外国人参政権を早急に検討しなければならないわけ

今日は地方の外国人の参政権付与に賛成ですか反対ですかと質問してみたい。多分、二通りの典型的な答えが戻ってくるはずである。




一つ目は外国人の参政権付与に賛成という意見だ。これはすべての人には基本的人権(自然人権・天賦人権)が認められるべきであり、当然外国人にもそれが当てはまるべきだという「リベラル」な意見である。

もう一つは外国人の参政権付与に反対という立場である。参政権は国から与えられる特権であり、その特権を外国人にも分けてやるのは反対という立場になる。

あなたはこの二つの意見のうちの「どちらに」賛成だろうか。それともこれとは違う意見を持っているだろうか。

さて、今回は「内心」について考えている。あまり注意しないで扱ってきた概念だが、「情報処理」の問題が含まれていることがわかってきた。つまり、今回の質問も結果が同じであっても理由付けが違っている可能性があるということになる。

外国人参政権に反対する意見は、そもそも人権を「国が与える特権」と理解している。さらに「特権は誰かに与えると自分の持ち分が減ってしまうに違いない」という見込みがある。だから彼らは自分たちだけの特権を人に分け与えることに抵抗し、リベラルな人たちはこの一連の思考のセットを攻撃する。だが、ネトウヨの人たちは内心を意識しないので「これしか考えようがなく、正解は一つしかない」と当惑し反発するのだ。

しかしながら、本当に参政権のような人権は特権なのだろうかという疑問がある。意思決定に参加するということは、その結果に縛られるということをも意味している。つまり、権利と義務が一体になった概念であり、参政権はそもそも特権だけではないはずだ。投票するということは「あなたたちが決めた約束に私は従いますよ」と宣言していることになるし、投票権があるのに投票しないということは、何を言われても従いますからどうぞご自由にと言っているのと同じことなのである。

参政権を特権と捉える人はこの権利と義務の関係も間違えて捉えている。よく知られているように、税金を収めたからその恩恵として特権である選挙権が与えられると考える人が多い。だが、これは権利と義務を誤解して捉えているに過ぎない。ここでいう権利と義務は一体であり交換できる概念ではないからだ。

我々が外国人を意思決定から排除するということは、逆に政治に従わなくてもすむ人たちを大量に生み出すということだ。例えば大陸の中国人は自分たちで政治リーダーを決めたことがないので、政治リーダーが決めたことに従う道義的責任はない。彼らがルールに従うのは結果的に豊かさがもたらされているか、怖いからかのどちらかだろう。安倍政権が外国人労働者への依存を強めているのだから、我々は次の数十年の間こうした人たちと一緒に住むことになる。確かに「非正規住民」とは嫌な言葉だが、権利で区別しても居住地域を分けることはできない。

我々は日々こうした外国人と接することになるのだから、日本にいる外国人にルールを守らせるためには政治的な啓蒙をした上でルール作りに参加させたほうがいい。持ち家しか建てられない地域(確かに賃貸が禁止されている地区はある)以外の人たちはかなり近い将来にこれを実感することになるだろう。

数が少なければゲスト住民たちは黙っているだろうが、法務省によれば平成29年度には256万人になったそうである、この中の30%近くは民主主義の経験すらない中国人なのだそうだ。彼らに「街のルールや法律は自分たちで決めたものなのだから守らなければならない」と説得して見せたところで何の意味もない。民主主義の経験のない彼らには自分たちが決めた法律を守るという知識はないし、日本の法律を守る道義的責任もない。さらに見つかれば中国に逃げ帰ればいいだけである。それで破壊されるのは企業ではない。我々の暮らしだ。

日本はすでにこれで失敗している。経営に参加する権利を特権と捉え非正規雇用を増やして正規雇用の既得権を守ろうとした。その一方でマネジメントスタイルは変えなかった。日本の雇用は終身雇用で経営者と一体であるがゆえに従業員の忠誠心が高いということに依存する構造になっていた。従業員が企業の成長のために時に自らを犠牲にすることがあったのはこの一体化のおかげだった。これを破壊し、役割分担を明確にした経営スタイルを取り入れなかったことで、日本の企業の競争力は大幅に低減することになり、正規非正規が分断されることで職場環境はかなり窮屈になった。

今にして思えば、日本の企業は非正規雇用にきちんとした経営参加のインセンティブを与えるか逆に従業員を信頼せずに経営リソースだけで成長できる企業文化を作るべきだった。そもそも非正規職員などと呼ばせるべきではなかった。もし今対策しなければ、同じことが今度は地域社会で起こるだろう。非正規住民という嫌悪感を伴う言葉を使っているのはこのためである。

日本の治安の良さは為政者に心理的に近い(あまり定義ははっきりしないが「民度」が高いなどと言われる)住民によって支えられているのだが、これからはそうも言っていられなくなるだろう。参政権のない外国人に日本のルールを守るインセンティブはない。もちろん、参政権を付与しただけで地域社会に参加するようになるだろうというのは楽観的にすぎる見方だが、それでも何もしないよりよっぽどましであろう。

ネトウヨの人たちがこの問題を過小評価しているのは、在日韓国人・朝鮮人を扱った経験によるのかもしれない。在日韓国人・朝鮮人は戦前に日本に流れてきたか、戦後の混乱期に難民として日本に入ってきた人たちだ。当然数は増えない上に帰化してしまえば日本人になってしまう。韓国から来た中長期の滞在者を加えても50万人に届かない社会の少数者だった。彼らは固まって自分たちの権利を主張するようなこともなかったし、数が増え続けることもなかった。さらに本質的には日本社会から(国家ではなく)承認されることを望んでいたので社会に対して無責任な態度をとる人は多くなかった。だから彼らを少数者として差別していれば「問題は解決」していたのだ。

ところが中国は経済が成長し日本にも多くの中国人が入ってきている。その数はすでに朝鮮・韓国系の人たちを超えているがもともと母数が多いのでこれは理解できる話である。このブログを始めた当時、日本が高度移民を受け入れず成長を諦めれば中国やインドと競争することになるのだから人件費は中国並みになるだろうなどと冗談めかして書いていたのだが、まさか本当に中国人たちを連れてくるとまでは思わなかった。予測は正しくても想像をはるかに超えることが起こる・

大陸からきた人たちは民主主義の経験はないのだが、数としてはまとまっているので、いつ権利を主張する運動を始めてもおかしくはない。さらに、定住や社会参加のインセンティブもなく「単に稼げればいい」なら、なんでもやるだろう。もちろん人権を無視して彼らを全て収容所に入れた上で工場労働だけをさせるということは技術的には可能だろうが、それが国際的に許容されることはないはずだ。

ネトウヨにはこの問題は扱えそうもないが、逆に「市民として温かく迎えてあげればきっとわかってくれる」というわけにも行かないのではないだろうか。日本人とは考え方が大きく違う。自分たちの権利を筋道を立てて主張する上に、出身地域ごとに集団を作って自己主張をするからである。彼らは我々と違った思考をすると主張すれば「自称人権派」は人種差別だと騒ぐはずである。このブログ記事も外国人差別を助長すると批判されるかもしれない。

安倍政権はこの数年で多分我々が思うより多くの社会的変化を作り上げた。もう安倍政権批判をしても仕方がない。我々は新しく直面するであろう問題に対処しなければならない時期に来ている。そのためには自動化された議論は無意味だし有害だ。我々は踏み出してしまった未来に対して有効な対策を考える必要がある。

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内心を持たないので問題の共有も解決もできなくなった日本に外国人労働者が溢れる

ネットの政治議論について見ている。日本の政治議論には目的がなく自分を正当化することだけが目的なので議論がプロレス化しやすいのでは?と考えた。これを防ぐためには議論に目的を作ることが必要というのが仮説である。




しかし自分だけで考えていると見落としがありそうなのでQuoraで聞いてみた。ネトウヨとパヨクの議論には何が欠落しているのかという質問だ。

この質問のもともとのきっかけは中国の名前を持っている人と新疆ウィグル自治区について考えたことである。彼は都合の良い情報を持ってきて結論を組み立てているという意味ではネトウヨ的なのだが、そこに至るまでにきちんとした情報処理をしていた。議論そのものに納得したわけではなかったが、あらためてこれが議論だよなと思った。

そこから思い返すと日本人の議論は少し変である。ネトウヨの議論には結論と情報はあるのだが、それをどう内部処理しているのかということが全く見えない。なので論拠の羅列になってしまうのである。Quoraにも韓国を見下すような論壇ができつつあるのだが、ここにある意見はたいてい論の羅列だけで「話に筋道」がない。

質問にはいくつか答えが返ってきたが思ったような答えは戻ってこなかった。もちろん、多くの人が「結論がすでに決まっておりその結論に都合がよい材料だけを集めてくるのがいけない」のだろうという点までは指摘している。ところがインプットとアウトプットの間にあるであろう内部過程について触れた人は一人もいなかった。どうやら「インプットとアウトプットの間に何があるのか」などということは考えないようである。

このプロセッシングが「内心」の全部ではないにしても一部なのかなと思っていたのだが、日本人がここまで「内心」を持たないとは思っていなかった。つまり一人ひとりで感じ方や考え方が違うのではないかという可能性を(提示されない限りは)そもそも考えないということになる。

これは大変恐ろしいことなのではないかと感じているのだが、そもそもそれが恐ろしいという感覚が何なのかも全く伝わらないかもしれない。

一つ目の恐ろしさは「真実は一つしかない」と思い込んでしまう点にあると思う。情報が内部処理なしで結論になるなら、誰が情報を処理しても同じ結果が得られる「はず」である。つまり、正解は一つしかないことになる。だが実際には偏見によって情報が加えられたり、理解できないものを取り除いたりという情報操作は行われている。そもそも物事の解釈は立場によって違うはずで、例えば同じ行為がいじめに見えたり教育に見えたりする。内心を意識しないということはこれが理解できないということになる。つまり自分自身を絶対化しているということになってしまうのだ。

その結果、南京大虐殺はあったとかなかったとかというように「歴史の事実は一つしかないはずだ」という議論が生まれる。確かな真実がここにあるのに相手が折れないとしていつまでも抵抗する人が後を絶たない。なぜ事実は一つしかないと思い込むのだろうと不思議に思っていたのだが、内心や内部処理のプロセスがないと考えるとその謎が解ける。

もう一つの問題点は相手の言っていることが理解できないという問題だ。例えば今国会では根本厚生労働大臣がなぜ国民が怒っているのかさっぱり理解できていないという問題があり、解決のめどが立っていない。これは根本大臣を替えても解決しないだろう。

根本厚生労働大臣は「厚生労働省がごまかしをした」というインプットがあり「でもそれは選挙には影響がない」というアウトプットにつなげようとしている。だが、ここに内心があれば「でも、それは国が誠実であるべきであるという価値体系とはぶつかるのでは?」と考えるはずで、それが罪悪感になるはずだ。だが、根本厚生労働大臣には「そんな内心はない」ので、あのようなすっとぼけた答弁になる。

かといって、根本さんがバカというわけではない。彼は選挙に不利な情報を出さないということだけを一貫して考えており、目の前にある問題を「選挙に有利か不利か」という観点から見ている。

これは厚生労働省も同じである。お手盛りで第三者委員会を作って調査しましたと言っていたのだが、野党が「いやこれでは納得できない」と言い出したので調査をやり直しているという。もし厚生労働省に「隠蔽は恥ずかしい」という内心があれば「内心忸怩たる思い」をするはずなのだが、そんなものはないのだろう。だから「納得しないんだったらやり直しましょう」といってまた嘘をつく。彼らもネット中継で見ると化け物かロボットに見える。

だが、これを展開してみると、野党も「まあ、どこでもごまかしはあるだろうが、これが露見したのが自分たちが政権を取った時でなくてよかった」くらいにしか思っていないかもしれないということになる。こちらは逆に厚生労働省や根本大臣が何を言っても納得しないだろう。彼らも選挙に勝ちたいだけだからである。つまり、国会では「選挙に勝つか負けるか」ということが優先されるあまり、国の統計はどうあるべきかということを誰も考えていないかもしれない。

だが、これを展開するともっと恐ろしいことになる。厚生労働省の不正に納得していますかと聞かれると多くの人が「いや納得できない」と答えるそうである。普通「政府は国民の信頼を裏切るべきではない」からそう答えているのだと思う。だが、それで内閣の支持率が変わることはない。つまり「嘘をついていいかと聞かれたからダメと答えただけ」なのかもしれない。つまり、内心や内部のプロセッシングは全くなく、単に「自動的に右から左」に回答しているだけということになる。

このように誰にも内心がなく単に右から左に情報がやり取りされているだけという図になる。こうした条件下では「消費税増税=下野」くらいの投票反応しか得られなくなる。これでは民主主義に必要な議論など起こりようがない。

一つひとつは大した問題ではないが、私たちはこうして身の回りの問題に対処できなくなりつつある。例えば、群馬県の鶴の尻尾だか頭だかに当たる地域は東京まで東武電車が通っている。そこで若者が東武電車に乗って東京に流れてしまう。地域の雇用を守るという約束で誘致したはずの工場はいつの間にか派遣労働者で溢れ、それでも人が集まらないとなると外国人ばかりになった。

こんな伊勢崎市で、「私たちの権利は誰にも奪われない」として「人権は相続権である」というめちゃくちゃな議論を続けることは可能である。結論は先に決まっているうえに、理解できないものは理解できるレベルに落としてしまい都合の悪い議論はすべてシャットダウンしてしまうから、彼らが議論に負けることはないからだ。

しかし、彼らが議論に勝っても外国人が街から消えることはない。外国人を呼び込んでいるのは彼らが心酔する安倍政権だ。そして、外国人を市民として受け入れない限りは伊勢崎市の不確実性は増してゆくだろう。地域にも溶け込めず意思決定にも参加できない人たちが増えてゆくが彼らの私生活を監視する人などいないからである。収容所に囲って不況になって用済みになれば返っていただくということをでもしない限り、不法滞在者も増えてゆくはずだ。工場は用済みになった外国人の首を切るだけで帰国までの面倒は見ない。堕落した日本の工場にとっては労働者もまた看板方式で管理できる部材なのである。

経験したことがない人はわからないかもしれない。工場地域のイートインスペースでは言葉がわからない外国人が昼ごはんを食べに集まってくる現場に遭遇したことがある。たまたま休日だったので日本人は休んでいたようである。たまたま派遣労働者の数よりも外国人が上回ったというニュースを読んだばかりなので「ああそうなんだな」と思った。彼らが日本滞在に満足してくれていれば我々も安心して食事ができるのだが、もし仮に「潜在的な不安を抱えていたら」と考えるとかなり恐ろしいことになるなと思った。何かの拍子にぶつかったとしても多分彼らは日本人が何を言っているのかわからないのだから、謝ったり説得したりということも、そもそも彼らが何に怒っているのかすらわからない。

問題は起きているが何が問題なのか共有できないという社会を既に我々は生きている。昭和から平成にかけて社会人になった人たちは正規雇用前提の職場が非正規雇用化して何が起こったのかを知っている。職場が分断され、様々な問題が「なんとかハラスメント」という形で表面化している。「なんとかハラスメント」はすべてマネジメントのイレギュラーケースなので、職場は問題解決能力を失っているということになる。

だが、我々はこれに対処できない。最近社会人になったくらいの人たちはそもそも終身雇用前提の時代を知らないので「なんとかハラスメント」が職場で解決されていた時代を知らない。だから、問題の発見も共有もできなくなった。したがって「なんとかハラスメント」が解決することはない。

我々はこうした社会の分断を今度は街中で目撃することになるだろう。多くの人たちが気分良く議論に勝っている間にもこれが進行する。表面上は戦争状態ではないが、敵が見えない分戦争よりもっと厄介かもしれない。これが内心を持たないことの恐ろしさの一つなのだろう。

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日本人が「自分の頭で考える」とどうなるのか

時々同じTweetが別の人たちから流れてくる。伊勢崎市という田舎の市議会議員さんのこれである。




すでに、このブログを読んでいらっしゃる方ならわかると思うのだが、ここで言っている主権という考え方は、多分村落共同体の入会地の権利のことであろう。イメージしやすいのは水田に水を引く水源地である。それを相続権という言い方をしており、伝統的な考え方が日本人の公共のイメージをゼロサム世界で縛っていることがわかる。既得権という意味に置き換えて使う人も多いのだが、既得権も多くの人に分け与えようとすると減ってしまうという含みがある。

この市議会議員のバックグラウンドはよくわからないのだが主権という言葉の使い方が乱雑なところから見ると政治的な教養はないと思う。主権は国家主権であって、彼らが(多分一人の意見ではないのだろう)気にしているのは新規住民の天賦人権のことだろう。なぜこの二つがごっちゃになっているのかはわからないのだが、漢字の「権」がついているから同じようなものだろうと考えているのかもしれない。

さて、「人権」や「主権」がどのような由来で生まれた言葉かということは調べればわかるはずだ。つまり、彼女たちはこの言葉を調べないままで使っていることになる。最初は興味がないからなのではないかと思ったのだが、いろいろ調べてみてちょっと考えが変わった。パニックにおちっているのではないかと思う。

このTweetが問題にしているであろう外国人の天賦人権が認められるべき理由は、移民が持つ新しい知識がその社会を成長させるからである。そもそも「成長する社会」が前提になっていて、新しい知識をマネジメントする能力がその社会に備わっている必要がある。ところが、安倍政権がすでに起こしている地方の混乱はこれとは全く異なった多様性を生み出している。そしてこの多様性は「よくわからないままによくわからない人たちが入ってくる」という状態を生み出しており、これでアレルギー反応が生まれるわけである。

このTweetを問題にする人が多いのは、天賦人権という言葉をないがしろにする人が増えているからだろう。流れとしては片山さつき(現大臣)の人権無視の発言と憲法改正議論が念頭にあるのかもしれない。伊勢崎市のこの議員も片山さんの発言を念頭においている可能性がある。

社会が複雑になると人々の権利がぶつかることが増えるうえに、見たこともなければ聞いたこともない権利を主張する人が増える。それが理解できないとついつい「異議申し立てをしている人」の口を塞ぎ、上から布団をかけて絞め殺そうとする。だから保守の人たちは天賦人権を嫌う。理解できない上にマネジメントもできないからである。ここでいう保守というのはすなわち「知っていることしか許さないし扱えない」という考え方のことである。つまり保守は歴史ではなく「私の知っている世界」のことを意味しているに過ぎない。

保守は「私が知っているものしか認めない」という知的敗北のことなので、保守理論家が自分で新しい状況に対応しようとすると大変なことが起こることがある。例えば一神教を理解できなかった明治維新の人たちは、それでも「ドイツの皇帝のように天皇も理論化しなければ」と考えたのだろう。そこで知っている道具箱を探して生まれたのが「お父さんやお母さんを大切にしてみんなで仲良くしよう」と「長い間あるものはきっとありがたい」という価値観の組み合わせだ。これが教育勅語である。彼らの時代にも情報はあったはずだが、彼らはそれを扱おうとはしなかったし、扱えなかった。

ところがこの論理ではまず「言語体系が違うアイヌの人たち」を理解できず、中国との関係の深かった同系の言葉を話す沖縄や、歴史も言語も異なる朝鮮半島も統合できなかった。日本人を定義できなかったので「日本人以外」を定義できず、ゆえに彼らをどう扱っていいかがわからなかった。それでも戦争に勝ってしまう。するといよいよ日本の統合原理としての天皇の位置付けを理論化しなければならなくなる。しかし、政争に利用され議論そのものを萎縮させてしまった。戦前の日本もまた目の前の選挙に勝つことの方が重要な社会だった。そうこうしているうちに日本は戦争に負けてしまい、天皇は日本国民の象徴ということになった。そのため、今でもアイヌや朝鮮系の日本人を「なかったことにしたい」人が多い。日本国民を彼らの気に入るように定義しようとすると多民族性が扱えなくなってしまうからである。

例えば、Twitter上でアイヌの人たちに「アイヌ人はいなかった。いると思うなら定義してみろ」という人がいる。だが、よく考えてみると日本人は三、四代すると先祖が辿れなくなってしまう人が多い。何が日本人なのか私たちは定義できないのである。

冒頭で挙げた伊勢崎市議の妄言も、よく理解できない人権や主権という概念を村落の入会地の権利のような限定されたリソースの問題に置き換えて理解している。暗記中心の教育のために途中の議論がすっかり抜けている。だから自分で考えると「主権は田畑を潤す水源地の利用権のようなもの」ということになるのだろう。これを議論して導き出したというところに痛々しさがある。

だが、彼女たちの倒錯はこれだけでは理解できない。実は複雑な問題が絡んでいる。群馬県という衰退する県の鶴の尻尾にあたる地域は外国人が増えている。ブラジル人街ができている大泉町と伊勢崎市は太田市を挟んで東西に位置するが、実はこの3市町は外国人が多い上位3つ(群馬県庁)なのだ。気がつくと周りは言葉の通じない外国人だらけだが、彼らはこの状態をどうすることもできない。多分何が起こっているのかさえ理解できていないのだろう。実は外国人労働者の数は派遣労働者をしのいでおり工場労働では置き換えが始まっている(日経新聞)ようである。これを推進しているのが安倍政権だが、保守は安倍政権は批判できないので、攻撃対象を外国人や人権を主張する人たちに向けている。

だから、彼女たちに議論をして彼女たちが勝とうが負けようが、この現実は変わらない。日本の経済は衰退しており外国人の低賃金労働に依存しなければ成り立たなくなっている。外国人労働者も人間なので、仕事がなくなったら「はい帰ってくれ」とは言えない。200万人を越える外国人を数千人(産経新聞)の職員で取り締まることなどできない。不法滞在の外国人に頼れば最低賃金も払わなくて済むのだから、これに依存する地方の産業は増えてゆくはずである。

しかし、実際に自分がこうした「不毛な戦い」を経験してみると、それにも理由があることがわかる。人格を挑発され論の不備を指摘されるとそれを正当化したいという気持ちが生まれる。目的がないままでこうした論争に「首をつっこむ」とついつい、論争の無限ループに入ってしまう。が、勝手も負けてもステータスがはっきりしない外国人はいなくならないし、地域で日本人が彼らをどう扱っていいかという議論をやらなくてすむ理由にはならない。例えば参政権を与えないということは「ルール策定に責任がない」ということでもある。非正規職員が職場を分断したのと同じことが今度は「非正規住民」という形で社会に広がる。日本人は平成の30年間で経験してきた息苦しさの意味をさらに苦い形で味わうことになるだろう。

我々は伊勢崎市議会議員の妄言をみるとついそれをたしなめたくなる。しかし、その議論に勝つことには全く意味がない。目の前にある問題は何一つ片付かないからである。

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中国はなぜ新疆ウィグル自治区を侵略したのではないのか?

Quoraで面白い質問を目にした。中国人のプログラマが新疆ウィグル自治区は昔から中国の版図なのになぜ侵略したと海外から文句を言われなければならないのだと聞いていた。ここで相手にされなかったので、さらに質問を重ねていた。これに答えたところ、彼から猛反発を食らった。




面白いなと思ったのは日本人との違いである。日本人は論が組み立てられないので、都合の良い論(つまり結果)を羅列した上で「みんなそう言っている」と逃げようとする。結果主義的な傾向が強い。一方、彼は政治の専門家ではないのだろうが、一応自分なりに論を組み立てている。日本語が極めて堪能なことから日本で生まれたか育った人なのかもしれないし、外国語としてここまで使えるとしたらかなり頭がいい人のはずである。

まず、問題になるのは国家観である。帝国主義だった清と多民族・理念国家である中国を接ぎ木している。クルド人と同じようにウィグル人は近代的国家として独立した経験がないので、これだと侵略されているという事実がなくなってしまう。が、ウィグルに異議申し立てをする人たちがたくさんいる以上「漢民族の侵略行為がない」と言い切るのは難しいだろう。ウィグル人はトルコ系のイスラム教徒だが清に服属する前はモンゴルに服属していた。

ただ、議論をしている途中で彼は「あなたの言っていることはよくわからない」などと相手を刺激することを言ってくる。よくテレビで見る中国人の議論の特徴と同じなんだなと思ったし、いわゆるネトウヨという人たちにも同じく相手を挑発してくる傾向がある。相手をイラつかせて揺さぶるのである。そこでついつい「彼の言っていること」に反論したくなってしまう。つまり、彼の論理に反論しないと議論に負けたことになるのでは?と思ってしまうのだ。なんとなく日中・日韓の問題が泥沼化する理由がわかった。テクニカルなところに入り込むと「相手の嘘を証明するのがお仕事」になってしまうので、本来解決すべき問題が見えなくなる。

しかし、よく考えてみると、1,000万人の人口しかいないウィグル人が100万人以上拘束されて「漢人支配から脱却したい」と言っているのだから、中国共産党の支配の正当性が揺らいでいるのは明から。彼が議論に勝とうが私が負けようがこれが変わることはないのである。

人々がついついこうした議論に陥りがちであるということがよくわかった。南京大虐殺、徴用工、慰安婦問題など様々な問題がこうした状況に陥っている。Quoraでの議論の途中経過を見ているとわかるのだが、こちらは「ウィグル人収容の問題」を持ち出すと相手が「スペインでカタルニア人が独立したがっているがあれも弾圧なのでは?」と言ってくるという具合である。

が、15分くらい考えて途中で「議論に負けてもいいな」と思った。まったく別のことがわかったからだ。議論の前段では民族自決の原則を持ち出して、中国共産党の非正当性を証明しようとした。だが、議論の途中でこれは無効になりつつことは明らかであるということもわかった。にもかかわらずウィグルの議論は「民族独立の問題」として扱われる。果たして、昔あった民族自決の議論と今の議論は同じ「民族問題なのか」ということを考えたのである。

普段ならこんな面倒なことは考えないのだが、異質さがぶつかる議論ではスウィッチが入るので1分くらいで議論がまとまることがある。これが本当の議論の効用なのだろう。

まったく別の現象としてアメリカの福音派の問題を思い出した。彼らはアメリカの成長について行けなかった人たちだが、実力では負けてしまうのでこれまでの民主主義では異議申し立てができなかった。成長と成果というキレイゴトを代表していたのがオバマ大統領だ。そこでトランプ大統領を祭り上げてスウィングバックが起きている。アメリカには民族はないが、プラットフォームとして福音派という宗教が使われた。内心を言語化する理論的支柱とみんなが集まる場所が「この類の運動」を支えているのである。

逆に北朝鮮ではいつまでたっても民衆暴動が起こらない。これも理由は明らかである。朝鮮半島は氏族ごとが集まって先祖崇拝する伝統はあるが教会がない。みんなが心を一つにして集まることがないと大規模な抵抗運動は起きにくい。大韓民国もそうだったのだが、国が豊かになると光州で地域暴動が起こって「新しい伝統」を獲得した。現代韓国ではここからくる流れを「革新」と呼んでおり、慶尚道と全羅道の対立という構図がある。

ここから、満人地域から共産党への異議申し立てが起こらず、チベットや新疆ウィグル自治区で民族自決の運動が消えない理由がわかる。つまり、宗教的伝統がある地域では人々が共通の価値観で集まることができるので「私たちは私たちのことを自分で決めたい」というアイデンティティが残るのである。いっけん、ウィグルの問題とアメリカの福音派の問題はまったく違っているように見えるのだが、アメリカは「民族」という概念が使えないだけで、実際には民族的固まりができていることになる。

こうした動きが起こるのはグローバル化が起こりその揺り戻しとしてのローカル化欲求があるからだろう。

加えて日本の問題ですらこれで分析できる。日本人は村落というつながりまでは獲得できたが宗教的な教会を持てないのでここから先のまとまりを作ることはできない。かといって公共も理解しないので理念国家も作れない。だから日本は未成熟な民族運動はあるが中に敵を見出せないので外に敵を作ろうとしている。かといってそれに対抗する人たちもグローバル化を推進しているわけではない。私たちは自分のことを日本民族だと思っているが、実際にあるのは日本語を話し、特定の内心を持たない、小さな孤立した村の集まりでしかないという絵が描ける。

中国共産党は様々な理屈付けで新疆ウィグル自治区の支配を正当化することはできるだろうが、それでもウィグル人の異議申し立ては消せないだろう。彼らは異議申し立てをする「少数者」を100万人も捕まえて「再教育」するしかない。ウィグル人は1000万人程度なので、1/10という割合は尋常ではない。議論や競争に勝つことはできても相手を納得させることはできないのである。

だが、多分それよりも重要な発見は、議論というのは特定の目的を持たない人たちの間に落ち込むと「言った言わない」の応酬になり膠着する可能性が高いということだ。それが楽しいならそこに止まればいいと思うのだが、抜け出したいならば、独自の視点を持たなければならない。

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都立町田総合高校SNS炎上事件とルールの相対化

QUORAで都立町田総合高校事件に関する質問があった。そこで背景を調べていたのだが、社会が根底から破壊されそうな構造があり面白かった。キーワードはルールの相対化である。




事件は先生が生徒を殴っている動画から始まる。当然「暴力はいけない」ということになり先生が処分されるのだが、後になって先生が嵌められたことがわかり、生徒は罰しないのかと騒ぎになったという事件である。背景にあるのは「こんなことがまかり通れば学校教育が成り立たなくなる」という世間の焦りだろう。「最終的に誰が悪いのか」という話になるのだが、今までのスタンダードを当てはめると生徒を罰することができない。認知的不協和が発生するのでコメンテータにあれこれ言わせているのだ。

これを定型化すると「結果的な不都合(社会秩序が破壊される)」を防ぐために一般的なルールを作ろうとすると、その他のルール(この場合は体罰は絶対にダメ)とコンフリクトを起こすという問題になる。ルールは「秩序維持のために誰かを罰するためにある」ということと「結果から逆算されてルールを設定している」ということが重要だ。

普段、経緯から逆算してルールが作れるのは、我々が固定的な社会に住んでいるからである。つまり、だいたい村で起こることは決まっているので、その場しのぎのルールを作って見せしめ的に罰すれば、だいたいそれで賄えてしまう。だから、村落社会には民主主義のような面倒で一般的なルールは必要はなく、経験的にたいていのことは処理ができるのだ。

しかしながら、今回の事件ではこれが成り立たなくなっている。随分と「枠」が揺れているのである。第一に学校が合併してできているという事情がある。さらに学校内だけで判断していたのに、SNSによって枠が拡張されてしまったという事情もある。

テレビの報道では学校名がわからなかったのだが、この学校は偏差値的に公立校の中位からやや下にある学校のようだ。そこで同じような事件を思い出した。このブログでも暑かった大阪府の懐風館高校だ。こちらも複数校の合併によって新設された学校だったのだが、茶髪の生徒を黒髪に染めさせたとして裁判になった。

懐風館高校の場合、学生の品位を守りとにかく就職させることが学校の目的になっている。しかし先生たちも「上位校に行けなかった」人たちなのであまりやる気がない。だから、生徒に基本的な価値観を教え込んで品位を守らせようとはしない。そこで体裁だけを整えて品位を守らせようという「学生のモノ化」が始まる。そこでもともと髪の毛が茶色かった生徒を「一般的な規格品」として黒髪にしようと「品質管理」を試みて裁判になった。その子は最初から髪の毛の色が明るかったのだ。

ワイドショー(フジテレビ)によると、今回の町田の学校の騒ぎの元々は「生徒がピアスをしている」ことにあったようだ。先生たちは「あの子は病気である」として笑い者にしていたが生活指導の先生だけが熱心にピアスをやめさせようとしていたということだ。もともとルールはあったが先生たちもそれを守らせられるとは思っていなかったということになるだろう。この生活指導の先生は「ルールだからとりあえず守らせよう」として「つい暴力に訴えてしまい」「それをSNSで拡散された」ということになる。先生がルールを信じていないのだから、実はルールは守るべきだという原則もかなり揺らいでいる。ワイドショーで安藤優子はこの点を指摘していたがなんとなくスルーされていた。

明確に説明もできないし守らせる気すらないルールで組織を統治することなど不可能だし、有害である。

生徒の側は「社会のルールというのは誰が見るかによっていかようにも変わってしまういい加減なものなのだ」ということをありのままに受け入れてしまっている。学校という閉鎖空間であれば隠蔽可能だがYouTubeなんかに流して騒ぎになれば大人たちは屈服させられるということも知っているのだ。だから彼らは動画を拡散して相対化したルールを破壊した。今後この学校では咎められなければ何をしてもいいが、見つかったら怒られる。でもSNSで炎上すればルールそのものがどうでもよくなるという、新しい秩序のもとで運営されることになるだろう。別の言い方でいうと学校は無秩序状態になるだろう。

その背景にあるのは「校則などと言っているが、誰も納得させられる合理的な理由付けはできないし、先生たちもそんなものを信じていない」というニヒルな感覚だろう。そして炎上を引き起こした学生の向こうには、ルールには大した意味もないが面倒なのでとにかく従っておこうと考える人たちがいるのではないか。これが偏差値中位の「普通の日本人の感覚」なのだ。

この事件を防ぐためには都立高校から「ピアスなどせずに学生らしく振る舞う」という実行不可能な校則をなくしてしまうしかない。結果的に就職率は下がるかもしれないが、それはもう受け入れるしかないだろう。実行できないルールは組織を破壊する。

町田のケースはとても極端に見える。だが、彼らが荒れては見えるが偏差値的に中位である。つまり、社会のルールというのは形骸化していてずるく振る舞えば乗り越えて行けるのだという了解は意外と根深く存在するかもしれない。そう考えてくると安倍政権が支持される理由も見えてくる。誤魔化せるなら嘘をついても構わないという価値観はかなり広く浸透しているのだろう。

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村落主義的な日本はどうして海外からの移民を受け入れないのか?

ワイドショーで面白い話を聞いた。村八分裁判の話である。日本の村がどのような原理で統治されているのかということがよく分かる話だった。




退職後に憧れの田舎暮らしを始めたのだが、自治会から追い出され、ため池の水を止められてしまった。発達障害の息子は施設に戻らざるをえず、高いお金をかけて直した家にも住めなくなった。結局村を出て行かざるをえなくなったということだ。場所は大分県である。(朝日新聞

この件について解説している人の話が面白かった。日本の村落共同体が新参者を嫌う理由の一つとして入会地の権利があるのだという。入会地は村の共同財産だ。この入会地の存在は日本で公共という概念が成り立たない一つの重要な要素になっている。日本人はすでにある共通の財産を守るためには団結するが、新しく共通の財産を作ろうとは考えないのだ。

よそから人が入ってくることによってこの権利が「減る」と考える人が多いのだという。

もう一つが序列の崩壊である。よそから入ってきた人は、まず村の駐在さんなどに「誰の所に最初に挨拶に行くべきなのか」ということを聞かなければならないという。都会から入って行く人は「地域の人は全て敵である」と考えて気を使ったほうが良いというような話をしていた。これも序列が共通の財産のようになっているということを意味している。この序列秩序を侵されることを日本人は嫌うのだ。

このことから日本の村落共同体が基本的にゼロサムの世界を生きていることがわかる。誰かが入ってくるということは自分たちの取り分が減るということを意味する。さらに意思決定は村の複雑な人間関係によって成り立っているので、それが崩されると全てが破壊されてしまうのである。だからよそ者は排除されることになる。今回の裁判では実はこの序列に新参者が挑戦したことが諍いの原因になっている。

日本人の気持ちの中にはこの村落的な態度が染み付いていて、合理的な判断に優先する。例えば日本人が「年金や医療といった共有財産が侵されることなく自分たちを助けてくれる働き手が外から来てほしい」と望むのは極めて自然なことである。年金や健康保険などの共有財産は「入会地の権利」のようなもので、外から人が入ってくるということはそれが減ることを意味する。日本的なゼロサムの村落社会に生きている人には「よそから人が入ってくると損をする」というのは極めて自明なのである。だから移民ではなく「テンポラリの労働者を限定的に住まわせる」という政策が発明されてしまうのだ。

公共共有財産は自分たちが増やすことができるものなのだが、閉鎖的な村落コミュニティにおいては共有財産のイメージは「限られた」あるいは「減る可能性がある」ものだ。一番イメージしやすいのは田畑を潤す水源の水である。水源は限られているので、人が増えると水が枯れてしまう。漁村においても魚は限られており採り過ぎればなくなってしまう。意外とこういう農村・漁村的な考え方が今でも日本の意思決定に大きな影響を与えている。

日本人の多くが、個人が協力して作る「西洋的な公共」を想像できず、想像したとしても「伝説上の麒麟」しか思い浮かべられないということは明らかなのだが、日本人が「入会地」のような概念を理解できなくなっているという点も問題かもしれない。自分たちの政治的イメージに大きな影響を与えているのだが、それがどんなものなのかがわからなくなっているということになるからだ。これは日本人が自分たちの概念を言語化しないということと、近代化の際に「日本的なものは劣っている」として意識から消してしまったことが影響しているのではないかと思われる。

面白いなと思ったのは「日本人は序列と入会地にこだわる」ということを指摘している人が、地方ぐらし数十年というプロのよそ者であるという点だ。この人はいろいろな地域を転々としているので、田舎に特有の日本人性を客観視することができたのではないかと思われる。

もともとこの話は外から越してきた人が「自治会の運営のあり方(お金の使い方)」に異議を申し立てたところから始まっているようだ。入ってきてから10年も経っていない新参者がそんなことを言うのはおこがましいとなったらしい。西日本新聞に少し詳しい経緯が載っている。つまり原因は発言権という財産である。村には言語化された意思決定基準がなくその場の損得でやっていいことといけないことを解釈してきたのだろう。だからよそから「民主的な方法論」を持ち出されると、それに対抗できない上に、自分たちを丸ごと否定された気分になる。だから、水を抜いて村八分にしたのだろう。Twitterでよく見られるように異議申し立てをなかったことにしようとしたことになるのだが、つまり「異議をどう処理していいかわからないからとりあえず布団をかけてしめころそうとした」ことになる。

移民を連れてきて日本に住まわせると「まあまあなあなあ」で成り立っていた日本の意思決定システムは機能しなくなるだろう。これが薄々わかっている上に「自分たちの地位が相対的に低下する」と考えるから、日本人は外国籍の人に地方参政権を認めさせようとは思わないのだろう。だが、日本人の中にも異質な人たちは増えている。この「外形民主主義と村落主義のデュアルシステム」を再検討しない限り、日本はいかなる意思決定もできなくなってしまうはずだ。

日本の民主主義は「これを取り入れないと世界という村に入れてもらえないから」という理由で採用されているところがある。だから、経済を閉鎖してしまうとこれが村落的な状態に戻ってしまうのだろう。実際に、経済的に勝てなくなった日本では徐々に民主主義が失われ村落的な「古臭い自民党政治」が復活してきている。外から見ると何が行われているのかよくわからない上に説明もグダグダという「例のあれ」である。

とはいえ自民党の村人たちもこれを言語的には説明できないので、憲法という体系を使って政治を自分たちが理解できるところまで引き戻そうとしたのかもしれない。しかし、その結果生まれたのは単なるデタラメな憲法もどきである。

自民党の人たちが現実に即した憲法を作るとしたら「揉め事はその場その場で話し合って決めるが、誰がどの程度の影響力を持つかはその場のしきたりによって決める」というものになるはずだ。附則として「ただし俺のことは尊敬すること」ということになるのだろう。

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立憲民主党が支持を取り戻すにはどうしたらいいのかQuoraで聞いてみた

立憲民主党が支持を取り戻すのはどうしたらいいのかをQuoraで聞いてみた。安倍政権はひどいと思うのだが、それでも野党への支持は一向に集まらない。これは日本の危機だ!というわけである。ただし、立憲民主党としてしまうと限定されてしまうので「旧民主党系」とした。すると、意外な回答がいくつか戻ってきた。




そもそも、立憲民主党に何とかして欲しいのは「安倍政権が暴走してもらっては困るから」である。だから「当然政権をとって欲しい」と思っているわけだ。だが、Quoraの回答者たちは「抵抗勢力」を欲しているようなのである。つまり、政権が取れなくても構わないと思っているようなのだ。

日本人は議論による問題解決を望んでいないというのが、これまで政治について扱ってきた中での結論である。もともと二大政党制は表面的には「日本を良くする複数のアイディアをコンペしよう」というような考えで始まっていると思う。が、実際にはそんなことは起こっていないのだし、誰もそんなことは期待していないようである。日本人が暗黙の前提にしているのは、限界があり成長できないゼロサムな村落なので、自民党政権がいい思いをすると他の人が損をする。だから村人を好き勝手にさせない「邪魔をする」野党が求められているのである。

ところが、これだけだと議論は行き詰まる。今、野党は与党の邪魔をしているだけだが支持は集まっていないからである。政治に求めるものが他にあるのではないかと思った。いろいろ探してみてたどり着いた答えがある。

沖縄の問題でハンストをしている人に「なんだラマダン方式かよ」と揶揄する人がおり、それに「ラマダンの本質を知らない」とカウンターを返している人たちを見つけた。とても不毛な議論だが、考えてみればこの「突出している人を許せない」という気持ちや、それについて反発を覚えた人たちが表面的な知識で応戦するというのは実はよく見られる光景である。保守が僻んで言っているのはまあ仕方がないとして、カウンター側が「自分たちの意見も聞いてもらって当然」と言えないところにある種の屈折を感じる。日本人は社会承認を受けることを自らに禁止しているのではないかと思う。

たまたまPinterestで「夫が風邪を引いて寝込んだのを見るとイライラする」という記事を見つけた。画像は途中までしかなく、なぜそんなことでイライラするのかがわからなかったのでリンク先を読んでみた。

妻が腹をたてる理由は実にくだらない。夫が寝込んだら私に面倒をみてもらえるのに私は少々風邪を引いても我慢しなければならないということに腹を立てているようなのだ。ただ、その怒りは彼女の人間関係の本質になっている。くだらないからといって放置していいというわけではない怒りなのである。夫婦の解決策は「本当に思っていなくてもいいから思っていなくてもいいから大丈夫と言い合う」という対処療法的なものだった。

日本社会は「経済的に勝てなく」なっているので、無駄な労働がなくならない。そして無駄な労働は決して褒めてもらえない。結果主義の日本人は成果を伴わない労働を自らにも他人にも認めようとしないのである。だから、勝てなくなり成果を伴わない結果的に無駄な働きが増えて行くと「世間から放置されている」という気分になるのだろう。

群れで生きてゆく動物としてのヒトは無視を痛みとして感じる。科学的な研究も出ている。(無視は本当に痛い?)だが、人々はもう根本的な解決を諦めてしまっているのだろうと思う。もう家族であっても他の人のことを気にする余裕はなく、その状態も薄々わかっている。だから「思っていなくてもいいから」という言葉につながるのだろう。つまり、とりあえずお互いを叩くのをやめましょうということである。

誰もが報われないという痛みを抱える社会では、ハンストをする人たちが注目を集めてしまえば「彼らだけが世間的に評価されている」ということになってしまう。それは「本来は自分が注目されるべきだったのに」という痛みになるのだ。まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような話である。

同じようなことがNGT48の山口真帆さんの時にも起きた。「売名だろう」と簡単に切ってしまっている人がいた。これも自分だけ名前が売れるのは許せないという気持ちの表れになっているのではないかと思う。つまり「誰かが成功するのは許せない」という気持ちが国中に蔓延しており、誰かが注目されると彼らの痛みではなく「自分が注目されなかったこと」が思い出されてしまうのである。

そもそも野党支持者になっている人は「自民党政治で豊かになる人が増えるのは困る」と感じている人たちだ。実際に安倍晋三という嘘の政治家は人々の異議申し立てを無視し「あんな人呼ばわり」して日々人々の痛みを刺激し続けている。あれは痛みを感じている人をさらに叩いているのと同じなのである。だが、痛みに敏感な人は野党が政権与党に返り咲くことも好まないはずだ。多分野党は政権党になれば彼らのことは忘れてしまうだろう。自分が勝てないなら誰も勝たせてはならないという縮み思考があるわけである。

このブログではついつい話し合って問題解決をすべきだという西洋的な理屈で議論をしてしまう。だが、日本人はそのようなことは期待しておらず、俺だけが我慢させられるのは許せないから周りも同じように苦しめばいいと思っているのかもしれない。

これを防ぐ方法も実は簡単だ。つまり、誰かを貶すのではなく支持者たちを褒めて褒めて褒めまくればいいのである。下手したらポピュリズムに陥ってしまう手法なのだが、多分勝てなくなった日本に今一番足りないのは「社会的承認」なのだろう。

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コミュニティの開発にはお金がかかるのかも

いまQuoraが面白い。Twitterと違って実名(ただし明らかに偽名の人も多いのだが)なのでコミュニティの質が保たれている。よく日本人は議論ができないなどと言われるのだが、それが本当ならQuoraにいる人たちは日本人ではないことになってしまう。




Quoraが面白いのには理由がある。モデレーションがしっかりしているのである。英語版はそこそこ歴史があり、YahooのQ&A(日本では知恵袋)の失敗を参考にしているようだ。多分、炎上を呼ぶような書き込みはできないし、質問に答えていないとか短すぎるものも折りたたみの対象になってしまう。このためにTwitterのような感情的な議論の応酬にならない。割れ窓理論ではないが「見られている」となるとみんな自制的に対応するようになる。するとある程度の議論の質が保たれるというわけである。

試しに、英語版で捕鯨の質問をしてみた。環境問題は感情的になりがちなテーマである。船を沈めろという回答があったが、そのあとにノルウェーが捕鯨をしても誰も何も言わないのだからこれは人種差別なのだという書き込みがあった。つまり、感情的な対応は抑えられ、抑制的なフォローアップがつくのである。捕鯨で日本だけがターゲットになるのは人種差別なのではないかという議論があるそうだ。

もちろん問題が全くないわけではない。すでに中国や韓国に対してあまり根拠のない書き込みが始まっており「その手の人たち」が集まっている。ただ、こういう人たちに対して攻撃的なコメントはない。彼らは放置されており自分たちだけの村を作っている。「K-POPのようにくだらない音楽が人気なのはなぜか」という質問には多くのK-POP寄りの分析が寄せられ、期せずしてK-POP擁護論になってしまった。

ではTwitterにいる人たちが劣っていてQuoraが優れているのかということになるのだがもちろんそんなことはない。Twitterにも有用なコメントをする人はいるし災害時には有用なメディアになるだろう。ただ、普段はみんなが自分たちの言いたいことを叫ぶだけのメディアになっている。これはTwitterのモデレーションが自動化されている上に、運用基準が透明化されていないからだろう。つまりコミュニティの管理にお金をかけないで多くの人を集めてしまうと場が荒れる可能性が高まってしまうのだ。

場が荒れる理由は一つではない。もちろん、あからさまなヘイト発言や政権擁護の発言が場を荒らしているのは確実だ。女性がレイプ被害にあるのは女性にも隙があったからだろうとか、日本人に人権はふさわしくないというようなものである。ただ、これに対応する人たちにも学術的(あるいは常識的に)に反論するスキルがないので、次第に議論が泥沼化する。野党がだらしないために国会の論戦が泥沼化するのにも似ている。どっちもどっちなのだ。

言論の質を保とうとすればお金がかかる。だから、例えば出版が荒れているのは出版が斜陽産業だからなのだと結論付けても構わないのだと思う。最近百田尚樹の本が話題になったが、あれもWikipediaをコピペしたような文章を校閲なしで出したことがわかっている。校閲のコストをTwitterに押し付けているからあの程度の本が出せてしまうわけだが、他の出版社もそんな感じなのかもしれないし、本屋に行くような人たちもあの程度の本しか理解できない。つまり、出版界は確実に砂漠化が進んでいるから百田尚樹が歴史本を出せるのだと言える。

ただ、この「コミュニティにお金がかかる」というのは結果的には日本をリベラルにするが、リベラルには都合がよくないように思える。リベラルという政治的ポジションに立つ人たちは政府ではなく草の根の活動によってコミュニティを盛り上げたいと考えている。市民が集いさえすれば政治はもっとよくなるだろうと考えるのが一般的である。ただ、経済活動そのものにも懐疑的な人が多いので、つい「ボランティアによる自発的な」コミュニティ維持を目指しがちなのではないかと思う。戦争より経済にお金を回せといいつつも、金儲けは嫌だなどと言ってしまう。

加えて、リベラルの人たちは勉強しない。それは人権についての不毛な議論を見ているとよくわかる。Twitterだけを見ていたとき「日本人は議論ができないからこうなるのだ」と思っていたのだが、実際には単なる勉強不足だろう。だから感情的に反対したり誰かのTweetをリツイートすることしかできない。実は議論ができない人たちが議論をしているだけなのである。議論が進めば日本はもっとリベラルな政治価値を許容することができるようになるかもしれないのだが、それなりの話し合いのある空間にはリベラルは入ってこれない。

「誰もが入ってこれるコミュニティ」は誰もが民主的に発言できるがゆえに「荒れる理由・荒らされる可能性」が増えてしまう。専門知識を元に発言をするにはスキルが必要だが「それはくだらない」とか「私は絶対に認めない」というのは無料だからである。

民主的なコミュニティを作るにはお金もかかるし誰もが平等に参入できるわけではないというのは意外と受け入れるのが難しいことなのかもしれないと思う。つまり、民主的なコミュニティは民主的には作れないということになってしまうからである。

ここまで一生懸命に書いてきたが、多分リベラルを自認する人は「今日は用事があるから」明日から勉強しようと言い訳をして決して自分から質問したり回答したりするコミュニティには寄り付かないかもしれないなあと思う。

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日本人男性はなぜセクハラ発言をやめられないのか

Quoraでまた面白い経験をした。外国人女性に「大人っぽいね」と英語で言うにはどうしたらいいのか?というのである。年に触れるのはいけないのかといっているところからなんとなく歓迎されていないことはわかっているらしい。外国人=英語としているところから少し年配の人だなと思った。この歳の人たちにとって外国人というのはアメリカの白人のことである。




Quoraが面白いのは思考過程がわかるところだろう。これが結論だけをぶつけて平行線に陥ることが多いTwitterとの違いである。この場合「ある年代の日本人のおっさん」の典型的な思考がわかる。彼らは相場を作ってその中で競って勝ちたい。そして絶対的な善悪の基準がない。そして村の経験が世界で通用すると思っている。さらに主題ではなく人格に反応する。

これについて、対象化という話を書いた。対象化というのはwikipediaのobjectificationを勝手に和訳したものである。日本語のエントリーがないところからもわかるように、英語圏では一般的に使われるものの日本ではあまり馴染みがない概念だ。この言葉は特に男性が女性を性的な対象物として従属的にみなすことを非難する文脈で用いられることが多い。

だが、回答を書いている途中に、日本人のこの男性はこの「対象化」という概念を受け入れられないだろうなと思った。これがプリンシプル(原則)概念だからである。日本人には原理・原則を受け入れない人が多い。内心がなく善悪の基準を持たないからである。が、なぜ善悪の基準を持たないのかということはよくわからなかった。

日本人は自分たちが民主主義を理解していないと言われると腹をたてる。経験上は「外国の事例を知っているからといって上から目線で反発する」とか「原理原則にこだわるお堅い人だ」といわれることが多い。原則の問題は人格の問題に置き換えられ、人格攻撃が始まるのが日本の議論の特徴だ。今回も「少しシニカルすぎるのでは?」と言われた。

理解できないと言われるとそのことに反発心を覚えるが「何が共有できていないのか」について聞き返してくることはない。日本人は個人としての相手には興味がなく集団の相場観で動きたがる。そしてその相場観はその人の経験値に過ぎない。例えば、このブログには執拗に独白的なコメントを書いてくる人がいる。感覚としてはアフリカにいるキリンの話をしているのに、想像上の麒麟について書いてくるように聞こえる。

今回もいろいろな人が「大人っぽいななどと言わないほうがいいですよ」と書いているのだが、それは全然響いていないらしい。つまり聞いたことを自分の経験でフィルターして合わないものを落としてしまうのである。しまいには、ゴージャスとかセクシーとかも言ってはいけないのかと重ねてきた。プロフィールを見ると1981年に三井物産に入社してバブル期を経験しているらしい。ちょうどバブル崩壊期に30代前半だったというような人であり男女機会均等法(1985年成立/1986年施行)以前の入社でもある。「ああ、これはダメだな」と思った。

この時代の駐在員の人たちは現地コミュニティとかかわらず村を作っていたので、現地の状態をよく知らないまま海外を理解していると思い込んでいる人が多い。また、女性がお茶汲みと呼ばれていた時代の入社なので「職場の女の子」にちょっかいを出しても構わないと思っている人たちだ。

別に釣っているわけではないのだがついに「毎回ベッドに連れ込めているわけではないが」などと言い出した。つまり俺はうまいことやったと自慢したいのだ。「これはTwitterとかで炎上するやつだろう」と思ってしまうのだが、日本人男性を相手にしているという気安さから打ち明けてきたのかもしれない。この回答が全世界に向けて公開されているということをすっかり忘れているようだが、こういうメンタリティの人はTwitterでは珍しくない。

自分の実名を出した上でベッドに連れ込んだことがあるということをほのめかしてマウンティングしているというのはどういうことだろうかと思った。大学生が女性経験を比較しようと友達に話を持ちかけるようなメンタリティがある。お前はひどい目にあったのでは?と書かれたので「素敵な武勇伝をありがとう」と返しておいた。

日本ですら女性を上から目線で評価して釣り上げたなどということは社会的に容認されなくなりつつある。ただそれは原理原則なので「抜け穴があってうまいことやっている人は大勢いるはずだ」という意識が働くのだろう。ただ行動原理はそれだけでもなさそうだ。多分、勝手に相場観を作った上で「自分はそこよりちょっと抜け出ているから偉いのだ」と自慢しているのである。競争の意識が働いているのだと思った。

日本は偏差値別に編成された学校で学び、同じくらいの実力のある人たちがちょっとした差異で競い合うという社会である。こうした経験を数十年積み重ねてしまうと外の世界のルールがわからなくなり、善悪の基準が自分で判断できなくなる。そしてちょっとした違いの中で勝つことが自己実現につながるのである。普段こうしたことを進んで開陳してくる人は少ない。その意味で彼らの思考形式がわかるというのはとても面白い。

日本は女性の社会進出が進んでいないと言われるが、それはこういうおじさんたちが社会の中枢にいるからだろう。つまりダメと言われるとそれに挑戦したくなるのである。コメントには「愛があれば問題にならない」とも書いている。よくセクハラ・パワハラの報道などでこういうセリフを聞くことがある。相手が裁判を起こすほど怒っているのに「愛のある指導のつもりだった」というのが典型例だが、あれは言い逃れではなく本当にそう思っているのだなと思った。周りがカンカンに怒っているのにそれに気がつかず、自己愛と顕示欲を満たそうと自分の愛の定義を押し付けようとするのだ。

このおじさんは「女の子をモノにしたいがどこまでだったら言っても良いのかということを知りたがっている」ということだ。日本のように集団圧力の強い国では、おじさんたちが勝手に「ここまではOK」で「ここからはダメ」だろうと決めてそれを職場の女性に押し付けても構わない。例えばインターンの女性を押し倒しても官邸とつながっていれば無罪放免になる上に武勇伝として仲間に喜んでもらえるというそんな社会である。

こうした考え方が蔓延しているので、日本では西洋式の民主主義が成り立ちにくい。民主主義とか人権というルールは西洋では守るものだが、日本では挑戦して破るものなのである。そしてルールを守って不利益を被った人には「うまいことやらなかたお前が悪い」と指摘して競争意識を満たすのだ。西洋ではカンニングは絶対悪だが、日本人は「やってもいいカンニングがある」と思っていることになる。そして、あまり悪気がなくそれを素直に披瀝してしまう。

イギリスが住民投票で決めたEUからの離脱を「決まったことだから」として進めようとしている。日本人から見るとそれは馬鹿げている。空気を読んで解釈を変えればいいじゃないかと思うからだ。だが、それは原理原則を重んじる人から見ればカンニングでしかない。

日本でセクハラがなくならず女性の社会進出が進まないのは、バブル経済を知っている世代のおじさんたちがいるからなのかもしれない。彼らは強烈な成功体験を持っていて「それが今でもなんとか成り立つのでは?」と信じつづけているのだろう。彼らは「今の時代はもうそういう時代じゃないんですよ」と言っても全く聞く耳を持たず執拗に抜け道を聞きたがる。そして周りの人を呆れさせるか怒らせてしまうのである。

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辺野古基地問題の意外な広がりに驚く

辺野古の基地の問題が面白い展開を見せている。ハワイのロブ・カジワラ(ロバート梶原)という人がホワイトハウスに請願をかけたところで相が転移したようだ。軍事問題から環境問題に変わったのである。ついに世界的ロックバンドのブライアン・メイが署名を呼びかけるところまでゆき、これまでに20万人以上が応じているそうである。(東京新聞




この問題を日米同盟と中国の軍事的脅威の話だというフレームで見ている人から見ると「環境のような感傷的な問題にダウングレードするとは何事だ」と感じるかもしれない。また搾取される沖縄の象徴のように捉える人も「単なる環境問題」に落とし込むのは抵抗があるのではないだろうか。自分で書いた過去のエントリーを見ても「環境問題」としては捉えてこなかった。ところが後述するように環境問題というのは一定の地域ではかなりプライオリティの高い問題になりつつある。

安倍首相が絡んだ問題は、森友・加計学園問題も、韓国の哨戒機レーザー照射問題もこの辺野古の問題(沖縄タイムス)もすべて「言った言わない」の泥沼になってしまう。対人関係に誠意が感じられず後先考えない発言が多いからなのだろうが、リーダーとしての資質を著しく欠いている。相手の期待や価値観を踏みにじるという共通点があり触れた問題すべての感情的なしこりが残る。今回は沖縄と本土という対立に加えて、環境対開発という別の感情にまで触れてしまったことになる。これまでは国内問題だったが、最近では海外に延焼する事例もでてきている。この辺野古の問題と一年以上続くカルロスゴーン裁判は海外の高い関心を呼ぶだろうし、現在の日本政府は海外のレピュテーション管理は苦手である。

いずれにせよ、いったんフレームが切り替わると伝達速度が変わってしまう。まず海外セレブをお手本にした活動を行っているローラさんが賛同し、今回ブライアン・メイさんも賛同した。イギリス出身の元教師であり、天文学の博士号を持った動物愛護家ということなので、環境問題にも造詣が深そうである。

どうやら我々が考える政治的な問題は「異なるステークスホルダー間の対立(利害関係)」と「みんなの環境・人権問題」の二つに分かれてきているようだ。そして、環境や人権の問題は「みんなにとって大切な問題」であり、このエリアに限っていえばセレブは積極的に影響力を行使するべきだということになってきているのだろう。政治問題と言っても一緒くたにはできないし、利害対立を環境問題に変えると広がりが大きくなる。

日本人からみると取るに足らないと思える環境問題は意外に深刻な問題に発展しかねない。例えばカリフォルニアでは新しい対立が起きている。経済的に恵まれている海岸沿いの人たちは環境問題に敏感だ。経済的に少し不利になっても環境を守りたいと考えている。一方、企業誘致が難しくなり税金も高くなることに反対の人たちもいる。このため、カリフォルニアを分割する運動やアメリカから分離する運動などに発展しているのだそうだ。(Wedge)東西対立がなくなった今、環境は大きな政治課題なのである。

当初この署名活動を見た時には「日本政府を飛び越えてアメリカに話を持っていっても仕方がないのでは?」などと思っていたのだが、予想外に健闘していると思う。タイミングとしても美しいサンゴ礁の海がブルドーザーで汚されるというわかりやすい写真の方が安倍首相の嘘よりも伝わりやすかったのかもしれない。

問題は相手にぶつけてみるまではどんな反響があるかわからない。また、相手に響く文法は相手に聞いてみないとわからない。沖縄県知事たちがアメリカを訪れて地道に訴えてきても広がらなかった運動が別の視点から広がり始めたということの持つ意味は大きい。我々は、村の中でいろいろ言い合っていても外に伝わらなければ意味がないということに気がつくべきなのかもしれない。

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