正解社会について考える – 「パワハラだと思われたらパワハラ」というのは間違い

最近よく、セクハラだと思われたらセクハラだしパワハラだと思われたらパワハラだということが言われる。これは間違いだと思う。今回はこれについて考える。




今回の問題を考える前に、まず正義と正解を分けておきたい。これはこの文章の中の変数のようなもので必ずしも「こうでなければならない」ではない。正義は自分の気持ちから出てきた気持ちだが正解は必ずしもそうではないというのが今回の定義である。何がどうできたかということはわからなくても「とりあえずそう言っておけば間違いがない」のが正解なのだ。日本人は正解の中に居ることに居心地の良さを感じ、人にもそれを伝えたがる。

しかし正解には難点がある。正解は社会の中にあるので自分で書き換えができないのだ。このため正解でない人(男女しか結婚ができない社会での同性愛者など)や正解から抜け出せない人(いつまでたってもお辞儀ハンコを好ましいと思う人)などが出てくる。正解はいつかは形骸化し堅苦しく不機嫌な社会を作る。

日本の正解文化は根強い。例えば、過去に「内心」という言葉を使ったときに、これを内的規範と指摘した人がいた。これは内心(自分のキモチ)に「規範」という正解と正解でないという概念がつけ加わったものだ。内心は必ずしも正解や規範である必要はない。自分が他の他人とどう違っているかということを理解するのは重要だが、それを他人に承認してもらう必要はないからだ。だが、日本人はやはり社会や規範からなかなか抜け出せない。日本人は個人が個人であるというだけでは不十分な社会のだろう。


職場のハラスメントはコミュニケーション不全だ。正常な状態であれば不愉快な思いをした人は「それは嫌だ」と言える。中には職場を変える人もいるだろう。最初から不愉快な状態を我慢しながら働いているか日頃のちょっとした不愉快を言い出せなくなっているというのがそもそも問題なのである。問題は関係性と環境にあるので、問題が起きた時に「何を言ったか言われたか」を考察してもそこに答えはない。

子供の発達期に「イヤイヤ期」というものがあるそうだ。この時に「お母さんなんか嫌いだ」と言われるとショックを受ける母親がいるという。実は「自分の気持ちが整理できず、それを一番信頼している母親にぶつけている」という説明があるのだという。つまり、子供の状態には「私」がないので「そのイライラの原因が」私から来ているのか母親からきているのかがわからない。その状態で母親に何かを言われると、イライラが母親に向いてしまうという説明である。

つまり、人間は原初の状態では「私とあなた」という区分けを持っておらずそれをいずれかの状態で学ぶ必要があるということになるだろう。だが、これを学べないことで、大人になっても自分の不調を他人にぶつける人がいる。ハラスメントには「逃げ出せない」という部下側の気持ちと、問題の根っこがどこから来ているのかわからないという上司のとまどいがある。

つまり、組織が何らかの問題を抱えていて中間管理職にストレスがかかると、それを部下にぶつけてしまうのだろう。つまり、考えるべきなのは中間管理職と組織の問題ということになるのだが、それが部下の管理の問題に矮小化されかねない現状がある。さらに部下の側が「逃げるか殺してしまうか」という心理状態になってしまうともう問題の収拾は不可能だ。

言いたいことが言えないというのはかなりのストレスだ。言ってしまうと左遷されてしまうのではないかとか、下手をしたらやめさせられるのではないかとなると、部下は思っていることが言えない。そこでICレコーダーを持って証拠を残そうというところまで思いつめられたとなると、もはやICレコーダーに録音されている言葉には大した意味はない。持ち出した時点で「奴がいなくなるか俺(私)が潰れるかだ」ということになっている。協力関係は崩壊し組織としては「積んでいる」のである。

成果を上げたと上司は正解を知っている人だ。だからその通りに振る舞うことで周りから褒めてもらえたのである。だが、人を使って仕事をするようになると誰かを説得したり協力してもらう必要が出てくる。これは別の教科の問題集を買ってきて解き始めるようなものである。ここで正解がわからないと、自分の中にあった弱い部分が出てきてしまい、それが実行できてしまう。仕事の成果は壊せないので「外面上は極めて優秀で人当たりのいい」人が部下を執拗にいじめることになる。こうしたいじめにも体裁さえあれば、それは不正解にならないのだ。

だから、たいていのパワハラセクハラには「言い訳としての大義」が出てくる。曰く「指導であって愛のつもりだった」とか「女性にもその気があると思った」などというのである。内心に訴えれば正義は動かせるかもしれないが、正解は社会が持っている規範なので本人を説得してこれを変えることができない。だから、そもそもパワハラを行う人が自ら「これはパワハラである」という判断基準を持つことは、本質的にないしできないのである。彼らが内心や内的判断基準を持っていないのでもうそれは動かせないのだ。

もちろん解決策はある。例えば「硬直化した正解」でなく「様々なケースのソリューション」を教えることで、問題解決の手段を増やすことはできるだろう。だがその場合にも「自分がそうされたらどう思うか考えてみましょう」と説明する必要がある。がそもそも「自分がどう思うか」など考えたことがない人にはそれはわからない。これまで数十年も「正解」に従うことで成功してきた人にとってそれは世界の終わりでしかない。

これについて概念的に説明するのは難しい。そんな人などいるのかと思ってしまう。そこで、誰か具体的な例はないかなと考えたところぴったりな例が見つかった。それが安倍首相だ。

安倍首相は官僚や親から正解を教え込まれて政治家になった人である。単にその正解を暗記するか読むだけで良いのである。岸家の正解を母親に吹き込まれ、就職して一瞬内心を持ちかけるがこれは父親によって潰される。議員になったら上司に「北朝鮮問題に功績があった」として選挙の顔に利用される。一貫して「正解を生きてゆく」ことを余儀なくされてしまったというかわいそうな側面がある。今では部下である幹事長と政調会長に内政を握られているので、やれることは憲法改正と外交しかないのだが、どちらも失敗している。この人に自分の言葉で話しなさいと言ってももう手遅れだろう。

なので安倍首相は対話という「いきいきした活動」ができない。対話モードになると彼は不機嫌になり言葉が早くなる。どうしていいかわからないとき人はああなるのだ。その意味では現代日本の正解社会を象徴するような人なのである。人間の新しい未来を作れるのは人間だけであり、その芽はそれぞれの心の中にしかないのだから、安倍首相は本質的に国家の破壊はできても改革はできない。

ハラスメントにも同じことが言える。ハラスメントが発生したらもうそれは「家庭や組織の失敗」なので、当事者どちらかを取り除くしかないということになる。正解しかない社会は未来を作り出すことができないばかりか、目の前にある不満さえ取り除くことができないのである。

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改めて考える – 統計が読めない・作れないというのはどういうことなのか

今回は統計について考える。統計が信頼できずまともな統計が取れないとはどういうことなのかという問題だ。が、統計の話は最後に少しだけ出てくるだけである。




もちろん政府が統計を誤魔化すこと自体が悪いことなので、統計問題の是非など考えなくてもいい話ではあると思うのだが、一通り考えを巡らせたほうが立体的な像が描けるかもしれないと思った。

前回、人は答えがないとムキになるという様子を観察した。これを政治議論に当てはめたい。TwitterやQuoraの政治議論を見ていて不思議に思うことがある。普段の我々の暮らしでは政治について議論になることはない。それはなぜだと聞くといろいろな答えが返ってくる。しかしいまひとつ納得できるものがない。よくよく考えてみると生活実感のある政治ネタは少なく、憲法や外交といった大きな問題を語りたがる人が多い。そしてそれはなぜなのだと聞いてみても誰も答えを持っていない。

まず生活実感について聞いてみたのだが「景気がよい」と言っている人は一人もいなかった。かといって安倍政権が悪いと考えている人は実はそれほど多くない。大きな政治課題(外交や安全政策)についての議論は比較的好調なのだが、暮らしに結びついた政治になると途端に答えが減る。

ところが大きな問題についてもその基礎知識は実は極めて曖昧だ。イデオロギーの基礎概念の知識も不確かで、統計についての知識もほとんどない。実はかなり目をふさがれた状態で議論をしている人が多い。ところがなぜかみんな「正解」は知っているのである。

非常に奇妙な状態で、これをすんなり説明できる理屈がない。最初は「自分たちが動いたところで生活が変わるはずはない」という諦めがあるのではないかという可能性を探ってみた。だが、どうもそれだけではなさそうである。

しばらく考えていて別の要因を思いついた。それが正解へのこだわりである。Quoraの質問で怒られることがある。「背景情報」がわからないと言われることがあるのだ。最初はなぜこれが怒られるかはわからなかった。フレームがないなら仮置きして答えればいいからである。いろいろ話を聞いたりして「その場の正解」を言いたい人にとっては、この答えを書いても「正解にならないこと」がとてつもなく不愉快なのではないかと思った。さらに正解を暗記しているだけでは問題の穴埋めもできない。

文脈がわからないと正解を言えないので怒り出す人が多い一方で、揺れがある状態でフレームを勝手に決めて「楽しみましょう」という人はあまりいない。そこで、MBTIテストを思い出して「あなたは何のために議論をするのか」を聞いてみた。自分でもやってみたところ「議論を楽しみ場合によってはdevil’s advocateにもなる」という類型だった。いろいろ探してみて、MBTIだとだいたい三つくらいの類型があることになりそうだと思った。枠を作って回答を絞るとフレームが明確になるので答えが付きやすくなる。

  • 議論そのものを楽しみたいタイプ
  • 理解し合うために交流したいタイプ
  • 問題解決のために交流したいタイプ

聞いてみたところ、議論そのものを楽しめるし場合によっては悪魔の使徒にもなれる人もいた。逆に議論に嫌悪感を持ち問題が解決しないなら議論は意味がないという人もいた。そして少数ながら共感型の人もいた。だが、このほかに「正解を出してみんなをあっと言わせたい」人も多いのかもしれないと思った。これはユングの類型にもMBTIにもない類型だし、正解を言いたいと自己申告する人はおそらくいないだろう。

だが、日本人には意外とこういう人が多そうだ。例えば、MIDI規格についての知識とか専門の数学分野での知識とか調味料の違いについての知識などは時々専門家が出てきて詳しい正解を解説してくれる。つまり、ドメイン(専門領域)が明確であればあるほどやることがはっきりしてくるので基礎知識と経験に基づいた正解が出しやすくなり、フレームがはっきりせず正解がないと不安になってしまうのである。日本人はこうした職人型と職人の調整型は多いのだが、モデレータータイプはあまり活躍が出来ないのではないかと思う。

この正解を知っていて正解を代表していると思っている人が得られる心理的満足感はスパゲティ論争を見ていてもよくわかる。かつてはスプーンを使ってスパゲティを食べるのが日本の正解であり、今ではスプーンを使うのは不正解だ。そして正解を知っている人はどうしても自分が正解を知っているということを認めさせたいのである。が、冷静に考えてみるとどうしてすべての日本人がイタリア人に成り代わってパスタ・ポリスにならなければならないのかはよくわからない。それでも日本人は正解を語りたがる。

MIDI規格について書いている人が面白いことを言っていた。今のMIDI規格はシンプルで柔軟性があるそうで、それが残って欲しいと言っている。ところが現在MIDI2.0の規格化が進行していてこれが過去のものになりそうなのである。つまり、ドメインでの正解にこだわるとそこから抜け出せなくなってしまう可能性もあるということである。ドメインが人工的な村落になってしまうのだ。

正解のある製造業でも正解にこだわりすぎると時代について行けなくなる。ましてや政治経済のように正解を導く式から考えなければならなくなると、人々はとてつもない不安に襲われてしまうのである。現在の政治議論は相手の人格攻撃や業績の否定ばかりなのだが、これは実は正解がわからなくなりパニックを起こしているからなのかもしれない。一方「国家イベント→コンクリート工事」のようなものが得れれるととたんに雄弁になる。この正解を持っていて「かっこよく見える」代表格が宗教的正解に支えられた公明党の質問者たちだろう。

では、みんなで新しい正解をつくるために新しい式を作りましょうとなったところで、「今どうなっているのか」ということがわからなければ議論を始めることすらできない。そこでやっと出てくるのが調査と統計だ。調査と統計がないがしろになっているのは、実は正解にこだわり続けることによる安心感があるからもう現実は見なくてもいいですよということなのだろう。

生活実感のあるところで政治課題が語れないのは人々が自分たちの暮らしの中では正解が探せなくなっているということを意味しているのではなかと思う。そうなるとあとは他人を非難して毎日をやり過ごすしかない。そこで、人々は安心して語れる外交や安全保障といった政治議論に逃げ込んでお互いを攻撃し始める。この辺りだと括りが大きすぎるので他人の答えをコピペしただけで済んでしまう。これが現在の政治議論の正体だ。

実は、政治家も統計が読めないがゆえに経済政策が作れない。朝生で田原総一郎さんが「野党には経済対策がないから国民が自民党で我慢しているんだ!」といって怒っていたが、野党の人たちにも自前で統計を取ったり経済政策を組み立てられる基礎知識がないのではないかと思う。自民党は政府の言っていることを聞いていれば議員としてやって行けるのだが、野党は経済政策のフレームから作って行かなければならない。だから野党にこそ調査統計の基礎知識が必要なのであり、今すぐ政府攻撃をやめて自分たちで信頼できる統計を作るべきである。マスコミが野党統計を信頼するようになれば政府の統計は規模が大きくても紙くずになってしまうだろう。

多分、この国で政治経済の議論ができるだけの基礎学力がないというのは我々が思っている以上に深刻な問題を引き起こしていると思う。実は問題を解決するのは簡単である。政府の統計にはもう信頼はないのだから、単に信頼できるサンプル調査を自分たちで作ればいいのだ。

高齢化に揺れる「社会インフラ」としてのコンビニ

フジテレビで朝からセブンイレブンの話を繰り返し流していた。奥さんが死んで店が回らなくなったセブンイレブンのフランチャイズが24時間営業をやめたところ1700万円の違約金を請求されたというのだ。確かにひどい話なのだがテレビが急にこういう話題を取り上げると「何か裏があるのでは?」と思う癖がついてしまった。夕方になってTBSでもやっていたので、まあ政府の陰謀とかではないんだろうななどと「安心」した。




ダイヤモンドオンラインもこの問題を取り上げているので、セブンイレブン側もなんらかの対策を取らないと社会的批判にさらされかねない。フジテレビの<報道>からはそうした企業側の苦悩も伺える。

セブンイレブン側は、コンビニは社会インフラだから24時間営業ではなければならず、24時間体制が維持できるようにサポートすると主張している。そして、テレビ局はスマホ決済すればレジが楽になりますよなどという「解決策」を伝えていた。しかし社会インフラを維持するなら過労死させるまで働かせてもいいなどという理屈が通るはずもなく、スマホ決済とセルフレジくらいで仕事が楽になるのなら最初からやっていればいい話なのだから弥縫策にしかなっていない。

特に気になったのは働き盛りのエリートたちが東京のオフィスで考える市場環境など足元にはもうないという点である。彼らエリートはこの店主の「革命」に怯えているだろう。もし、契約変更が可能ということになってしまえば全国の予備軍たちが一斉に契約変更を求めるようになり、それは自分たちの成績の悪化につながる。

現に人手不足から24時間営業を止めたいと思っているオーナーは多いようだ。だが、限界を感じているのはコンビニだけではない。戦況は現在の青年将校たちには圧倒的に不利である。

NIKKEI STYLEよると春から値上げラッシュが始まるらしい。今回の値上げの要因は様々なようだがやはり運賃と人件費の高騰が大きいようだ。日経ビジネスはステルス値上げが限界に来ていると伝えている。

コスト削減には集約化が効果的なのだから、小口商店や宅配に頼っている今の経済にはそもそも無理がある。その上に若者が考える「効率化・高収益化」に足元は付いて行っていない。

アベノミクスは「どうせ物価など上がらないだろう」という前提のもと大掛かりな金融緩和策を行っていた。こうすると円安誘導ができるので輸出製造業者には有利だからである。だが、どういうわけか日本の物価は上がらず通貨だけが切り下げられるという状態が続いていた。どうやらその経済は「最低賃金あたりで張り付いていた非正規労働と個人事業主」と「無理を重ねるフランチャイズ経営者」に頼ったものだったようだ。政府統計はぐちゃぐちゃなので本当のことがわかる人は誰もいないだろうが、ある程度の資産を蓄積した人たちが年金の足しにと働きに出ておりこれに頼ったものだったのである可能性がある。が、こういう人たちに効率化を押し付けても「もうしんどいから好きにやらせてもらうわ」となるだけだろう。若者のように過労死レベルで無理をして現状を支えるなどやりたくてもできないのだから。

停滞という名前の安定の時代も終わりつつある。元号が切り替わるタイミングとシンクロしているのは偶然なのだろうが、平成が始まってすぐバブル経済が崩壊したので「停滞という名の安定期」と平成がそのまま重なるのかもしれない。昭和を成長期だったとすると平成は疲れた中年の時代だった。もう若くはないが中年になった自分を認めたくないという時代である。すると次の時代はどんな時代になるのだろうといささか不安な気持ちになる。が、それほど悪いものにはならないかもしれない。老いを認めてしまえばいいのだ。

近所のコンビニエンスストアー「ミニストップ」ではフードコートがいつも賑わっている。しかし座っているのは客ではない。制服を着た従業員がときどき自分の携帯電話を取り出して誰かと何か話しているのである。でも、高齢者ゆえに誰も咎めないしそれほど悪い印象もない。若い人たちが同じことをしていれば咎め立てされるだろうが、高齢の人に無理をさせる人はいないのである。セブンイレブンもオーナーによって対応が全く異なっているようで、高齢の人ばかりの店もあれば若い人しか雇っていない店もある。だが、高齢者ばかりになってしまえばそれはそれで店は回る。若者に引け目を感じる必要もないし、高齢者は自分たちのネットワークで働き手を連れてくるだろう。彼らは最新のATMやややこしいスマホクーポンなどの仕組みは全くわからないが、そもそもそれを気にしている様子はない。

改革するつもりもなく働かなければならないのなら「まったりと」楽しく働けばいい。スーパーやレジでもまごつきつつ財布から小銭を探すお年寄りと、ゆったりとレジを打つ高齢のアルバイトというような風景が日常化するかもしれない。だが、もうそれでいいんじゃないだろうかと思う。

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アメリカは児童虐待にどう立ち向かってきたのか

野田市の栗原心愛さんの事件が早くも風化気味である。ブログなどのページビューを見ているとそのことがよくわかる。




与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっているのだろう。特に野党は「なんらかの失政を捉えて与党攻撃につなげたい」ので次から次へと様々な「問題」が出てきては積み残しになってしまっている。ページビューの推移を見る限り、有権者はこうした状況に疲れていると思う。いつまでたってもどこにも出口が見えないからである。

そんななかQuoraで「アメリカでは殺人として扱われるケース」がなぜ虐待にしかならないのかと憤る人たちがいるのを見つけた。どうやらアメリカは児童虐待についての法整備が進んでおり、例えば車に児童を放置したり送り迎えがしないだけで虐待とされるケースもあるのだという。野田市のケースも「殺人事件として立件される可能性が高いのでは?」というのだ。また、里親制度も充実しており日本の立ち遅れぶりがよくわかる。

ただ、こうした声は昔からあるようだ。少し検索してみたら「アメリカが羨ましい」という現場の声はかなり見つかった。アメリカは社会が子供を育てるという意識が徹底しているという。

大いにあります。極端に言うと、アメリカでは「子どもは社会のもの」と考えられているため、社会が虐待に積極的に対応する。しかし、日本では「子どもは親のもの」といった考えが根強く、他人の家庭には口出ししない風潮がある。

http://www.jinken.ne.jp/flat_special/2001/10/post_6.html

問題の根底に日本人の「子供」に対する考え方があるのがわかる。つまり必ずしも政府が悪いわけではないことになるだろう。

では、アメリカが最初からそうだったのかといえば必ずしもそうではないらしい。どうやって法整備を進めてきたのかということがわかれば日本でもヒントになるかもしれないと思って調べてみた。アメリカの法整備の大体の流れは国立国会図書館のPDFで読むことができる。実は日本政府にもこの辺りの事情を研究している人たちはいるのである。ただ、なかなか政治(つまり選挙)のアジェンダに乗りにくいのだ。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして― (山口亮子)という別の論文には次のように書かれている。

アメリカの児童虐待・ネグレクトの歴史はさほど古くはない。1962年に小児科医のケンプ医師らによる「被虐待児症候群(Battered Child Syndrome)」の発表により、児童虐待・ネグレクトの現実を世に知らしめたことで、その認識が高まったといわれている。そして、1974年に、児童虐待・ネグレクトに関する初めての連邦法である「児童虐待防止と対応法(Child Abuse Prevention and Treatment Act= CAPTA)」が成立し、児童虐待の定義、通告義務および児童虐待の調査・手続きに関する規定が置かれた。1988年の改正で、合衆国保健福祉省が全国のデータを回収し、プログラムを分析す る任務が指示された。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして―

もともとアメリカにも「親が子供をいじめることなど考えられない」という考え方があったのだろう。この背景にはアメリカの核家族化があるのではないかと思う。リースマンが「孤独な群衆」を書いたのは1950年だ。アメリカでは戦後すぐに社会の粒状化が始まり、密室化した家庭の虐待を働く親が出てきたのかもしれない。人間の歴史において「村が共同で子育てをしない」という現象が出てきたのはつい50年か60年ほど前の出来事なのである。日本も遅まきながらこれに追随していると言える。

時代背景も特殊である。ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任する頃と重なる。選挙で選ばれたわけではない副大統領のフォードが大統領だった時代にようやく児童福祉についての対策も練られ始めた。しかし、フォードはウォーターゲート事件をもみ消そうと関係者を恩赦してしまい、うんざりした国民は民主党のカーターを大統領に就任させる。

カーターは共和党の政策を否定するためもあり大胆な福祉政策を実行したのだろう。例えば「アメリカは支援国に人権順守を誓わせる」という人権外交が行われるようになったのはカーター大統領の時代だそうだ。また教育省もカーター大統領が創設したのだという。

つまり、児童福祉は諸改革の一環だったことになる。背景には政治や経済の行き詰まりと社会変化の同時進行があるということである。だが、この後の歴史を調べると改革はやがて行き詰まるということがわかる。そもそも改革の必要性が叫ばれるのは政治や経済がうまくいっていないからであり、改革政党はその結果がでないうちに国民から失望される運命にあるからである。

日本で言えば自民党の行き過ぎた腐敗政治に怒った国民が民主党を選んだというところまでは改革志向が結実したと言える。だが、結果的にはリーマンショック(これは民主党が引き起こしたわけではない)に対応できず、地震や原発事故の責任まで背負わされ、安倍首相からは「悪夢の時代」と罵られている。冷静に考えてみれば自民党はこの悪夢の時代を民主党に肩代わりさせて「逃げた」とも言えるのだが、自民党も国民もそうは考えない。

カーター大統領は国内経済を停滞させたことで知られる。人権外交もあまり成功せず、イランやソ連との間に深刻な対立がもたらされた。カーター大統領は「需要拡大に依存した」とあるが、これは「消費者に焦点を当てて企業に焦点を当てなかった」ということを意味する。共和党は企業よりの保守政党なので供給サイドに焦点があたり、民主党はリベラルなので需要サイドに着目するのだろう。改革がうまく行かないことに失望した国民は共和党のレーガンを大統領に選んだ。レーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)は、政府の公共事業の拡大などで供給サイドを満足させたのだが、同時に双子の赤字と呼ばれる赤字を生み出したとされる。任期中は「強いアメリカ」と「レーガン大統領の人柄」で人気を保った。

日本の政治は現在改革失望期であり現実に安倍政権は憲政史上第一位の長期政権になろうとしている。2019年2月21日に吉田茂の政権を抜くそうである。日本の有権者は今現実の問題に直面したくない。そんな中で様々な問題が提起されてもそれは「今の年金制度が維持されているのだからこれ以上触りたくない」という有権者がいる限り、大方は無視されるのだろう。国民は景気がよくなることも正直な政治が行われることも、子供が安心して暮らせることも望んではいない。ただ、今の暮らしが崩れなければもうそれでよいと感じているのではないだろうか。

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首相のコラ画像が逮捕案件になるまで – 集団思考で独裁化が進む

著作権法が変わるそうだ。朝日新聞によると文化審議会で答申がでてこれから国会審議が始まる。これについて「そのうち首相のコラ画像を作ったら別件逮捕されてしまうかも」とつぶやいたら反応があったので、考えるところを書いてみたい。




まず、津田大介の一連のつぶやきからご紹介する。例外から始まって厳罰化が進む過程がよくまとまっている。

津田によると、もともとは音楽・映画の要請から始まったようである。実はこの業界は著作権の管理が一番進んでいる業界だ。特に音楽はJASRACが著作権をほぼ独占的に管理してきた。インターネットが出る前は、レコード会社にきっちりと報告をしてもらい、流しっぱなしの放送と一括契約を結び、あとはカラオケ店や結婚式場を見回って「著作権警察」をしていれば音楽の著作権料などが管理ができた。だから音楽業界はインターネットが出てきたときにはそれを否定し、自分たちが時代から取り残されているぞと気がついた時、それを規制したいと願ったのである。配信業者が規制できないということがわかったので、今度はユーザーを罰したいと言っている。

元々が自己否認から始まっているので実効性がなく、そのためにどんどん厳罰化だけが進んで行くのである。

AKB48ができたのが2005年だそうだ。CDが売れないという時代があり、音楽の楽しみ方が配信とイベントになってきていたという時代である。AKB48は投票権というイベント参加券がメインでCDがサブになったというエポックメイキングな出来事だった。パッケージからイベントへ、つまりモノからコトへという流れは今でも続いている。日本も確実にサービス産業が先導する経済に変わりつつあるのである。

CDが売れないなどと言われているが、音楽の楽しみ方は多様化している。日経スタイルによると実は東方神起は年間で128万人もの人たちを動員している。不況だと言われているのだが、実は2000万人以上がコンサートを楽しんでいるそうだ。モノからコトへの移行が進んでいることがわかる。

セールスとは対照的に成長を続けるコンサート市場。18年上半期の動員数は約2084万人と、前年同期と比べて約5%の伸びを見せている(コンサートプロモーターズ協会調べ)。日経エンタテインメント!では、既に18年に行われたコンサートと、年末までのスケジュールが発表済みのもの(10月上旬時点)の会場収容人数を合計し、各アーティストの「年間コンサート動員力」を算出、ランキングにした(詳しい調査基準は文末の囲みを参照)。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO38332660Z21C18A1000000?channel=DF010320183446

インターネットの爆発的な普及によって、モノはコトへの導入としての役割を持つようになった。さらに、モノに依存しないで売り上げを伸ばすことも可能になりつつある。YouTubeで無料配信し知名度の普及を図ったK-POPは大成功し、日本のチャートにも韓国語の歌がそのまま流れるまでになっている。彼らは日本のみならず海外にでかけてゆき大規模なイベントを行う。そして、事務所単位で興行を行いイベントと物販で資金を回収するのである。

ネットで遅れていたジャニーズでさえも滝沢秀明を筆頭にネットとイベントを中心とした新しいビジネスを始めるようだ。新しい会社であるジャニーズアイランドは、ジャニーズがイベントを行う時のブランド名のようだ。ジュニア名義のYouTubeチャンネルも更新が盛んになっている。ジャニー喜多川は今までのビジネスを旧世代に任せ、新しい時代に適応できる若い後継者を選んで新規ビジネスに参入している。

日本人は「自分たちのものは自分たちで囲い込みたい」という意識がとても強いのだが、新しい世代に経営を任せれば十分に克服は可能だ。問題なのは古い世代の人たちがいつまでも昔のビジネス形態を懐かしんでいるという点である。彼らはネットを憎んでいる。テレビは買い占めらるが、ネットは買い占められないからである。そして、自分たちができないことをやろと政府に泣きつくのだ。

こうした違いを「オープン戦略」と「クローズ戦略」という。全てを囲い込むのがクローズ戦略だ。かつてはいかに囲い込むかが重要だ他のだが、最近の日本はこれで軒並み失敗している。一方でオープン化で成功しているのが中国や韓国だ。先日見たように中国家電はスマホと連携することで「コストの切り捨て」を図っているのだし、韓国は宣伝をインターネットのファンたちにアウトソースしていると言える。コントロールできないなら協力すればいいのだ。

本が売れない、音楽が売れないとなった時、「自分たちが時代についてこれていない」とか「高齢化している日本市場にだけ頼るのは限界があるのでは」と考えるのは難しい。それよりも「無断でスクリーンショットを撮影する人が悪い」と逆恨みしたほうがラクなのである。そして、時代について行けていない人ほど政府に頼って「国の力でなんとかしてほしい」などというものなのだ。書籍・出版・新聞・テレビ・レコード会社という旧体制の人たちが新しく飛躍しようとしている人たちの足を引っ張り「自分たちを置いて行くなら罰してやる」と言っているのが今の日本である。

多分、違法ダウンロードを禁止したりスクリーンショットを規制しても、本やパッケージソフトが売れるようにはならないだろうし、新聞の購読者も戻ってこないだろう。だが、彼らはそれを認めないし認めたくない。

さらに日本の著作権管理はかなりいい加減であり文書ではなく口頭で著作権のやりとりをしているケースが多くある。樹木希林さんはマネージャーがおらず、権利処理が面倒なので「二次使用もファンの撮影も好きにして」と留守電に吹き込んでいたというのは有名な話だ。こうした口約束の世界を非親告罪化してしまうと、そもそも権利処理が確認できないというケースが続発するはずである。音楽の世界の常識がテレビで通じないということがあり、さらにこれに漫画やフィギュアの二次創作(宣伝のために著作者が黙認したりしている)などの「さらにいい加減(あるいは柔軟)な」人たちが入ると、話はぐちゃぐちゃになってしまうだろう。

こうして国に厳罰化を頼む人が増えるほど、お互いを縛りあうようになり、さらに萎縮が進む。有料配信の新聞記事は読まれなくなり無料のものが引用されるだろう。テレビの歌番組がなくなりつつありYouTubeに音楽コンテンツが溢れる今となっては、日本の歌そのものが忘れられてしまうかもしれない。

もちろん厳罰化を要求された政府が初めから人々を支配したがっているとは思えない。だが、自分たちの失敗を隠蔽するために独裁傾向を強めることはありそうだ。

最近、菅官房長官が東京新聞の望月衣塑子記者を念頭に「あんな質問をさせるな」と記者クラブにねじ込んで問題になった。確かに望月さんにも問題はあるのだろうが、国会でこれを質されて半ばキレ気味に自分の主張を述べていたのをみて「こんな気の小さいおじさんが官房長官なんだ」と思った。調整できないから政府でなんとかしてほしいと言い続けて、政府に強すぎる権限を移譲しても、実際に対応するのは交渉もろくにできない首相と気の小さい官房長官である。日本人は全体的に調整ができなくなり国になんとかしてくれと求めるわけだが、国は国で現業が何をしているのかわからないのでこのようなことが起こるのだろう。

安倍首相は菅官房長官を弁護するつもりなのか「内閣の一員がわざわざマスコミ対応してやっている」と言っていたが、そもそも権力者が記者たちに「情報を教えてあげる」という意識そのものが危険なのであり、コミュニケーションのプロである広報官を立てる方が理にかなっている。だが、そんなことを安倍首相に言っても彼は全く理解できないだろう。

恒例の経営者たちが経済から取り残されてしまうとジリ貧になった人たちが権力になきつき、それが結果的に独裁を生んでしまうかもしれないというのはなんだか情けない図式である。が、リーダーが責任を取りたがらない日本ではこうした集団思考による情けない形で独裁が進行するのかもしれない。気がついたら何もものが言えなくなっていたという時代になっている可能性があるということになる。

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多様なものに囲まれると居心地の悪さを感じる「頭の悪い」人たち

最近、多様性について考えた。「社会は多様性を受け入れるべきである」というと賛成する人は多いと思うのだが、果たしてそれが実践できるのかという問題である。これについて考えていて「保守派の人は頭が悪い」という結論にたどり着いた。




だが、この保守は頭が悪いというフレーズをコピペしてRetweetする前に以下の文章を読んでいただきたい。もし、これがわからなければあなたも保守脳の持ち主である。

ここでは、多様性の受容とは「すなわち自分が理解できない他者をそのまま受け入れる」ということを意味するとする。ここに危機意識を感じる人がいるのではないかと思った。

例えば、全く理解できない外国語を話している人たちが大挙して隣の席に座った時「この人たちが襲ってくるのではないか」と考えることがある。外国語の中には和やかに聞こえないものもある上に、そもそも理解できない言葉には警戒心を持つのは当たり前のことだ。外国人が安全に思えるのは言葉の意味そのものが理解できないにせよ、ああこれは韓国語なのだとか、中国人が声をはりあげるのは普通のことなのだという予備知識があるからである。わかると警戒心は薄まる。わからないと心の中のアラームは鳴り続ける。

外国語は複雑さの例だが、実際にはいろいろな複雑さがある。例えば同性婚もそうだし、外資系企業の企業文化もそうかもしれない。複雑さが認知できないと、恐れが憎しみに変わるのではと考えたのである。

そこで調べてみたところ非常に短い文章が見つかった。多様性を許容するリベラルな人は他人への理解度が高く、保守の人ほど恐怖に関する領域が強く働いているという傾向が見られるというのだ。つまり、複雑さが理解できるというパラメータと恐怖心を持つというパラメータは別だということだ。ここでは保守とリベラルという二つの傾向を抽出しているのだが、実際には4つの異なる人たちがいる可能性があるということになるのかもしれない。

脳の特性で「決めつける」ような研究には一定の危険性があると思う。「これまで、一定の心理的特性でその人の政治的志向を予測できることは知られていた。政治的志向を脳活動と関連付けた研究はあったが、脳の構造と結びつけた研究は今回が初めて」とも書かれているので、心理性をそのまま脳の特性と決めつけるのはよくないが、今回はそうした傾向が見られたということになる。

これとは別に、リベラル脳は複雑性への対応能力が進化の結果であるという研究結果もある。こちらでははっきりと「あたまがいい」人が「複雑な状況に対応した結果」がリベラルさだと言っている。

つまり、保守的な人というのは「複雑さに対応できない頭が悪い人だ」ということになる。頭が悪いので複雑な状況の処理ができないというわけだ。そこで情報を刈り込んで陰謀論に近いようなストーリーを組み立てたり、物事を白黒で判断したがるのではないかと思いたくなる。

ただ政治的指向性と知能を関連づける研究には批判も多いようだ。このリンクではIQテストとカナザワ氏が考える「頭の良さ」は必ずしも相関性がないのではないかという批判が紹介されている。

この二つの論文の紹介からわかるのは、どうやら複雑さの理解ができないことが保守的な傾向に関係していることは確かなようだが、それがなにに由来するのかということはよくわかっていないということになる。そして「複雑さに対処できない」ことを「頭が悪い」と規定すれば、保守派は頭が悪いということになるのだが、必ずしも入試で良い点を取れないというような意味ではないということにもなる。

いずれにせよ、保守と呼ばれる人たちの単純な思考の組み立てを見ていると、複雑さの処理に困難を覚えている人や自分のもっている概念を更新することに著しい困難さを覚える人が多いということはよくわかる。安倍首相の政治概念への理解度の低さや対人能力の低さなどを見ると、彼が複雑さに対応できていないことは明白だ。彼は民主主義の仕組みについてもよくわかっていないし、米・中・露・韓・朝鮮の変化にもついて行けていない。

だが、彼は同時に複雑さが見えないので、物事を単純化する能力を持っているともいえる。複雑さに対応できる人は複雑さをそのまま扱うので情報を刈り込むことなく他者に伝える。いわゆるリベラル勢力の主張が広がって行かないのはこのためだろう。彼の言っていることの方がよくわかると感じる人が多いのだ。

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建前と本音の分離すらできなくなった日本の議会制民主主義の混乱




アメリカでハワード・シュルツが炎上している。独立系候補として大統領選挙に出ようとしたことが反発されているようだ。

アメリカは民主党と共和党の中でコンテストを行い、最後「ガチンコ勝負」で最終決戦をすることになっている「二大政党制」の国である。キモになっているのは衆人環視の中で戦うということである。つまり、裏ネゴができない国なのだ。

イギリスも同じようなところがある。議院内閣制なので大統領選挙はないが庶民院は単純小選挙区制なのだそうだ。最近では選択肢がないということで比例代表制が必要だという人もいるようだが、これはイギリスでは難しいのではないかと思う。

イギリスは(国政レベルでは)まずマニフェストを決めてその良し悪しを2つ絞って良し悪しを決めさせるという制度になっている。そしてこの約束には極めて強い拘束力があるようだ。例えばリファレンダムで「EUから離脱したい」と決まったら、とにかくその結論は大切にして条件交渉をし、その条件交渉が決裂したら「とにかく決められた通りにEUを離脱する」という流れになりそうである。一旦決めたらやるのがイギリスなのだ。

アメリカの事例だけを見ていると、アングロサクソン系は裏ネゴができないのではなくしないだけなのでは?と思えるのだが、イギリスは本当に土壇場の当事者間調整ができないらしい。

Newsweekによるとイギリス議会はEU離脱議論では膠着状態に陥っており、このまま2019年3月29日にハードブレグジットやむなしという状態になっているようだ。ブレグジットはこのまま突き進めばかなりの不都合が予測される。確かにリファレンダムの結果はあるが、それが通らないとなれば当事者間でまあまあなあなあにしてもよさそうである。でもイギリスはそれができない。議会が一向にまとまらないのである。

ここから次のようなことがわかる。

  • イギリスは表の契約を重要視し、議論をオープンにしたがる。
  • 表の議論の結果は、あとで不都合がわかっても遵守される。
  • 個人の決定が重要視されるので、政党執行部主導によるインターナルな議論(裏ネゴ)がまとまらないことがある。
  • アメリカまで含めると、候補を二つに絞って民意を問うのが一般的。選択肢を多様にしすぎると民意が割れて最終的に割れなかった人たちが票を総取りすることがある。するとまとまれなかった多数派が不満を持ち社会が不安定化する。

同じように「個人主義」と見なされがちなドイツでは違った方法が取られる。ドイツは表だった契約で選挙が行われるが、そのあとで連立交渉が行われる。ここで政策の妥協が起こるのだが妥協の結果は公表されている。つまり、イギリスのようにいったん結論を決めたらそのまま突っ走るというようなことはせずに「結論を決める枠組みの交渉」に時間をかけるのだ。アングロサクソン式とは逆になっている。ロイターによると妥協はポストの配分で決まるようだ。BBCによると、どうしても納得できないことがあると、連立離脱を行うとのことである。

  • ドイツも契約を重要し、議論をオープンにしたがる。
  • 表の議論の結果は大枠を決めるだけで、細かい点については妥協と調整が行われる。この妥協も公表される。
  • 表の約束が維持できなくなると、再び選挙が行われる。
  • 有権者は多数の候補の中から自分にふさわしい人たちを選ぶ。

ここから現代の日本について考えてみたい。自分たちの国なので細かいところが目に入ってしまうのだが、割り切って丸めてしまいたい。日本は表向きの約束(マニフェスト)と裏の調整(利権配分)を分けて考える傾向にある。また、多数派が利権配分権を握ってしまい少数派が排除される。すると少数派は意思決定に携わる意味を失ってしまうので、意思決定の妨害を始める。このため本質的にアイディアのコンテストができない。

  • 日本は契約を重視せず、表の議論と裏の議論を分ける。
  • 表向きの議論は意思決定の正当化のためのキレイゴトという役割を持ち、受け手もそれがわかっており、裏の利害交渉とは明確に区分される。
  • 裏の議論はかなり緻密に行われる。
  • 裏側では長期的関係性を配慮した妥協が起こるが、違いが表面化すると妥協ができなくなり、膠着状況に陥る。
  • 個人の意思決定は重要視されず、個人は組織の損得(組織としての裏の決定)に支配される。
  • 有権者は自分属する集団の利益に基づいて判断し、表の議論を信用しない。日本人は利益集団以外の公共や社会を信じないし、内心がないので公共の名の下にまとまることはできない。

もちろん、利益共同体が崩れてゆくに従って日本にも社会を作るべきだという機運はあった。そこで、日本にも表向きの約束事に沿った選挙をしようという動きにつながってゆく。それがマニフェスト(コトバンク)である。

しかし実際には有権者は「絵空事である公共」のマニフェストを読まず、民主党の藤井裕久氏も「どうにもならなければごめんなさいといえばいいじゃないか」と吐き棄てた。大蔵省出身の官僚であった藤井は選挙の約束など単なる飾りごとであり実質的な意味はないと考えたのだろう。確かにそうなのかもしれないが、それは言うべきではなかった。

もともと、日本人は表向きの約束を信用しなかったが、かといってそれを無意味だと思っていたわけではなかった。すくなくともリチュアルな意味合いはあった。しかし、あからさまな約束破りが起き、野田佳彦が「結局消費税しかない」と言ったことで儀式的な神聖さもなくなった。その時にはわからなかったが、この6年で劣化はさらに進んだ。

なんでも言っていいなら何を言っても良いということになり、マニフェストは壮大な願望リストになった。そればかりかその願望リストに現実を合わせるようにさまざまな嘘が強要され、あるいは自発的に嘘をつく官僚まで出てきて現在に至っている。

今、国会で安倍首相が「日米関係は私とトランプ大統領の個人的な信頼関係に基づき未だかつてなく強固なものになった」と読み上げている。これに合わせた形で様々な官僚のステートメントが書かれ、現実の不具合は全て語れなくなってしまった。また、北方領土という言葉は使わないとロシアに内密に約束してしまったため、国会で安倍首相はそれが言えなくなっている。このように表向きの言葉が利害調整を阻害し、利害調整のための言葉が表の言葉を縛る。そしてその証明のしようのない嘘を「嘘だ嘘だ」と騒ぎ立てる野党が国会の時間を限りなく浪費しているという具合である。

このようにして、表の議論が裏を縛り裏の議論が表を縛るということが起きている。我々は本音と建前の分離を旧弊でアジア的な後進性だと思っていたわけだが、欧米式の「進んだ」国家統治方法を取り入れられるわけでもなく、かつての「旧弊な」組織運営すらできなくなりつつあるのである。

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日本人には内心がない

このところ「日本人には内心がない」という話を書いている。後述するように内心という概念を入れると厚生労働省の不正の問題の議論は簡単に整理ができる。だが、みなが功利によって動いているので、国会運営は部外者から見ても見ても大混乱している。だが、日本には内心という言葉がないので、議論が混乱していることにすら気がつく人は多くない。




「内心」についてもうちょっといい用語がないかなとは思うのだが、思い当たらないので具体的なことを説明することにした。

小学校か中学校かの英語の授業で先生が怒っていた。英語のテストでRとLを混ぜて書いてきた人がいるのだという。何の単語かは忘れたがrabbitとlabbitみたいに書いた人がいるのだろう。最初は何を怒っているのかよくわからなかった。先生の説明するところによると、テストは自分の理解力を計測するものであってスコアを競うものではないのだから、自分が「信じているもの」を書くべきだというのだ。この先生は英語圏のシスターだった。

この「自分が何を信じている何かに基づいて行動する」というのは英語圏の人たちによくある指向性である。英語はこれをfaithと表現することが多い。だが、このfaithには日本語の適当な訳語がない。辞書には複数の訳語が載っている。ラテン語由来なのだそうだが「相手への信頼」と「自分への忠実さ」という意味を合わせて持った概念である。

6年+3年はこれが当たり前だと思っていたのだが、県立高校に入ってそうではないということに気がついた。日本の教育だとテストでは「より良い点数を取ること」が目的になる。だから「わからなければ保険をかけておいてRとL」を混ぜこむということは容認されるのではないかと思う。日本人は「個人の内心の忠実さや正直さ」はあまり重要視されず、したがって相手が「自分らしくあること」も許容しない。代わりに求められるのは「結果を出すこと」であり、それがチームの結果だとなお賞賛される。

ここに、いつも戦争反対を唱えており、授業で白土三平を勧めてきた現代社会がいた。しかし、彼の頭の中にもfaithはない。そこで「憲法では保証されている」とか「欧米の進んだ国ではそうなのだ」というように外の権威を持ってきて民主主義の正当性を説明することになる。今にして思えば「日教組的な」思考だと思うのだが、自己の選択を肯定するにおいても外側にある権威を持ってこないと語れないのが日本人なのだ。

しばらくはこれは特殊な経験なのだと思っていた。カトリックのミッションスクールと世間は違うはずだからである。が後になって、これが英語圏で一般的な思考なんだなと思うことがあった。

英語で受けたの倫理の授業で、doing things right と do the right thingの違いを話あった。経営の世界にはまず「物事をきちんとやる」というマネージメントの「doing thing right」があったが、やがてビジョンを持ったリーダーという概念が生まれる。マネジメントとリーダーシップの違いについては日本語でも解説記事が出ている。

英語だとこの二つについて議論が成り立つ。人によって理解は様々である。もちろん、どちらが正しいというわけではなく解釈も人それぞれのようだが、これは「何をすべきか」という内心がないと成り立たない議論だろう。マネジメントの文脈ではこの後「何をすべきかという倫理観がなければ組織運営は成り立たないが、それは暴走することがある」という話や「社会正義はときにコンフリクトする」という話が出てくる。このレベルになると、心理学や哲学の知識が必要になる。さらに、エンロン事件の反省から企業の社会責任(コンプライアンス)への理解が強化されて現在のような倫理学体系ができている。

ただ、日本にはこうした議論がない。そこでコンテクストを隠して質問をするとこのような「議論」になる。

3名の回答者のうちドラッカーを読んだことがあるがうろ覚えだった人は「英語の訳し方が間違っている」とコメントで批判してきた。ここから日本人のネトウヨがどのように誕生したのかが見えたように思えた。西洋にある民主主義の正解がわからない人がその恥ずかしさを隠しすために始めた議論がネトウヨ議論だと思うのだが「正解がわからない」というのは日本人にとっては絶対に隠しておかなければならない秘密なのだろう。そこで知っていて理解ができる「事実」を並べ立てて対抗するのである。

もう一人はちょっと深刻なのかなと思った。彼はキリスト教の牧師である。faithを信仰としてくくってしまってもなんら問題はないと思うのだが、日本人は個人の正義はわがままだと捉える。だからこの人はマイケル・サンデル(とNHK)という正解を持ち出して、正義感を整理する方法について語り始めた。日本人は個人の正義は社会という装置に通さないと「わがまま」担ってしまうと考えるのだろう。そして、必ずしもfaithという概念がキリスト教由来ではないことがわかる。これは多分極めて欧米的な考え方なのである。

「日本人に内心がない」といった時、それは空想上の麒麟や哲学上の難しい概念を扱っているわけではない。だが、個人の信条を単なるわがままと考える日本人にははこの内心を語ることはできない。日本人は集団なしには個人が成立しないと考える国なのだ。

例えば統計の議論は次のように整理できる。そもそも統計をきちんと取るという「doing things right」があった。そして統計の職員は個人の倫理観を頼りに「正しく」ことに当たるべきであった。そしてガバメントはその「正しくことをなす」人を応援すべきだ。ところが、規則に沿って正しく統計を取っていてもその規則が「正しく」設計されていないと全体としては機能しないし、結果は「正しく」解釈されるべきである。これはマネージャーではなくリーダーの仕事になる。これが「doing right things」になる。そして有権者は「自分たちの信条や心情」を反映した政治家を「できるだけ正確に」見極める必要がある。

この議論があってはじめて「ではその正しさ」は絶対に揺るぎのないものなのかという議論が生まれ、その先にマイケル・サンデルのような「正義には幾つかの組み立て方がありそれはコンフリクトすることもある」という議論が出てくる。だが、これはもともと「正しいことをなすべきだ」という最初の動機があって生まれる議論である。日本にはこの「個人の信条や心情」がないので、議論がそこから先に進めないのである。

この統計の問題から日本社会の劣化を語ることもできる。もともと戦前の日本の統計は恣意的でデタラメなものだった。経営でも統計の重要さを認識した人はいなかった。最近語られるようになった吉田茂がアメリカの指摘により統計を見直したという話(日経新聞)とデミング博士の指摘により統計に基づいた経営が行われるようになったという話はリンクしている。つまり、日本は「きちんと測る」ことを覚えたことで高度経済成長が可能になったのだ。

しかし、日本はこの後に入ってきた「ビジョナリー」という経営哲学を学ばなかった。1980年代・1990年代といえば日本の経営が世界からうらやましがられていた時代であり、多くの人が「もう欧米から学ぶことはない」と考えていたのである。だが、この慢心から劣化が始まり、個人の信条を基に正しいことをなすということができなくなり、やがて結果も出せなくなる。

すると、結果として戦後に体得した「正しい統計を出す」ということすらできなくなりつつある。つまり、doing right thingsができなくなった先にあったのはdoing things rightの喪失だったのだ。

この内心のなさは普段はそれほど問題にならない。すでに見てきたように、問題になるのは結果的に勝てなくなった時である。全ては結果によって正当化されるのだから、結果が正当化されないと行動がすべて正当化されなくなってしまう。正解がわからなくなるとどうしていいかわからなくなるので、なかったことにしたり、泣き叫んだりということが起こる。

そして、国会で起きている選挙をめぐる争いは「内心」のなさから泥沼化しつつある。

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DV市長を社会的に擁護する人たち

泉房穂明石市長が辞職した。部下への暴言が原因だそうである。が、フジテレビが曲がりくねった市長擁護論を展開していた。これをみてDV夫などの「有能な人たち」が最終的にとんでもないことをしでかすまで捕まらない理由がわかった気がすると思った。フジテレビはこの種の擁護論を通じてDV被害者の蔓延を助長している。




フジテレビの朝の番組はこんな感じで市長を擁護していた。

  • 明石前市長は部下に暴言を吐いた。とんでもない。
  • でも、市職員も長い間仕事をしていなかったらしい。これはこれで悪いんじゃないか。どっちもどっち。
  • 切り取られた報道がなされた時市長へのバッシング電話が鳴り止まなかったが、市長が辞職を決断すると擁護論の電話が増えた。「暴言」の前後も発信されるようになってきたからだ。これがグラフだ。
  • 市長はいいことをたくさんやっていて、子育てしやすい街ができつつある。「みんな」喜んでいる。
  • でもやっていることはやっぱりパワハラである。
  • 今市長選挙をやっても統一地方選挙までに任期しかない。、今やる必要があったのか?お金の無駄ではないか?

いっけんパワハラ市長を避難しているようだが、実は「巧妙な擁護論」になっている。パワハラはいけないと断罪して見せつつも「いいこともやっていましたよ」と伝える。そして、やることをやらなかったのに非難する職員にも落ち度はあったのではと言っている。高齢者にも子育て世代にもトクな政策が多いのだから、別にやることをやっていなかった市職員がパワハラに遭ってもいいんじゃないかと言っているわけだ。が、思って立ってはそうは言えないので「パワハラ批判」は練りこんでいる。だから、市民の判断で再選されたら「禊は済みましたね」と言えてしまうわけである。

これはよくある「どっちもどっち」論である。セクハラやレイプだと「女性にも落ち度はあったのでは?」という論になる。そしてこれはレイプやDV被害を助長する。告発した方にも落ち度はあったのでは?として告発者が非難され声があげられなくなるからだ。この弊害は前に分析した。どっちもどっち論は判断停止でしかない。社会が判断停止した結果「被害者」が泣き寝入りすることはない。もっと巧妙に「世論に訴えて相手の首を取る」人が増える。つまり、被害者が「弱者でいるくらいなら加害者になった方がマシ」と考えるのである。

で、これがいいことなのか悪いことなのかという話になるのだが、少なくとも泉さんは市長は失格だろう。組織を運営するためには適切に権限移譲して相手を説得したり納得させる技術が必要である。この人はそれができていないし、できていないことに気がついていない。純烈の友井さんと同じ傾向がある。DV加害者は基本的に反省ができないのだ。泉さんは能力のあるいい人だったのかもしれないが、自分一人でできる仕事をやるべきだ。

だが、泉さんが組織運営に向いていないからといって「絶対的な悪人だ」と主張したいわけではない。この明石市長は明らかに、止むに止まれぬ「他人の願いを叶えてやらなければならない」という外面の良さを持っている。自分の所有物である市職員というのはその意味では「自分の切実な欲求を叶えるための道具」なのである。

こうした行為が全てDVにつながるものではないのだろうが、番組の中ではゴミ箱を蹴ったりパーテーションを破壊することがあったと言っている。鬱屈を正しく言語化できず、モノを破壊することで解消していたのだろう。つまり彼の人気を裏付ける行動と破壊衝動はセットなのだ。だが、これは取り立てて珍しいことではない。

自分への不甲斐なさを「所有物」や「部下」や「家族」にぶつけるというのも人間の保護本能ではないだろうか。自分を蹴ったら痛い思いをするからそれはできないのだ。

前回、野田市の小学校4年生が父親に殺されたという事件を見た。FNNの報道によるとこのお父さん(栗原勇一郎)は外面がよくその反面妻や娘に暴力をふるっていたことがわかっている。イライラが解消できず自分の所有物である家族に破壊衝動を向けていたのだろう。しかも「自分がいじめているということがわかったら大変なことになる」と思い、異常な粘り強さを見せて市教育委員会から調査書のコピーをゲットしている。

栗原氏は多分社会では有能な人として通るはずだ。人当たりが良く信念もあり、行動力もあるからだ。だが、この議論は「火はいいものか悪いものか」というような話でしかない。適切に取り扱わなければ大変なことになるが生活には欠かせない。

もっとも、こうした乖離した欲求がいつも破壊衝動に結びつくというわけではない。

安倍晋三というのは評価が真っ二つに別れる首相である。一部の人たちからは熱烈に支持され、別の人たちからは蛇蝎のように嫌われている。だが、この乖離した評判は政権内部に取り返しのつかないダメージを与え続けているという意味ではとても有害である。

厚生労働省はすでにやる気を失っており、官邸が都合が良い情報を出せといえば統計を操作し、その結果統計の取り方が間違っていたということが指摘されると「ああ、そうですね」という。6年間の安倍統治で官僚組織の良心が破壊されたからなのだろうが、これが回復するにはおそらく長い時間がかかるはずだ。彼らは賢かったのでDV被害を受けつつ適応した。それが人格の離脱である。厚生労働省は魂を失ってしまったのである。ボールペンの調達すらままならなかったということで、一部には民主党が予算を絞ったせいもあるのではと言われている。彼らは長い間様々な人たちから叩かれていたことになる。やったことは悪いが、かわいそうとしか言いようがない。

もちろん、安倍首相が悪の政治家であり意図を持って国を破壊しようとしていると主張するつもりはない。むしろ、安倍首相は偉い人(トランプやプーチン)に気に入ってもらいたい、おじいさん(岸信介)に褒めてもらいたいという一心なのだろう。だが、そのためには何をやってもいい、なんでもやらなければならないという止むに止まれぬ気持ちがこの惨状をもたらしている。

安倍首相の影を伝えているもう一つの存在は「何をしてもよいし、何のお咎めも受けない」という身内の人たちである。県知事選を無茶苦茶にしている副首相、静岡県の選挙事情をぐちゃぐちゃにしつつある幹事長、問題のある人たちに接近しては国会運営まで混乱させた夫人などがいる。安倍首相が歩いた後には、DVに適応して何も感じなくなった人、何をやっても許されるのだとして我が物顔に振舞う人、この人は侮ってもいいとして取引を吹きかけてくる人、そして怒りを持った人を生み出す。家庭なら崩壊家庭だし、学校なら学級崩壊である。

問題は、精神的に不安定さを持っていた人たちが社会規範によって「望ましい」という方向に矯正される段階で心に二つの統合できない気持ちを解消する機会を失うという点にあるように思う。つまり弱さを見つめて対処するのではなく補強を測ってしまうのだ。それがどんどんエスカレートしてゆくうちに「身内」を巻き込んで悲劇的な方向に転がってゆくというストーリーである。

明石市長が良い人なのか悪い人なのかということは決められない。だが、明らかに言えるのはこれがお定まりのコースをたどっているということだ。破壊衝動が止められなくなれば誰かが犠牲になるだろうし、そうでなければ組織が次第に目に見えて無力化してしまうはずである。だが、内心がなく損得勘定でしか決められない人達はそれをやすやすと見逃し、被害を助長してしまうのである。

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アイヌ系日本人という議論

今回はあまり細かいことがわからずに書いている。小林よしのりという漫画家の人がアイヌ系日本人は認めていいがアイヌ民族を認めないといっているそうだ。これにアイヌ民族擁護の人たちが噛み付いていた。




これもいわゆる議論の自動化の類である。

この小林の議論自体は議論を作り需要を喚起するというマーケティングの一環だと思う。解決すべき問題があるわけではなく、戦うことそのものに価値があるのだ。が、議論の根本になっているところは面白いと思う。それは民族国家というあまり使われなくなった概念だ。

もともと西洋から近代国家の概念が入ってきた時、その国家とは民族国家だった。ここから出発すると日本という枠組みに参加できるのは日本民族だけということになる。

日本は帝国として拡大する過程で普通の国とは逆の経路をたどることになってしまった。よその国は民族という概念が曖昧だった時に帝国が形成され、その内部に民族という塊を作ってゆく。だが、日本は民族概念と帝国概念を同時に作る必要があった。そして、結果的に日本人が何かということも天皇が何なのかもうまく定義できなかった。

日本がアジアの民族をまとめる国になり天皇がそれを主導するのか、それとも朝鮮民族を日本民族に統合するのかということが決められなかった。そこで今でも日本に住んでいるが多くの日本人と民族的に違うという意識を持っている人たちをうまく扱えない。だから「なかったこと」にしたいのだろう。

前回、伊勢崎市議の「人権は相続権だ」というめちゃくちゃな議論を見た。これによると、先住権が支配民族であるという要件になる。がこれをアイヌ人に認めてしまうと日本は日本民族だけの国ではなくなってしまう。ということで、あの界隈の人たちはアイヌ系というのは日本人の亜種であり、民族ではありえないと言いたいに違いない。結論に合わせて都合の悪いデータを消してしまうというのはリベラルに言わせると「隠蔽体質」だが、保守の人たちの「理解可能なものだけを取り扱う」という情報処理上の特性を考えるとこう考えるしかなかったということになる。

しかし、彼らがどのような理論武装をしようと、日本は日本人だけのものではなくなりつつある。相撲では日本人はモンゴル人に勝てなくなり、日本出身横綱という苦し紛れの区分が作られる。テニスでは明らかに見た目が異なり日本語もあまり十分ではない大坂なおみ選手が「日本人初の」というタイトルで語られた。だが、日清食品は彼女の異民族性を消そうとして、彼女の肌の色を白く塗ってしまった。工場には中国人労働者が溢れ、工事現場では聞いたことのない言葉が飛び交っているが、我々はこれを見て見ぬ振りをしている。安倍総理はいままでと何も変わりませんと説明し、自分を世話してくれる介護人材がいなくなることを恐れている高齢者は安倍政権を支持し続けている。

もし仮に、小林支持者に議論を挑まれたとしたら、私は勝つ自信がない。知識も十分ではないし、彼らのように嘘をつき続けなければならないというある種の切実さも持っていないからである。さらに彼らはすでに決まった結論を持っていて不都合なデータは決して受け付けようとせず、次から次へと様々な問題を持ち出しては大騒ぎを続けるだろう。検索可能な情報は豊富にあるのだから、ありとあらゆる嘘がつける。

彼らは例えば論敵を醜く描くことで誰かを貶めることには成功するだろう。だが、彼らが議論に勝ったからといって、日本が外国人依存に陥りつつある状態が変わるわけではない。もはや「日本民族」だけでは、日本人が大好きな競争に勝ち続けることができなくなりつつある。それは彼らにとっては負けだが、鏡を見ない限り彼らは決して負けない。

こうした議論は昔から行われているが着地点がない。それは我々が日本人の中でだけ議論をしているからである。自己意識というのは他者との比較の中で芽生えるのだから、我々の中でいかに理想のわたくしたちという像を作ってもそれはファンタジーにしかなりえない。恐ろしいのは「内心(自己内処理)」を意識しないあまりに、無意識の前提として取り入れた「民族国家」という概念が今も「伝統」として錯誤されているという点だろう。主権国家=民族自決という原則は今ではそれほど実効力のある概念ではなくなりつつある。にもかかわらず日本にはまだ民族国家論を前提にして不毛な論陣を形成し、無駄に他の人たちを傷つけようとしている人たちがいるのである。

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