられるようなものである。だから「阪神は打線を充実させるべきだと思いますか」とは聞いてもいいが「じゃあ、お前はどれくらい打てるかの」などと聞いてはいけないとううことになる。

日本人の集団に対する期待と個人を信じない態度はなにも国民の間に見られるだけの態度ではない。

例えば、安倍首相は軍事的には何のプレゼンスもなく、国連で聴衆が集まらない程度の人望の指導者に過ぎないが、世界一強い国とお友達であるという理由で気が大きくなっているようだ。世界中が呆れる中で「北朝鮮を追い詰めるべきだ」と叫んで演説を終えた。これは個人(日本一国)では何もできないという気持ちの裏返しなのだろう。

この危険性は極めて明確だった。つまり、安倍首相は集団思考に陥ってくれる。つまり「アメリカがなんとかしてくれるだろう」とか「国際世論を北朝鮮避難に向けることができればあとはなんとかなるだろう」という態度になっている。日本には当事国意識はなく、北朝鮮が暴発した時に責任をとるつもりはなさそうだし、その能力もないだろう。

全体主義について見ていると「私が声をあげても何も変わらないだろう」という無関心が、やがて社会を破滅に導いてゆくというはっきりとしたストーリーが見える。日本がそうなっているとは思わないのだが、悪い兆候も見られる。若い人たちの中には、右翼的なことをいうと注目してもらえたり、左翼的な人たちを「釣れる」と考えている人がいるようだ。また、漠然と普段から右翼的な物言いをしていると政治的に優遇してもられるのではないかと考えている人もいそうだ。つまり、炎上と冷笑を繰り返すこの政治的態度は次の世代にかなり歪んだコミュニティ像を作っているように思える。

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All for All – 日本は全体主義の国になったのか

このところ全体主義について書いている。テーマになっているのは日本は全体主義の要件を満たしていないのに、なぜ「全体主義になった」といいたがる人が多いのかというものだ。実際にこのブログの感想にもそのようなものがあった。多分、安倍首相が全体主義的だと言いたいのだと思う。

全体主義には幾つかの背景がある。なんらかの競争があり、弱い個々のままでは勝てないから個人を捨てて全体に奉仕することを求められるという社会だ。しかしそれだけではなく全体から零れ落ちる人が出てくる。例えばナチス政権下のユダヤ人や障害者は全体には入れてもらえず、排除されなければならないと考えられた。

前回「シングルマン」を見た時に中で出てきたハクスリーの「すばらしい新世界」について少しだけ調べた(シングルマンにすばらしい新世界が出てくるわけではない)のだが、このディストピアではエリート層を支えるためには知能が低く外見的にも劣っている下層な人たちが必要と考えられていた。イギリスとドイツの違いはここにあるように思える。ドイツでは下層で醜いとされたユダヤ人は抹殺されなければならなかったが、イギリスではエリート層を支えるためにはこうした人たちが必要だったという認識があったようだ。階級社会であり、なおかつ古くから植民地経営をしていた国と後から乗り出した国の違いだろう。

このことからグローバリゼーションのような枠組みの変更が全体主義の成立に大きな役割を果たしていることがわかる。冷戦化の世界では下層で醜いとされた人たちは社会の外側におり直視する必要がなかったし、それに保護を与える必要もなかった。ところが、グローバリズムが進展しこうした人たちが社会に流れ込んでくると、それをどう扱うのかということが問題になる。建前上は同じ人間だからである。

特にアメリカは奴隷出身の人たちにも市民権が与えられており、本来は法的に保護を与えられないはずの不法移民たちまでが社会保障を要求している。経済的に豊かな白人はそれでも構わないが、余裕のない人たちにとっては許容できる範囲を超えている。そこで白人至上主義という全体主義的な主張が生まれるわけだ。だが、自分たちが下層階級の仕事をやろうという気持ちがあるわけではない。社会の外に追い出して自分たちだけは特権を享受したいという気持ちなのだろう。

アメリカやヨーロッパは移民の流入を許したことが全体主義を蔓延させる要因になっている。だが日本はそこから「学んで」おり、技能実習生という制度を作り労働力だけを移入したうえで社会保障の枠外に起き、定住させないように結婚や子供を制限するという制度を作った。ゆえに日本で全体主義が蔓延するはずはない。唯一の例外が植民地として支配した朝鮮半島なので、未だにこの人たちの存在が過剰に問題視されたりする。

にもかかわらず「日本は全体主義化しているのでは」などと書くと強い反応が得られる。これはなぜなのだろうか。日本は全体主義とは違った「社会を信頼しないバラバラな大衆が住む」社会になっているので、政治家たちはなんとかして個人の関心を社会に集めなければならない。そこで全体主義的なスローガンが持ち出され、それが却って反発をうむということになっている。

この観点から全体主義のメッセージをみるとちょっと違った見方ができるかもしれない。二つのメッセージがある。一つは一億層活躍社会でもう一つがAll for Allである。これは、社会に対する「すべての人の」動員を求めるという意味で共通している。

例えば一億総活躍社会は一見全体主義的に見えるが、実際にはエリート層が下層階級の人たちを搾取し続けるためのメッセージになっている。先進国から滑り落ちてしまったために外部からの労働力に期待できない。そこで、高齢者も安価で動員しようという主張である。これが全体主義と言えない。大衆から発せられたメッセージではなく、’誰も発信する政治家を信じていないからだ。

一方でAll for Allも全体主義である。その証拠にAllが二回もでてくる。これは笑い事ではない。これは、誰も民進党を支持してくれないからみんなで支持してくれよというもので、すでに政治的なメッセージですらない。前原さんが悪質なのは全体主義はエリートが大衆に与える幻想だということを理解した上で、それを「みんなのために頑張るのですよ」とごまかしている点だろう。が、実際には無害なメッセージだ。民進党も含めて誰も前原さんのいうことを本気にしていない。カリスマ性がない全体主義の訴えは無視されてしまうのだ。

小池百合子東京都知事は自分とお友達で都民ファーストの会の人事を決めており、これは全体主義的だと言える。だが東京都民がこれを放置しているのはどうしてなのだろうか。それは政治のような汚いことに関与せずに、いい思いをした古びた自民党を掃除してくれるからだという認識があるからだろう。つまり、政治というのはそれほど汚いもので関与したくない。かといって誰かが陰に隠れておいしい思いをするのをみるのも嫌だ。そこで誰かが処理をしてくれることを望んでいるのである。誰も築地や豊洲がどうなるかということに関心はない。この感情を「シャーデンフロイデ」というのだそうである。

こうした主張が出るのは、日本人がもはや社会を信頼していないが、経済的にはそこそこ満たされており、なおかつ社会的秩序も保たれているからだろう。経済的にある程度の豊かさがあれば引きこもるスペースもあり、引きこもっていても豊富にやることがある。さらに政治は完全に私物化されているので(首相が自分たちの勢力を維持するために特に理由もなく国会を解散し、そこで得た勢力を利用し、特区を作って友達に利益分配している)社会に対して積極的に貢献する理由がない。そこで、政治はなんとかして有権者を引きつけようとして全体主義へと誘導しようとしている。

つまり、日本と欧米は真逆の位置にあるのだが、不思議なことに同じように見えてしまうということになるのではないか。

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全体主義と「言論圧殺」そして安倍さんの罪

アーレントの全体主義の起源についての番組を見ている。今回はいよいよヒトラーが大衆の被害者意識に形を与えるというところまで来た。アーレントの定義では、大衆は何にも所属せず、どうしたら幸せになれるのかということがよくわからない人たちを指すそうだ。それは物質を形成することができない原子のようなものである。経済がうまく回っている時にはこれを苦痛に考えることはないのだが、一度苦境に陥ると陰謀や物語などを容易に受け入れる母体になるというようなことが語られていた。

しかし、今回は少し別の実感を持った。現在、安倍首相が日本に与えている形のない不安について実感したからである。これは全体主義者やポピュリストが与える物語とは別の形で社会を蝕むのだが、その帰結は同じようなもので、人々は信じたい物語を捏造し、別の意味での全体主義へと突き進む可能性があるのではないかと考えて、少しおびえた。

菅野完という人がTwitterのアカウントを凍結されたという「事件」があった。人々はTwitter社はなぜ人種差別主義者を放置しているのに菅野さんだけをアカウント凍結するのだと文句を言い始めた。

いろいろな指摘を読むと全く別の指摘もある。菅野さんは最近、性的暴行事件の裁判に負けていた。毎日新聞によるとその後控訴しているが、好ましくない行為があったこと自体は認めている。しかしながらその後もこれに関係する言論を続けており女性側が苦痛を感じて「Twitterをやめるべきだ」と要望したのではないかというのだ。

もし、これが事実だったとすると、Twitter社が「この事件のせいでアカウント停止したんですよ」などとは言わない方がよいことになる。菅野さんが余計恨みを募らせて言論活動を活発化させる可能性が排除できないからである。

もちろんこのせいでアカウントが停止されたかどうかということはわからないのだが、安倍首相らがわざわざTwitter社に手を回したり、電通が忖度したという込み入ったストーリーと少なくとも同程度には信憑性がある。問題はそれをツイッター社以外の人は誰も知らないということだ。第三者委員会のようなところに判断を委託した方が公平性は確保できるのだろう。

しかし、この件を批判する側が選んだストーリーは、日本の言論は圧迫が進んでおり、そのうち政権が「言論弾圧を行うようになるだろう」というものであった。そして、それを阻止するためにTwitter社に乗り込むべきだなどという人まで現れた。

この件の裏側には何があるのかと考えた。第一に被害者意識を持っている側のTwitter依存が挙げられる。Twitterは確かに便利な道具ではあるが唯一のプラットフォームではない。言論に対する攻撃ということを考えると、複数の言論装置を持っているべきで、1つの言論装置に執着するのはかえって危険である。だが、依存している立場からすると他にも使えるプラットフォームがあるという知識がなく、さらにそこに人々を動員する技術もないのだろう。だから人が多くいるところで騒ぐようになるのだ。


本題からは脱線するがミニコラムとしてネットワークの脆弱性について考えてみよう。

これが現在の状態。Twitter依存になっているので「悪の帝国」がTwitterを支配するとすべてのネットワークが切断されてしまうことになる。

プライベートなネットワークを混ぜたもの。一つひとつのネットワークは脆弱でも全体のつながりは維持されるので「攻撃」に強くなる。

実際のコミュニティは細かく分散している。ここで同質な人たちどうしがつながっているだけのネットワークは広がりに欠けるが、異文化間の交流(緑の線)があるとネットワークが強くなる。こうしたつながりを持ったネットワークは緊密さが増すのだが、これを「スモールワールド現象」と呼んでいる。だが、政治的なネットワークの場合「右翼の島」や「左翼の島」ができるので、それぞれのネットワークだけを見ているとあたかも自分の意見が世界の中心のように見えてしまう。

実際のネットワークは島を形成している。スモールワールド性がなく広がりに欠ける。

こうしたことを行っているのは左翼活動家だけではない。著名なジャーナリスト、脳科学者、政治学者などもいて「疑わしい」と騒ぎ立てている。もし本気で言論弾圧を心配するなら、今の装置も維持したうえで、自前のプラットフォーム「も」作り人々をそこに誘導した方がよい。

しかし、彼らが過剰に心配するのにも根拠はある。安倍首相は控えめに言っても大嘘つきでありその態度は曖昧だ。さらにマスコミの人事に介入したり抗議したりすることにより言論に圧力を加えているというのも確かである。さらに犯罪を犯したのではないかと疑われる人たちを野放しにし、国会審議を避けている。そのうち本当に人権が抑圧されるのではないかという人々の不安には根拠がある。

その上「解散を検討している」と言い残して渡米してしまった。マスコミでは解散が決まったなどと言っているのだが、実際には本人は理由も時期も説明していない。帰ってきて「いつ解散するって言いました」などと言いかねない。このように人々を宙ぶらりんな状態にして混乱するのを楽しんでいる。国民を1つにして安堵させるのが良い政治なのだとしたら、安倍首相の姿勢は悪い政治そのものである。不安を煽り対立を激化させているのだから。

このように考えると、戦うべき相手はTwitter社ではないということがわかる。実際には安倍首相を排除しない限りこうした不安定な状況はいつまでも続くだろう。ここで冷静さを失うのは得策とは言えないのではないだろうか。

Twitter社は日本の言論がサスペンデッドな状態に陥っており、政治プラットフォームとして利用されている現実を受け入れるべきだ。しかし、個人的にはあまり期待できないのではないかと思っている。

このように考えるには理由がある。個人的にアカウントを凍結された経験がある。もともとTwitterにはそれほど期待していなかったので自動で発言を飛ばすツールを利用していたのだが、これが規約に引っかかったらしい。「らしい」としかわからないのは、Twitterがなぜアカウントを凍結したのかということを言わないからである。ということで、機械ツイートを避けて時々関係のないつぶやきを混ぜることにしている。

最初は「面白い騒動だな」などと思って見ていたのだが、人々の根強い不安感を見て少し考えが変わった。本来なら政治が変わり、ツイッターが心を入れ替えるべきではあるのだが、他人を変えるのは難しい。できるのは正しいITの知識を持ち重層的なプラットフォームを構築することではないだろうか。人々はそのために自ら行動し、お互いに助け合う必要がある。

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前原代表のいうAll for Allはどうやったら伝わるのか(あるいは伝わらないのか)

前原代表が今度の選挙ではAll for Allという概念を有権者にわかりやすく伝えたいと語っていた。前原さんのことは嫌いなので「お前には無理だろ」などと思ったのだが、思い直してどうやったら伝わるのかということを考えてみることにした。が、それを考えるためにはAll for Allとは何かということを考えなければならない。

All for Allというのは前原さんのような多様性が許容できない人がリベラルが多い政党で擬態するために作った言葉のように思える。多様性というのは裏返せばまとまりのなさなので、これを全体に奉仕させるためにはどうしたらいいのかと考えてしまうのだろう。元になっている概念はラグビーなどの全員が一つの目標に向かって勝利するというものだろう。だが、政治というのはスポーツではないので、社会は必ずしも一つの目標に向かって勝たなければならないということにはならない。

ゆえに前原流を突き進んでゆくとやがて論理は自己破綻するはずだ。これが自己破綻しないのは前原さんが自己抑制して理論を自死させてしまうからだ。

本来多様性を認めるということは闘争からの脱却を意味する。かといって、多様性は単なる混乱を意味するわけでは、実はない。この「認知の問題」が実は多様性と全体主義を分けている。

かつてファッションには流行というものがあった。流行にはシーズン限りのトレンドの他にスタイルと呼ばれる大きなまとまりがあった。例えば「渋カジ」とか「竹の子族」などというのがスタイルである。実際にはすべての人が渋カジだったわけでもないのに、渋カジがスタイルが成立しているように見えたのは何故なのだろうか。

多分、スタイルというものは多様にあったが、メディアがそれを捕捉できなかったからだろう。アパレルメーカーがースタイルを提案し、多くない数の雑誌がそれを伝えるというのが、かつてのやり方だったからだ。このためメーカーは数年前から形や色からなるトレンドを提示した上で一年かけてじっくりと製品を準備することができた。

ところが、このトレンドやスタイルは徐々に消えてゆくことになった。たいていの場合これは「消費者がアパレルから離れて行っている」と理解されているが、実はメーカー主導ではないトレンドが可視化されるようになったことが原因となっている。

ところが、実際には別のことが起きている。トレンドは存在する。現在はゆったりめで長めのものがトレンドである。だが、スタイルは多様化している。スタイルとは文化的背景を持った選択の偏りのことである。それがその人の体型の偏りと重ね合わされることで「その人らしさ」を作り出す。スタイルは多様化しているのだが、ファッション好きの人はそれほど困っていないようだ。

これを理解するためにはマスコミュニケーションとインターネットの違いを知らなければならない。インターネットにはタグ付けとフォローという2つのまとめ方がある。トレンドより下位のマイクロトレンドが日替わり・週替わりで出ては消えているのだが、これはタグによってまとめられ検索可能になっている。さらに、ファッションコミュニティにはスタイルを持った人たちがおり(インフルエンサーなどと呼ばれる)彼らをフォローすることで、そのスタイルを捕捉することが可能である。情報という観点から見ると、階層型からネットワーク型へと変容しているということになるのである。

アパレルメーカーはすべてのマイクロトレンドを追うことはできないし、すべてのスタイルを網羅することもできない。彼らがやるべきなのは、いくつかのスタイルを提示することと、今あるマイクロトレンドを捕捉することである。かつての糸問屋から発展した商社は苦戦しているようだが、ファストファッションはここに特化して、捕捉したトレンドを短いリードタイムで製品化できるようになっている。

一方で価値観を押し付けて凋落したアパレルメーカーもある。アメリカでは、背の高い体育会系の若者がメインストリームなのだが、アバンクロンビー・アンド・フィッチはこのメインストリームを大衆に押し付けて大炎上した。ある一つの価値観を固定してしまうとすべてのその他の人たちを敵に回してしまうということがよくわかる。政治世界でこれと同じことをやって大炎上しているのがトランプ政権であり、自民党も同じことをしている。もし「多様性を無視して、みんなのために同じ価値観を持とう」などと言い出せば民進党も同じ程度には炎上するだろう。

このようにファッションのトレンドが一見消えて見えることと、政治が一つの価値観を押し付けてくることには共通の根がある。それが「バラバラさ」に対する理解の違いである。

かつては、保守中流という大きなマスがあり、そのカウンターとしてリベラルと呼ばれる人たちがいたのだが、こうした括りはなくなっている。それは渋カジがなくなってしまったようなものである。だが、わかりやすいファッションスタイルがなくなったからといっても人々は裸になったわけではない。たいていの人は何か服を着ている。中にはスタイルのある人もいるが、多くの人は「なんとなくユニクロを着る」というあたりがスタイルになっている。同じように政治的な意見を全くもっていない人はいないのだが、こうした人たちは無党派層としてひとくくりにされ、マスコミや政党から無党派層呼ばわりされることで、そうした自己意識を<洗脳>されているのだ。

成功したアパレルは製品中心のファションメーカーから多様なスタイルやトレンドを捕捉して素早く製品化する企業に変化した。つまり、みんなが漠然と持っているスタイルやトレンドをまとめて提示するサービスを提供しているのである。多様性を扱うということは、相の変化を伴うということになるだろう。

自民党は一つの物語に有権者を押し込んで行くという政党なので、多様な声を聞いてそれを政策化できるようになれば実は簡単に対抗ができる。問題は政治の世界に多様性を扱う成功したモデルがないということだ。

与野党は、狭いコミュニティの中で有権者に受けようとする政策を探している。これはアパレルが自分たちの頭の中だけで「どのような服が売れるだろうか」と考えているのと同じことであり、現在では自殺行為である。

例えば、政治家は地盤の他の専門分野を持ち、専門分野の情報を受発信することができる。関心のある人がそれをフォローすることができればコミュニティができる。政党はナレッジのネットワークなので、これを組み合わせればいろいろな分野で問題解決ができるソリューションネットワークのようなものが容易に作れる。

色々とわけ知り顔で書いてきたが、こうしたことはSNSの世界では当たり前に行われている。その証拠にTwitterで様々な専門家をフォローしている人は多いはずである。そうすることで例えばベネズエラの現在の状況がわかったり、トランプ政権の動向を日常的に捕捉することができる。

前原民進党政権は多様性を扱えないことで崩壊してゆくはずだ。共産党という「隣にある異質」とすら協業できないのに、その他の雑多さと協業できるはずなどないからである。

こうした多様性(雑多さ)を受容できない人は大勢いて、Twitter上でのたうちまわっている。彼らは与えられるストーリーなしに社会の複雑さを許容できないゆえ、多様な価値観が飛び交うTwitterが許せないのだろう。そのため自分の捏造された価値観からの逸脱を攻撃したりブロックしたりするのではないかと思う。こうした人たちをひきつけて内部崩壊してゆく道を選ぶのか、それとも多様性を受容してより多くの価値観に触れることができる社会に進んでゆくのかという選択肢を、我々は持っている。

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全体主義・教育・戦争に関する漫然とした雑感

今日は、漫然とした雑感を書く。一応つながりはあるが、それを最初から説明するのは難しい。

アーレントについての番組を見て、全体主義が生まれる背景には国家間の競争があるということを学んだ。その当時は帝国がそれぞれの経済圏を自前で作る必要があった。しかし、その経済圏はお互いに衝突し、最終的に戦争がおきた。もはやお互いにぶつかることなしに経済圏を拡張することができなかった。

第二次世界大戦後はその反省から世界経済圏が作られた。このため各国は自前で経済圏を防衛する必要がなくなったはずだった。冷戦構造がなくなると、それはいよいよ現実のものとなるはずだった。

もし国家間が競争しないとしたら、国民はまとまる必要がない。したがって内外に敵を作る必要はなくなる。ということは全体主義も生まれずパリアのような存在も必要がないということになるだろう。

例えばアメリカには州間競争があり、多様性が重要視される良海岸と内陸部の対立がある。ここで競争に取り残された内陸部の白人が白人至上主義意識を持つことは理解ができる。両海岸部では、人種差別思想というのは、知的弱者のスティグマであり、それが内陸部では却って反発意識を生むだろう。トランプ大統領が嫌われるのは、こうした知的な劣等さの象徴のような人がアメリカを代表しているからだ。一方でトランプ大統領が成立し得るのは、内陸部が競争に負けてはいても、量海岸部から豊富な資金が流れ込むからである。つまり人種差別的な白人は実は両海岸部の移民に食べさせてもらっているという側面があるのだ。

アメリカでポリティカルコレクトネスが叫ばれるのは、少なくとも都市部では人種差別者だと見なされると社会的に抹殺されかねないからだ。IT産業のエグゼクティブの中にはインド系や中国系が多く、エンターティンメント産業で働くとユダヤ人(主にお金を持っている)やゲイの人たちと働くことになる。地方部では、もはや白人の間に希望がなく、こうした人たちを恐る必要がない。

日本には二極化がなく、したがって強烈な差別意識が生まれる必然性はない。しかし同時にアメリカの内陸部のように希望のない状態になっており、これが野放途に差別発言を繰り返しても特に社会的に罰せられないという状態になっている。

一方、競争の消滅には別の側面がある。国家間から競争がなくなると政治的支配者は国民に投資をする必要がなくなる。

民主主義は国民のコミットメントを勝ち取ることにより強い国力を生み出す。それで国家間競争に優位になる。絶対王権より議会王権が優れており、議会王権よりも民主主義の方が優れていた。ところが、競争からドロップアウトしてしまうと教育などの投資をする必要がなくなる。

安倍首相は教育についての壊滅的な考え方で知られる。国民にはリベラルアーツは必要なく、単に職業訓練をするべきだと考えているようだ。これは、自分で考える人間は一握りでよく、あとの人たちは自分でものごとを考えずに、エリートにしたがっていれば良いという思想だ。

こうした思想は未開な段階の社会主義圏によく見られる。例えば毛沢東は都市の知識階層を「下放」する政策を取った。山崎豊子の「大地の子」では日本人である(つまり潜在的には裏切り者の子供である)陸一心が地方の「労働改造所」に送られるというエピソードがある。ポル・ポトも知識階層を虐待した。さらに、北朝鮮も似たような状況にある。

こうした社会はどれも、世界経済から切り離されて、自前の経済圏を作ろうとしている。北朝鮮の場合は国民を飢えさせても核爆弾さえ持てば強国の仲間入りができるわけだから、特に国民に投資する必要はない。さらに兵士を食べさせる必要もない。指導者が核爆弾さえ抱えていれば世界の強国から尊敬してもらえるという世界だ。中国にも同じ段階があったが、最終的には経済ネットワークの重要性を認識して方向転換を図った。

ここでわからないのは、安倍首相がこうした思想を自前で考え出したのか、それとも毛沢東やポルポトなどに影響を受けたのかという点である。もし、前者なら権力者というのはこうした思想を持つ可能性があるということになり、これを制度的に防がなければならない。なぜならばいったん世界に向けて開かれた国が引きこもった例はないからだ。開かれながらも国民から考える力を奪うというのは、世界経済圏の中で没落してゆくという意味にしかならない。

いずれにせよ、国家と競争ということを考えてゆくと、色々疑問が湧く。さらに安倍首相やネトウヨの考え方を観察してゆくと、それぞれ都合の良い理論をつぎはぎしてミノムシのような思想体系を形作っており、一貫性がないということがわかる。安倍首相は国力を増すために国民をどう教育してゆくのかという基本理念がなく、さらに北朝鮮を挑発して戦争になった時にどれくらい戦費をまかない戦線を維持できるのかということについてもアイディアを持っていない。さらに安倍首相は議会の承認なしに勝手に徴税して予算を獲得する権限はない。しかし、これらのことは安倍首相には「どうでもいい」ことなのだろう。

しかしながら、戦争がない社会では「国力をどう維持してゆくか」ということを考える必要がないのだから、こうした考え方が蔓延してもしかがたないようにも思える。北朝鮮が核開発一択に陥ったように、安倍首相はアメリカ追随一択になっているのかもしれない。

実は戦争と教育というのは相互につながっている。日本は70年以上もアメリカとコンパクトのような契約を結んでいるので、国民の教育にどれくらい投資すべきなのかという国家観が持てなくなっているのかもしれない。一方、ドイツは同じような集団的自衛の枠組みに組み込まれているが、常時国家間で比較され続けており「正気を保っている」のかもしれない。

つまり「次世代に投資すべきだ」と考える人は、同時に戦争や経済競争について考えなければならないのではないかと思う。

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前原民進党に投票するというのはどういうことなのか

今回は前原誠司衆議院議員が新しい民進党の代表なったと仮定して、前原民進党に投票するというのはどういうことなのかということを書く。もちろん私見が入っているし未確認の情報も多いので信頼する必要はない。が、一応過去の発言などを読んで構成した。いろいろと忘れていることが多いのだ。

前原さんのポリシーは一貫している

前原さんの過去の発言には一貫性がある。前原さんはアメリカのジャパンハンドラーと呼ばれる人と仲が良く、アメリカで講演活動もされている。アメリカとのパイプが太いことは、北朝鮮情勢が緊迫化するなか、肯定的に捉えることができるかもしれない。

例えば、前原さんは過去に「日本の軍事産業を武器市場に積極的にアクセスさせるべきだ」と主張している。つまり、ジャパンハンドラーの人たちの主張を日本で実現するためのリエゾンになっているのだ。大げさに「CIAの工作員である」というようなことをいう人がいるのはそのためである。同じように見られている人には長島昭久衆議院議員がいる。この人も憲法改正論者だ。

ジャパンハンドラーと呼ばれる人たちは、軍事産業を儲けさせるためにアメリカを戦争ができる体制にしておきたい人たちだと言え、必ずしもアメリカそのものではない。そのためには同盟国にシンパとなる政治家を抱えておく必要があるのだろう。

前原さんは、憲法第9条についても踏み込んだ発言をしている。これは特に隠された野望というわけでもなくご本人のサイトで堂々と主張している。つまり、首相の権限を強くしてアメリカと軍事的に協力できる体制が作りたいわけである。主な首相は首相公選と一院制であり、首相の権限強化と自衛隊の正規軍化だ。一方で、世界情勢が平和を希求するのは「単なる理想主義で全く受け入れられない」としている。

これが「現実的な歴史観に沿った国家観」なのか「単なるスポンサーを引き付けるためのポーズなのか」というのがよくわからないというのが正直な感想である。

アメリカの軍事産業が潤うためには常に敵が設定されていなければならない。この地域での敵は中国だ。つまり、ジャパンハンドラーの人たちの主張を正当化するためには、中国がアメリカに対抗して世界の覇権を握ろうとしているというストーリーが必要だし、世界平和に向けてみんなが努力しているという図式はあまり好ましいものではない。

さらに付け加えるならば、アメリカの軍事産業が潤うことが政治的目標なのだから、日本の国力を上げたり、平和外交に力を入れることはポーズとしての意味はあるかもしれないが、あまり意味がない。つまり、子育て支援をして国力を高めたり、競争的な産業を作って日本を経済的に世界で戦える国にするということには力を入れない可能性がある。できればそういうことにお金をかけずに、アメリカに貢献する国を作った方が都合がよいからだ。

安倍政権にとって経済政策とは「増税しないためのいいわけ」程度の意味合いしかない。選挙に有利だからである。だからアベノミクスにはどこかおざなりさがある。一方、前原さんのみならず、民進党右派の人たちの経済政策がどこかおざなりなのは、日本を植民地的に見ているという理由によるものなのかもしれないと邪推してみたくなる。

アメリカとは何か

さて、一番の懸念はジャパンハンドラーと言われる人たちが日本を武器産業の顧客程度にしか見ておらず、いわば植民地の総督のような視点で日本を見ているという点にあると思われる。が、それ以外にも懸念はある。

つまり、ジャパンハンドラーがすなわちアメリカなのかという問題である。オバマ大統領は少なくとも表向きは軍事ではなく外交によって世界の問題を解決したいという理想主義的な政策を推進していた。トランプ大統領は全く反対に利己的な理由からアメリカは世界の警察官をやめるべきだと言っている。

冷戦期にはソ連がアメリカを攻撃するかもしれないという潜在的な脅威があったが、市場が一体化してしまったために、大規模な戦争をして世界経済を混乱させる動機はない。にもかかわらずアメリカの軍事産業が冷戦期のように軍事産業が予算を獲得し続けるためには、ある程度対立をでっち上げる必要がある。つまり、いわゆるジャパンハンドラーはアメリカそのものではないと言える。

このことは、日本の防衛政策を考える上では実はとても重要な視点ではないだろうか。アメリカは太平洋の覇権から解放されたがっているかもしれない。すると中国が覇権を握ることになり、韓国、沖縄、グアムなどに基地を置いておく理由はなくなってしまう。日本はある程度アメリカの軍事政策にフリーライドしているために(核兵器は持っていないが、アメリカの核の影響下にある)日米同盟への過剰な期待は視界を曇らせる可能性が高い。

例えば、安倍政権はアメリカから高価なミサイル防衛システムを買おうとしているが、これは却って日本の軍需産業の空洞化を招くかもしれない。日本は技術開発には関与せず、単なるアメリカのお客さんになってしまうからである。アメリカのセールスマンであるトランプ大統領は喜ぶかもしれないが、これが国益に叶うのかという議論は必要だろう。だが、前原民進党がこれをチェックすることはないだろう。

前原さんの従米の度合いは安倍首相よりも強い。が、どちらもアメリカと中国が直接結ぶ可能性を全く失念している。実は日本には憲法上制約からどのくらい協力してくれるかわからない。そんな国と結ぶより、一党独裁で決断が早い中国と結んだ方が手っ取り早い。米中が直接手を結ぶというのは日本にとっては悪夢以外の何物でもないのだが、少なくとも打ち手を考えておく必要はある。

政権を取った時、共産党は邪魔になる

前原さんは共産党との共闘には否定的である。これについて深く考える人はおらず、単に「共産党が嫌いなんだろう」と考えがちである。しかし、過去の発言をみると、実は軍事的な拡張と繋がっていることがわかる。特に政権をとった時には、中国を敵視して軍事的に拡張しなければならないので、軍拡路線に反対する共産党は邪魔な存在だ。

仮に前原さんの思惑通りに民進党が政権を奪還した時に、共産党や社会党のせいで、前原さんの従米的な政策を邪魔する可能性が高い。前原さんは菅政権時代に「日本の武器輸出を解禁したい」という方針を主張していた。これが政権に取り入れられなかったのは社会党の反対によるところが大きいのだそうだ。つまり、アメリカの利益に沿って行動するためには政権に共産党がいては邪魔なのだ。

親米・従米路線が悪いわけではない

このように書いてくると「従米は戦争への道である」という理由でこの人はこんな文章を書いているのだなと思われるかもしれない。が、政治家が特定の産業のために働くというのは必ずしも悪いことではない。特定の国の利益のために結ぶのは問題だが、アメリカの場合は仕方がないかもしれない。日本には親米の政治家が大勢おり、これを否定することは、残念ながらできない。

問題なのは、そういう意図を隠している点にあるだろう。日本の左翼運動というのは、多くの場合反米運動になっている。原子力発電所はアメリカの思惑によって日本に設置されているのだし、反戦運動も反ベトナム戦争運動が源流の一つになっているのだろう。これは反米というよりも、アメリカによって日本の意思決定の幅が狭まっていることに対する反発だと言える。

つまり、従米路線を取ること自体は、有権者の支持さえ得られれば必ずしも悪いことではないのだが、支持者は自分たちで集めなければならない。

阿部知子議員などは「共産党との共闘しないというのはデマだ」などと言っているようだが、実は前原さんとコミュニケーションが取れていないか、知っていて党員を騙していることになり、罪が重い。

これまでも「あれ、民進党(民主党)がおかしいな」ということはいくつもあったが「安倍政権を崩壊させるためには戦略的に必要」などといって我慢してきた人は多いのではないだろうか。前原民進党の民進党支持者は引き続きこうした認知的不協和に苦しむことになるだろう。

まとめ

これまで書いたことは、もちろんこれは個人が、過去の発言などから想像しているだけなので、信頼していただく必要はない。だが、過去の発言から見る限り、支持者の期待とは全く違った方向に政策転換が図られるか、やはり党内左派をまとめきれずに迷走する可能性が高い。

さらに、軍事・外交以外の政策はおざなりになる可能性が高いだろう。八ッ場ダム問題を迷走させ、普天間の基地移転問題を途中で放り出したという「前科」があり、プロジェクト管理能力や現状把握力は必ずしも高くない。逆に党内反発を抑え込むために「思い切った措置」をとり、これが暴走する可能性が高いのではないだろうか。

前原民進党を応援するならこうしたことを踏まえた上で「それでも自民党政治を暴走させないためには抑止力として必要だ」という割り切りが必要である。

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