ハロウィーンと本当の私

これが「本当の私」なのではないか。テレビで渋谷のハロウィーンの様子を見てそう思った。あのハロウィーンがインターネットの影響なのはまず間違いなさそうだ。2chの時代から日本のネットは「匿名文化」だと揶揄されつづけてきた。LINEでもハンドルネームでないと「本音が言えない」人は多いはずだ。つまり、日本人は匿名にならないと本当のことが言えず、考えられない国民なのだ。だから扮装しないと自分を解放できないという人が増殖しても不思議ではない。

「扮装すれば自分が解放できる」のだとすれば、それこそが「本当の私」なのではないか。つまり、普段の「実名」が扮装なのではないかとも考える事もできる。「実名」は、親が与えた名前に過ぎない。自分が選び取ったものではないのだ。

もちろん、祭りの自分だけが本当の自分だということは言えそうもない。昔から日本には「ハレ」と「ケ」という区分があるとされている。ハロウィーンは「ハレ」にあたり、はめを外してもよい日なのだと考えられる。どちらか一つを選んで「本来の日本人の姿である」とは言えない。この2つを合わせた姿こそが「本来の日本人の姿である」と考える方がよいのかもしれない。

これは今の自分があるべき姿なのかと悩むすべての人の福音になるだろう。つまり「本当の私」という単独の人格は存在しない。自分というのは複数の人格が鍵束になったものに過ぎないのだ。むしろ「本当の私」というものを仮定した瞬間に、可能性として存在するかもしれなかった別の自分が消えてしまう。つまり「本当の自分」とは現在の自分、扮装して解き放たれた自分の他に「あるかもしれない自分」というものが含まれた不確定な存在なのだということが言える。人格は雲のようなもので、観察しようとするとたちまち消え失せてしまうのである。

現代の都市に住んでいる日本人は祝祭空間を持たないのではないかということは言えるのかもしれない。祭りの場には「役」のある年長者がいるが、渋谷のハロウィーンにはいなかった。この為に警察官が交通規制をし、街にはゴミがあふれた。その意味では渋谷のハロウィーンは不完全な祭りだと言える。反戦デモが高齢化したのと同じように、渋谷のハロウィーンデモも30年後には高齢化しているのかもしれない。白髪の中高年が扮装して街を練り歩くようになるのだ。

「ありたい姿」が「今の私」と重ならないことの問題点は何なのだろうか。理想を現実にする社会的変革ができないということである。渋谷の扮装者の多くが「地元から扮装で出かけるのは恥ずかしい」と考えていたようだ。つまり、彼らは人格を解放し可能性を広げる事は「恥ずかしい」と感じているのである。多くの仲間に埋没しないと「解放」が叶わないのである。

例えば、ファッションは「本当の自分」を解放するものだった。だから、先鋭的なデザイナーは誰も着ないような奇抜な格好をしていた。しかし、ファストファッションが台頭するとデザイナーは市場を模倣する存在になった。こうして市場はファッションによって「本当の自分を解放する」機会を失った。代わりに台頭したのが、匿名やハンドルネームで仲間とつるむインターネット空間だ。日本人はもはや、人格を解放するのにアパレル産業に頼らなくなったのである。

一方、社会変革者は、頭の中にある「あるべき姿」を実践している、渋谷流に言えば「恥ずかしい」人たちである。つまり、真の社会変革者の才能とは「群衆の助けを借りず、孤独に耐えて、扮装しつづける」勇気なのかもしれない。

もっとも、すべての人がファッションデザイナーや社会変革者である必要はない。年に一度ドンキホーテで衣装を買えば自分を解放できるのである。

バガン朝に見る、功徳の現世利益

NHKでミャンマーのバガン遺跡についての番組をやっていた。バガン朝は治世を安定させるために仏教を用いた。仏塔や寺院の建立には公共事業の役割があったそうだ。王は集めた税を仏塔建立のために資金に当てる。そうすることによって仕事が生まれ、格差が是正される。すると社会は豊かで平和になるので結果的に治世を安定させるのに役立つわけだ。

仏教では利他的な行為は功徳と考えられる。現世での利益はないかもしれないが、次の世ではより平安に近づけると考えられているのである。

現代の感覚から見ると、あるかどうか分からない来世のために功徳を積むことは合理的ではないと思うかもしれない。しかし、「与える」ことによって社会が安定し、自分も助けてもらえると信じることでより大きな安心が得られるのだ。

富を蓄積するのにはいろいろな理由がある。その中で最も大きいのが恐怖心だ。相手より大きくて強くなければ潰されてしまうという怖れがあると富が手放しにくくなる。富んでいるからといって、必ずしも心の平安が得られるとは限らないのだ。

今の日本にはこうした怖れが蔓延している。企業が投資をせずに内部に富を蓄積するのは「何かあったら大変だ」と考えているからだろう。こうした信念体系はバブル崩壊後に徐々に育まれ、リーマンショックを経験したあとさらに強固になった。銀行が投資を渋った時代もあり、自己資金を持っていないと誰も助けてくれないという気持ちもあるかもしれない。

企業は利益を確保するために、正規労働者の雇用をやめ、非正規やパート労働力に頼ることになった。このため、消費が冷え込む。また、法人税を取られては利益確保ができないから、政府に対して消費税に依存するように熱心に勧めている。

こうした信念は結果的に消費市場を冷え込ませる。売上げが上がらなくなり、給与を下げて利益を捻出せざるを得なくなる。こうしてさらに消費市場が冷え込む。将来の利益確保の見込みが得られなくなる為に、投資をして発展しようという気持ちにならない。投資は単に富を手放すことになってしまうからだ。その富は誰か他の人によって退蔵されるだろうし、転落した企業を助けてくれる人は誰もいないだろう。

富を貯め込む行為は「利己的だ」といえる。利己的であることは必ずしも悪い事ではないが、結果的に自分の首を絞めているというのもまた確かなことだ。消費市場を破壊するというのは、持続可能な田畠を捨てて焼き畑農業に戻るようなものだと言えるだろう。政府は企業の競争力を増す為に法人税を減税したいと言っているようだが、消費市場が破壊された国に進んで進出する企業などあるはずがない。世界にはいくつも「タックスヘイブン」と呼ばれる国や地域があり、安い法人税だけが目的ならそうした国に流れて行くだろう。こうして子供が育てられないほど余裕のなくなった国はやがて内部から崩壊するかもしれない。

そもそも、退蔵されている紙幣は富ではない。「信用」を書いた紙切れである。さらに、国債を売った金を当座預金に積み上げているが、こちらは紙切れですらない。単なる、データのやり取りだ。

日本の宗教が社会に対して何をしているのかと考えるとさらに暗い気持ちになる。宗教組織の中には「わがままな他人や外国が正当な日本人を苦しめている」と考えている人たちがいる。女性が家族にしばられていた時代を懐古し、人権は個人をわがままにするだけだと考えているようだ。こうした組織に支えられた政治家たちは、彼らが喜ぶような言動を繰り返し、さらにはそうした考え方を信じ込むようになる。こうした日本の宗教が持っている考え方は、いっけん利他的に見えるのだが、実際には他人の権利を制限し成功をやっかんでいるだけだ。ある意味では「利己的な社会」の気分を反映しているものと言えるだろう。

理想的に見える「利他的」な社会だが、持続はなかなか難しいようだ。NHKの番組では取り扱っていなかったが、バガン朝はその後、寺の勢力が強くなって衰退したそうである。その後内紛から元の侵入を招き、滅亡してしまった。またバガン朝には寺社に付属する奴隷も職人として働いていた。格差が少ないからといって平等な社会だとは言えなかったようだ。

番組だけを見ると「格差がなく理想的」に見える社会だが、その持続は必ずしも容易ではないということも分かる。

女たちはなぜLINEはずしをやめられないのか

LINEいじめについて考えている。今回までの結論は非自発的に作られた閉鎖的な空間では人間関係の単純化が起こるというものだった。しかし、このモデルは選択的にグループを作る母親同士の息苦しい「カースト化」は説明ができない。

もともと、人間の社会は伝統によって体系化されていた。しかし、伝統的な社会は解体し「個人の価値観が」価値体系を決めるような社会が作られた。伝統からは解放されたものの、個人は自由への不安に苛まれるようになる。さらに、選択肢が増えると「他者の動向」を規範として採用するようになった。テレビや雑誌といったメディアによって「他者」は拡大した。選択肢は爆発的に増えたが、選択が難しくなり、不安も増大した。

女性の価値は何を持っているかで決まる。どの街に行き、何を選択するかによって価値が決まるのだ。ところが、その価値を自分で決めることはできない。他者の評価がその人の価値を決める。こうした選び取る力を「女子力」と呼んでいる。何が正解なのかは分からないが、それは確実に存在する。

さらに、ママの価値は「持っている」夫や子供の価値によって決まる。つまり、人がモノのように扱われるのだ。子供に何を着せているか、清潔に保たれているかなど、すべてが評価の対象になる。そのように考えると「どんなママと付き合うか」が評価の対象にならないはずはない。

ぞっとする話だが「ユニクロのシャツが気に入らない」というのと「あのお母さんが気に入らない」というのは同列の話なのだ。ユニクロのシャツについて悪口を言う人が「ユニクロのシャツをいじめている」という意識を持つ事はないだろう。従って、LINEで悪口をいう母親も実は「それが悪口だ」という認識を持っていないのかもしれない。

もちろん、これだけで事態が息苦しくなるはずがない。女性はいつも品定めされているが、自分で価値を決めることはできないし、正解が何なのかもよく分からない。それは価値を決める他者が不特定多数に広がっているからだ。そこでグループを限って、そこで価値基準を決めれば良い。価値基準のはその場にいる人たちや話し合いの成り行きで決まる。最終的な結果が大切なのではなく、話し合いの過程こそが重要なのだ。そこで、そこに集った人たちの選択が正当化されるように物事が決まって行くだろう。集団の状況や成り行きのことを「コンテクスト」と呼ぶ。

妻たちは夫に事細かな状況を話した挙げ句「私は悪くないわよね」と承認を求めることがある。夫はなぜながながとした話が問題と関係があるのかは分からない。女性はコンテクストを相手と共有することで共感を得たいと思っているのである。

ママ友はコンテクスト依存の高い文化なのだと言える。

コンテクスト依存の高い文化では「ユニクロのシャツが気に入らない」と公言している人の仲間が「ユニクロのシャツを着る」ことは裏切り行為だ。そのコンテクストの選択を批判することは、そこにいる人たちの人格を否定し、それまでの話し合いの過程を否定することになるからだ。だからそれは全人格をかけた戦いなのだ。

この時点で、女性たちは、不特定多数の他人からの拘束を受け、さらにママ友たちの拘束を受けている。拘束しているのは他ならぬ本人たちだ。なかには子供が仲間はずれになるからといって、息苦しい拘束から逃れられない人もいるのだという。

スマホの登場で拘束は24時間続くようになった。マルチタスク化の効果で合理的な判断力は鈍り、やりとりは感情的になる。新しい情報は、その人の脳につかの間の報酬を与える。するとやり取りは過激化することになるだろう。

問題の根幹は「選択」と「選択した個人の価値」が不可分に結びついているという点だ。なんとかしてここから抜け出す事ができれば、苦しみを減らすことができるだろう。

しかし、テレビでは無数の企業が「正しい選択」をと迫ってくるし、ランキング番組は常に新しい正解を問い掛けてくる。そこから抜け出すのはそんなに簡単なことではないのではないのかも知れない。

何が分からないのかすら分からない人たち

Twitterで政界再編と政権交代を熱望している人を見かけた。政界再編を望むはいいのだが、何も重要な法案の成立前にやらなくてもいいだろうと思って突っ込んだところ、返事が返って来た。政界は「ガラガラポン」が必要なのだそうだ。

政界再編は結局のところ邪魔者はずしだ。維新の党は大阪系が邪魔だと考えており、民主党の中には旧社会党系や帰化外国人(あるいはハーフ)が邪魔だと思っている議員がいるのではないかと思う。そこで「誰を排除すべきなのか」と聞いてみた。

返って来た答えは意外なものだった。名目経済・リフレ・マクロ経済がいけないのだという。「名目経済」という用語はないので、学生かなんかだろうと思った。「金融緩和を起してもインフレ率だけが上がるだけで、国民は豊かにならない」くらいの意味なんだろうなあと解釈した。

しばらくすると、各党の平和と経済に関する採点表が送られてきた。経済の項目で合格点のついた政党はなく、民主党と共産党だけが空欄になっていた。多分、実体経済に直接働きかける政策を持つ政党がないのがお気に召さないのだろう。

ここで気になるのは、現在の政党が実体経済に直接働きかける政策を持っていないのに、どうして政界再編するとそうした政策が出てくるのかという問題だ。尋ねてみた。

するとまた意外な答えが返って来た。小泉・竹中路線がいけないというのだ。実体経済を無視し、資本経済に走ったことを責めていた。

この人は明らかに質問に答えることを避けている。つまり、どうしたら自分の考える理想の経済状態を作ることができるのかが分からないのだ。そこで、政党さえ組み替えれば、そうした状態が出てくると思っているのだろう。合理的に考えれば、政党が組み変わっても議員は同じなので、新しいアイディアが出てくる可能性はないことが分かる。例えていうならば、大吉が入っていないおみくじを引き続けるようなものだ。

そもそも経済政策理論についての理解がないようだ。リフレ政策は名目経済成長率をあげる政策だが、小泉・竹中路線は(少なくともこの人の考えに基づけば)資本経済に働きかけている。それぞれ対義語は実質経済成長率と実体経済だ。この2つ(実質と実質)がごっちゃになっているのだろう。

政府が直接働きかけて給与や需要を決定する経済を「計画経済」という。つまり、この人が指向しているのは多分共産主義だろう。だが、自分が共産主義者という自覚はないに違いない。日本では戦時中に革新官僚のもとで実施された戦時経済がそれに近い。野口悠紀雄は「1940年体制」と呼んでいる。

問題は、この人が何が分からないか分かっていないという点だ。にも関わらず豊富に情報が流れてくる(しかも新規情報探索には中毒性がある)ので情報に溺れてしまうのだろう。

もしこの手の人たちの目の前に「速効性のあり」「誰もが分かる」経済政策が出てきたらどうなるだろうか、と考えてみた。多分、多くの人がこうした政策に飛びつくに違いない。しかし、こうした「分かりやすい」政策はおそらく詐欺だし、国民を騙してでも政権につきたい政党は独裁政権に違いない。

気になってこの人のプロフィールを見たところ、学生ではなく経験豊富な経営コンサルタントということだった。たくさん本を読んでいそうな人でも、こういう考え方をするんだなあと考えた。そして、心底恐ろしくなった。

LINEはずし- 中心のない共同体はどうなるか

LINEはずしを解決するにはいくつかの方法がある。一つは密室で起きているコミュニケーションを表沙汰にすることである。中学男女24人『集団LINEいじめ』解決に立ち向かった父の奮闘実話が参考になる。

このところ、日本人と中心について考えている。日本人はまとまるために空白の中心を作るという古典的な考え方である。これを考えているうちに、なぜLINEではずしが起きるかという問題を考えてみたくなった。LINEはずしとはLINEのグループから1人を除外するいじめのことである。ネット言論には、いかにも中心がないように見えるからである。

そもそも「いじめ」にはいろいろな要素や形態があり、完全には理論化されていないらしい。したがってLINEいじめに関する理論的な考察はない。しかしながら、ヒントになるモデルはいくつか存在するようだ。

formation「いじめ」が発生するのは、閉ざされた入れ替わりのない空間だ。空間に自由意志で入ることはできず、出る事もできない。公立学校のクラスなどがこれに当たる。そして、その空間では「みんなで仲良くする」ことが求められる。突出したボスを作ってはいけないし、派閥を作って対立することも許されない。いわば平等型の空間でいじめが起こるのだ。

非自発的な集団ではの平等型の維持は困難なようだ。集団がまとまるためには、それなりの大義名分がいる。しかし、自発的に作られたわけではない集団では大義名分を見つけることは困難だ。誰かボスがいればボスの下でまとまることができるが、誰かが突出することは許されない。また、党派に別れて競争することも考えられるが、表立った競争はよくないことだと考えられている。そこで潜在的な緊張関係が生まれる。

そこで考え出されるのは、誰かを仲間はずれにすることだ。いっけん、仲間はずしをしているように見えるのだが、見方を変えるとそれは仲間はずれのメンバーを中心に置いていることになる。空白の中心を据えているわけである。空白の中心を置く事で仲間同士を牽制しているともいえる。

インターネットの恐ろしいところは、こうした仲間はずしがボタン一つでできてしまうところだ。スマホの普及によりこうした緊張が24時間維持されるようになってしまった。いじめが発生する要件の一つは空間が閉じられていることだから、閉じた人間関係が24時間持続することになる。すると、正のフィードバックが働いて究極の事態が起こるまで止まらなくなる。また、リーダーがいないので「これくらいで止めておけ」ということもできない。究極の事態とは対象者の自殺や完全排除だったりするのだ。

LINEはずしで空白の中心を作って組織が安定すればよいのだが、さほどの安定性はないのではないかと思う。そこで常に中心を攻撃しつづけていなければならず、攻撃がエスカレートするのではないかと考えられる。

いじめる側を教育すればいじめが解決するだろうと考える人もいる。しかし、現実には主婦が仲間はずれにされた上で自殺するという事件も起こっている。つまりいくら「みんなで仲良くしろ」と教育しても、自発性のない集団ではこうしたいじめが起こるのを止められないことが分かる。そもそも教師が暗黙の関係者として関与する(関与しないことで、間接的にいじめを黙認する)という事も起きているので「教育レベル」はいじめとは関係がないだろう。

社会学者の内藤朝雄はこうした閉鎖的な空間で起こる息苦しさを中間集団全体主義と呼んでいる。内藤が提案する解決策は閉鎖的な空間 – つまり学級をなくしてしまうことだ。

しかし、現実には学級をなくす事は不可能だ。現実的な解決方法は閉ざされた空間で行われている行為を「表沙汰」にすることだそうだ。学校は閉ざされた空間の一部であることが多いので、教育委員会に訴えて「警察」や「マスコミ」に相談しますよというと抑止力がある場合があるのだという。

非自発的な空間でなぜ平等型が機能しないのかは分からない。ひとつ考えられるのは結びつきの複雑さである。5人のネットワークには10の結びつきがある。n個の点のネットワークの数はn=(n*(n-1)/2)で示される。50人のクラスでは1,225の関係を管理しなればならない。人間の脳は150人分ほどの関係性(約10,000程になる)までは管理できるものとされているが、何らかの構造を作らないと維持管理は難しいということなのかもしれない。中心を作ると関係性の数が減るのだ。関係性を緊張関係だと考えると、いじめは緊張緩和のために行われているのだということになる。ただし、いじめられる側は緊張関係をすべて一人で引き受けなければならない。その苛烈さは想像に固くない。

もともと、人間には数千人規模の人間関係を把握する能力はない。だから、学級より大きなレベルである社会では直接民主主義的な統治方法は機能しない。

アメリカ人は強力なリーダーを作る事で規模の問題を解決した。代わりにリーダーに権力が集中しないように、リーダーを任期制にしている。ところが日本人は強力なリーダーシップを嫌う傾向があるので、祭り上げたリーダーを空白化することにした。空白のリーダーを頂くことで、平等を実現するのである。吉田松陰が唱えた一君万民論は多くの支持を集め、戦前のデモクラシー導入の大義としても掲げられた。

個人主義は利己的でわがままなのか

現行憲法はアメリカから押しつけられた個人主義をもとにしているから、日本人は戦後利己的でわがままになったと主張する人がいる。つまり、個人主義は利己的でわがままだというわけだ。これは本当だろうか。

中国人と仕事をしたことがある人はよく「中国人はわがままで個人主義的だ」という。ところが国際的な企業文化を調べたオランダの学者ホフステードによると中国は集団主義の国なのだという。集団主義社会では自己は「我々」と表現され、集団に忠誠を尽くす傾向があるとされる。確かに中国人は自分の集団には忠誠を誓うが、会社は単なる金儲けの場に過ぎないと考える。そこで、企業にいる中国人がわがままに感じられるのだろう、と考えられる。

公共の概念が発達しにくいのも集団主義の国の特徴だ。街中で行儀が悪いと言われる中国人観光客だが、これは公共圏を自分たちで管理しなければならないという感覚が薄いからだろう。韓国も集団主義的な社会だが、電車の中に読み終わった新聞紙をくしゃくしゃに丸めて捨てて行く「わがまま」な社会だ。

中国人や韓国人は血族が集団の基礎になっている。そこで権力者が血縁者に利益誘導を図ったり、血族単位で蓄財をしたりすることがある。日本人から見ると「わがまま」な行為だが、家族は安全保障の単位なので、彼らの論理に従えば当たり前のことだ。

これらの事例を読んでも、それは単に中国と韓国が文化的に劣っていて「民度が低い」のでわがままなだけなのではないかと思う人がいるかもしれない。

個人主義のアメリカ人も日本人が「わがままだな」と思うことがよくあるそうだ。現代の日本人は横に忙しい人がいても手伝わない。これがアメリカ人から見るとわがままに見えるそうである。いわゆる「縦割り」が進んでいて、自分と違うチームに属している人に協力しようという気持ちにならないのだ。この傾向は今に始まった事ではない。戦時中の日本人を観察したアメリカ軍の記録の中にも「隣の部隊が忙しそうに仕事をしていても暇な部隊が手伝うことはない」という記述があるそうである。(現代ビジネス

個人主義でわがままに見えるアメリカ人だが、代わりに「チームワーク」や「リーダーシップ」を発達させた。さらに個人主義の度合いが高まるほど、公共圏を自発的に維持する仕組みが整う。どうしてこのような傾向が生まれるのかはよく分からないが、一人ひとりの考えで動く事ができる社会の方が自律的な調整機構が働きやすいからではないかと思われる。

もし本来の日本人が強度の集団主義者だったら、日本人は時代にあった集団を自らの手で作り出す事はできなかったはずだ。すると、長州や土佐から脱けだした人たちが主の意思に背いて独自の同盟を築くことはできなかっただろう。また、企業のような仮想的家族システムも作られなかったかもしれない。

日本がアジアで唯一自力での近代化に成功したのは、この国が中庸な個人主義社会だったからだということになる。

ヤノマミ – 殺し合う人たち

ホッブスの万人の万人に対する闘争という言葉がある。この言葉を地で行く部族がいる。「5万年前」にはアマゾンに住むヤノマミ族に関する記述がある。彼らには殺し合いをしてはいけないという掟はないようだ。逆に人殺しの経験がある男性は、妻の数が2.5倍ほど多いのだという。アフリカ南部に住むサン族にもプライバシーや私有財産という概念がない。権力者がいないので、調停の方法は、話し合い→決闘→殺し合いというように進むのだそうだ。

よく、人殺しをした人はすべて死刑にすべきだという議論がある。人の命と命を対価交換しようという理屈だ。この等価交換理論を突き詰めてゆくと、欲望を満たす為に自分の命をリスクにさらしてもいいと思うのであれば、人を殺してもよいということになる。現代社会に住んでいる人たちはこの可能性を排除するために「人はもともと人殺しなどできないようにできている」とか「人の本性は善だ」と言ったりするのだが、サン族やヤノマミ族の事例はそれが本当ではないことを示唆する。

それではなぜ「人殺しをしてはいけないのか」という答えも彼らが教えてくれる。ヤノマミ族の集団はこの社会構造のためにある一定以上の数を越えることができない。争いが深刻になると群れは分裂し、別の場所に移動せざるを得なくなる。財産は蓄積できないかもしれないし、知識も溜まってゆかないだろう。結果として大きな差が広がってしまうことになる。

争いが人殺しに至る前に調停ができるということは人間の社会が安定化するためには有利だ。権力者が裁定するというのが考えられる。また、宗教的な権威(正しさ)も調停原理として働くだろう。そして権力が民衆の手にゆだねられた社会では人々が歴史的に蓄積した「法律」によって調停することになる。

ここで疑問に感じるのは原初の社会にはなかったかもしれない殺人のあり方だ。例えば、イライラが募り何の対価もないのに人殺しを実行するというのは、一つの逸脱だと考えられるだろう。こうした殺人が頻発し、防ぐための有効な手段がみつからなければ、群れは滅んでしまうかもしれない。

社会がここまで発展する経路はひとつではなかったようで、それぞれの社会がバランスを取りながらなんとか発展してきた。「協力」と「闘争」もその一つだ。生き残っていることを見ると、我々はなんとかそのバランスを崩さずにここまで発達することができた人々の子孫だということがいえる。しかし、今生き残っているということは、これからもこのバランスが取れるかどうかを保証するものではない。

殺人と厳罰化を議論する前に、どうして人殺しの代償として命を奪ってしまう社会が多数派でないのかを考えてみるとよいだろう。そこにはやはり何らかの理由があるのだ。

ヤノマミ族についての観察がある。
http://www.ne.jp/asahi/wepjapan/net/sekinoyoshiharusan3.htm

集団的自衛権 – アメリカは何を求めていたか

集団的自衛権の議論は分かりにくい。国内議論では元々のリクエストが隠蔽されているからだ。そこで、アメリカの要求を検討することで、本当は何が求められていたのかを考えてみたい。

アメリカのリクエスト

そもそも、これは陰謀ではない。例えば、アメリカのヘリテージ財団は、野田政権の末期に次のように書いている。(クリングナー論文

米国政府は長きにわたって、日本が自国の防衛により大きな役割を担うこと、さらに海外の安全保障についてもその軍事力・経済力に見合う責任を負担することを求めてきた。日本が防衛費支出を増大させ、集団的自衛権行使を可能にし、海外平和維持活動への部隊派遣に関する法規を緩和し、沖縄における米海兵隊航空基地代替施設の建設を推進することになるとすれば、米国にとって有益なことである。

その上で、日本の海外権益を守る為にシーレーン防衛を実行すること、自衛隊海外派遣隊が自力で自己防衛できる能力を備えるようにすること、日米韓で連携することなどを求めている。

ここからいくつかのことが分かる。第一にアメリカは「日本が集団的自衛権を行使できない」ということを認識している。故に、小川和久さんの主張にあったように「日米同盟は集団的自衛権の行使が前提である」という論は成り立たない。

次にアメリカは日本が防衛費支出を増大させることを期待している。これは安倍首相の主張とは異なっている。安倍さんは「納税者の負担は増えない」と言い切っているのだが、これはアメリカ政府のリクエストを満たさない。

さらに、アメリカは自衛隊を軍隊へ格上げして、日米同盟を日本防衛のスキームから海外でも活動できる軍事同盟に格上げすることを期待している。このためには憲法改正が必要であり、憲法改正には国民の理解が必要だ。そもそも、そのためには国民の意識変革が必要だろう。

アメリカのシナリオと誤算

このレポートは、日本に政策転換を促すために、中国の脅威を強調して民族意識を刺激しろと言っている。この戦略は当たった。

一方で誤算もある。中国の脅威やアメリカ政府のプレッシャーでは日本人の意識を変えられなかった。

日本は第二次世界大戦で海外権益を失ってしまったために、権益を防衛しようという意識を失った。さらに、自衛隊はアメリカ軍のサポートであるという意識があり、規模(世界第九位)の割に軍事的大国であるという自己認識がない。さらに70年前の戦争が大きな失敗体験になっていて、戦争に拒絶反応がある。

両国間にある「防衛観」の違いも大きかった。アメリカ人が考える防衛は「多国籍・積極的介入主義」だが日本人にとっての防衛は「一国・専守防衛主義」である。このため「集団的自衛権」と「個別的自衛権」が選べる場合「個別で対処すればいいのでは」という意識がある。

さらに、国民レベルで見ても防衛観は異なっている。アメリカ人にとって銃で武装することは自己防衛だ。市内にある危ない地域を車で通る時に銃を持ってでかけることもある。だが、銃武装が禁止されている日本人はそうは考えない。銃を持つということは人殺しが前提であり、それは防衛と呼ぶには過剰なのである。

安倍さんの失敗、ネトウヨの失敗

安保法制賛成派の立場から安倍政権の行ったことを評価してみよう。賛成派の最終目標はアメリカの主張を日本人に受け入れさせて実際に実行させることだ。

安倍晋三に期待されていたのは、リーダーとして日本人の意識改革をすることだった。中国の脅威を強調しつつ、民族意識を刺激し、大国としての自負心を植え付けることだ。

ところが、安倍晋三は「お友達」と呼ばれる価値観を同じくするもの同士でメッセージを共有するだけで、他者の意識を変革する努力を放棄した。そればかりか、立憲主義を無視して憲法に違反する法律を制定しようとしている。このため、安倍首相の行動は憲法クーデターだと呼ばれるようになった。

また、ネトウヨがやるべきだったのは、匿名のネット上で中国人や韓国人をバカにしたり、民主党をこき下ろすことではなかった。職場や友達などに「日本人は大国意識を持つべきだ」と主張し、実際に行動を変えることである。消費者であってはならず、生産者になるべきだったのだ。

アメリカの反応

衆議院の法案通過を受けて、ヘリテージ財団のブルース・クリングナー上級研究員は「変化は哀れな程小さい」と評価した(時事)。さらに、フォーリンポリシーは安倍首相の今回の行動を「憲法クーデターだ」と呼んでいる。過去の政策と整合性がないが、国民の支持も得られていないという含みがあるものと思われる。

アメリカ政府は明確なコメントを出していない。民主主義を擁護するという名目で他国に介入するアメリカとしては、非民主的なプロセスで送り出される軍隊を表立って賞賛することはできないのかもしれない。

矮小化された議論と自民党の限界

レポートの是非はともかく、ここから分かるのは、アメリカの保守派が日本政府と日本人に「多国籍・積極的介入主義」を受け入れさせたかったということだ。集団的自衛権の行使はそのためのツールに過ぎず、憲法改正ですら単なる途中経過なのである。

意識を変えるのは難しい。極端に言えば、主婦や学生に「銃を持って海外に行くことは、防衛である」と信じさせなければならないのだ。安倍政権のやろうとしたことは、戦後イデオロギーの大胆な転換だった。しかし、安倍政権は自民党をイデオロギー政党に変革することに失敗した。

自民党は戦後長い間「経済政党」だった。経済成長を実現しその果実を分配する装置として機能してきた。ところが、シーレーンを防衛しても新しく分配できる利益は増えないばかりか新たな負担を抱えてしまうことになる。故に、旧来のスキームで安保法制を国民に受け入れさせることはできなかったのである。

2号さん更迭

ツイッターNHK PRで「中の人」として活躍していた2号さんが担当を外れることになった。本人から説明はなかったものの、あるツイートが問題になったものと思われる。

当初、NHKは衆議院での安保法制の委員会採決(7月15日)と本会議採決(7月16日)を報じる予定はなかった。これが「強行採決」という印象を国民に与えないためにNHKが配慮しているのだとして批判を浴びる。ツイッター上では「コールセンターに電話しよう」という運動が起き、NHK PRのアカウントにも抗議が殺到した。

そこでNHK PRは「国会中継がないことについて抗議が来ている旨を担当に伝える」というツイートを出した。

結局、NHKは採決の場面だけは報じた。世論がNHKを動かしたのか、最初から予定があったのかは分からない。一方で、NHK PRの「伝えます」ツイートは削除され、ツイートした2号さんはツイッターの担当を外れることになったのだ。

背景にNHKの配慮があるのは間違いないだろうが、政府の「国民にはなるべく知らせないでおきたい」という思惑も感じる。

このNHKの姿勢は「中の人」たちを萎縮させるだろう。自分たちの持ち場で職業的道義心を発揮すると持ち場を外されてしまう可能性があるということになるからだ。職員たちはただ機械のように行動すればよいという暗黙の圧力である。

職業的道義心は大切だ。組織も社会も間違った危険な方向に進むことがある。リーダーが意図して間違った方向に進める場合もあるだろうし、誰も指導する人がいないのに危険な水域に進むこともあるだろう。このとき歯止めになるのは、現場メンバーの良心だけだ。

一方で、政府はNHKの萎縮が自分たちの首を締めていることも自覚すべきだろう。

賛成派の言い分に従うと集団的自衛権の放棄は、憲法上の制約ではなく、時の政権の「政策的判断」だ。そのことは、歴史を検証すれば分かるはずである。

確かに、ベトナム戦争時に沖縄の米軍基地を使用させたことも「後方支援」だと解釈できる。日米安保を維持しながら集団的自衛権の行使を容認しようと言わないのはねじれた対応であり、政府がどうしてねじれた対応をすることになったのかを検証する価値は充分にあるだろう。

しかしNHKは「政府を刺激したくない」と萎縮しており、こうした取り組みを一切してこなかった。その為に、賛成派は安倍政権や外務省の主張も一切知らされていない。だから賛成派のコメントは「自国防衛を強化するためには議論は要らない」の一点張りで、説得力のある議論が展開できなくなってしまった。

議論が噛み合ないせいで、国民の間には集団的自衛権や安保法制はなんとなくうさんくさいものだという印象だけが残った。このため、正義の使者であるはずの自衛隊は、当分の間こっそりと行動することを余儀なくされるだろう。

お砂糖“真”時代推進協議会

お砂糖“真”時代推進協議会」がCMを流している。古めかしい作りのコマーシャルで「脳の栄養はお砂糖だけ」と主張する。その古めかしさから悪目立ちをしているようで、ネット上のでは違和感を訴える声が少なくない。

お砂糖“真”時代推進協議会に問い合わせたところ「10年以上前のコマーシャルらしいが、詳しい事は分からない」という。日本食料新聞の「お砂糖“新時代”協議会キャンペーン概要決定(1998/05/11)」は8年目のキャンペーンだと書いており、一番古ければ1990年のコマーシャルである可能性がある。

このコマーシャルの違和感の原因は「意図が不明確」な割に頻繁に流されているという点だろう。何か特定の商品を売ろうとしているわけではない。そこで気持ち悪さが残り、解説を求めて検索してしまう。だが、コマーシャルを受けるウェブサイトがあるわけではない。「かゆいのにかけない」みたいな感じである。

調べてみるといろいろな事が分かる。糖尿病患者のように砂糖を控えなければならない人たちや医師が「コマーシャルは有害だ」と指摘している。そもそも、砂糖を取らなくても脂肪分から栄養を作り出して脳に栄養を送ることができるのだそうだ。中にはJAROに訴えた人もいるらしい。その結果、CMには読めそうもないような小さな字で「ケトン体も栄養になり得る」と書かれている。いずれにせよ門外漢には何のことだかさっぱり分からない。

さらに検索すると、ある独立行政法人が菓子ならびに砂糖需要喚起対策についてという文章を出しているのを見つけた。世の中にはお菓子があふれているように思えるのだが、なぜ、さらに需要を喚起する必要があるのかはよく分からない。「お砂糖“真”時代推進協議会」にはお菓子メーカーなども加盟していて、日本人がさらにお菓子を食べるようにキャンペーンをやっているようだ。

こうしたことから「原子力村」のように「お砂糖村」が作られて、税金が投入されているのでは?などと思ったのだが、その点については検索では確認できなかった。砂糖はいわゆる「聖域」の一つで、TPPが成立しても関税がまもられることが決まっている。「コメ・砂糖・麦は関税維持 TPP日米きょう閣僚折衝」によると、砂糖の関税は328%だそうだ。国内のサトウキビや甜菜業者を守る為に関税が設定されているわけで、砂糖は意外にも政治的な作物なのである。故にこのコマーシャルは間接的に「国内生産のお砂糖を使いましょう」と言っていることになる。