国力の衰退と外国人に対する不寛容

アメリカにある銀行口座を閉めることになった。留学から帰国するときに閉めようと思っていたのだが「なぜ閉めるんだ」と聞かれて放置しておいた口座だった。その時は外国人でも口座が維持できるなんてオープンでいい国だなと思った。9.11前のアメリカはまだ寛容な大国だった。

しかし、それも終わりを迎えたようだ。その経緯はかなり乱暴なものだった。

最初はe-bankingがなくなるというお知らせが来た。e-bankingはインターネットだけで利用するアカウントで支店で銀行員と話をしただけでチャージされてしまう。あまりよいサービスとは言えないが、これをなくして1,500ドル以上の預金がないと毎月12ドルをチャージする口座に再編成するという。

アメリカの銀行は金融危機以降手数料商売になっている。そこで給与の出し入れをする口座かある程度の預金残高がある口座でないと、維持管理手数料を取るというところが多い。e-bankingはその例外だった。

どうしようかと思っていたところ今度は「お前はどこに住んでいるのか」という質問をされ、おかしいなと思っていたら12月の初頭に「photo IDを持って支店に行け」という。 来年の1月3日までに持ってこないと口座を閉めるということである。猶予は一ヶ月しかない。支店はアメリカにしかないので、つまり海外にいる人を追い出そうとしているのである。しかもコールセンターの人はそれを知らず、専用のコンプライアンスセンターで処理するという。日本のお役所仕事もひどいが、アメリカのセクショナリズムもそれ以上にひどい。オペレータは会社に雇われているだけなので企業の評判を全く気にしない。

そのあと、手紙でも同じ通知がきたのだが「photo IDを持参しろ(郵送は不可)」と書いている裏に「指定がない限りは郵送しても良い」と書いてある。つまりアカウントによって違う文面を印刷していて、アカウントを選別しているということになる。投資の手数料などが支払われている儲かりそうなアカウントを逃すわけには行かないのでそのようにしているのだろう。

ずいぶんひどい話だが、あまり驚かなかった。2008年の金融危機のあと手数料なしの口座が整理されたという話を知っていたからである。もともと小切手社会なので銀行口座を持てないというのは生活ができなくなるほどのインパクトがあるのだが、それでも「口座にお金がない人は銀行口座を持たなくても結構だ」となり困っている人が少なからずいるのである。中には持たない選択をしている人もいるらしい。

しかし、その裏には「企業のモラルの低下」以外の事情もありそうだ。外国人に対しての規制が強化されているのではないかと思う。運用実態のない口座は資金洗浄に利用されやすいが、いちいちチェックするのは面倒なので一括で潰してしまうことにしたのではないかと思う。

アメリカの安全が脅かされると、いろいろな法律を作ってチェックを行うことになる。そのコストは全て企業にしわ寄せされるわけだから、企業は消費者に添加しているのではないだろうか。金融機関だけでなく、例えば航空会社などもチェックが厳しくなっているのかもしれない。

そもそも、昔はSSIDを持たない学生でも口座を開くことができていたし、SSIDを取得するのもそれほど難しくなかった。規パスポートを見せた覚えがないので身分証明を十分にしていなかったということになるのだが、それでもよかったわけだ。このゆるさは徐々にになくなっており留学生たちを大いに苦しめている。規則が頻繁に変わるので情報が錯綜して、小切手を作れず、したがって家が決められないという人が出ているらしいという話を読んだことがある。

外国人に対して寛容ではなくなってゆくアメリカを見ていると「国の力が衰退したんだなあ」と思える。

かつてアメリカには、多くの学生を惹きつける自由の国という輝かしいイメージがあった。好きできている人が多いのだから、治安に悪影響を与えることもなかったし、生活水準も高く留学生たちは概ね満足していたはずだ。しかし、9.11以降この印象は徐々に崩れてゆく。徐々に安全対策にお金をかけて、外国人を警戒する国になった。

かといってこれを「衰退」と結びつけるには根拠が足りないという人もいるかもしれない。経済的にはまだまだ豊かな国だからだ。しかし、やはりかつてのように「圧倒的にすごい国」というレベルではなくなりつつある。それとはまた別に、アメリカは自国こそが自由と平等を守る規範二なる国であるべきだという理想を失いつつある。

まだソ連などの共産圏があった頃は、自分たちは自由と平等を守る国であるという自負があり、外国人に対しての寛容性が発揮されてきた。また、世界各国の治安を守るためにアメリカが率先してリーダーシップを取るべきだという政策に多くの人が共鳴していた。先日読んだイアン・ブレマーの本によると各種のアンケートでも「自国優先主義」が台頭してきているのだという。

かつては、外国人も日常生活に困らないように銀行口座を作ってもらったり、移民を受け入れたりしていた。アメリカにはベトナム人やイラン人のコミュニティがあるのだが、南ベトナムから逃れてきた人たちやイラン革命から逃れて「自由を求めてきた人たち」を保護していた。もちろん、アメリカが仕掛けた戦争の犠牲者としての側面があるのだが、表向きは「自由を保護する」という理想主義に基づいているのである。

しかしながら、国力が減退するとこうした理想を守る余裕はなくなる。自国内に格差があり、彼らが社会的に成功する見込みはなくなっている。その上不満を持った移民たちを大勢抱えており、治安を悪化させる。

このことからわかることはいくつかある。いつも「日本はひどい国になった」というようなことを書いているが、実際にはひどくなったのは日本だけではないということだ。それぞれの国にはそれぞれの問題があるのだが、一国の事情だけを集中的に見ているとあたかも自分たちの国だけが悪くなったように感じるかもしれない。

かといって日本がアメリカよりましな国だとも言えない。例えば海外からくる技能実習生を奴隷のようにこき使っているのも実は国力の衰退である。アジアで唯一の先進国だった頃にはそれなりの優越感もありアジア圏からくる人たちを大切に扱っていたのではないだろうか。自分たちの国にはそれなりの豊かさがあるということを見せつけたい気持ちもあったかもしれない。しかし、もはやそんなことには構っていられない。労働力が枯渇しつつあり、外国人を騙して連れてくるしかないのである。

多様性に対する不寛容を見るとどうしても人権侵害という視点で分析したくなるのだが、その裏には実は国力の衰退があるのかもしれない。

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今や存在そのものが麻薬になりつつあるNHK

テレビを設置すると自動的にNHKと契約したと見なされて受信料を支払う必要がある。一部には「裁判をするまでは払わなくて良い」という人がいるのだが、裁判をすると負けてしまうのだから、実質契約の義務を負っていると言っても良いだろう。この裁判の結果を見て「NHKを見たくない人もいるのに不公正だ」と感じた人も多いのではないかと思う。

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自己肯定感と人権意識

不思議なTweetを見かけた。そのまま引用するのは憚られるので要約すると次のようになる。

自己肯定感は「自分をすごい人間だ」と思うことではない。自己肯定感とは「自分はすごい人間ではないが、それでも自分を肯定できる感覚」のことだ。だから自己肯定感が高い人は他人に寛容だ。

このTweetを見て「あれ?」と思った。前段で「他人と比較しない」と言っているのだが、中段で「他人と比較して」いる。そして最後の「だから」の理由にはなっていない。

そもそも「自己肯定感の高い人」はいないのではないか。自己肯定感の高い状態とそうでない状態がある。自己肯定感の高い状態では他人に寛容になれるだろうが、そうでないときには他人に寛容にはなれないかもしれない。いわゆる「自己肯定感の高い人」というのは、この状態になりやすいということだから「自己肯定感が他人より高い個人」はいないはずで自己肯定感がある状態を保ちやすい人がいるだけなのではないかと思う。

このつぶやきの肝は「比較から逃れようとしているのに逃れきれていない」という点だ。論理的な構造が破綻しており、そこにこの文章の面白みがある。そこで「競争から逃れようとしても逃れられないんだなあ」と書いた。

ところがこのつぶやきは面白い展開を見せる。別の人が「他人と比較しないと伝わらない」というのである。そもそもこの二番目のつぶやきがどういう意図のもとで発せられたのかはわからないので、反論したり同意したりはしなかったのだが「競争や比較なしで自己肯定感を感じるのが難しい」ということであれば、自己肯定感以外の何かを自己肯定感の代替物として使っている可能性がある。それは優越感や劣等感という他人との比較によって生まれる感情である。これは自己肯定感と関係があるかもしれないが、自己肯定感そのものではない。

と同時に、日本人には自己肯定感がなく比較優位しかないと考えるといろいろなことがよくわかるなあとも思った。自己肯定感野本になっているのは、キリスト教的な概念ではないかと思う。これが発展して人権意識の元になっている。

キリスト教では「私がここにあるのは神様に祝福されているからだ」と考える。自分が祝福されているのだから当然相手も祝福されている。だからこそお互いに尊敬しなければならない考えるのと同時に、この祝福は天賦のものであり人間が裁いたり侵害することはできない。これが多分、天賦人権のもっとも基本的な説明ではないだろうか。

ところが、日本人が自己肯定感を持たず、代わりに比較優位によって肯定感を得ているとすると、日本人には天賦人権が理解できないということになる。比較優位は条件付きのものなので、人権も条件つきのものになる。

その証拠に「日本人には天賦人権は合わない」などと言い出す人がいる。これが神道系の日本会議で展開されると、日本人が傲慢になるのは天賦人権のせいだから取り上げてしまえということになり、自民党憲法案に反映されるという具合になっている。しかし、これが「狂っている」という人はごくわずかであり、たいていの人は「そうかもな」とか「よくわからない」などと言っている。

どうやら、神道には「自分を大切にしなければならない」とか「人生は肯定されるべきである」という教義理念がないようだ。最近富岡八幡宮の宮司が殺害された。兄弟間の争いだったらしい。宮司のブログには愚痴めいた言葉が並んでおり、神道がそもそも人の幸せや人生の肯定感についてなんら教義を持っていないことがわかる。さらに容疑者の男性も「宮司になれなければ人生には意味がない」と感じたようである。さらに、神社本庁は兄弟間の争いに付け入ることで天下り先を探していたと言われており、こちらも「信徒たちのの苦悩を取り除こう」という意欲は全く感じられない。

伝統を守るべきだとか男性でなければ指導者になれないといったような村の掟に関する概念は豊富に持っているが、日本の神道には普通の宗教に見られるような「人生の苦痛を取り除くために助けになる」という意識はあまりないようだ。容疑者は「地獄に堕ちろ」とか「怨霊になって祟ってやる」などと言って相手を呪っているのだが、これは日本人の根幹にあるメンタリティだと言える。この呪詛の裏にあるのは、自分が「宮司家の祖先にならなければ人生に意味がない」という思い込みと、宮司になった姉が羨ましいという他人に対する羨望である。村落は他人との関係で成り立っている狭い共同体のことである。

西洋の教育は「人生は最初から祝福されている」と教える。特にキリスト教系の学校では「神様」が持ち出されて、神様が全ての人を祝福していると教える。しかし、日本では宗教の代わりに道徳が用いられるようである。道徳というのは、立派な人間になれとか周囲に迷惑をかけるなというように、集団の中でどう見られるかということが問題になっているのではないかと思う。日本人は狭い村落で生きて行かなければならないので、掟を刻み込むのだ。問題はすでに日本人が寄って立つ何世紀も変わらない村落などないということだけである。

さてここで「祝福されている」という言葉すら問題になるということに思い至った。キリスト教の伝統のない人はこの「祝福」を「特に恵まれた」という意味で受け取るのかもしれないと思い問題の深刻さに気がついた。恵まれている人がいるということは恵まれていない人もいるということになるからだ。ここにも比較の概念が出てくる。例えばお金持ちとか美人とかいうのは「祝福された人」ということになるのではないだろうか。

試しに英語版のwikipediaを見てみると「祝福」はラテン語の「benedīcere」という概念がもとになっているそうだ。多分「よく言う」ということで「肯定されている」ということになる。つまり、その人やものの存在が肯定されているというくらいの意味であり、特に他人との比較によってどうなるというものではない。

では存在が肯定されているというのはどういう意味なのだろうか。キリスト教もイスラム教ももともと砂漠の宗教なので人間が生きて行ける土地は限られている。明日雨が降らなければ作物が取れず死んでしまう。つまり、生きているだけの環境がないということがありうる。だから生存ができているだけで「祝福されている」という感覚が得られるということになる。

日本で「祝福」のような概念が作られなかったのは当然かもしれない。なぜならば、春になったら暖かくなることは決まっているし水も潤沢にある。だから真面目にやってさえいれば「生きて行けない」ということはない。その意味では日本人は極めて恵まれていると言えるのではないだろうか。「生きてゆくだけの環境があって当たり前」なのだから、それに取り立てて感謝する気分になれなくても当然である。

一方で、日本では人が生活できる空間は限られていている。嫌になったとしても同じメンバーでやって行かなければならないのだから、他人に迷惑をかけず脅かさないことが美徳とされるようになっても不思議ではない。常に他人との関係が問題になるのはこうした自然環境が影響しているのかもしれない。

無条件の肯定感がない育たない土地に「天賦人権」という種を植えるのは無理なのかもしれない。これは「日本人には天賦人権はいらない」と言っている人の場合にはわかりやすいが「人権を守れ」と言っている人にも等しく言えることだ。そうなると「西洋では当たり前なのだから」と他者を持ち出さざるをえない。

なんとなく「人権を守れ」と言っている人たちがどのようなメカニズムで天賦人権を肯定しているのか聞いてみたい気がするのだが、これを理路整然とした形で聞くのは難しいのではないかと思う。そもそも教わったり考えたりしたことがない問題について語ることはできないからだ。

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日本人が政治議論ができない意外な理由

質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。

日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。

問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。

今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。

糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。

もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。

日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。

それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。

質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。

ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。

と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。

これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。

このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。

もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。

これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。

今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。

このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。

多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。

現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。

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政治から相撲まで – 崩壊過程を観察する

各種の崩壊過程について調べてみた。中の人たちからみると「こんなに単純化はできない」のだろうが、あえて単純化した。さらにあるパターンを作り、それにストーリーをあてはめた。だからこの文章は「すべての崩壊過程には必ずパターンがある」というものではない。

これらのストーリーには、ある成功体験に特化した組織が、変化を察知できないくなるという基本パターンがある。しかし、集団には閉鎖性が強く新しい知識が入ってこないので問題が解決できなくなるという図式である。しかし、実際に崩壊するのは「組織」ではなく「社会」である。社会が成り立つためには信頼という通貨が必要なのだが、組織防衛を優先すると失われてしまうのだ。そのコストは計り知れないがいったん社会が崩壊すると信頼を回復する手立てがなくなる。そこで組織だけが残り構成員がコストを支払い続けるということになる。

政治

高度経済成長期に入り、自民党は企業の儲けを地方に還元するという利益分配型の政治を行うようになった。高度経済成長の中身はブラックボックスだったが政党はそれを気にかけなかった。しかし経済は変質しており、大蔵省の通達で資産バブルが崩壊する。これは資産バブルについて大蔵省が意識していなかったことを意味している。しかし、自民党は利益分配に特化しており経済の諸課題を解決できなかった。そこで動揺と権力闘争が広がり、それがマスコミを通じて伝わるようになった。政党は集団を組み替えたり新しい党首を求めたが戦略の変更はできなかった。世襲化が進んでおり新しい知識は入ってこなかったからである。最終的に民主党政権が誕生するのだが、政権交代で世間から否定されたことに耐えられなくなった自民党は民主主義そのものを憎悪することになり、戦略を立て直したり外部から新しい人材を迎え入れることはせず、民主主義を否定する憲法草案を作り有権者に対するルサンチマンを晴らそうとする。しかし相手を非難するだけで建設的な提案ができなかった民主党も国民から飽きられてしまった。この結果、かたくなになった自民党が政権に復帰した。この政権は民主主義に懐疑的で、どうやれば有権者を騙せるかということが政権運営の基本方針になった。有権者も政権交代での混乱が怖くなり目の前の矛盾を意図的に見過ごすようになった。そのようにして日本の議会制民主主義は壊死してしまう。

人材

資産バブルが弾けると人件費調整の必要が生まれたが、企業は終身雇用を前提として雇われた人たちを雇い止めることができなかった。そこで企業は人件費さえ削減できれば問題は解決できるのにと考えるようになり、非正規雇用に依存することで人件費削減策を採用するようになった人件費はしばらく高止まりしたのちに下落を始めたが、直ちに企業活動に影響は出なかった。しかし、この頃から経済が成長しなくなり一時は「デフレ」と呼ばれる物価の低下すら観測されるようになった。企業はデフレ対応を強めて低価格商品を市場に提供する一方で、政治的な圧力を加えて非正規雇用を拡大させた。日本は再び経済成長することがなくなり、政府は金融緩和などでその場しのぎの対応を行うほかなくなった。非正規雇用の通路は、正規雇用から転落した人、そもそも就職氷河期で正社員になれなかった人、年満退社後非正規雇用に転換した人というという正規から非正規への一方通行だったので、新しい知識は入ってこなかったし人材の流動化も起こらなかった。経済が再び成長する見込みがないので、人件費が低く抑えられており、海外に人材が流れることになった。この結果、企業内では知識が継承されなくなり、残った知的資産が外国に流れるようになった。地方では人材が調達できないからという理由で潰れる企業も出てきたが、企業収益は過去最高を記録しているため、企業がこの方針を変えることはあまり期待できそうにない。

金融機関

とにかく土地さえ購入していれば経常利益が黒字になるという時代が続き、金融機関は企業の価値を正しく測れなくなっていた。企業に資金を貸し出して土地を買わせて利ざやを稼ぐというのが金融機関のやり方になった。しだいに、必要な土地を買うという状態からとにかくみんなが買うから土地を買うのだというような状態になっていたが銀行は気がつかなかった。資産バブルが崩壊すると今度は一斉に貸しはがしが起こりその結果企業は金融機関を信じなくなり自己資金の蓄積を始める。経済が上向かないことに苛立った政府は紙幣を増刷して市中にばらまいた。その結果、利息が下がり金融機関は利息によって儲けることができなくなった。しばらくは国債を購入させてその利ざやで経営を支えていたがそれも難しくなる。かといって企業は潤沢な自己資金を持っているので金融機関には頼らなくなった。新しいフィンテックなども始まっていたが自前の社員でなんとかしようという気持ちが強く外資系の人たちを採用しなかったこともあり、新しいサービスへの適応は限定的なものだった。金融機関はリストラを進めざるをえなくなり、中期的に人材の数を減らし、支店も閉鎖する見込みである。合併した銀行は残ったが、一般消費者は近隣に支店が見つけられないという状態になっている。しばらくはコンビニのATMに頼っていたが、これも維持費が稼げなくなり削減の方向だという。

相撲

かつて困窮する農村部の人材の受け皿として発展した相撲部屋だが、高度経済成長期に入ると農村部から人材を引き受けられなくなった。しかしながら、相撲は近代スポーツに転換することはできず、相撲部屋という利益集団もなくならなかった。そこで、日本の農村部と変わらないだろうと考えられたモンゴルなどの発展途上国から人材を調達することになる。調達先が変質しており、当然ながら担い手の文化も変わっていた。しかしながら、当初はパスポートを取り上げて逃げられなくしていたが、やがて横綱が出てくると「品格」という曖昧な基準でしばり、モンゴル的な変質を受け入れなくなった。しかしながら、モンゴルでも高度経済成長が起こりいつのまにか世代間で考え方のずれが生まれた。これが軋轢となり問題が起こるが、一方的に価値観を押し付けていただけの日本人にはモンゴル人が理解できず、したがって危機管理もできなかった。それどころか、相撲協会の中にも考え方の違いがあり「協会が信用できないから危機管理はやらせない」と宣言する親方まで出てきた。相撲経験者だけが相撲協会の理事になるという形態なので特殊な文化が温存され、世間の常識が入ってくることはなかった。その軋轢が疑心暗鬼になりモンゴル人横綱がその場でジャッジに抗議するという「品格の面からはあってはならないこと」が起こり、品格という曖昧な基準は崩壊した。モンゴルでは日本の相撲界は揺れているという懐疑論が生まれており人材の調達は難しくなるだろう。

相撲は、政治経済とは比較的離れて固有な位置にあるので文化の変質が追いやすい。相撲は基本的に興行なのでお互いに完全な潰し合いをせず選手生命を長く保った方が良い。しかし、それが外に見えてしまうと競技性が失われ単に「プロレス化」してしまう。そこで、表向きは競い合っているような体で相互調整をする。これが貴乃花親方が嫌っている「馴れ合い」である。貴乃花親方が馴れ合いを嫌うのは相撲にすべてを捧げて健康を失い家族も崩壊しているからだ。しかし、すべての力士が親方になり雇用が保証されるわけではないのだから、特定のチャンピオン以外はすべて失ってしまうというような競技に人が集まるはずもない。つまり、相撲が現在のような体制である限り馴れ合いはなくせない。一方、この馴れ合いは選手間・部屋間で暗黙のうちの行われる。つまり、ハイコンテクストなのでモンゴル人が入れなかったのだろう。モンゴル人社会にも強くなれば認めてもらえるだろうという期待があり、それが頑張りにつながっていたのだが、最高位になっても二級市民扱いされるという状態が続いている。モンゴル人は穏やかな人たちだが、強さを誇示したいという気持ちもあるようで日本人とは強さの表現がかなり違っている。平成になって成功したチャンピオンは貴乃花のようにすべてを失ってしまったひとかモンゴル人しかいない。つまり馴れ合っているとチャンピオンにはなれないが、かといって馴れ合いなしには雇用が維持できないという状態になっている。だからすべての人を満足させる回答が決して見つけられないということになる。

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もはやデフレではないのにデフレ対策が必要なのはなぜか

当初、参議院の代表質問を聞いて当初「どうやったら安倍首相のように答弁できるか」ということを研究しようと思った。大塚民進党代表が「論理的に説明せよ」と迫るのに対して、安倍首相は全く無茶苦茶な答弁をしていたのだが、聞いているとそれほど無茶苦茶には聞こえないのである。これは相当なテクニックがあるだろうと思ったのだ。

注意深く聞いていると、いくつかの戦略があるようだ。全体を見ると整合性がないのだが、パーツごとを見ているとそれほど破綻しては見えない。安倍首相はこれを「やっている感」と呼んでいるそうである。全体像を見せずに、個別のことだけを答え続けていれば良いということになる。

わかりにくいので営業社員を例にあげて「やっている感」を説明したい。「売り上げが上がらないのはなぜか」と聞かれても全体については答えず個々の活動を拾い出して「これだけ一生懸命にやっています」といえばやっている感が演出できる。営業は数字が出てしまうのでこのテクニックはあまり使えそうにないが、それでも事務所に戻ってこずコンビニの駐車場で時間を潰して「やっている感」を演出する人はいる。つまり、安倍首相は売り上げに貢献しないダメな社員ということになる。

だが、これが結果が数字に出ないマーケティング部員だと意外と使えるテクニックなのかもしれない。それぞれのチャネルで整合性のないことをやっていても「効果は出そうだったがマーケティング予算がつかないからうまくゆかなかった」から「もっと予算をくれ」と言えば良い。いずれはクビになるだろうが、その時にはやったことのリストを携えて別の会社に移れば良い。外資のマーケティングにはこうやって渡り歩いている人はたくさんいるのではないだろうか。

だが、やっている感だけではさすがにどうしようもない。そこで、北朝鮮のような危機を煽り「外にこんな脅威がある」といえば良い。さらに最近では国難という言葉を使っている。これは少子高齢かがあたかも外からやってくる敵のように思えるという意味で優れた言い換えの発明と言える。自分たちが克服しなければならない課題だとしてしまうと、国民は責められているように思うのだが、よそからやってくるとするだけで、自分たちは悪くないと思えるのだ。この言い換えに気がついていない人は意外と多いと思うのだが、実は自称保守には多いメンタリティである。

例えば小池百合子東京都知事は立派な保守政治家だが、自分の言動が築地豊洲問題を混乱させたり、希望の党を大惨敗に陥れても一切責任を取ろうとしない。それは全て「彼女が女性差別にさらされているからだ」という被害者意識に変えてしまう。つまり、それは憎むべき敵のせいであり、決して自分が悪いわけではないのである。

しかし、安倍首相の子供騙しのような<国会対策>がうまく行く理由は実はこれだけではない。質問をしている方も戦略を間違えている。この顕著な例が「デフレ対策」である。

この中で大塚代表が面白いことを聞いていた。安倍首相はもはやデフレではないと言っているのだが、実際にはデフレ対策を続けている。これはアベノミクスがうまくいっていないということなので、それを自ら証明してみせろと質問していた。

多分安倍首相はよくわかっていない。このよくわかっていないというのはかなり強烈なパワーを持っている。だから、これまでの主張を繰り返し、さらに「日銀を信頼しているから日銀に任せている」などと言って終わらせていた。急場がしのげているので「これでいいじゃないか」と思っているようだが、出口戦略が失敗すると悲惨なことが起こるとわかっていれば、とても怖くてあんな答弁はできないだろう。子供が日に触るまで「火傷するよ」という言葉の意味がわからないのと同じことである。

だが、聞いている大塚さんがこの質問の答えをわかっているかというのにも疑問があるし、さらにそのやりとりを聞いている国民もよくわかっていないかもしれない。

そもそもデフレは二つの意味で使われている。一つは、経済学的な定義である。不景気になりものが売れなくなる。すると企業は良い製品を作って売り上げを伸ばすか、コストを下げて売り上げのい低下を埋めあわせる。後者を選ぶと、価格の下落は賃金の下降につながる。賃金が下降するとさらに物が売れなくなる。こうして生まれるのがデフレで「デフレスパイラル」と呼んだりする。

では、いつからがデフレなのだろうか。物価をグラフにしたものがあるので自分で見て調べてみていただきたい。だいたいの人は「あれ、それほど価格が下がっていないな」と感じるだろう。もう少し細かくグラフが読める人は1996年と2009年ごろから価格が低下しているのでこれがデフレなのではないかと考えるかもしれない。しかし、もっとリテラシのある人がグラフを見ると日本はなんらかの理由で経済が成長しなくなっており、上がったり下がったりしていてもそれは誤差の範囲なのではないかと気がつくかもしれない。つまり、日本はデフレではなく、成長が極めて低い(あるいはまったく成長していない)ということになるのである。

このデフレという言葉はいつ頃から使われるようになったのか、時期を限って検索してみたい。

2003年に榊原英資という人が世界経済は低成長に入ったので世界規模のデフレであると言っている記事が見つかる。だがその後、消費者物価指数はわずかに上昇し、榊原さんもこうした主張をあまりしなくなった。

その後、リーマンショックをきっかけに物価の下落が起きた。2009年の民主党政権になった瞬間にデフレが起きたのではないかと思えるのだが、実際には欧米の大規模な金融不安が原因である。誰もが疑心暗鬼に陥り日本は輸出が大幅に落ち込んでいる。さらに2011年には東日本大震災で東北を中心に生産施設が被害を受けたので、これも(民主党のせいで日本列島が天罰を下したというオカルト説を信じるならば別だのだが)民主党とは関係がない。

だが、印象という意味では、民主党政権にも大きな責任がありそうだ。2009年11月に「デフレ」の検索が大幅に増えた期間がある。政府があまり配慮しないで「現在はデフレである」と宣言してしまったようだ。これで不安に思った人が多かったのだろう。だが、実際にはこれは初めてのことではなかった。文中には次のようにある。

政府は2001年3月に物価下落が2年以上続いていたことから、月例経済報告で初めて「日本経済は緩やかなデフレにある」と認定した。2006年6月を最後に、月例経済報告から経済が「デフレにある」との文言は消えたが、その後もデフレに後戻りする可能性が払しょくできないとの判断から「デフレ脱却」宣言を見送ってきた。

つまり、自民党政権はこれをあまり大げさに書かなかったが民主党政権は国民の不安を大幅に煽ったのではないかと思われる。

さて、景気が低迷しているだけなのにそれを「デフレ」と呼び出したのは誰なのだろうか。資産バブルが弾けたときこれをデフレと呼ぶ人はいなかった。金融不安はあったが終身雇用が完全にきれなかったので賃金は高止まりしていた。だから物価にはそれほど影響が出なかった。

しかし、政府が経済政策に失敗したために物価の上昇が止まり現在のようなほとんど成長がない時代がやってくる。さらにそれに追随して非正規雇用を増やしたために物価の上昇が止まってしまった。日本人は現在の稼ぎだけでなく将来の予測も加味して消費する「長期志向」が強いことも原因の一つになっているのだろう。

その過程で価格破壊が起こった分野があった。最初に影響を受けたのは外食などの分野のようだ。1996年ごろには、価格があげられないことを「デフレ不況」と呼ぶようになっていた。この頃の文書を検索すると「デフレ不況でモノが売れない」という文章が散見される。だが実際にこの時期にも物価はわずかながら上がっているので実は定義としては「デフレ」とは言えないのである。

つまりこの頃は「景気が悪くなること」や「高度経済成長(と、それに続く資産バブル)」が起こらないことを指してデフレと言っていたことになる。

そこで、どの経済学者がデフレという言葉を「低成長・無成長」の意味で使い出したのかということが気になって調べてみた。検索上見つかったもっとも古い記録は1994年の稲垣武というジャーナリストが書いた「デフレ不況」だった。稲垣はもともと共産主義に傾倒し朝日新聞に入り最終的には週刊朝日に移った。その過程で共産主義に大いに失望したらしく今度は反共に転じたというような経歴の人らしい。

つまり、週刊誌の記者崩れの人があまり経済について理解しないで「すごい不況」という意味でデフレというパワーワードを見つけてきた可能性が高い。週刊誌などではよく使われる手法だが、新聞で「ポリティカルコレクトネス」に疲れた人が「自由な週刊誌」で好き勝手書けるようになったことからこうした無責任な姿勢が生まれたのではないかと推測した。なお稲垣さんはすでに亡くなっているので当時どんな気持ちでこれを書いたのかを尋ねることはできない。

つまり、そもそも日本経済は定常的な無成長の時代にあり本当の意味ではデフレではないのだが、無成長をデフレと呼ぶことが広まり、政府も物価が少し下振れするたびに「これはデフレになるのではないか」と言い続けていたことになる。そこで国民はなんだかよくわからないがデフレとはとても悪いもので、日本はなんとなく大変なことになるのではないかと重ようになったのだ。

さらにモノが売れないのはこのデフレというオバケのせいであると考えることになった。企業努力をしていないとか怠けているとか言われると腹がたつが、デフレが悪いのだから仕方がない。これがデフレの二番目の意味である。

つまり、安倍首相は「無成長をデフレと呼んでいたが、それをやめた」ことで「もはやデフレではない」となんとなく印象操作している。さらに低成長・無成長の原因である少子高齢化も「国難」と呼んで北朝鮮と並べることで、なんとなく「自民党がそれらを成敗してくれる」という印象を生み出しているのではないだろうか。

一旦この事情がわかると「どっちが正しい」という話ではなく、マスコミや当事者である政治家がふわっとした理解をもとに印象だけで話をしているだけだということがわかる。つまり、安倍首相が言い逃れできてしまう原因は実は聞き手である国民にあるのだ。

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保守主義と農業

植木鉢の整理をしている。植物は、ものすごく調子が良かったのに、ある時を境に著しく調子を崩すことがある。たいていの場合根がなくなっている。だが根がなくなってもしばらくはわからない。勢いがなくなって初めて「ああ、根がなくなっていたのだ」と思うわけである。だからその前に挿し木を作ったり種を育てたりして株を更新する必要があるわけだ。

植木鉢を育てていると、日本人が今でも植物を育てていれば、根の大切さがわかるのになあと思った。日本の保守思想は農業民族だった日本人の知恵を基礎にしているので、農業への理解は非常に大切である。国や会社などの組織を植物に例えると栄枯盛衰が予測できるため、運勢学に応用されたりしている。

今の日本人は根の大切さがわからずに表面だけをみていろいろな議論をしようとする。西洋流にみると目的意識を持たないでその場限りの議論をすると批判するのが妥当だが、日本流にみると根の大切さを学ばずに議論をするから、いつまでたっても「地に足のつかない」議論になるのだと言える。

農作業の場合には、毎年植え替える稲のような植物を除いては、定期的に畑を変えたり、数年に一度植木鉢を分解して根の調子を点検する必要がある。主に見るものは、土壌と根の2つである。

土の中にはさまざまなものがあることがわかる。例えばコガネムシの幼虫が繁殖して根を噛み切っていることが多い。さらに大きかった土の粒が崩れていたり有機質が消費されて土が粘土状になる。こうなると根が窒息するので土をふるいにかけて細かな粒を取り除いてやる必要があるのだ。古来の農法だと山から有機質を持ってきたりして土壌を改良するのだが、現在では化学肥料をまけば栄養分は補給できるので、土の粒を整えるのが大きな仕事になる。

かといって毎年植物を植え替えていると根が伸びる時間がなくなるので却って植物が傷んだりする。だから、毎年掘り返して根を確かめるのもあまりうまい方法とは言えない。

農業的な文化を持っている地域では全てのものは永遠だとは考えない。このようにして盛りのものはやがて衰退する。衰退の仕方は様々だが時々取り出して点検をする必要がある。中国の暦は十二と十を組み合わせて六十の組み合わせでひとまわりになり、どちらも季節の組み合わせを意識している。

では、組織にとって根とは何だろうか。それは多分人材である。人を育てるには時間がかかる。あまりにも入れ替わりが激しいと人が育たないし、かといって全く人が動かないと腐敗してしまう。また、教育は空気に当たるものと考えられる。

例えば日本の自称保守は根の大切さを全く忘れている。そこで本来は国の基礎になる教育を人気取りのための取引材料に使ったりする。見た目にあたり枝葉ばかりを茂らせたがるのだが幼児教育の大切さには全く気がつかない。そこで「幼児教育は大切だから無料にする」などと言っておきながら「ただし例外がある」などということが平気でできるのである。もし、彼らが自称通りの保守であれば、自分たちの国を大切にするはずなので、どうやったら根を育てることができるかに心を砕くはずである。

教育議論一つを見ても保守と呼ばれる人たちほど関心がないことがわかる。国防や戦略といった議論にばかり熱心で、子育てや教育などは人気取りのために適当に利用できるおもちゃだと考えているわけである。彼らは大きな木を育てて周りを威圧したいが、実は全く根っこがない。だからその木はすぐに倒れてしまうだろう。

さらに単に戦争ができる国になれば日本人の民族の誇りが蘇るとか、他の民族をないがしろにすることで自民族の優位性が保たれるなどと考えている人も多い。

こういう人たちのことを「ネトウヨ」と呼ぶのだ。

農作業が日本の保守のこころねであると書いたのだが、もちろん日本の保守思想には欠点もある。農業は日光と水の量で収穫が決まってしまう。つまり誰かが儲けているということは、誰かが損をするということだ。儲けるためには上流で水を自分たちの田んぼに水を流すか、日当たりの良い場所を人から取り上げる必要があるということである。こうしたゼロサムの思想は日本人に染み付いており、ビジネスは「金儲け」という偏見の目にさらされることになる。つまり、日本の保守には「協力して新しい何かを成し遂げよう」という精神的な素地はないので、これは外から持ってくる必要がある。

根の大切さを忘れた国には未来はないし、人を育てることを忘れた組織には未来はない。いずれにせよ、日本人として保守思想を体感したいのならば、まず何かの植物を育てるべきである。

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「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

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空中分解社会

最近いろいろなことを考えている。ニュースを元にしているのでかなりランダムなのだがいくつか共通するモチーフが出てきた。

まずは憲法問題だ。何のために憲法を作るのかということがわからなくなっているようである。その背景を探って行くともともと島に囲まれた領域という意味の自然国家として成立し、他者と向かい合うことがなかった日本人が体裁を取り繕うために作ったという経緯がある。ゆえに改めて憲法を作ろうと考えるとどこから手をつけていいのかわからない。従って意見はまとまらずまともな議論さえできない。今の国会議論をまとめると「とにかく自前の憲法を持つのが立派な国家なのでそれが作れるということを証明したい」ということになるのだが、これは作家になりたい人が書きたいこともないのに小説を書き始めるのに似ている。

次に内田樹について取り上げた。内田はかつてのように日本人がまとまれば必ずしも経済成長がなくてもよいという主張の人なのだとおもうのだが、とにかく安倍政権が気に入らないようで、カウンターとなる立憲民主党を応援しているようだ。そこで護憲・解散権の制限というポジションが生まれる。ただし、科学や経済に対してはかなり貧困な情報しか持っていないようである。これは「日本の知性の最高峰」なのだから、日本人が外来概念をかなりいい加減にしか受容していないということがわかる。

さらに相撲について考えた。どうやらモンゴル人を文化的に受容できないままで、旧態依然としたイエの集合体に無理やり近代的な相撲協会というガバナンス制度を入れたことで、まとまりがなくなっているという事情がありそうだ。かといってイエがどのようなガバナンスを行っていたのかということが意識されていないためにそれをどのように守って行けばいいのかということがわからないようである。この問題は「品格の問題」としてまとめられると思うのだが、では品格とは何なのだろうか。

この三者には共通点がある。なんらかの共同体が雛形としてあり、それが日本人の頭の中でかなり明確な雛形を作っているようである。だが、日本人はそれを意識はしても、明確に形にして他者に説明することはできない。明確に説明できない上に、なんらかの外来概念が外からかぶさってくる。これが痛みを引き起こしている。

例えば憲法問題では民族国家とか近代主権国家のような概念があり、それが国家というものは自主憲法を作るものだというイデオロギーのもとになっている。また、内田の場合には民主主義が正しく施行されることでなんらかの日本的な共同体が再興できると考える。そして、相撲協会では近代的な仕組みを作れば近代的なガバナンスが行われるだろうという期待があったのではないだろうか。

このように見てみると、日本人は自分たちが持っていた元型を意識しないままで現代に突入してしまったという問題点があるようだ。その元型が理想社会のことなのか、それとも実際にあったのかが曖昧になっている。

では元型を意識すればおのずと問題が解決思想に思えるのだが、惨憺たる結果に終わることが多い。

憲法には中曽根憲法前文というポエムがある。この中曽根世界では豊かな自然に育まれている日本には何の問題も起こらないということになっている。しかしながら、実際には日本には貧しい人もいれば、利権をめぐる諍いもある。しかし中曽根日本にはそのような人は存在しないのではないだろうか。

同じような失敗はすでに経験済みだ。日本が満州国を作る時に五族が協力してアジアの共同体を作るという理想を掲げたが、田舎から出てきた日本人が満州人や中国人に対して威張り散らすというのが実態だっだ。また植民地経営はそもそも経済搾取のために行われるのだから、五族が満足することなどありえないのだ。

内田の場合はあの文章しか見ていないので、内田が考える理想世界がどのようなものかはわからない。わずかにわかるのは、内田が理想とする社会が、話し合いで様々な意見の違いが解決される世界なのではないかと思う。確かにそれはあるべき姿なのかもしれないが「お花畑」に過ぎない。

ただしこの「お花畑」は問題を解く鍵を含んでいるように思える。つまり民主主義というのは信仰であるということだ。信仰なんので純粋で完成された「正しい民主主義」はありえない。ゆえに民主主義社会では全員が「祈り続ける」しかない。憲法第9条も宗教だということを認めなればならない。だからこそ、実際の平和運動が重要なのである。

相撲の場合にはガバナンスに深刻な問題が起きている。相撲が理想としているのはサッカーのようにガバナンスが効いた協会運営なのかもしれない。例えばサッカーの場合には地域参加というオープンな事情があり、限られたイエが興行利権を独り占めするというクローズな組織にはなっていない。野球も近代的な株式会社方式のガバナンスが引かれておりある程度の法治が行われる。しかし、相撲の部屋は民主的な制度ではない。ここに利権をめぐる争いが起こるのは当たり前で、それが力士という格闘家によって行われれば実際のガバナンスが「拳による制裁」になるのもこれも当たり前である。

日本人は我々は本音と建前を使い分けることで、実際に自分たちが何ものなのかということがわからなくなっているのではないかと思う。そうなるとあとは腐敗してゆくだけなのである。

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なぜ維新の党は保守政党とは言えないのか

懐風館高校の髪染め事件について調べている。この件についての世間のリアクションは固まってきたようだ。「人権やマイノリティの問題だ」とする人が多い一方で、規則なんだから守って当然だという人も多い。マスコミは係争中の事件ということもあり「ネットで人が騒いでいた」という話と「芸能人も苦労したようだ」ということを伝えるのみである。

確かに人権の問題にするのは簡単なのだがどうも違和感がある。何か言ったつもりになるのだが、かといってそれに納得していない人も多い。最近では人権というと自動的に集団に意を唱える人は排除してしまえというようなカウンターがくる。だからいつまで経っても議論が収束せず、従って問題は何も解決しないのである。

この両者を統合するともう一つ別の問題が見えてくる。それは「価値の体系の根本的な混乱」である。価値の体系という概念を説明するのは難しいけれども、これを導入すると最近の日本型ポピュリズムが何なのか見えてくる。また、保守が実は保守ではないということもある程度はわかる。

価値の体系の混乱はわかりにくいので、まず基本的な価値をおいてみよう。学校は何かを勉強するところであるべきであるという価値観だ。

もちろん全ての正解を暗記することができればいいのだが、それは不可能だ。いつも教師がいて指導してくれればいいのだが、そうもいかない。だから、大人になる前にある程度自分で考えて自分なりの正解が導き出せるようになるために必要なものを学ぶのが学校である。これも価値観である。

つまり、学校のゴールはある程度自立した人を育てる場所であるべきだということになる。特に、この価値を受け入れる必要はない。ここで「これに賛成か反対か」を考えていただきたい。そして反対であるなら何に反対なのかを考えておくと良いだろう。

この価値を受け入れると、学校の規則というのは、こうした判断基準を教えるための教材であるべきであるということになる。もちろん、一人ひとりが生きたいように生きて行ければいいが、社会生活を円滑に送るためには他人と折り合う方法も身につけなければならない。そのためにはある程度の規則は必要である。ここで重要なのは「ある程度の」という点である。つまり、優先されるべき課題があり、学校の規則というのはその下位に位置付けられる。

ここで重要なのは「教育は生きてゆくための手段である」ということである。だから生存が脅かされるような規則はあってはならないということになる。こうやって価値の体系ができてゆく。

これを整理したい。

  • 生きてゆくこと。
  • 生きてゆくための知恵を学ぶこと。
  • 知恵を獲得する一環として社会と折合うために規則を守ることを学ぶこと。

ゆえに、規則のために生存が脅かされることがあってはならないのだということになる。さらに規則は教育なのだから「契約」という側面がある。つまり、社会に受け入れてもらうためには前提になる約束事があるので事前にそれについて合意を結ぶべきである。学校の場合、校則はある程度決まっているはずなので、それが守れるかどうかを決めた上で入学すべきだし、そこに抵触する可能性があるのであれば、何らかの調整がなされるべきであるということになる。

さて、ここまでを考慮した上で実際に何が起きたのかを見てみよう。

  • まず女子生徒は入学前に「中学校でも同じ問題があったので考慮してほしい」と言っているようだ。つまり校則については知っているが守れそうにないのでなんらかの配慮をしてほしいとお願いしている。学校がこれにどう返事したのかはわからない。
  • 口コミサイトを見ると髪の色には厳しいがその基準がどこにあるのかよくわからないという話が複数出ている。つまり、恣意的な運用がなされていて教育以外の目的に乱用される余地があるということになる。
  • 髪の毛の色を黒に保つために4日に一度髪染めを強要されておりそのために健康被害が出ている。しかも行きすぎた指導の結果過呼吸を起こしており、精神的にも追い詰められているようである。つまり、当初の目的を逸脱している。
  • 学校は生徒との調停に失敗したようで不登校が起きている。しかしながらそれを正直に申告せず「生徒は退学した」と嘘をついている。学校は教育機関であり、生徒に善悪を教えるべきだと考えると、これは学校本来の目的を逸脱している。

つまり、懐風館高校ではまず規則が優先されており、そのために生徒の生存が脅かされている。さらに、規則を守らせることを優先するあまり、生徒や保護者に対して嘘の申告をしている。つまり、規則が守られるなら嘘をついても構わないということである。規則がすべての上位に来ている。

こうしたことが起こるのはどうしてなのだろうか。それは規則の運用の裏に「本当の価値体系」があるからだと思われる。それは、学校というのは少ない予算で効率的に社会に部品を供給する工場であり、規格外品があればそれは排除しても構わないという価値観である。

ところが、実際には日本には憲法というものがあり生徒の人権は守られなければならないと考えられており、さらに教育機関であるという建前もある。しかし、大阪府からは学校のリストラという別のメッセージが来ている。この2つの異なる価値観がコンフリクトすることで、価値体系に本質的な揺らぎが出ている。

しかしながら、大阪府当局はほのめかしによる恫喝は行うが、具体的な行動規範は示さない。そこで、それぞれの執行は校長に一任される。しかし、校長は具体的な行動規範を示さず、現場教師に丸投げする。そこで「好き勝手な」執行が行われて現場が混乱するわけである。

前回のエントリーではこうした価値の焼け野原を作ったのは、維新流のパフォーマンスの延長にある新自由主義的政策なのではないかということを考えた。維新の党は「学校の統廃合」という危機感を煽ることで下位校をパニックに陥れて、価値の体系を撹乱したということになる。しかし、さらにその背景にあるのは有権者側にある価値体系の混乱であると考えられる。

価値の体系が崩れ去ったところで生産される人材は、すなわち自分自身で善悪を判断する基準を持たない人たちである。つまり、価値体系の混乱は今始まった問題ではなく、すでに進行していたものと考えられる。これが政治を通じて社会に影響することになり、拡大再生産のループが完成したということになるだろう。

この話を人権や少数派の話にしたくないのは、実際には価値体系の破壊はかなり広範囲で起こっており、決して少数派だけの問題ではないからだ。しかも一旦始まってしまうと拡大再生産されてしまい歯止めが利かなくなる。

面白いのは、維新の党は保守政党を名乗っているという点である。保守とは民族集団が持っている価値体系が大きく揺るがないように緩やかな変化を目指すという立場である。しかしながら、実際には価値体系を大きく揺るがすような政策をとっており、府民もそれを黙認している。

維新の党が保守だと見なされるのは、共産党や社民党のような左翼政党ではないからなのだろう。だが、実際には新しい価値を提示せず、単に価値体系を破壊しているだけで保守とは言いにくい。かといって革新とも言えないので、単なる破壊的簒奪者だとみなすのが良いのではないかと考えらえる。革新ならば、ある程度の行動規範を持っており、価値変化がスムーズに行われるように措置するはずだからである。

このことからわかるのは、価値を提示しない保守政党というのはとても危険だということだ。

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