ホモモベレ (移動する人)

タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。

ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。

今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。

次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。

そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。

次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。

果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。

さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。

ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。

我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。

政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。

また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。

前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。

人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。

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日本の家族制度はなぜ崩壊させられなければならないのか

さて、先日来杉田水脈議員の妄言とも言える「ゲイは生産性がない」という議論を考えている。いろいろ寄り道をしつつ「同性愛者も子育てに動員されなければならない」というところまで来た。そのためには、前回は従来の両性の合意のもとに作られる家族制度は邪魔なので解体されなければならないと考えた。今回はこれを反対側の観点から見てみたい。つまり、家族制度は存続しなければならないという視点である。

マウンティングにしか興味がない自称保守の人たちに代わって日本の家族制度を弁護してみよう。保守の言っている家族という価値の尊重はなかなか複雑な過程で作られている。もともと日本の家族は「家業」と呼ばれる事業体を支えるための作られた制度がもとになっている。東洋的な目上尊重という文化は残っているが違いも大きい。メンバー間の権力格差はそれほど大きくないし、血縁にもさほどこだわらない。が、西洋式の個人主義とも違っておりあくまでも家族という集団が一つの単位になっている。つまり、日本の家制度は中国より柔軟で融通がきく制度であり、西洋のように個人が社会に放り出されることもない優しい制度であると言える。

家業においては職業と再生産(つまり子供を産んで育てること)が不可分である。だからイエには事業体(表)と再生産のための主体(奥)という二つの側面があった。これを拡大解釈して、祭祀のための存在に過ぎなかった天皇にまでつなげたのが明治維新である。明治維新は徳川家のようなイエが頂点になかったのでそれに変わる統治原理が必要だったのだろう。こうして一部一神教的な世界観を入れつつ保守の人たちが考える人工的なイエ制度ができてゆく。西洋のように理論化を試みる動きはその過程で萎縮してゆく。現在のTwitterの政治議論を見てもわかるように、日本人は議論ができない。戦前の日本ではこのために仮説のつぶしあいと弾圧が起こった。天皇機関説事件が有名である。

Wikipediaを見てもわかる通り天皇機関説事件はもともとは政党間の非難合戦だったのだが、これが美濃部達吉の個人攻撃に変わった。美濃部は反論を試みるが炎上して貴族議員を追われてしまう。この事件のおかげで「国家に関する研究をすると炎上しかねない」という空気が蔓延し、その後は「日本は天皇を中心にした家族なのでみんなで仲良くして、戦争があったら協力して死んで行こう」というような当たり障りのない説に収斂してゆく。この過程は小熊英二の「単一民族神話の起源」にも書かれている。

このため日本は単一民族国家から帝国に至る過程で周縁を統合できなかった。すでに観察したように数があまり多くなかったアイヌ民族をなんとなく統合することには成功したが、朝鮮人をどう扱って良いか分からなかった。内地では参政権を与えハングルによる投票も許したのに、外地では植民地として土地を種脱するといったちぐはぐな動きが起きた。こうして日本は短い帝国期を終えてしまい、後には不毛な議論だけが残った。今でも在日差別やアイヌ民族などいないという議論にこの影響が残っている。統合できなかったので「なかったこと」にしたがるのである。背景には他者に脅威を感じて生きるのも嫌だし、かといって支配者として嫌われるのも嫌だという日本人の気弱な心もちがある。このためこの文脈で語られる家族は「和気藹々としてお父さんが尊敬されている」家族である。いわゆる「サザエさんシンドローム」だ。

日本で保守と呼ばれる人たちは家族という序列が復活すれば自分が他人から尊敬されるという見込みがあるのだろうが、そもそもしり切れとんぼで終わっている上に幻想に支えられた議論なので理論化ができない。唯一胸を張って「これが日本の伝統だ」などと言える議員は杉田水脈や三原じゅん子など限られた人たちである。後の人たちはさほど議論には興味がないので「俺が父親として威張れる家族が復活すればいいな」と考えているのであろう。自分は強制したくないが周り(つまり女性である)から言われると気分が良いのだ。

このように詳細に見てゆくと議論する価値すらなさそうだが、もう少し辛抱して家族の復活について考えてみよう。家族が復活されるためにはまず土台になるものを復活させなければならない。それは家業である。日本は戦後この家業に少し変更を加えて男性が主な稼ぎ手となって家族を支えるという制度を作った。企業という殿様に仕える武士が正社員だとしたわけである。企業は社宅を整備して専業主婦である妻と子供を支えることができる程度の給与を支払い企業年金で老後の面倒を見た。いわば終身雇用制は日本の公私が一体になった家族制度を支えていたことになる。

この制度は国家としては一度破綻している。職業軍人制度により近代化した侍を維持していたのだが「弾」が足りなくなると徴兵制に移行する。これは民間や家業から労働力を収奪して戦争に割りあてるという乱暴な制度だ。しかし食料調達などの兵站が作れなかったので、収奪された労働力の多くは餓死した。この時に作った年金制度が発展したのが今の年金制度だといわれているそうである。国はいったんは奪った労働力の面倒をみようということまでは考えたのである。

つまり、もともと日本には、家業、企業、国家の間に労働力と福祉・再生産機能を奪い合う構造がある。国民、企業、国家が一体の時にはこの制度でもうまく行くのだが、いったん不信感が芽生えると内部留保が起こる。国は独自の事業を行い利益を政治家や官僚が山分けするようになり、民間は海外への資金逃避や内部留保によって蓄える動きが出てくる。企業と国が協力関係にあった時にはなんとなく分担ができていたのだが、これが崩れたので国が国民の面倒を見るためには国家として家業がなければならないということになってしまう。だがそれは戦争かオリンピックくらいしかない。

すると取り残された国民が困窮する。国民の唯一の抵抗手段は費用を抑えることである。とりあえず今食べて行かなければならないので未来の投資を減らす。だから子供が減り、教育にお金が回らなくなるわけだ。極めて合理的に「少子化」が進行している。そしてその結果去年は37万人が日本から消えた。

終身雇用制度がどうして崩壊したのかはわからないものの、現在の企業は家庭を丸ごと雇っているという気分ではいないであろうことは想像に難くない。さらにバブルの後始末に失敗してから企業は国や社会を信頼していない。だから自分の手元にお金を残そうとしており、金融機関すら信頼されていない。人件費の削減は、今まで企業が持っていた再生産機能の保持を外部化しようという試みだ。賞味期限が切れてしまい家庭が維持できなくなったのだからこうした企業は解散させられるべきなのだが、日本は雇用などを企業に丸投げしているためにこれは難しい。

このように冷静に整理すると問題のありかはわかってくる。子育てにはお金がかかる。この費用を誰かが出さなければならない。かつての封建制のもとでは収益の源は家族だったのだから家族が子育ての費用から教育費までのお金を出していた。ところが戦後になって収益の源が企業に移るとこの責任も企業に移転した。企業がこうした責任を果たさなくなったということは、それよりも大きな単位である国がこの責任を持つか責任を企業に戻すべきだということになる。かつて国が国民の面倒をみようとした時には戦争という事業があったが今は事業がない。それでも国は国民の面倒を見るべきなのだろうかという議論になる。

もし保守と呼ばれる人たちが従来の家族制度を復活させたいのであれば、企業と話をして家族に十分な支出をするように説得するか法律を作ってこれを是正すべきである。もはや個人を主体として民主主義・資本主義とは言えず「日本型」の社会制度を新しくつくるということを意味する。やってやれないことはないだろうが、発明する部品は多くなるだろう。このやり方の欠点は日本人が議論ができないということである。現在のネトウヨが成立しているのはそれがリベラル叩きを主目的にしているからだろう。問題解決の議論が始まれば相手の人格攻撃が始まり議論は萎縮し「安倍首相を中人にみんなで仲良くしましょう」というような結論に終始するはずである。さらに杉田議論を見てもわかるように「役に立つ・立たない」という議論が出てくる。彼女はこれを生産性と言っていたが、生産性が議論になるためには国が事業体でなければならない。彼女の議論は「人権無視」というコンテクストで叩かれているのだが、日本的な文脈で見ると「家業なき集団」の問題なのである。

世界に目を転じてみると、先進国は企業ではなく社会が責任を持って再生産の費用を分配しようとしているようにみえる。いわゆる社会民主主義という制度である。よくリベラルの人たちがモデルにしている北欧は国が再生産の費用は国が出すという仕組みで運用されている。スウェーデンなどでは職業訓練などもしてくれるようだが、企業も簡単に潰れるし、首も簡単に切れるという話がある。産業の移り変わりが激しいので一企業が社会的責任をすべて追うことはできないという認識があるのだろう。このやり方はコピペで済むので議論はあまり必要ではない。が、議論を見るとわかるように、国が生産集団だから国民の面倒を見ているわけではない。個人主義なので社会の相互協力という認識ができる。もともと集団性の強い日本では経済主体が成員の面倒を見るのでこうした社会の相互協力という概念が育ちにくいのだ。

日本は「災害レベルの人口減」に見舞われているという認識があってはじめて、保守やリベラルの人たちがソリューションを模索することができるのだが、今回の議論にはそうした兆候は見られない。みんなまだ「なんとかなる」と思っているからなのだろう。

雇用システムはいち早く脱日本化してしまったのだが、家族の意識はそれほど大きく変化していない。夫が妻の姓を選択すると「婿養子に入った」と言って笑われ、妻が夫の姓を選択すると「入籍した」として家族と一体になることを強制されるといった状態が続いている。お盆になると旧来型のイエの価値観を押し付けられた嫁が一斉に発言小町に「もう夫の実家には帰りたくない」という投稿をすることになる。

こうした問題が起こるのは発言小町的には「舅姑理解がない」か「夫が優柔不断」か「嫁の我慢が足りない」からなのだろうが、実際には家の制度と社会システムのズレが問題なのである。

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新潮45と中年の危機

先日来、杉田水脈さんの差別発言から日本の政治の問題を考えている。多様性を許容できない人たちが「差別できるような自分より下の存在」を探しているという問題だと考えた。ここでは視点を変えて新潮社の立場からこの問題を見て行きたい。最終的に見えてくるのは「アサーティブネス」と「新潮45の読者が抱える問題」の対比である。アサーティブネスは自分の意見をしっかり持ちそれを他者に伝える技術のことだった。

新潮社はもともと小説の出版社だった。日本の小説は私小説がメインストリームだった時代がある。実生活では自己実現できない人が夢の世界で物語に耽溺するというのが普通の小説だとすると、それも叶わずに鬱々とした感情をそのまま伝えるのが私小説である。戦後になって新潮社は週刊誌を成功させた。1956年だそうである。新聞がカバーできない領域をカバーするのが週刊誌の役割だ。その後バブルの時代にFOCUSを成功させる。これはきらびやかな芸能界の表向きの姿の下にある芸能人の赤裸々な私生活を暴いたものでありこれも「裏メディア」だった。もともと新潮社はエスタブリッシュが取り損ねた人たちを狙った「傍観者向けの裏的」な位置付けの会社だということがわかる。そして、当事者たちが作る本格的なサブカルが出てくると衰退してしまうメディアを抱えている。そこで、新しい「弾」を準備して生き残るという戦略である。

例えば今私小説が流行らないのはTwitterをみれば十分だからだろうし、FOCUSよりも刺激的な記事はネットでいくらでも見つかる。が、新潮社としては次さえ見つかればそれで構わない。問題は新潮社が次の弾を見つけられなくなっていることくらいだろう。

この中で45歳以上をターゲットにした雑誌が新潮45だそうだ。Wikipediaには最初から「保守・反人権」的な立ち位置だったと書いてあるのだが、保守が反人権と結びつくとは考えにくいので「変化を拒む守旧派」を狙った雑誌だったのだろう。これも政治問題の当事者というよりは傍観者を狙った雑誌だ。一時は女性を取り込もうとセックス特集などを増やしたが成功せず「ジャーナリズム路線」に戻ったのだという。

では彼らがターゲットにする45歳以上とはどのような人たちなのだろうか。現在の45歳といえばちょうどバブルに乗り遅れた世代である。大学時代までは右肩上がりの経済成長が(少なくとも見かけ上は)続いていたのだが、それが蜃気楼のように目の前で消えてしまったという体験をしている「失われた世代」だ。

日本の終身雇用は若い時の丁稚奉公があとになって報われるという仕組みだ。だが、この世代の人たちには下がいない。さらに上の人たちは老後の不安を抱えておりポジションを手放さない。直近の先輩たちは「バブル世代に雇われた無能な」人たちなので尊敬はできない。成果をあげろとは言われるが経済成長期のようには行かないし、後輩も入ってこないので役職にもつけず、マネージメント経験もできない。これより下の世代はそもそも経済成長を知らないので会社に過度な期待はしないから自分のためにならなければついてこない。

50歳にもなれば諦めてしまうのだが、まだ諦めきれないが自分の人生が何だったのかよくわからないという年齢域である。他人から良いと言われた進路を真面目に選択したのにちっとも報われないという人が「自分の人生って何なのだろうか」と考えることを「中年の危機」と呼ぶ。つまり、新潮45が今回たまたま掘り当てたのは「真面目なのに認めてもらえず達成感も得られなかった中年の危機にある人たち」の受動攻撃性だと考えられる。

今回、同性愛の人たちが杉田発言に抗議行動を起こそうとしているのだが、これに対して冷笑的なコメントがついている。問題を認めないし何もしないという態度なのだが見ていると「受動攻撃性」という用語がぴったりなのだ。表面上は穏やかなのだが悪意と攻撃性に満ちている。

ハフィントンポストに受動攻撃性に関する記事があるので、対処方法などを見て行こう。

時にして誰もが受動的攻撃行動をとってしまうことがあるのだが、そこでしなくてはならないことは、あなたが最後に“ノー”と言いたかったのに“イエス”と答えてしまった時のことについて考えることである。受動的攻撃行動をする傾向がある人の中にはいくつかのタイプの人間がいる。衝突を避けたり怖がったりする人々は、自尊心が低く自信がない人ほど受動的攻撃性格になる傾向があり、ブラント博士によると、そういった人々は「感情、特に怒りの感情を持つことを許された経験がない」のだという。

つまり、自分が本当にやりたかったことをやらずに妥協をしてしまったことに憤っているのだが、それを怒りとして表出できない。そのために誰か代理で叩く人を見つけようとするのである。

ハフィントンポストの記事はこうした人たちに対処するためには「毅然と対応すべきだ」と書いてある。つまり、彼らがマイノリティを見つけ出して叩くことを決して許してはいけないということだ。つまり、もし当事者であれば「そのようなことは許されない」と毅然と対応すべきだ。

ただ、例えば同性愛の場合「この人生で納得している」という人は毅然と対応しやすいだろうが、そうでない場合には「承認されたい」という気持ちから弱腰の対応をしてしまうかもしれない。前回見た乙武さんの「自分で選んだわけでもないかわいそうな人生」という自己像は極めて危険である。こうした構造は学校でのいじめにもよく見られる。一見先生に従順な良い子が裏で弱い子供を執拗に攻撃するというケースである。そして、いじめられる側はなんらか自己肯定感の問題を持っているケースが多い。

さらに、今回の杉田発言に関する反論を見ていると「自分たちも見捨てられ不安を持っており」「このままでは大変なことになる」と慌てているようなものが多い。つまり非当事者が進んで獲物として議論に参加しているということになる。こうした感情の揺れは彼らを利することになってしまう。

この「世代論的理解」は意外と重要なのではないかと思った。この風潮を日本社会全体の風潮とみなしてナチスドイツと同一視するような考察がある。野党政治家の中にもそのようなほのめかしをしている人たちがいる。確かにアイデンティティクライシスの側面はあるのだがそれが全体に広がっているとは考えにくい。ドイツの場合は帝国が領土を失ったことにより民族全体に危機意識が芽生えた。さらに民主主義の体験が乏しかったために議会政治が無効化されることになってしまった。だが、日本にはそうした喪失経験は見当たらない上に、それなりの議会運営の実績がある。日本の近代議会運営の歴史はアジアでは一番長い。

ある年代に限ってみると、確かにナチスと重なる側面はある。だが、それが全体に広がることはないだろう。逆に「このままでは日本社会全体が大変なことになるのではないか」と怯えることは、彼らの感情的な餌になる。

個人的に興味深かったのは「村落共同体」との関連である。日本社会を概観するときに「村落共同体」的な構造が抱える問題と、村落がなくなってしまったが多様性に踏み出せない社会という全く異なった二つの問題がありこれが統合できなかった。だが、これを逃げ切った60歳台の人たちとその下の掴み損ねた人たちの問題と考えるとわかりやすい。掴み損ねた人たちは新しい行動様式を獲得する時間がなかったために「自分の権利を主張する」という非村落的な行動様式を獲得できなかった。だから怒りを誰かよそに向けるしかないのである。

受動攻撃性は自分の欲求を外にうまく伝えることができないために起きている。これを解消するのがアサーティブさである。改めて、杉田発言に抵抗する人たちを見ていると、ゲイの差別に同調するというよりは「あまり騒ぎすぎるとためになりませんよ」とか「そんなことより建設的なことを考えましょうよ」などと問題を無視したがるような発言が目立つ。多分、彼らは普段からそのようなことを言われており、自分たちの欲求が抑圧されているのではないかと思われる。

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多様性社会へようこそ

先日、杉田水脈という人の発言について考えた。下を向いて生きて行きたい人たちが犠牲者を探すという物語だった。杉田さんの発言には商業的価値があるとされ、自民党もある層に訴求力があると考えて杉田さんを「泳がせて」いるのだろうということもわかった。つまり、下を見つけたい人たちがたくさんいて、お金を払ってでもあの手の話を読みたいと考えているという事実がある。新潮社が週刊誌では政権を叩き、別のところでは差別を煽っているところをみると、会社全体としてはかなり追い込まれているのではないかと思われる。かつて戦争の荒廃から立ち上がるためにいち早く文化の風をと思っていた日本の出版社も今や国民の劣情にすがって日銭を稼ぐしかない。実は彼らも役割を見失いつつあるのだろう。

その意味では日本のエスタブリッシュメントとされた政党から差別を助長する発言が繰り返され、言論や文化を牽引していた会社から差別的な書物が発行されるということには大きな意味がある。

この荒れ果てた状態で、マイノリティと呼ばれる人たちが誰かから承認してもらえる可能性はそれほど高くない。杉田さんの発言が反発されるのは「自分が見放される側にいるのかもしれない」という恐れがある程度共有されているからだろう。つまりそれは従来のマイノリティとは違って「いわゆる正常域」から外れることがそれほど珍しいことではなくなっていることを意味する。裏返すと「正常」と呼ばれる人生を生きている人でも、それに確信が持てないので、異常を探し出して叩きたくなってしまうのだ。

よく、今の日本をかつてのナチスドイツと重ねる人たちがいる。帝国が崩壊しつつあったドイツ人がアイデンティティクライシスに陥った時によりどころにしたのがマイノリティの排除である。今回も同じ動きがあるのだから、日本人もアイデンティティクライシスに陥っていることになる。ではそのクライシスとは何なのだろうか。

かつての日本には望ましい人生というものがあり、その人生に乗っているだけである程度承認欲求が満たされた。男性であればいい会社に入ってお嫁さんをもらい子供を作って子育てと家のローンの返済で一生を終えるというようなコースだ。女性の場合は三年ほど腰掛けにお勤めした後でそこそこの相手を見つけて結婚して子供を作り自分の趣味などを諦めて子育てに専念するというのがよい人生とされていた。男性の場合は演歌を聞いていれば承認欲求は満たされたし、女性の場合もテレビドラマなどが「あなたの人生はこれで良かった」と慰めてくれた。

だが、人生の選択肢が増えた現在では人生の価値は自分で決めて行かなければならない。しかし自分で何かを決めたとしても誰かが承認してくれるわけではない。これが正解だからと考えて人生を選択した人が焦り出すのも実はとても自然なことなのである。

積極的な承認が得られないから、コースを外れたとみなされる人たちをみて「まだ自分は安心なのだ」と考えたい人たちが多いのだろう。そこに杉田さんの「あの人たちの人生は異常だ」という指摘に「目から鱗だ」などと考える人たちがでてくるわけである。

すべての人たちが自己承認を求める現代、待っていても自分の人生が正当化されることはないということになる。よく「多様な価値観を認めるべきだ」ということが言われるのだが、実は自分たち自身が多様な価値観を認めることができていないのかもしれない。と、同時に多くの人が実はいろいろな選択肢のある人生を生き始めている。つまり、我々はすでに多様な社会を生きている。

SNSが発展したこともあり自分が誇れることをインスタグラムあたりで自慢してみるのもよいかもしれない。いいねの数はある種の承認になるし、あるいはお金を払って特別な体験をしてみるのもよいかもしれない。自己承認を求めることはそれほど不自然なことでもいけないことでもない。しかし「自分の欲求をあからさまにしてはいけない」という教育を受けている人たちはそのようなことはできない、でああれば黙っていればよいのだが、他人を叩いて「ああ、自分は正常だった」などと考えてしまうのだ。

他人から承認をもらう前に、まず正常でなければ自分の人生を認められないという偏見を捨てるべきであろう。なぜならば厳密に正常などと言える人生はもはやないからだ。多くの人たちは「あるべき人生」と自分の人生がどれだけ違っているかということを基準にして自分の人生を裁きつづけるかもしれないのだが、それをあなたがやらなければならないということはない。さらに、正常な人生から転落したという一種の喪失感を持つ人もいるだろうが、嘆いたところでその正常は戻ってはこないし、本当にそれほど素晴らしいものだったかは実はよくわからないのではないか。

余力があるのなら社会正義のために動いても良いのだろうが、もしそうでないならまずは自分の人生を承認できるように、一人ひとりの場所でできることをやるべきなのだろうし、その上で余力があるなら他人の人生をあるがままに承認してゆけばよい。こうした人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしやすくなる。

待っていても誰も承認してくれないということは自分で自分の権利は主張すべきだということになる。先日来「自分の意見を他人にいうことにためらいを持つ」ということについて考えてきたのだが、もうそんなことを言っていられるような社会ではない。何しろ政権政党が徳を失いあの状態なのだから、社会全体がどうなっているのかは推して知るべしである。すでに変化してしまったのだからあとはそれに対応してゆくしかないのである。

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杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。

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エアコン否定派にされてしまった熊谷千葉市長

千葉市の熊谷市長が学校にエアコンをつけないと表明して物議を醸している。つけないのではなくお金がないからつけられないと言っているだけなのだが、Twitterはいまやエアコン至上主義が正解なので何人であってもこれに逆らうことは許されない。テレビも同じ状態にあるようでコメンテータが財政の問題について触れる時に「エアコンが必要なのはまちがいないですが」と触れるのが常識化している。

中でも面白かったのが、ケチな市長を選ぶと結局市民が損をするという呪いの言葉だった。同じようなことをヨーロッパのポピュリストたちが使う。緊縮財政に耐えられなくなった人たちがよく使ういいかたなのである。

こうした発言が出るのは実は偶然ではない。千葉市は放漫経営を放置して損出を各種団体に飛ばしていた過去がある。その上、政令指定都市になる時に「さいたま市くらいには勝たなければならない」として大型の公共施設も作った。結局、財政再建団体転落一歩手前で踏みとどまったが、これ以上市債が発行できないという状況にある。

その意味で過去に政治に関心を持たなかったから、現在の市民が損をするという指摘は当たっている。

その上県もあてにならない。県知事は「あの」森田健作である。今回は「市町村を応援する」と表明したが、実際には「国に頼んであげる」といっているだけで県がお金を出すつもりはないらしい。ただこうしたいい加減な発言がなんとなく許されてしまう県民風度がある。おおらかと言えばおおらかだが、いい加減な土地柄なのだ。

熊谷市長はこれまでの2期は財政再建ばかりをさせられてきたので、面白みのある政治課題には着手できなかった。やっと整理もできたのでようやく再開発などのまちづくりに着手できるという段階にある。

しかし、今回の件で熊谷市長を応援する気にはなれない。そもそも最初の段階で「共産党」を持ち出してきた時点で彼らを刺激することはわかっていたはずだ。長期政権のおごりが出ているのだろう。

熊谷市長はこれまで改革派の旗手とされており「若いからSNSの使い方も上手」という印象があった。ラクダみたいな顔をしているが、身長が180cmあり市民団体のおばさんたちにも評価が高い。このように味方に囲まれているためアンチに慣れていない。このために自分に都合が良いツイートをリツイートしたりという炎上に油を注ぐようなことをやってしまっている。

その上、今回の議論はすでに結論が「エアコンが正義」と決まっていた。そこに「予算の問題で」などと言っても言い訳にしかならない。

この「正義」については個人的も怖いなと思う体験をした。比較的リーズナブルな反応をする人も「いやいろいろと事情があるのですよ」というとかなり強く反論された。そのあとも幾つかTweetしていたので気持ちが収まらなかったのではないかと思う。「絶対に賛成されるはずなのに賛成されなかった」ことに対して怒りを覚えるようだ。

前回は、個人として意見を表明するのが怖いと考えている人が反論そのものに心理的葛藤を覚える事例だった。日本人が個人として意見をいう時には切腹する覚悟が必要である。ただ、こうした人たちが群衆にまぎれたり、匿名で発言する場所を得たり、もしくはすでに集団として結論が決まっている意見にコミットすると、逆に自意識を膨張させてしまう。裏返せば「正義の側に立ったらなにをしてもよい」とされているからこそ、普段は個人の意見が言えないのかもしれない。

だが、考えてみれば「エアコン至上主義」というイズムがその人の人格に大きな影響を与えるはずはない。実際に市長選挙の時にもエアコンの話はあったがほとんど話題にならなかった。つまり、人々はエアコンをつけなければならないと考えているわけではなく、自分の意見は正義なので通らなければならないと考えていることになる。これは「フォルスコミットメント」なのだ。

熊谷市長は共産党を挑発することで一部の人々に「フォルスコミットメント」を与えた。ただ、そのコミットメントが偽のものだったとしても、それが取りさげられるとは限らない。ビールの代わりに発泡酒を飲んだ人が「これがうまい」と言ってしまったがために、発泡酒を飲み続けるようなものである。つまり、人々を刺激して意見を言わせてしまうと、それが後付けでその人の主張になってしまうのである。

前回はアサーティブさについて考えたのだが、アサーティブな技術ではフォルスコミットメントの問題は解消できないと思う。人々は善意から行動しており義憤に駆られている。そのため、主張が正義の実現に欠かせないと思い込んでしまうのである。

そしてその善意を実現するためには民主主義のプロセスを無視して場外で騒いでも良いし、物理的でなければ言葉の暴力くらいは許されると考えるようになる。皮肉なことにこれがオートクラシーへの階段になっている。

熊谷市長はもともと民主党市議団などから推される形で市長になったようだ。これまで真面目に財政再建に取り組んできた。しかし、こうした地道な努力は評価されない。また予算について市民で話し合ってくれなど言ったとしても、その人は市民ではないかもしれないし、面倒な意見集約などをしてくれるはずはない。単に「あれが欲しい」とか「こうでなければならない」という意見をぶつけるだけなのだ。

市長としてこれがやりたいと言った時点で叩かれる。市長というのはその意味ではサンドバッグのような存在でありそれほど面白みがない。このような面白みのないポジションに進んで立ちたがるのは、政治家の二世とか、企業と結託して彼らの代理人になる人か、自己評価が肥大した人格に問題のある人だけになってゆくだろう。そしてそれを後押ししているのが、何かあった時だけ大騒ぎする「外野」の人たちなのである。

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虚しさだけが残るエアコン論争

エアコンの設置論争が熱い。小学校1年性の子供が熱中症で死亡したのだが、このとき対応した教室の室温が37度だったそうである。外気温が32度のところで熱中症になったのにさらに熱がこもったところに連れて行ったことになる。先生に救命救急の知識がなかったようだという観測もあったし、もともと体調が悪い子供を無理に外に連れ出したのもまずかった。

命にかかわる問題なのでさっそくなんとかした方が良いのだが、行政の腰はなかなか重いようだ。しかし、今回の論争を見ていると行政の他にエアコンがつかない理由があるように思える。それが日本人の議論の稚拙さである。

もちろん、行政にもっとも重い責任があるということを認めた上で、日本人の議論の稚拙さについて考えたい。有権者は問題が持ち上がった時に騒いですぐに忘れてしまう悪癖がある。多分、暑さが緩む頃にはこの話題は完全に忘れ去られているであろう。

今回は千葉県と千葉市を例にあげて説明するのだが、千葉市の公立学校のエアコン設置はほとんど行われていないようで、共産党やリベラルが行政の不備を攻撃する材料の一つになっている。隣の東京都の設置率が比較的高いために攻撃しやすいのだろう。だが、こうした問題が出ても有権者は見向きもしなかった。彼らが無名だからだろう。

実際に「すでに話題に出ているが有権者の耳目を集めなかった」ということがわかっているので、熊谷千葉市長の態度は強気である。逆に船橋市や八千代市など100%設置が終わっている自治体もあるので、住民がその気になればエアコン設置は実現不可能ではない。

もともと日本が子供にかけるお金は少ないとされており、これが政府の政策に疑問を持つ人たちの不満の一つになっているのだろう。議論が複雑すると教育予算全般の正当性は証明しにくくなる。そこで死者までだしてしまった事例が引き合いに出され「エアコンの導入は善であり、それに抵抗するのは悪である」というわかりやすい図式ができてしまったのだろう。

今回の熊谷市長への反発は、このコミュニケーション能力に問題がある市長が議論に全く関係がなかった「共産党ボタン」を押してしまったことが引き金になっている。このことが「無視されつづけているリベラル」の苦々しい記憶を呼び覚ましたのだろう。

実際にきっかけになったつぶやきは、むしろ大阪のプロパガンダに乗ったものと思われる。つまり維新系信者なのだろう。この人がどこの人かはわからないが千葉市外の人であれば、千葉市の共産党対自民・民主連合という情勢については知らなかった可能性が高く、共産党の「ミスリード」の影響を受けているとは思いにくい。

プロパガンダと書いたのだが、大阪市長を経験した橋下徹は350億円をかけてエアコン設置をやりきったそうである。大枠の大阪都構想には疑問があるが、弁護士である橋下さんが基本的な経営の知識を持っており予算の捻出ができた。あくまでも橋下さんの主張によればだが平松さんにはその技量はなかったようだ。確かに1000万円でエアコンは設置できない。

大阪市よりも人口が少ない千葉市の場合にはエアコンの設置には70億円がかかるそうだ。

確かに千葉市の財政は厳しい。数年かけてゴミ処理の費用を削減しようとキャンペーンを行っており、数億円の費用を減らすという努力をしている。また、市役所を建て替えることによってランニングコストの低減と耐震化の向上を狙っている。こうした涙ぐましい努力からわかるように、千葉市は2017年まで財政危機状態にあった。こうした状態で一挙に70億円の支出を決め流のは難しいので「それでもエアコンが欲しい」なら増税の必要がある。市長としてはそのための議論をみんなでしてくれと言っているのだが、増税などという主張をすれば落選してしまう市議はこうした議論の主導には消極的だろう。

実はこの構造は国全体が借金まみれになる原因になっている。そして千葉市はその借金がのちの世代にどう影響するのかという良い実例になっている。予算が出せない千葉はある意味、破綻はしなかったが財政が緊縮した国の姿なのである。

だが、それにしても「共産党ボタン」を押してしまったのはよくなかった。総論としては正しい路線を進んでいる熊谷市政だが、市長のコミュニケーション能力にはこうした稚拙さがある。実質的にはオール与党体制になってしまっている千葉市には野党が共産党しかない。そして共産党は数字を理解しない。数字とは具体的には「どこからお金を持ってくるか」ということと「その投資によってランニングコストがどう変化するか」という視点である。残念ながら共産党は単に「あれが欲しい」というだけなのである。

財政的に厳しい千葉市は開発を民間資金に頼るしかない。これが借金に頼ってでも自前の開発を続けようとした自民党時代との違いである。千葉市の自民党政権は巨額の借金を残し最終的には逮捕者を出して終わった。自民党議員団が利用してきた官僚経験のある市長が汚職で逮捕されてしまったのである。受け取った金額は100万円に過ぎないのだが、懲役2年6月、執行猶予4年、追徴金200万円の判決が確定している。そしてその結果として思い切った投資ができなくなってしまったのである。

しかし共産党は自民党時代との変化を理解せず「大型開発はすべて悪でありこれが可愛い子供達の未来を奪っている」というような理解をしているようだ。最近のキャンペーンではランニングコストの低減を狙った清掃施設の建て替えもすべて「悪だ」と言っている。もしかすると共産党は本当に誤解しているのかもしれない。だが、共産党の側もいうことを聞くわけには行かない。なぜならば聞いてしまえば唯一の反対材料がなくなってしまうからだ。

しかし、市長側にも問題がある。市長選挙で共産党と対峙しているうちに被害者意識が芽生え「ミスリード」と言い切ってしまったのだろう。最終的にかなり挑発的なつぶやきになった。


このようにエアコンは「子供達の未来を考えない悪政の象徴」という地位を得てしまったので、設置が自己目的化してしまった。そもそも暑いのがダメならば学校をおやすみにしてしまえばよい。定期的に夏休みの期間を見直すか、基準を作って登校禁止日を作れば良いのである。しかし、今回の議論の目的は「現在の政治が子供達をないがしろにしている」という主張を認めさせることにあるので、夏休みの長期化というような代替え提案をしても受け入れられる余地はないし、予算について話し合いをしましょうというような提案が受け入れられることもないだろう。

自分たちが無視されることについて憤った人の中には「学校にエアコンをつけるまで官公庁からエアコンをなくすべきだ」という極論を持ち出す人さえいた。俺たちに我慢させるならお前も我慢しろということだが、市長などの偉い人たちではなく、市役所職員などの末端の人たちがいる空間や市の施設などで「我慢の政策」が実施されることになるかもしれない。ルールを決めている人たちはエアコンの効いた部屋で涼んでおり、市職員の人たちだけが暑い思いをするということでは、何の議論なのかさっぱりわからない。

子供の命を守るというのは大切なテーマなのだが、人々はつい「自分の意見が無視されている」ということに過敏に反応する。結局問題は解決されず無視されたと考える人たちの不満だけが高まって行くわけである。だが、それでは問題は解決しない。

議論が噛み合わない背景には「自分をわからせる技術」のなさがある。今回は実際にいただいた読者の感想(実際にはクレームだが)を元に、アサーティブさとその技術について考えたい。

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社会参加意識が低い有権者とジャーナリズムのポジティブフィードバック

前回はTBSのジャーナリズムごっこから視聴者が期待するニュース番組のあり方を考えた。視聴者は「とりあえず何が起こっているのかを知っておきたい」と考えるか、自分たちの価値観を押し付けて他罰的に盛り上がることができるニュースショーのどちらかを求めているようである。前者は「自分は政治には興味がないが他人に遅れを取らないように情報をとっておきたい」のであり、後者は「自分の価値観を他人に押し付けることによって満足したい」のである。

今回はこの点について少し深掘りする。これを読むと「だから日本人はダメなんだ」と書いているのではないかと感じるかもしれないのだが、実はそのような気持ちはあまり強くない。しかし、建前のジャーナリズム論からアプローチしても全く物事が見えてこない。日本には民主主義もジャーナリズムも西洋と同じ意味では存在しないからである。

前回の記事はもともと「だからTBSはダメなんだ」という論調でページビュー稼ぎをしようと思っていたのだが、それを止めたのは理由がある。文章を寝かせている間にQUORAの質問に答えたのである。教えてもらったり自分で探したのは下記の文章だ。時間のある方はぜひ読んでいただきたい。

若者の政治的態度とSNSの影響

若者の政治的態度のついて答えようとして、最初に持った仮説は「日本の若者は政治に関心がない」というものだった。ところがそれを裏打ちするような資料は得られなかった。代わりに「国際比較をすると政治への興味・関心は他の先進国並み」という文章を見つけた。

日本の若い人たちの保守傾向が強いことはすでに知られているのだが、全年齢的にSNSを参考にしている人ほど内閣支持率が高いという調査もある。またSNSを参考にする高齢者ほど政治的意見が「過激化」しているという調査もあった。SNSに対するリサーチャーの見方は様々だ。新聞などの既存メディアより劣っているという含みを持ったものもある。富士通総研の「過激化」という言葉はかなり否定的な思い込みが込められているように思える。

親の所得が子供の政治的態度に影響する

子供たちの政治的関心を見ると、新聞購読率が高いほど政治への関心が高いことがわかる。そして、この新聞の購読率は親の所得と関係がある。つまり、親が裕福であるほど新聞を購読している可能性が高い。なぜ、親が裕福なほど政治的関心が高まるのかはわからないが、環境が整った子供ほど、SNSだけではなく新聞などから「バランスのとれた」情報を入手するようになるだろう。

調査を勝手に混ぜ合わせると、裕福な家の子供ほど政治への関心が高く、政治への関心が高いほど内閣の支持率が高くないことが予想される。一方で最初から新聞を読む習慣ができない家の子供たちはSNSで自分の好きな情報を集めてしまうために、現在のSNSに影響されて内閣を支持してしまう予想が立てられる。つまり、貧しい家の子供ほど内閣を支持するのではないかという相関が仮説されるのである。

自民党のように討議ではなくマイルドなポピュリズムに支えられた政党は、有権者があまり政治に関心を持たない方が有利なのだと言える。そのためには批判的な新聞にはなくなってもらいたいと考えるだろう。このことから思い出すのは「由しむべし知らしむべからず」という論語の言葉だ。これが現代にも誤解された形で生きていることがわかる。ただ原典には政治家が守るべき価値が列記されているそうで、政治家が好き勝手をしても良いという意味ではないようである。政治家の中には江田五月さんのように「依らしむべし」と誤解した上で「国民に本当のことを知らせてはならない」と誤解している人もいる。しかし、実際にはこの誤解の方を理解している政治家が多いのかもしれない。

従順さが期待される若者と二極化する高齢者

日本では若者は自分の色に染まらず組織の論理に従うことを求められる。例えば学校で習った専門知識を「振りかざす」学生は嫌われ企業独自の知識を吸収してくれる人の方が好ましいのである。ところが年齢が高くなるに従って思い込みで他人を判断することが許容されるようになる。環境によって得た知識が固着しその人の常識になってゆくのである。

富士通総研の「過激化する高齢者」は、高齢者ほど政治的な態度が固定している上に極端になっていると指摘している。しかしこれは「若い人ほど自分の意見を控えている」ということを意味しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、年齢が高くなればなるほど、現体制を支持する人はより強く現体制を支持するし、そうでない人たちはより強固に反対するのだろう。面白いことにこの富士通総研が聞いている質問項目は「政権に対する他罰感情」か「周辺諸国の脅威」について聞いているものと社会保障など既得権の確保についてのもので構成されている。つまり、高齢になればなるほど他者に対して厳しく接するようになり、既得権が当然確保できると思い込むようになると言い換えられるおである。

「サンデーモーニング」を見ると政府に対する他罰性の他に「スポーツ選手に喝を入れる」という他罰的なショーが並行していることがわかる。高齢者は監督目線でプレイヤーを評価できるし、選手が業績をあげれば自分のものにしてもよいと考えるようになるのだろう。

一言でいうと高齢者は集団に対して所有者意識を持っていることがわかる。

日本人は集団を過度に信頼している

一方で日本の若者には別の特徴が見られる。日本の若者の政治への関心は先進国と比較してもそれほど遜色のあるものではないが、特徴的な点が二つあるという。社会参加意欲の低さと「政治は若者の意見を積極的に聞くべきだ」という項目の高さである。つまり日本の若者は自分から積極的に政治に関わって政治を動かそうとは考えておらず、政治のほうが歩み寄って欲しいと考えているのである。今回は若者の調査と高齢者の全く別の調査をバラバラに見ているので受動的な性格が高齢者にどう引き継がれるのかはわからない。

日本の若者には積極性が足りないと断じることもできるのだが、実際には従順でいさえすれば当然集団の方が歩み寄ってくれるという期待を持っていることになる。つまり、自分の意見を表明したり固めたりすることは許されないが、当然いうことを聞いてもらえてもいいだろうと考えていることになる。つまり<過激な>とされる高齢者と「従順な」とされる若者の間には本質的な違いはないかもしれないということになる。

距離を置く若者

毎日新聞には気になる一節がある。まともな若者は政治にむしろ距離を置こうとしているそうだ。

大学、高校に加え、最近は地元自治体と協力して中学校での主権者教育に取り組むNPO「YouthCreate」の原田謙介代表(31)はこう言う。

「確かに政治への関心は高くなったが、政治家や政党は遠い存在で、むしろ距離を置きたがっている生徒が増えている」

森友・加計問題のほか、政治家の暴言や不祥事も相次ぎ、印象は悪くなるばかり。このため政治家には正当な要望をするどころか、接してもいけないと思い込んでいる生徒が、ことのほか目立つというのだ。

高度計勢成長期の若者はそれほど政治に関心を持つことはなかった。そもそも社会参加意識が低く政治はどこか遠いところで行われているように思われたからである。SNSで情報が集まるようになると、失言を繰り返す政治家とそれを一方的にバッシングする高齢者の姿を目の当たりにするようになる。結果的に政治に距離を置くようになる。すると「とりあえず最低限のことだけ押さえておいて距離をおこう」と考えるか、一方的に価値を押し付けて仮想的な優越感に浸るための道具になってしまうのであろうということが予想される。

そう考えると政治家の態度もジャーナリズムの堕落もすべて原因は社会参加意識の低い有権者に由来するということになるので、一方的に攻め立てる気にはなれなくなってしまうのである。特に野党は有権者の他罰性を満たすというニーズに応えいることになる。SNSでは安倍政権を叩けばいいねの数が増えるし、視聴率のために誰かを叩きたい放送局にも取り上げてもらえる。だが、それがますます若者の政治に対する参加意識を減退させ、将来他罰性が高く参加意識の低い有権者を育てることになるということになる。

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自ら進んで奴隷になりたがる若者

QUORAで「若者が野党嫌いになるのは若者がコミュ力を重視するからだ」という素っ頓狂な質問を見かけた。全力で否定しようと思ったのだが一度落ち着いて元の文章を読むことにした。この文章でいうコミュ力というのは、空気を読んで同調的に動く人のことを意味するのだそうだ。ああ「コミュ力」の定義が違っているのだなと思った。文章として読んでもらえるようにキャッチーなタイトルをつけたのかもしれない。ただ、一生懸命勉強すると忖度官僚になってしまうのだから、あながちないとは言い切れないなとも思った。

コミュニケーション能力というと、例えば会議のモデレータのような能力を思い浮かべる。参加者が持っている漠然とした違和感や疑問などを掘り下げて問題を発見させるというような能力で、アクティブリスニングなどと言われる。自分を知らせるにせよ問題を聞き出すにせよ、コミュニケーションには技術がいる。いわゆる「聞く力」や「話す力」である。

だが、コミュ力が同調性・協調性を意味するとすると、日本では受信力や発信力はそれほど重要視されず、形式的な同意が好まれるのだということになる。こうしたコミュ力が横行するのは学校が「何も変えたくないが少ない人数で効率的に生徒を管理しなければならない」からではないかと思う。

例えばいじめについて考えるときに「お互いに相手のことを思いやってうまくやって行きましょう」というようにわかったようにまとめるのがコミュ力である。実際には何も変わらず、したがっていじめはまた起こるだろう。しかし、参加者は(いじめられている人を除いてはだが)気分良くその場を立ち去ることができる。逆にいじめの原因がわかったりすると「何か嫌なものを見た」ことになり、問題を発掘して解決を試みた人は嫌われてしまうのかもしれない。

実際には大人もこうした「そつない」コミュニケーションを取ることがある。だがよく観察していると大人たちには魂胆がある。自分たちの持ち出しを少なくしてできるだけ相手に持ち出させるために「より切実な気持ちになっている人」の方が動かざるをえないように仕向けるために議論をする。そしてどちらも動かないと「鋭意努力はするが誰も何もしない」ことを決める。これは日本人が村落を生きているからである。小さな経済単位の損得ですべてを決めているのである。

高齢になればなるほど腰が重くなるのでますます何もしなくなる。過疎地の高齢者たちは「このままでは村がなくなる」などと言っているが自分で動いて若い人たちが暮らしやすいように村を整えるなどということは考えないし、実際によそから若者が越してきたらあれこれ難癖をつけ面倒な役員を押し付けて使い潰してしまう。こうした議論は今では国中に広がり、少子化対策のためにお金を出さないで、外国から便利に使えて福祉の対象にもならない単純労働力が自然発生してくれないかなと夢想している。日本は全体として過疎集落のようになりつつあるとも言える。

ただ、高齢の村人たちは自分がなぜ動きたくないかを知っており、なおかつ相手もなぜ動きたくないかがわかっている。自分たちが村落に住んでいることを知っているのである。彼らが公共を持ち出すとき、彼らはそれが絵空事であるということを知っている。何もしたくないので相手を非難して見せたりするのだが、たいていの場合それは単なる演技であり、周りを諦めさせるためにわざとやっている。こうしたことができるのは変わらなくても既得権だけでなんとかやって行けるからである。

ところが管理されている若い人たちはこの村落がわからなくなっている。日本人が最初に村落を意識するのは会社で正社員になったときだろう。つまり終身雇用で動く範囲が彼らの村になる。ところが最近の若い人たちはもともとこうした利益構造から取り除かれており、地域もないので村を意識することができない。

これが被害妄想だと感じる人たちに一つだけ例をあげたい。今度の東京オリンピックは建設村などに利権を引き込むための言い訳である。ただ、自分たちだけで投資ができないので「公共」という概念を用いることにした。彼らのいう公共とはつまり政治家の人たちが私物化できる範囲というような意味しかない。彼らは、国民にかわって税金を使うという意識はなく、国民から税金をとりたてて好きなように使うという感覚を持っているので、公共を私物のように捉えてもそれほど違和感を感じないのだろう。

だから政治家はオリンピックの運営に協力してくれた人にはびた一文払うつもりはない。そんなことをしたら彼らの損になってしまうからだ。すでに「これくらい儲けよう」という見込みがあり、それが減ることを考えただけで嫌な気持ちになってしまうのである。そこで「感動を見せてあげるから」などと言いつつ、公共を仄めかして無償労働をさせるのである。

オリンピックのボランティアの内訳をみると、ITや通訳といった特殊技能を持った人たちを無償で使い倒したいという願望が大きく現れている。彼らは本当はこれを企業にも導入したい。こうしたITの知識が語学能力にどれだけお金を払ったのかということなど考えもしない。そんなことは彼らには関係がない。そういう人たちが政治の運営をしているのだから、次第に「専門性を持つ努力をした人をいかに安く使い倒すか」ということを考える社会が作られるだろう。

ただ、周囲との軋轢を避けて「嫌だ」と言わず黙々と働きたいならそれはそれで若者の希望なので、こちら側がとやかく言う筋合いのものではないのかもしれない。ただ、「コミュ力」の高い人たちは意義を唱える人たちは同調圧力をかけて周囲を巻き込もうとする。やはり村落共同体が崩れかけた現代ではコミュ力は有害に働くのではないかと思える。

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Twitterからヘイトアカウントを駆逐するにはどうすべきか

Twitter社からアンケートの依頼が来た。ランダムにコミュニティの運営についてアンケートをとっているらしい。「攻撃を受けたことがあったか」というのが質問の内容だった。他の人たちがどうなのかはわからないのだが、政治的な課題を扱っている割にはあまり暴力的な攻撃を受けたことはない。かつて例外的に東浩紀という人から絡まれた記憶がある。ずいぶん前(つまりTwitterが荒れる前)なので炎上対策のセオリーに従って放置した。しばらくは彼の取り巻きのような人たちが閲覧していたようだが、やがて治った。ネットでは有名な人らしいのだがこの類の人たちの書いているものは信頼しないようにしている。炎上を起こして話題を作るというのが彼らのやり方なのだとは思うし、フリーランス的な傾向の強い人たちはそうしないと食べて行けないという事情も分かるが、信頼性は損なわれると思った方が良い。

さて、アンケートは面倒だなと思ったのだが、やってよかった。Twitter社が何を気にしているかということがおぼろげながらわかったからだ。

彼らが気にしている点は二つだった。第一に暴力的な個人攻撃が起こることを気にしているようだった。場が荒れると広告プラットフォームとしての魅力がなくなるからだろう。が、これはあくまでも個人と個人の話である。つまり、朝鮮系の当事者が「朝鮮人は黙っていろ」と言われたらこれは暴力なのだが、当事者ではない人がそこに参加することは想定されていない。例えば「日本は単一民族国家だからアイヌ人などいない」というのはヘイトスピーチなのだが、これに声をあげるべきなのは当事者である。

すでに書いたように、ネトウヨ攻撃に対して個人攻撃はやめるべきだと思う。カウンターのほうが暴力的だと取られてしまう可能性が高く、抑止に実効性がないからである。ヘイトスピーカーは個人の政治的態度を主張するという形で情報発信をするので、それにメンションをつけて「黙れ」と言ってしまうと逆に政治的意見の抑圧に取られてしまう可能性が高い。他者の人権を否定するのは表現の自由ではないが、あくまでも反論する権利があるのは当事者だけなのだ。仮に参加するとしたら、攻撃された方を応援するなどの支援に止めるべきだろう。

次にTwitter社が気にしているのはフェイクニュースの発信のようである。アメリカではFacebookがフェイクニュースの発信源になっており対応が遅れたことが社会問題化した。広告収入に影響があり株価にも影響したようだ。

アメリカ人は日本人が考えるほどには国際化されていない。関心事は国内のことだけで国際情勢には理解もなく無関心である。そして日本人ほど社会正義には実は関心がない。彼らの関心事はお金である。だから国内で安倍政権がどうであろうと彼らにとっては「知ったことではない」と考えて良い。日本で外資系企業に勤める人たちはこれを知っており、自分の与えられた職務は全うするが、決してこちらからそれ以上のことを働きかけたりはしない。Twitterではフェイクニュースのほうが頻繁に扱われるという統計も出ており対策は講じなければならないのだが、そこに日本人的な倫理観を持ち込んで、日本支社のトップをつついても意味はないのである。

もしヘイトアカウントを閉鎖したいなら、アメリカ人の意思決定者がどのようなことを気にしているかということを考えた上で権限のある人に伝えなければならない。このアンケートから見ると、当事者が人権侵害を受けたならそれは報告すべきだが、そうでない人は事実誤認の指摘に止めるべきであろう。

ヘイトアカウントを執拗に攻撃している人を見ると弁護士とか学者などが多い。どちらも社会問題を取り扱っている。彼らは常に他人の問題に介入しているので、つい「正義があれば自分の意見が通る」と感じてしまうのだろう。こうした人たちが第三者の支持を得られないことはすでに観察済みだが、マーケティング的な視点もなく自分たちの意見をピッチできない。その意味ではネトウヨの人たち同様に村落に住んでおり自分たちの事しか見えていないのだろう。

今回のBBCの番組Japan’s Secret ShameでもYouTubeに権利処理なしにアップロードされたものが削除されているのをみて「安倍政権が隠蔽を図っている」と叫んでいる人がいた。多分権利処理のような実務に疎いかなんでも安倍政権に結びつければよいと安易に考えているんだと思う。実際にはプレゼンテーションが多くの人に認知されるようにするためにはどうしたらいいかなどということには興味がないのだろう。プロフィールを見たら大学を退職した研究者だった。

結果的に日本の人権リベラルの人たちの意見は通りにくく、ヘイトスピーチやポピュリズムを野放しにすることにつながっている。

Twitterも他のプラットフォームと同様やがては荒れる運命にあるのかもしれない。mixiのように過疎化したままそれなりの平和を保っているプラットフォームもあるようだが、すでに2ちゃんねるやはてななどがそうなっている。

だが、それでも良識のある在野の人たちはこうした世間知らずの人たちに先導されないように気をつけるべきだろう。学者や弁護士は正義さえ主張していれば本や名前を売ることができるのかもしれないのだが、一般人の生活は息苦しくなるばかりだ。一方的な正義を叫んでいても安倍政権が全く影響を受けなかったこの5年間について我々は深刻に受け止めるべきなのではないだろうか。多分Twitterでヘイトアカウントを指摘した人たちが一時凍結されることと、アンチ安倍人たちがなかなか受け入れてもらえないことにはなんらかの共通点があると思う。

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