日本人と社会 – ブロック塀について思うこと

ブロック塀が倒れて女児がなくなってからしばらく経った。深刻な事故であり心を痛めた人も多かったのではないか。こういうことが二度とあってはならないと調査に取り組む自治体もある。ところが自治体が大きくなるとこうした責任感は薄れてしまう。誰かがやってくれると思うのかもしれないし、余計なことをして仕事を押し付けられる人になってはいけないという危機感もあるのかもしれない。人口が300万人を超える横浜市のある父兄からはブロック塀のチェックをPTAに丸投げされたというツイートがあった。高槻市の場合は危険が認知されていたのに専門家でない人がチェックをして死者が出たのでこれは問題が大きそうだ。

このツイートの真偽はわからないがありそうな話であり、日本人が協力できない理由がわかってくる。日本人は協力が苦手だ。

横浜市がPTAに協力を求めることに問題はない。人手が足りないのなら誰かに頼むべきだし、父兄はこのさいに通学路を再点検しておくといいかもしれない。地域の学校は避難場所にもなっているのだから自分たちが逃げる時にも役に立つ情報だからである。地域の問題なのでお互いに協力し合えば良いのである。だが、PTAはそうは思わない。「PTAに命令を下している」と考えるであろう。ではなぜそう考えるのか。

もし、PTAと教育委員会や横浜市が協力関係にあるならば、PTAが自発的に行った調査に関して「ここを直しましたよ」という事後報告があるはずだ。PTAとしても地域の問題に関わったのだから、自分のインプットがどう役に立ったかが知りたいはずである。人は誰でも自分は役に立ったと思いたい。だが市役所はPTAに事後報告するのを嫌うのではないか。それは報告することによって「なぜここを変えないんだ」というクレームに発展することを恐れているからではないだろうか。

横浜市はPTAを下請けのように考えているだが、形を変えるとPTAは住民・有権者としてお客さんの立場になる。千葉市役所も市民のことを「お客さん」と呼ぶように指導されているようである。納税者なのだから大切に扱うという意思表明なのかもしれないが、実際にはカスタマーとしてクレームを入れてくる迷惑な存在であるというような含みが生まれる。

日本人はミューチュアルな(相互的な)関係を持つことができず、命令する人とされる人という関係性を常に意識しりようになる。だからお互いに関わるのをやめようと思ってしまうのだ。

本来ならば、PTAのみならず地域住民と市町村は協力すべきである。だが、そうはならない。もともと日本人は自分とは違った人たちを潜在的な対立者として捉えて協力してこなかった。いったん協力する関係が生じると上限関係が生まれる。このため日本人は関係性が生まれるところではどこでもマウンティングをして、どちらが優位なのか白黒させたがる。

Twitterもまたこのマウンティングの舞台になっている。ネトウヨ系の議員がめちゃくちゃなことを言って安倍政権の擁護をしたがるのも「私はルールを決める側の人間なので、たとえめちゃくちゃであっても絶対にあなたたちには従わない」というメッセージになっている。麻生財務大臣はこれが芸になっていて記者たち相手に一人マウンティングをやっている。麻生財務大臣が滑稽なのはこれが誰にも相手にされないからである。

最近Quoraで地域で問題を解決するために様々な専門家を集めて作業するのは極めて難しいという観測を漏らす人もいる。地域振興のための議論の場では誰も異業種間のコミュニケーションを取ろうとはしないという話を聞いた。型通りに意見を集めて総花的なレポートを上げて終わりになることがあるそうである。

この人には「問題解決が複雑化する現代では、自治体であってもビジネスマンのようにいろいろな意見の人を聞いてプロジェクトマネジメントをする指揮者のような役割が必要だ」というようなことを書いて送ったのだが、あまり満足してもらえなかったのではないかと思う。そんな概念的なことを言われても自分一人で組織文化を変えることはできないので「もっと具体的で即効性のある提案」が欲しいと考えるのではないだろうか。すべての地域が即効性を求めた結果、地域振興はプレゼンテーションの技術を競うコンペになっている。中央官庁に受けが良いパワーポイントが「優勝」するのだ。

本来ならば、専門家がチェックリストを作った上でPTAや地域に協力を仰ぎ、PTAや地域住民がチェック結果を市町村に伝えればよい。市町村は上がってきたリストをどうチェックしたのかということを公開して協力してくれた人たちに公開すればみんなが満足できるだろう。もし仮に予算が足りないなら市議会議員を交えてミーティングすればよい。だが、和を以て尊しをモットーとするはずの日本人にはそれができないのである。

そこで市役所は言い訳に走ることになる。

千葉市もマニュアルのようなものを市役所のウェブサイトに掲載しているが、規定を丸ごと書いて「これで勝手に確認しろ」と言わんばかりの態度である。ブロック塀が倒れる写真が掲載されていることからこの問題がすでに周知されていたことがわかるのだが、死者がでているにもかかわらずこれを変えようとする人はいない。千葉市は全国の政令指定都市の中で地震の危険性が一番高いと言われている。それでもこの程度の認識である。

埼玉県は学校を緊急点検したところ1/4の学校で建築基準法違反の疑いが出たと発表したそうだ。彼らが考えるのは危険を減らすことではなく自分の身の安全を守ることのようでこのように弁解している。

県教委は、定期検査で不適合の可能性を把握していたにもかかわらず対策を取っていない学校があったことについて「著しく危ない部分を優先して修繕していた」と説明した。

このように公共心が全くない日本人だが、こと憲法になるとやたらに公共について語りたがる。マウンティングに利用するためである。日本国憲法によると国会議員や政府は主権者に奉仕するのが仕事である。だが、政権にいるうちに「それでは面白くない」とか「誰かを従わせてみたい」と思い始めるのだろう。

例えば、佐藤正久外務副大臣は一部では「人権人権とバカじゃないか、もっと大きなものを護るために命を捨てろ!」と言ったとされている。現在このビデオはチャンネル桜の申し立てにより削除されており、本当にこのような発言があったかどうかは確かめられない。礒崎陽輔議員は日本国憲法は国が国民に規範を示す訓示的憲法にしなければならないとTwitterで発言したことがある。このように折々にこうした発言を観測気球のようにあげて徐々に陣地を広げてゆくのが彼らのやり方なのだろう。

常に「誰が偉いのか教えてやろう」という気持ちが強いために民主主義の規範を踏み外す人が後を絶たない。だから、有権者の監視が欠かせないのである。多分こうした不心得な人たちはいなくならないのではにだろうか。

そのためには監視する側が常に規範意識を持ちかつ毅然と行動し発言する必要がある。確かに乱暴な声は届きやすいが隠れた反発者を生むだろう。個人的な記憶を呼び覚ましてみても高校の社会科の先生の中に現実を見ないで夢のようなことばかりを訴える現代社会の先生がいた。もしかしたら日教組的な影響を受けていたのかもしれない。最初は物珍しさもあり話を聞いたりするのだが、そのうちに「ああ、また何か言っているよ」としか思わなくなった。このようなことを避けるためにも、どう見られているのかを意識し、課題を勉強した上で発言したほうが良さそうである。ましてやマウンティングに参加してしまうと「この人もえらく見られたいだけなのか」と思われて終わりになるだろう。

Google Recommendation Advertisement



そのツイートが次世代のテロリストを生み出す

先日来リベラルとポピュリズムについて見ている。民主主義に疲れた人が増えるとポピュリズムの危険性が上がる。いっけんすると保守的な人たちのほうがポピュリズムに近そうなのだが、実際にはそうとは限らない。社会主義を支持するあまり教育のない庶民層や社会正義を実現したいと願う人たちの方がポピュリズムに感化されやすいこともある。今回はこうしたアンチネトウヨムーブメントが全く予測もできない次世代のテロリストを生みかねない状況について考察する。

この現象について考える時、日本の状況だけを見ていると却って全体像が見えなくなる。Twitterで日本語と英語のアカウントをフォローするとほとんど相似形のような現象が見られることがある。お互いにシンクロしているのではとすら思えるほど似ているのだ。トランプ大統領は銃規制や不法移民政策で詭弁と嘘を繰り返しており、これについて感情的な憤りを発信する人たちがいる。同じように日本では女性の人権問題や労働法関係で詭弁が繰り返されており、同じように「多少手荒な手法と取ってでも」などと言い出す人が出てきた。ネトウヨを口汚く罵ってTwitterのアカウントを一時凍結される人も出ている。

日米はまだ「ましな」状態にある。実際に独裁制に移行しつつある国も出てきているからだ。ブラジルでは「民衆に近い」とされた人が汚職で軒並みいなくなると代わりに「ブラジルのトランプ」という人が出てきた。トルコではヨーロッパの一部になるという望みがなくなると反動的なイスラム回帰の動きがある。メキシコでも左派政権が登場し「公共事業を見直す」などと言っている。全体として民主主義疲れが出てきており、日本とアメリカもその延長線上で「民主主義が荒れている」のである。

日本が直ちに独裁に走るとは思えないのだが、最近気になる動きがある。実名質問サイトQuoraを見ていると「野党が生産的な質問をしないのはなぜか」とか「民族の誇りは何か」といったような質問が見られるようになった。これらは実名でどれも知的探求としては真摯だが、政治的常識の欠落を感じさせる。だがこれについて理路整然と民主主義の基本を語れるような人はそれほど多くない。試しになぜ天賦人権が大切なのかを自分を説得するつもりで書いてみると良いと思う。意外と他人に説明できない。

こうした人たちの代表がRAD WIMPSの野田洋次郎だろう。(RADWIMPSの愛国ソング 日本語論より動機考察を 中島岳志)日米の間で「どちらにも居場所がない」と感じた人が日本について考察してもモデルになるものがなく、ネトウヨ的言論に感化されて幻想の日本を作り出してしまう過程を論評している。

「HINOMARU」には「ひと時とて忘れやしない 帰るべきあなたのことを」という歌詞がある。「あなた」は、いまここにはない「幻影の日本」だ。そして、繰り返し使われる「御霊」という言葉。彼は、スピリチュアルな次元で永遠の日本と繋(つな)がろうとする。

よく無敵の人(社会的なつながりがないので失うものがないひと)がテロリストの温床になるのではなどと指摘されるのだが、実際には仕事も名声もある人であってもかなり危険な状態に陥る可能性があることがわかる。

現代の日本保守には歴史的な裏づけがない。もともと日本しか誇るべきものが見つけられない人たちが様々な理論を寄せ集めているに過ぎないと言える。中には共産主義や反安保ムーブメントからの転向者なども含まれている。遡れるとしてもせいぜい小林よしのりさん程度ではないだろうか。だがこの保守の支持者たちは、社会生活への影響を恐れている。だから社会にはそれほど害悪がない。だが、この議論を見ている人たちは「統一的な保守の理論を知らないのは自分たちがまだ知らされていないからなのではないか」と感じているのかもしれないと思う。理論がない分だけ野田さんのように「本当は何かあるはずなのだ」と思うかもしれないのである。

前回はリベラルの人が臆病なネトウヨに対峙しているうちに闘争心をエスカレートしてゆく様子を見たのだが、まだ埋もれている人たちも潜在的な危険因子に成長してゆく可能性があると思う。むしろこちらの方が危険性は高いかもしれない。

これを防ぐためには私たちの社会は何をすべきなのだろうか。

同じようなことが1990年代にも起きた。それがオウム真理教などの新興宗教ブームである。当時の新興宗教ブームでは、全く根拠がなく伝統もなさそうなエセ宗教に十分に理知的な大学生が惹きつけられていった。宗教というのはある種はしかのようなものなので一度接触しておけば免疫ができる。信じたければ信じてもよいしなくても別に困らない。が、社会との接触を絶ってまで個人に傾倒するのはとても危険である。オウム真理教の場合は東大を出たような人たちが最終的には集団殺人にコミットするまでエスカレートし、テロリストと認定されて止まった。

彼らにちょっとした宗教体験があればここまで極端な道に走ることはなかっただろう。宗教体験と言っても神秘体験をする必要はなく例えば神社のお祭りでお神輿を担ぐなどで十分なのである。神社の運営にはそれなりの社会性があるので、個人への絶対的な帰依を求めるようなものが宗教ではなく詐欺の一種であるということは容易に理解できたはずである。

日本の場合、学級委員会の運営もやったことがないような人が、いきなり国家というとても大きな枠組みに魅せられてしまう。これは宗教体験がなかった人がいきなりカリスマ的な詐欺師に魅入られるのとほとんど違いはない。国家論について興味がある人に「地域の政治を見てみたら」などというとたいていつまらなさそうな顔をする。やはり学級の組織運営や地域政治が国政の延長になっているということを学校で教えた方が良いとは思うのだが、現状の教育制度ではなかなか難しいのかもしれない。

だが、現在の「ネトウヨ化」はこうした次世代の過激思想の元になっている。

このことから、アンチネトウヨ運動が社会的規範意識を持った上でことに当たらなければならないということがわかる。手荒なことをしてもよいなどと言ってみたり、口汚い言葉でネトウヨを嘲るような行為はそれ自体が次世代のテロリストを育てていると言って良いだろう。アンチネトウヨの運動はいろいろな人に見られている。そのツイートボタンを押す前に「自分が良い教師になっているか」をもう一度考えるべきだろう。

Google Recommendation Advertisement



ワールドカップロシア大会に見る日本人とルール

先日来、リベラルについて考えている。一環として日本人とルールについて考える。日本人はどのようにルールを理解しているのだろうか。

フットボールのロシアワールドカップで日本チームが「フェアでないプレイで16強に勝ち上がった」という悪評が立った。驚いた日本人も多かったようで戸惑いや正当化の議論が盛んに行われた。日本人は一生懸命に西洋社会から認められようとして頑張ってきたのに「本質を理解していない」と言われたことに戸惑いがあったのだろう。木村太郎は「これは人種差別だ」と言い切った。

だがBBCの記事を読むとイギリス人の反発には理由があることがわかる。イギリス人はフットボールをフェアにやってもらいたいのである。このため、消化試合を避けるためにグループごとに試合が同時進行するように運用ルールが改正しており、イエローカードの枚数で優劣を決める今回の改正もその一環だった。日本はこれを通信機器で「ハック」することでルールの背景にある精神を踏みにじったと見なされた。ルールを変えるべきではという指摘すらなされたようだがFIFAはルールを変えるつもりはないと言っているそうだ。

背景には日本人とイギリス人のルールに対する考え方の違いがある。イギリス人やFIFAはフットボールを健全に保つためにルールを作っている。目的はフェアな試合だ。だが、日本人は本質ではなく「ルール」という外形を保つことによって良いコミュニティのメンバーであるということを見せたがる。だから、ルールで決まった範囲なら「何をしてもよい」と思ってしまうのである。

面白いことに日本のマスコミは海外で西野監督の決断が問題視されていることは伝えたが「ヒホンの屈辱」とその精神について取り上げたところはなかった。日本人は自分たちがどう見られているかは気にするが、どうやったらコミュニティを健全に保てるかということにはほとんど関心を示さない。見た目だけを気にしているのである。

西野監督の決断は、日本の政治で横行するルール破りについて考察するよい材料になる。安倍首相がやっていることと非常に似ているからだ。

日本人は決まったことを守ることがよいコミュニティメンバーの条件であると考える。だから、決まりにはチャレンジしない。決まりを変えることでコミュニティに対する異議申し立てをしていると見なされたくないからである。これは西洋のコミュニティがメンバーの合意で成り立ち恒常的な貢献で保たれるという考え方が日本にはないからだろう。村人を縛る村落をメンバーがあえて保つ必要はない。

例えば憲法第9条が変わらないのはこのためであろう。日本人は憲法はルールを守るという意識はあるが、その向こうにある「主権国家が協力して国際秩序を守って行くべきだ」という理念にはあまり関心を持たない。国際社会でいい子であればそれで満足なのだ。そして憲法第9条を「縛りである」と理解する。

このように窮屈な村落観を持つ日本人は「決まりは相手を牽制するためにも利用できる」と考える。体面のために決まりを守らなければならないし、それを押し付けることで相手を牽制できると考えるのである。ルールの範囲内で「ハッキング」する「ズルさ」はある意味大人の条件だ。だが西洋ではこれは単なるズルにしか見えない。こうした違いが文化摩擦を引き起こすことがあり、今回の西野采配もこれに当てはまる。

この「ちょっとずる賢く立ち回ったほうがいいのではないか」という考え方は、「大人な有権者」に広く受け入れられており、今回の自民党総裁選挙でも大きな影響を与えるかもしれない。

最近野田聖子さんや石破茂さんらが安倍首相を公然と批判し始めている。総裁選で「フェアな政治」を求めたほうが有利だと感じているからだろう。だが、これは野田さんや石破さんに不利に働くかもしれないと思う。なぜならばサイレントマジョリティである日本の男性は「日本が国際的に有利にやってゆくためにはまともにルールを守っていては損だ」と感じているかもしれないからである。こうした人たちは「ちょっとしたズルをする安倍首相」を大人だと感じるだろう。実際に石破茂さんには「あの人は真面目すぎて国会の筋論にこだわる」という評判があるそうだが、これは悪口である。女性も男性のように尊大に振る舞う事で「器が大きくなった」と見なされる事がある。その意味では野田さんは「女性的」すぎる。野田さんを支持しない人は「きれいな水に魚はすまないというではないか」と感じるかもしれない。

競争に勝つためには女性を低く使ったり外国人労働者を安く使ったほうが有利だと考えている人は意外と多そうだが、それが表立って語られることはない。安倍首相の嘘に一定の支持が集まるのはこの「ルール内でのずるさ」が支持されるからなのだろう。民主主義的なプロセスさえ踏めば嘘をついても良いと考えるのが日本人なのだ。

そんな日本人でも民主主義にこだわる事がある。

1999年の小渕内閣で自民党は金権政治から脱却できていないという批判にさらされていた。田中角栄のロッキード事件の影響が払拭できず細川内閣で一度下野した。その後も単独で過半数が取れなくなり連立相手を変えながらなんとか生き残っていたという時代である。当時、より近代的でかっこいいスマートな民主党が台頭し始めており「このかっこよさを取り入れたい」という思いがあった。党首討論が導入されたのはそんな気分があったからなのだ。

党首討論はイギリスを真似てクエスチョンタイムと呼ばれた。「西洋流のかっこいい俺たち」を見せたかった民主党と俺たちも負けていないという自民党の利害が一致したのである。議事録を読むと議論は朝ごはんに何を食べたかという鳩山さんの問いかけで始まっている。当然鳩山さん流の洋食(とはいえピザなのだが)のほうがかっこいいわけで、小渕さんは少しためらいながら日本食だったと明かした。この後、鳩山さんはピザの話を政権批判につなげた。「具材が混ざってよく味がわからなくなった温め直したピザ」は連立相手を組み替えて政権にしがみついている自民党を揶揄している。この中に小渕さんが強がりから発したと思われる「冷たいピザも温め直せば美味しい」という発言が出てくるが、小渕さんはこの後「冷めたピザ」と揶揄されることになった。自民党は賞味期限が切れた政党と見なされてしまったのである。

安倍首相が様々なルールを破って党首討論をめちゃくちゃにした上で「党首討論の役割は終わった」と言い放った。それももっともな話だ。政権交代は失敗し民主党(主に鳩山さんだが)のかっこよさも見掛け倒しだということがわかった。民主党にはスマートな政治家が多かったがそれはたいていは意志薄弱さの裏返しだった。自民党はもはや強がってみせる必要がなくなってしまったのだから面倒な議論などしなくてもよいのだ。さらに「ちょっとルールを破ったほうが勝てる見込みが高まる」ということになると議論でもルール破りが横行することになる。

高度プロフェッショナル制度にそれほどの反発が起きなかったのは日本人の多くが「誰かが犠牲にならなければ今の豊かさは維持できない」という見込みを持っているからだろう。だが、自分だけはそこから逃げ出すことができるという楽観的な見込みも同時に併せ持っている。第二次世界大戦でも、日本人の多くが政府に取り入って儲けたいと考えた一方で、家族や財産を失うと想像できた人はそれほど多くなかったはずだ。ズルさを支持する裏にはこのような見込みの甘さもある。

西野監督や安倍首相を見ていると、日本人がルールを曲げようとしているのは負ける見込みがある時だということがわかる。だから、脱法的なルール運用が横行するようになったら日本人が逃げの姿勢をとっていると考えたほうがよさそうである。西野監督は自分のチームがポーランドに勝てると思えばあのような戦術は取らなかったであろう。また、試合を続行すれば選手が焦ってイエローカードをもらうという見込みもあったのかもしれない。西野監督は選手をうまく乗せて勢いづかせることができるという自信はあったのだろうが、選手をコントロールできているとは考えていなかったのであろう。

安倍政権を応援する日本人も「負けるかもしれない」という認識を持っているからこそ安倍首相を応援し続けるのだろう。もっとも安倍首相が西野監督のように客観的に状況を判断しているとは思えない。西野監督は試合後の会見で「本意ではなかった」と発言したのだが、安倍首相はルール無視をしている俺はかっこいいなどと主張してますます拒否反応を呼び起こしている。選手を西野ジャパンの試合後のインタビューを見るとかなりフットボールコミュニティを意識してい情報を集めていることがわかる。せっかく強いチームなのだからもっと好きにやればいいのにと思うくらいだ。これは国際的なプレイヤーが多くマイノリティとして自分の文化を客観視する姿勢が身についているからなのかもしれない。これが永田町と選挙区しか知らない政治家との決定的な違いだ。

今回の議論はリベラルとポピュリズムについて考えている。これをトピックに当てはめると、まず「まともにやっていても勝てる」という見込みがなければルール順守を訴えることは難しい。リベラルの人たちの人権と多様性を保護すればより豊かになれるという見込みは実は自信の表れであり、それを自信のない人たちに信じさせるのは難しい。もしかしたらリベラルを自認する人も自分に自信がないから騒いでいる可能性もある。ここを越えるのはとても難しい。

それに付け加えて「ルールはなぜできたのか」ということを考えるべきだ。日本の平和憲法はある理念の元に作られている。これを理解しないで単に平和憲法には指を触れるべきではないと考えていてはいつまでたっても平和国家を実現する事はできない。もし「平和国家日本」を守りたいならば、もっと外にでて多くの人と意見交換をすべきであろう。

Google Recommendation Advertisement



「リベラルさ」を保ち続けるのはなかなか難しい

少し罪悪感を感じている。久々に投げ銭をいただいたのだが、例によってメッセージ欄が途中で切れている。システム上の制約で100文字ちょっとで切れてしまうのである。「左派に属していると思うのだが途中で行き詰まる」というところまでは読めた。「この記事」がどの記事かはわからないが、多分前回の記事ではないかと思う。リベラルのほうがポピュリズムの温床になるのではないかというのが前回の主張だった。が「何が行き詰まる原因になっているのか」という点はわからない。

もしかしたら前回の主張が悩みを生んでしまったのかもしれないとも思った。あまり真剣にリベラルや保守を考えない人は気軽にポピュリズムに走ることができるが、真剣な人ほど悩んでしまうのかもしれない。

この断片的な状況から今回のお話を展開しようと思う。だが、断片から出発するので全く間違っているかもしれない。その点についてはあらかじめお詫びをしておきたい。

まず左派の定義からしなければならない。この文章では、左派の代わりにリベラルという言葉を濫用しようと思う。人間は理性によってお互いの多様性を許容できるという見込みをリベラルと定義する。つまり多様性の尊重と人権の尊重がこの場でのリベラルであり、言い換えれば「多様な価値観を前提にした協力の文化」である。経済的に私有財産を制限する左派とは違っているし、政府の制限なしに活動ができるという意味での(つまり新自由的な)リベラルでもない。また均一性を前提にした協力の文化でもない。

このカウンターにあるのは、防御的な保護システムである。「協力」は人間が種として遺伝子レベルでもっている種の特性だが、自己保存の本能もまた、人間が生物として持っている特性と言って良い。

協力を前提にしているリベラルな民主主義を考察する場合「経済的な豊かさ」と「経年」は有効な指標になる。経済的に豊かであれば分け与えることで発展が望めるし、共有のための社会資本が蓄積されていた方が共有の文化を実行しやすい。一方で貧しさを意識するようになると自己保存の本能が働き「できるだけ資産を独占して冬に備えなければ」という気分になる。日本はかつて教育に力を入れて発展した。これは世代間協力の成果だ。そして冬の時代を予感するようになると教育費が削減され実際に経済の成長も鈍化した。次の世代に投資するより目の前の生存を優先しているからだ。

自分自身がリベラルな社会を良いと考える理由は二つあると思う。まず「先進的なアメリカ西海岸」を見ているので、多様性が経済的な豊かさに結びつく社会を知っている。カリフォルニアには農業中心の内陸部と豊かな海岸部があり、多様性を保障した方が豊かになれるという実感が得やすい。だから都市がクリエイティブな人災を集めるとか、自由が経済を発展させると信じやすいのだ。また、民主化と高度経済成長が同時に実現していた時期も知っている。

ところが、現代ではこうしたリベラルさを信じるのが難しくなっている。日本の経営者はやがて冬の時代が来ると信じている。このため従業員に十分な賃金を支払うのを嫌がる。出したお金が戻ってくると信じられないからである。自分たちは協力を拒否してお金を内部に溜め込むのだから従業員や消費者もそうするだろうと見込むのだろう。

最近のアメリカでもリベラルが行き詰まっている。経済的に取り残された人たちが民主主義や移民社会のあり方そのものに疑問を持つようになった。すでに一体的な西海岸はなく、カリフォルニア州を3つに分割すべきだという議論すら出ているようだ。自分たちの社会も停滞している上にモデルにするものもないのだから、こうした中で「リベラル」という信仰を保つのはなかなか難しい。

さらに日本のリベラルはもう少し厄介な問題を抱えている。無自覚の差別意識である。

先日テレビで「著しく差別的な」光景を見た。フジテレビのアナウンサーがディズニーのプリンセスが大勢出てくるアニメをみている。彼女は時間がない中で画面の中にいるプリンセスの名前を当てなければならない。そこで女性アナウンサーは有色人種を全てスルーしていた。ポカホンタス(ネイティブアメリカン)、モアナ(ハワイアン)、ティアナ(アフリカンアメリカン)である。これは偶然としては出来すぎている。

第一に画面をランダムに切り取っているのに有色人種が必ず一人含まれているという問題がある。これはディズニーが意図的に有色人種を混ぜているからである。つまりお姫様は白人であるという前提があり、そこから脱却しようとしているのであろう。第二にフジテレビのアナウンサーがこれらの名前を呼ばなかったのはなぜかという問題がある。それは彼女がプリンセスは白人であるべきだと思い込んでいるからだ。

無意識の差別は根深い。例えば二階さんが「子供を作らないのはわがままだ」という時、支持者の中にそういう気持ちを持っている人がいるということを意識しており、さらに蛮勇をふるって何かをいえば「男らしい」として賞賛されるであろうという見込みがある。彼はこれを意識的に扱っているので、外から攻撃しやすい。だがその向こうにはそもそもそれを不思議に思わない大勢の有権者がいる。リベラルが問題にしなければならないのはこの無意識の差別であるが、意識がないので攻撃が難しい。

ここでフジテレビのアナウンサーを指差して「お前は差別主義者だ」と名指ししたら何が起こるだろうか。多分彼女は泣き出してしまうか色をなして怒るだろう。つまり他人の「反リベラル的意識」を指摘しても問題は解決しないのだ。二階さんのような人はわかってやっているのだから「不快に思ったなら謝ります」といって涼しい顔をするだろうし、そうでない人は「リベラル」を嫌うようになるに違いない。

加えて、リベラルを自認する人でもこうした無自覚な差別意識を持っているはずである。それに気がつくことができるのは他の文化に触れた時だけだ。つまり文化が均質的な日本人はそもそも差別に気がつきにくいという特性を持っているのだ。

最近、フットボールでこの文化差の問題が起きた。日本対ポーランドの試合で日本が後半のゲームで何もしなかったことに対する批判が起きた。これについては様々な議論がでた。そのほとんどは日本の態度を正当化するものだった。中にはこれに「もやもやしたもの」を感じているサポーターもいたようだが、その気持ちをかき消して正当化議論に同化していた。

ここで問題にしなければならないのは行動の良し悪しではないように思う。イギリス人はフェアプレイという理念がありそれを実現するためにルールを作っている。できるだけフェアプレイが保たれるようにイエローカードを基準に加えたのだろう。だが、日本人は集団の中でルールを守ることそのものに価値を見出すので、ルールがどのような行動原理に裏打ちされているかということを考えない。だから、結果的に「ルールを守って理念を守らない」ということが起きるのだ。日本人は頑張ってイギリス流のフットボールを学習して心からフットボーラーになろうとしたのにそれでも反発されるということに驚いたはずである。

つまり、問題を解決したければ理性的な対応が求められるということになる。つまり「人種差別はいけないことだ」とか「フェアプレイでなければならない」という規範を一旦捨ててみることが必要だということになる。相手に対してもそうだし自分に対してもそうだ。

これまでの議論を整理すると、経済的な不調や格差の拡大で「協力する文化」を信じるのが難しくなってきているのに加えて、そもそも外側から自分たちの文化や規範意識を客観的に判断するのが難しいという事情がある。ポピュリズムは不安や不確実性に対する本能的で自然な反応なのでこちらに乗ったほうが簡単なのである。

こうした状態から完全に抜け出すのは難しい。あえてやれることがあるとしたら状況をできるだけ客観的に判断するためにいろいろな情報を集めてくることなのではないかと思う。これができるようになれば「どこかで行き詰まる」のがそれほど不自然ではないことがわかるはずだし、それが最終的な行き詰まりではないということがわかるのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



ネトウヨ対策について考える

先日来、政治議論にまつわる様々なテーマについて考えている。「政治家の嘘」「民主主義の死」「政治議論の呪い」などである。今回はこれについておさらいしながらネトウヨ対策について考えたい。

もともと日本の政治家は嘘を「本音と建前」として管理していた。ウチとソトの境目が曖昧になり本音の一部が「嘘として露出」することになった。これを攻め手に欠け有権者から見放された野党が攻撃して「民主主義の死だ」と叫んでいるというのが真相だろう。野党も組織や社会を管理する側に回れば「本音」という名前の真実を建前で隠蔽するようになるはずだ。一方、彼ら(野党と与党の支持者たち)の政治議論の多くは基本的にフレームワークの押し付け合いである。これは、身内がお互いが気持ちよくなるための言い訳と他人への抑止なのだから集団を共有するつもりのない議論は全て無意味なのである。基本的に他者を前提としないのが日本人なのでルールがないときには違いを前提とした外交交渉はできない。ただ、建前を真実だとして語ることが一種のマニフェストになってしまうので、これが呪いとなりお互いの選択肢を狭めてしまう。だからこれは無意味であると同時に有害でもある。

日本人は民主主義の本質について理解しているわけではないし特に興味もない。ゆえに双方の議論はめちゃくちゃになりがちである。例えば基本的人権は「自分は人生の主人公であるべきなので、自分の内心を表現したり、同じような気持ちを持った仲間と協力する自由がある」から存在する。ところが早いうちから集団に頼って自我を増長させる日本人にはこの民主主義はあまり意味を持たない。このため日本人の人権に対する理解は控えめに言ってめちゃくちゃになる。政治家は「公のためにわがままである人権はちょっと抑えるべき」などと発言し、ネトウヨの人たちも「表現の自由というなら朝鮮人は国に帰れという自由もあるはずだ」などと言い出す。とはいえリベラル側も基本的人権についてよく理解していないので「憲法に書いてあるからダメなのだ」などという水準の説得しかできない。彼らもまたルールを作る側になれば規範を押し付ける側に回るはずだ。

他にも山の登り方はいくつかあるのだろうが、これを観察すると二つの疑問に行き着く。一つは民主主義など存在しないのにどうして民主主義社会が崩壊しないのかという疑問である。実際に日本の民主主義は破綻していないので、なんらかの別な仕組みが独裁制を防いでいるのだろうという仮説が立つ。そしてもう一つ、なぜ日本人は表で本音の議論をすることが前提になっている民主主義的な行動ができないのだろうかという疑問がある。日本人は早いうちから集団に自我を同化させるので、個人の資格で誰かから反対されることを極端に嫌うのだろう。表で反対されると嫌なので「甘えることができる」環境でしか自分の欲求を表出することができない。

こうした本音の議論では身内の結束を高めるために「他人に対する嫉妬や陰口」とか「自分は社会の約束事からは自由なのだといった強がり」などといった甘えた感情によって結びついた「とんでもない」議論が行われる。派閥の会議がたいてい下卑た冗談で埋め尽くされるのはそれがボーイズクラブだからだし、逆に女性が多い会合では「規範の押し付け合い」や「嫉妬」が渦巻くことになるのではないかと思われる。

安倍首相が反発されるのは「選挙に負けた」時に生じた内輪の強がりを社会の要請として誤解して「社会一般の規範」に格上げしようとしたからだろう。もともとネトウヨ的議論はこれまでも一部の右翼的な雑誌で横行していた。こうした議論がそれほど問題にならなかったのはそれが影響力のない雑誌での「サブカルチャー」的な議論だったからである。

生涯を通じて自分を拡張させてくれる集団を見つけられなかった人たちが最後にたどり着くのが実体のない「国家」だ。もし彼らがアメリカに生まれていれば原理主義的なキリスト教に傾倒していたはずである。しかしそれは彼らの満たされなかった所属欲求を満たしてくれるものでなければならないので「日本というのは無謬であり世界に尊敬されていなければならない」という主張を繰り返すことになる。

だが、そんな国はありえない。だから例えばGHQであったり日教組であったり国内の少数民族であったりあるいはその人たちに協力する「反日分子」を持ち込んで合理化を試みるのだろう。

ところがこの甘えた議論がそのまま表出することはない。それが「世間」にさらされるからだ。この文章の冒頭で「何が独裁制を抑えているのだろうか」という疑問があったのだが、この世間が抑制装置になっている。民主主義を理解しない日本人にとって公共とは政治家が好き勝手に解釈できるどうでもいいものだが、世間はそうではない。「世間体」とか「世間の目」に実体はないがこれこそが日本人を縛り付ける。

日本人は世間を恐れている。例えばこのような事例がある。安倍首相はなんとかして憲法を変えたい。中には人権を否定するような動きがある。内輪で話し合っている時にはかなり勇ましい議論がでる。だが自民党が「世間」を意識するとき、その議論は萎縮する。自民党の憲法草案はかなり勇ましい内容だったが、今ではこれを表立って擁護する人はいない。また安倍首相は「憲法第9条を改正したい」と提案しているが、具体的な議論になると及び腰になるのが常である。未だに安倍政権は末期の麻生政権よりは支持されている(最終的には20%以下まで下落したそうだ)なので、安倍首相の機嫌を損ねたくはないのだが、かといって世間と戦ってまでこれに勝ちたいと考えている人は一部のネトウヨ議員たちを除いてほとんどいない。彼らは世間がよく理解できないがゆえに安倍首相を支持するが、世間がわからないがゆえに失言で失脚する。

こうした世間の目はかなり微妙な形で日本の政治に作用している。例えば森友・加計学園の問題では問題が報道されると支持率が下がる。しかし、政権を追い詰めるまでには下がらず微妙なラインを保っている。つまり「政治について監視するのは面倒だが、かといってあまり羽目を外しすぎるとどうなるかわかりませんよ」というラインが維持されていることになる。

もしここで「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが顔出しで自分の主張を喧伝し、それを世間が支持するようになればそれはかなり危険な兆候になるだろう。しかしこの「世間」はとにかく政治について極端なポジションを取らず、いかなる変化も拒む。とにかくリアクションがないのでその層に訴えることはできない。彼らが好む答えは「とにかく何も変えない」ということだけだからである。

さらに世間が民主主義や人権について正しい理解をしているということもなさそうである。女性は家にいるべきであり「ふらふらと外でお勤めすべきではない」と感じているだろうし、犯罪者を糾弾して問題を切り捨ててしまえば問題そのものがなくなると感じている人も多いことだろう。かといって同性婚や夫婦別姓に反対するということもない。自分が強制されれば嫌かもしれないが、特に関係がないと思うと彼らは関心を寄せないのだ。しかしこうした制度ができても同性婚や別姓を差別し続けるかもしれない。今でも夫が妻の姓を名乗るのは自由だがそれを選択する人は多くない。世間で「なぜそんな不自然なことをするのだ」といって抑圧されることが容易に予測できるからである。

世間から相手にされないネトウヨと呼ばれる人たちには観客が必要になる。世間には異議申し立てができないが、リベラルは話を聞いてくれる。挑発すれば怒ってくれる上に危機感も持っていて脅しがいがある相手だ。ネトウヨの実体はそれほど多くないことが知られているので、相手にさえしなければ彼らのメッセージがそれほど広がることはない。するとそういう思想に触れる人は少なくなる。逆に彼らのお相手をすることで彼らの思想を広め、無批判な人たちにその思想を感染させる可能性がある。

政治家の「勇ましい発言」はその都度潰しておいた方が良いと思うのだが、それは「ここは内輪ではなく、従ってあなたたちの強がりを聞く義務はない」といったトーンにすべきだろう。選挙に勝つ必要がある政治家は世間の建前を意識せざるをえないので建前で潰してしまえば良いわけだ。さらに社会的な影響力のないネトウヨは相手にするだけ無駄だし却って彼らを増長させる可能性がある。Twitterでネトウヨに対して何かを書きたくなったらそのことを考えるべきだろう。

Google Recommendation Advertisement



政治の世界で「発言の撤回」が頻繁に起こるわけ

衆議院予算委員会の河村委員長が自身の発言を撤回した。首相が「集中審議は勘弁してくれ」と言われたらしいのだが、野党から攻撃されると一転して「そんなことは言わなかった」というのである。この人もまた「嘘をついている」と思うのだが、どうしてこのような嘘が蔓延するのか考えてみたい。これは「気の緩み」なのだろうか。

これについて考えているうちに、かつて日本人は恒常的に「管理された嘘」をついていたのだという考えにたどり着いた。ただし日本人はこれを嘘とは言わなかった。今になってなんらかの理由で嘘を管理できなくなっているのだろう。さらに西洋流の個人主義が間違って解釈されたことも原因になっているのではないかと思う。日本人はかなり特殊な集団制を生きていた。それが失われつつあるのかもしれない。

この言葉を考えてゆくと「政治にとって言葉は命である」という言葉も誤解されているということがわかる。言葉は命であるというと多くの人は「政治家は正直でなければならないのだな」と考えるが、本当にそうなのだろうか。

まず最初に個人主義について考える。ヨーロッパを起源とする文化はまず個人を考える。しかし階層構造がないわけではないし個人の欲求もぶつかることがある。そこで個人が協力するための様々な工夫が作られてきた。例えば個人主義のアメリカでは上司と部下はなんでも好きにいい合えると誤解している人は多い。しかし、アメリカで部下が上司に逆らえばクビになってしまう。アメリカ人は上司と部下の間が「フラットに見える」のを好むが、実際には上限関係があるからだ。

こうした文化の違いは、これまで紹介してきた異文化コミュニケーションの本にまとめられている。これまで「文化が衝突するとき」と「異文化理解力」という本をご紹介した。他にもホフステッドの指標などがありオンラインでも個人主義というのはどのようなものなのかを学ぶことができる。他の社会ついて学ぶことで日本人の集団主義が何を意味しているのかということも明示的に理解できるだろう。

日本ではアメリカ人のようにズバズバものをいうのがかっこいいという間違った個人主義理解が進んだ。このため集団の中の日本人が地位を利用して自分の意見を好き勝手に述べるというようなことが蔓延している。最近も大分選出の穴見議員が肺がんの患者の参考人に対して「いい加減にしろ」と恫喝したニュースが話題になった。規制の影響を受けるレストランチェーンの創業者一族であり分煙・禁煙を敵視しているのだが、のちに「喫煙者の権利を守りたかった」と釈明したそうだ。個人主義は自分の権利を守ると同時に相手の権利を尊重する主義のことなのだが、穴見さんは典型的な「甘やかされた日本人」でありこれが理解できなかったのだろう。だが、これが日本人にとって典型的な個人主義の理解であるのも確かである。多くの日本人にとって個人主義とはわがままな個人のことなのである。

しかしながら、これとは違った状況も見える。かつて日本人は本音と建前を使い分けていた。もともと個人の欲求などなかったことにして全てが自然と決まったと考えることを好んだ。これは集団と個人の間にマイルドな癒着があったからだ。だから欲求がぶつかるようなことは裏で根回しとして行い、表面上は「しゃんしゃん」と決めて表面上の和を大切にしてきた。こうして生まれたのが本音と建前である。みんなが気分良く過ごすためには建前が必要なのだが、それだけでは不満がたまる。そこで親密な仲間同士と甘えられる場所で本音をぶつけ合っていたのである。

政治にとって言葉は命であるというのは政治家が建前を管理する仕事だからだろう。日本で民主主義が崩れたなどという人がいるが、これは誤解だ。もともと日本の意思決定は最終的には儀式で終わる。この儀式の最新のファッションとして選ばれたのが民主主義なのだ。その意味では、日本の政治家は「建前の司祭」という帽子をかぶっていたことになる。つまり言葉というのはこの儀式に用いられる言葉のことだったのである。

ではなぜ河村さんは記者たちに「裏であったことを正直に語ってしまった」のでだろうか。河村さんは安倍首相と昵懇の仲であり「本音を打ち明けてもらえる仲間である」ということを見せびらかしたかったのではないだろうか。首相と仲良くなった人はみな首相との仲をほのめかしたがる。例えば籠池理事長がそうだったし、加計学園の渡辺理事長も県庁に行き「これは首相プロジェクトなのだ」と自慢していた。ところが彼らが地位の優越性をほのめかすと、それは「安倍首相はルールを作る側なので、多少の無茶はやってもいいのだ」という自慢になってしまう。実際に安倍首相はそのように行動していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

自民党はこの「儀式力」を失いつつある。これは裏を返せば安倍首相に「建前の司祭長」としての自覚がないからである。例えばいま立憲民主党が政権をとれば彼らは緊張して建前と本音を分離しようとするだろう。だが自民党は「一度失った政権を取り戻した」と考えており「多少のことは許されるようになった」と誤解しているのではないだろうか。だから「建前と本音」を分離して聖域を確保するという気持ちが薄くなってしまうのかもしれない。また、最初の政権では儀式性にとらわれて言いたいことも言えなかったという気持ちがありそれを取り戻したいということも考えらえる。なぜ「気が緩んでいるか」は多分本人たちに聞かなければわからない。

もちろん、政治家全体が西洋流の「説明責任」を学び民主主義を尊重するというアプローチも取れる。個人主義社会に出た日本人は問題なく個人主義の文化を学ぶことができるので「日本人には無理だ」とも思わない。だが、一人ひとりの議員を見ているととてもそのようなことはやってくれそうにない。意識が低いというか「ぼーっとして何も考えていない」ように見えてしまう。二世議員が多く「集団に守られている」という油断があるのだろう。その一方で、建前と本音を意地でも守り通す(つまり本気で民主主義ごっこをやる)気迫も感じられない。こうして嘘が蔓延しそのたびにマスコミが大騒ぎするという気風が生まれてしまった。

我々はかつて本音と建前という二重性を生きていた。しかし今では西洋流の民主主義や組織統治の上に本音と建前がかぶさる三重性を生きている。

国民が「政治家が嘘をついている」というとき何を求めるのだろうか。本物の民主主義国のように正直に意思決定プロセスを伝えて欲しいと思っているかもしれないのだが、これは同時に不都合な事実も受け止めるということを意味する。多くの人は不都合なことや醜いことは「そちらで処理して」きれいな結果だけを見せてくれと思っているのではないかと思う。つまり、政治家は嘘をついているという非難は、必ずしも「正直になってくれ」ということを言いたいのではなく、なぜもっと上手に嘘をついてくれないのかという非難なのかもしれない。

この文章を読んでくださる方にはぜひ、これからも「上手な嘘」のある社会を求めるのか、それとも正直な社会を求めるのかということを考えていただきたい。誰かに伝えるつもりならお化粧が必要だが、誰にもいう必要はないのでその分だけ正直になれるはずだ。

Google Recommendation Advertisement



呪いあう人々

先日は日本人のコミュニケーションの特徴を見ながら「分かり合えないこと」について観察した。今回はこれを基礎にして「呪いあう人々」について考察したい。上西さんという「ご飯論法」を流行させた法政大学の教授が「呪いの言葉の解き方」という概念を提唱した。Twitterの不毛な議論から「社会は呪いを押し付けてくる」と感じているらしい。ハッシュタグまとめサイトまで作っているがあまり広まっていないようである。しかし、これをみるとこの人たちは自らを呪っているのではないかと思った。

前回見た日本人の特徴をおさらいしよう。それは、あらかじめ答えを決めつけてしまいその中でしか動かないし動けないというものだった。これに満足している場合には共感が得られる上に自己肯定感を持つことができる。集団から守られていると感じるはずである。だが、例外が発生するとお互いに「分かり合えない」という感情が生まれる。さらに「よく見られたい」という気持ちも強く、これも情報のプロセッシングを難しくしていた。

今回観察する呪いとはこの「あらかじめ作られた」フレームワークを意味している。Twitterのような半匿名の公共空間では公に知られた枠組みがないので「マウンティング」を行って誰がゲームのルールを設定するのかを決めるのだろう。例として「野党は批判ばかり」というフレームがある。結論は「だから野党はダメ」ということになる。そして、この答えを形成するフレームを固定することを「押し付ける」と言っている。つまりフレームを押し付けることで答えを押し付けているのだ。

まとめサイトにある彼女たちのソリューションは別のフレームを持ち出すことである。つまり自分たちの文脈を被せようとしている。相手のフレームは無効化することはできるが、折り合いをつけることは難しいだろう。これも決めつけであり相手が受け入れるはずはない。あとは多数決にするか取っ組み合いの喧嘩をして決めることになる。この世界観の延長にあるのが「民主主義は多数決だから選挙で勝った人が勝ち」だろう。

だが、このレベルですでに彼女たちは相手の呪いにかかっている。議論の目標は「政府を正常化」させることであって、フレームワークなど実はどうでも良い。つまり一段議論のレベルをあげなければならない。議論の中に内田樹という人の「次数をあげる」というタームが出てくる。議論を客観視するということなのだと思う。これがなかなか難しいと言っているのだがそれは当然だ。「相手の呪い」に張り付いているのでレベルの上げようがない。

こうした状態に陥るのはなぜだろうか。「決まり切ったフレーム」を相手に押し付けようとしているからだろう。日本人はあらかじめ決まったフレームに依存しているのでこうした話法から抜け出すことはできない。フレームがぶつかるとお互いに「フレームを決める争い」に膠着してしまい話し合いができなくなる。だが、そもそも社会全体でソリューションを求めるつもりはないので、それでも構わないのだろう。さらに仲間内で主流と見られて「勝ちたい」という気持ちや、その中で「いい人に見られたい」という気持ちが強く、ますます解決からは遠ざかる。

こうした喧嘩腰の議論の裏にあるのは「既存社会はいつも私たちにフレームを押し付けてきており、私たちは損をしている」という、これも決まり切った認識なのかもしれない。前回のATMの例で観察したおばあさんは「前提が変わったらATMを使わなければならない」という理不尽な意識を持っているように思えた。また「何かを言われたらそれを相手のプロトコルに従って理解しなければならない」という思い込みもある。自分が「何をしたくて、何がわからないか」に集中していればもうすこし違った情報交換ができただろう。

このあたりからうっすらと見えてくる結論は「何を解決したいのか」という目的と、自分は何を知りたいのかという「自身」に注目することの重要さである。

ところが日本人は「周囲に調和している自分」を見せたいという意識が働く。場合によってはその規範に従って自分の行動を変えなければならないと考えてしまう。平たく言えば「他人の目がきになる」のだ。

例えば、夫婦別姓に反対している人にも同じような調子が見られる。議論を始めた人たちは「社会のベースは同姓でも構わないのだが自分たちは別姓を選択できるようにしたい」と言っているだけである。だが「なぜ全員別姓にしなければならないのか」という前提で噛み付いてくる人がいるようだ。社会のルールは一つしかありえず、それが崩れてしまうと社会全体がめちゃくちゃになってしまうという思い込みがあるようだ。中にはこれを「革命だ」と言っている人すらいるのだが、欧米ではこうした「革命」が起きているが社会不安には繋がっていない。背景には「みんなが同じルールを持たないと社会全体がめちゃくちゃになってしまうから何も変えたくない」という思い込みがあることは確かだが、それがどこから来たのかを考えてみても理由が全くわからない。

政治はもともと自分たちがやりたいことを達成するための道具にすぎない。だからそれに従って行動している分にはそれほど複雑なことにはならないはずだ。しかし日本人は「自分は社会の主流にいて、自然と好ましい待遇が得られる」ように見えることを好むので、話が複雑化していまうのだろう。

実際の「呪いの言葉」議論の経過を1日観察していたのだが、問題解決は遠のき与党支持者に対する当てこすりになってきているこ。二つの圧力が働いている。同じ気分を共有する人たちが自然と集団を作って自分たちを慰め合うようになってしまうという内向き化と細かな点に着目して大きな流れが見えなくなるという微細化だ。つまり「新しい村」が誕生しているのだ。

この呪いに拘泥することで実は議論自体が呪われている。安倍首相は嘘をついているか現実を否認している。先日はついに「架空の話」という言葉さえ飛び出した(毎日新聞)そうである。しかし安倍首相は嘘をついていないと言っている人がおり、実際本人も政府の周りの人もそれを認めていない。そこで反安倍人たちは「嘘をついている」という証拠を集めようと躍起になり、キャンプを作ってお互いを慰め合うようになる。するとそれを遠巻きで見ていた人たちは議論から離れてしまうのだ。

実際には「明らかに嘘をついている」という前提で話をしたほうが簡単に説明ができる。実際には「嘘をついている」前提で分析したほうが早い。QUORAで「安倍首相は嘘をついている」という前提で回答したところ「いつもの冷静さがない」と批評された。そこでできるだけニュートラルな用語を使って返事をしたところ「冷静さが伝わりました」と言われた。つまり「安倍首相は嘘をついている」という人は「冷静さを欠いた人である」という決めつけがすでに始まっていることになる。もし安倍首相の嘘に心苦しさを感じている人は一度誰かにそれを他人に説明してみると良いだろう。自分たちの議論がどう見られているかが冷静に観察できるはずだ。

イライラして感情的に反論するよりも冷静に分析してみえたほうが説得力が増す。そのうちそれが暗黙の前提になり政権から気持ちは離れてゆくだろう。逆に感情的な議論は人々を遠ざける。

規範や正義を押し付けてくる不愉快な人は確かにどこにでもいる。そうした人たちを不快に思うのは自由だし自然だ。特に女性の場合「正解」を押し付けてくる男性が多いと感じるだろう。だが、その時点ですでに半分議論に負けて呪いに巻き込まれていると考えたほうが良い。そもそもそうした不快な人たちにお付き合いする義理はないのだ。

もちろん上西さんが独自の方法でいろいろ試行錯誤することは自由だ。だが、それが受け入れられなかったからといって他人を非難することだけは避けていただきたいと思う。

Google Recommendation Advertisement



服を捨てる・政治的主張を捨てる

今回はファッションを参考にTwitterの政治表現について考える。Twitterに疲れているという人は読んでいただきたいのだが「Twitterは馬鹿ばかりだから困る」という結論を求めている人に気にいる内容ではないかもしれない。最初はTwitterについて書き始めたのだが、それだけではまとめるのが難しかった。政治表現にはそれなりの「特別感」があるうえに、問題が多すぎてどこから手をつけて良いかわからない。現在のTwitter議論はそれくらい閉塞して見える。

バブルの頃には洋服にはあまり興味がなかった。ファッションに関心を持つようになったのは太ったからだった。太っても着られる服を探そうと思ったのだ。意外なことに、「自分が変わった方が早い」と思うようになった。つまり、服を探すよりも痩せたほうが早いということだ。体重が減ると似合う服が増えて試行錯誤する必要はなくなった。

つまり、他人や周囲の状況を変えるより自分が変わった方が早いということになる。確かに、自分以外はすべて馬鹿なのかもしれないし、体制に騙されているかもしれないのだが、それを考えてみても実はしかがたないことなのだ。

だが、これは相手に迎合しているというのとは違っている。つまり好きな服を着ているのだが、それがどう似合うのかということを覚えて行けばよいのだ。

洋服については別の感想も持った。体型が変わっても古い服を捨てられなかった。服を捨てられないのでサイズの大きなものばかりになってしまう。これらを思い切って捨てたのだが、間違いが少なくなった。ファッションに間違いなどあるはずはないという人もいると思うのだが、実際には「決まりにくい」組み合わせが存在する。

同じことは政治議論にも言える。深く知れば意見も変わってくる。これは不思議なことでもいけないことでもない。

大きく意見が変わった問題に憲法改正がある。もともとは第九条に関しては護憲派だったのだが、いろいろ見て行くうちに「ああ、これは無理だな」と思うようになった。さらに、自分で考えたことを護憲派の人にぶつけても芳しい意見は戻ってこない。現在の憲法は占領下の特殊な条件の元で作られており現在の国際情勢と合致しない。今変えたくないのは単に政治状況が信頼できないからにすぎない。

しかし、そもそも自分がどのようなポジションをとっているかどうかはどうやったらわかるのだろうか。

洋服の場合は定期的に投稿することである程度客観視ができる。後で見直すことができるからである。最初の頃は明らかに似合わない格好をしているが一年経つとかなり体型が変わっているので去年は成立しなかったものが成立するようになる。また、最初は見た目をよくしたいとかこれは自分ではないなどと考えたりするのだが、半年くらいすると「よく知っている他人」を見ているような感覚にもなる。これが「ある程度の」客観視である。

公式な場で政治的発言をしなかった日本人が「思い切って」政治的発言に踏み込むと、同時にポジションにコミットしてしまい動けなくなる。これは、客観視が進まないからなのかもしれない。つまりそれを発信している自分について実はよく見ていないのではないだろうか。

さらに、何が自分にあっているのかどうかはやってみないとわからない。洋服は試着しているべきだし、意見は発信してみる必要がある。だから、政治議論にも「試着」があるべきなのではないかとすら思う。

なぜ日本人は洋服の試着はするのに政治議論の試着はしないのだろうか。意識的にポジションをバラしてみて自分に似合うものを決めればよいのではないかと思うが、どうしても政治だと「こうしなければならない」という思い込みがあるのではないか。

そうこう考えてみると、洋服の場合にも同じような時代があったのを思い出した。バブルの頃にはスーツはこう着こなさなければならないというようなプロトコール論が流行っていたことがある。落合正勝の本を読んだことがあるという人もいるのではないか。この時期に「いろいろ試着してみるべき」という発想はなかった。また西海岸のライフスタイルを紹介するPOPEYEのような雑誌も存在したが、実際の西海岸とは違ったある種フィクションのようなものだった。これも「ライフスタイルはこうあるべきだ」という思い込みを生んでいた。

逆にスーツは堅苦しいからいやだとなると、それをだらしなく着崩した竹の子族のような格好になってしまう。当事者たちは「日本風にアレンジした」と思っていたはずだが、周りから見ると単に奇妙でだらしないだけだ。スーツを着ているのが今の「サヨク」と呼ばれる人たちで、逆に竹の子族に当たるのが「ネトウヨ」なのかもしれない。

だが今ではそのように極端なファッションの人はあまりいない。それぞれが自分の身の丈にあった洋服を着ている。逆に「洋服はこう着こなさなければならない」と語る人は少なくなった。洋服について語ることが特別なことではなくなり、生活の中に定着してきたからなのだろう。

考え始めた時には「このTwitterの殺伐とした状況はもうどうにもならないのかもしれない」とか「ここから脱却するためにはかなり努力が必要なのではないか」などと悲観的に思っていたのだが、改めて書いてみて、10年もすれば政治議論も落ち着いてくるのかもしれないなと思った。

Google Recommendation Advertisement



野田洋次郎はなぜ炎上したのか、炎上すべきだったのか

野田洋次郎というアーティストが炎上している。愛国的な曲がサヨクの人たちのベルを鳴らしてしまったからである。御霊、日出づる国、身が滅ぶとて、千代に八千代にといった「サヨクにとってのNGワード」が散りばめられているので、自分から飛び込んでいったとしか思えない。

専門家の解説も出ている。「愛国歌」としての完成度は低いとのことである。確かに中身を見ると「コピペ感」が拭えない。外国人が日本の映画を作ろうとしてサラリーマンに暴力団の服を着させたような感じである。なぜこれをやろうとしたのかが疑問だったのだが、面白いところからその謎が解けた。野田さんの釈明は最初が英語になっているのである。

ということでバックグラウンドを調べてみた。英語圏で高等教育を受けたのと思ったのだが、10歳の時に帰国しているようである。英語をみているとそれほど上手な(つまりはアカデミックな)英語ではなく、なぜ英語で謝罪文を書いたのもよくわからない。

野田さん個人の資質の問題は脇に置いておくと、日本人がチームのために献身的に働くということを称揚する雛形を持っていないという問題が背景にあることがわかる。よく、日本人は集団主義的と言われる。しかし、日本人は自分の役に立たない集団には何の興味も持たない。もし日本が愛国者で溢れているなら自治会には志願者が溢れているはずだが、そもそも自称愛国者の人たちはサッカーパブで騒いだり、Twitterでサヨクをいじめることはあっても、近所に自治会があるかどうかすら考えたことがないのではないだろうか。

日本には集団生活を強要する文化はあるが自分から進んで協力する文化はない。すると、遡れるものが限られてくる。

集団への参加意識を高める時、日本には遡ることができるものが三つある。一つが軍隊であり、もう一つは体育会である。一つは家族を盾に自己犠牲を迫り、もう一つは団結という名前で暴力を容認する。そして最後のものは暴走族とかヤンキーと呼ばれるような反社会集団である。皮肉なことにこの中ではもっとも組織の健全度が高い。この反社会性を模倣しているのがEXILEと各地に溢れるYOSAKOI踊りだ。EXILEやYOSAKOIの衣装はボンタンのような独特のスタイルになる。

もともとスタイルのよくない人たちがスタイルを隠しつつ大きく見せるような様式だと思うのだが、これをダンスで鍛えていてスタイルの良いはずのEXILEの人たちが模倣するというのが面白いところではある。AKB48も同じようなスタイルをとるが、個人では勝てないと思う人たちが集団で迫力を出そうというこのスタイルを個人的には「イワシ戦略」と呼んでいる。

次の問題は大人の存在である。当然野田さんにはスタッフがいるはずで、政治的なとはいわないまでも社会がどのような仕組みで動いているかというアドバイスができたはずである。事務所は個人事務所であり、レコード会社はユニバーサルミュージック傘下のようだ。誰かが「書かせた」のか、あるいは書いたものをチェックしなかったのかはわからないが、対応に問題があったと言わざるをえない。ファッションデザイナーが特攻服を「かっこいい」と持ち出してきたら慌てて止めるのが大人の役割である。だが、この国の大人はもう責任は取らないので今回の一件をアーティストに押し付けて沈黙を守っている。

大人の問題は突き詰めれば「政治的無知」というより「SNS無知」と言って良いのではないかと思う。もっと言うと社会に関心がないのである。社会に関心がない人たちが愛国を扱うとこうなってしまうということだ。

日本のミュージックレーベルは意識改革ができていない。限られた数の「レコード会社」が限られたテレビ局とラジオ局相手にプロモーションをして、レコード屋に押し込むというのがビジネスモデルなので、不特定多数の人たちと直接触れ合うということに慣れていないのかもしれない。だから不特定多数から構成する社会もわからないし、今定期的に音楽を買わない人たちの気持ちもわからないのだろう。残業やライブハウス回りに追われて社会生活そのものがないという人も多いのかもしれない。

こうした遅れは実はエンターティンメントビジネスの現場では大きな障壁となっている。韓国のバンドはYouTubeで曲を露出してテレビ番組を二次利用したローカライズコンテンツをファンが作るというようなエコシステムができている。このためYouTubeだけを見ればバンドとその人となりがわかるよう。韓国のバラエティ番組に日本語や英語の字幕がついたようなものがあるのだ。

一方で楽曲そのものはローカライズしないという動きも出てきている。一世代前の東方神起時代には日本語の曲を歌わせたりしていたようだが、最近ではYouTubeで直接曲が届くような仕組みができつつあるようだ。この戦略はアメリカでは成功しており防弾少年団はビルボードのソーシャルメディアの部門で二年連続で賞を獲得したそうである。

ワークライフバランスを崩した日本のミュージックレーベルは内向きになっており新規ファンが獲得できない。事務所よりもミュージックレーベルが大きいので、CDが売れなければ意味がないと考えてソーシャルメディアに大量露出するようなやり方も取れない。テレビ番組の影響も薄れつつありヒット曲が生まれにくくなっており、恒常的な不景気なので派手な民間主導のイベントがない。すると、音楽ファンが減少し限られた人たちしか音楽に興味を持たなくなる。そうなるとオリンピックやサッカーなどのスポーツイベントで国威発揚を図るか政府が主催するイベントに頼らざるをえなくなる。

政府が好むのは国民が「己を捨てて自分たちのために犠牲になる」ことなので、いわゆる右傾化が進むことになる。するとそもそも消費者の方も見ていないし、国際市場も見ていないということになり、国際市場ではますます通用しなくなるという悪循環に陥ってしまう。一般紙やテレビでも話題になっていないし、今回騒ぎを作ったサヨクの人たちは間違っても日本のポップミュージックなどは聞かないと思うので、無駄に炎上していることになる。

この話題は日本の音楽界の閉塞性の問題と捉えたほうが理解が進むように思える。そもそも元が軍歌のコピペなので政治的にはそれほどの意味はない。例えて言えば「なんとなくかっこいいから」という理由で旧日本帝国軍の軍服を着てみましたというような感じである。それを許してしまったのは、周りの大人が社会の反応を想像できなくなっているからであり、そういう人たちが社会の気分を汲み取ってヒット曲を作れるはずもない。彼らは単に会議室の資料に埋もれているに過ぎない。

しかし、左翼側の攻撃は執拗でまた中身もなかった。一番面白かったのは、The people living in Japanを国民と言い換えているのは玉音放送と同じ悪質さを感じさせるというものだった。もともとが脊髄反射的な反応から始まっているだが、一旦拳を振り上げた以上は何か言わずにはいられないのだろう。

またバタイユを引き合いに出して共同体について考察している人もいた。日本人がもしファシズムに走っているとしたら、今頃近所の自治会や見回り警護団は大賑わいのはずだ。一度こうした集団がどんな人たちで構成されているのかを見に行けば良いと思う。お年寄りたちは「若い人は自分の暮らしに忙しい」と嘆くばかりで、ファシズムが蔓延しそうな気配はない。ある対象を見ていると心配したくなる気持ちはわかるのだが、足元の状況と照らし合わせないと判断を間違えてしまうかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

Google Recommendation Advertisement