消費税議論から見る、議事録を隠蔽してはいけない理由

今回は前回の議論を踏まえて、なぜ議事録の隠蔽や改竄をしてはいけないのかということを考える。これは間接的に安倍政権がこれ以上政権にい続けてはいけないということを意味するだろう。

前回、消費税議論がどう扱われてきたのかということを勉強した。もともと国債の穴埋めに使うつもりだった消費税の使用目的を「福祉のため」といいかえたのが源流になっている。このため今でも消費税議論は錯綜をつづけ、その度に政治的リソースが消尽される。さらに野党もこれに共犯者として加担しているので有効な対抗策が打ち出せないでいる。つまり、嘘は意思決定を麻痺させるのである。

「政府が身を切る改革をしてから増税する」という約束は度々裏切られてきた。このため無力感を感じた有権者は懲罰的・報復的に政権政党への投票を控えるという投票行動をとるようになった。これが今でも続いているので、自民党・公明党はあの手の手で有権者への懐柔策を模索する。そしてそれが裏目に出てますます議論が混乱するのである。

本来なら、財政再建に果たして今回の消費税増税が寄与するのかという議論を行わなければならないのだが、実際には外食の境目はどこかというテレビショーが面白おかしく取り上げられるだけになっている。ポイント還元に至っては、わざわざカードで買い物をして2%くらいポイントで返ってきても旨みがないとか、商品券は転売されて暇な人が税金を食い物にして儲けるだけになると冷笑される始末である。

今回はこの議論の「本当の」源流を探そうと試みたわけだが、途中までしか遡れなかった。財務省の記録によると、ある日突然政治の側から「消費税をあげましょう」という議論が始まったことになっていて、まるで他人事のように書かれている。

大平内閣(昭和 53 年-昭和 55 年)の「一般消費税」構想や、中曽根内閣(昭和 57 年-昭和 62 年)の「売上税」構想の挫折を経て、竹下内閣(昭和 62 年-平成元年)は、消費税の導入を政 権最大の課題とした。昭和 63 年 12 月、「消費税法」(昭和 63 年法律第 108号)が「税制改革 6 法」の 1 つとして成立し、平成元年 4 月に、税率を 3%とする消費税が導入された。消費税は、ほとんど全ての国内取引(商品とサービス)と外国貨物に課税される。消費に対して広く薄く負担を求めることで、所得課税中心の戦後税体系を見直す端緒が開かれた。 消費税の導入にあたっては、所得税、法人税等の大幅な減税が実施されたため、ネット では 2.6 兆円の減税となった。しかし、食料品などの生活必需品を含めて一律に課税され る点や低所得者層の負担が重い「逆進性」への反発は大きかった。 事業者の納税事務負担を軽減するための諸制度(帳簿方式、事業者免税点制度、簡易課税制 度、限界控除制度)は、新税の円滑な導入に役立った。しかし、零細・中小事業者への手厚い 措置は、消費税の一部が事業者の手元に残るとされる「益税」への批判を招いた。

しかし、政治が単独でこんなことを言い出すはずはない。多分源流は大蔵省にあり、大蔵省の意見を聞いてくれるような識者を集めて議論をしたはずである。だが、大蔵省・財務省はこのねじれ切ってしまった議論の矢面に立ちたくないので源流の議論を隠蔽している。実際には世代が変わっているので忘却されているはずだ。

百歩譲って、嘘を管理できるなら、政府が嘘をついてもも構わないとしよう。本来の民主主義ではあってはならないことだが、国民にも主権者意識はないのでこれも致し方がないことだ。しかし、大蔵省の議論は隠蔽されてしまっているために当初の意思がよくわからない。だから、そこから同変質してしまったのかということがわからないのだ。例えば、当初は何パーセントくらいを想定していたのかもわからないし、特定の財源として使うつもりだったのか、あるいはそういう意図はなかったのかもわからない。

意思はわからないものの当事者世代の人たちは多分嘘を含めたストーリーを共有していたはずである。もともと、大蔵省と政治家の間には交流があり彼らは一つの塊(つまり村だ)を作っていたからである。

ところが、細川政権とか自社さ政権など政権が変わると政治家の間ではストーリーが共有されなくなり、安倍首相の代(自民党が政権基盤を失いかけた時に政治家になっている)になるころにはこのストーリーが完全に失われてしまった。藤井裕久氏などはもともと大蔵官僚なので「ストーリーを知っている側」の政治家である。だから「まずは行政改革から」と言えるのだが、安倍首相は官僚経験も大臣経験もないので経緯がわからない。しかし、福祉が言い訳になっていることだけは知っているので、突然わけがわからないことを言い出すのである。

日本には公共という概念がなく、ある緊密な結びつきを持った集団がストーリーを共有することで村が周囲の村を従えるという仕組みを持っている。形態としては邪馬台国が周辺の「国」と称される村の代表になっているようなものだ。だからこの支配村が失われてしまうと統治に必要なストーリーも失われてしまうのだ。

すると、誰も何も決められなくなる。決められないのは自民党だけではない。立憲民主党も「とりあえず今は緊縮財政もできないし、消費税もあげられない」と言っている。しかし立憲民主党も財政の立て直し経路が提示できない。ということは彼らは支配政党になるまで消費税増税はできないが、政権を取ったら「時はきた」として消費税増税に踏み切り、また国民の怒りを買うことになるだろう。

なぜいくら必要でということを正直に話していればこんなことにはならなかったはずであり、その大元は大蔵省の限られた役人が「どうせ国民は理解してくれないだろう」と気軽な嘘をついたことが、その大元になっている。

ところが、今の安倍政権にはその反省はない。安倍首相は同じようなことを憲法でやろうとしている。石破茂との議論のなかで憲法は変えたいが自衛隊を軍にしたいと言っても国民の理解が得られるはずはないと呆れ顔で石破を諭していた。これは消費税は必要だがどうせ国民は理解してくれないだろうから福祉税と言い換えたいというのと同じメンタリティである。

これは民主主義の建前という意味では許しがたい暴挙なのではあるが、一万歩くらい譲って「嘘が管理できるならば許容しても良い」と一旦飲み込んでみよう。だが、この嘘が管理できるのは安倍政権当代限りである可能性が高い。では次はどうなるかというと3つの方向が考えられる。

第一に、自衛隊は何でもできる軍隊になるが、何か決めるたびに国民に懲罰的な感情が芽生えることになる。消費税議論は税率をあげるたびに大騒ぎになるが、これと同じような労力を日本の防衛も負担することになる。ご存知のように東アジア情勢はとても緊迫しており、米韓が分裂するかもしれないという可能性さえ見えている。これに乗じた核保有国の北朝鮮が韓国の攻撃に転じれば、韓国はレーダー網という目を持たないままで北朝鮮と軍事衝突することになりそうだ。この時に、消費税増税のような議論が怒っては困る。ゆえに国民には正直に話すべきである。

第二のシナリオは非自民政権が何も決められなくなるというものだ。内閣は自衛隊に戦争をするように指令が出せるような権限を持っているが、それを使ってしまうと政権から転落するということが分かった場合、その政権は何もしないのが最も合理的な選択になる。また過去に反対してきた経緯から賛成に転じられなくなる。これは消費税を上げないといっていたのに上げたというのと同じ効果を生むからだ。つまり、周辺で紛争が起きているのに日本は何もできないということになるのだ。

第三のシナリオはこうした意思決定ができないままで「翼賛的体制」に収束するというものである。国会は関与しないで自衛隊の報告のままに事後承認する。政治が関与すれば責任を問われかねないからだ。そこで自衛隊が動くが作戦が失敗する。それを隠蔽するためにもっと過激な行動にでると、第二次世界大戦型のシナリオができる。これも終局は破綻である。

つまり、記録を残さずに曖昧な意思決定をしてしまうことは却って日本国民を危険にさらしかねない。どれも実際に起こったシナリオなので、将来に全く起こらないとはいえない。

今回の憲法や消費税の議論はおそらく不毛な各論になることが予想される。それはそれでお付き合いして行かなければならないのだが、同時に俯瞰的に状況を見る目を養うべきだろう。我々は何も決めないことで将来に大きな負担を与えているのである。

Google Recommendation Advertisement



日本人はなぜ韓国崩壊論が好きなのか

Twitterで何かブログに使えるネタはないかなと考えていたところ「韓国崩壊論」が飛び込んできた。以前、ある経済学者徒渉する人がこのネタで一山当てた人がいたなと思ったが未だに人気のようだ。それにしてもなぜ日本人は韓国経済崩壊論が好きなのだろうかと思った。

論を読んでみたが、外貨準備高が少ないので経済基盤が脆弱であるという主張だった。確かに当たっているところはあるが、結局願望に接続されている。

外貨準備高が少ないことにはメリットもある。外資を当てにせざるをえないので新しいアイディアが入って来やすい。常に投資家にアピールする必要があるからだ。このため経営論が更新されるので、結果的にサービス産業に特化した経済構造ができやすい。いわゆるIMF危機で経済が動いた時に「なんとなしなければ」と思った人も多かったようだ。

一方日本経済は資産を蓄積してしまっており外から資金を調達する必要がない。すると経営者が変わらないので古い経営知識が温存されやすくなる。足元では労働力の崩壊が起きており非正規社員依存も強まっているのだが、経営者と正社員層は相変わらずであり、これがいろいろな問題の原因にもなっている。日本は「衰退してゆくなりになんとかなっている」ので構造が変化しない社会と言えるだろう。結局変化を先延ばしにしているだけなので、構造が変化を吸収できなくなった時、津波のように救い難い変化が押し寄せる可能性がある。理想的には小さな変化が常に起きている状態が一番良いのだが、韓国はかなりショッキングな経済挫折体験をしているのでその対応も進んだものと考えられる。現在も実は失業率が増えているので「安閑としていられない」という気分が継続しており、競争社会が維持されている。

いずれにせよ、こうした崩壊論は基本的には「相手が聞きたい歌」を歌って聞かせるのが目的なのだろう、こうした分析よりも「韓国経済はいずれ崩壊する」という歌の方が耳障りがよい。では人々はなぜお金を払ってでもこういう歌が聞きたいのか。

韓国経済が伸びると「日本が得るはずだった利益」が韓国に取られてしまう可能性があるばかりか、自分たちが不調であると感じられて「惨めになる」と思う人が多いのだろう。LGBTも同じで「あいつらの主張が受け入れられてしまえば、いつも我慢している自分たちが惨めだ」ということになる。成功している人を憎んだり、対話を要求する人を無視したりして相手が苦しむのを見るのが好きな大人が多いということになるだろう。

実際にこうした歌「だけ」が売れるという現状がある。ワイドショーを見ていても「悪いことをした人たちが、我々の社会の常識によって裁かれて落ちてゆく」という題材と、自分を捨てて勝負に邁進した人が勝利したのでこれからも自分を捨てて「日本のために戦ってくれるだろう」という題材だけが生き残っている。

彼らがこういたマインドセットを持つのは、個人競争前提の教育を受けて安定はしているがマネージメント枠が限られたサラリーマン生活を送ってきたからだろう。特にバブル崩壊以降は若い頃の格安労働の見返りが得られるポストが減ってしまいゼロサムですらなくなっている。平成は結局、相手を脱落させて新しい有資格者(正社員)が入ってこないようにしないと利得が守られないという時代だった。選ばれた人はいつまでもこうした利得にしがみつけるが、定年してしまうとやることがなくなり、政治や国際経済に新しい生きがいを見つけているのではないだろうか。つまり、こうしたマインドセットはDNAに刷り込まれているというようなものではなく、環境と教育によって形成されたものと考えられる。ただ、作る側のテレビ局にもこうした椅子取りゲーム的な正規・非正規の構造があり、受け手側の退職者たちも同じような世界を生きているので、共鳴しやすいのではないかと思われる。

こうした協力できない姿勢がよく表れているのが政党間協力である。自民党は税外収入(つまり政府の借金のこと)の使い道を自由に差配できるので派閥内での協力ができる。ところが、野党にはこうした求心力が働かないのでいつまでたっても協力体制が整わない。すると党内での発言力を巡って争いが起きる。とはいえ野党に政策立案の能力と意思はないので問題になるのは他者との距離である。自民党と協力して利権を分けてもらいたい人たちと、選挙に勝つためには共産党と共闘して戦った方が得だと考える人たちの間の議論になっているようだ。前者は「憲法改正議論に参加しよう」と言っており、後者は共産党と選挙協力をして安倍政権批判を強めようと言っている。日本人が相手との距離感にどれだけ敏感なのかがよくわかる。いずれにせよ有権者には関係のない話なのだから野党に支持が集まることはない。

こうしたマインドセットを作っているのは、弁護士出身の議員と官僚出身の議員たちである。彼らには共通点がある。官僚は決められた法律の中で動き回る人たちなので法律を制約と考える。さらに失敗すると浮びあがられない。加えて予算の額は限られていて自分たちで動かせない。彼らは日本教育の成功者なのだが、そのゴールは「変化せず総枠が決まった」ゼロサム社会なのだ。弁護士も「今ある法律を利用していかに有利に物事を運ぶか」という職業なので、環境を動かして物事を拡張させてゆくという発想はできない。だから、彼らは基本的に協力して環境そのものを変えるという発想ができないのだ。

つまり、野党は今まで成功してきた人たちだからこそ政権が取れない。言い方を変えれば「教育に洗脳されている」から協力できないのである。協力ができないから、妥協したり話し合ったりして政策がまとめられず、だから政権も取れない。

こうした洗脳を施したのは誰なのだろうか。例えばGHQあたりが怪しい。だが、この仮説は簡単に棄却できる。なぜならば、戦前の体制も似たようなものだったからだ。軍部は立憲君主制という枠を崩すことはできなかったが、自分たちは立憲君主制の枠外にいると主張することで制約から逃れ「大陸進出」という成果をあげた。しかし「失敗すると失脚する」という構造は変わらなかった。そこで失敗を認めず言葉の言い換えによってさらに暴走した。天皇を中心とした田布施システムも怪しいのだが、天皇が結果的に傍観者に置かれたところを見るとこれもあまり説得力がない。

日本人はもともと協力しないのだ。

「成果だけを組織に差し出し、失敗は自分たちでなんとかしろ」というマネジメントには複雑なテクニック必要ない。だからこれが広がりやすいのだろう。実際に軍隊の下士官レベルの「殴るマネージメント」は日本のスポーツ教育に取り入れられ「成果」を上げているようだ。だが、この成果は国内では通用しても、選手を動機付けてコーチと選手が二人三脚で協力しあう文化のある海外組には通用しない。テニスの場合でも錦織圭も大坂なおみも海外組である。個人的にモチベートされた人たちだけが世界レベルの活躍ができる世界が日本の外側には広がっている。

いずれにせよ、野党は協力できないし、自民党の議員もお互いに協力しない。だから、安倍首相は「下手に議員間・省庁間で協力などしなくても自分に従ってさえいればよいポジションを与えますよ」という子供騙しのメッセージで霞が関と永田町をハックできてしまったのである。やりたいことがある人たちが違いにのみ着目して協力しないことは、なにも達成するつもりがなく権力維持だけが自己目的の人たちにとってはとても都合がよい。

「教育に洗脳されている」というのは単なる物語なので、信頼してもらう必要はない。ただ、この物語の結論は「単なる思い込みを捨てれば協力する体制は作れる」ということである。日本人は言語呪われていたり、DNAに協力や対話ができない遺伝子があるから協力できないわけではないのだ。

安倍政権の嘘が好きなら今まで通りのマインドセットを変えてもらう必要はないのだが、そろそろ次のステージに進むべき段階に来ているのではないかと、個人的には思う。

Google Recommendation Advertisement



アメリカ人はどれくらい議論をするのか

Twitterを見ながら今日は何について書こうかなと思っていたところ、日本人と議論についてのつぶやきを見つけた。多分テイラー・スウィフトを見た感想だと思う。テイラー・スウィフトの表明でリベラル系の登録者が増えたとされているので、それを日本でも広めるべきだという意見がある。それをやっかんだ人が「日本の芸能人は政治的に意見を言わないといっているが、普通の日本人でも政治的な話はしないだろう」というような意味の書き込みをしていたというわけである。

確かによくある議論で、これを一般化して「日本人は議論をしない」という話をよく目にする。ではアメリカ人はよく政治的議論をするのだろうか。だとしたらアメリカ人は何のために議論をするのか。

アメリカの地上波は昼にソープオペラと呼ばれる主婦向けの番組を流し、夕方にはニュースをやる。その間を埋めている番組の一つにオプラウィンフリーショーという番組があった。1986年から2011年まで放送されていたそうである。Wikipediaではトークショーとして紹介されているのだが、このトークの内容が実は議論担っているものが多い。だが、やはりこれは討論番組ではない。

試しにYouTubeで「the oprah winfrey show discussion」と検索してみた。議論には本の作者が持論を展開するもの、政治家が批判に答えるもの、普通の人たちが自分の体験について語るものなどさまざまな形式のものがある。英語がわからなくても「喧嘩をしている」ように見えるものがあるはずだ。意見が別れる(英語ではcontroversialという)見解をよく扱うのが、オペラウィンフリーショーの特徴だった。

例えばこの議論では、ムスリムのアメリカ人が9.11のあとに自身の体験を語っている。この後、ブッシュ大統領はこの時の憎悪感情をナショナリズムに利用し中東への戦争へと傾いてゆくのだが、その前夜といえる。

彼らは訓練された人たちではない。途中でオプラ・ウィンフリーがムスリムの人たちに拍手されるところがあるが彼女は「普通の白人のアメリカ人」に「あなたの考えるアメリカって何なの?」と聞いているからだ。つまり、司会者は政治的に中立のポジションを取っていない。

この番組帯を見ているのは主に昼間に家庭にいる主婦か子供である。つまり「普通の人」が議論している番組を「普通の人」が見るのがアメリカなのだ。そして彼らはControversialだから見る価値があると感じている。それくらいアメリカ人は対話が好きであり、対話は議論になる。

対話が結果的に議論になるというのがアメリカの特徴なら、対話そのものが起こらないのが日本式である。このために日本では本音を語らせるために議論の体裁をとるという手法が考えられたが、それでも誰も本音を語ることはなかった。例えば田原総一郎の朝まで生テレビでは「訓練された」人たちが「議論をするために」集まってきて「議論が好きな人」が見るという番組になった。つまり議論はお金を貰うための道具であり、相手に理解を求めたり社会的な解決策を導き出すための手段ではないのだ。

また、議論をしていると自然と「リベラル対保守」のような枠組みが作られる。他人に鑑賞してもらう議論なのでキャラを作る必要があり、そのキャラと技術を品評するのが日本の議論と言えるだろう。朝生の議論はこの過程で曲芸化してゆく。ここからネトウヨ雑誌のスターがうまれ、これが政治的に取り入れられたのが「ご飯論法」である。それ自体が曲芸であり鑑賞の対象なのだが、そもそも国会はショーではない。

アメリカ人は対話のために議論をする。つまり彼らには解決したい問題がある。もう一つ重要なのは民主主義国家では一つの共存すべき空間があるということだ。これを「公共」と呼んでいる。日本に議論がないのは、共存すべき空間がないからである。お互いに村に住んでおり資源の奪い合いや譲り合いが起きているので、そもそも対話も議論も発達しない。

「みんなが好き勝手にいろいろ言い出したら収拾がつかなくなるのでは」と恐れる人たちも出てくるのではないかと思う。それは日本にはマネジメントスタイルが三つしかないからだ。

  • 「昔からそうなっている」:つまり、自分の前の担当者はそうやっており、自分もその真似をしてやっているということである。その前はどうなっていたのかはわからない。
  • 「みんなそう言っている」:居酒屋で愚痴交じりに文句を言ったら同僚の一人が同調してくれたので、多分みんなもそう思っているのだろう。
  • 「コミュニケーションを円滑にしろ」:専門分野の細かいことは俺にはわからないから、現場で適当に話し合って解決しろ。俺は成果だけがほしいのであって、お前らの保護者ではない。

だから、日本のマネジメントスタイルの根本は「みんなに我慢させること」である。マネージャーは自分が知っているやり方でしか組織が管理できない。だからそこから外れたことがあっても我慢して文句を言うなとしか言えないのだ。

しかし、議論は何も政治的なことばかりではない。日常生活の中にも議論はある。

昔みたフレンズのエピソードの中でスターバックスを念頭に置いたセリフがあったのを思い出した。スターバックスでは短い時間の間にカフェイン入りにするかそれともカフェインなしにするかとか、ミルクは普通のミルクにするかソイミルクにするかなど様々な選択を迫られるというのである。つまり、こうした選択にプレッシャーを感じている人もいるということになる。さらにその選択によってこの人はつまらない人だなど評価される可能性もある。デキャフを選んだ人はその理由を他人に説明しなければならないし、それも議論の対象になる可能性があるということだ。選択は価値観を意味し、それはその人の本質だと見なされる。表明されない意見には意味がないというのものアメリカ式だ。

このフッテージではロスがフィービーに「進化は確かな科学的真実である」と説得しようとしている。最終的にはロスがフィービーに説得されてしまうのだが「あなたの信念ってそんなものだったの?」とからかわれるというのがオチになっている。

https://www.youtube.com/watch?v=cXr2kF0zEgI

こちらでは、ファーストキスがどれくらい大切かについて男性と女性との間で意見の隔りがある。男性が女性に同意する必要はないが、それでは「彼女ができなくなる」と脅かされている。ここでいうコメディアンはコンサートの前座のことである。

フレンズには様々な議論が出てくるが大抵はくだらないものであり、理由付けも雑なものが多い。それでも、自分の言いたいことを言って、お互いに心地よい空間を作ってゆくのが友達であるという前提がある。だが、日本のマネジメントは友達の間であっても基本的には「我慢する」ことなので、誰かが自己主張を始めたらみんなで足を引っ張って潰してしまう。「話が崩れる」とか「しらける」というのがそれである。日本人は意見が違う人を見ただけで「自分は否定された」と感じてしまう。アメリカ人はお互いを理解し合うのが友達だが、日本人は君は間違っていないと相互承認して慰めあうのが友達である。

さらに、自分に関係がない空間がどうなっても構わないので、Twitterのような空間でだれかが自己主張をすると、ご飯論法などを交えながら「お前が言っていることは実にくだらない」といって潰そうとするのである。普段から我慢しているので、相手の意見だけが通ると「損をした」と感じてしまうからだろう。

このことから日本人は言語や脳の構造が非論理的だから議論ができないわけでなく、そもそも対話そのものが成立しにくいということがわかる。このような状態で不特定多数の好感度を前提とするテレビタレントが特定の政治的ポジションを取れないのは当たり前だ。タレントとは相手の好ましい思い込みが商品になっているので、それをつぶすようなことは言えないのである。

しかし「アメリカがこうだから未来永劫アメリカ人は対話や議論が得意」ということにはならない。

今回ご紹介したプレゼンテーションでは普通のアメリカ人が「それは本来のアメリカでない」として集団に沈黙させられてしまっている。この「普通のアメリカ人」を代弁したのが実はトランプ大統領だったのだろう。トランプ大統領は小学生のように腕をぶんぶんと振り回して「そんなのは全部デタラメだ」と主張して、これまで発言できなかった「普通のアメリカ人」を満足させた。

逆に日本では「普通の日本人は政治的な発言をしない」ということになっているが、これも大きな揺り戻しを経験する可能性がある。安倍政権化の数年間でわかりやすく政治が劣化しているからである。

Google Recommendation Advertisement



豊洲移転騒動の原因となった対話できない私たちの社会

豊洲が新市場に移転した。この報道を見ていて最初は「報道管制があるのでは」と思った。だが、しばらくワイドショーを見ていてそうではないということがわかった。これをTwitterでは「制作会社の内戦状態だ」と表現する人がいた。テレビ局がある視点を持って問題を追っているわけではなく、各制作班がバラバラに情報を追っているのである。

よく我々は「テレビが情報を統制している」とか「あの局は偏っている」などということがあるのだが、実は今のテレビ局は自分たちが何をして良いのかがわからなくなっているのではないだろうか。かつてはテレビ局の中に村があって、その村の意見がそのままテレビ局の意見になっていた。SNSがないので全国民がこの「村の意見」を一方的に聞くしかなかったので、結果的にテレビ局は国民の意見形成に影響を持つことができた。だが、この村がなくなることで、私たちの社会は共通認識を持つ能力を失った。あるいは最初からそんなものはなかったのかもしれない。

現在でも例えば「与党対野党」というようなはっきりした構図があるものは意見がまとまりやすい。永田町記者クラブという村の意見がそのまま全国の意見になるからだろう。しかし、築地・豊洲のような「新しい問題」には対処できない。築地・豊洲問題には核になるお話を作れる村がないからである。

実はこの問題は豊洲の混乱そのものともつながっている。豊洲は明らかに目的意識が異なる3種類の人たちがそれぞれの物語に固執しつつ「どうせわかってもらえない」という諦めを持ったままで仕事をしている。これは結果的には経営の失敗を生む。端的にいえば数年後に東京都民は「市場会計の赤字」という問題を抱えるはずだ。すでにこれを指摘している識者もおり、テレビ局の中にはこれを理解している人たちもいる。しかし、その認識が全体に広がることはなく、問題が具体化した時に「想定外」の新しい問題として白々しく伝えられるはずである。

今回は主にフジテレビとTBSを見た。まず朝のフジテレビは「今日は豊洲への市場移転だ」というお祭り感を演出しているような印象があった。若い藤井アナのたどたどしいレポートをベテランの三宅アナが盛り上げるという図式で演出していたのだが、手慣れた三宅アナが盛り上げようとするたびに虚しさだけが伝わってくる。

だがこの目論見はうまく行かなかった。まず渋滞があり、続いてターレが火を吹いたからだ。小池都知事もいつものように前に出てくる感じではなく「早く終わって欲しい」という感じが出ていた。彼女のおざなりな感じは短いスカートに現れているように思えた。気合を入れたい時には戦闘服と呼ばれる服装になるのだが、どうでもいい時にはどうでも良い格好をしてしまうのである。

この時点からTwitterではネガティブな情報が出ていた。まるで世界には二つの豊洲新市場があるような状態に陥っており、マスコミが「嘘をついている」という感じが蔓延していた。実際には「お祭り感を演出して無難に終わらせたい」東京都の意向を受けたテレビ局と現場の対立が二つの異なる世界を作っているように思えた。

午前中は、TBSも豊洲を推進する立場からの放送をしているように見えた。恵俊彰の番組では「2年の間すったもんだがあったが、全て解決した」という態度が貫かれており、早く終わらせて次に行きましょうというような感じになっていた。八代英輝という弁護士のやる気のないコメントがこの「事務処理感」を効果的に際立たせる。

いつも「俺が俺が」と前に出てくる恵俊彰は一生懸命に「豊洲に移転できてよかったですね」感を演出していたのだが、専門家や業者さんたちの様子は冷静だった。彼らは問題があることも知っているのだが、ことさら移転に反対という立場でもなさそうだ。恵俊彰が得意とする、下手な台本を根性で料理しようとする感じが床から0.5cmくらい浮いていた。彼らは時に「体制派なのでは」と誤解されることが多いのだが、実は何も考えていないんじゃないだろうかと思う。

様子が変わったのは午後のフジテレビだった。安藤優子らが問題のある豊洲について報じていたのである。朝の情報番組とは様子が全く変わっているので、テレビ局としての統一見解はないのだと思った。この番組は視聴率があまり芳しくないようなので取材に人が割けない。彼らはTwitterで拾ったような情報を紹介して「問題が起きている」というようなことを言っていた。TBSでは築地に人が残っていざこざが起きたことも紹介されていた。

面白いのは安藤優子が長年の勘で問題をかすっていたところだった。「除湿機がないならおけばいいじゃない」と言っていた。聞いた時にはバカバカしい戯言だと思ったのだが、実はこれが本質なのだ。週刊文春を読むとわかるのだが、実は安藤のアイディアは一度採用されていたが「通行の邪魔になる」として撤去されていた。そして文春はなぜそうなったのかについては分析していなかった。安藤の不幸はこの「ジャーナリストの勘」を深掘りしてくれる人がいないという点だろう。意識低い系ジャーナリストである大村正樹には興味がない。

この市場はコールドチェーンとユビキタスを売り物にした市場建築である。これも広く指摘されているが、簡単にいえば巨大な冷蔵庫である。冷蔵庫が冷蔵庫として成り立つためにはドアがいつも閉じられている必要がある。しかし、これまでのオープンな築地に慣れている人たちはこれを理解していない。このため冷蔵庫のドアは開きっぱなしになってしまう。そこで温度湿度管理がめちゃくちゃになるという具合である。ユビキタスに関しては理解さえされないだろう。コンピュータで在庫管理できてレシピも検索できる冷蔵庫が主婦に理解されないのと同じことである。つまり、そんなものは売れないのだ。売れないからユーザーのいうことを聞かずにとりあえず作って押し付けたのかもしれない。

多分、フジテレビは当初東京都のオフィシャルな人たちからしか情報を取っておらず、午後はこれにTwitter情報が加わったのだろう。これを全く分析することなしに単に紹介して「報道した」ような空気を作っているわけである。さらに安藤優子の番組と小倉智昭の番組には人的交流がないのではないだろうか。小倉の番組に出ている識者の中には経営問題を指摘している人もいるので、彼らが交流していればこの「冷蔵庫の失敗」に気がつけていたと思う。が、彼らにはもはや目の前で起きていることから学ぶという能力はない。能力が低いわけではないと思う。だがお互いに話をしないのだろう。

豊洲で温度湿度管理がうまくゆかず、道路渋滞で近づくことすらできなければ、他の市場から魚の買い付けをする人が増えるはずだ。実はこれも情報が錯綜している。自分が指摘したから通行が改善されて問題がなくなったのだと主張する記者や、噂が広がり豊洲離れが始まっているとする「一般業者」の声を伝える人たちもいる。

すでに週刊ダイヤモンドが指摘している通り豊洲市場は物流量がV時回復することを前提として経営計画が作られている。ところが実際には品質管理の問題と周辺の道路事情の問題などから「豊洲離れ」が起きかねない状況になっている。これを築地の売却益(もしくは運用益)だけで穴埋めし続けることはできないのだから、将来的には東京都は「これをどう穴埋めするか」という問題に直面する。しかしその時には担当者も(多分都知事も)変わってしまっているので誰も責任を取ることはないだろう。

テレビ報道の混乱だけを見ていると問題がよくわからないのだが、週刊誌情報を入れると実はそれほど難しい問題が起きているわけでもなさそうだ。多分、東京都は当初「コンピュータで物流管理された巨大な冷蔵庫」というコンセプトを持っていたのだろう。ただこれを「ユビキタス社会に適用したコールドチェーン」と格好をつけて言ってしまったために誰にも理解されなかった。さらにここに「巨大なバカの壁」である小池百合子都知事が登場したことでさらにややこしくなる。小池さんは自分でも理解できない専門用語をニコニコと語るのが大好きなのである。

しかし、築地の現場の人たちが「巨大な冷蔵庫」を欲しがっていたとは思えない。彼らが欲しかったのは「今まで通りに好き勝手に出来る柔軟なスペース」である。多分、壁や柱などは直して欲しいとは思っていたのだろうが、それ以上のことは望んでいなかっただろうし、ハイテク冷蔵庫はお金もかかるので小口の業者がついて行けなくなるだろうなという予測は立ったはずだ。

政治家はそもそも、これが冷蔵庫だろうがこれまで通りの市場だろうがそんなことはどうでもいい。彼らは「銀座の隣にある平屋の土地」が地上げできたら自分の懐にはいくら入ってくるだろうということを夜な夜な会議室や料亭で考えるのが好きなのである。なぜ彼らがそれに惹きつけられるのかはわからないが、多分それが好きだからなのではないだろうか。高級なお酒やお寿司の味が美味しく感じられるのだろうが、それが誰の手で作られているのかというところにまでは関心が及ばない。

テレビ局の関心は視聴率だけなので、何のために情報番組を作るのかという意欲や方向性は失われている。だからお互いには競争の意識は働いても協力の意欲はない。ところが、取材対象である東京都と市場関係者の間にも意思疎通がなくなっている。つまり、理由はわからないが、日本全体で同じような「協力し合わない」という問題が起きていることになる。

社会に共通認識がないゆえに築地・豊洲問題には正解がないのだが、市場離れだけは確実に進んで行く。だから、最終的に東京都民の目の前には巨額の請求書が突きつけられるはずである。

この問題は共通認識を持てなくなってしまった社会の混乱がそのままの形で「プレゼン」されていると考えるとわかりやすい。目の前に見える景色は単なるカオスである。このまま進めば同じことがオリンピックでも起こるはずであり、その混乱は国際社会を巻き込んださらに大きなものになるだろう。

Google Recommendation Advertisement



村落共同体の視過剰適応と政党の「新規顧客獲得」作戦

これまで、日本の村落的な共同体が「顧客」や後継者を失い過疎化する仕組みを観察してきた。

日本の共同体が衰退する様子を見ていると「村的な」性質が観察できることが多い。

例えば大相撲は改革を握りつぶすことで閉鎖的な暴力制度が温存されることになり、これから新弟子やファンを失ってゆく未来が確定した。今は貴乃花問題が世間の注目を集めているのだが、実は可愛がりのような問題は全く解決できていない。普通の人は努力の成果が透明かつ公正に評価されるスポーツを選ぶはずなので、例えば野球やサッカーというような近代的なスポーツを選択するだろう。柔道などはスポーツ化が進んでおり不完全とはいえパワハラなどにも自浄作用が働きつつある。相撲はこれを拒絶する道を選んだのである。

相撲が衰退するメカニズムはわかりにくいのだがネトウヨ雑誌はもう少しわかりやすい形でこの衰退メカニズムを見せてくれる。

新潮45はもともと購読者数の減少に悩んでいた。彼らは「買ってくれるかどうかわからない」人よりも熱烈に雑誌を応援してくれる人たちを見つけて自滅した。これを「過剰適応」と呼ぶことにする。過剰適応とは、一部の声の大きい人を全体と錯誤して自滅する現象である。今回は社会の規範と正面衝突してしまっために急遽休刊となったわけだが、そうならなければ過激化しつつ購読者を失っていったはずである。あのようなめちゃくちゃな「論文」が掲載されている雑誌を進んで買おうなどという人はよっぽどの物好きか判断能力がない人だけだろう。しかし、内部の感覚は違っていたのではないだろうか。つまり、小川栄太郎「論文」がバズってしまい在庫が捌けてしまったために「この線で行けばもっと購読者が増えるのではないか」と誤認した可能性が高い。

その前にも「ネトウヨに訴求すれば受ける」という成功体験があったはずである。彼らがどこからその成功体験を得たのかはわからない。現在の宮本太一が編集長になったのは2008年だそうだ。これは民主党政権ができる1年前である。この頃のTVタックルを覚えている人たちは自民党流の公共工事が悪し様に言われていたのを記憶しているはずだ。既存の価値観が叩かれるとそれについて行けない人たちが出てくる。彼らはお金を払ってでも自分たちの感覚を慰撫してくれるようなメディアを求めるのではないだろうか。

いっけん勝利したかのように見えるネトウヨだが、実は商売流行りにくくなっているはずだ。安倍政権の出現でルサンチマンが解消されてしまえば、お金を払ってまでネトウヨ雑誌を買う必要はなくなる。習慣で買っている人が高齢化で徐々にいなくなり購読者が減っていったと考えれば購読が少なくなっていた説明はつく。

同じことがリベラルにも言える。現在は「左派リベラル的な雑誌」の購読者がピークの可能性がある。現在、選挙に負け続けている彼らは否定されているような気分になっているはずで、彼らを慰撫してくれるようなメディアが必要だからである。彼らが反応するのは昔ながらの「金儲けはいけないことだ」「戦争は悲惨だ」という価値観である。これが「成長なんかしなくてもいいから、みんなで仲良く貧乏になろう」という主張として展開されている。リテラなどがその好例だ。心が豊かなら貧しくても良いではないかという主張は高度経済成長を知っている高齢者には受け入れられるかもしれないが、現役世代は「いやいや待ってくれ」と思うのではないだろうか。

だが、彼らはそれに気がつかないだろう。左派リベラルに反応してくれる人は「憲法について議論したら自動的にアメリカの戦争に加担して地球の裏側に子供が徴兵される」というような、いわば「純化」された人たちだけである。彼らの声は大きいので、左派リベラルはこうした声に応えて過剰適応する。すると、それ以外の人は静かに退出していってしまうのだ。

ある一つの主張にコミットした雑誌や政治的な運動はレスポンスの良い人たちの反応を取ることはできても、静かに離反してくれる人や顧客になってくれていない人たちの声はすくい取れないことがわかる。これが過剰適応の罠である。マーケティングでは非顧客と呼ぶ。すでに一定顧客がいる人たちも、そうでない人たちもこのうちの「第三グループ(tier3)」と呼ばれる顧客を獲得する必要がある。

だが、この非顧客を発見するのは難しい。非顧客は積極的に働きかけてこないからである。過剰適応でなくても働きかけてくる潜在顧客から拡大のヒントをもらうのは難しい。例えばこのブログにコメント欄を作った時には「レスポンスを参考にしつつ紙面を構成しよう」というような淡い期待をしていた。しかし、これが甘い目論見であると気がつくまでさほど時間はかからなかった。

これにはいくつかの複合的な理由がある。第一に読者は忙しいのでわざわざ他人の書いたものにコメントしない。これは自分で読んでみてわかる。他人の文章について「ふーん」と思うことはあっても、いちいち感想など書いたりしないことが多いからだ。

さらに、ブログは他人の庭のようなものなので自分の意見をいうのがはばかられるという事情もあるのではないだろうか。一方で準公共空間になっているYahoo!には遠慮を知らない人たちが一方的なコメントを寄せるのが常である。日本人にはあまり「一緒に公共空間を作って行こう」という気持ちがないことがわかる。所有権とヘゲモニーを意識しているのではないかと感じる。日本人の意識には「他人の村」か「自分の村として戦力できるか」の二者択一しかない。これを批判することはたやすいが批判したとしても状況は変わらない。

さらに、この関門を突破してたとしても主観という壁が残る。ブログにもたまに反応を寄せてくださる人がいらっしゃるのだが、たいていはセルフレコグニションか承認を求めているようである。良し悪しは別にして日本人は対象ではなく関係性に強く反応してしまうので、これは避けられないのではないかと思う。対象物について議論するのではなく、ついつい人間同士の関係構築に興味が移ってしまうのだろう。

しかし、かといって情報が何も取れないというわけでもない。「個人としての日本人」はあてにはできないが、集団としての日本人はかなり統制された行動をとる。つまり、統計はかなり世論を反映するのである。

例えば、あるニュースが盛り上がると過去記事の閲覧が増える傾向にある。期待されている答えがないと0秒で離脱されてしまうのだがそうでない場合もある。これを見ているとある程度「どんなニュースにどれくらい価値があるのか」がわかる。誰かが指揮者として指示をしているわけでもないのに自然とそうなるのだ。例えば貴乃花親方の問題は今関心を集めているが、小池百合子と豊洲の問題には「引き」がない。

豊洲の問題が再び注目を集めるのは移転して戻れなくなった上で何か事故が起きた時であろう。解決できそうもない問題が出てくると日本人は誰かの首を取りたがる。誰かの首を取ることで問題解決に代替えするのである。現在小池都知事が最終責任者であるという「仕込み」が行われており、問題が起きた時にこのフッテージが繰り返し流されることになるだろう。汚水と思われる水が上がってきているYouTubeのショッキングな映像もあるが、これもほとんど閲覧されていない。ただ、これも無駄とは言えないだろう。小池都知事が問題を抱えた時、このフッテージの所有者に取材依頼が殺到するはずである。そして、その兆候は閲覧数などに現れるはずである。

もし、新規の支持者を獲得したいなら、ある程度記事の傾向をバラした上で様々な再度コンテンツを作ってみると良いと思う。さらに「今引きがない」からといって将来的にも情報価値がないということにはならない。

ただ、こうしたコンテンツをバラバラに持っていても分析はできない。だから、一箇所に集めておく必要がある。例えば左派政党が支持を集めるためにはいろいろな問題に注目して記事を書き、これを一箇所に集めておけば良い。普段から貯金しておけばそれだけ「当たる確率」は増えるはずである。

現在の政党の問題は個人商店のようになっているという点であろう。議員一人ひとりが支持者を獲得してそれを政党に持寄る仕組みになっている。特に民主党系の政党は社会党と自民党ハト派の寄り合い所帯担っているはずなのでこの傾向が強いはずだ。そうしたやり方をしているうちは、左派リベラル政党は支持を集められないばかりか、伝統的な支持者に引っ張られて過疎化してゆくはずである。

もちろん企業にもこうした過剰適応の問題は起こり得る。固定的な関係を作って「安心」を確保したがる日本人には起こりやすい成人病のような病状なのではないかと思える。成人病を防ぐためには日頃からの運動が必要なように、過剰適応を防ぐためには普段から課題を計測できる「聴く仕組み」を確保すべきなのである。

Google Recommendation Advertisement



党首選挙の討論から考える付加価値のつけ方

日本でバカな保守の人たちが延々と頓珍漢なことを叫び続けるのはなぜなのだろうということを考えている。そこでその大元である安倍首相がどうして政治家になったのかを観察した。安倍晋三も石破茂もほとんど現場経験がない上に、半ば自分の意思とは関係がなく政治家になり、その後政治闘争に明け暮れたということがわかった。自分が生き残ることばかりに目が行き、経済にも人々の暮らしにも興味が持てないのは当たり前だなと思った。

例えていうならば映画監督になりたかったが映画には興味がないという人が、映画ごっこをしてくれる下僕を集めているようなものである。結果集まってきた人たちはギャング映画が好きなわけではなくギャングになりたかった人たちばかりだったというわけだ。

だが、嘆いてばかりでは仕方がない。ややまともな方の石破の主張について考えてみる。アベノミクスではトリクルダウンは起こらない。地方経済とトリクルダウンで恩恵を受けた大企業は断絶しているからだ。だから地方は独自で儲ける手段を見つけなければならない。問題は「どう付加価値を付けるか」ということなのだが、石破にはそれがわからない。地方自治体はお金を払ってコンサルタントを雇うがコンサルタントがやってくれるのは立派なパワーポイントの資料を作ることだけである。だからいつまでたってもアイディアは生まれない。

今回は二つの付加価値のつけ方について勉強する。一つは日本人が好きそうな本質的なやり方であり、もう一つは付け焼き刃的な方法である。

洋服が売れないというような話をよく聞く。東洋経済も「洋服が売れない」という記事が出たばかりである。これを書いた人はアパレルを専門とする東洋経済の記者らしいのだが、多分「服が売れない」という話ばかりを取材しているのではないかと思う。だから、この人の書いた一連の記事には答えがない。政治記者が政治家の内部のゴタゴタには詳しくなるが政治はできないのと同じである。

実際に高い服の購入を検討すれば、なぜ服が売れないのかがわかると思う。多分「私服にはユニクロ以外は必要ないし」「スーツも量販店で買うもので十分だ」と言い訳をする人が多いのではないだろうか。会社と家の往復をするだけなら高い服は必要ないのだ。それより意識を高くして「冴えない格好をどうにかしたい」と考えたとする。しかし、高い洋服を買ってもかっこよくなれない。もしもてたいと思うなら、洋服の投資は最低限にして食べ物と姿勢に気を配った方がよい。つまり、やせてかっこよくなった方が見栄えへの影響は大きい。逆に服装は頑張りすぎずユニクロレベルの方が好感度が高かったりする。

それでも洋服を売りたければどうすればいいか。それは見せびらかす場所を作ればよい。かつての上流階級はパーティーに着てゆくために洋服をしつらえ、そこで目立った人が新しい流行を作っていた。高度経済成長期には「渋谷」という舞台がマーケティング的に作られた。日曜日にはいつもよりおしゃれして渋谷に出かけることが郊外に一戸建てを持つ人たちのステータスだったわけである。関西はもっと手が込んでいた。梅田にはデパートが作られ、有馬温泉や宝塚の劇場と結ばれていた。最近ではSNSも洋服を見せびらかす場所になる。

実は日本人はこのやり方をよく知っている。私鉄は民需主導で作られ、モータリゼーションは官民協力のもと実現した。ドライブの目的地を作ればそこに観光施設が生まれて地域が潤い地域振興にもなる。Wikipediaの余暇開発センターの項目には次のようにある。

通産省主導で、競輪の利益金およそ2億6千万円を補助金として、新日本製鐵日本興業銀行日本長期信用銀行東亜燃料工業三井情報開発の五社が中心となって1972年4月に設立された。

つまり、戦後の自由民主党はどうやったら付加価値が作れるかということを知っており国民を誘導する形で「レジャー」という新しい形を作ったという歴史がある。政治の役割は企業をまとめて財源をつけることだった。この場合には競輪の収益と税金が充当されたようだ。

このやり方をバーチャルの世界に持ってきたのがアメリカである。Appleは自社の音楽プレイヤーの付加価値を高めるためにiTunesというマーケットを作った。

ただバーチャルな世界では「場所」を作って鉄道や道路で結ぶだけでは成功できなかった。SONYはそれで失敗している。SONYは単に音楽プレイヤーとその他の製品を接続する場を作ったのだが、各部署がバラバラにしかも「多くの人をそこそこ満足させる」ものを作ろうとして失敗した。

Appleはすべての人を満足させるためにマーケティング調査をして戦略を立てたわけではなかった。スティーブ・ジョブスが妥協なく楽しめるようなサービスを目指したのだ。ちょっとした使い勝手が勝敗を決めるバーチャルの世界では妥協のない一人のニーズの方が重要だったのである。iTunesは良くも悪くも音楽産業を変えてしまったが、コンピュータ屋と音楽産業が結びつくことなしにはこのような変化は起こらなかっただろう。村で固まる性質の強い日本ではこの紐帯を国が代行していたのだが、自民党が実経済への関心を失い権力闘争に特化するなかで、国の強みが失われてしまったことになる。

だが、こうしたやり方ばかりが付加価値のつけ方でもない。仕組みができないことを嘆いてばかりでは仕方がないのでもっとお手軽な方法を考えてみよう。題材として安倍首相が「国民が理解するはずはない」軍隊としての自衛隊の売り込み方を見てみたい。

自衛隊を国民に売り込むなどというのは戦争を売り込むプロパガンダだという感情的な反論が聞こえてきそうだが、少し我慢してお付き合いいただきたい。停戦状態にある韓国には徴兵制がある。もともとは軍政だったのだが民主化が進んだという経緯もあり積極的な広報活動が欠かせないのだろう。

そんな韓国には「チンチャサナイ(本物の男)」という勇ましいタイトルのミリタリーバラエティがある。外国人(つまり実際の軍隊には入れない)タレントを含んだ芸能人が軍隊に入隊して、徴兵された軍人と同じプログラムをこなす。最近では女性版まで作られている。徴兵制のある韓国では一般人が入れ替わり立ち替り軍に入隊している。そこで彼らを飽きさせないように訓練させる方法があるようだ。訓練はきついのだがサバイバル形式のリアリティーショーのようになっており、中には運動会や競技大会のような「ショー的なお楽しみ」もあるというような具合である。

実は日本の自衛隊が認められない理由の一つが何なのかがわかる。概念的な議論ばかりされるが、実際の自衛隊の人たちがどんな訓練をしているのかは知られていないし、テレビで自衛隊員が笑い顔をみせようものなら「不謹慎だ」というクレームになりかねない。だから「親しみのある芸能人」が訓練に参加して時には笑い合いながら訓練をするというようなショーが受け入れられないのだろう。

事情の違う日本では自衛隊を舞台にしたエンターティンメントなどありえないという人がいるかもしれないが、有村浩の「空飛ぶ広報室」のようにドラマで成功した事例もある。空飛ぶ広報室が炎上しなかったのは主人公がヒーローではなく挫折を経験した「弱い部分を持つ」人だったからだろう。ネトウヨの人たちが自衛隊の広報番組を作ろうとするとヒーロー的な自衛隊員の勇ましさを伝えるような番組が企画されるはずだが、実際に必要なのは「弱み」と「親しみ」を見せることなのである。

アメリカではもっと進んでいる。イラクやアフガニスタンの戦争から帰ってきた人たちのありのままの姿が普通のテレビドラマや映画に登場する。彼らは問題を抱えているが、これも日本では「弱みを見せる」として嫌われそうな内容だろう。時には手足を失った人たちが懸命にリハビリする様子が雑誌などで紹介されることもある。これも「テレビや雑誌で不愉快なものを見せるな」と非難の対象になりそうだが、これが現実であり、またこうした現実を見るからこそ「自分たちと同じ存在」として軍が認知されるということになる。

重要なのは「他人の目を受け入れ」て「ありのままを伝える」努力をすることである。ネトウヨ首相が不都合な事実を隠し、ヒーロー的な自衛隊の姿だけを伝えたがる。ネトウヨ首相がヒーローとしての自衛隊を求めるのは、その軍隊を指揮しているのが「勇ましい俺」を見せたいからなのだろう。昔やっていた映画ごっこと本質的な違いはない。だが本当に軍隊を浸透させたいならそれはやってはいけないことなのだ。

エンターティンメントにはいろいろな利用方法がある。例えば、石破が売り出したい田舎を紹介するためにはリアリティショー形式の番組を作れば良い。実際に韓国には田舎暮らしを題材にしたショーがある。

日本で田舎暮らしを紹介する場合「実際に住んでいる人のありのままの姿」が紹介されることが多い。だが、そこでは田舎は暮らしやすく人も親切だというような良い面ばかりが紹介される。だが、韓国のショーは違っている。まず大ヒットしたテレビドラマのキャスト陣がそのままやってくる。そこでのんびり暮らせると思いきや目の前にはキビ畑があり「これを刈り取らないと肉は食わせない」という宣告を受ける。仕方なくキビを狩り続けるうちに「自分はソウルではスターなのにここでは奴隷のようだ」などと愚痴を溢しはじめ、プロデューサと喧嘩をはじめると言った具合である。

ただしこのショーは配分が絶妙だ。こうした罰ゲームのような要因もありながら、普段は見られないスターの姿を見ることができる。中には昔ながらのやり方で田舎料理を作るスターもおり自然に韓国の昔の人たちがどんな料理を食べていたのかということがわかるようになっている。この微妙なバランスは外国人には作れない。視聴者が何を要求しているのかは国によって違うのだから、政府としてはエージェンシーを作ってロケ先を紹介できるようすれば良いということになる。

他にも韓国人が香川にうどんを食べに来る番組を見たことがある。香川は旅行先としてはあまり知られていないが、実は関西国際空港からも近く、うどんの値段もリーズナブルである。高級料理としての日本食しか知らない人は驚くようだ。だが、問題点もある。うどんの名店は駅の近くにはないので、タクシーを借りる必要がある。タクシーの値段も1日借切りにすればそれほど高くはないのだが、韓国語が通じない。こうしたロケを呼び込むことで韓国人が現地で問題に直面するのかがわかるのである。これを解決するのは簡単だろう。韓国語ができる通訳をタクシーに同乗させれば良い。

誰かに何かを売り込みたいのなら、まず思い込みを捨てて当事者たちの声を聞く必要がある。政治闘争に明け暮れた人たちが一番理解し難いのは「謙虚に話を聞く」ことなのだろう。さらに虚像の中に暮らすようになると、相手にどう「大きく見せるか」ということばかりを考えるようになる。だが、これは相手に伝える上では逆効果なのだ。

今回は二つのマーケティング事例について見てきた。どれもすでに行われているやり方であり、それほど突飛なものはない。しかし、内側ばかり見ていてもアイディアは湧いてこない。まずは異質な人たちを接触させて、都度都度問題を解決しながら形を作ってゆく必要がある。

Google Recommendation Advertisement



憲法は権力者を縛るものという嘘

前回は「権利と義務」について考えた。国家は社会契約であると考えると契約者の間には権利と義務が生じる。だから権利には義務が伴うという言い方は必ずしも間違いではない。ただし、契約という前提条件があるので、その契約が不当な場合には破棄することもできるのではないかと考えた。そもそも義務は国家から押し付けられるものではないので「単に押し付けられた義務を唯々諾々と受け入れるべきだ」という主張は正しくないと言ってよさそうである。

ここから得た知見は「国家は社会契約によって成り立っている」という多分一般教養課程で習ったまま忘れていた前提だ。だが、私を含めて多くの日本人はこの社会契約という概念をうまく飲み込めていないのではないかと思う。そう思う理由の一つに「憲法は権力者を縛るものだから変えてはいけない」というものがある。とてもおかしな考え方だが一般的に受け入れられている。日本人の心性にあっているからだろう。

国家が契約によって成り立っていると考えると、憲法は国民と権力者の間に交わされる「契約」を文章にしたものであるということが言える。契約はどちらか一方が義務を負うものではない。例えば家の売買契約の場合、住宅メーカーは品物の品質を一定期間保証し約束した品物(やサービス)を提供する義務を負う。だが、一方で買い手側も期日どおりに対価を支払う義務が生じる。つまり売り手と買い手の間の関係は「相互的」である。つまり契約は相互的(ミューチュアル)である。

日本国憲法の場合にはやや特殊な事情がある。それはこれが国際社会と日本との間の契約になっているという点である。つまり、体裁としては日本人が国際社会に復帰するにあたって民主主義と平和を守りますよという約束が含まれている。が、基本的には国家と国民の間の約束である。

その意味では憲法は「権力者を縛る」という片務的な説明は間違いであると言える。そもそも、すべての国民が平等であるとされる民主主義国家に特権を約束された「権力者」という人はいないので、権力者を縛るという言い方そのものが成り立たないはずである。

ではなぜ「憲法は権力者を縛る」という言い方ができてしまうのか。

日本は村落だという話を始めた時に最初に使ったのは水を引くという比喩だった。日本人は有利な場所を確保してできるだけ多くの水を引き入れたい。多く水を引くと多く稲が取れるからである。これを利権という。そして同時に負担ははできるだけ軽くしたいと考える。このやり方だと「ズル」をする余地が生まれる。水門を操作して水を多く引き入れようとするのである。それをピアプレッシャーで防いでいるのが日本型の村落である。利益は村落単位で収集し分配する。そして周りの村はプレッシャーをかけることで行き過ぎを防ぐ。そこには村を束ねる社会という単位はない。社会がないのでお互いに協力することもない。

日本人はこの村落的な理解を背景にし「永田町という集落に多く水を引かせないために」プレッシャーをかけようとしているのである。これを「縛る」と表現しているのだろう。

ここからわかるのは「憲法は権力を縛るもの」と言っている人は実は永田町を権力者とは見ていないということである。もし永田町を権力者と認めるとしたらある程度の尊敬を持って協力を申し出るはずだ。つまり本来は「永田町だけにおいしい思いはさせない」と言っているだけなのである。牽制が目的なのだから対案などでてくるはずもない。

ではこの見方は単に立憲民主党支持者たちの被害妄想なのか。必ずしもそうは言えないだろう。「どっちもどっち」だからだ。

永田村が憲法を変えたいなら、社会契約説を取ってとなり村を納得させた上でプロセスを透明化しなければならない。しかしながら、実際には彼らはプロセスを秘密にし「日本型の統治」というブラックボックスを持ち出して一人で騒いでいるようにみえる。つまり、品物の中身は明確にしないで「とにかくこれを買え」と言い続けている。つまり、保守の人たちも独自の村を形成しようとしているだけである。彼らは「周りの村をまとめるから協力してくれ」と頼んできたのに実際には自分の村に多くの水を引き入れようとしているだけだったのである。

憲法改正の話はちょっと大きめの契約に似ている。そこで安倍政権を住宅メーカー「安倍ハウス」に例えて説明したい。

住宅メーカー安倍ハウスと買い手の間で契約して家を建てようとしている。営業の人の愛想はよく、なんだか素晴らしい家が立ちそうだった。いろいろ不安もあったのだが、安倍ハウスの営業の人は「なんら問題はない」と言っていたので安倍ハウスを選んだ。よその住宅メーカーの営業ははいろいろな心配を並べ立て「資材が高騰したら価格の見直しもあるかも」などというのだが、安倍ハウスだけは「どーんと大船に乗ったつもりで任せてください」という。なんだか安倍ハウスは安心できそうだ。

だが、実際の建物は何か変である。設計図とは違っており、なぜか安倍ハウスの事務所ばかりが立派になってゆく。これは違うのではないかと買い手が説明を求めると黒塗りになった指示書が出てきた。どうも安倍ハウスは大工さんへの支払いをちゃんとしていないようだし、材料も安いものを使っているようなのだが、なにぶん指示書は黒塗りなのでよくわからない。そこで買い手が怒ったら、安倍ハウスは「もともとこの契約書は我々の気風には合わないから変えたい」とすごんできた。どう変えたいのかと聞いても要領をえないが、「客が住宅メーカーに指図するとは生意気だ」という社員がいるという噂も聞く。なぜか定期的にそのような声が聞こえてくるのである。

そこで後から出てきた弁護士が「契約書は安倍ハウスを縛っている」というのも無理からぬ話だ。実際には契約書は「ミューチュアル」なものなので、どちらか一方が縛られるということにはならない。だが問題は実はそこではない。信頼が生まれれば契約書について考えても良いわけだが、とてもそのような状態にあるとは言えない。だからまず「契約を守ってくれ」というのが先なのである。

「契約書は未来永劫変えられない」とか「契約書は安倍ハウスを縛るためだけにある」というのは間違いだし無理筋だということは普通の社会人なら理解できるはずである。だが、契約書というものを理解できないにもかかわらずサインしてしまった人(あるいは投票という契約に行かなかった人)は「とにかく、この契約書じゃなければダメだからな」とすごんで見るしかない。いかんせん契約がわからないから「なんらかの理由で変えられてしまったらどうしよう」という不安を抱えることになる。つまり、社会契約という概念を理解しないでいるととても不安な気持ちを抱えたまま生きて行かなければならなくなるわけである。

白紙委任(つまり投票に行かなかった)人も含めて、安倍ハウスで家を買ってしまったわけだから、この人たちに付き合う必要はある。そしてそのためにはそれなりの常識を持つ必要があるということになる。

憲法に戻ると「社会契約などという概念は日本の気風に合わない」という人が出てくるのは想像に難くない。だが日本の憲法は国際社会に復帰するために交わした約束であるという側面もある。それを無視するのかということを聞いてみると良いだろう。相手は多分話をごまかすだろうが、その時点で護憲派の勝ちである。

落ち着いて考えてみると、法律も哲学もすべて大学の「パンキョウ」で習ったものばかりである。授業には出ていたが正しく理解はしていなかったし、わからないならちゃんと質問しておくべきだった。その意味であの時サボッたツケは意外と大きいのかもしれないなどと考えた。不安をなくすためには自分の頭で考える必要があるわけだが、そのためにはある程度の知識の集積が必要なのである。

Google Recommendation Advertisement



権利には義務が伴うという馬鹿はどうやって撃退するのがいいのか

Twitterを見ていたら面白い議論があった。権利には義務が伴うというのは嘘っぱちなのでそんな人のいうことは聞かなくても良いというのである。権利には義務が伴うという人はもともと公益を私物化したい社会の寄生虫なのでこのような対応でも良いと思うのだが、ここはひとつ大人になってその背景について学んで行きたい。

結論だけを知りたい人に短く答えると次のようになる。「権利には義務が伴う」という言い方はできるが、社会や国家が契約によって成り立っているという前提をおく必要がある。もともと契約による国家という新しい概念を説明するための言葉だからだ。だが、日本の議論はこの前提がわざとぼやかされており、いつの間にか他人の権利を侵害して義務だけを負わせることができるという謎理論が生まれた。

さらにそれも面倒で覚えられないという人は、権利には義務が伴うが、気に入らなければ政府は打倒してもいいという前提があるといえば良い。つまり「お前、覚悟はあるの?」ということになる。

過激な考えだと思われるかもしれないが、訪問販売詐欺にあったらクーリングオフ制度を使ってキャンセルするのが常識なのだから、選挙も売買契約が成立したら「あとは何をしてもよい」ということにならないのは当たり前である。


そもそも誰がこれを言い始めたのがよくよくわからなかった。道徳の授業を受けたことがないのだ。そこで直感にしたがって「民約論」あたりを調べてみようと思った。つまり、近代国家の「契社会約」という概念を説明するために作られたのではないかと思ったのである。中江兆民の民約論について研究したPDFには次のようなが説明がある。少し長いが引用する。

ルソーの社会契約説は、人間社会の構成原理を解き明かしたものだから、きわめて複雑 な構成と豊富な内容をもっている。しかし本稿との関連においてその骨幹を提示するなら、 それは以下の三点であると思う。

①人類の歴史は、共同の力を発揮できる新しい結合形式(社会契約)をみつけだすことによって自然状態から社会状態へと移行したこと。 ②社会の平等な構成員はみずからの自由を確保したままで市民として「一般意志」 (volonté générale)を策定し(主権者として「法」を制定し)、かつそれに服従せね ばならないこと。 ③社会の平等な構成員として政治的(市民的)自由を保障された人間は、真に自らを 主人たらしめる「道徳的自由」(liberté morale)を体現せねばならないこと。

①は人間社会の形成史にたいする重要な新視角であり、人民主権論の論理的前提である。 全能の神による天地創造説が常識だったのだから、これは冒頭で述べられ、随所でくりか えし説かれる。②は本書の根幹をなす社会の成員相互の契約関係であって、全構成員が主 権者として法を制定するとともに個人としてそれにしたがう義務をもつという「二重の関 係」がいろいろな角度から丁寧に説明されている。③は実際には考察の対象としないこと を第一編第八章末でことわっているのだが、社会契約に対応的な市民精神をあえて提示し ているのである。

中江兆民は社会という概念がなかった時代に「民」という概念を使って社会と法治主義国家の理念を説明しようとした人である。天皇が臣民に国家を与えるという従来の考え方を否定して、国家というものは国と国民の間の契約であるという概念を広めようとしたことになる。同じことはフランス革命期のフランスでも起きている。今回は触れないのだが、大前提として基本的人権がある。これも誤解されている概念だが「人間は生まれながらに等しく平等である」ということだと思ってもらえればよい。逆にいうと「最初から特別扱いされる人は誰もいない」という原則だ。

日本では、フランスから輸入されたこの考えが自由民権運動や一部の大学の基礎になっている。法政大学と明治大学はフランス法を学んだ人たちによって作られた。一方で国家神道的な系統から出てきたのが今問題を起こしている日本大学だ。彼らは民主主義のカウンターから出てきたので雛形のバグがそのまま騒ぎになって表出しているのである。

フランス式の法概念では、主権者は主体的な契約に基づいて国家の運営に参加することになっている。主体的な契約があるということは、政治家も有権者も契約について熟知しておりまたそのプロセスも透明化されているということになる。だから民主主義には説明責任がある。

国家と国民の間には契約があるのだから、社会の害悪になる不当な権力には従わなくても構わないし、それを打倒する権利もあると議論が発展させられる。ヨーロッパでは抵抗権として知られる考え方である。不透明な政治には従わなくても良いのである。

さらに少し踏み込んで調べてみようと思い、普段は読まない哲学書を読んでみようと思った。だが、何を読んで良いのかわからないので「覚えておきたい人と思想100人」という本を取り寄せた。だが、哲学の素養もないのに辞典を取り寄せても何がなんだかさっぱりわからない。一般教養を積んでこなかったツケだろう。

そこでGoogle先生に「who said the rights comes along with duties?」と聞いてみたところ幾つかのページが見つかった。AIってすごいなと思った。そこで見つけたのが「義務論(Deontological ethics)」というジャンルである。そこで義務論について調べたところBBCのページが見つかった。

哲学は苦手なのであまり深入りもしたくないので概要だけをかいつまんで見る。人間の行動には動機(インプット)と結果(アウトプット)がある、このうちインプット側に着目したのがDuty Basedの哲学だである。日本語のWikipediaの義務論のページには功利主義との対比が書かれている。「覚えておきたい人と思想100人」のカントの項目にも功利主義と対立するというようなことが書いてある。逆にイギリスでは功利主義というアウトプットに注目する哲学が生まれる。みんなが結果的に幸せになれるのがよいというのである。

さてどちらが「正しい哲学なのだろうか」などと思えてくる。そこでBBCのページをよく見ると「義務論の良い点と悪い点」が書いてある。内心に着目すると結果についての責任は追わなくて済むので、悪い結果が出ても気にしなくなる。また絶対的なルールを設定するので硬直的になりがちだという記述もあった。どちらが「正解」ということはなく、目的に応じて使い分けるべきだという理解があるようだ。

ここまで見てきて「この議論は前にも見たことがあるぞ」と思った。一昔前にNHKきっかけで流行したマイケル・サンデルの白熱教室だ。改めて、サンデルのWikipediaの項目を読むと「共通善を強調する」と書いてある。つまり、サンデルは功利主義者ではなく義務論の人なのだが、授業ではどちらも教えている。

ここまで見てみると、哲学の「義務」の意味が見えてくる。義務は誰かから背負わされるものではなく自ら進んで選び取り遂行するものを指すのだ。このような装置を置いたほうが社会が円滑に運営できる(結果に着目)し、より多くの人が善を追求できる(内心に着目)からである。そして「なぜ人間は善を追求すべきか」についての説明はない。つまり、人はそういうものなのだという前提が置かれている。

私を含めた多くの日本人は義務と権利を「税金と公共サービス」という概念で捉えているのではないかと思う。つまり、なんらかの義務を支払うことで公益サービスを受ける権利を買っていると考えるのである。これは国と国との関係ばかりではなく村落共同体でも「お互い様理論」として受け継がれている。お歳暮をもらったら送り返さなければならないという程度のことだが、常識としては深く浸透しており、立派な哲学と言えるだろう。

こう考えてみると働いていない人(杉田水脈流にいうと「生産性の低い人」)は対価を支払っていないのだから、公共サービスを受ける権利がないのだという理解が成り立ちうることがわかる。だが、実際の民主主義ではこのような考え方はしない。本来平等であるべきものが歪められているから社会で補填しようというのが人権保護の基本的な考え方である。

社会契約説に従えば権力者は統治権限を委託されているだけなので、契約を示し、過程を提示し、信任を失えば抵抗される可能性がある。選挙だけが民主主義ではなく、やり方によっては社会の写し鏡にならない可能性があるので、途中で抵抗される可能性は残されている。それが東洋の伝統に合わないというのなら「徳」という天との契約がありそれが履行されていないという言い方をしても差し支えないだろう。東洋では徳を失えば革命が起こる。

ルソーの社会契約説での義務は契約締結に伴って生じる。また、義務論の義務はより良い社会の構成員になりたい人が内心に従って自発的に義務を果たすことでより良い社会を実現すべきだと考える。つまり、これらの考え方を理解するためには、内心や社会という概念を受け入れる必要がある。だが、日本人には内心(良心)という考え方もなければ、社会や公共という概念もない。だから議論ができないのだろう。

これを稲田朋美を例にあげて説明してみよう。稲田さんは、国民一人ひとりに価値はなく日本という全体に価値があるのだから、いざとなったら戦争にいって犠牲になって全体を守れと主張している自民党の国会議員だ。

稲田さんら、自称保守の人たちは、国民は国の従属物であり歴史の総体という前提がない個人は無意味だと考えている。生産性は経済性に着目しているが、保守の人たちは精神性を取り入れている。歴史に従属する公共善という概念はあるので、ここまでは西洋と近い。

だが、その義務を負うのは「日本人」である。日本人というのは彼女とそのお友達を除いたすべての日本人という意味であり、彼女たちだけは「歴史によって形作られた保守的な価値観」を知っているのだから特別な存在であり、責任からは除外されるか「もっと重要な責任を担うのだ」として「低位の責任」は免除される。

最終的に「国民は生まれながらにして私たち(統治者)に負債を負っているのだから義務を果たして死になさい」という謎理論が生まれてしまうのである。

ここで二つのことが起きている。西洋では全体は不可知なので「全員で追求して行こう」ということになるのだが、なぜか稲田さんは答えを知っているという前提がある。だからこそ歴史の総体としての善を国民に知らせることができるのである。だが、それが何かということは開示されないし、その途中経過も明かされない。

なぜ彼女たちだけは特別な知識を持っていて特権を享受できるのかということは決して明かされない。さらに途中のプロセスも黒塗りされていてわからない。自称保守の人たちが政権をとると政府資料はことごとく黒塗りされ、外交文書はそもそも明かされず、その他の話し合いはなかったことになる。それは彼らだけが知り得る秘密であって、国民が知る必要がないものだからである。

こうした状況下では議論は成り立たない。そもそも日本人の側は言葉を持たないわけだし、政治家の側は言葉を明かさないからだ。

かつてカトリック教会が「神の意志はラテン語で書かれており庶民には理解できない」といったのと似ている。カトリック教会はこのロジックを使い「免罪符を買えば罪は洗い清められる」と主張し、神の意志を私物化したのだが、ヨーロッパの人たちは「神の意志は個人の中にも存在し、従ってローカルの言葉でも理解し得る」と考え方を改めるまではカトリックの権威に対抗できなかった。その意味では日本の政治状況は中世と同じなのである。

だから、これに対抗するには耳を塞いで「そんなのはデタラメである」と泣き叫ぶしかない。

そのように考えると、サンデルが倫理や哲学について語ることができ、BBCが「倫理」についてのページが持てることの意味がわかってくる。サンデルは自分の立場にも「ベネフィットとデメリットがある」ことをわかっている。それは哲学は単なるツールにすぎないからであろう。聖書がドイツ語になり活字に乗って普及したのと同じように、サンデルは哲学という言葉を広めようとしているのである。自分にも主張はあるが、主張があっても理解されなければ何の意味もない。

その前提になっているのが社会である。サンデルは自分も相手と対等に社会の一員であるということを自覚しているからこそ、言葉を広めて「一緒に考えましょう」と言っている。民主主義とは問題を「みんなで一緒に考えること」である。

少々長くなったのでこの辺りでまとめる。私たちが「真理は一人ひとりの心の中にある」と考えない限り「権利には義務が伴うから、あなたたちはボランティアで無料奉仕したり、徴兵に応じて権力者を守るために戦わなければならない」というデタラメな主張に対抗することはできない。言葉がないのだから唸り声をあげながら逃げるしかないのである。

Google Recommendation Advertisement



「いい人」が日本社会を滅ぼす

昨日書いたように、サマータイムについて考えている時に面白い反論があった。介護が必要な高齢者はベットの環境を変えただけで亡くなってこともあるのに、サマータイムなどとんでもないという。

確かにそのようなことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

がそこで、当事者が気がついていないであろうある面白いことがわかる。「なぜ命に危険のある高齢者の時計を変えなければならない」のだろうかという問題である。介護に直面している人の声を聞くと(直接は聞けないがTwitterには経験者の声が溢れており、フォローしている人の中にもそいういう人たちがいる)中央が決めたルールに翻弄されている人や現場が勝手に決めたルールに苦しんでいる人が多いことがわかる。社会から切り離されていると感じているうえに「上が勝手に決めるルール」に憤っているとしたら、その気持ちは理解しなければならないなと思う。

今回のサマータイムは「政治家を引退した無責任な人があまりよく考えずにとりあえず言ってみた」ということがきっかけになっているので、議論する必要はないし、議論になったら冷静に反論すれば良いと思うのだが、仮に通ってしまったとして実際に行動すべきかという議論はできる。サマータイムは時計というわかりやすいものを扱っている。だが、実際には無理な指示の結果裏で「ズル」をせざるをえない人も多いのではないだろうか。こうして、結果的に誰のためにもならない社会ができるのなら、最初から無理なルールには無理というべきである。

もし仮に「オフィシャルの時計が変わるわけだから当然病院や介護施設の時計もとにかく変えるべきだ」ということになるとしたら、それは専門性の放棄である。つまり、命に問題があることがわかっているのに「とりあえず世間がそうなっているからそうするのだ」ということになるからだ。その人は考えることを放棄している。だから、上から無茶苦茶な命令がきたら「専門家の良心に従って拒否」すべきだ。

ただ、実際にそれをやるのは難しい。日本人にはとにかくいうことを聞くというマインドがあるからである。

先日区役所に行ったのだがそこのカレンダーが8月10日の金曜日になっていた。そこで「今日は月曜日ですね」と言ったところ担当者は札を月曜日に変えた。だが、10日の札はそのままになっていた。この市職員は「言われたことはやるが本質は理解しようとしない」という癖がついているのだろう。つまり、曜日が間違っているねと指摘されたら曜日は変えるが、カレンダーを正しい日付にしておくべきだという規範意識はないのである。

そこでカチンときて「なぜ13日にしないのだ」と怒鳴ってしまった。彼はきょとんとしていた。つまり「言われたことをやったのになぜ怒られるんだろうか」と思ったのではないかと推察する。これも日本人としては割と普通の対応である。日本人は内部に規範は作らない。つまり「自分が正しい判断をして他人に正しい日付を教えるべきだ」という様な規範意識はできない。社会がどうなろうが知ったことではないからである。学校教育が先にあるのかこうした日本人のメンタリティの結果今の学校制度ができているのかはわからないのだが、学校教育も本来の目的意識よりも「どう決まりを守るか」ということに重点が置かれる。そのため、熱中症で死者が出かねないのに学校行事を優先させることが起こる。決まりを守るとき生徒の命は忘れられているが、日本の学校ではそれはきわめて当たり前のことなのだ。

日本人言われたことだけをやるが、特にそれを悪いこととは考えていない。ここで異常だとされるのはカレンダーの間違いを指摘した方である。日本人は「この人は自分のことでもないのになぜ怒るのだろうか」と不思議になってしまう上に「きっと何か面白くないことがあったから八つ当たりしているのだろう」と考えてしまうのである。

介護施設の話に戻ると、時計が変わるから時間をずらすのが当たり前で、その結果高齢者の命がどうなっても構わないと考えているとしたらそれは大変問題なのだが、実際にはその様なことはありふれている。

しかし、持ち場を守るということを考えた場合「影響を抑えるためには時間をずらさない」という選択をする人たちが出てくる可能性はある。さらにこのほかに「現実的に時計がずらせなかった」という人たちが出てくるだろう。技術的に不可能だという人と、費用的にそれをやる余裕がないという人が出てくるだろう。例えば中小業者はレジを変えられないという理由で時計をそのままにするところが出てくるだろう。技術的にはそれほど難しくないかもしれないが、レジを変える改修費が出せない人は多いだろう。

ここで「時計は変えません」と宣言すればそれで治るのだが、実際にはごまかしが横行する。なんとかその場を取り繕ってやり過ごそうとするのだ。この結果社会に嘘が蔓延する。政府はすでに行政文書を隠したりなかったことにして嘘をつく人で溢れかえっている。

さらに「政府の時計が変わっても好きな時間に起きればいいじゃないか」などと言うと逆に怒り出す人おいるのではないだろうか。それは日本人が「みんなが決めたことには従わなければ罰せられる」と思っているからであろう。つまり、いい子でいたいのである。

このいい子は社会の害悪になっている。官僚は上から無茶なことを言われた時、とりあえず体裁を守らなければと、なんとなく理屈にがある様なないような答弁を考えて首相にメモとして手渡したりしている。そのうち、そのメモにつじつまを合わせるために嘘をつかなければならなくなる。ただこれも官僚が自己保身を図ったという側面の他に「いい人でいたかった」という気持ちがあったのだろう。

いい人でいることを優先したために、プロとして「国家の秩序を守るにはどうすべきか」とか「職務を公平に全うすべきか」ということを忘れてしまっていたことになる。外から見ていると恐ろしいことなのだが、意外と当事者の人たちは市役所の職員のように「言われたことをやっているだけなのに何がいけないのか」と思っているかもしれない。教育委員会が決まりを守ったら死者が出たのだがそれは仕方がなかったと思うのと同じように、官僚も組織の秩序を守ろうとしたら結果的に嘘が出ただけだと考えて反省はしないのである。

もし仮に官僚が「いい子」でなかったなら、首相は二つのことをやらなければならなくなる。一つは政府がきちんと回る様なロジックを自分で考える必要が出てくる。さらに、自分の人格を律していうことを聞いてもらえるように振る舞う必要がある。英語だとこれをリーダーシップという。日本はいい子に囲まれておりかばい合うので、影響力のあるリーダーが生まれにくいのだ。

安倍首相の問題は彼個人の資質によるところが多いのだろうが、あんな人がリーダーになってしまったのは周りにも責任があるということになる。

実際に社会に反抗する行動を取るのは難しいのかもしれないが、まずは「その指示には従わなければならないのか」を考えるべきではないかと思う。そして、考えがまとまったら感情が擦り切れない様に淡々とそれを発信すべきだろう。

Google Recommendation Advertisement



承認を待ち望む人々

先日来、政治を離れて「マーケティング」について見ている。まず、韓国人がインドをマーケット捉えるところを観察し、かつては日本にも同じ様な時代があったことを確認した。つまりよい製品があっても現地のマーケティングに受け入れられなければ意味がないので、現地のマーケット事情を学ぼうという姿勢が大切であり、日本もかつてはそうしていたということを確認した。マーケティングとしては極めて自然なアプローチであり、K-POPもホンダのバイクもカップヌードルもこのやり方で成功している。

日本すごいですねマーケティングの失敗をなんとなくにらみ「自分たちの製品は優れているがその本質を理解できるのは日本人だけ」という姿勢が日本製品の海外進出を難しくしているのだろうなと考えた。なんとなく当たっている様な気もするが、どうしてそうなったのかはわからない。

次にZOZOTOWNを見た。オペレーションはデタラメだがZOZOTOWNはそこそこ成功するだろうと考えた。若者の認知率が高いからである。この認知率の高さはインターネットからの流入に支えられている。コンシューマーが作ったコンテンツで認知度をあげるという戦略なのだが、これがうまくいっているわけである。これはリーマンショックの前に提唱された概念でUGCと呼ばれる。

アメリカ型のUGCは個人の意見表明に支えられている「発信者主体」のメディアだが日本はそうではなかった。ZOZOTOWNはそのことに気がついたのだろう。個人が確立しないままで自己責任社会に突入した日本では「相互承認」こそが重要なのだ。このためWEARには顔を隠した人たちが大勢掲載されている。彼らは承認は欲しいのだが人前に顔を晒すのは嫌なのだ。

つまり、日本のUGCを支えているのがユーザー間の「いいね」である。自分の露出を高めるために仲間のコンテンツにもいいねを押すことが習慣化していて、それなりの社会的承認が得られる仕組みができている。そしてこれがコンテンツになりZOZOTOWNの流入を支えている。かつて私鉄に乗って渋谷のPARCOにおしゃれをして出かけたようなことがインターネット上で行われていることになる。アパレルは衣服を売っているわけではなく、自己承認の機会を売っているのである。

スマホがこの「いいね」の核になっていて、人々はLINEやその他のメディアで承認したりされたりすることで認知欲求を満たし、それを持ち歩いている。「スマホがないと死んでしまう」のはそのためである。学校では個人を殺して先生の意見を受け入れることを強要される上に、自分をどう表現していいかは習わない。だから自己承認は成績を上げて学校に褒めてもらうか、クラブ活動で成果をあげるか、仲間同士で慰め合うかの三択になってしまうのである。

かつての人々は読んだ本やイデオロギーなどを個人の核にしていたのかもしれないのだが、今では商品のプロモーションに紐づけられた相互承認によって自己を満たしているという可能性がある。

なぜ人々があれほどまでに「モテ」にこだわるのかがよくわからなかったのだが「モテ」こそがその人の価値を決める指標なのではないかとさえ思える。モテとはより多く承認が得られる状態のことだ。

ただし、この「モテ」には正解がない。個人の美的感覚が優れていても「モテない」ファッションには全く意味がなく、そのモテもマーケティングの関係で移り変わることになっている。ここにキャッチアップする人もいるだろうが、できない人もいると考えると、モテに乗り遅れたであろう人が確実に出てくることがわかる。

他の人たちが相互承認を得ているのに自分だけは得られないと考えた人が、「信念を持て」などと言われても「よくわからない」と思うのではないだろうか。信念を持ったり自分なりの学習で何かを極めたとしても「モテ」なければ全く意味のないことだからだ。モテない人生はないも同じである。モテるためには消費しなければならないし、消費するためには稼がなければならない。

しかし、こうした不確実な状態に人はどれくらい耐えられるのだろうとも思える。より簡単なのは誰かを貶めることでこうした不確実な状態に形を与えることなのではないかという仮説が成り立つ。クラスにおいては誰でもいいから一人をつまみあげて悪者にしていじめればよい。そうすることで「自分はかられる存在ではないので正しい側の人なのだ」という確信が得られるだろう。また政治においては問題解決は面倒だが、在日韓国人や同性愛者を叩いて「自分は正常な存在なのである」と言えれば、それで承認の問題は解決する。アカウントに日の丸を付ければ、正当な社会の一員となれる。保守というのは居心地のよいバッジだがそれについて理解する人はない。だから消費行動のないモテには犠牲が必要なのだ。ひどい話なのだがこれで説明できることはたくさんある。日本の政治はこうした犠牲の元に支持を集めている。

問題なのは消費者も自己承認を求めているのに、メーカーも自己承認を求めていたということだろう。かつてドルチェアンドガッバーナなどに取り上げられて「日本すごいね」の象徴だった岡山と広島のジーンズ産業は低迷期を迎える。イタリアのメーカーがジーンズに飽きてしまったからだ。そこで彼らは日本の顧客について研究する代わりに「自分たちがいかに優れているか」を宣伝する様になった。それは男性に捨てられた女性が過去の恋愛について自慢する様なもので、とうぜんジーンズブームはこなかった。現在ではてレビ番組を使って100円均一商品がヨーロッパで人々を驚かせているという様な番組を作って悦に入っている。

例えばホンダのバイクを作っている人は「このバイクには自信がある」と考えていただろう。ただ、アプローチの仕方がありそれを研究しなければならないと考えるわけだ。またインスタントラーメンにも自信があるわけだが「箸と丼がない国の人に得るためにはそれなりの工夫が必要」と考える。同じ日本人なのにこれほどまでの違いが出るのは、一度出た正解に固執するからなのかもしれない。

日本人は勝てるゲームが好きなので、正解がないときには一生懸命に正解を模索するために協力する。しかし、一度正解ができてしまうと仲間内から「なぜ面倒な試行錯誤をして時間を浪費するのか」という声が出る。こうして日本は勝てなくなってしまうのではないだろうか。いずれにせよ他人からの承認を求めようとすると相手が見えなくなりますます泥沼にはまりこむ。

いずれにせよ承認を与えてやることは無料な上に力強いマーケティング効果があることは間違いがなさそうだ。安倍政権はここに着目しており問題解決よりも「あなたたちは正しい道を進んでいる」と言い続けることで若者への支持を獲得しているわけだし、ZOZOTOWNも「いいね」を提供することで若者への認知度をあげている。人間を常にどっちつかずで曖昧な状態に置いておくことで、自分のアイディアを買わせることができる。これが良いことには思えないのだが、現実的にはその様な状態があるという結論になった。

もっともこれが個人主義が確立しないまま自己責任社会に突入した日本特有の問題なのか、ありふれた問題なのかはよくわからない。かつての日本人は市場に学べていたわけだから、今回は「日本人が」という主語の使用は極力控えた。なんとなく「最近の若い人は」という主語を使いたかったが、これも控えた。メーカーの関係者もまた自信を失っており周りが見えなくなっていることが多いからだ。

Google Recommendation Advertisement