ある意味「トカゲの尻尾」だった山口達也さんと被害者女性

柳瀬元秘書官の問題はそれほど話題にはならなかった。もちろん柳瀬さんは嘘をついているのだが、想定内の嘘だったので外形的な体裁は整っている、だから外形上は嘘をついていないことにできる。お友達の優遇がもともとこの特区制度の狙いだったわけで多くの人は自分で努力をするよりも権力にコネをつけた方がトクだと考えたのではないだろうか。これは縁故主義の社会が没落して行くある意味おきまりのルートである。

柳瀬さんの行為はいわば「民主主義違反」なのだが、麻生さん流にいえば「民主主義違反罪という罪はない」ことになる。セクハラであろうが、民主主義の十厘だろうが、この国の新しい道徳では罰則がないことはやってもよいことになる。一方、一人ひとりの個人は国のいうことを聞いて「社会に貢献する」ことが道徳的に求められる。国はこのような形で道徳を教科にするようである。強いものは守られ弱いものは犠牲になるのが道徳的に正しいという社会が形成されようとしている。

一方で日本人が気にすることもある。普通でいることには特段の価値はなく他人に利用されるだけだ。しかしそれではフラストレーションがたまるので「普通から脱落した人たち」を娯楽的に叩くことが推奨されている。不倫やセクハラが叩かれることが多いのだが、在日外国人を叩いたり、特殊学校に通う生徒を叩いたりすることも横行しているようである。こうした例外規定があることで普通の人たちは「まあ、しかがたない」といって体制を維持する道徳をサポートすることになる。つまり人を叩くことで体制の維持に協力するようになるのだ。

今回「山口達也元メンバー」が叩かれたのもその一つだろう。山口さんを叩くだけでなく、被害女性を探し出して表に引きずり出そうとしている媒体もあるという。山口さんは、どうやらもともとお酒の問題を抱えており周囲の人間関係にも困難さがあったようだ。しかし事務所はそれを見て見ぬ振りをしており管理不能な状態になったとたんに大慌てで「知らなかった、気がつかなかった」と切り捨ててしまった。もともと事務所は自分たちに非難の矛先が向かわないように最初から切り離すつもりで弁護士を入れて記者会見を開いたようだが、山口元メンバーがTOKIOとのつながりを示唆してしまったために、今度は大慌てで他のメンバーが「それは許されない」と芝居掛かった記者会見を開くことになった。

今になって思えば「ペテロ」の逸話を思い出す。夜が明ける前にペテロは三回「イエスなどという人物は知らない」と言って自己保身を図った。だがTOKIOの行動は個人が社会から叩かれることを必死で回避しようとするという意味ではむしろ人間味のある嘘である。

さて、ここで嘘をついているもう一つの大きな集団がある、それがNHKだ。NHKは柳瀬さん流にいうと「嘘をついていないのだが嘘をついている」という状態にある。日本社会では自分の組織を守るためにこうした言動が許されている。文化的には組織防衛に極めて寛容な体質を持っていると言えるだろう。

週刊誌やワイドショーが、被害女性はスタッフ側からLINEのアドレスを交換するように指示されたと供述していると伝えている。NHK側はこれを否定しておりNHKのスタッフはそのような指示はしていないと言っている。だからNHKの関与はなかったということになる。被害者女性は「かわいそうだから決して表に出てはいけない」ということになっているので、自分の体験を語ることはないだろう。彼女は他の出演者たちと同じように疑われたまま自分のトラウマも抱えたままで囚われて生きて行くことになる。これは実はかなり残酷な人生なのではないかと思う。だが、NHKが元になった状況を改善することはないだろうから、同じようなことはまだ起こるかもしれない。しかし日本社会ではそれも「組織を守るためには仕方がない個人の犠牲だ」と考えるのではないだろうか。

これは「聞かれたことにしか答えていない」という例である。つまりNHKの番組は多くの外部スタッフを抱えており、彼らがそれを指示した可能性がある。そしてその指示に関してNHKのスタッフが指示をした可能性は残っているし、仮に外部スタッフが勝手にやったということになっても監督責任は残るはずである。

安倍首相が秘書官や奥さんを通じて何か意思を伝えたとしてもそれが法律違反に問われることはない。同じようにNHKもいざとなれば「外部スタッフが勝手にやったことだ」として切り離してしまえば社会的な非難を受けることはない。あとはタレントを切り離してし、私たちは被害者でしたといって終わりである。

個人が自己責任のために必死で嘘をつくのに比べると、組織の嘘はどこか落ち着き払った調子がある。自分たちが社会をコントロールしていて「世論などいかようにもなる」という自信があるからだろう。そして、実際に世論はその場の雰囲気で動く。

今回は週刊誌が問題を嗅ぎつけてあのやっかいな事務所が騒ぎ立てるまえに「ニュース」という形で先に既成事実を作ってしまい「NHKは一切関与していなかった」という形を作った。実際には問題のきっかけを作り(あるいは放置していた)にもかかわらず、うちは被害者ですよという体裁にしたのである。そのあとも「聞かれたことには答えたが、聞かれなかったことには答えなかった」というお芝居を続けている。もちろんこの行為は法的には何の問題もないし、日本社会では道義的にも「組織を守るための忠義である」と肯定される場合が多い。

財務省や官邸のやり方を見ていると「外部のスタッフを巧みに切り離して問題の隠蔽を図り、最終的には末端の個人にかぶせる」というやり方が日本社会に蔓延しているのがわかる。たいていの人は「社会とはこんなものだろう」と考えるので、柳瀬さんが嘘をついていたとしても特にそれを機にすることはない。

こうした行為が法律に触れているわけではないので、柳瀬さんを裁いたり、NHKを断罪することはできない。しかしながら、いざとなれば個人を切ってしまえばいいのだと考えることで組織の上の方にいる人は次第にモラルをなくして行く。自分が出世するためなら誰か弱い他人を犠牲にして知らぬ存ぜぬを通していればよいということになるからだ。そして、普段から「何かあったらこいつに詰め腹を切らせよう」などと物色し、それを当然のように思うわけだ。

私たちの社会にあるこうした風通しの悪さはこのように作られている。実はTwitterなどで他人を叩くことで我々も知らないうちに共犯者になっている。一時の騒ぎが治るとまた別の問題がおきて大騒ぎになる。多分柳瀬さんの問題も忘れ去られて加計学園もなんとなく「逃げ得」ということになるのかもしれないし、NHKではまた同じような問題が起こるかもしれない。しかし、同じ問題が起きたとしても誰か適当な犯人を見繕ってその人を叩いて終わりになる。

NHKの道義的責任を問うことはできないのだが、こうした人たちが政府を「マスコミとして監視している」ことになっている。実は政府が一向に態度を改めない裏にはこうした事情もあるのではないかと思う。実は「お互い様だ」と思っているのだろう。

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日本文明はユニークなのか

去年の末くらいからちまちまと「村落社会」について考えてきた。利害共同体の集まりとしての日本には乗り越えられない課題がいくつかある。利益共同体は受益者の変化が遅れるので全体が足を引っ張られることになる。

しかし利益共同体の中で好き勝手にやって行きたい日本人は他人からあれこれ言われることを嫌う。そこで、今ある状態を観察してみれば良いのではないかと思った。他人からあれこれと指図をされることがいやなのだから問題を自覚すれば良いと思ったのである。

これを考えているうちに、いろいろな類型があることがわかった。例えば心理学者の河合隼雄は母性社会という概念を提唱し「契約で明確化しない」社会としての日本について分析しているようだ。

また、別の人は農耕文化に外からの刺激が加わることで「精神革命が起こる」と捉えていた。この見方を取ると父性・母性という対立概念ではなく、今まで定型のルールを必要としなかった社会が複雑化する過程で定型のルールを受け入れて行くというダイナミックな論が聞けるのではないかと思った。

試しに彼ら一派の著作を読んでみたのだが、やはり集団で論を形成するうちにディテールに関心が移り、繊細な(あるいはちまちました)論に落とし込まれてしまうようである。今回読んだのは比較文明における歴史と地域 (講座比較文明)だ。

この中に日本文明について書いた一節がある。2008年に亡くなった濱口惠俊という人が担当している。まずグローバルに通用する文明とは何かを分析した上で日本文明は独自だと結論付けた。濱口らが注目したのは西洋流の個人主義ではなく関係性に立脚した「間人」という概念のようだ。日本文明の特徴は人が個人として存在するのではなく、関係性の中に存在するというコンセプトであり、それに沿って幾つかの用語が提唱されている。信頼に基づいた自律的な秩序は世界的な価値があり、国際的に貢献できるのだという筋になっている。

この筋を批判するのは簡単である。現在、安倍政権が政府の中を通産省・官邸一派とほか省庁に分断している。他省庁は人事権を官邸に握られているので自律的に問題解決ができなくなる。一方、通産省は自分たちの利益を優先させようとし軋轢を生むのだが、実際に仕事をしているのは他省庁なので情報が上がってこない。現在様々な省庁から「記録が発見」されているが実際には隠されていたものであり、政府が分断されていて5年もの間自浄作用が働いていなかったことがよくわかる。これまでこうした問題が起こらなかったのは、それぞれの村に分かれておりお互いに手出ししなかったからにすぎない。つまり、信頼に基づいた自律的な社会などないし、あっても破壊するのは極めて簡単なのだ。

日本文明を独特のものだと考えるのは何も濱口だけではない。有名なものにハンチントンの文明の衝突がある。主に宗教を基礎に「西側キリスト教」「東側キリスト教」「イスラム教」「アフリカ」「中華圏」「アジア仏教圏」「ヒンディ」「ラテンアメリカ」に分けている。類型に属さない国が4つり、そのうちの日本だけが経済的にインパクトがあり独立した文明として位置付けられている。ハチントンは文明と文明がぶつかるところに摩擦や問題が生まれるとしている。

ハンチントンは西洋キリスト教圏から他文明をみているので、隣接する文明についてはある程度詳細に分析をしている。しかし、アジアの文明に関する見方はざっくりしたものも多い。一方でイスラム教の内部に見られるスンニ・非スンニという対立は見過ごされている。だが、ハンチントンには日本文明を独自だと主張しなければならない心情的な理由もないので、見方はダイナミックで面白い。

日本人がこれを扱うとどこかちまちましてしまうのは、どうしても他者に対して「良い意味で違っている」ということを証明しなければならないと考えてしまうからだろう。逆にいえば「日本文明は何かの亜流か白人文明に対してみると取るに足らないものなのではないか」という小国意識があり、そこから脱却したいと考えているのではないだろうか。

日本文明が特殊なのは実はそのユニークさにはなさそうである。日本の特異性は様々な文明から影響を受けつつ、本質的には変わらなかったという点にある。なんとなく全てを解釈して乗り切ってきたのである。

ハンチントンによるとエチオピア、イスラエル、ハイチという孤立国があるのだが、一億人規模で広がった地域は他になく「文明扱い」されているのかもしれない。エチオピアの人口は一億人を突破しておりこれが文明扱いされるようになる日も近いのかもしれないが、経済的な影響力はそれほど大きくない。

濱口さんがなぜ関係性の中にある人間というコンセプトで日本社会を説明しようと思ったのかはよくわからないが「個人主義を受け入れられなかった」日本の「集団主義的な傾向」を正当化したいという気持ちはよくわかる。一方で中華思想にある階層的な集団も日本は受け入れなかった。ある意味日本は「牧畜系の人たちが持っているルールによる支配」を受け入れずに一億人規模の人口を維持できている特異な社会と言える。確かにこれを劣等感として捉えるのではなく、集団が機能しており自律的なダイナミズムの元に社会が形成されていると捉えるのは間違ったアプローチではないだろう。

ということで、この説明をいったん受け入れるとまた別の深刻さが浮かび上がってくる。濱口が間人というコンセプトを思いついたのはこれが日本社会の本質だと考えたからだろう。ということは日本人は集団の中にあってはじめて安定すると見なしていることになる。

しかし、実際には日本では孤人主義が蔓延している。これは西洋流の自己意識を持つこともできないし、かといって間人として存在できる集団も持たないという状態だ。他人の視線と承認は必要だがそれが満たされないのが孤人である。

非正規雇用と呼ばれる企業集団からの保護が曖昧な人たちが多く生まれたが、政府は責任転嫁のために「これは自己責任だから政府は関与しない」という言説が横行している。社会の中に難民が生まれているような状態である。安倍政権は経済内戦で生まれた難民を放置したままお友達への便宜供与に邁進する政権だと言える。

伊東らの比較文明論は精密なプラモデルのような面白さはありそうだが、それほど情勢分析には役に立ちそうもない。しかし、彼らが揺るぎないと考えていた日本人の独自性がいとも簡単に破壊されてしまったということを観察する上では面白い教材と言えるかもしれない。

このことから、現在の政権が嘘をついたり自己責任論を振りかざすことがどれだけ危険で特異なことなのだということがわかる。それは人世代前の人たちが「当たり前である」と考えてきた空気のような社会的な特性がなんとなく失われていることを意味している。当たり前にあると考えてありがたがりもしなかったから汚染されるとどうして良いかわからなくなってしまうのだ。

安倍政権はその意味では意味を破壊することにより社会から会話を奪い去れ分断を促進しているは会社と位置付けられる。さらに伊東らの言葉を借りると日本文明そのものを破壊しているとさえ言える。

日本人がかつてあった「間人」に戻るのか、それとも徐々に個人主義を学んでゆくのかはわからないのだが、いずれにせよかつてあった村落を維持する仕組みを学び直しつつ、個人主義のあり方も基礎から学ぶ必要があるのかもしれない。

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日本人は責任をどのように理解したのか

レスポンシビリティ(対応性)という言葉に責任という訳語を与えたのは誰かということを調べた。前回紹介した橋本大二郎の短い文章の他に「西周が訳した」ということを証明できる資料はなかった。

そもそも荘子(そうし)が天子について書いた文献の中に天子の責任という言葉が出てくるようで、責任という言葉は新しく作られたものではなさそうである。明治時代に宮内省が編纂した辞書にも「責めと務め」というような定義が見られる。明治時代には民法の中でも負債を弁済する任のような意味合いで責任という用語が使われていたようだ。連帯責任も同じように負債に関する概念だったようである。

この他に責任内閣制という言葉がある。内閣が君主ではなく議会に対して責任をとるという制度だと考えられている。この責任はレスポンシビリティの訳語なので古くからこの二つの概念が同居していた可能性は高い。

日本語には古くから責任という言葉が存在し民法では「債務を弁済する義務」のように用いられれていたようだ。このため各種の国語辞典を見ると、どれも同じように「責を負う任務」というような定義が最初に出てくる。中にはこれをレスポンシビリティの訳語としている辞書もある。

英語では「対応性とか即応性」という言葉が当てはまると書いたのだが、ケンブリッジ辞典は「duty/義務」や「blame/非難」に結びつけている。国や社会によって何を責任とみなすのかについては若干の違いがあるようだ。

いずれにせよ、明治憲法は恩賜の欽定憲法なので政府が国民に対して説明をしなければならないというような意識は希薄だったのだろう。さらに庶民の生活の中では、概念的な「社会契約による権限委託」というのは理解されにくいが、具体的な「何か問題を起こした時に金銭的な補償をする」という行為の一部として責任が理解されていたと考えて良いのかもしれない。

ただ、日本人がまったく政治的な概念に理解や関心がなかったということはないようだ。西洋に比べて日本は遅れているということを実感した日本人は慌てて西洋の社会制度を学び始める。この中で概念的な人権や契約という概念をフランス語や英語で理解した人たちがいた。日本人は何をかんがえてきたのかというNHKが出している書籍によると、日本にはフランス流の民主主義を模索する自由主義者とイギリス流の立憲君主制を模索する立憲改進という二つの民主化勢力があったそうで、草の根的な民権運動も存在した。自由主義者だった中江兆民が社会契約の考え方を日本に紹介したとき日本には「社会」という考え方はなく、民の約束という意味の民約という言葉が使われたそうだ。

「原語でコンセプトを理解できてすごい」という見方もできるし「余計な概念がなかったのですんなり受け入れることができた」という見方もできる。今回観察している「責任」をめぐる諸概念は契約と権限移譲という基本コンセプトを理解した上で英語で読んだ方がわかりやすい。これを日本語に訳した上で漢字の意味に引っ張られると話が複雑になる。漢字の縮約能力が仇になっていると言えるだろう。

いずれにせよ「経済的補償」の一環として責任という概念を理解した日本人はGHQが憲法を書いた時に不用意に同じ訳語を使ってしまったと考えられる。内閣がグループで国会に対応するという意味を「連帯して責を負う」という法的補償の概念で理解してしまったことにより誤解が生まれる素地が作られた。これは内閣は天皇ではなく国会(つまり国民)に対応するのですよということと首相が勝手に決めてはいけませんよということを言っているのだが、これを訳者がどのように理解したのかは今になってはよくわからない。

「政府は国民から社会的合意に基づいて作られた概念的な契約によって権限を委託されている」という理解はさらに遅れた。昭和の時代に「政府」の問題は行政責任の問題だった。つまり公害を放置した時に国が補償してくれるのかという具体的な補償の問題として政府の責任を捉える人が多かった。

このため平成が終わりを迎えつつある現在でも、アカウンタビリティ(説明責任)という言葉は辞書に載っていない。現代用語の基礎知識に「行政責任」と「アカウンタビリティ」という項目が立っており、未だに「現代用語」扱いになっている。

これらの言葉がいつ使われ始めたのかということはよくわからなかった。Google Trendは2004年以前の傾向が調べられないのだ。いろいろ調べると「企業統治用語」として日本語に定着したのではないかという可能性が見えてきた。

アカウンタビリティは「企業の株主に対する説明責任」というコンセプトで使われ始めた。同じように最近使われるようになった言葉に「コーポレートガバナンス」や「コンプライアンス」がある。もともと持ち合いが多く株主に対する責任が曖昧だった日本企業の中に西洋流の「契約と説明責任」とか「社会責任」という概念が広がっていった頃である。日本でこれが顕著になったのは2000年代初頭の村上ファンドやライブドア(堀江貴文)あたりではないかと思われる。お金が絡んだ方が日本人の理解は早いのだが、これが道義的責任とか社会的責任となると途端に暴走が始まることがわかる。

例えば連帯責任という言葉はもともと「連帯保証」という債務に関する用語だった可能性が高いのだが、これが軍隊やスポーツチームなどで使われるようになったという経緯がある。この連帯責任という言葉は軍隊では見せしめにチーム全体を殴るための口実に使われていたようで、用例がいくつも出てくる。

ここに出てくる文章を読んでいると気分が悪くなるが、要するにマネージメントの失敗を八つ当たりの暴力によって目下に押しつけるのが「連帯責任」だ。しかしこれを制裁と呼びたくないので「体裁のある」用語を使ったのではないだろうか。これが戦後になって体育会系のマネージメントに応用されたのではないかと考えられる。お金のやり取りがない時に通貨として使われるのが村八分のような社会的な非難と制裁という名前の暴力なのである。

この二つに共通するのは現場が「金銭的なマネジメント」に関わっていないという点である。兵隊が補充されてくる場合「兵士を雇うことに関する費用対効果」は考えなくてもよい。すると現場マネージャが暴走して私的制裁を練り込んだマネジメントを行うようになる。日本のスポーツの近代化が遅れたのも「無償の努力は美しい」というアマチュアスポーツが過度に賞賛されたからだ。すると現場のコーチが思い込みで選手をしごくというのが当たり前になってしまう。こうした現場で責任が曖昧になると「連帯責任」という「無責任」が横行することになる。

自己責任という言葉はその最たるものである。もともと債務関連の言葉だった。これが集団で責任をおう連帯責任という考え方になった。行政責任という言葉も生まれる。これは借金ではなく保証金という形での支出を伴う。行政責任はないという意味合いで、だったら誰に責任があるのかということになる。本来なら会社などの集団に補償責任を負わせたいのだが、フリーランスの場合には問責する主体がないので「自己責任」という言葉を無理やり作って押し込んでしまったのだろう。しかしこの「無責任用法」が生まれてしまうと一人歩きし、力が弱いものに対して「お前が悪いんだろう」と単純化されて使われるようになった。政治家など力のある人に「自己責任だ」という言い方はしない。

日本人はこのようにグループ間のお金のやり取りを通じて社会契約的な概念を理解していることがわかる。これが溶解してしまうともっと概念的な「社会」を作ってルールを普遍化するか、個人と個人の間の無秩序な指の差し合いに陥ってしまう。日本人は後者を選んでおりそれが現在の混乱の一員になっている。

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バベルの塔に住む日本人は民主主義を理解できない

荒れる学校について考えているうちに、そもそも日本語には民主主義に関する用語の理解が欠けているということがわかってきた。これについて考察しているブログは多いのだが、議論そのものがあまり注目されてこなかった。例えば責任とResponsibilityという用語で検索するといくつかの文章を読むことができる。

今回は「先生が体罰という抑止力を失ったために学生がやりたい放題になった」という投稿をきっかけに、荒れる学校について考えている。この問題を解決するためには、まずコミュニティをどう保全するのかを話泡なけければならない。しかし、話し合うための言葉すらないうえに問題を隠蔽したがる人たちもいる状態では話し合いすらできない。

先生や保護者が協力して適切な監視体制を作ったり生徒に自主性を持たせれば暴力を使わなくても問題は解決するのだが、日本人は民主主義社会が持っているはずの協力に関する用語を持たないためにお互いに意思疎通ができない。これはバベルの塔に閉じ込められた人たちが協力して塔を建設できないのに似ている。

前回のエントリーでは学生か先生に権限を与えるべきだと書いた。ところが日本語でこの議論を進めようとするとややこしいことが起こる。権限と責任という二つの言葉だけを見ても、これを好きなように定義する人たちが現れるからだ。「日本人がバカだから民主主義が理解できない」という言い方をしても良いのだが、英語の表現を漢字語に置き換えた時に生じた問題が修正できていない。

例えば先生の権威を認めるべきだと主張すると、権威という言葉から絶対王政の権威のようなことを想像する人が出てくる。これは言葉に「威」という漢字が含まれているからだろう。畏れて従うというような意味がある。しかしこれを英語で書くと先生の権限を認めて委譲すべきだという意味になる。権限も権威も「オーソリティ」の訳語である。この言葉はラテン語からフランス語を経由して英語に入った。元々のラテン語の意味は「増える・増やす」ということのようだ。これが「書く」という意味になり、書かれたものを引用して「誰もがそうだな」と思える概念を「オーソリティ」と呼ぶようになる。ここから派生して、権限を裏書きして認めることも「オーソリティ」と呼ぶようになった。

つまり、民主主義的な用語では「社会的な合意のもとに先生に学校を管理する権限を認めること」を先生に権威を与えるべきだということになる。だが漢字に「威張る」を思わせる言葉が入っているので「先生は偉いから逆らわないでおこう」という意味に取る人が出てくる。逆に先生は税金で雇われているだけであり、自分たちの使用人だから威張られるのはたまらないと考える人も出てくるだろう。

「権限」を「威張ること」と考える日本人は多い。例えば日本レスリング協会は「自分たちは選手を選抜して指図する正当な権利がある」と考えており問題になっている。パワハラが認定されたあとでも間違いを認めない上に、スポーツ庁には平身低頭だが選手に対しては「威張って」しまう。これは権威を間違えてとらえている一例といえる。このように何かを遂行するために権限を与えてしまうと人格そのものが偉くなったと考える人が多い。「権威」とか「権限」の裏にある契約や権限移譲という概念がすっぽり抜け落ちてしまうからだろう。

そんなの嘘だと思う人がいるかもしれないので、英語の定義を書いておく。慣習的に認められた権威はあるが、最初に書いてあるのはendorse(裏付け)である。語源の「書く」という概念がそのまま受け継がれているように思える。

: to endorse, empower, justify, or permit by or as if by some recognized or proper authority (such as custom, evidence, personal right, or regulating power) a custom authorized by time

続いて責任という言葉についても考えてみよう。責には「咎める」という意味合いを持っているので、どうしても「何かあったときに責められる役割」というように思ってしまう。だから責任を取るというのは叱られることか辞めることを意味することが多い。これも英語の意味をみてみると、元々の意味は法的な説明を求められたときに反応ができるように準備をしておくという意味になる。だから反応する・対応するという言葉の派生語が使われているのである。

例えば日本語ではよく自己責任という言葉が使われる。これは何か悪いことがあったらそれはお前のせいだから俺たちは知らないというような意味合いで使われる。これは自己を責め立てるという言葉の響きのせいだろう。しかし英語で検索すると「生命は治療のために必要な力を全て持っている」という意味しか出てこない。ある界隈で使われている特殊な用語でしかない。そもそも他人に説明するという意味の言葉なのでそれが自己に向くことがないということなのではないかと思う。連帯責任という言葉もレスポンシビリティの訳語にはならない。これにはグループで連帯的な法的責任を負うという意味でライアビリティが当てられることはあるようである。英語と日本語ではこれほど違いがある。

語源を調べてみるとわかるのだが、これらはすべてラテン語を経てフランス語から英語に入った概念だ。それを日本人が取り入れる時に「法律で定めてはっきりさせておくこと」「記録を残して説明できるようにしておくこと」「役割を明確にして説明できるようにしておくこと」をすべて一括して「何かあったら咎め立てをすることだ」と理解してしまい「〜責任」という用語を当ててしまったことがわかる。つまり法的な契約の概念がなかった当時の日本には「咎め立てる」という概念しかなかったのだろう。現在はここから「では咎められなければ何をやっても良いのだな」という自己流の民主主義の理解が広がっている。

生徒が責任を持つべきだと英語でいうと、生徒が自分たちの意思でクラスの運営を決めてその結果にも責任を持つという意味になる。このためにどんな権限が必要なのかということが議論されることになるだろう。だが、これが日本語になると、何かあった時に生徒をグループで叱責するという意味に捉える人が出てきてしまうのである。

ついでなので他の「責任」についても見てみよう。

説明責任という言葉がある。accountabilityという。もともとは「数える」だが、これは借金などの記録をしておくことを意味していた。つまり貸し借りを数えた帳簿を作っておいていざという時に説明・証明できるようにしておくことを意味している。これがビジネス全般に広がり、何かあったときに説明できるようにビジネスの詳細を記録することをaccountabilityというようになった。これも「説明系」の言葉であり、説明に失敗したら叱られるという意味ではない。また、相手の疑念に答えずに言葉遊びでごまかすことも説明責任とは言わない。問題は相手の疑念であり、その背景には相手が権力を移譲しているという前提がある。現在の安倍政権が説明責任を果たさないのは民主主義が一時的・条件付きの権限移譲であるということを理解していないからだと考えられる。

こうした契約意識の希薄さは国会議員を交えた政治議論にも多く見られる。

国民は天賦人権ばかりを強調するが国を守る義務を負うから自衛隊に入って叩きなおすべきだという意見がある。権利と義務が非対称でありその間のつながりが一切説明されていない。これは権利と義務を個人的な「貸し借り」概念に置き換えて、これだけ貸してやっているのだから借りは兵役で返すべきだというように解釈した上で、都合よく「俺に従うようになるようにお前の根性を叩き直している」という主張に利用しているからだろう。

この権利義務関係は「税金を払って恩を売っているのだから、当然あるべきサービスを受け取れる権利を持っている」という貸し借りの概念に置き換えられている。途中のプロセスが抜け落ちてしまうので、過剰な権利意識と呼ばれるのだろう。

契約概念に置き換えて「権利・義務」を厳密に使うと、「日本国民は私有財産を持つ権利があるから同時に他人の財産を尊重する義務がある」のように裏表概念として用いるべきだということになる。父兄は子弟に教育を受けさせる権利があるのでそれが行使できるように適切な努力を払うか誰かに権限を移譲して環境を整えてもらうべきだということになる。また父兄は自分たちが持っているのと同じ権利を他の子弟の父兄にも認めるべきだからお互いに協力して他人の権利を遵守する義務を負うということになる。過剰な権利意識にはつながらないし当たり前のことであり「日本人には天賦人権などおかしい」という話にはなりようがない。つまり「天賦人権などおかしい」と言っている人はそもそも権利・義務という概念をよく理解していないのだろうということになるだろう。

学校の問題は「自分たちの権利を行使するためには他人の権利を守る義務もあるということなのですよ」というだけの単純な話なのだが、権利だけを主張するわがままな人が増えたからみんなに兵役の義務を課して自衛隊にぶち込んでしまえなどということをいう人がいては却って問題は複雑化する。本来は法律について理解すべき国会議員が却って議論を混ぜかえしているという残念な状態にあるのだ。

こうした問題が起こるのは、封建的な政治意識しか持たなかった日本人が契約概念を理解しないままで英語を適当に訳してしまったことに原因の一端があるようである。

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サヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけ

このところ様々な問題をネタに「村落と普通」について考察している。これを見ていて気がついたのは日本人は一般的な理論にはあまり関心を持たないということだ。日本人が気にするのは例えば「貴乃花問題で悪いのは貴乃花なのかそれとも日馬富士なのか」という問題だったり、TOKIOの山口達也が断罪されるべきなのかそれともジャニーズ事務所が責められるべきなのかという問題だ。

この文章はサヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけというタイトルなのだが、これはサヨクが人権を理解できないという意味ではない。人権が重要だと考える人たちさえも人権が理解できないだろうという意味である。人権はそれぞれの人たちが自分たちの価値観を持ったままで活躍ができる社会を作るための道具だ。しかし日本人は人権をそのようには考えない。だからある人たちは「そもそも人権などなくしてしまえ」というのである。

確かに、社会の特殊性や一般性について考えても自分たちの生活の役には立ちそうにない。その一方でジャニーズ事務所が悪いということがわかったところでそれも全く生活に影響はしない。にもかかわらずワイドショーは犯人探しに夢中になる。このブログもこのような話題のほうが閲覧者数が多い。わざわざ検索して訪問する人までいる。

その最も顕著な例が政治問題だ。政治問題は結局のところ安倍政権がいけないのかそれとも野党がいけないのかという問題に行き着く。一方で、日本は今後どう進むべきなのかとか、どうやればお互いが意思疎通できるのかという問題に興味を持つ人はほとんどいない。

人々が犯人探しに熱中するのはどうしてだろうか。それは自分たちの住んでいる社会を「きれいな状態」に保っておきたいからだろう。汚れはどこからともなくやってくるので、いつも掃き清めなければ「全体が汚れて」病気になってしまう。誰が悪いのかということを議論した上で、時には関係者を含めて全て追放してしまうことで清潔さを保とうとしているのだろう。さらにこれが娯楽にもなっている。誰もが叩きやすい人を叩くことで気分がスッとするのである。

この文章を書くにあたって思い浮かんだビジュアルは、全員がいつも道徳・倫理テストを他の誰かに課しているという映像だあ。人々は採点に夢中になっていると言ってもよいし、採点に疲れ果てていると言っても良い。採点している間は他のことが考えられないので、問題解決などもうどうでもよくなってしまうのだろう。

こうしたやり方にはいくつも弊害がある。

今回のTOKIOの謝罪会見ごっこではこれが顕著に表れており現在進行形で事態が進んでいる。そもそも問題の発端は山口達也さんの強制わいせつだったのだが、当事者たちが出てくることはもはやない。なぜならば当事者が出た時点で「社会を騒がせた」ことが問題になり叩かれるからである。山口さんには商品価値がある上にアルコール依存の問題もあるため守られるのだが、被害者女性には商品価値はなく守ってくれる人もいないだろう。実際に犯人特定を急ぐマスコミがいるようだ。ジャニーズ事務所はスポーツ紙を通して特定はするなと言っているが、するなと言われると「ああ、何か隠しているんだな」と思うのが人情というものだ。やがて過去の行状も含めて「汚れ」が面白おかしく暴き出されるのかもしれない。日本人はこれくらい暴いて裁くのが好きなのだ。

このことを考えて行くといろいろなことがわかる。日本人が道徳を守るのは誰かに裁かれたくないからである。つまり裁かれないという特権が与えられれば「道徳を守らなくてもよい」と考えるようになるだろう。前回「体罰がなくなったら学校が無法地帯になった」と指摘する高校生の文章をご紹介した。しかし、彼女だけが特殊なのではない。官邸がこの5年間何をやってきたのかを見ればそれが世間一般に広く浸透していることがわかる。官邸は「憲法違反に当事者がおらず誰も訴えないのであれば、憲法違反をしても良い」と理解するようになった。しばりつける縄がなければ逃げ出してもよいというのは家畜と同じである。学校が無法地帯になるのはより良い空間にして協力ができる体制を作ったほうがメリットがあると誰も思わないからだろう。伝統的に楽しい学園祭があったり、自主的に勉強して進学したい人が多い学校ではこうした問題は起こりにくいのではないか。

このように「自分は管理する側なのだ」と考えてしまうと、道徳を守る気持ちが薄れてしまうようである。それどころか自分たちは道徳を押し付ける側なのだから裁かれるのは我慢ならないと考える人もいるようである。自民党は裁かれて下野した時に「自分たちは法律を作る偉い人なのになぜ裁かれるのだろう」と考えて天賦人権という現行憲法の最も大切な理念を否定しようとした。最近レスリングでも同じようなことが起きている。伊調馨選手のパワハラが政府に認定されたので、日本レスリング協会がスポーツ庁に謝罪に訪れた。当然世間は「具体的な対応を伝えるのだな」と期待する。ところが日本レスリング協会はここで「これは誤解だった」と言ってしまった。心のどこかに裁かれることに対する拒絶心があったのではないだろうか。

「(伊調選手)本人は、パワハラを受けたという思いがあったかもしれませんが、伊調選手から私が聞いていなかったといいますか。私は伊調選手と会っていないので、会いたいなと思っております。2人で話せば誤解が解けるところもあるかなと思っております」(日本レスリング協会 福田富昭 会長)

このように戦後の日本人は道徳を誰かに価値を押し付けて管理を楽にするか、他人を娯楽的に罰するための道具だと考えるようになった。その一方で暮らしやすい社会を作るために自主的に道徳を守るべきだと考える人は少ない。

保守という人たちは、既存の道徳律に照らし合わせれば自分たちは他人に道徳を押し付ける特権を持っていると勘違いしている人の集まりなのだろう。これは実際の保守思想とは違っていると思うのだが、彼らにはどうでも良いのかもしれない。対峙するサヨクの側も採点に夢中になっており、一般的な人権意識というものを抜き出してそれを世間に定着させるべきだとは思っていないのではないかと思う。彼らが考える道徳規範は「他人を管理する」という視点か、罰して社会から取り除いてしまうという視点にしか立っていない。すると「罰則から逃れることができれば道徳は無視しても良いのだ」と思ってしまう。だから日本人は普遍的な人権が理解できないのだ。

最後の問題は彼らの採点表が普通という名前で語られていても、実は自分たちの特殊な常識の塊にすぎないということである。日本は薄暗い図書館のようなところで全員が下を向いて次から次へと流れくる回答用紙を採点しているような状態だ。すべての人が自分たちが持っている答えが普通だと考えているわけだが、それを話しあう余裕はない。だから、それが本当に普遍的な正解かどうかはわからない。時々自分たちもテストに呼ばれることがあるのだが、この時に初めて「自分が持っている答案が正解なのだろうか」と考えて立ちすくんでしまうのだろう。

これはとてつもない徒労のように思われるが、それでも顔をあげることはないので採点からは逃れられないのである。

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「普通」という牢獄

このところ村落共同体とその問題について考えている。だが、いろいろな事象を見ているだけでは統一的な視点が得られない。

気候変動について調べていたところ、牧畜文化が農耕文化に流入することで「統一的な視点」が持ち込まれたというような話が見つかった。論文の引用部なのでこの「統一的な視点」が何なのかはわからない。

気候変動 と文明の盛衰というPDFファイルに次のような一節がある。

紀元前1000年 頃の地 中海地域や東 アジア地域, ヨーロッパ北部における寒冷 ・乾燥化気候(T3) は,気候難民 としての大規模な民族移動を引き起こし(鈴 木,1978,1990;安 田,1993),定住農耕共同体であった都市生活者 に遊牧民が入り交 じることによって,農耕民の呪術的・儀礼的思惟が遊牧民 の合理的・統一的思索 に変革し,思想が合理化されて,紀 元 前8世 紀から紀元前4世 紀 にかけて高度な宗教や哲学を誕生 させた ことから,心の内部,すなわち精神の改革 を「精神革命」と呼 んでい る(伊東,1990,1996)。

日本人が未だに「呪術的・儀礼的思惟」を持っているとは思わないが、人の移動が起こることで精神的な変容が引き起こされるという視点は面白い。日本に置き換えると、戦後民主主義の受容によって人権意識が持ち込まれたことが文化接触にあたるだろう。

人権意識の基礎になっているのはキリスト教なのだが、これももともと牧畜文化から生まれている。こうした文明の変容は段階的に何回か進んだということがいえるのかもしれない。この精神革命は伊東俊太郎という人の本の引用のようだが次のようなウェブサイトが見つかった。

伊東俊太郎氏は、このときに人類の精神史が始まったとします。その内容を『比較文明 1』(比較文明学会誌 1985年 p12)のなかで次のように整理されています。

  • (人類が)それ以前の神話的世界を克服して合理的思索に徹し
  • 日常的個別的なものを超えた普遍的なものを志向し(ギリシャのイデア、インドのダルマ、中国の道(タオ)など)
  • そうした究極的原理からこの世界全体を統一的に把握し
  • そこにおいて人間の生き方を見定めようとする

これまで人権意識や合理的なルール作りを拒絶する日本的な村落意識を日本固有のものとみなしていたのだが、文明の中で起こりうる変容の過程の一つだと考えるとわかりやすい。ただ、伊東さんが指摘するように、合理的な考え方が抵抗なく受け入れられたのかということはよくわからない。

そうなると、背景の統一的な視点を受け入れない人たちがどのような考え方を持つのかということが気になる。日本人は普段の生活の中で政治について語ることはないのでよくわからない。

そんな中でQuoraで面白い質問を見つけた。「私はJKです」と自称する人が次のような質問をしている。犯罪者を特定する遺伝子があるのだとすれば該当者をあらかじめ罰してしまえば良いのではないかというのである。ある回答者が「かつてあったこのような考え方はすでに否定されている」という論を書いておりそれに付け足すことはあまりなさそうだ。だが、彼女(と自称している人)はなぜこのように思うようになったのだろうか。

この質問には「健全な社会」という揺るぎのない前提があり、犯罪という穢れを取り除かない限り安心して暮らせないという思い込みにつながっている。そしてそれが「犯罪に対する答えは刑罰と排斥である」という観念に結びついている。つまり普通でない穢れはウィルスのように罰せられた上に取り除かれなければ全体が病気になると考えているようだ。

彼女が持っている世界観では、異物を取り除いてしまえば再び穢れはなくなり普通の状態が戻ってくることになっている。これを非合理的だとか人権意識を理解していないと非難することはできるのだが、こうした呪術的な考え方を持っている人は実は少なくないかもしれない。

この呪術的な考え方には問題がある。人間はそもそもいい面も悪い面も持っているのだから問題が起こるたびに取り除いてしまうとそもそもの健全な我々という存在が削れてなくなってしまう。さらに、健全だった人がなんらかの形でそうではない状態に置かれた時に救済がなくなってしまう。普通でなくなったということを披瀝してしまうと「切り取られてしまう可能性がある」からである。

例えば「レイプされた女性は普通でなくなったのだから社会から切り離されても構わない」と考えるのも「普通でない患部は切り離してしまえ」ということだし「レイプされた女性がそれを言い出せない」というのは自分はもう普通でないのだから何を言われても構わないということになる。何の落ち度もないが「普通でない状態になったのだから、自分にも落ち度があったのではないか」と考えてしまうのだ。これをいじめに置き換えても同じようなことが言える。いじめられた人は普通ではないのだから切り取ってしまえという人もいるだろうし、いじめられたのは自分に落ち度があるからだと考える当事者もいる。

この健全な状態を日本では「普通」と呼んでいる。日本人は普通にしていれば問題は起こらないと考えるのだ。

この普通でない人を切り離してしまえという問題意識の向こうには普通でなくなった人は罰しても良いという了解があるようだ。特別支援学級で育った子の知られざる本音という記事には特別支援学級で育った子供が普通学級の子供からいじめられたという話が出てくる。

「たとえば、小2の男の子3人組から『特別支援学級のくせに、廊下歩いてんじゃねえや、気持ち悪い』と言われたり。図書室に行ったら、年上の小5の女の子に『気持ち悪っ』とか言われたこともありましたね。やっぱり、けっこうグサッとは来ました。もちろん、普通学級の誰もがいつも、いやな態度をとるわけじゃないんですけれど。でも、普通クラスの子の嫌な面は、たくさん見てきました」

このような意識が生まれるのは普通学級での学習を効率的に進めるために特殊な子供を切り離すという了解が先生と生徒の間にあるからだろう。

さらに学校は規範意識を失いつつあるようだ。体罰がなくなった学校で却っていじめが増えているが体罰を禁止された先生たちはもう何もしてくれないと訴える記事を見つけた。最後の文章はどきりとさせられる。この抑止力というのは先生の暴力(体罰)のことだが、これを核兵器に置き換えると現在の日本が置かれている自衛隊と核兵器の議論にそっくりである。

抑止力をなくした結果、ただの無法地帯になった。それは今学校で起きていることですが、日本全体、いや世界中に広がるのも時間の問題ではないでしょうか。先代たちの多大な努力によって私たちの健やかな生活は壊されました。

どうしてこうなってしまったのかはわからない。民主主義を知っている人から見ると、脅かされることによってしか法を守れないのであればそれは奴隷と同じような精神状態に思える。日本の学生たちは「社会を統一的に捉える規範がない」という社会を生きているといえる。そうなると「普通に止まって普通の人たちを排斥する」ことで求心力を保つか、暴力を使って全体を抑止するべきだというのが実感を伴った政治的意見担ってしまうのだということになる。

この考え方に基づくと、多数決によって作られる民主主義社会は誰から脅かされなければ無法地帯になるということになってしまうので、アメリカの軍隊を駐留させて日本を押さえつけなければ何をしでかすかわからないということになる。

これまでの村落の議論では、日本は村落から民主主義的な人権社会への移行に失敗したので、また村落に戻るという選択肢もあるというような議論を展開していた。これがいかに現実を知らない議論だったのかということがわかる。実際には戻れる村落はもうないのかもしれない。

中高年に属する人がこのように考えることができるのは、忖度的な共同体を具体的にイメージできるからである。先生はある程度尊敬されており、終身雇用についても具体的なイメージを持っている。¥

しかし日本人は背後にある統一理論を理解しないままで制度だけを取り入れてきてしまったために村落社会にも戻れず、かといってこれ以上民主主義と人権を基とする社会改革も受け入れられないというところにきているのかもしれない。

高校生や大学生はその最前線にいる。そこで「普通じゃない人は排斥しても構わない」とか「最後の望みは先生の暴力なのだ」などと思うことになる。こうした考え方は自民党の議員から披瀝される忌まわしい人権否定の意見とそっくりだ。もちろん選択的に記事を追っているのでこのような悪い記事ばかりが目についているのだが、こうした一連の「実感」を集めるうちに、事態は我々が考える以上に悪化しているのかもしれないと思った。

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福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

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なぜ福田事務次官に女性記者をあてがってはいけないのか

お天気もよくなってきたので、Twitterをみながらファッションの記事でも書こうかと思って準備を進めてきた。こういう時はニュースもあまり見ないのだが、Twitterを眺めていると、福田事務次官が非難されるべきだとかテレビ朝日が悪いとかいうくだらない書き込みが散見される。江川紹子さんですらネトウヨのくだらない書き込みに反応していてちょっとくらい気持ちになった。

この人たちにははっきりと書かないと伝わらないんだなと思った。テレビ朝日が福田事務次官の性癖を知りながら女性記者を送っていたことには問題がある。だがそれは女性差別とはあまり関係がない。上司も女性だったという話もあるのだが、仮にそうだったとしたらこの上司も軽率だったし、上司が女性であるということも実はそれほど本質的ではない。

ではなぜ悪いのか。民主主義の根幹に関わる問題があるからだ。そしてそれがほとんど日本では理解されていないのである。

全く別の例をあげて説明したい。あなたは中小の企業に勤めている課長だ。企業のウェブを作成するのが主な仕事だが定期的な仕事も欲しいので大手広告代理店に営業マンを送っている。大手広告代理店には野心的でやり手の営業マンを送るのがよさそうだ。彼は昼夜を問わず熱心に仕事をして「代理店に大変かわいがられるように」なる。

これは喜ばしいことだろうか。

そのうち彼は「今度コンペがある。うちの体力には合わないがぜひ参加したい」と言い出す。さらに、今回は格安で仕事を受けてくれと言われたと言い出す。次にでかい仕事があるからその時に挽回できると約束してくれているなどともいう。あなたはマネージャーとしてこれを判断しなければならない。

だが、この人は十中八九大手広告代理店に取り込まれている。大きな会社に出入りして通行パスなどをもらうと「その会社の一員」になったような気がしてしまう。そこで所属企業にとって不利な提案などをするようになるのである。

もちろん「彼が取り込まれている」というのは疑惑でしかない。なぜならば、彼の提案はそれなりに理屈が通っているからだ。代理店の仕事は無くしたくないが担当を変えれば仕事がなくなるかもしれない。彼のパイプで取れている仕事も多いだろう。だが、広告代理店の言いなりになれば、リソースだけを浪費されることになるかもしれない。

彼が取り込まれているかを確かめるすべはない。彼はプライベートでも代理店と仲が良い。さらに代理店も騙すつもりでやっているわけではないかもしれない。代理店には代理店の事情がある。中で競争を抱えているので少しでも有利な条件で働いてくれるハウスを抱えておく必要があり、営業マンを「かわいがる」のである。彼らにも悪気はなく、今回だけのつもりかもしれないが、一度「美味しい思い」をしてしまえば次も頼りたくなる。そういうものなのだ。

ここで営業マンが男性か女性かというのは大した問題ではない。しかし、もし仮に女性を一人で担当としてつけていたとしたらどうだろうか。しかもその人は大変女癖が悪いということが知られている。多分「何か問題があった時」にはあなたは糾弾される。そしてあなたが男性か女性かということはそれほど問題にならないだろう。

これが問題なのはどうしてか。それは営業マンが代理人だからである。代理人とは、ある種の権限を与えて任せている人のことを指す。もし彼が企業の代表者であれば経営者としての「ソロバン」が働くだろうから、搾取されるだけになる仕事は受けないだろう。もし仮に癒着したとしてもそれはそれで仕方がない。会社が潰れても自己責任である。

同じことが国レベルでも言える。安倍首相はトランプ大統領と大変仲良くなってゴルフのラウンドを回る。トランプ大統領は「嫌なことを言わず」「忠実にゴルフに従ってくれる」し「ゴルフ場の宣伝にもなる」のでこの首相を大変気に入っているようだ。日本国民も「アメリカの大統領と近しい関係になれば優遇してもらえるかも」と期待している。だが安倍首相は利用されるだけなのでトランプ大統領は重要なことは安倍首相には相談しなくなるだろう。トランプ大統領はお金持ちなので彼のお金に群がってくる人をたくさん「いなして」いる。安倍首相はそのうちの一人に過ぎない。

もし安倍首相が日本の独裁者の家系に生まれたのならそれでも問題はない。体制に関わるようなディールには応じないだろうし、彼の国なのだからそれは彼が決められる問題である。だが彼は選挙で約束してその地位にあるに過ぎない。もし気分を良くして「自分はアメリカから日本の統治を任されているのだ」などと誤認したらどうだろう。ゴルフの間には政府高官も入らないので記録も残らない。だから、あとでチェックをすることもできない。

では日本人がこれを怖いと思わないのは何故なのだろうか。それは終身雇用のもとで「この人はずっとうちの人間だから裏切ることはないだろう」と思っているからだ。冒頭のウェブハウスの例が怖いのは新しい産業には転職があり、営業マンが相手の会社や別の会社にアカウントごと移ってしまう可能性があるからである。また代理店側にも有期雇用の社員がおり競争のために過度のダンピングを強要する場合がある。村落的な制御装置が働きにくいのだ。

これを定式化すると次のようになる。日本は村落から家業が生まれた。いったんは企業という契約・委託関係の集団を作ったがうまくゆかず、そのうちに擬似家族的に忠誠心を保証するような企業形態が生まれる。終身雇用は従業員からみた安全保障でもあるか、企業もまた従業員の忠誠を買っている。雇用関係が結べない場合には系列店を作って「公私ともに」世話をするようになった。こうした固定的な環境では村落的な慣行はそれほど害悪になることはない。しかし、近年では雇用が流動化してきており「契約」に基づいた権限の移譲が行われるようになってきた。

中高年を中心に「その会社の所属員は絶対に企業を裏切らないだろう」と思っている人は多い。なぜならば契約型の社会を知らないからだ。契約型社会では人は裏切る可能性がある。政治の世界でも同じようなことが起きている。安倍首相は日本人だから日本を裏切るはずはないと思っているのだが、それは自民党が政権を手放す可能性がなかったからだろう。現在では政権交代が起こり得る。これが裏切りの温床になるのだ。

それでも慣行を疑いの目で見ることは難しい。例えば安倍首相が金正恩と仲が良く一緒にスキーをする仲だったら何が起きているかを考えてみると良い。突然、安倍首相が「拉致問題は解決済みだ」と宣言し、北朝鮮と友好条約を結んで巨額のお詫び金を支払うことになったと発表したら国民は大反発するだろう。だが「個人の親密な関係をもとにした検証不可能な提案」という意味では、実は現在の日米関係とさほど変わりはない。違うのは文脈だけである。アメリカは良い国で北朝鮮は悪い国とされているのだが、誰がそれを保証してくれるというのだろうか。

さらにトランプ大統領が習近平主席と個人的に親密であり一対一で会合を重ねていたとしたらどうだろうか。多分トランプ大統領は中国との親密な関係が疑われて「アメリカに不利なことを約束しているのではないか」と思われるに違いない。日本も当然そう思うだろう。

さて、ここで改めてテレビ朝日の問題を見てみよう。女性記者が福田事務次官と緊密な関係を持ちスクープを連発してくるようになる。普段から性癖に問題があるとされている人だが明確な証拠はない。二つの疑惑が生まれる。一つは親密な関係を保つために福田事務次官が国の情報を売り渡しているというもので、もう一つはテレビ朝日の女性記者が世論誘導のためにリークを利用しているというものだ。おそらくは両方が疑われるだろう。

実際にこうしたことは起きている。NHKの岩田解説員は何かにつけ安倍政権擁護の極端な論を展開するという疑惑が持たれているが確証はない。ここで「時々親密に寿司を食べているらしい」という話が流れてくる。視聴者は岩田さんのいうことをどれくらい信用すべきだろうか。もしかしたら公平な人かもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは岩田さんは公平なつもりでも客観的に自分の立ち位置を見られなくなっている可能性もある。なんら保証はない。

もし仮にそれが田崎史郎さん(食事もしているしお金も渡っているのではないかという噂がある)の場合どうだろうか。田崎さんが菅官房長官と恋愛関係にあるとは思えないが、個人的な親密さが情報の信憑性を損ないかねないという意味では同じことが起きている。田崎さんに違和感がないのはテレビ局がそれをわかって代理人として使っているからなのだが果たしてそれは国民の知る権利にとってはいいことなのだろうか。

それでも「日本は昔からそうだった」という人もいるかもしれない。目を覚ませと言いたい。私たちは検証不可能な親密さが一年以上に渡って国会審議を空転させてきた状態を見ている。安倍首相は加計学園の理事長と旧知の関係だった。プロセス上は問題がなかったようだし、公式の記録からは安倍首相が直接的に関わったという証拠も出ていない。国会で追求しても確たる証拠は出てこないし、出てきたとしても最終的に追い詰めることはできない。でも多分何か不公正なことは行われているだろう。でなければ官僚が総出で嘘をついたり、あとから資料が<発見>されることなどありえない。

モリカケ問題も不透明な外交もセクハラ問題も全てつながっている。これは偶然でもでっち上げでもなく、私たちの民主主義が多分に固定的な関係に基づく村落的な面影を残しているからである。

プライベートな領域に踏み込んでしまうと後で検証ができなくなるので公私は分けなければならない。それは民主主義のプロセス全般に言える。つまり、テレビ朝日の件は「報道機関がプライベートで仲良くなって情報を取ろうとした」こと自体に問題がある。そしてそれが問題なのは権限を委託されている人どうしが第三者に対して検証不可能なことをやってはいけないからだ。

そして、それは終身雇用が崩壊しつつあるビジネス社会にも当てはまることであって、女性だからどうだといった類の話ではないのである。

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女性記者が福田事務次官を告発したことの本当の意味、とは何か

福田事務次官が辞任したが、まだこの問題は収まっていないらしく「テレビ朝日けしからん」というような話になりつつある。ネトウヨの人たちが朝日を嫌っているのはわかっているのでまあいいとして、リベラルの人たちも好意的な見方はしていないようだ。

昨日のエントリーではテレビ朝日けしからんというような書き方をしたのに態度を変えるのかといわれそうなのだが、みんなが朝日系列叩きを始めると、価値判断なしにこの女性記者の是非を考えたくなった。へそ曲がりと言われればそれだけなのだが、価値判断なしに何かを考えるのは実は難しい。

しばらく考えていたのだがよくわからない。そもそも、なぜわからないのだろうかと考えた。普通の企業であれば記者の稼働時間というのはコストなので情報を得るコストと価値を天秤にかければよい。だがそれができない。理由はいくつかある。

第一の理由はどこのテレビ局も同じような情報を流しており情報に価値がないからだ。極論すると政府広報と民放一局で良いのではないかと思える。あとは週刊誌が二誌あれば良い。競争が働くのでそれなりのスクープ合戦が起こるだろう。

また人件費の問題に落とし込むのも難しそうだ。日本の記者というのはオフィシャルの情報をとってくるだけではダメで私生活に食い込んで「本音の話を聞く」のが良いとされているらしい。このブログでは普段から非公式な意思決定ルートが民主主義にとって害悪であるという論を採用しているので、まあこの線でアプローチしてみても良いのかなと思った。だが、実際には「みんながやっている」ことを一社だけ降りるのは難しそうだ。

福田財務事務次官というのは、女性記者が私生活を切り売りして情報をとる価値がある相手なのかと考えた。仲良くなって取れる情報というのは「いずれは公になる情報を他社より少し早く知ることができる」か「財務省が流したい情報をオフレコと称して流す」という二つが考えられる。もしこれが株価に関係するような内容であればいち早く情報を取ってくるのは重要だろうが、そんな情報を軽々しく流すとは思えないので、結局は情報機関の自己満足か財務省のために使われるということになる。だからこの一連の取材活動は無駄だと言える。

だが、そもそも記者が私生活を切り売りしていることが報道社のコストであるなどという論調はどこにもない。これはなぜかと考えてみた。第一に記者たちが仕事時間と私生活を切り離していないという事情があるだろう。つまり「私生活に切り込んでなんぼ」と記者を<洗脳>することで報道社はブラックな職場環境を作っていることになる。ブラックでも記者というのは特権的でやりがいがある仕事とされているので「女性だから使えない」とは思われたくないのだろう。

ではなぜ報道社の記者というのは特別なのだろうか。それは報道社が特別だからだ。ではなぜ報道社は特権的な地位が得られるのか。それは記者クラブがあるからである。女性記者はフリーになるかネットメディアの記者になるという選択肢があったはずだが、いずれも記者クラブから排除されるので取材活動そのものができなくなる可能性が高い。皮肉なことに今回のテレビ朝日の深夜会見でもネットメディアは排除されていたらしい。

記者クラブが特権的な地位を得ることで、労働者である記者は隷属的な地位に置かれるのだが、それ以上の問題がある。国民は新しい視点からの情報を得ることはできないのだ。すると、財務省は「特権的な地位」の許認可権限を握っていることになる。これが報道社から便宜供与を受ける理由になる。

それなりにメディア倫理が働いていると指摘する人もいるのだろうが、普段から行状に問題がある人のセクハラすら告発できない会社が、財務省に都合が悪い情報を流せるはずはない。当然、女性記者の上司のように何かの理由をつけて自粛するはずだ。そしてそれは国民の知る権利を阻害しているということになる。

結局「記者クラブが悪い」ということになった。期せずしてわかったのはこれが単に女性や労働者の人権問題であるだけでなく、国民の知る権利に関わっているということだ。福田事務次官の「名乗り出ることもできないだろう」という強気の裏には「国民の知る権利などというのは高級官僚の胸先三寸で決まるのだ」という確証があったのではないかと思う。「報道各社も独占的に情報を得ることでおいしい思いをしてきたでしょ」ということだ。

そう考えるとこの女性記者が発したメッセージの意味は実は我々が考えているよりもっと重いものなのかもしれない。女性記者が守られるためには「テレビ朝日の配慮を」というような声があるのだが、多分テレビ朝日はあてにならない。当座は女性ジャーナリストが連携して彼女を守る必要があるのだろうが、実はフリーの記者を含めた人たちが連携して彼女を守らなければならないのではないかと思える。これは独占的に情報を占有している報道者と官僚機構の共犯意識から生まれたハラスメントだからだ。

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福田事務次官辞任騒ぎにみる女性差別の恐ろしさ

先日財務省の福田事務次官について書いた。だが、ネットを見ているとそれでも名乗りでなければならないというような論調がある。例えばこの記事は「名のり出なければ福田事務次官の不戦勝になる」と言っている。真実を明らかにするためには名のり出なければならないと言っているのだが、実際にはそうはならなかった。

この記事の前提には「真実は明らかにならなければならない」という前提がある。これが間違っていると思いその筋で一本書こうと思っていた。現在の民主主義にとって「真実」などどうでもいいことだからだ。安倍政権は明らかにクロなのだが、それを認めないことで「まあ、仕方がないか」というような印象操作をしてきた。この背景には有権者の諦めがある。政権交代をしても政治は良くならなかった。だったらもう諦めてしまえという思いが強いのではないかと思う。だが、それは諸刃の刃だった。有権者が体感からこれは「クロだな」と思ってしまうと合理的な説明はきかなくなる。福田さんの件はこの最初の事例になった。政権が動かない分個人に矛先が向かうのである。「やめさせてどうなるの」と思うのだが、そんなことはもうどうでも良いと思われてしまうのだ。

女性は普段からなんとなく「自分たちは不遇な立場に置かれている」という気持ちを持っている。だが、それはなんらかの理由で証明されない。これを「ガラスの天井」などと言っている。今回はそれがたまたま「明らかに嘘つきの政権」と結びついたことで「ああ、やっぱり男社会は女を差別して嘘をついているのだ」という確証に変わってしまった。福田事務次官が何をやったかというよりも、男性社会がそれを総出でかばっているということが問題視されるのである。

もう一つ安倍政権にとって不利な状況がある。官邸側は福田事務次官の辞任に動いたのだが、安倍首相の部下であるはずの麻生財務大臣が応じなかったという。任命は内閣人事局マターのはずなのだが、これまで人事に関する問題は各省庁に答弁を丸投げしていた。これを逆手にとられて「やめさせられない」と言われてしまうと官邸は何もできなくなってしまうということがわかった。もう安倍首相にかつての求心力はない。

ただ、この問題は実はここまででは終わらなさそうだ。テレビ朝日に飛び火したのだ。テレビ朝日の女性記者が会社に訴えたものの受け入れられず、やむなく週刊誌に流したという。さらに何もしなかったことに申しひらきができないと思ったのかあとになって会社側は「財務省に抗議する」と言っている。だが、それは福田事務次官がやめてしまったあとだった。テレビ朝日の動きが辞任につながったという批判を恐れたのだろう。

このことから女性の置かれているダブルバインドが可視化された。表向きは平等ということになっているが、実際のメッセージは男性並みになることを求められる。それは女性であることを捨てて男性性を帯びるということである。男性並みに家庭を顧みずに働くことを求められ、女性を蔑視して「言葉遊びを楽しむ」特権を許容するように振る舞わなければならない。さらに母性は弱さだと認識されると子供を作ることを諦めなければならない。しかし、場合によっては女性として男性の玩具になることも求められ、それを会社に訴えても「我慢しろ」と言われる。会社にとって「女性のような弱いもの」が政治記者というスーパーサラリーマンであることは許容されないからだ。明らかに根拠のないエリート意識を持っていて女性蔑視を特権だと認識する社会が間違っているのだが、それを是認しろと迫られるのである。この状態でアイデンティティクライシスに陥らない人がいるとしたら、その人は多分すでに少しおかしくなっているはずだ。

どうやら女性記者は複数回福田次官からセクハラを受けていたようだ。しかしテレビ朝日はそれを公表せず、事態が動いたことから慌てて深夜に記者会見を行った。上司に相談したというが上司が組織的に対応したのかは明らかにしていない。多分受け皿そのものがないのではない上に、男女平等が何を意味するのかを教育する仕組みもなかったのではないだろうか。

福田さんは週刊誌と女性を訴えれば良いと思う。彼の行状が司法の場で明らかになり、テレビ朝日が組織的な対応をしなかったことは社会的に明らかにされるべきだろう。そしてそれは社会的に非難されるべきだ。しかし、実際にやるべきことは少なくとも表向きではあったとしても「男女平等」というものが「女性の男性化」でも「男と一緒になって女性蔑視のある状況で働くこと」でもないということを教える学習の機会を従業員に与えることである。

民法労連は「女性が現場から切り離されることがあってはならない」と恐れているようだが、このような嫌がらせを前提にしか情報が取れないなら、その報道自体をやめるべきではないかと思う。取れたとしてもせいぜいインサイダー情報程度で大勢には影響のない永田町と霞ヶ関の内部事情にすぎないからである。いずれにしてもこの声明も「女性が社会で働くこと」についてあまり整理がなされていないことを意味しているように思える。

いずれにせよテレビ朝日はこの状況を被害者ではなく加害者として総括すべきだろう。

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