日本人は実は助け合いが嫌いだという文章を読んだ。自己責任時代と言われているので「ああそうだな」と思った人もいるかも知れないし、また日本人論だろうと苦々しく思った人もいるかもしれない。
坂本治也関西大学法学部教授は「日本人は共助が嫌いだ」という国際的な調査を起点に論を展開している。ボランティアをやりたくないし興味もない、自治会の活動にも参加したくない、寄付もしたくないという人たちだ。自分たちで助け合いがしたくないなら国に押し付けるという選択肢もあるのだが、日本人は公助にも否定的である。なぜか「自己責任」を主張して問題をなかったことにしようとするのである。
ところがなぜ日本人が公助も共助も嫌いなのかという点がわからない。そこで、坂本さんは別の調査を出してきた。それが「日本人の政治嫌い」である。共助嫌いの人は政治参加にも否定的であるという相関関係があるそうだ。政治に関心がないほど助け合いにも興味がない。
まず重要なのが、ここで言っている「政治」というのは自治と意思決定のことだということだ。これについてQuoraで聞いてみたのだが大した答えは戻ってこなかった。Quoraでは毎日のように政治問題が語られている。みんな政治に興味があるはずなのに、助け合いには興味がない。坂本さんも政治というラベルを使っているのだが、実は政治には自治・意思決定・助け合い以外の領域があるのかもしれない。
Quoraで語られる政治とは日米同盟維持のために憲法を語ったり韓国を罵倒することであって、街の助け合いなどといった生活に密着した政治が語られることはない。これがいつからなのかはわからないが、昔からポリティカルアパシーなどと言われていたなあとは思う。GHQが入ってきて民主主義万歳となった少ない時期を除いて日本人は政治を自分たちのこととは考えていないと思う。
別の人からはアメリカ人も政治の話はしないという答えが返ってきた。この人が言っている政治はイデオロギーや宗教のことである。確かにアメリカ人は明らかに個人で折り合わないだろうことは語らない。ただ、コミュニティや予算の問題については積極的に発言する人が多い。つまり民主主義国家のアメリカでは「小さな政治」が語られる。そして今回の2020民主党ディベートなどでは国家の問題として「暮らし」は主題になる。前半をなんとなく聞いていたのだが中流階級の健康保険負担などについて熱心な(そして意見が激しく対立する)議論があった。
このように「政治」と言っても様々な政治がある。ここで言っている政治とは「公共・社会・住民参加」などなのだが、こうした「意思決定としての政治」は学術研究者が考えれば真っ先に浮かんでくるが、世の政治好きにとっては全く興味・関心がないテーマなのかもしれない。
日本人は社会参加に関してかなりシビアに「費用対効果」を見ていると思う。自分の意見が通りやすいパスをかなり慎重に見極める。そして普段の生活で我々の意見が集団に取り入れられることはほとんどない。だから日本人は暮らしと密接する政治に関心がない。持ち出しが多くなると予想するからで、たいていその予想はあたる。
こうなる理由は簡単だ。日本人の多くは決める側ではなく従う側に置かれるという体験だけをして一生を過ごす。例えば学校で意思決定するのは先生と先生のお気に入りの一部の学生たちである。その他の学生たちは「拍手したあとで従う側」で終わってしまう。日本人は個人主義でもないが集団主義でもない。どちらかというと寡頭制でお互いを承認賞賛するというシステムが作られやすい。
同じことは自治会やPTAでも行われる。どの会にも役員会を掌握して手放さない一部の人たちがいる。「その他大勢」に期待されているのは二等兵としての役割である。上官を賛美し下働きをするのが二等兵の役割である。だから自治会もPTAも役員のなり手がない。意識としては徴兵と同じことだからだ。
日本人が政治を嫌うのは寡頭で意思決定するからなのではないかと思う。かといって単純民主制にすると多数派と少数派が生まれ少数派は抵抗勢力になる。あるいは拮抗するとお互いに対立して足を引っ張り合う形が生まれる。日本の議会がうまく行かないのはこのためである。お互いに思っていることを言語化して共有しようという気持ちはないし、さらに言えば相手を理解しようという意思もない。
日本人は総じて親密で言語によらない関係を好むので寡頭政治に頼らざるをえない。寡頭であれば「阿吽の呼吸」で意思決定ができるからである。日本人の非言語依存の意思決定の弊害だが、これを弊害という人はいない。
記事の中にも書かれているが、寡頭制で意思決定してきた人たちもうすうすこのことに気がつきつつある。そこで彼らが「動員」をかけようとして新しい公共という言葉を持ち出した。例えば憲法に「公共の福祉」の拡大解釈を書き加えて国民を動員しようというのである。
この新しい動員はもともと公共という概念が薄かった日本人に別の感情を呼び起こす。ある人たちは「これを利用する側につけば相手に持たれかかることができる」と考える。うまくやれば相手を搾取できると考えるのである。また別の人は「これに巻き込まれれば搾取されるだろう」と考える。当然意見はまとまらない。
冷静に考えてみても、なぜこうなったのかはよくわからない。だが現実はそうなっている。現代の日本人はとにかく変わりたがらないので、共助・公助ぎらいは多分なくならないだろう。自己責任社会は当分続くことになるはずで、それは「小さな政治」ぎらいを伴うはずである。面倒だから考えない、そして考えないからもっと面倒になるという悪循環だ。
政治の選択肢は無秩序に広がる自己責任で不安が増してゆきそれが経済不振にまでつながる世の中と、公助という名の下に責任を誰かに押し付けるという過負担な社会の二択だけである。だが、日本人はそれに抵抗しない。自発的に助け合うのは嫌だからだ。