うちらの世界の強みと限界 – なぜ安倍支持者はヤンキー化するのか

日米防衛について考えているとき、安倍政権退陣と絡めた感情的なリアクションが多かった。なぜこうなるのかと考えていて「安倍信者がヤンキー化する理由」というタイトルにまとめることにした。




多分きっかけは、多分「桜を見る会」だ。お花見の私物化で安倍政権が危ないかもしれないという背景に過敏に反応したものと思われる。彼らは攻撃には強いが防衛力は弱いのでキレてしまうのである。いつもは政権が提案していることを「正しいのだ」と言い張っていればいいのだが、弁護はそうはいかない。自分なりのロジックを組み立てる必要がある。彼らにはそれができないのだろう。

そこにトランプ大統領が在日米軍駐留経費を4倍にしたというニュースが重なったことで彼らはそれを同一のニュースだとみなした。彼らは心理的に米軍に依存してしまっているので米軍は無謬でなければならない。「このままでいい」という彼らにとってトランプ大統領は不都合な存在である。なかったことにしたいのではないかと思う。今回河野太郎大臣が否定発言を出したので「NHKと時事通信社発のフェイクニュースだ」というコメントがついた。トランプ大統領にも見られるリアクションである。

よく考えてみれば在日米軍経費の件は合理的に交渉すべき問題であって特にすぐさま安倍政権の転覆には結びつかないし、トランプ大統領の気まぐれでいちいち政権が代わってもらっても困る。

この「力関係には敏感」で「現状を好み」なおかつ「自分の言葉で語れない」というような気質はよく「ヤンキー気質」と言われる。「うちらの世界」が好きな人たちなのだが、実際のそのうちらの世界はコンビニの前だったりするというニュアンスである。つまり、彼らはうちらの世界は作れないのである。ただ心情的にそれがあるふりをしなければならない。ヤンキー気質にはそうした遊離がある。

しかし、かつての自民党支持者はそんな人たちではなかった。例えば、麻生政権時代の支持者たちは建設など特定の業界の人が多かった。当時は公共事業悪玉説が出ていて「世間の風当たりが強かった」ので彼らが機嫌が悪かったが、一般の人たちと空気を共有していたわけではなかった。

だが、どういうわけか今の支持者は安倍政権と自分たちの心情をリンクさせている。理由はわからないが、自分たちが築き上げた村のようなものが「インテリ(彼らから見ると何もしない人たちである)」に屈辱され・否定され・傷つけられるのが嫌なのであろう。実際にはそんなものは最初からなかったのかもしれない。意外と安倍政権の危うさがヤンキーたちの支持を集めている理由なのかもしれない。そこはかとない不安である。

ヤンキーたちは自分たちの自尊心を「俺らルール」で守っているような人たちであるが、その自尊心は世間からは相手にしてもらえない。コンビニの前にたむろしていてもそれは「彼らの場所」にはならない。この「相手にしてもらえない」という感じが支持者たちの心情と重なるのかもしれないとも思った。

今回、たまたま沢尻エリカ騒動が起きている。繰り返し「別に」発言が流されているのだが、これは周りの大人なインテリたちが沢尻の苛立ちをなかったことにしょうとして納めてしまったという事件である。また沢尻の側も「自分が置かれている状況に関する違和感」を口にできないことで子供じみた攻撃性を露出してしまっている。このいなされた感じはいなされる側から見ると「まじむかつく」かもしれないのである。

おそらく、安倍支持者の主張というのも「別に」程度の話なのだろう。つまり、状況が変わってしまえばまた相手にされなくなってしまう。しかし、彼らの違和感を丸く収めようとしても、論破しようとしてもそれは無駄なことである。苛立っているのがわかっていてもスルーするしかない。合理的に説得しようとしても彼らはそれを理解しないからである。

重要なのは安倍支持者たちの別に発言にはそれほど意味がないということだろう。実際の問題の所在は提案能力を失っている議会や、「政治をはどうせ変わらない」という諦めにあるのだろう。つまり、安倍支持者に苛立つ時間があるのなら、自分たちの提案を検証してみたほうが良いのだと思う。

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SNSで「お前は政治の本質がわかっていない」といって他人に説教する人たち

Quoraで政治ネタを書いていると高評価が得られるものとそうでないものがある。「外国の民主主義の形状」について書いているものは割と高評価が得やすい。一方で、香港デモや中国の新疆ウィグル自治区のエスニッククレンジングについて書いている人もいるのだがこれは評判が得にくいようだ。個人のポジションが乗るとダメらしい。




日本語のTwitterでは政治的立場によってバイアスのかかった情報が飛び交っている。そんな中で「できるだけ科学的に見えて中立な」政治情報を欲しがる人が多いのは理解できる。例えば外国の通信社(ロイター・BBCなど)やマスコミが出している記事は信頼性が高いと思われるようだ。

ヨーロッパや中南米の出来事は受け入れやすいようだが日本と関係が深い中国とアメリカはそうはいかない。アメリカのことはよく「宗主国」などと揶揄して書くことがあるのだが、やはり心情的に近いと「公正さ」が失われると感じる人が増えるのではないかと思う。情報が多い分、感度が高くなっているのだ。

実際に中国政府や香港のデモ参加者をバッシングするような投稿を「無視」して進行しているのだが、彼らは確信犯的な闘争を深めることになる。逆にエビデンスを示せ!などと挑発的に書くと多分Twitterのような状態になるのだろう予想される。つまり、勝つ議論に移行してしまうのだ。勝つ議論は攻撃性が高く公正な情報を欲しがる人はそれを嫌う。

例えば「朝鮮は植民地だったのか」という<議論>がある。これは二つの意味で無意味な議論だ。第一に第二次世界大戦以前は植民地も侵略戦争もある程度大目に見られてきた。つまり、第二次世界大戦前に植民地や殖民地と書かれていてもそれ自体が犯罪行為ということにはならない。第二に日本人は朝鮮を内地として扱うか経済搾取の対象にするのかを決めておらず曖昧な立場をとっていたために、過去のドキュメントを見ても何もわからないのである。だが、これが議論として成り立ってしまうのは人々が勝つために争っているからである。

人々は情報を求めてはいる。これが面白いのはこの「知るための議論」が決して個人の領域を出ないことである。人々は公正な新聞は読みたい。しかし、その人々が語る政治論はどれも偏っている。つまり自分で判断を下したらそれが検証されることはなく、その意見の押し付け合いが始まる。なのでSNSには大多数のROM(読むだけの人)と自分の意見を押し付けあう兵士で溢れている。言論空間は闘争か黙秘かの二択なのだ。これがとても不自然に感じられる。

日本人は公正な情報はあると考えているがそれは必ず個人の心象と合致する。おそらくは社会常識を知らず知らず自分の常識に合致させてきた人が多いのだろう。そしてそれはおそらく自発的に行われてきたに違いない。そして、日本は「常識をいえば褒めてもらえる」という単純な社会だったのだろう。ところが世間というものがなくなってしまい常識も消失した。だがそれでも人々は公正な新聞を読みたがっている。多くの人が政治情報で彷徨うのはそのような理由からではないかと思える。常識を言えばみんなに褒めてもらえるはずなのだが、それが見当たらないのだ。戸惑っても当然である。

こんな状況で「話し合ってみては」などと言ってみても何の意味もない。そんな経験はしたことがないからである。

恐ろしいのは彼らが或る日突然「自分の心情に合致した」情報に触れてしまう可能性である。いわゆる目から鱗的感覚である。実に危険だ。

先日、何気なく「第9条の会」についての個人的な経験を書いたのだが、これがシェアされることが多かった。どうやら、憲法第9条は共産党が新人勧誘の入り口商品として使ってきた歴史があるようだ。「戦争はいけない」というのは誰もが反対できない心情に合致するテーマなので、これをきっかけに勉強会に誘い次第に共産主義(といっても彼らが考える日本流のものだと思うのだが)を教え込むという方法が取られてきたようだ。

こうしたことが成り立つのはすでに出来上がった体系と組織があるからだろう。つまりムラがあるからだ。まずは誰にも反対できないような心情を与えてイエスと言わせてから徐々に自分たちの教えに導いてゆく。こうすれば受け手の「自分は公正中立である」という心情を維持したままで組織の色をつけて行ける。

だがこれは随分回りくどいやり方で、したがって今ではこうしたやり方を維持して行ける人たちは少ない。「ムラ」に閉じ込めて強化学習を繰り返さなければならないからだ。共産党や公明党では新聞が役に立っているようだが、これを一生維持するにはお金と労力がかかる。

このムラを失った日本人は今ではSNSを彷徨い歩いており「なんの偏りもない自分」の心情を反映してくれる<信頼できる>情報ソースを探している。そんなものはどこにもないのだから人々はSNSで「あなたは本質がわかっていない」と言って他人を攻撃するのだろう。

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おっさんの国家観と全体主義

ボランティアでQuoraで毎日「スペース」という政治ブログを勝手に担当している。Quoraはそもそもは質問・回答サービスなのだが、ROM好きな読者が「簡単に国際情勢を知ったように思える」というような読み物を目指していて、同じテーマを扱って吐いてもこのブログよりはずいぶん大人しめだ。そこに「ちゃんとした国家観がないのに政治を語るな」というクレームが入った。クレームなのだが「本当は話を聞いて欲しいんだろなあ」と思った。




経歴を見ると「一部上場企業でたくさん部下がいた」と書かれている。こういう人が引退して家にこもるようになると誰も話を聞いてくれない。小さなクレーム風のコメントをいろいろなところに書いているようだ。

以前同じようなクレームに「色々とご存知なんですねえ」というコメントをつけたことがあるが、その後で様々なクレームをつけてくるようになった人がいる。社会的認知には報酬系に働きかけるので麻薬のような効果がある。報酬が切れた時にもっと辛くなるだろう。孤独と共感という本を読んで高すぎる自我は攻撃性を助長するだけだということがわかったので、今回は「彼が答えを書ける場所を用意してあげることくらい」しかできないんだろうなあと思った。

「ちゃんとした」が翻訳しにくかったので「あるべき」として質問を立ててみた。案の定「日本は神武以来の歴史がある国」であるから日本はもっと世界から賞賛されるべきであるという長文の回答が返ってきた。これが「この人にとっての当たり前」なのだろう。会社では賞賛されるがSNSでは黙殺される程度の話でしかない。

こういう大人がたくさん組織の中に囲われているというのが日本社会の残酷さだ。おじさんたちは定年間際になると肥大した自我で問題を黙殺し「自分たちの当たり前」を他人に押し付けるようになる。これが社会と決定的にずれていて日本社会や組織を死滅させるのだ。

SNSでクレームを言われると「自分が攻撃されている」という気分になる。つまり、いわゆる「くそリプ」の類なのだが、くそリプにも有用性はある。これに対してリプライを書いた。そこで考えたのが「全体性の話」である。この方に響くことはないだろうが普段考えていることの良いまとめになった。

国家にしろ社会にしろ健全な状態では特に違和感は感じられない。ところがある部分が痛むとそこが全体から切り離されているように感じられることがある。これが全体性が損なわれた状態なのだが、日本語にはこの健やかな全体性を表す言葉がない。この感じを伝えるにはどうしたらいいのか?ということを考えて思いついたのが昔学校でシスターに教えてもらった小指の話だった。小指に怪我をするといつもの素指のことが気になる。神様はそのようにしてあなたのことを気にかけているのですよという話につながっている。

この話は子供に「全体性」を伝える話である。キリスト教において神は人格ではなく原理なのだろう。

健康な時に我々は小指の存在を忘れている。しかし怪我をするとそれが部分として切り離されて意識される。それが全体性が損なわれたという感覚である。切り離された側はおそらく孤独を感じ周囲に痛みを伝える。

この全体性を取り戻すことを英語では健康(healthy)と言っている。英語にはwhole/heath/healという一連の言葉がある。このブログではハイル・ヒトラーの意味という記事で取り上げたことがあるが、ドイツ語にも同根の言葉があるのだ。いわゆる哲学用語ではなく割と一般的な感じである。wholeという全体性が保たれた状態があり、それを回復するのがhealなのだ。そしてhealが保たれたのがhealthyなのである。

ところがこの全体性の話を日本人はしない。おそらくはだが恵まれた自然環境に囲まれていて「村に全体性がある」ということが意識されないからだろう。あまりにも当たり前すぎてこれまで意識する必要すらなかった感覚ではないだろうか。

西洋には全体性を示す哲学体系とそれを表す言葉がある。ところが日本ではあまりにもありふれているので「里村」のような全体性がある環境をいいあらわす言葉そのものがない。そして村を失った多くの日本人がこのことについて悩んでいる。

ある人たちは反日という言葉を使って小指を切り離そうとしている。痛みを攻撃と捉えているのだろう。逆に小指側には「全体主義」という反発の用語がある。「健全な全体」という感覚を知らない人は小指だけで生きてゆこうとするのである。

この全体としての一体感がどうやって生まれるのだろうかと考えてみたのだが、それはおそらく将来に対しての見通しや安心感という主観似寄るのではないかと思う。主観なのだから政体のようなシステムや法律を語ってもそこから全体性を再現することはできない。

全体性が失われるとどんな政体でも痛みが出てくる。ヨーロッパでもアメリカでも政治の分断が起きていて「世界から全体性が失われていること」がわかる。特に民主主義というのは違いを乗り越えて同じ運命共同体として生きて行こうということなので、全体性が損なわれると民主主義そのものが失われる。

だが、全体性が損なわれた状態で議論を始めてしまった人は最初から危機感に彩られていて自分の意見に固執するだろう。いわば溺れている状態なので、全体性をもう一度考えてみませんか?という声は届かないのだろうなあと思った。

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英語を話せない「自称英語専門家」が議論をめちゃくちゃにしているのではないだろうか

英語外部試験について大騒ぎでいろいろ聞いて回った。長年安倍政権にうんざりしていて「政権の終わり」がどうなるのかなと思っていたせいだと思う。調べているうちにとんでもないことに気がついた。日本には「あるべき英語試験」の姿がそもそもない。にもかかわらず制度改革が進んでいる。ここで話し合いを進めても英語試験の議論はますます錯綜するだろう。議論そのものをストップする必要がある。




最初は安倍政権が教育改革と称して英語試験に手を出し、失敗を文部科学省のせいにしたというような構図を考えていた。それだけでも良かったのだが、いろいろ話を聞いているうちに「あ、そんな単純な話でもないんだな」と思った。このまま英語試験の議論を展開したらさらにめちゃくちゃなことになるのではないかと思う。

英語のテストは本来単純なものだ。使える人と使えない人を分ければいいのだ。点数にはあまり意味がない。アメリカの学校に入るためには英語が理解できなければならない。専門学校だと授業が理解できないといけないし、大学院レベルだと論文まで書けないと卒業ができない。TOEFLはその実力を計測するために設計されている。

就職にTOEFLは使わない。志望動機を聞かれる面接がありの実力がわかるからである。就職でも「これくらいの仕事にはこの程度の英語力」というのは明確に決まっている。そもそも試験官は英語が理解できるのだから試験のスコアに頼る必要がない。

これが当たり前だと思っていたので英語の試験でここまで迷走することの意味を全く考えていなかった。

ところが面白いもので、他人に質問をしてみてこれに気がついた。どうやら最近の入試は「共通テスト組」の他に「AO入試組」などがいるようである。つまり複数の経路からバラバラの実力を持った人が入ってくる。そして大学では英語が必須科目になっていて授業を受けないと卒業できない。回答者はここで「低い方に合わせている」と不満を持っていた。

つまり、最初から英語の能力にばらつきがあり、さらに授業では英語は使わないので授業に必要な水準もなく、将来進路もバラバラなのでどの程度の英語力を持っている人を卒業させるべきかという基準もない。にもかかわらず「それらをすべて測る尺度を作れ」と言っているわけだ。水準がわからないふわふわした状態で入試をどう設定するのかという議論ができるはずはない。

お菓子を作る学校であればメレンゲを立ててケーキを焼けなければ卒業できない。だが英語にはそれがないのである。

何回かやりとりするうちに、この人が英語ができる人なんだということがわかってきた。帰国子女らしい。こうした人が実用的でない学校英語に不満を持ったり、英語学習にモチベーションを持たない人を苦々しく思う気持ちはよくわかる。と同時に英語ができる人は攻撃されやすい。発音はきれいなのに日本の重箱の隅をつつくような文法問題ができなかったりするからだ。つまり英語が実用的に使える人が日本社会に復帰すると英語ができるということを隠すようになる場合があるのである。この人も表面的には自分はできるとは言わなかった。

本来単純だったはずの英語能力の計測なのだが、実は「日本で独自に発展した使えないけど学問として成立している英語」というものがある。これが英語試験の問題をさらに複雑にする。

これは憲法議論でもあることだ。日本の憲法には明らかな問題がある。だが日本の憲法専門家はなんとなく独自の理論化をしていて「憲法第9条で自衛隊は合憲(だから今のままでも大丈夫)」というような話をしたがる。そのために憲法第13条を持ち出したりするという解釈には無理がある。憲法ができたときに自衛隊はなかったからである。これが、ガラパコス専門家の議論だ。

同じように英語は話せなくても大丈夫というような漢籍学者(中国語は話せない)風の人が英語教育を牛耳っている可能性があるのかもしれない。つまり日本の議論は英文解析系の人たちが実用英語を駆逐してしまう可能性があるのだ。

  • 中国語:英会話
  • 漢籍:英文解析

ここまでを整理すると実用英語がどんなものかわからない人たちが英語テストについてあれこれ議論しお互いを計測しあっており、英語が話せる人たちが口をつぐんでいるという悪夢のような世界があることがわかる。

例えば漢籍学者は中国語が話せない。だが「実用中国語の使い手」に対して「そんなものはちゃんとした中国語ではない」などと言い出す可能性もある。普通の人が欲しているのは実用中国語の方だろうがそれがバレてしまうと漢籍学者は地位と面目を失う。憲法議論にも英語議論にも同じような可能性があるのだろう。そしてそこに利権をめがけてやってくる政治家が加わり議論を混乱させるのだ。

かつては文献を読んでいれば良かったのだが、最近では外国に出かけて行って勉強できる機会が増えた。日本の英語学習はそのあたりについて行けていないのだろう。海外からの帰国組が増えるとさらに議論が錯綜する。「こんな試験はおかしいのでは?」と気がつく人が増えるからである。

漢籍学者は中国語を話せないと定義すると、結局できない人たち同士で議論が延々と続いていることになる。高校生は将来使うための英語と受験勉強のための使えない英語を勉強する負担を強いられるばかりか、余計な経済的負担、制度がころころ変わる不安などを抱えることになるだろう。

同じようなことは多分社会保障や雇用などについても行われているのだろうなと思う。何が実用に耐えるのかということを無視した議論が専門家とフリーライダーによってめちゃくちゃにされるという光景はいたるところに広がっているのだろう。

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あいちトリエンナーレの表現の自由をめぐる議論はなぜ空転したのか

あいちトリエンナーレの「表現の自由問題」が話題になってからしばらくたった。Twitterでは未だにこの話が政治的対立としてくすぶっている。だが、今思い返してみるととても不思議な点が多い。これを考えて行くと「日本はもう芸術は扱えない国になったのだな」ということがわかる。芸術をやるなら海外に出るかYouTubeなど外資の入ったプラットフォームで展開するのが良い。




この話はもともと見向きもされてこなかった現代芸術の話だった。なぜこれに火がついたのかがそもそもわからない。

おそらく、韓国のテレビ局に「天皇が燃やされた」というビデオと慰安婦像が組み合わせて表現されたために文脈ができたのが問題視されたのだろう。だが、議論を追ってみてもそのことが語られることはなく、あくまでも作品と主催者の「政治性」に焦点が当たっているように見えてしまう。ところが、芸術監督の津田大介も愛知県大村県知事も特に反天皇的な政治スタンスを持っているわけではなさそうだ。すると「この問題は一体何を解決したいのか」が見えなくなる。だからいつまでも落としどころがなくくすぶり続ける。そもそもなぜ慰安婦像が問題なったかといえば、その前の徴用工裁判で韓国が日本企業を「挑発したから」という流れがある。つまり、冷静に考えてみるとこの問題には流れだけがあって核がない。

もともとは「天皇は自分の内面の一つである」というメッセージだったのだが、そのことは顧みられることはなく、ひたすら自分たちのアイデンティティをめぐる戦いになっている。ところがよく考えてみるとそのアイデンティティは自分のものではない。お互いに「日本」という大きな殻を被っているだけである。一方は「伝統と私」という肥大化した自己意識を持っていて、もう一方は民主的な私という肥大化した自己意識を持っている。保守の方がグロテスクさは際立って見えるが、国から補助金が出るビッグプロジェクトで遊んでやろうという「火遊び精神」を感じる。

さらに考えを進めて行くと、どちら側も「このアリーナであれば自分たちの自己実現ができる」と考えているということがわかってくる。観客がたくさんいるからそこで何か叫べば振り向いてもらえるのだ。その観客とは実は「保守と左翼」なので、つまり彼らは依存状態に陥っていることになる。お互いに罵倒し合っているように見えて慰めあっているのだ。

表面上は「何が表現の自由なのか」ということが話し合われているので念のために、何が表現の自由なのかを見て行く。例によってWikipediaから英文を拾った。

Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed. No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.

難しいことは書かれていない。憲法に書かれているのは検閲がされないことと信書の自由が侵されないことで、隠れた主語は権力者である。つまり権力者に邪魔されずに協力ができる自由を保証しますよと言っている。つまり表現の自由の前提は協力なのである。協力による社会建設を政治だと定義すれば、政治のために表現の自由がある。ゆえに、協力する意図がない表現の自由には意味がない。

まずリベラルの方から批評してしまうと、手続きの問題があったにせよ補助金を出さないということを決めたからといって表現の自由が侵されたことにはならない。民間でやればいいからだ。民間でやろうとした時に会場を貸さないように圧力をかけたり禁止したりすればそれは検閲になるだろう。

さらにこれまで商業的に成功するための努力をしてこなかったという点も見逃されている。補助金付きの芸術展の機会があるために自助努力が阻害されたのだろう。社会に余裕がなくなり補助金打ち切りということになり芸術家が慌てだしたという側面がある。

さらに、主催者側に「自分たちの意図を理解してもらおう」という熱意はない。もし芸術監督以下のスタッフレベルに意欲があったとしたら津田大介さんを芸術監督に選んだのは失敗だった。東某という人と「燃えちゃうやつですねえ」などと言っておりとても真剣だったとは思えない。

ところが保守側にも当然問題はあり、実は捕手側の方が問題が大きい。保守といっても日本の保守は公共には興味がない。ところが今回彼らは韓国から屈辱されたということに怒っている。しかし、今になっても何に怒っているのかが自己分析できないので「天皇の写真を燃やすとは親の写真を燃やすことだ」などとキレてしまう。彼らはケシカランサヨクを叩くことが社会的正義だと信じているようだが、そう信じている間は何が問題なのかを考えずに済む。

保守にとっては、自分たちのおそらく肥大した高すぎる自己評価が毀損していることが問題なのだろう。つまり自分たちでもうすうす衰退に気がついていてそれを指摘されるたびにキレて見せることになるのだ。自己評価が高まらない限り今後も同じ問題は起こり続けることだろう。彼らにとって一連の運動は防御的反応に過ぎない。彼らは鏡をみれば全部壊して回る必要がある。愛知トリエンナーレの件はたまたま韓国のテレビ局から扱われなければ問題にならなかっただろう。その証拠にいろいろな現代美術展ではもっと過激で不快な表現も出てきているようだが、それがTwitterで問題になったりすることはない。彼らの鏡には映っていないのである。

事前に基準を示さず後付けで補助金を削減したことが問題視されているが、原理的に事前に基準を示すことはできない。何かが映り込むまで鏡そのものを叩くことはできないのである。だから、鏡にお気に入りのものだけを写し込むことはできるだろう。

だから、政府を礼賛する表現だけを集めた芸術祭を開くことはできるだろう。だが、それは例えて言えば朝鮮民主主義人民共和国のマスゲームやナチスの芸術展みたいなものだ。あれは見世物としては面白くても芸術とは認められないはずである。逆に「芸術による自由な自己発展を扱えなくなりましたよ」という自白行為に過ぎない。だが、肥大化した自我を持ってしまったがゆえに攻撃に耐えられない人たちはそのことを自ら自覚することはできない。そして周りを巻き込んで何も映すなと叫び続けることになるのだ。

今回、ここまで声が大きくなってしまったということは、日本では傷ついた自己像を持ってしまった人がそれほど多かったということである。ゆえに日本では今後大掛かりな公共芸術展はできなくなるだろう。

このように考えてみると、保守の側はそもそも公共に関心がなく、リベラルと言われている人たちも人々が協力し合って何かの理解が得られるとは思っていないようだ。協力という文化がない日本では表現の自由という表現は成り立たない。ゆえにあいちトリエンナーレの「表現の自由論」は空回りし続けたのである。

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破壊的なデモか永遠の停滞か

日本人はなぜ有名人を過剰に叩くのかという質問があった。Quoraでは面倒なので適当な答えを書いたのだが、今回はここから日本経済はなぜ停滞しているのかという説明をしようと思う。




日本人は閉鎖的な空間に住んでいた。このためフリーライディングやルールブレイキング(掟破り)を見せしめ的に叩けば、村の安定を守りルールブレイキングが防げた。だから日本人はこれ以外のやり方を考案する必要はなかったのだろう。

ところが地域社会は崩壊し終身雇用もなくなった。閉鎖的な空間がなくなったためにかつてあった「叩くマネージメント」が成り立たなくなった。知らない人たちと協力しあわなければならないのだが、過剰に村落的なマネージメントに適応してきたためにやり方がわからない。

そのうち政治は公共を諦めて自分たちの村を作ることにした。Twitterでは特区ビジネスコンサルティングが叩かれているが、税金という公金を使って村をつくりそこに様々な人々が群がるという仕組みである。オリンピックも英語の民間テストもそういう村になっていて政権政党のトップだけが利権を独占できるという構造になっている。今や汚職をする必要はない。合法的に特区を作って利益を独り占めすればいいのだ。

一方で介護保険のように公共性が高い事業はフリーライディングの温床になっている。既得権をつくると「それを最大限に利用しないと損だ」ということになるので費用が跳ね上がってしまう。NHKによると介護保険は制度の見直しが始まったそうだ。同じことは高齢者医療にも言える。厚生労働分野は誰も儲けられないがかといって費用抑制もできない。これだけ高度に発達して見える日本社会だが、マネージメントという発想がないのだ。そして、利権を得られない分野に政治家は興味を向けない。おざなりの議論が行われるだけであとは「消費税を20%にするか30%にするか」という議論になるだろう。

村から排除された人たちは本来ならばお互いに協力しあうべきだ。だが、やり方がわからない。さらにこれまでも足を引っ張り合ってきたのでいざ声をあげてみようという気にもなれない。声をあげた瞬間に足を引っ張られる可能性が高いからである。このため、例えば日本人は匿名空間でしか政治発言ができない。実名の職場で同じことをやれば通報され排除されるだろう。

匿名空間では十分に協力体制が作れないので日本人は今でもルールブレイカーを過剰に叩くことによって問題を解決しようとしている。例えば不倫を過剰に叩くのは結婚制度を維持したいからだし、政治家が問題を起こすと辞任を求めるのはそれ以外に解決策が探せないからだ。だから日本人はルールも変えられなくなった。そして一人を叩いても当然問題は解決しない。

有権者・納税者は政治の私物化について薄々気がついていてもそれを咎めることはできない。野党の事も疑っているのだろう。自分たちの私物化のために有権者の怒りを利用しているのでは?と考えているのではないかと思う。

フリーライディングが予想される公共空間では公共に対する支出は削減される。これは前回のエントリーで見た通りだ。例えば、法人は法人税を払わなくなった。税金として国に投げ出してしまえば戻ってこないことは明白である。自民党に献金して私物化したほうがよい。有権者も防衛のためにものを買わなければいい。というよりできることはそれしかない。こうして信頼が失われた社会では公共への協力が手控えられる。我々は実験行動学の生きたサンプルになっている。

では、SNSで問題が協力ができれば問題は解決するのだろうか。政治という調整機構が破壊されてしまったところでは細かい調整は働かない。できることは一つだけになる。みんなで集まってできるのは旧体制を打倒することである。

この生きたサンプルが、チリや香港にある。問題をデモという協力によって解決している人たちがいる。チリでは地下鉄の運賃値上げをきっかけにデモが起こり最終的には大統領を除く閣僚がすべて辞任しAPECの会議が中止になった。レバノンでも首相が辞任したという。中には暴力的なものもあり決して褒められたものではないのだが、彼らは「同じ境遇の人たちは信頼できる」という最後の信頼関係だけは持っているのであろう。それは日本人が持っていないものである。

もちろん暴力的なデモではなく選挙によって問題が解決できればいいのだが、アメリカ合衆国やイギリスですら民主主義が二極化している。もはや健全な形の民主主義が成り立っている国はどこにもないといってよい。

だとすれば「デモや暴動も仕方がないのでは?」ということになってしまう。少なくともフリーライディングが排除されれば国や経済は再び成長を始める余地が生まれる。ただし、破壊の後に必ず再生があるという保証はもちろんない。本来は政治が細かな利害調整をするのが一番良いのだ。

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フリーライダー討伐と世界で頻発するデモの関係について夢想する

今回の「政治家が嘘をつく」というエントリーはリツイート率が高かった。肌感覚に合致しているところがあるのだろう。だがこの嘘をどうやって防げばいいのかという知見は示されていない。競争から協力へという流れを作るためには一体何が足りないのだろうか。最後に「孤独と共感」で協力について読んだ。無私は最高の戦略というタイトルが付いている。これを読んでいて意外なところに着地した。それは破壊的なデモの正当性である。一昔前ならかなり危険思想として叩かれたのではないだろうか。




人間は親族だけでなく知らない人にも手を貸すことが知られている。極めて未開な文化でも全く協力のない文化は見られないので、人間は遺伝的に協力する性質備えているのではないかと考えられる。

しかし、政治哲学の分野では利己性が協力を生むという説が有力だった。マンデンヴィルは「蜂の寓話」という著作で「個人の悪徳が公共の利益を支えている」と主張した。マンデンヴィルは自分の利益のために動けば考えうる最大の善が得られるので人間がエゴイズムをやめたら社会は崩壊するだろうとさえ主張した。

19世紀の経済学者と社会科学者はホモエコノミクスという仮説を立て、人間は自分自身の利益を最大にするために行動しているのだろうと考えた。そして、進化生物学者もその考えを支持している。相手に協力してやる代わりに見返りを期待したり、自分の評判を上げるために善行を積んで見せるというわけである。こうして人々は協力を説明しようとしてきた。

ところが、実験行動学で違った知見も見えてきた。人は懲罰を与えるとき自分の利得を犠牲にすることがあるというのだ。これは個人の功利最大化仮説では説明ができない。

240名を対象にして20ドルを賭けた実験を行った。それぞれが手持ち資金の中から投資を行い投資金額の60%増しを均等に配る。実はこのゲームではフリーライダーを作っている。つまり自分は出資しないで見返りだけを受け取ることもできるのだ。フリーライダーは持ち出しがないので純粋にトクなのだ。

人々はフリーライダーを抑制するのにどれくらい犠牲を支払うのだろうか。今回はフリーライダーを罰することができるというルールを作った。フリーライダーが出てきたら懲罰するかどうかを尋ねるのである。この時参加者はコストとして配当から1ドルを支払う。1ドルでフリーライダーの資産を3ドル減らすことができる。プレイヤーはその都度変わるので懲罰にはフリーライディングを抑制する効果はない。ゲームはメンバーを変えて6ターン行われる。

フリーライダーを罰しても支出をした人の利益が増えることはない。それでも80%が少なくとも一度はフリーライダーを罰したそうである。公益に平均以上の投資をした人ほど他人を罰する傾向が強かったそうだ。罰せられたプレイヤーはそのあと平均で1.5ドルほど投資を増やすようになったという。

次に投資額を知らせた上で罰則規定を設けないゲームを作った。この場合95%の人が公共への投資額を控えるようになった。最終ラウンドでは60%が投資をしなくなってしまった。

最後にメンバーを固定して10回ゲームを行った。メンバー入れ替えがあった場合よりも公共への支出は50%増えたという。

結果的に、人は懲罰効果がなくてもフリーライダーを罰する傾向があり、フリーライダーが野放しになると協力を抑制するということがわかる。そしてフリーライダーが社会的に抑制できるということがわかると協力が促進される。

この文章は個人主義の欧米人が書いているので、フリーライダー抑制はもともと遺伝的に組み込まれた行動様式なのだろうと類推しているようである。日本のように相互監視が厳しい社会ではまた違った感想を持つ人もいるかもしれない。日本ではフリーライダーは文化的に極めて嫌われるし、学校の集団生活を通してそのことを叩き込まれる。

文章は、もともと人間には自発的にフリーライダーを罰する遺伝的(生得的)傾向がありフリーライダーが排除されるのを見たり経験することによって、群れからフリーライダーが排除されて協力が促進されるのではないかというような結論を出している。これは神の見えざる手の補正版である。

この文章で重要なのは「協力」が極めて明快に利得を増やすことが理解されているという点である。この場合フリーライダーを取り除くことで人々は公共にアクセスしやすくなる。ところが現実世界では協力をしても利得が得られるということは明快ではないし、誰がフリーライダーなのかということも実はよくわからない。ルールが明快でないということはつまり情報が明快でないということなのだから、コミュニティを整理するか情報を明快にすることでフリーライダーの問題は解決され、結果的に協力が促進されるはずである。

日本の場合文化的にフリーライディングを抑制する傾向が極めて強い。現実社会ではメンバーが固定されているので懲罰がしやすいからだろう。今でもテレビで不倫や脱税などの逸脱行為は極めて強く排除されてしまう。ところが文化的にフリーライディング抑止効果が高すぎるため、それを超えてしまうと社会的な対処が極めて難しくなる。するとゲームは一転して「持ち出しをしない」というルールになる。現在では日本人は政治に口出しせず、法人は税金を支払いたがらない。人々は消費を控え自己防衛に走り、それが結果的に経済を縮小させている。

こうした環境は何も日本にだけあるわけではないようだ。実際にはSNSは協力を促進する方向ではなく競争のための議論を促進し協力を阻害している。人々はお互いの話を聞かなくなり協力どころではない。破壊が先行する中SNSが現在目指しているのは構造の破壊である。世界各地ではデモが起こるようになり手法がSNS経由で拡散している。今デモが起きているところでは「協力」が生きているのだが、それは生産ではなく破壊の方向に向かう。

2019年10月は世界で同時多発的にデモが起こった月として記憶されることになった。多分今の経済構造は人々が把握できるより大きすぎるのではないかと思う。戦争によって経済構造が破壊されることがなくなった現代において、それに変わる何かが生まれてきているのかもしれない。それは法的にはいけないことなのだが、善悪を超えたところで何かが起きているのかもしれない。

日本社会はこれまでコミュニティの抑止効果が高かった。お互いがお互いを監視する体制なのでいざという時に協力して破壊するという体制が作れない。このため日本は穏やかな衰退と漠然とした不安という道をしばらくは歩み続けるのかもしれない。

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嘘つきが信頼される時

今回は安倍政権やトランプ政権が嘘をついているのに支持がなくならないのはどうしてなのかという話である。




孤独と共感」を読んでいる。これまで勝つための議論について読み、次に自己愛と攻撃性について読んだ。次は嘘についてである。今回は嘘つきの方が正直な人より信頼される可能性があるという結論なのだが、科学論文は一読しただけではよくわからない。そのため書きながら整理している。

まずは、American Sociological Review 2018年2月号に掲載されたという実験の話が出てくる。424人を被験者としたオンライン調査である。架空の大学の自治会の選挙の話を紹介して反応を聞いている。

最終的な質問は「現職に対抗する自治経験が全くない新人を支持しますか?」である。

まず、二つの異なるストーリーを与える。前者では新人は正直だが、後者では新人は嘘つきである。したがって普通に考えると新人は信頼されないであろう。

  • 新人が現職が提示したデータが「査読付き学術誌に掲載されていない」と指摘した。
  • 新人が査読付き学術誌に掲載されているのに掲載されていないと嘘をついた。新人は研究チームのメンバーに性差別的な発言をしていたこともわかった。

次に、これらの2群にそれぞれ違う評価を与えた。全部で4グループになる。

  • 現職には正当性に疑問がある。
  • 現職は立派な人間である。

さらに無作為に二つの異なる条件を与えた。全部で8通りの組み合わせができる。

  • あなたは現職と特性が近い。
  • あなたは新人と特性が近い。

現職に問題があり新人候補と性格が近いとされた人は、新人が正直である時よりも嘘つきで女性蔑視であるとした時のほうが支持率が高かったそうだ。つまり「自分を守ってくれる嘘は良い嘘であり、嘘をつかない人よりも頼れる」と考える傾向があったということだ。ただこの調査はインターネット調査でありこれをそのまま信頼していいのかがわからない。

次に、ペンシルバニア大学の政治学者Diana Mutzが「自分の過去の研究と合致する」と指摘したということが書かれている。ムッツの研究チームはトランプ大統領の地球温暖化がデタラメだという主張が虚偽であると示し、402名の被験者を調べた。

トランプ大統領支持者はこれをエリートへの挑戦と捉えたそうだ。つまり、トランプ大統領支持者はこれが嘘であると示されてもなおトランプ大統領を支持したことになる。トランプ大統領を信頼したのか多少の嘘は構わないと思ったのかはわからない。最初の実験と合わせて考えると「トランプ大統領は良い嘘つきであり自分たちの役に立つ」と考えていたことになるが、独立した実験なので関連付けて良いかはわからない。

前回「人が勝つための議論に耽溺することがある」という研究を紹介した。ここから勝つためには手段を選ばなくなるだろうなというくらいのことはわかる。相手が信頼できなくなると「こちら側も防衛のために嘘をついてもいいのだ」と考えるようになるということである。

人々は協力するためにも議論するのだが、協力関係が成り立たないとなると相が変わるのだろう。人々は勝つため相手の話を聞かなくなるばかりか嘘をついても構わないと思うようになるのである。ただ、協力すればより良い成果が得られるが嘘と競争からは何も生まれない。つまり、コミュニティが崩壊しかけているからこそ議論が競争的になり、さらにそれがコミュニティを崩壊させるということになる。まさに割窓的な社会である。

実際にトランプ大統領には岩盤支持層と呼ばれる人たちいる。アメリカのメディアはトランプ大統領の嘘を暴き続けているのだがそれを自分たちへの攻撃と受け止めているのかもしれない。つまりトランプ大統領は自分たちを守るために良い嘘をついていると受け止めて、それ以外の声に耳を傾けなくなってしまうのである。ただ、そこにはエリートが自分たちを搾取しているという被害者意識がある。

Twitterで野党は安倍政権の嘘を攻撃し続けている。野党は実はこれも無意味かもしれないということにそろそろ気がついた方がいい。安倍政権は嘘をついたり情報を隠蔽しているからこそ支持されているかもしれない。これが成り立つのはつまり有権者たちが「野党は自分たちを傷つけて貶めようとしている」と考えているからなのである。野党が信頼されていないことがそもそもの原因なのだ。

今回は協力と競争というテーマで3つのお話をご紹介した。複雑で理不尽そうに見えるネット言論なのだが実は割と簡単で合理的なルールの組み合わせで成り立っているのかもしれない。

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自己愛に潜む暴力

孤独と共感」に「自己愛に潜む暴力」という記事があった。人はなぜ虐待や言葉による暴力を繰り返すのかについて考察している。つまりTwitterで意見が異なる人を攻撃するのはどんな人なのかというような話である。




相手に暴力を振るう人は自己評価の低さに悩んでいると教科書には書いてある。だが、カウンセラーなどの実務家はそれには当てはまりそうにない事例があるとうすうすは知っている。心理学では有名な「自己評価の低さが暴力につながる」という周知の事実を科学的に解明した人は誰もいないのだそうだ。

この論文の著者R.F. バウマイスターは自己評価が脅かされた人が暴力を振るうようになるというegotism(脅かされた自己中心主義)という仮説を考えて実験してみることにした。自己評価が高い人が下方修正を迫らると防衛のために相手に殴りかかることがあるという仮説である。

ジョージア大学のカーニス教授が1980年代に行った研究では自己評価が高くなおかつ変動がある人に高い攻撃性が見られたという。高くて安定している人は攻撃性が最も低く、もともと低い自己評価の人は中間の攻撃性を持つという。犯罪者の中にも自己評価が高い人たちがいるし、チャイロットの著作「Modern Tyrants」は誇りが高く当然受けるべき敬意が払われていないと考える国の間で戦争が多発すると指摘している。さらに今まで培ってきた高い自己評価が破産やスキャンダルなどによって損なわれると自殺(これは自分に対する攻撃である)を選ぶ人もいる。

経験的に自己評価の危機が攻撃性をうむという事例はあるが、対照実験がないのでこれをもって「高い自己評価が攻撃性を生む」という仮説を証明することはできないだろう。

そこでR.F. バウマイスターはまずナルシシズムのある人と攻撃性について調べてみることにした。ナルシシストは極めて高い自己評価を持っている。自己愛(ナルシシズム)は肥大した根拠のない自己評価と言ってよく、したがって他人から「正当に」評価されないことがある。ナルシシズムについてはタルサ行動研究所のラスキンの指標を用いた。

  1. 肥大した誇大な自己観を持つ。
  2. 偉大さを示す幻想にとらわれる。
  3. 自分は特別なので特別な人間しか自分を理解できないと考えている。
  4. 過剰な賞賛を求める。
  5. 根拠のない過剰な権利意識を持つ。
  6. 他人を自分の目的のために利用する。
  7. 他人の感情に共感できない。
  8. 嫉妬しやすく、嫉妬されていると思い込んでいる。
  9. 傲慢で尊大。

自己評価と自己愛(ここでいう自己愛というのはナルシシズムのことである)は別の指標なので二つとも調べた。自分が得意分野を持っていてそれを自覚していても傲慢にならない人もいるからである。そのあとで小論文を書かせ「他人が評価した」という触れ込みの良い評価と悪い評価を渡す。さらにその評価をしたちいう人に会わせる。そのあと「反応時間を調べる」と嘘の説明をして大音量を聞かせる実験をした。大きな音を出すと相手はひるむので攻撃性の指標になるのだが、実験者には「反応時間を調べているのだ」と行動を正当化する説明が与えられている。

予想通り低い評価を聞かされたナルシシストがもっとも攻撃的になった。ナルシスストでない人の攻撃性は低かった。さらにナルシシストに別の相手(評価をした相手ではない)を当てると彼らは攻撃的にならなかった。つまり、ナルシシストは自分の評価を低めた人を攻撃するが誰でも攻撃するわけではないのだ。

ナルシシストはいつでも攻撃的になるわけではない。それが脅かされていると考えている時だけ暴力的になるのである。

ナルシシズムが条件付きで暴力を生むとすれば、自己評価が低い人を無理に褒めるのは危険かもしれない。自己評価を肥大させ自己愛的な傾向を強める可能性があるからである。根拠がない自己評価を与え続けられた人は常に承認を求め続けるようになるだろうし、そのバブルが弾けた時相手に対して攻撃性を向けるであろうということになる。

自己評価を肥大させるのは親などの周りの大人かもしれないし集団なのかもしれない。

いじめなどいろいろな分析に使えそうな実験だが、例えば日韓の関係に当てはめるのは簡単だ。日本人は東洋唯一の優等生として高すぎる自己評価を持っていたのだがバブル崩壊後その自尊心が傷つけられた。しかしそのままでは自己愛が満たせない。そこでそれを攻撃してくる韓国に対して過度の攻撃性を見せるようになったという説明ができる。また、「日本すごいですね」という番組も自己愛の確認である。日本人は自分たちが経済的に成功しているというよりも西洋から注目されちやほやされる存在でいたいのである。

さらにトランプ大統領を支持している白人も、もともと国内の有色人種を見下しておりさらに経済的な成功を手にしていたと考えることができる。彼らが没落したのはAIやオートメーション化のせいかもしれないが、そうとは認められない。だから自己評価が傷つけられた結果として中国やメキシコに攻撃性を向けているのだという説明をすることができる。トランプ大統領のように肥大した自己評価を持っている自己愛の強い人間が彼らの王となり「多少の嘘はやむをえない」として賞賛されているのは実は当然のことなのかもしれない。

こうした議論をどうやって沈静化させられるのかを考えるのは面白いが、彼らを褒めれば自己愛が肥大化するだけだ。かと言って否定すれば攻撃される。そうなると「彼らが求めている餌(賞賛)」はここにはありませんよとするのが一番良い方法に思える。だが、そのためにはスルーする側が安定した自己評価を持っていなければならない。

SNSは脅かされた自己中心主義同士が接触する危険性をはらんでいる。彼らが攻撃性を帯びた競争を始めた時、その議論は全て戦争状態に突入してしまうのである。その議論には落としどころがなくしたがって延々と続くだろう。

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政治議論は勝たなくては意味がない?

別冊日経サイエンス「孤独と共感」を読んだ。コミュニティについて学ぶのに良いのかなと思ったのだが意外と政治関係の話題が多くびっくりした。この本はもともと経営学でいうところのハーバードビジネスレビューみたいなものなのだが、政治的な分断が進んでいるアメリカでは問題意識や危機感を持っている学者が多いのかもしれない。




この中に「勝つための議論の落とし穴」という短い論文がある。議論の仕方によって考え方が変わってしまうという話である。

議論には学ぶための議論勝つための議論がある。アカデミズムの世界では議論は学ぶために行われることが多い。ところが政治的分断が進むと勝つための議論が横行する。勝つための議論では相手を打ち負かすことが議論の目的になっていて、人々は相手から学ぶことに興味がない。以前から政治議論はネットワーク的な島を作るということは知られていたがトランプVSクリントンの時期からアメリカでは二極化した議論が目立つようになった。あまりにも生産性が低く愚かに見えるので「どうしてこうなったのだろう」と考える人も多いのだろう。TwitterやFacebookでは敵対的な議論の方が広まりやすいという。つまり、SNSは議論分断の温床になっているようだ。

数学や科学には正解があることは明確とされるが、イデオロギーはその人の意見であり客観的な正解がない可能性が高い。それでも人々はそこに客観的な正しさを求めようとする。そしてどちらが正しいかを競い合うようになるのだ。

イデオロギーに正解があると考える人は自分と意見が異なる人と生活を共有するのを好まない。「意見が間違った人とは暮らせない」と考える傾向が強いということはこれまでも知られていたようである。「客観性があるだろう」という考え方が「多様性の否認」という行動に結びついている。

  • 考え方→行動

ところが政治的議論で勝つための議論を奨励すると「政治的意見には客観性がある」と考えるようになる傾向があるということがわかったという。つまり因果関係が反転している。実験ではその議論の時間はわずか15分だった。15分で考え方が変わってしまうのだ。

  • 行動→考え方

つまり、勝つための議論は多様性の否認というフィードバックループを生むらしいということがわかる。ここまではわかりやすい。

ところがここから議論が怪しくなる。論文を書いた人は明らかに多様性を重要視している。つまりいろいろな意見を受け入れるためには決めつけを排除すべきだと言っている。これは典型的にリベラルな姿勢だろう。

だが、このあと論文の議論は迷走しているように見える。地球温暖化に懐疑的な人の意見を受け入れる議論をするのは「間違っている」のではないかと言っている。リベラルにとって環境問題は重要でありその科学的知見は明らかだが、もしかしたら科学が地球温暖化の全容を知っているという前提そのものが間違っているのかもしれない。リベラルな人はそこを認められないのだろう。すでに「勝つための議論」に汚染されているということになる。

そこで論文の筆者たちは「温暖化懐疑派を受け入れてどっちつかずの態度」をとるのは間違っているのではないかと逡巡したのち「どちらの議論モードが”最善”であるかを直接的にきめることはできない」とまとめてしまっている。

もともと「なぜSNSが介在する現在の政治議論が決めつけと分断を呼んでいるのか」ということについて何も示唆はないので、どうしたら議論を「正常化できるか」というソリューションは提供しない。知見で終わってしまうというのが経営学との一番大きな違いだろう。

ただ、この短い文章を読むと議論で勝ちたがるのは日本人だけではないということだけは明白にわかる。さらに議論で勝ちたがっている人がいたら勝たせてやったほうがいいのだろうな。洋の東西を問わずどっちみちそうした人たちからは何も学べないだろう。つまり時間の無駄なのだ。

別冊日経サイエンス「孤独と共感」は政治議論がなぜ荒れてしまうのかということを考えるために役に立つ多くの知見が掲載されている。他にもトランプ大統領のような明白な嘘つきが信頼されるのはなぜかということを扱った論文や、いじめ加害者として暴力的になる人はどんな人なのかということを扱った論文がある。

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