なぜ日本の政治議論は賽の河原に石を積むような感じになるのか

Twitterで、警視庁が東京都の条例を変更しようとしているという話が流れてきた。一読すると男女関係に絡むストーカーなどに関するように思える。これが政治や結社の自由に結びつくわけではなさそうなのだが反対する人が多い。背景に見えるのは反政府的な人たちの被害者(危機)意識だ。なぜか、政府や権力者は言論弾圧を行いたがっているという確信があるようだ。

確かに安倍政権にはマスコミに介入してきた歴史があるのだが、これも一部のネトウヨ議員たちが官邸の歓心を買いたくてやっている可能性を否定できない。何にせよ集団心理でなんとなく動く国なので、あとから意図や中心人物を特定するのが難しい。「悪の安倍首相が手下に指示を与えている」ようにも見えるし「みんなが勝手にやっている」ようにも見えてしまう。これが漠然とした不安を生み、強硬な反対運動にもつながっているようだ。

日本の政治を語る上で欠かせないのが、この集団の振る舞いだ。ある種無責任で核を持たないのだが、かといって全く実体がないとも言えない。

デモはこの実体のないものに対して行われている。だから、デモがどの程度、政権や政策に影響及ぼすのかがよくわからなくなってしまうのだ。これまでの経験から見ているとデモが政治に影響を与えたことはないようにしか思えない。

効果がないばかりか、デモが逆効果に働くことが多い。一部の特殊な人が何かやっているという印象を与える上に、何かまずいことがあったら彼らが止めてくれるだろうという安心感も生まれてしまう。すると、一般の人たちはますます政治に関心を持たなくなる。

例えば実名の質問サイトであるQUORAで明らかに反政権的なことを書くとあまり高評価が得られない。もともと政治についてはあまり意見を持ってはいけないというような規範意識が働いているようにも見えるのだが、偏りを検知して濾過してしまうのかもしれない。

この社会的機能は英語圏とは違って見える。英語圏には「ポリティカルコレクトネス」という規範体系がある。過去の反省から蓄積された正解があり、その正解に反するようなことをいうと一斉に批難されるのだ。その意味では一種の偏りが社会に組み込まれているといって良いかもしれない。社会には記憶装置が付いていて、そこにいろいろな人が知恵を付け足してゆく社会と言える。つまり社会は媒体なのだ。

しかし日本人は少なくとも名前を出している場所では「個人としてどちらかに味方するようなことは言ってはいけない」という規範があるのかもしれないと思う。この偏ってはいけないという規範意識はどこから生まれるのか、そしてどうやって習得されるのか、考えてみてもよくわからない。

いずれにせよ、日本人は集団では別の振る舞いを見せる。何かに所属している場合は「個人としての意見は言ってはいけない」ということになっている。個人として誰かの悪口を言うということは、何かの組織に所属しているということを半自動的に意味する。個人は意見を持たないという前提があるからだ。だからこそ「偏った」意見は個人ではなく集団の意図が働いていると半自動的に認識されるのだろう。だから、表向きは個人であってもそこに集団の影を見てしまうのだ。

これは言い換えれば、個人の集団は村によって決まるので個人は色を持ってはいけないということになる。だから、個人が個人の資格で参加する社会には色があってはいけないのである。

このため、SNSで特定の政治家について公平でないコメントを繰り返していると、時系列的に分析されて「この人はこの政治家とは違う勢力に属しているか雇われているのだろう」という類推が働く。そうした意見は全て「立場が言わせていることだから」という理由で考慮リストから外される。警察が取り締まるまでもなくこうした意見は政治的にはあらかじめ排除されてしまうのだ。

では、権力者は何に支配されているのだろうか。実はここにも集団が出てくる。それが支持率である。

もともと安倍政権が語っていたストーリーとは違う「物証」がでてきたことで「風向きが変わり」支持率が下がったことが自民党を動揺させている。支持率は匿名なので「だからこそ真実が映し出される」と考えられているということになる。デモと支持率の違いは「顔がでた集団かどうか」なのだ。

面白いことに、個人としての名前が出ていないことで「公平なのだ」という受け止めがされる。その結果「みんながダメだと言っているのだからもうダメなのだろう」ということになり、自民党の中からも「安倍政権はもう長くないかもしれない」という動きが起こりつつあるということになる。

面白いのはデモが全く政治に影響を与えていないのに、匿名の一部がなんとなく動くと、それにつれて一斉に「これは安倍官邸がやっていたことで自民党は関係がない」などと「自民党のみんな」がざわつき始めるということだ。実際には全ての支持者が反安倍に傾いたわけでもない。

このように社会は風に流されて何も記憶しない。英語圏の社会は媒体だったのだが、日本の社会は気体であり記憶を定着させることはできない。デモの主体であれば説得したり懐柔したりすることもできるのだが、世論調査で流される人たちは説得ができない。世論は、良いと思えば持ち上げるし、単に嫌になれば離れてしまうのだ。

安倍政権はその意味では空気に支えられた政権だった。今回森友学園問題で弁護士役を買って出た人たちは安倍チルドレンと呼ばれる利益集団を持たないネトウヨ議員たちだ。麻生財務大臣も菅官房長官もあれだけ安倍政権を支えていたのに、今では「いつ離れるか」ということがマスコミの最大の話題になっている。

利益集団が安倍政権を支持していたのは「なんとなく世論調査で支持されている」からにすぎなかったということだ。だから、憲法を変えたいというオーダーがあれば、あまりやる気はないのに、なんとなく議論を行う。国の根幹をなす憲法議論は利益集団とは関係がないのだから「お付き合い」にすぎない。

しかし、いったん「みんな離れ始めているなあ」という観測が出ると、総裁選を前倒しして安倍政権を切り離してしまったほうが得なのではないかと思い始める。その時点で「実は嫌いだったんだよね」などと言い出す人がでてくる。結局、個人として確固とした意見はなくみんなに流されていただけということになる。

最初にみたように英語圏の事例では社会という集団があり、ある程度明確な行動規範があった。政治議論というのはそこに記憶を定着させてゆく作業なのである程度の手応えがある。一方、日本の政治議論は空気に向けて字を書いているようなところがある。風向きが変われば全てが消えて最初からやり直しになる。

では記憶さえできれば良いのかという疑問もわく。デモには様々な記憶が蓄えられてゆく。逆に蓄えられた記憶が現実によって書き換えられることはないので、いつの間にか「あの人たちは特殊な人たちなのだ」ということになってしまうのだろう。一方で、ネトウヨと呼ばれる人たちもいろいろな陰謀論や記憶を蓄えていて独自世界が構築されている。その意味では、日本の政治議論というのはムラに記憶を蓄えてゆく作業にすぎないということになってしまう。

これで本当に良いのかというのが今回の最後の疑問になる。

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「ネトウヨ対応」は時間の無駄だった

安倍政権が窮地に立たされているというか、自滅しつつある。自民党に参議院議員は多いはずなのに、安倍政権擁護をしようとすると立候補者が少ない。結局出てくるのはネトウヨ議員と呼ばれる人たちだけである。彼らは官邸からストーリーを指示されているようだがどうやらアドリブもあるようである。彼らのむちゃくちゃな話を聞きながらネトウヨの人たちにまともに相手をしていた時間は全て無駄だったなと思った。と、同時にここで目の前のネトウヨを論破しておかないと世の中が大変になると思い込んでいたのはどうしてなのだろうかとも考えた。

例えば和田政宗議員は太田理財局長に「野田政権の味方をしているのでは」と質問して各方面から批判された。田崎史郎さんも批判していたので安倍官邸は和田さんを切ったと考えてもよいのかもしれない。ネトウヨ思考の特徴は全てを敵味方に峻別して白か黒かをはっきりさせたがるところだろう。全てをその場その場の損得で考えてしまうので、ごく自然に「お前は敵の人間だろう」と迫ったのではないだろうか。Twitterでは面白おかしく麻生財務大臣も反日認定を食らったというような話が流れてきた。

ネトウヨ議員は政策立案ができるノウハウもなく特定の利権団体ともつながりがないのだろう。後ろ盾がないので権力への貢献を認められるしかない。しかし、自分たちの役割だけを淡々と果たすということはなく、話を盛ったり、根拠のない陰謀論を混ぜてしまう。そうしないと目立てないからだ。感情的な安定感にも欠ける傾向があり、都合が悪くなると「訴えてやる」などと騒いだり、他人を恫喝したりする。和田議員も田崎史郎さんを「訴える」と騒いでいた。確かに事実無根のことを言われると腹も立つのだろうが、普通は「違いますよ」と言って、それでも相手が根拠のないことを言い続けるとそれなりの対応をとることになるはずなのだが、いきなり「訴える」といってしまうところにネトウヨ的メンタリティの稚拙さがうかがえる。

今回和田議員が太田理財局長を侮辱する発言は議事録から消されてしまったのだが、本来はこの発言こそ記録に残すべきだと思う。安倍政権がいかにくだらない人に支えられており、最後にはこうした人しか残らないということがよくわかる歴史的な記録である。

しかし、こうした議員は他にもいる。前川喜平さんを恫喝した自民党議員も以前ちびまる子ちゃんに異議申し立てをしていたということがわかっている。最初にこの話を聞いた時には悪い冗談かでっち上げだろうと思っていたのだが、実際にそのページは今でも残っている。読んでも何が言いたいのかよくわからない、というよりパンクチュエーションがむちゃくちゃである。知的能力に欠けるとまでは思わないが、少なくとも落ち着いて文章を練るということができないのは確かだと思う。

私は、このポスターを見て、思わず仰け反りそうになりました。同省政務官時代に、国家公務員として、それも国家の継続を担う文科行政を担う矜持を持て。国際社会とは国家間の国益を巡る戦いの場であり、地球市民、世界市民のコスモポリタンでは通用しないと機会あるごとに言ってきたのに・・・

確かに国際社会には厳しい競争もあるだろう。TPPのような国と国との協議の場に「友達だからわかってくれるはず」などという精神を持ち込むのはどうかと思う。しかし、子供どうしの交流に「コスモポリタンでは通用しない」などというのは尋常ではない。「幼少時に何らかのトラウマがあったのだろうか」と疑いたくすらなってしまう。

このように考えてくるとネトウヨにはそれほどの知的価値はなさそうだ。と同時に、こうした精神状態が広く影響力を与えるとは思いにくい。だが、安倍政権がうまくいってた時に、それなりの焦りがあったのも確かである。

ネトウヨ的言動が政権の中心にあったので「このままでは社会全体がめちゃくちゃになってしまうのではないか」という気持ちが強かった、そこで人権を蹂躙するような発言にいちいち目くじらを立ててしまう。なぜこうした不安に陥ったのかを考えてみたところ理由は二つあると思った。

一つは政権が社会の正解であるという思い込みだ。一応は選挙で選ばれていて高い支持率があるのだから、世間はネトウヨ系の人たちがいうことを全て信じているのだろうと思い込んでしまうわけだ。

しかしながら理由はそれだけではなかったと思う。多分「大衆というのは自分より馬鹿で民度も低いのではないか」という侮りの気持ちもあったのかもしれない。つまり、大衆というのは劣情に流されやすく、従ってネトウヨの人たちがいっているのは彼らの本音なのだと感じてしまったのではないかと思うのだ。

確かに日本人は政治的な意見をあまり表明せず、西洋の基準からみると「あれ?」と思われるようなことを平気で言ったりする。例えばこんな事例があった。QUORAに「中国人や韓国人は国への忠誠心がないのに自分の利益のために日本国籍を選択するのですか?」という質問がある。これは典型的なネトウヨ質問である。

何人かの善意の日本人は「中国人や韓国人であっても日本への忠誠心を持っているはずである」と回答していたが、これすらも、欧米のスタンダードからみると差別的な発言と取られかねない。国籍はいまやパスポートと居住権の記号でしかないというのがヨーロッパの基準であり、出自をもって社会へのことさらの忠誠心を求めるということ自体が差別だと考えられるからである。アメリカもかつて日本人に同じ目を向けたことがあり強制収容所送りにされた。これを払拭するために多くの日本人が兵士に志願せざるをえなかった。

だが、こうした発言が横行しているからといって日本人が愚かで差別的だということにはならない。QUORAは実名制(ただし実名が正しい名前なのかどうかまではチェックされていない)のため比較的穏健な発言が集まりやすい。そこで、欧米の現状を説明すると多くの賛同意見が集まる。つまり、我々に足りないのは「民度」や「知性」ではなく、穏健な場所で普通に政治や社会について話すことができるプラットフォームなのだということになるだろう。

今回、冷静にそして徹底的に「ネトウヨを相手にするのは時間の無駄である」という感覚を持つのは重要なのではないかと思った。なぜならば官僚の中にも「国会議員は自分たちと違って知的エリートではないのだから無茶を言ってくるし、国民はさらに愚かだから馬鹿な国会議員たちを野放しにしているのだ」と感じていた人たちが多かったのではないかと思うからだ。こうした認識があると「ネトウヨ」と呼ばれている声の大きい人たちの存在が当たり前のように思えてしまう。そこで文章を改竄したり、物語が破綻しないようなシナリオ作りに協力するような官僚が出てきてしまうのかもしれない。

その意味でも、一般の感覚でまともな言論空間を作り上げるというのは社会的に大きな意義があると思える。

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私が村落共同体について考えた理由

先日来安倍昭恵さんについて書いたところ、例によってアクセスが伸びた。彼女を国会に招致して吊るし上げるべきだと考えている人が多いのだろう。ページビューのためには同じような記事を書くべきだとは思うのだが、今回はちょっと違ったことを書く。そもそもなぜ、役に立ちそうもない村落共同体について書いているのかということである。


先日あるTweetが目に付いた。その人は、議論を行うのは「コントリビュート」するためだと主張する。その上で、コントリビュートがない議論はゴールポストの移動が起こり不毛なものになりやすいというのだ。バックグラウンドがわからないのに口をはさむのも申し訳なかったのだが、面白そうだったので引用しない形で、そもそもコントリビュートする対象がない議論が多いのではないかというようなことをつぶやいた。

特に会話が成り立ったわけではないのだが、一つわかったことがある。それは日本型の村落共同体について書こうと思ったきっかけである。

Twitterでフォローしているだけの人が「議論とコントリンビュート」について語るのを聞いただけである程度反応ができるのは、これが欧米では(少なくとも英語圏では)当たり前に行われる議論だからである。

例えば英語の学校では授業中に議論に参加しているかどうかというのは査定の対象になる。もし議論に参加していないと「授業を作る貢献をしていない」とみなされるのである。ではなぜ議論は貢献なのだろうか。

日本の授業の目的は先生が提示する正解を覚えることにある。それはもともと西洋的な近代化が教育の目的であり、正解が外にあったからだ。大学の先生は正解を研究したノートを毎年使っているし、高校以下だと教育指導要領という正解がある。

こうした正解思考は早いうちから植え付けられる。小学校では先生が正解だとしつけらえれる。例えば最初は観察の結果から「太陽が動くから影が動く」と教えられ、やがて「実は地球が動いている」と習う。だから、地球が動いていることを習わない間は「天動説」で答えないと罰せられてしまうそうである。それは先生が知っていて教えたことだけが正解だからである。それに逆らうことは決して許されないのだ。

ところが英語圏の学校では、先生が問題を出しそれを生徒が考えるというアプローチを取る。それは西洋へのキャッチアップを目的にしていないからだ。しかし、学生が授業に参加しないと授業そのものが成立しない可能性がある。だから授業への貢献が求められるのである。

ここで大切なのはある程度英語圏の文化に接した人なら誰でも「コミュニティを作ってゆく」ということについて意識を持っているということである。つまり、これは明示的な文化であり、なおかつ日本人でも覚えることができるということを意味している。

これが村落共同体について書こうと考えた理由だ。日本には明示的な習慣がない。にもかかわらずある程度前提としている文化が存在する。だから西洋的な民主主義が破壊されても国が壊れたりしないのである。

もともと日本の村落には「環境が所与である」という限定条件がありそれを動かすことができなかった。しかしコミュニティそのものは狭いのでその場その場で判断してもそれほど大きな間違いは起きなかった。また、文化的には似たような背景を持った人たちが集まっており他者もいないので、明示的に文化について説明をする必要はなかった。だから、意思決定のプロセスを明文化する必要などなかったのである。

冒頭の「ゴールを動かす」という指摘が重要なのは(ご本人がどう思ったかどうかは別にして)議論のパラメータが自由に動かせると思った時に、ゴールだけでなくさまざまなパラメータを操作することで利害調整や問題解決が面倒になってしまう可能性があるということを示しているからだ。

例をあげてみよう。例えば最近の国会では「仮定の質問には答えられない」という謎ルールが横行している。この仮定の質問というのが何を意味するのかがわからない人が多いようで、様々な反発を呼んでいる。例えば、北朝鮮が核ミサイルを日本に打つとか朝鮮半島で有事が起こりアメリカ軍の艦船が日本人家族を日本列島に移送するというのも仮定なのだが、それは政府のいう仮定ではない。

政府の考える仮定はある正解を導くために作られたストーリーである。ところが、野党にはそのストーリーが破綻する仮定がある。なぜならば与党に政権担当能力がないと証明することが彼らの最大の関心事であり利益だからである。だから政府は野党の仮定の質問には答えられないのである。

これは安全神話である。原発を推進したい人たちは「絶対に地震は起きない」し「核の再利用の技術はいずれ完成する」という前提で話を進めようとする。だが、絶対に地震が起きない保証などない。しかし、地震の可能性を入れてしまうと計算結果が狂う可能性が高いので「野党の仮定には答えられない」という。しかし、野党もまた「原発は大惨事を招く」という前提を持っている。逆安全神話と呼んでも良い。

そもそも議論をするのは貢献があるからで、貢献が必要なのは正解がないからだった。しかしながら、日本人は最初に村落の利害があり、そこから望ましい正解が作られ、その正解を導き出すために材料を集めるというルートをとる。だから、そもそも議論が成立しないのである。考えてみれば極めて単純な話なのだ。

民主主義というのは、一定の人たちが代表者を送り込み「正解を決めて行く」というプロセスのことである。だから多数派も少数派もそれぞれの意見を持ち寄って議論を行い、正解を組み上げて行かなければならない。この集まりを国民と呼ぶ。

しかしながら、日本にはこうした「国民」という前提はなさそうだ。その代わりにお互いに干渉しない村落がある。この村落の利益を持ち寄って、政党という閉ざされた空間で「根回し」をして、最終的に議会での儀式的な議論を経て国民に下賜するという方式をとっている。

このように日本人にはかなり明確な行動様式があるのだが、それが明示されないためにわかりにくい。このことはいくつかの弊害を生んでいる。

第一に、日本は民主国家であると錯誤する人が出てくる。日本の民主主義は後付けの権威付けに過ぎないのだが、それを本質だと習いそのまま信じ込む人が出てくるということになる。そしてそのことが我々を苦しめる。Twitterをみると日本は民主主義国家であり安倍首相から法治主義を取り戻さなければならないと主張している。

仮に日本に法治主義があったとしたら取り戻すことも可能なのだろうが、そうでないとしたら法治主義に基づいて国を運営し始めた途端に日本は崩壊するはずだ。この人たちは民主党政権で何が起こったのかを理解していないのであろう、彼らは型通りに政党主導型の民主主義を運営しようとして失敗した。

だから日本は法治国家でも西洋的な民主主義国家でもないと知るのはとても大切なのだ。

だがもっと深刻なのは安倍政権である。彼らは財務省幹部の人事という長期的利害に首を突っ込んだ。しかし、財務省のオペレーションそのものについては大した関心を寄せなかった。そして、結局はその力を自分たちの官邸村と安倍総理のお友達村への利益誘導に使おうとした。

つまり、政治の世界がかつて持っていた村の構造を壊してしまったことになる。このため財務省は何が自分たちの利益を守るのかという彼らにとって本質的なことがわからなくなってしまう。そこで担当役人は「自分を守るために経緯を事細かく書いた」文章を契約文書に残すのだが、それは幹部によってもみ消されてしまう。その結果起こったのが文書改竄事件である。

もし、安倍政権がルースベネディクトのような人を雇い、現代版菊と刀を書いていればこんなことにはならなかっただろう。彼らは断片的に「財務省の利権構造を直接操作すれば国を変えられる」ということにまでは気がついたのだが、自分たちもまた村落共同体であるということには気がつかなかった。さらに、意思決定プロセスに首をつっこむということはオペレーションを操作することだということもわからなかった。だから政治は混乱しているし、これから長い時間をかけてこの混乱を収拾する必要がある。

野党がやろうとしているのはこの点ではとても「間抜け」である。日本では指示は明確な形では行われず、間接的に利害関係についてほのめかす形で誘導される。なぜならば官邸はオペレーションを知らないし興味もないので直接指示が下せないからである。

安倍首相にとって「関与」とは形式的で儀式的な指示命令を指している。これに安倍昭恵さんが関われなかったのは当然であり、現場に興味がない安倍晋三さんが関われるわけでもない。だから、この線で押しても野党は自分たちの主張を証明できない。しかし、これに問題があったことを説明するためには、日本では形式的な民主主義の他に本質的な意思決定のプロセスがあ流ことを認めなければならない。すると野党が言っている「立憲主義」とか「法治主義」を取り戻せなどいうことはそもそも意味がなくなってしまう。そしてそれが立憲民主党などの野党への支持がない最大の理由なのだろう。

私たちを包んでいる行動様式と意思決定プロセスは目に見えない空気のように我々を包んでいる。前に進むにしても、後ろに下がるにしても空気ついて知らなければならないほどのところまできているようだ。現に知らないことでかなりの政治リソースが消尽されてるのは確かである。

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また私たちは同じ政権崩壊劇を見せられようとしている

一連の森友騒ぎで担当者の一人が自殺したことがわかって1日経った。事態は急展開しようとしている。財務省は書き換えを認める方向で最終調整をしているようである。調べてみるまでわからなかったのだが、この一連の騒ぎの背景には11年前に起きたのと同じような構造があるようだ。安倍政権とネトウヨのお友達の病気は治っていなかったということになる。

構造についてはおいおい説明してゆく。ここではチェックとしてこの文章に違和感を感じるかということを考えてみていただきたい。

 学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地格安売却問題をめぐり、財務省が決裁文書の書き換えを認める方針であることが分かった。複数の政府・与党関係者が10日、明らかにした。野党が安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相の責任を厳しく追及するのは必至。安倍政権への打撃は避けられず、首相は苦しい政権運営を強いられそうだ。

この件について、安倍首相は当初は何も発言しなかった。菅官房長官は親族のプライバシーのこともあるので答えられないと言っているのだが、政府から親族に対して口止めのプレッシャーがかかったのではないかということを言う人もいる。佐川長官は辞任の際に「(自殺した職員を)個人的には知らない」と言った。説明を押し付けられた形になった麻生財務大臣は仏頂面で会見を開き「俺は知らない」という態度を取り続けた。

共通しているのはどこか「他人事感」が漂っているという点である。特に顕著だったのは麻生財務大臣の態度で「バカな人たちが状況を混乱させているが、それは自分たちのせいではない」と考えているらしい。安倍首相も明確に指示をしたわけではないようで、この問題を他人事として放置し続けた。彼が重要視するのは「自分が関わっていない」という結果だけであり、その過程にはそれほど興味がないようだ。

よく「私利私慾にまみれるのはよくない」というような話を聞く。だが、必ずしも私利私慾が悪いことだとは思わない。日本人の行動規範の多くは「私利私慾」で説明がつく。だが、自分の利害なので中長期的な計算ができている。だから、私利私慾で計算ができているうちは日本人は変化もしないが間違いも少ないのである。

だが、この私利私慾が短期的に歪められると問題が起こる。いろいろ考えているうちにふと「第一次安倍政権はどうして滅んだのか」ということが気になって調べてみた。松岡農水大臣の自殺というような事件もあったが、特に大きかったのは年金問題だ。年金情報がずさんに管理されているということがわかったのだが、安倍政権はこれを処理できなかった。最終的には処理を放棄して「お腹を壊して」政権を放棄したのである。

この時も安倍政権は他人事のように問題を処理をしようとしていた。選挙期間が重なったこともあり各地で「安倍政権に対する自爆テロだ」と言って厚生労働省を非難したり、根拠もないのに「一年で解決する」と大見得を切っていたそうだ。しかしながら、年金行政の現場の人たちをバカにしながら協力が得られるわけもない。程なくして「一年ではとても修復不可能だ」ということがわかり収拾がつかなくなった。

それではなぜ、安倍政権は現場ときちんと話ができなかったのだろうか。ネットに残っている記録をみると、もともと大阪のテレビ局での「自称ジャーナリスト」の根拠のない発言が状況を悪化させる一因になっているようである。このジャーナリストは「自治労は民主党の支持母体だから彼らが先導しているに違いない」と主張した。つまり、政局として矮小化しようとしたのだ。安倍首相はどこかでこれを見たのだろう。そのまま選挙でそう主張した。つまり「お友達の慰め」を聞いたことが問題を悪化させる要因の一つになっている。

この問題と今回の問題にはいくつかの共通点がある。最初から問題をきっちりと処理していればよかったのだが、対策を取らずに放置していた。そして、構造的な問題があるとは思わずに政局的に処理しようとする。今回、自治労と民主党の代わりになっているのが朝日新聞だ。「野党が新聞社と結託してフェイクニュースを流しているに違いない」と主張する議員や自称ジャーナリストが大勢いた。中には新聞社が説明責任を果たすべきだなどとめちゃくちゃな論を展開する人まで出てきた。いわゆるネトウヨと呼ばれる人は「誰が何を言っているか」ということを重要視する人たちなのだが、彼らによると事象は政局で説明ができてしまう。そして、自分たちは賢くて全てのことを知っていると考えるので、彼らの見立てが間違っている可能性を疑わない。

Twitterの議論をみていると共通点はそれだけではないようである。どうやら財務省には解体論があるらしい。財務省を一部解体して「歳入庁」を作るべきだという議論があるそうだ。社会保険庁も解体論が出ていて、それが実現する過程で年金記録問題が出てきた。つまり、社会保険庁は長期的な見込みに基づいて損益計算ができなくなっていたことになる。財務省がどうして記録の書き換えという犯罪行為に加担したのかはわからないのだが、もしかすると解体論に対する焦りと恐れがあったのかもしれない。もともと官邸は経済産業省よりであるということが知られているとする観測もある。

もちろん、国は公益に基づいて仕事をすべきなので私利私慾に基づいて行動することなどあってはならないのだが、日本人は理念というふわふわしたものを信頼しない。中長期的な利害に基づく私利私慾にはかなり敏感であり間違いも少ないが「村が解体する」という恐れがあると、こうした中長期的な計算ができなくなる。そこで暴走を始めるというわけである。彼らが不都合な情報を官邸にあげないのは「それが取り潰しの材料として利用される」ことを恐れるからだ。

ここから「官邸」と呼ばれる集団が孤立した小さなムラになっているということがわかる。安倍政権は消えた年金問題の反省から「現場を恫喝するための道具を持とう」と考えたのだろう。だが、このこと自体が今回の問題に暗い影を落としている。不都合があれば取り潰されてしまうのだから、悪い情報を官邸にあげなくなってしまうのである。

官邸ムラが孤立した小集団だというと、それは安倍官邸の問題なのではないかと思われるかもしれない。ここで思い起こされるのが菅直人官邸と東京電力の関係である。東日本大震災という未曾有の危機が起きたとき、菅直人官邸は疑心暗鬼に陥った。そこで官邸は東京電力に乗り込んで恫喝し、枝野官房長官は「直ちに健康に問題はない」という曖昧な態度を取り続けた。現場を恫喝したのだから情報が入ってくることはない。これが菅直人政権が状況をコントロールできていないという印象をあたえることになった。

日本人は村同士で利権を確保しているのだが、集団同士が協力して問題を解決することができない。ここで冒頭に出てきた記事を改めてチェックしてみたい。主語が「財務省が、野党が、安倍政権が」となっている。しかし憲法上は財務省は安倍政権の一部のはずなのだが、実際にそう考える人はいない。書いている人も読んでいる人も誰に教わったわけでもないのに「安倍政権と財務省は別」と考えており、特にそれに対して不自然さを感じない。これが日本人にとっては自然な感覚なのだが、では「国の問題に対処する」のは誰なのだろうかという疑問も浮かぶ。

さらに村の間に緊張関係が生まれると突発的あるいは意図的に出てきた問題にも対応できないくなる。基本的に「他の村で起きていることは他人事」であり、問題点を共有したり理解したりすることができない。ここでやるべきことは「すべてを統合して一つの問題として扱う」ことだが、それができない。

英語で状況を統合することを「リコンサイル」と呼ぶ。異なった立場にある人たちが情報を持ち寄って一つの問題として再統合するのだ。日本には「リコンサイル」しようとするリーダーはいないどころか、そもそも日本語にはリコンサイルにあたる文章そのものがない。wikipediaをみると「営業と事務部門がデータを突合することだ」という見当違いの定義しか見つからなかった。日本には複数部門で情報を照らし合わせるというような文化がそもそもないのである。

これは基本的に日本が国として大きな変化に対応することができないことを意味している。実際には野党も別の村を形成しているので、共同して「何が起きたのかを検証しよう」という対応にはなっていないし、自民党の中にもいくつもの小さな村があってそれぞれ好き勝手に「安倍政権が説明責任を果たすべきだ」とか「財務省はけしからん」などと評論しあっている。

本来なら麻生財務大臣がまず財務省内部をリコンサイルして官邸との関係を取りまとめるべきだった。しかし、そもそもリーダーシップについて学んでこなかった麻生財務大臣にその意欲はないし、多分リーダーが状況を統合すべきだろうという知識もなさそうである。さらに麻生財務大臣が状況を整理して解決に導くべきだというひとすらおらず、ひたすら「これは政局であり、官邸と麻生財務大臣は……」というような他人事の論評ばかりが飛び交う。

この問題を解消しないかぎり、日本人は何度でも同じような問題に直面し、その度に大きな混乱を経験することになるだろう。

当座人々は安倍政権が倒れるのがいつになるのかという政局に夢中になると思うのだが、実際にはそれよりも深刻な問題が全く解決されないままで放置されているということになる。

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日本人にとって個人主義はなぜ猛毒なのか

国会審議を見ながらこの文章を書いている。聞いているうちにとても不思議な気分になってきた。最初に書こうと思ったのはコールセンターで中高年が嫌われているという話だった。だが、国会審議を聞いているうちに「なぜ人々は過労死するのだろうか」という疑問が浮かんできた。そしてこの二つにはある共通点があると思った。それが個人の頑張りが社会全体に大きな害をもたらすということである。




文章はこういう書き出しになるはずだった。

先日面白い記事を見た。正義感を押し付ける中高年がコールセンターで嫌われているというのだ。この記事では中高年を悪者として扱っており、コールセンターの若者がかわいそうだという筋書きになっている。そこで、異議申し立てをしてみたいと思った。自分自身が「正義感を押し付ける」中高年の側だからである。

このあと、中高年が消費者として経験してきた企業文化と現在の企業文化が違っているという分析が続く。中高年は自分のクレームが企業を動かし、代理となった正社員が社内調整してくれることを期待している。しかし、現在のコールセンターは下請けの非正規雇用が主な担い手になっており社内調整する裁量はない。そこで中高年にはコールセンターが「サボっているように見える」という分析になるはずだった。

しかし、国会議論を聞きながら考えたのは「かつてあった企業の姿と現状」が一致しないにもかかわらずそれが露呈しないのはなぜかという点だった。スクリプトと呼ばれる対応マニュアルは極めてずさんにクライアントである企業担当者の都合で作られるのだが、オペレータはそのずさんさが露呈しないように現場で調整する能力が求められる。だから結果的に中高年の怒りを買って罵られることになる。

文章で着目したのは女性オペレータの頑張りだった。男性は「本来は正規雇用されていたかもしれないのに、俺はこんなところでくすぶっている」などと考えていい加減な対応をする。すると「ああ、この人はバイトなのだな」ということがわかる。

しかし女性は決められた規範に対して従順に振る舞うのが良いと教育されているので、きちんと製品についての教育を受けているわけではないのに頑張ってしまう。そこで、その矛盾を吸収するために「そうできない決まりになっている」とか「この製品にはそんな機能はない」と嘘をついてしまうのだ。これを調べて理詰めで追い込んでゆくと、次第に「自分そのものが否定された」ような気分になる。泣きそうになる人もいるし、中には怒り出す人もいる。つまり、個人の資質と制度によって決められていることがごっちゃになってしまう人が多いのだ。

彼らはスキルとか成長という言葉に呪われている。真面目に勉強してスキルをつけた人だけが生き残るという「自己責任社会」が染み付いているのだろう。だから、この体制は不十分なのではないかとか、ルールが間違っているのではないだろうかなどとは思わないわけである。実は自己責任というのは集団が個人の生産性をサポートすることを放棄した状態を意味しているのだが、彼らはそのことに気がつかない。生まれた時からそういう状態にあったからである。

と、ここで話は国会に戻る。働き方改革で安倍政権は「パンドラの箱」を開けた。そもそもは裁量労働制を拡大解釈すると過労死する人が出てきますよというような話だったのだが、審議が進むにつれて今の制度でも過労死が出ていることが明白になってしまった。

自民党は今でも「厚生労働省の調査は本質的には間違っていなかったが、ちょっとした統計操作場の間違いがあった」という認識で審議に臨んでいる。しかし、そもそも労働行政そのものがずさんに行われており、実質的には違法な労働が野放しになっているという実態が明白になった。さらに、現在の裁量労働制すら悪用されており、労働災害認定された人も出ている。つまり、国には違法な労働を取り締まる意欲も能力もなかったということである。

もちろんここで安倍首相を非難したくなってしまうのだが、まてよと思った。日本には奴隷労働は存在しない。つまり、過労死した人たちは鎖につながれて自分たちの労働者としての権利を知らなかったわけではない。つまり逃げ出そうと思えば逃げられたのである。にもかかわらず彼らが死ぬまで働いたのはいったいなぜなのだろうか。

これについて考えてみたのだが、全く答えが導き出せなかった。仕事に埋没しているということにある種の陶酔感を得ている人もいるかもしれないとは思った。それが麻薬のように働いて、人によっては過労死につながってしまうのかもしれない。しかし、高橋まつりさんのように人間関係に追い詰められた末に「もう死ぬしかない」と思ってしまう人もいるのだから、かならずしも仕事二陶酔して特攻隊のように死んでゆく人ばかりではなさそうである。追い詰められる原因は人によって様々なのだが、一つ共通しているのはこうした異常な働き方を客観視してくれる他人がいないという点だ。つまり、この点において過労死を生み出す会社は壊れているのである。

これを最初のコールセンターの事例と重ね合わせてみると「自分の能力でなんとかしなければならない」という根拠のない使命感が基底にあることは間違いがない。しかし、それだけでは不十分で所属する組織に人間関係とか紐帯のようなものがなくなっていて、誰にも客観視されないままで頑張ってしまうという事情もあるのではないかと思った。形としての会社はあるが中には砂つぶとしての個人しか詰まっていないというわけだ。

もともと、日本は集団主義の国とされているので、日本の集団がうまく機能していないという点について考察が及ぶことは少ない。しかし、その中に毒のような形で歪んだ個人主義が広がっている。それは「成果をあげるのは個人の頑張り次第」であるというものだ。成果が出たらそれを分配するのは集団の仕事なのだが、成果が出るまでは何の支援もしないで個人に頑張らせておこうというような気持ちがあるのではないかと感じた。

こうした洞察が当たっているかはわからないのだが、もし当たっているとすればこうした組織の機能不全を全て国で監視するのは不可能だ。やってできないことはないかもしれないが、全ての職場に監督官をおくくらいのコストが必要になる。つまり、成果だけを横取りするようになった企業のコストを全て税金で補完しろということになり、これは適切とは言えない。

もちろん、今回の裁量労働制は筋の悪い話なのだが、企業文化と労働者教育を変えない限り過労死は無くならないのだろうなと思った。

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小池晃さんの質問はデタラメだった、が……

今テレビで、小池晃参議院議員が高度プロフェッショナル制度について吠えている。裁量労働制の撤回という勝利を勝ち取ったので、この勢いのままで次に行きたいのだろう。

残念ながら、小池さんの頭の中では時間給・月給型のモデルと裁量労働型のモデルが頭の中でごっちゃになっているようで、言っていることがデタラメである。例えて言えば小作農の代表が自営農という制度を理解できないのに似ている。

裁量労働制にせよ高度プロフェッショナル制度にせよ企業からの独立度合いが高い働き方なので、言われたことをやるだけの労働しか経験したことがない人にはわかりにくい働き方なのは確かだろう。

かつて日本は西洋の正解を模倣するだけで成功できたので「言われた通りに働いて細かい改善を提案する」というやり方がうまく機能してきた。つまり、小作農が高度化することで成功した国なのである。しかし、正解がなくなった今、小作農がいくら頑張っても作物の収穫量は二倍にはならない。前回大塚さんが言った通り「レジ打ちが二倍早くなっても売り上げは上がらない」のである。

だからこそ小作農は自ら可能性を追及できる自営農にならなければならない。自民党と経済団体が推奨する制度は基本的にはこの認識が出発点になっており、発想自体は間違っていない。

だが、素直に自民党を応援する気持ちには到底なれない。

経済界は本来は裁量企画型の人たちをうまく使えなかった。その好例が電通の高橋まつりさんである。高橋さんは東京大学を卒業後、電通でデジタルの分野に配属された。この分野での電通の知見がほとんどないので「地頭のいい人」に探索させようとしたのだろう。

成長が止まってしまった企業は新しい知見を求めて裁量型の人を雇う。これ自体は間違っていない。しかし、電通は高橋さんを支援しなかった。現場にはたくさんの「小作農」がいて、高橋さんにパワハラやセクハラまがいの行為を繰り返したようだ。そのうち、自由農は小作として働かざるをえなくなり、かといって小作農を殺さないために作られた制度も活用できなければ、小作農向けの正解もない。最終的に何も考えられなくなり、最後には逃亡を図った。

電通の事例が深刻なのは、彼らが決してデジタル分野での経験を積んでいないとは言えないからである。海外の多くの会社と合弁して人を送り出している。それを本社に持ち帰っても再現ができないのだから企業文化に問題があると考えても不思議ではないのだが、電通は未だにそれが理解できないでいる。企業文化を変えるのはそれほど難しい。

実際の企業ですらそうなのだから、共産党の議員が「月給型」と「成果型」の社員を弁別できないのは当たり前である。経営者も理解できていないことが労働者が理解できるはずもない。

そこで不毛な議論が繰り返されることになる。さらに自民党の政治家にいたっては、それを理解させようともせず、壇上から「ヘラヘラと笑って」見ているだけである。彼らはさらに当事者意識がない。

ニュースでしかこの件を見ていない人にはわからないかもしれないが、今回の議論では安倍首相をはじめとする閣僚たちはいきりたつ野党をヘラヘラと笑いながら見ている。自分たちは特権階級であり「能力の低い小作的従業員のことなど知らない」という意識があるのだろう。ついて行けない人はついて行けなくても良いという認識がかなりあけすけに見受けられ、テレビ中怪が入っていてもそれを隠すそぶりもないのだ。

小作農が東アジアにおいて共産化の原動力になったという歴史を踏まえて、GHQは小作を自営農化させた。しかし、単に小作を放出することはせず、農協などの組織を整えて相互協力ができるようにした。つまり、高度プロフェッショナル制度なり裁量労働制を導入するにあたっても社会化が必要だということになる。だが、現在の自民党は過去の事例や数的モデルを利用した概念化ができないのでこのことがわからない。安倍さんがレクチャーされた内容をやみくもに暗記しているのと同じように、いろいろな成功事例が整理されないまま頭の中にあるのだろう。

抽象モデルが作れない自民党は新しい小作農を作ろうとしている。従来型の小作農は一旦抱えると一生面倒をみなければならなかった。荘園の経営者はそれは嫌だと言っている。そこで、自民党は非正規雇用をなし崩し的に拡大し続けてきた。特に派遣労働は派遣労働者に対するフリーライドである。派遣会社は雇用調整をしているだけで何ら生産的な付加価値を提供してはいないが、その存在が政治的であればあるほど政治への関与が増える。現在、彼らは外国人労働者を導入しようとして各地に経済特区を作っている。

マスコミにもモデルを作って全体を俯瞰するという習慣がないので、こうした正反対の政策が相互に矛盾するのではないかという議論は起こらない。全体像がないのだから労働者は当座の正解を求めて自己防衛的な反応をとらざるをえない。だから、自由農的な働き方をする人が出てきたら妨害して潰してしまい、身分が変わりそうな提案が出たらそれを潰してしまう。

こうしたマインドセットはTwitterにも現れている。裁量労働に対する興味・関心はそれほど高くないようで「最低賃金が重要」という声が強いようだ。生産性が高い国は物価が上がるから最低賃金も上がるのだが「相関性があるからこれは最低賃金をあげれば生産性が上がるという意味に違いない」などと言い出す記事もあり、状況は混乱している。

つまり「自分たちはたいした才能があるわけではないから高い賃金は望めない」と考えており「であれば、働いた分だけ最低賃金が欲しい」と考えているわけである。あれこれ指図してくれればそれが間違っていて成果が上がらなくても自分の給料分だけは働きますよという主張だ。

古い土地は地力を失い収量が落ちているのだが、誰も新しい土地を開墾しない。お互いに罵り合ったり嘲りあったりしながら、もう作物が育ちそうにない土地を耕している。収量が上がらなくても耕した時間の分だけ給料がもらえるので、やめられないのかもしれない。

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議論について行けなかった安倍首相

安倍内閣が裁量労働制の法案を提出しないことを決めた。これはこれでホッとする話ではあるのだが、このブログでは「労働についての議論が全くなされていない」のは与野党ともに責任があるのではないかと、比較的野党に厳しい姿勢で指摘してきた。しかし。どうもこれは正しくなかったようだ。

今回、参議院での大塚耕平参議院議員と安倍首相とのやり取りを聞いて「やはりバカなのは安倍さんなのだな」と思った。このバカぶりは深刻で、そのためにこの国の労働法制の議論が前進できなくなっているようなのだ。

よく「〜はバカだ」という議論がTwitterで繰り広げられている。これは人格否定であり、やみくもに使うべきではないと思う。しかし、この「バカ」には明確な害悪がある。一つ目は議論が進まなくなることなのだが、もう一つは「バカ」な人たちがバカなままでも政治に参加して良いと思うようになるという点にある。安倍首相を見て「初めて政治がわかった」という人も多いのではないかと思う。

wikipediaによると、大塚さんは日銀にいる間に大学院に通ってマクロ経済を研究したようである。つまり経済の専門家である。しかし、大塚さんは国会で専門知識を使って安倍さんをねじ伏せるようなことはしなかった。しかし、これが却って深刻さを浮き彫りにしている。大塚さんは「バカ」がどのように議論を理解するのかということがわからなかったのではないかと思う。

大塚さんの議論はこうだ。

そもそも裁量労働制が政府案として採用されるに至ったのは経済界が生産性を先進国並みに上げるためには労働法を帰るべきだと考えているからである。実際には経済界の「お友達」の間の約束事であり厚生労働省は関わっていないようである。厚生労働省が「エビデンス」を見つけられなかったのは当然だ。普段の現場を見ている人たちからは「裁量労働を増やせば生産性が上がる」などという議論は出てこないのである。

いずれにせよ、日本の労働生産性が低いというのが認識になっている。我々はこの数字を当たり前のことと考えており、このブログでもそのように取り上げてきた。

大塚さんは、そこで日本の統計数字の取り方は必ずしも正しくないのではないのかと疑問を呈した。失業率を下げるために広く労働人口を捉えることになっているようなのである。このためにたくさんの人が働いているのになぜか労働生産性が低いという数字が出ているのだと指摘したのである。

細かいことは理解できなかったのだが、つまり「分母と分子」の話であり、つまり割り算の問題でしかない。他の大臣はこの議論についてきていたが一人だけわかっていない人がいた。それが安倍首相なのだ。つまり、彼はこの問題が割り算の問題だということがわからない。だから、議論について行けないというわけである。そこでそれまでのレクチャーから聞き及んだ様々な単語を抜き出して、それを議論の中に出てきている言葉に当てはめてわけのわからない答弁をしていた。

冒頭で安倍首相はバカだと書いたので、多分ネトウヨの人は読むのをやめていると思うのだが、実際の問題は「概念的なモデルが作れない」という点にあるようだ。記憶力に問題はないようで、そのあとの議論でも過去に読んだ本の話をしている。

大塚さんが到達したかったのは、これは「日本の労働生産性が低い」という前提で始まった議論だが、その認識が正しいかどうかはわからないので、統計そのものを見直した上で議論しませんかという提案だった。

日銀と関係省庁はどう調整していいかがわからないのか、それとも野党の議員風情に指摘されたくなかったのか、うやむやな答弁をしていた。これについて大臣と日銀総裁が正しいと思えばそういえば良いし、そうでなければ「検討しましょう」といえば良い。しかし安倍さんはそもそも議論がよくわかっていないので、何もいえないでいたのだ。割り算がわからないというのは正確ではない。多分「モデル」が作れないのだろう。

大塚さんは、この先に労働生産性を上げるためには売り上げが上がらなければならないということを安倍さんに理解させようとしていた。ここでパートの従業員がレジ打ちの速度を二倍にしてもスーパーの売り上げが上がらなければ生産性は上がらないという誰にでもわかりそうな議論を展開した。

だが、これはまずかった。

茂木大臣と黒田総裁は「給料が上がらない」ということを認めてしまうと彼らの施策が効果がなかったことが露見してしまう。だから、大塚さんの仄めかしを避けようとする。しかし、そこには奇妙な空白が生まれる。だが、安倍さんにはそのことがわからない。大塚さんがどこに話を向かわようとしているかがわからないからだ。

安倍首相はパートの話は理解できたようだ。だが、結局大塚さんが何を意図しているのかがわからなかったようで「いい例えだった」と言って話をまとめてしまった。黒田さんは「給料が上がれば直近の経済成長は望めるかもしれないが、それ以上の成長を望もうとすれば供給側の構造改革をしなければならないのだから、政府のやろうとしていることは正しいはず」と主張したのだが、多分安倍さんは黒田さんが何を言おうとしたのかもよくわからなかったはずである。

モデルが作れない人がこれまでの議論をどう理解してたのかと考えると、かなり暗い気持ちになる。専門家が繰り出す様々な言葉が次から次へと頭の中に入ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。それは永遠に続く混乱と呼べる状態なのではないだろうか。その意味では「かわいそうな状態にある」と言える。政治家の家にさえ生まれていなければ、もっと安倍さんにあった仕事が見つかったはずだ。

例えば、今回の議論では労働生産性は成果(付加価値)と投入時間の議論から始まり、実は付加価値をつけるためには給与が上がらなければならないという関係があった。大塚さんは多分頭が良い人なのだろう。だからこの理屈を「簡単に説明してあげればきっと経済の専門家でない人にも理解が可能であろう」と考えたのではないかと思う。ところが安倍さんにはこれがわからない。それどころか映像のあるたとえ話は「なんとなくわかった」印象を与えるので却って危険なのだ。

自民党にとってはバカを中心に置くことにはメリットがある。安倍さんの下で働いている人たちは「決して安倍さんは理解ができない」ことがわかっているので、自分のやりたいことができる。安倍さんには美辞麗句を並べ立てて都合の良い話だけをしていればよい。また、失敗したとしても安倍さんから責任を追及されることはない。

さらに、モデルが作れない人たちは、安倍さんの話を聞いて初めて「政治がわかった」と感じたのではないかと思う。これが安倍首相が広く支持を集める理由になっているのではないかと思う。これは選挙に強いことを意味している。

つまり、有権者と好き勝手にしたい人たちの間に「バカ」を置くことですべての矛盾が吸収される。野党が理詰めで追及しても「バカ」が吸い取ってくれるのである。

これをIQと結びつけて考える人もいるかもしれないのだが、抽象モデルを作れない人は記憶力の優れた人の中にも多くいるのではないかと思う。彼らは正解を記憶することはできるがモデルを使って未来を予測することはできない。つまり、探索型の行動が取れないことになる。皮肉なことに、これは日本の生産性を下げる一つの要因になっている。経済界が「アメリカのように時間賃金型でない給与体系を入れれば日本も成長するだろう」と考えているのはその一つの表れである。

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憲法とハードコーディング

どこにでも頭が悪い人というのはいるものだが、そういう人に「あなた頭が悪いですね」と言ってはいけない。なぜならば感情的になってあとにひかなくなってしまうからだ。

しかし、こと憲法の議論においては頭が悪い人が多いという印象がある。特に、安倍晋三という人は頭が悪いと思う。

ここでいう頭の悪さとはなにか。それは「あれ何か変だぞ」と気づく力のなさである。言語化するのに時間がかかるのは構わないのだが、そもそも、最初の「あれ」がないと途方もなく長い時間を無駄に過ごすことになる。

憲法の問題は頭が悪い人が始めたせいで、明後日の方向に向かっている。それは政治リソースを食い尽くし、その質を悪化させる。

もっともおかしな議論が自衛隊を憲法に明記するという提案である。もともと日本の憲法は成立時に軍隊をあり方が変化している。だから、自衛隊を明記しただけでは不具合はなくならない。根本のアルゴリズムが間違っているからである。一方で、下手なプログラマほどアルゴリズムを無視して目につく問題点をプログラムで直接操作したがる。こういう方法を「ハードコーディング」という。アルゴリズムが間違っている上に例外処理が書き込まれるので、場合によってはひどいバグを引き起こすことになる。

しかし、下手なプログラマに「ハードコーディングはダメ」というと感情的にキレられることがある。ハードコーディングがまずいということが直感的に理解できないのだ。そういう人ほどめちゃくちゃな議論で人を困らせてなんとか自説を押し通そうとする。

こういう頭の悪い人が議論の起点になっているので、反対する方もなんだかおかしなことをいっている。野党は憲法を「権力者を縛るものだ」と言っている。確かに気持ちはよいだろうが、それは必ずしも正しいものの見方とは言えない。権力者と国民を別のものとしておいているからだ。日本は民主主義国家なので「権力者」という階層の人はいない。もしいるとしたら、その人たちは「自分は決して権力者にはなれない」と思っていることになる。

民主国家における憲法は「国と国民の間の契約」と言った方が正確だ。全てを国民全体の話し合いで決めることができればよいのだが、それはできない。だから誰かに委託する。委託するときに「このような手続きでこれとこれを任せるからあとはよろしくね」というのである。権限を委託された人たちのことを権力者と言っている。そして契約に基づく権限なので説明責任が生じるし、結果責任も取らなくてはならない。憲法は契約書であると同時に手順も決めてる。だから、憲法はプログラミングにも似ているのである。手順や付与する権限に設計上の問題があると、運用者が苦労することになる。

今までも自衛隊の問題では政府は運用に苦労してきた。日本は軍事力を持たないという建前があり、かといってアメリカが全部面倒見切れないという現実もあった。またアメリカは同盟国だという建前になっているが実は日本が軍事的に暴発するのを抑える役割がある。このために憲法第9条には問題が多く、それを解釈で乗り切ってきた。しかし、昨今の議論を見ているとこれが限界だろう。あまりにも運用に頼りすぎてきたために正当なジャッジができないので司法は国防に関する諸問題を無視し続けている。

だから、不具合に対処しようというのが正しい姿勢なのだが、なかなかそうはいかない。なぜならば起点が間違っているからだ。安倍首相は「日本がアメリカの仲間になって戦える国にしたい」と考えているようだ。そうすれば「今度は戦争に勝てる」からである。こういう人に向かって「国際情勢が変化しているので柔軟に対応できるようにしましょう」などと言っても無駄である。物事の複雑さが扱えないので、単純化して理解してしまう。だから議論が成り立たない。

その意味では護憲派は安倍首相に感謝しなければならない。安倍晋三が首相をしている限り憲法第9条のまともな議論はできないだろう。しかし、それがよいことなのかもわからない。護憲派はいつまでも国際情勢を無視したままで思考停止していられる。だから彼らは「権力者を縛るものだから権力者は変える提案をしてはダメ」などと言って平気な顔をしていられるのだ。

では、安倍晋三が首相の座を降りれば憲法議論は前に進むのだろうか。とてもそうとは思えない。それは現在の国会議論が堕落しているからである。堕落というと批判しているように聞こえるかもしれない。確かに不愉快な現実だが、決してどちらか一方を批判しているわけではない。

例としてあげられるのが労働法制の議論である。日本の生産性は低いのでこれをなんとかしなければならないという問題意識は誰でも持っている。しかしながら「個人が努力したところでどうしようもない」という諦めもある。すると、自分が頑張ってもどうしようもないのだから、せめて得点を得ようという気分の人が出てくる。

現在の労働法制の議論は経団連と連合の代理戦争になっている。経団連は製品やサービスによって経済をリードすることができないということがわかっているので、人件費を下げて生き残ることしか考えられなくなった。そこで生まれたのが派遣社員、残業代がつかない正社員、福祉給付をしなくても構わない外国人労働者への欲求だ。経団連は昔からこれを繰り返し訴えている。一方で、連合の方も「経団連の要求を排除できたら自分たちの得点だ」というマインドセットがある。

政治はこの問題を打開できないので「飴と鞭」を使って取引をしようとしている。野党が目指すのは飴だけを取り上げて鞭を回避したい。これができれば野党の勝ちで、飴が手に入れられなくても鞭を取り上げることができなければまずまずと考えているのだろう。裁量労働制は鞭にあたる。だから8本の法案のうち裁量労働制だけを取り下げろと言っているのである。

この「取引マインド」は政治全体を支配しているようだ。もはや全体設計ができなくなった人たちは意欲を失い取引を求めるようになる。例えば、維新の党は「教育の無償化」という取引材料を求めている。しかし、財源が確保できそうにないので、自民とはこれを「努力目標」にしたいという。

もし、自民党の人たちが憲法は契約であるということを正しく理解していれば「努力目標」などという発想は生まれなかったはずだ。なぜならば相互契約において一方が努力目標になればもう一方も努力目標になってしまう。つまり、国民も普段は権力を国会議員に委託しているが嫌になったら必ずしも従わなくてもよいということになってしまうからである。これでは憲法どころか法律すら守る必要はなくなる。これを法律の専門家がどう評価するかはわからないが、直感的におかしなことになってしまうのである。

そもそも「とにかく憲法を変えたい」という人が始めた議論なので、議論の目的が極めて曖昧である。そこで「憲法は美しい国柄を規定する」とか「権力者を縛る」とか「努力目標」だとか「議席を得るためのバラマキの根拠だ」などといったさまざまな倒錯した議論が起こるのである。

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なぜ不安を他人と共有すべきなのか

昨日は安倍首相が社会との間で問題を共有できていないということを書いた。反安倍ネタというのは政治ブログの鉄板になっていて今でも多くのページビューを集める。新聞が反安倍と親安倍に別れる理由がよくわかる。多分、商業上の需要があるのだろう。

読んでもらえるためには有効な手段なのだが「これで良いのか」ということもよく考える。

最近、夜中に犬が鳴くことが増えた。昨年の1月に前庭障害という病気で倒れてしまっい、その後徐々に状況が悪くなっている。動けなくなってしまい、餌も満足に取れない。そこでどうして良いかわからずに鳴くのである。

犬は鳴くのだが人間ができることは少ない。何もしないと「苦しんでいるの煮詰めたすぎるのではないか」と思うのだが、かといって犬のそばにずっといればこちらが倒れてしまいかねない。正解は全くないのだが、なんとかして対処して行かなければならない。

もちろん獣医師に相談することはできるが、獣医師もできることは少ない上に、お金もかかる。どの飼い主さんも大いに悩まれるそうである。つまり、正解はないが、こういう問題で悩んでいる人はたくさんいる。犬の数だけ問題があるわけで、つまり正解がない上に実は割とありふれた問題であるということにも気がつく。

これは犬の話なので割と気軽に話をすることができる。もしこれが人間の話だったらと思ってしまう。例えば、一緒に住んでいる家族とそうでない家族の間に認識の差が出るだろう。一緒に住んでいない人は「もうちょっとちゃんとやれるのではないか」と同居している家族を非難するかもしれないし、逆に同居している方は「じゃあ、お前がやってみろよ」となる可能性もある。これもありふれた話なのだが、家族にとっては初めて直面する正解のない問題である。

最近はこうした問題にも社会が絡んでくる。医療費は税金で支えられているからである。医療がどの程度延命に関わるかという問題には正解がない。そして正解がなく誰でも悩むのだということは、多分その時にならないとわからないのだろう。

社会が大きな負担をする一方で、社会のあり方は変わってきている。かつては家庭や親戚に病気の高齢者がいたのではないかと思うのだが、核家族化が徐々に進行した。全くこうしたことを経験しないままで負担する側に回ることが増えてしまったのである。

だから、長谷川豊さんのように「透析患者は自己責任なのだから云々」という人も出てくる。長谷川さんの発言は暴論だと思う。かといって、管につないでいつまでも生かしておき、その間に医療費を支払い続けることが良いことなのかはわからない。社会の負担が増えるばかりでなく、支える人にも大きな負担になる。

犬の場合には「積極的な治療はしないで、衰弱させるのもあり得るのかな」などと言える。しかし、同じような問題であっても人間には同じことは言えない。いくつかの理由がある。

  • 人の命と人権という漠然とした意識があり問題が複雑になっている。単に費用対効果の問題として語ることが難しい。
  • 経験した人と経験していない人の間の認識に大きな違いがある。
  • 個人によって延命治療を受けたいか受けたくないかということに意見の相違がある上に、その場になってみないと本当のことはわからないという事情がある。
  • 自分の「不幸」を他人に話すべきではないという文化的な態度がある。弱みを見せたくないという気持ちがある人もいるだろうし、自分の問題で社会を煩わせるべきではないと考える人もいるのだろう。
  • 自分の優位性や存在感を示すためにわざと暴論を述べて社会を刺激する人がいる。
  • 個人の問題を語ると「それはお前の問題だから自分でなんとかしろ」と言われるおそれが強い。

そもそも、課題や悩みの共有が難しい上に政治家もシンパシーを持たないという意味では、我々はかなり難しい社会を生きている。その上別の技術的な問題もある。

実際にTwitterでフォローさせていただいている人の中には自分が病気を抱えていたり、病気の家族を抱えている人もいる。中にはベットから動けないがそれをあまり感じさせず趣味の話などをしている人もいるのだが、家族の問題をつぶやき続けている人もいるといった具合だ。家族の問題を共有することには社会的な価値があるのだが、技術的な問題から単なるエンドレスな愚痴にしか聞こえないということがあり得るのである。たいていの場合はそれを当人にとっては重大な問題だが実はありふれているという認識を持てていないことが理由になっているように思える。個人的な悲劇に浸っているように聞こえてしまうのである。

経験を共有する技術を磨くために最初からオリジナルのやり方でうまく情報発信ができるわけはない。だからなんらかのモデルを真似する必要があるだろう。

そこで、昔の人はどうやって共有していたのかなと思うのだが、よく考えてみるとモデルが思い浮かばない。学校がミッションスクールだったので割と日常的にこうした話は聞いていた。多分、キリスト教の教会などでは信者同士で経験と感情の共有しているのではないかと思う。

仏教の法事は家族単位なので他者と悩みを共有することはない。それでも、昔は親戚も多かったので遠い親戚とこうした悩みごとを相談することがあったのかもしれない。こうした行事に参加していれば、後継者問題や親子の不仲などの問題を全く抱えていない家族はいないということがわかる。だが、戦後すぐの世代は「子供達には迷惑をかけたくない」という気持ちが強いらしいく、却ってそれに続く世代が、悩みを共有する機会を奪っている。悩みを学習することを「負担」や「迷惑」と感じてしまうようだ。

このところ「政治の課題」についても考えている。その基礎にはすべての人は問題を抱えており、少なくともその経験を社会で共有すべきだという認識を持っておくべきだと思う。そうでなければ、硬直した物語で問題を糊塗することの問題点は見えてこない。物語は物語にしか過ぎないのだから、問題を解決することも課題を共有することもできないのだ。

いずれにせよ、自分の問題をできるだけ冷静に語るのは難しい。すぐにできるようにはならないと思うのだが、できるだけそうした技術も磨いてゆきたいと思う。

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日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

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