部分最適的な議論とニート

これまで、日本では社会主義が混合した自由主義が様々な不具合を生じさせているという議論をしてきた。当初想定していた通り閲覧時間が減っている。この理由を考えた。結論からいうとつまらないからだろう。ではなぜつまらないのかを考えた。つまり、人々のニーズに合致していないからだ。時々誰かを叩いているように見えるものを書かないと、ページビューが落ちたり購読時間が減ったりする。

最近Quoraという質問サイトに投稿している。主に答えを書くことが多いのだが、Quoraではむしろ質問を募集しているようだ。質問を作るとページが生まれる。するとそこに人が集まる。するとページビューが増える。だからQuoraは質問を求めているということになる。

だが、そこに有効な答えがつくことはほとんどない。答えにはインセンティブがついていないからである。このようにQuoraはプレゼンスを求めて答えのない質問を生産するシステムを作っている。だが、Quoraはそれでも構わない。そういうシステムなのだ。

そもそも答えが集まらない上に日本人は答えを書きたがらない。試しにアパレルと美容で専門家に回答リクエストを出してみたのだが反応がない。日本のコンサルタントと呼ばれる人たちは知識を持っているが問題解決のための智恵はないのだろう。例えば「アパレルは売れないがどうすればいいか」という質問に答えはつかない。この問題を打開した人は日本にはいないからである。彼らは「誰にも知られていない秘密のレシピがある」といって情報を公開しないことで生き延びている。しかしそれは過去の成功の寄せ集めであり根本的な問題解決にはならない。彼らもそれがわかっているから答えが公開できないのであろう。

これとは別に時事問題でいくつか質問をしてみた。防弾少年団の問題と北方領土の問題について書いた。これについてはいくつか回答をもらったが、だいたい世の中にある論と同じである。ある種の正解ができあがるとそれを述べる人が多いということになる。ここから、人々は正解を述べたがるということがわかる。この「正解を述べたがる」ということを頭に入れておくとどのような答えが集まるかがなんとなく予想できるようになる。正解に合致するように書いてやればいいのだ。

ではなぜ正解を述べたがるのだろうか。一つ目の単純な答えは学校教育が悪いからというものである。テストで正解を覚えると褒めてもらえて最後には東大に行けるというシステムでは、どうしても正解を知っている人が偉いということになる。学校教育は過去の正解を集めると褒めてもらえるスタンプラリーなのだ。

だが、理由はそれだけでもなさそうである。

アパレルの専門家はたくさんの正解を知っていて雑誌に広告を出したりフェアを開催したりして毎月の売り上げを維持しなければならない。すると情報が溢れプロダクトラインは整理されないまま増えてゆく。だがこれを整理しても専門家の暮らしはよくならない。Quoraも答えのつかないシステムを量産しなければ売り上げにならない。さらに政治家もシステムを整理して物事を単純化しようとは言えない。なぜならば彼らも売り上げを立てる必要があるからだ。

政治家は自分たちで支持者を集めてこなければならなくなった。このため地元に利権を誘致し、支持者が喜ぶような乱暴な意見を述べる人が多くなった。その度にTwitterは荒れ、野党の反発から国会審議が止まる。だが、それを整理しようという人はいない。状況を整理しても票には結びつかないからである。彼らもまた暮らしを成り立たせるためには情報量を増やして状況を混乱させることに手を化している。前回、このブログで政治について説明したところ「国会議員は選挙のことを考えず全体について考えるべきだ」と言っている人が圧倒的に多かった。だが、全体のことを考えている人に投票しましたかと質問するとあるいは別の答えが返ってきていたはずだ。

いわば人々が限定的な自由主義のもとで働けば働くほど情報が増えシステムが混乱し、自己保身のために複雑な社会主義的システムが作られ、さらに状況が混乱してという無限のループが生まれることになる。重要なのはこれが日本で「働く」ということの意味なのであるということだ。かつて日本の製造業が空気を汚さないと生産ができなかったのと同じことである。

これを整理するためにはこの枠の外に出る必要があり、それは働かないということになってしまうということになる。

先日「ブッダ最後の言葉」の再放送を見た。花園大学の佐々木閑教授が大般涅槃経を解説するというものである。宗教色を取り除くために僧侶の組織論として捉え直して紹介していた。僧侶の集合体は「涅槃に入る」ための共同サークルだが、組織を維持するための戒と目的を達するための律があるそうである。しかしそれだけでは僧侶は食べて行けない。そこで経済を支えるシステムが必要だった。それが在家信者だ。

この番組で佐々木教授は、ニートは僧侶のようなものであるといっていた。生きているということは仏教では苦痛なのでそこから解脱を目指す人がいないと人々は救われない。だが生から解脱してゆくと食べて行けなくなる。それを在家信者が支えるというのが仏教の基本的な考え方のようだ。代わりに僧侶は自分たちのコミュニティにこもるのではなく在家信者に俗世的な生きる知恵を与えるという仕組みになっている。僧侶は働かないという意味ではニートであり、例えば生産性がないという意味では基礎研究の科学者のようだとも考えられる。

基礎研究はノーベル賞などの社会法相システムがある。一方、ニートはそれぞれが孤立しており、生産セクターにフィードバックするシステムがない。だからニートはだめだと言われてしまうのである。

俗世のシステムをありのままに観察してゆくと最終的に宗教に答えが見つかるというのはとても皮肉なのだが、「生活の苦労がない科学者や政治的指導者を持つこと」が豊さにつながるというのは頷けるところが多い。例えば総理大臣は権力闘争で生き残りを図る必要があるから尊敬されず、世の中を混乱させてばかりいる。一方で天皇が戦争や災害に心を配ることができるのは、この生活を国が支えており、地位を脅かす人がいないからである。かつて政治家が尊敬されていたのは彼らがお金を集めなくても周りで支えてくれる人たちがいたからだろう。今でもそのような家は幾つか残っており「選挙に強い政治家」と呼ばれる彼らは比較的未来のことを考えた発言ができる。

しかしながら、俗世の人たちはそうも言ってはいられない。すると答えつかない質問が溢れる。しかし世の中の人たちは質問をするという面倒なことはしない。オンラインコミュニティで成功するには二つの正解から選ぶことになる。

一つはこれまであった正解を過去の成果とともに誇大に宣伝するというものである。例えばバナナを食べたら痩せたとか、聞き流していたら英語が話せるようになったというものだ。こうした情報は巷に溢れている。歴史を単純化したうえで都合の良いwikipedia記事だけをコピペしたものが保守の界隈では「立派な歴史書」としてもてはやされているそうだ。

もう一つは正解からはみ出した人たちを「わがままだ」と言って叩くというものである。豊洲が正解になったのだから、そこでやって行けない伝統的な目利きはわがままだと言って潰してしまえばいい。すると、政治家も都の職員も過去の事業の失敗の責任を取らなくて済む。また保育園に預けて働きたいというお母さんはわがままなので無視すればいい。日本は日本民族から成り立っているという正解のためには、アイヌ民族や在日朝鮮人はいないほうがいい。さらに結婚はいいものであるべきだし社会保障の単位であるべきなのだから、同性愛は病気ということにしてしまえばよいのである。

それでも不満はたまるから、時々明らかに正解を外れた人(ちょっとした法律違反や不倫などの道徳違反)の人たちを見つけてきて叩くことになる。

こうしてコミュニティは荒れてゆく。だが、多くの人たちはそれでも構わないのだ。こうして誰かが状況を整理するまでは部分最適化が進み人々はかつての正解にしがみつくためにますます過激なコンテンツを求めることになる。

Google Recommendation Advertisement



保育園にわざと落ちる「わがままな」親たち

先日は憲法改正と外国人労働者受け入れの問題から「出し惜しみ論」について考えている。この一環として日本に蔓延する「わがままな親たち」について考える。片山さつきによると「私たち」自民党は国民は義務を果たさず権利ばかり追求すると考えている。このわがままさの正体がわかれば自民党の世界観が正しいかどうかがわかるはずである。

保育園わざと落ちる問題についておさらいしておく。この現象は不承諾通知狙いと呼ばれている。東洋経済から抜粋する。東洋経済によると不承知許諾通知狙いは慢性的な保育政策の不足から起きている。

ヨーロッパの先進国では、3歳もしくはそれ以上の育児休業をとれる国も少なくありません。しかし、日本の育休制度は、あくまでも1歳までが原則で、育休延長は保育園に入れなかった場合などの救済策として設けられているに過ぎません。

このことが、実はさまざまな歪みをもたらしています。

育休は1年間は取れるのだが、それ以降2年目までは救済策として整備されている。この救済策を受けるためには「保育を申し込んだが受け入れられなかった」という実績が必要である。一歳児はまだまだ手がかかる上に、職場に復帰してしまうと「男性並み」の働きが求められるため、子育てと職場の両立に不安を持つ親が多い。だから最初から保育園に落ちたことにして不承諾通知を狙う人がいるのである。わざと人気の場所を選ぶ人がおり、選ばれても通えないからと辞退する人に多いそうだ。彼らは職場とキャリアを失うのが怖いので「彼らができる範囲で」最適な行動を取ろうとする。これが制度を混乱させている。つまり、親のわがままとは部分最適化行動なのである。

不足のある政策は部分最適化行動を生み政策の不足を助長するということになる。

ポストセブンも同じような解説をしている。

制度を作るとその制度を「有効に活用しよう」とする人が出てくる。しかしその他に自由度がない(夫は育児を手伝ってくれずその余裕もないし、職場も人手が足りず育児中の女性を特別扱いできない)うえに制度そのものも十分ではないので、その制度の中で最適化を図ろうとしてますます制度が混乱するという悪循環が生まれる。

保育園の数が十分あればこんな問題は起こらないはずである。ではなぜできないのか。これについて、以前地元の市役所に取材したことがある。予算制約があり駅前の便利な土地にたくさん保育園が作れない。統計上の数合わせのために空いた土地に作ったりするのだがそこには需要がない。無理して便利な土地に作ってしまうと今度は別の問題が起こる。今まで保育園がないからといって子育てを諦めたていた人たちが子供を作ったり、キャリアを諦めなくなったりする。すると保育園の需要が増えてしまうのである。

複雑に思えるかもしれないのだが、起こっていることは単純だ。既存の変数から計算して保育園の需給予測を立てる。しかし、保育園の数が変数になり需要を増やしてしまうという「フィードバック効果」が生まれる。だから、いつまでたっても数字が確定しない。市役所の人たちは薄々これに気がついているが理論化まではできない(そもそもそんなことを考えていても仕方がない)ので、「国が決めること」だとしてコントロールを諦めてしまっているようだ。

ここでもう一つ重要なのは「保育園の数がいつまでも足りない」ということである。計画的社会主義の供給が不足に陥ることは経験的には知られている。ソ連ではすべての生活必需品を計画生産していたが、1960年代ごろまでに破綻し「いつもモノが足りない」という状態になっていた。いくつか要因は挙げられているが、何がキードライバーなのかは確定していないのだという。個人的には社会主義にはインセンティブを与える仕組みがないからだと思っていたのだが、これが主犯だという証拠もないそうである。

日本は資本主義社会なので日用品の生産は充足している。足りないのは介護や子育てなどの福祉分野と労働賃金である。この二つの分野で社会主義化が起こっていると仮説すると状況がうまく説明できる。

政府がどのくらい市場に介入すべきかというイデオロギー的な問題は横に置いておいたとしても、政府が介入するとところでは部分最適化が起きなおかつ供給はいつまでも過小なものだろうという予測はかなり確度が高い。保育所がいつまでも足りないように海外労働者も充足しないだろうし、それは賃金の慢性的な不足という意味で日本の消費市場をじわじわと衰退させるだろう。

前回蓮舫議員のツイートを批判したのはこのためだ。つまり、蓮舫議員が「不足人員の需要を出せ」といったことが、彼らが意図した華道家は別にして計画経済的な視点になってしまっているのだ。

実は政府が計画を作ってしまうと、その枠までは低賃金労働者が供給できる可能性があるという宣言になってしまう。すると、その低賃金労働に人が張り付くことになる。実際に各産業ではこの数字を巡り「自分たちの産業にも多くの人を割り当てるべきだ」という声が出始めている。(毎日新聞)こうすると賃金を上げずに企業活動が維持できるのである。そしてそれはアパレルのゾンビ企業を温存する。これも社会主義では「ソフトな予算制約」と呼ばれる問題に似ている。

一方、対象から外れたコンビニやスーパーは、将来受け入れ対象になることをめざし、経済産業省などと協議を続ける。縫製業務などで外国人技能実習生を多く抱える繊維アパレル業界も「認定されれば工場の安定的な操業につながる。ぜひ対象に加えてほしい」(ワコール)と求めた。

安倍首相はアベノミクスで経済が成長すればその果実は地方と労働者に滴り落ちると説明してきた。しかし実際にはその果実が滴り落ちることはなく、安い賃金労働者がもっと必要だから海外から調達してこようという話になっている。野党はこのことを追求することなく「確実な需給予測を」と言っている点から、安倍政権だけでなく野党も資本主義経済についてよく理解していないことがわかる。狭い村を基本に行動する日本人はもともと計画経済志向が強いのかもしれない。だが実際の経済は一部の人が完全にすべての情報を把握できるような大きさではない。

政府が市場に関与すればするほどソ連型社会主義の「不足」の問題が出てきてしまう。だが、自民党は構造的な問題を解決することはなく「国民がわがままだから自分たちの素晴らしい計画がいつまでたっても成就しない」と考えて「天賦人権を取り上げて政府が指導すれば問題は解決するのではないか」と推論するようになってしまったのである。

数年前に「天賦人権はふさわしくない」と言い放った片山さつきは今や大臣になっている。そこでわかったのは公職選挙法を都合よく解釈して各地に大きな看板を作ったり、カレンダーを会議の資料だといってプレゼントしたり、さらには自分の名前を使って勝手にいろいろな商売をするであろう人を無償で秘書として雇ったりということをしていた。一生懸命自分のキャリアを守ろうと試行錯誤する親がわがままと言われる一方で、政治家の私物化はわがままと呼ばれることはない。

これが自民党政権を放置し続けたツケなのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



防弾少年団のミュージックステーション出演見送りの意味


防弾少年団がミュージックステーションへの参加の見送りを表明した。(スポーツ報知)一部でスポンサーへの抗議電話運動などが始まりつつあり、テレビ局側が巻き込まれるのを恐れたのではないかと思う。これを見て「日本のエンターティンメントはかなり特殊な状態に置かれている」と思った。と同時に日本では政治的課題が「かなり面倒なもの」と捉えられていることがわかる。日本人は政治的話題に踏み込むことをほぼ無意識に避けていると思う。そして苦手意識を持てば持つほど政治議論が「荒れ」て一般の人が遠ざかる。保守派は大満足かもしれないが、このことで却って日本の立場が世界に伝わりにくくなってしまうのである。

このエントリーでは「政治」をかなり乱雑に捉えている。アーティストにとって個人の価値体系を語ることは大切だがこれは政治課題とは地続きだ。個人の価値体系から政治的課題だけを取り出してそれを「語らない」ということは本質的にはできないはずなのである。一方、アイドルは受け手が「聞きたい」と思っていることをあたかも自分の発想のように演じられる人だ。これも今回は重要なテーマになっている。日本ではアイドルがより複雑な自己を演じなければならないような状況が生まれつつあると思う。

まず防弾少年団についておさらいしておく。2013年にデビューした7人組のボーイバンド(英語では楽器を演奏しなくてもアイドルグループというような意味で使われる)である。所属はBigHitエンターティンメントという中小の事務所だ。グループの動向はKSytleなどで知ることができる。最近、英語圏での活躍が目立っておりビルボードチャートで一位を獲得したり国連で演説したことなどが話題になった。国連演説では多様性のアイコンとして扱われた。自分らしくという言葉が出てくるのだが日本とは使われ方が異なっている。一方で防弾少年団と日本との関係はあまり良くない。日本に進出しようとして秋元康とのコラボを計画したが韓国のファンの反対で中止になったこともある。そして、今回メンバーのジミンが「原爆を肯定するかのようなデザインのTシャツ」を着用していたことが問題になり特定の人たちから反発されることとなり、テレビ出演がキャンセルされた。

この問題についてバンドや個人が下手に謝ってしまうと「日本に屈した」ということになってしまうだろうし、謝らないと「原爆という絶対悪」を肯定したことになってしまう。とても議論の別れる問題である。日本の識者の中に素直に謝ればいいのにと言っている人がいたが、日本人の自国中心主義の傲慢さがよく表れている。海外のメディアではABCとBBCが伝えるのを読んだが、日韓の関係性が悪化してゆく文脈の一部として捉えている様子がうかがえる。細かいことはわからないが「あの二国は仲が悪い」という理解なのだろう。

ボーイバンドが議論の別れることについて発言することに慣れていない日本のファンは「知らずにやってしまったのでは」と思いたくなるのだが、実はBTSはもともと議論の別れる問題について関わるのを厭わないグループであり、その意味では純粋なアイドルとはいえない。

韓国の芸能人ももともとあまり政治的に議論の別れる問題に関わらない。地上波放送にはまだ検閲も残っているようで、ケーブルテレビに視聴者が流れる一因にもなっているようだ。国営のKBSでは日本語の歌詞を含んだとされる曲が放送不適格になったこともあった。このため政治的発言に関する慎重さは日本より強いかもしれない。さらに炎上も多く「反韓感情があるとされるビートたけし」との関係を仄めかして炎上したアイドルもいる。(Kstyle)このため、アーティストよりアイドルの需要の高い国と言えるだろう。アイドルはソウルの言葉で話すことになっているというお約束もある。日本の芸能人がテレビでは訛りを出さないのと同じ感覚だろう。

しかしBigHitエンターティンメントのような中小事務所はアイドル候補生をみつけて自前でじっくり育ててからテレビに露出するという方針が取れない。そこで、アンダーグラウンド出身の人たちも視野に入れてバンドを組むことになったようだ。KStyleによるとアングラでは「即戦力」としての芸能人が発掘できるという。リーダーのRM(当初はラップモンスターと言っていた)は「大南朝鮮ヒップホップ協同組合」といういかにもアンダーグラウンド的な名前のグループで活動していた時代があるそうだ。朝鮮半島を韓半島と言い換える韓国ではかなり刺激的な名前である。そして政治的に議論が別れるLGBTQの問題についても発言していたようである。さらに、ソウル出身者はいないので普段から方言で話している。事務所はアイドルらしく売ろうとしたが彼らは言葉を直すのを嫌がったのである。つまり、彼らはもともとちょっと反体制の匂いのするグループで、東方神起やTWICEのようなアイドルグループとは違っている。

ローリングストーンのこの記事によるとこれが英語圏で支持される理由になっているものと思われる。意見を表明したことで自分の言葉で価値観が語れるという評価を得たのだろう。ローリングストーンの記事にはLGBTQへの抑圧が激しい韓国であえて問題提起をするのは勇気のいることであっただろうというようなことも書かれている。

英語圏で重要なのは自分の言葉で価値観を語れることである。だからアイドルが政治的課題について語るのは重要かと質問すると焦点の合わない答えが返ってくる。政治的ポジションを表明するかしないかは個人の自由に任されているというのだ。だが、個人の信条を理解してもらおうという態度は支持されるうえにアーティスト活動の本質であるともいえる。英語圏では個人の価値観と政治が地続きになっている。

一方日本人は政治的課題を語るのを避ける傾向がある。言い換えれば、日本人は議論が別れる問題を自力で解決したがらない。代わりに日本人は正解を知りたがる。そして自分たちがその正解の中にいることを確認したいと望むのである。群れで生きる日本人は群れから外れることを嫌がるのだとも言えるだろう。

今回、防弾少年団の問題でファンたちは「自分たちが日本でのアイドルの正解に当てはまらないグループ」を支持しているということを知ったはずだ。わかっていて防弾少年団が好きだった人たちもいるだろうし、そうではない人たちもいるだろう。今後防弾少年団が日本でどうなるのかというのは観察テーマとしては面白い。

だが、もっと重要なことがある。議論が別れる問題を避けるということは意見の違いを調整できないということを意味している。それどころかそこに議論が別れる問題があると認識することすら世界の破滅を意味するようだ。この怖れが何を意味するのかについて考えてみたい。

政治的な課題を扱っているはずの「朝生」ですら、右と左という枠組みができており、そこからはみ出す人はいない。移民に反対するはずの右の人たちですら表立っては安倍政権批判ができないし、改憲すべきだという人権主義者もそれが言えない。ある意味二極化という調和構造ができており、そこで「争ってみせる」のが日本の政治議論なのだ。それをちょっと「壊してみせる」のが田原総一郎の役割だ。

日本人が抱えるこの恐怖はミュージックステーションの公式サイトの文言からも見て取れる。今回の問題に間接的にしか言及していない上に、原爆とは書けないので「Tシャツのデザイン」としている。あれは単にデザインではなくメッセージである。政治的に議論が別れることに触ることに強い恐怖心を感じるのだろう。

出演者変更について
11月2日に予告しましたBTSの11月9日放送回でのご出演を今回は見送らせて頂くことになりました。以前にメンバーが着用されていたTシャツのデザインが波紋を呼んでいると一部で報道されており、番組としてその着用の意図をお尋ねするなど、所属レコード会社と協議を進めてまいりましたが、当社として総合的に判断した結果、残念ながら今回はご出演を見送ることとなりました。ご出演を楽しみにされていた視聴者の皆様に深くお詫び申し上げます。

この原爆Tシャツの問題が正面から日本のテレビで取り上げられることはなかった。日本では8月になると「原爆の犠牲者を悼みましょう」というような通り一遍の報道しかないが、アメリカでは原爆が「戦争を一発で終わらせたクールな技術」と捉えられることがあり、韓国では解放と結びつけられることもある。今回は韓国人デザイナーの「大した意味はなかった」という釈明が紹介されているのだが、ファッションの一部としてくらいの認識しかされていないということ(Wow Korea)も実は問題である。これを変えるためには日本は圧力ではなく説明を通じて理解者を増やして行かなければならないはずだ。そもそも原爆に対する認識が日本と世界で違っているということすら知らない日本人がそれ以上の行動を取ることはないだろう。前回ご協力いただいたアンケートで「日本側が説明すべき」とした回答は30名強いの参加があったうちのたった2つだった。

今回は津田大介が本島等元長崎市長の論考を取り上げている。実は当事者は「何も説明しなければ、問題の本質は伝わらない」と考えていて、実は日本人と当事者たちの感覚にもズレがある。

韓国の歌謡番組は今でも恋愛に関する歌を歌ってランキングを発表して終わりになってしまう。ゆえにアイドルが個人の価値観について語る必要はあまりない。一方、日本人はこの形式のショーに飽き始めており、アーティストに個人の意見を述べさせている。しかし、そこから政治課題をあたかも最初からなかったかのように除外する。日本人は正解しか語れないのだ。

Twitterでは毎日のように政治的分断を目にする。実は内心まで踏み込めば政治的意見に違いがあるのは当たり前のことだ。それでも、テレビの歌番組では調和が演出されている。これを念頭に今回のミュージックステーションをみると「アーティスト風味の歌い手たち」がどこかディズニーランドのキャラクターに見えてくる。

これは、実は日本人アーティストが海外に出て行く上での障壁にもなる。政治について考えた上で語らないならそれは選択肢として認められるだろうが、面倒なので考えたことがないとなるとまた話は別だろう。ディズニー映画のお姫様ですら自立性が要求されるアメリカでは単なるお人形にはアーティストとしての魅力はない。そもそもアンテナに引っかからないからだ。

だが、それよりも日本人が日本のポジションを海外に説明できるようにならないということの方が重要なのではないかと思う。

このため日本を世界に発信しようと考えると必ず富士山を入れてみたり日の丸をモチーフにしたような通り一遍でよそ行きのものになってしまう。ただありきたりの違いを示しただけで、根本の共通点は見せられないから共感は得られない。一遍の演出だけでは相手の心を掴むことはできないのだ。一方、文化や状況は違いながらも多様性を尊重するというイメージのついた防弾少年団は韓国語のままで英語圏の一位を獲得できる。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

芸術の世界では自分の声で語れないとソフトパワーという面で負けてしまうのである。

Google Recommendation Advertisement



バーリアルから安倍政権の問題点を考える

ダイエットをしている。普段の食事から少しずつ量を減らすと却ってストレスがたまるのでいつもは思い切って減らしている。しかし、そればかりだと代謝もモチベーションも下がるので時々ジャンクフードなんかを食べる。ちょっと気をぬくのが長く続けるコツではないかと思う。

ということで、ある時ポテトチップスとビール(一番搾りだった)を試してみたのだがあまり美味しくなかった。なんでだろうかと思って別の機会に手作りキムチ餃子と合わせてみた。多分ビールというのは食事に合わせて美味しくなるようにできているんだなと思った。

そこで見つけたのがバーリアルである。100円以下で売られている。カラムーチョと合わせても200円にならない。さすがに如何なものかと思ったのだが、これが抜群に美味しかった。後になって調べてみたところキリンビール製造に変わったそうだ。(商業界ONLINE)「あれ、これはおいしいぞ」と思ったわけだから、理屈はともかくとして「それなりにアリ」な製品に上がっていることになる。

安く商品が手に入れられるのはいいのだが、これって経済にはどう影響するんだろうかと思った。そしてしばらく考えているうちに、この線でモデルを作ればイデオロギーなしに政策論争ができるぞとも思った。おいおい説明してゆく。

まず、キリンビール側の事情を調べた。かつては「ちょっと落ちる代替品」だったプライベートブランドの商品で良い成績を収めないとやって行けない市場環境ができつつあるようだ。ダイヤモンドオンラインの記事を見つけた。経営学ではファイブフォースと言ったりするのだが、サプライヤーの力が弱くなっているのである。

バーリアルが美味しくなっているということは、製品そのものの品質は犠牲になっていないということである。では何が犠牲になっているのだろうか。

第一に流通経路が短くなっている。商業界ONLINEの説明によるとイオンとキリンビールの直接商取引きになっているそうだ。さらに広告が不要になるので、これに関わる産業が軒並み排除される。広告代理店、芸能事務所、タレント、制作会社、テレビ局などがこれにあたる。他社が広告を引き下げれば他の会社も広告が必要なくなる。さらに、小売店も手間を省いている。イオンの小型スーパーでは仕入れを単純化したりカゴのままで展示陳列したりしている。

このように考えてみると「関わる人の数を減らせば減らすほど」価格が減らせるということになる。さらに、細かく減らすより大胆に「バッサリと」削減した方が効果的なのである。もちろんこれは政府のせいではない。企業努力によるものである。つまり、格安の品物が定着するとデフレではなく国内労働市場の縮小が起こるのだ。

ただ、低価格商品が出ると高齢者は支出を減らせるのでその分を金融資産の運用に回せる。ここで挽回すれば国内総生産には影響はでない。だから統計上はデフレにならないかもしれないのである。

統計操作などいろいろな問題が指摘されたが、まあそれでも金融資産運用で経済が維持できればそれはそれで問題がないようにも思える。だからデフレではないというわけだ。同じように企業も人件費を削減できれば海外資産への運用や株への運用ができる。経済的な損失はないかもしれない。

ところが市場労働という絵を置くとちょっと違ったことがわかる。バーリアルの登場によって小売流通に関わる人が減っていることがわかる。すると、こうした産業が日本から消えてなくなる。広告代理店がいなくなれば嬉しいと思う人もいるかもしれないが、要は広告のノウハウが日本から消えてなくなるということである。バーリアルは図式としては「知識がなくなることで製品が安くなる」ということを示しているのだ。そして残るのは「飲む」という原初的な欲求(低次元欲求ともいうがこの言い方には問題が多いように思える)である。私にとってバーリアルはありがたい製品なのだが、知識を蒸発させるのだ。

国内労働市場がストックとして持っている資産は何だろうかと考えるとそれは知識である。

バーリアルは単に市場によって登場しただけだが、政府はこの傾向を後押ししている。例えば消費税を増税して国内消費を冷え込ませる。一方で法人税を減税すると海外投資(一般に内部留保と呼ばれている)が増える。資金としては国内市場からは退出する。すると、資金によって裏打ちされていた知識が維持できなくなり蒸発する。さらに、賃金によって法人税減税効果を市場に戻すこともできなくなる。国内市場そのものが縮小しているからだ。

国内市場が冷え込むとそれを穴埋めしようとして海外から労働者を入れる。するとエントリーレベルの単純労働に若年者が関われなくなる。海外の労働者は一定期間で帰ってしまうのでトレーニングの成果も海外に流出する。今回話題になっている「これは技能労働なのかそれとも単純労働なのか」という議論は実はあまり意味がない。実際には足りないのは「低賃金・技能労働」なのである。経営企画とレジ打ちのどちらが大変かという議論に意味はない。どちらも大変な仕事だ。問題は技能労働者が低賃金で貼り付いているということだ。技能を身につけても暮らしが良くなるというモチベーションがなければ知識だけでなく意欲も蒸発する。

若年労働者(一部で構わない)は熟練の機会さえあれば高付加価値の人材になれるかもしれない。また、女性は子供を生むとキャリアを中断しなければならないのでそこで生産性の向上が止まる。国が保育園政策を充実させていれば彼女たち(たいては女性なのだ)はキャリアを諦める必要がなかったかもしれない。いずれにせよ少子高齢化のもとではノウハウは自然蒸発するので、それを充填しなければならないのだが、どこからも補充はない。ホワイトカラーの残業時間も国が抑制する方針(ホワイトカラーエグゼンプションが導入されるが労基署の人材は増えない)ので、使い潰される労働力は増えるだろう。専門家も技能を向上させる時間がない。

低価格帯の製品が増えるとそれに適応した企業が出てくる。これは当たり前のことだ。だが、それに最適化してしまうと高技能労働がなくなる。加えて市場労働そのものが縮小しているので次世代の教育に回せるお金がなくなる。すると、次世代はもっと低賃金・低技能労働に貼り付いてしまう。こうして世代を重ねるごとに日本の労働力はどんどん生産性を失ってしまうのである。実はこれはもう始まっている。現在OECD35ヵ国の中での生産性は20位となっている。

よく労働者から「賃金をあげて仕事を増やすべきだ」という意見が出る。一方経営絵者の方は「賃金をあげたら仕事がなくなる」と言って恫喝する。しかし、実際に起こっていることを観察すると中間が整理されることで「仕事がバッサリなくなる」ことの方が起こる可能性が高いということになるだろう。

日本が取り組むべき政策は実は簡単で、国内に仕事が戻るように(言い換えれば国内消費を改善する)ように取り組めばいいということになる。具体的にいえば消費税を減税(あるいは撤廃)してブレーキを緩め(あるいは取り除き)、女性が労働市場に戻れるようにし、海外から低賃金「技能」労働者を調達する政策を取る代わりに若年者を教育するようにすればよい。すべての人が将来的に生産性を増すことはないかもしれないが、少なくとも海外人材のように数年で流出するということはない。そしてキーワードになるのは、市場が自分たちの判断で知識を増やせる機会を増やし、流出したり蒸発したりする機会を減らすということだ。

もちろん公共事業を増やして国内労働市場を活性化するという方法も考えられる。ここで問題になるのは定着力である。公共事業は手っ取り早く国内消費を回復させる効果がある。ところが公共事業が止まってしまうと国内消費も落ち込む。技能が蓄積されることがない上に継続性もないからだろう。

今回は簡単で乱暴なスケッチを書いただけなのであるいは間違っている点もあるかもしれないのだが、コンセプト自体は簡単なものなので誰でも理解できるし、特に右とか左とかのイデオロギーを持ち込む必要もない。

なぜこんな簡単なことに政治家は気がつけないのだろうか。それは、国内市場の仕組みがよくわからない上に、今出て行く年金・福祉予算のことで頭がいっぱいになっているからだろう。さらにここに党派対立が加わるともう議論はできなくなる。あらかじめ正解が決まっているからだ。

加えて世襲政治家は労働市場を通じて技能を上達させるモチベーションがない。いずれは政治家になるのだから、自ら技能を磨いて自分の暮らしをよくしようという気持ちになれないのは当然である。

だが、だからといって議論そのものができないわけではないし、打開策が見つけられないわけでもない。単にシンプルなモデルに戻ってみるだけで良いのである。

だが、だからといって議論そのものができないわけではないし、打開策が見つけられないわけでもない。単にシンプルなモデルに戻ってみるだけで良いのである。

Google Recommendation Advertisement



日本には村があっても公共がない

Twitterでメンションされた。「きっとお前は知らないだろうから広めてくれ」というようなことだったのではないかと思う。アメリカと岸の間で核兵器持ち込みの密約があったというのだ。一応読んでみて確かにこういうことがあったのかもしれないとは思った。でも密約なので日本側が「聞いていない」とか「もうやりたくない」といえばすむだけの話だろう。トランプ大統領はもっとおおっぴらにちゃぶ台返しをしているのだから、やってできないことはない。要は日本側にその意思がないのである。

だが、時々こういう「誰にも知られていないがひどい話」を訴える人をTwitterでみかける。何かの問題に火をつけたいと思っている人は多いのではないだろうか。最近では築地・豊洲の問題で「マスコミが伝えてくれない」というようなTweetが多かった。難民申請者の人権無視の問題ももう長い間「マスコミの関心が向かない」というようなツイートがあり、今回の入管法改正の問題(このブログでは奴隷輸入法案として少し煽った)はこの話にスポットライトを当てるきっかけになるはずだっったのだが、実際にはそうはならなかった。

それでも訴えたいことがある人のTweetに目を通してRetweetしたりはしている。しかし例えば築地豊洲の問題を見ているとそれに反応するのは「一部の界隈の人だけ」になってしまっている。どうやらある種のコミュニティができつつあるのではないかと思う。そして、これが誰か特定の人の問題になってしまうと、他の人たちは「彼らがなんとかしてくれるだろう」と考えて興味を持たなくなってしまうのである。人権の問題も「あの界隈の人たちが騒いでくれる」というような見込みがある。

本当に目を向けて欲しい問題について、広がりを持った人々の興味や関心を惹きつけるにはどうしたらいいのかということを考えた。解決策は思い浮かばなかったのだが、やはり公共という問題に戻ってきてしまった。日本人がこの問題を解決しない限り、自らの手で解決策を導き出すのは難しいのかもしれないと思う。

外から政治・経済ネタを書いていて思うのだが、政治・経済エリアの関心時は大きく二つに大きく分かれている。

今、参議院予算委員会を聞きながらこの記事を書いているのだが、自民党の関心事は「テレビ中継のある場所でどれだけ予算確保にお墨付きをもらえるのか」というものだ。日本人は公共を信じないので「自分が関係している村がどれくらい利権をもらえるか」だけが政治への関心事である。「イノベーティブな新しい技術があるのだが、それを実現するためには国の援助が必要」というような議論になっている。イノベーティブな技術ならすでに市場を通じて買い手がついているはずで、国に援助を求めるというのは、あまり見込みがないということである。そこで時間が余ると整備新幹線と高速道路が欲しいという。おらが村にも水を引いてくださいということだ。だが、財政再建の話はでてこないし、消費税でさらに国民に負担をさせるのだからどう切り詰めて行こうかという話にもならない。つまり、借金でもなんでもして足りなければ消費税をとってもっとばら撒けと言っている。今の国会議論はアル中になった人がもっとお酒をくださいというのに似ているのである。

一度虚心坦懐に国会議論を聞いてみればいいと思う。村が大変なので少ない水を自分の田畑に引き込みたい気持ちはわかる。しかし、そこに雨を降らせるのは一体誰なのだろうか。雨は自然と降ってくる。降らないなら借金をして降らせばいいし、人が足りないなら外国から連れて来ればいいというのが今の日本の政治議論だ。では全体の問題は一体誰が考えるのだろうか。天から救済策が降ってくると思っているようにしか見えない。

一方で村ではないところで感心を呼んでいるトピックがある。最近、このウェブサイトへのアクセスが増えているのは「自己責任」と「BTSの原爆Tシャツ」である。自己責任の記事の内容はちょっと忘れてしまったのだが、イラク人質事件を非難するために「自己責任」という用語が発明されたという説をご紹介したのではないかと思う。最近、小池百合子が使い始めたという週刊文春の記事が話題になっているので、また検索されているのだろう。BTS(防弾少年団)の原爆Tシャツ問題は国連で演説をして話題になっている防弾少年団のメンバーであるジミンが原爆を正当化するTシャツを着ていたという問題である。

この自己責任論とBTSの問題には共通するのは誰かに引き立てられている人を引き摺り下ろしたいという欲求だ。非難するためのお話を自前で構築するのも面倒なので筋道の立ったお話を求める人が多いのだろう。

政治課題はこのように二つの使われ方をしている。一方で村への水の引き込みがある。しかし、多くの人はもう村には属していない。その不安や苛立ちを誰かを引き摺り下ろすことでなんとかおさめようとしている人が多いのだろう。日常的に渋谷のハロウィーンが行われていると考えてよいのではないだろうか。

自己責任論問題で叩かれるのは組織の後ろ盾のない安田さんというジャーナリストである。フリーのジャーナリストというとなんとなく怪しい感じするし、組織に縛られずやりたいことだけやっている人には失敗して欲しいという気持ちがあるのだろう。一方、BTSもアメリカのビルボードで一位を取り国連で演説をしたBTSが羨ましいという気持ちがあるのではないだろうか。

いろいろ考えたのだが、日本人が政治課題に関心が持てず、かといって今の暮らしにも満足できないのは、自分たちで理想とする社会を描けないからだと思った。そもそも社会を自前で構築するという概念がなければそれは作れない。そして最初から立派な社会は築けないだろう。最初の一歩はとても小さなものになるはずである。

一般には公共(パブリック)というのだが、日本人は漢字の意味合いにとらわれている。公が「おおやけ」と読まれると、それは人々ではなく支配する側の社会や国家を意味する。みやけが天皇の家を意味するところから「やけ」にはそういう意味合いがあるのだろう。一方、英語のパブリックは人々のという意味のラテン語からきており人々が作り出すものだ。英語で公衆酒場をパブというところからそれがわかる。

同じように競争も意味が脱落した翻訳語になっている。英語のcompeteは共に+目的というラテン語の複合語が由来だそうだ。そこから人々が協力したり競い合ったりするという意味が生まれた。しかし元からあった日本語は競い+争うなので、協力という意味合いがない。このためTwitterには「日本人が競争すると足の引っ張り合いになる」と指摘する人がいた。過去にスパイト理論について調べたことがあるのだが、この指摘はある程度当たっていると思う。

そもそも日本人はまだ「自分たちの居心地の良い社会を共に協力したり競い合ったりして作って行こう」という気持ちが持てない。だからどんなに訪ね歩いても日本人から公共についての説明は得られないのである。

近視眼的に考えると、自分に関係のない問題に日本人を惹きつけるには、叩ける犬を探してきてそれを叩けば良いと思うのだが問題は全く解決しないだろう。その状態では、誰かが問題を解決しようと動くとそこに「ゴミを投げ入れるように」問題を捨てに来る人たちが出てくるようになるからだ。

一般の善意で作られた子供食堂に政治家が群がり、捨てられたペットを救済している人のところに新しいペットが捨てられる。これは村と村の境目にある誰のものでもない土地にゴミが捨てられるのと同じ感覚である。利権誘導以外の政治課題もネガティブな感情を匿名で捨てるゴミ捨て場になっている。

まともに問題を解決しようと思えば社会は与えられるものではなく、自ら作るものだという認識を持たなければならない。だが「社会という立派なものは誰かが与えてくれるはず」とか「世の中を変えてくれる興味関心というものはマスコミが作り出してくれるまで待つしかない」と考えているばかりでは、それはいつまでたっても実現しそうにない。限界は多分自分たちの気持ちの中似あるのではないだろうか。

Google Recommendation Advertisement



韓国の国民情緒法と日本の改憲議論の共通性

朝日新聞が韓国の国民情緒法を批判する記事を掲載し話題になっている。かなり扇情的な内容になっているのだが、主語が「関係者」となっており、どのような立場の人が発言したのかがわからない。つまり民主主義というのは国民感情に合わせていると言っているのか、それとも国民情緒で法理が歪められていることを否定しているのかがわからないのである。だが、修辞が見事なために一人歩きしやすい文章になっており、様々な立場の人が「国民情緒法」という言葉を好き勝手に利用している。

韓国では大統領が司法機関を含む人事や予算などの権限を一手に握り、「皇帝と国王の力を足したほどの権力」(大統領府の勤務経験者)を持つ。半面、その政治が世論に迎合しやすい例えとして、「法の上に『国民情緒法』がある」ともいわれる。今回も、世論の支持を得るための政治ゲームに徴用工問題が巻き込まれたとも言える。

国民情緒法は韓国憲法の上位にあるとされる民意のことである。軍事政権を経てデモで民主化を達成した韓国では国民感情が一気に燃え上がることがある。それが政権さえ転覆させることもあり、政権といえどもそれを無視できないと考えられている。その一方で、国民世論があるから仕方がないという言い訳のためにも使える便利な言葉でもある。朝日新聞は国民情緒法に従った司法が間違った判断を下したと言いたいのだろうが、実はベクトルは逆かもしれない。つまり権力が世論に訴えかけるためにこれを利用したかもしれない。つまり革新政権が正当性を示し続けるためには保守を否定するのが一番なのである。

すでに見たように、今回の問題の原点になっているのは朴正煕大統領の対日処理の否定である。クーデターで成立した朴正煕には正当性がない。政権を安定させるために、ベトナム戦争に参加してアメリカの関心を買おうとしたり、日本からの実質的な賠償金を得ることで国内経済を活性化しようとした。アメリカがこれを容認したのは共産主義との闘いを優先したからである。韓国を経済的に豊かにし、日本との関係も改善する必要があったのだ。このため民主主義の理想は棚上げされ、矛盾した状態が固定化することになる。これが今回の「パンドラの箱」の中身だ。

長年韓国の保守政権は朴正煕の経済優先路線を継承してきた。つまり、日帝強占からの独立を国家の正当性を示すために利用しつつ、経済大国としての日本も利用してきたわけである。ところが本質的には矛盾してしまうので、行政と司法を分けることでなんとなく処理してきた。

現在の安倍政権でも同じような構造が見られる。日本はもともと軍事的に無力化される予定だったのだが、朝鮮戦争が始まりそうも言っていられなくなった。このため憲法と自衛隊の間には矛盾がある。実質的に世界屈指の軍隊なのだが憲法上は認められていない。

もう一つの矛盾が憲法そのものである。この制定に参加できなかったとして不服を申し立てる国内勢力がいるのだ。

安倍政権が憲法を改正したいのは、これがおじいちゃんの仇である吉田一派によって作られたからだ。もともと旧政権で重要な役割を果たした岸信介らはこの交渉に加わることができなかった。彼らはアメリカの意向を背景に保守本流を名乗った。さらに岸の一派(保守傍流と呼ばれる)は、体制を保証してくれるアメリカと民主主義を導入したアメリカを分離する傾向にある。アメリカとの軍事同盟は是認するが天賦人権は左派的すぎて認められないという具合だ。旧社会党系野党は自衛隊までは認めるがアメリカとの軍事強調には巻き込まれたくないという立場を取っている。これは韓国が日本を「日帝」と「経済協力国」という二つの姿に分離してなんとなく折り合わせてきたのに似ている。

一つの対象をいくつかに分離して文脈の解釈で処理するというのが共通点である。この解釈ができる人たちのことを権力者と言っている。「解釈」は書かれたものや実態に優先するというのが文脈主義なのである。日本の契約書の最後には「問題が起こった時には双方でよく話し合うこと」という条項が入れられている。そして契約書そのものはアメリカのような文脈非依存の国より短くなる。

憲法にしろ国家間協定にしろその上にいろいろなものが積み上がってゆく。ここで、韓国国内の文脈によって65年協定が覆るようなことがあれば日韓関係はめちゃくちゃになってしまうだろう。それが今起こりつつある。

だが、この変化の背景にアメリカの変化を見ることは容易い。アメリカは中国をかつてのように絶対的な敵とは見ておらず、コンペティターだと考えている。ゆえに極東に同盟国を置く理由もかつてのような絶対的なものからディールの一部に変わってきている。この顔色を見て今まで押さえつけてきたものが浮かび上がったというのが今日本と韓国で起こっていることなのだろう。「国民情緒法による民主主義の未成熟」というわかりやすい図式を安易に入れてしまうと、この簡単な図式が見えなくなる。一方、日本の改憲運動も「安倍が戦争をしたがっている」と考えるとわからなくなることが多い。

これまで、アメリカはマネージャーとしての役割を果たしてきたのだが、トランプ大統領はプレイヤーとして参加することが増えている。ということは日本のアメリカに対する姿勢も変わらなければならないということである。

これを真面目に考え出すと、国のあり方は変わらなければならないということになり、憲法の書き換えだけの問題ではなくなるのだろう。しかし、変化が起こっているということも見えにくい上に、当事者たちの意識も変わらないので、具体的にどのような変化があり、それに対して何をすべきなのかも見えてこない。

護憲の立場をとると、憲法をおもちゃにし国民の人権を制限したいという自民党の憲法改正を論議を容認するわけには行かないだろう。だが、そこに止まることなく「なぜ民主主義が守られるべきなのか」ということを自分たちの言葉で語れるようにならなければならない。代理で守ってくれる人はもういないのだ。一方、逆に国を守る保守の立場をとると、我々はアメリカが極東に同盟国を置く理由が変化しつつある状態に対応しなければならない。アメリカが日本という国を自動的に守ってくれる時代は終わったということだ。

これを読んでいる人がどちらの立場をとる人たちなのかはわからないのだが、少なくとも「相手がバカだから間違った判断をした」という地点に止まってしまうと見えなくなることもあるということは知っておいて良いのではないだろうか。いろいろやるべきことはありそうだが、まずはそこからだろう。

Google Recommendation Advertisement



どうしたもんかね、安倍政権

国会が始まったので、仕方なく所信表明演説とそれに続く代表質問の一部を聞いた。国内外に問題は山積しているのが多分国会がこれを解決することはできないだろうということはわかっているので、質問も答弁も無意味だなあと思った。多分、今回の国会は来年の参議院議員選挙までの消化試合のような感じになるだろうし、国民はすでに政治には興味を持っていないはずである。

特に安倍政権側の答弁はひどかった。一部の野党は現状を分析した上で懸念を表明しているのだが、それに応えるつもりがまったくないらしい。聞いていて、安倍首相は政治に飽きているんだろうなと思った。民主党を嘲って「自分たちは違います」と言っていた頃の方が、まだ聞き応えがあった。

国会の代表質問は「一応宿題をしてきました」と言っている子供を叱っているような状態に近かった。中を開けてみたらやっていることはデタラメだし、自分ではやっていないようだし、嘘もついているようである。そこで職員室に呼んで叱ったり諭したりするわけだが、まるで響いていないようだ。しかもなんだかそわそわしているので聞いてみると頭の中は野球のことでいっぱいになっているらしい。

いちおう支持者に言われたことはやっている。財界に言われて安い人材の確保に邁進している。前回の労働基準監督署の骨抜きに続いて、今回は外国人を使いやすくするような労働法改正などが計画されているようだ。しかし、やれと言われていることをやっているだけなので「あとで大変になるかもしれませんよ」と指摘されても一切聞く耳を持たない。アメリカがうるさく言ってくるのでFTAも始めたい。だが、これも野党が「ガミガミと」うるさいので、その場その場で嘘をついて言い繕っている。そして、それが国内産業にどのような影響を及ぼすかということには全く想像が及ばないようである。FTAに関しては「農家が心配するといけないから配慮して言葉を変えた」と堂々と語っている。嘘をつくことに罪の意識がないのだろう。

そんなことよりも安倍首相は野球がしたい。安倍首相の野球というのはつまり憲法改正のことである。

普通の子供だったら職員室に呼ばれて叱られたら少しは堪えると思うのだが、安倍首相の心には全く響かない。こういう子供をどうやったらしつけられるのかと考えてみた。

説教をしてもその場ではしおらしいことをいいながら、職員室を出れば忘れてしまう子供には何を言っても無駄な気がする。だったらもうグラウンドに呼び出して一度実力を知ってもらうしかない。今までは身内に囲まれて「晋ちゃん上手だね」と言われているだけで、多分本当の野球は知らないのではないのだろうから、千本ノックくらいを受けて欲しい。

これまで、憲法改正について「憲法第9条などは形骸化しているから改憲の必要はあるが、憲法をおもちゃにする安倍政権や人権を理解しない自民党のもとではやるべきではない」という前提で論を組み立てて来た。だが、安倍政権ごときの改憲論を論破できないのも問題だ。本当にヒトラーのような狡猾な人が出てきた場合、国民を騙して改憲するのは「赤子の手をひねるように」簡単だろう。

「安倍政権ごときで」という主張に反発する人もいるだろう。だが、国会議員に憲法観を語らせるととんでもないことになるのも事実である。「憲法は国家が価値観を提示すべきだ(訓示的憲法観)」とか「天賦人権は日本人にはふさわしくない」といった発言が飛び出す。今回の質問では「民主主義の基本は我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません」という稲田朋美の妄言も飛び出した。交通信号の意味を理解しないままで路上に出てきた危険なドライバーがたくさんいるのが日本の議会なのである。

その上、現在の法律はほとんど官僚の力を借りて書いているはずだ。だから、官僚の助けを借りずに書いた自民党の憲法草案はボロボロだったわけである。その上、日本の政治家には官僚の助けなしに自分たちだけで法律や憲法を書ける能力がない。

もちろん憲法議論のフィールドでボコボコにされたとしても安倍首相が心を入れ替えるようなことはないだろう。誰かのせいにして他の遊びを探しはじめるはずである。あるいは誰も望んでいない上に実現する見込みのない金正恩との対話などを夢想しているうちに3年が経過する可能性もある。根本的には安倍首相を総裁から外してもらわないと解決しない。だが、それでも「憲法を改悪されてしまうのでは」と心配し続けるよりは気が楽だ。

ただ、この場合「国民から信頼されるバランスのとれた改憲派」がいないことが最大の問題になる。やはり「絶対に改憲はダメ」という人たちだけの議論は国民から信頼されないだろう。だが、現在の護憲派は自分たちが支持されていないことを知っているので「議論に持ち込まれたら負け」の一点張りである。国民はバカだからCMでも流されればきっと騙されるだろうと思っているうちは国民から信頼されることはないだろう。

現在の憲法のもとでガラパゴスな議論を繰り広げてきた学者さんたちも信頼できない。制憲当時になかった自衛隊を合憲とみなす人たちはやはりどこか無理をしている。安保議論があった時の木村草太さんの議論も詰将棋としては面白いかったが、やはり議論のための議論という気がする。だがこういう詰将棋的な議論も権威化されれば学派になってしまう。憲法そのものが変わってしまうと権威と村が一気に崩れるので、彼らが改憲に反対するのは当たり前なのである。

日本には憲法がまともに議論できるフィールドがない。だから、誰かがデタラメな改憲を言い出してもそれを止める手段がない。これは実は大変危険なことなのである。だが、よく考えてみればそれは国の成り立ちやあり方について議論ができないことを意味している。漠然とした正解がなくなりつある今、日本は自分たちで自分の国のあり方を決めて行かなければならない。実は改憲議論よりも国のあり方を決めるために話し合いの場所が設けられないことの方が危険なのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



Twitterの不毛なケンカを観察する

Twitterで不毛な議論をみた。「私の権利」について話している人に別の人が噛み付いている。その反論を「私」が延々としているのである。ちゃんと読んだわけではないので何を言っているのかはわからない。話は憲法論に及んでいるのだが内容が不毛だった。「憲法に書いていないことならなんでも正当化されるのか?」などといっている。例えば憲法に公用語の規定はないのだから、英語や中国語を公用語だと言っても妥当だというのかという具合である。

こうした議論は時間と労力の無駄だと思う。まずは議論に使う概念を一つ一つ洗い出す必要があるが、要は「俺の考えた世界」に関するクイズなので、当人が勝つに決まっている。そして、俺でない人はそれに従う必要も理解する必要もない。「俺の定義」とは関係のないところで生きているからだ。こうした俺クイズはTwitterの外でも行われている。自民党の憲法草案に関する議論も、天賦人権を「与える」と国民が怠けるとか、国が家族重視の価値観を訓示するのが憲法だとか、壮大な「俺クイズ」の連続だった。

議論にはいくつかの目的がある。例えば、選択肢Aと選択肢Bの長所と短所を調べ合う議論は生産性がある。が、そのためには議論をする人は共通の目的やテーマを持たなければならない。Twitterには共通のテーマや解決すべき問題はない。

もう一つの議論はある特定のイズムや信仰に基づいてその判断が正しいかを述べ合うというものである。生産性はやや劣るがこうした議論もあり得るだろう。だが、二極化した議論はそもそも共通のイデオロギーに基づかないので、議論は平行線に終わりがちである。さらに日本ではイデオロギーに見えるムラオロジーが多い。話をしているうちに「同じ民主主義について話をしていたはずなのに」何か全然違うぞということになりかねない。

日本人には公共という考えがない。ともに社会を作って行こうという気持ちを持った人はいないのだから、そもそも建設的な議論は成り立ちにくく、従ってほとんどの議論はマウンティングのための議論になる。

マウンティングはいつもどこかに集まって会議をする必要があるのだが、実質的には観客のいる闘技場で常に殴り合っているのと同じだ。声が大きいと意見が通りやすく、またたくさんの人から賛同を得られる意見も通りやすい。しかし、決まったルールはないから外から見ても何について話をしているのかさっぱりわからないうえに、声の大きい人が意思決定のルールそのものを変えてしまうので、最後には何をやっているのかすらわからなくなる。

例えばうまく行かなくなった会社はいつも会議が行われている。ここから外れてしまうと意思決定に加われなくなってしまう上に議論の経緯すらもわからなくなる。だから現場の声は伝わらないし、現場には意思決定の理由もわからない。現場が大切なはずなのに「支社に飛ばされる」などと表現されるのは、現場の声を拾って製品やサービスを磨くよりも、社内調整という名前の殴り合いの方が魅力的で給料にも差が出やすいからである。

そういう会社は大抵傾いてゆく。日本社会もそういうフェイズにあると思った方が良いだろう。例えば豊洲新倉庫(東京都は市場と呼んでいるようだが)はどうしてああなったのかがさっぱりわからないので、衰退が始まっているようである。

かつて日本の社会には大体の正解があった。例えば民主主義はよいものであり、アメリカはいい国だった。男は終身雇用で社員になるべきだったし、女性は短期間お勤めしたら家に入るのが幸せだった。だから、巷で価値観をめぐる議論はほとんど起こらなかった。

だが、正解がなくなってしまった現代では常にマウンティングが行われている。だが、それがまとまる見込みはない。相手のいうことを聞かず、何もしない人が優勝することが多いようだ。このままでは日本はめちゃくちゃになってしまうだろう。

個人的に不毛な議論にどう対応しているのかと考えてみたところ、相手に敬意を示した上で、なんらなの説明を求めていることに気がついた。破壊したり否定したりすることに熱心な人は自分の意見を組み立てられない。めちゃくちゃな議論を鑑賞するのは楽しいが大抵の人は黙ってしまう。否定したり冷笑することが楽しいのか、それとも自分で論を組み立てる力がないことに気づいているのかまではわからない。

もし、本当に議論をしたいならテーマとそれが適用される場所を最初に決めるべきだろう。ここで、世間一般を論拠にすると話が複雑化する。場所の限定はとても重要だと思う。例えば「世界では」とか「立憲主義のもとでは」とか「みんなが」と言った議論は成り立たないことが論拠としては使いにくい。

例えば民主主義や人権を守りたい立場の人はよく「世界では」というのだが、実際には西ヨーロッパや北米の裕福な地域くらいの意味合いのことが多い。例えば民主主義国ではない中国が台頭してくるとこの「世界では」は通用しなくなってしまう。すると民主主義を守る根拠が失われしまう。

また立憲主義のもとではというのも怪しい。憲法は変えられるし、憲法を変えなくても裁判で判断しなければ実質的に形骸化もできる。実際にそういうことが起きているので今は憲法を持ち出して民主主義を擁護するのも難しい。

「みんなが言っているから」という論は成り立ちにくくなっている。そこで改めて民主主義を擁護するには民主主義を勉強しなければならなくなるのだ。だが、これは勉強すればいいだけの話である。やってできないことはないだろう。

一方、保守の側も世界秩序というような言葉を使いたがる。アメリカは正義の側なのでアメリカと西側世界について行けばよいと考えている人が多いのだろう。東アジア情勢は流動化しつつあるので保守・愛国の役割は増すはずなのだが、保守の立場は左派リベラルより難しくなっている。安倍政権が「保守はバカのもの」という印象を振りまいているからだ。左派リベラルはスクラッチから議論を組み立てられるが、保守は退廃した状態から再出発しなければならない上に、実際には保守を自称する人たちの中から敵が出てくる上に、誤解して群がってくる人も多いだろう。

時間と意欲があるならTwitter上で絶対に終わらない議論をするのはその人の自由だと思うのだが、正解のなくなった現代ではその議論は決して収束しないだろう。それよりも考えなければならないことがたくさんあり、時には相手に訴えかけて見方になってもらったりもしなければならない。もちろん何に時間を割り当てるのかは個人の自由なのだが、できれば有益なことに時間を使うべきではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement



小川榮太郎と高橋源一郎

面白い文章を見つけた。高橋源一郎が新潮45を潰した「あの小川榮太郎氏」について論評しているのだが、それが無料で読めるのである。この論によると、小川榮太郎には文学を愛する青年という側面と安倍晋三を擁護する評論家としての二つの側面があるという。この二つは決して折り合わないだろうとも書いている。

ただ、ここに高橋本人を持ち込んで対比するとまた別の面白い絵が描ける。

小川榮太郎の文章を読むと文学という偉大なものに心酔しきっていることがわかる。文学といってもそれは古典文学である。クラッシック音楽も好きらしい。つまり「古くて偉大なもの」に依っている自分が好きなのである。そしてそれは文学界では受け入れられなかった。高橋の文章から引用する。

その候補作「川端康成の『古都』」について、選考委員の福田和也氏は「冒頭の(……)文章は、もちろん滑稽、諧謔として書かれているのだろうが、そうだとしても失笑をしか誘わない(……)批評文としても、完成度がきわめて低い」とし、同じ選考委員の町田康氏は「乙にすました文章が、なんでそんな言い方をするのか分からず」としている。小川さんは、書き直したようだが、おれの受ける印象も、15年前の選考委員諸氏のそれとあまり変わらない。

高橋ら文学界の人たちのなかにも非常にナイーブな文学好きという青年が住んでいて、それをあからさまに見せられると「気恥ずかしさを感じる」のではないかと思った。文学や評論の世界では受け入れられなかった小川だが、この後別の村から受け入れられる。それがネトウヨ村だった。

一方で、高橋源一郎の文章は短いながらも魅力的で軽妙な書き出しから始まる。これを読んで「これがお金になる文章なのだな」と思った。普段、ネットで新聞や雑誌の記事情報を読むことはあっても、文学界隈の人たちが書いた文章を読むことはない。そういえば以前文学者にとって文体と冒頭というのはとても重要なのだという話を読んだことがある。軽妙さが受けるのだろう。が、同時にどこか無理して明るくしているのではないかという違和感があった。普段、文学や評論などを読まないからだろう。最近最もよく知っている文学者は室井佑月なのだが、彼女をワイドショーで知っていて、たまに週刊誌の文章を立ち読みするくらいだ。あとは阿川佐和子だがこれもインタビューは読んだことがあっても小説は手に取ったことがない。

ここから、どの村にも匂いがあるが、そこに住んでいる人には気がつかないのだろうということがわかる。つまりどちらも村なのだ。

軽妙さというのは文章と距離がないと作れないように思う。高橋の文章には距離があるが、小川の文語による文章には「純文学とかクラッシック文学に浸っている俺ってかっこいいでしょう」という臭みがあり耽溺しきっている様子がわかる。これが「文学・評論界隈」では邪魔だったのだろう。普通の人にはわずかな臭みかもしれないが、同じ経験をした人たちにはかなり強烈な臭みとして感じられるのかもしれない。

結果から見ると既存の出版界では高橋は売れて小川は売れない。が、意外と似ているのかもしれない。それぞれの村の香りをまとっているのである。そして小川の文章は出版界の異端児的存在である別の出版社に受け入れられ結果的に売れてしまった。

小川にとって「何か大きなものに依る」という意味では、文学でも安倍でもどちらでもよかったのではないかと思われる。そう考えると小川Aと小川Bは完全に同一になる。だが、高橋の価値世界において、文学と安倍信仰は対極に位置する。重要なのは、街の本屋にはAとBの境がないということだ。だから最近本屋では楽して痩せられる本や手間がかからないおかず作りの本と並んで嫌韓本が山積みされている。

日本人にはイデオロギーはないと思っていたのだが、それは内心の価値体系から選び取ったイデオロギーがないというだけなのだとも思った。文学にしろ「保守」にしろ、みんなが選択している正解だという理由で選ばれているのだが、どちらも特定の環境によってたまたま作られた価値体系にすぎない。つまり、選択していないつもりでも選択をしているのであり、そこに属さない人が「対極」に見えるという共通点がある。

日本人の多くが無宗教といいつつ仏教や神道の影響を受けているのに似ている。自分が心地よく生きるために自己主張をすると我慢をしろと強要され、主張ではなく個人を攻撃することが許容される日本では、自己責任が生じる個人の選択を嫌う。かといって何も選択しないというわけではないのだ。

イデオロギーとこの村の違いは、イデオロギーがある程度個人が選択可能な論理的な構造を持つのに比べ、ムラオロジーには論理的な構造はなく経緯で決まり集団的であるという点だ。どちらが悪いとか下等であるいうことはないが、それぞれ欠点がある。イデオロギーは選択した時点でコミットメントが生まれ別の選択肢を排除したいという欲求が生まれる。ムラオロジーは村人の違いを吸収するが、一旦壊れると修復できない。つまり、環境が変化して他に魅力的な選択肢ができると過疎を起こすのがムラオロジーなのである。より一般的には暗黙知と言ったりする。構造としては町工場がメインの職人(実はメインとみなされていなかったかもしれない)の年満退職で崩壊するようなことが起こる。

高橋の文章の結論部を見ると、小川が分裂しているように見えているようだ。

「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。

高橋と小川は極端に異なっているとも言えるし、単に違うムラオロジーに受け入れられたというだけで大きな違いはないともいえる。それぞれのコミュニティは村を形成している。文学界には文学界ならではの「感覚」があり、ネトウヨ論壇にはネトウヨ論壇ならではの「感覚」があるのだろう。そしてそれらは同じTwitterで論じられ、同じ本屋で売られる。

このムラオロジーはジャーナリズムの世界にもある。最近消費税についてアプローチの違う文章をいくつか書いた。他罰的な文章は読まれやすいのだが、それよりもよく読まれている累計がある。これを勝手に「池上累計」と名前をつけた。もともと財政再建の材料だったものが福祉財源と説明されるようになった経緯を個人の意見をあまり入れずに書いた。マスコミはこの辺りの経緯を理解した人が書いており、経緯を知っている中高年読者が読んでいるので経緯をくどくどしく説明しない。だから背景を改めて説明すると多く読まれるのだと思う。これは「そこからですか?」といういわば池上彰的アプローチである。マスコミとその読者が村を形成しておりそれ以外の人たちが排除されているということなのだろう。これが、村人以外の人たちを遠ざけるのだ。新聞を読んで理解した位という人はどの年齢層にもいるのだろうが、入ってくることができないからである。

高橋の文章からは面白いヒントが得られるのも確かだ。立憲主義や人権の信奉者は、民主主義をどこか論理的に見ている。天賦人権のようにあるべき原則があり、それに従っていると経済的に優位な欧米とうまくやって行けるという実利もある。だが、安倍晋三や憲法第9条を文学として捉えると、かれらが「そうした価値観を嗜んでいる」という可能性が見えてくる。

例えばドストエフスキーを「非人道的だ」と攻撃しても無意味だ。彼らはその行間にある余韻を嗜んでいるのと同時に、世間的に認知された正解である古典文学でもあるからそれを好んでいるだけだからである。理論的に反論しても「わかっていない」ということになる上に、世間が正解だと言っているものが理解できない相手がバカなのだと考えることもできる。ゆえに理論的に反論したとしてもそれが彼らの心に響くことはないだろう。経験からきた正解は持っているが、明示的な知識に依存しているわけではないので、自分が変わることもないし相手を説得することもできない。日本で政治的な議論が二極化するのはこのためなのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement