成田市議会エコボトルといじめの構造

成田市議会でマイボトルが禁止された。特定の人を狙い撃ちした陰湿なイジメだなあと思った。日本の閉鎖的な村落的構造がよく表れている。日本人は話し合いができないばかりか議論の空間をいじめに利用してしまうことがある。古い日本人にとっては問題解決より体面の方が重要だからだ。




発端はアエラの記事だった。記事は「市民からの苦情」でペットボトルはみっともないということになったと伝えている。ところが、結果的にペットボトルの飲み物で統一されてしまった。これは一貫性のないおかしな議論だ。途中でマイボトルの話も出てきているが「色や形が統一できない」という理由で却下されている。

この記事は中空がぽっかりと空いている。新聞は事実しか書けないので証明できないことは書けないということなのだろう。日本ではこれを「炎上」が埋める。中空が明確であるほど炎上が起きやすくなる。今回の「炎上」は「これって明らかにいじめですよね」ということだ。

まずこの議員さんは緑の党というところに所属している。マイボトル・エコボトルはこの議員にとって中核的なテーマだ。他の議員は利益誘導に興味があるのだろうからおそらく市民団体系の人とは話が合わないだろう。さらに、この議員さんはコンパニオンを呼んでお酒を注がせることを何回も注意してきたらしい。個人ブログで見るとそれがよくわかる。これが男性中心の議会の気持ちを逆なでしたんだろうなあと思う。

成田市議会の構成を見ると女性が3人しかいない。一人は与党・一人は共産党・そしてもう一人は緑の党である。共産党は仕方がないが古い男性社会で女性ができることは二つある。一つは男性のマスコットになる道で、もう一つは男性以上に男性らしく振舞って許しを請い続けることだ。つまり女性であるということはそれだけで「いけないこと」なのであり、それを払拭するためには男性以上に尽くさなければならない。

「この市民団体上がりの女性」議員が浮いていたんだろうなあということが予想できる。

こういう人に「ガツンという」にはどうしたらいいか。みんなでルールを作ってその人の大切なものを奪ってしまえばいいわけである。俺たちは認めないぞという意思を示すのだ。そして、異議を申し立ててきたらそれを無視しつづける。男性社会を賞賛する女性以外は必要ないということを見せ続けなければ大変なことになるし、相手の苦痛を見るのも楽しい。

こうした「聞こえません・異議は認めません」攻撃も政治課題と称した少数者いじめではよくあることだ。Twitterでは韓国人をいじめたり、アイヌ語などないといって批判者をあぶり出して狩るという行為が常態化している。こういうのは理不尽であればあるほどよい。

古い男性社会も「コンパニオン」のような問題に正面から反論するのは難しいということはわかっている。だからこそ政治的正しさを押し付けてくる面白くない人に対する意趣返しにいじめを利用する。ここでできる最大の防御は感情的に反論しないことだろう。

誰が考えたのかは知らないがそのプロセスは念入りだ。意思決定はできない古い日本人にとって何も決めないといういじめは得意分野である。市議たちが「あの女はけしからん」「なんだあのいけ好かないボトルは」という話になったのかもしれないのだが、そうは言えないので「市民から苦情があったということにして」「みんなで決めたことにしよう」となったのかもしれない。ルールを決めて動かさないことにしてしまえばいいのである。

こうしてどんどん何もできなくなってゆくが、それは市議たちにとってはどうでもいいことなのだろう。自分たちは選ばれた議員様なのであって、市民の問題など市が自己責任で考えればいい。この成田市議会はおそらく「女性の働き方や育児」のような問題も「環境問題」も扱えないだろう。

何も決めない議会ではわけのわからないルールだけ増えてゆく。「市が用意したペットボトルから紙コップで飲む」というルールだ。こうしたわけのわからないルールはやがて一人歩きして修正が効かなくなる。ところが我々はこうしたルールに慣れてしまう。そして自分で何かを考えようとするのをやめてしまうのである。

つまりこの成田市議会のデメリットは新しい価値観に対応できなくなり自分で考えようという気持ちを奪うという点である。そしてその結果被害を被るのはリーダーたちではなくおそらく一人ひとりの市民だろう。彼らは体面を守るために市民を犠牲にしている。

さらに議題ではなく人に注目するというのが閉鎖されて時代に取り残されつつある人たちの特徴だということもわかる。閉鎖空間に居続けたおかげで周りの価値観が受け入れられなくなり自分たちの短期的な体面の問題しか考えられなくなっている。おそらく様々な政治議論と称されるいじめが個人攻撃なのはそのせいだ。

今回はペットボトルについて扱っているように見えるが、おそらく市議たちの関心はこの「けしからん女性議員」にあるはずで、おそらくプラスチックや環境をまともな政治問題とは捉えていないだろう。彼らが気にしているのは国の補助金をどう支持者に配るということと自分たちの威厳だ。村で生きて行く以上それ以上に大切な政治問題は彼らにはない。議会という村が居心地がよいものであるならば、外の世界で何が起きているかなどどうでも良いことなのだろう。

今回は成田市の問題を見たがおそらく日本にはこうした村がいくつもある。閉鎖的な村の病は人々に取り付いて意欲や活気を奪うのだ。

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日本人は正義を語ってはいけない – トロッコ問題

毎日新聞の記事で面白い話を見つけた。ある小中学校で「トロッコ問題」が大問題になったというのである。倫理学をいい加減に扱う日本人は正義を語ってはいけないなと思った。




トロッコ問題というのは、マイケル・サンデルのこれから「正義」の話をしようでも有名になった倫理学を学ぶための問題である。多分知っている人が多いはずだ。功利主義という「得をする人が多いのが一番いい選択肢である」という考え方がある。しかし、その考え方を取ると犠牲者がでる場合がある。多数派のために少数派が犠牲になればいいという議論になるからだ。トロッコ問題はそれを考えるために出される問題なのだが、最近の「民主主義=多数決」という偏った議論を考え直すためには良いツールになる。

ところが日本人はこの問題を「面倒で厄介な問題」と考える。そこで集団で圧力をかけて「考えないように」してしまうのである。これは「悪いことを考えるとそれが起こる」のでそれが起こらないように考えないようにするという言霊信仰である。「ご迷惑をおかけしました」という呪文を唱えると問題がなかったことになる。

今回は学校の校長たちが保護者に「不安を与えて申し訳なかった」と謝罪して終わりになっており、新聞もそれについては論評していない。日本人はトロッッコ問題が扱えず、したがって多数決で出る犠牲者の問題を考えることはできない。だから日本人に正義を語らせるのはやめたほうがいい。そもそも概念的な問題を扱えないからだ。

ところがよく見て行くとこの記事にはもっと恐ろしい問題が隠れている。このスクールカウンセラーはそもそもこのトロッコ問題を「よくわからない問題」と丸めているのだ。それを不安に思ったらカウンセラーに相談して欲しいという意味で使ったと言っている。これは恐ろしい告白だ。

もともと「意思決定をめぐる難しい問題を突き詰めて考えましょう」という問題をこのカウンセラーも取り扱ってみたのだろう。だがよくわからなかった。ただ心情的に「悩んだら誰かに相談しよう」ということは理解できる。ところがこの二つが結びつくと「自分で責任が取れそうになかったら誰かに相談して責任や罪悪感を分散しましょうね」と仄めかすことになる。集団主義へ生徒を誘導しているのだが、多分スクールカウンセラーはそのことに気がついていないだろう。

例えば原子力発電所の問題は一人が決めたら独裁だが、周りの人にいろいろ相談してやったから誰も責任を取らないでもかまわないということになっている。福島の漁師は犠牲になっているがこれは東京というもっと大きな消費地を助けるために仕方がなかったことであるというのが功利主義的な考え方であり、集団主義なので誰も責任は取らない。日本は犠牲者が出たら「運が悪かった・仕方がなかった」で済ませる国だが「本当にそれでいいんですか?」という議論はしないで「みんなで考えたから仕方がなかった」と置いてしまう。実はカウンセラーがやっているのはそういうことなのだ。

カウンセラーはおそらく「よく知られている問題」だから権威があるのだろうと考えていてその理解が中途半端なまま自説「自分たちに相談してください」に結びつけている。権威を利用しようとしているわけである。

ではこのカウンセラーが知的に劣っているのかと言う疑問が出てくる。実はそうでもないのではないかと思う。例えば教育勅語は「天皇はすごいんだから従うべきだ」と言う主張を補強するために四書五経の徳目を集めてきて「天皇は父親だからなんでもいうことを聞かないとね」と結びつけている。わかっていなくても、最後の「天皇に従えだけ」がわかっていればよいわけで、それが悪用されると「片道切符で敵の戦艦に飛び込んでね」ということになってしまう。戦争はみんなで決めたことで誰かが責任を取るものでもない。でも俺たちは助かりたい。だから仕方がないからお前が犠牲になってくれということである。

最初にこの話を聞いた時「トロッコ問題」を概念的に扱えないから日本人は正義について語れないのだと思った。ところが毎日新聞の記事にはトロッコ問題に関連する議論がリンクされていた。

ところがこの問題実は「自動運転」の議論に結びついてしまっている。つまり日本人はこの問題を「概念」ではなく「具象」に注目してしまうようなのだ。つまり実際に自分がハンドルを握るという想像をしてみないとこの問題が考えられない。そしてそれを行っているのが、かなりいろいろなことを知っているはずの新聞記者たちによって行われているところに病理があると言える。経験に強くとらわれる傾向を長年教育によって刷り込まれてきた日本人はトロッコ問題を原発ではなく自動運転に結びつけて考えてしまうのである。

日本人は正義について考えることができない。ここで考えただけで三つも理由が出てきた。おそらくここから脱出することは不可能だから諦めたほうがいい。

  • 具体論に落として自分の経験の範囲でしか考えられないという、具象と経験の誤謬。
  • よく語られるとかよく知られているとか、みんなが言っているという権威に頼ってしまう、権威の誤謬。
  • 不安なことを考えるとそれが起こってしまうと考える、因果関係の誤謬。

本来この話はここから功利主義批判になりコミュニティ論になるはずだ。それが政治哲学者の考える「予定」である。4つの政治哲学で今後の働き方をひもとくという記事にはそのことが書かれている。最終的にはコミュニティや共通善という話になり、日本国憲法の「公益」に関しての議論になるはずである。the common goodは憲法第12条の原文にも書かれている概念だからだ。

もちろん「功利主義などは西洋の考え方が基礎になっているから我が国は我が国独自の哲学体系で考えるべきだ」という主張は可能だし、憲法が真面目にコミュニタリアンの考え方に沿っているのかというのは検討しても良い疑問だとは思う。

だが日本人が「独自に考えよう」とすると具象化の罠に陥ってしまい概念化に失敗することが多いように思える。経験が同じような人たちが集まっているので概念化しなくてもなんとかなってしまうという事情がある。

だから日本人は本質的に憲法批判も再構築もできない。自分たちの思想を体系化して落とし込むことができないからだ。経験則に体系はないのでこれは当然のことである。

ゆえに正義が語れない日本人は憲法を自分たちの手で作ることはできないだろう。日本人にできるのはわかっている部分を経験から得られた心情に結びつけることだけで、この先混乱と形骸化が進むはずである。一部教育の問題(これは十分改善できる)が含まれているわけだから、惜しいといえば惜しい話である。

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他人と適切な距離が取れない人たちとその対処法

最近Quoraで疲れるなあと思うことが増えてきた。コミュニティが小さいのでどうしても普段接触する人が限られてくる。これが疲れるのである。そこで疲れた時の対処法も含めていろいろ考えてみた。




人が自分の意見を押し付けてくるのはその人が多様な価値観を理解できないからだ。押し付けを拒否するためには自分は異なった考えを持っているということをあらかじめあきらかにしておけばいい。

どうやら多くの人は「個人の考えは様々ある」ということはわかっているらしい。つまり完全に意見が合致する人などいないということが頭ではわかっているのである。だが、それが認められない人が結構いる。わかっていてもその前提で行動しないのである。

例えば、世の中はリアリズムであると考えている人がいる。それはよいのだがアジア人や社会主義に対して強力な蔑視感情を持っており、この部分だけコンパスがおかしくなる。つまりバイアスがかかっているのだ。私は白人・ヨーロッパ社会・資本主義経済を盲従して劣等感をかかけている日本人もたくさん知っているので、盲従する人と威張りたがる人がペアに見えてしまう。なので、そこには賛同できないわけである。

交流期間が長くなるに従って彼らは「韓国は民主主義の機能しないおかしな国であり中国共産党は悪の帝国である」という信仰告白を強要してくるようになった。確かに韓国の民主主義には問題があるが、アメリカやイギリスの議会の混乱も相当なものなんだけどなあなどとかわしているうちに相手は苛立ってくるのだ。

ではなぜ苛立つのだろうと考えてみた。第一の理由は私があまり自分の歪みを相手に伝えていないからなのだと思った。日本人はなぜか自分は中立だと考えることが多い。だから、中立そうに見える相手に自分と同じ歪みを強要してしまうのである。

今回この解決が簡単だったのは最初からキャラを作っていたからである。つまり最初から変な人だということがわかっていれば相手も納得しやすい。若年者が高齢者に対して「その考えは古臭い」という理由もわかった。線を引いて村を分けているのだろう。中には最初から「私は不思議ちゃんです」などといってかわしてくる人もいる。

次にこうした歪みは支配感情に基づいていることが多いようである。自分ひとりではおとなしいのに、民族や国家を代表すると急に体制側に立った物言いをする人がいる。支配側に立っていると思われたいのだろう。そしてそれを否定されると「自分の支配者としての資格」を疑われていると感じてしまうのだ。

こういう人はスーパーマーケットで観察できる。一人だとおとなしいおじいちゃんが妻を連れて買い物に来ると途端に乱暴な言葉遣いになるというのをこの前目撃した。支配欲というのはある種の人間にとっては本質的なよりどころなんだなあと思った。もちろん女性も同じような支配欲は持っているだろう。

第一の点は克服可能である。つまり自分で「私は中立ではありませんよ」と宣言して仕舞えばいい。第二の点はどうしようもない。これは問題を引き起こすだろうが関わらずに放置するしかない。

村には価値体系が一つしかないので「みんなと同じことを考えていること」が中立の価値体系である。日本から見ると中国共産党は「異質な悪」なのだから「良かれと思って」あれは悪だと言ってくるわけである。彼らにしてみればお掃除をしている感覚なのだろう。汚れた思想があればそれは取り除かれなければ安心して暮らせない。

ただ、そうでない人も増えている。だからこそ余計に村人気質が浮き上がって見えてくるようになった。

SNSに一定数いる彼らは遊牧・放浪型と言っても良いのではないかと思う。つまり移動を前提としている人たちだ。移動を前提としている人たちは意見の相違は恐れないしそもそも気に留めない。情報交換は旅を続ける中で危険を察知するためには重要だが価値観を全て一つにする必要はない。つまり情報交換に広がりが感じられるがお互いに縛りあいはない。なぜならば自分が移動できるからである。定住型から見ると逃げ場があるということになるが、移動型の人にはそんな感覚はないだろう。

この移動を前提とするかしないかというのは大きな違いを生み出しているようだ。そして私が「日本人はXXだから」と決めつける時、定住型と移動型について語っていることがあるんだなと思った。日本人の日本性というのは突き詰めれば「移動を前提としていない」ということなのかもしれない。島国の狭い居住空間で暮らす人たちの智恵である。

彼らには「私は村には住んでいないし偏った考え方を持っている」と宣言しておけばいい。どうせSNSは村にはならない。彼らは困った時には面倒を見てくれないからだ。日本はもう村ではない。

ここまでは合理的に説明ができるのだが、欲求としての「支配欲」は日本人の古層に残る。日本の村は強力なリーダーによって統制されているわけではなく村人の相互監視によって成り立っている。そのため日本の民主主義はそれぞれの家の長が支配者意識を持って集団を相互監視しているという姿になりやすい。普段はこの縄張り意識が表面上の治安の良さを作っている。みんなで空気を読んで当たり障りのない暮らしを作っているとも言えるわけである。

これがある種の感情的危機にさらされた時に硬直して様々な問題を起こす。例えば反日探しというのは民衆レベルの支配欲が暴走した形である。まとまりたいがまとまりを作れないので身内に敵を探し出し「純化」を試みる。これは日本だけでなくまとまりを作れない国ではよくあることで、アメリカでは日系人・共産主義者・イスラム教徒(非キリスト教の人たちだ)などが槍玉にあげられ純化の対象になってきた。その都度反省しているが決してなくならない。

日本の場合はさらにこれが内向きになる。たまたま読んだ「愛玩子」と「搾取子」は支配欲が家族をどう崩壊させるかについてかについて観察している。息子・娘を支配したい親が好きな子供には報償を与え嫌いな子供には罰を与える。それを通して家の中で支配者として振る舞うというのである。

父親や母親が「なぜ支配欲を持って子供にしがみつくのか」という理由は語られない。つまりメカニズムはわからない。ただ、外から見ると「支配被支配」関係を明確にしておきたいと欲求だけは明確にわかる。おそらくは支配欲を通じて子供にしがみついているのであろう。子供には逃げ場がなく中には精神的に病んでしまう人もいるようだ。

本物の村を知らない日本人はおそらく原型になるエデンの園のような村のイメージを持っているのかもしれない。そしてある人は政治議論にしがみつきまた別の人たちは自分の持ち物である子供にしがみつくことによって理想の村を再現しようとする。だが、それが身を結ぶことはない。理想の村の像はおぼろげで再現することができないからだ。

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タワーマンションの混乱 – 民主主義ができない困った人たち

面白い記事を見つけた。タワマンの「一斉老化」が止められないという記事である。面白いのは他人事として観察できるからである。日本人は議論ができないのでコミュニティ管理ができない。つまり日本人は「民主主義ができない」のだ。




この話は貴重なサンプルだ。日本人が民主主義ができないというと犯人探しに変わってしまうか、そんなのは決めつけであるという反発をうむ。<右傾化>著しい日本ではよくあることである。問題が切実になればなるほど「他人に変わって欲しいが自分は何一つ変わりたくない」と考えるのが日本人だ。言い換えれば日本人は自分が先に動いて損をしたくないのである。だから外から日本人の行動様式についてみないと我々日本人は日本人を観察できない。

この記事を読むと日本人ができないことがわかる。

  • 日本人はまとまれない
  • 日本人は話し合えない
  • したがって、日本人は決められない

今回ご紹介するのは、タワーマンションが老朽化すると運営が立ち行かなくなるところが出てくるだろうという記事だ。その内容を見ると「決められない住民」という言葉が出てくる。では何故決められないのか。

タワーマンションは管理費の中から将来の改修費用を積み立てて行く。これが税金のような役割を果たしている。ただ、当初の見通しが甘く「税金」だけでは足りず将来行き詰ることが予想されているのだという。政治家が票を買うために甘い見通しを立ててあとで有権者が困って揉め始めるというのはよくある話だ。この場合は票ではなくマンションを買っている。

いずれにせよ甘い見通しを信じて人生設計した住民はどうしていいかわからない。それでもタワーマンションは上と下で収入格差があり意見がまとまらないようだ。記事には書かれていないのだが恐らく普段は上の方が偉いという上下意識があり下の人は反発しているのではないかと思う。当然「金持ちが多く負担すべきだ」という話になるだろう。また最下層には店舗も入っておりこれもまとめられない。村を原型に社会を組み立ててきた日本人はお互いの気持ちを慮りながら言語化して話し合いをすることができない。

ここで調停を求めるのだが、管理組合は「最終的には決めるのはオーナー様ですから」というような言い方をする。これは政治家や司法関係者が最終的に何も決めないのによく似ている。最終的には同じようなバックグラウンドの人たちだけであつまってバラバラに意思決定をするということが起こっているようだ。つまり、低層と高層で村が分かれてしまうのである。

もともと規制緩和でできた高層マンションにはまた運営のノウハウがない。そこで筆者は「国が入ってなんとかしてほしい」といっている。

国交省は、容積率を緩和し、補助金を投入してタワーマンションの建設を後押ししてきた。「都心回帰」の旗を振った責任があるのだから、一日も早く、ガイドライン作りを始めてほしいものだ。

タワマンの「一斉老化」が止められない…日本を蝕む「不都合な真実」

なんとなく気持ちはわかるのだが「規制緩和」というのは自分たちで判断するから好きにやらせてくださいということである。ところが日本人はここで「自分たちで判断しよう」というつもりにはならない。

住民には「主権者意識」がない。主権者はなんとかして物事をまとめて最終結論を出すという意思が必要なのだということがわかる。リスク評価と意思決定はしないのである。住民は希望は出すがあくまでもお客様気分であり経営のことは考えない。そして誰かに調停を求めていつまでもまとまらずに言い争いをする。裁定者は出てこない。誰も責任は取りたくないからである。だからいつまでも揉め続け、その間にも建物は老朽化してゆく。

多分一生に一度の買い物をした人も多いはずで、課題は切実なはずだ。しかし、それでも日本人はそうなる。本質的に「民主主義」ができないことがよくわかる。多分同じことはタワーマンションだけではなくいろいろなところで起こっているはずである。学級会くらいからやり直したほうがいいとは思うのだが、そもそも学級会運営のノウハウすらないかもしれない。

どうしてそうなるかはわからない。でもそうなるのだ。

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Twitterで絡まれたらまず3本の蛍光ペンを取り出そう

前回は政治議論のために、意見・証拠・反証・印象の4つを分析してみようという提案をしてみた。ただ、このままでは広まらないだろうなあと思う。建設的な議論をしたい日本人はそれほど多くないはずだからである。




日本人が好むのは「他人があたかもその人の意見かのように自分の意見を主張する」のを聞くことと「自分と異なる意見を持っている人がひどい目にあう」ことだけだと思う。社会が同質的な村から出発しており他者の存在を受け入れないのだ。

つまりこの3つの蛍光ペン理論を広めるために応用編を作るとすればそれは「自説を補強し」て「カラまれるのを防ぐ」ところにあるということになるだろう。特にTwitter論壇のコメンテータである我々にとって「カラみ防止」は喫緊の課題だ。なぜならばTwitterは我々の理想の村を再現してくれないし、場合によってはひどいストレスをもたらす。電車の中でスマホを読んでいて腹が立ったらまず心の中に蛍光ペンを取り出してみよう。

まず、相手の文章が「印象」なのか「エビデンスを含んでいるか」を分析する。もし印象だったら「折り合いをつけてもいいのか」「妥協できないのか」ということを決めよう。いったん飲み込んで見て数日置いてみるのも手である。反論には意外と新しい発見があるかもしれない。しかし「それでも折り合えないな」と思ったら特に相手にする必要はない。印象なので折り合うことはできないし多分説得も無理だろう。相手の経験とあなたの経験が異なっている。それだけのことなのだ。黙ってミュートボタンを押そう。

厄介なのはエビデンスを含んでいる場合である。この場合「反証」が含まれているのか、つまり批判を織り込んでいるのかということを見てみよう。もし、特定の立場を補強する証拠だけが集まっているとしたら、証拠そのものでなく取捨選択がその人の態度を表していることになる。その人の態度を変えることは難しいだろう。これは印象なので結局印象で話をしているのと同じ状況なのだ。これもミュートボタン対象だろう。

中にはわざと反論されやすい言い方をして相手を煽ってくる人がいる。その場合には「炎上商法」を問題にすべきであって、その人の歪んだ(あるいは経済的に困窮した)人格や証拠二反論しても意味がない。「嘘をついてはいけませんよ」というだけで十分なように「大切な問題をおもちゃにすべきでない」と言えばいい。これはミュートしなくてもいいかもしれない。だが、最近ではもっと派手なショーを望んでいる人がいて「裁判で訴えますよ」と一般人に脅しをかける人も出てきた。多分戦っている自分が好きなのだろう。相手するかどうかはあなた次第である。

時々、偏った情報を選択していてもそこに批判的な精神を持ち込んでいる人はいる。そういう人であれば「私とあなたの意見は違う」という地点くらいまでにはもって行くことができるかもしれない。最終的に折り合えないとしても議論ができるのはその時点からなのではないだろうか。この議論のメリットは実は相手の分析ではない。自分の意見をチェックすることである。相手の文章を分析する過程で実は自分の議論もチェックしなければならなくなる。

証拠と検討材料(法律用語では反証とは「嘘だと示すための証拠」という意味だそうなので「意見を検討するために考え直すこと」を反証と書いたのは適当でなかったのかもしれない)が含まれているとすれば導き出された意見には何らかの意味があるはずである。

あとは証拠の妥当性を評価すればいい。自分も証拠と検討材料を持っているはずなのでそれをすり合わせて行けばいいわけである。証拠そのものが重要なのであって、最終的な意見はそれほど重要ではないということと、ましてやそれを言っている人の人間性やバックグラウンドは意味がないということは覚えておいたほうがいい。

「最終的な意見」もそれほど重要ではないのはどうしてだろうか。それは議論を通して意見が変わることはお互いに十分考えられることだからである。そもそも意見が全く変わらないなら議論に意味はない。

「日本人は議論ができない」というのはこれまで諦めがちに扱ってきたテーマだった。学校教育が悪いなどと言いながらなかなかその実態がつかめなかった。だが、いったん仕掛けがわかってしまうとそれほど大した問題ではないし克服も簡単なように思える。

実は読書感想文的なアプローチ – つまり読んだものに印象をくっつけて行く – が問題なのであって、別に日本人の知性に問題があるわけではないからだ。

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四本の蛍光ペン – 日本人は議論ができないのだが解決策も簡単

4月ごろからだと思うがQuoraで政治スペースのモデレータをしている。もともとスペースというブログの後継機能を立ち上げるにあたってサンプルが必要だったということでサンプル運営を任されたのだ。多分サンプルの時期は終わっていると思うのだがそのまま居残ってしまい気がついたらフォロワーが1,200人になっていた。「フォロワーがつくのは嬉しい」と最初は思っていた。




1,200名もいるとといろんな人が出てくる。1,000名くらいから揉め事が始まった。まず表現の自由問題でカラまれた。ちょっとしたセレブ気分だななどと思っているのも束の間、先日もある人が「トリチウム水を海に放出するべき」という投稿を提出した。ずいぶん強引な記事だなと思っていたのだが、今度はそれを名指しした上でカラんでくる人がでてきた。一応モデレータなので仲裁したほうがいいのだろうか?と思い、まずは読んでみることにした。

まずカラんできた人の文章を読んだ。要するに「気に入らない」と言っている。これは簡単だなと思った。要するに読書感想文のようなもので「〇〇くんの意見はいけないと思います」と言っているのである。学級会気分と言っても良い。Twitterでよくリベラル系の人が使う形式である。「安部君はもっとまじめにやったほうがいいと思います」である。

がカラまれた人の文章はちょっと厄介だった。一応流れがあるのだが、曲がりくねっていて何を書いているのかよくわからない。論文を書いたことがない人が文章を書くとそうなる。これもTwitterでネトウヨ系保守の人が陥りがちな形式だ。読んでいていとても疲れる。

白い紙を取り出して整理してみることにした。

一応流れはあるのだが最終的にはストンと「放出するべきだ」という結論になって終わっている。その時は「何かが足りないなあ」としか思わなかった。

ここで燃料が投下されない限りどちらも沙汰止みになってしまう。これが気軽に燃料投下ができてしまうTwitterとの決定的な差である。結局この件はこれで終わってしまった。

この「足りないこと」が氷解したのは別の回答を書いていた時だった。「老人は持論を押し付けてくる人が多い」というのだ。これを解消することはできるのか?というのが質問の内容だった。無理だろうと思った。老人の極めつけは経験則が固着したものだからである。

突然、先日の疑問とつながった。経験則とはつまり印象や感想である。老人の意見を変えられないのは経験を変えられないからだ。後付けで「読書感想文」という比喩をつけたので、その例えで言うと老人は心の中で誰にも批判されないたくさんの読書感想文を書いてきたのだろう。

自分の意見を構築する文章には次の四つの要素がありうる。これを整理する訓練を人はどこでするのだろうかと思った。実はエッセイという文章形式があり英語圏の学校では多用される。日本でも始めている学校があるかもしれない。エッセイは「論文」とは違ったジャンルである。事実ではなく意見を述べるからである。随想と訳されることが多いが、元々の意味は「試論」だそうだ。

  • 意見・主張・試論(これがメイン)
  • 意見をバックアップするための事実
  • 事実を検証するための反論(反論を織り交ぜることで客観性を増す)
  • 単なる感想や印象(これはできるだけ取り除かれなければならない)

ところが日本の場合は本を読ませて「感想」を書かせる。心象の方が大切という教育を行う。そして、あまり事実や反論というものを重んじない。つまり日本人はもともと事実に心象を固着させ、それを社会の正解とすり合わせてゆくという教育を延々と行っているのだ。

これについてなぜ読書感想文が好まれるのかと聞いてみたところ「先生が出した課題図書が期待通りに読み込まれているのかをチェックするからだろう」という回答がついた。なるほどと思った。感想を書かせるがそこには正解と不正解があり成績がつくというのが日本的な世界観なのだ。つまり思い込みであっても正解(先生や社会)と合致していればOKという人を大量に効率よく育成するのが日本式の教育なのである。工場や軍隊では必要とされる人材である。

エッセーは意見構築の過程を扱うものである。ここから経験を除き意見形成過程を客観視できる人が知的エリートとして大学などに選抜されるというのが英語圏の教育である。

一方日本人は読書感想文しかやらない人と事実しか扱わない人が知的エリートとして大学教育に残る。いわゆる文系と理系である。日本の知的エリートは意見形成の過程を問われない。それはキャッチアップ型の国家には必要のないスキルだからである。

今回「トリチウム水の放出が気に入らない」と言っている人は単に心象を述べており、気に入らないといって相手にカラんでいる。読書感想文である。ところが反論された人も実は反論を検討してはいない。つまり政府がそれでいいと言っているからいいんだろうと主張しているだけなのだ。そしてそこに政府が言った論拠をもってきて無批判に当てはめている。この類型もどこかで見たことがある。これは教育要綱である。先生は教育要綱の是非は問われない。正解を読んでいるだけで「尊敬されるべき」なのである。

これまで失われた中間層という言い方をしてきたのだが、彼らが先生のステータスに憧れる理由はなんとなくわかる。先生は尊敬されなければならない。先生に逆らうなどあってはならないことである。あるいは先生になりたい意見のない生徒なのかもしれない。

例えば、大阪松井市長が処理水を(国が安全だと認めれば)大阪湾で引き受けると言っているということ(時事通信)が例示として使われてる。大阪の人たちがこれを信用するのかという点は全く検討されていないのだがそんなことはどうでもいい。それは政府の方針に書いてありしたがって正義なのである。

「老人の結論」が覆せないのは経験による印象が事実として蓄積されてしまっているからである。事実は反証があれば無効化できるが、経験は変えられないので老人は態度変容ができない。それはその老人が反証なしに意見構築してしまっているからだ。

そう考えると、保守とリベラルの議論は先生になりたい人と学級会で先生に意見している生徒、それを困惑気味に見ているその他大勢の生徒という図式に見える。そして先生の姿は教室にはない。

先生が仲裁しない日本では政治議論そのものが成り立たないことも多い。これは日本人が公共財として「話し合う」という技術を持っていないからだ。理由がわからないと「日本人は議論ができないね」で終わってしまうのだが、実はその解決はかなり簡単なことだった。

自分の文章を読む時に蛍光マーカーを取り出して「意見」「事実」「反論」「感想や印象」に分けてみればいいのだ。相手に対しても同じことをすればいい。なんだこんなに簡単なことだったんだと思った。三色(残りは地の色でいいので)の蛍光ペンさえあればことが足りてしまうのである。

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やがて「異物」が選別できなくなる – アメリカの事例と日本のこれから

ABCでアメリカンエアラインのメカニックが逮捕されたという話をやっていた。離陸前の飛行機のモニター装置に細工を加えようとしたのだという。これがトップニュースになったのはこのメカニックがアラブ系の名前(Abdul-Majeed Marouf Ahmed Alani)であり、携帯電話にISISのビデオを所有していることがわかったからだ。




アメリカは世界中からの移民が集まっている国だが実質的には英語が話せる白人が支配的だ。これはアメリカが独立してから近年までの世界の彼らなりの理想のモデルだったのかもしれない。世界は一つで英語という共通言語と英米法の法体系と白人の指導のもとで仲良く暮らすというようなモデルである。

意地の悪い見方だが、アメリカは長い間黒人の参政権を制限しており、黒人は公民権運動を起こして権利を獲得してきた。ところが有色人種排除は終わらなかった。イスラム教徒はキリスト教徒からの差別にさらされ疎外感を抱えている。有色人種は形式上はフルの参政権が与えられているのだが実際には不満を抱える存在だ。少数者が自分の国を肯定できなくなったからといって彼らを追い出すわけには行かない。すでに社会を支える存在だからである。

アメリカの白人たちは「失われた怒り」を持っているが民主主主義とという捌け口がある。結局彼らは多数派なのである。こうした失われた怒りを持った人たちがトランプ大統領を支援しているという意見もある。大前研一はトランプ大統領は自分中心主義の最低の大統領だと批判した上で、こうした人を支える熱狂的なアメリカ人が25%もいると嘆いている。大前は「アメリカ人が聞きたがる嘘を臆面もなく繰り返すのがトランプ大統領である」と言っているのだ。

だが、大前のこの記事にはトランプ大統領に好意的なコメントがいくつもついている。トランプ大統領が大前のようなインテリを打倒してくれるヒーローに見えているようだ。つまり、日本にもこのような失われた怒りを持つ多数派はいる。彼らが多数派のほんの一部なのか、それとも日本の多数派の中にうっすらほんのりと広がっているのかはわからない。

いずれにせよ、彼ら「喪失感を持つ多数派」が少数派を糾弾するシンボルのもとに団結する可能性はある。旭日旗を持った「美しい日本人たち」がオリンピックスタジアムを席巻する画面を想像してみればよい。多分「その他大勢」の人たちはオリンピックから退出し、多くの少数派が身の危険を感じ、一部の多数派と少数派だけがそのシンボルを巡って争いを繰り広げるだろう。話し合いの場のはずだったアリーナは好戦的な人たちの戦場になる。つまり問題解決の場が党派対立に占拠されてしまうということだ。

話し合いのアリーナが旭日旗で生まれば社会は話し合いで問題を解決することができなくなる。それがこれまで見てきた民主主義の死だった。だが、アメリカの事例はさらにその先を行っている。

アメリカの場合多数派のキリスト教徒という存在がありそれとは異質なイスラム教徒やスペイン語話者というマイノリティを抱える。このAbdul-Majeed Marouf Ahmed Alaniという人がISISの支持者だったかどうかということはわからないのだが、こうしたイスラム系の人たちを全て取り除いてしまうことはアメリカ社会にはできない。この不信感は長い時間をかけてじっくり進行してきており今ではもうアメリカの一部になってきている。そしてアメリカの暮らしは彼らに支えられている。

移民解禁に踏み切った日本はこれからアメリカを追随することになる。日本は喪失感を持つ多数派を抱えたままで海外からの「臨時雇い」を導入するからである。その依存は徐々に広がり最終的には分離不可能になるだろう。

さらに悪いことに日本人は強いものにはへつらうが弱いものには居丈高になる。日本はインフラ整備や教育の拡充など「良いこともした」と思われるが、現地に恨まれることによって良いこともすべて帳消しとなった。特に1940年から1945年にかけての苛烈さは「単に本土並み」だったのかもしれない。日本もかなり厳しい状態にあり統制は大いに恨まれた。しかしそれが異民族だった側から見ればかなりひどい搾取に感じられただろう。

ただ、こうしたことは外地で行われおり戦後に外地を日本から切り離すことである程度問題を解決した。

今回日本がやろうとしているのは内地に将来分離不可能な植民地を作るようなものなのだが、多分それに気がついている人はそれほど多くないのではないか。BBCはすでに搾取される移民労働者という記事を英語でのみ配信している。仮に日本並みに扱っているだけだったとしても日本のブラック企業というのは海外から見れば虐待である。日本人にとって「日本人であるというだけで誰かを指図できる立場になる」というのは理想かもしれないがやがてそれは悪夢に変わるだろう。そしてその構図は戦前に似ている。戦前は外に広がろうとし、今は内側に抱え込もうとしている。

民主主義も人権も与えず単に労働力として導入した「モノ」が社会にとってどんな厄介なものになるのか、多くの日本人はまだ知らない。多分、高齢の日本人たちはその問題を見ることはないだろう。日本人はかなり厄介な「問題」を将来に向けて作り出しているということは知っておいたほうがいい。いったん受け入れると決めたら社会に包摂するか仕返しをされるか二つに一つになってしまうのである。

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オリンピックを破壊しかねない「旭日旗」の何が問題なのか

オリンピックに旭日旗を持ち込んでいいかという議論があり、結局持ち込んでいいということになったようだ。この議論を突き詰めてゆくと民主主義の限界が見えてしまう。その帰結はまともな人間の退出である。一度歪んだ民主主義はまともな人を離反させ、ますますすさんでしまう。では誰が何の目的で民主主義を破壊するのだろうか。




はっきりさせておかなければならないのは、旭日旗そのものは意匠(デザイン)でしかないということだ。これは事実なので議論ができる。だがここに意味づけが加わると議論ができなくなる。何にどのような意味を持たせるかは人によって異なるからである。そして意味づけされた意匠から意味を取り外すことはできない。我々は十字架を見るとキリスト教を連想してしまう。そしてその記憶を消すことはできない。

健全な民主主義の智恵はこうした「意味づけ」を公共に持ち込まないことで内心の議論を避けてきた。特に人種・宗教・言語などが異なるヨーロッパでこれを始めてしまうとヨーロッパはたちまち内乱状態になるだろう。日韓は幸か不幸か海峡を隔てているのでいつまでも不毛な争いを続けることができる。

さらに問題をややこしくしているのは日本の本音ロジックと建前ロジックである。使いたい側は「これが嫌がらせに使える」と知っているから使いたがるのである。単におめでたい図柄ならばそれに固執することはないだろう。おめでたい図柄が好きなら鶴と亀の旗を振っても良い。だが右翼が鶴亀旗に固執しているという話は聞かない。

彼らが旭日旗を持ちこみたがるのはそれを韓国人が嫌がっていると知っているからだ。つまり彼らが嫌がる顔が見たいので「多数決で」「旭日旗は単なる意匠である」という表向きのロジックを振りかざし、同時に「旭日旗を多数決で採用する」ことで少数者を圧迫するという本音ロジックを実現するという二段構えになっている。苦しむ少数者がいる時だけ、彼らは正義の中間層だと実感できる。

民主主義はそうやって死ぬのだ。

AERAに小島慶子さんが書いている文章を読むと、今回の場合「韓国側(文化体育観光委員会)」が旭日旗は日本の圧政のシンボルであるというロジックを国際合意にしようとしたので「対抗上」日本はそれが問題ないとみなしたという経緯があるようだ。つまり、相手方もそもそもこれを嫌がらせの旗として使いたい。これでは議論が終わるはずはない。議論そのものが「勝負」という意味を帯びている。

オリンピックを放送する人たちは旭日旗を画角に入れるのを避けるはずだ。特定の国で映像が売れなくなってしまうからである。だが、会場全体が旭日旗で埋め尽くされたらどうなるか。テレビの放映権料というビジネスの種が高値で売れなくなる。そして一般の日本人は「面倒なことに関わりたくない」と考えてオリンピックから逃げてしまうだろう。

背景にあるだろうと思われるのが「失われた中間層」の存在である。日本はかつては終身雇用があり中間層はシステムの受益者として満足感と見通しを得ることができた。ところが現在の中間層にはかつてのような約束された将来はない。それを誰かのせいにしたいと考えても不思議ではない。韓国の反発など実はどうでもいいことで、単に自分たちの不満をぶつけたいだけなのだ。彼らは苦しむ少数の在日の人たちを見て自分たちはまだこの国の主役であるということを確認したい。そしてその裏では厄介ごとに関わりたくない人たちの退出が起こる。

ヨーロッパで盛んなサッカー(フットボール)にもこうした危険があり、政治的な要素や人種差別的な要素は注意深く取り除かれてきた。日本のオリンピックは不注意にも政治を持ち込んだことで失われた中間層が活躍するアリーナになるだろう。それはオリンピックを確実に破壊する。橋本聖子五輪担当大臣はオリンピックを破壊しかねないきっかけを作ったが、彼女がそれに気がつくことはなさそうだ。

普通の日本人はそれほど政治には興味がないが、失われた中間層は政治に並々ならぬ関心を持っているという点である。参加動機が切実なぶん「発言する民主主義」では勝ってしまう可能性が高い。そうなると普通の政治意欲を持っていた人たちは政治議論から退出する。身の危険を感じる上に見ていて辛いからである。そして「政治の話をするなというのは本当だったんだなあ」と感じるだろう。

サッカーは政治を排除することで商品価値を保っている。オリンピックはそれに失敗するかもしれない。では、政治議論が政治的闘争を排除しないことで生じるコストはどのようなものなおだろうか。

例えば、政治についてニュートラルに見ようと考えたのが池上彰的解説だったと思うのだが、それすらも局の見解や周囲の攻撃にさらされた。しかし、それでも池上彰的解説がなければ我々はスンニとシーアといった基本的なこともわからずただただ混乱しているだけに見える中東情勢を眺めていたはずである。つまり直接的な影響は不安がコストということになる。

だが、その裏では政治・公共分野にまともな人が関わらなくなるというもっと大きな問題がある。そのコストは例えば東京電力の停電復旧の遅れなどに現れている。失われた数十年に引きこもってきた日本人は問題が起きても協力ができない。そもそもどうやって協力していいかがわからなくなっているからだ。

日本は変化を遅らせてきたので欧米のように二極化した政治論争は起きなかった。その日本でもニュートラルなはずの池上解説が攻撃され、政治とは無縁だったはずのオリンピックが政治闘争の場になろうとしている。1年後に迫ったオリンピックで旭日旗がどれくらいテレビに写り込むのかは誰にもわからない。あるいはかなりひどいことになっているのかもしれない。

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公共の崩壊 – 自己責任と夏休みの宿題不要論

Quoraで夏休みの宿題不要論という質問があるのを見た。ちなみに今は教育改革ではなく「日本人の政治嫌いと公共不信」について考察している。




この質問に「学校で夏休みに宿題を課す理由は勉強習慣を維持させるためでは?」という毒にも薬にもならないような回答を書いた。たくさんの回答を書いたので面倒になっていたのである。ところが面白いコメントが帰ってきた。勉強が好きな子はむしろ代行業者を使うというのである。

この質問を書いた人は宿題が不要であるということを証明したいわけで「宿題に意味がある」という回答は求めていないと思う。ところがその理由にまでは思いが至らなかった。これはどちらかというと「できる子」の視点である。できる子は公共を不効率なものと考えていてそこから出て行きたいと思っているのである。

学校の宿題はカスタマイズされていない。怠け者の子供は宿題を溜めるだろう。一方で、中途半端な内容の宿題はかえってできる子には邪魔である。夏休みくらいは学校に押し付けられない「将来に役に立つ」勉強をしたいのだ。つまり、平均をとると誰のためでもないものができあがってしまう。これが多数決民主主義の別の問題だ。社会主義的に一律に与える課題の問題という意味では社会民主主主義の問題と言っても良い。

学校側から見ると「親の世代と同じことをさせていると親が安心する」という理由で宿題を出すという事情があるようだ。変わらないことをみせるために宿題が出されているわけで「こんなものはいらないのではないか」という議論には対応できない。変わらないことを優先しているうちにシステム自体が疑問視されるというのはいろいろなところで見られる。そして実際にそこから離反する人も出てくるだろう。

一応彼らのために制度を再設計すると基礎勉強は最低限にして自由裁量時間を増やすべきだということになる。多分勉強しない子は最低限のことしかしないはずだが、それを外からなんとかすることはできない。中には日中を一人で過ごし「何をしているかわからない」という子供も出てくるだろう。という一方、できる子も夏休みの勉強の成果を学校に持ち帰ることはないだろう。彼らは受験勉強で忙しく「学校に構っている時間はない」からである。

我々はこれまで「公共の不在と政治嫌い」について主にこぼれ落ちた側からの議論を展開してきた。機能不全に陥っているセクターでは全体の調整力が失われ無力感としての政治不信が起こりますよねという図式である。ところがその対局には実は「公共に縛られたくない」という人たちもいる。能力があって自由主義の方がいいという人たちである。これを一つの制度で解決することはできないし全員を集わせて話し合いをさせるということもおそらくできないだろう。

ここまで大きな(あるいは遠い)視点になると問題は、公共というものが公共教育でさえも大きくなりすぎていて誰のためにもならないものになっているということがわかる。

さらに追い打ちをかけるのは「社会が提供する標準的なコース」に乗っていては落ちこぼれるかもしれないという恐怖心である。自己責任論に苛まれて個人の成長を追求してもそれが大きな広がりを持つことはないだろう。彼らは公共が機能している社会(そんなものがあればだが)に逃げてしまうだけだ。昔から学校の宿題が物足りないという人はいただろうが、行き過ぎた危機感がなければ「代行業者を使ってでも逃げ出したい」とまでは思わなかったはずである。

学校の先生は一生懸命に勉強して終身雇用の先生の地位を得る。ところが生徒はそうではないので「自己判断」で宿題を評価するようになる。するとお金を出してごまかそうという人やサボってためてしまってどうにもならないという人が出てきてしまう。その意味では学校制度はすでにかつてのようには機能しなくなっている。多分公共もかつてのような安心感を我々に与えてくれない。一度壊れた信頼は取り戻せないのだ。

日本人は身分保障をしてくれる集団を作るが、家族や地縁のような拘束力の強い集団は作れない。そして集団が身分保障をしてくれなくなると集団への貢献を控えるので集団は成長したり拡大したりできなくなる。集団を成長させても寡頭の意思決定者に搾取されるだけだと感じるからだ。かといって個人の意思疎通を通じて利害調整したりすることはできないので個人主義的な成長も難しい。こうして日本人全体が政治や公共を信じられなくなり様々な問題を引き起こすのだろう。

根底にあるのはちょっとした不信感だが、その不信感が機能不全を生み、それがさらに不信感を増大させてゆくのである。

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日本人には誰も何もまとめるつもりがない

今日は「日本人は誰も何もまとめるつもりがない」というテーマで書く。政治嫌いとかそれ以前の問題だ。興味がない以前に、そもそもまとめるつもりがない。




竹本直一IT担当大臣が早速いろいろなネタを提供している。自分の公式ウェブサイトは閉鎖されておりどうして閉鎖されているかわからない。また、公式YouTubeではAV動画が残っていたそうだ。多分関係者が高評価したものが残っていたのだろう。事務所ののほほんとした仕事ぶりが分かる話だ。

極め付けだったのが「はんこ議連の会長だった」という点である。早速面白がった記者が質問をし「印鑑とITの両立」といういかにもTwitterでバズりそうなキーワードを提供してしまった。聞いてくれた記者はグッジョブであるが脱力感しか残らない。今回の改造は安倍適材適所内閣(はいはい)と命名したい。

この問題が過去の面白い問題を呼び起こした。国の改革提案から「印章の義務化の廃止」という項目が排除されてしまったというのである。ちょっと話題になったがすぐに忘れ去られた。具体的には次のようなことを言っているそうだ。さらに改革するなら業界に補償せよなどとも言っている。

1つ目は行政続きにおける「本人確認押印の見直し」、2つ目は法人設立における「印鑑届出義務の廃止」、3つ目は「一般的な取引におけるデジタル化の推進」である。つまり、本人確認には引き続き印鑑のみを用いるべきであり、一般的な取引をデジタル化することには反対するという主張である。

印鑑廃止、業界団体の反発で見送り これは「異常な光景」なのか?

政府はマイナンバーカードの普及を進めている。ICカードを使えば本人認証ができるはずである。2019年3月現在の普及率は12.8%だそうだが、使い道がなければ更新しない人も出てくるだろう。未だにこのカードを出すと珍しがられる。普及に346億円の国家予算を使いポイントもつけるかという話も出ている。だが、こうした努力も「結局印鑑が必要だ」というだけで台無しになる。つまり国の政策には整合性がない。

さらに国会の業務効率化にも逆行する。印鑑業界を守るためにかなりの工数をかけているはずである。費用削減効果は億を超えるのではと思うが、そもそも試算もないようだ。霞ヶ関でも一旦書類として印刷し捺印した上でそれを電子的に読み込みOCRをかけるということになる。無駄の極みであるデジタル政府を作ってそれを海外に売り込むのだなどという威勢のいい言葉は並んでいるが、実際には印鑑さえ削減できない。政治のリーダーシップがないからである。

結局国はどこに行きたいのだろう?と思うのだがその方向性は全く見えない。安倍首相は憲法改正をやりたいと言っているが内閣改造と憲法改正の関係もわからない。首相が言っているのは「俺は俺でやりたいことがあるから国のいろんなことは適材適所でよろしく」ということだ。それを菅官房長官が「適材適所なんじゃないですか」といって薄ら笑いしている。

安倍総理大臣には統合力がないが、統合力がないことを誰も責めない。そもそも前回見たように日本人は共助や自治に興味がないからだ。誰も何もまとめないことを取り立てて不思議に思わないのである。だって国は昨日と同じように動いているからである。ある意味社会はそれぞれ自律的に動いていて極めて民主的な社会と言える。ただし何も変えられない。

こうしたバラバラさは災害時対応でも見て取れる。日曜日深夜から始まった大規模停電が千葉県で続いているのだが、被害の全容解明をしようと動き出したのはなんと金曜日の9月13日だったそうだ。それまでの間東京電力は地方自治体に被害の全容報告をしなかった。経済産業省が入ってやっと電柱2,000本という数が出てきた。

確かに9月11日に内閣改造がありそれどころではなかったという気持ちはわかる。

今回特殊だったのはこれがほぼ千葉県だけの話だったということである。つまり千葉県だけで解決ができるはずの問題だったのだ。だが、千葉県全体をあげて対策本部を作ったという話はついに聞かれなかった。森田健作知事も多分大変だったんだろうが何をしていたのかよくわからない。千葉市長はTwitterで「いろいろ調整しているなあ」というのが見えてきた。小西ひろゆき議員も政府批判を混ぜ込みつつ「自分はいろいろやっている」とアピールしていた。それはそれで立派なのだが、誰もそれをまとめない。そしてまとめないことについて誰も何も言わなかった。自分の家の電気がつくことだけが重要だったからである。電気が復旧した地域からそれは他人事になった。

前回日本人は政治が嫌いだという話を書いた。たくさんの人が読んでくれているようだ。だが、問題はもっと深刻である。つまり総理大臣から下「誰も話をまとめよう」という発想を持たないのである。公共を嫌っているわけではない。そもそもそんな発想がない。

改めて「昔からそうだったのだろうか?」と考えてみても答えが出てこない。おそらく昔からそうだったのだろうが、かつては職場や住居にそれなりのまとまりがあり国や地方公共団体は「それをお手伝いしているだけ」で済んでいたのではないかと思う。つまり公共がなくてもそれほど困らなかったのだ。そういう小さなまとまりが崩壊してもなお日本人の意識は大して変わらない。

自民党は憲法改正案の中で公共の福祉の拡大や緊急事態条項の設置など「公の拡大」を求めている。そもそも統合しようという気持ちがないのになぜ権利だけを欲しがるのだろうかとは思う。

だが、仮にそんなものを政府に与えたとしても日本人はそれを使いこなせないだろう。そもそも公共というものに全く意識が向かわないからである。日本人は今でも村社会を生きていて、地方自治体以上のレベルのまとまりを意識できないのではないかと思う。

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