タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。
ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。
今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。
次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。
そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。
次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。
果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。
さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。
ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。
我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。
政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。
また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。
前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。
人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。