線状降水帯の恐怖を経験する

千葉市付近に強烈な雨が降ってきた。朝の時点では昼頃にはやむかなあなどと気楽に構えていたが止みそうにない。そのうち不安になってきた。食べるものがないわけではないが「このまま閉じ込められたらどうしよう」などと思ってしまったのだ。今回感じたのは雨の恐怖ではなく情報氾濫の恐怖である。




雨が止まないのはこの付近で雲が湧いて線状に北から南に伸びていたからだ。いわゆる線状降水帯というものである。話には聞いていたが経験したことはなかった。ただ、気象レーダーがあるので雨についての状況はすぐわかる。記録を見るとわかるのだが、それほど壊滅的な雨が降っているというわけではないのだが、それが数時間同じところで降り続けるのである。つまり、雨としては未曾有という感じではない。

雨がひどくなって移動できなくなってから千葉市が警告を出し始めた。自治体が出す警告にはなんとなくアリバイめいたたいものがあるのだがこれが出てから行動しては間に合わない。というよりその時にはもう外には出られない。これが最初の急につながる。つまり「そんなに大変なことが起きているのか」と思ってしまうのである。

ところが止み間が出てくる。そこで外に出て買い物をすることにした。後で冷静に考えたら別に買いに行かなくてもよかったのだが、慌てていると冷静さが幾分失われてしまうのである。ところが雨はそこでは止んでくれない。また降り始めた。

そのうちにTwitterがおかしくなり始めた。千葉駅が浸水したとか佐倉駅が川みたいになったというのである。事前にこの近くは台地になっていて大きな川がないということはわかっていた。それでも不安になる。もともと心の準備が全くできていないうえにあれよあれよという間に情報が氾濫するので追いつけなくなってしまうのだ。

テレビは駅などのメジャーな場所は扱ってくれる。そのうち部分的に都川や村田川といった近くにある川が溢れかけているようだという話が断片的に入ってきた。ところが肝心の周りの状態がわからない。千葉市は近くの川がモニターできるカメラなどを持っていないようだ。そこで「外に出て様子が見たくなってくる」のである。よく川を見に行って流されたという話は聞くし「ばかだなあ」と思うのだが、急激に状況がエスカレートすると合理的な判断ができなくなるのだろう。特に普段の流れが穏やかな中小河川ほどウェブカメラを設置したほうがいいかもしれないと思った。一級河川ではないありふれた都市水路のほうが実は状況が豹変しやすい。

雨が止むとほっとして状況が確認したくなる。この付近には大きな川はないが、県をまたぐような大きな川はあとから水が押し寄せてくる可能性がある。1日遅れで街が氾濫したというような話もあるのだが行政単位ごとに情報を区切っているので全容がわからないのだろう。周囲の状況が確認できる情報システムを整備しない限り、こうした犠牲者はこれからも出続けるだろうと思った。

結果的に5名が亡くなったというところで一旦話は落ち着いた。後になって朝日新聞は千葉と福島で10名が亡くなったと伝えている。あの程度の雨でもまとまるとこれくらいの死者になってしまうわけだし、ある日突然やってくると思ったほうがいい。

朝日新聞には高校生が帰れなくなったという話が出ていたが、千葉市では帰宅困難者も出たそうだ。さらに、成田空港へ行けなくなった人たちもいたようである。外国人は情報が不足して大変だったという話をQuoraで聞いた。いずれにせよ、朝の時点ではそんなことが起こるとは全く予想していなかった。普段から情報が入手できる手段を複数確保したり周囲の状況を確かめたりしたほうがいいが、一旦状況が起きたら逆に慌てないほうがいいのだが、とにかく情報が圧倒的だ。こんな中で平常心でいるのは難しいかもしれないが、それでも落ち着かなくてはいけないのである。

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神戸市のいじめ問題に見るリベラルの劣化

テレビ朝日で神戸市のいじめの問題を扱っていた。昔からいじめ気質あったという男性教師の問題から始まったのだのだが、なぜこのような人をスクリーニングできなかったのかというところに議論が及んだとたん問題の深刻さが浮き彫りになった。最近は先生の志望者が少ないので不合格が出せないのだそうだ。最近のワイドショーは誰かを叩くつもりで始めても日本社会の衰退を直視させられるという構造になってしまっている。




さらに教師の間の格差もいじめの原因になっていたようだ。「先生の質が落ちている」というバッシングがあった問いに「一般社会のように成績をつければいいのではないか」として制度を弄ったのが裏目に出ているようだ。成績の良い先生が悪い先生をバカにするようになってしまったというのである。

成績をつけるのは上司なので、最終的には校長先生の資質によって採点基準がまちまちになる。安倍政権下で優秀なはずの忖度官僚が政治に引き上げられてダメ議員に闇落ちするようなことがあるが、おそらく同じようなことが教育現場でも起きているのではないかと思われる。

バッシングのみでろくな対策を取らず教育の専門家と政治家に改革を丸投げしたツケがここにでてきている。だが、長年蓄積した問題なので複合的すぎてどこから手をつけていいのかわからない。今までソリューションを出してこれなかったのだからこれからもソリューションは出てこないだろう。

ところが番組としてはソリューションめいたものを出さなければならない。最後には尾木直樹さんに「専門家を集めて分析させ提言を出すべきですね」とまとめてさせていた。「ああまた同じような過ちが繰り返されるんだろうなあ」と思った。

教育現場は複合的な問題を抱えている。その根本にあるのは社会の援助不足である。社会は失敗には厳しいが援助はしたがらないという目線で教育現場を見ている。だから失敗すればするほど世間の目は厳しくなる。これは予算不足という衰退が生み出した副次的な症状だがそれが改善する見込みはない。政治が有権者を無視して自発的に援助を決めるまで日本の教育はこのまま荒れ続けるだろうが、自民党は自分たちの考えを道徳として押し付ける以外具体的なアイディアは持っていないように思える。

もう一つ「触れられなかった」面白いことがあった。それが革新市政と神戸方式についてである。テレビ朝日だから触れないのかそれともテレビ局がこの問題を政治と絡めたくないから触れないのかはわからない。

神戸市は1960年代から1970年代に革新市政となったらしいということは前に書いたのだが、Quoraでは阪神大震災の時に革新市政だったから自衛隊の援助をなかなか要請しなかったのだという話を聞いた。怒っている人も多いようだ。阪神大震災当時は村山政権時代だったので少なくともその頃まで革新市政が続いていたということなのかもしれない。その後革新市政がどうなったのかはよくわからない。

革新市政の全てがいけないとは思いたくないのだが、今回の件に関しては学校現場の性善説への過信は問題の根幹の一つだと思う。共産主義が崩壊したのは「人が権力を握れば独占したがる」という単純なことを忘れていたからだと思うのだが、リベラルは全般的に性善説を信じすぎチェックや抑え込みを過度に嫌いすぎるところがある。人は善人でも悪人でもないと思う。それは結果論である。

ただ、今回のプレゼンテーションを聞いて、確かに経済発展期には自主性を重んじる性善説の方が良かったのかもしれないなあと思った。かつて先生は聖職でありバブル崩壊後には狭き門でもあった。こうした時代には「自発的な改善」が成り立つ。ところが環境が悪化してきてしまうと「社会からの援助のない閉ざされた空間で行われる個人間の闘争」に変わってしまうのである。つまり、日本はもうリベラルを包摂する力がない落ちぶれた国になったのかもしれない。

テレビ局はこの問題を扱わないだろうが、多分神戸市では問題になっているはずである。社会が余裕を失い失敗を許さなくなると、かなり強烈な揺り戻しの動きが広がるだろう。多分報道されないであろう「改革」は教育現場への不信に彩られた改悪になってしまうかもしれない。

今回の問題は考えてみれば4人の教師の不埒な行動の話に過ぎないはずだ。だが、ソリューションを導き出そうとすると、様々なパンドラの箱が空いてしまう。問題がゴミ屋敷のように積み上がっている。だから、我々視聴者は誰かを叩いてそこそこ満足したらそのあとの解決を丸ごと諦めてしまうのである。

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東須磨小学校の教師になってはいけなかった先生と親になってはいけなかった人の共通点はなにか

東須磨小学校で虐待暴行犯罪に加担したと見られる教師たちが言い訳のコメントを出した。「教師になるべきではない人たちだな」と思った。こういう人たちからは教員免許を取り上げるのが一番だというのが最初の印象である。




しかし、これを別の話と組み合わせて考えることでまた違った見方ができるようになるのではないかと思った。それが幼児虐待だ。「自己肯定感の低さ」と「マニュアルの不在」という組み合わせが共通しているように見えるのだ。

東須磨小学校の先生の言い訳のコメントを見ると加害側の教師たちの歪んだ現状認識が見えてくる。と、同時にこの人がなぜ重用されていたのかもかなりあからさまにわかってしまう。

加害教師の首謀者だった女性教員は、まず教師は子供達のことを書き、次に「教師をかわりがっていた」と主張している。つまりすべて他人目線で「思いやりのある私」を演じているのだ。子供の件は男性教師へのいじめとは全く関係のないのだから、無自覚のうちに好ましい教師像という仮面が張り付いてしまっていることがわかる。虐待の事実が表沙汰になった今それは自己保身にしか映らないがそれでもいい教師のフリが止められない。

考えてみれば異常な話である。男性教師は辛いカレーをなすりつけらえ泣き叫んでいる。これに対して「彼が苦しんでいる姿を見ることはかわいがってきただけに本当につらいです」と言っている。文章が理路整然としている分だけ散乱した自己認識が痛ましい。

もちろんこの文章からはそこから先のことがわからない。

「相手のためを思ってやった」という同じような供述は虐待に関与した親に見られることがある。ときを同じくして船戸結愛さんを殺害した船戸雄大被告の裁判での様子が出てきた。FNNの女性アナウンサーが記事を書いている。

加害男性(義父)である船戸雄大被告には、理想の家庭を作りたいという体面があったがことはわかる。母親の優里被告は自分の気持ちを言語化することができずただただ周囲に憐れみを乞うてか弱い女性の演技をしているようだ。

医師によると優里被告も雄大被告も自尊心が低かったということである。自尊心の低さを隠すために子供にしつけと称して支配を試みていたということになるのだが、雄大被告が自分の自尊心の低さを認識していたのかはわからないし、それを言語化できていたのかもわからない。そもそも自尊心の低さというのは何なのだろうか。

まず最初に違和感を感じるセリフは「バラバラになる」である。雄大被告は結愛さんを病院に連れて行かなかった理由を家族がバラバラになるからと説明しており、女性アナウンサーはこれを「理解できない」と書いている。実際にバラバラになるのは他人から見た自分たちと実像の乖離なのだろう。雄大被告らは大麻所持が見つかっておりさらに理想と現実が乖離していたことがわかる。すでに自己像はバラバラになっておりそれを偽りの演技だけが繋ぎ止めているという痛々しい状態になっている。

他人から見て整っていればそれでいいというのは自己保身のように見えてそうではない。そもそも他人の目無しに自己が存在しなくなっている。それは多分「自尊感情」ではなく「自己の不在」だろう。

FNNの文章を書いた女性のアナウンサーは母親に心情を重ねて「支配されていた母親が父親から逃れられなかった」と片付けてしまっている。一方、デイリー新潮は雄大被告の来歴を書いている。

父親に虐待されていた経歴のある雄大被告はもともと上場企業に勤めていたが、母親を助けるために会社を辞めて札幌に戻った。ところが子供のいる女性との結婚を母親に反対された。もともと理想が高かった雄大被告は「母親を見返す」という気持ちから子供に厳しく接するようになったのだという。

FNNの文章で「自己肯定感が低い」と簡単に書かれていた中身が少しばかり見えてくる。他人からの評価と乖離である。自己はバラバラ担っているが体裁だけがそれをまとめているという姿である。そこに子供という不確定要素が入れば、当然爆弾は破裂するだろう。

優里被告も破綻しかけた家庭で育ち自己肯定感が低かったために雄大被告の期待が言語化できず「雄大被告が望みそうなこと」を「先回りして」一覧表を作って子供に押し付けていたそうである。彼女もまた他人の気持ちを優先してしまうのだがどうやれば他人の期待に応えられるのかがわからない。つまり、母親も単なる黙認者ではなく加害者だった可能性が高いのである。優里被告も雄大被告の目を気にしている。

こうした人たちを救うためにはマニュアルを作って「理想の家族のなり方」を教えてやる必要がある。受け身型の日本教育が行き着いた極北と言っていい。自分なりの価値観が作れないのだから当然そうなってしまうのだ。

東須磨小学校の件について「女性教師は自己中心だった」と置いたのだが、実際にはそうでなかったのかもしれない。この女性教師もまた他人が期待する教師像を演じてきたのかもしれないと思うのだ。教師という職業には高い言語化能力が求められるはずだが、彼女はおそらく自己認識もできないしなぜ教師をいじめたのかが言語化できないだろう。さらに彼女は言語能力も高く前校長にも認められている。つまり女性教師は他人指向で成功してしまったが故に暴走を止められなくなってしまったのだと仮定できる。

神戸市の教育委員会は迷走していて「カレーを自粛する」としてTwitterで叩かれている。原因究明ができず自分たちに火の粉が降りかかることだけを恐れているようにしか見えない。

その裏で東須磨小学校では生徒のいじめが急増していたそうである。NHKでは教師間のいざこざが子供に伝染したのではと書いているのだが、実際にはマネージメントの不在が両方の原因の可能性もある。つまり東須磨小学校や神戸市教育委員会には学校を運営する能力も資格もないかもしれないのである。

この女性教師も「うわべだけ」が評価されていた可能性がある。実際のマネージメントはめちゃくちゃになっているかもしれないのだが、それは誰にも気づかれなかったということになる。実は解体・分析されるのは教師ではなく学校システムそのものなのである。義務教育なんだから体裁だけ整っていればそれでいいという目的を失った人間製造工場に起きた不具合なのだ。

他人の指示によって動く「考えないロボット」のような人間を大量に製造してしまったわ我々の社会は「自己肯定感」も供給し続ける必要がある。つまり「こうやったら理想的な父親と認められますよ」という認定制度や「こうやったら理想的な教師と認められますよ」という認定制度を作って、個人を監視しなければいじめや虐待を防げない。おそらく神戸市の教育委員会に健やかな教育とはどういうものなのかを考える能力はないだろうし、第三者委員会にも答えは出せないはずだ。そもそも炎上を背景にしており他人の目だけを気にしているのは明白だからである。

もちろん「他人の価値観でなく自分の価値観で生きる」という選択肢もあるはずなのだが、誰もそれを与えてはくれないし、そんなものは存在しないようだ。そればかりかTwitter上では「13年では生ぬるい」とか「実名を晒して教員免許を剥奪しろ」というような声が飛び交っている。ただ、他人を罰することしか解決策を見出せないのである。

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洪水が去ったあとでバベルの塔を見た

台風19号の死者が50名を超えたようである。朝日新聞によると54名が亡くなっており16名が行方不明だということだから合計すると70名になる。その後の報道でも増え続け、70名以上になるのは確実なようだ。




台風一発でこんなことになるんだと自然の驚異の恐ろしさを感じる。しかしそのあとの出来事はもっと恐ろしかった。人々は自然災害の脅威を目の前にして罵り合いを始めたのである。

最初の違和感は二階幹事長である。台風災害がまずまずで収まったと言い、批判が出ると撤回した。世論の反発を期待した野党だけが騒ぎ、自民党幹部たちは何も言わなかったようだ。そのあと予定していた通りに予算委員会が再開された。台風15号よりも内閣改造を優先した安倍政権らしい対応だった。「心ない人たち」とはまさにこういう人たちの事をいうのであろう。

今回の台風の第一の教訓は「自分たちのところでなくてよかった」が間違った安心感を与えるということだ。千葉の人たちは停電被害や風でなぎ倒された木などを目の前で見ているので過剰に身構えてしまった。一方で、台風15号で被害に遭わなかった人たちは、事前に未曾有の雨をもたらすだろうという情報が出ていたにもかかわらず「まさかうちがこんなことになるとは」と口を揃えた。同情はしても当事者意識を持たなかった人も多かったのだろう。

今高度経済成長期に推進した治水事業が想定する以上の自然災害が起こっている。だが、日本にはもはや高度経済成長期並みの土木工事を行う余裕はなく、したがって「どう逃げるか」に頭を切り替えなければならないのかもしれない。自然は我々の想定をはるかに超えてくるということを謙虚に受け止めるべきであろう。かつてならそれは「神の怒り」などと説明されただろう。

ところがTwitterでは堤防が壊れたことで、やはり民主党政権は間違っていたというTweetが飛び交っている。自然の脅威を目の前にしてもまだ自説にこだわっている人が多いということがわかり慄然とする。そうまでして勝ちたいんだと思うと同時にこの恨みがどこから来たのだろうかとも思う。

第一に「弁舌の爽やかさ」に対する恨みなのではないかと思う。日本は学校で自分の説を論理的に伝える勉強をしない。それでも頭の良い人たちは自分の説を伝える術を身につけてゆく。その他大勢の人たちは自分たちの気持ちを伝える術もなく。不安を共有することもできずに社会人になってしまう。彼らは時には鬱屈した感情や不安を持つだろうがそれを解消する術を持たない。そこでそれを晴らすためにこうした機会を利用してしまうのである。民主党への怒りはそこに向いている。

武蔵小杉や世田谷といった高級住宅が被害にあったことでヤフーコメントには「あんなところにマンションを建てるからだ」などといったコメントが並んでいた。どこかやっかみの気持ちがある人たちも多いのだろう。彼らもまた妬みの気持ちをぶつけている。SNSはこうした我々が持っている恨みや妬みの気持ちをありのまま映し出す。

今民主党批判をしている人たちは洪水被害を受けなかった人たちだから、自分たちは助かった(つまり被害は他人事だった)と勝手に想定した上で、自分たちが助かったのは<あの憎き>民主党政権が堤防を妨害しなかったからだと勝手においてしまう。この「他人事でよかった」という気持ちは正常性バイアスを強化する。そのうち現体制を支持しているから自分は安心であるし安心であるはずだという間違った認識が生まれることになる。政治は実は何もしてくれないからこうやって自分たちを慰撫するしかないのだが、裏側には庶民が怒りを持っても何も変えられないという諦めがある。

この「自分の身に災厄が降り懸からなくてよかった」と考えたのは何も庶民だけではなかったようだ。二階幹事長はまず「地元でなくてよかった」と考え、次に東日本大震災クラスの災害が起これば自分たちの地位が危ないぞと考えたのだろう。これも「自分たちでなくてよかった思考」である。気持ちはすでに自分の地位をどうマネタイズするかに向いており国家の危機に関心はない。そして国民はもはやそれに怒らない。怒ってもどうにもならないことを知っているからだ。

この刃はすぐに自分たちに向く。自分たちが同じ目にあっても国や社会は助けてくれないだろうなということが否応なく自覚されてしまうからである。こうして私たちの社会は少しずつ壊れてゆく。あとできることは自己防衛に務めることで、具体的にはお金を使わずにとっておいたり、スーパーで食料を買いだめすることくらいになってしまうのである。我々の社会はもはや危機を叫ばない。

私たちが本当にショックを受けているのは高度経済成長期に克服したと思っている問題が実は解決していなかったということだ。このまま堤防を積み上げていっても不安を拭い去ることはできない。もともと沖積平野や氾濫原で暮らしてきた我々日本人は、堤防決壊を事前に察知して逃げる手段を考えたり、何かあった時に生活再建ができるような保険制度の拡充などを考えたほうが実は良いのかもしれない。また地下や低地に家を建ててそこに高価な機材をおくのは止めたほうがいい。堤防を高く高くするより普段から退避できる回数を増やしたほうがいいかもしれないのである。

だが、我々の社会はこうした気持ちの切り替えができずにいる。不安だから誰かを罵り、自分たちでなくてよかったと考え、それが油断をうみ、新しい不安を生むという悪循環である。

だが人々の罵り合いを見ていると、どうやら当事者になるまで人々は考えを改めるつもりはないらしい。私たちはこうした人々を説得できない。潜在的な不安を抱えつつ傲慢になった人々に届く意思疎通可能な言葉ないのだから、それはまさに現代版のバベルの塔である。言葉は通じても気持ちは伝わらないのだ。

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台風19号の不安と止められない社会

台風19号が過ぎ去って被害状況が見えてきた。長野県から関東地方を挟んで岩手県あたりまで大規模河川の決壊と浸水が相次いだようだ。教科書で習ったような大河川が軒並み被害を受けた。21の河川が氾濫したという。そんな台風だった。




しかしよく聞いてみると「最近は氾濫したことがない」だけで実際には氾濫の履歴はあったようだ。つまり日本の治水というのは被害の先延ばしになっているということがわかる。大きな堤防を作れば数十年間被害を食い止めることができるが、その分一度被害が出るとその影響は甚大なものになる。そもそも川の土砂が作った土地(沖積平野)の上に住んでいるのだから当然のことなのだ。かつての日本人は沖積平野沿いの谷筋に家を持っていた。古い集落は今でも高台に建っているはずである。

だが、高度経済成長期にそのことを忘れてしまった日本人は、Twitterで民主党の政策が悪かったなどと言い合っている。かつての治水の歴史を日本人は忘れてしまったのだろう。どこから来たのかということに興味を持たず他者への罵倒に走る人たちが保守を自認している。

またコミュニティも大きく損なわれていることがわかった。マスメディアや国と一人ひとりの間を取り持つ存在が消失しかけている。

現在の保守・中道政権は過疎地域対策に興味はあっても都市コミュニティの構築にはほとんど興味がない。彼らは古いものも守れないし新しいものが作れない。こうしてできたのが砂つぶのような社会である。

概念的なことはさておき、予算制約は深刻な問題を引き起こしている。千葉県ではヘリコプターを持っておらず千葉県の自治体にもヘリコプターを持っているところがほとんどないということだ。千葉市は二機持っていて、一機は市内の様子を把握するのに使われ、一機は福島県に貸し出したそうである。

また香取市の氾濫対策に千葉市が入るという話もあったそうだ。のちに自衛隊が入ることになり収まったようだが地域によってはかなり人手不足が顕在化しているところがあるようだ。

国は権限と予算を手放したがらず、したがって地方自治体も広域連携や災害対策は国の仕事だろうと思ってしまう。間がすっぽりと抜けてしまっているのだ。

江戸川区では「区内全域が避難対象になった」そうだがどこに逃げていいかわからないという人もいたようだ。それについて呟いた人が逆に「なぜ普段から準備していないのだ」などと叱られているTweetが流れていた。日本人は不安を共有できない。不安を共有すると弱者とみなされ逆に「準備が足りない」とか「意識が低い」などと叱責されかねない。コミュニティはすぐには作れないし、いったん壊れてしまうとこのようなことが起こる。助けを求めた人に将来助けが必要になるかもしれない人が「マウンティング」をかけてしまうのである。これがリーダーや統治者のいない社会の実情である。

調整は効かないがなんとなく動いている社会では「目の前の問題は無視しろ」という圧力の他に「とにかく今動いているものを止めるな」という圧力がかかる。そしてその圧力を受けるのは人が足りなくなっている現場である。運送・配送の現場でもかなり悲惨なことが起きているようだ。

JRは電車を止めて無理に通勤者が出てこないようにした。前回台風15号の時には一部が止まったために「行けるところまで行こう」とした人たちが津田沼駅で何キロにも及ぶ列を作ったりしたからだろう。今回、確かに鉄道では混乱は起きなかった。

ただ「自己責任」にすると必死で職場に到達しようという人がたちが出てくる。自分たちの手で自分たちのオペレーションが止められないのである。

Twitterでは「帰りの電車が見つからないなら働いた後に適当に泊るところを探せ」というような配送現場がでているというような話が出ていた。真偽はわからないがありそうな話ではある。

お店に品物がないことにも耐えられなくなっている。コンビニではずぶ濡れで品物を運んで物流を支えた人たちもいたようだし、トラックドライバーを休ませるなという話もあったそうだ。こうした話がちらほらとTwitterで流れてくる。どうにかならないものかと思う。

全体として「止まったら死んでしまう」というような強迫観念にとらわれているという印象を持った。日本は補給が十分でないインパール作戦を戦っているのだが、一体何と戦っているのか、誰の指示で戦っているのかがわかららない。だからとにかく戦い続ける。多分疲弊した人たちから徐々に消えてゆくだろう。政治はそこにあるがすでに不在になっているのだろう。そしてそのことに誰も憤らなくなってしまっている。

今回も日本には自然災害が多く「何かあったらオペレーションを止めざるをえないほどの被害が出る」ということを学んだ。だから何かあったらオペレーションを止めて「復興に全力をあげましょう」といリーダーか統治者が必要なのである。日本人はこれまでもそうしてきたし、これからもそうせざるをえない。

だが、どこから来たのかどこへ行くのかを全く気にしない「自称保守とやら」からはそんな話は聞こえてこなかった。これが我々を不安にさせている。

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不安を言い出せない社会と拡散するデマ

先日スーパーでパンがなくなったという話を書いた。不安な人が多いんだろうなあと思ったのだがQuoraやTwitterでは未曾有の台風なのだから備えて当然だというコメントをいくつか頂いた。もちろん備えるのは悪いことではない。




しかし、別の店にはまだパンがあった。多分テレビで情報を見て心配になり、買いに行ったら実際に品薄になっていた。そこで心配になり余剰の購買につながったのだろう。つまり今回強調したいのは備えることの是非ではなく、その行動が合理的かどうかである。合理的でないとしたらなぜそうなるのかということだ。

台風19号に備えてパンがなくなったスーパー

まずなぜそうなるのかという点から考える。今回は「身近に危険が迫っている」というメッセージがあった。さらに過去に南房総の住人がひどい目にあっているという情報も流れてきた。ところがソリューションを提供する人がおらず(マスコミは情報を流すだけなので地域コミュニティがなんとかすべきだった)解決策が見つからない状況になっていた。すると人々は過剰反応覚悟で備えるしかなくなる。

単純に言えば「地域コミュニティの不在」が招いた事態といえる。マスコミは情報を伝えてはくれるがコミュニティまでは作ってくれない。そんな中で砂つぶのようになった人々が情報を受け取るとこうなるのだ。

砂の粘度が現れているのがコミュニケーションの不在である。

今回見ていて「だれも何も言わない」ことがとても気になった。高齢者が棚をぐるぐると回っている。歩いてもパンは見つからない。とはいえ騒ぐ人もいない。なぜならば災害はまだ起きていないからである。つまり「未然の状態」なのだ。

高齢者が何も言わないのは彼らが戦後の混乱期という自己責任社会に育ち、今まただれも頼れないという時代を生きているからだろうと思う。加えて未然の状態であり目の前に明白な危機がない。漠然とした不安を抱えると人は合理的でない行動を取る。

彼らは「迷惑をかければコミュニティから排除されて捨てられる」という社会を生きてきた。だからよく「迷惑はかけられない」という。中には電車に乗って席を譲られると逆に怒り出す人がいる。彼らにとって迷惑をかける人というのはすなわち社会の厄介者であり無価値な存在だということになるのだろう。助けが必要な人ほど引きこもってしまうのだが、普段はそれが目に見えない。

と同時にそれは彼らが「役に立たない存在」向けてきた刃でもある。今でも、電車に乳母車と一緒に乗ってくる人たちに向けられる「迷惑だから家にいればいいのに」という暗黙の視線である。これは、現在の少子化につながっている。個人が自己責任の殻に引きこもっているが故に協力して全体最適を目指すということができないのだ。

ところが黙っているのは彼らだけではなかった。お店の人たちも何も言わない。話題を振ってみたが凍りついた笑顔で対応されただけだった。こちらは別の理由が考えられる。彼らはパートで発注権限がない。このために物資がなくても何もできない。多分そういう気持ちがあって目の前の問題を見てみぬふりをしてきたのだろう。この地域は一週間電気が止まっており恒常的に品薄が続いていた。そのときも何もしなかったしできなかったのだろう。現場からの声がなければ発注側は異常に気がつかない。

今回の台風被害ではあらかじめ想定されていた風害と停電に対しての初動は早かった。役所がフォーメーションを組んでおけるからだ。しかし今後予期せぬ洪水に対してどう対処したかが検証されることになるだろう。今の役所には権限がない。このため事前に決めておいた通りにしか動けない。日本社会の雇用環境が硬直化しておりリーダーが権限を握りしめているために柔軟に動けない。

高齢者は声を上げず現場もなにもできない。こうなると、全体が沈黙を守ることだけがパニックを防いでいるという状態になる。不安は封じ込めるしかない。すると当事者たちは自己防衛的な気分を強めてゆく。今回は局地的な品薄という問題だった。多分貯蓄を抱え込んで使わないというのも同じ気分に由来するのではないかと思われる。だが、社会がない以上そうするしかないのだ。我々が見ているのはかつて我々が作ってきた社会の廃墟であってその中身は多分かなり荒れ果てている。

沈黙が問題を解決しないのは明らかである。問題が解決しないのだから不安はいつまでもなくならずさらに全体的にみると合理的でない行動が繰り返される。多分、必要なのは「パンがなくて大変ですねえ」と笑ってみせることだ。だがそれをやろうという人は誰もいなかった。

この裏返しとして台風19号は未曾有の大きさの台風であり地球最大のカテゴリー6クラスであるというデマまで飛んだ。江戸川区が浸水して1週間は帰れないだろうと断言する人たちもいた。解消できない不安は匿名の情報空間に反動的な情報を拡散させる。実際に台風19号は広い範囲で浸水被害を起こしている。だから、Twitterには信頼できる情報だけを流すべきだ。それでも、不安の中で人はありもしない情報を拡散させ、またそれを信じてしまう人が出てくるのである。

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みんなとは誰か – 香港騒乱と憲法改正問題

香港の騒乱について議論をした。当初、香港は中国に返還された。香港には中国人が多いのだから当然主権は香港人のものになったのだろうと考えた。ところが、これが違っているという指摘があった。香港の基本法によると香港には主権はないというのだ。だが、後から香港は中国に代表を送っているともいう。訳がわからないと思った。




その鍵は中国の憲法にある。「中国国家制度の枠組み」という文章によると、中国は人民独裁国家という仕組みをとっているそうだ。主権・民主主義という概念が特殊なのである。

この文章によると人民が政治権力を独占するという人民独裁制という体制をとっているという。中国は無産階級独裁を目指したが民族資本家を取り込む必要があり無参加階級である。この体制に異議を申し立てる人は人民から排除されても構わないということになっているのだという。つまり人民はPEOPLEの訳語ではない。要するにみんなに逆らう人はみんなからはじかれるということになっている。

この考え方は極めて東洋的である。西洋人ならば権力者という個人が他の個人から人権を奪うと捉える。だが、中国には集団的な人民という階級がいて彼らが内輪で話し合って何が受け入れられるかを決めるのだということになる。

香港が中華人民共和国に復帰する時、中国の体制に親和的な無産階級であれば「我々の手に戻った」と喜んでもよかったことになる。ところがこれを強調しすぎると香港から資産家階級が逃げ出してしまうので(実際に今回そういう動きが起きているそうである)この辺りを曖昧にして復帰したのだろう。「主権」という言葉の揺れが社会インフラの破壊にまでつながったという意味では恐ろしいことだなと思うが、資産家はいずれは国をでなければならなかった。

このような話を書くと「ああ、やはり中国は恐ろしい国だ」と思ってしまう。ところが実際にはそうではない。この「みんながいいと思っていることがいいことなのだ」という考え方は日本でも割とよく見られる。

公明党が「中道政治とは何か」という文章を出している。中道とはみんなが常識として持っている価値体系だそうだ。

そのどちらの側にも偏らず、この二者の立場や対立にとらわれることなく、理の通った議論を通じて、国民の常識に適った結論(正解)をさがし、創り出すことを基本とする考え方である。あえて、つづめて言えば、中道政治とは、「国民の常識に適った政治の決定」を行うことを基本とする考え方であると言っても良い。

中道政治とは何か(上)

この背後に宗教団体がいることを知っているので違和感を感じるが「自分は常識的な人間で偏りがない」ということ自体は日本ではよく聞かれる意見だ。このため朝日新聞は偏っているとか産経新聞は偏っているという人がおり「自分は偏りがない中道な意見が読みたい」という人さえいる。ところが、その中道は何かと聞かれると「みんなの常識なのだ」というような言い方になり答えがない。

日本人は多分「この考え方は中国共産党的だ」というと怒ると思うのだが、実際には「みんなの正義が社会の正義であるがそれが何かは説明できない」というのは日本でもよく見られる議論である。最終的にはそれはみんなの正義だから個人では逆らえないなどという話になって終わる。

自民党の憲法草案も「みんなが選んだ議員が決めることが正しいのだから自分たちが何が公共かを決めることができる」という考え方で作られている。批判をする人は「みんなには入らない少数者はどうするのだ」というのだがその答えはない。自分は中道でみんなの意見と合致するのだから、当然何が間違っているかを判断する目を持っていると考えるのである。

この「みんなが正しい」という表現は東洋的な政治議論を読み解くカギになる。公明党のみんなというのは多分支持母体である創価学会の信奉する理念のことを意味するのだろうし、自民党のみんなというのは彼らの支持母体の一つである日本会議の価値観を含んでいるのだろう。これは中国のみんなが実質的に人民代表大会とそこで選出された代表者を意味するのに似ている。そのサークルに入っていると感じている人は安心感を覚え、そこに入っていないと感じる人たちからは猛烈に反対される。

日本の憲法改正議論が進まないのは小選挙区制を導入してしまったからだろう。当然二大政党に向かうのだが、日本の場合は政権交代が起きないので排除され続ける比較的大きなみんなに入れない人が存在し続けることになる。議会ですらみんなが作れないのだから国民が包摂できるはずはない。

案の定、安倍首相のいうみんなは「オトモダチ」と呼ばれるようになった。経済停滞期に入り「みんなを納得させるだけのアメ」が配れないのだ。外で見ているだけの人たちは当然それを攻撃するだろう。最近ではテコンドーの金原会長が「理事のみんなは賛成している」といって選手出身の理事と副会長と対立している。理事の一人は話が全く通じないので過呼吸を起こして倒れてしまったそうだ。テコンドーの協会は選手や国からお金を取ることしか頭になくオリンピックを目指す選手たちと利害が対立しているのであろう。

いずれにせよ衰退期の日本は「みんな」が作れない。経済的にみんなを抱き込めないからだ。

一方、人工的に「みんな」を作ってしまった中国は別の問題を抱える。つまり「みんなでない」と感じる人たちが出てくると彼らを理論上統治できなくなる。結局は経済的に満足感を与えておかなければならない。香港の場合はいずれ中国の一部になる。この時に香港のみんなが中国共産党を信任しないという状況になれば、彼らの統治の正当性が破壊されてしまう。

新疆で何が起こっているのかはわからないが、漢族支配の共産党を信じないウィグル人が大勢いるとしたらそれは不都合な存在として隠蔽されるだろう。ウィグル人のみんなが共産党を支持しているという図式が崩れてしまうからだ。チベットにも同じことが言える。中国がこれを隠せるのはチベットや新疆が奥まった地域にあるからだ。ところが香港は資本主義社会への窓口として西側に開かれておりそうした隠蔽はできない。

そうなると中国は香港人の不安(例えば住宅の不足など)を解消することでデモ勢力から「みんな」を引き剥がすることになるだろう。結局気持ちをつなぎ止めておけるのは経済的な成功だけでそれが止まれば中国は今の体制では多分維持ができなくなる。意思決定の失敗を受けとめるという意味での主権者がいないからである。

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政治の最前線はパソコンとスマホの中にあった

4月ごろからQuoraで政治系のスペースをやっているのだが、最近やたらと中国関連のポストが多くうんざりしていた。とにかくアジアの蔑視感情を持った人たちが政治ポストを荒らしたがるのだ。だが、考えてみるとこれが最前線なんだなあと思いちょっと見方が変わった。あまり人と交流するのは好きではないがこういうのもやってみると意外な発見があるものだ。




最近もっともうんざりしたのが「ウィグル虐殺などない」というポストである。中国系カナダ人が現地に行って調べてきたが、ウィグル人は平和に暮らしているから何の心配もいらないというのである。英語の元ポストをみたら「大手マスコミは嘘つきだ!」というコメントがたくさん付いていた。すべて中国系のファミリーネームである。わざわざこのように荒れることがわかっているポストする方もセンセーショナルな記事を掲出して露出を増やしたいんだろうなあと思う。

個人攻撃は禁止しているので「お前は嘘つきだ」というポストは付かないのだが、今度は黙って「中国はウィグルでこんなにひどいことをしている」というURLがシェアされた。ここで反応がないと絨毯爆撃的にシェアが増える。

後でわかったことだがこの人たちは承認欲求があるようだ。つまり自分たちが正義だと思っていることを披瀝して誰かに丁重に扱われたいのである。だから慇懃に接すると落ち着き「お前も反省したようだな」などといってくる。政治議論というよりみな「正義」について語りたいのだろう。Twitterにうんざりしている人は「承認欲求」が何か悪いことのように語られる日本社会でほとんど唯一の承認欲求の捌け口がSNSの政治議論になっているということを知っておいて損はないと思う。認めてもらいたい人は多いが人を認めようとする人は少ないという程度の話であるが、人間は誰でも認められたい。

こういうポストに腹がたつのは「政治系のポストは<中立>でないとみんなうんざりして読んでくれなくなる」と思ってしまうからである。イメージとしては池上彰式のドライな事実だけを「お店にきれいに」並べたいという感じである。承認欲求のために店を荒らす不良のお客さんに怒るのと同じ感覚だ。

だが、Twitterをみていてそういう気分が吹き飛んだ。香港に独自政府ができたというTweetが流れてきたからだ。もう「池上式」は無理なんだろうなあと思った。この変化は受け入れる必要がある。

これがどれほど確かなのかはわからないし、どう広がってゆくのか(あるいは行かないのか)もわからない。だが確実に言えるのは民意に影響を与えたいという人たちがいてそれぞれの宣伝活動に励んでいるという点である。

日本と大きく違っているのが彼らが「主権」をかけて宣伝活動をしているという点である。日本は国民主権ということになっているがおそらくそれを信じている人はそれほど多くない。誰かが何とかしてくれるとみんなが思っている。だから政治は承認欲求を満たすための道具にしかならない。だが主権者意識を持っている人たちにとってこの宣伝活動は「ガチ」だ。

我々はかつて東西冷戦というしっかりとした構造を生きていた。だから政府が作ってマスコミが「正しい」と考える情報を受け止めていればある程度のことはわかったのである。お客でも良かったのだ。あとは社会設計通りに生きていればそこそこの暮らしは保障されていた。SNSはまだなく2chなどは「感想を言い合う場所」でしかなかった。

ところが現在は状況が全く違っている。しっかりとした構造はなくなり民主主義が必ずしも絶対的な正義としては語られなくなっている。民主主義はたいていの社会では分断されており問題の解決ができなくなっている。その上で情報の流れが完全に逆になった。民意はまずSNSの上で作られそれが政治に影響を与え、最後にそれをマスコミがまとめるということになっている。

最初「荒れている」と思っていた両者がぶつかり合う世界は実は現在の正常であり何も嘆くことではなかったのだ。我々はただそれに慣れて行かなければならないし、その気になればいろいろなことが発見できるのだろうなあと思った。

ただその荒れ方の中身は見たほうがいいと思う。承認欲求のために荒れている人もいれば主権をかけてガチで争っている人もいるのだが表向きこの二つは同じ混乱にしか見えないからである。

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原発と人権問題という最悪の組み合わせ

関西電力の問題は思わぬところに飛び火したなと思う。まず人権問題に飛び火し、つぎに政界に飛び火した。稲田朋美元防衛大臣の地元が福井県ということがあり献金を受けていたというのだ。実際の献金額は36万円とたいした額ではないが返金を検討中だという。




こうして関連する問題が増えると群がる人も増えてくる。与党支持者にも野党支持者にもアイデンティティの一部を問題に固着させている人がいるからだ。

原発反対派は何が何でも原子力発電所の後ろ暗いところを見つけたい。反核運動は護憲派左派野党の最後の砦の一つである。また「稲田朋美」という名前が出てきたからには安倍政権を攻撃したい人たちもこの問題に熱心に取り組むだろう。

一方、保守の人たちも「野党は人権団体とつながりがあるからこの問題を一部隠して報じているのだ」とするに違いない。彼らはマイノリティ利権という言葉に敏感でありそうした特権が「善良で普通の人たち」から何かを盗んでいると信じている。

世界情勢の変化について行けなかった日本人は現実の安全保障問題を解決できなくなっている。だからこの話はタブーになりかけている。北朝鮮のミサイルをアメリカが黙認しているという事実について尋ねると政治に関心がありそうな人たちほど沈黙する。中には「まず憲法改正だ」などという人がいるが、日本の憲法を変えてもトランプ大統領の頭の中は変わらないだろうし、朝鮮民主主義人民共和国が開発したミサイルが消えてなくなるわけでもない。現実に対応できないからこそ、ありもしない問題の方が重要になってしまう。かといってそんなさなかに軍隊を全く持たないという選択肢もおそらくはもうない。アメリカの軍隊に期待できないからだ。

この話は皮肉な入れ子展開になっている。おそらく本土日本人は心の中で沖縄を捨て石にしていると思うのだが、アメリカは日本を捨て石にしている。朝鮮民主主義人民共和国のミサイルが日本に届いて日本が攻撃されれば日本に被害が出る。しかしアメリカはそれを口実に朝鮮民主主義人民共和国を攻撃できる。そうすればアメリカは無傷で助かるのである。実際にロシアが沖縄に対してそれを仄めかし琉球新報が伝えている。つまりロシアもわかっていて情報戦を仕掛けているわけだ。

この問題はまだ現実になっておらず従って明確な敵がいない。すると不安は広がるが現実の脅威に対抗して一つになるべきだというような動きも起きない。不安に耐えられなくなった人たちはいろいろな問題を見つけては「議論」したがる。しかし、現実の問題ではないので解決策はなく従って泥仕合いになる。巻き込まれる人は増えてゆくが誰も幸せにはなれないだろう。

すでに<M氏>が持っている資料を洗いざらい世間に公表すべきだなどと言い出す人が出てきているのだが、これは遺族を巻き込むことになる。皆忘れているようだが彼ら家族は「人権問題」の当事者である。すでに家族の一人が検事であるというような情報も出てきている。

私たちはこうした扱いが難しい問題に蓋をしてなかったことにしてきた。人権問題の当事者の中にはひっそりと事実を隠して生きていた人たちもいるだろうし、アウトサイダーとして既存のモラルや社会規範の外側で生きざるをえなかった人たちもいた。これを我々は世間一般の常識ではかることはおそらくはできない。前回見たナイジェリア人のハンスト餓死者もそうだった。同じような人たちはまだたくさんいてそれを閉じ込めている。

入管庁によると、退去強制令書を出され、6月末時点で入管施設に収容されている外国人1147人のうち、約75%に当たる858人が送還を拒否している。858人中366人が薬物事犯や殺人、性犯罪などで有罪判決を受け、うち84人が仮放免中の犯罪だった。ハンストは6月1日~9月25日、198人が行い、うち36人が9月25日時点で続けている。

収容外国人ハンストで死亡 入管施設で初、報告書公表

大村では食料がきちんと供給されている施設での餓死という明らかに異常な事態が起きて問題が表面化したのだが、扱うマスコミはおそらくほぼないだろう。これを突き詰めてゆくと外国人集団の問題に突き当たり、外国人集団の問題は外国人の待遇の問題に突き当たる。疲弊した地方がそれを抱えることができるのかという問題を考えなければならなくなってしまうのである。この問題の裾野はそれほど広い。

こうして不都合な事実は隠蔽される。私たちが「枠外に人を置く」ということはやがて管理不能な何かを生み出すということである。今回の高浜町の話も原発誘致の時には「管理ができる」と思っていたのだろうが、結局どうにもならなくなり表沙汰になってしまった。と、同時に高浜町が抱えていた長年の闇も表に出てきてしまった。経済的な繁栄が隠蔽してきた問題が衰退期に蒸し返されたと言えるのかもしれない。

関西電力の問題はおそらくは通常の企業の不正問題として分析されるべきで、そこから問題を取りだそうなどと考えないほうがいいだろうが、多分誰かがそれを掘り出そうとするに違いない。掘り出そうとする人は自分たちが何を扱おうとしているのかをきちんと考えて目の前の変化と衰退という問題を正面から捉えたほうがいいだろう。

特に人権問題という観点で高浜や大村の問題を扱いたい人たちはそれ相当の覚悟を持つべきである。善い人に見られたいという理由で語れる問題では恐らくなくなっているように思えるからだ。

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M氏と呼ばれた男はなぜ関電幹部を巻き込んだのか

関西電力の問題がヒートアップしている。本来は私企業と私企業の間の話なので贈収賄などは成立しないはずなのだが、関西電力側が説明を躊躇したせいで問題が大きくなった。ここでわからないなと思うのは、なぜ森山栄治さんが関電幹部を巻き込んだのかということである。もともとは合法的なお金なのだから好きに使っても良かったはずなのだ。




この問題が「贈収賄にならないのでは?」とされていた時には、あまり世間の注目を集めなかったが、お菓子の下に金貨が敷いてあったという強力な前近代性のある話が出てきて一気に盛り上がりを見せはじめた。だが、いろいろ調べて行くうちに「小判だけが前近代的なのではないんだな」ということがわかった。そろそろ週刊誌にも後追い報道が出るようだ。

最初に注目したのはこの森山栄治という人が90歳の高齢だったという点である。1928年の生まれなのだそうだ。そこで「戦後の混乱期を知っているからお金以外のものは信頼できなかったのだろう」と思った。そこで人物を調べてみたのだがWikipediaに生涯がまとまっていた。この文章に「人権」という文字がある。関西に近い北陸圏で人権といえばもうそれは「あの人権」しかない。ああ、これは新聞やテレビはできないだろうなあと思った。

松本清張ならこれで一冊の推理小説が書けるだろう。戦後の混乱期になぜか故郷を離れて京都府庁に就職した若者がいた。やがて財政が逼迫しているからという理由で請われて故郷に戻ってくる。裏には「地域の<事情>」に詳しいという理由もあったのかもしれない。なぜか彼は強権的に振舞い出すが誰も口出しができない。バックに大企業と町がついているからである。彼はそうやって地位を確かなものにしてゆき誰にも止められなくなる。関西電力もおそらくはこのことを知っていたに違いない。「人権教育」ということで「先生」と呼んでいたからである。そして事情を知っている役場は彼をMと呼び続けた。

関西電力には言えないことがいくつかある。多分、電源開発する過程で反対派の抑え込みをしているはずで、その経緯を関西電力は知っているはずだ。これをバラされると困るという事情があるのだろう。ダイヤモンドオンラインにそれを指摘するコラムを見つけた。窪田順生さんはこれを「ヤクザも真っ青」と言っているが、その詳しい中身は書けないだろう。検索すればそれを指摘する記事も見つけられるのだが、リンクするのははばかられる。

アンタッチャブルには「手をつけてはいけない」という意味があるのだが、それ以外にも意味がある。彼はいろいろな意味でアンタッチャブルな存在になった。そして関電はそんな彼を利用して「自分たちだけはきれいな」ままでいようとした。おそらく財政に逼迫していた町も知っていてそれを容認したのだろう。

この話はネットメディアでも取り扱っているところがあり、週刊文春や週刊新潮も後追い記事を出すようだ。おそらくこうした運動体を危険視する内容になるのではないかと思う。最初の差別があり、それを自分たちの営利に利用し、亡くなってから都合が悪くなるとまた切り捨てて化物呼ばわりする。まさに昭和の闇が令和になって蘇った風情がある。

ここからMと呼ばれ続けた人がなぜ関電幹部を巻き込んだのかもわかってくる。なんとなく戦中戦後の混乱を経験した人が「お金や金(きん)しか」信頼できなかったということはわかる。彼らはこれを身分保障のようなものと考えており、それに連座する人を増やしたかったのだろう。だが、既存のシステムに期待することができない「守られていない人たち」にとってはこの行為はそれ以上の意味を持っていたのかもしれない。つまり、自分たちに危険なことを押し付けて自分たちはきれいなままでいるのかという気持ちである。

日本は危険な原発を地方に「押し付ける」過程でかなり無理をしてきた。その原資になっているのは一人ひとりの電力使用料金だ。その意味では我々もこの厄介な問題に加担していることになる。差別とは恐ろしいものだと思う。

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