部族化するインテリ

先日来、日本は村落社会化しているのではないかということを考えている。村落社会とは所与の狭い共同体で、独特の社会を形成している。ここでは村落を日本社会を揶揄する目的で使っている。つまり、村落は社会になり損ねた共同体の姿でありつまり「日本では社会が成熟せずに村落に退化しつつあるのではないか」という含みがあるのだ。

日本社会の退化について考えているうちに、村落は退化の最終段階ではないのではないかということを考え始めてしまい、その考えを頭の片隅から追いだせなくなった。特に日本のエリート社会は部族化しやすいのではないだろうか。

考え始めたきっかけは、民進党の分裂騒ぎだ。国会議員たちが部族間闘争に突入しているのだが、Twitterをフォローしてももはや何をやっているのかさっぱりわからない。民進党の千葉県本部に連絡してみたが職員も呆れ顔で「統一地方選挙前にはなんとかするんじゃないですか」ともはや他人事である。

村落には動かない囲いがあり、周囲の人たちがその場その場でルールを決めて行く。それでも済んでいるのは環境が変わらずメンバーもお互いに顔見知りだからである。

日本が戦後アメリカ型の民主主義を受け入れた段階で脱農村化が進み、いったん社会化した。しかし「戦後レジームからの脱却」を模索するうちに退化して村落化が進んだのではないだろうか。

再度村落化が進んだとはいえ、いったん壊れた枠組みが戻ることはない。つまり、新しい村には明確な囲いがない。自分たちで価値観を折り合わせて新しい枠組みを作るか、そもそも枠組みがない(つまり決まった価値観がなく多様な価値観と折合う)世界に慣れるしかないということになる。後者のシナリオを取ると社会化を目指すことになるだろうというのが希望的観測だ。

ところが、実際には真逆な動きが起こっているように思える。最初にこれに気がついたのは、新潮社が出している「Webでも考える人」という媒体の告知方法を見ていたときだった。「野菜炒めでいいよ」って何?という記事だ。この記事は「女性は虐げられており男性は家事を手伝いもしないで偉そうにしている」ということについて語られている。そして、そうした感想が盛んにリツイートされている。

だが、これは少し違う可能性があるのではないかと思った。女性は料理を義務的に行うのでおざなりになることも多い。食べさせられる専門だった男性が料理をしてみると意外と楽しく、女性がおざなりに料理をしていたということに気がつくことがあるのではないかと思った。中には趣味的に料理をする人もいるだろうが、家事をシステム化・効率化して楽しくこなす男性もいるはずである。

ところが、この考え方は彼らには都合が悪い。つまり、ターゲットとする人たちに本を売るためには、男性はわがままな存在でなければならないが、かといって彼女たちの領域に踏み込んできてもらっては困るわけである。

これは男性が「稼げもしないのに女は文句ばかりいう」というのの裏返しになっている。ここで女性は文句ばかりいうが男性の領域に踏み込んではならない。なぜならば女性の方がずっとたくさん稼ぐ可能性もあり「だったら夫などいらない」ということになりかねないからである。

実際にそれをつぶやいたのだがそれが編集部からリツイートされることはなかった。リツイートされる感想は「この気持ちわかる」というものばかりだったのである。

この編集部は昼頃に10件以上もの感想を連続爆撃的にRetweetする。同じような感想ばかりがタイムラインを占拠するのはとてもうるさい。だが、それに気がつかないのは多分編集部の担当者が自分ではTwitterを使っていないからだろう。共感能力が薄い姿勢はオンラインでは嫌われる。

こうした姿勢はリベラル左翼系にもよく見られる。つまり、例えば憲法第9条を擁護する立場からは、安倍首相はあくまでも戦争をやりたがっている悪辣な政治家でなければならないのだが、かといって彼が何のためにどんな戦争をするのかということは語られない。そして、多くの人たちは自分のストーリーに都合のよい話ばかりを連続的にRetweetする。相手が全く見えていないのだ。

頭が良い人ほど人の話を聞かず共感能力がない。新潮社に勤めている人たちは頭のよい人たちなのだろう。あらかじめ正解を覚えておりその正解に向けて状況を整えて行くというやり方に慣れているのかもしれない。

ネトウヨが取捨選択するのは事実だけなのだが、左翼側の人たちはもう少し複雑な状況を取捨選択するので、より対応しがたいと言える。価値体系がヘドロのように固まっていてそれをほぐして新しい情報を加えることができないからだ。

こうした価値体系の最たるものが言語だ。アマゾンの熱帯雨林にはお互いに意思疎通できないほど言語が別れた人たちが住んでいる。例えばヤノマミ族は28000人が100以上の部族に分かれて住んでいる。彼らがどうして細かな部族に分かれているのかはわからないが、広大なアマゾンの奥地に住んでおりそれなりのスペースが確保できているのだろう。つまり、彼らには逃げ場があるのだ。

NHKで幻想的に取り扱われたことから日本語の記事は精霊(望まれない赤ん坊をシロアリの塚に捧げて「精霊に戻った」とする)に関するものが多いのだが、英語だと彼らの独自性が次のように説明された文章が見つかる。

There are so many variations and dialects of this tribal language that people from different tribes cannot understand one another. (部族によって方言のバリエーションが大きく、お互いに意思疎通ができない。)

他の言語と完全に切り離されているばかりかお互いに意思疎通ができない方言が混在しているということになる。言語というのは、独自性を持たせようとすると相手と差別化するために違った言葉を話せば良い。しかし、それをやっているとどんどんと意思疎通ができなくなる。するともはや、協力して社会や国家を作ることはできなくなってしまうのである。

とても賢いインテリの人たちが概念などを複雑化させてお互いにい疎通ができない世界を作ることができる裏には都市化が進みさらにインターネットという広い空間が出てきたという背景があるのではないかとさえ思える。これはジャングルのように逃げ場を作るので都市化・社会化ができる能力があっても、結果的に部族化を促進してしまうのだろう。

民進党系の人たちの中には「まとまらないと自分たちのプレゼンスが確保できない」という気持ちと、複雑に組み上げられてしまい、一切の妥協が聞かなくなった「部族言語」の間のせめぎ合いがあるように思える。

一部の議員は気に入らないことがあるとTwitterで党首を罵ったりしている。とても良い大学を出て「スペックも高い」のだが、自分たちの姿がどう映っているのかということには多分あまり関心がないのではないだろうか。

民進党の分裂騒ぎは現在進行形なのでどのような着地点が見つかるかはわからない。人の話を聞かず、あまりにも複雑な概念を組み上げて二進も三進もいかなくなる危険性を自省するに止めたい。

Google Recommendation Advertisement



「悪気がないから」といって全体主義の萌芽を許してはいけないわけ

先日、ある識者が「沖縄方言は標準文法と語彙が整備されなかったので独立した言語ではない」と言う論を展開していたのを見た。最初はネトウヨ目当ての記事だから目くじらを立てるのもどうかと思うのだが、しばらく寝かせていて考えを改めた。これはとても危険な試みのように思えてきたからである。

以前にアイヌ語について同じことを言っている人を見たことがあるので、こうした筋の議論はネトウヨ界隈では定説になっているのかもしれない。絡まれると怖いので原典はリンクしないが、まとめるとこんなことを言っている。

沖縄の人たちが話してきた琉球言葉は日本語と同系統の言葉だ。方言言なのか別の言語なのかといえば、独立した言語として成立するためには、文法がしっかり整備されたり、辞書が編纂されたりすることが決め手だが、そこまでに至らないまま明治時代に完全に日本に併合され本土の言葉が普及した。

この記事が許容できないのは、この考え方が帝国主義の文脈を持っているからである。

この文章は「ウーマン村本という人の妄言をただす」というようなタイトルになっており、人を教化する文脈で国際的には受け入れられそうにない主張をあたかも正解のように語っている。これをリベラルな人たちが読むとも思えないのだが、保守思想に共感する人たちに「正解」として普及し、実際にマイノリティの攻撃に使われる。そこが問題なのだ。

この主張を展開すると「ある一定の時点までに文法と語彙が整備されれば主権を持った言語として認めてもいいが間に合わなかったから方言的ステータスになる」と言っていることになる。これはある時点までに主権国家ステータスが得られれば主権国家格が得られるがそうでない国は植民地になっても構わないというのと同じ言い方になる。

「そんな大げさな」と思う人もいるかもしれないのだが、もともと言語・方言論争というのは極めて政治的な色合いが高い。多くの主権国家が国内でマイノリティを踏み台にしてから海外に出かけていったという歴史がある。彼らは出かけた先でさらに遅れた人たちを目にして「神様に選ばれた」という過剰な選民意識を募らせてゆく。この動きはイギリスやフランスなどから始まり、ドイツや日本は遅れて植民地獲得競争に乗り出した。最終的に起こったのが第二次世界大戦だ。

何が言語で何が方言かという議論に科学的な根拠はない。例えば、一般的にスペイン語とポルトガル語は別の言語だとされている。それぞれの言葉を公用語とする地域があり、これを同一言語という人はいないだろう。だが、この二つの言葉には語彙にも文法にも方言程度の違いしかない。

スペイン語とポルトガル語が兄弟のような関係にあるのに比べて、スペインの域内にあるカタルーニア語はオクシタニア・ロマンス語という別のグループに入っている。オクシタニア・ロマンス語はスペイン東部からフランス南部で話される言葉であり、一般的には「スペイン語」と「フランス語」と見なしうる言語が含まれている。実はフランス語も別のグループに入っており、フランス・スペイン圏は三つの異なったラテン語系の言語群を抱えていると言える。

シノドスにカタルーニアの独立運動についての歴史が書かれている。スペイン中央政府はカタルーニア語の使用を禁止する弾圧を行った。これが現在まで尾を引いており独立運動まで起きているということはすでによく知られている。

極めて不安定な政情の中で自治が開始されたが、それも軍のクーデターが引き金となったスペイン内戦(1936~39年)の中でついえ、内戦後に成立したフランコ独裁体制は、民族主義的な政治・文化活動はもちろんのこと、カタルーニャ語についても公的な場での使用を禁止した。

こうした複雑な事情を抱えるのはスペインとフランスだけではない。イタリア語も実際には西ロマンス語と南ロマンス語という別のグループに割り当てられる方言(あるいは言語)群から成り立っている。標準イタリア語があり文法と辞書が整備されているからその他の言語は方言にしかならないという定義をイタリア人に説明すれば、多分かなりの反発を受けることになるだろう。これはイタリアでは政治的問題化してい、北イタリアは独立こそ求めないが自治権を充実させて税金の使い道を決めたいという動きがある。

方言か言語かという話がセンシティブなのはマジョリティの側がマイノリティの言語を「単に方言だから」とみなして弾圧した歴史があるからだ。例えばフランスは特に非ラテン語系の言語を中心に弾圧した歴史がある。これについてよく知られているのが「最後の授業」である。ある年代の人たちは国語で習ったのではないか。

「最後の授業」はプロシアに占領されてフランス語が教えられなくなった教師が「ビブ・ラ・フランス(フランス万歳)」と唱え、それを聞いた生徒が真面目にフランス語を勉強しなかったことを後悔するという筋の話だ。しかし実際にはアルザス地方ではドイツ語系の言葉が話されており少年がまともにフランス語を話せないのは当たり前だった。当然少年は学校でフランス語以外の言語を禁止されていたのだろうから、少年にとっては「ドイツ語系の言葉」の解放であったはずでそれを悲しむはずはない。

この話のポイントは「フランス語こそが美しい言葉であって、ドイツ語などはくだらない言葉である」という国内向けの意識づけだ。言語を方言と貶めたりまた方言を言語化したいという欲求は民族意識と結びついている。だが、このような民族意識は一方で大きな反発を生むのである。

イギリスでもウェールズ語などが禁止された歴史がある。

アイルランドと異なり,スコットランドやウェールズは,早い段階からイギリスに併合されていた. 1536年にウェールズがイングランドに併合されると,ウェールズ語が英語よりも劣った言語と見なされ,法廷で は英語使用が義務づけられた.さらに1870 年の教育条例により,ウェールズ語使用を禁止する運動(Welsh Not )も起こり始める.同時期の産業革命の影響と相俟って,19 世紀中盤からウェールズ語話者が急激に減 少し,その後 世紀に入っても減少傾向は止まらなかった.

ヨーロッパにはラテン語系・ドイツ語系・スラブ系・ケルト系・バスク語などの様々な系統の言語があり、支配層と被支配層が異なった言葉を話していた地域も多い。

こうした同化政策は日本にも取り入れられ「方言札」を使って沖縄や南洋諸島で現地の言葉を使う人たちを辱めたという歴史がある。だから「帝国主義の文脈で語られるのはヨーロッパだけで日本は関係ない」とは言えない。日本が民族国家として主権格を求めた時に同時に行ったのが同化政策だったので、むしろ「正しく理解したが故に同化政策を推進した」という方が正しい。琉球の方言と同じくアイヌ語もこの文脈で禁止されている。前回見た「アイヌ語は言語ではない」が有害な理由は、こうした帝国主義的な歴史と関係がある。そして、それを朝鮮半島に拡大し名前を変えさせたりした。その時も強制同化策とはいわず「かわいそうな朝鮮人が希望をしたから氏を与えてあげる」とやったのだ。

さらに、現代でも日本は沖縄に米軍基地の大半を押し付けている。本土の我々がそれほど罪悪感を抱かないのは、やはり本土とは違った歴史のある特殊な地域であり、我々には関係ないと思っているからだろう。つまり、沖縄と本土の間には差別・被差別の関係があり、本土がそれを容認したままで日米同盟に依存しているというのは、残念ながら否定しがたい事実だろう。

しかしながら「言語を否定されても同化させてもらえるならいいではないか」という次の疑問が浮かんでくる。これを明確に否定するのがアーレントである。「全体主義の起源」は民族国家の中で起こった過剰な同化欲求が異物を排除する過程で「皆殺しにしてしまえ」というほどの脅威に変わってゆく姿を検証している。その脅威は国民の間から「自発的に」湧き上がっており、最終的にはその国民全体を巻き込んだ悲劇に発展した。

このことから、同化欲求や言語の序列化が無知から来るものであった方が悲劇性が高くなりそうだということだということがわかる。わかって扇動している人たちはまだ意識的にやっているのだろうからある程度で歯止めが効く可能性もある。しかし、わからないでそうした枠組みを植え付けられた人たちにそうした歯止めはない。当然のことのようにしてそれを選択しそれに慣れてしまう。そして、その先に何が起こりうるかということは考えない。

だから「ある言葉は言語であり、別のものは方言である」とか「民族として優れた文化がないから否定しても構わない」という主張はその都度潰しておく必要があるということになる。また、そうした主張は社会を滅ぼしかねないということも明確に知っておくべきであろう。

Google Recommendation Advertisement



日本人の政治的議論が折り合わないわけ

噛み合わない議論に巻き込まれた

先日書いたアイヌ民族についての文章に反論が来た。読んでみたのだが何が言いたいのかさっぱりわからない。最終的にはTwitterで返信をもらったのだが要領を得ない。引用はやめてほしいと言われたので、まとめると次のようになる。

「アイヌ民族などいないという文章は気に入らない」「読んでみると合意できる点も多いのだが」「やはりアイヌ民族などいないという文章は世間に悪用される可能性がある」

実際にはもっと長い文章で、散発的に二時間くらいかけて送られてきたので「こんなに短くまとめる」ことに対して反発はあるかもしれないのだが、実際の論理構成はこんな感じなのである。

最初は理解しようと思ったのだが、散発的に送られてくることもあり、途中で読むのが面倒になってきた。文章を書いた以上は話を聞く義務があると思うと反面、もうちょっと効率的に反論してくれればいいのにとも思った。

だが同時に、日本人特有のある構造がわかって面白いなとも感じた。

この人が問題にしているのは文章ではなく「周囲の評判」のようだ。この人は普段から「アイヌ民族などいないから補助金は返すべきだ」という主張について反論している。だから、このブログのタイトルにも反応したのだろう。

だが、冷静に考えてみるとこの文章を否定しても周囲にいる「アイヌ民族などない」という人たちの意見を変えることはできない。このように、対話をしている当事者と実際に問題になっている人が違うというのは実は日本人の政治議論を考える上でかなり重要なポイントなのではないかと思った。

日本人の会話が噛み合わない独特の構造

これがこの人特有の問題なのであれば特に文章を起こそうとは思わなかったと思うのだが、同じような特性は左翼リベラル系の人たちに多く見られる。

憲法第9条の<改悪>に反対している人たちに、例えば「あなたが想定する戦争とは何か」とか「憲法第9条には項目がいくつあるか」などと聞いてもまともな答えが戻ってこない。同じように共産党の支持者に「現在の労働者は株を買って資本家になれるし、正規労働者の組合はむしろ非正規を搾取する立場なのでは」などと聞いても同じような曖昧な答えが返ってくる。

どうやら彼らは対象物についてはさして興味がなさそうだ。最初は自分が部外者でリベラル村の住人ではないから「相手にされていないのだな」と思っていた。

  • まともに返事をくれないのだから、部外者扱いされてまともに取り合ってもらえない。
  • 相手に質問を理解する能力がない。
  • 実は相手は対象となっている項目に関心がない。

しかし、今回の場合、反論してきた人はトピックについて勉強はしているわけだし、まとまった文章を書いて反論してきたのだから意欲はあることになる。にもかかわらず同じような特性が見られるのはどうしてだろうか。

この人と話をしていて思ったのは、実は「あなた」ではなく「世間」が問題なのだということだ。つまり話を聞いてあげているつもりになっていても、実は最初から問題にされていないのである。

同じように憲法問題について話を聞いても、護憲派は実は話を聞いてくれない人に向けて語りかけているので、僕の顔など見えていなかったことになる。と同時に、話を聞きに来た人を説得しないのだから、いつまでたっても状況は変わらない。だから、日本のリベラル左翼の運動はあらかじめ失敗することが約束されているのではないだろうか。

何重にも世間に絡め取られている日本人

ここまでがワンフォールド(一折)である。これだけでも十分ややこしいのだがここにもう一折入る。それが日本人は個人の意見はなかったものとして考えるという特性である。例えば、人権や平和主義について考える時「私はお互いに思いやりのある国に住みたいから、人権を蹂躙するような発言には憤りを感じるのです」と言えばよいのだが、日本人は個人が意見を持つことを徹底的に嫌うので「世間はこうあるべきである」という風に課題をおいてしまう。

論の根拠というか出発点が「世間」に置かれており、さらに説得するのも「世間」なので、当事者同士で話をしても全く折り合いようがない。「世間」の意見が変容するとしても意見を変えるのは個人なので、意見変容が起こらないからだ。「Twitterの議論は無駄」という話はよく聞くが、その理由は当事者がそこにいないからなのではないだろうか。

今回も「アイヌ問題があなたにとってどう大切なのか」ということを聞いてみたのだが、やはり世間を主語にした言葉が返ってきた。さらに「何かの団体に属しているわけではなく」「世間にどんな波紋があるかわからない」ので自分の意見を発信する意味はないという言葉までが戻ってきた。

普段から「日本人は個人を徹底的に否定する」などと書いているのだから、こうしたことはわかっているつもりなのだが、実際に自発的に徹底して個人を排除しようとする姿をみるとやはり異様に思えてしまう。政治的にあるポジションにかなり強力にコミットしているのに、なぜここまで個人を消したがるのかということがさっぱりわからない。

この徹底的に個人を排除するという姿勢は「意見表明」や「情報発信」では顕著である。これは表面的に見えるのでわかりやすい。しかしその裏には意見訴求の相手としての個人も受け入れられないという側面が隠されているようだ。これが今回の一番の発見だった。

ところがここでさらにもう一折入る。個人の意見が何もないのにポジションにこだわるのは「自分の主張がどの程度受け入れられるか」ということが社会でのポジションの誇示につながるからだろう。だから、根拠が個人にない意見を表明してポジションにコミットするとそれを変えられなくなってしまう。社会ポジションを認知するのも当事者ではなく「世間」である。

さらにこの世間は個人の価値観の中にも入り込んでいる。主婦には社会的な価値はないという世間の評価を一番内在的に持っているのは主婦当事者だ。そこで「子育てをしている女は無価値である」という評判を聞くと「全てが否定された」気持ちになる。

ここまで考えてきただけでも、日本人は四重に「世間」に絡め取られていることになる。実際には個人の価値観と世間の評価の間には反響があるのではないかと思う。このようにして、世間はある蜘蛛の巣のように個人をからめとっているのではないだろうか。

憲法議論の錯綜

さて、この個人の徹底的な排除は政治議論にどのような影響を与えるのだろうか。ここではいくつか例をあげて見て行きたい。

まず手始めに憲法議論について考えてみよう。実利的な問題には落とし所があるが憲法問題は自由に決められるので却って落とし所が見つからなくなるという特性がある。

安倍首相はどうやら憲法を変えたいと思っているようだ。だが彼の成育歴を紐解くと「おじいさんのため」あるいは「お母さんから言われたから」憲法が問題になっているということがわかってくる。つまり人から言われたからそうしたいと考えていることになる。

やっとのところでそれを自分の問題だと消化したところで、今度は周囲から「勝手に憲法を変えようとしている」と言われる。そしてそれを言っているのは主に身内である。

だが、自民党の人たちが憲法を大切に考えているようには思えない。支持者を得るために急進的な人たちに近づいた形跡のある人もいるようであり、安倍首相の人気が高いから従っておこうと考えている人たちもいる。

そこで、集団でなんとなく何か変えればいいのではないかということになる。あるいは野党時代に作ったように誰が主導したのかはわからないが徹底的なルサンチマンによって成り立ったドラフトもある。この結果、自民党の憲法議論は、誰も最終的な責任を取らず撤回もされなければそれを元に議論するでもないというとても中途半端なアイディアが次から次へと浮上してくる。

さらにこれに反対する方も「議論の中身はよくわからないが」とにかく「自民党が言い出したことが気に入らない」という人たちがいて「自分の意見ではないが」「別に実質何も変わらないのなら憲法を変えなくてもよいという空気がある」などと言っている。

ここまででも十分複雑なのだが、この二つのパーティーの間の議論は実は当事者間のものではない。憲法に興味がなくなんとなくその場の雰囲気に飲み込まれて判断しそうな「一般有権者」が問題になっている。賛成派はタレントを巻き込んで宣伝すれば世間が流されるだろうと考えており、反対派は有権者は馬鹿だから軽々な判断をしないように釘をさしておこうとする。

つまり、皆が重要だと言っている憲法を本気で変えたいと思っている人は誰もいない。興味がない人がいかに自分に都合が良い判断をしてくれるかということを期待しているという人ばかりが議論に参加しているのである。

日本人が無駄な議論を繰り返しているうちに、憲法第9条の議論だけを見ても、前提条件になる東アジアの勢力図は急速に変わりつつある。ここ一年だけを見ても数ヶ月の間に北朝鮮を封じ込めるという姿勢から対話路線へと急速に転換しつつあるのだが、国内の議論がそれを織り込んだ様子はない。

「国際世論への訴求」という不毛

この「実際のキーパーソンが議論の中にいない」問題は国際問題にも波及している。例えば慰安婦問題も韓国と日本の問題のように思えて、実は当事者は「アメリカ」だろう。日本政府は、韓国や慰安婦の人たちにはさほど関心はない。このために、謝罪がとてもおざなりになものになり「日本は金で口封じをしている」という印象が韓国人の態度を硬化させる。

ここまでは主語を日本人と置いてきたのだが、実は韓国の方も日本を問題視しているわけではなさそうだ。だからサンフランシスコに銅像が立つ。韓国人の目的もまた「被害者としてのかわいそうな姿勢を世界(特にアメリカ)にアピールして「日本人の顔に泥を塗ること」なのだろう。

そう考えるとなぜ日韓合意にアメリカが関与したのかがわかってくる。どちらもアメリカに対して自分たちの立場を認めさせたいのではないだろうか。

このことから「世間を問題にする」というアプローチをとるのは何も日本人だけではないということがわかる。極めて東アジア的とも言えるしもしかしたらアメリカなどの個人主義の国にも同じようなことが起こり得るのかもしれない。

アメリカなどの個人主義の国には、世間の態度を変容させるために個人の意見を変えるというブレーキがある。日本や韓国のような集団志向が強い国ではこうしたブレーキが効きにくいのではないかと考えられる。多分アメリカは「当事者間で話し合ってくれ」というのだろうから、この慰安婦の問題が解決することはないのかもしれない。

解決策を個人を大切にすること、なのだが……

ここまで見てくると「個人の意見を重要視すれば政治的な問題は解決する可能性が高い」ということがわかる。一人ひとりの意見を変えて行けば、やがて世間も変わるからだ。だが、実際に政治的議論をやってみるとそもそも個人として問題提起するのも難しく個人としての意見を貰うのも困難だということがわかる。

もちろん、適切なモデレーションがあればそれなりに意見交換することはできるのだが、それはとても疲れる作業でもある。このためついつい「問題をなかったこと」にして異なる意見をブロックしたり、相手を人格攻撃したり嘘を並べてたりして議論そのものを無効化しようとする態度が横行するのではないかと思った。社会からはじっくり腰を据えて議論をする余裕や時間はなくなっており、気に障る意見は次から次へと流れてくる。

個人にアクセスしないかぎり政治的な問題は何も解決しない。そのうちに年収が200万円以下というアンダークラスや、政治的議論に参加する時間的余裕も精神的余裕もない中間層などが生まれて、どんどん政治や社会問題に対する関心が薄らいで行く。さらに、それがアンダークラスを増加させるという悪循環が生まれるように思えてならない。

個人の意見を大切にしないということは、実は我々の社会に大きな弊害をもたらしているのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



慰安婦問題と村意識

今日は慰安婦問題について考える。一つだけお断りしておきたいのは、この文章の目的は慰安婦が無理やり連れてこられたか、それとも意思があってきたのかということについて白黒つけようということではないという点である。つまり、事実についても歴史認識についても考えない。

今回のムン・ジェイン大統領のステートメントについて見てみよう。

  • 合意には重大な欠陥があるから「最終的な合意だ」というのは認められない。
  • かといって日韓関係を悪くする意図はない。
  • 単に所感を述べただけで決定ではない。

正直なところ、何について怒っているのかが良くわからないし、どうしてあげるべきなのかもわからない。と、同時にこれは韓国内部の合意形成プロセスになんらかの問題があり、その気持ちの問題を述べているのだろうなということはわかる。つまりこれは韓国の「ムラの事情」であり、日本は八つ当たりされているように思える。

これまで日本の村落について見てきたのだが、韓国も同じような村落社会であるということがわかる。つまり、うちわのきもちがありそれがおさまらないと言っているのである。これまではコンテクストのはっきりした日本の問題を扱ってきたので、それが外からどう見えるかということについてはよくわからなかったのだが、韓国の問題を見ると「村落の問題というのは外から見ると良くわからないがなんだか気持ちが悪い」というのがとてもよく分かる。

それではこの村落というのはどれくらいの広がりを持っているのだろうか。Quoraで聞いてみた。最初は「慰安婦」を韓国語にしていたので韓国人にしかわからないはずだったのだが、これはQuoraでは直すべきだといわれた。

第一にわかったのは韓国人はあまりこの問題に興味がないか相手に説明するつもりはなさそうだということだ。

さらに韓国人も日本人と同じように自分の気持ちを整理して他者に伝えるのが大変下手だということが分かった。自分たちの文化の肝がどこにあり、それを外部の人たちに伝えるということができないようなのだ。

明確に韓国系だとわかるのは4人のうち2名だったのだが、そのうちの1名(韓国系アメリカ人)によると、どうやら韓国社会は「弱者への共感を示すのがとても大切な社会である」ということのようだ。しかし、これも明確な形では表現されておらず、こちらが「意を汲み取る」必要がある。

これを参考にすると、多分弱者への共感を形で示す必要があるのだろう。だが、日本人は逆に弱者への共感を示すのが極めて下手な上に自分たちの文化をうまく外の人たちに表現することができない。

もう一人の人は「我々の政府」のような言い方をしているので、プロフィールには出てこないが多分韓国人か韓国系なのではないかと思う。この人は「慰安婦問題が政治利用されている」ことに対して怒っていた。弱者の共感を示すべき「我々の政府」が慰安婦を利用して前政権を否定しようとしていると言っているのである。つまりこの人は日本人には怒っていない。

そもそもムンジェイン大統領のステートメントを見ても彼らが何を解決しようとしているのかがわからないのだが、実名掲示板で聞いても結局何について怒っていて日本政府が何を失敗したのかがさっぱりわからない。

ここから分かるのは彼らが「謝り方が悪いからもう一度謝れ」と言っていて、その謝り方も気に入らないが、どう謝ればいいかは自分で考えろと言っていることになる。

外側からみればこれほど理不尽な言い方もないのだが、良く考えてみると日本人もこういうことをやりがちである。自分の気持ちというものがあり「それがうまく伝わらない」ことに苛立っており、その苛立ちを外にぶつけているのだろう。

こうした人たちにどう対処するべきかは人によって異なるのだろうが個人的にはほっておけばいいんじゃないかと思う。

相手は感情的に苛立っているので、理性的に何かを言っても無駄だろう。さらにどうやって謝ったらいいのかを聞くというのも無駄だ。なぜならば相手は自分たちの文化を意識的には理解しておらず、さらに韓国人の内部にも意識のずれがありまとまらないからだ。

しかしながら日本政府にも全く非がないというわけでもない。相手が感情的になっているところに「いやそんな事実は全くなかった」などといって張り合ってしまう。日本人もいったい何が解決したいのかということが良くわかっておらず、国際社会で悪口を言いふらされるのに苛立っているということになる。そこで無理やりにお金で口封じを図ったうえで政府間で密約を交わしてしまうから話がややこしくなる。

韓国人は何について怒っているのかがわからないので、合理的な説明を求められると「賠償」といういかにも合理的に見えるものに仮託してしまう。しかし、お金をやっても問題は解決しないのでお金の渡し方が悪いとか決め方が気に入らないなどというのだ。

日本政府はすでに戦後賠償を済ませているのだから、彼らの非難については淡々と謝罪したうえで「お気持ちはすでにお渡ししてありますよ」という事実を伝えるべきなのかもしれない。国際社会を巻き込んでどっちが悪いなどと言ってみても、部外者には何のことだかわからない。

ここから我々が学べる教訓は意外と簡単である。村落内部の議論というのはこれくらい良くわからないものなので、普段から意識して説明ができるようにしておくべきだ。韓国政府の今回のやり方はとても子供じみているが、日本もいくつかの問題についてそう思われている可能性はきわめて高いのではないだろうか。

Google Recommendation Advertisement



貴乃花親方の罪は何だったのか

日本相撲協会が貴乃花親方に対する処分を決めた、理事を解任するというのだ。理事会には解任を決議する権能はないので評議会を開いて処分を検討することになっているという。これまで貴乃花親方が情報を出さないと叩いていたマスコミは、処分が出た瞬間に「この処分はおかしい」と言い出した。さらにTwitter上にも「これはひどい」とか「相撲協会はおかしい」というようなリアクションが溢れた。

この話の表向きのポイントは、被害者側の親方である貴乃花親方がなぜ首謀者の一味である白鵬、ガバナンスの最高責任者である八角理事長よりも重い罰を受けなければならないのかというものだ。日本社会は法治国家であるという前提があるのだが、法治国家ならば「被害者側」の方が重く罰せられるのはおかしいように思える。

もっとも。貴乃花親方が処分された理由を理解するのは簡単である。貴乃花親方は村のうちうちで話し合うべき恥を外に晒してしまい村人に恥をかかせた。だから村を追い出されかけた。つまり、「貴乃花親方は村の恥を外に漏らした罪で村八分になった」と考えればよく、これは日本人なら誰でも簡単に理解できる。

このことは、日本人の行動原理を理解するためにはやまと言葉に置き換えてみると良いということを表しているように思える。ガバナンスやコンプライアンスというのは格好をつけるために用いられる言葉であって、実際には「仲間はずれ」とか「村八分」いうような大和言葉で説明ができるのが本質なのである。

スポーツ報知はこのように相撲協会の言い分を伝えている。

 高野委員長は「本件の傷害事件は、巡業部長である貴乃花親方が統率する巡業中に発生した事件。貴乃花親方は理事・巡業部長として、貴ノ岩の受傷を把握した直後か被害届の提出前、遅くとも被害届の提出後には速やかに日本相撲協会へ報告すべき義務があったにもかかわらず怠った。貴乃花親方が被害者の立場にあることを勘案しても、その責任は重い」とコメント。

だが、これはいかにも苦しい弁明だ。

報道の中には相撲協会には警察から報告が入っていたとするものがある。相撲協会は「処理は場所が終わってからいでいい」と考えており、なおかつ警察が「誰が被害者なのか言わなかった」と主張している。相撲協会は、知ってしまうと処分が必要になり金儲けの興行の邪魔になるのでやらなかったのではないかと疑いたくなる。つまり、聞こうとしなかったにもかかわらず「報告がなかったから貴乃花親方を処分した」と言っている。これは矛盾しているのではないかとも思える。

貴乃花親方は役職者として報告義務違反を犯して処分されたという説明がなされたのだが、報告義務違反を犯したのは貴乃花親方だけではない。白鵬も日馬富士も報告義務違反を犯しており、その意味では同罪と言える。いずれにせよわかっていたのに調査しなかった人は減給だけで済むが、不当に問題が隠蔽されることを恐れて報告をしなかった人が理事を解任されてしまうというのは法治主義の原則にしたがえばおかしいように思える。

力士たちは「力でわからせてやる」という世界に住んでおり、これが一連の暴力事件の温床になっている。問題が起きた時には恥を外に漏らさないという収め方をするので暴力事件がなくなることhなさそうだ。大和言葉だけで説明すると「うちうちでおさめる」のである。

しかし、この大和言葉マネージメントには限界がある。暴力が収められないと入門者が減ってしまう。だからこそ、モンゴル人に頼らなければならなくなっているのだ。白鵬はモンゴル人にも利権(親方になる権利)をみとめよと言っているのだが、これは聞き入れられそうにない。権利も認められないのに義務だけは負わされるのだから、やがて相撲村はモンゴル人に依存できなくなるだろう。

相撲協会は、外部から閉ざされた村社会に戻ることもできるし、近代的なスポーツに生まれ変わることもできる。この二者択一は日本社会に似ている。日本は民主主義国家に生まれ変わることもできるしあいまいな村社会に戻ることもできるという岐路にいる。

例えば、相撲は単なるプロレス並みの興行である。悪口のように聞こえるかもしれないが、プロレスは自分たちが単なる興行でありm、社会的な責任を追求されれば興行が立ち行かなくなることがわかっているぶんだけ抑制をきかせられる。それでも試合中の死亡事故や練習中の「かわいがり」による死亡事故などが起きているようだ。閉鎖的な暴力集団という面もファンに許容されており「そういう世界だと知って飛び込んのだろう」と思われているのかもしれない。相撲もプロレスのようにしてしまえば、NHKの中継はなくなるだろうが、興行が成り立つ程度のかわいがりも容認されるだろう。

貴乃花親方が改革をしたいのなら、「相撲は現代社会の良き構成員として」「協会側は正当な理由があり調査に協力しなかった」といって法廷闘争に持ち込めばいい。相撲協会は改革のために理事と理事長を解任し、少なくとも理事長には外から現代的なガバナンスができる人を招聘すべきだろう。相撲を近代的なスポーツにしようとするならば、親方は単に柔道のコーチのような存在になるだろう。

残念ながら国体という概念を持ち出して「相撲は桜が紋章になっており、菊の紋章をいただく皇室と並んで日本の伝統を担う」というようなことを言っているようでは、単に新しい村落構造を作るだけになってしまうだろう。

貴乃花親方が裁判に打って出た場合、相撲村の掟と日本国憲法が相撲をすることになる。どちらが勝つのかは歴然としていると思う。


さて、Twitterでメンションがあったので乱文ぶりを添削したのだが、ついでにこの文章を書いた後に何が起こったのかを補足しておきたい。結局、八角理事長は再選された。貴乃花親方の部屋では動揺が起こったのか貴公俊が暴力事件を起こした。相撲界には暴力という事件を公平に裁く裁判所のような仕組みがなく、親方衆の胸先三寸で罪状が決まってしまうことになっている。貴乃花親方は相撲協会に「降伏」することでこれを是認してしまった。これは、貴乃花親方がやったことも世論を喚起して日馬富士や白鵬への罪を重くしようとしたという行為を認めてしまったということを意味する。

これを書いた時には裁判をすれば良いと書いたのだが、実際には裁判は起こらなかった。そればかりか人治的な慣習を是認してしまったことで、暴力が隠蔽されうる体質を温存させてしまったことになる。これが直ちに相撲界を弱体化することにはならないだろうが、前近代的な体質が残ることで、中期的に相撲への入門者を減らしてしまうことになるだろう。

だがここで「貴乃花親方が愚かだった」というつもりはない。なぜならばここに出てくる全ての親方衆は相撲の利権構造に依存しており、小さな相撲部屋がお互いに緊張関係を持ちながら連携しているような状態にある。つまり、貴乃花親方が「改革」を貫いてしまうと親方の力関係が強くなり「彼に利益を独占される」危険性があると考えてしまうわけだ。このような小競り合いのプレイヤー同士の改革は、外に明らかな危機がもたらされない限り難しいのではないかと思う。

一方でこのニュースは未だに(208/4/1)ワイドショーの人気コンテンツである。暴力や相撲界の将来などという問題よりも、村の中の細かな人間関係に日本人が強く惹きつけられることがわかる。

Google Recommendation Advertisement



日本人にはそもそも利己主義しかない

先日コメントをいただいた。個人主義が理解されず利己主義になっているというようなお話だった。なんとなく「そうですね」というように返したのだが、一段落したのでこれについて取り上げたい。ここから展開する主張は、日本にはそもそも利己主義しかないという前提に組み立てられている。一方で日本では個人が考えを持つことがないので、そもそも個人主義というものは存在しない。

今回見ている日本の村落には個人は登場しない。ゆえに個人の価値観をすり合わせて社会を作るという論は全て無効になる。これは「日本には個人主義はない」と言っているわけではなく、あくまでも概念上の話である。西洋流の考えを身につけたり、外国に留学したりすると個人主義を身につけることはできる。個人が意見を言ってそれの責任をとるという実名性の世界である。日本にはいくつか実名で意見交換する言論プラットフォームがあり、日本に個人主義が全くないとはいえない。しかし、こうしたプラットフォームは一般的でなく、従って多くの人たちは匿名かハンドルネームで意見を交換し合う。これは日本人が個人での意見表明を極端に恐るからだとしか説明のしようがない。

個人がないということはその集まりである社会もないのだから公共もない。あるのは所与の村落だけである。

村落は集団による利己主義に基づいた利権共同体である。つまり、日本人は利権の調整しか合理的に捉えることができないということだ。個人がないために個人の価値観がなく、ゆえにそれを擦り合せるということができないのだが、損得勘定はわかるのだ。

日本の村落はドメイン(領域)と時間がある。その中で得られる利得を最大化するのが日本人のやり方である。

例えば日本人は地位を得るとわがままに振る舞うことができる。しかしわがままがすぎると地位が転落して長期的には損をする。だからわがままを控える。これが日本人のガバナンスのほぼ全てなのではないか。ゆえに、周囲が監視しなくなったり、長期的な利権が見込めなくなったりすると、ガバナンスそのものが崩壊する。相撲も政治もある程度これだけで「わがままになった」理由が説明できる。

ところが、この利己的行動には「集団である」という前提条件がある。日本では組織を守るために泣いて相手を切ったりすることは美徳として捉えられるが、これは他の集団から見れば利己的な行為なのだが利己主義とは呼ばれない。さらに、組織の利己的な生き残りのために個人が犠牲になると、これは大きな美徳として捉えられる。しかし、同じようなことを個人のためにやると「利己主義だ」と言われてしまうのである。

この集団による利己主義が非難されないのは他の集団も利己的だからだ。利己的という言い方には悪い含みがあるが真剣に自分たちの利益を追求するということなのだし、他にピンとくる価値観はないのだから、一旦これは許容する必要がある。

利己主義をなくしてみんなのために頑張ればいいのではないか、などと思うのだが二つの弊害が出る。一つ目は損得勘定が何かもっと別のグロテスクな題目に変わってしまうということである。例えば「国体を守るために日本人の中にいる反日分子を抹殺する」などと言い出したら、これは危険な兆候である。その人は単に利己主義を受け止められなくなり暴走を始めたのだ。政治の世界では左右問わず良くこういうことが起こる。

一方もっと怖いのが無関心である。オリンピックや築地市場の豊洲移転などには多くの人が利権を求めて群がった。しかし、その目標が達成できそうにないということがわかると、人々はそこから一目散に逃げ出す。そして誰もそのプロジェクトに関わらなくなり、目標を失って漂流を始めるのである。実は政治にはこのような動きがいくつも起きているようなのだが、ニュースにならないので誰も注目しない。Twitterを見ていると「オリンピックも豊洲移転も失敗するだろう」という予測が現場の声として聞かれる。

もう一つの無関心の現れが冷笑である。「〜さんが悪くする日本の〜」のようなフォーマットで文章を書くとアクセス数が伸びる。これは部外者が部外者としては終わらないということだろう。高度経済成長社会では「〜すれば〜できる」というハウツー系に需要が集まるが、無関心な社会では冷笑に商品的な価値が生まれる。個人を中国や韓国などの国に置き換えた本が売れるのもこの流れなのではないだろうか。

いずれにせよ、日本人が利己心を失うと、現実的なパースペクティブが失われ状況が混乱するか、興味が失われて推進力がなくなってしまうということになる。そもそも、個人の正義感で問題を解決しようという意欲も意思もないのだからこれは当然のことである。

たいていの場合はこれほど極端なパスを取らず、大きくなりすぎた村落を解体して小さな利益共同体に戻ってしまう。つまり荘園を作って塀で囲い外のことは知らないとなるのである。安倍首相の改革は結局特区による荘園化に落ち着きつつある。

いずれにせよ「あの人は利己的だ」という場合、実際には「個人の資格で利益獲得競争に参加しようとしているので生意気だ」と非難されているか「その人の取り分が増えると自分が食べて行けなくなる」という非難にすぎず、実際には利己的な行動が非難されているわけではないのではないのではないかと思う。

そもそも、利己性が非難される社会というのは、全体の収益性が縮小しつつあり誰かの犠牲なしには成り立たなくなっているか、そもそも組織作りがうまく行かずに組織に属さない個人が生き残り競争にさらされるということを意味しているわけであって、利己主義そのものが非難されているわけではない。

安倍政権が非難されるのは、社会が縮小する恐れがあり「このままでは生きて行けないな」という危機感を持っている人が問題を共有しない安倍首相を非難するということなのではないかと思う。

もちろん、こうした村落性を超克して、個人がそれぞれ価値観を持ち、それをすり合わせつつ新しい社会と公共を作ってゆくというアプローチはあるのだろうが、多くの日本人は概念としてはこれを理解できても、それを実行することは難しいだろう。そもそも実名を出して自分の意見をいうこともリスクだと考えている時点で望みはないと思った方が良さそうである。

これはいわゆるリベラル左翼の人たちにとってみれば「彼らが理想とする社会など実現できない」ということであり、いわゆる保守の人たちが理想として掲げる「公共への自発的な奉仕」は特定の村落への無料奉仕になってしまうということである。

Google Recommendation Advertisement



貴乃花親方が崩壊させる日本相撲協会

もともと2017年12月に書いた記事なのだが、2018年9月の時点でまた動きがあった。現在進行形の事態を扱っているので内容が書きかわることが予想される。相撲強化のガバナンスの矛盾点を指摘した貴乃花親方は最後までそれを解消することがなく、最終的に相撲協会を離脱する決意をしたようである。このことは結果的に相撲協会を崩壊に向かわせるかもしれないと思う。短く済めば苦しみは少ないだろうが、長引けばそれだけ苦痛は増すのではないか。


当初、ワイドショーがこの事件に執着したのは、これが見世物として視聴率を稼ぐからだろう。視聴者は村落の中の権力闘争を見たがっていた。しかし、マスコミはこの問題の本質については知っていても伝えることができない。インサイダーになりすぎているからである。2018年9月にこの問題が再発したとき、長年貴乃花親方を取材していた横野さんの手は震えていたそうだ。

本質的にはこれは利権をめぐる権力争いである。つまり人間関係は余興として楽しめるが、利権争いが問題の本質であり「相撲協会を本気で怒らせるリスクがある」と感じているのだろう。ワイドショーを見ていると「言わなかったこと」の内容により、彼らがどう行動しているのかがなんとなくわかる。

この二重構造を見ているとワイドショーがとてもエキサイティングな職人芸に見えてくる。2017年の時点では弁護士は、この目的が貴乃花親方の排除だということがわかっているが、なぜ排除されるかを伝えられないために綱渡りのような解説をしていたが、どうやらこれをを楽しんでいるらしい様子がうかがえた。

そこで、貴乃花親方はホイッスルブローアーであり理事選から排除するのは不利益処分だという主張に変わっていた。一方で相撲ジャーナリストと呼ばれるインサイダーたちはこうした法律的な問題には疎く、心理的距離も近いので従って何も言えなくなってしまっている。彼らは単に相撲に詳しいだけなのだが、相撲はもはや誰も見向きもしない退屈な余興にすぎない。

この間を埋めるのが中間的なジャーナリストと呼ばれる人たちだ。「(抜け穴だらけの)相撲協会のガバナンスについて改めて勉強」している人もいれば、昔から法律的なことなどどうでもよいような運営をしてきたじゃないかなどと言いながらニヤニヤと眺めている人もいる。彼らも相撲のインサイダーではないので状況がわかっているのだろう。

もう一つの問題は理事長選挙に対する過剰な期待である。2017年末には、貴乃花親方が理事長になるべきだとか、錣山親方が理事の椅子を狙っているなどと言われていたようだという話が盛んに流されていた。「理事や理事長になれば組織が変えられる」という幻想が素直に信じられているように見えた。その後も貴乃花親方は改革派と呼ばれ続けた。2018年9月にこれが「裏切られた」と感じたのは、貴乃花親方が「もう戦う意思はありません」と表明したからである。改革を期待していた人は勝手に期待して勝手に失望した。別の人はこれで面白い見世物がなくなると感じているのか「これで終わりになるのは納得できませんね」と言っている。

2017年に書いた元記事では「実際には日本の組織にはガバナンスの仕組みなどない」と書いた。あるのは利益分配機能だけであり、組織の損得を計算に入れたプレイヤーたちがその場限りの意思決定をするというのが日本の組織のあり方だからである。つまり、日本人は自分の損得勘定についてのみ合理的に判断できる。そしてこの「自分」というのは必ずしも個人のこととは限らない。これは相撲の世界だけの話ではなく、実は政治の世界でも同じような構造がある。相撲部屋を派閥に相撲協会を自民党に置き換えてみるとわかりやすいのではないかと思われる。

しかし内情はもっとひどかった。親方たちはこんな騒ぎになったのはもとからあった一門制度が「貴乃花親方によって破壊されたからだ」と感じたのかもしれない。理事会で「一門に所属しない親方は排除しようや」ということになったようだ。しかしそれを公式に発表してしまうと面倒なことになりかねない。そこでまずは親方同士で口づてで伝え、相撲記者を通じて貴乃花親方にほのめかしたようである。そして「貴乃花親方が内閣府に告げ口したのは事実無根である」という文章を突きつけた上で「事実無根であった」ということを認めるか、あるいは相撲協会から出て行けと迫った。誰もそれを直接いう人はいない。「一門に受け入れない」ことで排除を図ったのである。つまり「何もいわないけど、わかるだろう?」ということだ。

デイリースポーツによると協会側は2018年9月の時点では圧力を否定している。

貴乃花親方(元横綱)が25日、会見を開き日本相撲協会からの退職を表明したことを受け、同協会を代表して芝田山広報部長(元横綱大乃国)が報道陣の取材に応じた。[中略]「告発状が事実無根であることを認めないと一門には入れない、というわけではありませんし、そういったことを言って貴乃花親方に圧力をかけた事実はありません」と断言した。

さらに、意味不明のことも言っている。

一門に所属しない親方が部屋の運営ができなくなると言われたとも貴乃花親方は発言していたが、「そのような事実も一切ない」とした。ただし、7月の理事会で、全親方が協会内に5つある一門のいずれかに所属するようにすると決定したことは発表した。

全親方が一門に入らなければならないのに、どこも受け入れないとどうなるのだろうということは示されない。つまり、表向きの決定と裏の決定を巧みに使い分けることで、排除を図ったのである。

「利権」というと悪く聞こえるかもしれないが、日本人が集団として理解できるのは利権構造だけである。これが問題になるのは、利権を分配できなくなった時である。つまり、誰かが生存できなくなるほど追い詰められると、人は誰かを「利己主義的だ」といって非難し始める。日本人にとっては利己主義こそが合理性であって、それ以外の主義は存在しえない。親方たちは貴乃花親方が内閣府に告げ口することでこの利権構造が崩されかねないことに腹を立てたのであろう。だがそれは表向きには言えないので、彼らなりの戦略を立てた。とても稚拙ではあるが、それが村流のやり方なのだ。

2017年時点で調べてわかったことは、相撲界は部屋の連合体という側面と日本相撲協会の二重構造になっているという点である。部屋は単独で成立しているのではなく一門という派閥を形成してい流という成り立ちは極めて村落的だ。個人が存在しないように独立した部屋というものはなく、部屋の連合体としての一門が形成されている。派閥は相撲茶屋を通じて升席の販売権という利権を持っている。あり方としてはプロレスにいろいろな団体があり、独自の販売窓口を持ち、いくつかの会場で同じルールとしきたりを使って他流試合を行っているというような構造になっている。

だが、このやり方をそのまま現代に持ってくることはできなかった。そこには最初から国家とのつながりがある。

wikipediaによると当時の摂政の宮であった昭和天皇から賜ったお金でトロフィーを作ったことが相撲協会設立のきっかけになっている。公益性のない相撲に菊の紋章の入ったトロフィーを送るわけには行かないというような話になり、慌てて相撲協会が作られたというわけである。つまり、相撲協会は単なる権威付けのための団体であり、その内情は部屋と一門がとり仕切る興行でしかなかった。

単に天皇杯の受け先としてしか機能していなかった相撲協会だが、1957年に社会党の辻原議員が「相撲協会の公益性には疑問がある」として予算委員会で質問したことで話が複雑化する。質問の狙いは力士の待遇改善だったようだ。つまり左翼主義者が相撲という興行に「手を突っ込んだ」のである。

このため相撲協会は、力士に給料を渡したり、茶屋制度を廃止して升席を解放したりという改革案を作らざるをえなくなった。緩やかな部屋の連合体でしかなかった相撲界が「天皇杯」という権威を持ってしまったために、力士の福利厚生や教育などという近代化にさらされてしまうのである。

この「改革案」に耐えかねた出羽海親方は割腹自殺を図る。国会で追求されたことが恥であったという意見もあれば、出羽海一門が独占していた茶屋制度の崩壊の責任を取ったのではないかという説もあるそうだ。理事長の自殺未遂事件についてまとめてある文章が見つかった。この文章を読む限り出羽海親方は切腹を図ることで相撲茶屋という利権を守ったように見える。

Wikipediaの相撲茶屋の項目を読むと、それぞれの茶屋の割り当ては決まっており、今でも力士関係者が独占しているという。この既得権を守るために部屋の連合体が作っているのが一門であり、急進的な改革が起こらないように睨み合っているのが現在の相撲協会の理事たちである。一門制度を見ると、八角理事長の立ち位置がわかってくる。大きな派閥は出羽海・二所ノ関・時津風であり、これらが三つ巴の主導権争いをすると仲裁が効かなくなってしまうのだろう。そこで、小さな派閥である高砂一門を仲裁役として立てているように見える。日本の緩やかな村落共同体は「中央に空白を置く」ことで相手の干渉を避けて利権を守る。その意味ではこのあり方は極めて日本的である。

しかしながら、相撲協会は「国技」という嘘をついてしまったために、徐々に公益性という毒にさらされてゆく。もし相撲がプロレスのようであったなら、暴行事件は単に刑事事件としてのみ扱われ、それ以上の問題にはならなかったであろうし、貴乃花親方のように「勘違いする」親方も出なかったはずだ。

貴乃花親方が異質だったことは2018年9月の会見を聞いているとよくわかる。「自死」をほのめかしていたからである。経済的困窮もないのに生業のために自殺する人はいない。自死という考え方が出てくるのは(少なくとも日本人にとっては)それが個人を超越した崇高な何かだからである。それくら貴乃花親方は他の親方と違ってしまっているのだ。

相撲協会がガバナンスに興味がないのは明白である。相撲茶屋の利権は頑なに守られているが、一方では反社会的な行為が蔓延している。まずは新弟子を暴行で死なせてしまった事件(2007年)が起こった。さらに外国から力士を入れたところで大麻事件(2008年)が起こる。これは外国人だけでなく日本人にも広がったようである。さらに力士が野球賭博(2010年)を行っていたことも問題になった。さらに2011年には長年語られていた八百長が現実に行われていたことも発覚した。だが、相撲は興行でありスポーツではないのだから、面白ければ八百長があっても構わない。だが、国技とか公益性のあるスポーツだといわれるとこれらは大きな問題になる。

にもかかわらず税制上の優遇措置を受けるために公益法人化したことでさらに事態が悪化する。つまり、実態は単なる相撲部屋のにらみ合いのための組織である相撲協会にやるつもりがない「ガバナンス」という役割が押し付けられてゆく。

今回の日馬富士暴行事件の原因は、相撲協会でも部屋でもないところにモンゴル人閥という新しい集団ができてしまったということだった。公益ですら相撲興行を維持することは難しくなり、外国人を雇い入れたために文化マネジメントまでやる必要が出てきた。だが、力士出身の彼らにそのようなスキルはない。

もともとは利権をめぐる争いだったのだが、突き詰めてゆくと、相撲とは一体何なのか誰も答えられなくなっているところに問題がある。本質はこれが興行なのか、国技なのか、それとも国際化されたスポーツなのかという問題だ。そして、これはもはや遺物になってしまった貴乃花親方を排除したとしても解決できない。

2017年末の貴乃花親方の立ち位置はとても不明確だった。彼は理事会が調査権限を持つことを嫌っており部屋の独立性を維持したい。しかし、理事会を掌握して相撲協会を抜本的に解決したいとも思っている。しかしその態度は徐々に変わってゆく。まず理事ではなくなり経営を外から見ることができるようになった。それでもプレッシャーは無くならず文書によらない決定が人づてにほのめかされたり「善意の助言」を受けるうちに、ああこれはダメだなと気がついたのではないだろうか。2018年の9月時点では「もう戦うつもりはない」と言っている。

もちろん、本当のことは誰にもわからない。しかし、貴乃花親方が相撲を守りたかったのは、自分が親たちから受け継いだ相撲道を追求したかったからなのだろう。しかし、そんな相撲道はもうないということに親方は気がついてしまったのではないだろうか。

興行的な相撲から見れば、大相撲は「公益性」という嘘をついてしまったために、その嘘を本当の姿だと勘違いするモンスターが生まれてしまったことになる。精神性というのは利権を守るための物語なのだが、いったん利権構造から切り離されてしまうとそれが純化されて一つのイズムを生むのである。一方外から見ている我々は「公益」とか「スポーツ」という類型で相撲を見てしまうので、貴乃花親方に過剰な改革を期待する。

貴乃花親方がここから降りたのは正解だった。彼がそこから降りたのは結局弟子の成長を最優先したからだ。彼は最終的に興行的な利権でも彼の持っている精神性の追求でもなく、スポーツのコーチのように弟子を応援する道を選んだのである。貴乃花親方は最後の挨拶文で「神のご加護を」というようなことを言っている。新興宗教の信奉者であると言われているので、相撲道と自身の信仰を重ねていたのだろうが、本当に弟子たちのことを思うことで一つ視点を大きくした様子がうかがえる。ただし、日本人は個人が信仰を持っていることをタブー視する上に確かに怪しげな側面もあるようなので、これをマスコミが伝えることはないだろう。

日本相撲協会はこの嘘に振り回され続けるか、それとも天皇杯を返上して単なる部屋の一群による村落的な興行団体に戻るかという二つの選択肢しかないのではなかった。貴乃花親方が協会にい続ければ、現在の相撲協会を破壊してしまうのは間違いがなかったであろう。協会は貴乃花親方を排除したことで一応の危機からは逃れることができたわけだが、根本的な矛盾がなくなったわけではない。むしろ、根本的な矛盾を自分たちで解決できないことが露呈したことになる。一旦人々の意識に登ってしまった以上それが消え去ることはないし、貴乃花は偉大な力士なので、このことは後世まで語られることになるだろう。つまり、相撲協会は矛盾を解決する意思も技術もなく、矛盾が忘れ去られることもない。従って、協会はこのまま混乱しつつ衰退するのではないだろうか。

Google Recommendation Advertisement



自分の出演したドラマから何も学ばなかった愚か者としての武田鉄矢

これまで、日本の村落共同体について観察してきた。ここに別のパラメータを加えて観察を進めてみたいと思う。今回は武田鉄矢さんについてである。日本の村落共同体が機能しなくなってゆく様子を観察していたはずなのに、何も気がついていなかったらしい人である。

武田さんの悲劇の一因は実は視聴者側にもある。ドラマのメッセージが伝わらずに記憶されてしまったために、その期待に応じているうちに自分の立ち位置がわからなくなってしまったのだろう。


このところTwitterに武田鉄矢をdisるツイートが流れてくる。とても唐突な感じがするのだが、どうやらフジテレビの番組で政権擁護をしたことで嫌われたようだ。日曜日には見なければならないコンテンツがたくさんあり、松本某さんの例の番組まで手が回らないので武田さんが何を言ったのかはよくわからないが、Twitterによると「政権を非難する人は格好をつけているだけ」というようなことを言ったようだ。

武田さんは学校の諸問題を扱うドラマに出演していた。学校は校内暴力などをうまく扱えずに徐々に機能不全を起こしてゆくのだが、価値観が多様化しすぎてついには教育を扱ったドラマそのものが成立しなくなってしまう。つまり、高度経済成長期以降の学校は問題解決の主体としては描けなくなってしまい、逆に社会問題を作り出す舞台になってしまったのだ。その後、学校を扱ったドラマはあるが、生徒同士の恋愛とかイケメンが多数登場するようなドラマが主流であり、学校システムは社会問題の元凶としてしか扱われなくなった。

今回は愛があったら殴っても良いという発言について考える。武田さんは当たり役に出会ってしまったために、本来のドラマが向き合っていた問題がわからなくなってしまったようだ。金八先生が向き合っていたのは「爽やかな青春ドラマ」ではなく、学校が内部で起こる諸問題を自力で扱えなくなってゆくという崩壊の過程だった。つまり、金八先生は基本的には運命に立ち向かって敗北してゆくという古典的な悲劇のフォーマットを持っているのだが、武田鉄矢はバラエティー番組で先生の役割を求められるうちにそれを忘れてしまったのであろう。

と同時に視聴者も目の前にある問題の重さに耐えきれず考えることをやめてしまったのだと気づかされる。金八先生というと髪の毛を書き上げて怪しげな漢字議論と時には感動的な話を展開する一風変わった先生だという印象がある。また、生徒たちはその後有名になっており、若手俳優の登竜門という扱いにもなっている。

金八先生は、中学生の出産、学校への警察の介入、先生を巻き込んで地下化する校内暴力、性的少数者など、学校では取り扱えない問題を扱ってきた。どれも学校の枠内では収まり切らないので、外部からの専門家の介入が必要とされる。しかし、取材をもとにしているので、現実にない解決策を提示することはできなかったのではないだろうか。どれも専門家との協力が必要なのだが、この中で解決したのは地域高齢者との関わりだけである。つまり、先生同士がいくら話し合っても学校の特殊な問題を扱えず、教育委員会は何の支援もしてくれないでただひたすら問題の解決を迫ってくる。つまり金八先生は、誰の協力も得られず孤立しつつ崩壊してゆく「先生村」を扱ったドラマなのである。

前回まで、村落共同体について見ていた。固定的で閉鎖された村落には個人は存在しえないというようなお話だった。この村落共同体は環境が固定的であり状況が変化しないなかで、村落内部の人間関係だけが変化するというような社会だった。武田さんの悲劇はこれに変数を一つ加えると割と明確に説明ができる。つまり、村落の構造そのものが変化してゆく社会を日本人はうまく扱うことができないのである。変化を扱えないのは日本人が利権を超えて協力できないからだ。

考えてみると、武田鉄矢の結論は面白い。本来ならば、専門家を交えた社会の協力で多様な解決策を模索することが解決策になるという結論を得てもよさそうなのだが、武田鉄矢はこれを個人の力量の問題に矮小化してゆく。そこで人格的に完成した教師が、自分の痛みという極めて主観的で曖昧な基準だけを頼りに、殴るってもよいという結論に達してしまったのだ。

先生が冷静な状態に置かれていればこの主観もある程度信頼できるかもしれない。しかし、実際の先生はいろいろな圧力にさらされているようだ。金八先生の時代には出世さえ諦めれば生徒のためを思った指導ができたのかもしれない。だが、現在の先生は評定が悪ければ教育困難校に飛ばされることもある。さらにそもそも時間が足りないので何かを犠牲にしなければ自分が潰されてしまうという状態にある。つまり、教育そのものに余裕がなくなっており、一種の「やるかやられるか」という闘争状態にある。

闘争状態にある人が自分の身を守るために暴力をふるっても、それを非難することは難しいだろう。

ところが、日本の社会は他人を思いやる余裕がない。これは政治の世界も同じだ。自分たちがセーフティーネットを壊してしまったので「政治家をやめたら生活保護だ」という恐怖心を抱いており、そのためになりふり構わず利権獲得に走るという構図が見られる。教育は政治家にとっては利権獲得の手段であり、かつてのような社会的責任は感じられない。

安倍政権が教育予算を減らして教育現場を荒廃させたというようなことを言うつもりはないが、日本でこの問題を解決できるのは政権だけだ。ゆえに、こうした政権を擁護している武田さんにも責任はある。さらに、愛さえあれば問題は解決するはずだという提案はあまりにも無責任である。つまり、学校で問題が起こるのは「先生の愛が足りないからだ」という安易なメッセージを引き出しかねないからである。

武田さんに教育機関の予算についての解決策を示せなどとは思わない。だが、そのようなポジションで語る以上「いじめられるのは逃げ遅れたことが悪いのだし、社会の90名を救うためなら10名が犠牲になっても構わない」と堂々と主張すべきである。残りの人たちの犠牲者としての役割を完遂するためにただただ耐え続けろという主張に一切の正当性はないだろう。

それをやらずに、愛さえあれば社会矛盾は解決するし安倍政権はいいこともやっているなどというのは、欺瞞でしかない。

日本の村落性はそれ自体は悪いことではない。しかし、村落共同体がなんらかの変化にさらされているのに解決策が見つからないことが問題なのだ。本来なら、いろいろな可能性を試すべきなのだが、それをやらずに自分たちがすでに持っている何かに固執し、問題を矮小化してしまい、問題が長引くのである。

自分を先生だと思い込んでしまった武田鉄矢さんのいうことにそれほどの価値はないのだが、彼の場合は「愛があれば大抵の問題は解決する」と言っており「先生個人」に問題を矮小化しようとしていることがわかる。そこに痛々しさと腹立たしさの原因があるのだと思う。

Google Recommendation Advertisement



はあちゅうさんの議論とマウンティング社会

はあちゅうさんという女性がTwitter上で<議論>を展開している。全く無駄な議論でとても不快な気分になる。その一方で、いったい何が不快なのかということを考えてみてもよくわからない。

彼女は過去に受けた性的被害を告発し、相手もそれを大筋で認めている。しかし、過去に「童貞いじり」をしていたことを暴露されて「返り討ち」にあってしまった。性的被害の告発運動である#MeTooがしぼむことを恐れた支援者たちは、性的被害と童貞いじりを別に考えるべきであるというデカップリング論を唱えたというのが、大体のことの経緯である。

このことからまず日本人は「それはそれ、これはこれ」という議論を好むことがわかる。つまり対象物が動く。これは西洋流の議論では邪道だが、日本ではそうは見なされない。つまり、日本流の<議論>は人物が固定されており、事象が動くのだと言える。これは、はあちゅうさんは「女性の味方」だし「男性が性的な経験を元にいじられても特に問題にならない」だろうということであり、はあちゅうさんを正当化することで同じ属性である女性の権利が拡大するだろうという理屈であり、構造としては筋が通っている。

しかしはあちゅうさんは、極めて擬似近代人的な自意識を持っているので「これは議論を展開しようとしているのだ」と開き直った。多分、ここが不愉快さと違和感の原点なのではないか。この擬似近代人的な自意識を作ったのは田原総一郎だが、彼の「議論ができる社会」は西洋型の問題解決を前提としたものではない。はあちゅうさんはこれを見事に引き継いでいる。

田原総一郎は今でも徹夜で<議論>を戦わせる番組をやっている。これが人気なのは日本の村落的な話し合いの空間に近代的な意識を組み合わせることに成功したからだろう。

この番組は実は問題解決を前提としたものではなく、保守村とリベラル村の人たちの村落内での位置をめぐる小競り合いであり、課題には意味がなく、’参加することに意味がある。つまり、日本にはまず集団があり、どの集団に属してどれほどの発言力を持つのかということを延々と競っているのである。ここから降りることは領土を失うことなのだが<議論>にさえ参加していれば、ニッチが得られ、全く問題解決ができなくても言論界で食べて行けるということである。その証拠にこれだけ議論が白熱しても日本が抱える政治的な問題は何一つ解決していない。

同じようにはあちゅうさんがやろうとしているのは<議論>を歓喜することでマスコミに取り上げてもらうことだ。実際に朝日新聞が#MeToo運動についての記事を書いている。つまり議論そのものを継続する必要があり「童貞いじりがどこまで許されるのか」を決めようと提案している。これがいかにめちゃくちゃな議論なのかということは、問題をずらしてみるとよくわかる。

例えば「ハゲいじり」はどこまで許されるのか<議論>することを考えてみよう。高橋克実のようにハゲを隠していない人ならいじってもいいのか、それとも本人が認めるまで黙認すべきなのかを熱く語り合うことはできるだろう。また、西洋人のようにイケメンならハゲてもよいのかというディスカッションもできる。当事者たちのインタビュー記事を交えて面白く構成すればそれなりに社会的に有用な読み物ができるだろう。だが、それは何かを解決するのには全く役に立たない。

また光浦靖子のように不美人を売りにしている人をいじっていいのか、それともそれは人権侵害なのかということを<議論>してもよいかもしれない。指をさして笑うのはいいが、叩くのはダメというルールブックを作ることも可能である。光浦さんも洗練されてきてしまっており、彼女の「商品性」が損なわれていることが是か非かを話あうこともできるだろう。これも同様に何の役にも立たないし、教室や職場で不美人であることを理由にいじめられている人たちにとっては何の救いにもならない話し合いだ。だが、本は売れ「不美人評論家」の仕事は増えるかもしれない。

議論として意味があるのは、女性の社会進出に伴って性的な被害が増えてきているということである。実際に女性たちは問題に直面しており、これを社会的に解決することで彼女たちが社会貢献できるチャンスを増やすことができる。つまり、西洋的な議論というのはなんらかの目的意識を持っている。だが、日本の議論にはそれがない。なぜならば話し合うことそのものに意味があるからである。強いて重要な点をあげるとすれば、誰が何をいい、誰とつながっており、どの程度受け入れられているかということである。

ここから翻ると、はあちゅうさんの<議論>は、群れの内部での彼女の地位を上げるための行為であり、西洋的な議論とは言えない。これがはあちゅうさんの議論が極めて「村落的である」という理由である。 しかしながら、何が「村落的」なのかというのは、感覚的にはわかってもまだその輪郭がぼんやりしている。

いずれにせよ、群れの序列を上げるために大騒ぎしてみせるという行為は、実は日本人にとっては極めて自然なものだと言える。これが学校内で行われているのが「スクールカースト」である。スクールカーストは教室という閉じられた空間の中で行われる地位をめぐる争いである。地位をめぐる争いが行われるのは、地位そのものの基準が曖昧であってなおかつ不安定なものだからだ。地位を確保するためには常に相手を監視し、カーストをあげる戦いであるマウンティングに参加していなければならない。

ここで、前回みたはフィントンポストの高校生の「いじめは楽しい」という記事を思い出してみよう。いじめに参加している人たちはみなその行為を楽しんでいるように見えたからいじめはなくならないだろうと言っていた。彼はそれを遊戯のように見ていたのかもしれないが、実は日本人にとってこのマウンティングこそが本当に大切なことなのかもしれない。つまり、学校はいじめというマウンティングを習得するための場であり、学問というのはそのマウンティングの一要素でしかないということになる。

この狂った認識からすると、学生の本分はいじめということになる。もっと詳細にいうと、実際に行われているのはいじめではなくマウンティングによる地位の獲得闘争である。つまり、いじめには犠牲者もいるが、カーストを勝ち取った勝者もいるということだ。だから、学校をなくすか、集団行動をなくさない限りいじめはなくならないし、闘争に負けた人には逃げ場がないのだから、人生そのものから脱落するしかない。

はあちゅうさんのような「キラキラ女子」はこのマウンティングの勝者であると言える。だから議論も「問題を解決する」ものではなく、自分のコミュニティでの地位を確認し、できれば上に上がるためのツールなのであり、そのために童貞をいじめても何の罪悪感も持たないのだ。

このマウンティング理論を使うと、例えばネトウヨがリベラルをいじめて喜ぶのはどうしてなのかとか、護憲派リベラルの担い手であるべき人が実は憲法第9条が何項あるのかを知らなかったこともよくわかる。つまり、日本人にとってロゴスは立場をあげるための道具でしかない、ロゴスそのものには大した意味はないのである。

ここまで見てくると「村落的」という言葉が何を意味しているのかだいぶはっきり見えてきたのではないだろう。

Google Recommendation Advertisement



護憲派リベラルは息をしているのだろうか?

政治についての記事をよく書いている。安倍政権に批判的な記事が多いので「反安倍」の人が多いのではと勝手に思っている。世の中で「リベラル」という人たちである。だが、その人たちからの声が聞こえてくることはない。リベラルは息をしているのだろうかとよく思う。

いろいろ考えると、日本人が考える政治論議というのは、西洋的な教育を身につけた人たちの考える政治て議論とは違っているのではないかと思える。しかし、その論理的な構造を当事者たちから聞くことはできない。そこで、いろいろな人の話を聞いたりする必要があるのだが、Twitterには政治的議論が溢れており、ついにはお笑いタレントもこの分野に「進出」してきている。

一方、リアルな世界で実際に政治的議論をしている人を見たことがないし、Twitterで政治議論をしている人も「文才がないからTwitterに断片的なつぶやきを書き込む意外できない」と堂々と発言する。文才がないのではなく意欲がないのだと思うのだが、意欲がないのはその議論にそれほどの意味を見出していないからだろう。そこで、さまざまな断片を切り取って、なんとなくそれらしい形を作り出してゆくしかないと思いつめることになる。

いろいろ考えを巡らせてゆくと「村落的思考」という単語が浮かび上がってゆく。なんとなくわかったように感じられるキーワードではあるのだが、何か村落的なのかということはわからない。

先日、ある市民系の団体の前を通った。ポスターに「憲法第9条を改正すると戦争になる」と書いてあったので、なぜそうなるのか聞いてみることにした。ポスターを掲示したりレターを配ったりして宣伝しているのだから「待ってました!」と言わんばかりに人が飛び出してくるのかと思いきやそうではなかった。

時々立ち寄るその事務所は、老主婦のサークルのようになっており実はあまり政治に詳しい人はいない。時々若いお母さんたちも参加しているようだが、子育てが終わると「卒業」してゆくらしい。残るのは卒業のない介護などに携わる人たちだけだ。つまり、彼女たちの主な関心事は老後の不安解消と子育ての問題解決である。その他に環境系(割り箸を集めたり、原発に反対したりしている)などをやっている。そういう現場が「護憲運動」を支えているのである。護憲運動は忘れられた彼女たちの運動なのである。

なぜ憲法第9条を改正すると戦争になるのか、その留守番の人は知らなかった。民進党が分裂した先の衆議院選挙で誰を応援するか聞いた時「知らない」と答えた人たちなので、まああまり期待はしていなかった。

ところが、知らないのはそれだけではなかった。実は憲法第9条に一項・二項があることも知らなかった。ということは当然安倍首相が何を主張しているか知らないということになる。なぜならば安倍首相の提案は現行の二つの項目にもう一つを追加しようというものだからである。

面白かったのは(いつも彼女は興味深いことを言うのだが)「この事務所に詰めているんだから、ちゃんとわかっていないとダメなんでしょうけどね」と言っていたことだ。女性がこういう時には「同調圧力はあるが」「私は興味がない」という意味であることが多い。つまり、個人としての意見はないが、護憲村に住んでいるから私は護憲であると言っているのである。

これは西洋的な政治の文脈では無知蒙昧な戯言だが、日本的な村落共同体ではむしろ当然の感覚と言える。ここで異議申し立てをすると「村八分になってしまう」かもしれないが、もともと興味もないのだから「事を荒立てる」ほどの価値を持っているわけでもない。だがこれを「よそ者にはうまく説明できない」のである。すべて漢語さえ混じらない日本語で説明ができることから、これが日本人のもともとの気性であるということがわかるのだ。

面白いなと思ったのは、誘導尋問的に質問してゆくと何にでも頷くか「うーんそれは違う」と考え込んでしまうというところである。これも「いいえ」と言わない日本人にはよく見られる態度だ。極めて同調性が高く自分の意見を持たないようにしつけられているので「福祉系のサークルに入って政治的な主張を持つためには戦争反対のポジションをとらなければならない」と思い込んでいるのではないかと思った。

このように、日本人はかなり独特な理論形成をしていると言える。一方で、政治について考えていると日本人としてはちょっと違和感のある価値体系を身につけてしまうとも言える。

憲法第9条を変えると戦争になるという理屈自体はあまり難しいものではなさそうである。つまり、安倍首相は戦争をしたがっており、彼らの策動に乗せられて憲法を変えてしまったら何かとんでもないことが起こると疑っているのだろう。これも村落的である。つまり、誰かの意見を認めてしまうことは、その人の村落上の地位を認めてしまうことなので、その他のことも受け入れなくてはいけないということだ。日本人にとって議論は「モノ」についているのではなく「ヒト」についているのだ。

だから、それから先の議論はすべて無効なのである。最近みたのは「安倍首相は対案を示せと言っているが、これは彼らの策動であって、気に入っているのだから変える必要はない」というものだった。つまり、安倍首相が気に入らないから改憲は認められないと言っている。

これはこれで理屈としては通っている。だが、この理屈は「安倍首相のような醜悪で利己的な首相が言い出しているのだから悪」という理屈である。人について判断している村落的な政治理解だ。これを裏返すと「清廉で爽やかな人が別の理屈を使って彼女たちを説得したら、彼女たちはきっと説得されてしまうだろう」ということになる。個人として意見にコミットしていないのだから当然である。子供の頃から知っていて(つまり親が政治家ということである)一生懸命福祉などで汗をかき、顔つきが爽やかなイケメンを想像してみると良い。

そこで思い浮かんだのは小泉進次郎氏だった。多分、小泉さんが首相になったら改憲議論は一気に進むだろう。「一生懸命でいい人そう」だからである。議論の中身は全く関係がないのではないだろうか。

つまり「なんとしてでも変えたくない」というのは実は別に変えてしまっても構わないというのの裏表になっているということになる。

かつては護憲派だったので、その当時ならば「これはリベラル消滅の危機である」などと思ったと思うのだが、今はそうは思わない。その程度の理解と支持しかないんだったら、自民党はおたおたしていないで国民投票を実施するべきだと思う。多分護憲派の運動は壊滅状態で、支持者はそれほど多くない。お付き合いで「戦争はいけないから」といって形の上だけで反対している人しかいないかもしれない。

ここからわかるのは護憲派リベラルは消えてしまったわけではなく、もともといなかったということだ。するとTwitter上で行われている護憲派の議論は何なのかという別の疑問が湧く。それを理解するためには、もともと村落的議論は何を目的に行われているのかということを考えなければならない。

次回ははあちゅうさんという諦めの悪い女性の「議論」について考える。

Google Recommendation Advertisement